レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

     四 A

 ワーテルローの戦いの明らかな観念を得んと欲するならば、地上に横たえたAの大文字を想像すればそれで足りる。Aの左の足はニヴェルの道であり、右の足はジュナップの道であり、両方をつなぐ横棒はオーアンからブレーヌ・ラルーへの凹路(おうろ)である。Aの頂はモン・サン・ジャンであって、そこにウェリントンがいる。左下の端はウーゴモンで、そこにゼローム・ボナパルトとともにレイユがいる。右下の端はラ・ベル・アリアンスで、そこにナポレオンがいる。Aの横棒が右の足と交差している点の少し下がラ・エー・サントである。横棒の中央が、ちょうど勝敗の決した要点である。あの獅子(しし)の像が立てられたのはそこであって、それは期せずして近衛軍の最もりっぱなる勇武の象徴となった。
 Aの上方に二本の足と横棒との間に含まれる三角形は、モン・サン・ジャンの高地である。その高地の争奪が戦いの全局であった。
 両軍の両翼は、ジュナップの道とニヴェルの道との左右に延びている、そしてエルロンはピクトンに対峙(たいじ)し、レイユはヒルに対峙している。
 Aの頂点の後ろ、すなわち、モン・サン・ジャンの高地の背後に、ソアーニュの森がある。
 戦地そのものについては、起伏した広い地面であると想像すればよろしい。一つの高みから次の高みが見られ、そしてその起伏はしだいにモン・サン・ジャンの方へ高まってゆき、そこで森に達している。
 戦場に相敵対した二個の軍隊は、二人の闘士である。それは一つの取っ組み合いである。互いに相手を投げ出さんとする。彼らは何物にでもしがみつく。藪(やぶ)も一つの足場であり、壁の一角も肩墻(けんしょう)である。よるべき一軒の破屋(あばらや)がないためにも、一個連隊が遁走(とんそう)する。平地のくぼみ、地勢の変化、好都合な横道、森、低谷なども、軍隊と呼ばるるその巨大の踵(くびす)を止め、その退却を抑止することができる。戦場より出る者は敗者である。それゆえに、その責を帯びる長官にとっては、わずかな木の茂みをも調べ少しの土地の高低をも研究するの必要がある。
 両将軍は、今日ワーテルロー平原と呼ばるるそのモン・サン・ジャン平原を、細心に研究しておいた。既にその前年よりしてウェリントンは、あらかじめある大戦の準備としてそこを調べておくだけの先見の明を有していた。ゆえに六月十八日、その土地においてそしてその決戦のために、ウェリントンは有利の地位を占め、ナポレオンは不利の地位にあった。イギリス軍は上手(かみて)にあり、フランス軍は下手(しもて)にあった。
 一八一五年六月十八日の払暁(ふつぎょう)、ロッソンムの高地に双眼鏡を手にして馬上にまたがったナポレオンの風姿を、ここに描くことはおそらく蛇足(だそく)であろう。人に示されるまでもなく、世人の皆知っているところである。ブリエンヌ士官学校の小さな帽子をかぶったその静平な横顔、その緑色の軍服、星章を隠している白い折り返しのえり、肩章を隠している灰色の外套、チョッキの下に見えている赤い綬章(じゅしょう)の一端、皮の半ズボン、すみずみにNの花文字と鵞(が)の紋とのついた紫びろうどの鞍被(くらおお)いをつけた白馬、絹の靴足袋の上にはいた乗馬靴、銀の拍車、マレンゴーに佩用(はいよう)した剣、すべてそれらの最後の皇帝(シーザー)たる容姿こそ、万人の想像に上るところのものであって、ある人々からは歓呼せられ、ある人々からはきびしき目を向けらるるところのものである。
 その姿は長い間光耀(こうよう)のうちに包まれていた。それは実に、古来多くの英雄が発散して常に多少の間真実をおおい隠すあの一種の伝説的不明瞭に負うところがあったのである。しかし今日はそれを照らす歴史と白日とが現われている。
 この光は、歴史は、無慈悲なものである。それはある不思議なまた神聖なものを有していて、まったく光であり、かつまさしく光であるがゆえに、人が光輝をのみ見ていたところに陰影を投ぐることが往々にしてある。それは同一人より二つの異なった姿をこしらえる。一つの姿は他の姿を難じ、その罪を問う。専制君主の暗黒は将帥の光彩と争う。かくて諸民衆の評価のうちにより真実なる尺度が存するのである。侵されたるバビロンはアレクサンデルの価値を減じ、束縛されたるローマはシーザーの価値を減じ、破壊されたるエルサレムはチツスの価値を減損する。暴君自身もやがて暴虐を被る。おのれの姿を止むる暗黒を後に残してゆくことは、人にとって一つの不幸である。

