レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 この男は、きわめて単純で比較的善良ではあるが誇張せられるためにほとんど悪くなっている二つの感情でできていた。すなわち、主権に対する尊敬と、反逆に対する憎悪と。そして彼の目には、窃盗、殺害、すべての罪悪は、ただ反逆の変形にすぎなかった。上は総理大臣より下は田野の番人に至るまでおよそ国家に職務を有する者を皆、盲目的な深い一種の信用のうちに包み込んで見ていた。一度法を犯して罪悪の方に踏み込んだ者を皆、軽蔑と反感と嫌悪(けんお)とをもって見ていた。彼は絶対的であって、いっさいの例外を認めなかった。一方では彼は言った、「職務を帯びてるものは誤ることはない、役人は決して不正なことをしないものだ。」他方ではまた彼は言った、「こいつらはもう救済の途はない、何らの善もなし得ない者だ。」世には極端な精神を有していて、刑罰をなすの権利あるいは言い換えれば刑罰を定めるの権利を人間の作った法則が持っているように信じ、社会の底に地獄の川スティックスを認める者がいる。ジャヴェルもまたそういう意見を多分に持っていた。彼は禁欲主義で、まじめで、厳格であった。憂鬱(ゆううつ)な夢想家であった。狂信家のように謙遜でまた傲慢(ごうまん)であった。彼の目は錐(きり)のごとく、冷たくそして鋭かった。彼の一生は二つの言葉につづめられる、監視と取り締まりと。彼は世間の曲りくねったものの中に直線を齎(もたら)した。彼は自己の有用をもって良心となし、自己の職務をもって宗教となしていた。彼の探偵たることはあたかも牧師たるがごとくであった。彼の手中に落ちたる者は不幸なるかなである。彼は父がもし脱獄したらんには父を捕縛し、母がもし禁令を犯したらんには母をも告発したであろう。そして徳行によって得らるるごとき一種の内心の満足をもってそれをなしたであろう。その上に、貧しい生活、孤独、克己、純潔をもってし、何らの遊びにもふけらない。彼は厳格なる義務それ自身であり、あたかもスパルタ人らがスパルタに身をささげたがごとくに献身的な警官であり、無慈悲な間諜(かんちょう)であり、恐るべき正直さであり、冷酷なる探偵であり、名探偵ヴィドックのうちに住むブルツスであった。
 ジャヴェルの全身は、物をうかがいしかも身を潜める男そのものを示していた。当時のいわゆる急進派新聞に高遠な宇宙形成論の色をつけていたジョゼフ・ド・メーストルを頭(かしら)とする神秘派は、必ずやジャヴェルを一つの象徴であると称(たた)えたであろう。彼の額は帽子の下に隠れて見えず、彼の目は眉毛に蔽(おお)われて見えず、その頤(あご)はえり飾りのうちに埋まって見えず、その両手は袖のうちに引っ込んで見えず、その杖はフロックの下に隠されて見えなかった。しかしながら一度時機至れば、角張った狭い額、毒々しい目付き、脅かすような頤、大きな手、および恐ろしい太い杖などが、その陰のうちから突然伏兵の立つように現われて来るのであった。
 暇とてはめったになかったが、もし暇があれば彼は、書物はきらいではあったが、それでもなお何か読んでいた。してみれば、彼はまったくの無学ではなかったらしい。またそれは彼の言葉のうちの一種の大げさな調子でもわかることだった。
 彼が何らの悪徳をも持たないことは、前に言ったとおりである。自ら満足に感じてる時には一服煙草を吸うことにしていた。そこだけが彼の普通の人間らしいところだった。
 たやすく察せらるるとおり、ジャヴェルは、司法省の統計年鑑のうちに無頼漢と朱書せられてる一種の階級からは非常に恐れられていた。ジャヴェルという名は彼らを狼狽(ろうばい)さした。ジャヴェルの顔は彼らを縮み上がらした。
 この恐ろしい男は上述のとおりの者であった。
 ジャヴェルは絶えずマドレーヌ氏の上に据えられてる目のごときものだった。疑念と憶測とに満ちた目だった。マドレーヌ氏もついにそれを気づくようになった。しかし彼は別に何とも思っていないらしかった。ジャヴェルに一言の問いをもかけず、またジャヴェルの姿をさがすでもなく避けるでもなく、その気味悪い圧迫するような目付きをじっと受けながら別に気に留めてもいないらしかった。彼はジャヴェルをも他のすべての人と同じく平気で温和に取り扱っていた。
 ジャヴェルの口からもれた二、三の言葉から察すれば、彼は彼ら仲間特有のそして意志とともにまた本能から由来する一種の好奇心をもって、マドレーヌさんが他の所に残してきた前半生の足跡を秘密に探っていたらしい。ある行方(ゆくえ)不明の一家族に関してある地方で多少の消息を得ている者がいるということを、彼は知っているらしかった、また時としては暗にそれを言葉に現わすこともあった。ある時などは彼はふとこう独語した、「彼奴の尻尾(しっぽ)を押さえたようだ!」それから彼は三日の間一言も口をきかずに考え込んでいた。そしてとらえたと思った糸も切れたらしかった。
 しかしおよそ、そしてこれはある言葉はあまりに絶対的の意味を現わすかも知れないということに対する必要な緩和物であるが、人間のうちには真に確実なるものはあり得ないものである、そしてまた本能の特質は乱され惑わされ迷わされ得るということにあるものである。もししからずとすれば、本能は知力にまさり、動物は人間よりもすぐれたる光明を有するに至るであろう。
 ジャヴェルは明らかに、マドレーヌ氏のまったくの自然さと落ち着きとによって、やや心を惑わされたのであった。
 けれどもある日、彼の不思議な態度はマドレーヌ氏に印象を与えたらしかった。いかなる場合でかは次に述べよう。

