レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「不法監禁に関する一七九九年十二月十三日の法律第八十一条を思い出されるがいい。」
「市長どの、どうか……。」
「一言もなりませぬ。」
「しかし……。」
「お退(さが)りなさい。」とマドレーヌ氏は言った。
 ジャヴェルはつっ立ちながら真っ正面に、ロシア兵士のように胸のまん中にその打撃を受けた。彼は市長の前に地面まで頭を下げ、そして出ていった。
 ファンティーヌは戸口から身をよけて、ジャヴェルが前を通るのを茫然とながめた。
 けれども彼女もまた異常な惑乱にとらえられていた。彼女は自分が互いに反対の二人の権力者の間の何か争論の種となったのを見て取った。彼女は自分の自由と生命と魂と子供とを手に握って二人の人が目前に争うのを見た。一人は自分を暗黒の方へ引こうとし、一人は自分を光明の方へ連れ戻そうとした。その争いは恐怖のために大きく見えて、二人が巨人のように思われた。一人は悪魔の巨人のように口をきき、一人は善良な天使の巨人のように語った。天使は悪魔に打ち勝った。そして彼女を頭の頂から爪先まで戦慄せしめたことは、その天使、その救い主は、だれあろう、自分がのろっていたその男、自分のすべての不幸の元であると長い間考えていたあの市長、あのマドレーヌその人であろうとは! しかも激しく侮辱してやったその瞬間に自分を救ってくれようとは! それでは自分は思い違いをしていたのか? それでは自分はまったく心を変えてしまわなければならないであろうか?……彼女にはいっさいわからなかった。彼女は身を震わした。彼女は前後を忘れて耳を傾け、驚いて見つめ、そしてマドレーヌの発する一言ごとに、憎悪の恐ろしい暗やみが胸から解けくずれるのを感じ、喜悦と信頼と愛情との一種言うべからざる温(あたたか)きものが心のうちに生ずるのを感じた。
 ジャヴェルが室を出て行った時、マドレーヌ氏は彼女の方へ向いた。そして涙を流すことを欲しないまじめな人のようにかろうじておもむろに言った。
「私はあなたの言うところを聞きました。あなたが言ったようなことを私は何も知らなかった。が、私はあなたの言ったことが事実であると信ずる、また事実であると感ずる。私はあなたが工場を去ったことさえ知らなかった。なぜあなたは私に訴えなかったのです。しかしそれはそれとして、私はあなたの負債を払ってあげよう。子供を呼んであげよう。あるいはあなたが子供の所へ行かれてもいい。ここにいようと、またパリーへ行こうと、どこへでも随意です。私はあなたの子供とあなたとを引き受けてあげる。いやだったらもう仕事をしなくともよろしい。いるだけの金は出してあげる。あなたは再び仕合わせになるとともにまた正道に立ち直るでしょう。いやそればかりか、よくお聞きなさい、ただ今から私はあなたに向かって言います、すべてあなたが言ったとおりであるならば、そしてそれを私も疑いはしませんが、それならばあなたは決して堕落したのでもなければ、また神様の前に対して汚れた身になったのでもありません。まことに気の毒な方です!」
 それはあわれなファンティーヌに取っては身に余るほどのことだった。コゼットといっしょになる! この汚辱の生活から脱する! 自由に、豊かに、幸福に、正直に、コゼットとともに暮らす! この悲惨のただ中に突然現実の楽園が開ける! 彼女は自分に話しかけてるその人を茫然自失したかのように見守った、そして「おお、おお!」と二、三のすすり泣きが出るきりだった。膝はおのずから下って、彼女はマドレーヌ氏の前にひざまずいた。マドレーヌ氏はそれを止める間もなく、自分の手が取られてそれに脣(くちびる)が押しあてられたのを感じた。
 そしてファンティーヌは気を失った。
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   第六編 ジャヴェル


     一 安息のはじめ

 マドレーヌ氏は自分の住宅のうちにある病舎にファンティーヌを移さして、そこの修道女たちに託した。修道女たちは彼女をベッドに休ました。激しい熱が襲ってきていた。彼女はその夜長く正気を失って高い声で譫言(うわごと)を続けていたが、やがては眠りに落ちてしまった。
 翌日正午(ひる)ごろにファンティーヌは目をさました。彼女は自分の寝台のすぐそばに人の息を聞いた。帷(とばり)を開いてみると、そこにマドレーヌ氏が立っていた。彼は彼女の頭の上の方に何かを見つめていた。目付きはあわれみと心痛とに満ちていて、祈願の色がこもっていた。その視線をたどってみると、壁に釘付けにされてる十字架像に目を据えてるのだった。
 その時以来、マドレーヌ氏の姿はファンティーヌの目には異なって映るようになった。彼女には彼が光明に包まれてるように思えた。彼は一種の祈祷のうちに我を忘れていた。彼女はあえて彼のその心を妨げず長い間ただ黙ってながめた。がついに、彼女はおずおずと口を開いた。
「そこに何をしていらっしゃいますの。」
 マドレーヌ氏はもう一時間もそうしていたのである。彼はファンティーヌが目をさますのを待っていた。彼は彼女の手を取り、その脈をみて、そして答えた。
「加減はどうです。」
「よろしゅうございます。よく眠りました。」と彼女は言った。「だんだんよくなるような気がします。もう大したことではありませんわ。」
 彼はその時、ファンティーヌが最初になした問いをしか耳にしなかったかのようにそれに答えて言った。
「私は天にある殉教者に祈りをしていました。」
 そして彼は頭の中でつけ加えた、「地上にあるこの受難者のために。」
 マドレーヌ氏は前晩とその午前中とを調査に費やしたのだった。今ではもうすべてを知っていた。ファンティーヌの痛ましい身の上を詳細に知っていた。彼は続けて言った。
「あわれな母親、あなたはずいぶん苦しんだ。不平を言ってはいけません。今ではあなたは天から選ばれた者の資格を持っている。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。しかしそれは人間の罪ではない、他になす術(すべ)を知らないからです。あなたが出てこられたあの地獄は天国の第一歩です。まずそこから始めなければなりません。」
 彼は深いため息をついた。けれど彼女は二本の歯の欠けた崇高な微笑(ほほえ)みを彼に示した。
 ジャヴェルの方では、その晩一つの手紙を書いた。翌朝自らそれをモントルイュ・スュール・メールの郵便局に持って行った。それはパリーへ送ったもので、あて名には警視総監秘書シャブーイエ殿としてあった。警察署のあの事件が盛んに噂の種となっていたこととて、その手紙が発送される前にそれを見てあて名の文字にジャヴェルの手蹟(しゅせき)を見て取った局長や他の人々は、それがジャヴェルの辞表だと思った。
 マドレーヌ氏はまた急いでテナルディエ夫婦の所へ手紙を書いた。ファンティーヌは彼らに百二十フラン借りになっていた。彼は三百フラン送って、そのうちからすべてを差し引き、なお母親が病気で子供に会いたがっているから、すぐに子供をモントルイュ・スュール・メールに連れて来るようにと言ってやった。
