レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 その頃、しゃれ者といえば、高いカラーをつけ、大きなえり飾りをつけ、金ぴかの時計を持ち、色の違った三枚のチョッキを青や赤を下にして重ねて着、胴が短く後が魚の尾のようになってるオリーブ色の上衣をつけ、たくさん密に並んだ二列の銀ボタンを肩の所までつけ、ズボンはそれよりやや明るいオリーブ色で、両方の縫い目には幾つかの筋飾りをつけていて、その数は一から十一までの間できまってなかったが、必ず奇数で、また十一を限度としたものだった。それに加うるに、踵に小さな鉄のついた半靴に、縁の狭い高帽、長い髪の毛、大きなステッキ、ポアティエもどきの洒落(しゃれ)を交じえた会話。とりわけ、拍車と口髭(ひげ)。当時、口髭は市民のしるしであり、拍車は徒歩の人のしるしであった。
 田舎のしゃれ者は特に長い拍車をつけ、特に勢いよい口髭をのばしていた。
 それはちょうど、南米の諸共和国がスペイン国王と争っていた折で、ボリヴァル(訳者注 南米の将軍)とモリロ(訳者注 スペインの将軍)とが争闘していた頃だった。縁の狭い帽子を被ってるのは王党でモリロ派と称し、自由党の方は広い縁の帽子をかぶってボリヴァル派と称していた。
 さて前述の事件があってから八カ月か十カ月ばかり後、一八二三年の正月の初め、雪の降ったある晩、この種のしゃれ者の一人であり、閑人(ひまじん)の一人であり、モリロ派の帽をかぶってるので「正統派」と呼ばれている一人の男が、寒中の流行の一つである大きなマントに暖かく身を包んで、士官らの集まるカフェーの窓の前をうろついて、一人の女をからかっておもしろがっていた。女は夜会服をつけ首筋を露(あら)わにし頭には花をさしていた。そして彼しゃれ者は煙草をふかしていた、なぜなら煙草をふかすのはまさしく時の流行であったから。
 女が前を通るたびに、彼は葉巻きの煙とともに悪態を投げつけていた。彼は自分ではその悪口を巧みなおもしろいものと思っていたが、まずこんなものに過ぎなかった。「やあまずい顔だね!……いい加減に身を隠したがいいね!……歯がないんだね!……云々(うんぬん)。」その男の名はバマタボア氏といった。女は雪の上を行ききしてるただ化粧をしたというばかりの陰気な幽霊のような姿で、彼に返事もしなければふり向きもしなかった。そしてやはり黙ったまま陰鬱(いんうつ)に規則的にそこを歩き回って、笞刑(たいけい)を受ける兵士のように五分間ごとに男の嘲罵(ちょうば)の的となっていた。嘲罵の反応があまりないので、閑人(ひまじん)はひどくきげんをそこねたに違いない。彼は女が向こうへ通りすぎた機会をねらって、笑いをこらえながら抜き足で女の後ろに進んでいって、身をかがめて舗石(しきいし)の上から一握りの雪を取り、不意にそれを女の露(あら)わな両肩の間の背中に押し込んだ。女は叫び声を立て、向き返って、豹(ひょう)のようにおどり上がり、男に飛びつき、あらん限りの卑しい恐ろしい悪態とともに男の顔に爪を突き立てた。ブランデーのために声のかれたその罵詈(ばり)は、なるほど前歯の二本なくなってる口から醜くほとばしり出ていた。女はファンティーヌであった。
 その騒ぎに、士官らはいっしょにカフェーから出てき、通行人は足を止め、大きな円を作って群集は笑いののしりまた喝采(かっさい)した。そのまん中に二人は旋風のように取り組み合っていた。それが男と女とであることも見分け難いほどだった。男は帽子を地に落したまま身をもがいていた。女は帽子もなく前歯も髪の毛もなく、憤怒に青くなって恐ろしい様子でわめき立てながら、なぐりつけ蹴(け)りつけていた。
 と突然、背の高い一人の男が、群集の中から飛び出して、女の泥にまみれた繻子(しゅす)の胴着をつかんで言った。「ちょっとこい!」
 女は頭を上げた。その狂気のようなわめき声は急に止まった。目はどんよりとし、青白かった顔色は真っ青になり、恐怖にぶるぶる身を震わした。彼女はジャヴェルを見て取ったのだった。
 しゃれ者はその間に逃げてしまった。

     十三 市内警察の若干問題の解決

 ジャヴェルは見物人をおしのけ、群集の輪を破り、後ろにその惨めな女を従えて、広場の一端にある警察署の方へ大股(また)に歩き出した。女はただ機械的にされるままになっていた。二人とも一言も口をきかなかった。多くの見物人はひどくおもしろがって、ひやかし半分について行った。極端な悲惨は卑猥心(ひわいしん)の的となる。
 警察は天井の低い室で、暖炉がたいてあり、番兵がひかえていて、鉄格子にガラスのはまった戸が往来の方についていた。そこに着くと、ジャヴェルはその戸を開き、ファンティーヌとともに中にはいって、後ろに戸をしめてしまった。やじ馬はいたく失望したが、中を見ようとして、爪立ちながら警察署のよごれたガラス戸の前に首を伸ばした。好奇心は一の貪食(どんしょく)である。見ることはすなわち食うことである。
 中にはいるとファンティーヌは、恐(こわ)がってる犬のように片すみに縮こまって、身動きもしなければ口もきかなかった。
 署詰めの下士が蝋燭(ろうそく)をともしてきてテーブルの上に置いた。ジャヴェルは腰を掛けて、ポケットから捺印(なついん)してある一枚の紙を取り出して、何か書き始めた。
 この種の婦人は法律上まったく警察の処分に任せられている。警察では何でも勝手に処置して思うままに彼女らを罰し、彼女らが自分の仕事と呼び自由と呼んでいる二つの悲しき事をも随意に取り上げてしまうのである。ジャヴェルは感情を動かさない男であった。彼のまじめくさった顔付きは何らの情緒をも示してはいなかった。けれども彼は沈重で何か深く思いふけっていた。自由にしかも厳粛なる本心の注意を集めて、恐るべき臨機処分の権を行使している時であった。そういう時、彼は自分の警官の腰掛けを法廷であると感じていた。彼は判決をなしていた。判決をなし、そして宣告を与えていた。彼は自分の脳裏にあるすべての思想を呼び起こして、おのれのなさんとする大事に集注した。彼はその女の行為を調ぶれば調ぶるほど、ますます嫌悪(けんお)の情を感じた。明らかに一つの罪悪が行なわれるのを目撃したのだった。あの往来において、一人の選挙権を有する土地所有者によって代表せられてる社会が、人の歯(よわい)せざる一人の女から侮辱され攻撃されてるのを見たのである。一人の売春婦が一個の市民に害を加えたのである。彼ジャヴェルは、それをまさしく見たのである。彼は黙々として書き続けた。
 書き終えてから彼はそれに署名した。そしてその紙をたたんで署詰めの下士に渡しながら言った。「二、三人呼んで、この女を牢(ろう)に連れてってもらいましょう。」それからファンティーヌの方へ向いて言った。「お前は六カ月間牢にはいるんだぞ。」
 不幸な女は身を震わした。
「六カ月、牢に六カ月!」と彼女は叫んだ。「日に七スーずつしか取れないで六カ月間! そしたらコゼットはどうなるだろう。娘は、ああ娘は! 私はまだテナルディエの所に百フラン余りの借りがあるんです。警視さん、考えてみて下さい。」
 大勢の泥靴によごれてじめじめしてる床の上に彼女は身を投げた。そして立ち上がろうともせず、両手を握り合わしたまま、膝頭(ひざがしら)ではい回った。
