レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 彼の瞑想(めいそう)は少しもその方向を変じていなかった。彼は光り輝く文字に書かれた自分の義務をなお明らかに見ていた。その文字は彼の眼前に炎と燃え、視線を移すごとについて回った。「行け! 汝の名を名乗れ! 自首して出よ!」
 彼はまた、これまで彼の生活の二つの規則となっていた二つの観念を、あたかもそれが目に見える形となって眼前に動き出したかのようにじっと見つめた。汝の名前を隠せよ! 汝の魂を聖(きよ)めよ! それらの二つは初めて全然別になって見えてきた。そしてその二つが互いにへだたっている距離を彼は見た。その一つは必ずや善(よ)きものであり、も一つは悪きものともなり得るものであることを、彼は認めた。一は献身であり、他は自己中心である。一は隣人を口にし、他は自己を口にする。一は光明からきたり、他は暗黒から来ると。
 その二つは互いに争っていた。彼はその二つが相争うのを見た。彼が黙想するに従って、その二つは彼の心眼の前に大きくなってゆき、今では巨人のごとき姿となっていた。そして彼自身のうちにおいて、先ほど述べたあの無限のうちにおいて、暗黒と光明との間に、神と巨人との争うのを彼は見るように思った。
 彼は恐怖に満たされた。しかし善の考えが勝利を得るように見えた。
 彼は新たに自分の本心と運命との決定的時期に遭遇しているように感じた。司教は彼の新生涯の第一期を画し、あのシャンマティユーはその第二期を画しているように感じた。大危機の後に大試練がきたのである。
 そのうちにまた一時しずまっていた熱はしだいに襲ってきた。無数の考えが彼の脳裏を過ぎた。しかしそれはただ彼の決心をますます強固にするのみだった。
 ある瞬間には彼は自ら言った。「私はあまり事件を大袈裟(おおげさ)に考えすぎているのかも知れない。結局そのシャンマティユーなる者は大した者ではない。要するに彼は盗みをしたのだ。」
 彼は自ら答えた。「その男が果して林檎(りんご)をいくらか盗んだとしても、一カ月の監禁くらいのものだ。徒刑場にはいるのとはずいぶん差がある。そして彼が盗んだということもわかったものではない。証拠があったのか。ジャン・ヴァルジャンという名前が落ちかかったので、証拠なんかはどうでもよくなったのであろう。いったい検事などという者はいつもそういうふうなやり方をするではないか。囚人だというので、盗人だと考えられたのだ。」
 またある瞬間に彼はこうも考えた。自分が自首して出たならば、自分の勇壮な行為と、過去七年間の正直な生活と、この地方のために尽した功績とは、十分に考量されて許されることになるかも知れない。
 しかしそういう想像はすぐに消え失せてしまった。そして彼は苦笑しながら考えた。プティー・ジェルヴェーから四十スーを盗んだことは、自分を再犯者となすものである。その事件も必ずや現われて来るであろう。そして法律の明文によって自分は終身懲役に処せらるるであろう。
 彼はついにすべての妄想(もうそう)を断ち切って、しだいに地上を離れ、他の所に慰安と力とを求めた。彼は自ら言った。自分は自己の義務を果たさなければならない。義務を避けた後よりも義務を果たした後の方が、より不幸になるということがあり得ようか。もし成り行きに任せ、モントルイュ・スュール・メールにとどまっているならば、自分の高い地位、自分の好評、自分の善業、人の推服、人の敬意、自分の慈善、自分の富、自分の高名、自分の徳、それらは皆罪悪に汚されるであろう。そしてそれらの潔(きよ)い数々もこの忌むべき一事に関連するならば、何の滋味があろう。しかるに、もし自分が犠牲になり果たしたならば、徒刑場の柱と鉄鎖と緑の帽子と絶えざる労働と無慈悲な屈辱とにも、常に聖(きよ)い考えを伴うことができるであろう。
 最後に彼はまた自ら言った。すべては必然の数(すう)である。自分の運命はかく定められたものである。自分には天の定めを乱す力はない。自分はただいずれの場合においても、外に徳を装って内に汚れを蔵するか、もしくは内に聖(きよ)きを抱いて外に汚辱を甘受するか、その一つを選ばなければならない。
 かく雑多な沈痛な考えをめぐらしつつも、彼の勇気は少しも衰えなかった。しかし彼の頭脳は疲れてきた。彼は我にもあらず、他の事を、まったく関係のない種々のことを、考え初めた。
 顳□(こめかみ)の血管は激しく波打っていた。彼はなお室の中を歩き続けていた。会堂の時計がまず十二時を報じ、次に市役所の時計が鳴った。彼はその二つの大時計が十二打つ音を数えた。そしてその二つの鐘の音を比較してみた。その時彼は、ある金物屋で数日前に見た売り物の古い鐘の上に、ロマンヴィルのアントアーヌ・アルバンという名前が刻まれていたのを思い出した。
 彼は寒気(さむけ)がした。そして少し火をたいた。窓をしめることには気がつかなかった。
 そのうちに彼は昏迷(こんめい)の状態にまた陥っていた。十二時を打つ前に考えたことを思い出すのに、かなりの努力をしなければならなかった。ついにそれが思い出せた。
「ああそうだ、」と彼は自ら言った、「私は自首しようと決心したのであった。」
 それから突然彼はファンティーヌのことを考えた。
「ところで、」と彼は言った、「あのかわいそうな女は!」
 そこにまた新しい危機が現われた。
 彼の瞑想(めいそう)のうちに突然現われたファンティーヌは、意外な一条の光のごときものであった。彼には自分のまわりのすべてがその光景を変えたように思われた。彼は叫んだ。
「ああ私は今まで自分のことしか考えなかった。私は自分一個の都合ばかりしか考えなかったのだ! 沈黙すべきかあるいは自首すべきか、自分の身の上を隠すかあるいは自分の魂を救うか、賤(いや)しむべきしかし世人に尊敬さるる役人となるか、あるいは恥ずべきしかし尊むべき囚人となるか、それは私一個のこと、常に私一個のことであり、私一個のことにすぎない。しかしああ、それらすべては自己主義である。自己主義の種々の形ではあるが、とにかく自己主義たる事は一つである。もし今少しく他人のことを考えたならば! およそ第一の神聖は他人のことを考えることである。さあ少し考えてみなければいけない。自己を除外し、自己を消し、自己を忘れてしまったら、すべてそれらのことはどうなるであろう?――もし私が自首して出たら? 人々は私を捕え、そのシャンマティユーを許し、私を徒刑場に送るであろう。それでよろしい。そして? ここはどうなるであろう。ああここには、一地方、一つの町、多くの工場、一つの工業、労働者、男、女、老人、子供、あわれなる人々がある。それらのものを私はこしらえた。私はそれらを生かしてやった。すべて煙の立ちのぼる煙筒のある所、その火のうちに薪(まき)を投じその鍋(なべ)のうちに肉を入れてやったのは、私である。私は安楽と流通と信用とをこしらえてやった。私の来る前には何もなかったのだ。私はこの地方全部を引き上げ、活気立たせ、にぎわし、豊かにし、刺激し、富ましてやった。私がなければ魂がないようなものだ。私が取り去らるれば、すべては死滅するであろう。――そして、あれほど苦しんだあの女、堕落のうちにもなおあれほどのいいものを持っているあの女、思いがけなく私がそのあらゆる不幸の原因となったあの女! そして、その母親に約束して自らさがしにゆくつもりであったあの子供! 私は自分のなした悪の償いとしてあの女に何か負うところはないのか。もし私がいなくなればどうなるであろう。母親は死ぬであろう。そして子供はどうなるかわからない。私が自首して出れば、結果はそんなものである。――もし自首しないならば? まてよ、もし私が自首して出ないとするならば?」
