レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 そのころ国王ルイ十八世は、ほとんど毎日のようにショアジー・ル・ロアに行っていた。そこは彼の好きな遊歩地の一つであった。たいていいつも二時ごろには、国王の馬車と騎馬の行列とが大駆けでオピタル大通りを通るのが見られた。
 それは、その辺に住む貧しい人々にとっては懐中時計や柱時計の代用をしていた。彼らは言った、「もう二時になる、チュイルリー宮殿へお帰りだから。」
 そして駆けつけて来る者もあれば、そこに立ち並ぶ者もあった。なぜなら、国王の通御は常に人を騒がせるものであるから。その上、ルイ十八世の出入は、パリーの町々にある影響を与えていた。その通過はすみやかではあったが、しかし堂々たるものであった。不具の王は馬の大駆けを好んでいた。自ら歩くことはできなかったが、走ることが好きだった。躄(いざり)なる彼は、好んで馬を急速に駆けさした。抜剣のうちに護(まも)られて、落ち着いたいかめしい顔をして通っていった。戸口には大きな百合(ゆり)の茎が描かれすっかり金箔(きんぱく)をかぶせられた、彼のどっしりした四輪箱馬車は、騒がしい音を立てて走った。ちらと見るまにもうそれは通りすぎていた。馬車の奥の右のすみに、白繻子(しろじゅす)でできてるボタンじめの褥(しとね)の上に、しっかりした大きな赤ら顔、王鳥式に新しく白粉(おしろい)をぬった額、高慢ないかつい鋭い目、文人のような微笑、市民服の上にゆらめいている綯総(よりふさ)の二つの大きな肩章、トアゾン・ドール章とサン・ルイ勲章とレジオン・ドンヌール勲章とサン・テスプリ騎士団の銀章、大きな腹、大きな青綬章、そういうものが見られた。それが王であった。パリーの外では、白い鳥の羽のついた帽子を、イギリスふうの大きなゲートルを巻いた膝頭(ひざがしら)にのせていたが、市内にはいってくると、その帽子を頭にかぶり、会釈もあまりしなかった。彼は冷然と人民をながめ、人民の方でも冷然と彼を見上げた。彼が初めてサン・マルソーの方面に姿を見せた時、彼の成功といってはただ、その郭外の一人の男が次の言葉を仲間に言ったことばかりだった。「あの大きな男がこんどの政府だよ。」
 ところで、その国王がいつもきまって同じ時刻に通ることは、今ではオピタル大通りの毎日の事件となっていた。
 黄色いフロックを着てうろついてたあの男は、明らかにその辺の者ではなく、またたぶんパリーの者でもなかったろう。なぜなら、彼はこの国王通御のことを少しも知っていなかったから。二時に、銀モールをつけた近衛騎兵の一隊に取り巻かれた王の馬車が、サルペートリエール救済院の角を曲がってその大通りに現われた時、彼は驚いたようで、ほとんど恐れをさえいだいたように見えた。ちょうどその歩道には彼のほかだれもいなかった。彼は急いである家壁の角(かど)に身を避けた。それでも彼はアヴレ公の目をのがれることができなかった。アヴレ公はその日護衛の騎兵の隊長として、王と向かい合って馬車の中にすわっていた。彼は陛下に言った、「向こうにあまり人相のよくない男がいます。」国王の通路を警戒していた警官らも同じくその男を認めた。そのうちの一人は彼を追跡せよとの命令を受けた。しかし男は、その郭外の寂しい小路のうちに身を隠した。そして日の光が薄らぎかけていたので、警官は彼の姿を見失ってしまった。そのことは、国務大臣で警視総監のアングレー伯爵へその日の夕方差し出された報告のうちに書いてあった。
 黄色いフロックの男は、警官をまいてしまった時、足を早めたが、もう追跡されてはいないことを確かめるためにたびたびふり返ってながめた。四時十五分に、すなわち全く日が暮れた時に、彼はポルト・サン・マルタン劇場の前を通った。その日の芝居は二人の囚人というのであった。劇場の反照燈に照らされた[#「照らされた」は底本では「照られた」]その看板が彼の目を引いた。彼は早く歩いていたにもかかわらず、立ち止まってそれを読んだ。それからじきに彼はプランシェットの袋町にゆき、プラ・デタンという家にはいって行った。当時そこにランニー行きの馬車の立て場があった。馬車は四時半に出発することになっていた。馬はもうつけられており、旅客らは御者に呼ばれて、馬車の高い鉄のはしごを大急ぎで登っていた。
 男は尋ねた。
「席がありますか。」
「一つあります。私のそばの御者台の所ですが。」と御者は言った。
「それを願いましょう。」
「お乗りなさい。」
 けれども出かける前に、御者はその客の賤(いや)しいみなりと小さな荷物とをじろりと見やって、金を先に払わした。
「ランニーまでですか。」と御者は尋ねた。
「そうです。」と男は答えた。
 彼はランニーまでの馬車賃を払った。
 一同は出発した。市門を出た時、御者は話をしようとしたが、男は一、二言の短い答えを返すだけであった。御者は仕方なしに、口笛吹いたり馬をしかり飛ばしたりした。
 御者は外套(がいとう)に身を包んだ。非常に寒かった。けれども男はそれを気にもしていないようだった。そのようにしてグールネーを過ぎ、ヌイイー・スュール・マルヌを過ぎた。
 晩の六時頃にはシェルに着いた。御者は馬を休ませるために、国立修道院の古い建物のうちにあった駅宿の前で馬車を止めた。
「私はここでおりる。」と男は言った。
 彼は包みと杖とを取って、馬車から飛びおりた。
 間もなく彼の姿は見えなくなった。
 彼は宿屋にはいったのではなかった。
 数分後に馬車がまたランニーに向かって進み出した時、彼の姿はシェルの大通りにも見えなかった。
 御者は馬車の中の乗客たちの方へふり向いて言った。
「今の男はこの辺の者じゃありませんよ。私は見たこともないから。一スーの金もなさそうな様子だったが、金のことなんかは考えてもいないと見える。ランニーまでの金を払っておきながらシェルまできておりてしまった。もうすっかり夜で、家はみなしまってるのに、あの男は宿屋にはいりもせず、また姿も見えません。地の中へでももぐり込んだんでしょう。」
 が男は地の中へもぐり込んだのではなかった。彼はやみの中を急いでシェルの大通りを大またに歩いてゆき、それから教会堂の所まで行く前に左へ曲がって、モンフェルメイュに通ずる村道を進んで行った。あたかもその辺の地理には明るく、また前にもきたことがあるもののようだった。
 彼は足早にその村道を歩いて行った。ガンニーからランニーへ行く古い並木道との交差点まで達した時、数人の通行人がやって来る足音が聞こえた。彼はすばやく溝(みぞ)の中に身を隠して、その人たちが遠ざかるのを待った。がもとよりそんな用心はほとんど無用なことだった。前に述べておいたとおり、まっくらな十二月の夜だったのである。空にはかろうじて二、三の星影が見えるきりだった。
 ちょうどその辺から丘へのぼり道になっていた。男はモンフェルメイュへ行く道にははいらなかった。右へ曲がって、野を横ぎり、大またに森の中へはいって行った。
