レ・ミゼラブル
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:ユゴーヴィクトル 

 それから間もなく、ロスティン、ヒレル、ハッケ、リッセルらの各師団は、ロボーの軍団の前面に展開し、プロシアのウィルヘルム大侯の騎兵はパリスの森から現われ、プランスノアは火炎に包まれた。そしてプロシアの砲弾は、ナポレオンの背後に予備として控えていた近衛兵の列中まで雨とそそぎ初めた。

     十二 近衛兵

 その後のことは人の知るとおりである。第三の軍勢の突入、戦闘の壊裂、にわかにとどろく八十六門の砲、ブューローとともに到着したピルヒ一世、ブリューヘル自ら率いたツィーテンの騎兵、押し返されたフランス軍、オーアンの高地から掃蕩(そうとう)されたマルコンネ、パプロットから駆逐されたデュリュット、退却するドンズローとキオー、半側面より攻撃されたロボー、援護を失ったフランス各連隊の上に薄暮に落ちかかってきた新戦闘、攻勢を取って進んできたイギリス軍の全線、フランス軍のうちに開けられた大きな穴、互いに相助くるイギリスとプロシアとの霰弾(さんだん)、殲滅戦(せんめつせん)、正面の惨劇、側面の惨劇、その恐るべき崩壊の下に戦線に立つ近衛兵。
 近衛兵らはまさに戦死の期の迫ってるのを感ずるや、「皇帝万歳!」を叫んだ。ついにその喊声(かんせい)にまで破裂した彼らの苦悶(くもん)ほど人を感動せしむるものは、およそ歴史を通じて存しない。
 その日空は終日曇っていた。しかし突然その瞬間に、晩の八時であったが、地平線の雲が切れて、ニヴェルの道の楡(にれ)の木立ちを通して、没しゆく太陽の赤いものすごい広い光を地上に送った。その太陽もアウステルリッツにおいてはのぼるのが見られたのであったが。
 近衛の各隊は、その終局のために各将軍によって指揮されていた。フリアン、ミシェル、ロゲー、アルレー、マレー、ポレー・ド・モルヴァン、皆そこにいた。鷲(わし)の大きな記章をつけた近衛擲弾兵(てきだんへい)の高い帽子が、一様に列を正し粛々としておごそかに、その混戦の靄(もや)のうちに現われた時、敵軍すらもフランスに対する畏敬の念を覚えた。あたかも二十有余の戦勝は翼をひろげて戦場に入りきたったかの観があって、勝利者たる敵軍も敗者たる心地がして後ろに退(さが)った。しかしウェリントンは叫んだ、「起て、近衛兵、正確にねらえ!」籬(まがき)の後ろに伏していたイギリス近衛兵の赤い連隊は立ち上がった。しのつくばかりの霰弾は、フランスの鷲の勇士のまわりに風にひるがえってる三色旗に雨注した。全軍は殺到し、無比の殺戮(さつりく)が初まった。皇帝の近衛兵らは、周囲に退却してゆく軍隊を、そして敗北の広漠たる動揺を、影のうちに感じた。皇帝万歳! の声が、逃げろ! の叫びに代わったのを、彼らは聞いた。そしてその逃亡を後ろにしながら、一歩ごとにますます雷撃を受け、ますます戦死しながら、前進を続けた。一人の逡巡(しゅんじゅん)する者もなく、一人の怯懦(きょうだ)な者もいなかった。その軍勢のうちにおいては、一兵卒といえども将軍と同じく英雄であった。自ら滅亡の淵(ふち)に身を投ずることを避けた者は一人もなかった。
 熱狂したネーは、死に甘んずるの偉大さをもって、その颶風(ぐふう)のうちにあらゆる打撃に身をさらした。そこで彼の五度目の乗馬は倒れた。汗にまみれ、目は炎を発し、口角には泡(あわ)を立て、軍服のボタンは取れ、一方の肩章は敵の近衛騎兵の剣に打たれて半ば切れ、大鷲の記章は弾丸にへこみ、全身血にまみれ、泥にまみれ、天晴(あっぱれ)な武者振りをもって、手には折れた剣を握り、そして言った、「戦場においてフランスの元帥はいかなる死に様をするか、きたって見よ!」しかしそれも甲斐(かい)なくして、彼は死ななかった。彼は獰猛(どうもう)であり、また憤激していた。彼はドルーエ・デルロンに問いを投げた、「君は死にに行かないのか、おい!」兵士らを一つかみにして粉砕しつつある砲弾のうちに彼は叫んだ、「そして俺にあたる弾丸はないのか! おお、イギリスの砲弾は皆俺の腹の中にはいってこい!」不運なるネーよ、汝はフランスの弾丸に打たれんがために取り置かれていたのである!(訳者注 彼はナポレオンの転覆後王党のために銃殺されたのである)

