レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 この会計係りの男は、マドレーヌ氏の室のちょうど真下の室に住んでいた。彼は門番の女の言葉を気にもかけず、床について眠った。夜中に彼は突然目をさました。夢現(ゆめうつつ)のうちに彼は、頭の上に物音をきいたのだった。彼は耳を澄ました。だれかが上の室を歩いてるような行き来する足音だった。彼はなお注意して耳を澄ました。するとマドレーヌ氏の足音であることがわかった。彼にはそれが異様に思えた。マドレーヌ氏が起き上がる前にその室に音のすることは、平素なかったのである。しばらくすると彼は、戸棚が開かれてまたしめらるるような音を聞いた。それから何か家具の動かされる音がして、そのままちょっとひっそりして、また足音がはじまった。彼は寝床に身を起こした。すっかり目がさめて、じっと目を据えると、窓越しにすぐ前の壁の上に、燈火のついたどこかの窓の赤い火影(ほかげ)がさしてるのを認めた。その光の方向をたどってみると、それはマドレーヌ氏の室の窓としか思えなかった。火影の揺れているのからみると、普通の燈火ではなくて燃えてる火から来るものらしかった。窓ガラスの枠(わく)の影がそこに写っていないのから考えると、窓はすっかり開かれているに違いなかった。その寒い晩に、窓の開かれているのは異常なことだった。が彼はそのまままた眠ってしまった。一、二時間後に彼はまた目をさました。ゆるい規則的な足音が、やはり頭の上で行きつ戻りつしていた。
 火影(ほかげ)はなお壁の上にさしていた。しかしそれはもうランプか蝋燭(ろうそく)かの反映のように薄く穏やかになっていた。窓は相変わらず開かれていた。
 ところで、マドレーヌ氏の室の中に起こったことは次のとおりである。

     三 脳裏の暴風雨

 読者は疑いもなくマドレーヌ氏はすなわちジャン・ヴァルジャンにほかならぬことを察せられたであろう。
 われわれは前にこの人の内心の奥底をのぞいたことがあるが、更になおのぞくべき時がきた。がそれをなすには、われわれは深い感動と戦慄(せんりつ)とを自ら禁じ得ない。この種の考察ほど恐ろしいものはない。人の心眼は人間のうちにおいて最も多く光輝と暗黒とを見いだす。またこれ以上恐るべき、複雑な、神秘な、無限なものは、何も見ることができない。海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。
 人の内心の詩を作らんには、たといそれがただ一個人に関してであろうとも、たとい最も下等な一人の者に関してであろうとも、世のあらゆる叙事詩を打って一丸となして一つのすぐれたる完全なる叙事詩になすを要するであろう。人の内心、そは空想と欲念と企画との混沌界(こんとんかい)であり、夢想の坩堝(るつぼ)であり、恥ずべき諸(もろもろ)の観念の巣窟(そうくつ)である。そは詭弁(きべん)の魔窟であり、情欲の戦場である。ある時を期して、考えに沈める一人の人の蒼白(そうはく)なる顔をとおし、その内部をのぞき、その魂をのぞき、その暗黒のうちをうかがい見よ。そこにこそ外部の静穏の下に、ホメロスの描ける巨人の戦いがあり、ミルトンの語れる竜や九頭蛇(だ)の混戦があり妖怪の群れがあり、ダンテの言える幻の渦がある。人が皆自己のうちに有し、それによって脳裏の意志と生涯の行動とを測って絶望するこの無際限は、いかに幽玄なるものぞ!
 ダンテはかつて地獄の門に出会い、その前に躊躇(ちゅうちょ)した。ここにもまた吾人(ごじん)の前に、くぐるを躊躇せざるを得ない門がある。しかしてあえてそれをくぐってみよう。
 あのプティー・ジェルヴェーの事件の後ジャン・ヴァルジャンにいかなる事が起こったかについては、読者の既に知っていること以外にあまり多くつけ加える要はない。その時以来、前に述べたとおり彼はまったく別人になった。司教が彼に望んだことを彼は実現した。それはもはや単なる変化にあらずして変容であった。
 彼は首尾よく姿を隠し、記念として燭台(しょくだい)のみを残して司教からもらった銀の器具を売り払い、町より町へと忍び行き、フランスを横ぎり、モントルイュ・スュール・メールにきて、前に述べたとおりのことを考えつき、前に物語ったとおりのことを仕とげ、押さえられ手をつけられることのないようになって、そして爾来(じらい)、モントルイュ・スュール・メールに居を定め、過去のために悲しい色に染められたおのれの心と、後半生のために夢のごとくなった前半生とを感じながら、心楽しく、平和と安心と希望とをいだいて生活していた。そしてもはや二つの考えしか持っていなかった。すなわち、おのれの名前を隠すことと、おのれの生を清めること、人生をのがれることと、神に帰ること。
 その二つの考えは彼の心のうちに密接に結ばれ合って、ただ一つのものとなっていた。二つとも等しく彼の心を奪い彼を従え、その些細(ささい)な行為をも支配していた。そして普通は両者一致して彼の世に処する道を規定し、彼を人生の悲惨なものの方へ向かわしめ、彼を親切にまた質朴ならしめ、彼に同じ助言を与えていた。けれども時としては両者の間に争いがあった。その場合には、読者の記憶するごとく、モントルイュ・スュール・メールのすべての人が呼んでもってマドレーヌ氏としたその人は、第一を第二のものの犠牲とし、自己の安全を自己の徳行の犠牲とすることに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。かくて彼は、あらゆる控え目と用心とにもかかわらず、司教の二つの燭台を保存しておき、司教のために喪服をつけ、通りすがりのサヴォアの少年を呼んでは尋ね、ファヴロールにおける家族らのことを調べ、ジャヴェルの不安な諷諭(ふうゆ)をも顧みずして、フォーシュルヴァン老人の生命を救ったのである。前に述べたごとく、彼は賢人聖者または正しき人々にならって、おのれの第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。
 しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。われわれがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然(ばくぜん)としかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然(あぜん)としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然(ぼうぜん)としてしまったかのようだった。そしてその呆然(ぼうぜん)たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄(せんりつ)を感じた。暴風雨の前の樫(かし)の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷(じんらい)と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢(ろう)から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った、「まてよ! まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。
 もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛(かいしゅん)と克己との後、みごとにはじめられた贖罪(しょくざい)の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇(ちゅうちょ)することなく、底には天国がうち開いているその深淵(しんえん)に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。われわれは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そしてわれわれはその魂のうちにあったことのみをしか語ることを得ない。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯(たて)を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。
 その一日の残りを彼はそういう状態のうちに過ごした、内心の擾乱(じょうらん)と外部の深い平静とをもって。いわゆる「大事を取る」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裏に漠然と紛乱していた。何らのまとまった観念も認められないほどにその擾乱は激しかった。ただある大なる打撃を受けたということのほかは、彼自らも自分自身がわからなかったであろう。彼は平素のとおりファンティーヌの病床を見舞い、親切の本能からいつもより長くそこにとどまり、自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために、彼女を修道女たちによく頼んでおかなければならないと思った。アラスへ行かなければなるまいとぼんやり感じた。が少しもその旅を心に決したのではなかった。実際のところ何らの疑念をも被るわけはないので、これからの裁判に列席しても何ら不都合はないとひそかに考えた。そしてあらゆる事変の準備を整えておくために、スコーフレールの馬車を約束した。
 彼はかなりよく食事もした。
 自分の室に帰って彼は考え込んだ。
 彼は自分の立場を考えて、それが異常なものであることを知った。あまりに異常だったので、ほとんど名状し難いある不安な衝動に駆られて、黙想の最中にわかに椅子(いす)から立ち上がり、戸を閉ざし閂(かんぬき)をさした。何かが更にはいってきはしないかを恐れた。何か起こるかも知れないことに対して身を護った。
 間もなく彼は燈火(あかり)を消した。それがわずらわしかったのである。
 だれかが自分を見るかも知れないと彼は思ったらしい。
 だれが? 人が?
