レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 上さんは石のようになって黙ったまま、また推測をはじめた。「この爺(じい)さんはいったい何者だろう。貧乏人かしら、大金持ちかしら。きっとその両方かも知れない、と言えばまあ泥坊だが。」
 亭主のテナルディエの顔には、意味ありげなしわが寄った。強い本能がその全獣力をもって現われる時に人間の顔の上に寄ってくるしわである。亭主は人形と旅客とをかわるがわる見比べた。彼はあたかも金袋でもかぎ出したかのようにその男をかぎ分けてるようだった。もっともそれはほんの一瞬の間であった。彼は女房の方へ近づいて、低くささやいた。
「あの品は少なくとも三十フランはする。ばかなまねをしちゃいけねえ。あの男の前に膝を下げろよ。」
 下等な性質と無邪気な性質とはただ一つの共通点を持っている。すなわち、直ちに掌(たなごころ)を返すがごとき点を。
「さあコゼットや。」とテナルディエの上さんはやさしくしたつもりの声で言った。けれどもそれは意地悪女の酸(す)っぱい蜜(みつ)から成ってる声だった。「人形をいただかないのかい。」
 コゼットは思いきって穴から出てきた。
「コゼット、」とテナルディエも甘やかすような声で言った、「旦那(だんな)が人形を下さるんだ。いただけよ。その人形はお前んだ。」
 コゼットは一種の驚駭(きょうがい)の情をもって、そのみごとな人形をながめた。その顔はなお涙にまみれていたが、その目は曙(あけぼの)の空のように、喜悦の言い難い輝きに満ちてきた。その時彼女は、「娘よお前はフランスの皇后さまだ、」と突然言われでもしたような感情を覚えていた。
 もしその人形にさわりでもしたら、そこから雷(かみなり)でも飛び出しはすまいか、というような気持が彼女はした。
 それはある点まで実際のことだった。なぜなら、もしそうしたらテナルディエの上さんが自分をしかりつけはすまいか、また自分を打ちはすまいか、と彼女は考えたのである。
 けれども人形に引きつけられる力の方が強かった。彼女はついにその方へ寄って行った。そして上さんの方へふり向いて、こわごわつぶやいた。
「よろしいんでしょうか、お上さん。」
 その時の彼女の同時に絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる文字をもってしても書き現わすことはできないものだった。
「いいとも!」と上さんは言った。「お前んだよ。旦那がお前に下さるんだから。」
「本当なの、小父(おじ)さん。」とコゼットは言った。「本当なの、私んですか、この奥様は。」
 男の目には涙があふれてるらしかった。彼は感情の高潮に達していて、涙を流さないために口もきけないような状態にあるかと思われた。彼はただコゼットにうなずいてみせて、その「奥様」の手をコゼットの小さな手に握らしてやった。
 コゼットは急に手を引っ込めた、あたかも奥様の手が彼女の手を焼いたかのように。そして床(ゆか)の上を見つめた。なおその時彼女がひどく舌をつき出したことをも、われわれはつけ加えざるを得ない。それから彼女は突然向き直って、ひしと人形をつかんだ。
「私はこれにカトリーヌという名をつけよう。」と彼女は言った。
 コゼットのぼろの着物が、人形のリボンと薔薇色(ばらいろ)のぱっとしたモスリンとに並んで押しつけられてるのはすこぶる異様な様であった。
「お上さん、」と彼女はまた言った、「これを椅子(いす)の上に置いてもようございますか。」
「ああいいよ。」と上さんは答えた。
 こんどはエポニーヌとアゼルマとがコゼットをうらやましそうに見ていた。
 コゼットはカトリーヌを椅子の上に置いた。それから自分はその前の地面(じべた)にすわって、じっと見入っている様子で黙ったまま身動きもしなかった。
「さあお遊び、コゼット。」と男は言った。
「ええ遊んでるのよ。」と娘は答えた。
 天からコゼットの所へつかわされた者のような、その見ず知らずの不思議な男を、テナルディエの上さんはそのとき世に最も憎むべき者のように思った。けれども自分をおさえなければならなかった。彼女は何事にも夫をまねようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもその時の感情にはほとんどたえ難いものがあった。彼女は急いで自分の娘たちを寝床に追いやった。それからコゼットをも寝かそうとその黄色い着物の男に許可を願った。今日は大変疲れていますからなどと母親らしい様子でつけ加えた。でコゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝に行った。
 上さんは時々、室(へや)の向こうの端の亭主の所へ行った。心を安めるためにと自ら言っていた。彼女は亭主とちょっと言葉をかわした。それは大声に言えないだけいっそういら立ったものだった。
「あの糞爺(くそじじい)め! どういう腹なんだろう。ここにやってきて私どもの邪魔をするなんて! あの小さな餓鬼を遊ばしたがったり、人形をやったり、それも、四十スーの値打ちもない犬女郎(いぬめろう)に四十フランもする人形をやったりしてさ! も少ししたら、ベリーの御妃(おきさき)にでも言うように、陛下なんて言い出すかも知れない。正気の沙汰(さた)か、気が狂ったのか、あの変な老耄(おいぼれ)めが。」
「なぜかって、わかってるじゃないか。」とテナルディエは答え返した。「なあに、それが奴(やつ)にはおもしろいんだ! お前にはあの児が働くのがおもしろいように、奴にはあの児が遊ぶのがおもしろいのさ。それはあの男の権利だ。客となりゃあ、金さえ出せば何でも勝手にできるんだからな。あの爺(じい)さんが慈善家だったとしても、それがお前にどうしたというわけはないじゃねえか。もしばか者だったとしたところで、お前に関係したことじゃねえ。何もお前が口を出すことはねえや。向こうには金があるんだからな。」
 亭主としての言葉、宿屋の主人としての理論、それはいずれも抗弁を許さないところのものであった。
 男はテーブルの上に肱(ひじ)をついて、また何か考え込んだような様子をしていた。商人や馬方などすべての他の旅客らは、少し遠くに身をさけて、もう歌も歌わなかった。彼らは一種の畏敬(いけい)の念をもって男を遠くからながめていた。あんな見すぼらしい着物をつけながら、平気で大きい貨幣をポケットから引き出し、木靴(きぐつ)をはいた小婢(こおんな)に大きな人形を奢(おご)ってやるその男は、確かに素敵なまた恐ろしい爺(じい)さんに違いなかった。
 かくて数時間すぎ去った。夜半の弥撒(ミサ)もとなえられ、夜食も終わり、酒飲みの連中も立ち去ってしまい、酒場の戸も閉ざされ、その天井の低い広間にも人がいなくなり、火も消えてしまったが、不思議な男はなお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。時々彼は身をもたしてる肱(ひじ)を右左と変えていた。ただそれだけであった。コゼットが去ってからはもう一言も口をきかなかった。
 テナルディエ夫婦だけが、作法と好奇心とからその広間に残っていた。「夜通しあんなふうにしているつもりかしら、」と女房はつぶやいた。午前の二時が鳴った時、彼女はついに閉口して亭主に言った。「私はもう寝ますよ。好きなようになさるがいいわ。」亭主は片すみのテーブルにすわって、蝋燭(ろうそく)をつけ、クーリエ・フランセー紙を読み初めた。