     五 戦争の暗雲

 この戦いの最初の局面は世人のあまねく知るところである。両軍ともその発端は、不安な不確かなもので、躊躇(ちゅうちょ)せしめ恐れをいだかしむるものであった。しかしフランス軍の方よりもイギリス軍の方がなおさらそうであった。
 雨は終夜降りとおした。地面はそのどしゃ降りにこねかえされていた。水は鉢(はち)にたまったように平原の窪地(くぼち)にここかしこたまっていた。ある所では輜重車(しちょうしゃ)は車軸まで泥水につかった。馬の腹帯は泥水をしたたらしていた。もし密集した輜重の雑踏のためまき散らされた小麦や裸麦が、轍(わだち)を埋めて車輪の下敷きにならなかったならば、いっさいの運動は、ことにパプロットの方の谷間の中の運動は、不可能であったろう。
 事は初まるのが遅かった。前に説明したとおりナポレオンは、その全砲兵を拳銃(けんじゅう)のごとく手中に握り、戦地のここかしことねらいを定めるのを常としていたので、馬に引かれた砲兵隊が自由に動き回り駆け回り得るまで待つことにしたのである。それには太陽がのぼって地をかわかさなければならなかった。しかし太陽の出るのは遅かった。こんどはアウステルリッツのようにすぐにはゆかなかった。最初の大砲の一発が響いた時、イギリスの将軍コルヴィルは時計をながめて、十一時三十五分であることを確かめた。
 戦闘は猛烈に初まった。おそらく皇帝が望んでたより以上猛烈に、ウーゴモンに対するフランス軍の左翼によって開始された。同時にナポレオンは、ラ・エー・サントに向かってキオー旅団を投げつけながら敵の中央を攻撃し、ネーはパプロットによってるイギリス軍の左翼に向かってフランス軍の右翼を突進さした。
 ウーゴモンに対する攻撃は多少佯撃(ようげき)であった。ウェリントンをそこに引きつけて左翼に牽制(けんせい)せんとするのが、その計画であった。もしイギリスの近衛の四個中隊と勇敢なベルギーのペルポンシェル師団とが頑強(がんきょう)に陣地を維持し得なかったならば、その計画は成功していたであろう。がウェリントンはそこに赴援(ふえん)せずして、全援兵としてただ近衛の他の四個中隊とブルンスウィックの一隊とだけをつかわすに止めておくことができたのである。
 パプロットに対するフランス軍右翼の攻撃は真剣なものであった。イギリス軍の左翼を敗走せしめ、ブラッセルからの道を断ち切り、あるいはきたるべきプロシア軍の通路をさえぎり、モン・サン・ジャンを強取し、ウェリントンをウーゴモン方面にしりぞけ、それよりブレーヌ・ラルー方面にしりぞけ、更にハール方面に追うこと、それは最も確実なことであった。ただ二、三の事件を外にしては、その攻撃は成功した。パプロットは占領され、ラ・エー・サントは奪取された。
 ここに特記すべき一事がある。イギリスの歩兵のうちには、ことにケンプトの旅団のうちには、多くの新兵がいた。それらの若い兵士らは、フランスの恐るべき歩兵に対してきわめて勇敢であった。彼らは無経験のためかえって大胆にやってのけた。ことにみごとな散兵戦を行なった。散兵戦における兵士は、多少各自に開放されて、いわば自ら自分の指揮官となるものである。それらの新兵は、フランス兵に似寄ったある巧妙さと勇猛さとを現わした。その未熟な歩兵は活気を有していた。しかしそれはウェリントンのあまり喜ばないところであった。
 ラ・エー・サントの占領後、戦いは混乱をきたした。
 その日の戦いには、正午から四時までまったく朦朧(もうろう)たる中間があった。戦いの中心はほとんど不明で、混戦の雲霧につつまれていた。薄暮の色さえそれに加わった。うち見やれば、その靄(もや)の中には広漠(こうばく)たるうねりがあり、眩(まばゆ)きばかりの幻影があり、今日ほとんど知られない当時の軍需品があって、炎のような真紅(しんく)の毛帽、揺らめいている提嚢(ていのう)、十字の負い皮、擲弾用(てきだんよう)の弾薬盒(だんやくごう)、驃騎兵(ひょうきへい)の外套、多くのひだのある赤い長靴、綯総(ないふさ)で飾った重々しい軍帽、緋色(ひいろ)のイギリス歩兵と黒ずんだブルンスウィックの歩兵との混合、肩章の代わりに輪をなした白い大きなモールを上膊(じょうはく)につけてるイギリス兵、銅の帯金と赤い飾毛とのついた長めの皮の兜(かぶと)をかぶってるハンノーヴルの軽騎兵、膝を露(あら)わにし弁慶縞(じま)の外套を着てるスコットランド兵、フランス擲弾兵の大きな白いゲートル、それは実に戦術的戦線ではなくて、画幅中の光景であり、サルヴァトール・ローザの喜ぶところのものであって、グリボーヴァルの求むるところのものではなかった。(訳者注 前者は十七世紀イタリーの画家、後者は十八世紀フランスの戦術家)
 多少の暴風雨的擾乱(じょうらん)は常に戦いに交じるものである、ある暗澹たるもの、ある天意的なるものが。各歴史家はそれらの混戦のうちに勝手な筋道を立ててみる。しかし将軍らの策略のいかんにかかわらず、群がり立ったる軍勢の衝突は測るべからざる反発を起こすものである。実戦においては両指揮官の二つの計画は互いに交差し互いに妨げる。戦場のある地点はある他の地点よりも多くの兵士をのみつくす、あたかも多少柔軟な地面はそこに注がるる水を多少早く吸い取るがごときものである。かかる場所には予期以上の多数の兵士を注がなければならない。意外の損失をきたす。戦線は糸のごとく浮動し曲折し、血潮の川は盲目的に流れ、前線は波動し、出入する連隊はあるいは岬(みさき)をなしあるいは湾をなし、その暗礁は互いに先へ先へと移動し、歩兵がいた所には砲兵が到着し、砲兵がいた所には騎兵が馳(は)せつけ、あらゆる隊伍は煙のごとくである。そこに何かがいたと思って求むればはや消え失せている。一時の霽間(はれま)はすぐに移ってゆく。陰暗なひだは一進一退する。黄泉(よみじ)の風は、それらの悲壮な群集を吹き送り吹き返し、吹きふくらし吹き散らす。およそ混戦とは何物であるか。一つの擺動(はいどう)である。数学的な不動の図面はただ一瞬のことを説明し得るのみで、一日のことは語り得ない。一つの戦争を描かんがためには、その筆致のうちに混沌(こんとん)たるものを有する力強い画家を要する。かくてレンブラントはヴァン・デル・モイレンにまさる。ヴァン・デル・モイレンは、正午のことについては正確であるが、午後三時においては真より遠ざかる。幾何学は誤りをきたし、ただ颶風(ぐふう)のみが真を伝える。それはポリーブに対して異説を立てしむるの権利をフォラールに与えるところのものである。なおつけ加えて言えば、戦いには局部戦に化するある瞬間が常にある。かかる瞬間においては、戦いは個々に分かれ、無数の細部に分散する。その細部はナポレオン自身の言葉をかりて言えば、「軍隊の歴史によりもむしろ各連隊の伝記に属する」ところのものである。もとよりそういう場合においても、歴史家はそれを摘要するの権利を持っている。しかし彼はその戦闘の主要な輪郭をつかみ得るのみである。そしてまた、いかに忠実なる叙述家といえども、戦いと称せらるるその恐るべき暗雲の形を完全に描き出すことはできないものである。
 以上のことは、いかなる大戦闘についても真実であるが、ことにワーテルローにはいっそう適用し得べきものである。
 さはあれ、午後になって、ある瞬間に至って、戦いの勢いは明らかになってきた。

