レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 そういうことをしたその饒舌家は、ヴィクチュルニヤンという恐ろしい女で、すべての人の徳操の番人で門番だった。ヴィクチュルニヤン夫人は五十六歳で、顔が醜いうえに年を取っていた。震え声で移り気だった。こんな婆さんにも不思議と一度は若い時があったのである。その若いころ、一七九三年の騒動最中に、革命の赤帽をかぶって修道院から逃げ出しベルナール宗派から過激民主派へ変節した一人の修道士と、結婚したことがあった。彼女は冷酷で、ひねくれて、頑固で、理屈っぽく、気むずかしく、ほとんど毒薬のような女だった。しかも、自分を押さえつけて意のままにしていたもとの夫の修道士のことをいつも思い出していた。彼女はまったく僧衣に押しつぶされた蕁麻(いらぐさ)だった。王政復古の時に及んで、彼女は信者となり、しかも非常に熱心だったので、教会は彼女に亡くなった夫の修道士の罪を許してくれた。少しの財産があったが、彼女はそれを声を大にしてある宗教的組合に遺贈していた。アラスの司教区では彼女はきわめて敬意を払われていた。そのヴィクチュルニヤン夫人が、モンフェルメイュに行って「子供も見てきました」と言いながら帰ってきた。
 それまでになるにはかなり時間がかかった。ファンティーヌは工場にきてもう一年以上になっていた。ところがある日の朝、仕事場の監督が市長殿からと言って彼女に五十フランを渡して、もう彼女は仕事場の者ではないと言いそえ、この地方から立ち去るようにと市長殿の名をもって言い渡した。
 それはちょうど、テナルディエが六フランから十二フランを要求した後、さらにこんどは十五フランを要求してきたその月のことだった。
 ファンティーヌは途方にくれた。彼女はその地を去ることができなかった。部屋代や道具の代価などがたまっていた。それらの負債を返すには五十フランでは足りなかった。彼女は二三言口ごもりながら哀願した。が監督はすぐ仕事場を立ち去るようにと言うのだった。それにファンティーヌは下手(へた)な女工にすぎなかったのである。絶望というよりもなお多く恥ずかしさでいっぱいになって、女は仕事場を去り、自分の室に帰った。彼女の過去のあやまちは、今ではもう皆の知るところとなっていたのである!
 彼女はもう一言を発するだけの力も自分に感じなかった。市長さんに会ってみるがいいと勧める人もあったが、それもしかねた。市長は親切であればこそ五十フランもくれたのである、そして彼は正しい人であればこそ自分を解雇したのである。彼女はその裁(さば)きに服した。

     九 ヴィクチュルニヤン夫人の成功

 かくて修道士の未亡人も何かの役には立ったというものである。
 しかしマドレーヌ氏はそれらのことについては何も知っていなかった。人生においてはたいてい事件はそういうふうに結ばれてゆくものである。マドレーヌ氏は女の仕事場にはほとんどはいらないことにしていた。その仕事場の頭(かしら)として彼は、司祭から紹介された一人の独身の老女を据えて置いた、そしてその監督にすべてを任した。実際それは尊敬すべき確実な公平な清廉な女であった。施与をする方の慈悲心に非常に富んでいた。ただ人の心を了解し人を許容するという方面の慈悲心はそれほど多く持たなかった。マドレーヌ氏はすべて彼女に信頼していた。最善の人々は往々、自分の権力を他に譲らなければならなくなることがあるものである。かくてその監督が、訴えを聞き、裁き、ファンティーヌの罪を認めて処罰したのも、まったく自分の握っている権力をもってしたのであって、また善をなすという確信をもってしたのであった。
 また五十フランというのは、マドレーヌ氏から女工への施与や補助として託せられてる金から割(さ)いて与えたのだった。彼女はその金の計算報告はいつもしないでよかったのである。
 ファンティーヌはその地で女中奉公をしようと思って、家から家へと訪ね回った。が、だれも彼女を望まなかった。彼女はそれでも町を去ることができなかった。彼女に道具を、しかも随分ひどい道具を売りつけた古物商は、彼女に言っていた、「もしお前が逃げだしたら泥坊だとして捕縛してもらうだけだ。」室代のたまってる家主は彼女に言っていた、「お前は若くてきれいだ、払えないことがあるものか。」彼女は五十フランを家主と古物商とにわけ与え、なお古物商には道具の四分の三を戻して必要のものだけしか残しておかなかった。そして彼女は仕事もなく、籍もなく、ただわずかに寝る所があるきりで、しかもなお百フランほどの借りがある身となった。
 彼女は衛戌兵(えいじゅへい)の粗末なシャツを縫い初め、日に十二スーだけ得ることになった。が、娘の方へだけでも十スーずつはやらねばならなかった。彼女がテナルディエへ送金を遅(おく)らしはじめたのはこの時だった。
 けれども、晩に家に帰ってくるといつも燈火(あかり)をつけてくれる年取った一人の婆さんが、彼女に貧困のうちに暮らしてゆく方法を教えてくれた。わずかの金で暮らしてゆくその先には、また一文なしで暮らしてゆくということがある。それは引き続いた二つの室で、第一のは薄暗く、第二のは真っ暗である。
 ファンティーヌはいろいろなことを覚えた。冬の間まったく火の気なしですますこと、二日ごとに四、五文だけの粟(あわ)を食う小鳥を捨ててしまうこと、裾衣をふとんにしふとんを裾衣に仕立て直すこと、正面の窓の明りで食事をして蝋燭(ろうそく)を倹約することなど。貧乏と正直とのうちに老い果てた弱い人々が一スーの金をどんなふうに使うかは、人の知らないところである。それはついに一つの才能ともなるものである。ファンティーヌはそのおごそかな才能を会得した、そして少しは元気を回復した。
 この時分に彼女はある近所の女に言った。「なあに私はこう思っていますわ。五時間だけ眠ってあとの時間に針仕事をしていったら、どうかこうかパンだけは得てゆけるでしょう。それに悲しい時には少ししか食べませんもの。苦しみや気使い、一方に少しのパンと一方に心配、それでどうにか生きてゆけますでしょう。」
 かような艱難(かんなん)のうちにも、自分の小さな娘がもしそばにいたらどんなにかしあわせであろうものを。彼女は娘を呼び寄せようと思った。けれどもそれでどうしようというのか! 娘に困窮を分かち与ようというのか。それからテナルディエにも負債になっている。どうして払われよう。そしてまた旅。その費用は?
