レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 帝国は、あたかも死滅しゆくローマ帝国のそれのごとき暗黒のうちに倒れた。暗黒時代におけるがごとく、人は再び深淵を見た。ただ一八一五年の暗黒時代は、これをその通称によって反革命と呼ぶべきであるが、息が短く直ちに息を切らして、間もなくやんでしまった。滅びた帝国は、うち明けて言えば、人々から泣かれた、しかも勇壮なる人々の目によって泣かれた。もし光栄にして剣の笏(しゃく)のうちに存するならば、帝国は光栄そのものであった。それは暴政の与え得るすべての光耀(こうよう)を地上にひろげた、陰惨なる光耀を、いな、なお言わん、暗黒なる光耀を。真の白日に比較すれば、それは夜である。しかもその夜の消滅は、日食のごとき印象を与えた。
 ルイ十八世は再びパリーにはいった。七月八日の円舞踏は三月二十日の熱狂を消した。コルシカ人という言葉はベアルン人という言葉の対照となった。チュイルリー宮殿の丸屋根の旗は白旗となった。亡命者が王位にのぼった。ハルトウェルの樅(もみ)のテーブルは、ルイ十四世式の百合(ゆり)花模様の肱掛椅子(ひじかけいす)の前に据えられた。人々はブーヴィーヌやフォントノアなど(訳者注 昔フランス王によって得られた戦勝の地)のことを昨日の事のように語り、アウステルリッツは既に老い朽ちてしまった。教会と王位とは、おごそかに親愛の情を結んだ。十九世紀の社会安寧の最も動かし難き一形式が、フランスおよび大陸の上に建てられた。ヨーロッパは白い帽章をつけた。トレスタイヨン(訳者注 過激王党の首領の一人)は世に高名となった。オルセー河岸の兵営の正面に太陽を象(かたど)った石の光線のうちには、多頭制に劣らずの箴言(しんげん)が再び現われた。皇帝親衛兵のいた所には今は赤服の近衛兵がいた。カルーゼルの凱旋門(がいせんもん)は、卑劣に得られた戦勝の名前におおわれ、それらの新流行に困らされ、おそらくマレンゴーやアルコラの戦勝の名前に多少恥じてか、アングーレーム公の像によってわずかに難局をきりぬけた。一七九三年の恐るべき共同墓地となったマドレーヌの墓場は、ルイ十六世およびマリー・アントアネットの遺骨がその塵(ちり)にまみれていたので、いまや大理石や碧玉(へきぎょく)を着せられた。ヴァンセンヌの溝(みぞ)の中には一基の墓碑が地上に現われて、ナポレオンが帝冠をいただいた同じ月にアンガン公が銃殺されたのであることを、今更に思い起こさしめた。その死のまぢかで戴冠式(たいかんしき)をあげさした法王ピウス七世は、その即位を祝福したときのごとく平静にその転覆を祝福した。シェンブルンには、ローマ王と呼ぶのもはばかられるわずか四歳の小さな人影があった。そして、すべてそれらのことは成し遂げられ、それらの王は再び王位につき、全ヨーロッパの首長は籠の中に入れられ、旧制度は新制度となり、地上のあらゆる影と光とは、その地位を変えたのである。それはただある夏の日の午後、一人の牧人が森の中で一人のプロシア人に向かって、「こちらからおいでなさい、あちらからはだめです!」と言ったからである(訳者注 ワーテルローにおけるブューローの案内者のこと参照)。
 この一八一五年は、一種の悩ましい四月の月であった。不健康にして有毒な古い現実は、新しい装いをこらした。欺瞞(ぎまん)は一七八九年をめとり、神法は一つの憲法の下に隠れ、擬制は立憲となり、特権や妄信(もうしん)や底意は、胸に抱きしめられたる第十四条(訳者注 憲法第十四条――王は国家の最上首長にして、陸海軍を統率し、宣戦を布告し、平和、同盟、通商上の条約を締結し、官吏を任免し、法律の適用と国家の安寧とのために、必要なる規定および命令を発す)とともに、自由主義で表面を糊塗(こと)した。それは蛇(へび)の脱皮であった。
 人間はナポレオンによって同時に大きくされ、また小さくされていた。理想はその燦爛(さんらん)たる物質の世において、空想という妙な名前をもらっていた。未来を嘲弄(ちょうろう)したのは偉人の重大な軽率である。さはれ、砲弾にさらされながらその砲手を深く愛していた民衆らは彼をさがし求めた。どこに彼はいるか? 彼は何をなしているか? マレンゴーおよびワーテルローに臨んだ一人の老廃兵に向かって、ある通行人は言った、ナポレオンは死んだと。するとその兵士は叫んだ、「あの人が死んだと! 君はいったい、あの人をよく知ってるか?」人々の想像は転覆された彼を神に祭り上げていた。ヨーロッパの奥底はワーテルローの後に暗黒になった。ナポレオンの消滅によって、ある巨大な空虚が長く残されたのである。
 諸国王らはその空虚の中に身を据えた。旧ヨーロッパはその機に乗じて復古した。神聖同盟(サント・アリアンス)は作られた。しかしワーテルローの災なる戦場はそれに先立ってベル・アリアンスと叫んだではないか(訳者注 ワーテルローの一地名であるが、またその文字は美しき同盟という意味を有する)。
 この建て直されたる旧ヨーロッパに対峙(たいじ)し対抗して、一つの新しきフランスのひな形は描かれた。皇帝によって嘲弄(ちょうろう)された未来は現出しきたった。それは額(ひたい)に自由という星をつけていた。新しき時代の熱烈な目はその方へ向けられた。ただ不思議なことには、人々はその未来なる「自由」と、その過去なるナポレオンとに、同時に心を奪われた。敗北は敗者を大ならしめていたのである。転覆したボナパルトは、つっ立ってるナポレオンよりもいっそう高いように思われた。勝利を得た者らも恐れをいだいた。イギリスはハドソン・ロウをして彼の番をさせ、フランスはモンシュニュをして彼の様子をうかがわした。胸に組んだ彼の両腕は、諸王位の不安となった。アレキサンドル皇帝は彼を「予が不眠」と名づけた。かかる恐怖は、彼がおのれのうちに有していた広大なる革命よりきたったのである。それこそボナパルト式自由主義を説明するものであり、それを許さしむるところのものである。その幻影は旧世界に戦慄(せんりつ)を与えた。諸国王は、はるか水平線のかなたにセント・ヘレナの巌(いわお)を有して、不安げに国政を統(す)べた。
 ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶を閲(けみ)しつつある間に、ワーテルローの平野に倒れた六万の人々は静かに腐乱してゆき、彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。それをウイン会議は一八一五年の条約となし、それをヨーロッパは復古と名づけた。
 ワーテルローがいかなるものであったかは、おおよそ右のとおりである。
 しかしそれも無窮なるものに対しては何のかかわりがあろう? そのすべての暴風雨、そのすべての雲霧、その戦い、次にその平和、そのすべての影、それも広大なる日の輝きを一瞬たりとも乱すことはできなかった。その目の前においては、草の葉より葉へとはう油虫も、ノートル・ダーム寺院の塔の鐘楼より鐘楼へと飛ぶ鷲(わし)も、なんら選ぶところはないのである。

     十九 戦場の夜

 さて再びあの不運なる戦場に立ち戻ってみよう。実はそれがこの物語に必要なのである。