 悲しいかな、彼が室に入れまいとしたところのものは、既にはいってきていた。彼がその目を避けようとしたところのものは、既に彼を見つめていた。彼の本心が。
 彼の本心、すなわち神が。
 けれども初めは、彼は自ら欺いていた。彼は安全と孤独とを感じた。閂をして彼はもうだれにもつかまることがないと思った。蝋燭(ろうそく)を消して彼はもうだれにも見らるることがないと思った。そこで彼はほっと安心した。両肱(りょうひじ)をテーブルの上につき、掌(てのひら)に頭をささえ、暗やみのうちで瞑想(めいそう)しはじめた。
「自分はいったいどこにいるのか。――夢を見ているのではないのか。――何を聞いたのか。――ジャヴェルに会って彼があんなことを言ったのは本当なのか。――そのシャンマティユーというのはいったいだれなのか。――では自分に似ているのか。――そんなことがあり得ようか。――昨日は自分はあれほど落ち着いていて何一つ夢にも知らなかったのに。――で昨日の今時分は何をしていたのであろう。――このできごとはいったいどういうのか。――終わりはどうなるのか。――どうしたらいいか。」
 そういう苦悶(くもん)のうちに彼はあった。彼の頭脳はいろいろの考えを引き止める力を失っていた。考えは波のように過ぎ去って行った。彼はそれを捕えようとして、両手のうちに額(ひたい)を押しあてた。
 彼の意志と理性とをくつがえしたその擾乱(じょうらん)、彼がそのうちから一つの的確なものを引き出し、一つの決心を引き出さんとしたその擾乱、それからはただ心痛のほか何物も出てこなかった。
 彼の頭は燃えるようだった。彼は窓の所へ行って、それをいっぱいに開いた。空には星もなかった。彼はまたテーブルの所へきてすわった。
 初めの一時間はかくして過ぎた。
 そのうちしだいに漠然(ばくぜん)たる輪郭が瞑想のうちに浮かんできて一定の形を取るようになった。そして彼は自分の立場の全体ではないが、いくらかの局部を、現実の明確さをもってつかむことができた。
 その立場はいかにも異常なものであり危急なものであるにしても、自分はまったくその主人公であることを、彼は認めはじめた。
 彼の困惑はますます増すばかりだった。
 彼の行為の目ざしていた厳格な宗教的目的をほかにしては、彼が今日までなしきたったすべてのことは、自分の名を埋めんがために掘る穴にほかならなかった。自ら顧みる時、眠れぬ夜半において、彼が最も恐れたところのものは、その名前が人の口から出るのを聞くことであった。その時こそ自分に取ってはすべての終わりであると思っていた。その名前が再び世に現われる時こそは、この新生涯も自分の周囲から消滅し、またおそらくはこの新しい魂も自分のうちに消滅するであろうと。彼はそういうことがあるかも知れないと思っただけで身を震わした。もしそういうおりにだれかが彼に向かって、やがて時が来るであろう、その名前が彼の耳に鳴り響き、その嫌悪(けんお)すべきジャン・ヴァルジャンという名前が突然夜の暗黒から姿を現わして彼の前につっ立ち、彼が身を包んでいる秘密の幕を消散させる恐るべき光が彼の頭上に突然輝くであろう、そしてまた、その名前はもはや彼を脅かさないであろう、その光はますますやみを濃くなすのみであろう、引き裂かれた幕はなおいっそう秘密を増させるであろう、その地震はかえって建物を堅固にするであろう、その異常なでき事は、もし彼が欲するならば、彼の存在を同時にいっそう明らかにしいっそう不可測ならしむるという以外の結果はきたさないであろう、そして、そのジャン・ヴァルジャンの幻と面を接することによって、りっぱな一個の市民たるマドレーヌ氏はいよいよ光栄と平和と尊敬とを得るに至るであろう――そうだれかが彼に向かって言ったとしても、彼は頭を振って、それらの言葉を狂人の戯言となしたであろう。しかるにそれらのことがまさしく起こったのである。すべてそれらの不可能事と思われたことは事実となった。そして神は、それらの荒唐事が現実の事となるのを許したもうたのであった。
 彼の妄想(もうそう)はますます明るくなってきた。彼は漸次に自分の立場を了解してきた。
 彼は何かある眠りからさめたような気がした。そして、立ちながら、震えながら、いたずらに足をふみ止めようとしながら、暗黒のうちに急坂を深淵の縁まですべり落ちてゆくような思いをした。彼はやみの中に、見知らぬ一人の男をはっきりと見た。運命はその男を彼と取り違えて、彼の代わりに深淵のうちにつき落とそうとしている。その淵が再び閉ざされるためには、だれかが、彼自身かもしくはその男かが、そこに陥らなければならなかった。
 彼は成り行きに任せるのほかはなかった。
 明るみは十分になってきた。彼は次のことを自ら認めた。「徒刑場において自分の席はあいている。いかにつとめても、その空席は常に自分を待っている。プティー・ジェルヴェーからの盗みは自分をそこに連れ戻すのである。自分がそこに行くまでは、その空席は自分を待ち自分をひきつけるであろう。それは避くべからざる決定的なことである。」そして次にまた彼は自ら言った。「今自分は一人の代人を持っている。そのシャンマティユーとかいう男は運が悪かったのだ。自分は以後、そのシャンマティユーという男において徒刑場にあり、またマドレーヌの名の下に社会にある。もはや何も恐るべきことはない。ただシャンマティユーの頭の上に、墓石のごとく一度落つれば再び永久に上げられることのないその汚辱の石がはめらるるままにしておけばよいのだ。」
 それらのことはいかにも荒々しく不可思議だったので、彼のうちに一種の名状すべからざる震えが突然起こった。それは何人(なにびと)も生涯中に二、三度とは経験することのないものであって、内心の一種の痙攣(けいれん)と言おうか、心のうちの疑わしいすべてのものを揺り動かし、皮肉と喜悦と絶望より成るものであって、心内の哄笑(こうしょう)とも称し得べきものであった。
 彼はまたにわかに蝋燭(ろうそく)をともした。