 彼女に貧乏生活の教えとでもいうべきものを与えてくれた婆さんは、マルグリットという聖(きよ)い独身者で、りっぱな信仰を持ち、貧乏ではあるが、貧しい者のみでなく金持ちに対してまで恵み深く、マルゲリトと署名するだけのことはりっぱに知っており、また学問としては神を信ずることを知っていた。
 かかる有徳の人が下界にも多くいる。他日彼らは天国に至るであろう。かかる生命は未来を有しているものである。
 初めのうちファンティーヌは、非常に恥ずかしがってなるべく外へも出なかった。
 通りに出ると、皆が後ろから振り返って自分を指さすのを彼女は気づいていた。皆が彼女をながめてゆくが、あいさつする者は一人もなかった。通りすぎる人々の冷ややかな鋭い軽蔑は、朔風(きたかぜ)のように彼女の肉を通し心を貫いた。
 小都市においては、一人の不幸な女がいる時、その女はすべての人のあざけりと好奇心との下に裸にせられずんばやまないようである。パリーにおいては、少なくともだれも顔を知った者がいない、そしてその暗黒は身を蔽(おお)う一つの衣となる。おお、いかにファンティーヌはパリーに行くことを望んだであろう! しかしそれは不可能だった。
 貧乏になれたように、彼女はまた軽蔑にもなれざるを得なかった。しだいに彼女はそれをあきらめていった。二、三カ月後には、恥ずかしさなどは振りすててしまって、何事もなかったかのように外出しはじめた。「どうだってかまうものか」と彼女は言った。彼女は頭を上げ、にがい微笑を浮かべながら往来した、そして自らだいぶ厚顔になったように感じた。
 ヴィクチュルニヤン夫人は時々彼女が通るのを窓から見かけた、そして自分のおかげで「本来の地位に戻されたあの女」の困窮を見て取って自ら祝した。心の悪い人々はさすがに暗黒な幸福を有しているものである。
 過度の労働はファンティーヌを疲らした。そして平素からの軽いかわいた咳(せき)が増してきた。彼女は時々隣のマルグリットに言った。「触(さわ)ってごらんなさい、私の手の熱いこと。」
 けれども朝に、こわれた古櫛(ぐし)で素絹のように流れたきれいな髪をとかす時には、おめかしの一瞬を楽しむのであった。

     十 成功の続き

 ファンティーヌが解雇されたのは冬の末だった。そして夏が過ぎ、冬は再びきた。日は短く、仕事は少ない。冬、暖気もなく、光もなく、日中(にっちゅう)もなく、夕方はすぐ朝と接し、霧、薄明り、窓は灰色であって、物の象(すがた)もおぼろである。空は風窓のごとく、一日はあなぐらの中のようで、太陽も貧しい様子をしている。恐ろしい季節! 冬は空の水を石となし、人の心をも石となす。その上ファンティーヌは債権者らに悩まされていた。
 彼女のもうける金はあまりにも少なかった。負債は大きくなっていた。金がこないのでテナルディエの所からは始終手紙をよこした。彼女はその中の文句に脅え、またその郵税に懐(ふところ)をいためた。ある日の手紙によると、小さなコゼットはこの冬の寒さに着物もつけていない、どうしても毛織の裾着がいるので、少なくともそのために十フラン送ってくれということだった。ファンティーヌはその手紙を受け取って、終日それを手に握りしめていた。その晩彼女は通りの片すみにある理髪店にはいって、櫛をぬき取った。美しい金髪は腰の所までたれ下がった。
「みごとな髪ですね。」と理髪師は叫んだ。
「いかほどなら買えますか。」と彼女は言った。
「十フランなら。」
「では切って下さい。」
 彼女はその金で毛糸編みの裾着を買って、それをテナルディエの所へ送った。
 その据着はテナルディエ夫婦を怒らした。彼らが求めていたのは金であった。彼らはその裾着をエポニーヌへ与えた。あわれなアルーエットは相変わらず寒さに震えていた。
 ファンティーヌは考えた。「私の子供はもう寒くあるまい、私の髪を着せてやったのだから。」そして彼女は小さな丸い帽子をかぶって毛の短くなった頭を隠していたが、それでもなおきれいに見えた。
 ファンティーヌの心のうちにはある暗い変化が起こっていた。もはや髪を束ねることもできないのを知った時に、周囲の者すべてを憎みはじめた。彼女は長い間皆の人とともにマドレーヌさんを尊敬していた。けれども、自分を追い払ったのは彼であり、自分の不幸の原因は彼であると、幾度もくり返して考えてるうちに、彼をもまた、そして特に彼を、憎むようになった。職工らが工場の門から出て来るころ、その前を通るような時、彼女はわざと笑ったり歌ったりしてみせた。
 そんなふうにしてある時彼女が笑い歌うのを見た一人の年取った女工は言った、「あの娘も終わりはよくないだろう。」
 ファンティーヌは情夫をこしらえた。手当たり次第にとらえた男で、愛するからではなく、ただ傲慢(ごうまん)と内心の憤激とからこしらえたのだった。やくざな男で、一種の乞食(こじき)音楽者で、浮浪の閑人(ひまじん)で、彼女を打擲(ちょうちゃく)し、彼女が彼とでき合った時のように嫌悪の情に満たされて、彼女を捨てて行ってしまった。
 ファンティーヌは自分の娘だけは大事に思っていた。
 彼女が堕落してゆけばゆくほど、彼女の周囲が暗黒になればなるほど、そのやさしい小さな天使はいっそう彼女の魂の奥に光り輝いてきた。彼女はよく言っていた、「お金ができたら私コゼットといっしょに住もう。」そして笑った。咳(せき)はなお去らなかった、背中に汗をかいた。
 ある日彼女はテナルディエの所から次のような手紙を受け取った。「コゼットは土地に流行(はや)ってる病気にかかっている。粟粒疹熱(つぶはしか)と俗にいう病だ。高い薬がいる。そのため金がなくなって薬代がもう払えない。一週間以内に四十フラン送らなければ、子供は死ぬかも知れない。」
 ファンティーヌは大声に笑い出した、そして隣の婆さんに言った。「まあおめでたい人たちだわ。四十フランですとさ。ねえ、ナポレオン金貨二つだわ。どうして私(あたし)にそんなお金がもうけられると思ってるんでしょう。ばかなものね、この田舎の人たちは。」
 それでも彼女は軒窓の近くへ階段を上っていって、手紙を読み返した。
 それから彼女は階段をおりて、笑いながらおどりはねて出て行った。
 出会った人が彼女に言った。「何でそんなにはしゃいでるの。」
 彼女は答えた。「田舎の人たちがあまりばかばかしいことを書いてよこすんですもの。四十フラン送れですとさ。ばかにしてるわ。」
 彼女が広場を通りかかった時、そこには大勢の人がいて、おかしな形の馬車を取り巻いていた。馬車の平屋根の上には、赤い着物を着た一人の男が立って何か弁じ立てていた。それは方々を渡り歩く香具師(やし)の歯医者で、総入れ歯や歯みがき粉や散薬や強壮剤などを売りつけていた。
 ファンティーヌはその群集の中に交じって、卑しい俗語や上品な壮語の交じった長談義をきいて、他の人たちといっしょに笑いはじめた。歯医者はそこに笑っている美しい彼女を見つけて、突然叫び出した。「そこに笑っていなさる娘さん、あんたの歯はまったくきれいだ。お前さんのその羽子板を二枚売ってくんなさるなら、一枚についてナポレオン金貨一つずつを上げるがな。」
「何ですよ、私の羽子板というのは。」とファンティーヌは尋ねた。
「羽子板ですか、」と歯医者は言った、「なにそれは前歯のことですよ、上の二枚の歯ですよ。」
「まあ恐ろしい!」とファンティーヌは叫んだ。
「ナポレオン金貨二つ!」とそこにいた歯の抜けた婆さんがつぶやいた。「なんてしあわせな娘さんでしょう。」
 ファンティーヌは逃げ出した、そして男の嗄(しゃが)れた声を聞くまいとして耳を押さえた。男は叫んでいた。「考えてみなさい、別嬪(べっぴん)さん! ナポレオン金貨二つですぜ。ずいぶん役に立つね。もし気があったら、今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋においでな、私はそこにいるから。」