     十三 破滅

 近衛兵の背後に起こった壊走は痛ましいものであった。
 軍隊はにわかに四方から、ウーゴモン、ラ・エー・サント、パプロット、プランスノアなどから同時に退いてきた。裏切り者! という叫びに次いで、逃げろ! という叫びが起こった。壊乱する軍隊は雪崩(なだれ)のごときものである。すべてはたわみ、裂け、砕け、流れ、ころがり、倒れ、押し合い、先を争い、急転する。異常なる崩壊である。ネーは一馬を借りてその上に飛び乗り、帽子もなく、えり飾りもなく、剣もなく、ブラッセルからの道路をさえぎって、イギリス軍とフランス軍とを同時に食い止めた。彼は軍隊を押し止めんとつとめ、呼びかけ、怒号し、壊走(かいそう)のうちにつっ立った。しかし軍勢はあふれて彼をのり越えてゆく。兵士らは「ネー元帥万歳!」を叫びながら彼から逃げてゆく。デュリュットの二個連隊は驚駭(きょうがい)して右往左往し、ドイツ槍騎兵の剣とケンプト、ベスト、バック、ライラントの各旅団の銃火との間に、あたかもはね返されてるようだった。混戦の最悪なるものはすなわち壊走である。戦友も逃げんがためには互いに殺し合う。騎兵隊と歩兵隊とは互いにぶつかって砕け散乱する。戦いの大いなる泡(あわ)である。一端のロボーと他端のレイユとはともにその波のうちに押し流された。ナポレオンは近衛兵の残兵をもって城壁としようとしたが無効であった。彼はいたずらに手もとの騎兵数個中隊を最後の努力のうちに失ってしまった。キオーはヴィヴァイアンの前に退き、ケレルマンはヴァンデロイルの前に退き、ロボーはビューローの前に退き、モーランはピルヒの前に退き、ドモンとシュベルヴィックはプロシアのウィルヘルム大侯の前に退いた。皇帝の騎兵隊を率いて突撃したギイヨーは、イギリス竜騎兵の足下に倒れた。ナポレオンは逃走兵のうちを駆け回って、彼らに説き、促がし、威嚇(いかく)し、切願した。その朝皇帝万歳を叫んだすべての口は、今はただ茫然(ぼうぜん)とうち開いてるのみだった。彼らはほとんど皇帝をも見知らないがようだった。新たにやってきたプロシアの騎兵は、突進し、疾駆し、なぎ払い、切りまくり、粉砕し、殺戮(さつりく)し、殲滅(せんめつ)せんとした。馬は飛び出し、大砲はそこに残された。輜重兵(しちょうへい)らは弾薬車から馬をはずし、その馬を奪って逃走した。行李(こうり)車は四つの車輪を上にして転覆し、道をふさいだ。ためにまたそこで多くの虐殺を起こさした。人々は互いに押しつぶし、踏み蹂(にじ)り、死せる者をも生ける者をも乗り越して走った。腕と腕とはつかみ合った。狂気の群集は、道路を、小道を、橋を、平野を、丘を、谷を、森を満たし、四万の兵士の逃亡はそれをふさいだ。叫喚の声、絶望の声、麦畑の中に投げ込まれた背嚢(はいのう)と銃、わずかに剣によって切り開かれる通路、もはや戦友もなく将校もなく将軍もなく、ただ名状すべからざる恐怖のみだった。ツィーテンは思うがままにフランス軍をなぎ立てた。獅子(しし)は子鹿(こじか)と化していた。かくのごときがその逃走の光景であった。
 ジュナップにおいて、立ち直り、対抗し、敵を阻止せんと、人々は努めた。ロボーは三百の兵を集めた。村の入り口には防寨(ぼうさい)が施された。しかしながら、プロシアの霰弾(さんだん)の第一の連発によって、全軍は再び敗走をはじめ、ロボーは捕虜になった。今日なお、ジュナップにはいる数分前の所、道の右側にある煉瓦(れんが)の破屋(あばらや)の古い破風(はふ)に、その霰弾の連発の跡が刻まれてるのが見られる。プロシア軍はジュナップに突入した。かくもすみやかに勝利を得たことに彼らは憤激していたに違いない。追撃は猛烈であった。ブリューヘルは敵を殲滅(せんめつ)するように命じた。ロゲーは、フランスの全擲弾兵(てきだんへい)を死をもって威嚇して、各自に一人のプロシア兵の捕虜をつれきたらしめんとする、痛むべき実例を残していた。しかし今やブリューヘルはロゲーにもまさって残虐であった。年少近衛兵の将軍デュエームは、ジュナップのある宿屋の門口に追いつめられ、死の部下ともいうベき一軽騎兵に剣を差し出すと、軽騎兵はその剣を取ってその捕虜を刺した。戦勝は敗北者を虐殺することによって完成された。しかし吾人(ごじん)は歴史なるがゆえに、吾人をして処罰的に言わしむれば、老ブリューヘルは自らおのれの名を汚した。かくてその残虐は災害をなお大ならしめた。絶望的の壊走(かいそう)は、ジュナップを過ぎ、レ・カトル・ブラを過ぎ、ゴスリーを過ぎ、フラーヌを過ぎ、シャールロアを過ぎ、テュアンを過ぎ、そして国境に至ってようやく止まった。悲しいかな、いかなる者がそのように逃亡したのであるか? それは実にあの大陸軍(グランド・アルメ)であったのである。
 有史いらい、かつて見なかった最高の勇武の、その惑乱、その恐慌、その滅落、それはゆえなくして起こったことであろうか? いや。上帝の巨大なる手の影はワーテルローの上に落とされていたのである。それは運命の一日であった。人間以上の力がその日を現出せしめたのであった。それゆえに、彼らの頭も恐怖のうちに屈したのである。それゆえに、彼らの偉大なる魂も剣をすてて降ったのである。全欧州を征服した人々も一敗地に塗(まみ)れて、何ら言葉を発する術(すべ)もなく、何らなすべき術(すべ)もなく、ただ影のうちに恐ろしきもののあるのを感じた。それは運命のしからしむるところであった。その日、人類の前景は変じた。ワーテルローは十九世紀の肱金(ひじがね)である。その偉人の消滅は、一大世紀の出現に必要であった。人の左右し得ざるある者がそれを支配した。英雄らの恐慌はそれで説明せらるる。ワーテルローの戦いのうちには、雲霧以上のものがあった。流星のごときものがあった。神が通過したもうたのである。
 夜の幕のおりる頃、ジュナップの近くの野の中で、ベルナールとベルトランとは、考えにふけった荒々しい不気味な一人の男の外套の裾(すそ)をとらえて引き止めた。その男はそこまで壊走の波に押し流されてきて、馬から地上におり立ち、馬の手綱を小脇にはさみ、昏迷した目つきをして、ただ一人ワーテルローの方へ引き返さんとしていたのである。それはなお前進せんと試みてるナポレオンであった。崩壊した夢想をなお夢みてる偉大なる夢中遊行者であった。

     十四 最後の方陣

 近衛兵の数個の方陣は、流れの中の巌(いわお)のごとくに、壊走(かいそう)の中にふみ止まって、夜になるまで支持していた。夜はきたり、また死もきた。彼らはその二重の暗黒を待っていた。その包囲のうちに泰然と身を任した。各連隊は互いに孤立し、四方に寸断されてる全軍との連絡はなく、各自に最後を遂げていった。その最後の戦闘をなさんがために彼らは、あるいはロッソンムの高地の上に、あるいはモン・サン・ジャンの平地の中に、陣地を占めていた。見捨てられ、打ち敗られ、恐るべき様をしたそれら陰惨な方陣は、そこに驚くべき臨終を遂げた。ユルム、ヴァグラン、イエナ、フリーランは、そのうちで戦死を遂げた。
 まだ薄明りの晩の九時ごろ、モン・サン・ジャンの高地の裾(すそ)に、なおその方陣の一つが残っていた。そのいたましい谷間のうちに、さきには胸甲騎兵らがよじのぼり今はイギリス兵の集団に満たされているその坂の麓(ふもと)に、勝ちほこった敵砲兵が集中する砲火の下に、弾丸の恐るべき雨注の下に、その方陣は戦っていた。それはまだ無名の一将校カンブロンヌによって指揮されていた。敵弾の斉発ごとに、方陣はその兵数を減じ、しかもなお応戦していた。絶えずその四壁を縮小しながら、霰弾(さんだん)に応答するに銃火をもってした。逃走兵らは息を切らして時々立ち止まりながら、しだいに弱りゆくその陰惨な雷鳴のごとき響きを、遠くからやみのうちに聞いたのだった。
 その一隊がもはや一握りの兵数にすぎなくなった時、その軍旗がもはや一片のぼろにすぎなくなった時、弾丸(たま)を打ちつくした彼らの銃がもはや棒切れにすぎなくなった時、うずたかい死骸(しがい)の数がもはや生き残った集団よりも多くなった時、その荘厳なる瀕死(ひんし)の勇者のまわりにはある聖なる恐怖が勝利者らのうちに萌(きざ)して、イギリスの砲兵は息をつきながら沈黙した。がそれは一種の猶予にすぎなかった。それらの勇士のまわりには、幻影の蝟集(いしゅう)するがごとく、騎馬の兵士の影像、大砲の黒い半面、車輪や砲架を透かして見える白い空などが取り巻いていた。戦いの底の雲霧のうちに英雄らがいつも瞥見(べっけん)する死の巨大なる頭は、彼らの上に進み出て彼らを見つめていた。彼らは大砲の装弾せらるる音を薄明りの影のうちに聞くことができた。夜のうちに虎(とら)の目のごとくひらめく火繩(ひなわ)は、彼らの頭のまわりに円を描き、イギリスの砲列のすべての火繩桿(ひなわかん)は大砲に近づけられた。その時、感動してそれらの勇士の上に最後の一瞬を押し止めて、一人のイギリスの将軍は、ある者はそれをコルビールであったといい、ある者はメートランドであったといっているが、彼らに向かって叫んだ、「勇敢なるフランス兵ら、降伏せよ!」カンブロンヌは答えた、「糞(くそ)ッ!」