「で、それがどうしたというのだ!」と彼は自ら言った。「何に自分は恐れているのか? 何を自分はそんなに考えるのか? 私は助かったのだ。すべては済んだのだ。新しい自分の生涯に過去が闖入(ちんにゅう)してくる口は、わずか開いている一つの扉(とびら)があるきりだった。がその扉も今や閉ざされてしまった。永久に! 長く私の心を乱していたあのジャヴェル、私の素性をかぎ出したらしい、いや実際かぎ出していたるところ私の後をつけていたあの恐るべき本能、始終私につきまとっていたあの恐ろしい猟犬、彼ももはや道に迷いほかに行ってしまって、まったく私の足跡を見失ったのだ。その後彼は満足している。私を落ち着かせるだろう。彼は彼のジャン・ヴァルジャンを捕えているのだ! だれにわかるものか。彼さえもどうやらこの町を去りたがっている。そしてそれもみなひとりでにそうなったことで、私はそれに何の関(かかわ)りもないのだ。そうだ、それに何の不幸な事があろう。おそらく私を見る者は、私に非常な災いが起こったと思うかも知れない。が結局、何人(なにびと)かの上に災いがあるとしても、それは少しも私のせいではない。すべては天意によってなされたのだ。明らかに天はそれを欲したからだ。天の定めることを乱す権利が私にあろうか。今私は何を求めようとするのか。何に私は干渉しようとするのか。私に関係したことではないのだ。なに、私は満足でないと! しからば何が私に必要なのか。長い年月望んでいた目的、夜半の夢想、天へ祈っていた目的物、安全、私は今それを得たのだ。それを欲するのは神である。私は神の意志に反しては何事をもなすべきでない。そして神は何ゆえにそれを欲するのか? 私が初めたことを継続させんがため、私に善をなさせんがため、他日私をして偉大な奨励的実例となさんがため、私がなした悔悛(かいしゅん)と私が立ち戻った善行とにはついに多少の幸福が伴ったということを言い得んがためだ! 先刻、あの善良な司祭の所にはいってゆき、聴罪師に向かってするように彼にすべてを語り、そして彼の助言を求めようとした時、何ゆえに私はそれを恐れたのか実際自らわからない。彼はきっと私に同様なことを言ったはずだ。それは既に決定したことである。なるがままに任せるがいい。善良なる神の御手に任しておくがいい。」
 彼は彼自身の深淵とも称し得べきものの上に身をかがめて、本心の底からかくのごとく自ら言った。彼は椅子(いす)から身を起こした、そして室のうちを歩き初めた。「もうそれにこだわるまい。決心は定まっているのだ!」と彼は言った。しかし彼は何らの喜びをも感じなかった。
 いや、まったく反対であった。
 人の思想がある観念の方へ立ち戻るのを止めることができないのは、あたかも海が浜辺に寄せ返すのを止めることができないと同じである。船乗りにとってそれを潮という。罪人にとってはそれを悔恨という。神は海洋を持ち上げると同じくまた人の魂をも持ち上げる。
 間もなく彼はまた、いかに自ら制しても暗澹(あんたん)たる対話を初めざるを得なかった。その対話においては、話す者も彼自身であり聞く者も彼自身であり、語るところは彼が黙せんと欲していたことであり、聞くところは彼が聞くを欲しなかったことだった。二千年前の刑人(訳者注 キリスト)に向かっては「進め!」と言ったごとく今彼に向かっては「考えよ!」というある神秘なる力に、彼は駆られたのであった。
 これ以上筆を進める前に、そしてすべてを十分明らかにせんがために、ここに一つの必要な注意をつけ加えておこう。
 人間は確かに自分自身に向かって話しかけることがある。思考する生物たる人間にしてそれを経験しなかった者は一人もあるまい。言語なるものは、人の内部において思想より本心へ本心より思想へと往復する時ほど、荘厳なる神秘さを取ることはない。本章においてしばしば用いらるる彼は言ったまたは彼は叫んだという言葉は、ただかかる意味においてのみ理解されなければならない。人は外部の沈黙を破らずして、自己のうちにおいて言い、語り、叫ぶものである。そこに非常な喧噪(けんそう)がある。口を除いてすべてのものがわれわれのうちにおいて語る。魂のうちの現実は、それが目に見るを得ず手に触るるを得ざるのゆえをもって、現実でないという理由にはならない。
 かくて彼は自分がどこにいるかを自ら尋ねた。彼はあの「既になされた決心」なるものについて自ら問いただした。頭のうちで自ら処置したところのものは奇怪なことであり、「なるがままに任せるがいい、善良なる神の御手に任しておくがいい」ということはただただ恐ろしいことであると、彼は自ら認めた。運命と人間との誤謬(ごびゅう)をそのまま遂げしむること、それを妨げないこと、沈黙によってそれを助けること、結局何らの力をもいたさぬこと、それはすべて自ら手を下してなすのと同じではないか。それは陋劣(ろうれつ)なる偽善の最後の段階ではないか。それは賤(いや)しい卑怯(ひきょう)な陰険な唾棄(だき)すべきまた嫌悪(けんお)すべき罪悪ではないか!
 八年このかた初めて、不幸なる彼は、悪念と悪事との苦(にが)い味を感じたのである。
 彼は胸を悪くしてそれをまた吐き出した。
 彼はなお続けて自ら問いかけた。「目的は達せられたのだ!」という言葉の意味を、自らきびしく尋ねてみた。自分の生活は果して一つの目的を持っていたということを彼は自ら公言した。しかしながら、それはいかなる目的であったか。名前を隠すことか。警察を欺くことか。彼がなしたすべてのことは、そんな小さなことのためだったのか。本当に偉大であり真実である他の目的を彼は持たなかったのか。自分の身をでなく自分の魂を救うこと。正直と善良とに立ち戻ること。正しき人となること! 彼が常に欲していたことは、あの司教が彼に命じたことは、特に、いや単に、そこにあるのではなかったか。「汝の過去に扉(とびら)を閉ざせよ!」しかし彼はその扉を閉ざさなかった。卑劣なる行ないをしながらそれを再び開いた。彼は盗人と、最も賤(いや)しい盗人と再びなろうとした。他人からその存在と生活と平和と太陽に浴する地位とを奪おうとした。彼は殺害者となろうとした。一人のあわれなる男を殺そうとした、精神的に殺そうとした。その男にあの恐るべき生きながらの死を、徒刑場と称する大空の下の死を与えんとした。しかしこれに反して、身を投げ出し、その痛ましい誤謬(ごびゅう)に陥れられた男を救い、自分の名をあかし、義務として再び囚人ジャン・ヴァルジャンとなったならば、それこそ、真に自分の復活の道であり、のがれ出た地獄に永久に戸をとざす道ではなかったか! 外観上その地獄に再び落つることは、実際において、そこから脱することであった。それをなさなければならない! それをしもなさなければ、何をもなさないのと同じである。彼の全生涯は無益なものとなり、彼のあらゆる悔悛(かいしゅん)は失われ、ただ「何の役に立とうぞ?」と言うのほかはなかったであろう。彼はあの司教がそこにいるように感じた。司教の姿は死んでますますはっきり目に見えてきた。司教は彼をじっと見つめていた。今後市長マドレーヌ氏は、そのいかなる徳をもってしても司教の目には忌むべきものと映ずるであろう。そして囚徒ジャン・ヴァルジャンは司教の前には尊敬すべき純潔なる姿となるであろう。世人は彼の仮面を見る、しかし司教は彼の素顔(すがお)をながめる。世人は彼の生活を見るが、司教は彼の本心を見ている。それゆえ、アラスへ行き、偽りのジャン・ヴァルジャンを救い、真のジャン・ヴァルジャンを告発しなければならない。ああそれこそ、最大の犠牲であり、最も痛切なる勝利であり、なすべき最後の一歩であった。それをなさなければならなかった。悲痛なる運命よ! 人の目には汚辱なるもののうちに戻る時、その時初めて彼は、神の目には聖なるもののうちにはいるであろう。