 ファンティーヌは家に帰った。彼女は怒っていた。そしてそのことを親切な隣のマルグリット婆さんに話した。「いったいそんなことがあるものでしょうか。恐ろしい男じゃありませんか。どうしてあんな奴をこの辺に放(ほう)っておくんでしょう。私(あたし)の前歯二本を抜けなんて、ほんとに恐ろしいわ。髪の毛ならまた生(は)えもしようが、歯はね。ああ畜生! そんなことするくらいなら、六階の上から真っ逆様に舗石(しきいし)の上に身を投げた方がいいわ。今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋に待っていると言ったわ。」
「そしていくら出すと言いました。」とマルグリットは尋ねた。
「ナポレオン二つだって。」
「では四十フランですね。」
「ええ、四十フランになるのよ。」とファンティーヌは言った。
 彼女は考え込んだ、そして仕事にかかった。やがて十五分もたつと、縫い物をやめて、階段の上へ行ってテナルディエの所からきた手紙をまた読んでみた。
 室に帰ってから彼女は、そばで仕事をしていたマルグリットに言った。「何でしょう、粟粒疹熱(つぶはしか)ってあなた知っていて?」
「ええ、」と婆さんは答えた、「ひどい病気ですよ。」
「では薬がたくさんいるでしょうか。」
「そうですとも、大変な薬が。」
「どうしてそんな病気にかかるんでしょう。」
「すぐにとっつく病気ですよ。」
「では子供にもあるんですね。」
「おもに子供ですよ。」
「その病気で死ぬことがあるんでしょうか。」
「ずいぶんありますよ。」とマルグリットは言った。
 ファンティーヌは室を出て行って、も一度階段の上で手紙を読んだ。
 その晩彼女は出かけて行った。そして宿屋の多いパリー街の方へ歩いてゆくのが見られた。
 翌朝マルグリットは夜明け前にファンティーヌの室へはいって行った。彼女らはいつもいっしょに仕事をして、二人で一本の蝋燭(ろうそく)ですましていたのである。見ると、ファンティーヌは青ざめて氷のようになって寝床の上にすわっていた。彼女は寝なかったのである。帽子は膝の上に落ちていた。一晩中ともされていた蝋燭は、もうほとんど燃え尽きていた。
 マルグリットはその大変取り乱れた光景にあきれて、敷居(しきい)の上に立ち止まった、そして叫んだ。
「おお! 蝋燭が燃えてしまっている。何か起こったに違いない!」
 それから彼女は、こちらへ髪のない頭を向けてるファンティーヌをながめた。
 ファンティーヌは一夜のうちに十歳も老(ふ)けてしまっていた。
「まあ!」とマルグリットは言った。「お前さんどうしたの。」
「何でもないわ。」とファンティーヌは答えた。「それどころか、恐ろしい病気にかかってる私(あたし)の子供もね、助けがなくて死ぬようなこともないでしょう。これで安心だわ。」
 そう言いながら彼女は、テーブルの上に光っているナポレオン金貨二つを婆さんに指(さ)し示した。
「あらまあ!」とマルグリットは言った。「大変なお金! どこからそんな金貨を手に入れたの。」
「手にはいったのよ。」とファンティーヌは答えた。
 と同時に彼女はほほえんだ。蝋燭(ろうそく)の光は彼女の顔を照らしていた。それは血まみれの微笑だった。赤い唾液(だえき)が脣(くちびる)のはじに付いていて、口の中には暗い穴があいていた。
 二枚の歯は抜かれていた。
 彼女はその四十フランをモンフェルメイュに送った。
 がそれは、金を手に入れんためのテナルディエ夫婦の策略だったのである。コゼットは病気ではなかった。
 ファンティーヌは鏡を窓から投げ捨てた。もうよほど前から彼女は三階の室から、ただ□(かきがね)の締まりだけの屋根裏の室に移っていた。天井と床(ゆか)とが角度をなしていて絶えず頭をぶっつけそうな屋根裏だった。そこに住む者は、その室の奥に行くにはちょうど自分の運命のどん底へ行くように、しだいに低く身をかがめなければならない。ファンティーヌはもう寝台も持たなかった。ただ残っていたものは、掛けぶとんと自ら言っていた襤褸(ぼろ)と、床にひろげた一枚の敷きぶとんと、藁(わら)のはみ出た一脚の椅子だけだった。小さな薔薇(ばら)の鉢植(はちう)えを持っていたが、それも忘られて室の片すみに枯れしぼんでいた、他の片すみにはバタ用の壺(つぼ)があって水がはいっていたが、冬にはその水が凍って、氷の丸い輪で幾度も水のさされた跡がながく見えていた。彼女は前から羞恥の感を失っていたが、また身だしなみの心をも失った。そうなってはもうおしまいである。彼女はよごれた帽子をかぶって外に出かけた。暇がないのか、また平気になったのか、もう下着を繕いもしなかった。靴足袋は踵(かかと)が切れるに従って靴の中に引き下げてはいた。縦にしわが寄ってるのでそうしてるのがよく外からでもわかった。コルセットが古くなってすり切れると、すぐに裂けそうなキャラコの布でつぎを当てた。貸しのある人々は彼女をいじめ続けて、少しの休息をも与えなかった。彼女はそういう者らに往来でも出会い、家の階段でもまた出会った。彼女は幾晩も、泣き明かしまた考え明かした。目は妙に輝き、肩には左の肩胛骨(かいがらぼね)の上あたりに始終痛みを覚えた。咳も多くなった。彼女は深くマドレーヌさんを憎んだ、それでも少しも不平はもらさなかった。日に十七時間縫い物をした。しかし監獄の仕事請負人が、安く女囚徒らに仕事をさしたので、にわかにその仕事の賃金が少なくなって、普通の工女の一日分の賃金は九スーになってしまった。日に十七時間働いてしかも九スー! 債権者らはますます苛酷になった。古道具屋はほとんどすべての道具を取り戻したのだったが、なお絶えず言った、「いつになったら払おうというんだ、太(ふて)え女(あま)め。」いったい彼らは彼女をどうするつもりなのか! 彼女はいつも追いまわされてるような気がした。そしてしだいに彼女のうちには野獣のような何かが芽を出してきた。その頃またテナルディエからも手紙がきた。今まではあまりに気をよくして待っていたが、こんどはすぐ百フラン送るよう、さもなければ、あの大病から病み上がりの小さなコゼットをこの寒空に往来に追い出すばかりだ、そしたらどうとでもなるがいい、勝手にくたばってしまうがいい。「百フラン」とファンティーヌは考えた、「だが、日に百スーでももうけられる仕事がどこにあろう?」
「いいわ!」と彼女は言った、「身に残ってる一つのものを売ることにしよう。」
 不幸な彼女は売笑婦となった。

     十一 キリストわれらを救いたもう

 このファンティーヌの物語はそもそも何を意味するか? それは社会が一人の女奴隷を買い入れたということである。
 そしてだれから? 悲惨からである。
 飢渇と寒気と孤独と放棄と困苦とからである。悲しき取り引き、一片のパンと一つの魂との交換、悲惨は売り物に出し、社会は買う。
 イエス・キリストの聖なる法則はわが文明を支配する。しかしながらなおそれは文明の底まで徹してはいない。奴隷制度は欧州文明から消滅したと人は言う。しかしそれは誤りである。なおやはりそれは存在している。ただもはや婦人の上にのみしか残っていないというだけである。そしてその名を売淫(ばいいん)という。
 それは婦人の上、換言すれば、優しきもの、弱きもの、美しきもの、母なるものの上に、かぶさっている。このことは男子の少なからざる恥辱でなければならない。
 われわれが見きたったこの痛ましき物語もここに及んでは、ファンティーヌにはもはや昔の面影は何物も残っていない。彼女は泥のごとくよごれるとともに大理石のごとく冷たくなっている。彼女に触れる者は皆その冷ややかさを感ずる。彼女は流れ歩き、男を受け入れ、しかもその男のだれなるやを知らない。彼女の顔は屈辱と冷酷とのそれである。人生と社会の秩序とは、彼女に最後の別れを告げた。きたるべきすべてのものは彼女にきた。彼女はすべてを感じ、すべてを受け、すべてを経験し、すべてを悩み、すべてを失い、すべてを泣いた。あたかも死が眠りに似ているように、無関心に似たあきらめを彼女はあきらめた。彼女はもはや何物をも避けない。もはや何物をも恐れない。雲霧落ちきたらばきたれ、大海襲いきたらばきたれ。それが何ぞや! もはや水に浸され終わった海綿である。
 少なくとも彼女自らはそう信じていた。しかしながら、もはや運命を知りつくし、いっさいの事のどん底に落ちたと思うことは、一つの誤りである。
 ああ、かくのごとく無茶苦茶に狩り立てられたこれらの運命は何を意味するか? それはどこへ行くか? 何ゆえにかくのごとくなったのであるか?