     六 フォーシュルヴァンじいさん

 ある朝マドレーヌ氏は、モントルイュ・スュール・メールの敷石のない小さな通りを通っていた。その時彼は騒ぎを聞きつけ、少し向こうに一群の人々を認めた。彼はそこに行ってみた。フォーシュルヴァンじいさんと呼ばれている老人が、馬の倒れたため馬車の下に落ちたのだった。
 このフォーシュルヴァンは、当時マドレーヌ氏がまだ持っている少数の敵の一人だった。マドレーヌがこの地にやってきた当時、以前は公証人をしていて田舎者としてはかなり教育のあるフォーシュルヴァンは、商売をしていたが、それがしだいにうまくゆかないようになりはじめていた。彼はその一職人がしだいに富裕になってゆくのを見、また人から先生と言われている自分がしだいに零落してゆくのを見た。それは彼に嫉妬(しっと)の念を燃やさした。そして彼はマドレーヌを害(そこな)うために機会あるごとにできるだけのことをした。そのうちに彼は破産してしまった。そして年は取っており、もはや自分のものとしては荷車と馬とだけであり、その上家族もなく子供もなかったので、食べるために荷馬車屋となったのだった。
 さて馬は両脚(りょうあし)を折ったので、もう立つことができなかった。老人は車輪の間にはさまれていた。車からの落ち方が非常に悪かったので、車全体が胸の上に押しかかるようになっていた。車にはかなり重く荷が積まれていた。フォーシュルヴァンじいさんは悲しそうなうめき声を立てていた。人々は彼を引き出そうとしてみたがだめだった。無茶なことをしたり、まずい手出しをしたり、下手(へた)に動かしたりしようものなら、ただ彼を殺すばかりだった。下から車を持ち上げるのでなければ、彼を引き出すことは不可能だった。ちょうどそのでき事の起こった時にき合わしたジャヴェルは、起重機を取りにやっていた。
 マドレーヌ氏がそこにやってきた。人々は敬意を表して道を開いた。
「助けてくれ!」とフォーシュルヴァン老人は叫んだ。
「この年寄りを助けてくれる者はいないか。」
 マドレーヌ氏はそこにいる人々の方へふり向いた。
「起重機はありませんか。」
「取りに行っています。」と一人の農夫が答えた。
「どれくらいかかったらここにきますか。」
「一番近い所へ行っています、フラショーで。そこに鉄工場があります。しかしそれでも十五分くらいはじゅうぶんかかりましょう。」
「十五分!」とマドレーヌは叫んだ。
 前の日雨が降って地面は湿って柔らかになっていた。車は刻一刻と地面にくい込んで、しだいに老荷馬車屋の胸を押しつけていった。五分とたたないうちに彼は肋骨(ろっこつ)の砕かれることはわかりきっていた。
「十五分も待てはしない。」とマドレーヌはそこにながめている農夫らに言った。
「仕方がありません!」
「しかしそれではもう間に合うまい。車はだんだんめいり込んでゆくじゃないか。」
「だと言って!」
「いいか、」とマドレーヌは言った、「まだ車の下にはいり込んで背中でそれを持ち上げるだけの余地はじゅうぶんある。ちょっとの間だ。そしたらこのあわれな老人を引き出せるんだ。だれか腰のしっかりした勇気のある者はいないか。ルイ金貨(訳者注 二十フランの金貨)を五枚あげる。」
 一群の中で動く者はだれもなかった。
「十ルイ出す。」とマドレーヌは言った。
 そこにいる者は皆目を伏せた。そのうちの一人はつぶやいた。「滅法に強くなくちゃだめだ。その上自分でつぶされてしまうかも知れないんだ。」
「さあ!」マドレーヌはまた言った、「二十ルイだ!」
 やはりだれも黙っていた。
「やる意志が皆にないのではない。」とだれかが言った。
 マドレーヌ氏はふり返った、そしてジャヴェルがそこにいるのを知った。彼はきた時にジャヴェルのいるのに気がつかなかったのである。
 ジャヴェルは続けて言った。
「皆にないのは力だ。そんな車を背中で持ち上げるようなことをやるのは、恐ろしい奴でなくてはだめだ。」
 それから彼は、マドレーヌ氏をじっと見つめながら、一語一語に力を入れて言った。
「マドレーヌさん、あなたがおっしゃるようなことのできる人間は、私はただ一人きりまだ知りません。」
 マドレーヌは慄然(ぞっ)とした。
 ジャヴェルは無とんちゃくなようなふうで、しかしやはりマドレーヌから目を離さずにつけ加えた。
「その男は囚人だったのです。」
「え!」とマドレーヌは言った。
「ツーロンの徒刑場の。」
 マドレーヌは青くなった。
 そのうちにも荷車はやはり徐々にめいり込んでいっていた。フォーシュルヴァンは息をあえぎ叫んだ。
「息が切れる! 胸の骨が折れそうだ! 起重機を! 何かを! ああ!」
 マドレーヌはあたりを見回した。
「二十ルイもらってこの老人の生命を助けようと思う者はだれもいないのか?」
 だれも身を動かさなかった。ジャヴェルはまた言った。
「起重機の代わりをつとめる者はただ一人きり私は知りません。あの囚人です。」
「ああ、もう私はつぶれる!」と老人は叫んだ。
 マドレーヌは頭を上げ、見つめているジャヴェルの鷹(たか)のような目付きに出会い、じっとして動かない農夫らを見、それから淋しげにほほえんだ。そして一言も発しないで、膝を屈(かが)め、人々があッと叫ぶ間もなく車の下にはいってしまった。
 期待と沈黙との恐ろしい一瞬間が続いた。
 マドレーヌがその恐ろしい重荷の下にほとんど腹這(ば)いになって、二度両肱(りょうひじ)と両膝(りょうひざ)とを一つ所に持ってこようとしてだめだったのが、見て取られた。人々は叫んだ。
「マドレーヌさん! 出ておいでなさい!」フォーシュルヴァン老人自身も言った。「マドレーヌさん、およしなさい! 私はどうせ死ぬ身です、このとおり! 私のことはかまわないで下さい! あなたまでつぶれます!」しかしマドレーヌは答えなかった。
 そこにいる人々は息をはずました。車輪はやはり続いてめいり込んでいた。そしてもうマドレーヌが車の下から出ることはほとんどできないまでになった。
 突然人々の目に、その車の大きい奴が動き出し、だんだん上がってき、車輪は半ば轍(わだち)から出てきた。息を切らした叫び声が聞えた。「早く! 手伝って!」マドレーヌが最後の努力をなしたのだった。
 人々は突き進んだ。一人の人の献身がすべての者に力と勇気とを与えた。荷馬車は多数の腕で引き上げられた。フォーシュルヴァン老人は救われた。
 マドレーヌは立ち上がった。汗が流れていたが青い顔をしていた。服は破れ泥にまみれていた。一同は涙を流した。その老人は彼の膝に脣(くちびる)をつけ、神様と呼んだ。彼は幸福な聖い苦難の言い難い表情を顔に浮かべていた、そしてジャヴェルの上に静かな目付きを向けた。ジャヴェルはなお彼を見つめていた。

     七 パリーにてフォーシュルヴァン庭番となる

 フォーシュルヴァンは荷馬車から落ちる時に膝蓋骨(しつがいこつ)をはずしたのだった。マドレーヌさんは彼を病院に運ばせた。その病院は工場と同じ建物のうちに労働者らのために彼が設けたもので、慈恵院看護婦の二人の修道女がいっさいの用をしていた。翌朝老人は寝台わきの小卓の上に千フランの手形を見い出した。手形とともに、「小生は貴下の荷車と馬とを買い受け候」というマドレーヌさんの書いた紙片があった。荷車はこわれ馬は死んでいたのである。フォーシュルヴァンは全快した、しかし膝の関節は不随になったままだった。マドレーヌ氏は修道女たちと司祭との推薦を得て、パリーのサン・タントアーヌ街区の女修道院の庭番にその老人を世話してやった。
 その後しばらくしてマドレーヌ氏は市長に任ぜられたのである。全市に対して全権を有せしむる市長の飾り帯をマドレーヌ氏がつけている所を初めて見た時、ジャヴェルは主人の衣の下に狼のにおいをかいだ犬のような一種の戦慄(せんりつ)を感じた。その時以来、彼はできるだけマドレーヌを避けた。ただ職務上やむを得ず他に方法がなくて市長と顔を合わせなけれはならないような時には、深い敬意を表しながら口をきいていた。
 マドレーヌさんによって持ちきたされたモントルイュ・スュール・メールの繁栄は、前に述べた種々の外見上の徴候ででもわかるが、なお他にも一つの証拠があった。それはちょっと目にはつかないものであるが等しく意義深いものである。そしてそれは常に誤り無いものである。人民が苦しんでいる時、仕事が不足している時、商売が不振である時には、納税者は困窮のために課税を拒みまたは納期を過ごし、政府の方では強制し徴収するために多くの金を浪費する。けれども仕事が多く一般に幸福で富んでいる時には、税金はわけもなく納入せられ、政府の費用は少なくなる。すなわち民衆の貧富は常に正しい寒暖計を、すなわち租税徴収の費用を持っている。ところで、モントルイュ・スュール・メールの郡においては、七年間に租税徴収の費用はその四分の三を減じた。それで時の大蔵大臣ド・ヴィレール氏から特にこの郡を模範としてしばしばあげられたほどであった。
 ファンティーヌが戻ってきた時は、その地方は右のような状態であった。がだれももう彼女を覚えていなかった。幸にもマドレーヌ氏の工場の扉は彼女を親しく迎えてくれた。彼女はそこへ行って、女工の仕事場にはいることを許された。その仕事はファンティーヌには新しくて上手にやることができなかった。終日働いても大して金にならなかった。しかしそれでも事は足りた。問題は解決された。彼女は自分の手で生活をしていった。