「よろしい、」と彼は言った、「これを決行しよう。義務を果そう。あの男を助けてやろう!」
 彼は自ら気づかずしてその言葉を声高に叫んだ。
 彼は書類を取って、それを調べ、それを秩序よく並べた。困窮な小売商人らから取っていた借用証書の一束を火中に投じた。手紙を一つしたためて封をした。そのとき室にだれかいたならば、その人は、「パリー、アルトア街、銀行主ラフィット殿」という文字をその封筒の上に読み得たであろう。
 彼は机から紙入れを取り出した。その中には紙幣や、その年彼が選挙に行くおりに使った通行券などがはいっていた。
 重大なる考慮をめぐらしながら彼がそれらの種々のことをやっているところを見た者があったとしても、その人は彼の心のうちに起こっていることを察することはできなかったであろう。彼はただ時々その脣(くちびる)が震えるのみであった。またある時は、頭をあげて壁の一点をじっと見つめていた。そこには彼が何か見きわめまたは尋ねかけんと欲してる物があるかのようだった。
 ラフィット氏へあてた手紙を書き終えると、彼は紙入れとともにそれをポケットに入れ、そしてまた歩き初めた。
 彼の瞑想(めいそう)は少しもその方向を変じていなかった。彼は光り輝く文字に書かれた自分の義務をなお明らかに見ていた。その文字は彼の眼前に炎と燃え、視線を移すごとについて回った。「行け! 汝の名を名乗れ! 自首して出よ!」
 彼はまた、これまで彼の生活の二つの規則となっていた二つの観念を、あたかもそれが目に見える形となって眼前に動き出したかのようにじっと見つめた。汝の名前を隠せよ! 汝の魂を聖(きよ)めよ! それらの二つは初めて全然別になって見えてきた。そしてその二つが互いにへだたっている距離を彼は見た。その一つは必ずや善(よ)きものであり、も一つは悪きものともなり得るものであることを、彼は認めた。一は献身であり、他は自己中心である。一は隣人を口にし、他は自己を口にする。一は光明からきたり、他は暗黒から来ると。
 その二つは互いに争っていた。彼はその二つが相争うのを見た。彼が黙想するに従って、その二つは彼の心眼の前に大きくなってゆき、今では巨人のごとき姿となっていた。そして彼自身のうちにおいて、先ほど述べたあの無限のうちにおいて、暗黒と光明との間に、神と巨人との争うのを彼は見るように思った。
 彼は恐怖に満たされた。しかし善の考えが勝利を得るように見えた。
 彼は新たに自分の本心と運命との決定的時期に遭遇しているように感じた。司教は彼の新生涯の第一期を画し、あのシャンマティユーはその第二期を画しているように感じた。大危機の後に大試練がきたのである。
 そのうちにまた一時しずまっていた熱はしだいに襲ってきた。無数の考えが彼の脳裏を過ぎた。しかしそれはただ彼の決心をますます強固にするのみだった。
 ある瞬間には彼は自ら言った。「私はあまり事件を大袈裟(おおげさ)に考えすぎているのかも知れない。結局そのシャンマティユーなる者は大した者ではない。要するに彼は盗みをしたのだ。」
 彼は自ら答えた。「その男が果して林檎(りんご)をいくらか盗んだとしても、一カ月の監禁くらいのものだ。徒刑場にはいるのとはずいぶん差がある。そして彼が盗んだということもわかったものではない。証拠があったのか。ジャン・ヴァルジャンという名前が落ちかかったので、証拠なんかはどうでもよくなったのであろう。いったい検事などという者はいつもそういうふうなやり方をするではないか。囚人だというので、盗人だと考えられたのだ。」
 またある瞬間に彼はこうも考えた。自分が自首して出たならば、自分の勇壮な行為と、過去七年間の正直な生活と、この地方のために尽した功績とは、十分に考量されて許されることになるかも知れない。
 しかしそういう想像はすぐに消え失せてしまった。そして彼は苦笑しながら考えた。プティー・ジェルヴェーから四十スーを盗んだことは、自分を再犯者となすものである。その事件も必ずや現われて来るであろう。そして法律の明文によって自分は終身懲役に処せらるるであろう。
 彼はついにすべての妄想(もうそう)を断ち切って、しだいに地上を離れ、他の所に慰安と力とを求めた。彼は自ら言った。自分は自己の義務を果たさなければならない。義務を避けた後よりも義務を果たした後の方が、より不幸になるということがあり得ようか。もし成り行きに任せ、モントルイュ・スュール・メールにとどまっているならば、自分の高い地位、自分の好評、自分の善業、人の推服、人の敬意、自分の慈善、自分の富、自分の高名、自分の徳、それらは皆罪悪に汚されるであろう。そしてそれらの潔(きよ)い数々もこの忌むべき一事に関連するならば、何の滋味があろう。しかるに、もし自分が犠牲になり果たしたならば、徒刑場の柱と鉄鎖と緑の帽子と絶えざる労働と無慈悲な屈辱とにも、常に聖(きよ)い考えを伴うことができるであろう。
 最後に彼はまた自ら言った。すべては必然の数(すう)である。自分の運命はかく定められたものである。自分には天の定めを乱す力はない。自分はただいずれの場合においても、外に徳を装って内に汚れを蔵するか、もしくは内に聖(きよ)きを抱いて外に汚辱を甘受するか、その一つを選ばなければならない。
 かく雑多な沈痛な考えをめぐらしつつも、彼の勇気は少しも衰えなかった。しかし彼の頭脳は疲れてきた。彼は我にもあらず、他の事を、まったく関係のない種々のことを、考え初めた。
 顳□(こめかみ)の血管は激しく波打っていた。彼はなお室の中を歩き続けていた。会堂の時計がまず十二時を報じ、次に市役所の時計が鳴った。彼はその二つの大時計が十二打つ音を数えた。そしてその二つの鐘の音を比較してみた。その時彼は、ある金物屋で数日前に見た売り物の古い鐘の上に、ロマンヴィルのアントアーヌ・アルバンという名前が刻まれていたのを思い出した。
 彼は寒気(さむけ)がした。そして少し火をたいた。窓をしめることには気がつかなかった。
 そのうちに彼は昏迷(こんめい)の状態にまた陥っていた。十二時を打つ前に考えたことを思い出すのに、かなりの努力をしなければならなかった。ついにそれが思い出せた。
「ああそうだ、」と彼は自ら言った、「私は自首しようと決心したのであった。」
 それから突然彼はファンティーヌのことを考えた。
「ところで、」と彼は言った、「あのかわいそうな女は!」
 そこにまた新しい危機が現われた。