 それを知る者は、いっさいの暗き所をも見通す者である。
 それはただ一人。それを神という。

     十二 バマタボア氏の遊惰

 すべての小都市には、そして特にモントルイュ・スュール・メールには、一種の青年らがあった。彼らはその同輩がパリーにおいて年に二十万フランを消費すると同じに、地方において年に千五百フランの定収入を浪費する。彼らは中性の大種類に属する。去勢者、寄食者、無能力者ともいうべきもので、少しの土地と少しの無分別と少しの機才とを持っており、社交裏(しゃこうり)に出ては田舎者でありながら、居酒屋においては一かどの紳士だと自惚(うぬぼ)れている。「僕の牧場、僕の森林、僕の小作人」などという口をきく。芝居(しばい)の女優を喝采(かっさい)してはおのれの趣味を示さんとし、兵営の将校と争論してはおのれの勇者なるを衒(てら)い、狩猟をし、煙草をふかし、欠伸(あくび)をし、酒を飲み、嗅煙草(かぎたばこ)をかぎ、撞球(たまつき)をし、駅馬車からおりる旅人に目をつけ、カフェーに入りびたり、飲食店で食事をする。食卓の下では連れている犬に骨をしゃぶらし、その上では情婦に御ちそうをする。一スーを憎しみ、流行を競い、悲劇を賞賛し、婦人を軽蔑し、古靴をすりへらし、パリーを介してロンドンのふうをまね、ポン・タ・ムーソンを介してパリーのふうをまね、年を取るとともに愚かになり、何の仕事もせず、何の役にも立たず、また大した害にもならないのである。
 フェリックス・トロミエス君も、田舎にいてパリーを知らなかったなら、この種の人間になったことであろう。
 もし彼らがいくらか金持ちであれば、しゃれ者と言われ、もしいくらか貧乏であれば、なまけ者と言われるところである。がみな単に閑人(ひまじん)である。それらの閑人のうちには、厄介者もあり、退屈してる者もあり、夢想家もいれば、変わった男もいる。
 その頃、しゃれ者といえば、高いカラーをつけ、大きなえり飾りをつけ、金ぴかの時計を持ち、色の違った三枚のチョッキを青や赤を下にして重ねて着、胴が短く後が魚の尾のようになってるオリーブ色の上衣をつけ、たくさん密に並んだ二列の銀ボタンを肩の所までつけ、ズボンはそれよりやや明るいオリーブ色で、両方の縫い目には幾つかの筋飾りをつけていて、その数は一から十一までの間できまってなかったが、必ず奇数で、また十一を限度としたものだった。それに加うるに、踵に小さな鉄のついた半靴に、縁の狭い高帽、長い髪の毛、大きなステッキ、ポアティエもどきの洒落(しゃれ)を交じえた会話。とりわけ、拍車と口髭(ひげ)。当時、口髭は市民のしるしであり、拍車は徒歩の人のしるしであった。
 田舎のしゃれ者は特に長い拍車をつけ、特に勢いよい口髭をのばしていた。
 それはちょうど、南米の諸共和国がスペイン国王と争っていた折で、ボリヴァル(訳者注 南米の将軍)とモリロ(訳者注 スペインの将軍)とが争闘していた頃だった。縁の狭い帽子を被ってるのは王党でモリロ派と称し、自由党の方は広い縁の帽子をかぶってボリヴァル派と称していた。
 さて前述の事件があってから八カ月か十カ月ばかり後、一八二三年の正月の初め、雪の降ったある晩、この種のしゃれ者の一人であり、閑人(ひまじん)の一人であり、モリロ派の帽をかぶってるので「正統派」と呼ばれている一人の男が、寒中の流行の一つである大きなマントに暖かく身を包んで、士官らの集まるカフェーの窓の前をうろついて、一人の女をからかっておもしろがっていた。女は夜会服をつけ首筋を露(あら)わにし頭には花をさしていた。そして彼しゃれ者は煙草をふかしていた、なぜなら煙草をふかすのはまさしく時の流行であったから。
 女が前を通るたびに、彼は葉巻きの煙とともに悪態を投げつけていた。彼は自分ではその悪口を巧みなおもしろいものと思っていたが、まずこんなものに過ぎなかった。「やあまずい顔だね!……いい加減に身を隠したがいいね!……歯がないんだね!……云々(うんぬん)。」その男の名はバマタボア氏といった。女は雪の上を行ききしてるただ化粧をしたというばかりの陰気な幽霊のような姿で、彼に返事もしなければふり向きもしなかった。そしてやはり黙ったまま陰鬱(いんうつ)に規則的にそこを歩き回って、笞刑(たいけい)を受ける兵士のように五分間ごとに男の嘲罵(ちょうば)の的となっていた。嘲罵の反応があまりないので、閑人(ひまじん)はひどくきげんをそこねたに違いない。彼は女が向こうへ通りすぎた機会をねらって、笑いをこらえながら抜き足で女の後ろに進んでいって、身をかがめて舗石(しきいし)の上から一握りの雪を取り、不意にそれを女の露(あら)わな両肩の間の背中に押し込んだ。女は叫び声を立て、向き返って、豹(ひょう)のようにおどり上がり、男に飛びつき、あらん限りの卑しい恐ろしい悪態とともに男の顔に爪を突き立てた。ブランデーのために声のかれたその罵詈(ばり)は、なるほど前歯の二本なくなってる口から醜くほとばしり出ていた。女はファンティーヌであった。
 その騒ぎに、士官らはいっしょにカフェーから出てき、通行人は足を止め、大きな円を作って群集は笑いののしりまた喝采(かっさい)した。そのまん中に二人は旋風のように取り組み合っていた。それが男と女とであることも見分け難いほどだった。男は帽子を地に落したまま身をもがいていた。女は帽子もなく前歯も髪の毛もなく、憤怒に青くなって恐ろしい様子でわめき立てながら、なぐりつけ蹴(け)りつけていた。
 と突然、背の高い一人の男が、群集の中から飛び出して、女の泥にまみれた繻子(しゅす)の胴着をつかんで言った。「ちょっとこい!」
 女は頭を上げた。その狂気のようなわめき声は急に止まった。目はどんよりとし、青白かった顔色は真っ青になり、恐怖にぶるぶる身を震わした。彼女はジャヴェルを見て取ったのだった。
 しゃれ者はその間に逃げてしまった。

     十三 市内警察の若干問題の解決

 ジャヴェルは見物人をおしのけ、群集の輪を破り、後ろにその惨めな女を従えて、広場の一端にある警察署の方へ大股(また)に歩き出した。女はただ機械的にされるままになっていた。二人とも一言も口をきかなかった。多くの見物人はひどくおもしろがって、ひやかし半分について行った。極端な悲惨は卑猥心(ひわいしん)の的となる。
 警察は天井の低い室で、暖炉がたいてあり、番兵がひかえていて、鉄格子にガラスのはまった戸が往来の方についていた。そこに着くと、ジャヴェルはその戸を開き、ファンティーヌとともに中にはいって、後ろに戸をしめてしまった。やじ馬はいたく失望したが、中を見ようとして、爪立ちながら警察署のよごれたガラス戸の前に首を伸ばした。好奇心は一の貪食(どんしょく)である。見ることはすなわち食うことである。
 中にはいるとファンティーヌは、恐(こわ)がってる犬のように片すみに縮こまって、身動きもしなければ口もきかなかった。