 森の中まで来ると、彼は足をゆるめて、一歩一歩進みながら樹木を一々注意深くながめはじめた。ただ彼一人が知っている秘密な道をさがして、それをたどってるかのようであった。時としては、道に迷ったようで心を決しかねて立ち止まることもあった。ついに彼はようように道を探って、あるうち開けた所に達した。そこにはほの白い大きな石がつみ重ねてあった。彼は勢いよくそれらの石の方へ進んでゆき、あたかも検閲するかのように夜の靄(もや)を透かして注意深くそれらを調べた。植物の疣(いぼ)である瘤(こぶ)がいっぱいできてる一本の大木が、その石の山から数歩の所にあった。男はその木の所へ行って、その幹の皮を手でなで回した。ちょうどその疣を一々見調べて数えようとしてるがようだった。
 それは秦皮(とねりこ)の木であったが、それと向き合って一本の栗の木が立っていた。皮がはがれたために弱っていて、繃帯(ほうたい)として亜鉛の板が打ち付けてあった。男は爪先で伸び上がって、その亜鉛の板にさわってみた。
 それから彼は、その木と石の山との間の地面をしばらく足で踏んでみた。あたかも土地が新しく掘り返されはしなかったかを確かめてるようだった。
 それがすむと、彼は方向を定めて森の中を歩き出した。
 コゼットが出会ったのはすなわちその男であった。
 茂みの中をモンフェルメイュの方へ進んでいくと、彼は小さな人影を認めたのだった。その人影はため息をつきながら動いていて、ある荷物を地面に置いてはまたそれを取り上げ、そしてまた進み初めるのだった。近寄ってみると、大きな水桶(みずおけ)を持ったごく小さな子供であることがわかった。すると男は子供の所へ行って、無言のまま桶の柄を持ってやったのである。

     七 コゼット暗中に未知の人と並ぶ

 前に言ったとおり、コゼットはこわがらなかった。
 男は彼女に言葉をかけた。重々しい低音であった。
「これはお前さんにはあまり重すぎるようだね。」
 コゼットは頭をあげて、そして答えた。
「ええ。」
「貸してごらんな。」と男は言った。「私が持っていってあげよう。」
 コゼットは桶(おけ)を離した。男は彼女と並んで歩き出した。
「なるほどずいぶん重い。」と彼は口の中で言った。それからつけ加えた。
「お前さんはいくつになる?」
「八つ。」
「そしてこんなものを持って遠くからきたのかね。」
「森の中の泉から。」
「そしてこれから行く所は遠いのかね。」
「ここから十五分ばかり。」
 男はちょっと口をつぐんだが、やがてふいに言った。
「でお母さんがいないんだね。」
「知りません。」と子供は答えた。
 男が何か言おうとする間もなく彼女はつけ加えた。
「いないんでしょう。ほかの人はみなお母さんを持ってるけれど、私は持っていないの。」
 そしてちょっと黙ったあとで、彼女はまた言った。
「私には一度もお母さんはなかったようなの。」
 男は立ち止まって、桶(おけ)を地面におろし、身をかがめて、子供の両肩に手を置き、暗やみの中にその姿をながめその顔を見ようとした。
 コゼットのやせた弱々しい顔が、空の薄ら明りの中にぼんやり浮き出して見えた。
「お前さんは何という名前だい。」と男は言った。
「コゼット。」
 男はあたかも電気に打たれたようであった。彼はなお彼女をよく見、それから両手をその肩からはずし、桶を取り、そして歩き出した。
 間もなく彼は尋ねた。
「お前さんはどこに住んでるんだい。」
「モンフェルメイュよ、おじさんは知ってるかどうか……」
「これからそこへ行くんだね。」
「ええ。」
 彼はなおちょっと言葉を切ったが、また言い出した。
「いったいだれが今時分森の中まで水をくみにやらしたんだい。」
「テナルディエのお上(かみ)さんなの。」
 男はまた尋ねた。できるだけ平気な声を装おうとしてるらしかったが、それでも不思議な震えがその中にこもっていた。
「テナルディエのお上さんというのは何をしてるんだい。」
「うちのお上さんよ。」と子供は言った。「宿屋をやってるの。」
「宿屋?」と男は言った。「では私は今晩そこへ行って泊まろう。案内しておくれ。」
「そこへ行ってるのよ。」と子供は言った。
 男はかなり早く歩いた。がコゼットはたやすくついて行った。もう疲れも感じなかった。時々彼女は目をあげて、言い難い一種の安心と信頼とで彼を見上げた。かつて彼女は神というものに心を向けることも祈りをすることも教わっていなかった。けれども今、希望と喜悦とに似た何かを心のうちに感じ、天の方へさし上ってゆく何かを心のうちに感じた。
 数分過ぎ去った。男は言った。
「テナルディエの上さんのうちには女中はいないのかね。」
「いません。」
「お前さん一人なのか。」
「ええ。」
 それからまた言葉が途切れた。コゼットは口を開いた。
「でも娘は二人あります。」
「何という娘だい。」
「ポニーヌとゼルマっていうの。」
 テナルディエの上さんが好きな小説的な二人の名前を、彼女はそんなふうにつづめて呼んでいたのである。
「ポニーヌとゼルマというのは、どういう人たちだい。」
「テナルディエのお上さんのお嬢さんなの。まあその娘よ。」
「そして何をしてる、その人たちは。」
「そりゃあいろいろなものを持ってるの、」と子供は言った、「美しい人形やら、金(きん)のついたものやら、いろいろなものがあるの。遊んでおもしろがってるの。」
「一日中?」
「ええ」
「そしてお前さんは?」
「私は、働いてるの。」
「一日中?」
 子供は大きな目をあげた。夜で見えはしなかったが、それには涙が宿っていた。子供は静かに答えた。
「そうよ。」
 ちょっと黙った後に彼女は言い続けた。
「時々は、用がすんでから、いいって言われる時には、私も遊ぶことがあるの。」
「どうして遊ぶ?」
「勝手なことをして。何でもさしてくれます。けれど私は玩具(おもちゃ)をあまり持っていないの。ポニーヌとゼルマは私に人形を貸してくれません。私はただ鉛の小さな剣を一つ持ってるきりなの、これくらいの長さの。」
 子供は自分の小指を出して見せた。
「切れないんだろう。」
「切れるわ、」と子供は言った、「菜っ葉だの蠅(はえ)の頭なんか切れるわ。」
 二人は村に達した。コゼットは見知らぬ男を案内して通りを歩いていった。彼らはパン屋の前を通った。けれどもコゼットは買ってゆくべきパンのことを忘れていた。男はもういろいろなことを尋ねるのをやめて、陰鬱(いんうつ)に黙り込んでいた。それでも教会堂の所を通りすぎて、露天の店が並んでるのを見ると、コゼットに尋ねた。
「おや、市場だね。」
「いいえ、クリスマスよ。」
 彼らが宿屋に近づいた時、コゼットはおずおずと男の腕につかまった。
「小父(おじ)さん。」
「なんだい?」
「家の近くにきました。」
「それで?」
「これから私に桶(おけ)を持たして下さいな。」
「なぜ?」
「ほかの人に桶を持ってもらってるのが見つかると、お上さんに打たれるから。」
 男は彼女に桶を渡した。それからすぐに二人は、宿屋の戸口の所にきた。

     八 貧富不明の男を泊むる不快

 コゼットはわれ知らず、玩具屋(おもちゃや)の店に並べてある大きな人形の方をじろりとながめた。それから家の戸をたたいた。戸は開かれて、テナルディエの上さんが手に蝋燭(ろうそく)を持って出てきた。