     十五 カンブロンヌ

 フランスの読者は作者から尊敬されることを欲するであろうから、おそらくフランス人がかつて発し得た最もりっぱな言葉を、ここにくり返してはいけないかも知れない。歴史中に崇高なものを立証することは禁制である。
 しかし吾人(ごじん)は、危険と災禍を顧みずして、その禁制をも犯したいのである。
 ゆえにあえて吾人(ごじん)は言う。それらの巨人らのうちに、なお一人のタイタン族が、カンブロンヌがいたのである。
 あの言葉を発して、次に死する! それ以上に偉大なることがあろうか。なぜならば、死を欲することはすなわち実際に死することである、そして、砲撃されながらもなお彼は生き残ったとはいえ、それは彼の罪ではないのである。(訳者注 実際は彼はなお戦死せずして捕虜になった)
 ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、敗北したナポレオンでもなく、四時に退却し五時に絶望に陥ったウェリントンでもなく、自ら戦闘に加わらなかったブリューヘルでもない。ワーテルローの戦いに勝利を得た者は、彼カンブロンヌである。
 おのれを殺さんとする雷電をかくのごとき言葉で打ちひしぐことは、すなわち勝利を得ることである。
 破滅に向かってその答えをなし、運命に向かってその言を発し、後にできる獅子(しし)像に対してそういう基礎を与え、前夜の雨やウーゴモンの陰険な城壁やオーアンの凹路(おうろ)やグルーシーの遅延やブリューヘルの到来などに対してその抗弁をなげつけ、墳墓のうちにあってあざわらい、あたかも人々の倒れたらん後にもなおつっ立ち、欧州列強同盟を二音のうちに溺(おぼ)らし、既にシーザーらに知られていたその厠(かわや)を諸国王にささげ(訳者注 糞ッ! の一語参考)、フランスの光輝をそこに交じえながら最低の一語を最上の一語となし、肉食日火曜日をもって傲然(ごうぜん)とワーテルローの幕を閉じ、レオニダスに補うにラブレー(訳者注 十六世紀フランスの物語作者にして辛辣なる皮肉諷刺に秀ず)をもってし、ほとんど口にし難い極端なる一言のうちにその勝利を約言し、陣地を失ってしかも歴史をかち得、その殺戮(さつりく)の後になお敵をあざわらうべきものたらしむる、それは実に広大なることではないか。
 それは雷電に加えたる侮辱である。それはアイスキロスの壮大さにまで達する。
 カンブロンヌの一語はある破裂を感じさせる。それは軽侮のための胸の破裂であり、充満せる苦悶(くもん)の爆発である。だれが勝利を得たか? ウェリントンか、いや、ブリューヘルなくんば彼は敗れていたのである。しからばブリューヘルか、いや。ウェリントンが初めに戦っていなかったならば、彼も終局を完(まっと)うすることはできなかったはずである。彼カンブロンヌ、その最終にきたった一人、その世に知られざる戦士、その全戦闘中の極微なる一人は、そこに一つの虚構があるのを、破滅のうちに二重ににがにがしい虚構があるのを感ずる。そして彼がその憤激に破裂する時、人々は彼に愚弄(ぐろう)を与える、生命を! いかにして激怒せざるを得るか?
 彼らはそこにいる、欧州のすべての国王らが、幸福なる将軍らが、雷電をはためかすジュピテルらが。彼らは十万の勝ちほこった兵士を有している、そしてその十万の後方には更に百万の兵士を。火繩には火がつけられて大砲は口を開いている。彼らは足下に近衛軍と大陸軍とを踏みにじっている。彼らは既にナポレオンを粉砕したところである。そしてもはやカンブロンヌが一人残っているのみである。手向かうものとてはもはやその一個の蛆虫(うじむし)のみである。が彼は手向かう。そして彼は剣をさがすがごとくに一語をさがす。彼には生唾(なまつば)が湧く。そしてその生唾こそ彼の求むる一語である。その異常なしかも下らない勝利の前に、その優勝者なき勝利の前に、この絶望の男はすっくと立つ。彼はその雄大に圧倒さるるが、しかもその虚無をみる。そして彼はその上に痰(たん)を吐きかけるのみでは足れりとしない。数と力と物質との優勢の圧迫の下に、彼は心に一つの言葉を、糞(くそ)を見いだす。くり返して言う。それを叫び、それをなし、それを見いだすこと、それは実に勝利者となることである。
 大審判の精神は、危急の瞬間にこの無名の男の中に入りきたった。あたかもルージュ・ド・リールがマルセイエーズ(訳者注 フランスの国歌)を見いだしたがごとくに、高きより来る息吹(いぶ)きの幻によって、カンブロンヌはワーテルローの言葉を見いだした。聖なる颶風(ぐふう)の一息は飛びきたってその二人を貫通し、二人は慄然(りつぜん)と身を震わし、そして一人は最上の歌を歌い、一人は恐るべき叫びを発する。タイタンの軽侮のごときその一言を、カンブロンヌはただに帝国の名において全欧州に投げつけるのみではない。それではあまりに足りないであろう。彼はそれを革命の名において過去に投げつける。人はそれを聞いて、巨人の古い魂がカンブロンヌのうちにあるのを認める。語るはダントンであり怒号するはクレベルであるかのようである。
 カンブロンヌの一言に、イギリス人の声は答えた、「打て!」砲列は火炎を発し、丘は震動し、それらのすべての青銅の口からは最後の恐ろしい霰弾(さんだん)の噴出がほとばしり、地平を出る月の光にほの白く見える広い煙はまき上がった。そして煙が散じた時には、そこにはもはや何物も残っていなかった。恐るべき残兵らは殲滅(せんめつ)されていた。近衛は全滅していた。生きたる角面堡(ほ)の四壁はそこに横たわり、ただ死骸の間にそこここにあるうごめきがようやくに見らるるのみだった。かくのごとくして、ローマの軍団よりも偉大なフランスの近衛諸連隊は、雨と血潮とに湿った地上に、陰惨な麦畑の中に、モン・サン・ジャンにおいて消滅したのである。いまやその場所を、ニヴェルの郵便馬車を御しているジョゼフが、朝の四時に、口笛を吹きつつ愉快げに馬を鞭(むち)うって通るのである。