 署詰めの下士が蝋燭(ろうそく)をともしてきてテーブルの上に置いた。ジャヴェルは腰を掛けて、ポケットから捺印(なついん)してある一枚の紙を取り出して、何か書き始めた。
 この種の婦人は法律上まったく警察の処分に任せられている。警察では何でも勝手に処置して思うままに彼女らを罰し、彼女らが自分の仕事と呼び自由と呼んでいる二つの悲しき事をも随意に取り上げてしまうのである。ジャヴェルは感情を動かさない男であった。彼のまじめくさった顔付きは何らの情緒をも示してはいなかった。けれども彼は沈重で何か深く思いふけっていた。自由にしかも厳粛なる本心の注意を集めて、恐るべき臨機処分の権を行使している時であった。そういう時、彼は自分の警官の腰掛けを法廷であると感じていた。彼は判決をなしていた。判決をなし、そして宣告を与えていた。彼は自分の脳裏にあるすべての思想を呼び起こして、おのれのなさんとする大事に集注した。彼はその女の行為を調ぶれば調ぶるほど、ますます嫌悪(けんお)の情を感じた。明らかに一つの罪悪が行なわれるのを目撃したのだった。あの往来において、一人の選挙権を有する土地所有者によって代表せられてる社会が、人の歯(よわい)せざる一人の女から侮辱され攻撃されてるのを見たのである。一人の売春婦が一個の市民に害を加えたのである。彼ジャヴェルは、それをまさしく見たのである。彼は黙々として書き続けた。
 書き終えてから彼はそれに署名した。そしてその紙をたたんで署詰めの下士に渡しながら言った。「二、三人呼んで、この女を牢(ろう)に連れてってもらいましょう。」それからファンティーヌの方へ向いて言った。「お前は六カ月間牢にはいるんだぞ。」
 不幸な女は身を震わした。
「六カ月、牢に六カ月!」と彼女は叫んだ。「日に七スーずつしか取れないで六カ月間! そしたらコゼットはどうなるだろう。娘は、ああ娘は! 私はまだテナルディエの所に百フラン余りの借りがあるんです。警視さん、考えてみて下さい。」
 大勢の泥靴によごれてじめじめしてる床の上に彼女は身を投げた。そして立ち上がろうともせず、両手を握り合わしたまま、膝頭(ひざがしら)ではい回った。
「ジャヴェルの旦那、」と彼女は言った、「どうぞお許し下さい。決して私(わたし)が悪かったんじゃありませんから、初めから御覧なすっていたら、きっとおわかりになったはずです。私が悪かったのでないことは神様に誓います。知りもしないあの男の人が私の背中に雪を押し込んだんです。だれにも何にもしないで静かに歩いてる時、背中に雪を押し込むなんていう法がありましょうか。それで私は気が立ったんです。私はこのとおり少し身体(からだ)も悪いんですもの。その上、前からあの人は私に無茶を言っていたんです。まずい顔だね、歯がないんだねって。歯のないことは自分でもよく知っていますわ。だから私は何にもしなかったんです。冗談言ってるんだと思ってました。私はおとなしくしていました。口もききませんでした。その時です、あの人が私に雪を入れたのは。ジャヴェルの旦那、警視さん、初めからそこに見ていて、私の申すのが本当だと言ってくれる人はだれもいないんでしょうか。怒ったのは悪かったでしょう。が、初めは自分をおさえることのできないこともありますわ。むっとすることがあるものですわ。それにあんな冷たいものを、思いがけない時背中に入れられてごらんなさい。あの人の帽子を台なしにしたのは私が悪いんです。けれどなぜあの人は逃げていってしまったんでしょう。私あやまるんですのに。おお神様も見て下さい、私はいつでもあやまります。だから今日の所だけはどうぞ許して下さい、ジャヴェルの旦那。ねえ、あなたは御存じないでしょうが、監獄では七スーしかもらえないんです。お上(かみ)の知ったことではないでしょうが、七スーしか取れないんです。それだのに、察して下さい、私は百フランも払わなければなりません。そうしないと娘は私の所へ返されるんです。おお神様、私は娘といっしょに住むことはできない。私のしてることはあまり汚らわしい! 私のコゼット、聖(きよ)い天使のような私の娘、かわいそうにあれはどうなるでしょう! こうなんです、娘を預ってるのはテナルディエといって、田舎者で宿屋をしてる夫婦者ですが、わけのわからない人たちです。お金ばかりほしがっているんです。どうぞ私を牢に入れないで下さい。小さい児なのに、この冬の最中に勝手にしろといって往来に放(ほう)り出されるんです。ねえジャヴェルの旦那、かわいそうではありませんか。もっと大きくなっていれば、どうにか食べてゆけもしましょうが、あの年ではそれもできません。私は心底から悪い女ではないんです。なまけたりうまいものを食べたりしたいためにこんなになったのではありません。ブランデーも飲みますけれど、それも苦しいからです。酒なんか好きではありませんが、酒をのむと苦しみを忘れるからです。私がもっと仕合わせであった時には、ちょっと戸棚をあけてみただけでもふしだらな賤(いや)しい女でないことがわかったものです。下着などもたくさん持っていたものです。お情けにどうか、ジャヴェルの旦那!」
 彼女はそういうふうに言いながら、身体を二つに曲げ、身を震わして啜(すす)り泣き、目にいっぱい涙をため、首を露(あら)わにし、両手を握り合わせ、かわいた短い咳をし、苦痛の声をしぼって静かに訴えた。大なる苦悩は聖いそして恐ろしい光で、悲惨なる者の姿を浄化する。その瞬間ファンティーヌはまた美しくなっていた。時々彼女は言葉を切って、警官のフロックの裾(すそ)にやさしく脣(くちびる)をつけた。彼女は花崗岩(かこうがん)のような冷ややかな心をもやわらげたであろう。しかし木のごとき心をやわらげることはできないものである。
「よろしい、」とジャヴェルは言った、「言うだけは聞いてやった。もうすんだのか。それではさあ行け。六カ月だぞ。父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだ。」
 父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだというそのおごそかな言葉をきいて、彼女は判決が下されたのだということを了解した。彼女はそこにくずおれて口の中で言った。
「お慈悲を!」
 ジャヴェルは背中を向けた。
 兵士らは彼女の腕をとらえた。
 しばらく前からそこに一人の男がはいってきていた。だれもそれに気づいていなかった。彼は戸をしめて、それによりかかって、ファンティーヌの絶望的な訴えをきいていたのだった。
 身を起こそうともしないあわれな女に兵士らが手を触れた時に、男は一歩進んで、物陰から出てきて言った。
「どうか、しばらく!」
 ジャヴェルは目をあげて、そしてマドレーヌ氏を認めた。彼は帽子をぬいで、不満な様子であいさつをした。
「失礼しました、市長どの……」
 この市長殿という言葉は、ファンティーヌに不思議な刺激を与えた。彼女は地面から飛び出した幽霊のように突然すっくと立ち上がった。そして両手で兵士らを払いのけ、人々が引き留める間もなくもう、マドレーヌ氏の方へまっすぐに進んでゆき、我を忘れたようにじっと彼を見つめ、そして叫んだ。