 そういうふうにして一時間余りたった。あっぱれな亭主は少なくとも三度くらいはくり返してクーリエ・フランセー紙をその日付けから印刷者の名前まで読み返したが、男は身を動かそうともしなかった。
 テナルディエは身体を動かし、咳(せき)をし、唾(つば)を吐き、鼻をかみ、椅子(いす)をがたがたいわしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかしら、」とテナルディエは考えた。が男は眠ってるのではなかった。しかし何物も彼の心を呼びさますことはできなかった。
 ついにテナルディエは帽子をぬぎ、静かに近寄ってゆき、思い切って彼に言ってみた。
「旦那(だんな)、お休みになりませんか。」
 寝ませんかという言葉でも彼にはじゅうぶんな親しいものに思われたかも知れなかった。休むという言葉にはぜいたくの気味があって、敬意が含まれてるのだった。それらの言葉は翌朝の勘定書の数字を大きくする不思議な驚くべき性質を持っているのである。寝る室(へや)が二十スーなら、休む室は二十フランするのである。
「やあ、なるほど。」と男は言った。「廐(うまや)はどこにありますか。」
「旦那、」とテナルディエは微笑を浮かべて言った、「御案内いたしましょう。」
 亭主は蝋燭(ろうそく)をとり、男は包みと杖とを取った。そして亭主は彼を二階の室に導いた。特別にりっぱな室で、マホガニー製の家具が備えてあり、船型寝台と赤いキャラコの帷(とばり)とがついていた。
「これはいったい何ですか。」と旅客は言った。
「私どもの結婚の時の室でございます。」と主人は言った。「今では私ども二人は他の室に寝るようにしています。一年に三四度しかだれもはいらないのです。」
「私には廐でも同じだったのに。」と男は無造作に言った。
 テナルディエはそのあまり愛想のない言葉を耳にしなかったようなふうをした。
 彼は暖炉の上に出てる新しい二本の蝋燭に火をともした。炉の中にはかなりよく火が燃えていた。
 暖炉棚の上にはガラス器の中に、銀糸とオレンジの花とのついた女の帽子が一つあった。
「そしてこれは、何ですか。」と男は言った。
「旦那(だんな)、それは家内が結婚の時の帽子でございます。」とテナルディエは答えた。
 旅客はそれをながめたが、「ではあの怪物にも処女の時代があったのかな、」とでもいうような目つきだった。
 だがテナルディエは嘘(うそ)を言ったのである。その家を借りて飲食店にしようとした時から、室(へや)は今のとおりであった。彼はそれらの家具やオレンジの花の中古の帽子などを買い取った。それによって「自分の配偶者」には優雅な光がそうことになり、そうしておけばこの家もイギリス人のいわゆるりっぱな体面をそなえることになると、彼は考えたのであった。
 旅客がふり返った時には、亭主はもうそこにいなかった。テナルディエは翌朝うまく金をしぼり取ってやるつもりのその男には不遠慮な親しい待遇をしないがいいと思って、あいさつもせずにひそかに逃げ出してしまったのである。
 亭主は自分の室に退いた。女房は床(とこ)についていたが、眠ってはいなかった。亭主の足音が聞こえた時彼女はふり向いて言った。
「私明日(あした)になったらコゼットをたたき出してしまいますよ。」
 テナルディエは冷ややかに答えた。
「そうか。」
 彼らはその他の言葉をかわさなかった。やがて蝋燭(ろうそく)は消された。
 旅客の方では、室の片すみに杖と包みとを置いた。亭主が出て行くと、肱掛椅子(ひじかけいす)にすわってしばらく考え込んだ。それから靴をぬぎ、蝋燭の一本を手に取り一本を吹き消し、扉(とびら)を押し開き、何かをさがすようなふうであたりに目を配りながら室を出て行った。廊下を通って階段の所へ達した。そこで、子供の息のようなきわめて静かな小さな音を耳にした。その音に引かれて彼は、階段の下に作られてる――というよりもむしろ階段でできてる一種の三角形の押し入れみたいな所へやってきた。それは階段の下のすき間にすぎなかった。そこに、古かごや古びんなどの間に、ほこりや蜘蛛(くも)の巣などの中に、一つの寝床があった。もっとも寝床と言っても、穴があいて中の藁(わら)が見えている蒲団(ふとん)と、下まで見通せるほど穴だらけの掛け物とにすぎなかった。敷き布もなかった。そして、それだけのものが床石(ゆかいし)の上にじかに置かれていた。その寝床の中に、コゼットが眠っていた。
 男はそこに近づいて、彼女をながめた。
 コゼットは深く眠っていた。着物もきたままだった。冬には、なるべく寒くないように着物もぬがないで眠るのであった。
 彼女はしっかと人形を抱きしめていた。人形の大きく開かれた目はやみの中に光っていた。時々彼女は目をさましかかってるように大きなため息をもらしては、ほとんど痙攣的(けいれんてき)に人形を腕に抱きしめた。寝床のそばにはただ片方の木靴(きぐつ)があった。
 コゼットの寝てる物置きのそばに一つの扉(とびら)が開いたままになっていて、そこからかなり広い薄暗い室(へや)が見えていた。男はそこにはいって行った。奥の方に、一つのガラス戸を通して、一対の小さなまっ白な寝床が見えていた。アゼルマとエポニーヌとの寝床であった。その向こうに柳の枝でできた帷(とばり)なしの揺籃(ゆりかご)が半ば見えていた。中には、その晩、始終泣き通しにしていた小さい男の児が眠っていた。
 男はその室がテナルディエ夫婦の寝てる室に続いていることを察した。そして引き返そうとした時、彼の目はそこの暖炉の上に落ちた。それはよく宿屋に見受けられる大きなやつで、火がある時でもきまってごくわずかであって、見ても寒そうに思われるものだった。今その暖炉には、火もなければ灰さえもなかった。けれども男の注意を引くものがそこにあった。それはかわいらしいかっこうの大小二つの子供靴だった。クリスマスの晩暖炉の中に履物(はきもの)を置いておいて、親切なお爺(じい)さんがりっぱな贈物を持ってきてくれるのを暗やみのうちに待つという、あのおもしろい古くからの子供の習慣を、彼はその時思い出した。エポニーヌとアゼルマとはそのことを忘れないで、めいめい自分の靴を片方ずつ暖炉の中に置いていたのである。
 男は身をかがめてのぞいてみた。
 親切なお爺さんは、すなわち母親は、既にやってきたと見えて、両方の靴の中にはそれぞれ、新しいりっぱな十スー銀貨が光っていた。
 男は立ち上がって去ろうとした。その時彼は、炉の奥の方の暗いすみっこの影に、も一つ何かがあるのを認めた。よく見るとそれは木靴だった。ぶかっこうな醜い木靴で、半ばこわれかかっていて、かわいた泥と灰とにまみれていた。コゼットの木靴だった。コゼットはいくらだまされても決して気を落とさない子供心のいじらしい信頼で、暖炉の中に自分も木靴を置いたのであった。
 絶望のほかは何事も知らなかった子供のうちにもなお残っているその希望こそ、崇高なまた優しいものではないか。
 その木靴の中には何にもはいっていなかった。
 男は胴着の中をさぐり、身をかがめ、コゼットの木靴の中にルイ金貨を一つ入れた。
 それから彼は抜き足して自分の室(へや)へ戻った。