 そのことはテナルディエを驚かした。「畜生、子供を手放してたまるものか。」と彼は女房に言った。「この雲雀(ひばり)娘がこれから乳の出る牛になったというものだ。わかってらあね。ばか者があのおふくろに引っかかったのだ。」
 彼は五百フランとなにがしかの覚え書きをうまく整えて送ってきた。この覚え書きのうちには三百フラン余りの明らかな二つの内訳がのっていた。一つは医者の礼で他は薬剤師の礼で、いずれもエポニーヌとアゼルマとの長い病気の手当てと薬の代であった。前に言ったとおりコゼットは病気にかかりはしなかったのである。ただ名前を変えるという些細(ささい)な手数だけでよかった。テナルディエは覚え書きの下の方に三百フラン受け取り候と書きつけた。
 マドレーヌ氏はすぐにまた三百フラン送って、早くコゼットを連れてきてくれと書いてやった。
「なあに、子供を手放すものか。」とテナルディエ[#「テナルディエ」は底本では「エナルディエ」]は言った。
 そうこうするうちにもファンティーヌは回復しなかった。相変わらず病舎にいた。
 修道女たちが「その女」を受け取って看護したのは初めはいやいやながらであった。フランスの寺院にある浮き彫りを見た者は、賢い童貞らが不潔な娘らをながめながら、下脣(したくちびる)をとがらしているのを思い起こすだろう。貞節な婦人の不運な女に対するこの古来の軽侮は、女性の威厳より来る最も深い本能の一つである。でこの修道女たちは、宗教のためになお倍加してその気持を経験したのである。しかしやがてファンティーヌは彼女たちの心をやわらげた。彼女は謙遜でやさしい言葉を持っていた、そして彼女のうちにある母性は人の心を動かした。ある日、彼女が熱に浮かされながら次のように言うのを修道女たちは聞いた。「私は罪深い女でした。けれど子供が私の所へ来るならば、それは神様が私をお許しなされたことになりますでしょう。悪い生活をしている間は、私はコゼットをそばに呼びたくありませんでした。私はコゼットのびっくりした悲しい目付きを見るのにたえられなかったでしょう。けれども私が悪い生活をしたのもあの児のためだったのです。だから神様は私をお許し下さるのです。コゼットがここに来る時、私は神様のお恵みを感ずるでしょう。私は子供を見つめましょう。その罪ない子供を見ることは私のためにいいでしょう。あの児はまったく何にも知りません。ねえ皆さん、あの児は天の使いですわね。あれくらいの年では、翼はまだ決して落ちてはいませんわ。」
 マドレーヌ氏は日に二度ずつ彼女を見舞ってきた。そのたびごとに彼女は尋ねた。
「じきにコゼットに会えましょうか。」
 彼は答えた。
「たぶん明朝は。今に来るかと私も始終待ち受けているのです。」
 すると母親の青白い顔は輝いてきた。
「ああ、そしたらどんなにか私は仕合わせでしょう!」と彼女は言った。
 さて前に彼女は回復しなかったと言ったが、いやかえって容態は一週ごとに重くなるようだった。二つの肩胛骨(けんこうこつ)の間の露(あら)わな肌の上に押し当てられた一握りの雪は、急に皮膚排出を抑止してしまったので、その結果数年来の病芽がにわかに激発したのだった。当時、胸部の病気の研究ならびに処置についてはラエネックのみごとな説が一般に奉じられつつあった。医者はファンティーヌを診察して頭を振った。
 マドレーヌ氏は医者に言った。
「いかがでしょう。」
「会いたがっている子供でもありませんか。」と医者は尋ねた。
「あります。」
「では至急お呼びなさるがよろしいでしょう。」
 マドレーヌ氏は身を震わした。
 ファンティーヌは彼に尋ねた。
「お医者様は何と言われまして?」
 マドレーヌ氏は強(し)いてほほえんだ。
「早くあなたの子供を連れて来るようにと言いました。そうすれば丈夫になるだろうと。」
「ええ、そうですとも!」と彼女は言った。「けれどもテナルディエの人たちはいったいどうしたのでしょう。私のコゼットを引き留めておくなんて。おお、娘はきますわ! ああとうとう幸福が私のそばに!」
 けれどもテナルディエは「子供を手放さ」なかった。そしていろいろな口実を構えた。コゼットはまだ少し身体が悪くて冬に旅はできないとか、あるいはまた、近所にこうるさい負債が少しずつ残っていてその書き付けを集めているとか、いろいろなことを。
「私は人をやってコゼットを連れてこさせよう。」とマドレーヌさんは言った。「もしやむを得なければ自分で行こう。」
 彼はファンティーヌの言葉どおりに次のような手紙を書き、それに彼女の署名をさした。

 テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候。
種々の入費は皆支払うべく候。
謹(つつし)みて御挨拶(あいさつ)申し上げ候。
ファンティーヌ
 ちょうどその間に大事件が持ち上がった。人生が形造られてる不可思議なる石塊をいかによく刻まんとするもむだである、運命の黒き鉱脈は常にそこに現われて来る。

     二 ジャン変じてシャンとなる話

 ある朝マドレーヌ氏は書斎にいて、自らモンフェルメイュに旅する場合のために市長としての緊急な二、三の事務を前もって整理していた。その時警視のジャヴェルが何か申し上げたいことがあってきた旨が取りつがれた。その名前をきいてマドレーヌ氏はある不快な印象を自ら禁ずることができなかった。警察署でのあの事件以来、ジャヴェルは前よりもなおいっそう彼を避けていた。そして彼はジャヴェルの姿を少しも見かけなかったのである。
「通しておくれ。」と彼は言った。
 ジャヴェルははいってきた。
 マドレーヌ氏は暖炉の近くにすわり、手にペンを持って、道路取り締まり違反の調書がのってる記録を開いて何か書き入れながら、それに目を据えていた。彼はジャヴェルがきてもそれをやめなかった。彼はあわれなファンティーヌのことを考え止めることができなかった、そして他のことに対して冷淡であるのは自然のことだった。
 ジャヴェルは自分の方に背を向けてる市長にうやうやしく礼をした。が市長は彼の方へ目を向けないで、続けて記録に書き込んでいた。
 ジャヴェルは室の中に二、三歩進んだ、そしてその静けさを破らずに無言のまま立ち止まった。
 もし一人の人相家があって、ジャヴェルの性質に親しんでおり、この文明の奴僕たる蛮人、ローマ人とスパルタ人と僧侶と下士とのおかしなこの雑種人、一の虚言をもなし得ないこの間諜(かんちょう)、この純粋無垢(むく)な探偵(たんてい)を、長い間研究しており、更にまたマドレーヌ氏に対する彼の昔からのひそかな反感や、ファンティーヌに関する彼と市長との争いなどを知っており、そしてこの瞬間における彼をよく見たとするならば、その人相家は「何が起こったのだろう」と思ったであろう。彼の正直で清澄でまじめで誠実で謹厳で猛烈な内心を知っている者にとっては、彼が心内のある大変化を経たことを明らかに見て取り得られたであろう。ジャヴェルはいつも心にあることはすぐに顔にも現わした。彼は荒々しい気質の人のようにすぐに説を変えた。が、この時ほど彼の顔付きは不思議な意外な様をしていることはかつてなかった。室にはいって来るや、何らの怨恨(えんこん)も憤りも軽侮も含まない目付きで、マドレーヌ氏の前に身をかがめ、それから市長の肱掛椅子(ひじかけいす)の後ろ数歩の所に立ち止まったのだった。そして今彼は規律正しい態度をし、かつて柔和を知らない常に堅忍な人のような素朴な冷ややかな剛直さをもって、そこに直立していたのである。彼は一言も発せず、何らの身振りもせず、真の卑下と平静な忍従とのうちに、市長がふり向くのを待っていた。そして落ち着いたまじめな様子をして、手に帽子を持ち、目を伏せ、隊長の前に出た兵士と裁判官の前に出た罪人との中間な表情を浮かべていた。彼が持っていたと思われるあらゆる感情や記憶は消え失せてしまっていた。その花崗石のごとき単純でしかも測り難い顔の上には、ただ憂鬱(ゆううつ)な悲しみのほかは何も見られなかった。彼のすべての様子は、屈従と決意と一種の雄々しい銷沈(しょうちん)とを示していた。