「ジャヴェルの旦那、」と彼女は言った、「どうぞお許し下さい。決して私(わたし)が悪かったんじゃありませんから、初めから御覧なすっていたら、きっとおわかりになったはずです。私が悪かったのでないことは神様に誓います。知りもしないあの男の人が私の背中に雪を押し込んだんです。だれにも何にもしないで静かに歩いてる時、背中に雪を押し込むなんていう法がありましょうか。それで私は気が立ったんです。私はこのとおり少し身体(からだ)も悪いんですもの。その上、前からあの人は私に無茶を言っていたんです。まずい顔だね、歯がないんだねって。歯のないことは自分でもよく知っていますわ。だから私は何にもしなかったんです。冗談言ってるんだと思ってました。私はおとなしくしていました。口もききませんでした。その時です、あの人が私に雪を入れたのは。ジャヴェルの旦那、警視さん、初めからそこに見ていて、私の申すのが本当だと言ってくれる人はだれもいないんでしょうか。怒ったのは悪かったでしょう。が、初めは自分をおさえることのできないこともありますわ。むっとすることがあるものですわ。それにあんな冷たいものを、思いがけない時背中に入れられてごらんなさい。あの人の帽子を台なしにしたのは私が悪いんです。けれどなぜあの人は逃げていってしまったんでしょう。私あやまるんですのに。おお神様も見て下さい、私はいつでもあやまります。だから今日の所だけはどうぞ許して下さい、ジャヴェルの旦那。ねえ、あなたは御存じないでしょうが、監獄では七スーしかもらえないんです。お上(かみ)の知ったことではないでしょうが、七スーしか取れないんです。それだのに、察して下さい、私は百フランも払わなければなりません。そうしないと娘は私の所へ返されるんです。おお神様、私は娘といっしょに住むことはできない。私のしてることはあまり汚らわしい! 私のコゼット、聖(きよ)い天使のような私の娘、かわいそうにあれはどうなるでしょう! こうなんです、娘を預ってるのはテナルディエといって、田舎者で宿屋をしてる夫婦者ですが、わけのわからない人たちです。お金ばかりほしがっているんです。どうぞ私を牢に入れないで下さい。小さい児なのに、この冬の最中に勝手にしろといって往来に放(ほう)り出されるんです。ねえジャヴェルの旦那、かわいそうではありませんか。もっと大きくなっていれば、どうにか食べてゆけもしましょうが、あの年ではそれもできません。私は心底から悪い女ではないんです。なまけたりうまいものを食べたりしたいためにこんなになったのではありません。ブランデーも飲みますけれど、それも苦しいからです。酒なんか好きではありませんが、酒をのむと苦しみを忘れるからです。私がもっと仕合わせであった時には、ちょっと戸棚をあけてみただけでもふしだらな賤(いや)しい女でないことがわかったものです。下着などもたくさん持っていたものです。お情けにどうか、ジャヴェルの旦那!」
 彼女はそういうふうに言いながら、身体を二つに曲げ、身を震わして啜(すす)り泣き、目にいっぱい涙をため、首を露(あら)わにし、両手を握り合わせ、かわいた短い咳をし、苦痛の声をしぼって静かに訴えた。大なる苦悩は聖いそして恐ろしい光で、悲惨なる者の姿を浄化する。その瞬間ファンティーヌはまた美しくなっていた。時々彼女は言葉を切って、警官のフロックの裾(すそ)にやさしく脣(くちびる)をつけた。彼女は花崗岩(かこうがん)のような冷ややかな心をもやわらげたであろう。しかし木のごとき心をやわらげることはできないものである。
「よろしい、」とジャヴェルは言った、「言うだけは聞いてやった。もうすんだのか。それではさあ行け。六カ月だぞ。父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだ。」
 父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだというそのおごそかな言葉をきいて、彼女は判決が下されたのだということを了解した。彼女はそこにくずおれて口の中で言った。
「お慈悲を!」
 ジャヴェルは背中を向けた。
 兵士らは彼女の腕をとらえた。
 しばらく前からそこに一人の男がはいってきていた。だれもそれに気づいていなかった。彼は戸をしめて、それによりかかって、ファンティーヌの絶望的な訴えをきいていたのだった。
 身を起こそうともしないあわれな女に兵士らが手を触れた時に、男は一歩進んで、物陰から出てきて言った。
「どうか、しばらく!」
 ジャヴェルは目をあげて、そしてマドレーヌ氏を認めた。彼は帽子をぬいで、不満な様子であいさつをした。
「失礼しました、市長どの……」
 この市長殿という言葉は、ファンティーヌに不思議な刺激を与えた。彼女は地面から飛び出した幽霊のように突然すっくと立ち上がった。そして両手で兵士らを払いのけ、人々が引き留める間もなくもう、マドレーヌ氏の方へまっすぐに進んでゆき、我を忘れたようにじっと彼を見つめ、そして叫んだ。
「おお、市長というのはお前さんのことですか。」
 それから彼女は突然笑い出して、彼の顔に唾(つば)をはきかけた。
 マドレーヌ氏は顔をふいてそして言った。
「ジャヴェル君、この女を放免しておやりなさい。」
 ジャヴェルはその瞬間気が狂ったかと思った。彼はその一瞬の間に、相ついでそしてほとんどいっしょに、いまだかつて知らないほどの種々の激情を経験した。醜業婦が市長の顔に唾を吐きかけるのを見たこと、それはいかにも奇怪千万なことで、いかに恐ろしい想像をたくましゅうしてみても、あり得べきことだと信ずるのでさえすでに冒涜(ぼうとく)であるような気がした。また他方には、この女はいったい何者で、また市長は何者であろうかと考えて、両者の間に忌むべき関係を心の底でふと立ててみた。そして女の奇怪な侮辱のうちに何かごく簡単な理由を想像してみて慄然(りつぜん)とした。しかしながら、市長が、行政官が、静かに顔をふいて、この女を放免しておやりなさいと言うのを見た時に彼は、にわかに茫然(ぼうぜん)としてしまった。何の考えも言葉も出てこなかった。驚駭(きょうがい)の度が彼にはあまり大きかった。彼は口をきき得ないでぼんやり立ちつくしていた。
 また市長の言葉は、ファンティーヌにも同じく不思議な影響を与えた。彼女はその露(あら)わな腕を上げ、よろめく者のように暖炉の戸前につかまった。それでも彼女は自分のまわりを見回して、そして自分自身に言うかのように低い声で言い出した。