 一八一五年六月十八日の夜は満月であった。その月の光は、ブリューヘルの獰猛(どうもう)な追撃に便宜を与え、逃走兵のゆくえを照らし出し、その不幸な集団を熱狂せるプロシア騎兵の蹂躙(じゅうりん)にまかせ、虐殺を助長せしめた。大破滅のうちには往々にして、かかる悲愴(ひそう)な夜の助けを伴うものである。
 最後の砲撃がなされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
 イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床に眠ることは戦勝の慣例的なしるしである。彼らはロッソンムの彼方に露営を張った。プロシア軍は壊走者(かいそうしゃ)の後を追って前進を続けた。ウェリントンはワーテルローの村に行って、バサースト卿への報告をしたためた。
 かく汝働けども、そは汝自らのためにはあらずという格言(訳者注 他人の功を横取りする場合に言う)を、もし実際に適用し得るならば、それはまさしくこのワーテルローの村に対してであろう。ワーテルローの村はただ手をこまぬいていて、戦地をへだたる半里の所にあった。モン・サン・ジャンは砲撃され、ウーゴモンは焼かれ、パプロットは焼かれ、プランスノアは焼かれ、ラ・エー・サントは強襲され、ラ・ベル・アリアンスは二人の勝利者の抱擁するのを見た。しかしそれらの名前はほとんど世に知られないで、戦いに少しも働かなかったワーテルローがすべての名誉をになっている。
 われわれは戦争に媚(こ)びる者ではない。機会あらばその真相を告げ知らしてやろうとする者である。戦争に恐るべき美の存することを、われわれは隠さずに述べてきた。しかしまた多少の醜悪も存することを認めなければならない。その最もはなはだしい醜悪の一つは、戦勝ののち直ちに死者のこうむる略奪である。戦いに次いで来る曙は常に、裸体の屍(かばね)の上に明けゆくものである。
 そういうことをなす者はだれであるか。かく戦勝を汚す者はだれであるか。勝利のポケットの中に差し入れらるるそのひそやかな醜い手はいかなるものであるか。光栄の背後にひそんで仕事をなすそれらの掏摸(すり)は何者であるか。ある哲学者らは、なかんずくヴォルテールは、それはまさしく光栄をもたらしたその人々であると断言する。彼らは言う、それはその人々にほかならない、代わりの者はいないのである、立っている者らが、倒れてる者らを略奪するのである。昼間の英雄は、夜には吸血鬼となる。要するに、おのれの殺した死骸が所持するものを多少略奪することは、まさしく正当の権利であると。しかしながら、われわれはそれを信じない。月桂樹(げっけいじゅ)の枝を折り取ることと死人の靴を盗むこととは、同一人の手には不可能事であるようにわれわれは思う。
 ただ一つ確かなことは、普通勝利者の後に盗人が来るということである。しかしながら、兵士は、ことに近代の兵士は、この問題の外に置きたいものである。
 あらゆる軍隊は一つの尾を持っている。その者どもこそ、まさしく責むべきである。蝙蝠(こうもり)のごとき者ども、半ば盗賊であり半ば従僕である者ども、戦争と呼ばるる薄明りが産み出す各種の蝙蝠、少しも戦うことをしない軍服の案山子(かがし)、作病者、恐るべき跛者、時としては女房どもとともに小さな車にのって歩きながら酒を密売しそれをまた盗み歩くもぐり商人、将校らに案内者たらんと申し出る乞食(こじき)、風来者の従卒、かっさらい、それらの者どもを、行進中の軍隊は昔――われわれは現代のことを言ってるのではない――うしろに引き連れていた。専門語ではそれをうまくも「遅留兵」と呼んだものである。その者どもについての責任は、どの軍隊にもどの国民にもなかったのである。彼らはイタリー語を話してドイツ軍に従い、フランス語を話してイギリス軍に従うたぐいの奴らである。フェルヴァック侯爵が、むちゃなピカルディー語のために欺かれてフランス人だと思い込み、チェリゾラの勝利の夜、同じ戦場にて暗殺され略奪されたのも、かかる惨(みじ)めな奴(やつ)らの一人、フランス語を話すスペイン人の一遅留兵のためにであった。略奪から賤夫(せんぷ)が生まれる。敵によって糧を得よという賤(いや)しむべき格言は、この種の癩病(らいびょう)やみを作り出した。それをなおすにはただ厳酷な規律あるのみである。だが往々、およそ名実伴わぬ高名の人がいるものである。某々の将軍は実際えらいには違いないが、何ゆえにかくも人望があったのか、その理由がわからぬこともしばしばある。テューレンヌは略奪を許したので兵卒どもに賞揚された。悪事の黙許は親切の一部である。テューレンヌはパラティナの地を兵火と流血とにまみらしめたほど親切であった。軍隊の後方における略奪者の多寡(たか)はその司令官の苛酷(かこく)に反比例することは、人の見たところである。オーシュおよびマルソー両将軍には少しも遅留兵がなかった。ウェリントンにはそれが少ししかなかった。この点について、われわれは喜んで彼に公平なる賛辞を呈するものである。
 それでもなお六月十八日から十九日へかけての夜、死人は続々略奪をこうむった。ウェリントンは厳格であった。現行を見い出したならば直ちに銃殺すべしとの命令を下した。しかし劫奪(ごうだつ)は執拗(しつよう)であった。戦場の片すみに銃火のひらめいてる間に盗人らは他の片すみにおいて略奪した。
 月の光はその平原の上にものすごく落ちていた。
 真夜中ごろ、オーアンの凹路(おうろ)の方に当たって、一人の男が徘徊(はいかい)していた、というよりも、むしろはい回っていた。その様子から見ると、前にその特質を述べておいたあの遅留兵の一人で、イギリス人でもなく、フランス人でもなく、農夫でもなく、兵士でもなく、人間というよりもむしろ死屍食い鬼であって、死人の臭いに誘われてき、窃盗(せっとう)をも勝利と心得、ワーテルローを荒らしにやってきたものらしかった。外套に似た広上衣をまとい、不安げなまた不敵な様子で、前方に進んだり後を振り向いたりしていた。いったいその男は何者であったか? おそらく昼よりも夜の方が彼については多くを知っていたであろう。彼は嚢(ふくろ)は持っていなかったが、まさしく上衣の下には大きなポケットがあったに違いない。時々彼は立ち止まって、だれかに見られてはしないかを見きわめるかのようにあたりの平原を見回し、突然身をかがめ、地面にある黙々として動かない何かをかき回し、それからまた立ち上がっては姿を隠した。その忍び行くさま、その態度、そのすばしこい不思議な手つきなどは、ノルマンディーの古い伝説にアルーと呼ばれてる廃墟(はいきょ)に住む薄暮の悪鬼を思わせるのだった。
 ある種の夜の水鳥は、沼地の中でそのような姿をしていることがある。
 もしその夜の靄(もや)をじっと透かし見たならば、ニヴェルの大道の上にモン・サン・ジャンからブレーヌ・ラルーへ行く道の角の所に立ってる一軒の破屋(あばらや)のうしろに隠れたようにして、瀝青(チャン)を塗った柳編みの屋根のついてる一種の従軍行商人の小さな車のようなものが止まっていて、轡(くつわ)をつけたまま蕁麻(いらくさ)を食ってる飢えたやせ馬がそれにつけられていて、その車の中には、そこに積んである箱や包みの上にすわっている女らしい人影があるのが、はるかに認め得られたであろう。おそらくその車と平野を徘徊(はいかい)してるあの男との間には、何かの関係があったかも知れない。