     六 午後四時

 四時ごろには、イギリス軍は危険な状態にあった。オレンジ大侯は中央を指揮し、ヒルは右翼を、ピクトンは左翼を指揮していた。豪胆熱狂なオレンジ大侯はオランダ・ベルギーの連合兵に向かって叫んでいた「ナッソー! ブルンスウィック! 断じて退くな!」ヒルは弱ってウェリントンの方へよりかかってきた。ピクトンは戦死した。イギリス軍がフランス軍の第百五連隊の軍旗を奪ったと同時に、イギリス軍のピクトン将軍は弾丸に頭を貫かれて戦死を遂げたのだった。ウェリントンにとっては、戦いは二つの支持点を持っていた、すなわち、ウーゴモンとラ・エー・サントと。しかるに、ウーゴモンはなおささえてはいたが焼かれており、ラ・エー・サントは既に奪われていた。そこを防いでいたドイツの一隊は、生き残った者わずかに四十二人で、将校に至っては五人を除くのほか、皆戦死し、あるいは捕虜になっていた。その農家のうちだけで三千の兵士が屠(ほふ)られていた。イギリス一流の拳闘家で無敵と称せられていた近衛の一軍曹(ぐんそう)も、そこでフランスのある少年鼓手のために殺されていた。ベーリングは撃退され、アルテンはなぎ払われていた。数多の軍旗は失われていた。そのうちには、アルテン師団のものもあり、ドゥー・ポン家のある大侯がささげていたルネブールグ隊のもあった。灰色のスコットランド兵ももはや残っていなかった。ポンソンビーの大なる竜騎兵も壊滅していた。その勇敢な竜騎兵は、ブローの槍騎兵とトラヴェールの胸甲騎兵とのために敗走させられたのだった。その千二百騎のうち残ったものは六百で、ハミルトンは負傷し、メーターは戦死して、三人の中佐ちゅう二人もうち落とされたのだった。ポンソンビーも七つの槍(やり)を被ってたおれていた。ゴルドンもマーシュも戦死していた。第五と第六との両師団は粉砕されていた。
 ウーゴモンは危うく、ラ・エー・サントは奪われ、今はただ中央の一節(ひとふし)が残ってるのみだった。その一節はなお支持されていて、ウェリントンはそこに兵員を増加した。彼はそこに、メルブ・ブレーヌにいたヒルを呼び、ブレーヌ・ラルーにいたシャッセを呼び寄せた。
 イギリス軍のその中央は、少し中くぼみの形になっていて、兵員は密集し、強固に陣を固めていた。それはモン・サン・ジャンの高地を占めていて、背後に村落を控え、前には当時かなり険しかった斜面を持っていた。そして堅固な石造の家屋を後ろに負っていた。その建物は当時ニヴェルの領有であって、道路の交差点の標(しるし)になっており、十六世紀式の建築で、砲弾もそれに対してはただはね返るのみで破壊し得なかったほど頑丈(がんじょう)にできていた。高地の周囲には、イギリス軍はここかしこに生籬(いけがき)を切り倒し、山□(さんざし)の間に砲眼をこしらえ、木の枝の間に砲口を差し入れ、荊棘(いばら)のうちに銃眼をあけていた。その砲兵は茂みの下に潜められていた。その奸黠(かんかつ)なる工事は、もとよりいかなる係蹄(わな)をも許す戦争ではとがむべきことではないが、いかにも巧みになされていたので、敵の砲座を偵察せんため午前九時に皇帝からつかわされたアクソーもまったく気づかず、立ち帰ってナポレオンに報告したところは、ただ、ニヴェルおよびジュナップから行く両道をさえぎっている二つの防寨(ぼうさい)のほかには、何らの障害もないというのであった。ちょうど畑の作物が高く伸びている時期であって、高地の縁には、ケンプト旅団の一隊第九十五連隊が、カラビーヌ銃を帯びて高い麦の間に伏してるのだった。
 かく安全にかつ守りを固くして、イギリス・オランダ軍の中央は好地位に置かれていた。
 その陣地の危険はただソアーニュの森であった。その森は当時戦場に接していて、グレナンデルとボアフォールとの二つの池で仕切られていた。そこに退くとすれば軍隊の隊伍は乱れるに違いなかった。連隊は直ちに分散をきたすに違いなかった。砲兵は沼の中に進退を失うに違いなかった。もとより異議を立てる者もあったが、多くの専門家の意見によれば、退却はそこでは潰走(かいそう)に終わるのほかはなかったであろう。
 ウェリントンは、シャッセの一個旅団を右翼から抜きウィンケの一個旅団を左翼から抜き、それを中央に加え、次にクリントンの師団をも加えた。そしてそれら手中のイギリス軍、ハルケットの数個連隊、ミッチェルの旅団、メートランドの近衛軍、などの主力になお支持隊として、ブルンスウィックの歩兵、ナッソーの徴集兵、キエルマンゼーゲのハンノーヴル兵、およびオンプテーダのドイツ兵などを加えた。それで彼は二十六個大隊を提げていたのである。シャラスが言ったように、右翼は中央の背後に立て直された。莫大(ばくだい)な砲兵隊は、今日いわゆる「ワーテルローの博物館」があるあの場所に、土嚢(どのう)で隠されていた。ウェリントンはなおその上、ソマーセットの近衛竜騎兵千四百騎をあるくぼ地に有していた。それは世の定評に恥じない勇敢なるイギリス騎兵の半分であった。ポンソンビーは粉砕されたが、ソマーセットは残っていたのである。
 一度完備すればほとんど一つの角面堡(ほ)ともなるべきその砲兵隊は、ごく低い塀(へい)の後ろに配置され、砂嚢(さのう)の被覆と大なる土堤とで急速におおわれた。しかしその工事は全部済んではいなかった。それは柵(さく)を施すだけの時間がなかったのである。
 ウェリントンは不安ではあったがなお平然として馬にまたがり、モン・サン・ジャンの古い風車小屋の少し前方、楡(にれ)の木の下に、終日同じ姿勢で立っていた。その風車小屋は今もなお残っているが、楡の木の方は、物のわからぬあるイギリスの心酔家が、その後二百フランで買い取り、切り倒して持っていってしまったのである。ウェリントンはそこに、冷然たる勇気をもって立ちつくしていた。砲弾は雨と降りきたった。副官のゴルドンは彼のそばで倒れた。ヒル卿は破裂する榴弾(りゅうだん)をさしながら言った。「閣下、閣下の示教せらるるところは何でありますか。もし戦死せらるる場合にはいかなる命令をあとに残されますか?」「私のとおりせよということだ、」とウェリントンは答えた。彼はまたクリントンに簡単に言った、「最後の一人までここにふみ止まれ。」戦いは明らかに不利になってきた。ウェリントンはタラヴェラやヴィットーリアやサラマンクなどの昔の戦友たる部下に叫んでいた、「諸子よ! いかで退却をなし得るか。古よりのイギリスを考えてみよ!」
 四時ごろ、イギリスの戦線は後方に動き出した。と突然、高地の頂には砲兵と狙撃兵(そげきへい)とのほか何も見えなくなった。その他のものは姿を消した。全連隊は、フランスの榴弾と砲弾とに追われて、後方深く退いた。そこにはモン・サン・ジャンの田圃(たんぼ)道が今日もなお横切っている。後退運動が起こされ、イギリス戦線の正面は取り払われ、ウェリントンも退いた。「退却を始めた!」とナポレオンは叫んだ。