     十六 指揮官へは何程の報酬を与うべきか

 ワーテルローの戦いは一つの謎(なぞ)である。勝利者にとっても敗北者にとっても、それは等しく模糊(もこ)たるものである。ナポレオンにとっては、それは一つの恐慌であった。(終局を告げたる一戦、終了したる一日、救われたる誤れる方略、翌日のたしかなりし大成功、すべては恐慌をきたせる恐怖の一瞬によりて失われぬ。――ナポレオン、セント・ヘレナの口述。)そしてブリューヘルはそこに砲火を見たばかりであり、ウェリントンは少しも理解するところなかった。報告を見てみるがよい。作戦日誌は曖昧(あいまい)であり、記述は混乱をきわめている。後者は口の中でつぶやき、前者はどもっている。ジョミニーはワーテルローの戦いを四つの時間にわけている。ムッフリングはそれを三段の変化に区分している。シャラスのみがただ一人、ある点については吾人(ごじん)は彼と異なった見解を有しはするが、とにかく鋭い眼光をもって、聖なる運命と争う人間の才力のその破滅の特相をつかんでいる。他のすべての史家はある眩惑(げんわく)を感じ、その眩惑のうちに摸索している。実際それは、閃々(せんせん)たる一日、軍国の崩壊である。そして諸国王らが唖然(あぜん)たるまに、すべての王国をまき込み、武力の失墜と戦役の覆没とを導いた。
 超人間的必然性の印せられたるその事変のうちには、人間の与える所は何もない。
 ワーテルローをウェリントンより奪いブリューヘルより奪うことは、イギリスおよびドイツより何かを奪うことになるであろうか? いや。光輝あるイギリスもいかめしきドイツも、ワーテルローの問題においては取るに足りない。幸いなるかな、民衆は痛ましき剣戟(けんげき)の暴挙の外にあって偉大なることを得る。ドイツもイギリスもまたフランスも、剣の鞘(さや)のうちに保たれてはいない。ワーテルローがただいたずらなる剣の響きにすぎないその時代において、ドイツはブリューヘルの上にゲーテを有し、イギリスはウェリントンの上にバイロンを有する。広大なる思潮の洶湧(きょうよう)は十九世紀に固有のものであり、そしてその曙(あけぼの)のうちに、イギリスとドイツとは壮麗な光輝を有する。彼らはその思想するところによって壮大なのである。彼らが文化にもたらした一般水準の啓発高揚こそ、彼らが内包していたものである。彼ら自らが源であって、一つの事件が源ではない。十九世紀における彼らの強大は、その源をワーテルローに有するものではない。ある戦勝の後に急速なる生長を遂ぐるものは、ただ野蛮な民衆のみである。それは暴風雨のために溢漲(いっちょう)した水流の一時の浮誇にすぎない。開化せる民衆はことに現代においては一将帥の幸運不運によって地位を上下するものではない。人類のうちにおける該民衆の特有の重みは、単なる戦闘以上の何物かに由来するものである。幸いにも、その名誉、その威厳、その光明、その才能は、あの山師たる英雄や勝利者らが戦争と称する投機にかけることを得る骰子(さい)の目ではない。往々にして、戦勝を失いつつ進歩を得、光栄少なくして自由多く、太鼓が黙して理性が語ることがある。それは実に負くるが勝ちの勝負である。ゆえに、双方ともいずれについても冷ややかにワーテルローのことを語ろう。偶然のものは偶然に返し、神のものは神に返そう。かくして、およそワーテルローは何であるか? 一つの勝利であるか? いや。僥倖(ぎょうこう)なる骰子の目にすぎない。
 ヨーロッパによって得られフランスによって払われたる骰子の賭金(かけきん)である。
 そこに獅子(しし)の像を建てるまでになることは、わけもないことだったのである。
 ワーテルローは、その上、史上最も不思議な会戦である。ナポレオンとウェリントン、彼らは互いに敵ではなくて、両極端である。対偶(アンチテーズ)を好む神も、かつてこれほどはなはだしい対照とこれほど異様な対置とをこさしめたことはない。一方には、精確、予測、幾何(きか)、用心、確実にされたる退却、節約されたる予備兵、執拗(しつよう)なる冷静、乱すべからざる方式、地形を利用したる戦術、各隊を平衡せしむる戦術、繩墨式(じょうぼくしき)の殺戮(さつりく)、時計を手にして規定されたる戦い、任意行動のいっさいの禁止、古い古典的の勇気、絶対の正整。他方には、直感、察知、軍事的驚異、超人的本能、炎の一瞥(いちべつ)、鷲(わし)のごとき目つきと雷電のごとき打撃とのいい知れぬある物、傲然(ごうぜん)たる慓悍(ひょうかん)さのうちにおける驚くべき技能、深奥なる魂のあらゆる不可思議、運命との連結、召喚されていわば服従を強いられたる川や野や森や丘、戦場を虐遇するまでに立ち至る専制者、戦略に交じえられたる天運を増大せしめつつしかも乱しつつそれに対する信念。ウェリントンは戦いのバレーム(訳者注 有名なる計算数学者)であり、ナポレオンは戦いのミケランゼロであった。そしてこのたびは天才は計算に負かされたのである。
 双方ともだれかを待っていたのである。それに成功したのは、正確なる計算家の方であった。ナポレオンはグルーシーを待っていたが、彼はこなかった。ウェリントンはブリューヘルを待っていたが、彼はやってきた。
 ウェリントンは、讐(あだ)を返さんとして立った古典的戦法そのものである。ボナパルトはその光栄の初めにおいて、イタリーにて古典的戦法に邂逅(かいこう)し、みごとにそれをうち破った。年老いた鴟梟(ふくろう)は年若き鷹(たか)の前に逃走した。旧戦術はただに撃破されたのみでなく、また侮辱された。その二十六歳のコルシカの青年はいったい何者であったか? すべてをおのれの向こうに回しておのれの方には何もなく、糧食も弾薬も大砲も靴もなく、ほとんど軍隊もなく、大集団に対してわずかに一握りの兵員をもってし、同盟したる全欧州に向かって飛びかかり、そしてほとんど不可能のうちに絶対の勝利を占めたるその赫々(かくかく)たる初心者は、いったい何を意味したか? ほとんど息をもつかず、同じ一群の兵士より成る道具を手にして、アルヴィンツィーに加うるにボーリユーを覆(くつがえ)し、ボーリユーに加うるにウルムゼルを覆し、ウルムゼルに加うるにメラスを覆し、メラスに加うるにマックを覆して、相次いでドイツ皇帝の五軍を粉砕したその雷電のごとき狂人は、いったいどこから出てきたのか? 恒星の鉄面皮を有するその戦いの新参者は、いったい何者であったか? 陸軍のアカデミー派は、逃走しながら彼を破門した。かくて、新武断派に対する旧武断派の癒(いや)し難き遺恨、火炎の剣に対する正統のサーベルの医(いや)し難き遺恨、天才に対する定型者の医し難き遺恨が生まれた。そして一八一五年六月十八日、その遺恨は最後の一言を得た。ロディ、モンテベロ、モンテノッテ、マンチュア、マレンゴー、アルコラなどの下にそれは一語をしるした。ワーテルローと。多衆の喜ぶところの凡庸の勝利である。運命はその皮肉に同意したのである。衰運においてナポレオンは、おのれの前にこんどは年少ウルムゼルを見いだした。
 実際一人のウルムゼルを得んには、ただウェリントンの頭髪を白く染めれば足りる。
 ワーテルローは、第二流の将帥によって勝たれたる第一流の戦いである。
 ワーテルローの戦いにおいて賞賛しなければならないものは、イギリスであり、イギリスの強靱(きょうじん)、イギリスの決意、イギリスの血である。イギリスがそこにおいて有したみごとなものは、もしかく言うことがイギリスにとって不快でないならば、それはイギリス自身である。その将帥にあらずしてその軍隊である。
 不思議に忘恩なるウェリントンは、バサースト卿に贈った書簡のうちにおいて、彼の軍隊、一八一五年六月十八日に戦った軍隊は、「軽蔑(けいべつ)すべき軍隊」であったと述べている。ワーテルローの田野の下に埋もれているあの陰惨なるつみ重なった骸骨(がいこつ)どもは、それを何と思うであろうか?
 イギリスはウェリントンに対してあまりに謙譲であった。ウェリントンをかく偉大ならしむることは、イギリスを微小ならしむることである。ウェリントンはただ普通の一英雄に過ぎない。あの灰色のスコットランド兵、あの近衛騎兵、あのメートランドおよびミッチェルの連隊、あのパックおよびケンプトの歩兵、あのポンソンビーおよびソマーセットの騎兵、霰弾(さんだん)の下に風笛を奏していたあのハイランド兵、あのライラントの大隊、エスリングおよびリヴォリの戦いいらいの老練なる軍勢に対抗したるあのほとんど銃の操法をも知らなかった全くの新参兵、彼らこそ偉大なのである。ウェリントンは頑固(がんこ)であり、そこに彼の価値はあった。そして吾人(ごじん)はそれをけなすものではない。しかし彼の歩兵や騎兵の些少(さしょう)といえども彼と同じく堅固だったのである。鉄石大公に恥じない鉄石兵士である。吾人は吾人のすべての賞揚を、イギリス兵士に、イギリス軍に、イギリス民衆に与える。もし戦勝記念標があるならば、それはイギリスのものである。ワーテルローの円柱塔にして、もし一人の顔貌の代わりに一民衆の像を雲間に高く上ぐるならば、それはいっそう正当なものとなるであろう。
 しかしこの偉大なるイギリスは、吾人のここに述ぶるところのものを怒るであろう。彼はなお、かの一六八八年およびフランスの一七八九年の両革命後においても、封建的の幻を有している。彼はなお世襲制および階級制を信じている。強大と光栄とにおいて他にすぐれたるその民衆は、民衆としてでなく国民として自尊している。民衆でありながら、しかも好んで服従し、頭として一人の君主を戴(いただ)いている。労働者は甘んじて軽侮され、兵士は甘んじて鞭(むち)打たれる。人の記憶するごとく、インケルマンの戦いにおいて、一人の軍曹がたしかに全軍を救ったと思われることがあったが、彼はラグラン卿からその名を述べらるることができなかった。イギリスの陸軍階級制は、将校以下の者はいかなる英雄をも、これを報告中にしるすことを許さないのである。
 さてワーテルローのごとき種類の会戦において、何物よりも特に吾人(ごじん)の感嘆するところのものは、偶然が示した驚くべき巧妙さである。夜の雨、ウーゴモンの城壁、オーアンの凹路(おうろ)、大砲の音をも耳にしなかったグルーシー、ナポレオンを欺いた案内者、ブューローを正当に導いた案内者、すべてそれらの異変はみごとに導き出されたのである。
 なお全体としてこれを言えば、ワーテルローには戦いというよりむしろ殺戮(さつりく)があった。
 ワーテルローは、あらゆる大戦のうちにおいて、兵士の数に比して最も狭小な正面を有する戦いである。ナポレオンは四分の三里の正面、ウェリントンは半里の正面、しかも双方とも各□七万二千の兵士。その密集よりあの殺戮が到来した。
 次の計算がなされ、次の比例が立てられた。兵員の損失――アウステルリッツにおいて、フランス軍百分の十四、ロシア軍百分の三十、オーストリヤ軍百分の四十四。ワグラムにおいて、フランス軍百分の十三、オーストリア軍百分の十四。モスコヴァにおいて、フランス軍百分の三十七、ロシア軍百分の四十四。バウツェンにおいて、フランス軍百分の十三、ロシア・プロシア軍百分の十四。ワーテルローにおいて、フランス軍百分の五十六、連合軍百分の三十一。ワーテルローについての合計、百分の四十一。十四万四千の兵士に、六万の戦死者。
 ワーテルローの平野は今日、人間の虚心平気な踏み台たる地面に固有の平静さを保っている、そして他の平原と何ら異なった点を有しない。
 けれども夜には、一種の幻の靄(もや)が立ち上る。もしだれか旅客にして、そこを漫歩し目を定め耳を澄まし、あのいたましきフィリッピの平原(訳者注 昔アントニウスとオクタヴィアヌスとがブルツスとカシウスとを敗ったマケドニアの平原)に対するヴィルギリウスのごとくに黙想するならば、そこに起こった大破滅の幻覚にとらえらるるであろう。恐ろしき六月十八日の様はよみがえってき、人工の記念の丘は消え、何かのその獅子(しし)の像も消散し、戦場はまざまざと現われて来る。歩兵の列は平原のうちにうねり、狂うがごとく疾駆する騎兵の列は地平を過ぎる。心乱れたその瞑想(めいそう)の旅客は見る、サーベルのひらめきを、銃剣の火花を、破烈弾の火災を、雷電の驚くべき交錯(こうさく)を。また彼は聞く、墳墓の底の瀕死の喘(あえ)ぎのごとくに、幻の戦いの漠たる叫喊(きょうかん)の響きを。あの物影は擲弾兵(てきだんへい)、あの微光は胸甲騎兵、あの骸骨(がいこつ)はナポレオン、あの骸骨はウェリントン。それらはもはや幻ではあるが、しかもなお互いに衝突し戦っている。谿谷(けいこく)は赤くいろどられ樹木は震え、雲間にまで狂暴なものがひろがり、そして暗夜のうちに、モン・サン・ジャン、ウーゴモン、フリシュモン、パプロット、プランスノアなど、すべてそれらの凶暴な高地は茫乎(ぼうこ)と現われきたって、その上には、互いに殲滅(せんめつ)し合う幽鬼の旋風が荒れ狂っている。