 夜は澄み渡っていた。中天には一片の雲もない。地上は血潮で赤く染んでいようとも、関せず焉(えん)として月は白く澄んでいる。空の無関心がそこにある。平野のうちには、霰弾(さんだん)のために折られた樹木の枝がただ皮だけでぶら下がっていて、夜風に静かにゆらめいていた。微風が、ほとんど一つの息吹(いぶ)きが[#「息吹(いぶ)きが」は底本では「息吹(いぶき)きが」]、灌木(かんぼく)の茂みをそよがしていた。鬼の飛び去るのに似よった震えが、草むらの中にはあった。
 イギリスの陣営の巡察や巡邏(じゅんら)の兵士らのゆききする足音が、ぼんやり遠くに聞こえていた。
 ウーゴモンとラ・エー・サントとはなお燃えていた。一つは西に一つは東に二つの大きな火炎を上げ、地平線の丘陵の上に広く半円に広がってるイギリス軍の野営の火が、その間を糸のように連結していて、両端に紅宝玉をつけた紅玉(ルビー)の首環(くびわ)が広げられてるかのようだった。
 われわれは既にオーアンの道の災害を述べておいた。幾多の勇士にとってその死はいかなるものであったろうか。それを思えば心もおびえざるを得ない。
 もし何が恐るべきかと言えば、もし夢にもまさる現実があるとすれば、それはおそらくこういうことであろう。生き、太陽を見、雄々しい力は身にあふれ、健康と喜悦とを有し、勇ましく笑い、前途のまばゆきばかりの光栄に向かって突進し、胸には呼吸する肺を感じ、鼓動する心臓を感じ、推理し語り考え希(ねが)い愛する意志を感じ、母を持ち、妻を持ち、子供を持ち、光明を有し、そして突然に、声を立てる間もなく、またたくひまに、深淵のうちにおちいり、倒れ、ころがり、押しつぶし、押しつぶされ、麦の穂や花や木の葉や枝をながめ、しかも何物にもつかまることができず、今はサーベルも無益だと感じ、下には人間がおり、上には馬がおり、いたずらに身を脱せんとあがき、暗黒のうちに骨は打ち折られ、眼球の飛び出るほど踵(かかと)でけられ、狂うがごとく馬の蹄(ひづめ)にかじりつき、息はつまり、うなり、身をねじり、そこの下積みになっていて、そして自ら言う、「先刻まで私は生きていたのだ!」
 その痛ましい災害の最期の苦悶が聞こえていたその場所も、今はすべてひっそりと静まり返っていた。凹路(おうろ)の断崖は、ぎっしり積み重ねられた馬と騎兵とでいっぱいになっていた。恐ろしいもつれであった。もはやそこには斜面もなかった。死骸はその凹路を平地と水平にし、枡(ます)にきれいにはかられた麦のようにその縁と平らになっていた。上部は死骸(しがい)の堆積(たいせき)、下の方は血潮の川。それが一八一五年六月十八日の夜におけるその道路のありさまであった。血はニヴェルの大道の上まで流れてきて、その大道をふさいでいる鹿柴(ろくさい)の前に大きな池をなしてあふれていた。その場所は今でもなお指摘することができる。しかし胸甲騎兵らを覆没したのは、読者の記憶するところであろうが、反対の方のジュナップの大道の方面においてであった。死骸(しがい)の積み重なった厚さは、凹路(おうろ)の深さに比例していた。凹路が浅くなっていて、ドロールの師団が通った中央の方面では、死骸の層も薄くなっていた。
 前にちょっと描いておいたあの夜の徘徊者(はいかいしゃ)は、その方面へ行っていた。彼はその広大なる墳墓を方々さがし回った。じっとながめ回した。嫌悪(けんお)すべき死人検閲をでもするかのようにして通っていった。彼は足を血に浸して歩いていた。
 突然、彼は立ち止まった。
 彼の前数歩の所に、凹路の中に、死骸の堆積(たいせき)がつきている所に、それらの人と馬との折り重なった下から指を広げた一本の手が出ていて、月の光に照らされていた。
 その手には何か光るものが指についていた。金の指輪であった。
 男は身をかがめ、ちょっとそこにうずくまった。そして彼が再び身を起こした時は、差し出てる手にはもう指輪がなくなっていた。
 男はきっぱり立ち上がったのではなかった。物におびえたようなすごい態度をして、死人の堆積の方に背を向け、ひざまずいたまま地平線をすかし見ながら、地についた両の食指に上体をもたして、頭だけを凹路の縁から出してうかがっていた。狼の四本足も、ある種の行ないには便宜なものである。
 それから、彼は心を決して立ち上がった。
 その時、彼はぎくりとした。うしろからだれかにつかまれてるようだった。
 彼はふり向いて見た。それは先刻の開いていた手であって、指を閉じながら、彼の上衣の裾(すそ)をつかんでいた。
 普通の人ならばこわがるところだった。がその男は笑い出した。
「なんだ、」と彼は言った、「死人じゃないか。憲兵よりはまだお化けの方がいいや。」
 するうちにその手は力つきて彼を放した。人の努力も墓の中ではすぐに尽きるものである。
「ははあ、」と男は言った、「この死人め、まだ生きてるのかな。一つ見てやろう。」
 彼は再び身をかがめ、死人の堆積(たいせき)をかき回し、邪魔になるものを押しのけ、その手をつかみ、その腕をとり、頭を引き上げ、身体を引き出し、そしてしばらくするうちに、もう生命のない、あるいは少なくとも気を失ってる一人の男を、凹路(おうろ)の影の方へ引きずって行った。それは一人の胸甲騎兵であって、将校であり、しかも相当の階級のものらしかった。大きな金の肩章が胸甲の下からのぞいていた。もう兜(かぶと)は失っていた。ひどいサーベルの傷が顔についていて、顔一面血だらけだった。しかし顔のほか、手足は無事らしかった、そして、もしここに仕合わせという語が使えるならば、仕合わせにも、多くの死骸が彼の上に丸屋根をこしらえたようなふうになっていて、押しつぶされることを免れていた。目はもう閉じていた。
 彼はその胸甲の上に、レジオン・ドンヌールの銀の十字章をつけていた。
 男はその勲章をもぎ取り、上衣の下の洞穴の底へ押し込んでしまった。
 その後で、彼は将校の内ぶところを探ってみて、そこに時計を探りあてて、それを取り上げた。それからチョッキを探って、そこに金入れを見いだして、それを自分のポケットにねじ込んだ。
 その死にかかった将校に男がそこまで手をかしてやった時、将校は目を開いた。
「ありがとう。」と彼は弱々しく言った。
 男の取り扱い方の荒々しさと、夜の冷気と、自由に吸い込まれた空気とは、彼を瀕死(ひんし)の境から引き戻したのだった。
 男は返事をしなかった。頭を上げた。人の足音が平原の中に聞こえていた、たぶん巡察の兵士が近づいて来るのであったろう。
 将校は低くつぶやいた、その声のうちには死の苦しみがこもっていた。
「どちらが勝ったか?」
「イギリスの方です。」と男は答えた。
 将校は言った。
「僕のポケットの中をさがしてみてくれ。金入れと時計があるはずだ。それをあげよう。」
 もうそれは取られていたのである。
 男は言われた通りのことをするまねをした、そして言った。
「何もありません。」
「だれか盗んだな。」と将校は言った。「残念だ。君にあげるんだったが。」
 巡察兵の足音はしだいにはっきりしてきた。
「人がきます。」と男は立ち去ろうとするような身振りをして言った。
 将校はようよう腕を持ち上げて男を引き止めた。
「君は僕の生命を救ってくれたのだ。何という名前だ?」