 ついに市長はペンを擱(お)いて、半ばふり返った。
「さて、何ですか、どうかしたのですか、ジャヴェル君。」
 ジャヴェルは何か考え込んでいるかのようにちょっと黙っていたが、やがてなお率直さを失わない悲しげな荘重さをもって声を立てて言った。
「はい、市長殿、有罪な行為がなされたのです。」
「どういうことです?」
「下級の一役人が重大な仕方である行政官に敬意を失しました。私は自分の義務としてその事実を報告に参ったのです。」
「その役人というのはいったいだれです。」とマドレーヌ氏は尋ねた。
「私です。」とジェヴェルは言った。
「君ですって。」
「私です。」
「そしてその役人に不満なはずの行政官というのはだれです。」
「市長殿、あなたです。」
 マドレーヌ氏は椅子の上に身を起こした。ジャヴェルはなお目を伏せながらまじめに続けた。
「市長殿、私の免職を当局に申し立てられんことをお願いに上がったのです。」
 マドレーヌ氏は驚いて何か言おうとした。ジャヴェルはそれをさえぎった。
「あなたは私の方から辞職すべきだとおっしゃるでしょう。しかしそれでは足りません。自ら辞職するのはまだ名誉なことです。私は失錯をしたのです。罰せらるべきです。私は放逐せられなければいけないのです。」
 そしてちょっと言葉を切ってまたつけ加えた。
「市長殿、あなたは先日私に対して不当にも苛酷であられました。今日は正当に苛酷であられなければいけません。」
「そしてまた何ゆえにです。」とマドレーヌ氏は叫んだ。
「何でそう無茶なことを言うのです。いったい[#「いったい」は底本では「いつたい」]どういう意味ですか。君は私(わたし)に対してどういう有罪な行為を犯したのです? 君は私に何をしました? どんな悪い事を君は私にしました? 君は自分で自分を責め、免職されることを望んでいるが……」
「放逐されることをです。」とジャヴェルは言った。
「放逐ですって、それもいいでしょう。しかし私にはどうも了解できない。」
「只今説明申します、市長殿。」
 ジャヴェルは胸の底からため息をもらした、そしてやはり冷ややかにまた悲しげに言い出した。
「市長殿、六週間前、あの女の事件後、私は憤慨してあなたを告発しました。」
「告発!」
「パリーの警視庁へ。」
 ジャヴェルと同様にあまり笑ったことのないマドレーヌ氏も笑い出した。
「警察権を侵害した市長としてですか。」
「前科者としてです。」
 市長は顔色を変えた。
 なお目を伏せていたジャヴェルは続けた。
「私はそれを信じていました。長い前からそういう考えをいだいていました。ある類似点、あなたがファヴロールでなされた探索、あなたの腰の力、フォーシュルヴァン老人の事件、あなたの狙撃(そげき)の巧妙さ、少し引きずり加減のあなたの足、その他種々な下らないことです。そしてついに私はあなたをジャン・ヴァルジャンという男だと信じたのです。」
「え?……何という名前です。」
「ジャン・ヴァルジャンというのです。それは二十年前私がツーロンで副看守をしていた時見たことのある囚人です。徒刑場を出てそのジャン・ヴァルジャンは、ある司教の家で窃盗を働いたらしいのです、それからまた、街道でサヴォアの少年を脅かして何かを強奪したらしいのです。八年前から彼は姿をくらまして、だれもその男がどうなったか知る者はなかったのですが、なお捜索は続けられていました。私は想像をめぐらして……ついにそのことをやってしまったのです。怒りに駆られたのです。私はあなたを警視庁へ告発しました。」
 少し前から記録を手に握っていたマドレーヌ氏は、まったく無関心な調子で尋ねた。
「そして何という返事がきました。」
「私は気違いであると。」
「そして?」
「そして実際、向こうの方が正当でありました。」
「君がそれを認めたのは幸いです。」
「認めざるを得なかったのです。真のジャン・ヴァルジャンが発見されたのですから。」
 マドレーヌ氏は持っていた帳簿を手から落とした。彼は頭をあげてじっとジャヴェルを見つめた。そして名状し難い調子で言った。「ほう!」
 ジャヴェルは続けた。
「こういう次第です、市長殿。アイイー・ル・オー・クロシェの近くの田舎に、シャンマティユーじいさんと呼ばるる一人の老人がいたそうであります。惨(みじ)めな奴でだれも注意を向ける者はなかったそうです。いったいこういう奴らは何で生活しているのかだれにもわかりません。ところで昨年の秋に、そのシャンマティユーじいは、酒造用の林檎(りんご)を盗んだために捕えられました。だれの家でしたか……まあそれはどうでもいいことです。とにかく窃盗を行ない、塀(へい)を越え、枝を折ったのです。でシャンマティユーは捕えられました。彼はなお手に林檎の枝を持っていました。彼は拘禁されました。ここまでは単に懲罰だけです。しかし天命が働いてきます。その牢(ろう)はこわれかけていましたので、予審判事はシャンマティユーをアラスの県の監獄に移したがいいと思ったのです。そのアラスの監獄にはブルヴェーという前科者がいました。何かのために拘禁されたのですが、行ないがよかったので牢番にされていました。ところがシャンマティユーがそこに着くや、ブルヴェーは叫びました。『やあ、わしはこの男を知ってる。こいつはいわくつきの男だ。おい、貴様、おれを見てみろ。貴様はジャン・ヴァルジャンだな。』『ジャン・ヴァルジャン! いったいジャン・ヴァルジャンてだれの事だい。』とシャンマティユーは驚いたふうをしました。がブルヴェーは言いました。『白ばくれちゃいけねえ。貴様はジャン・ヴァルジャンだ。ツーロンの徒刑場にいたろう。二十年前の事だ。俺といっしょにいたじゃねえか。』シャンマティユーは否定しました。なにそれはありそうなことです。調査が進められました。私の方にも調べがきています。結局こういうことが発見されたのです。そのシャンマティユーは約三十年前にファヴロールを中心に各地で枝切り職をやっていた。ところがファヴロールで行方(ゆくえ)がわからなくなった。その後久しくしてオーヴェルニュに姿を見せ、次にパリーに現われた。そこで彼は車大工をやり、娘が一人あって洗たく業をやっていたというが、それは証拠不十分であった。そしてついにあの土地にやって行った。しかるに、加重情状の窃盗罪で徒刑場にはいる前、ジャン・ヴァルジャンは何をしていたかといえば、枝切り職であった。そしてどこにおいてかといえば、やはりファヴロールにおいてであった。なおその上他にも事実がある。ジャン・ヴァルジャンはその洗礼名をジャンと言い、その母は姓をマティユーと言っていた。