     十七 ワーテルローは祝すべきか

 世には少しもワーテルローを憎まないきわめて敬すべき自由主義の一派がある。しかし吾人(ごじん)はその仲間ではない。吾人に取っては、ワーテルローは単に自由の惘然(ぼうぜん)自失した一時期を画するものに過ぎない。かくのごとき鷲よりかくのごとき卵が生れるとは、それこそ正しく意外事である。
 ワーテルローは、これを問題の最高見地よりみるならば、ことさらに反革命的の勝利である。それはフランスに対抗するヨーロッパであり、パリーに対抗するペテルブルグとベルリンとウインとである。進取に対抗する現状維持(スタチュ・クオ)であり、一八一五年三月二十日を通じて攻撃されたる一七八九年七月十四日であり(訳者注 前者はナポレオンのエルバ島よりパリーへ帰着の日、後者はフランス大革命の初端バスティーユ牢獄破壊の日)フランスの制御すべからざる騒乱に対する諸君主政体の戦闘準備である。既に二十六年前から爆発しているその広大な民衆を消滅し尽すこと、それがその夢想であった。それは、ブルンスウィック家、ナッソー家、ロマノフ家、ホーヘンツォルレルン家、ハプスブールグ家などと、ブールボン家との連衡である。しかしワーテルローはその背に神法をになっている。帝国が専制的であったがゆえに、それに代わった王国が事物の自然の反動として無理にも自由的でなければならなかったことは、真実である。そして勝利者らのいたく遺憾としたことではあったが、余儀ない立憲制がワーテルローから出てきたことも、真実である。革命は真に敗らるることのできないものだからである。そしてそれは天意的なもので絶対に決定的なものであるがゆえに、常に再現し来るからである。すなわち、ワーテルローの前においては、古き諸王位を覆(くつがえ)したボナパルトのうちに、そしてワーテルローの後においては、憲法に同意し服従したルイ十八世のうちに現われた。ボナパルトは平等を表明するに不平等を用いて、ナポリの王位に一御者を据え、スエーデンの王位に一軍曹を据えた。ルイ十八世はサン・トーアンにおいて人権尊重の宣言に署名した。もし革命の何たるやを解せんと欲するならば、それを「進歩」と呼んでみるがいい。そしてもし進歩の何たるやを解せんと欲するならば、それを「明日」と呼んでみるがいい。明日は必ずや明日の仕事をなす、しかもそれを既に今日よりなしている。明日は不思議にも常にその目的とするところに達する。一個の兵士にすぎなかったフォアをして一個の弁舌家たらしむるのに、明日はウェリントンを使用する。フォアはウーゴモンにて倒れ、再び演壇に立ち上がる(訳者注 彼はウーゴモンに負傷したがその後ナポレオンの没落後代議士として熱弁を振った)。かくのごとく進歩は振る舞う。その職工にとっては一つとしていたずらな道具はない。彼は常に一糸乱さず、アルプスをまたいだあの男を、またエリゼー小父(おじ)というあのよろめきつつゆく善良な老病者を(訳者注 ナポレオンとルイ十八世)、自己の聖なる仕事に適合させる。彼は脚気病者をも征服者をも等しく利用する、外部には征服者を、内部には脚気病者を。ワーテルローは、剣による欧州諸王位の崩壊を突然止めさせながら、他の方面において革命の事業を継続させるの結果をしかきたさしめなかった。軍人の時代は去って、思想家の世となった。ワーテルローが引き止めんと欲した世紀は、その上をふみ越えて、自己の道を続けた。その不祥なる勝利は、自由のために打ち負かされた。
 これを要するに、そしてまた確かに、ワーテルローにおいて勝利を得たところのもの、ウェリントンの背後にほほえんだところのもの、人の言うところではフランスの元帥杖をもこめてヨーロッパの元帥杖を彼にもたらしたところのもの、獅子(しし)の塚を築くために骸骨(がいこつ)の満ちた土の車を楽しげにひいたところのもの、その台石に一八一五年六月十八日という日付を揚々としるしたところのもの、壊走兵(かいそうへい)をなぎ払うブリューヘルを励ましたところのもの、モン・サン・ジャンの高地の上から獲物をねらうようにフランスの上にのしかかってきたところのもの、それは反革命であった。分割という破廉恥なる言葉をつぶやく反革命であった。しかもパリーに到着して彼は目近かに噴火口を見た。彼はその灰がおのれの足を焼くのを感じた。そして意見を変えた。彼は再び憲法という不完全な試みに立ち戻った。
 吾人(ごじん)をして、ワーテルローの中に、ただワーテルローの中にあるもののみを見せしめよ。自ら求められたる自由はそこには少しもない。反革命は自ら欲せずして自由主義となった、とともにまた、それに相同じき現象によって、ナポレオンも自ら欲せずして革命家となった。一八一五年六月十八日、馬上のロベスピエールは落馬させられたのである。