「ああお前か、この乞食娘(こじきむすめ)が! 何だってこんなに長くかかったんだ。どっかで遊んでいたんだろう。」
「お上さん、」とコゼットは身体じゅう震え上がって言った、「あの方が泊めてもらいたいってきています。」
 上さんは、宿屋の主人がいつでもするように、邪慳(じゃけん)な顔つきをすぐに和らげた。そして新来の客の方をむさぼるようにながめた。
「あなたですか。」と彼女は言った。
「さようです。」と男は答えながら、帽子に手をあてた。
 金のある旅客はそんな丁寧なことはしないものである。その身振りをながめ、またその男の服装と荷物とを見て取って、テナルディエの上さんの愛想顔はまた慳貪(けんどん)になった。彼女は冷ややかに言った。
「おはいりなさい、お爺(じい)さん。」
「お爺さん」は中にはいった。上さんはまたじろりと彼の姿をながめ、すっかりすり切れたフロックと破れかかった帽子とに特に目をとめ、それから、頭をつんとあげ鼻頭にしわを寄せ、まばたきをして、亭主の意向をさぐった。亭主はやはり馬方らといっしょに飲んでいたが、ちらと人さし指を動かしてそれに答えた。そういう場合、それはふくらした脣とともに、「一文なしだ」という意味であった。それを見て上さんは叫んだ。
「お前さん、大変お気の毒だが、室(へや)があいてませんよ。」
「どこでもいいから泊めて下さい、」と男は言った、「物置きでも、廐(うまや)でもよろしいです。一室分の代は払いますから。」
「四十スーですよ。」
「四十スー。承知しました。」
「そんならよござんす。」
「四十スーだと!」と一人の馬方が上さんに低くささやいた。「普通は二十スーじゃないか。」
「あの男には四十スーだよ。」と上さんは同じく低く答えた。「それより安くちゃ貧乏人は泊められない。」
「そのとおりだ。」と亭主も静かに口を添えた。「あんな男を泊めると沽券(こけん)を落とすからね。」
 その間に男は、腰掛けの上に包みと杖とを置き、一つのテーブルに向かって席についた。コゼットは急いでそこに葡萄酒(ぶどうしゅ)の瓶(びん)と杯とを並べた。水桶(みずおけ)を言いつけた商人はそれを自分で馬の所へ持って行った。コゼットはまた料理場のテーブルの下のいつもの場所にもどって、編み物を初めた。
 男は杯にぶどう酒を注いで脣を浸したかと思うと、すぐに異様な注意でコゼットをながめだした。
 コゼットは醜くかった。しかし、楽しい生活をしていたら恐らくきれいだったかも知れない。その小さな陰鬱(いんうつ)な顔つきは既に前に述べておいた。がなお言えば、彼女はやせて青ざめていた。もうすぐ八歳になろうとするのに、ようやく六歳ぐらいにしか見えなかった。くぼんで一種の深い影をたたえている大きな目は、多くの涙を流したためにほとんどその光を失っていた。脣(くちびる)のすみには、囚人や重病人などに見らるるような不断の苦しみからきた曲線ができていた。両手は、母親がかつて推察したとおり「凍傷にくずれて」いた。その時ちょうど彼女を照らしていた火のために、骨立った角々(かどかど)が浮き出して、やせてるのが特に目立っていた。いつも寒さに震えていたので、両膝をきっちり押しつけ合う癖がついていた。着物は破れ裂けて、夏にはかわいそうに思われ、冬には恐ろしく思われた。身につけているのは、穴のあいた麻布ばかりで、一片の毛織りの布もなかった。所々に肌(はだ)がのぞいていて、そのどこにも青い斑点(はんてん)や黒い斑点が見えていた。それはテナルディエの上さんに打たれた跡であった。露(あら)わな両脛(りょうすね)は赤くかじかんでほっそりしていた。鎖骨の上が深くくぼんでいるのを見ると、かわいそうで涙がこぼれるほどだった。彼女の全身、その歩き方、その態度、声の調子、一言いっては息を引く様、その目つき、その沈黙、そのちょっとした身振り、それらはただ一つの思いを現わし示していた、すなわち恐怖を。
 恐怖の念が彼女の全身に現われていた。いわばそれにおおわれてるがようだった。恐怖のために彼女は、両肱(ひじ)を腰につけ、踵(かかと)を裾着(すそぎ)の下に引っ込ませ、できるだけ小さくちぢこまり、ようやく生きるだけの息をついていた。そしてその恐怖の様子はほとんど彼女の身体の癖となっていて、いつも同じようで、ただその度がしだいに高まってゆくだけであった。その瞳(ひとみ)の底には驚いたような影があって、恐怖の念が見えていた。
 そういう恐怖の念が強くコゼットを支配していたので、彼女は今帰ってきて、着物がぬれていたにもかかわらず、火の所へ行ってそれをかわかそうともせず、そのまま黙って仕事を初めたのだった。
 八歳のその小娘の目つきは、普通はいかにも陰鬱(いんうつ)で、時にはいかにも悲壮であって、どうかすると、白痴かあるいは悪魔にでもなるのではないかと思われるほどだった。
 前に言ったとおり、彼女はかつて祈祷(きとう)の何たるやを知らず、またかつて教会堂に足をふみ入れたこともなかった。「どうしてそんな閑(ひま)があるものか、」とテナルディエの上さんは言っていた。
 黄色いフロックの男は、コゼットから目を離さなかった。
 突然テナルディエの上さんは叫んだ。
「そうそう、パンは?」
 コゼットは、お上さんが高い声を出す時にいつもするように、すぐにテーブルの下から出てきた。
 彼女はすっかりパンのことを忘れていた。それで、絶えずおびえてる子供特有の方便を持ち出して、嘘(うそ)を言った。
「お上さん、パン屋はしまっていましたの。」
「戸をたたけばいいじゃないか。」
「たたきました。」
「そして?」
「だれもあけてくれません。」
「本当か嘘(うそ)か明日(あした)になればわかるさ。」と上さんは言った。
「もし嘘だったらひどい目にあわしてやる。それから十五スーの銀貨をお返し。」
 コゼットは胸掛けのポケットに手を差し入れて、まっさおになった。十五スー銀貨はそこにはいっていなかった。
「これ! 私の言うことが聞こえないのか。」と上さんは言った。
 コゼットはポケットを裏返した、が何もなかった。あの金はいったいどうなったのであろう? 不幸な娘は口をきくこともできなかった。石のように固くなってしまった。
「お前はあの十五スー銀貨をなくしたのかい。」と上さんは声を荒らげた。「それとも盗むつもりか。」
 それとともに彼女は、暖炉の所に下っている鞭(むち)の方へ腕を伸ばした。
 その恐ろしい身振りを見て、コゼットは初めてようやく叫んだ。
「ごめんなさい、お上さん、お上さん、もうしませんから。」
 上さんは鞭を取りおろした。
 その間に黄色いフロックの男は、だれも気付かぬうちにチョッキの隠しの中を探った。もとより他の旅客らは、酒を飲んだりカルタをしたりして、ほかのことにはいっさい注意を向けていなかったのである。
 コゼットはもだえて暖炉のすみに縮こまり、半ば露わな小さな手足を引っ込めて隠そうとした。上さんは鞭の手を上げた。
「ちょっと、お上さん。」と男は言った。「先ほどその娘さんの胸掛けのポケットから何か落ちてころがってきましたよ。たぶんそれじゃありませんか。」
