レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 漸(ようや)くにして木柵を越えて通りに出たが、彼はもはやただ一人で、宿るべき場所もなく、身を蔽(おお)う屋根も身を避ける所もなく、藁の寝床とあわれな犬小屋からさえも追い出されたのであった。彼はある石の上に、腰をおろすというより倒れてしまった。そこを通る人があったら、彼の叫ぶのを聞いたであろう、「俺(おれ)は犬にも及ばないのか!」
 やがて彼はまた立ち上がって歩き出した。町から出て行った。野の中に何か樹木か堆藁(つみわら)かを見出してそこに身を避けようと思ったのである。
 そして彼はうなだれながらしばらく歩いた。人の住居から遠くへきたと思った頃、目をあげてあたりを物色してみた。野の中にきていた。前には短く刈られた切株に蔽われた低い丘が一つあって、刈り入れをした後のその有り様は刈り込みをした頭のようだった。
 地平は真暗(まっくら)になっていた。それはただ夜のやみばかりのためではなかった。低くたれた雲のためでもあって、雲は丘の上に立ちこめているらしく、しだいに昇って、空をも蔽わんとしていた。けれども、月がまさに出んとする頃、そしてなお中天に暮れ残った明るみが漂っている時、雲は高く空中に一種のほの白い円屋根を形造って、そこから明るみが地上に落ちていた。
 そこで地上は空よりも明るく、妙に気味悪い光景で、貧しげな荒涼たる輪郭の丘は暗い地平の上に青白くぼんやりと浮き出していた。すべての様が醜く卑しく悲しげでまた狭苦しかった。野の中にも丘の上にも一物もなく、ただ数歩前に曲がりくねった無様(ぶざま)な樹木が一本立ってるきりだった。
 この旅の男はもとより、事物の神秘な光景を痛感するほどの知力や精神の微妙な習慣を少しも持ってはいなかった。けれども、今見るその空、その丘、その平野、その樹木、それらのうちには何か深いわびしさがこもっていたので、彼はちょっと立ち止まって思いに沈んだが、突然踵(くびす)をめぐらした。自然さえも、敵意を有するらしく思える瞬間があるものである。
 彼はまた戻って来た。ディーニュの市門はもう閉ざされていた。ディーニュ市は、宗教戦争のおり長く包囲をささえた所であって、後にこわされてしまったが、一八一五年にはなおその周囲に、方形の塔がついてる古い城壁があったのである。彼はその城壁の破れ目を通ってまた町の中にはいった。
 もうたぶん晩の八時くらいになっていたろう。彼は町の様子を知らないので、再びただむやみに歩き出した。
 そのようにして彼は県庁の所にき、それから神学校の所まできた。大会堂の広場を通る時には、彼は会堂に対して拳(こぶし)をさしつけた。
 その広場の角に印刷屋があった。エルバ島から持ちきたされ、ナポレオン自身の口授になった、皇帝の宣言及び軍隊に対する親衛の宣言が初めて印刷せられたのは、そこにおいてであった。
 全く疲れはててもはや何らの望みもなく、彼はただ、その印刷所の門口にあった石の腰掛けの上に身を横たえた。
 その時、一人の年老いた女が会堂から出てきた。彼女はやみのうちに横たわってるその男を認めた。「あなたはそこで何をしていますか、」と彼女は言った。
 彼は荒々しくそして怒って答えた。「親切なお上(かみ)さんだな、私は御覧のとおり寝ているんですよ。」
 実際親切なお上さんという名前に至当な彼女は、R某侯爵夫人であった。
「この腰掛けの上で?」と彼女は言った。
「私は十九年の間木の寝床に寝起きしたのです。」と男は言った。「今日は石の寝床の上に寝るんです。」
「あなたは軍人だったのですか。」
「そうですよ、軍人です。」
「なぜ宿屋へお出でなさらないのです。」
「金がありませんから。」
