レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「それでは、」と司教は言った、「平和に行きなさるがよい。――ついでに言っておきますが、こんどおいでなさる時には、庭の方から回ってこられるには及びませんよ。いつでも表の戸口から出入りなすってよろしいのです。戸口は昼夜とも□(かきがね)でしめてあるきりですから。」
 それから彼は憲兵の方へふり向いた。
「皆さん、もうどうかお引き取り下さい。」
 憲兵らは立ち去っていった。
 ジャン・ヴァルジャンは気を失いかけてる者のようだった。
 司教は彼に近寄って、低い声で言った。
「忘れてはいけません、決して忘れてはいけませんぞ、この銀の器(うつわ)は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束したことは。」
 何も約束した覚えのないジャン・ヴァルジャンはただ茫然としていた。司教はその言葉を発するのに強く力をこめたのである。彼は一種のおごそかさをもってまた言った。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたはもう悪のものではない、善のものです。私が購(あがな)うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、そしてそれを神にささげます。」

     十三 プティー・ジェルヴェー

 ジャン・ヴァルジャンは逃げるようにして町を出て行った。彼は大急ぎで野の中を進み出して、前に現われる街道といわず小道といわず無茶苦茶にたどっていって、始終あと戻りをしていることにも気づかなかった。そのようにして昼間中さまよい続けて、何も食べもしなければまた別に空腹をも感じなかった。彼は全く新しい一団の感情の囚(とりこ)となっていた。一種の憤怒を内に感じていたが、だれに対してだか自ら知らなかった。感動したのかまたは屈辱を感じたのか自分にもわからなかった。時々異様な感傷を覚えたが、それと戦って、そしてそれに対抗せしむるに、最近二十年間に得た頑(かたくな)な心をもってした。そういう状態は彼を疲らした。彼はまた不正なる不幸によって与えられた一種の恐ろしい落ち着きが、心のうちでぐらつくのを見て不安を覚えた。その恐ろしい落ち着きに代わろうとしているものは何であるか自ら尋ねてみた。往々彼は憲兵につれられて獄に投ぜられた方が本当によかったと思い、事件がこんなふうにならなかった方がよかったのだと思った。その方が彼の心を乱すことは少なかったであろう。季節はよほど進んではいたが、なおそこここの生垣(いけがき)のうちにはおくれ咲きの花が残っていて、通りすがりにそのかおりが、彼に幼時のことを思い出さした。それらの思い出は彼にはほとんどたえ難いものであった、もう長い間そういう思い出が浮んできたことはかつてなかったのだから。
 言葉に言い現わし難い考えが、かくて終日彼のうちに集まってきた。
 太陽が傾いて没せんとする時、小石さえその影を地上に長く引く頃、ジャン・ヴァルジャンは全く荒涼たる霜枯れ色の曠野(こうや)の中に、一叢(ひとむら)の藪(やぶ)のうしろにすわった。地平線にはアルプス連山がそびえてるばかりだった。遠く村落の鐘楼の影さえも見えなかった。ジャン・ヴァルジャンはディーニュから多分三里くらいはきていた。平野を横切っている一筋の小道が、藪から数歩の所に走っていた。
 彼は考えに沈んでいた。その様子は出会う人の目に彼のまとったぼろを、いっそう恐ろしく映じさせたであろう、とその時、彼の耳に楽しそうな響きが聞こえてきた。
 彼は首をめぐらした。そして十歳ばかりのサヴォア生まれの少年が歌を歌いながら小道をやって来るのを見た。絞絃琴(ヴイエル)を脇(わき)につけ、モルモットの箱を背に負っていた。地方から地方へ渡り歩いて、ズボンの破れ目から膝頭(ひざがしら)をのぞかせてる、あのおとなしい快活な少年の一人であった。
 歌をうたいながら少年は、時々歩みを止めて、手に持ってる数個の貨幣を手玉に取ってもてあそんでいた。おそらくそれは彼の全財産であったろう。その貨幣のうちには一つ四十スー銀貨がはいっていた。
 少年はジャン・ヴァルジャンには気がつかないで藪のそばに立ち止まった、そして一握りの貨幣を放り上げた。それまで彼は巧みにそのすべてを手の甲に受け止めていたのであった。
 がこのたびは、四十スーの銀貨が手からすべって、藪の方へころがってジャン・ヴァルジャンの所までいった。
 ジャン・ヴァルジャンはその上に足先をのせた。
 でも少年はその貨幣を見やっていて、彼がそうするのを見て取った。
 少年は少しも驚かないで、彼の方へ真っすぐにやってきた。
 それはきわめて寂しい場所であった。目の届く限り野にも道にもだれもいなかった。非常に高く空を飛んでゆく渡り鳥の一群の弱いかすかな鳴き声が聞こえるばかりだった。子供は背を太陽に向けていて、髪の毛のうちには金色の光の線が流れていた。そしてジャン・ヴァルジャンの荒々しい顔は真っ赤な光で赤く照らされていた。
「小父(おじ)さん、」とそのサヴォアの少年は、無知と無邪気とからなる子供らしい信頼の調子で言った、「私のお金を。」
「お前の名は何というのか。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「プティー・ジェルヴェーっていいます。」
「行っちまえ。」とジャン・ヴァルジャンは言った。
「小父(おじ)さん、」と少年はまた言った、「私のお金を返して下さいな。」
 ジャン・ヴァルジャンは頭をたれて、答えなかった。
 少年はまた初めた。
「私のお金を、小父さん。」
 ジャン・ヴァルジャンの目はじっと地面を見つめていた。
「私のお金をさ!」と少年は叫んだ。「私の白いお金を! 私の銀貨をさ!」
 ジャン・ヴァルジャンはそれを少しも耳にしなかったかのようであった。少年はその上着のえりをとらえて、彼を揺すった。同時にまた、自分の貨幣の上にのせられてる鉄鋲を打った大きなその靴を動かそうと努めた。
「私のお金をよう! 四十スー銀貨を!」
 少年は泣いていた。ジャン・ヴァルジャンは頭をあげた。でも彼はなおすわっていた。彼の目付きは乱れていた。彼は驚いたように少年を見つめ、それから杖の方へ手を伸べて、恐ろしい声で叫んだ。
「だれだ、貴様は?」
「私よ、小父さん。」と少年は答えた。「プティー・ジェルヴェーよ。私ですよ、私ですよ。どうか四十スー銀貨を返して下さいな。ねえ小父さん、足をどけて下さいよう!」
 それから、小さくはあったが彼は苛(い)ら立ってきて、ほとんど脅かすような様子になった。
「さあ、足をどけてくれますか。足をどけて、さあ!」
「ああまだ貴様いたのか!」とジャン・ヴァルジャンは言った。そしてやはり貨幣の上をふまえながら突然すっくと立ち上がって、言い足した。「失(う)せやがれ!」
 少年はびっくりして彼をながめた。そして頭から足の先まで震え上がり、ちょっと惘然(ぼうぜん)としていた後、ふり返りもせず声も立てず一目散に逃げ出した。
 けれどしばらく行くと息が続かないで彼は立ち止まった。そしてジャン・ヴァルジャンは、ぼんやり何か考え込んでいるうちにも少年のすすりなく声を聞いた。