 彼の瞑想(めいそう)のうちに突然現われたファンティーヌは、意外な一条の光のごときものであった。彼には自分のまわりのすべてがその光景を変えたように思われた。彼は叫んだ。
「ああ私は今まで自分のことしか考えなかった。私は自分一個の都合ばかりしか考えなかったのだ! 沈黙すべきかあるいは自首すべきか、自分の身の上を隠すかあるいは自分の魂を救うか、賤(いや)しむべきしかし世人に尊敬さるる役人となるか、あるいは恥ずべきしかし尊むべき囚人となるか、それは私一個のこと、常に私一個のことであり、私一個のことにすぎない。しかしああ、それらすべては自己主義である。自己主義の種々の形ではあるが、とにかく自己主義たる事は一つである。もし今少しく他人のことを考えたならば! およそ第一の神聖は他人のことを考えることである。さあ少し考えてみなければいけない。自己を除外し、自己を消し、自己を忘れてしまったら、すべてそれらのことはどうなるであろう?――もし私が自首して出たら? 人々は私を捕え、そのシャンマティユーを許し、私を徒刑場に送るであろう。それでよろしい。そして? ここはどうなるであろう。ああここには、一地方、一つの町、多くの工場、一つの工業、労働者、男、女、老人、子供、あわれなる人々がある。それらのものを私はこしらえた。私はそれらを生かしてやった。すべて煙の立ちのぼる煙筒のある所、その火のうちに薪(まき)を投じその鍋(なべ)のうちに肉を入れてやったのは、私である。私は安楽と流通と信用とをこしらえてやった。私の来る前には何もなかったのだ。私はこの地方全部を引き上げ、活気立たせ、にぎわし、豊かにし、刺激し、富ましてやった。私がなければ魂がないようなものだ。私が取り去らるれば、すべては死滅するであろう。――そして、あれほど苦しんだあの女、堕落のうちにもなおあれほどのいいものを持っているあの女、思いがけなく私がそのあらゆる不幸の原因となったあの女! そして、その母親に約束して自らさがしにゆくつもりであったあの子供! 私は自分のなした悪の償いとしてあの女に何か負うところはないのか。もし私がいなくなればどうなるであろう。母親は死ぬであろう。そして子供はどうなるかわからない。私が自首して出れば、結果はそんなものである。――もし自首しないならば? まてよ、もし私が自首して出ないとするならば?」
 自らそう問いかけた後に、彼はちょっと考えを止めた。彼はしばし躊躇(ちゅうちょ)と戦慄(せんりつ)とを感じたようだった。しかしそういう時間は長くは続かなかった。そして彼は静かに自ら答えた。
「ところであの男は徒刑場にゆく。それは事実だ。しかし仕方もない、彼は盗みをしたのだ。私がいくら彼は盗みをしなかったと言ってもむだである、彼は実際盗んだのだから。私はここにとどまっていよう。続けて働こう。十年のうちには千万の金をこしらえ、それをこの地方にふりまこう。少しも自分の身にはつけまい。身につけて何になろう。私がなすことはみな自分のためではないのだ。人々の繁栄は増すだろう。工業は盛んになり活気立ってくる。大小の工場は増加してくる。家は百となり千となり、また幸福になる。人民はふえる。田畑であった所には村ができ、荒地であった所には田畑ができる。貧困は後をたち、それとともに放逸や醜業や窃盗や殺害や、あらゆる不徳、あらゆる罪悪は、みな消え失せる。あのあわれな女も自分の子供を育てる。そしてこの地方全部が富み栄え正直になるのだ! ああ実に、私は愚かで誤っていた。自首して出るとは、まあ何ということを言ったのだろう。実際よく注意しなければいけない、何事もあわててはいけない。なに、偉大な高潔なことをなすのを好んだからというのか。結局それは一つのお芝居(しばい)に過ぎないのだ。なぜなら私は自分のこと、自分だけのことしか考えなかったのだから。どこの奴(やつ)ともわからない盗人を、明らかに賤(いや)しむべき一人の男を、多少重すぎはするがしかし実は正当である刑罰から救わんがために、一地方全部が破滅しなければならないというのか。一人のあわれな女が病舎で死に、一人のあわれな子供が路傍にたおれなければならないというのか、犬のように! ああそれこそのろうべきことである。母親はその子供を再び見ることもなく、子供は自分の母親をほとんど知りもしないで終わる。そしてそれもみな、林檎(りんご)を盗んだあの老耄(おいぼれ)のためというのか。たしかに彼奴(あいつ)だって、林檎のためでなくとも、何か他のことで徒刑場にはいってもいい奴だろう。一人の罪人を助けて罪ない多くの人を犠牲にするとは、徒刑場にいても自分の茅屋(ぼうおく)にいてもあまりその不幸さに変わりもなく、またせいぜい四、五年とは生きてもすまい老いぼれの浮浪人を助けて、母親や妻や児やすべての住民を犠牲にするとは、何という結構な配慮なのか。あの小さなあわれなコゼットは、世の中に助けとなるものは私だけしか持たない、そして今では、あのテナルディエの怪しい家で寒さのためにきっと青くなってるだろう。そこにもまた悪党がいる。そして私はこれらのあわれな人々に対する自分の義務を欠こうとしている。自首して出ようとしていた。何というばかなことをしようとしたのか。まず悪い方から考えるとして、かくするのは自分にとって悪い行ないであると仮定し、他日私の本心はそれを私に非難すると仮定しても、自分だけにしか当たらないそれらの非難を、自分の魂だけにしかかかわらないその悪い行ないを、他人の幸福のために甘んじて受けること、そこに献身があり、そこに徳行があるではないか。」
 彼は立ち上がった、そして歩き初めた。こんどは自ら満足であるような気がした。
 金剛石は地下の暗黒のうちにしか見いだされぬ。真理は思想の奥底にしか見いだされぬ。その奥底に下がった後、その最も深い暗黒のうちを長く探り歩いた後、金剛石の一つを、真理の一つを、彼はついに見いだしたと思った。そしてそれをしかと手に握っていると思った。彼はそれをながめて眩惑(げんわく)した。
「そうだ、そのとおりだ。」と彼は考えた。「これが本当のことだ。私は解決を得た。ついには何かにしかとつかまらなければいけない。私の決心は定まった。なるままに任せよう。もう迷うまい。もう退くまい。これはすべての人のためであって、自分一個の利害のためではない。私はマドレーヌである、またマドレーヌのままでいよう。ジャン・ヴァルジャンなる人は不幸なるかな! それはもはや私ではない。私はそんな人を知らない。私はもはやそれが何であるかを知らない。今だれかがジャン・ヴァルジャンになっているとするなら、その人自身で始末をつけるがいい。それは私の関係したことではない。それは実に暗夜のうちに漂っている不運の名前である。もしそれがだれかの頭上にとどまり落ちかかったとすれば、その人の災難とあきらめるのほかはない。」
 彼は暖炉の上にあった小さな鏡の中をのぞいた。そして言った。