「困りましたね、」とR夫人は言った。「私は今四スーきり持ち合わせがありませんが。」
「いいからそれを下さい。」
 男は四スーを受け取った。R夫人は続けて言った。「そればかりでは宿屋には泊まれませんでしょう。ですがあなたは宿屋に尋ねてみましたか。そんなふうに一晩を過ごすことはできるものではありません。きっと寒くて、また腹もおすきでしょう。慈善に一晩泊めてくれる人もありましょうのに。」
「どの家(うち)も尋ねてみたんです。」
「それで?」
「どこからも追い出されたんです。」
 その「親切なお上(かみ)さん」は男の腕をとらえ、広場の向こう側にある司教邸と並んだ小さな低い家を指(さ)し示した。
「あなたは、」と彼女は言った、「どの家も尋ねてみられたのですか。」
「ええ。」
「あの家を尋ねましたか。」
「いいえ。」
「尋ねてごらんなさい。」

     二 知恵に対して用心の勧告

 その晩ディーニュの司教は町を散歩した後、かなり遅くまで自分の室にとじこもっていた。彼は義務に関する大著述にとりかかっていた。この著述は不幸にも未完成のままになっている。司教は教父や博士らがその重大な問題について述べた所のものを注意深く詮索(せんさく)していた。彼の著述は二部に分かたれていて、第一はすべての人の義務、第二はおのれの属する階級に応じての各人の義務。すべての人の義務は大なる義務であって、それに四種ある。使徒マタイはそれをあげている、神に対する義務(マタイ伝第六章)自己に対する義務(同第五章二十九、三十節)隣人に対する義務(同第七章十二節)万物に対する義務(同第六章二十、二十五節)。他のいろいろな義務については、司教は種々のものに示され述べられてるのを見いだした、君主および臣下の義務はローマ書に、役人や妻や母や年若き者のそれはペテロ書に、夫や父や子供や召し使いのそれはエペソ書に、信者のそれはヘブライ書に、処女のそれはコリント書に。司教はすべてそれらの教えからよく調和したる一の全体を作らんと努力し、そしてそれを人々に示そうと思っていた。
 彼は八時になるまでまだ仕事にかかって、膝の上に大きな書物をひろげ、小さな四角の紙片に骨をおって物を書いていた。その時マグロアールはいつもの通り、寝台のそばの戸棚から銀の食器を取りにはいってきた。やがて司教は、食卓がととのい、たぶん妹が自分を待っていると思って、書物を閉じ、机から立ち上がり、食堂にはいってきた。
 食堂は暖炉のついてる長方形の室で、戸口は街路に開いており(前に言ったとおり)窓は庭の方に向いていた。
 マグロアールは果して食卓を整えてしまっていた。
 用をしながら、彼女はバティスティーヌ嬢と話をしていた。
 ランプが一つテーブルの上に置かれていた。テーブルは暖炉の近くにあった。暖炉にはかなり勢いよく火が燃えていた。
 この六十歳を越した二人の女はたやすく描き出すことができる。マグロアールは背の低い肥った活発な女である。バティスティーヌ嬢は穏和なやせた細長い女で、兄よりも少し背が高く、茶褐色(ちゃかっしょく)の絹の長衣を着ている。それは一八〇六年にはやった色で、その頃パリーで買ってから後ずっと着続けたものである。一ページを費やしても言いきれぬほどのことを一語で言うことのできる卑俗な言い方をかりて言えば、マグロアールは田舎女の風をそなえており、バティスティーヌ嬢は貴婦人の風をそなえていた。マグロアールは筒襞(つつひだ)のある白い帽子をかぶり、頭には家の中でただ一つの女持ちの飾りである金の十字架をつけ、大きい短かい袖のついた黒い毛織りの長衣からまっ白な襟巻(えりまき)をのぞかせ、赤と緑の格子縞(こうしじま)の木綿の前掛けを青いひもで帯の所にゆわえ、同じ布の胸当てを上の両端で二本の留め針でとめ、足にはマルセイユの女のように大きな靴と黄いろい靴下をはいていた。