で徒刑場を出るや、彼が前身をくらますために母の姓を取ってジャン・マティユーと名乗ったという推察は、至って自然のことである。そして彼はオーヴェルニュに行った。その地方ではジャンをシャンと発音するので、彼をも自然シャン・マティユーと呼んだ。でその男はそのままシャンマティユーと変わったのである。……おわかりになりましたでしょう。それからファヴロールに調査が進められました。ジャン・ヴァルジャンの家族の者はもはやそこにいませんでした。どこへ行ったかもうわかりません。御存じでもありましょうが、こういう階級では全家族が突然姿を消すことは往々あります。いくらさがしても見い出せません。こういう奴らは泥のようであるかと思うと、また埃(ほこり)のように散り失せるものです。それにまた、この話の初まりは三十年も前のことですから、ファヴロールにはジャン・ヴァルジャンを知っている者もいません。ツーロンの方を調べますと、ジャン・ヴァルジャンを見たという者はブルヴェーのほか二人の囚人しかいません。それは無期徒刑囚のコシュパイユとシュニルディユーという二人です。でその二人を徒刑場から引き出して連れてきました。そしてその自称シャンマティユーを見せると、彼らは少しの躊躇(ちゅうちょ)もしなかったのです。ブルヴェーと同じく彼らの目にも、その男はジャン・ヴァルジャンだったのです。同じく五十四歳で、同じ身長で同じ様子で、どうしても同一人です、彼です。ちょうどその時私はパリーの警視庁に告発状を送ったのです。その返事には、私は気が狂ったのだ、ジャン・ヴァルジャンは司法の手に捕えられてアラスにいるということでした。私は、ここでそのジャン・ヴァルジャンを捕えたと思っていた私は、いかほど驚いたかお察し下さい。私は予審判事に手紙を書きました。そして私はそこに呼ばれて、私の前にそのシャンマティユーが引き出されました……」
「すると?」とマドレーヌ氏は言葉をはさんだ。
 ジャヴェルは厳格なまた悲しそうな顔をして答えた。
「市長殿、事実は事実です。残念ですが、その男はジャン・ヴァルジャンです。私もそれを認めました。」
 マドレーヌ氏は低い声で言った。
「確かですか。」
 ジャヴェルは深い確信から出る悲しげな笑いを立てた。
「ええ確かです。」
 彼はテーブルの上にあった吸墨用の箱から鋸屑(おがくず)を機械的につまみ出しながら、ちょっと考え込んだ、そしてつけ加えた。
「そして真のジャン・ヴァルジャンを見ました今では、私はどうして他の人をそうだと信ずることができたかが自分にもわかりません。市長殿、私はあなたにお許しを願います。」
 六週間前、大勢の風紀兵らの面前において自分を辱(はずか)しめ、自分に「お退(さが)りなさい!」と言ったその人に向かって、今そのまじめな嘆願の言葉を発しながら、彼傲慢なるジャヴェルは、自ら知らずして素朴と威厳とに満ちていた。マドレーヌ氏は彼のその嘆願に答えるに、ただ次の唐突(とうとつ)な問いをもってした。
「そしてその男は何と言っていました。」
「いや市長殿、事件は険悪です。彼がジャン・ヴァルジャンであるとすれば、再犯となるのです。塀(へい)をのり越え、枝を折り、林檎(りんご)を盗むくらいは、子供なら悪戯(いたずら)に過ぎず、大人なら軽罪ですみますが、囚人ではりっぱな犯罪です。侵入と窃盗、みな具備することになります。それはもう軽罪裁判の問題でなく重罪裁判の問題です。数日の監禁でなく、終身徒刑です。それからまたサヴォアの少年の事件もあります。それも問題になるべきです。そうなるとじゅうぶん論争するだけのものはありますでしょう。そうです、ジャン・ヴァルジャンでない限り他の者ならそうするところです。しかしジャン・ヴァルジャンは狡猾(こうかつ)な奴です。私がにらんだのはまたその点です。他の者なら逆上するところです。きっと、わめき叫ぶでしょう。火の上に沸き立つ鍋(なべ)のように、自分はジャン・ヴァルジャンではないと言って、騒ぎ出したりするはずです。ところが、彼奴(あいつ)は何もわからないようなふうをして、こう言うだけです。『わしはシャンマティユーというのだ、そのほかの者じゃない!』彼奴はびっくりしたふうをして、ばかをよそおっています。有効なやり方です。なかなか巧妙です。しかし結局は同じです、証拠はじゅうぶんです。四人の人から認定されたのですから、いずれ有罪になるでしょう。アラスの重罪裁判に回されています。私は証人としてそこへ行くことになっています。召喚されたのです。」
 マドレーヌ氏はまた机の方を向いて、記録を手にしていた、そして何か用に追われているかのように読んだり書き入れたりして、静かにそのページをめくっていた。がやがて彼はジャヴェルの方へ振り向いた。
「わかりました、ジャヴェル君。実際それらの詳細は私にあまり関係ないことです。時間をむだにするばかりです。そしてわれわれには他に急ぎの用があります。ジャヴェル君、あのサン・ソールヴ街の角で野菜を売ってるブュゾーピエ婆さんの家へすぐに行ってくれませんか。そして車力のピエール・シェヌロンを訴え出るように言って下さい。あの男は乱暴な奴で、その婆さんと子供とを轢(ひ)き殺そうとしたのです。処罰しなければいけません。それからまたモントル・ド・シャンピニー街のシャルセレー君の家に行って下さい。隣の家の樋(とい)から雨水が流れ込んできて自分の家の土台を揺るがすと言って訴えてきたのです。次に、ギブール街のドリス未亡人とガロー・ブラン街[#「ガロー・ブラン街」は底本では「ガローー・ブラン街」]のルネ・ル・ボセ夫人の家とに警察規則違反があると言ってきていますから、それを調べて調書を作ってきて下さい。だがあまり仕事が多すぎますね。君は不在になるんでしたね。一週間か十日かすればあの事件のためにアラスに行くと先刻言いましたね。」
「そんなにゆっくりではありません、市長殿。」
「ではいつです。」
「明日裁判になるので私は今晩駅馬車で出かけることを、先刻申し上げたと思いますが。」
 マドレーヌ氏は目につき難いほどのかすかな身振りをした。
「そしてその事件はどれくらい続きますか。」
「長くて一日ですむでしょう。遅くとも判決は明晩下されるでしょう。しかし判決はもうわかっていますから、私はそれを待っていないつもりです。自分の供述をすましたらすぐに帰ってくるつもりです。」
「なるほど。」とマドレーヌ氏は言った。
 そして彼は手振りでジャヴェルを去らせようとした。
 ジャヴェルは立ち去らなかった。
「失礼ですが、市長殿。」と彼は言った。
「まだ何か用ですか。」とマドレーヌ氏は尋ねた。
「市長殿、まだ一つ思い出していただきたいことが残っています。」
「何ですか。」
「私が免職されなければならないことです。」
 マドレーヌ氏は立ち上がった。
「ジャヴェル君、君はりっぱな人だ、私は君を尊敬しています。君は自分で自分の過失を大きく見すぎているのです。その上、このことはただ私一個に関する非礼にすぎません。ジャヴェル君、君は罰を受けるどころか昇進の価値があります。私は君に職にとどまっていてもらいたいのです。」
 ジャヴェルはその誠実なる目でじっとマドレーヌ氏をながめた。その瞳(ひとみ)の底には、聡明(そうめい)ではないがしかし厳格清廉な内心が見えるようだった。彼は平静な声で言った。