「放免! 免(ゆる)してやれ、六カ月牢に行かせるな! それを言ったのはだれだろう。いやだれが言えるものか。私の聞き違いかしら。市長の奴が言うはずはない。あなた、ジャヴェルの旦那、あなたですか、私を放免してやれとおっしゃったのは。おお聞いて下さい、申し上げたらきっと私を許して下さるでしょう。このひどい市長です、元はといえば皆この市長のおいぼれのお陰です。察して下さい、ジャヴェルの旦那、この人が私を追い払ったんです。工場でいろいろなことを言いふらす乞食婆どものためにです。あまり酷(ひど)いではありませんか、正直に仕事をしてるあわれな者を追い出すなんて! それからというもの、私は十分お金が取れなかったんです、そしてこんなに不仕合(ふしあわせ)になったんです。第一警察の方でも是非ともしていただきたい改良が一つありますわ。監獄の請負人が貧乏人たちを苦しめないように、してもらいたいことです。説明してあげてもよござんすわ。シャツを縫って十二スー取れていたのが、九スーになってしまったんです。それではもう暮らしてはいけません。だから何にでもならなければならなくなったんです。それに私には娘のコゼットがいます。いやな商売でもしなければならなかったんです。これでおわかりでしょう、あの市長のやつがみな不運の元なんです。それから私は、あの軍人の集まるカフェーの前であの男の帽子を踏みつけました。ですがあの人は、雪で私の着物をすっかり台なしにしてしまったんです。私どものような女は、晩に着る絹物はただ一枚きり持ちません。ねえジャヴェルの旦那、私は何もことさら悪いことをしたのではありませんわ、本当です。私よりもっと悪い女はどこにでもいます、そしてもっと楽をしています。ああジャヴェルの旦那、私を許してやれとおっしゃったのはあなたでしょう。よく調べてみて下さい。家主さんにもきいて下さい。今では家賃もちゃんと払っています。私が正直なことはだれにきいてもわかります。おや、ごめん下さい、知らずに暖炉の戸前にさわったのでけむり出して。」
 マドレーヌ氏は深い注意を払って彼女の言うのを聞いていた。彼女がしゃべっている間に、彼はチョッキを探って金入れを取り出して開いてみた。が、それは空(から)だった。彼はそれをまたポケットにしまった。彼はファンティーヌに言った。
「いくら借りがあると言ったっけね。」
 ジャヴェルの方ばかり見ていたファンティーヌは、彼の方へふり向いた。
「だれもお前さんに口をきいてやしません!」
 そして彼女は兵士らへ言葉を向けた。
「ねえ、お前さんたちも、私がこの人の顔に唾を吐きかけたのを見たでしょう。ああ、市長の古狸(ふるだぬき)め、私を嚇(おど)かしにきたんでしょうが、だれがお前さんをこわがるものかね。私はジャヴェルの旦那がこわい。親切なジャヴェルの旦那がこわいのさ!」
 そう言いながら、彼女はまた警視の方へ向いた。
「ねえ、警視さん、物事は正しくしなければいけません。私はあなたが正しいことも知っています。実際ごく簡単なことですわ。一人の男が冗談に女の背中に少し雪を入れた。それが士官たちを笑わした。人は何か慰みをするものです、そして私どもは人の慰みになるんです。それだけのことですわ。それからあなたがいらした。あなたは秩序を保たなければならなかった。あなたは悪い女を拘引なすった。けれど、あなたは親切だからよく考えて、私を放免してやれとおっしゃった。それは子供のためですわね。なぜなら、六カ月も牢にはいっていては子供を養うことができませんもの。ただ二度とあんなことをするなっておっしゃるんでしょう。ええ私はもう二度とあんなことは致しません。ジャヴェルの旦那、もうこんどはどんなことをされようと決して手出しは致しません。ただ今日は私あまり大声を立てました。つらかったんですもの。あの人が雪を入れようなどとは夢にも思ってなかったんです。それにさっき申したとおり、私は身体(からだ)もあまりよくないんです。咳(せき)が出て、何か熱いかたまりで胸がやけるようです。用心せよってお医者さんも言いました。ちょっと、手をかして、さわってごらんなさい。こわがらなくってもいいでしょう。ここですのよ。」
 彼女はもう泣いていなかった。声は甘えるようだった。彼女は自分の白いやさしい喉元(のどもと)にジャヴェルの大きい荒々しい手をあてた、そして、ほほえみながら彼をながめた。
 突然彼女は着物の乱れているのをなおし、下にこごんでいたため膝の所までまくれている着物の裾をおろし、戸の方へ歩いてゆきながら、親しげにうなずいて兵士らに低い声で言った。
「皆さん、許してやれと警視さんがおっしゃったから、私行きますわ。」
 彼女は□(かきがね)に手をかけた。今一歩で外に出るところだった。
 ジャヴェルはその時まで立ちつくしていた。身動きもしないで、床(ゆか)に目を落として、位置を動かされてどこかに据えられるのを待ってる立像のように、この光景のまん中に立ちつくしていた。
 □の音は彼を覚(さま)した。彼は頭を上げた。顔には、主権者の権力の表情、下等なものになればなるほどいっそう恐ろしくなり、野獣においては獰猛(どうもう)となり、卑しい人間においては凶悪となる表情があった。
「下士官、」と彼は叫んだ、「そいつが出て行こうとするのが見えないか。そいつを許せとだれが言った。」
「私です。」とマドレーヌは言った。
 ファンティーヌはジャヴェルの声に震え上がって、盗賊が盗んだ品物を放すように□から手を放した。マドレーヌの声に彼女はふり向いた。そしてその時から、一言も発せず、息も自由につかないで、二人が口をきくにつれて、マドレーヌからジャヴェルへ、ジャヴェルからマドレーヌへ、かわるがわる目を移した。
 市長がファンティーヌを許してやるように申し出た後、あえてこのように下士官を呼びかけるには、ジャヴェルはいわゆる「箍(たが)を外(はず)して」いたに違いない。そのために彼は市長がそこにいるのも気付かなかったのであろうか。または、いかなる「権力」といえどもかかる命令を与えることはできないと信じ、市長が自ら気付かずして何か取り違えてかかる言を発したのであると信じたのであろうか。もしくは、二時間前から目撃してきた暴行の前において、いよいよ最後の決断を取らなければならないと思い、小官も大官となり、一個の刑事巡査も長官となり、警官も法官となることが必要だと思い、この危急な場合においては、秩序、法律、道徳、政府、社会すべてが、おのれジャヴェル一個のうちに代表せらるべきものであると信じたのであろうか。
 それはともかくとして、前のごとくマドレーヌが私ですという言葉を発した時に、警視ジャヴェルは市長の方へ向き直り、青くなり、冷たくなり、脣(くちびる)を紫色にし、憤激の目付きをし、全身をこまかく震わし、そして目を伏せながらしかも確乎(かっこ)たる声で、あえて市長に言った。
「市長どの、それはなりませぬ。」
「どうしてですか。」とマドレーヌ氏は言った。
「この女は市民を侮辱しました。」
「ジャヴェル君、まあ聞きたまえ。」とマドレーヌ氏はなだめるような静かな調子で言った。「君は正直な人です。君に説明してあげるのは困難ではない。事実はこうです。君がこの女を引き立ててゆく時私はその広場を通った。まだそこには大勢の人がいた。私はいろいろ聞いてみてすべてのことがわかった。悪いのはあの男の方で、まさしく拘留すべきはあの男の方です。」
 ジャヴェルは答えた。
「この女は市長殿を侮辱したのです。」
「それは私一個のことです。」とマドレーヌ氏は言った。「私の受けた侮辱はおそらく私一個人だけに関することでしょう。それは私が自分でどうにでもすればいいのです。」
「市長どの、お言葉ですが、女の侮辱はあなた一人だけにとどまらず、実に法を犯すものです。」
「ジャヴェル君、」とマドレーヌ氏は反駁(はんばく)した、「最高の法は良心です。私はこの女の言うことを聞いた。そして自分のすべきことを知っている。」