     十八 神法再び力を振るう

 執政官制(ディクテーター)の終焉(しゅうえん)。ヨーロッパの全様式は瓦解(がかい)した。
 帝国は、あたかも死滅しゆくローマ帝国のそれのごとき暗黒のうちに倒れた。暗黒時代におけるがごとく、人は再び深淵を見た。ただ一八一五年の暗黒時代は、これをその通称によって反革命と呼ぶべきであるが、息が短く直ちに息を切らして、間もなくやんでしまった。滅びた帝国は、うち明けて言えば、人々から泣かれた、しかも勇壮なる人々の目によって泣かれた。もし光栄にして剣の笏(しゃく)のうちに存するならば、帝国は光栄そのものであった。それは暴政の与え得るすべての光耀(こうよう)を地上にひろげた、陰惨なる光耀を、いな、なお言わん、暗黒なる光耀を。真の白日に比較すれば、それは夜である。しかもその夜の消滅は、日食のごとき印象を与えた。
 ルイ十八世は再びパリーにはいった。七月八日の円舞踏は三月二十日の熱狂を消した。コルシカ人という言葉はベアルン人という言葉の対照となった。チュイルリー宮殿の丸屋根の旗は白旗となった。亡命者が王位にのぼった。ハルトウェルの樅(もみ)のテーブルは、ルイ十四世式の百合(ゆり)花模様の肱掛椅子(ひじかけいす)の前に据えられた。人々はブーヴィーヌやフォントノアなど(訳者注 昔フランス王によって得られた戦勝の地)のことを昨日の事のように語り、アウステルリッツは既に老い朽ちてしまった。教会と王位とは、おごそかに親愛の情を結んだ。十九世紀の社会安寧の最も動かし難き一形式が、フランスおよび大陸の上に建てられた。ヨーロッパは白い帽章をつけた。トレスタイヨン(訳者注 過激王党の首領の一人)は世に高名となった。オルセー河岸の兵営の正面に太陽を象(かたど)った石の光線のうちには、多頭制に劣らずの箴言(しんげん)が再び現われた。皇帝親衛兵のいた所には今は赤服の近衛兵がいた。カルーゼルの凱旋門(がいせんもん)は、卑劣に得られた戦勝の名前におおわれ、それらの新流行に困らされ、おそらくマレンゴーやアルコラの戦勝の名前に多少恥じてか、アングーレーム公の像によってわずかに難局をきりぬけた。一七九三年の恐るべき共同墓地となったマドレーヌの墓場は、ルイ十六世およびマリー・アントアネットの遺骨がその塵(ちり)にまみれていたので、いまや大理石や碧玉(へきぎょく)を着せられた。ヴァンセンヌの溝(みぞ)の中には一基の墓碑が地上に現われて、ナポレオンが帝冠をいただいた同じ月にアンガン公が銃殺されたのであることを、今更に思い起こさしめた。その死のまぢかで戴冠式(たいかんしき)をあげさした法王ピウス七世は、その即位を祝福したときのごとく平静にその転覆を祝福した。シェンブルンには、ローマ王と呼ぶのもはばかられるわずか四歳の小さな人影があった。そして、すべてそれらのことは成し遂げられ、それらの王は再び王位につき、全ヨーロッパの首長は籠の中に入れられ、旧制度は新制度となり、地上のあらゆる影と光とは、その地位を変えたのである。それはただある夏の日の午後、一人の牧人が森の中で一人のプロシア人に向かって、「こちらからおいでなさい、あちらからはだめです!」と言ったからである(訳者注 ワーテルローにおけるブューローの案内者のこと参照)。
 この一八一五年は、一種の悩ましい四月の月であった。不健康にして有毒な古い現実は、新しい装いをこらした。欺瞞(ぎまん)は一七八九年をめとり、神法は一つの憲法の下に隠れ、擬制は立憲となり、特権や妄信(もうしん)や底意は、胸に抱きしめられたる第十四条(訳者注 憲法第十四条――王は国家の最上首長にして、陸海軍を統率し、宣戦を布告し、平和、同盟、通商上の条約を締結し、官吏を任免し、法律の適用と国家の安寧とのために、必要なる規定および命令を発す)とともに、自由主義で表面を糊塗(こと)した。それは蛇(へび)の脱皮であった。
 人間はナポレオンによって同時に大きくされ、また小さくされていた。理想はその燦爛(さんらん)たる物質の世において、空想という妙な名前をもらっていた。未来を嘲弄(ちょうろう)したのは偉人の重大な軽率である。さはれ、砲弾にさらされながらその砲手を深く愛していた民衆らは彼をさがし求めた。どこに彼はいるか? 彼は何をなしているか? マレンゴーおよびワーテルローに臨んだ一人の老廃兵に向かって、ある通行人は言った、ナポレオンは死んだと。するとその兵士は叫んだ、「あの人が死んだと! 君はいったい、あの人をよく知ってるか?」人々の想像は転覆された彼を神に祭り上げていた。ヨーロッパの奥底はワーテルローの後に暗黒になった。ナポレオンの消滅によって、ある巨大な空虚が長く残されたのである。
 諸国王らはその空虚の中に身を据えた。旧ヨーロッパはその機に乗じて復古した。神聖同盟(サント・アリアンス)は作られた。しかしワーテルローの災なる戦場はそれに先立ってベル・アリアンスと叫んだではないか(訳者注 ワーテルローの一地名であるが、またその文字は美しき同盟という意味を有する)。
 この建て直されたる旧ヨーロッパに対峙(たいじ)し対抗して、一つの新しきフランスのひな形は描かれた。皇帝によって嘲弄(ちょうろう)された未来は現出しきたった。それは額(ひたい)に自由という星をつけていた。新しき時代の熱烈な目はその方へ向けられた。ただ不思議なことには、人々はその未来なる「自由」と、その過去なるナポレオンとに、同時に心を奪われた。敗北は敗者を大ならしめていたのである。転覆したボナパルトは、つっ立ってるナポレオンよりもいっそう高いように思われた。勝利を得た者らも恐れをいだいた。イギリスはハドソン・ロウをして彼の番をさせ、フランスはモンシュニュをして彼の様子をうかがわした。胸に組んだ彼の両腕は、諸王位の不安となった。アレキサンドル皇帝は彼を「予が不眠」と名づけた。かかる恐怖は、彼がおのれのうちに有していた広大なる革命よりきたったのである。それこそボナパルト式自由主義を説明するものであり、それを許さしむるところのものである。その幻影は旧世界に戦慄(せんりつ)を与えた。諸国王は、はるか水平線のかなたにセント・ヘレナの巌(いわお)を有して、不安げに国政を統(す)べた。
 ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶を閲(けみ)しつつある間に、ワーテルローの平野に倒れた六万の人々は静かに腐乱してゆき、彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。それをウイン会議は一八一五年の条約となし、それをヨーロッパは復古と名づけた。
 ワーテルローがいかなるものであったかは、おおよそ右のとおりである。
 しかしそれも無窮なるものに対しては何のかかわりがあろう? そのすべての暴風雨、そのすべての雲霧、その戦い、次にその平和、そのすべての影、それも広大なる日の輝きを一瞬たりとも乱すことはできなかった。その目の前においては、草の葉より葉へとはう油虫も、ノートル・ダーム寺院の塔の鐘楼より鐘楼へと飛ぶ鷲(わし)も、なんら選ぶところはないのである。