 男は急いで低声に答えた。
「私はあなたと同じようにフランス軍についていた者です。もうお別れしなければなりません。もしつかまったら銃殺されるばかりです。私はあなたの生命を救ってあげた。あとは自分で何とかして下さい。」
「君の階級は何だ。」
「軍曹です。」
「名前は何というんだ。」
「テナルディエです。」
「僕はその名前を忘れまい。」と将校は言った。「そして君も僕の名前を覚えていてくれ。僕はポンメルシーというんだ。」
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   第二編 軍艦オリオン



     一 二四六〇一号より九四三〇号となる

 ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられていた。
 その痛ましい詳細は、ここに長たらしく述べられない方を読者はかえって好むだろう。われわれはただ当時の新聞紙に掲げられた次の二つの小記事を写すに止めておこう。それはあの驚くべき事変がモントルイュ・スュール・メールに起こってから数カ月後のものである。
 この二つの記事は、やや概括的なものである。人の記憶するとおり、その頃にはまだガゼット・デ・トリブュノー(法廷日報)はなかったのである。
 第一の記事はドラポー・ブラン紙ので、一八二三年七月二十五日のものである。

 ――パ・ド・カレー郡において最近かなり異常な一事件が起こった。マドレーヌ氏と呼ばるる他県の一人の男が、その地方の古来の工業である黒擬玉(くろまがいだま)および黒ガラス玉の製造を、新しい製法によって数年来再興していた。彼はそれによって、自分の財産を作り、かつその地方を富ました。その功績のために彼は市長に選ばれていた。しかるに警察では、該マドレーヌ氏は実はジャン・ヴァルジャンという男であり、一七九六年窃盗(せっとう)のために処刑された前科者で、かつ監視違反の者であることを発見した。かくて、ジャン・ヴァルジャンは再び徒刑場に投ぜられた。逮捕さるる前に彼は、ラフィット銀行に預けていた約五十万以上の金をうまく引き出したらしい形跡がある。もとよりその金は、彼が自分の商売によってきわめて正当に得たものとのことである。ジャン・ヴァルジャンがツーロンの徒刑場に投ぜられていらい、その金がどこに隠されているか発見せらるることはできなかった。

 第二の記事はジュールナル・ド・パリー紙のであるが、前のよりやや詳しく、日付は同じである。

 ――ジャン・ヴァルジャンという一人の放免徒刑囚が、最近ヴァール県の重罪裁判所に出廷した。その前後の事情は人の注意をひくに足るものであった。その悪漢は巧みに警察の目をのがれ、名前を変え、北部のある小都市で市長となるまでに成功した。彼はその都市にかなり顕著な一商業を興したのであった。しかし検察官の不撓(ふとう)なる熱心のために、彼はついに仮面をはがれて逮捕された。一人の醜業婦の妾(めかけ)があったが、彼が逮捕さるるとき驚きのあまり死んだ。悪漢は異常な膂力(りょりょく)を有していて脱走することを得たが、脱走後三、四日にして、警察は再びパリーにおいて彼を捕えた。ちょうど首府からモンフェルメイュ村(セーヌ・エ・オアーズ県)へ通う小馬車に乗った時においてであった。しかし彼はその三、四日の自由な間に、ある著名な銀行に預けていた莫大な金額を手にすることを得た由である。その金額は約六、七十万フランだという。告訴状によれば、彼はその金をだれにも知られぬひそかな場所に隠匿したらしい、そして何ぴともそれを見いだすことはできなかったそうである。それはともかくとして、そのジャン・ヴァルジャンなる者は最近ヴァール県の重罪裁判に回された。約八年前、大道にて子供をおびやかし、その所持品を盗んだという罪名によってである。子供というのは、諸方を渡り歩くあの正直なる少年らの一人であって、フェルネーの総主教が不朽なる詩に歌ったごとく彼らは、
「サヴォアより年ごとに来る。
軽やかにその手は拭(ぬぐ)う
煤(すす)に満ちたる長き管を。」
 その盗賊は自ら少しも弁護をしなかった。そして検事の巧妙流麗な弁論によって、その強盗には共犯者があったこと、およびジャン・ヴァルジャンは南部の盗賊団の一人であったことが、立証せられた。その結果、ジャン・ヴァルジャンは有罪を宣せられ、死刑の判決を受けた。犯人は上告することを拒んだ。しかし国王は無限の寛容をもって、その刑を減じて無期徒刑に変えられた。それでジャン・ヴァルジャンは、直ちにツーロンの徒刑場に送られた。

 ジャン・ヴァルジャンがモントルイュ・スュール・メールにおいて宗教上の勤めを欠かさなかったことは、人々の記憶にあった。で、ある新聞は、なかんずくコンスティチュシオンネル紙のごときは、その換刑をもって僧侶派の勝利だとした。
 ジャン・ヴァルジャンは徒刑場においてその番号が変わった。彼は九四三〇号と呼ばれた。
 それからなお、再び立ち戻らないようにと、ここに次のことを付言しておきたい。すなわち、モントルイュ・スュール・メールの繁栄はマドレーヌ氏とともに消滅してしまった。惑乱と逡巡(しゅんじゅん)とのあの夜に彼が予見したことは、すべて事実となって現われた。彼がいなくなったことは、果して魂のなくなったに等しかった。彼の失墜後モントルイュ・スュール・メールには、大人物の転覆後に起こる利己的な分配が行なわれた。それは実に、人類の共同村において毎日ひそかに行なわれつつある栄華の必然の分割である。しかし史上にただ一回記載されたのは、単にあの有名なるアレキサンドル大王の歿後に起こったからである。将軍らが国王の冠を戴(いただ)き、小頭らが自ら工場主となる。羨望的な競争が現われて来る。いまやマドレーヌ氏の大きな工場は閉ざされ、その建物は荒廃に帰し、職工らは分散してしまった。ある者はその地を去り、ある者はその職業を去った。それ以来、すべては大となるよりもむしろ小となり、善を事とするよりもむしろ利得を事とするようになった。もはや中心となるものがなく、到る所に競争があり、いら立ちがあった。マドレーヌ氏はすべてを支配し導いていたが、一度彼が失墜するや、各人は私利にのみ汲々(きゅうきゅう)として、組織的精神は競争心と変じ、懇篤(こんとく)のふうは苛酷と変じ、すべての者に対する創立者の慈愛は各人相互の怨恨(えんこん)に変わった。マドレーヌ氏の結んだ糸目は乱れて切れてしまった。人々はその方法をごまかし、製品を粗悪にし、信用をなくした。販路はせばまり、注文は減少した。職工の賃金は低下し、工場は業をやめ、破産が到来した。もはや貧しい者らに対する助けもなくなってしまった。いっさいのものが消滅した。
 国家の方でも、どこかに何ぴとかがいなくなったのを感じてきた。重罪裁判所がマドレーヌ氏とジャン・ヴァルジャンとは同一人であることを判定して徒刑場を肥してから、四年もたたないうちに、モントルイュ・スュール・メールの郡においては収税の費用が倍加した。そしてド・ヴィレール氏は、一八二七年二月にそのことを国会で述べている。

     二 二行の悪魔の詩が読まるる場所

 さて、話を進める前に、ちょうどその頃モンフェルメイュに起こった不思議な一事を少しく述べておきたい。それは検察官のある推測といくらか符合する点を有しているようでもある。