バティスティーヌ嬢の長衣は一八〇六年式の型で、胴が短く、裾(すそ)が狭く、肩襞(かたひだ)のある袖で、ひもとボタンとがついていた。灰色の頭髪は小児の鬘といわれる縮れた鬘(かずら)に隠されていた。マグロアールは怜悧(れいり)活発で善良な風をしていた。不ぞろいにもち上がった口の両端と下脣(くちびる)より大きい上脣とは、いくらか気むずかしい勝気な風を示していた。閣下が黙っている間は、彼女は尊敬と気ままとの交じったきっぱりした調子で話しかけるが、閣下が一度口を開くと、前に言った通り、彼女はバティスティーヌ嬢と同様に穏かにその言に服するのであった。バティスティーヌ嬢の方は自分から口をきくことさえもなかった。彼女はただ彼の言うことを聞き、彼の気分をそこなうまいとするのみだった。若い時でさえ彼女はきれいではなかった。ばかに目につく大きな青い目ときわ立った長い鼻とを持っていた。しかしその全体の顔つきと全体の人柄とは、初めに言った通り、言うに言われぬ温良さを示していた。彼女はいつも温厚なるべく定められていた。
 しかし信仰と慈悲と希望との三つの徳は、静かに人の魂を暖めるものであって、彼女においてもまた次第にその温良さを神聖の域にまで高めたのであった。自然は彼女を単に一個の牝羊(めひつじ)に造ったが、宗教は彼女を天使たらしめた。あわれなる聖(きよ)き女よ! 消え失せし楽しき思い出よ!
 バティスティーヌ嬢はその晩司教の家に起こったことを爾来(じらい)しばしば繰り返し話したので、その詳細を思い出し得る人は今もなおたくさんある。
 さて司教が食堂にはいってきた時、マグロアールは元気に話をしていた。いつも老嬢によく話すことで司教にもなじみの事がらだった。すなわち入り口の戸の締まりに関してであった。
 夕食のために何か買い物に行った時、マグロアールは、方々で話されていることを聞いてきたらしい。悪い顔つきの風来漢の噂が種々なされていた。怪しい浮浪人がやってきた。町のどこかにいるに違いない。今晩遅く家に帰ろうとでもする人があれば、その男に出会って悪いことが起こるかも知れない。その上、県知事と市長とが反目して何か事件を起こしては互いにおとしいれようとしている際なので、警察の働きもすこぶるまずい。それで賢い者はみずから警察の働きをなし、みずから警戒すべきである。そして、堅く締まりをし閂(かんぬき)をさし横木を入れておかなければならない、よく戸を閉ざしておかなければならない。
 マグロアールはその終わりの文句に力を入れた。しかし司教は、かなり寒さを感じていた自分の室からやってき、暖炉の前にすわって暖まり、それから何か他のことを考えていて、マグロアールが口にした言葉を別に心にかけなかった。マグロアールはそれを再び繰り返した。その時バティスティーヌ嬢は、兄の気にさわらないでしかもマグロアールを満足させようと思って、おずおずと言ってみた。
「お兄さん、マグロアールの言ってることを聞かれましたか。」
「何かぼんやり聞いたようだが。」と司教は答えた。それから半ば椅子を回して、両手を膝の上に置き、わけなく楽しげな親しい顔を老婢(ろうひ)の方へあげた。火が下からその顔を照らしていた。「ええ、何だい? 何かあるのかね? 何か恐ろしい危険でもあるというのかね。」
 するとマグロアールは、またその話をすっかりやり直して、自分で気もつかなかったがいくらか誇張して話した。一人の放浪者が、一人の非人が、ある危険な乞食(こじき)が、今ちょうど町にきているらしい。その男はジャカン・ラバールの家に行って泊めてもらおうとしたが、宿屋では受け付けなかった。その男がガッサンディの大通りから町にはいってきて、薄暗がりの通りをうろついている所を、見かけた人がある。背嚢(はいのう)と繩(なわ)とを持ってる恐ろしい顔つきの男である。