     八 ヴィクチュルニヤン夫人三十五フランをもって貞操を探る

 ファンティーヌは自分で暮らしてゆけるのをみて、一時は非常に喜びを感じた。自分で働いて正直に暮らしてゆくということは、何という天の恵みであろう! 労働の趣味が本当に彼女に戻ってきた。彼女は鏡を一つ買って、自分の若さやりっぱな髪の毛や美しい歯などを映して見ては楽しみ、多くのことを忘れてしまい、もう自分のコゼットのことや未来の希望などのことをしか考えなかった、そしてほとんど幸福であった。小さな室を一つ借り、これから働いて代を払うということにして種々な道具を備えた。それだけは以前のだらしない習慣の名残りだった。
 彼女は結婚したことがあると言いかねて、前にちょっと言っておいたとおり、自分の小さな女の児のことについては何にも言わないようにつとめていた。
 初めのうちは、前に述べたとおり、彼女はきちょうめんにテナルディエの所へ金を送っていた。けれど彼女はただ自分の名が書けるだけだったから、テナルディエの所へ手紙をやるには代書人に書いてもらわなければならなかった。
 彼女はたびたび手紙を出した。それが人目をひいた。ファンティーヌは「よく手紙を書いてる」とか「気取ってる」とかいう低い噂が女工の部屋(へや)に立ちはじめた。
 およそ人の行為は、それに関係のない者が一番その機密を知りたがるものである。――なぜあの人はいつも夕方にしかこないんだろう。だれそれさんはなぜ木曜日にはきっと出かけるんだろう。なぜあの人はいつも裏通りばかり歩くんだろう。なぜあの夫人はいつも家よりずっと手前で馬車からおりるんだろう。なぜあの奥さんは家にたくさんあるのにペーパーを買いにやるんだろう。云々(うんぬん)――世にはそういう人がいるものである。彼らはもとより自分には何ら関係のないそれらの謎(なぞ)の鍵(かぎ)を得んがためには、多くの善事をなし得てあまりあるほどの金と時間と労力とを費やす。そしてそれもただいたずらに自分の楽しみのためにするのであって、好奇心をもって好奇心をつぐのうばかりである。彼らは何日間も男や女の後(あと)をつけてみたり、町角や木戸口に寒い雨の降る晩数時間立番をしてみたり、小僧に金を握らしたり、辻馬車屋や徒僕を煽(おだ)てたり、女中を買収したり、門番を取り入れたりする。それもなぜであるか。何の理由もない。ただ見たい知りたい探りたいがためのみである。ただ種々なことを言いふらしてみたいためのみである。そして往々にして、それらの秘密が知られ、それらの不思議が公にされ、それらの謎が白日の光に照らさるる時には、災難、決闘、失脚、家庭の没落、生涯の破滅などをきたし、それがまた、何らの利害関係もなく単なる本能から「すべてを発見した」彼らの大なる喜びとなるのである。まことに痛むべきことである。
 ある人は単に噂をしたい心から悪者となることがある。彼らの会話、客間での世間話、控え室での饒舌(じょうぜつ)は、すみやかに薪(まき)を燃やしつくす炉のごときものである。彼らには多くの燃料がいる。そしてその燃料はすなわち近所の人々である。
 かててファンティーヌは人から目をつけられた。
 その上に、彼女の金髪と白い歯をうらやむ者も一人ならずいた。
 ファンティーヌがしばしば人中でそっとわきを向いて涙をふくことが、工場の中で見て取られた。それは彼女が子供のことを、そしておそらくはまたかつて愛した男のことを、考えている時なのだった。
 過去のわびしい絆(きずな)をたち切ることは、痛ましい仕事である。
 ファンティーヌが少なくとも月に二回、いつも同じあて名で、配達料をも払って、手紙を出すということが確かになった。ついには、モンフェルメイュ旅館主テナルディエ様というあて名まで知られてしまった。人々は酒場で代書人にしゃべらしたのだった。代書人は人のいい老人だったが、秘密の袋をあけないではいい酒で胃袋を満たすこともできなかったのである。要するに、人々はファンティーヌが子供を持ってることを知った。「どうしても普通の娘ではない。」ある一人の饒舌(じょうぜつ)な女は、モンフェルメイュまで出かけて行き、テナルディエ夫婦と話をして、帰ってきて言った。「三十五フラン使ってやっとわかった。子供も見てきました!」
 そういうことをしたその饒舌家は、ヴィクチュルニヤンという恐ろしい女で、すべての人の徳操の番人で門番だった。ヴィクチュルニヤン夫人は五十六歳で、顔が醜いうえに年を取っていた。震え声で移り気だった。こんな婆さんにも不思議と一度は若い時があったのである。その若いころ、一七九三年の騒動最中に、革命の赤帽をかぶって修道院から逃げ出しベルナール宗派から過激民主派へ変節した一人の修道士と、結婚したことがあった。彼女は冷酷で、ひねくれて、頑固で、理屈っぽく、気むずかしく、ほとんど毒薬のような女だった。しかも、自分を押さえつけて意のままにしていたもとの夫の修道士のことをいつも思い出していた。彼女はまったく僧衣に押しつぶされた蕁麻(いらぐさ)だった。王政復古の時に及んで、彼女は信者となり、しかも非常に熱心だったので、教会は彼女に亡くなった夫の修道士の罪を許してくれた。少しの財産があったが、彼女はそれを声を大にしてある宗教的組合に遺贈していた。アラスの司教区では彼女はきわめて敬意を払われていた。そのヴィクチュルニヤン夫人が、モンフェルメイュに行って「子供も見てきました」と言いながら帰ってきた。
 それまでになるにはかなり時間がかかった。ファンティーヌは工場にきてもう一年以上になっていた。ところがある日の朝、仕事場の監督が市長殿からと言って彼女に五十フランを渡して、もう彼女は仕事場の者ではないと言いそえ、この地方から立ち去るようにと市長殿の名をもって言い渡した。
 それはちょうど、テナルディエが六フランから十二フランを要求した後、さらにこんどは十五フランを要求してきたその月のことだった。
 ファンティーヌは途方にくれた。彼女はその地を去ることができなかった。部屋代や道具の代価などがたまっていた。それらの負債を返すには五十フランでは足りなかった。彼女は二三言口ごもりながら哀願した。が監督はすぐ仕事場を立ち去るようにと言うのだった。それにファンティーヌは下手(へた)な女工にすぎなかったのである。絶望というよりもなお多く恥ずかしさでいっぱいになって、女は仕事場を去り、自分の室に帰った。彼女の過去のあやまちは、今ではもう皆の知るところとなっていたのである!
 彼女はもう一言を発するだけの力も自分に感じなかった。市長さんに会ってみるがいいと勧める人もあったが、それもしかねた。市長は親切であればこそ五十フランもくれたのである、そして彼は正しい人であればこそ自分を解雇したのである。彼女はその裁(さば)きに服した。