 自らそう問いかけた後に、彼はちょっと考えを止めた。彼はしばし躊躇(ちゅうちょ)と戦慄(せんりつ)とを感じたようだった。しかしそういう時間は長くは続かなかった。そして彼は静かに自ら答えた。
「ところであの男は徒刑場にゆく。それは事実だ。しかし仕方もない、彼は盗みをしたのだ。私がいくら彼は盗みをしなかったと言ってもむだである、彼は実際盗んだのだから。私はここにとどまっていよう。続けて働こう。十年のうちには千万の金をこしらえ、それをこの地方にふりまこう。少しも自分の身にはつけまい。身につけて何になろう。私がなすことはみな自分のためではないのだ。人々の繁栄は増すだろう。工業は盛んになり活気立ってくる。大小の工場は増加してくる。家は百となり千となり、また幸福になる。人民はふえる。田畑であった所には村ができ、荒地であった所には田畑ができる。貧困は後をたち、それとともに放逸や醜業や窃盗や殺害や、あらゆる不徳、あらゆる罪悪は、みな消え失せる。あのあわれな女も自分の子供を育てる。そしてこの地方全部が富み栄え正直になるのだ! ああ実に、私は愚かで誤っていた。自首して出るとは、まあ何ということを言ったのだろう。実際よく注意しなければいけない、何事もあわててはいけない。なに、偉大な高潔なことをなすのを好んだからというのか。結局それは一つのお芝居(しばい)に過ぎないのだ。なぜなら私は自分のこと、自分だけのことしか考えなかったのだから。どこの奴(やつ)ともわからない盗人を、明らかに賤(いや)しむべき一人の男を、多少重すぎはするがしかし実は正当である刑罰から救わんがために、一地方全部が破滅しなければならないというのか。一人のあわれな女が病舎で死に、一人のあわれな子供が路傍にたおれなければならないというのか、犬のように! ああそれこそのろうべきことである。母親はその子供を再び見ることもなく、子供は自分の母親をほとんど知りもしないで終わる。そしてそれもみな、林檎(りんご)を盗んだあの老耄(おいぼれ)のためというのか。たしかに彼奴(あいつ)だって、林檎のためでなくとも、何か他のことで徒刑場にはいってもいい奴だろう。一人の罪人を助けて罪ない多くの人を犠牲にするとは、徒刑場にいても自分の茅屋(ぼうおく)にいてもあまりその不幸さに変わりもなく、またせいぜい四、五年とは生きてもすまい老いぼれの浮浪人を助けて、母親や妻や児やすべての住民を犠牲にするとは、何という結構な配慮なのか。あの小さなあわれなコゼットは、世の中に助けとなるものは私だけしか持たない、そして今では、あのテナルディエの怪しい家で寒さのためにきっと青くなってるだろう。そこにもまた悪党がいる。そして私はこれらのあわれな人々に対する自分の義務を欠こうとしている。自首して出ようとしていた。何というばかなことをしようとしたのか。まず悪い方から考えるとして、かくするのは自分にとって悪い行ないであると仮定し、他日私の本心はそれを私に非難すると仮定しても、自分だけにしか当たらないそれらの非難を、自分の魂だけにしかかかわらないその悪い行ないを、他人の幸福のために甘んじて受けること、そこに献身があり、そこに徳行があるではないか。」
 彼は立ち上がった、そして歩き初めた。こんどは自ら満足であるような気がした。
 金剛石は地下の暗黒のうちにしか見いだされぬ。真理は思想の奥底にしか見いだされぬ。その奥底に下がった後、その最も深い暗黒のうちを長く探り歩いた後、金剛石の一つを、真理の一つを、彼はついに見いだしたと思った。そしてそれをしかと手に握っていると思った。彼はそれをながめて眩惑(げんわく)した。
「そうだ、そのとおりだ。」と彼は考えた。「これが本当のことだ。私は解決を得た。ついには何かにしかとつかまらなければいけない。私の決心は定まった。なるままに任せよう。もう迷うまい。もう退くまい。これはすべての人のためであって、自分一個の利害のためではない。私はマドレーヌである、またマドレーヌのままでいよう。ジャン・ヴァルジャンなる人は不幸なるかな! それはもはや私ではない。私はそんな人を知らない。私はもはやそれが何であるかを知らない。今だれかがジャン・ヴァルジャンになっているとするなら、その人自身で始末をつけるがいい。それは私の関係したことではない。それは実に暗夜のうちに漂っている不運の名前である。もしそれがだれかの頭上にとどまり落ちかかったとすれば、その人の災難とあきらめるのほかはない。」
 彼は暖炉の上にあった小さな鏡の中をのぞいた。そして言った。
「おや、決心がついたので私は安堵(あんど)したのか! 私は今まったく生まれ変わったようになった。」
 彼はなお数歩あるいた、そしてふいに立ち止まった。
「さあ、一度決心した以上はいかなる結果になろうとたじろいではいけない。」と彼は言った。「私をあのジャン・ヴァルジャンに結びつけるひもはなお残っている。それを断ち切らなければいけない。ここに、この室の中に、私を訴える品物が、証人となるべき無言の品物が、なお残っている。事は決した。すべてそれらのものをなくしてしまわなければいけない。」
 彼はポケットを探って、紙入れを取り出し、それを開いて、中から小さな一つの鍵(かぎ)を引き出した。
 彼はその鍵をある錠前の中に差し入れた。その錠前は、壁にはられてる壁紙の模様の最も暗い色どりの中に隠されていて、ちょっと見てはその鍵穴も見えないくらいだった。がそこに、隠し場所が、壁の角と暖炉棚との間にこしらえられた一種の戸棚みたようなものがあいた。中にはただ少しのつまらぬ物がはいっていた、青い麻の仕事着と、古いズボンと、古い背嚢(はいのう)と、両端に鉄のはめてある大きな刺々(とげとげ)の棒とが。一八一五年十月にディーニュを通って行った頃のジャン・ヴァルジャンを見た人はその惨(みじ)めな服装の品々をよく見覚えているであろう。
 彼は自分の出発点を常に忘れないために、銀の燭台をしまっておいたと同じようにそれらをしまっておいたのである。ただ彼は徒刑場からきたそれらのものを隠し、司教からきた燭台を出しておいたのだった。
 彼はちらと扉(とびら)の方を見やった。閂(かんぬき)で閉ざしておいたのがなお開きはしないかと恐れるかのように。それからにわかに急に身を動かして、長い年月の間危険を冒して大事にしまっておいたそれらのものを、目もくれず一かかえに手につかんで、火中に投じてしまった、ぼろの着物も、棒も、背嚢も、すべてを。