 モンフェルメイュの地方には、ごく古くからのある迷信があった。パリー近くのその地方にかかる一般に信じられた迷信があることは、ちょうどシベリアに伽羅(きゃら)の名木があるように意外なことで、そのためにいっそう珍しがられ尊重されていた。人間はすべて珍しいものを尊重するものである。ところでモンフェルメイュの迷信というのは次のようなものであった。大昔から悪魔は宝を隠すために森を選んだということが人々に信じられている。夕暮れのころ、森の奥の方で、ある黒い男に出会うことがよくあるものだと、女たちは言っている。その男は、荷車引きか木こりのような顔つきをして、木靴をはき、麻の上衣とズボンとをつけているが、普通の帽子のかわりに頭の上に二本の大きな角があるので、それと見わけられるのだそうである。なるほどそういうものがあればよく見わけられるはずである。その男は普通はいつも穴を掘っている。そして彼に出会った場合には、三つの方法がある。第一は、彼に近寄って行って話しかけることである。すると実は一人の百姓にすぎないことがわかる。姿が黒く見えたのは夕暮れのせいであって、何も穴を掘っているのではなく牛の草を刈ってるのであり、角と思ったのも実は背中に負っている草掻(か)きであって、その歯先が薄暮のために頭から出てるように見えたまでである。しかし彼に話しかけて家に帰ってくると、一週間たって死んでしまう。第二の方法は、その男を遠くからながめていて、彼が穴を掘りそれをまた埋めて立ち去ってゆくまで待っていて、それから穴の所へ早く走ってゆき、それを掘り返し、黒い男が隠したはずの「宝」を取って来ることである。しかしそうすると、一月たって死んでしまう。次に第三の方法は、その黒い男に話しかけもせず、見向きもせず、足にまかして逃げ出すことである。しかしそうすると、一年たって死んでしまう。
 右の三つの方法とも皆それぞれ不幸をきたすのであるが、第二の方法は、たとい一カ月でも宝を所有することができるので、いくらか他のにまさるものだから、最も普通に取られる方法である。それでいかなる機会にも誘惑される大胆な男どもは、その黒い男の掘った穴をあばいて悪魔の宝を盗もうとしたことがしばしばあったそうである。しかしあまり大した仕事にもならないらしい。少なくとも、伝説の語るところによれば、またことに、トリフォンというまやかしのノルマンディーの悪僧が残している野蛮なラテン語の謎(なぞ)めいた詩の二句を信ずるなら、それはいっこうくだらない仕事らしい。そのトリフォンという牧師は、ルアンの近くのサン・ジョルジュ・ド・ボシェルヴィルの修道院に埋められたが、その墓からはただ蟇(かえる)が生じたのみだった。
 が、とにかく人々は非常な努力をする。そういう穴は通例きわめて深い。汗を流し、かき回し、夜通し骨を折る。夜のうちにしてしまわなければならないのである。シャツは汗にぬれ、蝋燭(ろうそく)は燃え尽き、鶴嘴(つるはし)を痛め、そしてついに穴の底まで掘り進み、その「宝」に手をつけてみると、さて何が見つかろう、悪魔の宝などというものが何であろう。一枚の銅貨、時には銀貨、それから石くれ、骸骨(がいこつ)、血まみれの死体、あるいは紙入れの中の紙片のように四つにたたまれた幽霊、あるいは何にもないこともある。不遠慮な物好きな者らにトリフォンの詩が語ってきかせるようなものにすぎない。

彼は掘り薄暗き穴に隠すなり、
銅貨銀貨石片死骸妖怪(ようかい)、あるいは無を。

 今日ではなおそのほかに、あるいは弾丸と火薬箱や、あるいは手垢(あか)のついた赤茶けた古いカルタなど、確かに悪魔どもの使ったらしい品物がそこに見いだされるだろう。トリフォンはこの終わりの二品をあげていない、彼は十二世紀の人なのである。そして悪魔も、ロージャー・ベーコンより前に火薬を発明し、シャール六世より前にカルタを発明するだけの知力を、持っていなかったものと見える。
 その上、もしそれらのカルタを弄(もてあそ)ぼうものなら、すっかりうち負けて取られてしまう覚悟がいる。そしてまた箱の中の火薬には、鉄砲をその所有者の顔に向かって発射させる特性がある。
 ところで、放免囚徒ジャン・ヴァルジャンが数日間の逃走の間にモンフェルメイュ付近をうろついたらしく検察官はにらんだのであるが、その時期の後間もなく、ブーラトリュエルというある年取った道路工夫が森の中で「おかしなふうをしている」のが、モンフェルメイュの村の人たちの目についた。ブーラトリュエルはかつて徒刑場にはいっていた者であるとその地方では信じられていた。彼は警察の監視の下に置かれていた、そしてどこにも仕事が見つからなかったので、政府の方でガンニーからランニーまでの横道の道路工夫として安い給料で使っていた。
 ブーラトリュエルはその地方の人々から蔑視(べっし)されていた。彼はばか丁寧で、あまり身を卑下していて、だれにでもすぐに帽子を取っておじぎをし、憲兵らの前では震えながら愛想笑いをし、たぶん盗賊団の仲間にはいっているのだろうと人から言われており、夕方などは森陰にひそんで人を待伏せしていると疑われていた。ただ人間らしい取りえとしては、酒飲みであるということくらいであった。
 人々の目についたのは次のようなことであった。
 近頃いつもブーラトリュエルは、道路に砂利を敷いて手入れをする仕事をごく早めに切り上げ、鶴嘴(つるはし)を持って森の中にはいってゆくのだった。夕方など、最も人けの少ない伐木地や最も寂寞(せきばく)たる茂みの中などで、時々穴を掘ったりして何かさがし回ってるような彼に、出会うことがよくあった。そこを通りかかった女たちは、初めそれをベルゼブル(訳者注 新約聖書にある悪鬼の頭)だとさえ思ったが、よく見るとブーラトリュエルであった。それでも彼女らは心が安まらなかった。しかるにブーラトリュエルはそういうふうに人に出会うことを非常にいやがってるらしかった。明らかに彼は人に見られるのを避けようとしていた、そして彼の仕業のうちに何か秘密があるのは明らかだった。
 村ではいろいろなことが言われた。「きっと悪魔が現われたに違いない。ブーラトリュエルはそれを見てさがしているのだ。なるほどあの男なら魔王の金をまき上げるくらいのことはやりかねない。」ヴォルテール流の者らはつけ加えた。「ブーラトリュエルが悪魔を捕えるか、悪魔がブーラトリュエルを捕えるかだ。」年老いた女たちは幾度も十字を切った。
 そのうちにブーラトリュエルは森の中の仕事をやめてしまった。彼は道路工夫の仕事をまた几帳面(きちょうめん)にやり出した。人々の噂(うわさ)も他のことに向いていった。
 けれども中にはまだ好奇心をいだいていて、おそらくそれには、伝説の荒唐無稽(こうとうむけい)な宝物ではなく、悪魔の手形よりはもっとまじめな、もっと実際的な獲物があって、道路工夫はきっとその秘密を半ば嗅(か)ぎ出したのだろう、と思ってる者もあった。そして最も「気をやんでいた」者は、小学校の先生と飲食店の主人テナルディエとであった。テナルディエはだれとでも交わるのをきらわないで、ブーラトリュエルとも知り合いだった。
「あの男は徒刑場にいたことがあるはずだ。」とテナルディエは言った。「だからいったいどんな奴(やつ)がやってきたのか、どんな奴がやって来るか、わかったもんじゃない。」