 やがて少年の姿は見えなくなった。
 太陽は没していた。
 ジャン・ヴァルジャンのまわりには影が迫ってきた。彼はその日何も食べていなかった。少し熱もあったらしい。
 彼は立ちつくしていた、少年が逃げ出した時のままの姿勢だった。長い不規則な間を置いては呼吸が胸をふくらした。彼の目は十一、二歩前のところに据えられて、草の中に落ちている青い陶器の古い破片(かけら)の形を注意深く見きわめているようだった。と突然彼は身震いをした。夕の冷気を感じたのだった。
 彼はまた額(ひたい)に帽を深く引き下げ、機械的に手探りで上着の前を合わせボタンをはめ、一歩前に出て、地面から杖を取り上げるために身をかがめた。
 その時、四十スー銀貨が彼の目にとまった。足で半ば地面の中にふみ込まれて、小石の間に光っていた。
 あたかも電気に触れたかのようだった。「これは何だ?」と彼は口の中で言った。彼は三歩退いた。けれども、一瞬間前まで足でふみつけたその場所から目を離すことができなくてたたずんだ。闇(やみ)の中に光っているそのものを、見開いて自分を見つめてる何かの目のように感じたかのようだった。
 しばらくしてから、彼は痙攣(けいれん)的にその銀貨の方へ進んでゆき、それをつかみ、身を起こしながら遠く平野のうちを見渡し初めた。脅かされた野獣が隠れ場を求むるかのように、突っ立ちながら身を震わして、地平線のかなたを方々同時に見回した。
 彼の目には何にもはいらなかった。夜の闇は落ちかかって、平原は寒く茫漠(ぼうばく)としており、大きな紫の靄(もや)が夕の薄明のうちに立ち昇っていた。
 彼は「ああ!」と嘆息をもらして、ある方向へ、少年の姿の消えた方へ、急いで歩き出した。百歩ばかりも歩いたのちに、彼は立ち止まり、あたりをながめたが、何にも見えなかった。
 すると彼はあらん限りの声を搾(しぼ)って叫んだ。「プティー・ジェルヴェー! プティー・ジェルヴェー!」
 彼は口をつぐんで、待った。
 何の返事もなかった。
 野は荒涼として陰鬱(いんうつ)だった。彼は広々とした空間にとりかこまれていた。まわりにあるものとてはただ、見透かせない闇と声をのむ静寂とばかりだった。
 凍るような北風が吹いて、彼のまわりのすべてのものに悲愴(ひそう)な気を与えていた。あたりの灌木(かんぼく)はいうにいわれぬ狂暴さでそのやせた小さな枝をふり動かしていた。あたかもそれはだれかを脅かし追っかけてるがようだった。
 彼はまた歩き出し、それからかけ出した。そして時々立ち止まっては、最も恐ろしいまた最も悲しげな声をしぼって寂寞(せきばく)の中に叫んだ。「プティー・ジェルヴェー! プティー・ジェルヴェー!」
 もし少年がそれを聞いたとしても、必ずや恐れて身を現わさなかったであろう。しかし少年はもちろんもう遠くに行っているに違いない。
 ジャン・ヴァルジャンは馬に乗った一人の牧師に出会った。そのそばへ行って言った。
「司祭さん、あなたは子供が一人通るのを見かけられはしませんでしたか。」
「いいえ。」と牧師は言った。
「プティー・ジェルヴェーというんですが。」
「私はだれにも会いませんでしたよ。」
 彼は財布から五フランの貨幣を二つ取り出して、それを牧師に渡した。
「司祭さん、これは貧しい人たちに施して下さい。――司祭さん、十歳(とお)ばかりの小さい子供です。たしか一匹のモルモットと絞絃琴(ヴイエル)とを持っています。向こうへ行きました。サヴォアの者です。御存じありませんか。」
「私はその子に会いませんよ。」
「プティー・ジェルヴェーに? この辺の村の者ではありますまい。どうでしょうか。」
「あなたが言うとおりなら、それはこの辺の子供ではありますまい。この地方をそんな人たちが通ることはありますが、どこの者だかだれも知りませんよ。」
 ジャン・ヴァルジャンは荒々しく五フランの貨幣をもう二つ取り出して、それを牧師に与えた。
「貧しい人たちにやって下さい。」と彼は言った。
 それから彼は心乱れたようにつけ加えた。
「司祭さん、私を捕縛して下さい。私は泥坊です。」
 牧師はひどく慴(おび)えて、馬に拍車をくれて逃げ出した。
 ジャン・ヴァルジャンは最初向かっていた方向にまた走り出した。
 彼はそのようにして、見回し呼び叫びながらかなり長い間行ったが、もうだれにも出会わなかった。二、三度彼は、何か人の横たわっているようにもまた蹲(うずく)[#ルビの「うずく」は底本では「うづく」]まっているようにも見えるものの方へ、野の中をかけて行った。がそれはただ荊棘(いばら)であったり、地面に出てる岩であったりするきりだった。終わりに、三つの小道が交叉(こうさ)している所に出て、彼は止まった。月が出ていた。彼は遠くに目をやって、最後にも一度叫んだ。「プティー・ジェルヴェー! プティー・ジェルヴェー! プティー・ジェルヴェー!」その叫びは靄(もや)の中に消え失せて、反響をも返さなかった。彼はなおつぶやいた。「プティー・ジェルヴェー!」しかしその声は弱々しくてほとんど舌が回らないかのようだった。それは彼の最後の努力であった。彼の膝はにわかに立っているにたえられなくなった。あたかも何か目に見えない力によって悪心の重みで突然押しつぶされたかのようだった。彼はある大きな石の上にがっくりと身を落として、両手で髪の毛をつかみ、顔を膝に押しあて、そして叫んだ。「ああ俺は惨(みじ)めな男だ!」
 その時彼は胸がいっぱいになって、泣き出した。十九年この方涙を流したのはそれが初めてであった。
 ジャン・ヴァルジャンは司教の家から出てきた時、前に述べたとおり、これまでの考えから全く外に出ていた。彼は自分のうちに起こったところのことを自ら了解することができなかった。彼はその老人の天使のごとき行ないや優しい言葉に反抗して心を固くした。「あなたは正直な人間になることを私に約束なすった。私はあなたの魂を購(あがな)うのです。私はあなたの魂を邪悪の精神から引き出して、それを善良なる神にささげます。」そのことがたえず彼の心に返ってきた。彼はその神のごとき仁恕(じんじょ)に対抗せしむるに、吾人の心のうちにある悪の要塞(ようさい)たる傲慢をもってした。彼は漠然と感じていた、その牧師の容赦は自分に対する最も大なる襲撃であり最も恐るべき打撃であって、そのために自分はまだ揺り動かされていると。もしその寛容に抵抗することができるならば、自分のかたくなな心はついに動かすべからざるものであろう、もしそれに譲歩するならば、多くの年月の間他人の行為によって自分の心のうちに満たされ自ら喜ばしく思っていたあの憎悪の念を、捨てなければならないであろう。もうこんどは勝つか負けるかの外はない。そして戦いは、決定的な大戦は、自分自身の悪意とあの老人の仁慈との間になされているのだ。
 それらのはっきりした意識を持って、彼は酔える人のように立ち去ったのであった。かくて荒々しい目付きをしながら歩いている間、ディーニュのその事件から自分に対していかなる結果が起こるであろうかは、彼ははっきり覚(さと)っていたであろうか。生涯のある瞬間において、人の精神を戒めもしくは悩ますところのあの神秘なるざわめきを、彼は聞き取っていたであろうか。ある声が次のことを彼の耳にささやいたであろうか、すなわち、彼はおのれの運命のおごそかなる瞬間を通りすぎてきたこと、もはや彼にとっては中間は存在しないこと、もし今後最善の人とならないとすれば最悪の人となるであろうということ、言わば司教よりも高きに昇るか囚人よりもなお低きに落つるか、いずれかを取らなければならない場合であること、もし善良たらんと欲せば天使とならなければならないこと、邪悪に留まらんと欲せば怪物とならなければならないこと。