     九 ヴィクチュルニヤン夫人の成功

 かくて修道士の未亡人も何かの役には立ったというものである。
 しかしマドレーヌ氏はそれらのことについては何も知っていなかった。人生においてはたいてい事件はそういうふうに結ばれてゆくものである。マドレーヌ氏は女の仕事場にはほとんどはいらないことにしていた。その仕事場の頭(かしら)として彼は、司祭から紹介された一人の独身の老女を据えて置いた、そしてその監督にすべてを任した。実際それは尊敬すべき確実な公平な清廉な女であった。施与をする方の慈悲心に非常に富んでいた。ただ人の心を了解し人を許容するという方面の慈悲心はそれほど多く持たなかった。マドレーヌ氏はすべて彼女に信頼していた。最善の人々は往々、自分の権力を他に譲らなければならなくなることがあるものである。かくてその監督が、訴えを聞き、裁き、ファンティーヌの罪を認めて処罰したのも、まったく自分の握っている権力をもってしたのであって、また善をなすという確信をもってしたのであった。
 また五十フランというのは、マドレーヌ氏から女工への施与や補助として託せられてる金から割(さ)いて与えたのだった。彼女はその金の計算報告はいつもしないでよかったのである。
 ファンティーヌはその地で女中奉公をしようと思って、家から家へと訪ね回った。が、だれも彼女を望まなかった。彼女はそれでも町を去ることができなかった。彼女に道具を、しかも随分ひどい道具を売りつけた古物商は、彼女に言っていた、「もしお前が逃げだしたら泥坊だとして捕縛してもらうだけだ。」室代のたまってる家主は彼女に言っていた、「お前は若くてきれいだ、払えないことがあるものか。」彼女は五十フランを家主と古物商とにわけ与え、なお古物商には道具の四分の三を戻して必要のものだけしか残しておかなかった。そして彼女は仕事もなく、籍もなく、ただわずかに寝る所があるきりで、しかもなお百フランほどの借りがある身となった。
 彼女は衛戌兵(えいじゅへい)の粗末なシャツを縫い初め、日に十二スーだけ得ることになった。が、娘の方へだけでも十スーずつはやらねばならなかった。彼女がテナルディエへ送金を遅(おく)らしはじめたのはこの時だった。
 けれども、晩に家に帰ってくるといつも燈火(あかり)をつけてくれる年取った一人の婆さんが、彼女に貧困のうちに暮らしてゆく方法を教えてくれた。わずかの金で暮らしてゆくその先には、また一文なしで暮らしてゆくということがある。それは引き続いた二つの室で、第一のは薄暗く、第二のは真っ暗である。
 ファンティーヌはいろいろなことを覚えた。冬の間まったく火の気なしですますこと、二日ごとに四、五文だけの粟(あわ)を食う小鳥を捨ててしまうこと、裾衣をふとんにしふとんを裾衣に仕立て直すこと、正面の窓の明りで食事をして蝋燭(ろうそく)を倹約することなど。貧乏と正直とのうちに老い果てた弱い人々が一スーの金をどんなふうに使うかは、人の知らないところである。それはついに一つの才能ともなるものである。ファンティーヌはそのおごそかな才能を会得した、そして少しは元気を回復した。
 この時分に彼女はある近所の女に言った。「なあに私はこう思っていますわ。五時間だけ眠ってあとの時間に針仕事をしていったら、どうかこうかパンだけは得てゆけるでしょう。それに悲しい時には少ししか食べませんもの。苦しみや気使い、一方に少しのパンと一方に心配、それでどうにか生きてゆけますでしょう。」
 かような艱難(かんなん)のうちにも、自分の小さな娘がもしそばにいたらどんなにかしあわせであろうものを。彼女は娘を呼び寄せようと思った。けれどもそれでどうしようというのか! 娘に困窮を分かち与ようというのか。それからテナルディエにも負債になっている。どうして払われよう。そしてまた旅。その費用は?
 彼女に貧乏生活の教えとでもいうべきものを与えてくれた婆さんは、マルグリットという聖(きよ)い独身者で、りっぱな信仰を持ち、貧乏ではあるが、貧しい者のみでなく金持ちに対してまで恵み深く、マルゲリトと署名するだけのことはりっぱに知っており、また学問としては神を信ずることを知っていた。
 かかる有徳の人が下界にも多くいる。他日彼らは天国に至るであろう。かかる生命は未来を有しているものである。
 初めのうちファンティーヌは、非常に恥ずかしがってなるべく外へも出なかった。
 通りに出ると、皆が後ろから振り返って自分を指さすのを彼女は気づいていた。皆が彼女をながめてゆくが、あいさつする者は一人もなかった。通りすぎる人々の冷ややかな鋭い軽蔑は、朔風(きたかぜ)のように彼女の肉を通し心を貫いた。
 小都市においては、一人の不幸な女がいる時、その女はすべての人のあざけりと好奇心との下に裸にせられずんばやまないようである。パリーにおいては、少なくともだれも顔を知った者がいない、そしてその暗黒は身を蔽(おお)う一つの衣となる。おお、いかにファンティーヌはパリーに行くことを望んだであろう! しかしそれは不可能だった。
 貧乏になれたように、彼女はまた軽蔑にもなれざるを得なかった。しだいに彼女はそれをあきらめていった。二、三カ月後には、恥ずかしさなどは振りすててしまって、何事もなかったかのように外出しはじめた。「どうだってかまうものか」と彼女は言った。彼女は頭を上げ、にがい微笑を浮かべながら往来した、そして自らだいぶ厚顔になったように感じた。
 ヴィクチュルニヤン夫人は時々彼女が通るのを窓から見かけた、そして自分のおかげで「本来の地位に戻されたあの女」の困窮を見て取って自ら祝した。心の悪い人々はさすがに暗黒な幸福を有しているものである。
 過度の労働はファンティーヌを疲らした。そして平素からの軽いかわいた咳(せき)が増してきた。彼女は時々隣のマルグリットに言った。「触(さわ)ってごらんなさい、私の手の熱いこと。」
 けれども朝に、こわれた古櫛(ぐし)で素絹のように流れたきれいな髪をとかす時には、おめかしの一瞬を楽しむのであった。