 彼はその戸棚みたようなものを再び閉ざし、中は空(から)であるのに以前に倍したむだな注意をして、大きな家具をその前に押しやって戸口を隠した。
 やがて室の中と正面の壁とは、まっかなゆらめく大きな火影(ほかげ)で照らされた。すべてのものが燃え出したのである。刺々(とげとげ)の棒は音を立てて室のまんなかまで火花を投げた。
 背嚢(はいのう)はその中にはいっているきたないぼろとともに燃えつくして、灰の中に何か光ってるものを残した。身をかがめて見ればそれが銀貨であることは容易にわかったであろう。いうまでもなく、サヴォアの少年から奪った四十スーの銀貨であった。
 彼は火の方を見ずに、やはり同じ歩調で歩き回っていた。
 突然彼の目は、火影(ほかげ)を受けてぼんやり暖炉の上で光ってる二つの銀の燭台に止まった。
「やあ、ジャン・ヴァルジャンの全身がまだあの中にある。」と彼は考えた。「あれをもこわさなければいけない。」
 彼は二つの燭台を取った。
 火はまだ十分おこっていて、その燭台をすぐに溶して訳のわからぬ地金とするには足りるほどだった。
 彼は炉の上に身をかがめ、ちょっとそれに身を暖めた。まったくいい心地であった。「ああ結構な暖かみだ!」と彼は言った。
 彼は燭台の一つで火をかきまわした。
 もう一瞬間で、二つの燭台は火の中に入れられるところだった。
 その時に、彼は自分の内部から呼ぶ声を聞いたような気がした。
「ジャン・ヴァルジャン! ジャン・ヴァルジャン!」
 髪の毛は逆立って、彼は何か恐ろしいことを聞いてる人のようになった。
「そうだ、そのとおりにやってしまえ!」とその声は言った。「やりかけたことを果たせ。その二つの燭台をこわせ。その記念物をなくしろ。司教を忘れよ。すべてを忘れよ。あのシャンマティユーをも滅ぼせ。さあそれでよし。自ら祝うがいい。それでみな定まり、決定し、済んだのだ。そこに一人の男が、一人の老人がいる。人からどうされようとしてるかを自分でも知らない。おそらく何もしたのではなく罪ない男かも知れない。汝の名前がすべての不幸をきたさしたのだ。彼の上に汝の名前が罪悪のようにのしかかっている。汝とまちがえられ、刑に処せられ、卑賤(ひせん)と醜悪とのうちに余生を終わろうとしている! それでよし。汝は正直な人間となっておれ。市長のままでおり、尊敬すべきまた尊敬せられた人としてとどまり、町を富まし、貧者を養い、孤児を育て、幸福に有徳に人に称賛されて日を過ごせ。そしてその間に、汝がここで喜悦と光明とのうちにある間に、一方には、汝の赤い獄衣をつけ、汚辱のうちに汝の名をにない、徒刑場の中で汝の鎖を引きずってる者がいるだろう。そうだ、うまくでき上がったものだ。惨(みじ)めなる奴(やつ)!」
 彼は額(ひたい)から汗が流れた。彼は荒々しい目つきを二つの燭台の上に据えた。その間にも彼のうちで語る声はやまなかった。声は続けて言った。
「ジャン・ヴァルジャン! 汝の周囲には多くの声あって、大なる響きを立て、大声に語り、汝を頌(たた)えるであろう。それからまただれにも聞こえぬ一つの声あって、暗黒のうちに汝をのろうであろう。いいか、よく聞くがよい、恥知らず奴(め)! すべてそれらの祝福は天に達せぬ前に落ち、神の処までのぼりゆくのはただ一つののろいのみであろう!」
 その声は、初めはきわめて弱く、彼の本心の最も薄暗いすみから起こってきたのであったが、しだいに激しく恐ろしくなり、今では彼の耳にはっきり響いてきた。そして彼のうちから外に出て外部から話しかけてるように思えてきた。彼はその最後の言葉をきわめてはっきり聞いたような気がして、一種の恐怖を感じて室の中を見まわした。
「だれかいるのか。」と彼は自ら惑(うたが)って大声に尋ねた。
 それから彼は白痴に似た笑いを立てた。
「ばかな! だれもいるはずはない。」
 しかしそこにはだれかがいたのである。ただそれは人の目には見えない者であった。
 彼は二つの燭台を暖炉の上に置いた。
 そして彼は再び単調なうち沈んだ歩調で歩き出した。それが、下の室に眠っていた会計係りの男の夢を妨げ突然その眠りをさましたのだった。
 その歩行は彼をやわらげ、また同時に彼を熱狂さした。時とすると危急の場合において人は、あちこちで出会うすべてのものに助言を求めるため方々動き回るものらしい。さてしばらくすると、彼はもはや自分自身がわからなくなってしまった。
 彼は今や、次々に取った二つの決心の前にいずれも同じ恐怖をいだいてたじろいだ。彼に助言を与えた二つの観念は、いずれも同じく凶悪なものに思えた。――あのシャンマティユーが彼とまちがって捕えられたことは、いかなる宿命であろう、いかなるめぐり合わせであろう! 天が最初は彼を安全にせんがために用いたように見えるその方法によって、かえって急迫せられるとは!
 彼はまたある瞬間には未来を考えることもあった。ああ、自首していで、自ら自分を引き渡すとは! 別れなければならないもの、再び取らなければならないもの、そのすべてを彼は無限の絶望で見守った。かくも善良で潔(きよ)らかで光輝ある生涯にも、人々の尊敬や名誉や自由にも、別れを告げなければならないだろう。もはや野を歩き回ることもないだろう。五月にさえずる鳥の声をきくこともないだろう。子供らに物を与えることもないだろう。自分の方に向けられた感謝と愛情とのやさしい目つきをも感ずることはないだろう。自ら建てたこの家、この室、この小さな室、それにも別れるだろう。彼はその時あらゆるものに心ひかれる思いをした。もはやこれらの書物を読むこともなく、この白木の小さな机の上で書き物をすることもないだろう。一人の召し使いである門番の老婆も、もはや朝の珈琲(コーヒー)を持ってきてくれることがないだろう。ああ、それらのものの代わりに、徒刑囚、首枷(くびかせ)、赤い上衣、足の鎖、疲労、監房、組み立て寝台、その他覚えのあるあらゆる恐ろしいもの! しかもこの年になって、かほどの者となった後に! まだ年でも若いのだったら! ああこの老年におよんで、だれからも貴様と呼び捨てにされ、牢番(ろうばん)に身体をあらためられ、看守の棍棒(こんぼう)をくらわされ、靴足袋(くつたび)もなしに鉄鋲(てつびょう)の靴をはき、鉄輪を検査する番人の金槌(かなづち)の下に朝晩足を差し出し、外からきた見物人には、「あれがモントルイュ・スュール・メールの市長であった有名なジャン・ヴァルジャンです。」と言われてその好奇な視線を受けるのか。晩には、汗まみれになり疲れはてて、緑の帽子を目深にかぶり、監視の者の笞(むち)の下に、海に浮かんだ徒刑場の梯子段(はしごだん)を二人ずつ上ってゆくのだ。おお何という惨(みじ)めなことだろう! 運命というものも、知力ある人間のごとくに悪意をいだき、人間の心のごとくに凶猛になり得るものであろうか。
 そしていかに考えをめぐらしても常にまた、瞑想(めいそう)の底にある痛切なジレンマに落ちてゆくのであった。「天国のうちにとどまって悪魔となるか! あるいは、地獄に下って天使となるか!」
 どうしたらいいか、ああ、いかにしたらばいいのか?