「市長どの、私は一向に了解できません。」
「それではただ私の言に従うので満足なさるがいいでしょう。」
「私は自分の義務に従うのです。私の義務は、この女が六カ月間入牢することを要求します。」
 マドレーヌ氏は穏やかに答えた。
「よくお聞きなさい、この女は一日たりとも入牢させてはなりませぬ。」
 その断乎(だんこ)たる言葉をきいて、ジャヴェルはそれでもじっと市長を見つめた、そして深い敬意をこめながらもなお言った。
「私は市長どのに反対するのを遺憾に思います。これは生涯初めてのことです。しかし、私は自分の権限内において行動していると申すのを許していただきます。お望みですから、あの一市民に関することだけに止めましょう。私は現場にいました。この女があの市民に飛びかかったのです。彼はバマタボア氏と言って、選挙資格を有し、遊歩地の角にあるバルコニーのついた石造りのりっぱな四階建ての家屋を所有しています。まあそれらのことも参考にすべきです。それはとにかく、市長どの、この事件は私に関係ある道路取り締まりに関することです。私はこのファンティーヌという女を取り押さえます。」
 その時マドレーヌ氏は腕を組み、まだ町でだれも聞いたことのないほどの厳格な声で言った。
「君の言う事実は市内警察に関する事がらです。刑事訴訟法第九条、第十一条、第十五条、および第六十六条の明文によって、私はその判事たるべきものです。私はこの女を放免することを命ずる。」
 ジャヴェルは最後の努力をなさんとした。
「しかし、市長どの……」
「不法監禁に関する一七九九年十二月十三日の法律第八十一条を思い出されるがいい。」
「市長どの、どうか……。」
「一言もなりませぬ。」
「しかし……。」
「お退(さが)りなさい。」とマドレーヌ氏は言った。
 ジャヴェルはつっ立ちながら真っ正面に、ロシア兵士のように胸のまん中にその打撃を受けた。彼は市長の前に地面まで頭を下げ、そして出ていった。
 ファンティーヌは戸口から身をよけて、ジャヴェルが前を通るのを茫然とながめた。
 けれども彼女もまた異常な惑乱にとらえられていた。彼女は自分が互いに反対の二人の権力者の間の何か争論の種となったのを見て取った。彼女は自分の自由と生命と魂と子供とを手に握って二人の人が目前に争うのを見た。一人は自分を暗黒の方へ引こうとし、一人は自分を光明の方へ連れ戻そうとした。その争いは恐怖のために大きく見えて、二人が巨人のように思われた。一人は悪魔の巨人のように口をきき、一人は善良な天使の巨人のように語った。天使は悪魔に打ち勝った。そして彼女を頭の頂から爪先まで戦慄せしめたことは、その天使、その救い主は、だれあろう、自分がのろっていたその男、自分のすべての不幸の元であると長い間考えていたあの市長、あのマドレーヌその人であろうとは! しかも激しく侮辱してやったその瞬間に自分を救ってくれようとは! それでは自分は思い違いをしていたのか? それでは自分はまったく心を変えてしまわなければならないであろうか?……彼女にはいっさいわからなかった。彼女は身を震わした。彼女は前後を忘れて耳を傾け、驚いて見つめ、そしてマドレーヌの発する一言ごとに、憎悪の恐ろしい暗やみが胸から解けくずれるのを感じ、喜悦と信頼と愛情との一種言うべからざる温(あたたか)きものが心のうちに生ずるのを感じた。
 ジャヴェルが室を出て行った時、マドレーヌ氏は彼女の方へ向いた。そして涙を流すことを欲しないまじめな人のようにかろうじておもむろに言った。
「私はあなたの言うところを聞きました。あなたが言ったようなことを私は何も知らなかった。が、私はあなたの言ったことが事実であると信ずる、また事実であると感ずる。私はあなたが工場を去ったことさえ知らなかった。なぜあなたは私に訴えなかったのです。しかしそれはそれとして、私はあなたの負債を払ってあげよう。子供を呼んであげよう。あるいはあなたが子供の所へ行かれてもいい。ここにいようと、またパリーへ行こうと、どこへでも随意です。私はあなたの子供とあなたとを引き受けてあげる。いやだったらもう仕事をしなくともよろしい。いるだけの金は出してあげる。あなたは再び仕合わせになるとともにまた正道に立ち直るでしょう。いやそればかりか、よくお聞きなさい、ただ今から私はあなたに向かって言います、すべてあなたが言ったとおりであるならば、そしてそれを私も疑いはしませんが、それならばあなたは決して堕落したのでもなければ、また神様の前に対して汚れた身になったのでもありません。まことに気の毒な方です!」
 それはあわれなファンティーヌに取っては身に余るほどのことだった。コゼットといっしょになる! この汚辱の生活から脱する! 自由に、豊かに、幸福に、正直に、コゼットとともに暮らす! この悲惨のただ中に突然現実の楽園が開ける! 彼女は自分に話しかけてるその人を茫然自失したかのように見守った、そして「おお、おお!」と二、三のすすり泣きが出るきりだった。膝はおのずから下って、彼女はマドレーヌ氏の前にひざまずいた。マドレーヌ氏はそれを止める間もなく、自分の手が取られてそれに脣(くちびる)が押しあてられたのを感じた。
 そしてファンティーヌは気を失った。
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   第六編 ジャヴェル


     一 安息のはじめ

 マドレーヌ氏は自分の住宅のうちにある病舎にファンティーヌを移さして、そこの修道女たちに託した。修道女たちは彼女をベッドに休ました。激しい熱が襲ってきていた。彼女はその夜長く正気を失って高い声で譫言(うわごと)を続けていたが、やがては眠りに落ちてしまった。
 翌日正午(ひる)ごろにファンティーヌは目をさました。彼女は自分の寝台のすぐそばに人の息を聞いた。帷(とばり)を開いてみると、そこにマドレーヌ氏が立っていた。彼は彼女の頭の上の方に何かを見つめていた。目付きはあわれみと心痛とに満ちていて、祈願の色がこもっていた。その視線をたどってみると、壁に釘付けにされてる十字架像に目を据えてるのだった。
 その時以来、マドレーヌ氏の姿はファンティーヌの目には異なって映るようになった。彼女には彼が光明に包まれてるように思えた。彼は一種の祈祷のうちに我を忘れていた。彼女はあえて彼のその心を妨げず長い間ただ黙ってながめた。がついに、彼女はおずおずと口を開いた。
「そこに何をしていらっしゃいますの。」
 マドレーヌ氏はもう一時間もそうしていたのである。彼はファンティーヌが目をさますのを待っていた。彼は彼女の手を取り、その脈をみて、そして答えた。
「加減はどうです。」
「よろしゅうございます。よく眠りました。」と彼女は言った。「だんだんよくなるような気がします。もう大したことではありませんわ。」
 彼はその時、ファンティーヌが最初になした問いをしか耳にしなかったかのようにそれに答えて言った。
「私は天にある殉教者に祈りをしていました。」
 そして彼は頭の中でつけ加えた、「地上にあるこの受難者のために。」
 マドレーヌ氏は前晩とその午前中とを調査に費やしたのだった。今ではもうすべてを知っていた。ファンティーヌの痛ましい身の上を詳細に知っていた。彼は続けて言った。