「おや、決心がついたので私は安堵(あんど)したのか! 私は今まったく生まれ変わったようになった。」
 彼はなお数歩あるいた、そしてふいに立ち止まった。
「さあ、一度決心した以上はいかなる結果になろうとたじろいではいけない。」と彼は言った。「私をあのジャン・ヴァルジャンに結びつけるひもはなお残っている。それを断ち切らなければいけない。ここに、この室の中に、私を訴える品物が、証人となるべき無言の品物が、なお残っている。事は決した。すべてそれらのものをなくしてしまわなければいけない。」
 彼はポケットを探って、紙入れを取り出し、それを開いて、中から小さな一つの鍵(かぎ)を引き出した。
 彼はその鍵をある錠前の中に差し入れた。その錠前は、壁にはられてる壁紙の模様の最も暗い色どりの中に隠されていて、ちょっと見てはその鍵穴も見えないくらいだった。がそこに、隠し場所が、壁の角と暖炉棚との間にこしらえられた一種の戸棚みたようなものがあいた。中にはただ少しのつまらぬ物がはいっていた、青い麻の仕事着と、古いズボンと、古い背嚢(はいのう)と、両端に鉄のはめてある大きな刺々(とげとげ)の棒とが。一八一五年十月にディーニュを通って行った頃のジャン・ヴァルジャンを見た人はその惨(みじ)めな服装の品々をよく見覚えているであろう。
 彼は自分の出発点を常に忘れないために、銀の燭台をしまっておいたと同じようにそれらをしまっておいたのである。ただ彼は徒刑場からきたそれらのものを隠し、司教からきた燭台を出しておいたのだった。
 彼はちらと扉(とびら)の方を見やった。閂(かんぬき)で閉ざしておいたのがなお開きはしないかと恐れるかのように。それからにわかに急に身を動かして、長い年月の間危険を冒して大事にしまっておいたそれらのものを、目もくれず一かかえに手につかんで、火中に投じてしまった、ぼろの着物も、棒も、背嚢も、すべてを。
 彼はその戸棚みたようなものを再び閉ざし、中は空(から)であるのに以前に倍したむだな注意をして、大きな家具をその前に押しやって戸口を隠した。
 やがて室の中と正面の壁とは、まっかなゆらめく大きな火影(ほかげ)で照らされた。すべてのものが燃え出したのである。刺々(とげとげ)の棒は音を立てて室のまんなかまで火花を投げた。
 背嚢(はいのう)はその中にはいっているきたないぼろとともに燃えつくして、灰の中に何か光ってるものを残した。身をかがめて見ればそれが銀貨であることは容易にわかったであろう。いうまでもなく、サヴォアの少年から奪った四十スーの銀貨であった。
 彼は火の方を見ずに、やはり同じ歩調で歩き回っていた。
 突然彼の目は、火影(ほかげ)を受けてぼんやり暖炉の上で光ってる二つの銀の燭台に止まった。
「やあ、ジャン・ヴァルジャンの全身がまだあの中にある。」と彼は考えた。「あれをもこわさなければいけない。」
 彼は二つの燭台を取った。
 火はまだ十分おこっていて、その燭台をすぐに溶して訳のわからぬ地金とするには足りるほどだった。
 彼は炉の上に身をかがめ、ちょっとそれに身を暖めた。まったくいい心地であった。「ああ結構な暖かみだ!」と彼は言った。
 彼は燭台の一つで火をかきまわした。
 もう一瞬間で、二つの燭台は火の中に入れられるところだった。
 その時に、彼は自分の内部から呼ぶ声を聞いたような気がした。
「ジャン・ヴァルジャン! ジャン・ヴァルジャン!」
 髪の毛は逆立って、彼は何か恐ろしいことを聞いてる人のようになった。
「そうだ、そのとおりにやってしまえ!」とその声は言った。「やりかけたことを果たせ。その二つの燭台をこわせ。その記念物をなくしろ。司教を忘れよ。すべてを忘れよ。あのシャンマティユーをも滅ぼせ。さあそれでよし。自ら祝うがいい。それでみな定まり、決定し、済んだのだ。そこに一人の男が、一人の老人がいる。人からどうされようとしてるかを自分でも知らない。おそらく何もしたのではなく罪ない男かも知れない。汝の名前がすべての不幸をきたさしたのだ。彼の上に汝の名前が罪悪のようにのしかかっている。汝とまちがえられ、刑に処せられ、卑賤(ひせん)と醜悪とのうちに余生を終わろうとしている! それでよし。汝は正直な人間となっておれ。市長のままでおり、尊敬すべきまた尊敬せられた人としてとどまり、町を富まし、貧者を養い、孤児を育て、幸福に有徳に人に称賛されて日を過ごせ。そしてその間に、汝がここで喜悦と光明とのうちにある間に、一方には、汝の赤い獄衣をつけ、汚辱のうちに汝の名をにない、徒刑場の中で汝の鎖を引きずってる者がいるだろう。そうだ、うまくでき上がったものだ。惨(みじ)めなる奴(やつ)!」
 彼は額(ひたい)から汗が流れた。彼は荒々しい目つきを二つの燭台の上に据えた。その間にも彼のうちで語る声はやまなかった。声は続けて言った。
「ジャン・ヴァルジャン! 汝の周囲には多くの声あって、大なる響きを立て、大声に語り、汝を頌(たた)えるであろう。それからまただれにも聞こえぬ一つの声あって、暗黒のうちに汝をのろうであろう。いいか、よく聞くがよい、恥知らず奴(め)! すべてそれらの祝福は天に達せぬ前に落ち、神の処までのぼりゆくのはただ一つののろいのみであろう!」
 その声は、初めはきわめて弱く、彼の本心の最も薄暗いすみから起こってきたのであったが、しだいに激しく恐ろしくなり、今では彼の耳にはっきり響いてきた。そして彼のうちから外に出て外部から話しかけてるように思えてきた。彼はその最後の言葉をきわめてはっきり聞いたような気がして、一種の恐怖を感じて室の中を見まわした。
「だれかいるのか。」と彼は自ら惑(うたが)って大声に尋ねた。
 それから彼は白痴に似た笑いを立てた。
「ばかな! だれもいるはずはない。」
 しかしそこにはだれかがいたのである。ただそれは人の目には見えない者であった。
 彼は二つの燭台を暖炉の上に置いた。
 そして彼は再び単調なうち沈んだ歩調で歩き出した。それが、下の室に眠っていた会計係りの男の夢を妨げ突然その眠りをさましたのだった。
 その歩行は彼をやわらげ、また同時に彼を熱狂さした。時とすると危急の場合において人は、あちこちで出会うすべてのものに助言を求めるため方々動き回るものらしい。さてしばらくすると、彼はもはや自分自身がわからなくなってしまった。
 彼は今や、次々に取った二つの決心の前にいずれも同じ恐怖をいだいてたじろいだ。彼に助言を与えた二つの観念は、いずれも同じく凶悪なものに思えた。――あのシャンマティユーが彼とまちがって捕えられたことは、いかなる宿命であろう、いかなるめぐり合わせであろう! 天が最初は彼を安全にせんがために用いたように見えるその方法によって、かえって急迫せられるとは!