     七 上機嫌(きげん)のナポレオン

 皇帝は病気にかかっていて馬上では局所に苦痛を感じて困難ではあったが、かつてその日ほど上機嫌(じょうきげん)なことはなかった。心情を発露することのないその顔つきも、朝から微笑をたたえていた。大理石の面をかぶったようなその深い魂も、一八一五年六月十八日には何ということもなく光り輝いていた。アウステルリッツにおいて陰鬱(いんうつ)であったその人も、ワーテルローにおいては快活であった。宿命の偉人はかかる矛盾を示すものである。われわれ人間の喜びは影にすぎない。最上の微笑は神のものである。
 シーザーは笑いポンペイウスは泣く、とフルミナトリックス軍の兵士らは言った。しかし今度はポンペイウスは泣くべき運命ではなかったのである。がシーザーが笑っていたのは確かだった。
 早くも前夜の一時に、荒天と降雨との中をベルトランとともに、ロッソンム付近の丘陵を馬上で検分しながら、フリシュモンよりブレーヌ・ラルーに至る地平線を輝かすイギリス軍の篝火(かがりび)の長い一線を見て満足し、ワーテルローの平原の上に日を期して定めておいた運命は万事自分の意のままになってるように、彼には思えたのであった。彼は馬を止め、しばらくそこにじっとたたずんで、電光をながめ雷鳴を聞いていた。そしてその運命の人が次の神秘な言葉を影のうちに投げるのが聞かれた、「われわれは一致している。」しかしナポレオンは誤っていたのである。両者はもはや一致してはいなかった。
 彼はその夜一睡もしなかったのである。その夜も各瞬間は彼に喜びの情を与えた。彼は前哨(ぜんしょう)の全線を見回って、あちこちに立ち止まっては騎哨に言葉をかけた。二時半にウーゴモンの森の近くに、彼は一縦隊の行進する足音を聞いた。一時彼はそれをウェリントンの退却であると思った。彼はベルトランに言った。「あれは撤退するイギリス軍の後衛だ、オステンドに到着した六千のイギリス兵をわしは捕虜にしてみせよう。」彼は豁達(かったつ)に口をきいた。三月一日上陸(訳者注 エルバ島よりフランスへの)の際、ジュアン湾の熱狂してる農夫を元帥にさし示しながら、「おいベルトラン、既にかしこに援兵がいる、」と叫んだ時のような活気を彼は再び示した。そして今六月十七日から十八日へかけた夜、彼はウェリントンをあざけっていた。「小癪な彼イギリス人に少し思い知らしてやろう、」とナポレオンは言った。雨は激しくなり、皇帝が語ってる間雷鳴はとどろいていた。
 午前三時半に、彼の一つの空想は失われた。偵察につかわされた将校らは、敵が何らの運動もしていないことを報告した。何物も動いてはいなかった。陣営の一つの篝火(かがりび)も消されてはいなかった。イギリスの軍隊は眠っていた。地上は寂として音もなく、ただ空のみが荒れていた。四時に、一人の農夫が斥候騎兵によって彼の所へ連れられてきた。その農夫は、イギリスのある騎兵旅団が、たぶんヴィヴァイアンの旅団であろうが、最左翼としてオーアンの村に陣地を占めに行くのの案内者となったのである。五時に、二人のベルギーの脱走兵がきて彼に告げたところでは、彼らは自分の連隊からぬけ出してきたのであって、イギリス軍は戦いを期しているということだった。ナポレオンは叫んだ。「ますますよい。わしはあいつらを退けるよりも打ち敗ってやりたいのだ。」
 朝になって、プランスノアの道の曲がり角になってる土堤(どて)の上で、彼は泥の中に馬からおり立って、料理場のテーブルと百姓の椅子(いす)とをロッソンムの農家から持ってこさせ、一束のわらを下に敷いてそこに腰を掛け、テーブルの上に戦場の地図をひろげて、そしてスールトに言った、「みごとな将棋盤だ!」
 夜来の雨のために、兵站部(へいたんぶ)はこね回された道路に足を取られて朝になってしか到着することができなかった。兵士らは眠りもせず物も食わずに雨にぬれていた。それでもナポレオンは快活にネーに叫んだ、「十中の九はわれわれのものだ。」八時に皇帝の食事が運ばれた。彼はそこに多くの将軍らを招いた。食事をしながら人々は、前々日ウェリントンがブラッセルのリチモンド公爵夫人の家の舞踏会に行っていたことを話した。すると、大司教めいた顔つきのあらあらしい武人であるスールトは言った、「舞踏会は今日だ。」皇帝は、「ウェリントンも陛下のおいでを待ってるほどばかでもありますまい」と言うネーを揶揄(やゆ)した。その上揶揄は彼の平素(ふだん)のことであった。彼は好んで諧謔を弄した、とフルーリー・ド・シャブーロンは言っている。彼の性格の根本は快活な気分であった、とグールゴーは言っている。巧妙なというよりもむしろばかげた揶揄に彼は富んでいた、とバンジャマン・コンスタンは言っている。巨人のかかる快活は力説するの労に価するものである。その擲弾兵(てきだんへい)を「敵愾兵(てきがいへい)」と呼んだのも彼であった。彼は彼らの耳をつねり、その髯(ひげ)を引っ張った。皇帝はわれわれにいたずらばかりなされた、というのは彼らの一人の言葉である。エルバ島よりフランスへの秘密な航海中、二月二十七日海上において、フランスの軍艦ゼフィールはナポレオンが隠れていたアンコンスタン号に出会って、ナポレオンの消息を尋ねると、エルバ島に彼がはやらした蜂(はち)のついた白と鶏頭色との帽章を当時なおその帽子につけていた皇帝は、笑いながらラッパを取って自分で答えた、「皇帝は丈夫だ。」そういう冗談をする者は、事変に驚かない。ナポレオンはワーテルローの朝食の間にしばしばその諧謔(かいぎゃく)を弄した。食事の後、彼は十五分ばかり考え込んだ。それから、二人の将軍はわら束の上に腰掛け、手にペンを持ち膝に紙をひろげた、そして皇帝は彼らに戦闘序列を書き取らせた。
 九時に、梯隊(ていたい)をなし五列縦隊で行進していたフランス軍は展開して、師団は二列横隊となり、砲兵は旅団の間に置かれ、軍楽隊は太鼓の音とラッパの響きとで行進曲を奏して先頭に立ち、見渡す限り力強く広漠として勇み立ち、軍帽とサーベルと銃剣との海と化し去った。その時皇帝は興奮して二度くり返し叫んだ、「素敵! 素敵!」
 九時から十時半までの間に、信じられないほどの早さではあるが、全軍は戦線につき、六線に並び、皇帝の言葉をかりれば「六個のVの形」を取った。戦線の前面が整って数瞬の後、混戦に先立つ動乱の初めの深い静寂の最中に、命令によってエルロンとレイユとロボーとの三軍団から抜かれ、ニヴェルの道のジュナップの道との交差点であるモン・サン・ジャンを砲撃して戦争を開始する役目を帯びていた十二斤(きん)砲の三個砲兵中隊が、ついに展開するのを見て、皇帝はアクソーの肩をたたいて言った、「どうだ将軍、二十四人のきれいな娘が。」