     九 テナルディエの策略

 翌朝少なくとも夜明けより二時間ぐらい前に、テナルディエは酒場の天井の低い広間で蝋燭(ろうそく)の傍(わき)にすわって、手にペンを執り、黄色いフロックの旅客への請求書をしたためていた。
 女房はそばに立ちながら半ば彼の上に身をかがめて、ペンの跡をたどっていた。彼らは一言も言葉をかわさなかった。一方は、深く考え込んでおり、一方は、人の頭から驚くべきものが出現してくるのを見るおりのあの敬虔(けいけん)な嘆賞の念に満たされていた。家の中にはただ一つの物音がしていた。それは雲雀娘(ひばりむすめ)が階段を掃除する音だった。
 およそ十五分もたってから、いくらかの添削をした後、テナルディエは次の傑作をこしらえ上げた。

  一号室様への請求書
一、夕食       三フラン
一、室代       十フラン
一、蝋燭代      五フラン
一、炭代       四フラン
一、雑用       一フラン
 合計     二十三フラン

 右の書き付けのうち雑用というのはまちがって難用と書いてあった。
「二十三フラン!」と女房は多少躊躇(ちゅうちょ)の色を浮かべながら感心して叫んだ。
 あらゆる大芸術家のように、テナルディエはそれでもなお満足してはいなかった。
「なあに!」と彼は言った。
 それはあたかも、ウイン会議においてフランスの賠償金額を定めてるカスルリーグのような調子だった。
「なるほどそうね。それぐらいは相当さ。」と女房は自分の娘たちの面前で男がコゼットに人形を与えたことを考えながらつぶやいた。「それで当たりまえよ。けれどあまり多すぎるようね。払うまいとしやしないかしら。」
 テナルディエは冷ややかに笑った。そして言った。
「いや払うよ。」
 その笑いは、信頼と権威とを明示するものだった。そんなふうにして言われることはきっとそのとおりになるに違いなかった。で女房も言い張らなかった。彼女はテーブルを並べはじめ、亭主は室(へや)の中をあちこち歩き回った。ややあって彼はまたつけ加えて言った。
「こっちは千五百フランの借りがあるんだからな。」
 彼は暖炉のすみに行って腰をかけ、両足をあたたかい灰の上に差し出して考え込んだ。
「ねえ、」と女房は言った、「今日はどうあってもコゼットをたたき出しますよ、よござんすか。あの畜生め! 人形を持ってる所を見ると、私はむかむかしてくる。彼奴(あいつ)をこれから一日でも家に置いとくくらいなら、ルイ十八世のお妃(きさき)にでもなった方がまだましだ。」
 テナルディエはパイプに火をつけ、煙を吹きながらそれに答えた。
「お前から勘定書をあの男に渡してくれ。」
 そして彼は室(へや)から出て行った。
 彼が出てゆくや否や、旅客がはいってきた。
 テナルディエはすぐに客の後ろにまた現われて、女房にだけ見えるようにして半分開いた扉(とびら)の所にじっと立ち止まった。
 黄色い着物の旅客は、杖と包みとを手に持っていた。
「まあこんなにお早く!」と上さんは言った。「もうお発(た)ちですか。」
 そう言いながら彼女は、具合悪そうに勘定書を両手のうちにひねくって、爪(つめ)で折り目をつけていた。その冷酷な顔には、珍しく卑怯(ひきょう)と懸念との影が見えていた。
 どう見ても「貧乏人」としか思われない男にそんな書き付けを出すことが、彼女には何だか不安に思われたのである。
 旅客は何かに心を奪われてぼんやりしてるようだった。彼は答えた。
「ええ、もう発ちます。」
「旦那(だんな)は、」と上さんは言った、「モンフェルメイュに用がおありではないんですか?」
「いや、ただ通りかかったのです。それだけです。……そして、」と彼はつけ加えた、「勘定は?」
 上さんは何とも答えないで、折り畳んだ書き付けを彼に差し出した。
 男はそれをひろげてながめた。しかし明らかに彼の注意は他の方へ向いてるらしかった。
「お上さん、」と彼は言った、「この土地では繁昌(はんじょう)しますかね。」
「どうにか旦那(だんな)。」と上さんは答えながら、男が別に何とも言わないのでぼんやりしてしまった。
 彼女は悲しそうな嘆くような調子で続けて言った。
「どうも、不景気でございますよ。それにこの辺にはお金持ちがあまりありませんのです。田舎(いなか)なもんですからねえ。時々は旦那のような金のある慈悲深い方がおいで下さいませんではね。入費(いりめ)も多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだってたいていではございません。」
「どの娘ですか。」
「あの、御存じの小娘でございますよ、コゼットという。この辺では皆さんにアルーエット(訳者注 ひばり娘の意)と言われていますが。」
「ああなるほど。」と男は言った。
 上さんは続けた。
「百姓ってなんてばかなんでございましょう、そんな綽名(あだな)なんかをつけて。あの児は雲雀(ひばり)というよりか蝙蝠(こうもり)によけい似ていますのに。ねえ旦那、私どもは人様に慈善をお願いすることなんかいたしませんが、自分で慈善をするだけの力はございません。一向もうけはありませんのに、出すことばかり多いんで。営業税、消費税、戸の税、窓の税、付加税なんて! 政府から大変な金を取られますからねえ。それに私には自分の娘どもがいるんですから、他人の子供を育てなければならないというわけもありませんのです。」
 男はつとめて平気を装って口を開いたが、その声はなお震えを帯びていた。
「ではその厄介者を連れていってあげましょうか。」
「だれを、コゼットでございますか。」
「そうです。」
 上さんの赤い激しい顔は醜い喜びの表情に輝いた。
「まあ旦那(だんな)、御親切な旦那! あれを引き受けて、引き取って、連れてって、持ってって下さいまし、砂糖づけにして、松露煮にして、飲むなり食うなりして下さいまし。まあ恵みぶかい聖母様、天の神様、何てありがたいことでございましょう。」
「ではそうしましょう。」
「本当ですか、連れてって下さいますか。」
「連れてゆきます。」
「あのすぐに?」
「すぐにです。呼んで下さい。」
「コゼット!」と上さんは叫んだ。
「ですが、」と男は言った、「勘定は払わなければなりません。いくらですか。」
 彼は勘定書を一目見たが、驚きの様子をおさえることはできなかった。
「二十三フラン!」
 彼は上さんをながめて、また繰り返した。
「二十三フラン!」
 そう繰り返した言葉の調子のうちには、一方に驚きと他方には疑惑がこもっていた。
 ちょっと間(ま)があったので上さんはその打撃に応ずることができた。彼女はしかと答えた。
「さようでございます。二十三フランです。」
 男はテーブルの上に五フランの貨幣を五つ置いた。
「娘をつれておいでなさい。」と彼は言った。
 その時テナルディエは室(へや)のまんなかに出てきて、そして言った。
「旦那(だんな)の勘定は二十六スーでいい。」
「二十六スー!」と女房は叫んだ。
「室代が二十スー、」とテナルディエは冷ややかに言った、「そして夕食が六スー。娘のことについては少し旦那に話がある。席をはずしてくれ。」
 女房はその意外な知恵のひらめきを見てすっかり参ってしまった。千両役者が舞台に現われたような気がした。そして一言も返さないで、室から出て行った。
 二人だけになると、テナルディエは客に椅子をすすめた。客は腰をおろした。テナルディエは立っていた。そして彼の顔は、人の好(よ)さそうな質朴らしい特殊な表情を浮かべた。
「旦那、」と彼は言った、「まあお聞き下さい。私はまったくあの児がかわいいんです。」
 男は彼をじっと見つめた。
「どの児です?」
 テナルディエは続けて言った。
「妙なもんですよ、心をひかれるなんて。おや、この金はどうしました。まあこれはお納め下さい。で私はその娘がかわいいんでしてね。」
「いったいだれのことです。」と男は尋ねた。
「なに、うちのコゼットですよ。旦那(だんな)はあれを連れてってやろうとおっしゃるんでしょう。そこで、正直なところを申し上げると、まあ旦那がりっぱな方だというのと同じくらい本当のことを申せばですな、実は私はそれに不同意なんです。あの児がいないと物足りませんでね。ごく小さい時分から育てましたんでね。それは金もかかりますし、よくないところもありますし、私どもに金はありませんし、実際のところ、あれの病気にはただ一度で四百フラン余りの薬代も払ったことがありますが、神様のためと思えば少しぐらいはしてやらなければなりません。父親も母親もありませんので、私が手一つで育て上げました。私とてあの児に食わせ、また自分で食うだけのパンは持っております。実際私はあの児を大事にしています。まあ人情が出てきたんですな。私はばか者で、一向理屈はわかりません。がただかわいいんです。家内は活発な方ですが、やはりかわいがっています。ごらんのとおり、自分たちの児のようにしています。あれが家の中でしゃべくってるのが楽しみでして。」
 男はなお彼をじっとながめていた。彼は続けた。