 ここになお、他の所で既になした疑問を繰り返さなければならない、すなわち、彼はすべてこれらのことの何かの影だにも雑然と思念のうちに取り入れていたであろうか。確かに、前に述べたごとく、不幸は人の知力を育てるものである。けれども、われわれが右に指摘したところのすべてを弁別し得るだけの状態にジャン・ヴァルジャンがいたかどうかは疑わしい。たといそれらの観念が彼の頭に浮かんだとするも、彼はそれをよく見たというよりもむしろ瞥見(べっけん)したにすぎなかった、そしてそれはただ彼をたえがたい痛ましい惑乱に投げ込むに終わったのみであった。徒刑場と呼ばるる醜い暗黒なものから出た彼の魂に、司教は苦痛を与えたのである。あたかもあまりに強い光が暗やみから出る彼の目をそこなうがように。未来の生涯、今後可能なものとして彼の前に提出された純潔な輝いた生涯は、彼をして全く戦慄せしめ不安ならしめた。彼はもはや何処(どこ)に自分があるかを本当に知らなかった。にわかに太陽の出るのを見た梟(ふくろ)のごとく、囚人たる彼は徳に眩惑(げんわく)され盲目となされてしまっていた。
 ただ確実であったこと、彼も自ら疑わなかったことは、彼がもはや以前と同じ人間ではなく、彼の内部がすべて変化していたということである。司教が彼に語り彼の心に触れたということを拒むの力はもはや彼にはなかったことである。
 そういう精神状態にあって、彼はプティー・ジェルヴェーに出会い、そしてその四十スーを盗んだ。何ゆえであるか? 彼自身も確かにそれを説明することはできなかったであろう。それは彼が徒刑場から持ちきたった悪念の最後の働き、言わば最上の努力ででもあったのか。衝動の名残り、力学に慣習力と称するところのものの結果であったのか。そうであったろう、そしてまたおそらくそれよりもなお小さなものであったろう。簡単に言えば、盗みをしたのは、彼ではなかった。彼の人ではなかった。知力が多くの異常な新奇なものに纏綿(てんめん)されてもがきつつある間に、習慣と本能とによって貨幣の上にただ茫然と足を置かした獣性であった。知力が目ざめてその獣的な行為を見た時に、ジャン・ヴァルジャンは苦悶(くもん)して後ろにしざり、そして恐怖の叫びを発した。
 何ゆえかなれば、それは不思議な現象で、彼があったような状態においてのみ可能なことではあるが、その少年から金を奪いながら、彼はもはや自らなし得ないところのことをなしたのであったから。
 それはとにかく、その最後の悪事は彼に決定的な効果を及ぼした。その一事は、彼の知力のうちの混沌(こんとん)たるものを突然貫いて、それを消散させ、一方に濃い暗黒と他方に光明とを分かち、その時の状態の彼の魂に働きかけて、あたかもある化学的反応体が混沌たる混和物の上に働いて、一の原素を沈澱(ちんでん)させ他の原素を清澄ならしむるがような作用を及ぼしたのである。
 彼はまず第一に、よく自らを顧み熟慮する前に、身をのがれんとする者のようにただむやみと、金を返すために少年を見つけだそうとつとめた。それから、それがむだなことでまたでき得ないことであるのを知った時に、絶望して立ち止まった。ああ俺は惨(みじ)めな男だ! と叫んだとき、彼は自分のありのままの姿を認めていたのであった。そして彼は自分自身がもはや一つの幻であるように思われたほど既に自己を絶した地点にあって、肉と骨とをそなえた醜い囚人ジャン・ヴァルジャンの方は、手に杖を握り、胴に仕事着をまとい、窃盗品でいっぱいになってる背嚢(はいのう)を背に負い、決然たるしかも沈鬱(ちんうつ)なる顔をし、のろうべき企(たく)らみに満ちてる思念をいだいて、そこに彼の前に立っていたのである。
 過度の不幸は、前に述べたとおり、彼をして一種の幻覚者たらしめていた。で、このことも一つの幻影に似ていた。彼は本当に自分の前に、ジャン・ヴァルジャンを、その凄愴(せいそう)な顔を見た。その瞬間彼は、その男がだれであるか、自ら怪しみ、その男に嫌悪(けんお)の念をいだいた。
 彼の頭は、幻想がいかにも深刻で現実をのみ尽さんとする、あの激越なしかも恐ろしく静かな瞬間の一つにあった。かかるとき人は、もはやおのれの周囲にある事物は目に止まらず、おのれの精神のうちにある像(すがた)をおのれの外にあるかのように目に見るものである。
 そして彼は、言わば面と向かって自己をうちながめ、同時に、その幻覚を通してある神秘な奥深い所に一種の光明を見た。彼は最初それを炬火(たいまつ)の炎のようにも思った。が自分の本心のうちに現われてきたその光明をいっそう注意してながめていると、それが人間の形をそなえていることを知った、そしてその炎は司教であることを知った。
 彼の本心は、かくおのれの前に置かれた二人の者、司教とジャン・ヴァルジャンとを、かわるがわるうちながめた。後者をうち砕かんがためには前者でなければならなかった。その幻想が引き続くにつれて、この種の幻惑の特質たる特殊な働きの一つによって、司教の姿はしだいに大きくなって彼の目に輝き渡り、ジャン・ヴァルジャンの姿は、しだいに小さくなって消えていった。やがてそれは一つの影にすぎなくなり、忽然(こつぜん)と消え失(う)せた。そして司教一人後(あと)に残った。
 その姿は、この惨(みじ)めなる者の魂をすみずみまで燦然(さんぜん)たる光明をもって満たした。
 ジャン・ヴァルジャンは長い間泣いた。女よりも弱々しく小児よりもおびえて、熱い涙を流して咽(むせ)び泣いた。
 泣いている間に、彼の脳裏にはしだいに明るみがさしてきた。異常なる明るみ、喜ばしいしかも同時に恐ろしい明るみであった。彼の過去の生涯、彼の最初の過(あやま)ち、彼の長い贖罪(しょくざい)、彼の外部の愚鈍、彼の内部の冷酷、あれほど多くの復讐(ふくしゅう)の計画をもって楽しんだ彼の釈放、司教の家で彼に起こったこと、彼がなした最後の一事、少年から四十スーを盗んだこと、司教の仁恕の後に行なわれただけにいっそう卑劣でいっそう凶悪であったその罪、すべてそれらのことが、明らかに、かつてなかったほどの明るさで、彼の心に蘇(よみがえ)って現われてきた。彼は自分の生涯をながめた、そしてそれは彼の目に嫌悪すべきもののように映じた。彼は自分の魂をながめた、そしてそれは彼の目に恐怖すべきもののように映じた。けれども穏かな明るみがその生涯とその魂との上に射(さ)していた。天国の光明によって悪魔を見たように彼には思えた。
 かくしていくばくの間彼は泣いていたか。泣いた後に彼は何をなしたか。どこへ彼は行ったか。だれもそれを少しも知らなかった。ただ一つ確かめられたことは、その同じ夜、当時グルノーブル通いをしていた馬車屋が、朝の三時頃ディーニュに着いて、司教邸のある通りを通ってゆく時に、一人の男がビヤンヴニュ司教の家の前で、祈るような姿をして闇(やみ)の中に舗石(しきいし)の上にひざまずいているのを、見かけたということである。