 と同時に彼は身をかがめて、床(ゆか)の上をさがすようなふうをした。
「それ、ここにありました。」と彼は身を起こしながら言った。
 そして彼は一片の銀貨を上さんに差し出した。
「そう、これです。」と彼女は言った。
 実はそれではなかったのである。それは二十スー銀貨だった。けれども上さんはそれで得(とく)をすると思った。彼女は銀貨をポケットに入れて、ただ恐ろしい目つきを娘の上に投げて言った。「またこんなことをすると承知しないよ。」
 コゼットは、上さんのいわゆる「彼女の巣」の中に戻った。そして見知らないその旅客をじっと見つめた彼女の大きい目には、これまでかつてなかったような表情が浮かんできた。それはまだ無邪気な驚きの情にすぎなかったが、あっけにとられた一種の信頼の情が交じっていた。
「ところで、夕御飯はどうします。」と上さんは旅客に尋ねた。
 彼は答えなかった。深く何かに思いふけってるようだった。
「いったい何という男だろう。」と上さんは口の中でつぶやいた。「ひどい貧乏人と見える。夕食の代も持っていない。宿銭だけでも払えるかしら。でもまあよく床に落ちてた金を盗もうとしなかったものだ。」
 そのうちに一つの扉(とびら)があいて、エポニーヌとアゼルマとがはいってきた。
 二人とも全くきれいな小娘であった。田舎娘(いなかむすめ)というよりもむしろ町娘と言いたいくらいで、かわいらしかった。一人は艶々(つやつや)と栗色の髪を束ね、一人は長く編んだ髪を背中に下げて、二人とも活発で、身ぎれいで、肥って、生々(いきいき)として、丈夫そうで、見る目も心地よいほどだった。暖かそうに着込んでいたが、そのたくさん重ねた着物も、母親の手ぎわで着付けの美をそこなわないようにされていた。冬の装いも春のすがすがしさを消さないようにつくろってあった。二人は光り輝いていた。その上二人は自由気ままだった。その服装(みなり)や、快活さや、騒ぎ回ってる様子のうちには、皆から大事に奉られてる様が現われていた。二人がはいってきた時テナルディエの上さんは、鍾愛(しょうあい)の情に満ちたわざと小言を言うような調子で言った、「ああお前たちもここに来たのかえ!」
 それから一人ずつ膝(ひざ)に引き寄せて、髪の毛をなでつけてやり、リボンを結び直してやり、そして母親特有の優しい仕方で手を離して言った。「ほんとにふしだらな人たちだね。」
 二人は暖炉のすみに行ってすわった。人形を一つ持っていて、それを膝の上にひねくり回しながら、うれしそうにささやき合っていた。時々コゼットは編み物から目を上げて、二人が遊んでるのを悲しそうな様子でながめた。
 エポニーヌとアゼルマとはコゼットの方へは目もくれなかった。コゼットは二人にとっては犬も同様だった。それから三人の小娘は、皆の年齢を合わしても二十四にしかならなかったが、既に大人の社会のありさまをすべて現わしていた。一方に羨望(せんぼう)と、他方に軽蔑と。
 テナルディエの娘の人形は、もうよほど色あせ古ぼけて方々こわれてはいたが、それでもなおコゼットにはりっぱなもののように思われた。彼女は人形というものを、すべての子供によくわかる言い方をすれば本当の人形というものを、生まれてまだ一度も持ったことがなかったのである。
 室(へや)の中を行ったり来たりしていたテナルディエの上さんは、コゼットがぼんやりして仕事もしないで、二人の娘の遊ぶのを見入っているのを、ふと見て取った。
「ああこれ!」と彼女は叫んだ。「それで仕事をしてるのか。覚えておいで、鞭(むち)で打ってでも働かしてやるから。」
 見なれぬ旅客は、椅子(いす)にすわったまま上さんの方へふり向いた。
「お上さん、」と彼はおずおずしたようなふうで、ほほえみながら言った、「まあ遊ばしておやりなさい。」
 もしそういうことが、夕食の時に一片の焼き肉を食い二本のぶどう酒を傾け、ひどい貧乏人の様子をしていない旅客から言われたのであったら、一つの命令と同様な力になったかも知れない。けれども、そんな帽子をかぶった男が希望を申し出たり、そんなフロックを着た男が意志を表白したりすることは、テナルディエの上さんには許すべからざることのように思えたのだった。彼女は慳貪(けんどん)に言葉を返した。
「仕事をさせないわけにはいきません。物を食べますからね。何もさせないで食わしておくことはできませんよ。」
「いったい何をこしらえさしてるのですか。」と男はやさしい声で言った。その調子は、彼の乞食(こじき)のような服装と人夫のような肩幅とに妙な対照をなしていた。
 上さんは答えてやった。
「靴下ですよ。私の娘どもの靴下です。もうたいてい無くなってしまって、間もなく跣足(はだし)にならなくてはならないところですからね。」
 男はコゼットのまっかになってるかわいそうな足をながめた、そして言った。
「どれくらいかかったらあの娘はその靴下を仕上げますか。」
「まだ三四日はたっぷりかかるでしょうよ、なまけものだから。」
「そしてその一足の靴下ができ上がったらいくらくらいになるんです。」
 上さんは軽蔑の目でじろりと男を見た。
「安くみても三十スーくらいですね。」
「ではそれを五フランで売ってくれませんか。」と男は言った。
「なんだ!」とそれをきいていた一人の馬方が太い笑いを立てながら叫んだ、「五フランだと。べらぼうな、鉄砲玉五つだと!」
 亭主のテナルディエももう口を出すべき時だと思った。
「よろしゅうござんす。そういうことがしてみたいんなら、その靴下一足を、五フランで差し上げましょう。お客のおっしゃることはことわるわけにいきませんからな。」
「すぐに金を払って頂きましょう。」と上さんはいつもの簡単確実なやり方で言った。
「ではその靴下を買いますよ。」と男は答えた。そしてポケットから五フランの貨幣を取り出してテーブルの上に置きながら、つけ加えて言った。「代を払いますよ。」
 それから彼はコゼットの方へ向いた。
「もうお前さんの仕事は私のものだ。勝手にお遊びよ。」
 馬方は五フランの貨幣に驚いて、杯をすててやって行った。
「いやほんとだ!」と彼はその貨幣をしらべながら叫んだ。「本物の大きいやつだ、贋造(にせ)じゃないや。」
 テナルディエはそこに近づいていって、黙ってその金をポケットに納めた。
 上さんは一言もなかった。彼女は脣(くちびる)をかんで、顔には憎悪(ぞうお)の表情を浮べた。
 でもコゼットは震えていた。そして思いきって尋ねてみた。
「お上さん、本当ですか。遊んでもいいんですか。」
「お遊び!」と上さんは恐ろしい声で言った。
「ありがとうございます、お上さん。」とコゼットは言った。
 そして口ではテナルディエの上さんに礼を言いながら、彼女の小さな心は旅客に礼を言っていた。
 テナルディエはまた酒をのみ初めた。女房は彼の耳にささやいた。
「あの黄色い着物の男はいったい何者でしょう。」
「わしは大金持ちがあんなフロックを着てるのを見たことがある。」とテナルディエはおごそかに答えた。