「あわれな母親、あなたはずいぶん苦しんだ。不平を言ってはいけません。今ではあなたは天から選ばれた者の資格を持っている。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。しかしそれは人間の罪ではない、他になす術(すべ)を知らないからです。あなたが出てこられたあの地獄は天国の第一歩です。まずそこから始めなければなりません。」
 彼は深いため息をついた。けれど彼女は二本の歯の欠けた崇高な微笑(ほほえ)みを彼に示した。
 ジャヴェルの方では、その晩一つの手紙を書いた。翌朝自らそれをモントルイュ・スュール・メールの郵便局に持って行った。それはパリーへ送ったもので、あて名には警視総監秘書シャブーイエ殿としてあった。警察署のあの事件が盛んに噂の種となっていたこととて、その手紙が発送される前にそれを見てあて名の文字にジャヴェルの手蹟(しゅせき)を見て取った局長や他の人々は、それがジャヴェルの辞表だと思った。
 マドレーヌ氏はまた急いでテナルディエ夫婦の所へ手紙を書いた。ファンティーヌは彼らに百二十フラン借りになっていた。彼は三百フラン送って、そのうちからすべてを差し引き、なお母親が病気で子供に会いたがっているから、すぐに子供をモントルイュ・スュール・メールに連れて来るようにと言ってやった。
 そのことはテナルディエを驚かした。「畜生、子供を手放してたまるものか。」と彼は女房に言った。「この雲雀(ひばり)娘がこれから乳の出る牛になったというものだ。わかってらあね。ばか者があのおふくろに引っかかったのだ。」
 彼は五百フランとなにがしかの覚え書きをうまく整えて送ってきた。この覚え書きのうちには三百フラン余りの明らかな二つの内訳がのっていた。一つは医者の礼で他は薬剤師の礼で、いずれもエポニーヌとアゼルマとの長い病気の手当てと薬の代であった。前に言ったとおりコゼットは病気にかかりはしなかったのである。ただ名前を変えるという些細(ささい)な手数だけでよかった。テナルディエは覚え書きの下の方に三百フラン受け取り候と書きつけた。
 マドレーヌ氏はすぐにまた三百フラン送って、早くコゼットを連れてきてくれと書いてやった。
「なあに、子供を手放すものか。」とテナルディエ[#「テナルディエ」は底本では「エナルディエ」]は言った。
 そうこうするうちにもファンティーヌは回復しなかった。相変わらず病舎にいた。
 修道女たちが「その女」を受け取って看護したのは初めはいやいやながらであった。フランスの寺院にある浮き彫りを見た者は、賢い童貞らが不潔な娘らをながめながら、下脣(したくちびる)をとがらしているのを思い起こすだろう。貞節な婦人の不運な女に対するこの古来の軽侮は、女性の威厳より来る最も深い本能の一つである。でこの修道女たちは、宗教のためになお倍加してその気持を経験したのである。しかしやがてファンティーヌは彼女たちの心をやわらげた。彼女は謙遜でやさしい言葉を持っていた、そして彼女のうちにある母性は人の心を動かした。ある日、彼女が熱に浮かされながら次のように言うのを修道女たちは聞いた。「私は罪深い女でした。けれど子供が私の所へ来るならば、それは神様が私をお許しなされたことになりますでしょう。悪い生活をしている間は、私はコゼットをそばに呼びたくありませんでした。私はコゼットのびっくりした悲しい目付きを見るのにたえられなかったでしょう。けれども私が悪い生活をしたのもあの児のためだったのです。だから神様は私をお許し下さるのです。コゼットがここに来る時、私は神様のお恵みを感ずるでしょう。私は子供を見つめましょう。その罪ない子供を見ることは私のためにいいでしょう。あの児はまったく何にも知りません。ねえ皆さん、あの児は天の使いですわね。あれくらいの年では、翼はまだ決して落ちてはいませんわ。」
 マドレーヌ氏は日に二度ずつ彼女を見舞ってきた。そのたびごとに彼女は尋ねた。
「じきにコゼットに会えましょうか。」
 彼は答えた。
「たぶん明朝は。今に来るかと私も始終待ち受けているのです。」
 すると母親の青白い顔は輝いてきた。
「ああ、そしたらどんなにか私は仕合わせでしょう!」と彼女は言った。
 さて前に彼女は回復しなかったと言ったが、いやかえって容態は一週ごとに重くなるようだった。二つの肩胛骨(けんこうこつ)の間の露(あら)わな肌の上に押し当てられた一握りの雪は、急に皮膚排出を抑止してしまったので、その結果数年来の病芽がにわかに激発したのだった。当時、胸部の病気の研究ならびに処置についてはラエネックのみごとな説が一般に奉じられつつあった。医者はファンティーヌを診察して頭を振った。
 マドレーヌ氏は医者に言った。
「いかがでしょう。」
「会いたがっている子供でもありませんか。」と医者は尋ねた。
「あります。」
「では至急お呼びなさるがよろしいでしょう。」
 マドレーヌ氏は身を震わした。
 ファンティーヌは彼に尋ねた。
「お医者様は何と言われまして?」
 マドレーヌ氏は強(し)いてほほえんだ。
「早くあなたの子供を連れて来るようにと言いました。そうすれば丈夫になるだろうと。」
「ええ、そうですとも!」と彼女は言った。「けれどもテナルディエの人たちはいったいどうしたのでしょう。私のコゼットを引き留めておくなんて。おお、娘はきますわ! ああとうとう幸福が私のそばに!」
 けれどもテナルディエは「子供を手放さ」なかった。そしていろいろな口実を構えた。コゼットはまだ少し身体が悪くて冬に旅はできないとか、あるいはまた、近所にこうるさい負債が少しずつ残っていてその書き付けを集めているとか、いろいろなことを。
「私は人をやってコゼットを連れてこさせよう。」とマドレーヌさんは言った。「もしやむを得なければ自分で行こう。」
 彼はファンティーヌの言葉どおりに次のような手紙を書き、それに彼女の署名をさした。

 テナルディエ殿
この人へコゼットを御渡し下されたく候。
種々の入費は皆支払うべく候。
謹(つつし)みて御挨拶(あいさつ)申し上げ候。
ファンティーヌ
 ちょうどその間に大事件が持ち上がった。人生が形造られてる不可思議なる石塊をいかによく刻まんとするもむだである、運命の黒き鉱脈は常にそこに現われて来る。

     二 ジャン変じてシャンとなる話

 ある朝マドレーヌ氏は書斎にいて、自らモンフェルメイュに旅する場合のために市長としての緊急な二、三の事務を前もって整理していた。その時警視のジャヴェルが何か申し上げたいことがあってきた旨が取りつがれた。その名前をきいてマドレーヌ氏はある不快な印象を自ら禁ずることができなかった。警察署でのあの事件以来、ジャヴェルは前よりもなおいっそう彼を避けていた。そして彼はジャヴェルの姿を少しも見かけなかったのである。
「通しておくれ。」と彼は言った。
 ジャヴェルははいってきた。
 マドレーヌ氏は暖炉の近くにすわり、手にペンを持って、道路取り締まり違反の調書がのってる記録を開いて何か書き入れながら、それに目を据えていた。彼はジャヴェルがきてもそれをやめなかった。彼はあわれなファンティーヌのことを考え止めることができなかった、そして他のことに対して冷淡であるのは自然のことだった。