 ある晩小学校の先生が言うには、昔だったらブーラトリュエルが森の中で何をするつもりであったか官憲の方で調査したはずである、そしてあいつも何とかしゃべらなければならなかっただろう、必要によっては拷問にかけられることもあったろう、で結局ブーラトリュエルはたとえば水責めの拷問にはたえきれなくて白状したかも知れない。するとテナルディエは言った、「ひとつ酒責めにしてみましょうや。」
 彼らは手段を講じて、その老道路工夫に酒を飲ました。しかしブーラトリュエルは酒をたくさん飲んで、口はあまりきかなかった。彼は大酒家の喉(のど)と裁判官の用心さとを、いかにも巧みにまたみごとな割合にあわせ用いた。けれどもしつこく問いただして、彼の口からもれた曖昧(あいまい)な二、三の言葉をいっしょに繋(つな)ぎ合わしてみて、結局テナルディエと先生とは次のことを探り得たと思った。
 ブーラトリュエルはある朝、夜の明け方に、仕事に出かけて行くと、森の片すみの藪(やぶ)の下にくわと鶴嘴(つるはし)とを見い出して驚いたらしい。それはちょうど隠されたようにして置いてあった。けれども彼は、それをたぶん水くみ爺さんのシー・フールのくわと鶴嘴とであろうと思って、別に気にも留めなかったらしい。けれどもその日の夕方、彼はある大木の後ろに身を隠して先方の目をのがれながら、「全くその辺の者ではないが彼ブーラトリュエルがよく知ってる一人の男」が、道路から森の最も深い方へはいってゆくのを見たらしい。テナルディエはそれを翻訳して「徒刑場の仲間の一人」だとした。ブーラトリュエルは頑固(がんこ)にその名前を言うことを拒んだのである。その男は、大きな箱かあるいは小さな鞄(かばん)みたような何か四角な包みを持っていた。ブーラトリュエルは驚いた。それでも「その男」の跡をつけてみようという考えを起こしはしたが、それも七、八分過ぎてからであったらしい。彼は機を失していた。男は既に木立ちの茂みへはいってしまい、あたりは夜になっていて、ブーラトリュエルは男を見つけることができなかった。そこで彼は森の入り口を番してみようと決心した。「月が出ていた。」二、三時間後に、ブーラトリュエルはその男が森から出て来るのを見た。しかしもう小さな鞄は持っていず、鶴嘴とくわを持っていた。ブーラトリュエルは男をやり過ごした。近づいてみようという考えは起こさなかった。なぜなら、彼はその男が自分よりも三倍も力がある上に鶴嘴を持っていることを考えたからである。もしその男が自分を見て取り、また自分から見て取られたことを知ったなら、きっと自分を打ち殺すかも知れないと思ったからである。二人の古い仲間がふいに出会った場合の感情としては恐ろしいことである。しかしそのくわと鶴嘴とは、ブーラトリュエルにとっては一道の光明であった。彼はその朝見た藪(やぶ)の所へ駆けて行った。するとそこにはもうくわも鶴嘴もなかった。それから見ると、男は森の中にはいり込み、鶴嘴で穴を掘り、箱を隠し、くわで穴を再び埋めたものと、彼は断定した。しかるにその箱は、人間の死体を入れるにはあまり小さかったので、金がはいっていたものであろう。それで彼は捜索をはじめた。彼は森の中を方々さがし回り尋ね歩いた。新しく土地が掘り返されたように見える所はどこでも掘ってみた。しかしすべてむだに終わった。
 彼は何も「掘りあて」なかったのである。モンフェルメイュではもうだれもそのことを念頭に置かなかった。ただ二、三人の人のいいおしゃべりな女たちは言った。「ガンニーの道路工夫の爺さんがただでそんな大騒ぎをするものですか。きっと悪魔がきたのですよ。」

     三 鉄槌の一撃に壊(こわ)るる足鎖の細工

 同じ一八二三年の十月の末に、ツーロンの住民は、軍艦オリオン号が大暴風雨に会った後、損所を修理するために入港してくるのを見た。このオリオン号というのは、後にはブレストで練習艦として用いられたが、当時は地中海艦隊のうちに編入されていたものである。
 その艦は、荒れた海のためにひどく損(いた)んでいたが、港にはいって来るとすこぶる偉観であった。どういう旗を掲げていたかは今記憶にないが、その旗のために港からは規定の十一発の礼砲が放たれ、その一発ごとに艦からも答礼砲が返されたため、つごう二十二発の大砲が発せられた。およそ大砲の連発のうちには種々な意味がこめられていたのである。王国および軍国の礼儀、騒然たる儀礼の交換、礼式の信号、海上と砲台との儀式、毎日すべての要塞(ようさい)および軍艦から迎えらるる日の出と日没、港の開始と閉塞、その他種々のものが。文明社会は、各地において毎二十四時間ごとに、無益な大砲を十五万発も発射している。一発を六フランとすれば、一日に九十万フランが、一年に三億フランが、煙となるわけである。そしてそれもただ一部の項目だけでそうである。その間に一方では、貧しい人々は飢えている。
 一八二三年は、復古政府が「スペイン戦争時代」と呼んだ年である。
 その戦争一つのうちには、多くの事変が含まっており、多くの特殊な事がらが混入していた。ブールボン家にとって重大な家系問題。フランス王家がマドリッドの王家を援助し保護して、いわゆる本家の勤めを尽したこと。北方の諸政府に隷属(れいぞく)服従していっそう煩雑(はんざつ)をきたした、フランスの国民的伝統への表面上の復帰。アングーレーム公が、自由派の空想的な虐政と争っていた宗教裁判所の実際的な古来からの虐政を、いつもの穏和な様子にも似ず堂々たる態度をもって抑制して、自由派の諸新聞からアンデュジャールの英雄と呼ばれたこと。サン・キュロット(反短ズボン派――過激共和党)がデスカミザドス(反シャツ派)の名の下に復活して、有爵未亡人らに恐慌をきたさしめたこと。王政が無政府制と綽名(あだな)された進歩に対して障害となったこと。一七八九年の革命の理論が底深く浸潤せんとする途中で、にわかに中断されたこと。フランスの革命思想を親しく見た全欧州の警戒の声が世界中に響き渡っていったこと。総司令官フランス王子と相並んで、後にシャール・アルベールと言われたカリンニャン大侯が、義勇兵として擲弾兵(てきだんへい)の赤い絨毛(じゅうもう)の肩章をつけて、民衆を圧伏せんとする諸国王らの企てに加入したこと。帝国時代の兵士らは再び戦場についたが、八年間の休息の後をうけて既に老衰して元気なく、また白い帽章をつけていたこと。三十年前コプレンツにおいて白旗が打ち振られたように(訳者注 革命時代王党の亡命者らが一軍を編成したことを言う)三色旗が勇壮なる一群のフランス人によって外国において打ち振られたこと。フランスの軍隊に混入した僧侶ら。銃剣によって抑圧された自由と新時代との精神。砲弾の下に屈伏された主義。その精神によってなしたところのものをその武器によって破壊するフランス。これに加うるに、売られたる敵の将帥らと、逡巡(しゅんじゅん)する兵士らと、数百万の金によって包囲された都市。あたかも不意を襲われて占領された火坑におけるがごとく、軍事上の危険の皆無としかも爆発の可能。流血も少なく、得られたる名誉も少なく、ある者には恥辱があり、何者にも光栄がなかったこと。かくのごときが実に、ルイ十四世の後裔(こうえい)たる諸大侯によってなされ、ナポレオンの下より輩出した諸将軍によって導かれたこの戦争の実状であった。この戦争はもはや、あの大戦役をもまたあの大政策をも思い起こさしめない悲しき運命を荷(にな)っていた。