 ようやくにして彼が脱した苦悩は、また彼のうちに荒れてきた。種々の観念はまた互いに混乱しはじめた。それらの観念は絶望の特質たる一種の呆然(ぼうぜん)たる機械的な働きを取ってきた。あのロマンヴィルという名前が、昔耳にしたことのある小唄(こうた)の二句とともに、絶えず頭に上がってきた。ロマンヴィルというのは、パリーの近くの小さな森で、若い恋人らが四月にライラックの花を摘みにゆく所だと、彼は思っていた。
 彼はその内部におけると同じく外部においてもよろめいていた。一人でようやく歩くのを許された小児のような歩き方をしていた。
 折々彼は、疲労と戦って、自分の知力を回復しようと努力した。疲憊(ひはい)の極にまたふと探りあてたその問題を、最後に今一度決定的に解決してみようと努めた。自首すべきか? 默しているべきか?――彼は何物をも明瞭(めいりょう)に認めることができなかった。瞑想(めいそう)によって描き出されたあらゆる理論の漠然(ばくぜん)たる姿は、すぐに揺らめいて、煙のように次から次へと消え去った。彼はただこう感ずるのみだった。必然にそしてやむを得ずしていずれかの決心を取る時に、自分のうちの何物かは死滅するであろう。右を行っても左を行っても、自分は一つの墓場のうちにはいるであろう。自分の幸福か、もしくは自分の徳操か、いずれかを臨終の苦しみへ送らなければならないであろう。
 悲しいかな、あらゆる不決断はまた彼を襲った。彼はまだその初めより一歩も踏み出してはいなかった。
 かくてこの不幸なる魂は苦悩のうちにもだえていたのである。この不運なる人より千八百年前に、人類のすべての至聖とすべての苦難とを一身に具現していた神秘なる人(訳者注 キリスト)、彼もまた、無限の残忍なる風に橄欖(かんらん)の木立ちの震える頃、星をちりばめた大空のうちに、影をしたたらせ暗黒にあふれてる恐るべき杯(さかずき)が前に現われた時、それを手に取って飲み干すことを長くなし得なかったこともあるではないか。

     四 睡眠中に現われたる苦悶(くもん)の象

 午前の三時が鳴った。彼はほとんど休みなく五時間室の中を歩き回っていたのである。そして初めて彼は椅子(いす)の上に身を落とした。
 彼はそこに居眠って、夢を見た。
 多くの夢がそうであるとおりに、この夢も、何ともいえぬ不吉な悲痛なものであったというほかには、その時の事情には何ら関係もないものだった。しかしそれは彼に深い印象を与えた。彼はその悪夢にひどく心を打たれて、後にそれを書き止めた。次のものは、彼が自ら書いて残しておいた記録の一つである。われわれはただそれを原文どおりにここに再録すべきであろう。
 その夢がたといいかようなものであろうとも、それを省けば、その夜の物語は不完全たるを免れないだろう。それは実に病める魂の暗澹(あんたん)たる彷徨(ほうこう)である。
 記録は次のとおりである。表題には、その夜予の見たる夢、という一行が書かれている。

 私は平野のうちにいた。一本の草もない広い寂しい平野であった。昼であるか夜であるか、私にはわからなかった。
 私は自分の兄弟といっしょに歩いていた。それは私の子供のおりの兄弟であった。そしてここに言っておかなければならないことは、私はその後彼のことを考えたこともなければ、もはやほとんど覚えてもいなかったのである。
 私どもは話し合っていた。そしてまたいろいろな通行人に出会った。私どもは昔隣家に住んでいた女のことを話していた。その女は街路に面した方に住み初めてからは、いつも窓を開いて仕事をしていた。話をしながらも、私どもはその開かれた窓のために寒さを感じていた。
 平野のうちには一本の樹木もなかった。
 私どもはすぐそばを通ってゆく一人の男を見た。その男はまっ裸で、灰色をして、土色の馬に乗っていた。頭には毛がなく、頭蓋骨(ずがいこつ)が見えており、その上には血管が見えていた。手にはぶどう蔓(づる)のようにしなやかで鉄のように重い鞭(むち)を持っていた。その騎馬の男は私どものそばを通ったが、何とも口をきかなかった。
 私の兄弟は言った。「くぼんだ道を行こうじゃないか。」
 一本の灌木(かんぼく)もなく一片の苔(こけ)もないくぼんだ道があった。あらゆるものが、空までも、土色をしていた。しばらく行くと、私の言葉にはもう返事がなかった。私は兄弟がいっしょにいないのに気づいた。
 私は向こうに見える一つの村にはいった。私はそれがロマンヴィルにちがいないと思った。(なぜロマンヴィルなのか。)(この注句はジャン・ヴァルジャンの自筆である。)
 私がはいって行った第一の街路にはだれもいなかった。私は第二の街路にはいった。二つの街路が角をなす後ろの方に、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「ここは何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。私はある家の戸が開いているのを見て、その中にはいって行った。
 第一の室にはだれもいなかった。私は第二の室にはいった。その室の扉(とびら)の後ろに、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「これはだれの家ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。その家には庭があった。
 私は家を出て庭にはいった。庭にはだれもいなかった。が第一の樹木の後ろに、一人の男が立っているのを私は見た。私はその男に言った。「この庭は何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。
 私はその村の中を歩いた。そしてそれが一つの町であることに気づいた。どの街路にもだれもいなかった。どの家の戸も皆開かれていた。生きてる者は一人として、街路を通る者もなければ、室の中を歩いてる者もなければ、庭を散歩してる者もなかった。けれども、壁の角の後ろや、扉の後ろや、樹木の後ろには、いつも黙って立っている男がいた。そして一度にただ一人いるきりであった。それらの男たちは私が通ってゆくのをじっと見ていた。
 私はその町から出て、野を歩き初めた。
 しばらくしてふり返ってみると、私の後(あと)から大勢の人がついてきていた。その人たちは皆、私が町で見た男であることがわかった。彼らは不思議な顔をしていた。彼らは別に急いでいるとも見えなかったが、私より早く歩いていた。歩きながら少しの音も立てなかった。すぐにその人たちは私に追いついて、私を取り囲んだ。彼らの顔は皆土色をしていた。
 その時、町にはいって私が最初に出会って尋ねたあの男が、私に言った。「君はどこへ行くんですか。君はもう長い前から死んでるということを知らないのですか。」
 私は返事をするために口を開いた。すると、自分のまわりにはだれもいないのに気がついた。

 彼は目をさました。氷のように冷たくなっていた。明け方の風のように冷ややかな風が、あけ放したままの窓の扉(とびら)をその肱金(ひじがね)のうちに揺すっていた。暖炉の火は消えていた。蝋燭(ろうそく)も燃えつきようとしていた。そしてまだ暗い夜であった。