「失礼ではございますが旦那、通りがかりの人に自分の児をこうして渡してしまう者もありますまい。私の申すところも、もっともでございましょう。そこで、旦那はお金持ちで、お見受けしたところごくりっぱな方で、それがあの児のためになるかどうかなどと申すのではありませんが、それでもよく事情はわかっていませんではね。おわかりでもありましょうが、まああれをやるとしまして、かりに私情を犠牲にしますとしてもですな、あれがどこへ行くかぐらいは知りたいではありませんか。見失いたかあありませんよ。どこにいるかぐらいは知っていて、時々は会いにも行きましょうし、またあの児も、育て親があって自分を見ていてくれてるということを知るというわけです。世間にはずいぶん思いがけないことも起こりますからね。私は旦那(だんな)の名前さえ存じませんし、あれを連れてゆかれますとしたら、あああのアルーエットはいったいどこへ行ったんだろうと、私はただ嘆息するほかはありませんからね。何かちょっとした書き物でも、まあいわば通行券なりと、それを拝見して置きたいと思いますが。」
 男はいわば相手の本心の底までも貫くような目つきでじっと彼をながめながら、おごそかな確乎(かっこ)たる調子で答えた。
「テナルディエ君、パリーから五里くらい離れるのに通行券を持ってくる者はいません。コゼットを連れて行くと言ったら連れてゆくだけのことです、それだけです。私の名前も、私の住所も、またコゼットがどこへ行くかも、君に知らせる必要はありません。私はあの児を生涯(しょうがい)再び君に会わせまいというつもりです。私はあの児の繩(なわ)を解いてやって、逃がそうというのです。それでどうですか。承知ですかそれとも不承知ですか。」
 悪魔や妖鬼(ようき)などが何かのしるしで自分よりまさった神のいることを知るように、テナルディエは相手がなかなか手ごわいことをさとった。それはほとんど直覚だった。彼はそれを明確怜悧(れいり)な機敏さでさとった。前夜、馬方らと酒をのみながら、煙草(たばこ)をふかしながら、卑猥(ひわい)な歌を歌いながら、彼は猫のように覘(うかが)い数学家のように研究して、始終その見なれぬ男を観察していたのである。彼は同時に自分のためと楽しみと本能とから男を窺(うかが)い、あたかも金で頼まれたかのように偵察(ていさつ)していたのである。そしてその黄色い上衣の男の一挙手一投足はことごとく彼の目をのがれなかった。男がコゼットに対する興味を明らかに示さない前から、テナルディエは既にそのことを見破っていた。その老人の奥深い目つきが絶えずコゼットの方へ向けらるるのを見て取っていた。何ゆえにそう興味を持つのだろう? いったい何者だろう? 金入れにはいっぱい金を持ちながら、何ゆえにああ見すぼらしい服装(なり)をしているのだろう? そういう問題を彼は自ら提出しながら、解決ができず、いら立っていた。彼はそのことを夜通し考えた。あの男はコゼットの父親であるわけはない。では祖父ででもあろうか? それならばなぜすぐに名乗らないのであろうか? 権利がある者は、すぐにそれを示すはずである。あの男は明らかにコゼットに対しては何らの権利も持っていないに違いない。するといったい何者だろう? テナルディエはどう推測していいかわからなくなってしまった。彼はすべてを垣間見(かいまみ)たが、ついに何物もはっきり見付け得なかった。とはいうものの、その男にあれこれとしゃべり立てながら、これには何か秘密があるし、男は身分を隠したがっているのだなと思って、彼は自分の強味を感じた。ところが男の明晰(めいせき)確乎(かっこ)たる返答に出会って、その不思議な男はただ不思議なばかりで何らとらうべきところがないのを見た時、彼は自分の弱味を感じた。彼は少しもそういうことを予期していなかった。彼の推測はことごとく破れてしまった。彼はあらゆる考えを集中してみた。そして一瞬間、考慮をめぐらした。彼は一見して前後の事情を判断し得るような人物であった。で今や単刀直入に事を運ぶべき場合であると考えた。他人の目にはわからなくともそれと察し得らるる危急な場合に大将軍らが決行することを、彼はついに断行した。彼は砲門を隠した幕をにわかに引き払った。
「旦那(だんな)、」と彼は言った、「私は千五百フランいただきたいんです。」
 男は脇(わき)のポケットから黒皮の古い紙入れを出し、それを開き、紙幣を三枚引き出して、テーブルの上に置いた。それから、その紙幣の上を大きな親指で押さえて、亭主に言った。
「コゼットをお呼びなさい。」
 さてそういうことが行なわれてる間に、コゼットは何をしていたか?
 その朝コゼットは目をさますと、木靴の所へ走って行った。彼女はそこに金貨を見いだした。それはナポレオン金貨ではなく、王政復古のごく新しい二十フラン金貨であって、表には月桂冠(げっけいかん)の代わりに、プロシア式の小さな辮髪(べんぱつ)が刻んであった。コゼットは目がくらむような気がした。彼女の運命は彼女を眩惑し初めた。彼女は金貨がどういうものであるか知らなかった。まだ一度も金貨を見たことがなかった。彼女はそれを盗みでもしたように急いでポケットの中に隠した。けれどもまさしく自分のものであることを感じていた。だれがそれを自分にくれたかをも察していた。一種の恐ろしさに満ちた喜びを感じていた。彼女は満足であった。がことに惘然(ぼうぜん)としていた。かくもりっぱな美しい品々は、現実のものとは思えなかった。人形は彼女をこわがらせ、金貨は彼女をこわがらした。彼女はそれらの驚くべきものの前に何となく身を震わした。ただあの見知らぬ男だけが彼女をこわがらせなかった。いな、かえって彼女の心を落ち着けさした。既に前夜から、驚きのうちにまた眠りのうちに、彼女はその小さな子供心にも、年取った貧乏な悲しげな様子をしながら金持ちで慈悲深いその男のことを、考えまわしていた。その老人に森の中で出会ってから、すべてが一変したように彼女には思われた。空飛ぶ一羽の小さな燕(つばめ)よりもなお不仕合わせなコゼットは、母の影に翼の下に身を隠すということがどんなものであるか、かつて知らなかった。五年この方、すなわち彼女の記憶にある限りにおいて、あわれな小娘の彼女はたえず震えおののいていた。いつも不幸の鋭い寒風の下に裸でさらされていた。ところが今、彼女は身に着物をまとったような心地がした。以前は彼女の心は凍えていたが、今は暖くなっていた。彼女はもうテナルディエの上さんをそう恐れはしなかった。もうただ一人ではなかった。だれかがそこにいてくれた。
 彼女はきまった朝の仕事に急いで取りかかった。自分の身につけてるルイ金貨の方へ、前夜十五スー銀貨を落とした同じ胸掛けのポケットにはいってるルイ金貨の方へ、しきりに気を取られた。彼女はあえてそれに手は触れなかった。けれども、五分間もじっとそれのことを考えてることがあった、あえて言わなければならないが、舌をだらりと出したまま。階段を掃除(そうじ)しながらも、手を休めてそこにじっとたたずみ、箒(ほうき)のこともまた何もかも世の中のことを忘れてしまって、自分のポケットの底に輝いてるその星を心で見つめた。
 そういうふうにして考え込んでる時だった。テナルディエの上さんが彼女の所へやってきた。
 亭主の言いつけで彼女はコゼットをさがしにきたのであった。不思議にも彼女は打ちもしなければどなりつけもしなかった。
「コゼット、」と彼女はほとんどやさしく言った、「すぐにおいで。」
 間もなくコゼットは天井の低い広間にはいってきた。
 見知らぬ男は、携えていた包みを取り上げて、それを解いた。中には、小さな毛織りの長衣、胸掛け、綿麻の下着、裾着、肩掛け、毛糸の靴下、靴、すべて八歳の小娘に要するいっさいの衣装がはいっていた。みな色は黒であった。
「さあお前、」と男は言った、「これを持って行ってすぐに着ておいでなさい。」
 日が出ようとする頃、戸をあけ初めたモンフェルメイュの人々は、見すぼらしい服装(なり)をした老人が、腕に薔薇色(ばらいろ)の大きな人形を抱えた喪服の小娘の手を引いて、パリー通りを歩いてゆくのを見た。彼らはリヴリーの方へ進んで行った。
 それはあの旅客とコゼットであった。
 だれもその男を知ってる者はなかった。またコゼットも今はぼろを着ていなかったので、多くの者はそれと気づかなかった。
 コゼットはそこを立ち去りつつあった。だれとともに? 自分でもそれを知らなかった。どこへ向かって? 自分でもそれを知らなかった。ただ彼女の知っていたことは、今や自分はテナルディエの飲食店をあとにしているということのみだった。だれも彼女に別れを告げようとするものもいなかった。また彼女もだれに別れを告げようとも思わなかった。憎み憎まれたその家から彼女は出て行った。
 あわれなやさしき娘よ、その心はこれまでただ圧迫をのみ受けていたのである!
 コゼットは大きな目を開いて、大空をうちながめながらしっかりした足取りで歩いていた。彼女は新しい胸掛けのポケットにルイ金貨を入れていた。時々身をかがめてはちらとそれをのぞき込み、それから老人を見上げた。彼女はあたかも神様の近くにでもいるような心地がした。