「市長殿、私はお説に従うことができません。」
「繰り返して言うが、事は私一個だけのことです。」とマドレーヌ氏は答えた。
 しかしジャヴェルは自分の一つの考えにばかり心を向けて、続けて言った。
「過失を大きく見すぎてると言われますが、私は決して大きく見すぎてはいません。私の考えていることはこうであります。私はあなたを不当に疑ったのです。それは何でもありません。たとい自分の上官を疑うのは悪いことであるとしても、疑念をいだくのは私ども仲間の権利です。しかし、証拠もないのに、一時の怒りに駆られて、復讐(ふくしゅう)をするという目的で、あなたを囚人として告発したのです、尊敬すべき一人の人を、市長を、行政官を! これは重大なことです。きわめて重大です。政府の一機関たる私が、あなたにおいて政府を侮辱したのです! もし私の部下の一人が私のなしたようなことをしたならば、私は彼をもって職を涜(けが)す者として放逐するでしょう。いかがです。――市長殿なお一言いわして下さい。私はこれまでしばしば苛酷でありました、他人に対して。それは正当でした。私は正しくしたのです。しかし今、もし私が自分自身に対して苛酷でないならば、私が今まで正当になしたことは皆不当になります。私は自分自身を他人よりもより多く容赦すべきでしょうか。いや他人を罰するだけで自分を罰しない! そういうことになれば私はあさましい男となるでしょう。このジャヴェルの恥知らずめ! と言われても仕方ありません。市長殿、私はあなたが私を穏和に取り扱われることを望みません。あなたが他人に親切を向けられるのを見て私はかなり憤慨しました。そしてあなたの親切が私自身に向けられるのを欲しません。市民に対して賤業婦(せんぎょうふ)をかばう親切、市長に対して警官をかばう親切、上長に対して下級の者をかばう親切、私はそれを指(さ)して悪しき親切と呼びます。社会の秩序を乱すのは、かかる親切をもってしてです。ああ、親切なるは易(やす)く、正当なるは難いかなです。もしあなたが私の初め信じていたような人であったならば、私は、私は決してあなたに親切ではなかったでしょう。おわかりになったであろうと思います。市長殿、私は他のすべての人を取り扱うように自分自身をも取り扱わなければなりません。悪人を取り押さえ、無頼漢を処罰する時、私はしばしば自分自身に向かって言いました、汝自らつまずき汝自らの現行を押さえる時、その時こそ思い知るがいい! と。今不幸にも私はつまずき、自分の現行を押さえています。さあ解雇し罷免(ひめん)し放逐して下さい。それが至当です。私には両の腕があります、地を耕します。結構です。市長殿、職務をりっぱにつくすには実例を示すべきです。私は単に警視ジャヴェルの免職を求めます。」
 それらのことは、卑下と自負と絶望と確信との調子で語られた、そしてその異常に正直な男に何ともいえぬ一種のおかしな荘重さを与えていた。
「まあ今にどうとかなるでしょう。」とマドレーヌ氏は言った。
 そして彼は手を差し出した。
 ジャヴェルは後に退(さが)った。そして荒々しい調子で言った。
「それは御免こうむります、市長殿。そんなことはあり得べからざることです。市長が間諜(かんちょう)に向かって握手を与えるなどということが。」
 彼はそしてなお口の中でつけ足した。
「そうです、間諜です。警察権を濫用(らんよう)して以来、私は一個の間諜にすぎません。」
 それから彼は低く頭を下げて、扉の方へ進んだ。
 扉の所で彼はふり向いて、なお目を伏せたまま言った。
「市長殿、私は後任が来るまで仕事は続けて致しておきます。」
 彼は出て行った。そのしっかりした堅固な足音が廊下の床(ゆか)の上を遠ざかってゆくのを聞きながら、マドレーヌ氏は惘然(ぼうぜん)と考えに沈んだ。
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   第七編 シャンマティユー事件


     一 サンプリス修道女

 次に述べんとするできごとはモントルイュ・スュール・メールにことごとく知られたものではない。しかしこの町に伝わってきた少しの事がらは深い印象を人の心に残したので、詳細にそのできごとを叙述しない時には本書のうちに大きな欠陥をきたすであろう。
 それらの詳細のうちに、読者は二、三の真実らしからぬ事情に接するであろうが、しかもそれも事実の尊重からして書きもらさぬことにする。
 さて、ジャヴェルが訪れてきた日の午後、マドレーヌ氏はいつものとおりファンティーヌを見に行った。
 ファンティーヌのそばに行くまえに、彼はサンプリス修道女を呼んだ。
 病舎で働いていた二人の修道女は、すべての慈恵院看護婦の例にもれず、聖ラザール派の修道女で、一人をペルペチューと言い一人をサンプリスと言った。
 ペルペチュー修道女はありふれた田舎女(いなかおんな)であり、粗野な慈恵院看護婦であって、普通世間の職につくと同じように神の務めにはいってきたのだった。料理女になるのと同じようにして修道女となったのだった。こういうタイプの人は珍しくはない。修道団というものは、カプュサン派やユルシュリーヌ派の修道女にたやすく鋳直された田舎女(いなかおんな)の重々しい陶器をも喜んで受け入れるものである。その粗野な人たちも信仰の道の粗末な仕事には役立つ。牛飼いがカルメル修道士と変化するのも少しも不思議ではない。それはわけもないことである。田舎の無学と修道院の無学との根本の共通な点において、既に準備はととのっている。そしてすぐに野の片すみの田舎者は僧侶(そうりょ)と伍(ご)するに至る。田舎者の仕事着を少し広くすれば、そのまま道服である。ペルペチュー修道女はきつい信者であって、ポントアーズの近くのマリーヌの生まれであり、田舎なまりを出し、聖歌をうたい、何かぶつぶつつぶやき、患者の頑迷(がんめい)や偽善の度に応じて薬の中の砂糖を加減し、病人を手荒らく取扱い、瀕死(ひんし)の者に対して気むずかしく、彼らの顔に神を投げつけるようなことをし、臨終の苦しみに向かって荒々しい祈りをぶっつけ、粗暴で正直で赤ら顔の女であった。