     十九 戦場の夜

 さて再びあの不運なる戦場に立ち戻ってみよう。実はそれがこの物語に必要なのである。
 一八一五年六月十八日の夜は満月であった。その月の光は、ブリューヘルの獰猛(どうもう)な追撃に便宜を与え、逃走兵のゆくえを照らし出し、その不幸な集団を熱狂せるプロシア騎兵の蹂躙(じゅうりん)にまかせ、虐殺を助長せしめた。大破滅のうちには往々にして、かかる悲愴(ひそう)な夜の助けを伴うものである。
 最後の砲撃がなされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
 イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床に眠ることは戦勝の慣例的なしるしである。彼らはロッソンムの彼方に露営を張った。プロシア軍は壊走者(かいそうしゃ)の後を追って前進を続けた。ウェリントンはワーテルローの村に行って、バサースト卿への報告をしたためた。
 かく汝働けども、そは汝自らのためにはあらずという格言(訳者注 他人の功を横取りする場合に言う)を、もし実際に適用し得るならば、それはまさしくこのワーテルローの村に対してであろう。ワーテルローの村はただ手をこまぬいていて、戦地をへだたる半里の所にあった。モン・サン・ジャンは砲撃され、ウーゴモンは焼かれ、パプロットは焼かれ、プランスノアは焼かれ、ラ・エー・サントは強襲され、ラ・ベル・アリアンスは二人の勝利者の抱擁するのを見た。しかしそれらの名前はほとんど世に知られないで、戦いに少しも働かなかったワーテルローがすべての名誉をになっている。
 われわれは戦争に媚(こ)びる者ではない。機会あらばその真相を告げ知らしてやろうとする者である。戦争に恐るべき美の存することを、われわれは隠さずに述べてきた。しかしまた多少の醜悪も存することを認めなければならない。その最もはなはだしい醜悪の一つは、戦勝ののち直ちに死者のこうむる略奪である。戦いに次いで来る曙は常に、裸体の屍(かばね)の上に明けゆくものである。
 そういうことをなす者はだれであるか。かく戦勝を汚す者はだれであるか。勝利のポケットの中に差し入れらるるそのひそやかな醜い手はいかなるものであるか。光栄の背後にひそんで仕事をなすそれらの掏摸(すり)は何者であるか。ある哲学者らは、なかんずくヴォルテールは、それはまさしく光栄をもたらしたその人々であると断言する。彼らは言う、それはその人々にほかならない、代わりの者はいないのである、立っている者らが、倒れてる者らを略奪するのである。昼間の英雄は、夜には吸血鬼となる。要するに、おのれの殺した死骸が所持するものを多少略奪することは、まさしく正当の権利であると。しかしながら、われわれはそれを信じない。月桂樹(げっけいじゅ)の枝を折り取ることと死人の靴を盗むこととは、同一人の手には不可能事であるようにわれわれは思う。
 ただ一つ確かなことは、普通勝利者の後に盗人が来るということである。しかしながら、兵士は、ことに近代の兵士は、この問題の外に置きたいものである。
 あらゆる軍隊は一つの尾を持っている。その者どもこそ、まさしく責むべきである。蝙蝠(こうもり)のごとき者ども、半ば盗賊であり半ば従僕である者ども、戦争と呼ばるる薄明りが産み出す各種の蝙蝠、少しも戦うことをしない軍服の案山子(かがし)、作病者、恐るべき跛者、時としては女房どもとともに小さな車にのって歩きながら酒を密売しそれをまた盗み歩くもぐり商人、将校らに案内者たらんと申し出る乞食(こじき)、風来者の従卒、かっさらい、それらの者どもを、行進中の軍隊は昔――われわれは現代のことを言ってるのではない――うしろに引き連れていた。専門語ではそれをうまくも「遅留兵」と呼んだものである。その者どもについての責任は、どの軍隊にもどの国民にもなかったのである。彼らはイタリー語を話してドイツ軍に従い、フランス語を話してイギリス軍に従うたぐいの奴らである。フェルヴァック侯爵が、むちゃなピカルディー語のために欺かれてフランス人だと思い込み、チェリゾラの勝利の夜、同じ戦場にて暗殺され略奪されたのも、かかる惨(みじ)めな奴(やつ)らの一人、フランス語を話すスペイン人の一遅留兵のためにであった。略奪から賤夫(せんぷ)が生まれる。敵によって糧を得よという賤(いや)しむべき格言は、この種の癩病(らいびょう)やみを作り出した。それをなおすにはただ厳酷な規律あるのみである。だが往々、およそ名実伴わぬ高名の人がいるものである。某々の将軍は実際えらいには違いないが、何ゆえにかくも人望があったのか、その理由がわからぬこともしばしばある。テューレンヌは略奪を許したので兵卒どもに賞揚された。悪事の黙許は親切の一部である。テューレンヌはパラティナの地を兵火と流血とにまみらしめたほど親切であった。軍隊の後方における略奪者の多寡(たか)はその司令官の苛酷(かこく)に反比例することは、人の見たところである。オーシュおよびマルソー両将軍には少しも遅留兵がなかった。ウェリントンにはそれが少ししかなかった。この点について、われわれは喜んで彼に公平なる賛辞を呈するものである。
 それでもなお六月十八日から十九日へかけての夜、死人は続々略奪をこうむった。ウェリントンは厳格であった。現行を見い出したならば直ちに銃殺すべしとの命令を下した。しかし劫奪(ごうだつ)は執拗(しつよう)であった。戦場の片すみに銃火のひらめいてる間に盗人らは他の片すみにおいて略奪した。
 月の光はその平原の上にものすごく落ちていた。
 真夜中ごろ、オーアンの凹路(おうろ)の方に当たって、一人の男が徘徊(はいかい)していた、というよりも、むしろはい回っていた。その様子から見ると、前にその特質を述べておいたあの遅留兵の一人で、イギリス人でもなく、フランス人でもなく、農夫でもなく、兵士でもなく、人間というよりもむしろ死屍食い鬼であって、死人の臭いに誘われてき、窃盗(せっとう)をも勝利と心得、ワーテルローを荒らしにやってきたものらしかった。外套に似た広上衣をまとい、不安げなまた不敵な様子で、前方に進んだり後を振り向いたりしていた。いったいその男は何者であったか? おそらく昼よりも夜の方が彼については多くを知っていたであろう。彼は嚢(ふくろ)は持っていなかったが、まさしく上衣の下には大きなポケットがあったに違いない。時々彼は立ち止まって、だれかに見られてはしないかを見きわめるかのようにあたりの平原を見回し、突然身をかがめ、地面にある黙々として動かない何かをかき回し、それからまた立ち上がっては姿を隠した。その忍び行くさま、その態度、そのすばしこい不思議な手つきなどは、ノルマンディーの古い伝説にアルーと呼ばれてる廃墟(はいきょ)に住む薄暮の悪鬼を思わせるのだった。
 ある種の夜の水鳥は、沼地の中でそのような姿をしていることがある。