 モン・サン・ジャンの村を奪取すれば、直ちにそこに防寨(ぼうさい)を施すことに定められていた第一軍団の工兵中隊が前を通る時、戦いの結果に確信ある彼は微笑をもってそれを励ました。かく静穏な彼は、ただ尊大な憐憫(れんびん)の一語をもらした。すなわち、左手に、今日大きな墳墓があるあの場所に、灰色のみごとなスコットランド兵がそのりっぱな馬とともに集まっているのを見て、彼は言った、「惜しいものだ。」
 それから彼は馬にまたがり、ロッソンムの前方に赴(おもむ)き、ジュナップからブラッセルへ通ずる道の右手にある小高い狭い芝地を観戦地として選んだ。それは戦闘中の彼の第二の佇立所(ちょりつじょ)であった。第三の佇立所は、午後七時ラ・ベル・アリアンスとラ・エー・サントとの中間のそれであって、恐るべき場所であった。現今なお存しているかなり高い丘であって、その後方には平地の斜面に近衛兵が集められていた。丘のまわりには、砲弾が道路の舗石(しきいし)の上にはねかえって、ナポレオンの所までも達した。ブリエンヌの時と同じく、彼の頭上には弾丸やビスカイヤン銃弾が鳴り響いた。彼の馬の足が立っていたほとんど同じ場所から、その後、腐食した砲弾や古い剣の刃や錆(さ)びついて形を失った銃弾などが拾い出された、錆びくれものが。数年前のことだが、まだ火薬のはいったままの六十斤(きん)破裂弾がそこから掘り出された。ただその信管は弾丸と平面にこわれていた。この最後の佇立所において、一人の軽騎兵の鞍(くら)にゆわいつけられ、霰弾(さんだん)の連発ごとに後ろを向いてその背後に身を隠そうとしている、驚怖し敵意をいだいてる田舎者(いなかもの)の案内者ラコストに向かって、皇帝は言った、「ばかめ! 恥辱だぞ、背中を打たれて死ぬつもりか。」今これらのことを物語っている著者自らも、その丘の柔かい斜面の砂を掘りながら、四十六年間の酸化のためにぼろぼろになった破裂弾の口金の残りと、彼の指の中にすいかずらの茎のように握りつぶされた古い鉄片の残りとを、見いだしたのである。
 ナポレオンとウェリントンとの会戦の場所である種々の勾配(こうばい)をなした平地の起伏は、人の知るとおり、一八一五年六月十八日とは今日大いにそのありさまを異にしている。その災厄(さいやく)の場所から、すべて記念となるものを人々は奪い去ってしまって、実際の形態はそこなわれたのである。そしてその歴史も面目を失って、もはやそこに痕跡(こんせき)を認め難くなっている。その地に光栄を与えんために、人々はその地のありさまを変えてしまった。二年後にウェリントンは再びワーテルローを見て叫んだ、「私の戦場は形が変えられてしまった。」今日獅子(しし)の像の立っている大きな土盛りのある場所には、その当時一つの丘があってニヴェルの道の方へは上れるくらいの傾斜で低くなっていたが、ジュナップの道路の方ではほとんど断崖(だんがい)をなしていた。その断崖の高さは、ジュナップからブラッセルへ行く道をはさんでる二つの大きな墳墓の丘の高さによって、今日なお測ることができる。その一つはイギリス兵の墓であって左手にあり、も一つはドイツ兵のであって右手にある。フランス兵の墓はない。フランスにとっては、その平原すべてが墓地である。高さ百五十尺周囲半マイルの塚を築くに使われた何千車という土のおかげで、今日モン・サン・ジャンの高地にはゆるやかな坂で上ってゆくことができる。しかし戦いの当時その高地は、ことにラ・エー・サントの方面において、きわめて険阻で上るに困難であった。その勾配はそこでは非常に急だったので、イギリスの砲兵隊は下の方に、戦闘の中心地である谷合の底にある百姓家を見ることができないほどだった。一八一五年六月十八日には、雨のためにその険しさはいっそう増し、泥濘(でいねい)のためにその登攀(とうはん)は、いっそう困難になり、単によじのぼるばかりでなく泥濘に足を取られまでした。高地の上に沿って、遠くから見たのでは気づかれない一種の溝(みぞ)が走っていた。
 その溝はいったい何であったか? それを言ってみれば次のようなわけである。ブレーヌ・ラルーはベルギーの一つの村であり、オーアンもやはりその一つの村である。そして二つとも土地の起伏の間に隠れ、約一里半ばかりの道で相通じている。その道は高低不規則な平原を横切っていて、しばしば畝溝(あぜみぞ)のようになって丘の間をつきぬけているので、所々で峡谷をなしている。一八一五年にも今日と同じく、その道はジュナップの街道とニヴェルの街道との間でモン・サン・ジャンの高地の上を貫いていた。ただ、今日ではその平地の面と同じ高さになっているが、当時は凹(くぼ)い道であった。記念の塚を築くためにその両方の斜面は切り取られてしまったのである。その道は、今日もそうだが、昔も大部分は塹壕(ざんごう)の形をしていた。それも時としては約十二尺もあろうというほど深い塹壕であって、そのあまり急な斜面の土は驟雨(しゅうう)のために所々くずれ落ち、ことに冬にははなはだしかった。種々の事変までも生じた。ブレーヌ・ラルーの入り口の方では非常に狭かったので、一人の通行人が馬車に押しつぶされてしまったほどである。墓地のそばに立ってる石の十字架はそれを示すものであって、それによると、死者の名前はブラッセルの商人ベルナール・ド・ブリー氏であり、その事変が起こったのは一六三七年二月である。(碑銘は次のとおりである――最善最大なる神へ、ここにおいてブラッセルの商人ベルナール・ド・ブリー氏は一六三七年二月○〔不明〕日不幸にも馬車にひき殺されぬ。)またその道はモン・サン・ジャンの高地の上ではきわめて深かったので、マティユー・ニケーズという百姓が一七八三年に土手くずれのため圧死したほどである。も一つの石の十字架にやはりそのことがしるしてあった。しかしその石はそこが開拓される時になくなってしまい、くつがえされた土台石だけが今日なお、ラ・エー・サントとモン・サン・ジャンの農家との間の道路の左手の芝生(しばふ)の坂の上に残って見えている。
 戦いの日、モン・サン・ジャンの高地の縁にあって、断崖(だんがい)の上にある溝であり、地面の中に隠された轍(わだち)であり、何物もそれと気取(けど)らせる物のないその凹路(おうろ)は、少しも目につかなかったのである、言い換えれば恐るべきものだったのである。