 コゼットは編み物をそこにほうり出した。けれどもその場所からは出てこなかった。コゼットはいつもできるだけ身を動かさないようにしていた。彼女は自分の後ろの箱から、古いぼろと小さな鉛の剣とを取り出した。
 エポニーヌとアゼルマとは、あたりに起こったことに少しの注意も払っていなかった。二人はちょうどきわめて大事なことを初めたところだった。猫(ねこ)をとらえたのである。人形は下にほうり出してしまっていた。そして年上の方のエポニーヌは、猫が泣きもがくのもかまわずに、赤や青の布(きれ)やぼろでそれに着物をきせようとしていた。その大変なむずかしい仕事をやりながら、妹に子供特有のやさしいみごとな言葉で話しかけていた。そういう言葉の優しさは胡蝶(こちょう)の真の輝きにも似たもので、つかもうとすれば遠くに逃げ去るものである。
「ねえ、この人形の方があれよりよっぽどおもしろいわよ。動いたり、泣いたりして、あたたかいのよ。ねえ、これで遊びましょう。これは私の小さな娘よ。私は奥様よ。私があなたの所へ行くと、あなたがこの娘を見るの。そのうちあなたは髯(ひげ)を見つけてびっくりするのよ。それからあなたは、耳を見つけ出し、こんどはまた尾(しっぽ)を見つけ出して、びっくりするのよ。そしてあなたは私に言うの、あらまあ! って。すると私が言うの、ええ奥さん、これが私の小さな娘ですよ、今時の小さな娘はみんなこうですよ。」
 アゼルマは感心してエポニーヌの言葉を聞いていた。
 一方では酒を飲んでいた連中が、卑猥(ひわい)な歌を歌い出して、家が揺れるほど笑い興じていた。テナルディエは彼らをおだて、彼らに調子を合わしていた。
 小鳥が何ででも巣をこしらえてしまうように、子供はどんなものをも人形にしてしまうものである。エポニーヌとアゼルマとが猫に着物をきせてる間に、コゼットの方では剣に着物を着せていた。それをしてしまうと彼女はそれを腕に抱えて、寝つかせるために静かに歌を歌った。
 人形は女の児が一番欲しがるものの一つで、また同時にその最もかわいい本能を示すものの一つである。世話をやき、下衣を着せ、飾り立て、着物を着せ、また着物をぬがしたり着せたりし、言いきかせたり、少しは小言(こごと)を言ったり、揺(ゆす)り、かわいがり、寝せつけ、そしてそれを生きてるもののように考える、それらのことのうちに女の未来が含まれている。夢想したりしゃべったりしながら、小さな衣装や産着(うぶぎ)を作りながら、小さな長衣や胴着や下着をこしらえながら、子供は若い娘になり、若い娘は大きな娘となり、大きな娘は人妻となるのである。そして最初に産む子供は、最後の人形となるのである。
 人形を持たない小娘は、子供のない婦人と同じく不幸で、また同じく不自然なものである。
 だから、コゼットは剣を人形となしていた。
 テナルディエの上さんは、黄色い着物の男に近寄ってみた。「家(うち)の人の言うとおりだ、」と彼女は考えた、「これはラフィットさんかも知れない。金持ちのうちにはおかしい人もあるものだから。」
 彼女はその男のテーブルの所へ行って肱(ひじ)をかけた。
「旦那(だんな)……」と彼女は言った。
 その旦那という言葉に、男はふり向いた。上さんはそれまで彼を、お前さんとかお爺さんとか呼んでいたのだった。
「あの、旦那、」と彼女はやさしそうな様子をして言った。その様子は彼女の邪慳(じゃけん)な様子よりもなおいっそう嫌味(いやみ)なものであった。「私はあの児を遊ばしてやりたいのですよ。決してそれを不承知ではありません。一度くらいはよろしいんですとも、旦那が御親切に言って下さいますから。でもあの児は何にも持たないのです。仕事をさせないわけには参りませんのです。」
「それではあなたの児ではないのですか、あの娘は。」と男は尋ねた。
「いいえどうしまして旦那。あのようにして慈善のために引き取ってやってる貧乏な児です。ばかな児なんですよ。頭の中には水でもはいっているんでしょう。御覧のとおり大きな頭をしています。私どももできるだけのことはしてやってるのですが、何分にも私どもは貧乏ですからね。いくら国もとの方へ手紙を出しましても、もう六月(むつき)というもの返事もありません。きっと母親も死んだに違いありません。」
「ああ!」と男は言って、何か考えに沈み込んでしまった。
「その母親というのも大した者ではありません。」と上さんはつけ加えた。「子供を捨てていったくらいなんですから。」
 そういう会話の間、コゼットは自分のことを話されてるのだとある本能から感じたらしく、テナルディエの上さんから目を離さなかった。彼女はぼんやりきいていた、そして時々二、三言聞き取っていた。
 そのうちに酒を飲んでいた連中はたいてい酔っ払って、以前にも増した陽気さで下等な歌をくり返し歌っていた。聖母や小児イエスなどが出て来る道化た卑猥(ひわい)な歌だった。テナルディエの上さんまでが、その仲間に加わって笑い騒いだ。コゼットは例のテーブルの下で火を見つめていた。その目には火が赤くうつっていた。彼女はそれから自分がこしらえた赤ん坊をまた揺(ゆす)り初めた。そうしながら低い声で歌っていた。「お母さん死んだ、お母さん死んだ、お母さん死んだ!」
 黄色い着物の「大金持ち」は、上さんがまたうるさく勧めるので、ついに食事を取ることにした。
「何を差し上げましょう。」
「パンとチーズ。」と男は言った。
「なんだ、これはてっきり乞食(こじき)に違いない。」と上さんはまた考えた。
 酔っ払いの連中はなお歌を続けており、テーブルの下の娘もまた自分の歌を歌っていた。
 とにわかにコゼットは歌をやめた。テナルディエの娘たちの人形が、猫のためにほうり出されて、料理場のテーブルから数歩の所にころがってるのを、彼女はふり返って認めたのだった。
 すると彼女は、自分の心を十分満たさなかったその着物をきせた剣をすてて、静かに室(へや)の中を見回した。テナルディエの上さんは亭主に何か小声で話しながら金を数えていた。エポニーヌとアゼルマとは猫を玩具(おもちゃ)にしていた。旅客らは食ったり飲んだり歌ったりしていた。だれもこちらを見てる者はなかった。彼女はその機をのがさなかった。膝と手とでテーブルの下からはい出して、だれも見ていないことをも一度確かめて、それから急に人形の所まではっていってそれをつかんだ。そしてすぐに自分の場所に戻り、そこにすわって身動きもしないで、ただ腕に抱いた人形を自分の影に隠そうとするように身をかがめた。本当の人形を持って遊ぶという幸福はめったに知らないことだったので、彼女は今快楽ともいえるほど非常な喜びを感じたのだった。
 だれも彼女を見てる者はなかった、ただ粗末な食物をゆるゆると食べてるあの旅客のほかは。
 コゼットの喜びはおよそ十五分間ばかり続いた。
 けれども、非常に注意はしていたものの、コゼットは人形の片足が出ていることに気づかなかった、そして暖炉の火がその足をはっきり照らし出してることに。影の所から出てるその薔薇色(ばらいろ)の輝いた足が、突然アゼルマの目についた。彼女はエポニーヌに言った。「あら! 姉さん!」
 二人の娘は遊びをやめて呆然(ぼうぜん)とした。コゼットが大胆にも人形を取っている!