「おお、市長というのはお前さんのことですか。」
 それから彼女は突然笑い出して、彼の顔に唾(つば)をはきかけた。
 マドレーヌ氏は顔をふいてそして言った。
「ジャヴェル君、この女を放免しておやりなさい。」
 ジャヴェルはその瞬間気が狂ったかと思った。彼はその一瞬の間に、相ついでそしてほとんどいっしょに、いまだかつて知らないほどの種々の激情を経験した。醜業婦が市長の顔に唾を吐きかけるのを見たこと、それはいかにも奇怪千万なことで、いかに恐ろしい想像をたくましゅうしてみても、あり得べきことだと信ずるのでさえすでに冒涜(ぼうとく)であるような気がした。また他方には、この女はいったい何者で、また市長は何者であろうかと考えて、両者の間に忌むべき関係を心の底でふと立ててみた。そして女の奇怪な侮辱のうちに何かごく簡単な理由を想像してみて慄然(りつぜん)とした。しかしながら、市長が、行政官が、静かに顔をふいて、この女を放免しておやりなさいと言うのを見た時に彼は、にわかに茫然(ぼうぜん)としてしまった。何の考えも言葉も出てこなかった。驚駭(きょうがい)の度が彼にはあまり大きかった。彼は口をきき得ないでぼんやり立ちつくしていた。
 また市長の言葉は、ファンティーヌにも同じく不思議な影響を与えた。彼女はその露(あら)わな腕を上げ、よろめく者のように暖炉の戸前につかまった。それでも彼女は自分のまわりを見回して、そして自分自身に言うかのように低い声で言い出した。
「放免! 免(ゆる)してやれ、六カ月牢に行かせるな! それを言ったのはだれだろう。いやだれが言えるものか。私の聞き違いかしら。市長の奴が言うはずはない。あなた、ジャヴェルの旦那、あなたですか、私を放免してやれとおっしゃったのは。おお聞いて下さい、申し上げたらきっと私を許して下さるでしょう。このひどい市長です、元はといえば皆この市長のおいぼれのお陰です。察して下さい、ジャヴェルの旦那、この人が私を追い払ったんです。工場でいろいろなことを言いふらす乞食婆どものためにです。あまり酷(ひど)いではありませんか、正直に仕事をしてるあわれな者を追い出すなんて! それからというもの、私は十分お金が取れなかったんです、そしてこんなに不仕合(ふしあわせ)になったんです。第一警察の方でも是非ともしていただきたい改良が一つありますわ。監獄の請負人が貧乏人たちを苦しめないように、してもらいたいことです。説明してあげてもよござんすわ。シャツを縫って十二スー取れていたのが、九スーになってしまったんです。それではもう暮らしてはいけません。だから何にでもならなければならなくなったんです。それに私には娘のコゼットがいます。いやな商売でもしなければならなかったんです。これでおわかりでしょう、あの市長のやつがみな不運の元なんです。それから私は、あの軍人の集まるカフェーの前であの男の帽子を踏みつけました。ですがあの人は、雪で私の着物をすっかり台なしにしてしまったんです。私どものような女は、晩に着る絹物はただ一枚きり持ちません。ねえジャヴェルの旦那、私は何もことさら悪いことをしたのではありませんわ、本当です。私よりもっと悪い女はどこにでもいます、そしてもっと楽をしています。ああジャヴェルの旦那、私を許してやれとおっしゃったのはあなたでしょう。よく調べてみて下さい。家主さんにもきいて下さい。今では家賃もちゃんと払っています。私が正直なことはだれにきいてもわかります。おや、ごめん下さい、知らずに暖炉の戸前にさわったのでけむり出して。」
 マドレーヌ氏は深い注意を払って彼女の言うのを聞いていた。彼女がしゃべっている間に、彼はチョッキを探って金入れを取り出して開いてみた。が、それは空(から)だった。彼はそれをまたポケットにしまった。彼はファンティーヌに言った。
「いくら借りがあると言ったっけね。」
 ジャヴェルの方ばかり見ていたファンティーヌは、彼の方へふり向いた。
「だれもお前さんに口をきいてやしません!」
 そして彼女は兵士らへ言葉を向けた。
「ねえ、お前さんたちも、私がこの人の顔に唾を吐きかけたのを見たでしょう。ああ、市長の古狸(ふるだぬき)め、私を嚇(おど)かしにきたんでしょうが、だれがお前さんをこわがるものかね。私はジャヴェルの旦那がこわい。親切なジャヴェルの旦那がこわいのさ!」
 そう言いながら、彼女はまた警視の方へ向いた。
「ねえ、警視さん、物事は正しくしなければいけません。私はあなたが正しいことも知っています。実際ごく簡単なことですわ。一人の男が冗談に女の背中に少し雪を入れた。それが士官たちを笑わした。人は何か慰みをするものです、そして私どもは人の慰みになるんです。それだけのことですわ。それからあなたがいらした。あなたは秩序を保たなければならなかった。あなたは悪い女を拘引なすった。けれど、あなたは親切だからよく考えて、私を放免してやれとおっしゃった。それは子供のためですわね。なぜなら、六カ月も牢にはいっていては子供を養うことができませんもの。ただ二度とあんなことをするなっておっしゃるんでしょう。ええ私はもう二度とあんなことは致しません。ジャヴェルの旦那、もうこんどはどんなことをされようと決して手出しは致しません。ただ今日は私あまり大声を立てました。つらかったんですもの。あの人が雪を入れようなどとは夢にも思ってなかったんです。それにさっき申したとおり、私は身体(からだ)もあまりよくないんです。咳(せき)が出て、何か熱いかたまりで胸がやけるようです。用心せよってお医者さんも言いました。ちょっと、手をかして、さわってごらんなさい。こわがらなくってもいいでしょう。ここですのよ。」
 彼女はもう泣いていなかった。声は甘えるようだった。彼女は自分の白いやさしい喉元(のどもと)にジャヴェルの大きい荒々しい手をあてた、そして、ほほえみながら彼をながめた。
 突然彼女は着物の乱れているのをなおし、下にこごんでいたため膝の所までまくれている着物の裾をおろし、戸の方へ歩いてゆきながら、親しげにうなずいて兵士らに低い声で言った。
「皆さん、許してやれと警視さんがおっしゃったから、私行きますわ。」
 彼女は□(かきがね)に手をかけた。今一歩で外に出るところだった。
 ジャヴェルはその時まで立ちつくしていた。身動きもしないで、床(ゆか)に目を落として、位置を動かされてどこかに据えられるのを待ってる立像のように、この光景のまん中に立ちつくしていた。
 □の音は彼を覚(さま)した。彼は頭を上げた。顔には、主権者の権力の表情、下等なものになればなるほどいっそう恐ろしくなり、野獣においては獰猛(どうもう)となり、卑しい人間においては凶悪となる表情があった。
「下士官、」と彼は叫んだ、「そいつが出て行こうとするのが見えないか。そいつを許せとだれが言った。」
「私です。」とマドレーヌは言った。