 軍事上の二、三の事蹟は真摯(しんし)なものであり、なかんずくトロカデロの占領はみごとな武勲であった。しかし畢竟(ひっきょう)するに、吾人(ごじん)はくり返して言うが、本戦争のラッパは亀裂のはいった音をしか出さなかった。その全体は曖昧模糊(あいまいもこ)としていた。その似而非(えせ)戦勝の名前を受くるに、フランスが困惑を感じたことは、史眼に照らして正当である。防御の任を帯びたスペインのある将軍らは、明らかにあまりにたやすく屈伏したらしい。その戦勝は見る人の心に買収の想像を起こさせる。勝利を得たというよりもむしろ将軍らを買い得たかの観がある。そして戦いに勝った兵士らは屈辱を負って国へ帰った。軍旗のひだのうちにフランス銀行の文字を読み得る所には、戦争の光輝は薄らぐ。
 サラゴサの城壁が頭上に恐ろしく倒れかかる下にあってなお泰然たるを得た一八〇八年の兵士らは、一八二三年には、諸要塞(ようさい)のたやすい開城に対して眉をしかめ、パラフォス将軍(訳者注 一八〇八年にサラゴサを護ったスペインの勇将)を惜しみはじめた。おのれの前にバレステロスを有するよりも、むしろロストプシンを有するを好むのがフランス人の気質である(訳者注 前者は当時の敵の将軍、後者はナポレオンのロシア侵入の時モスコーを焼き払ったロシアの将軍)。
 なおいっそう重大にしてここに力説するが適当である他の一見地より見るならば、この戦争は実に、フランスにおいて軍国的精神を傷つけながら、他方には民主的精神を激怒せしめたのである。それは一つの隷属を贏(か)[#「贏」は底本では「※[#「贏」の「貝」に代えて「果」、(二)-27-3]」]ち得んとする企図であった。この戦役においては、民主制の子孫たるフランス兵士の目的は、他人に課すべき軛(くびき)の獲得であった。忌むべき矛盾である。フランスは諸民衆を窒息せしめんがためにではなく、反対にそれを覚醒(かくせい)せしめんがために作られてるのである。一七九二年以後欧州のあらゆる革命は実はフランス革命の一分子である。自由の精神はフランスより放射している。それは太陽のごとく煌々(こうこう)たる事実である。そを見ざる者は盲者なり! とはボナパルト自身の言葉である。
 一八二三年の戦争は、健気(けなげ)なるスペイン国民への加害であり、従って同時にフランス革命への加害であった。その恐るべき暴行を犯したところのものはフランスであった、しかもそれは暴力をもってであった。なぜなれば、独立戦争を外にしては、すべて軍隊がなすところのものは暴力をもってなされるものであるから。絶対服従という言葉はそれをさし示すものである。軍隊というものは、結合の不思議な傑作であって、多くの無力の合計より力が生じてくる。人道によってなされ、人道に対抗してなされ、人道をふみつけにしてなされる戦争なるものは、かくして初めて説明し得らるる。
 ブールボン家の人々について言うならば、一八二三年の戦役は彼らにとっては致命的なものであった。彼らはこの戦いをもって成功であるとした。そして圧迫をもって一つの思想を屏息(へいそく)せしむることにいかなる危険があるかを少しも見なかった。浅慮なる彼らは謬見(びゅうけん)をいだいて、罪に対する非常なる鈍感をあたかも力の一要素ででもあるかのようにおのが館(やかた)のうちに導き入れた。待伏陰謀の精神は彼らの政策のうちにはいってきた。一八三〇年(訳者注 七月革命の年)は一八二三年に芽を出した。スペイン戦争は彼らの評議会において、武力断行と神法に対する冒険とを弁護する論拠となった。フランスはスペインに専制君主をうち立てながら、自国内に専制君主をよくうち立てるを得た。両者は兵士の服従を国民の同意と誤認するの恐るべき誤りに陥った。そのような安心は王位を失わせるに至るものである。毒樹の陰には眠るべからず、軍隊の影に隠れて眠るべからずである。
 さてオリオン号に立ち戻ってみよう。
 ちょうど総司令官大侯に指揮された軍隊が出動している間、一艦隊は地中海を游弋(ゆうよく)していた。そして前述のとおり、その艦隊に属していたオリオン号は荒海に損(いた)んでツーロン港に帰ってきたのである。
 港のうちに現われる軍艦は、何かしら群集を引きつけ群集の心を奪うものである。なぜなら、それは一種の偉大さをもっているものであるから、そして群集は偉大なるものを好むものであるから。
 戦闘艦は人間の脳力と自然の力との最も壮観なる争闘の一つである。
 戦闘艦は最も重きものと最も軽きものとから同時に組み立てられている。なぜならばそれは、物質の三形体たる固体液体および気体に同時に対抗し、その三つと戦わなければならないからである。海底の岩石をつかむためには十一本の鉄の爪を有し、雲間の風をとらえるためには胡蝶(こちょう)よりも多くの翼と触角とを有している。その息は巨大なるラッパからのように百二十の砲門からいで、誇らかに雷電に対しても答え返す。大洋はその波濤(はとう)の恐るべき一律さのうちに彼を迷わさんとするけれども、彼はその心を、羅針盤(らしんばん)を有していて、それに助言されて常に北を教わる。暗夜にはその照燈が星の光を補う。かくして彼は、風に対しては索繩(なわ)と帆布とを有し、水に対しては木材を、岩に対しては鉄と銅と鉛とを、やみに対しては光を、広漠に対しては磁針を有している。
 全体として一つの戦闘艦を形造っているその巨大なる構造のおおよその概念を得んと欲するならば、ブレストかツーロンの港の七階の高さほどもある屋根のついたドックの一つにはいってみれば十分であろう。そこでは建造中の船が、いわばガラスびんの中にでもはいっているように見える。あの巨大なる梁(はり)は帆桁(ほげた)である、あの目の届く限り長く地上に横たわっている大きな木の円柱は大檣(ほばしら)である。船艙(せんそう)の中の根本から雲間の梢(こずえ)までそれを測ってみると、長さ六十尋(ひろ)を算し、根本の直径三尺に余る。イギリス船の大檣は、喫水線(きっすいせん)上二百十七尺の高さに及ぶものがある。昔の船は麻綱を使っていたが、今では鉄鎖を用いている。百門の砲を載せる船の鎖を積み重ねただけでも、高さ四尺長さ二十尺幅八尺の山ができる。そしてその船一隻を造るために何程の木材が必要であるかといえば、三千立方メートルにもおよぶのである。森が一つ海に浮かんでいるのにも等しい。
 そしてしかも、読者はよく注意せらるるがいい、ここにいうのは四十年前の軍艦、一帆船のことについてである。当時まだ生まれ出たばかりであった蒸汽力はその後、軍艦と称せらるるこの怪物に新しい奇蹟をつけ加えたのである。現今においては、たとえば、スクリューのついた折衷式軍艦は、表面三千メートル平方の帆と二千五百馬力の釜(かま)とによって動かされる、驚くべき機械である(訳者注 原書の出版は一八六二年なることを読者は記憶せられたい)。
 それらの驚くべき新発見については言うも愚かなことであるが、クリストフ・コロンブスやルイテルの昔の船も、人間の偉大なる傑作の一つである。あたかも無限がその息吹(いぶ)きに[#「息吹(いぶ)きに」は底本では「息吹(いぶき)きに」]無尽蔵であるがごとくにそれも力において無尽蔵であり、その帆には風を蔵し、広漠として窮まりなき波濤(はとう)のうちにも正確なる方向を失わず、浮かびつつかつ主宰するのである。