「本当かね。」と司教は言った。
 司教がそのように問いかけたことにマグロアールは力を得た。彼女には司教がいくらか心配しているのだと思えた。彼女は勝誇ったように言い進んだ。
「本当ですとも。そのとおりでございますよ。今晩、町に何か不幸なことが起こります。皆そう申しております。その上に警察がいかにも手ぬかりなのです(彼女はうまくそのことをくり返したのである)。山国なのに、町には晩に燈火(あかり)もないのですから! 出かけるとします。暗やみばかりです。それで私は申すのです、そしてまた、お老嬢(じょう)さままで私のように申されて……。」
「私?」と妹はそれをさえぎった。「私は何も言いはしないよ。お兄様のなされることは皆いいのだからね。」
 マグロアールはその異議も聞かないがように言葉を続けた。
「私どもはこの家がごく無用心だと申すのです。もしお許しになりますならば、錠前屋のポーラン・ミューズボアの所へ行って、前についていた閂(かんぬき)をまた戸につけに来るように申しましょう。閂はあの家にありますので、すぐにできます。せめて今晩だけでも閂をつけなければいけませんですよ。だれでも通りがかりの人が把手(とって)で外からあけることのできるような戸は、何より一番恐ろしいものではございませんか。それに旦那(だんな)様はいつでもおはいりなさいと言われます、その上夜中にでも、おはいりという許しがなくてもはいれるのですもの……。」
 その時、だれかがかなり強く戸をたたいた。
「おはいりなさい。」と司教は言った。

     三 雄々しき服従

 戸は開いた。
 それは急に大きく開いて、あたかもだれかが力を入れて決然と押し開いたようだった。
 一人の男がはいってきた。
 この男をわれわれは既に知っている。泊まり場所をさがしながら先刻うろついていた旅人である。
 彼ははいってきて一歩進み、そしてうしろに戸を開いたまま立ち止まった。肩に背嚢(はいのう)を負い、手に杖を持ち、目には荒々しい大胆な疲れたそして激した色があった。暖炉の火が彼を照らしていた。嫌悪(けんお)の感を起こせるような姿で、まるできみ悪い化け物のようだった。
 マグロアールは声を立てる力さえもなかった。彼女は身震いをして茫然(ぼうぜん)と立ちつくした。
 バティスティーヌ嬢はふり向いてはいってきた男を見た。そして驚いて半ば身を起こしたが、それから静かに暖炉の方へ頭をめぐらして、兄をながめた。そして彼女の顔は深い静けさと朗らかさとに帰った。
 司教は穏かな目付きでその男を見つめていた。
 彼がその新来の男にたぶん何しにきたかを尋ねるために口を開いた時、男は一度に両手を杖の上に置いて、老人と二人の婦人とをかわるがわる見回して、そして司教が口をきくのを待たないで高い声で言った。
「お聞き下さい。私はジャン・ヴァルジャンという者です。私は懲役人です。私は徒刑場で十九年間過ごしました。私は四日前に放免されて、ポンタルリエへ行くため旅に上ったのです。ツーロンから四日間歩いたのです。今日は十二里歩きました。夕方この地について宿屋に行ったのですが、追い出されました。市役所に黄いろい通行券を見せたためです。見せなければならなかったのです。も一軒の宿屋にも行ってみましたが、出て行けと言うんです。どちらでもそうです。だれも私を入れてくれません。監獄に行けば、門番が開いてくれません。犬小屋にもはいりました。が犬も人間のように、私に噛(か)みついて追い出してしまったのです。私がどういう者であるか犬も知っていたのでしょう。私は野原に出て行って、星の下に野宿(のじゅく)をしようと思いました。ところが星も出ていません。雨が降りそうでした。雨の降るのを止めてくれる神様もないのかと私は思いました。