     八 皇帝案内者ラコストに問う

 さてワーテルローの朝、ナポレオンは満足であった。
 それも道理だった。彼によって立てられた作戦計画は、前に述べたとおり、実際驚嘆すべきものであった。
 一度戦端が開かるるや、種々の変転はナポレオンの眼前に起こった。ウーゴモンの抵抗。ラ・エー・サントの頑強。ボーデュアンの戦死。戦闘力を失ったフォア。ソアイの旅団が粉砕された意外の城壁。爆発管も火薬嚢(のう)も用意していなかったギーユミノーの不運な軽率。砲兵隊が泥濘(でいねい)に足を取られたこと。護衛のない十五門の砲がある凹路(おうろ)でアクスブリッジのために転覆されたこと。イギリス戦線に落下さした破裂弾も、雨のために湿った土の中にはいり込んで泥を爆発させるだけで、撥泥機と化し去ってしまって、効果の少なかったこと。ブレーヌ・ラルー方面のピレーの威嚇(いかく)運動が無効に終わったこと。十五個中隊の騎兵のほとんど全部が損失したこと。イギリス軍の右翼の動揺も少なく、左翼もあまり破れなかったこと。第一軍団の四個師団を梯隊にせずして密集さしたネーの意外なまちがい。そのために正面二百人あての二十七列の深さの密集部隊が霰弾(さんだん)を浴びせられたこと。その集団の中に恐るべき穴が砲弾によってあけられたこと。襲撃縦隊の隊伍のととのわなかったこと。その側面に突然現われた横射砲兵隊。危地に陥ったブールジョアとドンズローとデュリュット。撃退されたキオー。工芸大学校出の俊猛ヴィユー中尉が、ラ・エー・サントの門を斧(おの)で打ち破った時に、ジュナップからブラッセルへ行く道の曲がり角をさえぎってるイギリス軍の防寨から発した俯瞰(ふかん)銃火のために負傷したこと。マルコンネの師団が、歩兵と騎兵とに挾撃(きょうげき)され、麦畑の中でベストとパックからねらい撃ちにされ、ポンソンビーになぎ払われたこと。その七門の砲は進退窮まったこと。エルロン伯の攻撃に対してサックス・ワイマール大侯がフリシュモンとスモーアンとを維持したこと。第百五連隊の軍旗は奪われ、第四十五連隊の軍旗も奪われたこと。ワーヴルとプランスノアとの間の道を偵察していた三百人の軽騎兵の斥候遊動隊によって捕えられた、一人の黒服のプロシア驃騎兵。その捕虜の告げた不安な事がら。グルーシーの遅延。ウーゴモンの果樹園の中で一時間足らずのうちに殺された千五百人。なおそれより短時間の間にラ・エー・サント付近でたおれた千八百人。それらの激越な事変は戦陣の雲霧のごとくナポレオンの眼前を過ぎ去ったが、ほとんど彼の目を乱すことなく、その泰然自若たるおごそかな顔を少しも曇らせなかった。ナポレオンは戦闘を凝視することになれていた。彼は局部の悲痛なできごとを一々加算しはしなかった。個々の数字は、その総計たる勝利を与えさえするならば、さまで重大なことではなかった。その初端がいかに錯乱しようとも、彼はそれに驚きはしなかった。すべては自分の手中にあり、終局は自分のものであると、彼は信じていたのである。彼はすべてに超然たる自信を有していて、機を待つことを知っていた。そして天運を自己と同地位に置いていた。彼は運命に向かって言うかのようだった、「汝の勝手にもできないだろう。」
 半ば光と影とのうちにあってナポレオンは、幸運のうちに保護され災厄(さいやく)を許されてるように感じていた。あらゆる事件は自分の不利をもたらさないということ、あるいはむしろ自分に加担してくれるということを、彼は知っていた、少なくとも知っていると信じていた。実に古代の不死身(ふじみ)にも等しいものを持っているということを。
 しかしながら、過去にベレジナ、ライプチヒ、およびフォンテーヌブルーなどのことを有する以上は、ワーテルローとても安心はできないはずである。一つの人知れぬ顰蹙(ひんしゅく)が、天の奥に見えている。
 ウェリントンが退却し出した時、ナポレオンはおどり上がった。彼は突然、モン・サン・ジャンの高地が引き払われ、イギリス軍の正面が姿を消したのを認めた。その敵軍は再び集合したのではあるが、とにかく姿を隠したのだった。皇帝は半ば鐙(よろい)の上に立ち上がった。勝利の輝きはその目に上った。
 ウェリントンがソアーニュの森に圧迫され破られる。それはイギリスがフランスのために止(とど)めを刺されることであった。クレシー、ポアティエ、マルプラケ、ラミリーなどの敗戦の復讐(ふくしゅう)がなされることであった。マレンゴーの勇士(訳者注 ナポレオン)がアザンクールの恥をそそぐことであった。
 皇帝はその時、恐ろしいその変転を考えながら、最後に今一度双眼鏡をもって戦場の四方を見回した。後ろには銃を立てた近衛兵の一隊が、敬虔(けいけん)な目つきで下から彼を仰ぎ見ていた。彼は考えていた。傾斜を調べ、坂を注意し、木の茂みや、麦畑や、小道などをよく観測し、また一々小藪(こやぶ)までも数えてるらしかった。二つの大道のイギリス軍の防寨(ぼうさい)を、二つの大きな鹿砦(ろくさい)を、彼はことにじっとながめた。一つはラ・エー・サントの上にジュナップから行く道にある防寨で、イギリスの全砲兵中から残って戦場の底を俯瞰(ふかん)してる二門の大砲で守られていた。も一つはニヴェルからゆく道にある防寨で、シャッセ旅団のオランダ兵の銃剣がひらめいていた。彼はその防寨の近くに、ブレーヌ・ラルーの方へゆく横道の角にある白塗りの聖ニコラの古い礼拝堂を認めた。彼は身をかがめて、案内者ラコストに小声で話しかけた。案内者は頭を横に振った。おそらく当てにはならないものであったろう。
 皇帝はまた身を起こして考え込んだ。
 ウェリントンは退却したのである。もはやその退却を壊滅に終わらせるだけの問題であった。
 ナポレオンはにわかにふり向いて、戦勝の報告をさせるためパリーへ急使を全速力でつかわした。
 ナポレオンは雷電をも発し得る天才の一人だった。
 彼はいまやその雷電の一撃を見いだした。
 彼はモン・サン・ジャンの高地を奪取することを、ミローの胸甲騎兵に命じた。