 しかれども一度時きたらば、一陣の颶風(ぐふう)はその長さ六十尺の帆桁をもわら屑(くず)のごとくに砕き、烈風はその高さ四百尺のマストをも藺(い)のごとくに折り曲げ、その万斤の重さの錨(いかり)も鮫(さめ)の顎中の漁夫の釣り針のごとくに怒濤の口のうちにねじ曲げられ、その巨大な大砲の発する咆哮(ほうこう)も颶風のため哀れにいたずらに空虚と暗夜とのうちに運び去られ、その全威力と全威風も更に大なる威力と威風とのうちにのみ去られ終わるのである。
 広大なる威力が展開されるたびごとに、ついにはそれも非常なる微弱さに終わりゆくべき運命であるにかかわらず、人間はいつも夢想にふけらせられる。かくして海港においては、それらの戦いと航海との驚くべき機械のまわりに、自らなぜかをもよく知らないで多くの好奇(ものずき)な人々が集まって来るのである。
 で毎日朝から夕方まで、ツーロン港の海岸や埠頭(ふとう)や堤防などの上には、ひまな人々やパリーでいわゆるやじ馬など、オリオン号を見るよりほかに用のない多くの人がいっぱいになっていた。
 オリオン号は既に長い前から損(いた)んでいた。方々への航海中に、貝殻の厚い層が喫水部(きっすいぶ)に付着して、速力の半ばを減じていた。で前年はドックにはいってその貝殻を除かれ、そしてまた海に出て行ったのである。しかしその掃除のために喫水部の釘が損じていた。バレアール島の沖では、船腹がゆるんで穴が開いた、そして当時船体の内部は鉄板でおおわれていなかったので、水が漏り初めた。そこへ激しい彼岸嵐に襲われて、左舷(さげん)の船嘴(せんし)と一舷窓とがこわれ、前檣(ぜんしょう)の索棒が損(いた)んだ。そしてそれらの損所のためにまたツーロン港にはいってきたのである。
 オリオン号は造船工廠(こうしょう)の近くに停泊していた。そしてなお艤装(ぎそう)したまま修繕されていた。船体は右舷では少しも損んでいなかった。しかしいつもやられるとおりに、張り板はそこここはがされていて、船内に空気を通す用に供されていた。
 さてある日の朝、オリオン号をながめていた群集は一事変を目撃した。
 船員らはちょうど帆を張っていた。すると、右舷の大三角帆の上端をとらえる役目の水夫が身体の平均を失った。彼はよろめいた。それを見て、造船工廠の海岸に集まっていた群集は叫び声を上げた。頭をまっさきにして水夫は帆桁をぐるりと回りながら、逆様に深海に向かって両手をひろげた。その途中で彼は下がっている綱を片手でつかみ、次に両手でつかんで、そこにうまくぶら下がった。海は彼の下に目を回すような深さにたたえていた。彼の墜落の勢いのために、綱はぶらんこのように激しく動揺した。水夫はその綱の一端に揺り動かされて、ちょうど石投げひもの先につけた石のようであった。
 彼を助けにゆくには恐るべき危険を冒さなければならなかった。水夫らは皆新たに徴発されて働いてる沿岸の漁夫であって、あえてその危険を冒そうとする者は一人もなかった。そのうちに不運な水夫は弱ってきた。遠いので顔にその苦悩は認められなかったが、しだいに力弱ってゆくことは手足にそれと認められた。両腕は見るも恐ろしいほど引っ張られていた。再びよじ上ろうとする努力は、ぶら下がった綱の動揺をいたずらに増すばかりだった。彼は力を失うのを恐れて声も立てなかった。もはや彼が綱を離す瞬間を待つばかりだった。そして人々は彼が落ちてゆくのを見まいとして各瞬間ごとに顔をそむけた。綱の一端、一片の棒、一本の木の枝、それが生命それ自身であるような場合があるものである。そして、生あるものが熟した果実のようにそれから離れて落ちるのを見るのは、実に恐ろしいことである。
 その時突然山猫(ねこ)のような捷(はや)さで一人の男が船具をよじ上ってゆくのが見られた。その男は赤い着物を着ていた。徒刑囚である。緑の帽子をかぶっていた。無期徒刑囚である。檣櫓(しょうろ)の上に達すると、一陣の風がその帽子を吹き飛ばして、白髪の頭が見られた。青年ではない。
 実際船の中で徒刑労役として働いていた一人の囚人が、その事変が起こるとすぐに当直士官の所へ駆けてゆき、船員らが躊躇(ちゅうちょ)し惑っている中に、すべての水夫らが震えしり込みしているうちに、彼はただ一人、生命を賭(と)して水夫を救いに行くことを許してくれるように士官に願った。士官の許しの首肯を見て、彼は足の鉄輪についていた鎖を鉄槌(つち)の一撃でうちこわし、それから一筋の繩を持って、檣(ほばしら)の綱具のうちに上っていったのである。いかにたやすくその足鎖がこわれたかには、その瞬間だれも気がつかなかった。人々がそのことを思い浮かべたのはずっと後のことだった。
 またたくまに彼は帆桁の上に達した。彼は数秒の間立ち止まって、帆桁を目で見計らってるらしかった。そのうちにも風は綱の先端の水夫を吹き動かしていて、見物している人々にはその数秒が数世紀の長い時間ほどにも思われた。ついに囚人は目を空に上げ、そして一歩ふみ出した。群集は息をついた。見ると、彼は帆桁の上を走っていった。その先端に達するや、彼は持っていた綱の端をそこにゆわえ、他の端を下にたらし、それから両手でその綱を伝っており初めた。ここにおいて人々の心痛は名状すべからざるものとなった。いまや深淵(しんえん)の上にぶらさがっているのは一人ではなく、二人となったのである。
 いわば蜘蛛(くも)が蠅(はえ)を捕えにきたようなものであった。ただその場合、蜘蛛は死をでなく生を持ちきたったのである。数万の視線はその二人の上に据えられた。一言の叫びをも言葉をも発する者はなく、皆一様に身を竦(すく)めながら眉根(まゆね)を寄せていた。人々の口は呼吸をも押し止め、あたかも二人の不幸なる男を揺すっている風に少しの息をも加えまいと気づかってるかのようだった。
 そのうちに囚人は水夫の近くに身を下げることができた。危うい時間であった。いま一分も遅ければ、その水夫は疲れ切って絶望し、深淵のうちに身を落とすところだった。囚人は一方の手で繩に身をささえながら、他方の手で水夫をその繩でしかと繋(つな)ぎとめた。見ると、ついに彼は帆桁の上にまたよじ上り、水夫を引き上げてしまった。彼はそこでちょっと力を回復させるために水夫を抱きとめ、それから彼を小腋(こわき)に抱え、帆桁の上を横木の所まで歩いてゆき、そこから更に檣櫓(しょうろ)までいって、そこで彼を仲間の人々の手に渡した。
 その時群集は喝采(かっさい)した。老看守のうちには涙を流す者もいた。女たちは海岸の上で相抱いた。一種の感きわまった興奮した声で「あの男を許してやれ!」と異口同音(いくどうおん)に叫ぶのが聞こえた。
 そのうちにも彼の方は、また労役に従事するために、義務として直ちにそこからおり初めた。早く下に着くために、彼は綱具のうちをすべりおり、それから下の帆桁の上を走り出した。人々の目は彼のあとを追った。ところがある瞬間に、人々ははっと恐れた。疲れたのかまたは目が回ったのか、彼はちょっと躊躇(ちゅうちょ)しそしてよろめいたようだった。と突然、群集は高い叫び声をあげた。
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