 ジャヴェルは自分の方に背を向けてる市長にうやうやしく礼をした。が市長は彼の方へ目を向けないで、続けて記録に書き込んでいた。
 ジャヴェルは室の中に二、三歩進んだ、そしてその静けさを破らずに無言のまま立ち止まった。
 もし一人の人相家があって、ジャヴェルの性質に親しんでおり、この文明の奴僕たる蛮人、ローマ人とスパルタ人と僧侶と下士とのおかしなこの雑種人、一の虚言をもなし得ないこの間諜(かんちょう)、この純粋無垢(むく)な探偵(たんてい)を、長い間研究しており、更にまたマドレーヌ氏に対する彼の昔からのひそかな反感や、ファンティーヌに関する彼と市長との争いなどを知っており、そしてこの瞬間における彼をよく見たとするならば、その人相家は「何が起こったのだろう」と思ったであろう。彼の正直で清澄でまじめで誠実で謹厳で猛烈な内心を知っている者にとっては、彼が心内のある大変化を経たことを明らかに見て取り得られたであろう。ジャヴェルはいつも心にあることはすぐに顔にも現わした。彼は荒々しい気質の人のようにすぐに説を変えた。が、この時ほど彼の顔付きは不思議な意外な様をしていることはかつてなかった。室にはいって来るや、何らの怨恨(えんこん)も憤りも軽侮も含まない目付きで、マドレーヌ氏の前に身をかがめ、それから市長の肱掛椅子(ひじかけいす)の後ろ数歩の所に立ち止まったのだった。そして今彼は規律正しい態度をし、かつて柔和を知らない常に堅忍な人のような素朴な冷ややかな剛直さをもって、そこに直立していたのである。彼は一言も発せず、何らの身振りもせず、真の卑下と平静な忍従とのうちに、市長がふり向くのを待っていた。そして落ち着いたまじめな様子をして、手に帽子を持ち、目を伏せ、隊長の前に出た兵士と裁判官の前に出た罪人との中間な表情を浮かべていた。彼が持っていたと思われるあらゆる感情や記憶は消え失せてしまっていた。その花崗石のごとき単純でしかも測り難い顔の上には、ただ憂鬱(ゆううつ)な悲しみのほかは何も見られなかった。彼のすべての様子は、屈従と決意と一種の雄々しい銷沈(しょうちん)とを示していた。
 ついに市長はペンを擱(お)いて、半ばふり返った。
「さて、何ですか、どうかしたのですか、ジャヴェル君。」
 ジャヴェルは何か考え込んでいるかのようにちょっと黙っていたが、やがてなお率直さを失わない悲しげな荘重さをもって声を立てて言った。
「はい、市長殿、有罪な行為がなされたのです。」
「どういうことです?」
「下級の一役人が重大な仕方である行政官に敬意を失しました。私は自分の義務としてその事実を報告に参ったのです。」
「その役人というのはいったいだれです。」とマドレーヌ氏は尋ねた。
「私です。」とジェヴェルは言った。
「君ですって。」
「私です。」
「そしてその役人に不満なはずの行政官というのはだれです。」
「市長殿、あなたです。」
 マドレーヌ氏は椅子の上に身を起こした。ジャヴェルはなお目を伏せながらまじめに続けた。
「市長殿、私の免職を当局に申し立てられんことをお願いに上がったのです。」
 マドレーヌ氏は驚いて何か言おうとした。ジャヴェルはそれをさえぎった。
「あなたは私の方から辞職すべきだとおっしゃるでしょう。しかしそれでは足りません。自ら辞職するのはまだ名誉なことです。私は失錯をしたのです。罰せらるべきです。私は放逐せられなければいけないのです。」
 そしてちょっと言葉を切ってまたつけ加えた。
「市長殿、あなたは先日私に対して不当にも苛酷であられました。今日は正当に苛酷であられなければいけません。」
「そしてまた何ゆえにです。」とマドレーヌ氏は叫んだ。
「何でそう無茶なことを言うのです。いったい[#「いったい」は底本では「いつたい」]どういう意味ですか。君は私(わたし)に対してどういう有罪な行為を犯したのです? 君は私に何をしました? どんな悪い事を君は私にしました? 君は自分で自分を責め、免職されることを望んでいるが……」
「放逐されることをです。」とジャヴェルは言った。
「放逐ですって、それもいいでしょう。しかし私にはどうも了解できない。」
「只今説明申します、市長殿。」
 ジャヴェルは胸の底からため息をもらした、そしてやはり冷ややかにまた悲しげに言い出した。
「市長殿、六週間前、あの女の事件後、私は憤慨してあなたを告発しました。」
「告発!」
「パリーの警視庁へ。」
 ジャヴェルと同様にあまり笑ったことのないマドレーヌ氏も笑い出した。
「警察権を侵害した市長としてですか。」
「前科者としてです。」
 市長は顔色を変えた。
 なお目を伏せていたジャヴェルは続けた。
「私はそれを信じていました。長い前からそういう考えをいだいていました。ある類似点、あなたがファヴロールでなされた探索、あなたの腰の力、フォーシュルヴァン老人の事件、あなたの狙撃(そげき)の巧妙さ、少し引きずり加減のあなたの足、その他種々な下らないことです。そしてついに私はあなたをジャン・ヴァルジャンという男だと信じたのです。」
「え?……何という名前です。」
「ジャン・ヴァルジャンというのです。それは二十年前私がツーロンで副看守をしていた時見たことのある囚人です。徒刑場を出てそのジャン・ヴァルジャンは、ある司教の家で窃盗を働いたらしいのです、それからまた、街道でサヴォアの少年を脅かして何かを強奪したらしいのです。八年前から彼は姿をくらまして、だれもその男がどうなったか知る者はなかったのですが、なお捜索は続けられていました。私は想像をめぐらして……ついにそのことをやってしまったのです。怒りに駆られたのです。私はあなたを警視庁へ告発しました。」
 少し前から記録を手に握っていたマドレーヌ氏は、まったく無関心な調子で尋ねた。
「そして何という返事がきました。」
「私は気違いであると。」
「そして?」
「そして実際、向こうの方が正当でありました。」
「君がそれを認めたのは幸いです。」
「認めざるを得なかったのです。真のジャン・ヴァルジャンが発見されたのですから。」
 マドレーヌ氏は持っていた帳簿を手から落とした。彼は頭をあげてじっとジャヴェルを見つめた。そして名状し難い調子で言った。「ほう!」
 ジャヴェルは続けた。