 彼はまたある瞬間には未来を考えることもあった。ああ、自首していで、自ら自分を引き渡すとは! 別れなければならないもの、再び取らなければならないもの、そのすべてを彼は無限の絶望で見守った。かくも善良で潔(きよ)らかで光輝ある生涯にも、人々の尊敬や名誉や自由にも、別れを告げなければならないだろう。もはや野を歩き回ることもないだろう。五月にさえずる鳥の声をきくこともないだろう。子供らに物を与えることもないだろう。自分の方に向けられた感謝と愛情とのやさしい目つきをも感ずることはないだろう。自ら建てたこの家、この室、この小さな室、それにも別れるだろう。彼はその時あらゆるものに心ひかれる思いをした。もはやこれらの書物を読むこともなく、この白木の小さな机の上で書き物をすることもないだろう。一人の召し使いである門番の老婆も、もはや朝の珈琲(コーヒー)を持ってきてくれることがないだろう。ああ、それらのものの代わりに、徒刑囚、首枷(くびかせ)、赤い上衣、足の鎖、疲労、監房、組み立て寝台、その他覚えのあるあらゆる恐ろしいもの! しかもこの年になって、かほどの者となった後に! まだ年でも若いのだったら! ああこの老年におよんで、だれからも貴様と呼び捨てにされ、牢番(ろうばん)に身体をあらためられ、看守の棍棒(こんぼう)をくらわされ、靴足袋(くつたび)もなしに鉄鋲(てつびょう)の靴をはき、鉄輪を検査する番人の金槌(かなづち)の下に朝晩足を差し出し、外からきた見物人には、「あれがモントルイュ・スュール・メールの市長であった有名なジャン・ヴァルジャンです。」と言われてその好奇な視線を受けるのか。晩には、汗まみれになり疲れはてて、緑の帽子を目深にかぶり、監視の者の笞(むち)の下に、海に浮かんだ徒刑場の梯子段(はしごだん)を二人ずつ上ってゆくのだ。おお何という惨(みじ)めなことだろう! 運命というものも、知力ある人間のごとくに悪意をいだき、人間の心のごとくに凶猛になり得るものであろうか。
 そしていかに考えをめぐらしても常にまた、瞑想(めいそう)の底にある痛切なジレンマに落ちてゆくのであった。「天国のうちにとどまって悪魔となるか! あるいは、地獄に下って天使となるか!」
 どうしたらいいか、ああ、いかにしたらばいいのか?
 ようやくにして彼が脱した苦悩は、また彼のうちに荒れてきた。種々の観念はまた互いに混乱しはじめた。それらの観念は絶望の特質たる一種の呆然(ぼうぜん)たる機械的な働きを取ってきた。あのロマンヴィルという名前が、昔耳にしたことのある小唄(こうた)の二句とともに、絶えず頭に上がってきた。ロマンヴィルというのは、パリーの近くの小さな森で、若い恋人らが四月にライラックの花を摘みにゆく所だと、彼は思っていた。
 彼はその内部におけると同じく外部においてもよろめいていた。一人でようやく歩くのを許された小児のような歩き方をしていた。
 折々彼は、疲労と戦って、自分の知力を回復しようと努力した。疲憊(ひはい)の極にまたふと探りあてたその問題を、最後に今一度決定的に解決してみようと努めた。自首すべきか? 默しているべきか?――彼は何物をも明瞭(めいりょう)に認めることができなかった。瞑想(めいそう)によって描き出されたあらゆる理論の漠然(ばくぜん)たる姿は、すぐに揺らめいて、煙のように次から次へと消え去った。彼はただこう感ずるのみだった。必然にそしてやむを得ずしていずれかの決心を取る時に、自分のうちの何物かは死滅するであろう。右を行っても左を行っても、自分は一つの墓場のうちにはいるであろう。自分の幸福か、もしくは自分の徳操か、いずれかを臨終の苦しみへ送らなければならないであろう。
 悲しいかな、あらゆる不決断はまた彼を襲った。彼はまだその初めより一歩も踏み出してはいなかった。
 かくてこの不幸なる魂は苦悩のうちにもだえていたのである。この不運なる人より千八百年前に、人類のすべての至聖とすべての苦難とを一身に具現していた神秘なる人(訳者注 キリスト)、彼もまた、無限の残忍なる風に橄欖(かんらん)の木立ちの震える頃、星をちりばめた大空のうちに、影をしたたらせ暗黒にあふれてる恐るべき杯(さかずき)が前に現われた時、それを手に取って飲み干すことを長くなし得なかったこともあるではないか。

     四 睡眠中に現われたる苦悶(くもん)の象

 午前の三時が鳴った。彼はほとんど休みなく五時間室の中を歩き回っていたのである。そして初めて彼は椅子(いす)の上に身を落とした。
 彼はそこに居眠って、夢を見た。
 多くの夢がそうであるとおりに、この夢も、何ともいえぬ不吉な悲痛なものであったというほかには、その時の事情には何ら関係もないものだった。しかしそれは彼に深い印象を与えた。彼はその悪夢にひどく心を打たれて、後にそれを書き止めた。次のものは、彼が自ら書いて残しておいた記録の一つである。われわれはただそれを原文どおりにここに再録すべきであろう。
 その夢がたといいかようなものであろうとも、それを省けば、その夜の物語は不完全たるを免れないだろう。それは実に病める魂の暗澹(あんたん)たる彷徨(ほうこう)である。
 記録は次のとおりである。表題には、その夜予の見たる夢、という一行が書かれている。

 私は平野のうちにいた。一本の草もない広い寂しい平野であった。昼であるか夜であるか、私にはわからなかった。
 私は自分の兄弟といっしょに歩いていた。それは私の子供のおりの兄弟であった。そしてここに言っておかなければならないことは、私はその後彼のことを考えたこともなければ、もはやほとんど覚えてもいなかったのである。
 私どもは話し合っていた。そしてまたいろいろな通行人に出会った。私どもは昔隣家に住んでいた女のことを話していた。その女は街路に面した方に住み初めてからは、いつも窓を開いて仕事をしていた。話をしながらも、私どもはその開かれた窓のために寒さを感じていた。
 平野のうちには一本の樹木もなかった。
 私どもはすぐそばを通ってゆく一人の男を見た。その男はまっ裸で、灰色をして、土色の馬に乗っていた。頭には毛がなく、頭蓋骨(ずがいこつ)が見えており、その上には血管が見えていた。手にはぶどう蔓(づる)のようにしなやかで鉄のように重い鞭(むち)を持っていた。その騎馬の男は私どものそばを通ったが、何とも口をきかなかった。
 私の兄弟は言った。「くぼんだ道を行こうじゃないか。」
 一本の灌木(かんぼく)もなく一片の苔(こけ)もないくぼんだ道があった。あらゆるものが、空までも、土色をしていた。しばらく行くと、私の言葉にはもう返事がなかった。私は兄弟がいっしょにいないのに気づいた。
 私は向こうに見える一つの村にはいった。私はそれがロマンヴィルにちがいないと思った。(なぜロマンヴィルなのか。)(この注句はジャン・ヴァルジャンの自筆である。)
 私がはいって行った第一の街路にはだれもいなかった。私は第二の街路にはいった。二つの街路が角をなす後ろの方に、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「ここは何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。私はある家の戸が開いているのを見て、その中にはいって行った。