 ファンティーヌはジャヴェルの声に震え上がって、盗賊が盗んだ品物を放すように□から手を放した。マドレーヌの声に彼女はふり向いた。そしてその時から、一言も発せず、息も自由につかないで、二人が口をきくにつれて、マドレーヌからジャヴェルへ、ジャヴェルからマドレーヌへ、かわるがわる目を移した。
 市長がファンティーヌを許してやるように申し出た後、あえてこのように下士官を呼びかけるには、ジャヴェルはいわゆる「箍(たが)を外(はず)して」いたに違いない。そのために彼は市長がそこにいるのも気付かなかったのであろうか。または、いかなる「権力」といえどもかかる命令を与えることはできないと信じ、市長が自ら気付かずして何か取り違えてかかる言を発したのであると信じたのであろうか。もしくは、二時間前から目撃してきた暴行の前において、いよいよ最後の決断を取らなければならないと思い、小官も大官となり、一個の刑事巡査も長官となり、警官も法官となることが必要だと思い、この危急な場合においては、秩序、法律、道徳、政府、社会すべてが、おのれジャヴェル一個のうちに代表せらるべきものであると信じたのであろうか。
 それはともかくとして、前のごとくマドレーヌが私ですという言葉を発した時に、警視ジャヴェルは市長の方へ向き直り、青くなり、冷たくなり、脣(くちびる)を紫色にし、憤激の目付きをし、全身をこまかく震わし、そして目を伏せながらしかも確乎(かっこ)たる声で、あえて市長に言った。
「市長どの、それはなりませぬ。」
「どうしてですか。」とマドレーヌ氏は言った。
「この女は市民を侮辱しました。」
「ジャヴェル君、まあ聞きたまえ。」とマドレーヌ氏はなだめるような静かな調子で言った。「君は正直な人です。君に説明してあげるのは困難ではない。事実はこうです。君がこの女を引き立ててゆく時私はその広場を通った。まだそこには大勢の人がいた。私はいろいろ聞いてみてすべてのことがわかった。悪いのはあの男の方で、まさしく拘留すべきはあの男の方です。」
 ジャヴェルは答えた。
「この女は市長殿を侮辱したのです。」
「それは私一個のことです。」とマドレーヌ氏は言った。「私の受けた侮辱はおそらく私一個人だけに関することでしょう。それは私が自分でどうにでもすればいいのです。」
「市長どの、お言葉ですが、女の侮辱はあなた一人だけにとどまらず、実に法を犯すものです。」
「ジャヴェル君、」とマドレーヌ氏は反駁(はんばく)した、「最高の法は良心です。私はこの女の言うことを聞いた。そして自分のすべきことを知っている。」
「市長どの、私は一向に了解できません。」
「それではただ私の言に従うので満足なさるがいいでしょう。」
「私は自分の義務に従うのです。私の義務は、この女が六カ月間入牢することを要求します。」
 マドレーヌ氏は穏やかに答えた。
「よくお聞きなさい、この女は一日たりとも入牢させてはなりませぬ。」
 その断乎(だんこ)たる言葉をきいて、ジャヴェルはそれでもじっと市長を見つめた、そして深い敬意をこめながらもなお言った。
「私は市長どのに反対するのを遺憾に思います。これは生涯初めてのことです。しかし、私は自分の権限内において行動していると申すのを許していただきます。お望みですから、あの一市民に関することだけに止めましょう。私は現場にいました。この女があの市民に飛びかかったのです。彼はバマタボア氏と言って、選挙資格を有し、遊歩地の角にあるバルコニーのついた石造りのりっぱな四階建ての家屋を所有しています。まあそれらのことも参考にすべきです。それはとにかく、市長どの、この事件は私に関係ある道路取り締まりに関することです。私はこのファンティーヌという女を取り押さえます。」
 その時マドレーヌ氏は腕を組み、まだ町でだれも聞いたことのないほどの厳格な声で言った。
「君の言う事実は市内警察に関する事がらです。刑事訴訟法第九条、第十一条、第十五条、および第六十六条の明文によって、私はその判事たるべきものです。私はこの女を放免することを命ずる。」
 ジャヴェルは最後の努力をなさんとした。
「しかし、市長どの……」
「不法監禁に関する一七九九年十二月十三日の法律第八十一条を思い出されるがいい。」
「市長どの、どうか……。」
「一言もなりませぬ。」
「しかし……。」
「お退(さが)りなさい。」とマドレーヌ氏は言った。
 ジャヴェルはつっ立ちながら真っ正面に、ロシア兵士のように胸のまん中にその打撃を受けた。彼は市長の前に地面まで頭を下げ、そして出ていった。
 ファンティーヌは戸口から身をよけて、ジャヴェルが前を通るのを茫然とながめた。
 けれども彼女もまた異常な惑乱にとらえられていた。彼女は自分が互いに反対の二人の権力者の間の何か争論の種となったのを見て取った。彼女は自分の自由と生命と魂と子供とを手に握って二人の人が目前に争うのを見た。一人は自分を暗黒の方へ引こうとし、一人は自分を光明の方へ連れ戻そうとした。その争いは恐怖のために大きく見えて、二人が巨人のように思われた。一人は悪魔の巨人のように口をきき、一人は善良な天使の巨人のように語った。天使は悪魔に打ち勝った。そして彼女を頭の頂から爪先まで戦慄せしめたことは、その天使、その救い主は、だれあろう、自分がのろっていたその男、自分のすべての不幸の元であると長い間考えていたあの市長、あのマドレーヌその人であろうとは! しかも激しく侮辱してやったその瞬間に自分を救ってくれようとは! それでは自分は思い違いをしていたのか? それでは自分はまったく心を変えてしまわなければならないであろうか?……彼女にはいっさいわからなかった。彼女は身を震わした。彼女は前後を忘れて耳を傾け、驚いて見つめ、そしてマドレーヌの発する一言ごとに、憎悪の恐ろしい暗やみが胸から解けくずれるのを感じ、喜悦と信頼と愛情との一種言うべからざる温(あたたか)きものが心のうちに生ずるのを感じた。
 ジャヴェルが室を出て行った時、マドレーヌ氏は彼女の方へ向いた。そして涙を流すことを欲しないまじめな人のようにかろうじておもむろに言った。
「私はあなたの言うところを聞きました。あなたが言ったようなことを私は何も知らなかった。が、私はあなたの言ったことが事実であると信ずる、また事実であると感ずる。私はあなたが工場を去ったことさえ知らなかった。なぜあなたは私に訴えなかったのです。しかしそれはそれとして、私はあなたの負債を払ってあげよう。子供を呼んであげよう。あるいはあなたが子供の所へ行かれてもいい。ここにいようと、またパリーへ行こうと、どこへでも随意です。私はあなたの子供とあなたとを引き受けてあげる。いやだったらもう仕事をしなくともよろしい。いるだけの金は出してあげる。あなたは再び仕合わせになるとともにまた正道に立ち直るでしょう。いやそればかりか、よくお聞きなさい、ただ今から私はあなたに向かって言います、すべてあなたが言ったとおりであるならば、そしてそれを私も疑いはしませんが、それならばあなたは決して堕落したのでもなければ、また神様の前に対して汚れた身になったのでもありません。まことに気の毒な方です!」