 エポニーヌは立ち上がって、猫を持ったまま母親の所へ行って、その裾を引っ張った。
「うるさいね!」と母親は言った。「どうしようというんだよ。」
「お母さん、まあごらんよ!」と子供は言った。
 そして彼女はコゼットをさし示した。
 コゼットの方は人形を持ってることに有頂天(うちょうてん)になって、もう何にも見も聞きもしなかった。
 テナルディエの上さんの顔には特殊な表情が浮かんだ。それはこの世の恐ろしさと下らなさとがいっしょになった表情で、いわゆる毒婦と称する型の表情だった。
 こんどは、自尊心が傷けられたので彼女の憤怒はいっそう激しくなった。コゼットはあらゆる制限を越えていたのである。「お嬢さんたち」の人形に手をつけていたのである。
 一人の百姓が皇子の大青綬章(だいせいじゅしょう)に手をつけた所を見るロシア女帝の顔も、おそらくそれと等しいありさまを呈するかも知れなかった。
 彼女は憤怒にかれた声をしぼって叫んだ。
「コゼット!」
 コゼットは大地が足の下で震動したかのように震え上がった。そしてふり返った。
「コゼット!」と上さんはくり返した。
 コゼットは人形を取り、恭敬と絶望との様子でそれを静かに下に置いた。それからなお人形から目を離さないで、両手を組み合わした。そしてそれくらいの年頃の子供には言うも恐ろしいことではあるが、その両手をねじり合わした。それから、その日の種々な恐ろしいこと、森の中に行ったことや、水の一杯な桶(おけ)の重かったことや、金をなくしたことや、鞭(むち)をつきつけられたことや、テナルディエの上さんの口から聞いた恐ろしい言葉など、そんなことに会ってもまだ出てこなかったものが今彼女から出てきた、すなわち涙が。彼女はすすり泣きを初めた。
 その間にあの旅客は立ち上がっていた。
「どうしたのです。」と彼は上さんに言った。
「わかりませんか。」と上さんは言って、コゼットの足下に横たわってる罪証物件を指で差し示した。
「で、あれがどうしたのです。」と男は言った。
「あの乞食娘(こじきむすめ)が、家の子供の人形に手をつけたんです。」と上さんは答えた。
「それでこんな騒ぎですか!」と男は言った。「あの児が人形で遊んだのがどうしたというんです。」
「あのきたない手で触(さわ)ったんです、」と上さんは言い続けた、「あの身震いが出るほどきたない手で。」
 するとコゼットは更に激しくすすり泣いた。
「静かにしないか!」と上さんは叫んだ。
 男はまっすぐに表の戸口の方へゆき、それを開いて出て行った。
 彼が出て行くと、上さんはその間に乗じて、テーブルの下のコゼットをひどくけりつけた。そのため娘は大声を上げた。
 戸はまた開かれた。素敵な人形を両手にかかえて男はそこに現われた。その人形のことは前に言っておいたとおりで、村の子供たちが朝からながめ入っていたものである。男は人形をコゼットの前にすえて言った。
「さあ、これがお前さんのだ。」
 彼はここにきて一時間以上にもなるが、その間何やら考えこみながらも、あの玩具屋(おもちゃや)の店がランプや蝋燭(ろうそく)の光でまぶしいほどに照らされて、その宿屋のガラス戸越しにイリュミネーションのように見えているのを、ぼんやり見て取っていたものと思われる。
 コゼットは目を上げた。男が人形を持って自分の方へやって来るのを、太陽が近づいて来るのを見るようにしてながめた。これがお前さんのだという異常な言葉を彼女は聞いた。彼女はその男をながめ、人形をながめ、それからそろそろと後退(あとしざ)りをして、テーブルの下の壁のすみに深く隠れてしまった。
 彼女はもう泣きもしなければ、声も立てなかった。じっと息までもつめてるような様子だった。
 テナルディエの上さんと、エポニーヌとアゼルマとは、みなそこに立ちすくんでしまった。酒を飲んでた連中までもその手を休めた。室(へや)の中は厳粛な沈黙に満たされた。
 上さんは石のようになって黙ったまま、また推測をはじめた。「この爺(じい)さんはいったい何者だろう。貧乏人かしら、大金持ちかしら。きっとその両方かも知れない、と言えばまあ泥坊だが。」
 亭主のテナルディエの顔には、意味ありげなしわが寄った。強い本能がその全獣力をもって現われる時に人間の顔の上に寄ってくるしわである。亭主は人形と旅客とをかわるがわる見比べた。彼はあたかも金袋でもかぎ出したかのようにその男をかぎ分けてるようだった。もっともそれはほんの一瞬の間であった。彼は女房の方へ近づいて、低くささやいた。
「あの品は少なくとも三十フランはする。ばかなまねをしちゃいけねえ。あの男の前に膝を下げろよ。」
 下等な性質と無邪気な性質とはただ一つの共通点を持っている。すなわち、直ちに掌(たなごころ)を返すがごとき点を。
「さあコゼットや。」とテナルディエの上さんはやさしくしたつもりの声で言った。けれどもそれは意地悪女の酸(す)っぱい蜜(みつ)から成ってる声だった。「人形をいただかないのかい。」
 コゼットは思いきって穴から出てきた。
「コゼット、」とテナルディエも甘やかすような声で言った、「旦那(だんな)が人形を下さるんだ。いただけよ。その人形はお前んだ。」
 コゼットは一種の驚駭(きょうがい)の情をもって、そのみごとな人形をながめた。その顔はなお涙にまみれていたが、その目は曙(あけぼの)の空のように、喜悦の言い難い輝きに満ちてきた。その時彼女は、「娘よお前はフランスの皇后さまだ、」と突然言われでもしたような感情を覚えていた。
 もしその人形にさわりでもしたら、そこから雷(かみなり)でも飛び出しはすまいか、というような気持が彼女はした。
 それはある点まで実際のことだった。なぜなら、もしそうしたらテナルディエの上さんが自分をしかりつけはすまいか、また自分を打ちはすまいか、と彼女は考えたのである。
 けれども人形に引きつけられる力の方が強かった。彼女はついにその方へ寄って行った。そして上さんの方へふり向いて、こわごわつぶやいた。
「よろしいんでしょうか、お上さん。」
 その時の彼女の同時に絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる文字をもってしても書き現わすことはできないものだった。
「いいとも!」と上さんは言った。「お前んだよ。旦那がお前に下さるんだから。」
「本当なの、小父(おじ)さん。」とコゼットは言った。「本当なの、私んですか、この奥様は。」
 男の目には涙があふれてるらしかった。彼は感情の高潮に達していて、涙を流さないために口もきけないような状態にあるかと思われた。彼はただコゼットにうなずいてみせて、その「奥様」の手をコゼットの小さな手に握らしてやった。
 コゼットは急に手を引っ込めた、あたかも奥様の手が彼女の手を焼いたかのように。そして床(ゆか)の上を見つめた。なおその時彼女がひどく舌をつき出したことをも、われわれはつけ加えざるを得ない。それから彼女は突然向き直って、ひしと人形をつかんだ。
「私はこれにカトリーヌという名をつけよう。」と彼女は言った。
 コゼットのぼろの着物が、人形のリボンと薔薇色(ばらいろ)のぱっとしたモスリンとに並んで押しつけられてるのはすこぶる異様な様であった。