 第一の室にはだれもいなかった。私は第二の室にはいった。その室の扉(とびら)の後ろに、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「これはだれの家ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。その家には庭があった。
 私は家を出て庭にはいった。庭にはだれもいなかった。が第一の樹木の後ろに、一人の男が立っているのを私は見た。私はその男に言った。「この庭は何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。
 私はその村の中を歩いた。そしてそれが一つの町であることに気づいた。どの街路にもだれもいなかった。どの家の戸も皆開かれていた。生きてる者は一人として、街路を通る者もなければ、室の中を歩いてる者もなければ、庭を散歩してる者もなかった。けれども、壁の角の後ろや、扉の後ろや、樹木の後ろには、いつも黙って立っている男がいた。そして一度にただ一人いるきりであった。それらの男たちは私が通ってゆくのをじっと見ていた。
 私はその町から出て、野を歩き初めた。
 しばらくしてふり返ってみると、私の後(あと)から大勢の人がついてきていた。その人たちは皆、私が町で見た男であることがわかった。彼らは不思議な顔をしていた。彼らは別に急いでいるとも見えなかったが、私より早く歩いていた。歩きながら少しの音も立てなかった。すぐにその人たちは私に追いついて、私を取り囲んだ。彼らの顔は皆土色をしていた。
 その時、町にはいって私が最初に出会って尋ねたあの男が、私に言った。「君はどこへ行くんですか。君はもう長い前から死んでるということを知らないのですか。」
 私は返事をするために口を開いた。すると、自分のまわりにはだれもいないのに気がついた。

 彼は目をさました。氷のように冷たくなっていた。明け方の風のように冷ややかな風が、あけ放したままの窓の扉(とびら)をその肱金(ひじがね)のうちに揺すっていた。暖炉の火は消えていた。蝋燭(ろうそく)も燃えつきようとしていた。そしてまだ暗い夜であった。
 彼は立ち上がった、そして窓の所へ行った。空にはやはり星もなかった。
 窓から家の中庭や街路が見られた。鋭い堅い物音が突然地上に響いたので、彼はそちらに目をやった。
 彼は下の方に二つの赤い星を認めた。その光はやみの中に不思議に延びたり縮んだりしていた。
 彼の頭はなお夢想の霧のうちに半ば沈んでいた。彼は考えた。「おや、空には星は一つもないが、かえって地上に星がある。」
 そのうち彼の頭の靄(もや)も消え失せ、初めのと同じような第二の物音は、彼をすっかりさましてしまった。彼は見つめた、そしてその二つの星は馬車の角燈であることがわかった。その角燈の光で彼は馬車の形をはっきり見て取ることができた。小さな白馬に引かれた小馬車であった。彼が聞いた物音は、舗石(しきいし)の上の馬の蹄(ひづめ)[#ルビの「ひづめ」は底本では「ひずめ」]の音だった。
「あの馬車は何だろう。」と彼は自ら言った。「いったいだれがこんなに早くきたんだろう。」
 その時、室の戸が軽くたたかれた。彼は頭から足の先まで震え上がった、そして恐ろしい声で叫んだ。
「だれだ?」
 だれかが答えた。
「私でございますよ、旦那様(だんなさま)。」
 彼はその声で門番の婆さんであることがわかった。
「そして、何の用だ。」と彼は言った。
「旦那様、もう朝の五時になりますよ。」
「それがどうしたんだ。」
「馬車が参りましたのです。」
「何の馬車が?」
「小馬車でございます。」
「どういう小馬車だ?」
「小馬車をお言いつけなすったのではございませんか。」
「いいや。」と彼は言った。
「御者は旦那様の所へ参ったのだと申しておりますが。」
「何という御者だ。」
「スコーフレールさんの家の御者でございます。」
「スコーフレール?」
 その名前に、あたかも電光の一閃(いっせん)で顔をかすめられたように彼は身を震わした。
「ああそうだ!」と彼は言った。「スコーフレール。」
 もし婆さんがその時の彼を見ることができたら、きっとおびえてしまったであろう。
 かなり長く沈黙が続いた。彼は呆然(ぼうぜん)と蝋燭(ろうそく)の炎を見調べていた、そしてその芯(しん)のまわりから熱い蝋を取っては指先で丸めていた。婆さんは待っていた。が彼女は今一度声を高くして言ってみた。
「旦那様(だんなさま)、どう申したらよろしゅうございましょう。」
「よろしい、今行く、と言ってくれ。」

     五 故障

 モントルイュ・スュール・メールとアラスとの間の郵便事務は、当時なお帝政時代の小さな郵便馬車でなされていた。それは二輪の車で、内部は茶褐色(ちゃかっしょく)の皮で張られ、下には組み合わせ撥条(ばね)がついており、ただ郵便夫と旅客との二つの席があるきりだった。車輪には、今日なおドイツの田舎(いなか)にあるような、他の車を遠くによけさせる恐ろしい長い轂(こしき)がついていた。郵便の箱は大きい長方形のもので、馬車の後ろについていてそれと一体をなしていた。その郵便箱の方は黒く塗られ、馬車の方は黄色に塗られていた。
 今日ではもうそれに似寄ったものもないほどのその馬車は、何ともいえないぶかっこうな体裁の悪いものだった。遠く地平線の道を通ってゆくのを見ると、たぶん白蟻(しろあり)という名だったと思うが、小さな胴をして大きい尻(しり)を引きずっている虫、あれによく似ていた。ただ速力はきわめて早かった。パリーからの郵便馬車が通った後、毎夜一時にアラスを出て、モントルイュ・スュール・メールに朝の五時少し前に到着するのだった。
 さてその夜、エダンを通ってモントルイュ・スュール・メールへやってきた郵便馬車が、町にはいろうとする時そこの町角で、反対の方向へゆく白馬にひかれた一つの小馬車につき当たった。中には一人の男がマントに身をくるんで乗っていた。小馬車の車輪はかなり強い打撃を受けた。郵便夫はその男に止まるように声をかけたが、男は耳をかさないで、やはり馬を走らして去って行った。
「馬鹿に急いでやがるな!」と郵便夫は言った。
 かく急いでいた男は、まったくあわれむべき煩悶(はんもん)のうちにもだえていたあの人にほかならなかった。
 どこへ行こうとするのか? 彼自らもそれを言い得なかったであろう。何ゆえにそう急ぐのか? 彼自ら知らなかった。彼はむやみと前へ進んで行ったのである。いずこへ? もちろんアラスへではあったが、しかしまたおそらく他の所へも行きつつあったのである。時々彼はそれを感じて、身を震わした。
 彼はあたかも深淵(しんえん)に身を投ずるがごとく暗夜のうちにつき進んだ。何かが彼を押し進め、何かが彼を引っ張っていた。彼のうちに起こってることは、だれもそれを語り得ないであろう。しかしやがてだれにもわかることである。生涯中少なくも一度はこの不可解な暗い洞窟(どうくつ)にはいらない者は、おそらくないであろう。

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