     十 最善を求むる者は時に最悪に会う

 テナルディエの女房はいつものとおり亭主のなすままに任しておいた。彼女は何か大事を予期していた。男とコゼットとが立ち去った時、テナルディエは十五分余りもじっとしていたが、やがて女房をわきに呼んで、千五百フランを見せた。
「それだけですか!」と彼女は言った。
 二人が家を持っていらい、彼女が亭主の仕事に批評がましい口を出したのは、それが初めてだった。
 それはみごとに的に当たった。
「なるほど、お前の言うとおりだ。」と亭主は言った。「ばかをやった。帽子を取ってくれ。」
 彼は三枚の紙幣を折ってポケットにつっ込み、大急ぎで出て行った。しかし彼は方向をまちがえて、初め右の方へ行った。それから近所の者に尋ねて本当の方向を知った。アルーエットと男とはリヴリーの方へ行くのが見られたそうである。彼はその言葉に従い、独語しながら大またに進んで行った。
「あの男は黄色い着物を着てるがまさしく大金持ちだ。俺はばかだった。初めに二十スー出し、それから五フラン、それから五十フラン、それから千五百フラン、それも無造作に出してしまった。一万五千フランでも出したかも知れない。だが追っつけるだろう。」
 それからまた、子供のために前から用意してきた着物の包み、それが不思議だった。それには何か秘密があるに相違なかった。秘密をつかんでおいて手放すということがあるものではない。金持ちの秘密は金を含んだ海綿と同じだ[#「同じだ」は底本では「同じた」]。それをしぼってやらなければいけない。そういう考えが彼の脳裏に渦巻いた。「俺(おれ)はばかだった、」と彼は独語した。
 モンフェルメイュを出て、リヴリーへ行く道が曲がってる所まで行くと、その先は高原の上に続いているのが遠くまで見渡される。で彼はそこまで行ったら、男と娘との姿が見えるものと考えた。それで目の届く限り見渡してみたが、何にも見えなかった。彼はまた人に尋ねてみた。そうこうするうちに時間を失っていた。通りがかりの人々の言葉では、彼がさがしてる男と子供とはガンニーに面した森の方へ行ったということだった。彼はその方向へ急いだ。
 二人は彼より先に出かけていた。しかし子供の足は遅い。そして彼は早く歩いていた。その上その辺の地理に彼は詳しかった。
 突然彼は立ち止まって、額をたたいた。あたかも大事なことを忘れていて引き返そうとしてる者のようだった。
「銃を持って来るんだった!」と彼は思った。
 テナルディエは二重の性格を持ってる男だった。そういう男はしばしば、だれも気づかぬうちに人々の間を通りぬけ、まただれにも認められずに姿を隠してしまうものである。なぜなら、そのただ一方面だけをしか見せないようにできているから。多くの者は、そういうふうにして半ば影に潜んで生活するようになっている。平和な普通の場合にはテナルディエは、正直な商人、善良な市民――である、とは言えないが――となるに足るだけのものを持っていた。と同時にまたある場合になると、底の性質をもたげさせるようなある事件が起こると、悪党たるに足るだけのものを持っていた。彼は底に怪物を蔵した商人であった。彼が生活してる家の片すみには、悪魔が時々うずくまって、自分が作ったその醜い傑作の前に思いにふけったに違いない。
 ちょっと躊躇(ちゅうちょ)した後、彼は考えた。
「ええ、ぐずぐずしてるうちには逃げてしまう!」
 そして彼はまっすぐに大急ぎで進んでいった。あたかも鷓鴣(しゃこ)の群れをかぎつけた狐(きつね)のように敏捷(びんしょう)に、ほとんど確信があるような様子で。
 果して、池の所を通りすぎ、ベルヴュー並み木道の右手にある広い粗林を斜めに横ぎって、シェル修道院の昔の水道の覆(おお)いとなってほとんど丘を取り巻いてる芝生(しばふ)の小道まで達した時、彼は一つの帽子が藪(やぶ)の上から見えてるのを認めた。彼がいろんな憶測をなげかけた帽子で、あの男の帽子だった。藪は低かった。テナルディエは男とコゼットがそこにすわってるのを見て取った。コゼットの方は小さいので見えなかったが、人形の頭が見えていた。
 テナルディエの見当はまちがわなかった。男は実際そこにすわってコゼットを少し休ましていたのである。テナルディエは藪をまわって、追いかけてきたその二人の目の前に突然現われた。
「ごめん下さい。」と彼は息を切らしながら言った。
「ここに旦那(だんな)の千五百フランを持って参りました。」
 そう言いながら彼は、三枚の紙幣を男の前に差し出した。
 男は目をあげた。
「それはいったいどういうわけですか。」
 テナルディエは丁寧に返事をした。
「旦那、コゼットを返していただきたいと申すのです。」
 コゼットは身を震わして、男にひしと寄りすがった。
 男はテナルディエの目の中をのぞき込みながら、一語一語ゆっくりと答えた。
「君がコゼットを、返してもらいたいのですと?」
「はい旦那(だんな)、返していただきましょう。こういうわけなんです。私はよく考えてみました。実際私は旦那に娘をお渡しする権利はありませんのです。私は正直な人間ですからな。この娘は私のものではなく、その母親のものです。私にこの娘を預けたのは母親ですから、母親にだけしか渡すことはできません。母親は死んでるではないかと旦那はおっしゃるでしょう。ごもっともです。で私はこの場合、この人に子供を渡してくれといったような、何か母親の署名した書き付けを持って参った人にしか、子供を渡すことはできませんのです。明瞭(めいりょう)なことなんです。」
 男は何とも答えないでポケットの中を探った。テナルディエは紙幣のはいってる紙入れがまた出てくるのを見た。
 テナルディエはうれしさにぞっとした。
「うまいぞ!」と彼は考えた、「一つ談判をしてやろう。俺を買収するつもりだな。」
 紙入れを開く前に、旅客はあたりを見まわした。まったく寂寞(せきばく)たる場所だった。森の中にも谷合いにも一つの人影も見えなかった。男は紙入れを開いた。そして中から、テナルディエが待っていた一つかみの紙幣ではなく、一枚の小さな紙片を取り出した。男はそれを開いて、テナルディエの前につきつけて言った。
「道理(もっとも)です。これを読んでもらいましょう。」
 テナルディエは紙片を取り上げて読んだ。