 彼は立ち上がった、そして窓の所へ行った。空にはやはり星もなかった。
 窓から家の中庭や街路が見られた。鋭い堅い物音が突然地上に響いたので、彼はそちらに目をやった。
 彼は下の方に二つの赤い星を認めた。その光はやみの中に不思議に延びたり縮んだりしていた。
 彼の頭はなお夢想の霧のうちに半ば沈んでいた。彼は考えた。「おや、空には星は一つもないが、かえって地上に星がある。」
 そのうち彼の頭の靄(もや)も消え失せ、初めのと同じような第二の物音は、彼をすっかりさましてしまった。彼は見つめた、そしてその二つの星は馬車の角燈であることがわかった。その角燈の光で彼は馬車の形をはっきり見て取ることができた。小さな白馬に引かれた小馬車であった。彼が聞いた物音は、舗石(しきいし)の上の馬の蹄(ひづめ)[#ルビの「ひづめ」は底本では「ひずめ」]の音だった。
「あの馬車は何だろう。」と彼は自ら言った。「いったいだれがこんなに早くきたんだろう。」
 その時、室の戸が軽くたたかれた。彼は頭から足の先まで震え上がった、そして恐ろしい声で叫んだ。
「だれだ?」
 だれかが答えた。
「私でございますよ、旦那様(だんなさま)。」
 彼はその声で門番の婆さんであることがわかった。
「そして、何の用だ。」と彼は言った。
「旦那様、もう朝の五時になりますよ。」
「それがどうしたんだ。」
「馬車が参りましたのです。」
「何の馬車が?」
「小馬車でございます。」
「どういう小馬車だ?」
「小馬車をお言いつけなすったのではございませんか。」
「いいや。」と彼は言った。
「御者は旦那様の所へ参ったのだと申しておりますが。」
「何という御者だ。」
「スコーフレールさんの家の御者でございます。」
「スコーフレール?」
 その名前に、あたかも電光の一閃(いっせん)で顔をかすめられたように彼は身を震わした。
「ああそうだ!」と彼は言った。「スコーフレール。」
 もし婆さんがその時の彼を見ることができたら、きっとおびえてしまったであろう。
 かなり長く沈黙が続いた。彼は呆然(ぼうぜん)と蝋燭(ろうそく)の炎を見調べていた、そしてその芯(しん)のまわりから熱い蝋を取っては指先で丸めていた。婆さんは待っていた。が彼女は今一度声を高くして言ってみた。
「旦那様(だんなさま)、どう申したらよろしゅうございましょう。」
「よろしい、今行く、と言ってくれ。」

     五 故障

 モントルイュ・スュール・メールとアラスとの間の郵便事務は、当時なお帝政時代の小さな郵便馬車でなされていた。それは二輪の車で、内部は茶褐色(ちゃかっしょく)の皮で張られ、下には組み合わせ撥条(ばね)がついており、ただ郵便夫と旅客との二つの席があるきりだった。車輪には、今日なおドイツの田舎(いなか)にあるような、他の車を遠くによけさせる恐ろしい長い轂(こしき)がついていた。郵便の箱は大きい長方形のもので、馬車の後ろについていてそれと一体をなしていた。その郵便箱の方は黒く塗られ、馬車の方は黄色に塗られていた。
 今日ではもうそれに似寄ったものもないほどのその馬車は、何ともいえないぶかっこうな体裁の悪いものだった。遠く地平線の道を通ってゆくのを見ると、たぶん白蟻(しろあり)という名だったと思うが、小さな胴をして大きい尻(しり)を引きずっている虫、あれによく似ていた。ただ速力はきわめて早かった。パリーからの郵便馬車が通った後、毎夜一時にアラスを出て、モントルイュ・スュール・メールに朝の五時少し前に到着するのだった。
 さてその夜、エダンを通ってモントルイュ・スュール・メールへやってきた郵便馬車が、町にはいろうとする時そこの町角で、反対の方向へゆく白馬にひかれた一つの小馬車につき当たった。中には一人の男がマントに身をくるんで乗っていた。小馬車の車輪はかなり強い打撃を受けた。郵便夫はその男に止まるように声をかけたが、男は耳をかさないで、やはり馬を走らして去って行った。
「馬鹿に急いでやがるな!」と郵便夫は言った。
 かく急いでいた男は、まったくあわれむべき煩悶(はんもん)のうちにもだえていたあの人にほかならなかった。
 どこへ行こうとするのか? 彼自らもそれを言い得なかったであろう。何ゆえにそう急ぐのか? 彼自ら知らなかった。彼はむやみと前へ進んで行ったのである。いずこへ? もちろんアラスへではあったが、しかしまたおそらく他の所へも行きつつあったのである。時々彼はそれを感じて、身を震わした。
 彼はあたかも深淵(しんえん)に身を投ずるがごとく暗夜のうちにつき進んだ。何かが彼を押し進め、何かが彼を引っ張っていた。彼のうちに起こってることは、だれもそれを語り得ないであろう。しかしやがてだれにもわかることである。生涯中少なくも一度はこの不可解な暗い洞窟(どうくつ)にはいらない者は、おそらくないであろう。
 要するに彼は、何も決心せず、何も決定せず、何も確定せず、何もなさなかったのだった。彼の本心の働きには何も決定的なものはなかったのである。彼は初めより一歩も出てはいなかった。
 何ゆえに彼はアラスへ行こうとしたのか?
 彼はスコーフレールの馬車を借りながら自ら言ったことをまた繰り返していた。「どんな結果をきたそうと、その事件を自らの目で見、自ら判断するに、不都合はあるまい。――いやそれはかえって用心深いやり方だ。どんなことになるか知らなければいけないのだ。――自分で観察し探査しなければ何も決定することはできないものだ。――遠くからながめると何事も大袈裟(おおげさ)に見えるものだ。ともかくも、どんな賤(いや)しい奴(やつ)かそのシャンマティユーを見たならば、自分の代わりにその男が徒刑場にやられても、自分の心はおそらくそう痛みはしないだろう。――なるほどそこにはジャヴェルと、自分を知ってる古い囚徒のブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユがいるだろう。しかし確かに彼らは自分を看破(みやぶ)ることはできまい。――ああ何という下らないことを考えてるんだ!――ジャヴェルの方はもう大丈夫だ。――それにあらゆる推測と仮定とはそのシャンマティユーの上に立てられている。そして推測と仮定ほど頑固(がんこ)なものはない。――でそこへ行っても何らの危険もないわけだ。」
「もちろんそれは喜ばしいことではない。しかし自分はすぐにそれから脱することができよう。――結局、自分の運命はいかに悪かろうと、自分はそれを自分の掌中(しょうちゅう)に握っている。――自分は今自ら運命の主人公である。」
 彼はそういう考えに固執していた。
 うち明けて言えば、心の底ではアラスへ行かない方を彼は望んだであろう。
 けれども、彼はやはりそこへ行こうとしたのである。
 考えにふけりながら、彼は馬に鞭(むち)をあてた。馬は一時間二里半の速度で正確によくかけていった。
 馬車が進むに従って、彼は自分のうちにある物が後退(あとしざ)りしているのを感じた。
 明方、彼は平野に出ていた。モントルイュ・スュール・メールの町は後方はるかになっていた。彼は白みゆく地平線をながめた。冬の夜明けのあらゆる冷ややかな物の象(すがた)が目の前を通過するのを、目には見ないで心で見つめた。朝にも夕のごとくその幻影がある。彼はそれらを目では見なかったが、しかし彼の知らぬまにほとんど肉体を通して、樹木や丘陵のその黒い映像は、彼の激越な魂の状態に何か陰鬱(いんうつ)な悲痛なものを加えさした。