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   第三編 一八一七年のこと


     一 一八一七年

 一八一七年は、ルイ十八世が幾分矜(ほこ)らかに厳(いか)めしくも彼の治世第二十二年と称した年である。それはブリュギエール・ド・ソルソン氏が世に高名であった年である。あらゆる理髪屋の店は、髪粉の流行と王鳥式の髪の再流行とを望んで、青く塗られて百合(ゆり)の花で飾られていた。それはごく天真爛漫(らんまん)なる時期であって、ちょうどランク伯爵が、上院議員の服装をし綬章(じゅしょう)をつけ、あの長い鼻をして、赫々(かくかく)たる行ないをなした人にふさわしいいかめしい顔付きで、サン・ジェルマン・デ・プレ会堂の定めの席に理事として日曜ごとに臨んでいた時である。で、ランク氏の赫々たる行ないというのは、ボルドーの市長をしていて、少しく早めに一八一四年三月十二日に、その市をアングーレーム公爵に与えてしまったことである。そのために彼は上院議員となったのである。一八一七年に、四歳から六歳くらいの子供は皆、エスキモー人の帽子に似寄った耳被(おお)いのついた粒皮の大きい帽子をすっぽりとかぶることが流行していた。フランス軍隊はオーストリアふうに白の服を着ていた。連隊の鎮台といって、連隊の番号の代わりにその県の名前をつけていた。ナポレオンはセント・ヘレナの島にいた、そしてイギリスは彼に青ラシャを許さなかったので、彼は自分の古い服を裏返しにさして着ていた。一八一七年に、ペルグリニが歌い、ビゴティニ嬢が踊っていた。ポティエが名声を得ていた。オドリーはまだ世に出ていなかった。サキー夫人がフォリオゾの後を継いでいた。フランスにはなおプロシア人がいた。ドゥラロー氏が頭角を現わしていた。プレーニエやカルボンノーやトレロンの手を切り次に首を切って、正統王位の権は堅固になっていた。侍従長のタレーラン公と大蔵大臣に就任したルイ師とは、互いに顔を見合って占考官のような笑(え)みを交(か)わしていた。二人は一七九〇年七月十四日に練兵場で同盟大会(フェデラシオン)の弥撒(ミサ)祭をあげたのであるが、タレーランは司教として弥撒をとなえ、ルイは補祭としてそれに働いたのだった。一八一七年に、その同じ練兵場の側道には、鷲(わし)と蜂(はち)との模様の金箔(きんぱく)ははげ落ちて、青く塗られてる大きな木の円筒が、幾つも雨に打たれ雑草の中に朽ちてるのが見られた。それは二年前には閲兵式の時の皇帝の席をささえていた円柱であった。グロス・カイヨーの近くに宿営していたオーストリア軍の陣営の焚火(たきび)のために所々黒くすすけていた。その二、三のものは陣営の中で燃されてしまって、オーストリア兵士の大きな手を暖めたのであった。その閲兵式(五月の野)は六月の練兵場(三月の野)で開かれたので注意をひいた。一八一七年には二つのことが世間に評判だった、それはトゥーケのヴォルテール本とシャルトの煙草(たばこ)入れとであった。新しくパリー人の視聴を欹(そばだ)てたことは、マルシェ・オー・フルールの池の中に自分の兄弟の首を投げ込んだドウトンの罪悪であった。海軍省では、あのショーマレーに不名誉を与えジェリコーの名をあげさした不幸なる二等艦メデューズ号について調査をはじめた。セルヴ大佐はソリマン総督になるためにエジプトに赴(おもむ)いた。アルブ街のテルムの邸宅は桶屋(おけや)の店になった。クリュニーの邸(やしき)の八角塔の平屋根の上には、ルイ十六世の時の海軍の天文学者であるメシエが観象台に使った板囲いの小屋が、まだ残って見えていた。デューラー公爵夫人は、青い空色の繻子(しゅす)を張ったX脚の床几(しょうぎ)がそなえてある自分の化粧室で、禁止になったウーリカを三、四人の友に読んできかしていた。ルーヴルの美術館では、ナポレオンの頭字Nはすべてのものから消されていた。オーステルリッツ橋はその名が廃せられてジャルダン・デュ・ロア橋となっていた、それはオーステルリッツ橋とジャルダン・デ・プラント園とを同時に隠した二重の隠語である。ルイ十八世は爪先(つまさき)でホラチウスの書に線を引いて読みながら、自ら皇帝となる英雄や自ら皇帝の後継となる賤民(せんみん)などのことを考えつつ、二つの心配を持っていた、すなわちナポレオンとマチュラン・ブリュノーとであった。フランスのアカデミーはその懸賞課題に研学によりて得らるる幸福というのを出していた。ベラール氏はまったく堂々たる雄弁であって、ポール・ルイ・クーリエの譏刺(きし)を思わするあの未来のブローの検事と育ちつつあった。マルシャンジーと呼ぶ似而非(えせ)シャトーブリアンがいた、と一方にはアルランクールという似而非(えせ)マルシャンジーも出かかっていた。クレール・ダルブとマレ・カデルとの二つの書物は傑作であった、そしてコタン夫人は当時の第一流の作家だといわれていた。学士院会はその帳簿からアカデミー会員ナポレオン・ボナパルトの名前を抹殺(まっさつ)さしていた。勅令によってアングーレームは海軍兵学校の所在地となされていた、というのは、アングーレーム公爵は偉い海軍提督で、したがってアングーレームの町は海港たるのすべての資格をそなえていて、もしさもなくば王政の大綱は破綻(はたん)をきたしていたであろうから。内閣会議では、フランコニ曲馬団の広告のまわりに書かれて町の子供らを集めている綱渡りの芸を現わした模様の絵を、許すべきかどうかが問題となっていた。アグネーズの作者であって、頬に一つ疣(いぼ)のある四角い顔の好人物たるパエル氏は、ヴィル・レヴェーク街のサスネー侯爵夫人の催しにかかる親しい間がらだけの小さな演奏会を指導していた。若い娘たちはエドモン・ジェローの歌詞であるサン・タヴェルの隠士を歌っていた。骨牌(カルタ)のナーン・ジョーヌはミロアールに代えられていた。ランブランの珈琲(コーヒー)店は皇帝派をもって立ち、ブールボン派をもって立っているヴァロア珈琲店と対抗していた。シシリーのある王女とまだ幼にしてルーヴェルに認められていたベリー公爵とが結婚したばかりだった。マダム・ド・スタールが死んで既に一年になっていた。親衛兵らはマルス嬢の舞台を邪魔していた。大新聞も皆紙面が小さかった。形は制限せられていたが、記事の自由は大であった。コンスティチュシオンネル紙は立憲派であった。ミネルヴ紙は Chateaubriand(シャトーブリアン) を Chateaubriant と書いていた。シャトーブリアンには気の毒であるが、そのTを市民は大変おかしがっていた。買収せられた紙上で節を二にした記者らは、一八一五年に追放を受けた者らを侮辱した。曰(いわ)く、ダヴィッドももはや才能を有せず、アルノーももはや機才を有せず、カルノーももはや誠実を有せず、スールトももはや戦勝をもたらさず、ナポレオンももはや天下を有しないのは事実であると。郵便で被追放者にあてられた手紙は、警察の方で忠実に途中で押さえるので届くことはきわめてまれであるのを、だれも知らないではなかった。その事実は何も新しいことではない、追放されたデカルトもそれを嘆いている。ところで、ダヴィッドが自分にあてられた手紙の届かないことについてベルギーの一新聞紙上で不平を言ったが、それは追放せられた者らを当時あざけっていた王党の新聞にとっては愉快なことだった。