  モントルイュ・スュール・メールにて、一八二三年三月二十五日
テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候
種々の入費は皆支払うべく候
謹(つつし)みてご挨拶(あいさつ)申し上げ候
                        ファンティーヌ

「君はこの署名を覚えていましょうね。」と男は言った。
 それはいかにもファンティーヌの署名だった。テナルディエはそれを認めた。
 もう何ら抗弁の余地はなかった。彼は二重の激しい憤懣(ふんまん)の情を感じた、望んでいた買収をあきらめなければならない憤懣と、取りひしがれた憤懣と。男は続けて言った。
「その書き付けは娘を渡したしるしとして納めておいてかまいません。」
 テナルディエは整然と引きさがった。
「この署名は巧みに似せてある。」と彼は口の中でつぶやいた。「まあ仕方がない。」
 それから彼は絶望的な努力を試みた。
「旦那(だんな)、」と彼は言った、「よろしゅうござんす。あなたがその人ですから。しかし『種々の入費』を払っていただかなければなりません。だいぶの金額(たか)になります。」
 男はすっくと立ち上がった。そしてすり切れた袖(そで)についてる塵(ちり)を指先で払いながら言った。
「テナルディエ君、この正月に母親は百二十フラン君に借りがあると言ってました。ところが君は二月に五百フランの覚え書きを送ってきて、二月の末に三百フランと三月の初めに三百フラン受け取っている。その時から九カ月たっているので、約束どおり月に十五フランとして百三十五フランになるわけです。ところが君は前に百フランよけいに受け取っているから、残りの金は三十五フランになるわけです。それに対して先刻私は千五百フラン払ってあげた。」
 テナルディエの気持ちは、ちょうど狼(おおかみ)が係蹄(わな)にかかってその鉄の歯で押さえつけられた時のようなものだった。
「この畜生、何者だろう?」と彼は考えた。
 その時彼は狼と同様のことをした。彼は飛び上がった。大胆な態度は前に一度成功したのだった。
「名前もわからない旦那(だんな)、」とこんどは丁寧なやり方をすてて決然と彼は言った、「私はコゼットを連れて帰るまでです。さもなければ三千フランいただきましょう。」
 男は静かに言った。
「さあおいで、コゼット。」
 彼は左手にコゼットの手を取り、右手で地に置いていた杖を拾い上げた。
 テナルディエはその杖がいかにも大きいことと、あたりが寂寞(せきばく)としてることを認めた。
 二人が立ち去ってゆく時、男の前かがみがちな広い肩とその大きな拳(こぶし)とを、テナルディエはながめた。
 それから彼の目は、自分自身を顧みて、自分の細い腕とやせた手との上に落ちた。「俺(おれ)は実際ばかだった、」と彼は考えた、「銃も持たずにさ。猟にきたわけなのに!」
 それでも彼はなお獲物を逃がそうとしなかった。
「どこへ行くか見届けてやれ。」と彼は言った。そして遠くから二人の跡をつけ初めた。彼の手には二つのものが残っていた、ファンティーヌの署名した紙片のにがにがしさと、千五百フランの多少の慰謝と。
 男はコゼットを連れて、リヴリーとボンディーの方へ行った。頭をたれゆるやかに足を運んで、何か考え続けてるような、また悲しげな様子だった。冬のために森は透かし見らるるようになっていたので、テナルディエはかなり後ろの方に遠くにいたがなお二人の姿を見失わなかった。時々男はふり返って、跡をつけられてはしないかをながめた。突然彼はテナルディエを見つけた。彼はにわかにコゼットとともに深い木立ちの中にはいった。そして二人の姿は見えなくなってしまった。「悪魔め!」とテナルディエは言った。そして足を早めた。
 木立ちが込んでいたので、彼は二人に近寄らなければならなかった。男は最も茂みの深い所に達した時、ふり返ってみた。テナルディエは木の枝の間に姿を隠そうとしたがだめだった。男の目につかざるを得なかった。男は不安な一瞥(いちべつ)を彼に与え、それから頭を振って、また歩き出した。テナルディエはまたその跡をつけた。そして彼らは二、三百歩ばかり進んだ。と突然、男はまたふり向いた。彼はテナルディエを認めた。そしてこんどはきわめてすごい顔をしてじっとにらめた。でテナルディエも、それ以上行ったとて「無益」であると考えた。彼はあとへ引き返した。