     十 成功の続き

 ファンティーヌが解雇されたのは冬の末だった。そして夏が過ぎ、冬は再びきた。日は短く、仕事は少ない。冬、暖気もなく、光もなく、日中(にっちゅう)もなく、夕方はすぐ朝と接し、霧、薄明り、窓は灰色であって、物の象(すがた)もおぼろである。空は風窓のごとく、一日はあなぐらの中のようで、太陽も貧しい様子をしている。恐ろしい季節! 冬は空の水を石となし、人の心をも石となす。その上ファンティーヌは債権者らに悩まされていた。
 彼女のもうける金はあまりにも少なかった。負債は大きくなっていた。金がこないのでテナルディエの所からは始終手紙をよこした。彼女はその中の文句に脅え、またその郵税に懐(ふところ)をいためた。ある日の手紙によると、小さなコゼットはこの冬の寒さに着物もつけていない、どうしても毛織の裾着がいるので、少なくともそのために十フラン送ってくれということだった。ファンティーヌはその手紙を受け取って、終日それを手に握りしめていた。その晩彼女は通りの片すみにある理髪店にはいって、櫛をぬき取った。美しい金髪は腰の所までたれ下がった。
「みごとな髪ですね。」と理髪師は叫んだ。
「いかほどなら買えますか。」と彼女は言った。
「十フランなら。」
「では切って下さい。」
 彼女はその金で毛糸編みの裾着を買って、それをテナルディエの所へ送った。
 その据着はテナルディエ夫婦を怒らした。彼らが求めていたのは金であった。彼らはその裾着をエポニーヌへ与えた。あわれなアルーエットは相変わらず寒さに震えていた。
 ファンティーヌは考えた。「私の子供はもう寒くあるまい、私の髪を着せてやったのだから。」そして彼女は小さな丸い帽子をかぶって毛の短くなった頭を隠していたが、それでもなおきれいに見えた。
 ファンティーヌの心のうちにはある暗い変化が起こっていた。もはや髪を束ねることもできないのを知った時に、周囲の者すべてを憎みはじめた。彼女は長い間皆の人とともにマドレーヌさんを尊敬していた。けれども、自分を追い払ったのは彼であり、自分の不幸の原因は彼であると、幾度もくり返して考えてるうちに、彼をもまた、そして特に彼を、憎むようになった。職工らが工場の門から出て来るころ、その前を通るような時、彼女はわざと笑ったり歌ったりしてみせた。
 そんなふうにしてある時彼女が笑い歌うのを見た一人の年取った女工は言った、「あの娘も終わりはよくないだろう。」
 ファンティーヌは情夫をこしらえた。手当たり次第にとらえた男で、愛するからではなく、ただ傲慢(ごうまん)と内心の憤激とからこしらえたのだった。やくざな男で、一種の乞食(こじき)音楽者で、浮浪の閑人(ひまじん)で、彼女を打擲(ちょうちゃく)し、彼女が彼とでき合った時のように嫌悪の情に満たされて、彼女を捨てて行ってしまった。
 ファンティーヌは自分の娘だけは大事に思っていた。
 彼女が堕落してゆけばゆくほど、彼女の周囲が暗黒になればなるほど、そのやさしい小さな天使はいっそう彼女の魂の奥に光り輝いてきた。彼女はよく言っていた、「お金ができたら私コゼットといっしょに住もう。」そして笑った。咳(せき)はなお去らなかった、背中に汗をかいた。
 ある日彼女はテナルディエの所から次のような手紙を受け取った。「コゼットは土地に流行(はや)ってる病気にかかっている。粟粒疹熱(つぶはしか)と俗にいう病だ。高い薬がいる。そのため金がなくなって薬代がもう払えない。一週間以内に四十フラン送らなければ、子供は死ぬかも知れない。」
 ファンティーヌは大声に笑い出した、そして隣の婆さんに言った。「まあおめでたい人たちだわ。四十フランですとさ。ねえ、ナポレオン金貨二つだわ。どうして私(あたし)にそんなお金がもうけられると思ってるんでしょう。ばかなものね、この田舎の人たちは。」
 それでも彼女は軒窓の近くへ階段を上っていって、手紙を読み返した。
 それから彼女は階段をおりて、笑いながらおどりはねて出て行った。
 出会った人が彼女に言った。「何でそんなにはしゃいでるの。」
 彼女は答えた。「田舎の人たちがあまりばかばかしいことを書いてよこすんですもの。四十フラン送れですとさ。ばかにしてるわ。」
 彼女が広場を通りかかった時、そこには大勢の人がいて、おかしな形の馬車を取り巻いていた。馬車の平屋根の上には、赤い着物を着た一人の男が立って何か弁じ立てていた。それは方々を渡り歩く香具師(やし)の歯医者で、総入れ歯や歯みがき粉や散薬や強壮剤などを売りつけていた。
 ファンティーヌはその群集の中に交じって、卑しい俗語や上品な壮語の交じった長談義をきいて、他の人たちといっしょに笑いはじめた。歯医者はそこに笑っている美しい彼女を見つけて、突然叫び出した。「そこに笑っていなさる娘さん、あんたの歯はまったくきれいだ。お前さんのその羽子板を二枚売ってくんなさるなら、一枚についてナポレオン金貨一つずつを上げるがな。」
「何ですよ、私の羽子板というのは。」とファンティーヌは尋ねた。
「羽子板ですか、」と歯医者は言った、「なにそれは前歯のことですよ、上の二枚の歯ですよ。」
「まあ恐ろしい!」とファンティーヌは叫んだ。
「ナポレオン金貨二つ!」とそこにいた歯の抜けた婆さんがつぶやいた。「なんてしあわせな娘さんでしょう。」
 ファンティーヌは逃げ出した、そして男の嗄(しゃが)れた声を聞くまいとして耳を押さえた。男は叫んでいた。「考えてみなさい、別嬪(べっぴん)さん! ナポレオン金貨二つですぜ。ずいぶん役に立つね。もし気があったら、今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋においでな、私はそこにいるから。」
 ファンティーヌは家に帰った。彼女は怒っていた。そしてそのことを親切な隣のマルグリット婆さんに話した。「いったいそんなことがあるものでしょうか。恐ろしい男じゃありませんか。どうしてあんな奴をこの辺に放(ほう)っておくんでしょう。私(あたし)の前歯二本を抜けなんて、ほんとに恐ろしいわ。髪の毛ならまた生(は)えもしようが、歯はね。ああ畜生! そんなことするくらいなら、六階の上から真っ逆様に舗石(しきいし)の上に身を投げた方がいいわ。今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋に待っていると言ったわ。」
「そしていくら出すと言いました。」とマルグリットは尋ねた。
「ナポレオン二つだって。」
「では四十フランですね。」
「ええ、四十フランになるのよ。」とファンティーヌは言った。
 彼女は考え込んだ、そして仕事にかかった。やがて十五分もたつと、縫い物をやめて、階段の上へ行ってテナルディエの所からきた手紙をまた読んでみた。
 室に帰ってから彼女は、そばで仕事をしていたマルグリットに言った。「何でしょう、粟粒疹熱(つぶはしか)ってあなた知っていて?」
「ええ、」と婆さんは答えた、「ひどい病気ですよ。」
「では薬がたくさんいるでしょうか。」
「そうですとも、大変な薬が。」
「どうしてそんな病気にかかるんでしょう。」
「すぐにとっつく病気ですよ。」
「では子供にもあるんですね。」
「おもに子供ですよ。」
「その病気で死ぬことがあるんでしょうか。」
「ずいぶんありますよ。」とマルグリットは言った。
 ファンティーヌは室を出て行って、も一度階段の上で手紙を読んだ。
 その晩彼女は出かけて行った。そして宿屋の多いパリー街の方へ歩いてゆくのが見られた。
 翌朝マルグリットは夜明け前にファンティーヌの室へはいって行った。彼女らはいつもいっしょに仕事をして、二人で一本の蝋燭(ろうそく)ですましていたのである。見ると、ファンティーヌは青ざめて氷のようになって寝床の上にすわっていた。彼女は寝なかったのである。帽子は膝の上に落ちていた。一晩中ともされていた蝋燭は、もうほとんど燃え尽きていた。
 マルグリットはその大変取り乱れた光景にあきれて、敷居(しきい)の上に立ち止まった、そして叫んだ。
「おお! 蝋燭が燃えてしまっている。何か起こったに違いない!」
 それから彼女は、こちらへ髪のない頭を向けてるファンティーヌをながめた。
 ファンティーヌは一夜のうちに十歳も老(ふ)けてしまっていた。
「まあ!」とマルグリットは言った。「お前さんどうしたの。」
「何でもないわ。」とファンティーヌは答えた。「それどころか、恐ろしい病気にかかってる私(あたし)の子供もね、助けがなくて死ぬようなこともないでしょう。これで安心だわ。」
 そう言いながら彼女は、テーブルの上に光っているナポレオン金貨二つを婆さんに指(さ)し示した。
「あらまあ!」とマルグリットは言った。「大変なお金! どこからそんな金貨を手に入れたの。」
「手にはいったのよ。」とファンティーヌは答えた。
 と同時に彼女はほほえんだ。蝋燭(ろうそく)の光は彼女の顔を照らしていた。それは血まみれの微笑だった。赤い唾液(だえき)が脣(くちびる)のはじに付いていて、口の中には暗い穴があいていた。
 二枚の歯は抜かれていた。
 彼女はその四十フランをモンフェルメイュに送った。
 がそれは、金を手に入れんためのテナルディエ夫婦の策略だったのである。コゼットは病気ではなかった。
 ファンティーヌは鏡を窓から投げ捨てた。もうよほど前から彼女は三階の室から、ただ□(かきがね)の締まりだけの屋根裏の室に移っていた。天井と床(ゆか)とが角度をなしていて絶えず頭をぶっつけそうな屋根裏だった。そこに住む者は、その室の奥に行くにはちょうど自分の運命のどん底へ行くように、しだいに低く身をかがめなければならない。ファンティーヌはもう寝台も持たなかった。ただ残っていたものは、掛けぶとんと自ら言っていた襤褸(ぼろ)と、床にひろげた一枚の敷きぶとんと、藁(わら)のはみ出た一脚の椅子だけだった。小さな薔薇(ばら)の鉢植(はちう)えを持っていたが、それも忘られて室の片すみに枯れしぼんでいた、他の片すみにはバタ用の壺(つぼ)があって水がはいっていたが、冬にはその水が凍って、氷の丸い輪で幾度も水のさされた跡がながく見えていた。彼女は前から羞恥の感を失っていたが、また身だしなみの心をも失った。そうなってはもうおしまいである。彼女はよごれた帽子をかぶって外に出かけた。暇がないのか、また平気になったのか、もう下着を繕いもしなかった。靴足袋は踵(かかと)が切れるに従って靴の中に引き下げてはいた。縦にしわが寄ってるのでそうしてるのがよく外からでもわかった。コルセットが古くなってすり切れると、すぐに裂けそうなキャラコの布でつぎを当てた。貸しのある人々は彼女をいじめ続けて、少しの休息をも与えなかった。彼女はそういう者らに往来でも出会い、家の階段でもまた出会った。彼女は幾晩も、泣き明かしまた考え明かした。目は妙に輝き、肩には左の肩胛骨(かいがらぼね)の上あたりに始終痛みを覚えた。咳も多くなった。彼女は深くマドレーヌさんを憎んだ、それでも少しも不平はもらさなかった。日に十七時間縫い物をした。しかし監獄の仕事請負人が、安く女囚徒らに仕事をさしたので、にわかにその仕事の賃金が少なくなって、普通の工女の一日分の賃金は九スーになってしまった。日に十七時間働いてしかも九スー! 債権者らはますます苛酷になった。古道具屋はほとんどすべての道具を取り戻したのだったが、なお絶えず言った、「いつになったら払おうというんだ、太(ふて)え女(あま)め。」いったい彼らは彼女をどうするつもりなのか! 彼女はいつも追いまわされてるような気がした。そしてしだいに彼女のうちには野獣のような何かが芽を出してきた。その頃またテナルディエからも手紙がきた。今まではあまりに気をよくして待っていたが、こんどはすぐ百フラン送るよう、さもなければ、あの大病から病み上がりの小さなコゼットをこの寒空に往来に追い出すばかりだ、そしたらどうとでもなるがいい、勝手にくたばってしまうがいい。「百フラン」とファンティーヌは考えた、「だが、日に百スーでももうけられる仕事がどこにあろう?」
「いいわ!」と彼女は言った、「身に残ってる一つのものを売ることにしよう。」
 不幸な彼女は売笑婦となった。