弑逆人といいもしくは投票者といい、敵といいもしくは同盟者といい、ナポレオンといいもしくはブォナパルトということは、二者の間を、深淵よりもなおはなはだしく距(へだ)てることだった。よく物のわかった人々は皆、「憲章の不朽なる作者」と称せられたルイ十八世によって革命時代は永久に閉じられてしまったと認めていた。ホン・ヌーフの土手には、アンリ四世の銅像がやがて据えらるることになっている台の上に、レディヴィヴ・ス(甦(よみがえ)れる)という語が彫られていた。ピエー氏は王政を強固にせんがための集会をテレーズ街四番地に立てていた。右党の領袖(りょうしゅう)らは重大な問題のたびごとに言った、「バコーに書き送らなければならない。」カニュエル、オマオニー、ド・シャブドレーヌの三氏は、多少王弟の許しを得て、後に「海辺の陰謀」となったところのものの芽を作っていた。エパングル・ノアール一派もまたその方で陰謀をめぐらしていた。ドラヴェルドリーは、トロゴフと接するに至った。ある程度の自由主義の精神を持ってるドカーズ氏が勢力を有していた。シャトーブリアンは、襞付(ひだつ)きズボンをつけ、上靴をはき、その半白の髪にマドラス織りの帽をかぶり、鏡を見つめ、歯科医の道具のそろった鞄を前に置き、痛んでいる歯を自ら治療しながら、憲章による王政の種々の異本の差異を秘書のピロルジュ氏に書き取らせつつ、サン・ドミニク街二十七番地の自分の家の窓ぎわに毎朝立っていた。重な批評はタルマよりもラフォンをほめていた。ド・フェレズ氏はAと署名し、ホフマン氏はZと署名していた。シャール・ノディエはテレーズ・オーベルを書いていた。離婚は廃せられていた。リセーは皆コレージュと呼ばれていた。コレージュ(高等中学校)の生徒らはえりに金の百合(ゆり)の花をつけ、ローマの王(訳者注 ナポレオン一世の子の称号)の問題について互いに争論していた。宮廷の監察官は妃殿下に、どこにも出てるオルレアン公の肖像のことを告げていた。その像は軽騎兵司令官の制服をつけたもので、竜騎兵司令官の制服をつけたベリー公よりもりっぱであった。それは大なる不都合だった。パリー市は市の金で廃兵院の丸屋根の金を塗り直していた。まじめな人たちは、かくかくの場合にはド・トランクラーグ氏はどういうふうになすだろうかと考えていた。クローゼル・ド・モンタル氏は種々の点でクローゼル・ド・クーセルグ氏と離反した。ド・サラベリー氏は不平をいだいていた。モリエールさえはいることができなかったアカデミーの一員である喜劇作者ピカールは、オデオン座で二人のフィリベールを上演さしていた。同座の破風からは女皇座の文字がぬき取られていたが、その跡がまだ残って見えていた。キュネー・ド・モンタルロに対して賛否の論がされていた。ファブヴィエは乱を好むの徒であり、パヴーは革命家であった。ペリシエ社はフランス・アカデミー会員たるヴォルテール集という題で、ヴォルテールのものの出版をした。その無邪気な出版屋は「それは売れますよ」と言っていた。一般の意見によれば、シャール・ロアゾン氏は本世紀を通じての天才だということであった。がうらやむ人々は彼を誹謗(ひぼう)しはじめていた。それも光栄の一つの兆である。そして彼について次のような句ができていた。

いかにロアゾン飛ぶとても、足あることを人は知る。

 枢機官フェーシュが辞職することを拒んだので、アマジーの大司教ド・パン氏はリオンの管轄区を統(す)べていた。ダップ渓谷の争議が、後に将軍となったデュフール大尉の覚書によって、スウィスとフランスとの間に始まっていた。世にまだ知られなかったサン・シモンは、その壮大な夢想を築きかけていた。アカデミー・デ・シヤンスには、有名であるがしかし後世忘れられてしまうようなあるフーリエがいた、そしてどこかの陋屋(ろうおく)のうちにも、まだ世に知られないが将来忘れらるることのないあるフーリエがいた。バイロン卿が世に現われはじめていた。ミルボアのある詩の注には次のような言葉で彼をフランスに紹介していた、あるバイロン卿とかいう者。ダヴィッド・ダンジェは熱心に大理石を弄(いじ)くっていた。カロン師は、フイヤンティーヌの袋町の神学校生徒の小さな集会で、後にラムネーとなったが当時まだ世に知られてなかった一牧師フェリシテ・ロベールのことを、非常に称賛して話した。泳いでる犬のような音を出してセーヌ河上に煙を吐き蠢(うご)めいている一つの物が、チュイルリー宮殿の窓下をロアイヤル橋からルイ十五世橋まで往来していた。それはつまらない一の機械であり、一種の玩具(おもちゃ)であり、妄想(もうそう)発明家の夢想であり、一つの空想であった、すなわち蒸汽船であった。パリー人は無関心の態度でそのばかな物をながめた。断行と規定と多数の任命とによって学士院会を改革した人であり、多くのアカデミー会員を推挙した有名な人であるヴォーブラン氏は、それらのことをした後に、自らはアカデミー会員となることができないでいた。サン・ジェルマン郭外とマルサン村とは、その警察長にドラヴォー氏を望んでいた、それは彼の熱誠のためであった。デュビュイトランとレカミエとは、イエス・キリストの神性について、医学校の階段教室で互いに論争してなぐり合うほどだった。一方の目で創世記を見、他方の目で自然を見ているキュヴィエは、化石を創世記の原文と比べてみたり、象鼻動物をしてモーゼのことをほめ称(たた)えさしたりしながら、妄信的(もうしんてき)反動に媚(こび)を呈していた。パルマンティエの記録のほむべき研究家たるフランソア・ド・ヌーシャトー氏は、ポンム・ド・テール(馬鈴薯(ばれいしょ))をパルマンティエールと一般に言わせようとして、大層な努力をしていたが、それに成功しなかった。グレゴアール師は、もと司教であり、もと民約議会員であり、もと元老院議員であったが、王党の論戦において「破廉恥なるグレゴアール」の状態に陥っていた。ここにわれわれが使った「の状態に陥る」という言い方は、ロアイエ・コラール氏によって新語法として指摘せられていた。イエナ橋の第三の橋弧の下には、ブリューヘルが橋を爆発させんために穿(うが)った火薬坑を二年前にふさいだ新しい石を、その白さでなお見分けることができていた。法廷は一人の男を白州に引き立てた。その男はアルトア伯爵がノートル・ダーム寺院にはいってゆくのを見て、声高く言ったのである。「ああボナパルトとタルマとが互いに腕を組んで練兵場にはいってゆくのを見られた時代がなつかしい。」それは挑発的な言葉であった。で六カ月牢にはいった。反逆人らはボタンをはずして何も隠さなかった。戦いの前日敵に通じた者らは、受けた報酬を少しも隠さないで、卑しい財宝と位階とに包まれて白日の下をはばかり気もなくのさばり歩いていた。リニーやカトル・ブラの脱走兵らは、その卑劣の報酬を受けて、王に対する彼らの忠誠を臆面(おくめん)もなくすっかり見せかけていた。彼らは皆、イギリスの共同便所の内側の壁に書かれてることを忘れているのであった、「出る前に服装を整えられたし。」