 所々に往来の傍(かたわら)に立っている一軒家の前を通るごとに、彼は自ら言った。「あの中に安らかに眠っている人もある!」
 馬の足並みや馬具の鈴や路上の車輪は、静かな単調な音を立てていた。それらのものは、心の喜ばしい時には快いものであり、心の悲しい時には陰鬱(いんうつ)なものである。
 エダンに着いた時はもうすっかり夜が明けきっていた。彼は馬に息をつかせ麦を与えるために、ある宿屋の前に馬を止めた。
 馬はスコーフレールの言ったとおり、ブーロンネー産の小さな奴で、その特質として、頭と腹とが大きく首が短く、しかも胸が開き臀(しり)が大きく、脚(あし)はやせて細く、蹄(ひづめ)[#ルビの「ひづめ」は底本では「ひずめ」]は丈夫であった。姿はよくなかったが、頑丈(がんじょう)で強健だった。二時間に五里走って、背に一滴の汗も流していなかった。
 彼は馬車からおりなかった。ところが麦を持ってきた馬丁は急に身をかがめて、左の車輪を調べた。
「これでまだ遠方までいらっしゃるかね。」とその男は言った。
 彼はまだほとんど自分の瞑想(めいそう)のうちに沈んだまま答えた。
「なぜ?」
「遠くからいらっしゃったのかね。」と馬丁はまた言った。
「五里向こうから。」
「へえー。」
「へえーってどういうわけだ。」
 馬丁はまた身をかがめて、しばらく黙ったまま車輪を見ていたが、それから身を起こして言った。
「ですがね、これで五里の道を来るこたあできたろうが、これからはどうも半里とは行けませんぜ。」
 彼は馬車から飛びおりた。
「何だって?」
「なあに、旦那(だんな)も馬もよくまあ往来の溝(みぞ)にもころげ込まねえで、五里もこられたなあ不思議だ。まあ見てごらんなさるがいい。」
 なるほど車輪はひどくいたんでいた。郵便馬車との衝突のために、車輪の輻(や)が二本折れ、轂(こしき)がゆがんで螺旋(ねじ)がきいていなかった。
「おい、この近くに車大工はいないか。」と彼は馬丁に言った。
「ありますとも。」
「連れてきてもらえまいかね。」
「すぐ向こうにおるですよ。おーい。ブールガイヤール親方!」
 車大工のブールガイヤール親方は、戸口の所に立っていた。彼はやってきて車輪を調べたが、外科医が折れた足を診(み)る時のように顔をしかめた。
「すぐにこの車輪を直してもらうことができようか。」
「ええ旦那(だんな)。」
「いつ頃また出かけられるだろうね。」
「明日(あした)ですな。」
「明日!」
「十分一日は手間が取れますよ。旦那は急ぐんですか。」
「大変急ぐんだ。遅くも一時間したらまた出かけなくちゃならないんだ。」
「そいつあだめですぜ旦那。」
「いくらでも金は出すが。」
「だめです。」
「では、二時間したら?」
「今日中はだめです。二本の輻(や)と轂(こしき)とを直さなきゃあなりません。明日までは出かけられませんぜ。」
「明日までは待てない用なんだ。ではこの車輪を直さないで外のと取り換えたらどうだろう。」
「そんなこたあ……。」
「君は車大工だろう。」
「そうには違いねえんですが。」
「わしに売ってもいい車輪があるだろう。そうすればすぐに発(た)てるんだ。」
「余りの車輪ですか。」
「そうだ。」
「旦那(だんな)の馬車に合うような車輪はありません。二つずつ対(つい)になっていますからな。車輪をいい加減に二つ合わせようたってうまくいくもんじゃありません。」
「それなら、一対売ってくれたらいいだろう。」
「旦那、どの車輪でも同じ心棒に合うもんじゃありません。」
「が、まあやってみてくれないか。」
「むだですよ、旦那。私(わたし)ん所には荷車の車輪きり売るなあありません。なんにしてもここは田舎(いなか)のことですからな。」
「ではわしに貸してくれる馬車はないかね。」
 親方は彼の馬車が貸し馬車なのを一目で見て取っていた。そして肩をそびやかした。
「貸し馬車をそんなに乱暴にされちゃあ! 私んところにあったにしろ旦那には貸せませんな。」
「では売ってくれないか。」
「無(ね)えんですよ。」
「なに、一つもない? わしはどんなんでも構わないんだが。」
「なにしろごく田舎(いなか)のことですからな。ただ一つ貸していいのがあるにはあるですが。」と車大工はつけ加えた。「古い大馬車で、町の旦那(だんな)んです。私が預っているですが、めったに使ったこたあありません。貸してもいいですよ。なにかまやしません。ただ旦那に見つからねえようにしないと。それに大馬車だから、馬が二頭いるんですが。」
「駅の馬を借りることにしよう。」
「旦那はいったいどこへ行くんですかね。」
「アラスへ。」
「そして今日向こうに着きたいというんですな。」
「もちろんだ。」
「駅の馬で?」
「行けないことはなかろう。」
「旦那は明日(あした)の朝の四時に向こうに着くんじゃいけませんか。」
「いけないんだ。」
「ちょっと申しておきますがね、駅の馬で……。いったい旦那には通行券はあるんでしょうな。」
「ある。」
「では、駅の馬で、それでも明日しかアラスへは着けませんぜ。ここは横道になってるんです。それで駅次馬(えきつぎうま)は少ししかいないし、馬はみな野良(のら)に出てます。ちょうどこれから犂(すき)を入れる時だから馬がいるんです。どこの馬も、駅のもなにもかも、そっちに持ってゆかれてるんです。一頭の駅次馬を手に入れるには、まあ三、四時間は待つですな。それに、駆けさせらりゃあしません。上り坂も多いですからな。」
「それでは、わしは乗馬で行こう。馬車をはずしてくれ。この辺に鞍(くら)を売ってくれる所はあるだろう。」
「そりゃああります。だがこの馬に鞍が置けますかね。」
「なるほど。そうだった。この馬はだめだ。」
「そこで……。」
「なに村で一頭くらい借りるのがあるだろう。」
「アラスまで乗り通せる馬ですか。」
「そうだ。」
「この辺にあるような馬じゃだめです。第一旦那(だんな)を知ってる者あねえから、買ってやらなくちゃ無理です。ですが、売るのも貸すのも、五百フラン出したところで千フラン出したところで、見つかりゃあしませんぜ。」
「いったいどうしたらいいんだ。」
「まあ一番いいなあ、私に車を直さして明日(あした)出立なさるのですな。」
「明日では遅くなるんだ。」
「ほう!」
「アラスへ行く郵便馬車はないのか。いつここを通るんだ。」
「今晩です。上りも下りも両方とも夜に通るんです。」
「どうしてもこの車を直すには一日かかるのか。」
「一日かかりますとも、十分。」
「二人がかりでやったら?」
「十人がかりでも同じでさ。」
「繩(なわ)で輻(や)を縛ったら?」
「輻はそれでいいでしょうが、轂(こしき)はそういきません。その上□(たが)もいたんでます。」
「町に貸し馬車屋はいないのか。」
「いません。」
「ほかに車大工はいないのか。」
 馬丁と親方とは頭を振って同時に答えた。
「いません。」
 彼は非常な喜びを感じた。