 サンプリス修道女は白蝋(はくろう)のようにまっ白な女であった。ペルペチュー修道女と並べると、細巻きの蝋燭(ろうそく)に対する大蝋燭のように輝いていた。ヴァンサン・ド・ポールは自由と奉仕とのこもった次のみごとな言葉のうちに、慈恵院看護婦の姿を完全に定めた。「修道院としてはただ病舎を、室としては唯一の貸間を、礼拝所としてはただ教区の会堂を、回廊としてはただ町の街路や病舎の広間を、垣根(かきね)としてはただ服従を、鉄門としてはただ神の恐れを、頭被としてはただ謙遜(けんそん)を、彼女らは有するのみならん。」かかる理想はサンプリス修道女のうちに生き上がっていた。だれもサンプリス修道女の年齢を測り得るものはなかった。かつて青春の時代があったとは見えず、また決して老年になるということもなさそうだった。平静で謹厳で冷静で育ちもよくまたかつて嘘(うそ)を言ったことのない人――あえて女とは言うまい――であった。脆弱(ぜいじゃく)に見えるほど穏やかであったが、また花崗石(かこうせき)よりも堅固であった。不幸な者に触るる彼女の指は細く清らかに優しかった。その言葉のうちには、いわば沈黙があるとでも言おうか。必要なことのほかは口をきかず、しかもその声の調子は、懺悔室(ざんげしつ)においては信仰の心を起こさせ、また客間においては人の心を魅するようなものであった。そして優しさは常に粗末な毛織の着物に満足し、荒らい感触によって絶えず天と神とを忘れずにいた。それからなお特に力説しなければならない一事は、決して嘘を言わなかったこと、何らかの利害関係があるなしにかかわらず、真実でないこと、まったくの真実でないことは決して言わなかったこと、それがサンプリス修道女の特質であった。それが彼女の徳の基調であった。彼女はその動かし難い真実をもって会衆のうちに聞こえていた。シカール修道院長もサンプリス修道女のことを聾唖(ろうあ)のマシユーに与える手紙のうちに述べたことである。およそ人はいかに誠実であり公明であり純潔であっても、皆その誠直の上には少なくとも罪なきわずかな虚言の一片くらいは有するものである。が彼女には少しもそれがなかった。わずかな嘘、罪なき嘘、そういうものはいったい有り得るであろうか。嘘をつくということは悪の絶対の形である。あまり嘘はつかないということは有り得ないことである。少しでも嘘を言う人はすべて嘘を言うと同じである。嘘を言うということは悪魔の貌(すがた)である。悪魔は二つの名を持っている、すなわちサタンおよびマンソンジュ(訳者注 虚言の意)の二つを。かく彼女は考えていた。そしてまた考えのとおりに行なった。その結果、前述のごとく彼女は純白な色を呈し、その輝きは彼女の脣(くちびる)や眼をもおおうていた。その微笑も白く、その目つきも白かった。その内心の窓ガラスには一筋の蜘蛛(くも)の巣もなく一点の埃(ほこり)もかかっていなかった。聖ヴァンサン・ド・ポール派のうちに身を投ずるや、彼女は特に選んでサンプリスの名前をつけた。シシリーのサンプリスといえば人の知る有名な聖女である。聖女はシラキューズで生まれたのであって、セゲスタで生まれたと嘘(うそ)をつけば生命は助かるのであったが、嘘を答えるよりもむしろ両の乳を引きぬかれる方を好んだのである。その聖女の名前を受けることが彼女の心にかなったのだった。
 サンプリス修道女は初め組合にはいった頃、二つの欠点を持っていて、美食を好み、また手紙をもらうことが好きだった。がしだいにそれを矯正(きょうせい)していった。彼女は大きい活字のラテン語の祈祷書(きとうしょ)のほかは何も読まなかった。彼女はラテン語は知らなかったが、その書物の意味はよく了解した。
 この敬虔(けいけん)な婦人はファンティーヌに愛情を持っていた。おそらくファンティーヌのうちにある美徳を感じたのであろう。そして彼女はほとんど他をうち捨ててファンティーヌの看護に身をささげていた。
 マドレーヌ氏はサンプリス修道女を片すみに呼んで、ファンティーヌのことをくれぐれも頼んだ。その声に異常な調子のこもっていることを彼女は後になって思い出した。
 サンプリス修道女を離れて、彼はファンティーヌに近寄った。
 ファンティーヌは毎日、マドレーヌ氏の来るのを待っていた、ちょうど暖気と喜悦との光を待つかのように。彼女はよく修道女たちに言った。「私は市長さんがここにおられる時しか生きてる心地は致しません。」
 彼女はその日熱が高かった。マドレーヌ氏を見るや、すぐに尋ねた。
「あの、コゼットは?」
 彼はほほえみながら答えた。
「じきにきます。」
 マドレーヌ氏はファンティーヌに対していつもと少しも様子は違わなかった。ただ彼はいつも三十分だけなのにその日は一時間とどまっていた。それをファンティーヌは非常に喜んだ。彼はそこにいる人たちに、病人に少しも不自由をさせないようにと繰り返し頼んだ。ちょっと彼の顔がひどく陰鬱(いんうつ)になるのを気づいた者もあった。しかし医者が彼の耳に身をかがめて「だいぶ容態が悪いようです。」と言ったことが知れると、その理由はすぐに解かれた。
 それから彼は市役所に帰った。書斎に掛かっているフランスの道路明細地図を彼が注意深く調べているのを給仕は見た。彼は紙に鉛筆で何か数字を書きつけた。

     二 スコーフレール親方の烱眼(けいがん)

 町はずれに、スコーフラエルをフランス流にしてスコーフレール親方と呼ばれてる一人のフランドル人が、貸し馬や「任意貸し馬車」をやっていた。マドレーヌ氏は市役所からその家にやって行った。
 そのスコーフレールの家に行くのに一番近い道は、マドレーヌ氏の住んでいた教区の司祭邸がある人通りの少ない街路であった。司祭は人のいうところによると物のよくわかったりっぱな尊敬すべき人だった。マドレーヌ氏がその司祭邸の前に通りかかった時、街路にはただ一人の通行人がいるだけだったが、その人は次のようなことを目撃した。市長は司祭の住居を通り越して足を止め、じっとたたずんだが、それからまた足を返して司祭邸の戸の所まで戻ってきた。その戸は中門であって鉄の戸たたきがついていた。彼はすぐにその槌(つち)に手をかけて振り上げた。それからふいに手を休めて躊躇(ちゅうちょ)し、何か考えてるようだったが、やがて槌を強く打ちおろさないで、静かにそれを元に戻し、そして前と違って少し急ぎ足に道を進んでいった。
 マドレーヌ氏が尋ねて行った時、スコーフレールは家にいて馬具を繕っていた。
「スコーフレール君、」と彼は尋ねた、「馬のよいのがあるかね。」
「市長さん、私どもの馬は皆ようがす。」とそのフランドル人は言った。「あなたがよい馬とおっしゃるのは一体どういうんです。」
「一日に二十里行ける馬なんだ。」
「なんですって!」とその男は言った、「二十里!」
「さよう。」
「箱馬車をつけてですか。」
「ああ。」
「それだけかけてから後はどのくらい休めます。」
「場合によっては翌日また出立しなければならないんだが。」
「同じ道程(みちのり)をですか。」
「さよう。」
「いやはや! 二十里ですな。」
 マドレーヌ氏は鉛筆で数字を書きつけておいた紙片をポケットから取り出した。彼はそれをフランドル人に見せた。それには、五、六、八半という数字が書いてあった。
「このとおりだ。」と彼は言った。「総計十九半だが、まあ二十里だね。」
「市長さん、」とフランドル人は言った、「間に合わせましょう。あのかわいい白馬です。時々歩いてるのを御覧なすったことがあるでしょう。下ブーロンネー産のかわいい奴(やつ)です。大変な元気者です。最初は乗馬にしようとした人もあったですが、どうもあばれ者で、だれ彼の用捨なく地面(じべた)に振り落とすという代物(しろもの)です。性が悪いというのでだれも手をつける者がなかったです。そこを私が買い取って馬車につけてみました。ところが旦那(だんな)、それが奴の気に入ったと見えて、おとなしい小娘のようで、走ることといったら風のようです。ええまったくのところ、乗るわけにはいきません。乗馬になるのは気に合わないと見えます。だれにだって望みがありますからな。引くのならよろしい、乗せるのはごめんだ。奴の心はまあそんなものでしょう。」
「その馬なら今言った旅ができようね。」
「ええ二十里くらいは。かけとおして八時間足らずでやれます。ですが条件付きですよ。」
「どういう?」