 以上雑多なことは、今日はもう忘れられているが、一八一七年から雑然と浮き出してくるところのものである。歴史はこれらの特殊な事がらをほとんどことごとく閑却している。そしてそれも余儀ないことである。歴史は無限になるだろうから。けれどもこれらの詳細は、それを些事(さじ)と言い去るのは誤りであって――人生のうちに些事はなく、植物のうちに瑣末(さまつ)なる葉はない――それは皆有用なことである。時代の容貌が形造らるるのはその年々の相(すがた)によってである。
 さてこの一八一七年に、四人の若いパリーっ子が「おもしろい狂言」を仕組んだ。

     二 二重の四部合奏

 それらの四人のパリーっ子のうち、一人はツウルーズの者で、次はリモージュの者で、第三はカオールの者で、第四はモントーバンの者であった。けれども彼らはみな学生であった。学生というのはパリーっ子というのと同じで、パリーで学問をすることはパリーで生まれるのと同じである。
 それらの四人の青年らは、何らとりたてて言うべきほどの点をもたず、至ってありふれた人物だった。どこにでもある型だった。善(よ)くもなくまた悪くもなく、学問があるでもなくまた無知でもなく、天才でもなければまた愚か物でもなかったが、二十歳という楽しい青春の花盛りだった。それはある四人のオスカール(訳者注 北欧神話オシアン中の勇士)であった。というのは、この時代にはまだアーサア(訳者注 イギリスの物語中の騎士)式の人物はいなかったのだから。物語は言う、「彼のためにアラビアの香料を焚(た)け。オスカール来る。オスカール、余はまさに彼を見む。」人々はちょうどオシアン物語から出てきたところで、典雅といえば皆スカンディナヴィアふうかカレドニアふうかであった。純粋のイギリスふうはずっと後にしかはやらなかった。そしてアーサア式の第一者たるウェリントンは、まだようやくワーテルローで勝利を得たばかりの時だった。
 で、その四人のオスカールのうち、ツウルーズのはフェリックス・トロミエスといい、カオールのはリストリエ、リモージュのはファムイュ、終わりのモントーバンのはブラシュヴェルといった。もちろんおのおの自分の情婦(おんな)を持っていた。ブラシュヴェルは、イギリスに行っていたことがあるのでファヴォリットと英語ふうに呼ばれている女を愛していた。リストリエは、花の名を綽名(あだな)としているダーリアという女を鍾愛(しょうあい)していた。ファムイュは、ジョゼフィーヌをつづめてゼフィーヌと呼ぶ女をこの上ない者と思い込んでいた。トロミエスは、美しい金髪のためにブロンドと呼ばるるファンティーヌという女を持っていた。
 ファヴォリット、ダーリア、ゼフィーヌ、ファンティーヌ、その四人は、香水のにおいを散らしたきらびやかな娘盛りだった。針の臭みからぬけきらないで多少女工ふうの所もあり、また情事に濁らされてもいたが、しかしその顔にはなお労働の朗らかな影が残っており、その心の中には、最初の堕落にもなお女のうちに残る誠実の花を留めていた。四人のうちの一人は一番年下なので若い娘(こ)と呼ばれてい、そのうちの一人は年増(としま)と呼ばれていた。その年増は二十三になっていた。うち明けて言えば初めの三人は、最初の楽しみにあるブロンドのファンティーヌよりは、経験も多くつみ、いっそう放縦で世なれていた。
 ダーリアとゼフィーヌ、わけてもファヴォリットは、ファンティーヌと同日には論じられなかった。彼女らの物語はようやく始まったばかりなのにもう既にいくつもの插話(エピソード)があった、そして相手の男の名も、その第一章にアドルフというかと思えば、第二章にはアルフォンズとなり、第三章にはギュスターヴとなっていた。貧苦と嬌艶(きょうえん)とはいけない相談役である。一は不平を言い、他は媚(こ)びる。そして下層の美しい娘らはそれを二つながら持っていて、両方から耳に低くささやかれる。護りの弱い彼女らの魂はそれに耳を傾ける。そこから彼女らは堕落して、人に石を投げらるるに至る。そして彼女らは、もはやおのれのいたり及ばぬ清らかなるものの輝きで圧倒せらるる。ああ、もしユングフラウ(訳者注 物語の聖き少女)にして飢えていたとせんには!
 ファヴォリットはイギリスにいたことがあるというので、ゼフィーヌとダーリアとから尊敬されていた。彼女はごく早くから自分の家というのを一つ持っていた。父は乱暴で法螺(ほら)吹きの数学教師であって、結婚したことがなく、老年にもかかわらず家庭教師に出歩いていた。この数学の教師はまだ若い時に、暖炉の灰除(よ)けにかかっていた女中の着物をある日見て、そのためにその女を思うようになった。ファヴォリットはその間に生まれたのである。彼女は時々自分の父に出会ったが、父は彼女に丁寧な態度をとった。ある朝、信仰深そうな年寄った女が彼女の家にはいってきて、彼女に言った。「あんたは私がわかりませんか。」「わかりません。」「私はあんたの母親だよ。」それからその老婦人は、戸棚をあけて飲み食いし、自分のふとんを持ち込み、そこに腰を据えてしまった。その口やかましい信仰深い母親は、決してファヴォリットには口もきかず、一言も言わないで数時間じっとすわっていて、朝と昼と晩と三度の食事を驚くほどたくさん食い込み、そして門番のところへ話しにおりてゆき、そこで娘のことを悪口するのを常とした。
 ダーリアがリストリエの方へなびき、またおそらく他の種々な男の方へなびき、なまけてしまったのは、あまり美しすぎる薔薇(ばら)色の爪を持っていたからである。どうしてその美しい爪で働かれよう。貞節を守らんと欲する者はおのれの手をあわれんではならない。ゼフィーヌの方は、「そうよ、あんた、」と言う言葉つきに、ちょいと無遠慮な愛くるしいところがあったので、ファムイュの心を得たのだった。
 その若い男たちは仲間同士であり、その若い女たちも友だち同士であった。かかる恋愛はいつもかかる友誼(ゆうぎ)といっしょになるものである。
 賢いのと分別があるのとは別である。その証拠には、その貧しい乱れた生活をば斟酌(しんしゃく)してやるとすれば、ファヴォリットとゼフィーヌとダーリアとは分別のある女であった、そしてファンティーヌは賢い女であった。
 賢い? そしてトロミエスを思う? と人は反問するだろう。が、愛は知恵の一部なりとソロモンは答えるであろう。吾人はただこう言うに止めておこう、すなわち、ファンティーヌの愛は、最初の愛であり、唯一の愛であり、誠ある愛であったと。
 四人の女のうちで、唯一人の男からだけお前と呼ばれていたのは、彼女だけだった。
 ファンティーヌは、いわば民衆の奥底から花を開き出したともいえるような者の一人であった。社会の測るべからざる濃い闇(やみ)の底から出てきたので、彼女は額に無名および不明の印を押されていた。彼女はモントルイュ・スュール・メールで生まれた。どういう親からか? だれがそれを言い得よう。彼女の父も母も少しもわからなかった。彼女はファンティーヌという名だった。なぜファンティーヌというか? 他の名前がわからなかったからである。彼女の出生は、まだ執政内閣のある時分だった。彼女には姓もなかった、家族がなかったから。洗礼名もなかった。その地にはもう教会がなかったから。まだ小さい時に通りを跣足(はだし)で歩いていると、通りがかりの人がいい名だと言ってつけてくれた名をもらった。雨の降る時に雲から落ちてくる水のしたたりを額に受けるように、彼女はその名前をもらった。そして小さなファンティーヌと呼ばれた。だれも彼女のことをそれ以上に知ってる者はいなかった。この一個の人間はそのようにして人の世にやってきたのである。十歳の時に、ファンティーヌはその町を去って、近くの農家に雇われて行った。十五の時に、「金もうけに」パリーに出てきた。ファンティーヌはきれいであった、そしてできるだけ長く純潔を守っていた。美しい歯をしたかわいらしい金髪の娘だった。彼女は結婚財産として黄金(こがね)と真珠とを持っていたのである。しかし黄金というのは頭の上にあり、真珠というのは口の中にあるのだった。