 それはあわれなファンティーヌに取っては身に余るほどのことだった。コゼットといっしょになる! この汚辱の生活から脱する! 自由に、豊かに、幸福に、正直に、コゼットとともに暮らす! この悲惨のただ中に突然現実の楽園が開ける! 彼女は自分に話しかけてるその人を茫然自失したかのように見守った、そして「おお、おお!」と二、三のすすり泣きが出るきりだった。膝はおのずから下って、彼女はマドレーヌ氏の前にひざまずいた。マドレーヌ氏はそれを止める間もなく、自分の手が取られてそれに脣(くちびる)が押しあてられたのを感じた。
 そしてファンティーヌは気を失った。
[#改ページ]

   第六編 ジャヴェル


     一 安息のはじめ

 マドレーヌ氏は自分の住宅のうちにある病舎にファンティーヌを移さして、そこの修道女たちに託した。修道女たちは彼女をベッドに休ました。激しい熱が襲ってきていた。彼女はその夜長く正気を失って高い声で譫言(うわごと)を続けていたが、やがては眠りに落ちてしまった。
 翌日正午(ひる)ごろにファンティーヌは目をさました。彼女は自分の寝台のすぐそばに人の息を聞いた。帷(とばり)を開いてみると、そこにマドレーヌ氏が立っていた。彼は彼女の頭の上の方に何かを見つめていた。目付きはあわれみと心痛とに満ちていて、祈願の色がこもっていた。その視線をたどってみると、壁に釘付けにされてる十字架像に目を据えてるのだった。
 その時以来、マドレーヌ氏の姿はファンティーヌの目には異なって映るようになった。彼女には彼が光明に包まれてるように思えた。彼は一種の祈祷のうちに我を忘れていた。彼女はあえて彼のその心を妨げず長い間ただ黙ってながめた。がついに、彼女はおずおずと口を開いた。
「そこに何をしていらっしゃいますの。」
 マドレーヌ氏はもう一時間もそうしていたのである。彼はファンティーヌが目をさますのを待っていた。彼は彼女の手を取り、その脈をみて、そして答えた。
「加減はどうです。」
「よろしゅうございます。よく眠りました。」と彼女は言った。「だんだんよくなるような気がします。もう大したことではありませんわ。」
 彼はその時、ファンティーヌが最初になした問いをしか耳にしなかったかのようにそれに答えて言った。
「私は天にある殉教者に祈りをしていました。」
 そして彼は頭の中でつけ加えた、「地上にあるこの受難者のために。」
 マドレーヌ氏は前晩とその午前中とを調査に費やしたのだった。今ではもうすべてを知っていた。ファンティーヌの痛ましい身の上を詳細に知っていた。彼は続けて言った。
「あわれな母親、あなたはずいぶん苦しんだ。不平を言ってはいけません。今ではあなたは天から選ばれた者の資格を持っている。人間はいつもそういうふうにして天使となるものです。しかしそれは人間の罪ではない、他になす術(すべ)を知らないからです。あなたが出てこられたあの地獄は天国の第一歩です。まずそこから始めなければなりません。」
 彼は深いため息をついた。けれど彼女は二本の歯の欠けた崇高な微笑(ほほえ)みを彼に示した。
 ジャヴェルの方では、その晩一つの手紙を書いた。翌朝自らそれをモントルイュ・スュール・メールの郵便局に持って行った。それはパリーへ送ったもので、あて名には警視総監秘書シャブーイエ殿としてあった。警察署のあの事件が盛んに噂の種となっていたこととて、その手紙が発送される前にそれを見てあて名の文字にジャヴェルの手蹟(しゅせき)を見て取った局長や他の人々は、それがジャヴェルの辞表だと思った。
 マドレーヌ氏はまた急いでテナルディエ夫婦の所へ手紙を書いた。ファンティーヌは彼らに百二十フラン借りになっていた。彼は三百フラン送って、そのうちからすべてを差し引き、なお母親が病気で子供に会いたがっているから、すぐに子供をモントルイュ・スュール・メールに連れて来るようにと言ってやった。
 そのことはテナルディエを驚かした。「畜生、子供を手放してたまるものか。」と彼は女房に言った。「この雲雀(ひばり)娘がこれから乳の出る牛になったというものだ。わかってらあね。ばか者があのおふくろに引っかかったのだ。」
 彼は五百フランとなにがしかの覚え書きをうまく整えて送ってきた。この覚え書きのうちには三百フラン余りの明らかな二つの内訳がのっていた。一つは医者の礼で他は薬剤師の礼で、いずれもエポニーヌとアゼルマとの長い病気の手当てと薬の代であった。前に言ったとおりコゼットは病気にかかりはしなかったのである。ただ名前を変えるという些細(ささい)な手数だけでよかった。テナルディエは覚え書きの下の方に三百フラン受け取り候と書きつけた。
 マドレーヌ氏はすぐにまた三百フラン送って、早くコゼットを連れてきてくれと書いてやった。
「なあに、子供を手放すものか。」とテナルディエ[#「テナルディエ」は底本では「エナルディエ」]は言った。
 そうこうするうちにもファンティーヌは回復しなかった。相変わらず病舎にいた。
 修道女たちが「その女」を受け取って看護したのは初めはいやいやながらであった。フランスの寺院にある浮き彫りを見た者は、賢い童貞らが不潔な娘らをながめながら、下脣(したくちびる)をとがらしているのを思い起こすだろう。貞節な婦人の不運な女に対するこの古来の軽侮は、女性の威厳より来る最も深い本能の一つである。でこの修道女たちは、宗教のためになお倍加してその気持を経験したのである。しかしやがてファンティーヌは彼女たちの心をやわらげた。彼女は謙遜でやさしい言葉を持っていた、そして彼女のうちにある母性は人の心を動かした。ある日、彼女が熱に浮かされながら次のように言うのを修道女たちは聞いた。「私は罪深い女でした。けれど子供が私の所へ来るならば、それは神様が私をお許しなされたことになりますでしょう。悪い生活をしている間は、私はコゼットをそばに呼びたくありませんでした。私はコゼットのびっくりした悲しい目付きを見るのにたえられなかったでしょう。けれども私が悪い生活をしたのもあの児のためだったのです。だから神様は私をお許し下さるのです。コゼットがここに来る時、私は神様のお恵みを感ずるでしょう。私は子供を見つめましょう。その罪ない子供を見ることは私のためにいいでしょう。あの児はまったく何にも知りません。ねえ皆さん、あの児は天の使いですわね。あれくらいの年では、翼はまだ決して落ちてはいませんわ。」
 マドレーヌ氏は日に二度ずつ彼女を見舞ってきた。そのたびごとに彼女は尋ねた。
「じきにコゼットに会えましょうか。」
 彼は答えた。
「たぶん明朝は。今に来るかと私も始終待ち受けているのです。」
 すると母親の青白い顔は輝いてきた。
「ああ、そしたらどんなにか私は仕合わせでしょう!」と彼女は言った。

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