 もしその夜の靄(もや)をじっと透かし見たならば、ニヴェルの大道の上にモン・サン・ジャンからブレーヌ・ラルーへ行く道の角の所に立ってる一軒の破屋(あばらや)のうしろに隠れたようにして、瀝青(チャン)を塗った柳編みの屋根のついてる一種の従軍行商人の小さな車のようなものが止まっていて、轡(くつわ)をつけたまま蕁麻(いらくさ)を食ってる飢えたやせ馬がそれにつけられていて、その車の中には、そこに積んである箱や包みの上にすわっている女らしい人影があるのが、はるかに認め得られたであろう。おそらくその車と平野を徘徊(はいかい)してるあの男との間には、何かの関係があったかも知れない。
 夜は澄み渡っていた。中天には一片の雲もない。地上は血潮で赤く染んでいようとも、関せず焉(えん)として月は白く澄んでいる。空の無関心がそこにある。平野のうちには、霰弾(さんだん)のために折られた樹木の枝がただ皮だけでぶら下がっていて、夜風に静かにゆらめいていた。微風が、ほとんど一つの息吹(いぶ)きが[#「息吹(いぶ)きが」は底本では「息吹(いぶき)きが」]、灌木(かんぼく)の茂みをそよがしていた。鬼の飛び去るのに似よった震えが、草むらの中にはあった。
 イギリスの陣営の巡察や巡邏(じゅんら)の兵士らのゆききする足音が、ぼんやり遠くに聞こえていた。
 ウーゴモンとラ・エー・サントとはなお燃えていた。一つは西に一つは東に二つの大きな火炎を上げ、地平線の丘陵の上に広く半円に広がってるイギリス軍の野営の火が、その間を糸のように連結していて、両端に紅宝玉をつけた紅玉(ルビー)の首環(くびわ)が広げられてるかのようだった。
 われわれは既にオーアンの道の災害を述べておいた。幾多の勇士にとってその死はいかなるものであったろうか。それを思えば心もおびえざるを得ない。
 もし何が恐るべきかと言えば、もし夢にもまさる現実があるとすれば、それはおそらくこういうことであろう。生き、太陽を見、雄々しい力は身にあふれ、健康と喜悦とを有し、勇ましく笑い、前途のまばゆきばかりの光栄に向かって突進し、胸には呼吸する肺を感じ、鼓動する心臓を感じ、推理し語り考え希(ねが)い愛する意志を感じ、母を持ち、妻を持ち、子供を持ち、光明を有し、そして突然に、声を立てる間もなく、またたくひまに、深淵のうちにおちいり、倒れ、ころがり、押しつぶし、押しつぶされ、麦の穂や花や木の葉や枝をながめ、しかも何物にもつかまることができず、今はサーベルも無益だと感じ、下には人間がおり、上には馬がおり、いたずらに身を脱せんとあがき、暗黒のうちに骨は打ち折られ、眼球の飛び出るほど踵(かかと)でけられ、狂うがごとく馬の蹄(ひづめ)にかじりつき、息はつまり、うなり、身をねじり、そこの下積みになっていて、そして自ら言う、「先刻まで私は生きていたのだ!」
 その痛ましい災害の最期の苦悶が聞こえていたその場所も、今はすべてひっそりと静まり返っていた。凹路(おうろ)の断崖は、ぎっしり積み重ねられた馬と騎兵とでいっぱいになっていた。恐ろしいもつれであった。もはやそこには斜面もなかった。死骸はその凹路を平地と水平にし、枡(ます)にきれいにはかられた麦のようにその縁と平らになっていた。上部は死骸(しがい)の堆積(たいせき)、下の方は血潮の川。それが一八一五年六月十八日の夜におけるその道路のありさまであった。血はニヴェルの大道の上まで流れてきて、その大道をふさいでいる鹿柴(ろくさい)の前に大きな池をなしてあふれていた。その場所は今でもなお指摘することができる。しかし胸甲騎兵らを覆没したのは、読者の記憶するところであろうが、反対の方のジュナップの大道の方面においてであった。死骸(しがい)の積み重なった厚さは、凹路(おうろ)の深さに比例していた。凹路が浅くなっていて、ドロールの師団が通った中央の方面では、死骸の層も薄くなっていた。
 前にちょっと描いておいたあの夜の徘徊者(はいかいしゃ)は、その方面へ行っていた。彼はその広大なる墳墓を方々さがし回った。じっとながめ回した。嫌悪(けんお)すべき死人検閲をでもするかのようにして通っていった。彼は足を血に浸して歩いていた。
 突然、彼は立ち止まった。
 彼の前数歩の所に、凹路の中に、死骸の堆積(たいせき)がつきている所に、それらの人と馬との折り重なった下から指を広げた一本の手が出ていて、月の光に照らされていた。
 その手には何か光るものが指についていた。金の指輪であった。
 男は身をかがめ、ちょっとそこにうずくまった。そして彼が再び身を起こした時は、差し出てる手にはもう指輪がなくなっていた。
 男はきっぱり立ち上がったのではなかった。物におびえたようなすごい態度をして、死人の堆積の方に背を向け、ひざまずいたまま地平線をすかし見ながら、地についた両の食指に上体をもたして、頭だけを凹路の縁から出してうかがっていた。狼の四本足も、ある種の行ないには便宜なものである。
 それから、彼は心を決して立ち上がった。
 その時、彼はぎくりとした。うしろからだれかにつかまれてるようだった。
 彼はふり向いて見た。それは先刻の開いていた手であって、指を閉じながら、彼の上衣の裾(すそ)をつかんでいた。
 普通の人ならばこわがるところだった。がその男は笑い出した。
「なんだ、」と彼は言った、「死人じゃないか。憲兵よりはまだお化けの方がいいや。」
 するうちにその手は力つきて彼を放した。人の努力も墓の中ではすぐに尽きるものである。
「ははあ、」と男は言った、「この死人め、まだ生きてるのかな。一つ見てやろう。」
 彼は再び身をかがめ、死人の堆積(たいせき)をかき回し、邪魔になるものを押しのけ、その手をつかみ、その腕をとり、頭を引き上げ、身体を引き出し、そしてしばらくするうちに、もう生命のない、あるいは少なくとも気を失ってる一人の男を、凹路(おうろ)の影の方へ引きずって行った。それは一人の胸甲騎兵であって、将校であり、しかも相当の階級のものらしかった。大きな金の肩章が胸甲の下からのぞいていた。もう兜(かぶと)は失っていた。ひどいサーベルの傷が顔についていて、顔一面血だらけだった。しかし顔のほか、手足は無事らしかった、そして、もしここに仕合わせという語が使えるならば、仕合わせにも、多くの死骸が彼の上に丸屋根をこしらえたようなふうになっていて、押しつぶされることを免れていた。目はもう閉じていた。
 彼はその胸甲の上に、レジオン・ドンヌールの銀の十字章をつけていた。
 男はその勲章をもぎ取り、上衣の下の洞穴の底へ押し込んでしまった。
 その後で、彼は将校の内ぶところを探ってみて、そこに時計を探りあてて、それを取り上げた。それからチョッキを探って、そこに金入れを見いだして、それを自分のポケットにねじ込んだ。
 その死にかかった将校に男がそこまで手をかしてやった時、将校は目を開いた。
「ありがとう。」と彼は弱々しく言った。
 男の取り扱い方の荒々しさと、夜の冷気と、自由に吸い込まれた空気とは、彼を瀕死(ひんし)の境から引き戻したのだった。
 男は返事をしなかった。頭を上げた。人の足音が平原の中に聞こえていた、たぶん巡察の兵士が近づいて来るのであったろう。
 将校は低くつぶやいた、その声のうちには死の苦しみがこもっていた。
「どちらが勝ったか?」

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:554 KB

担当:undef