 彼女は生活のために働いた。それから、やはり生活のために、というのは心もまた飢えるものだから、彼女は愛した。
 彼女はトロミエスを愛した。
 男の方には情欲があり、女の方には熱情があった。学生やうわ気女工らが蟻(あり)のように群らがってるカルティエ・ラタンの小路が、二人の夢の初まりの場所だった。ファンティーヌは、多くの情事が結ばれ解けるあのパンテオンの丘の迷路で、長い間トロミエスを避けながら、しかもいつもまた彼に出会うようにした。さがすのに似た隠れ方があるものである。要するに、牧歌の恋が起こったのである。
 ブラシュヴェルとリストリエとファムイュとは一種の党をなしていて、トロミエスはその首領であった。機才のきいてるのは彼だったのである。
 トロミエスは年とった古書生だった。金持ちで年に四千フランの収入があった。年に四千フランといえば、サント・ジュヌヴィエーヴの山(訳者注 パンテオンの丘)では素敵な評判のものだった。トロミエスは三十歳の道楽者で、身体は衰えていた。しわがより、歯が抜けていた。頭がそろそろ禿(は)げかかっていたが、彼は平気で自ら言っていた、「三十歳にして禿げ、四十歳にして腰が立たず。」消化が悪く、一方の目には涙がにじんでいた。けれども、若さがなくなるに従ってますます元気になった。歯の無い所は洒落(しゃれ)で補い、禿げた所は快活さで、健康の悪いのは皮肉で補った、そして、涙のにじんでる目は絶えず笑っていた。身体はくずれていたが、なお花を咲かしていた。彼の青春は、年齢(とし)よりも早く逃げ出しながら、うまく退却の太鼓を鳴らし、笑いくずれていて、人の目には活気しかはいらなかった。ヴォードヴィル座に作品を送って拒絶されたこともあった。時々は何か歌をも作った。その上、彼は何事にも頭から疑惑をいだいていたが、弱い者らの目にはそれが強大な力に見えた。それで、皮肉であり頭は禿げていたが、皆の上に立っていた。iron というのは英語で鉄の意味である、そこから ironie(皮肉)の語はきたのであろうか。
 ある日トロミエスは他の三人の者をわきに呼んで、神託でも授けるような身振りで彼らに言った。
「もう一年前からファンティーヌとダーリアとゼフィーヌとファヴォリットは、何かびっくりするようなことをしてくれと言っている。われわれはそれをまたりっぱに約束している。女どもはいつもそのことを言っているし、ことに僕にははなはだしい。ちょうどナポリの年寄った女たちが一月の護神(まもりがみ)に向かって叫ぶようだ。黄いろな顔の神様、奇蹟を施して下さいませ! われわれの美人たちは絶えず僕に言う、トロミエス、いつびっくりするようなことをしでかすの? 同時にまた親父(おやじ)どもからはうるさい手紙が来る。両方から繰言(くりごと)だ。僕はもう時機がやってきたように思う。いっしょに相談しよう。」
 そこでトロミエスは声をひくくして、何やら秘密にささやいた。よほどおもしろいことだったと見えて、同時に四人の口から、大きな感にたえたような冷笑がもれた。そしてブラシュヴェルは叫んだ、「そいつは、うまい考えだ!」
 煙草の煙の立ちこめたある喫煙珈琲店(エスタミネ)が前にあった。彼らはそこへはいって行った。その後の彼らの相談は物影に消えてしまった。
 人に知られぬその相談の結果は、四人の青年が四人の若い女を招いて、次の日曜に催した有頂天(うちょうてん)な遊楽となった。

     三 四人に四人

 四十五年前の学生やうわ気女工らの野遊びのさまは、今日ではもう想像するも困難である。パリーは今ではもはやその頃のような郊外を持たない。パリーの周囲の生活とでもいうべきものの姿は、半世紀以来まったく変わってしまった。昔がた馬車の走っていた所には今は鉄道があり、小舟の浮かんでいた所には汽船がある。昔はサン・クルーのことを今日フェカンの話をするように話したものである。現今一八六二年のパリーは、フランス全部を郊外とする都市となっている。(訳者注 本書は一八六二年に出版せられたものなることを記憶せられたい)
 さて四組みの男女の者は、当時でき得る限りの郊外ばか騒ぎを本気にやってのけた。ちょうど夏の休みになっていた時で、暑いうち晴れた日であった。前日、文字を知ってるただ一人の者であるファヴォリットは、四人の名前でトロミエスに次のように書いてよこした。「早くから出かけるのが楽しみですわ。」それで彼らは朝の五時から起き上がった。それから馬車でサン・クルーに行った。水の涸(か)れている滝を見て叫んだ、「水があったらさぞきれいだろう!」まだ毒殺者カスタンがやって来る前のことで、テート・ノアールの茶屋で朝食をすまし、大池の側の五点形の輪遊び場で一勝負し、ディオゼーヌの塔に上り、セーヴル橋で菓子を賭(か)けて球(たま)ころがしをし、プュトウで花を摘み、ヌイイーで芦笛(あしぶえ)を買い、いたる所でリンゴ菓子を食い、そしてすてきに愉快だった。
 若い女たちは、籠(かご)から出た小鳥のように騒ぎ回りさえずり回った。まったく夢中になっていた。時々男たちを軽くたたいた。人生の朝(あした)の酔いである! 愛すべき青春の年である! 蜻蛉(とんぼ)の翼は震える。おお、いかなる人にも覚えがあるはずである。藪(やぶ)の中を歩きながら、後(あと)について来る愛(いと)しい人の顔にかからないようにと木の枝を押し開いたことを。愛する女とともに、雨にぬれた坂道を笑いながらすべりおりたことを。その時女は君の手につかまって叫んだであろう、「ああ、ま新しの半靴なのに、こんなになってしまった!」
 ところですぐに言ってしまえば、その愉快な邪魔物の夕立ちは、この上きげんな一行には降らなかった。ただしファヴォリットは出がけに、もっともらしい年長者らしい調子で、「蛞蝓(なめくじ)が道にはっている、雨の降るしるしだわ、」と言ったのだったが。
 四人とも非常にきれいであった。当時有名なクラシックの老詩人であり、一人のエレオノールを持っていた好人物である、ラブーイスの騎士という男が、その日サン・クルーのマロニエの木の下を逍遙(しょうよう)していると、朝の十時ごろ彼らが通るのを見かけた、そして三女神カリテスのことを思い出して叫んだ、「一人多すぎる。」ブラシュヴェルの情婦で二十三になる年増(としま)のファヴォリットは、緑の大きな枝下にかけ入り、溝(みぞ)を飛び越え、むやみに茂みをまたぎ、若い野の女神のようなはしゃぎ方で一行の浮かれ心を引き立てた。ゼフィーヌとダーリアとは、互いに相俟(あいま)ってその美しさを輝かし完(まっと)うする人がらだったので、友情からというよりもむしろ嬌艶(きょうえん)の本能から決して離れないで、互いに寄り合ってイギリスふうの態度を取っていた。イギリス年刊文学集が出だした頃のことで、後にバイロンふうが男を風靡(ふうび)したように憂鬱(ゆううつ)が女の流行となり初め、女性の髪は悲しげに装うことが初まっていた。ゼフィーヌとダーリアとは捲(ま)き髪であった。リストリエとファムイュとは教師らのことを論じ合って、デルヴァンクール氏とブロンドー氏との違いを、ファンティーヌに説明してきかしていた。