     十一 キリストわれらを救いたもう

 このファンティーヌの物語はそもそも何を意味するか? それは社会が一人の女奴隷を買い入れたということである。
 そしてだれから? 悲惨からである。
 飢渇と寒気と孤独と放棄と困苦とからである。悲しき取り引き、一片のパンと一つの魂との交換、悲惨は売り物に出し、社会は買う。
 イエス・キリストの聖なる法則はわが文明を支配する。しかしながらなおそれは文明の底まで徹してはいない。奴隷制度は欧州文明から消滅したと人は言う。しかしそれは誤りである。なおやはりそれは存在している。ただもはや婦人の上にのみしか残っていないというだけである。そしてその名を売淫(ばいいん)という。
 それは婦人の上、換言すれば、優しきもの、弱きもの、美しきもの、母なるものの上に、かぶさっている。このことは男子の少なからざる恥辱でなければならない。
 われわれが見きたったこの痛ましき物語もここに及んでは、ファンティーヌにはもはや昔の面影は何物も残っていない。彼女は泥のごとくよごれるとともに大理石のごとく冷たくなっている。彼女に触れる者は皆その冷ややかさを感ずる。彼女は流れ歩き、男を受け入れ、しかもその男のだれなるやを知らない。彼女の顔は屈辱と冷酷とのそれである。人生と社会の秩序とは、彼女に最後の別れを告げた。きたるべきすべてのものは彼女にきた。彼女はすべてを感じ、すべてを受け、すべてを経験し、すべてを悩み、すべてを失い、すべてを泣いた。あたかも死が眠りに似ているように、無関心に似たあきらめを彼女はあきらめた。彼女はもはや何物をも避けない。もはや何物をも恐れない。雲霧落ちきたらばきたれ、大海襲いきたらばきたれ。それが何ぞや! もはや水に浸され終わった海綿である。
 少なくとも彼女自らはそう信じていた。しかしながら、もはや運命を知りつくし、いっさいの事のどん底に落ちたと思うことは、一つの誤りである。
 ああ、かくのごとく無茶苦茶に狩り立てられたこれらの運命は何を意味するか? それはどこへ行くか? 何ゆえにかくのごとくなったのであるか?
 それを知る者は、いっさいの暗き所をも見通す者である。
 それはただ一人。それを神という。