「こういう次第です、市長殿。アイイー・ル・オー・クロシェの近くの田舎に、シャンマティユーじいさんと呼ばるる一人の老人がいたそうであります。惨(みじ)めな奴でだれも注意を向ける者はなかったそうです。いったいこういう奴らは何で生活しているのかだれにもわかりません。ところで昨年の秋に、そのシャンマティユーじいは、酒造用の林檎(りんご)を盗んだために捕えられました。だれの家でしたか……まあそれはどうでもいいことです。とにかく窃盗を行ない、塀(へい)を越え、枝を折ったのです。でシャンマティユーは捕えられました。彼はなお手に林檎の枝を持っていました。彼は拘禁されました。ここまでは単に懲罰だけです。しかし天命が働いてきます。その牢(ろう)はこわれかけていましたので、予審判事はシャンマティユーをアラスの県の監獄に移したがいいと思ったのです。そのアラスの監獄にはブルヴェーという前科者がいました。何かのために拘禁されたのですが、行ないがよかったので牢番にされていました。ところがシャンマティユーがそこに着くや、ブルヴェーは叫びました。『やあ、わしはこの男を知ってる。こいつはいわくつきの男だ。おい、貴様、おれを見てみろ。貴様はジャン・ヴァルジャンだな。』『ジャン・ヴァルジャン! いったいジャン・ヴァルジャンてだれの事だい。』とシャンマティユーは驚いたふうをしました。がブルヴェーは言いました。『白ばくれちゃいけねえ。貴様はジャン・ヴァルジャンだ。ツーロンの徒刑場にいたろう。二十年前の事だ。俺といっしょにいたじゃねえか。』シャンマティユーは否定しました。なにそれはありそうなことです。調査が進められました。私の方にも調べがきています。結局こういうことが発見されたのです。そのシャンマティユーは約三十年前にファヴロールを中心に各地で枝切り職をやっていた。ところがファヴロールで行方(ゆくえ)がわからなくなった。その後久しくしてオーヴェルニュに姿を見せ、次にパリーに現われた。そこで彼は車大工をやり、娘が一人あって洗たく業をやっていたというが、それは証拠不十分であった。そしてついにあの土地にやって行った。しかるに、加重情状の窃盗罪で徒刑場にはいる前、ジャン・ヴァルジャンは何をしていたかといえば、枝切り職であった。そしてどこにおいてかといえば、やはりファヴロールにおいてであった。なおその上他にも事実がある。ジャン・ヴァルジャンはその洗礼名をジャンと言い、その母は姓をマティユーと言っていた。で徒刑場を出るや、彼が前身をくらますために母の姓を取ってジャン・マティユーと名乗ったという推察は、至って自然のことである。そして彼はオーヴェルニュに行った。その地方ではジャンをシャンと発音するので、彼をも自然シャン・マティユーと呼んだ。でその男はそのままシャンマティユーと変わったのである。……おわかりになりましたでしょう。それからファヴロールに調査が進められました。ジャン・ヴァルジャンの家族の者はもはやそこにいませんでした。どこへ行ったかもうわかりません。御存じでもありましょうが、こういう階級では全家族が突然姿を消すことは往々あります。いくらさがしても見い出せません。こういう奴らは泥のようであるかと思うと、また埃(ほこり)のように散り失せるものです。それにまた、この話の初まりは三十年も前のことですから、ファヴロールにはジャン・ヴァルジャンを知っている者もいません。ツーロンの方を調べますと、ジャン・ヴァルジャンを見たという者はブルヴェーのほか二人の囚人しかいません。それは無期徒刑囚のコシュパイユとシュニルディユーという二人です。でその二人を徒刑場から引き出して連れてきました。そしてその自称シャンマティユーを見せると、彼らは少しの躊躇(ちゅうちょ)もしなかったのです。ブルヴェーと同じく彼らの目にも、その男はジャン・ヴァルジャンだったのです。同じく五十四歳で、同じ身長で同じ様子で、どうしても同一人です、彼です。ちょうどその時私はパリーの警視庁に告発状を送ったのです。その返事には、私は気が狂ったのだ、ジャン・ヴァルジャンは司法の手に捕えられてアラスにいるということでした。私は、ここでそのジャン・ヴァルジャンを捕えたと思っていた私は、いかほど驚いたかお察し下さい。私は予審判事に手紙を書きました。そして私はそこに呼ばれて、私の前にそのシャンマティユーが引き出されました……」
「すると?」とマドレーヌ氏は言葉をはさんだ。
 ジャヴェルは厳格なまた悲しそうな顔をして答えた。
「市長殿、事実は事実です。残念ですが、その男はジャン・ヴァルジャンです。私もそれを認めました。」
 マドレーヌ氏は低い声で言った。
「確かですか。」
 ジャヴェルは深い確信から出る悲しげな笑いを立てた。
「ええ確かです。」
 彼はテーブルの上にあった吸墨用の箱から鋸屑(おがくず)を機械的につまみ出しながら、ちょっと考え込んだ、そしてつけ加えた。
「そして真のジャン・ヴァルジャンを見ました今では、私はどうして他の人をそうだと信ずることができたかが自分にもわかりません。市長殿、私はあなたにお許しを願います。」
 六週間前、大勢の風紀兵らの面前において自分を辱(はずか)しめ、自分に「お退(さが)りなさい!」と言ったその人に向かって、今そのまじめな嘆願の言葉を発しながら、彼傲慢なるジャヴェルは、自ら知らずして素朴と威厳とに満ちていた。マドレーヌ氏は彼のその嘆願に答えるに、ただ次の唐突(とうとつ)な問いをもってした。
「そしてその男は何と言っていました。」
「いや市長殿、事件は険悪です。彼がジャン・ヴァルジャンであるとすれば、再犯となるのです。塀(へい)をのり越え、枝を折り、林檎(りんご)を盗むくらいは、子供なら悪戯(いたずら)に過ぎず、大人なら軽罪ですみますが、囚人ではりっぱな犯罪です。侵入と窃盗、みな具備することになります。それはもう軽罪裁判の問題でなく重罪裁判の問題です。数日の監禁でなく、終身徒刑です。それからまたサヴォアの少年の事件もあります。それも問題になるべきです。そうなるとじゅうぶん論争するだけのものはありますでしょう。そうです、ジャン・ヴァルジャンでない限り他の者ならそうするところです。しかしジャン・ヴァルジャンは狡猾(こうかつ)な奴です。私がにらんだのはまたその点です。他の者なら逆上するところです。きっと、わめき叫ぶでしょう。火の上に沸き立つ鍋(なべ)のように、自分はジャン・ヴァルジャンではないと言って、騒ぎ出したりするはずです。ところが、彼奴(あいつ)は何もわからないようなふうをして、こう言うだけです。『わしはシャンマティユーというのだ、そのほかの者じゃない!』彼奴はびっくりしたふうをして、ばかをよそおっています。有効なやり方です。なかなか巧妙です。しかし結局は同じです、証拠はじゅうぶんです。四人の人から認定されたのですから、いずれ有罪になるでしょう。アラスの重罪裁判に回されています。私は証人としてそこへ行くことになっています。召喚されたのです。」
 マドレーヌ氏はまた机の方を向いて、記録を手にしていた、そして何か用に追われているかのように読んだり書き入れたりして、静かにそのページをめくっていた。がやがて彼はジャヴェルの方へ振り向いた。
「わかりました、ジャヴェル君。実際それらの詳細は私にあまり関係ないことです。時間をむだにするばかりです。そしてわれわれには他に急ぎの用があります。ジャヴェル君、あのサン・ソールヴ街の角で野菜を売ってるブュゾーピエ婆さんの家へすぐに行ってくれませんか。そして車力のピエール・シェヌロンを訴え出るように言って下さい。あの男は乱暴な奴で、その婆さんと子供とを轢(ひ)き殺そうとしたのです。処罰しなければいけません。それからまたモントル・ド・シャンピニー街のシャルセレー君の家に行って下さい。隣の家の樋(とい)から雨水が流れ込んできて自分の家の土台を揺るがすと言って訴えてきたのです。次に、ギブール街のドリス未亡人とガロー・ブラン街[#「ガロー・ブラン街」は底本では「ガローー・ブラン街」]のルネ・ル・ボセ夫人の家とに警察規則違反があると言ってきていますから、それを調べて調書を作ってきて下さい。だがあまり仕事が多すぎますね。君は不在になるんでしたね。一週間か十日かすればあの事件のためにアラスに行くと先刻言いましたね。」