     九 意外事

 その数は三千五百、四分の一里の前面にひろがり、偉大な馬にまたがった巨人らであった。中隊にわかって二十六個、そして後方には援護として、ルフェーヴル・デヌーエットの師団、精鋭なる憲兵百六人、近衛軽騎兵千百九十七人、および近衛槍騎兵八百八十人が控えていた。彼らは装毛のない兜(かぶと)をかぶり、練鉄の胸甲をつけ、皮袋にはいった鞍馬(あんば)用ピストルと長剣とをつけていた。その朝九時に、ラッパが鳴り全楽隊が帝国の運護らなむを吹奏するにつれ、彼らが密集縦列をなしてやってき、その砲兵中隊の一個を側面にし他の一個を中央にして、ジュナップ街道とフリシュモンとの間に二列横隊に展開し、強力なる第二線の戦闘位置についた時、全軍は彼らの威風を嘆賞したものだった。その第二線はナポレオンがいかにも巧みに配置したもので、左側にはケレルマンの胸甲騎兵を有し、右端にはミローの胸甲騎兵を有し、いわば鉄の両翼をそなえたがようだった。
 副官ベルナールは彼等に皇帝の命令を伝えた。ネーは剣を抜いて先頭に立った。偉大なる騎兵隊は動き出した。
 恐るべき光景が現われた。
 それらの騎兵は、剣を高く上げ、軍旗を風にひるがえし、ラッパを吹き鳴らし、師団ごとに縦列を作り、ただ一人のごとく同一な運動の下に整然として、城壁をつき破る青銅の撞角(とうかく)のごとくまっしぐらに、ラ・ベル・アリアンスの丘を駆けおり、既に幾多の兵士の倒れてる恐るべき窪地(くぼち)に飛び込み、戦雲のうちに姿を消したが、再びその影から出て、谷間の向こうに現われ、常に密集して、頭上に破裂する霰弾(さんだん)の雲をついて、モン・サン・ジャン高地の恐ろしい泥濘(でいねい)の急坂を駆け上って行った。猛烈に堂々と自若として駆け上っていった。小銃の音、大砲の響きの合間にその巨大なる馬蹄(ばてい)の響きは聞かれた。二個師団であって二個の縦列をなしていた、ヴァティエの師団は右に、ドロールの師団は左に。遠くからながむると、あたかも高地の頂の方へ巨大なる二個の鋼鉄の毒蛇(どくじゃ)がはい上がってゆくがようだった。それは一つの神変のごとくに戦場を横断していった。
 かくのごとき光景は、重騎兵によってモスコヴァの大角面堡(ほ)が占領された時いらい、かつて見られない所であった。ミュラーはもはやいなかったが、ネーは再びそこにいた。あたかもその集団は一つの怪物となりただ一つの魂を有してるがようだった。各中隊は環状をなした水蛭(みずびる)の群れのごとく波動しふくれ上がっていた。広漠たる戦雲の所々の断(き)れ目からその姿が見られた。甲冑(かっちゅう)と叫喚と剣との交錯、大砲とラッパの響きのうちに馬背のすさまじい跳躍、整然たる恐るべき騒擾(そうじょう)、その上に多頭蛇の鱗(うろこ)のごとき彼等の胸甲。
 かかる物語はあたかも現今と異なる時代に属するかの観がある。これに似寄った光景はたしか古代のオルフェウスの叙事詩中に出ている。そこには、人面馬体をそなえてオリンポスの山を乗り越えた、不死身(ふじみ)の壮大なる恐るべきタイタン族、サントール、古(いにし)えのイパントロープ、すなわち神にして獣なるあの怪物のことが、語られている。
 不思議にも同数であったが、二十六個大隊のイギリス兵がそれらの二十六個騎兵中隊を迎え撃たんとしていた。高地の頂の後ろに、掩蔽(えんぺい)された砲座の影に、イギリス歩兵は二個大隊ずつ十三の方陣を作り、第一線に七個方陣、第二線に六個方陣をそなえて二線に陣を立て、銃床を肩にあて、まさにきたらんとするものをねらい撃ちにせんとして、静かに鳴りをひそめて身動きもせずに待ち受けていた。彼らには胸甲騎兵の姿が見えず、胸甲騎兵にも彼らの姿が見えなかった。彼らはただ人馬の潮の駆け上がって来る響きに耳を澄ましていた。その三千騎のしだいに高まる響きを、大速歩の馬の交互に均斉した蹄(ひづめ)の音を、甲冑(かっちゅう)の鳴る音を、剣の響きを、そして一種の荒々しい大きな息吹(いぶ)きの音を聞いていた。恐るべき一瞬の静寂が来ると、次に忽然(こつぜん)として、剣を高くふりかざし、腕の長い一列が高地の頂に現われ、兜(かぶと)とラッパと軍旗と、それから灰色の髯(ひげ)をはやした三千の頭が「皇帝万歳!」を叫びながら現われた。すべてそれらの騎兵は今や高地の上に出現し、あたかも地震の襲いきたったがようだった。
 と突然に、惨憺(さんたん)たる光景を呈した。イギリス軍の左方、フランス軍の方からいえば右方に当たって、胸甲騎兵の縦列の先頭は恐るべき叫びをあげて立ち上がった。方陣をも大砲をも殲滅(せんめつ)せんとする狂猛と疾駆とに駆られ熱狂して高地の頂点に達した胸甲騎兵は、彼らとイギリス兵との間に一つの溝(みぞ)を、一つの墓穴を見いだしたのである。それはオーアンからの凹路(おうろ)であった。
 それこそ恐怖すべき瞬間だった。峡谷が、意外にも、馬の足下に断崖(だんがい)をなし、両断崖の間に二尋(ひろ)の深さをなし、口を開いてそこに待ち受けていた。その中に第二列は第一列を突き落とし、第三列は第二列を突き落とした。馬は立ち上がり、後方におどり、仰向(あおむけ)に倒れ、空中に四足をはねまわし、騎兵を振り落とし押しつぶした。もはや退却の方法はない。全縦隊は既に発射された弾丸に等しかった。イギリス軍を粉砕せんための力は、かえってフランス軍を粉砕した。苛酷な峡谷は自ら満たさずんばやまない。人馬もろともそこにころげ込んで、互いに圧殺しながらその深淵のうちに一塊の肉片と化し去ってしまった。そしてその墓穴が生きたる人をもって満たされた時、その上を踏み越えて他の者は通りすぎた。デュボアの旅団のほとんど三分の一はその深淵のうちに落ちてしまった。
 それが敗戦のはじまりであった。
 土地の言い伝えによれば、もちろん誇張されてはいようが、二千の馬と千五百人の人とがオーアンの凹路(おうろ)の中に埋められたという。その数にはもとより、戦闘の翌日そこに投げ込まれた他の死骸(しがい)のすべてをも算入したものであろう。
 ついでに一言しておくが、一時間以前に単独攻撃をしながらルネブールグ隊の軍旗を奪ったのは、かかる難関に遭遇したデュボアの旅団であった。
 ナポレオンは、ミローの胸甲騎兵をしてその襲撃を行なわしめる前に、その土地をよく観測した。しかし凹路を認めることができなかった。それは高地の表面に一筋のしわをも見せていなかったのである。けれども、ニヴェルの街道との交差角を示している小さな白い礼拝堂から気づいて注意を呼び起こされ、彼は案内人のラコストに、おそらく障害物の有無についてであったろうが、何か聞きただした。案内人は否と答えたのである。一人の百姓の頭の一振りからナポレオンの破滅は生じきたったとも言い得るであろう。
 その他の災いがなお続いて起こりきたることになった。
 しかしナポレオンはその戦いに勝利を得ることが可能であったろうか? 吾人(ごじん)は否と答える。何ゆえに? 敵がウェリントンであったがためか、またはブリューヘルであったがためか? いや。それは実に神の意(こころ)であったからである。
 ボナパルトがワーテルローの勝利者となる、それはもはや十九世紀の原則に合っていなかった。ナポレオンがもはや地位を占めることのできぬ他の多くの事実が生じかかっていた。ナポレオンに対して快からぬ世運の意志は既に疾(と)くに宣言されていた。
 この巨人の倒るべき時機はきたっていた。
 人類の運命のうちにおけるこの一人の過度の重さは、平衡を乱していた。この個人はおのれ一個で、一団の天下の衆人よりもいっそうの重みを有していた。ただ一個の頭の中へ過剰に集中された人類の全活力、一人の頭脳へ集められた全世界、もしそれが持続したならば文化の破滅をきたしたであろう。いまや乱すべからざる最高の公明は、考慮をめぐらすべき時機に立ち至っていた。物質上の秩序におけると同じく精神上の秩序においても規定の重力関係があって、その関係の基礎となるべき原則および要素は、おそらく不満の声を発していたであろう。煙る血潮、みちあふれた墳墓、涙にくれてる母親、それらは恐るべき論告者である。地にしてあまりに重き荷に苦しむ時には、神秘なる呻吟(しんぎん)の声が影のうちより発し、無限の深みにまでも達する。
 ナポレオンは既に無窮なるもののうちにおいて告発され、その墜落は決定されていた。
 彼は神のわずらいとなっていた。
 ワーテルローは一個の戦闘ではない。それは世界の方向転換である。