「お上さん、」と彼女はまた言った、「これを椅子(いす)の上に置いてもようございますか。」
「ああいいよ。」と上さんは答えた。
 こんどはエポニーヌとアゼルマとがコゼットをうらやましそうに見ていた。
 コゼットはカトリーヌを椅子の上に置いた。それから自分はその前の地面(じべた)にすわって、じっと見入っている様子で黙ったまま身動きもしなかった。
「さあお遊び、コゼット。」と男は言った。
「ええ遊んでるのよ。」と娘は答えた。
 天からコゼットの所へつかわされた者のような、その見ず知らずの不思議な男を、テナルディエの上さんはそのとき世に最も憎むべき者のように思った。けれども自分をおさえなければならなかった。彼女は何事にも夫をまねようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもその時の感情にはほとんどたえ難いものがあった。彼女は急いで自分の娘たちを寝床に追いやった。それからコゼットをも寝かそうとその黄色い着物の男に許可を願った。今日は大変疲れていますからなどと母親らしい様子でつけ加えた。でコゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝に行った。
 上さんは時々、室(へや)の向こうの端の亭主の所へ行った。心を安めるためにと自ら言っていた。彼女は亭主とちょっと言葉をかわした。それは大声に言えないだけいっそういら立ったものだった。
「あの糞爺(くそじじい)め! どういう腹なんだろう。ここにやってきて私どもの邪魔をするなんて! あの小さな餓鬼を遊ばしたがったり、人形をやったり、それも、四十スーの値打ちもない犬女郎(いぬめろう)に四十フランもする人形をやったりしてさ! も少ししたら、ベリーの御妃(おきさき)にでも言うように、陛下なんて言い出すかも知れない。正気の沙汰(さた)か、気が狂ったのか、あの変な老耄(おいぼれ)めが。」
「なぜかって、わかってるじゃないか。」とテナルディエは答え返した。「なあに、それが奴(やつ)にはおもしろいんだ! お前にはあの児が働くのがおもしろいように、奴にはあの児が遊ぶのがおもしろいのさ。それはあの男の権利だ。客となりゃあ、金さえ出せば何でも勝手にできるんだからな。あの爺(じい)さんが慈善家だったとしても、それがお前にどうしたというわけはないじゃねえか。もしばか者だったとしたところで、お前に関係したことじゃねえ。何もお前が口を出すことはねえや。向こうには金があるんだからな。」
 亭主としての言葉、宿屋の主人としての理論、それはいずれも抗弁を許さないところのものであった。
 男はテーブルの上に肱(ひじ)をついて、また何か考え込んだような様子をしていた。商人や馬方などすべての他の旅客らは、少し遠くに身をさけて、もう歌も歌わなかった。彼らは一種の畏敬(いけい)の念をもって男を遠くからながめていた。あんな見すぼらしい着物をつけながら、平気で大きい貨幣をポケットから引き出し、木靴(きぐつ)をはいた小婢(こおんな)に大きな人形を奢(おご)ってやるその男は、確かに素敵なまた恐ろしい爺(じい)さんに違いなかった。
 かくて数時間すぎ去った。夜半の弥撒(ミサ)もとなえられ、夜食も終わり、酒飲みの連中も立ち去ってしまい、酒場の戸も閉ざされ、その天井の低い広間にも人がいなくなり、火も消えてしまったが、不思議な男はなお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。時々彼は身をもたしてる肱(ひじ)を右左と変えていた。ただそれだけであった。コゼットが去ってからはもう一言も口をきかなかった。
 テナルディエ夫婦だけが、作法と好奇心とからその広間に残っていた。「夜通しあんなふうにしているつもりかしら、」と女房はつぶやいた。午前の二時が鳴った時、彼女はついに閉口して亭主に言った。「私はもう寝ますよ。好きなようになさるがいいわ。」亭主は片すみのテーブルにすわって、蝋燭(ろうそく)をつけ、クーリエ・フランセー紙を読み初めた。
 そういうふうにして一時間余りたった。あっぱれな亭主は少なくとも三度くらいはくり返してクーリエ・フランセー紙をその日付けから印刷者の名前まで読み返したが、男は身を動かそうともしなかった。
 テナルディエは身体を動かし、咳(せき)をし、唾(つば)を吐き、鼻をかみ、椅子(いす)をがたがたいわしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかしら、」とテナルディエは考えた。が男は眠ってるのではなかった。しかし何物も彼の心を呼びさますことはできなかった。
 ついにテナルディエは帽子をぬぎ、静かに近寄ってゆき、思い切って彼に言ってみた。
「旦那(だんな)、お休みになりませんか。」
 寝ませんかという言葉でも彼にはじゅうぶんな親しいものに思われたかも知れなかった。休むという言葉にはぜいたくの気味があって、敬意が含まれてるのだった。それらの言葉は翌朝の勘定書の数字を大きくする不思議な驚くべき性質を持っているのである。寝る室(へや)が二十スーなら、休む室は二十フランするのである。
「やあ、なるほど。」と男は言った。「廐(うまや)はどこにありますか。」
「旦那、」とテナルディエは微笑を浮かべて言った、「御案内いたしましょう。」
 亭主は蝋燭(ろうそく)をとり、男は包みと杖とを取った。そして亭主は彼を二階の室に導いた。特別にりっぱな室で、マホガニー製の家具が備えてあり、船型寝台と赤いキャラコの帷(とばり)とがついていた。
「これはいったい何ですか。」と旅客は言った。
「私どもの結婚の時の室でございます。」と主人は言った。「今では私ども二人は他の室に寝るようにしています。一年に三四度しかだれもはいらないのです。」
「私には廐でも同じだったのに。」と男は無造作に言った。
 テナルディエはそのあまり愛想のない言葉を耳にしなかったようなふうをした。
 彼は暖炉の上に出てる新しい二本の蝋燭に火をともした。炉の中にはかなりよく火が燃えていた。
 暖炉棚の上にはガラス器の中に、銀糸とオレンジの花とのついた女の帽子が一つあった。
「そしてこれは、何ですか。」と男は言った。
「旦那(だんな)、それは家内が結婚の時の帽子でございます。」とテナルディエは答えた。
 旅客はそれをながめたが、「ではあの怪物にも処女の時代があったのかな、」とでもいうような目つきだった。
 だがテナルディエは嘘(うそ)を言ったのである。その家を借りて飲食店にしようとした時から、室(へや)は今のとおりであった。彼はそれらの家具やオレンジの花の中古の帽子などを買い取った。それによって「自分の配偶者」には優雅な光がそうことになり、そうしておけばこの家もイギリス人のいわゆるりっぱな体面をそなえることになると、彼は考えたのであった。
 旅客がふり返った時には、亭主はもうそこにいなかった。テナルディエは翌朝うまく金をしぼり取ってやるつもりのその男には不遠慮な親しい待遇をしないがいいと思って、あいさつもせずにひそかに逃げ出してしまったのである。
 亭主は自分の室に退いた。女房は床(とこ)についていたが、眠ってはいなかった。亭主の足音が聞こえた時彼女はふり向いて言った。