「そんなにゆっくりではありません、市長殿。」
「ではいつです。」
「明日裁判になるので私は今晩駅馬車で出かけることを、先刻申し上げたと思いますが。」
 マドレーヌ氏は目につき難いほどのかすかな身振りをした。
「そしてその事件はどれくらい続きますか。」
「長くて一日ですむでしょう。遅くとも判決は明晩下されるでしょう。しかし判決はもうわかっていますから、私はそれを待っていないつもりです。自分の供述をすましたらすぐに帰ってくるつもりです。」
「なるほど。」とマドレーヌ氏は言った。
 そして彼は手振りでジャヴェルを去らせようとした。
 ジャヴェルは立ち去らなかった。
「失礼ですが、市長殿。」と彼は言った。
「まだ何か用ですか。」とマドレーヌ氏は尋ねた。
「市長殿、まだ一つ思い出していただきたいことが残っています。」
「何ですか。」
「私が免職されなければならないことです。」
 マドレーヌ氏は立ち上がった。
「ジャヴェル君、君はりっぱな人だ、私は君を尊敬しています。君は自分で自分の過失を大きく見すぎているのです。その上、このことはただ私一個に関する非礼にすぎません。ジャヴェル君、君は罰を受けるどころか昇進の価値があります。私は君に職にとどまっていてもらいたいのです。」
 ジャヴェルはその誠実なる目でじっとマドレーヌ氏をながめた。その瞳(ひとみ)の底には、聡明(そうめい)ではないがしかし厳格清廉な内心が見えるようだった。彼は平静な声で言った。
「市長殿、私はお説に従うことができません。」
「繰り返して言うが、事は私一個だけのことです。」とマドレーヌ氏は答えた。
 しかしジャヴェルは自分の一つの考えにばかり心を向けて、続けて言った。
「過失を大きく見すぎてると言われますが、私は決して大きく見すぎてはいません。私の考えていることはこうであります。私はあなたを不当に疑ったのです。それは何でもありません。たとい自分の上官を疑うのは悪いことであるとしても、疑念をいだくのは私ども仲間の権利です。しかし、証拠もないのに、一時の怒りに駆られて、復讐(ふくしゅう)をするという目的で、あなたを囚人として告発したのです、尊敬すべき一人の人を、市長を、行政官を! これは重大なことです。きわめて重大です。政府の一機関たる私が、あなたにおいて政府を侮辱したのです! もし私の部下の一人が私のなしたようなことをしたならば、私は彼をもって職を涜(けが)す者として放逐するでしょう。いかがです。――市長殿なお一言いわして下さい。私はこれまでしばしば苛酷でありました、他人に対して。それは正当でした。私は正しくしたのです。しかし今、もし私が自分自身に対して苛酷でないならば、私が今まで正当になしたことは皆不当になります。私は自分自身を他人よりもより多く容赦すべきでしょうか。いや他人を罰するだけで自分を罰しない! そういうことになれば私はあさましい男となるでしょう。このジャヴェルの恥知らずめ! と言われても仕方ありません。市長殿、私はあなたが私を穏和に取り扱われることを望みません。あなたが他人に親切を向けられるのを見て私はかなり憤慨しました。そしてあなたの親切が私自身に向けられるのを欲しません。市民に対して賤業婦(せんぎょうふ)をかばう親切、市長に対して警官をかばう親切、上長に対して下級の者をかばう親切、私はそれを指(さ)して悪しき親切と呼びます。社会の秩序を乱すのは、かかる親切をもってしてです。ああ、親切なるは易(やす)く、正当なるは難いかなです。もしあなたが私の初め信じていたような人であったならば、私は、私は決してあなたに親切ではなかったでしょう。おわかりになったであろうと思います。市長殿、私は他のすべての人を取り扱うように自分自身をも取り扱わなければなりません。悪人を取り押さえ、無頼漢を処罰する時、私はしばしば自分自身に向かって言いました、汝自らつまずき汝自らの現行を押さえる時、その時こそ思い知るがいい! と。今不幸にも私はつまずき、自分の現行を押さえています。さあ解雇し罷免(ひめん)し放逐して下さい。それが至当です。私には両の腕があります、地を耕します。結構です。市長殿、職務をりっぱにつくすには実例を示すべきです。私は単に警視ジャヴェルの免職を求めます。」
 それらのことは、卑下と自負と絶望と確信との調子で語られた、そしてその異常に正直な男に何ともいえぬ一種のおかしな荘重さを与えていた。
「まあ今にどうとかなるでしょう。」とマドレーヌ氏は言った。
 そして彼は手を差し出した。
 ジャヴェルは後に退(さが)った。そして荒々しい調子で言った。
「それは御免こうむります、市長殿。そんなことはあり得べからざることです。市長が間諜(かんちょう)に向かって握手を与えるなどということが。」
 彼はそしてなお口の中でつけ足した。
「そうです、間諜です。警察権を濫用(らんよう)して以来、私は一個の間諜にすぎません。」
 それから彼は低く頭を下げて、扉の方へ進んだ。
 扉の所で彼はふり向いて、なお目を伏せたまま言った。
「市長殿、私は後任が来るまで仕事は続けて致しておきます。」
 彼は出て行った。そのしっかりした堅固な足音が廊下の床(ゆか)の上を遠ざかってゆくのを聞きながら、マドレーヌ氏は惘然(ぼうぜん)と考えに沈んだ。
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   第七編 シャンマティユー事件


     一 サンプリス修道女

 次に述べんとするできごとはモントルイュ・スュール・メールにことごとく知られたものではない。しかしこの町に伝わってきた少しの事がらは深い印象を人の心に残したので、詳細にそのできごとを叙述しない時には本書のうちに大きな欠陥をきたすであろう。
 それらの詳細のうちに、読者は二、三の真実らしからぬ事情に接するであろうが、しかもそれも事実の尊重からして書きもらさぬことにする。
 さて、ジャヴェルが訪れてきた日の午後、マドレーヌ氏はいつものとおりファンティーヌを見に行った。
 ファンティーヌのそばに行くまえに、彼はサンプリス修道女を呼んだ。
 病舎で働いていた二人の修道女は、すべての慈恵院看護婦の例にもれず、聖ラザール派の修道女で、一人をペルペチューと言い一人をサンプリスと言った。
 ペルペチュー修道女はありふれた田舎女(いなかおんな)であり、粗野な慈恵院看護婦であって、普通世間の職につくと同じように神の務めにはいってきたのだった。料理女になるのと同じようにして修道女となったのだった。こういうタイプの人は珍しくはない。修道団というものは、カプュサン派やユルシュリーヌ派の修道女にたやすく鋳直された田舎女(いなかおんな)の重々しい陶器をも喜んで受け入れるものである。その粗野な人たちも信仰の道の粗末な仕事には役立つ。牛飼いがカルメル修道士と変化するのも少しも不思議ではない。それはわけもないことである。田舎の無学と修道院の無学との根本の共通な点において、既に準備はととのっている。
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