 ブラシュヴェルは、ファヴォリットのテルノー製の片方縁飾りのショールを日曜日ごとに腕にかけて持ち歩くために、特に天より創(つく)られたかの観があった。
 トロミエスは後(あと)に続いて、その一群を支配していた。彼は大変快活だった。しかしだれも何かしら彼のうちに皆を支配する力のあるのを感じていた。彼の陽気さのうちには執政権が含まれていた。その重な身の飾りは、南京木綿(なんきんもめん)で象脚形に仕立てたズボンと、それについてる銅色の打ちひものズボン止めであった。手には二百フランもする丈夫な籐(とう)の杖を持っていた。そしてどんなことでもやってみるつもりだったので、口には葉巻き煙草というへんてこなものをくわえていた。彼にとっては何もありがたいというものはなかったので、彼はそれを平気でくゆらしていた。
「トロミエスは実にえらい。」と他の者らは尊敬の言葉を発した。「あのズボンはどうだ! あの元気はどうだ!」
 ファンティーヌに至っては見るも喜ばしい女であった。そのみごとな歯並びは明らかに神から一つの職分を、すなわち笑いを、授かっていた。長い白ひものついた麦藁(むぎわら)編みの小さな帽子を、頭に被(かぶ)るよりもむしろ好んで手に持っていた。そのふさふさした金髪は、ややもすれば波打って容易に解(ほど)けやすいので絶えず押さえ止めなければならなかった、そして柳の木の下を逃げてゆくガラテア姫にもふさわしく思われるのだった。その薔薇(ばら)色の脣(くちびる)は人を惑わす魅力をもってむだ口をきいていた。その口の両端は、エリゴーネの古代面におけるがように肉感的にもち上がっていて、男の元気を励ますように見えた。しかし影深い長い睫毛(まつげ)は、顔の下部のそのはなやかさの上に、それを静めるためででもあるかのようにしとやかに下がっていた。その全体の服装(みなり)は、歌うがごとく燃ゆるがごとく、何ともいえない美しさだった。葵(あおい)色の薄ものの長衣をつけ、海老茶(えびちゃ)色の小さな役者靴をはいていた。靴のリボンは、真っ白な繊(こま)かな透き靴足袋の上にX形に綾取(あやど)られていた。それからモスリンの一種の胴着をつけていた。それはマルセイユで初めて作られたものでカヌズーという名前のものであるが、その名は、キャンズ・ウー(八月十五日)という語をカヌビエール地方でなまってできたもので、上天気、暑気、正午、などの意味を有するのである。他の三人は、既に述べたとおり、それほど内気ではなく、すっかり首筋を露(あら)わにしていた。それは夏には、花を一面につけた帽子を被ると、非常に優美で男の心を苛(い)ら立たせるのである。しかしそれらの大胆な装いの傍にあって、金髪のファンティーヌのカヌズーは、同時に肌を隠すようでも現わすようでもある透明な不謹慎なかつ控え目な様を呈して、人の心をそそる珍しい上品さをそなえていた。そしてあの海のように青い目をしたセット子爵夫人が主宰していた有名な恋愛会は、しとやかさを目ざしたこのカヌズーに妖艶(ようえん)の賞を与えたことであろう。最も素朴なものは時として最も賢いものである。往々そういうものがある。
 顔は燃ゆるがようで、顔立ちは優美で、ごく青い目、大きいまぶた、甲高の小さい足、かっこうのよい手首と足首、所々に血管の青い筋を見せている真っ白い肌、あどけない瑞々(みずみず)しい頬、エジナ島で見い出されたジュノーの像のように丈夫な首、しっかりしてまたしなやかな首筋、クーストーが彫刻したかと思われるようで真ん中にモスリンを透かして肉感的なくぼみが見えている両の肩、夢想で和らげられてる快活さ、彫刻のようで美妙な姿、そういうのが即ちファンティーヌであった。そしてその衣装の下には一つの立像があり、その立像の中には一つの魂があることが見えていた。
 ファンティーヌは自ら知らずしてきれいであった。世にまれな夢想家ら、何物をもひそかに完成に比較する美の不思議な司祭らは、この小さな女工のうちに、パリー婦人の透明な美を通して、古代の聖(きよ)い階調を見い出したであろう。この下層の娘はその美の血統を持っていた。彼女は風姿と調子との二つの種類において美しかった。風姿は理想の形体であり、調子はその運動である。
 われわれはファンティーヌをもって快楽そのもののように言った。が、ファンティーヌはまた貞淑そのものでもあった。
 彼女をよく注意して見る時には、その年齢と季節と愛情との酔いを通して彼女から浮かび上がって来るところのものは、内気と謙譲とのうちに消し難い表情であった。彼女はいくらかびっくりしたようなふうをしていた。その潔(きよ)いびっくりした様こそは、サイキーをヴィーナスと異ならしむる色合いである。彼女の真っ白な長い細い指は、金の留め金で聖火の灰をかきまわすという貞節を守る巫女(みこ)のそれのようだった。後(あと)で明らかにわかるとおり、彼女はトロミエスに対しては何事も拒まなかったけれども、その穏やかな平時の顔はまったく処女のようだった。まじめなそしてほとんどいかめしい一種の威厳が時々突如として現われた。そして快活さが急に消え失せて何ら推移の影を見せないで直ちに沈思の趣に変わってゆく様子は、まったく不思議な驚くべきことだった。その突然のそして時としては厳(いか)めしくきわ立って見えるまじめさは、女神の軽蔑(さげすみ)にも似ていた。額と鼻と□(あご)とは、割合の平衡とはまったく異なる線の平衡を示していた。そしてそれによって顔立ちの調和が取れていた。また鼻の下と上脣(うわくちびる)との間のごく目につきやすい間隔のうちには、見えるか見えないかの魅力あるしわがあった。それは貞節の神秘な兆(しるし)で、バルバロッサをしてイコニオムの発掘の中に見い出されたディアナに恋せしめたところのものである。
 恋は過ちである。さもあらばこそ、ファンティーヌは過ちの上に浮かんでいる潔白そのものであった。

     四 トロミエス上機嫌(じょうきげん)にてスペインの歌を歌う

 その日は始めから終わりまでまるで曙(あけぼの)のようだった。自然もすべて休日で笑い楽しんでるように見えた。サン・クルーの花壇はかおりを散らし、セーヌの河風はそよそよと木の葉を揺るがし、木々の枝は風のままに動き、蜜蜂(みつばち)はジャスミンの花に集まり、蝶の群れはクローバーやのこぎり草や野生の燕麦(えんばく)の間を飛び回り、ロア・ド・フランスの壮大な園には鳥の浮浪の群れがいた。
 四組みの楽しい男女は、太陽や野や花や木にうち交じって光り輝いていた。
 そしてこの楽園の一群は、饒舌(しゃべ)り、歌い、かけ、踊り、蝶を追い、昼顔を摘み、高い草の中にその薔薇(ばら)色の透き編みの靴足袋をぬらし、生き生きとして、狂気のごとく、何らの意地悪げもなく、あちこちで皆互いに接吻(せっぷん)し合っていた。
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