 それについて天意が働いていることは明らかであった。馬車の車輪をこわし、途中に彼を止めたのは、天意である。しかも彼はその最初の勧告とでもいうべきものにすぐ降伏したのではなかった。あらゆる努力をして旅を続けようとした。誠実に細心にあらゆる手段をつくしてみた。寒い季節をも疲労をも入費をも、意に介しなかった。彼はもはや何ら自ら責むべきところを持ってはいなかった。これ以上進まないとしても、それはもはや彼の責任ではなかった。それはもはや彼の罪ではなかった。彼の本心の働きではなく、実に天意のしからしむるところであった。
 彼は息をついた。ジャヴェルの訪問いらい初めて、自由に胸いっぱいに息をした。二十時間の間心臓をしめつけていた鉄の手がゆるんできたような思いがした。
 今や神は彼の味方をし、啓示をたれたもうたように、彼には思えた。
 すべてでき得る限りのことはなしたのだ、そして今ではただ静かに足を返すのほかはない、と彼は自ら言った。
 もし彼と車大工との会話が宿屋の室の中でなされたのであったら、そこに立会った者もなく、それを聞いた者もなく、事はそのままになっただろう。そしておそらく、われわれがこれから読者に物語らんとするできごとも起こらなかったろう。しかしその会話は往来でなされたのだった。往来の立ち話は、いつも必ず群集をそのまわりに集めるものである。外から物事を見物するのを好む者は常に絶えない。彼が車大工にいろいろ尋ねている間に、行き来の人たちが二人のまわりに立ち止まった。そのうちの人の気にもとまらぬ一人の小さな小僧が、しばらくその話をきいた後、群集を離れて向こうに駆けて行った。
 旅客が前述のように内心で考慮をめぐらした後、道を引き返そうと決心したちょうどその時に、その子供は戻ってきた。彼は一人の婆さんを伴っていた。
「旦那(だんな)、」と婆さんは言った、「倅(せがれ)が申しますには、旦那は馬車を借りたいそうでございますね。」
 子供が連れてきたその婆さんの簡単な言葉に、彼の背には汗が流れた。自分を離した手がやみの中に後ろから現われて、自分を再びつかもうとしているのを、彼は目に見るような気がした。
 彼は答えた。
「そうだよ、貸し馬車をさがしてるところなんだが。」
 そして彼は急いでつけ加えた。
「しかしこの辺には一台もないよ。」
「ございますさ。」と婆さんは言った。
「どこにあるんだい。」と車大工は言った。
「私どもに。」と婆さんは答えた。
 旅客は慄然(りつぜん)とした。恐るべき手は再び彼を捕えたのだった。
 婆さんはなるほど一種の籠(かご)馬車を物置きに持っていた。車大工と馬丁とは、旅客が自分たちの手から離れようとしているのに落胆して、言葉をはさんだ。
「ひどいがた馬車だ。――箱がじかに心棒についてやがる。――なるほど中の腰掛けは皮ひもでぶら下げてあるぜ。――雨が降り込むぜ。――車輪は湿気にさびついて腐ってるじゃねえか。――あの小馬車と同じにいくらも行けるものか。まったくのがたくり馬車だ。――こんなものに乗ったら旦那(だんな)は災難だ。」――などと。
 なるほどそのとおりであった。しかしそのがた馬車は、そのがたくり馬車は、その何かは、ともかくも二つの車輪の上についていた、そしてアラスまでは行けるかも知れなかった。
 旅客は婆さんの言うだけの金を渡し、帰りに受け取るつもりで小馬車の修繕を車大工に頼んで、そのがた馬車に白馬をつけさせ、それに乗って、朝から進んできた道に再び上った。
 馬車が動き出した時彼は、自分の行こうとしてる所へは行けないだろうと思って先刻ある喜びの情を感じたことを、自ら認めた。彼は今その喜びの情を一種の憤怒をもって考えてみて、それはまったく不合理だということを認めた。何ゆえにあとに戻ることを喜ばしく感じたのか? 要するに彼は勝手に自らその旅を初めたのではなかったか。だれも彼にそれを強(し)いたのではなかったのだ。
 そしてまた確かに、彼が自ら望んでることのほかは何も起こるはずはないのだ。
 エダンを去る時に、彼はだれかが呼びかける声を聞いた。「止めて下さい! 止めて下さい!」彼は勢いよく馬車を止めた。そのうちにはなお、希望に似た何か熱烈な痙攣的(けいれんてき)なものがあった。
 彼を呼び止めたのは婆さんの子供だった。
「旦那(だんな)、」と子供は言った、「馬車をさがして上げたなあ私だが。」
「それで?」
「旦那は何もくれないだもの。」
 だれにも少しも物をおしまなかった彼も、その請求を無法なほとんど憎むべきもののように感じた。
「ああそれはお前だった。」と彼は言った。「だがお前には何もやれないぞ!」
 彼は馬に鞭(むち)をあてて大駆けに走り去った。
 彼はエダンでだいぶ時間を失っていた。彼はそれを取り返そうと思った。小さな馬は元気に満ちて、二頭分の力で駆けていた。しかし時は二月で、雨の後でさえあったので、道は悪くなっていた。その上こんどは小馬車ではなかった。車は鈍く重く、かつ多くの坂があった。
 エダンからサン・ポルまで行くのに四時間近くかかった。五里に四時間である。
 サン・ポルに着いて彼は、見当たり次第の宿屋で馬をはずし、それを廐(うまや)に連れて行った。スコーフレールとの約束もあるので、馬に食物をやってる間秣槽(かいおけ)のそばに立っていた。そして悲しいごたごたしたことを考えていた。
 宿屋の主婦が廐(うまや)にやってきた。
「旦那(だんな)はお食事はいかがです。」
「なるほど、」と彼は言った、「ひどく腹がすいてる。」
 彼は主婦について行った。主婦は元気な美しい顔色をしていた。彼を天井の低い広間に案内した。そこには卓布の代わりに桐油(とうゆ)をしいた食卓が並んでいた。
「大急ぎだよ。」と彼は言った。「わしはすぐにまた出立しなければならない。急ぎの用だから。」
 ふとったフランドル人の女中が、大急ぎで食器を並べた。彼はほっとしたような気持でその女をながめた。
「何だか変だと思ったが、なるほどまだ食事もしていなかったのだ。」と彼は考えた。
 食物は運ばれた。彼は急いでパンを取って一口かじった。それから静かに食卓の上にパンを置いて、再びそれに手をつけなかった。
 一人の馬方が他のテーブルで食事をしていた。彼はその男に向かって言った。
「どうしてここのパンはこうまずいだろうね。」
 馬方はドイツ人で、彼の言葉がわからなかった。
 彼は馬の所へ廐に戻って行った。
 一時間後に、彼はサン・ポルを去ってタンクの方へ進んでいた。タンクはもうアラスから五里しかへだたっていなかった。
 その道程の間彼は、何をなし、何を考えていたか? 朝の時と同じく、樹木や、茅屋(ぼうおく)の屋根や、耕された畑や、道を曲がるたびに開けてゆく景色の変化を、ながめていた。人の心は時として、ただ惘然(ぼうぜん)と外界をながめることに満足し、ほとんど何事をも考えないことがある。しかし、かく種々の事物を初めて見、しかもそれで見納めとなることは、いかに悲しいまた深刻なことであろう! 旅をすることは、各瞬間ごとに生まれまた死ぬることである。おそらく、彼はその精神の最も空漠(くうばく)たる一隅(ぐう)において、移り変わりゆく眼界と人間の一生とを比べてみたであろう。人生のあらゆる事物は絶えず吾人(ごじん)の前を過ぎ去ってゆく。影と光とが入れ交じる。眩惑(げんわく)の輝きの後には陰影が来る。人はながめ、急ぎ、手を差し出し、過ぎゆくものをとらえんとする。各事変は道の曲がり角である。そして突然人は老いる。ある動揺を感ずる。すべては暗黒となる。暗い戸が開かれているのがはっきりと見える。人を引いていた人生の陰暗な馬は歩みを止める。そして人は覆面の見知らぬ男が暗やみのうちにその馬を解き放すのを見る。