     十二 バマタボア氏の遊惰

 すべての小都市には、そして特にモントルイュ・スュール・メールには、一種の青年らがあった。彼らはその同輩がパリーにおいて年に二十万フランを消費すると同じに、地方において年に千五百フランの定収入を浪費する。彼らは中性の大種類に属する。去勢者、寄食者、無能力者ともいうべきもので、少しの土地と少しの無分別と少しの機才とを持っており、社交裏(しゃこうり)に出ては田舎者でありながら、居酒屋においては一かどの紳士だと自惚(うぬぼ)れている。「僕の牧場、僕の森林、僕の小作人」などという口をきく。芝居(しばい)の女優を喝采(かっさい)してはおのれの趣味を示さんとし、兵営の将校と争論してはおのれの勇者なるを衒(てら)い、狩猟をし、煙草をふかし、欠伸(あくび)をし、酒を飲み、嗅煙草(かぎたばこ)をかぎ、撞球(たまつき)をし、駅馬車からおりる旅人に目をつけ、カフェーに入りびたり、飲食店で食事をする。食卓の下では連れている犬に骨をしゃぶらし、その上では情婦に御ちそうをする。一スーを憎しみ、流行を競い、悲劇を賞賛し、婦人を軽蔑し、古靴をすりへらし、パリーを介してロンドンのふうをまね、ポン・タ・ムーソンを介してパリーのふうをまね、年を取るとともに愚かになり、何の仕事もせず、何の役にも立たず、また大した害にもならないのである。
 フェリックス・トロミエス君も、田舎にいてパリーを知らなかったなら、この種の人間になったことであろう。
 もし彼らがいくらか金持ちであれば、しゃれ者と言われ、もしいくらか貧乏であれば、なまけ者と言われるところである。がみな単に閑人(ひまじん)である。それらの閑人のうちには、厄介者もあり、退屈してる者もあり、夢想家もいれば、変わった男もいる。
 その頃、しゃれ者といえば、高いカラーをつけ、大きなえり飾りをつけ、金ぴかの時計を持ち、色の違った三枚のチョッキを青や赤を下にして重ねて着、胴が短く後が魚の尾のようになってるオリーブ色の上衣をつけ、たくさん密に並んだ二列の銀ボタンを肩の所までつけ、ズボンはそれよりやや明るいオリーブ色で、両方の縫い目には幾つかの筋飾りをつけていて、その数は一から十一までの間できまってなかったが、必ず奇数で、また十一を限度としたものだった。それに加うるに、踵に小さな鉄のついた半靴に、縁の狭い高帽、長い髪の毛、大きなステッキ、ポアティエもどきの洒落(しゃれ)を交じえた会話。とりわけ、拍車と口髭(ひげ)。当時、口髭は市民のしるしであり、拍車は徒歩の人のしるしであった。
 田舎のしゃれ者は特に長い拍車をつけ、特に勢いよい口髭をのばしていた。
 それはちょうど、南米の諸共和国がスペイン国王と争っていた折で、ボリヴァル(訳者注 南米の将軍)とモリロ(訳者注 スペインの将軍)とが争闘していた頃だった。縁の狭い帽子を被ってるのは王党でモリロ派と称し、自由党の方は広い縁の帽子をかぶってボリヴァル派と称していた。
 さて前述の事件があってから八カ月か十カ月ばかり後、一八二三年の正月の初め、雪の降ったある晩、この種のしゃれ者の一人であり、閑人(ひまじん)の一人であり、モリロ派の帽をかぶってるので「正統派」と呼ばれている一人の男が、寒中の流行の一つである大きなマントに暖かく身を包んで、士官らの集まるカフェーの窓の前をうろついて、一人の女をからかっておもしろがっていた。女は夜会服をつけ首筋を露(あら)わにし頭には花をさしていた。そして彼しゃれ者は煙草をふかしていた、なぜなら煙草をふかすのはまさしく時の流行であったから。
 女が前を通るたびに、彼は葉巻きの煙とともに悪態を投げつけていた。彼は自分ではその悪口を巧みなおもしろいものと思っていたが、まずこんなものに過ぎなかった。「やあまずい顔だね!……いい加減に身を隠したがいいね!……歯がないんだね!……云々(うんぬん)。」その男の名はバマタボア氏といった。女は雪の上を行ききしてるただ化粧をしたというばかりの陰気な幽霊のような姿で、彼に返事もしなければふり向きもしなかった。そしてやはり黙ったまま陰鬱(いんうつ)に規則的にそこを歩き回って、笞刑(たいけい)を受ける兵士のように五分間ごとに男の嘲罵(ちょうば)の的となっていた。嘲罵の反応があまりないので、閑人(ひまじん)はひどくきげんをそこねたに違いない。彼は女が向こうへ通りすぎた機会をねらって、笑いをこらえながら抜き足で女の後ろに進んでいって、身をかがめて舗石(しきいし)の上から一握りの雪を取り、不意にそれを女の露(あら)わな両肩の間の背中に押し込んだ。女は叫び声を立て、向き返って、豹(ひょう)のようにおどり上がり、男に飛びつき、あらん限りの卑しい恐ろしい悪態とともに男の顔に爪を突き立てた。ブランデーのために声のかれたその罵詈(ばり)は、なるほど前歯の二本なくなってる口から醜くほとばしり出ていた。女はファンティーヌであった。
 その騒ぎに、士官らはいっしょにカフェーから出てき、通行人は足を止め、大きな円を作って群集は笑いののしりまた喝采(かっさい)した。そのまん中に二人は旋風のように取り組み合っていた。それが男と女とであることも見分け難いほどだった。男は帽子を地に落したまま身をもがいていた。女は帽子もなく前歯も髪の毛もなく、憤怒に青くなって恐ろしい様子でわめき立てながら、なぐりつけ蹴(け)りつけていた。
 と突然、背の高い一人の男が、群集の中から飛び出して、女の泥にまみれた繻子(しゅす)の胴着をつかんで言った。「ちょっとこい!」
 女は頭を上げた。その狂気のようなわめき声は急に止まった。目はどんよりとし、青白かった顔色は真っ青になり、恐怖にぶるぶる身を震わした。彼女はジャヴェルを見て取ったのだった。
 しゃれ者はその間に逃げてしまった。