「私明日(あした)になったらコゼットをたたき出してしまいますよ。」
 テナルディエは冷ややかに答えた。
「そうか。」
 彼らはその他の言葉をかわさなかった。やがて蝋燭(ろうそく)は消された。
 旅客の方では、室の片すみに杖と包みとを置いた。亭主が出て行くと、肱掛椅子(ひじかけいす)にすわってしばらく考え込んだ。それから靴をぬぎ、蝋燭の一本を手に取り一本を吹き消し、扉(とびら)を押し開き、何かをさがすようなふうであたりに目を配りながら室を出て行った。廊下を通って階段の所へ達した。そこで、子供の息のようなきわめて静かな小さな音を耳にした。その音に引かれて彼は、階段の下に作られてる――というよりもむしろ階段でできてる一種の三角形の押し入れみたいな所へやってきた。それは階段の下のすき間にすぎなかった。そこに、古かごや古びんなどの間に、ほこりや蜘蛛(くも)の巣などの中に、一つの寝床があった。もっとも寝床と言っても、穴があいて中の藁(わら)が見えている蒲団(ふとん)と、下まで見通せるほど穴だらけの掛け物とにすぎなかった。敷き布もなかった。そして、それだけのものが床石(ゆかいし)の上にじかに置かれていた。その寝床の中に、コゼットが眠っていた。
 男はそこに近づいて、彼女をながめた。
 コゼットは深く眠っていた。着物もきたままだった。冬には、なるべく寒くないように着物もぬがないで眠るのであった。
 彼女はしっかと人形を抱きしめていた。人形の大きく開かれた目はやみの中に光っていた。時々彼女は目をさましかかってるように大きなため息をもらしては、ほとんど痙攣的(けいれんてき)に人形を腕に抱きしめた。寝床のそばにはただ片方の木靴(きぐつ)があった。
 コゼットの寝てる物置きのそばに一つの扉(とびら)が開いたままになっていて、そこからかなり広い薄暗い室(へや)が見えていた。男はそこにはいって行った。奥の方に、一つのガラス戸を通して、一対の小さなまっ白な寝床が見えていた。アゼルマとエポニーヌとの寝床であった。その向こうに柳の枝でできた帷(とばり)なしの揺籃(ゆりかご)が半ば見えていた。中には、その晩、始終泣き通しにしていた小さい男の児が眠っていた。
 男はその室がテナルディエ夫婦の寝てる室に続いていることを察した。そして引き返そうとした時、彼の目はそこの暖炉の上に落ちた。それはよく宿屋に見受けられる大きなやつで、火がある時でもきまってごくわずかであって、見ても寒そうに思われるものだった。今その暖炉には、火もなければ灰さえもなかった。けれども男の注意を引くものがそこにあった。それはかわいらしいかっこうの大小二つの子供靴だった。クリスマスの晩暖炉の中に履物(はきもの)を置いておいて、親切なお爺(じい)さんがりっぱな贈物を持ってきてくれるのを暗やみのうちに待つという、あのおもしろい古くからの子供の習慣を、彼はその時思い出した。エポニーヌとアゼルマとはそのことを忘れないで、めいめい自分の靴を片方ずつ暖炉の中に置いていたのである。
 男は身をかがめてのぞいてみた。
 親切なお爺さんは、すなわち母親は、既にやってきたと見えて、両方の靴の中にはそれぞれ、新しいりっぱな十スー銀貨が光っていた。
 男は立ち上がって去ろうとした。その時彼は、炉の奥の方の暗いすみっこの影に、も一つ何かがあるのを認めた。よく見るとそれは木靴だった。ぶかっこうな醜い木靴で、半ばこわれかかっていて、かわいた泥と灰とにまみれていた。コゼットの木靴だった。コゼットはいくらだまされても決して気を落とさない子供心のいじらしい信頼で、暖炉の中に自分も木靴を置いたのであった。
 絶望のほかは何事も知らなかった子供のうちにもなお残っているその希望こそ、崇高なまた優しいものではないか。
 その木靴の中には何にもはいっていなかった。
 男は胴着の中をさぐり、身をかがめ、コゼットの木靴の中にルイ金貨を一つ入れた。
 それから彼は抜き足して自分の室(へや)へ戻った。

     九 テナルディエの策略

 翌朝少なくとも夜明けより二時間ぐらい前に、テナルディエは酒場の天井の低い広間で蝋燭(ろうそく)の傍(わき)にすわって、手にペンを執り、黄色いフロックの旅客への請求書をしたためていた。
 女房はそばに立ちながら半ば彼の上に身をかがめて、ペンの跡をたどっていた。彼らは一言も言葉をかわさなかった。一方は、深く考え込んでおり、一方は、人の頭から驚くべきものが出現してくるのを見るおりのあの敬虔(けいけん)な嘆賞の念に満たされていた。家の中にはただ一つの物音がしていた。それは雲雀娘(ひばりむすめ)が階段を掃除する音だった。
 およそ十五分もたってから、いくらかの添削をした後、テナルディエは次の傑作をこしらえ上げた。

  一号室様への請求書
一、夕食       三フラン
一、室代       十フラン
一、蝋燭代      五フラン
一、炭代       四フラン
一、雑用       一フラン
 合計     二十三フラン

 右の書き付けのうち雑用というのはまちがって難用と書いてあった。
「二十三フラン!」と女房は多少躊躇(ちゅうちょ)の色を浮かべながら感心して叫んだ。
 あらゆる大芸術家のように、テナルディエはそれでもなお満足してはいなかった。
「なあに!」と彼は言った。
 それはあたかも、ウイン会議においてフランスの賠償金額を定めてるカスルリーグのような調子だった。
「なるほどそうね。それぐらいは相当さ。」と女房は自分の娘たちの面前で男がコゼットに人形を与えたことを考えながらつぶやいた。「それで当たりまえよ。けれどあまり多すぎるようね。払うまいとしやしないかしら。」
 テナルディエは冷ややかに笑った。そして言った。
「いや払うよ。」
 その笑いは、信頼と権威とを明示するものだった。そんなふうにして言われることはきっとそのとおりになるに違いなかった。で女房も言い張らなかった。彼女はテーブルを並べはじめ、亭主は室(へや)の中をあちこち歩き回った。ややあって彼はまたつけ加えて言った。
「こっちは千五百フランの借りがあるんだからな。」
 彼は暖炉のすみに行って腰をかけ、両足をあたたかい灰の上に差し出して考え込んだ。
「ねえ、」と女房は言った、「今日はどうあってもコゼットをたたき出しますよ、よござんすか。あの畜生め! 人形を持ってる所を見ると、私はむかむかしてくる。彼奴(あいつ)をこれから一日でも家に置いとくくらいなら、ルイ十八世のお妃(きさき)にでもなった方がまだましだ。」
 テナルディエはパイプに火をつけ、煙を吹きながらそれに答えた。
「お前から勘定書をあの男に渡してくれ。」
 そして彼は室(へや)から出て行った。
 彼が出てゆくや否や、旅客がはいってきた。
 テナルディエはすぐに客の後ろにまた現われて、女房にだけ見えるようにして半分開いた扉(とびら)の所にじっと立ち止まった。
 黄色い着物の旅客は、杖と包みとを手に持っていた。
「まあこんなにお早く!」と上さんは言った。「もうお発(た)ちですか。」

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