     十一 九四三〇号再び現われコゼットその籤(くじ)を引く

 ジャン・ヴァルジャンは死んだのではなかった。
 海へ落ちた時、いな、むしろ自ら海に身を投じた時、彼は前に述べたとおり鎖から解かれていた。彼は水中をくぐって停泊中のある船の下まで泳ぎついた。一艘(いっそう)の小舟がその船につないであった。彼は晩まで小舟の中に隠れていることができた。夜になって再び泳ぎ出し、ブロン岬(みさき)から程遠からぬ海岸に達した。金は持っていたので、着物を手に入れることができた。バラギエの付近に一軒の居酒屋があって、その当時脱獄囚のために着物を売っていた。非常に儲(もう)かる商売だそうである。それからジャン・ヴァルジャンは、法律の目と社会の掟(おきて)とをのがれんとするすべての悲しい脱走人らがなすとおり、人知れぬ曲がりくねった道程を取った。ボーセの近くのプラドーに最初の隠れ場所を見い出した。それから上アルプ県にはいって、ブリアンソンの近くのグラン・ヴィヤールの方面へ進んだ。探り探りの不安な逃走で、分かれ道などは全く不明な土竜(もぐら)の穴のような道程だった。後になって彼の逃走の跡は多少見い出された、すなわち、エーン県ではシヴリユーの土地、両ピレネー県ではシャヴァイユ村の近くのグランジュ・ド・ドーメクと言われているアコンの片すみ、それからペリグーの付近ではシャペル・ゴナゲー区のブリュニー。そして最後にパリーにはいった。それから彼がモンフェルメイュへきたのは読者の既に見たところである。
 パリーへきてからの第一の仕事は、七、八歳の小娘のために喪服を購(あがな)うことであり、次に住居を求めることであった。それが済んで、彼はモンフェルメイュへ赴(おもむ)いた。
 読者の知るとおり、彼はこの前の逃走の時すでに、モンフェルメイュかまたはその付近にひそかな旅をしたのだった。官憲もそのことはうすうす知っていた。
 けれども今や彼は死んだと思われていた。そのために彼をおおい隠してるやみはいっそう深くなっていた。パリーで彼は、自分のことを掲載してる新聞を一つ手に入れた。彼はそれで安心を覚え、あたかも実際に死んだような平和を覚えた。
 テナルディエ夫婦の爪牙(そうが)からコゼットを救い出した日の夕方、ジャン・ヴァルジャンは再びパリーにはいった。夕暮れの頃コゼットとともにモンソーの市門からはいった。その市門の所で幌馬車(ほろばしゃ)に乗り、天文台の前の広場まで行った。そこで馬車をおりて、御者に金を払い、コゼットの手を引いて、二人で暗夜の中をウールシーヌとグラシエールの両郭に隣している人気のない街路を通って、オピタル大通りの方へ進んで行った。
 コゼットにとっては、その日は感動の多い異様な一日であった。寂しい飲食店で買ったパンとチーズとを籬(まがき)の影で食べたこともあった。たびたび馬車を代えたり、しばらくは徒歩で行ったりした。彼女は少しも不平をこぼさなかった。けれどもだいぶ疲れていた。歩きながらしだいに彼女が手を引っぱるようになるので、ジャン・ヴァルジャンもそれに気がついた。彼はコゼットを背中におぶった。コゼットは人形のカトリーヌを手に持ったまま、頭をジャン・ヴァルジャンの肩につけて、そのまま眠ってしまった。
[#改ページ]

   第四編 ゴルボー屋敷



     一 ゴルボー氏

 今から四十年ばかり前のことである。一人でぶらりと歩き回って、サルペートリエールの奥深い裏通りへはいって行き、大通りをイタリー市門の方まで進んで行くと、ついにもうパリーの町も尽きたと思われるような一郭に達するのであった。そこは、通行人があるところを見ると僻地(へきち)でもなく、人家や街路があるところを見ると田舎でもなく、田舎の街道のように通りには轍(わだち)の跡があり、草が茂っているところを見ると町でもなく、人家がごく高いところを見ると村でもなかった。ではいったいどういう所なのか? 人が住んではいるがだれの姿も見えない場所であり、ひっそりとしてはいるがやはりだれかがいる場所であった。それは大都市の一並み木街であり、パリーの一街路ではあるが、夜は森の中よりもいっそう恐ろしく、昼は墓場よりもいっそう陰気だった。
 それはマルシェ・オー・シュヴォー(馬市場)という古い一郭であった。
 その馬市場のこわれかかった四つの壁の向こうまで進んでゆき、プティー・パンキエ街をたどり、高い壁で囲まれた菜園を右手に過ぎ、大きな海狸(うみだぬき)の巣に似たタン皮の束が立ってる牧場の所を通り、木片や鋸屑(のこぎりくず)や鉋屑(かんなくず)などが山となってその上には大きな犬がほえており、また木材がいっぱい並べてある庭の所を通り、しめきったまっ黒な小門がついていて春には花を開く苔(こけ)でおおわれてる長い低いこわれかけた壁の所を通り、貼札を禁ずと大きい字が書いてある朽ちはてたきたない土蔵の壁の所を通ってゆくと、ついにヴィーニュ・サン・マルセル街の角(かど)まで行けるのであった。その辺はあまり人に知られてない所だった。そこにある一つの工場のそばには、両方の庭にはさまれて、当時一軒の破屋があった。それは外から見ると百姓家くらいの小ささだったが、実際は大会堂ほどの大きさをしていた。側面の切阿(きりづま)で通りに面していて、そのために外観の狭小をきたしているのだった。ほとんど家の全体は通りから隠れていた。ただ戸口と一つの窓とが見えるきりだった。
 その破屋は二階建てだった。
 それをよくながめる時、第一に不思議な点は、戸口は単なる破屋の戸口らしい粗末なものにすぎないのに、窓の方は、それがもし荒ら石の壁の中にあけられてるのでなく切り石の中にでもこしらえられてたら、りっぱな邸宅の窓としても恥ずかしからぬほどのものだった。
 戸口はただ腐食した木の板でできていて、その板はいい加減に四角に割った薪(まき)のような横木で無造作に止めてあった。戸口はすぐに急な階段に続いていた。階段は段が高く、白塗りで泥と塵(ちり)とにまみれ、戸口と同じ幅になっていて、表の通りから見ると、梯子(はしご)のようにまっすぐに上っていって二つの壁の間に暗がりに消えていた。戸口がついてるぶざまな壁口の上の方は、狭い薄板で張られ、その薄板のまんなかに三角形の小窓があけられていて、戸口がしめらるる時には軒窓ともなり小窓口ともなっていた。戸口の内側には、インキに浸した二筆(ふたふで)で五二という数字が書いてあり、薄板の上方には同じ筆で五〇という数字が書きなぐってあった。全くどちらが本当かわからなかった。いったい何番地なのか? 戸口の上からは五十番地と言うし、戸口の中からは反対して、いや五十二番地だと言う。三角形の小窓には、塵にまみれた何かのぼろが旗のように掛かっていた。
 窓は大きくて、高さも十分であり、鎧戸(よろいど)もあり大きな窓ガラスの框(かまち)もついていた。ただそれらの大きなガラスには種々な割れ目があって、器用に紙で張って隠してあるので、またかえって目立っていた。鎧戸は留め金がはずれぐらぐらしてるので、家の者を保護するというよりもむしろ下を通る人々に不安を与えていた。日よけの横木が所々取れていて、そこには板が縦に無造作に打ち付けてあった。それで初めは鎧戸だったものが、ついには板戸となったありさまである。
 時勢遅れのようなその戸口とこわれてはいるが相当なその窓とがかく同じ家に見えることは、ちょうど不似合いな二人の乞食(こじき)を見るようなもので、二人はいっしょに並んで歩いてはいるが、同じようなぼろのうちにも各異った顔つきをしていて、一人は元来の乞食であるが、一人は元一個の紳士であったらしく思えるようなものだった。
 階段は建物の一部に通じていて、そこはきわめて広く、ちょうど納屋を住宅にしたもののようだった。建物の中には腸のように廊下が続いていて、それから左右に種々な大きさの部屋らしいものがあったが、それもようやく住まえるだけのもので、部屋というよりむしろ小屋といった形である。それらの室(へや)は周囲の空地に面していた。そしてどれも皆薄暗く、荒々しく、ほの白く、陰鬱(いんうつ)で、墓場のようだった。すき間が屋根にあったり扉(とびら)にあったりするので、それを通して冷たい光線が落ちてきたり凍るような寒風が吹き込んできたりした。そのどうにか住宅らしい建物のうちでおもしろいみごとな一つの点は、蜘蛛(くも)の巣の大きいことであった。
 入り口の戸の左手に、大通りに面して身長くらいの高さの所に、塗りつぶした軒窓が一つあって、四角なくぼみをこしらえて、通りがかりの子供らが投げ込んでいった石がいっぱいはいっていた。
 この建物の一部は近頃こわされてしまった。けれども今日なお残ってるものを見ても、昔のありさまが察せられる。その全部の建物は、まだほとんど百年の上にはなるまい。百年といえば、教会堂ではまだ青年であるが、人家ではもう老年である。人間の住居は人の短命にあやかり、神の住居は神の永生にあやかるものらしい。
 郵便配達夫はその破屋を、五十・五十二番地と呼んでいた。けれどもその一郭では、ゴルボー屋敷という名前で知られていた。
 この呼び名の由来は次のとおりである。
 本草学者が雑草を集めるように種々な逸話をかき集め、記憶のうちに下らない日付を針で止めることばかりをやってる些事(さじ)収集家らは、前世紀一七七〇年頃、コルボーにルナールというシャートレー裁判所付きの二人の検事が、パリーにいたことを知っているはずである。ラ・フォンテーヌの物語にある烏(からす)(コルボー)と狐(きつね)(ルナール)との名前である。いかにも法曹界(ほうそうかい)の冷笑(ひやかし)の種となるに適していた。そして間もなく、変なもじりの詩句が、法廷の廊下にひろがっていった。