     十三 市内警察の若干問題の解決

 ジャヴェルは見物人をおしのけ、群集の輪を破り、後ろにその惨めな女を従えて、広場の一端にある警察署の方へ大股(また)に歩き出した。女はただ機械的にされるままになっていた。二人とも一言も口をきかなかった。多くの見物人はひどくおもしろがって、ひやかし半分について行った。極端な悲惨は卑猥心(ひわいしん)の的となる。
 警察は天井の低い室で、暖炉がたいてあり、番兵がひかえていて、鉄格子にガラスのはまった戸が往来の方についていた。そこに着くと、ジャヴェルはその戸を開き、ファンティーヌとともに中にはいって、後ろに戸をしめてしまった。やじ馬はいたく失望したが、中を見ようとして、爪立ちながら警察署のよごれたガラス戸の前に首を伸ばした。好奇心は一の貪食(どんしょく)である。見ることはすなわち食うことである。
 中にはいるとファンティーヌは、恐(こわ)がってる犬のように片すみに縮こまって、身動きもしなければ口もきかなかった。
 署詰めの下士が蝋燭(ろうそく)をともしてきてテーブルの上に置いた。ジャヴェルは腰を掛けて、ポケットから捺印(なついん)してある一枚の紙を取り出して、何か書き始めた。
 この種の婦人は法律上まったく警察の処分に任せられている。警察では何でも勝手に処置して思うままに彼女らを罰し、彼女らが自分の仕事と呼び自由と呼んでいる二つの悲しき事をも随意に取り上げてしまうのである。ジャヴェルは感情を動かさない男であった。彼のまじめくさった顔付きは何らの情緒をも示してはいなかった。けれども彼は沈重で何か深く思いふけっていた。自由にしかも厳粛なる本心の注意を集めて、恐るべき臨機処分の権を行使している時であった。そういう時、彼は自分の警官の腰掛けを法廷であると感じていた。彼は判決をなしていた。判決をなし、そして宣告を与えていた。彼は自分の脳裏にあるすべての思想を呼び起こして、おのれのなさんとする大事に集注した。彼はその女の行為を調ぶれば調ぶるほど、ますます嫌悪(けんお)の情を感じた。明らかに一つの罪悪が行なわれるのを目撃したのだった。あの往来において、一人の選挙権を有する土地所有者によって代表せられてる社会が、人の歯(よわい)せざる一人の女から侮辱され攻撃されてるのを見たのである。一人の売春婦が一個の市民に害を加えたのである。彼ジャヴェルは、それをまさしく見たのである。彼は黙々として書き続けた。
 書き終えてから彼はそれに署名した。そしてその紙をたたんで署詰めの下士に渡しながら言った。「二、三人呼んで、この女を牢(ろう)に連れてってもらいましょう。」それからファンティーヌの方へ向いて言った。「お前は六カ月間牢にはいるんだぞ。」
 不幸な女は身を震わした。
「六カ月、牢に六カ月!」と彼女は叫んだ。「日に七スーずつしか取れないで六カ月間! そしたらコゼットはどうなるだろう。娘は、ああ娘は! 私はまだテナルディエの所に百フラン余りの借りがあるんです。警視さん、考えてみて下さい。」
 大勢の泥靴によごれてじめじめしてる床の上に彼女は身を投げた。そして立ち上がろうともせず、両手を握り合わしたまま、膝頭(ひざがしら)ではい回った。
「ジャヴェルの旦那、」と彼女は言った、「どうぞお許し下さい。決して私(わたし)が悪かったんじゃありませんから、初めから御覧なすっていたら、きっとおわかりになったはずです。私が悪かったのでないことは神様に誓います。知りもしないあの男の人が私の背中に雪を押し込んだんです。だれにも何にもしないで静かに歩いてる時、背中に雪を押し込むなんていう法がありましょうか。それで私は気が立ったんです。私はこのとおり少し身体(からだ)も悪いんですもの。その上、前からあの人は私に無茶を言っていたんです。まずい顔だね、歯がないんだねって。歯のないことは自分でもよく知っていますわ。だから私は何にもしなかったんです。冗談言ってるんだと思ってました。私はおとなしくしていました。口もききませんでした。その時です、あの人が私に雪を入れたのは。ジャヴェルの旦那、警視さん、初めからそこに見ていて、私の申すのが本当だと言ってくれる人はだれもいないんでしょうか。怒ったのは悪かったでしょう。が、初めは自分をおさえることのできないこともありますわ。むっとすることがあるものですわ。それにあんな冷たいものを、思いがけない時背中に入れられてごらんなさい。あの人の帽子を台なしにしたのは私が悪いんです。けれどなぜあの人は逃げていってしまったんでしょう。私あやまるんですのに。おお神様も見て下さい、私はいつでもあやまります。だから今日の所だけはどうぞ許して下さい、ジャヴェルの旦那。ねえ、あなたは御存じないでしょうが、監獄では七スーしかもらえないんです。お上(かみ)の知ったことではないでしょうが、七スーしか取れないんです。それだのに、察して下さい、私は百フランも払わなければなりません。そうしないと娘は私の所へ返されるんです。おお神様、私は娘といっしょに住むことはできない。私のしてることはあまり汚らわしい! 私のコゼット、聖(きよ)い天使のような私の娘、かわいそうにあれはどうなるでしょう! こうなんです、娘を預ってるのはテナルディエといって、田舎者で宿屋をしてる夫婦者ですが、わけのわからない人たちです。お金ばかりほしがっているんです。どうぞ私を牢に入れないで下さい。小さい児なのに、この冬の最中に勝手にしろといって往来に放(ほう)り出されるんです。ねえジャヴェルの旦那、かわいそうではありませんか。もっと大きくなっていれば、どうにか食べてゆけもしましょうが、あの年ではそれもできません。私は心底から悪い女ではないんです。なまけたりうまいものを食べたりしたいためにこんなになったのではありません。ブランデーも飲みますけれど、それも苦しいからです。酒なんか好きではありませんが、酒をのむと苦しみを忘れるからです。私がもっと仕合わせであった時には、ちょっと戸棚をあけてみただけでもふしだらな賤(いや)しい女でないことがわかったものです。下着などもたくさん持っていたものです。お情けにどうか、ジャヴェルの旦那!」
 彼女はそういうふうに言いながら、身体を二つに曲げ、身を震わして啜(すす)り泣き、目にいっぱい涙をため、首を露(あら)わにし、両手を握り合わせ、かわいた短い咳をし、苦痛の声をしぼって静かに訴えた。大なる苦悩は聖いそして恐ろしい光で、悲惨なる者の姿を浄化する。その瞬間ファンティーヌはまた美しくなっていた。時々彼女は言葉を切って、警官のフロックの裾(すそ)にやさしく脣(くちびる)をつけた。彼女は花崗岩(かこうがん)のような冷ややかな心をもやわらげたであろう。しかし木のごとき心をやわらげることはできないものである。
「よろしい、」とジャヴェルは言った、「言うだけは聞いてやった。もうすんだのか。それではさあ行け。六カ月だぞ。父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだ。」
 父なる神でさえもはやどうにもできないことなんだというそのおごそかな言葉をきいて、彼女は判決が下されたのだということを了解した。彼女はそこにくずおれて口の中で言った。
「お慈悲を!」
 ジャヴェルは背中を向けた。
 兵士らは彼女の腕をとらえた。
 しばらく前からそこに一人の男がはいってきていた。だれもそれに気づいていなかった。彼は戸をしめて、それによりかかって、ファンティーヌの絶望的な訴えをきいていたのだった。
 身を起こそうともしないあわれな女に兵士らが手を触れた時に、男は一歩進んで、物陰から出てきて言った。
「どうか、しばらく!」
 ジャヴェルは目をあげて、そしてマドレーヌ氏を認めた。彼は帽子をぬいで、不満な様子であいさつをした。
「失礼しました、市長どの……」
 この市長殿という言葉は、ファンティーヌに不思議な刺激を与えた。彼女は地面から飛び出した幽霊のように突然すっくと立ち上がった。そして両手で兵士らを払いのけ、人々が引き留める間もなくもう、マドレーヌ氏の方へまっすぐに進んでゆき、我を忘れたようにじっと彼を見つめ、そして叫んだ。
「おお、市長というのはお前さんのことですか。」
 それから彼女は突然笑い出して、彼の顔に唾(つば)をはきかけた。
 マドレーヌ氏は顔をふいてそして言った。
「ジャヴェル君、この女を放免しておやりなさい。」
 ジャヴェルはその瞬間気が狂ったかと思った。彼はその一瞬の間に、相ついでそしてほとんどいっしょに、いまだかつて知らないほどの種々の激情を経験した。醜業婦が市長の顔に唾を吐きかけるのを見たこと、それはいかにも奇怪千万なことで、いかに恐ろしい想像をたくましゅうしてみても、あり得べきことだと信ずるのでさえすでに冒涜(ぼうとく)であるような気がした。また他方には、この女はいったい何者で、また市長は何者であろうかと考えて、両者の間に忌むべき関係を心の底でふと立ててみた。そして女の奇怪な侮辱のうちに何かごく簡単な理由を想像してみて慄然(りつぜん)とした。しかしながら、市長が、行政官が、静かに顔をふいて、この女を放免しておやりなさいと言うのを見た時に彼は、にわかに茫然(ぼうぜん)としてしまった。何の考えも言葉も出てこなかった。驚駭(きょうがい)の度が彼にはあまり大きかった。彼は口をきき得ないでぼんやり立ちつくしていた。
 また市長の言葉は、ファンティーヌにも同じく不思議な影響を与えた。彼女はその露(あら)わな腕を上げ、よろめく者のように暖炉の戸前につかまった。それでも彼女は自分のまわりを見回して、そして自分自身に言うかのように低い声で言い出した。
「放免! 免(ゆる)してやれ、六カ月牢に行かせるな! それを言ったのはだれだろう。いやだれが言えるものか。私の聞き違いかしら。市長の奴が言うはずはない。
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