 旅客がタンクの村にはいるのを学校帰りの子供らが見たのは、もう薄暗がりの頃だった。一年の中でも日の短い季節であった。彼はタンクに止まらなかった。彼がその村から出た時、道に砂利を敷いていた道路工夫が、頭をあげて言った。
「馬がだいぶ疲れてるようだな。」
 あわれな馬は実際もう並み足でしか歩いていなかった。
「アラスへ行きなさるのかね。」と道路工夫はつけ加えた。
「そうだ。」
「そういうふうじゃ、早くは着けませんぜ。」
 彼は馬を止めて、道路工夫に尋ねた。
「アラスまでまだいかほどあるだろう?」
「まあたっぷり七里かな。」
「どうして? 駅の案内書では五里と四分の一だが。」
「ああお前さんは、」と道路工夫は言った、「道普請中なのを知りなさらねえんだな。これから十五分ほど行くと往来止めになっている。それから先は行けませんぜ。」
「なるほど。」
「まあ、カランシーへ行く道を左へ取って、川を越すだね。そしてカンブランへ行ったら、右へ曲がるだ。その道がモン・サン・エロアからアラスへ行く往来だ。」
「だが夜にはなるし、道に迷わないとも限らない。」
「お前さんはこの辺の者じゃねえんだな。」
「ああ。」
「それに方々に道がわかれてるでね。……まてよ、」と道路工夫は言った、「いいことを教えてあげよう。お前さんの馬は疲れてるで、タンクへ戻るだね。いい宿もありますぜ。お泊まんなさい。そして明日(あした)アラスへ行くだね。」
「今晩行かなくちゃならないんだ。」
「ではだめだ。それじゃあやはりタンクの宿へ行って、なお一頭馬をかりるだね。そして馬丁に道を案内してもらうだね。」
 彼は道路工夫の助言に従って、道を引き返していった。そして三十分後には、りっぱな副馬(そえうま)をつけて大駆けに同じ所を通っていた。御者だと自ら言ってる馬丁は、馬車の轅(ながえ)の上に乗っていた。
 それでも彼はなお急ぎ方が足りないような気がした。
 もうまったく夜になっていた。
 彼らは横道に進み入った。道は驚くほど悪くなった。馬車はあちこちの轍(わだち)の中へ落ちこんだ。彼は御者に言った。
「どしどし駆けさしてくれ。酒代(さかて)は二倍出す。」
 道のくぼみに一揺れしたかと思うと、馬車の横木が折れた。
「旦那(だんな)、」と御者は言った、「横木が折れましたぜ。これじゃ馬のつけようがありません。この道は夜はひどいですからな。旦那がこれからタンクへ戻って泊まるんなら、明日(あした)は早くアラスへ行けますが。」
 彼は答えた。「繩(なわ)とナイフはないかね。」
「あります。」
 彼は一本の木の枝を切り、それを横木にした。
 それでなお二十分費やした。しかし彼らはまた大駆けに走っていった。
 平野はまっくらだった。低い狭い黒い靄(もや)が丘の上をはって、煙のように丘から飛び散っていた。雲のうちにはほの白い明るみがあった。海から来る強い風は、家具を動かすような音を遠く地平線のすみずみに響かしていた。目に触れるものすべては、恐怖の姿をしていた。暗夜の広大な風の息吹(いぶ)きの下にあって、何物か身を震わさないものがあろうか!
 寒さは彼の身にしみた。彼は前日来ほとんど何も食べていなかった。彼は漠然(ばくぜん)と、ディーニュ付近の広野のうちを暗夜に彷徨(ほうこう)した時のことを思いだした。それは八年前のことだったが、昨日のことのように思われた。
 遠い鐘楼で時を報じた。彼は馬丁に尋ねた。
「あれは何時だろう。」
「七時です、旦那(だんな)。八時にはアラスに着けます。もう三里しかありません。」
 その時に彼は初めて次のようなことを考えてみた。どうしてもっと早く考えおよぼさなかったかが自ら不思議に思えた。「こんなに骨折ってもおそらくは徒労に帰するかも知れない。自分は裁判の時間さえ知ってはいない。少なくともそれくらいは聞いておくべきだった。何かに役立つかどうかもわからないで、前へばかり進んでゆくのは、狂気の沙汰だ。」それから彼は頭の中で少し計算し初めた。「通例なら重罪裁判の開廷は午前九時からである。――あの事件はたぶん長くはならないだろう。――林檎(りんご)窃盗の件はすぐに済むだろう。――後(あと)はただ人物証明の問題だけだ。――四、五人の証人の陳述があり、弁護士が口をきく余地は少ない。――すべてが終わってから自分はそこに着くようになるかも知れない!」
 御者は二頭の馬に鞭(むち)を当てていた。彼らはもう川を越して、モン・サン・エロアを通りこしていた。夜はますます深くなっていった。

     六 サンプリス修道女の試練

 一方において、ちょうどその時ファンティーヌは喜びのうちにあった。
 彼女はきわめて険悪な一夜を過したのだった。激しい咳(せき)に高熱、それからまた悪夢に襲われた。朝、医者が見舞った時には、意識が乱れていた。医者は心配そうな様子をして、マドレーヌ氏がきたら知らしてくれと頼んでいった。
 午前中、彼女は沈鬱(ちんうつ)で、あまり口もきかず、何か距離に関するらしい計算を小声でつぶやきながら、敷布に折り目をつけたりしていた。目はくぼみ、じっと据わって、ほとんど光もなくなってるようだった。そしてただ時々、また光を帯びてきて星のように輝いた。ある暗黒な時間の迫っている時、地の光を失った人に天の光が差して来ることがあるようである。
 サンプリス修道女がその心持ちをきくごとに、彼女はきまってこう答えた。「よろしゅうございます。私はただマドレーヌ様にお目にかかりたいのですけれど。」
 数カ月前、最後の貞節と最後の羞恥(しゅうち)と最後の喜びとを失った時、彼女はもう自分自身の影にすぎなくなった。そして今や彼女は自分自身の幻にすぎなかった。身体の苦しみは、心の悩みがなしかけた仕事を仕上げてしまった。二十五歳というのに、額(ひたい)にはしわがより、頬(ほほ)はこけ、小鼻はおち、歯齦(はぐき)は現われ、顔色は青ざめ、首筋は骨立ち、鎖骨(さこつ)は飛び出し、手足はやせ細り、皮膚は土色になり、金髪には灰色の毛が交じっていた。ああいかに病は老衰を早めることぞ!
 正午にまた医者がきた。彼はある処方をしるし、市長が病舎にこられたかと尋ね、そして頭を振った。
 マドレーヌ氏はいつも三時に見舞に来るのだった。正確は一つの親切である。彼はいつも正確だった。
 二時半ごろにファンティーヌは気をもみ初めた。二十分間の間に、彼女は十回以上もサンプリス修道女に尋ねた。「もう何時でございましょう?」
 三時が鳴った。ファンティーヌはいつもなら床の中で寝返りもできないくらいだったのに、三つの時計が鳴ると上半身で起き上がった。彼女はその骨立った黄色い両手を痙攣的(けいれんてき)にしかと組み合わした。そして何か重いものを持ち上げようとするような深いため息が一つ彼女の胸からもれるのを、サンプリス修道女は聞いた。
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