「第一に、半分行ったら一時間休まして下さい。その時に食い物をやるんですが、宿の馬丁が麦を盗まないように食ってる間ついていてもらわなければいけません。宿屋では麦は馬に食われるより廐(うまや)の小僧どもの飲み代(しろ)になってしまうことを、よく見かけますからな。」
「人をつけておくことにしよう。」
「第二に……馬車は市長さんがお乗りになるんですか。」
「そうだ。」
「馬を使うことを御存じですか。」
「ああ。」
「では馬を軽くしてやるために、荷物を持たないで旦那(だんな)一人お乗りなすって下さい。」
「よろしい。」
「ですが旦那一人だと、御自分で麦の番をしなければならないでしょう。」
「承知している。」
「それから一日に三十フランいただきたいですな。休む日も勘定に入れて。一文も引けません。それから馬の食い料も旦那の方で持っていただきます。」
 マドレーヌ氏は金入れからナポレオン金貨三個をとり出して、それをテーブルの上に置いた。
「では二日分前金として。」
「それから第四に、そんな旅には箱馬車はあまり重すぎて馬を疲らすかも知れません。今私の家にある小馬車で我慢していただきたいものですが。」
「よろしい。」
「軽いですが、幌(ほろ)がありませんよ。」
「そんなことはどうでもいい。」
「でも旦那、冬ですよ……。」
 マドレーヌ氏は答えなかった。フランドル人は言った。
「ひどい寒さですがよろしゅうござんすか。」
 マドレーヌ氏はなお黙っていた。スコーフレール親方は続けて言った。
「雨が降るかも知れませんよ。」
 マドレーヌ氏は頭をあげて、そして言った。
「その小馬車と馬とを、明朝四時半にわしの家の門口までつけてほしいね。」
「よろしゅうございます、市長さん。」とスコーフレールは答えた。それから彼はテーブルの木の中についている汚点(しみ)を親指の爪(つめ)でこすりながら、自分の狡猾(こうかつ)をおし隠す時のフランドル人共通な何気ないふうをして言った。
「ちょっと思い出したんですが、旦那(だんな)はまだどこへ行くともおっしゃらなかったですね。いったいどこへおいでになるんです。」
 彼は話のはじめからそのことばかりを考えていたのであるが、なぜかその問いを出しかねていた。
「その馬は前足は丈夫かね。」とマドレーヌ氏は言った。
「丈夫ですとも。下り坂には少しおさえて下さればよろしゅうござんす。おいでになろうって所までは下り坂がたくさんあるんですか。」
「あすの朝四時半きっかりに門口まで忘れないように頼むよ。」とマドレーヌ氏は答えた。そして彼は出て行った。
 フランドル人は、後に彼が自分でも言ったように、「まったく呆気(あっけ)にとられて」しまった。
 市長が出て行って二、三分した頃、戸はまた開かれた。やはり市長だった。
 彼はなお同じように、何かに思いふけってる自若たる様子だった。
「スコーフレール君、」と彼は言った、「君がわしに貸そうという馬と小馬車とはおよそどれほどの価に見積るかね、馬に馬車をのせて。」
「馬に馬車を引かせるんですよ、旦那(だんな)。」とフランドル人は大きく笑いながら言った。
「そうそう。それで?」
「旦那が買い取って下さるんですか。」
「いや。ただ万一のために保証金を出しておくつもりだ。帰ってきたらその金を返してもらうさ。馬車と馬とをいくらに見積るかね。」
「五百フランに、旦那。」
「それだけここに置くよ。」
 マドレーヌ氏はテーブルの上に紙幣を置いて、それから出て行った。そしてこんどはもう戻ってこなかった。
 スコーフレール親方は千フランと言わなかったことをひどく残念がった。馬と馬車とをいっしょにすれば百エキュー(訳者注 五百フランに当る)の価はあったのである。
 フランドル人は家内(かない)を呼んで、そのできごとを話した。いったい市長はどこへ行くんだろう? 二人は相談し合った。「パリーへ行くんでしょうよ。」と家内は言った。「俺はそうは思わん。」と亭主は言った。ところが、マドレーヌ氏は暖炉の上に数字をしるした紙片を置き忘れていた。フランドル人はそれを取り上げて調べてみた、「五、六、八半、これは宿場にちがいない。」彼は家内の方に向いた。「わかったよ。」「どうして?」「ここからエダンまで五里、エダンからサン・ポルまで六里、サン・ポルからアラスまで八里半、市長はアラスへ行くんだ。」
 そのうちにマドレーヌ氏は家に帰っていた。
 スコーフレール親方の家から帰りに彼は、あたかも司祭邸の戸が何か誘惑物ででもあって、それを避けんとするかのように、回り道をした。それから彼は自分の室に上ってゆき、そして中に閉じこもった。彼はよく早くから床につくことがあったので、それは別に怪しむべきことではなかった。けれども、マドレーヌ氏のただ一人の下婢(かひ)であって同時に工場の門番をしていた女は、彼の室の燈火(あかり)が八時半に消されたのを見た。そして彼女はそのことを帰ってきた会計係りの男に話し、なおつけ加えた。
「旦那様(だんなさま)は病気ではないでしょうか。何だか御様子が変わっていたようですが。」
 この会計係りの男は、マドレーヌ氏の室のちょうど真下の室に住んでいた。彼は門番の女の言葉を気にもかけず、床について眠った。夜中に彼は突然目をさました。夢現(ゆめうつつ)のうちに彼は、頭の上に物音をきいたのだった。彼は耳を澄ました。だれかが上の室を歩いてるような行き来する足音だった。彼はなお注意して耳を澄ました。するとマドレーヌ氏の足音であることがわかった。彼にはそれが異様に思えた。マドレーヌ氏が起き上がる前にその室に音のすることは、平素なかったのである。しばらくすると彼は、戸棚が開かれてまたしめらるるような音を聞いた。それから何か家具の動かされる音がして、そのままちょっとひっそりして、また足音がはじまった。彼は寝床に身を起こした。すっかり目がさめて、じっと目を据えると、窓越しにすぐ前の壁の上に、燈火のついたどこかの窓の赤い火影(ほかげ)がさしてるのを認めた。その光の方向をたどってみると、それはマドレーヌ氏の室の窓としか思えなかった。火影の揺れているのからみると、普通の燈火ではなくて燃えてる火から来るものらしかった。窓ガラスの枠(わく)の影がそこに写っていないのから考えると、窓はすっかり開かれているに違いなかった。その寒い晩に、窓の開かれているのは異常なことだった。が彼はそのまままた眠ってしまった。一、二時間後に彼はまた目をさました。ゆるい規則的な足音が、やはり頭の上で行きつ戻りつしていた。
 火影(ほかげ)はなお壁の上にさしていた。しかしそれはもうランプか蝋燭(ろうそく)かの反映のように薄く穏やかになっていた。窓は相変わらず開かれていた。
 ところで、マドレーヌ氏の室の中に起こったことは次のとおりである。

     三 脳裏の暴風雨

 読者は疑いもなくマドレーヌ氏はすなわちジャン・ヴァルジャンにほかならぬことを察せられたであろう。
 われわれは前にこの人の内心の奥底をのぞいたことがあるが、更になおのぞくべき時がきた。がそれをなすには、われわれは深い感動と戦慄(せんりつ)とを自ら禁じ得ない。この種の考察ほど恐ろしいものはない。人の心眼は人間のうちにおいて最も多く光輝と暗黒とを見いだす。またこれ以上恐るべき、複雑な、神秘な、無限なものは、何も見ることができない。海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。