コルボー先生は記録に棲(と)まりて、
差し押さえ物件を啣(くわ)えていたりぬ。
ルナール先生はにおいに惹(ひ)かれて、
次のごとくに話をしかけぬ。
「やあ今日は!」……云々(うんぬん)。
(訳者注 ラ・フォンテーヌの物語の初めを参考までに書き下す――烏先生は木の上にとまって、くちばしにチーズをくわえていた。狐先生はそのにおいに惹かれて、こんな言葉を彼にかけた。「やあ今日は……云々」)

 二人の律義(りちぎ)な法律家は、そういう冷評を苦にし、自分の後ろからどっと起こる笑声に少なからず威厳を傷つけられて、名前を変えようと決心し、ついに思い切って国王に請願した。ちょうど一方には法王の特派公使と他方にはラ・ローシュ・エーモン枢機官とが、二人ともうやうやしくひざまずき、陛下の御前において、床から起きてきた御寵愛(ちょうあい)のデュ・パリー夫人のあらわな両足に各自上靴をおはかせ申したその日に、請願書は国王ルイ十五世に差し出された。笑っていられた国王はそれをみてなお笑われて、心地よく二人の司教の方から二人の検事の方へ向かわれ、その二人の法官の名前をある程度まで許してやられた。で国王の允許(いんきょ)をもって、コルボー氏は名前に濁点を付してゴルボーと名乗ることができた。またルナール氏の方は、プの字を頭につけて、プルナールと名乗ることができたが、前者ほど仕合わせでなかったというのは、第二の名前も第一のとほとんど似たりよったりだったからである。
 ところでその辺の言い伝えによれば、そのゴルボー氏がオピタル大通り五十・五十二番地の破屋の所有者であったそうである。あのりっぱな窓をこしらえさしたのも彼自身であったとか。
 そういうわけでその破屋は、ゴルボー屋敷という名前をもらっていた。
 五十・五十二番地の家のすぐ前には、オピタル大通りの並み木の間に半ば枯れかかった大きな楡(にれ)の木が一本立っていた。家のほとんど正面に、ゴブラン市門の街路が開けていた。その街路には当時人家もなく、舗石(しきいし)もなく、季節によって緑になったり泥をかぶったりする醜い樹木が植えられていて、パリーの外郭の壁にまっすぐに通じていた。硫酸の匂(にお)いがそばの工場の屋根から息をついて吹き出ていた。
 市門はすぐ近かった。一八二三年には外郭の壁もまだ残っていた。
 その市門は人の心に痛ましい幻を与えるものであった。それはビセートルへ行く道であった。帝政および王政復古の時代に死刑囚らが刑執行の日に、パリーへはいってきたのは、そこからであった。一八二九年ごろにあのいわゆる「フォンテーヌブルー市門」の殺人事件が行なわれたのも、そこにおいてであった。それは実際不思議な事件で、官憲もその犯人らを発見することができず、全く不明に終わった惨劇で、ついに解決を得なかった恐ろしい謎(なぞ)であった。それから数歩進むと、あの不吉なクルールバルブ街になって、そこではあたかもメロドラマの中に見るようにユルバックがイヴリーの羊飼い女を雷鳴のうちに刺し殺したのであった。なお数歩進むと、サン・ジャック市門の所の頭を切られたいやな楡の木立ちの所に達する。あの博愛者らが断頭台を隠すに用いた所であり、死刑の前にたじろぎながら堂々とそれを廃することも、厳としてそれを継続することもあえてできなかった商人や市民などの階級の、陋劣(ろうれつ)不名誉なる刑場であった。
 今より三十七年前に、常に恐ろしいほとんど宿命的なそのサン・ジャックの広場を外にして、この陰うつなオピタル大通りのうちでの最も陰鬱(いんうつ)な所といえば、五十・五十二番地の破屋のある今日でもあまり人の好まぬその一隅(ぐう)であった。
 町家はその後約二十五年も後にならなければそこには建て初められなかった。当時そこはきわめて陰惨な場所であった。前に述べたような惨劇を思い起こさせる上に、丸屋根の見えるサルペートリエール救済院とすぐ柵(さく)が近くにあるピセートル救済院との間にはさまってることが感ぜられた、すなわち女の狂人と男の狂人との間にあることが。目の届く限りただ、屠牛(とぎゅう)場や市の外壁や、所々に兵営や僧院に見るような工場の正面などがあるばかりだった。どちらを見ても、板小屋や白堊(はくあ)塗り、喪布のような古い黒壁や経帷子(きょうかたびら)のような新しい白壁。どちらをながめても、平行した並木、直線的な築塀、平面的な建物、冷ややかな長い線とわびしい直角。土地の高低もなければ、建築の彩(あや)もなく、一つの襞(ひだ)さえもない。
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