     十 モン・サン・ジャンの高地

 峡谷と同時に砲列が現われた。
 六十門の砲と十三の方陣とはねらい撃ちに胸甲騎兵らの上に雷火を浴びせかけた。勇猛なるドロール将車はそのイギリスの砲列に挙手の礼をしてみせた。
 イギリスのすべての騎馬砲兵は、方陣の中に駆け込んでいた。胸甲騎兵らは足を止めるひまさえもなかった。凹路(おうろ)の災厄(さいやく)は彼らの大半を失わせたが、彼らの勇気を減じさせることはできなかった。彼らはその数を減ずればますます勇気を増す類(たぐい)の勇士であった。
 ただヴァティエの縦隊のみがその災厄を受けたのだった。ネーはあたかも陥穽(かんせい)を予感したがごとくドロールの縦隊を左方にめぐらしたため、それは全部到着していた。
 胸甲騎兵らはイギリスの方陣の上におどりかかった。
 手綱をゆるめ、剣を口にくわえ、ピストルを手にして、全速力の突進、それが襲撃の様であった。
 戦闘の中には、精神が人間を固めて兵士を立像たらしめ、全身の肉を花崗岩(かこうがん)たらしむるほどの瞬間がある。イギリスの軍隊は、狂猛に襲撃されながら、たじろぎもしなかった。
 その時こそ、恐怖すべき光景になった。
 イギリスの各方陣の全正面は同時に攻撃された。狂うがごとき旋風は彼らを取りまいた。しかしその冷然たる歩兵は何らの反応をも起こさなかった。第一列は膝を折り敷いて胸甲騎兵を銃剣の上に迎え、第二列は彼らに銃火を浴びせた。第二列の背後には砲兵が大砲に弾丸をこめ、方陣の前面は開き、霰弾(さんだん)の噴出をやり過ごし、そしてまた口を閉じた。胸甲騎兵らはそれに応ずるに蹂躙(じゅうりん)をもってした。彼らの偉大なる馬は立ち上がり、戦列をまたぎ越し、銃剣の上をおどり越え、そしてそれらの生きたる四壁のうちに巨大な体躯(たいく)を横たえた。砲弾は胸甲騎兵らの中に穴をあけ、胸甲騎兵らは方陣の中に穴をあけた。隊列は馬に粉砕されて形をなくした。銃剣は人馬の腹部を貫通した。かくておそらく他に見るを得ない異様な殺傷を現出した。方陣はその狂暴な騎兵によって破損されたが、崩壊せずに縮小した。無尽蔵の霰弾は攻撃軍のまんなかに破裂した。その戦闘の光景は凄惨(せいさん)をきわめた。方陣はもはや隊伍ではなくて噴火口であった。胸甲騎兵はもはや騎兵隊ではなくて暴風雨であった。各方陣は雲霧に襲われた火山であり、溶岩(ようがん)は雷電と争闘した。
 右端の方陣は、掩蔽物(えんぺいぶつ)がなく最も露出していたので、衝突の初めに早くもほとんど全滅をきたした。それはハイランドの第七十五連隊でできていた。中央にあった風笛(ふうてき)の吹奏者は、周囲で戦友らが殲滅(せんめつ)される間に、故郷の森や湖水を思い浮かべた憂鬱(ゆううつ)な目を呆然(ぼうぜん)として伏せ、太鼓の上に腰をかけ、腕に風笛をかかえ、故郷の山間の歌を奏していた。それらのスコットランドの兵らは、あたかもギリシャ人らがアルゴスのことを思い起こしながら死んだように、ベン・ロジアンのことを思いながら死ぬのであった。一人の胸甲騎兵の剣は、風笛とそれを抱えてる腕とを打ち落とし、歌手を殺しながらその歌の音を止めさした。
 胸甲騎兵らは峡谷の災害に数を減ぜられて、比較的少数でありながら、そこでほとんどイギリス軍の全部と渡り合った。しかし彼らはその数を補うに十人分の働きをもっていた。そのうちにハンノーヴル兵の数隊はたわみ初めた。ウェリントンはそれを見た、そして手中の騎兵を思いついた。もしナポレオンが同じ時に手中の歩兵を思いついていたならば、彼は勝利を得ていたであろう。その失念は彼の取り返しのつかぬ大過であった。
 襲撃を加えていた胸甲騎兵らは、突然襲撃を被ったのを感じた。イギリス騎兵は彼らの背後に迫っていた。前には方陣があり、後ろにはソマーセットがあった。ソマーセットは千四百の近衛竜騎兵を率いていた。また彼は右にドイツの軽騎兵を指揮してるドルンベルグを有し、左にはベルギーのカラビーヌ騎兵を指揮してるトリップを有していた。胸甲騎兵は歩兵と騎兵とから前後左右より攻撃され、四方に敵対しなければならなかった。しかもそれが何であろう。彼らは旋風であった。その勇気は筆紙のつくし難いところとなった。
 その上、彼らは背後にもたえず鳴り響く砲門を受けていた。それらの退くを知らぬ勇者の背後を傷つけんがためには、それまでにしなければならなかったのである。彼らの胸甲の一つは、ビスカイヤン銃弾で左の肩胛骨(けんこうこつ)あたりに穴を明けられたのが、いわゆるワーテルローの博物館という陳列品のうちに今日存している。
 かくのごときフランスの勇士に対しては、かくのごときイギリス兵を要したのであった。
 それはもはや混戦ではなかった。陰影であり、狂乱であり、精神と勇気との熱狂的な憤怒であり、稲妻のごとき剣の颶風(ぐふう)であった。たちまちにして千四百の近衛竜騎兵は八百になされてしまった。その中佐フーラーは戦死した。ネーはルフェーヴル・デヌーエットの槍騎兵と軽騎兵とを引きつれて駆けつけてきた。モン・サン・ジャンの高地は、奪取され、奪還され、また奪取された。胸甲騎兵は騎兵の方をすてて歩兵の方へ立ち直った。あるいはなおよく言えば、その恐るべき群集は互いにつかみ合って一団となっていたのである。方陣はなおささえていた。十二回の突撃がなされた。ネーはその乗馬を殺されること四回に及んだ。胸甲騎兵の半ばは高地の上にたおれた。その戦闘は二時間にわたった。
 イギリス軍はそのためにはなはだしく動揺した。もし胸甲騎兵らが凹路(おうろ)の災厄(さいやく)のために最初の突撃力が弱められていなかったならば、彼らは敵の中央を撃破し勝利を決定していたろうとは万人の疑わないところである。その非凡なる騎兵は、タラヴェラおよびバダホースの戦いに臨んだことのあるクリントンをして色を失わしめた。四分の三まで打ち負かされたウェリントンすらも、さすがに賛嘆の声を発した。彼は半ば口のうちで言った、「天晴(あっぱれ)!」
 胸甲騎兵らは、十三の方陣の中七つを殲滅(せんめつ)し、六十門の砲をあるいは奪取しあるいは破壊し、イギリスの連隊旗六個を奪って、それを三人の胸甲騎兵と三人の近衛軽騎兵とがラ・ベル・アリアンスの農家の前にいる皇帝のもとに運んで行った。
 ウェリントンの地位は険悪になっていた。その異常な戦いは、あたかもたけり立った二人の手負いの勇士の間における決闘のようだった。互いに闘(たたか)いなお抵抗しながら、その血潮をすべて失いつつある。両者のいずれが第一に倒れるであろうか。
 高地の闘争は引き続いた。
 どのくらいまで胸甲騎兵らはつき進んでいたか? だれもそれを語ることはできないであろう。ただ確実なことといえば、戦いの翌日、モン・サン・ジャンの馬車の積み荷計量台の素建(すだて)の中に、すなわち、ニヴェルとジュナップとラ・ユルプとブラッセルとの四つの道が出会って交差している所に、一人の胸甲騎兵とその馬とのたおれてるのが発見されたことだった。その騎兵はイギリスの戦線を突破したのだった。その死骸(しがい)を引き起こした人々の一人は、現になおモン・サン・ジャンに住んでいる。彼の名はドアーズと言って、当時十八歳だったのである。
 ウェリントンは運の傾いてきたのを感じた。危機は迫っていた。
 胸甲騎兵らは敵の中央を突破し得なかったという意味では成功しなかった。その高地は皆の有であり、まただれの有でもなかった。そして要するに、大部分はなおイギリス軍の手中にあった。ウェリントンは村と一番高い平地とを有していた。ネーは高地の縁と斜面とをしか有していなかった。両方ともここを墳墓の地と根をおろしてるかのようだった。
 しかしイギリス軍の衰弱はもはや回復すべからざるもののように見えた。その軍隊の出血は恐るべきものだった。左翼のケンプトは援兵を求めた。「一兵もない、そこで戦死せよ!」とウェリントンは答えた。それとほとんど同時に両軍の疲憊(ひはい)を語る珍しい一致であるが、ネーもナポレオンに歩兵を求めてきた。ナポレオンは叫んだ、「歩兵! どこから手に入れてくれというのか、わしに歩兵をこしらえよとでもいうのか?」
 けれども、イギリス軍の方がいっそう悩んでいた。鉄の鎧(よろい)と鋼鉄の胸当てとをつけたその偉大な騎兵隊の狂猛な圧力は、歩兵を押しつぶした。軍旗のまわりに立っている数人の兵が、一個連隊の位置を示してるものもあった。そういう一隊はもはや大尉あるいは中尉によって指揮されてるのみだった。ラ・エー・サントにおいて既に痛手を被ってるアルテンの師団は、ほとんど全滅していた。ヴァン・クルーツェ旅団の勇敢なベルギー兵は、ニヴェルの道に沿った麦畑のうちに莫大(ばくだい)な死屍(しかばね)を横たえていた。一八一一年にはスペインにおいてフランス軍に交じってウェリントンと戦い、今一八一五年にはイギリス軍と結んでナポレオンと戦っていたオランダの擲弾兵(てきだんへい)らは、ほとんど生き残ったものがなかった。将校の損失はなおいちじるしかった。翌日自分の片脚を葬ったアクスブリッヂ卿は、もう膝を砕かれていた。その胸甲騎兵の戦闘においてフランス軍の方では、ドロール、レリティエ、コルベール、ドノプ、トラヴェール、およびブランカールらが戦闘力を失っていたのに対し、イギリス軍の方では、アルテンは負傷し、バーンは負傷し、デランシーは戦死し、ヴァン・メルレンは戦死し、オンプテーダは戦死し、ウェリントンの幕僚は大半戦死していた。かくしてその流血を比較する時には、イギリスの方がはなはだしかった。近衛歩兵の第二連隊は五人の中佐と四人の大尉と三人の旗手とを失っていた。歩兵第三十連隊の第一大隊は二十六人の将校と百十二人の兵卒とを失っていた。ハイランド兵第七十九連隊では、二十四人の将校が負傷し、十八人の将校が戦死し、四百五十人の兵士が戦死していた。クンベルランドのハンノーヴル驃騎兵(ひょうきへい)は、後に裁(さば)かれて罷免(ひめん)されることになった連隊長ハッケを頭として、全連隊が混戦の前に手綱をめぐらして、ソアーニュの森の中に逃げ込み、ブラッセルに至るまで壊走(かいそう)の余波を及ぼした。輜重車(しちょうしゃ)、弾薬車、行李車(こうりしゃ)、負傷兵をいっぱい積んだ車などは、フランス軍がそこに足場を得て森に近よって来るのを見て、先を争って森に逃げ込んだ。フランス騎兵になぎ払われたオランダ兵は、「あぶないぞ!」と叫んでいた。ヴェール・クークーからグレナンデルに至るまで、ブラッセルの方面へ約二里の距離にわたって、ただ一面に逃亡兵のみであった事は、今に生きてる実見者らの語るところである。その恐慌は非常なものであって、マリーヌにいたコンデ大侯とガンにいたルイ十八世とにまでもおよんだ。モン・サン・ジャンの農家のうちに建てられた野戦病院の背後に梯隊(ていたい)をなしていたわずかな予備隊と、左翼を防いでいたヴィヴァイアンとヴァンドルールとの二個旅団を除くのほか、ウェリントンはもはや騎兵を有しなかった。多くの砲門は破壊されて横たわっていた。それらの事実はシーボンによって告白されたところである。プリングルはその災滅を誇張して、イギリス・オランダの軍隊は三万四千になされたとまで言っている。鉄石大公ウェリントンはそれでもなお自若としていた、しかしその脣(くちびる)は青ざめていた。イギリスの参謀部に従って観戦していたオーストリアの軍事監ヴィンチェントとスペインの軍事監アラヴァとは、大公の敗北と思っていた。五時に、ウェリントンは時計を出してみた、そして次の憂鬱(ゆううつ)な言葉がつぶやかれるのが聞かれた、「ブリューヘルが来るか、夜が来るか!」
 ちょうどその頃であった、銃剣の遠い一線が、フリシュモンの方に当たって高地の上にひらめき出した。
 ここにおいて、この巨大なる活劇に変転が起こった。


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