 人の内心の詩を作らんには、たといそれがただ一個人に関してであろうとも、たとい最も下等な一人の者に関してであろうとも、世のあらゆる叙事詩を打って一丸となして一つのすぐれたる完全なる叙事詩になすを要するであろう。人の内心、そは空想と欲念と企画との混沌界(こんとんかい)であり、夢想の坩堝(るつぼ)であり、恥ずべき諸(もろもろ)の観念の巣窟(そうくつ)である。そは詭弁(きべん)の魔窟であり、情欲の戦場である。ある時を期して、考えに沈める一人の人の蒼白(そうはく)なる顔をとおし、その内部をのぞき、その魂をのぞき、その暗黒のうちをうかがい見よ。そこにこそ外部の静穏の下に、ホメロスの描ける巨人の戦いがあり、ミルトンの語れる竜や九頭蛇(だ)の混戦があり妖怪の群れがあり、ダンテの言える幻の渦がある。人が皆自己のうちに有し、それによって脳裏の意志と生涯の行動とを測って絶望するこの無際限は、いかに幽玄なるものぞ!
 ダンテはかつて地獄の門に出会い、その前に躊躇(ちゅうちょ)した。ここにもまた吾人(ごじん)の前に、くぐるを躊躇せざるを得ない門がある。しかしてあえてそれをくぐってみよう。
 あのプティー・ジェルヴェーの事件の後ジャン・ヴァルジャンにいかなる事が起こったかについては、読者の既に知っていること以外にあまり多くつけ加える要はない。その時以来、前に述べたとおり彼はまったく別人になった。司教が彼に望んだことを彼は実現した。それはもはや単なる変化にあらずして変容であった。
 彼は首尾よく姿を隠し、記念として燭台(しょくだい)のみを残して司教からもらった銀の器具を売り払い、町より町へと忍び行き、フランスを横ぎり、モントルイュ・スュール・メールにきて、前に述べたとおりのことを考えつき、前に物語ったとおりのことを仕とげ、押さえられ手をつけられることのないようになって、そして爾来(じらい)、モントルイュ・スュール・メールに居を定め、過去のために悲しい色に染められたおのれの心と、後半生のために夢のごとくなった前半生とを感じながら、心楽しく、平和と安心と希望とをいだいて生活していた。そしてもはや二つの考えしか持っていなかった。すなわち、おのれの名前を隠すことと、おのれの生を清めること、人生をのがれることと、神に帰ること。
 その二つの考えは彼の心のうちに密接に結ばれ合って、ただ一つのものとなっていた。二つとも等しく彼の心を奪い彼を従え、その些細(ささい)な行為をも支配していた。そして普通は両者一致して彼の世に処する道を規定し、彼を人生の悲惨なものの方へ向かわしめ、彼を親切にまた質朴ならしめ、彼に同じ助言を与えていた。けれども時としては両者の間に争いがあった。その場合には、読者の記憶するごとく、モントルイュ・スュール・メールのすべての人が呼んでもってマドレーヌ氏としたその人は、第一を第二のものの犠牲とし、自己の安全を自己の徳行の犠牲とすることに躊躇(ちゅうちょ)しなかった。かくて彼は、あらゆる控え目と用心とにもかかわらず、司教の二つの燭台を保存しておき、司教のために喪服をつけ、通りすがりのサヴォアの少年を呼んでは尋ね、ファヴロールにおける家族らのことを調べ、ジャヴェルの不安な諷諭(ふうゆ)をも顧みずして、フォーシュルヴァン老人の生命を救ったのである。前に述べたごとく、彼は賢人聖者または正しき人々にならって、おのれの第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。
 しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。われわれがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然(ばくぜん)としかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然(あぜん)としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然(ぼうぜん)としてしまったかのようだった。そしてその呆然(ぼうぜん)たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄(せんりつ)を感じた。暴風雨の前の樫(かし)の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷(じんらい)と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢(ろう)から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った、「まてよ! まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。
 もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛(かいしゅん)と克己との後、みごとにはじめられた贖罪(しょくざい)の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇(ちゅうちょ)することなく、底には天国がうち開いているその深淵(しんえん)に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。われわれは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そしてわれわれはその魂のうちにあったことのみをしか語ることを得ない。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯(たて)を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。
 その一日の残りを彼はそういう状態のうちに過ごした、内心の擾乱(じょうらん)と外部の深い平静とをもって。いわゆる「大事を取る」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裏に漠然と紛乱していた。何らのまとまった観念も認められないほどにその擾乱は激しかった。ただある大なる打撃を受けたということのほかは、彼自らも自分自身がわからなかったであろう。彼は平素のとおりファンティーヌの病床を見舞い、親切の本能からいつもより長くそこにとどまり、自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために、彼女を修道女たちによく頼んでおかなければならないと思った。アラスへ行かなければなるまいとぼんやり感じた。が少しもその旅を心に決したのではなかった。実際のところ何らの疑念をも被るわけはないので、これからの裁判に列席しても何ら不都合はないとひそかに考えた。
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