そして私は、戸の陰でも見つけようと思ってまた町にはいってきました。そして向こうの広場の所で石の上に寝ようとしていました。するとある親切なお上(かみ)さんがあなたの家(うち)を指(さ)して、あそこを尋ねてごらんなさいと言ってくれました。それで尋ねてきたのです。ここはいったい何という所ですか。あなたは宿屋さんですか。私は金は持っています。自分の積立金です。徒刑場で十九年間働いて得た百九フラン十五スーです。金はきっと払います。それが何でしょう。金は持っているんですから。私はたいへん疲れています、十二里歩いたのです、たいへん腹がへっています。泊めていただけましょうか。」
「マグロアールや、」と司教は言った、「も一人分だけ食器の用意をなさい。」
 男は三歩進んで、食卓の上にあったランプに近寄った。そしてよく腑(ふ)に落ちないようなふうで言った。「いや、そんなことではないんです。わかったのですか。私は懲役人ですよ。囚人ですよ。監獄から出てきた者ですよ。」彼はポケットから大きな黄いろい紙片をとり出してひろげた。「これが私の通行券です。御覧のとおり黄色です。このために私はどこへ行っても追い出されるんです。読みませんか。私も読むことはできる。徒刑場で習ったのです。志望者のために学校ができてるんです。いいですか、通行券にこう書いてあります。『ジャン・ヴァルジャン、放免囚徒、生地……――これはどうでもいいことだ、――徒刑場に十九カ年間いたる者なり。家宅破壊窃盗のため五カ年。四回脱獄を企てたるため十四カ年。至って危険なる人物なり。』このとおりです! だれでも私を追っ払うんです。それをあなたは泊めようというんですか。ここは宿屋ですか。食物と寝所とを私にくれると言うのですか。あなたの所に廐(うまや)でもあるのですか。」
「マグロアールや、」と司教は言った、「寝所の寝台に白い敷布をしきなさい。」
 二人の婦人がいかなるふうに司教に服従しているかは、前に説明したところである。
 マグロアールはその命令を行なうために室を出て行った。
 司教は男の方へ向いた。
「さああなた、おすわりなさい、そして火に当たりなさい。すぐに食事にします。そして食事をしている間に寝床の用意もできるでしょう。」
 そこで男はたちまちはっきり了解したのである。その時まで沈うつで堅苦しかったその顔の表情には、疑惑と喜びと茫然(ぼうぜん)自失した様とが浮かんで、異様な趣になった。
 彼は何か気違いのようにつぶやきはじめた。
「本当ですか。なに、私を泊めて下さる? 私を追い出さない! 囚人を! 私のことをあなたとお呼びなさる。お前とおっしゃらない! 畜生行っちまえといつも私は言われた。あなたも私を追い出されることと思っていました。それで私はすぐに素性(すじょう)を言ったのです。おお、ここを私に教えてくれたあのお上さんは何といい人だろう! 食事をする! 寝床! ふとんと敷き布とのある寝床! 世間の人と同じように! もう十九年の間私は寝床に寝たことがないんだ! あなたは本当に私を追い出さないんですね! あなたはりっぱな方だ! もとより私は金は持っている。お払いします。ごめん下さい、御主人、お名前は何とおっしゃるのですか。お望みだけ金は払います。あなたはいいお方だ。あなたは宿屋の御主人でしょう、そうではないんですか。」
「私は、」と司教は言った、「ここに住んでいる一人の牧師です。」
「牧師!」と男は言った。「おおりっぱな牧師さん! ではあなたは私に金を求められないのですね。司祭、そうではないんですか、あの大きな会堂の司祭では? おや、そうだ、私はばかだった! 私はあなたの丸い帽子に気がつかなかったのです!」
 しゃべりながら彼は片すみに背嚢(はいのう)と杖とを置いて、それから通行券をポケットにしまい、そして腰をおろした。バティスティーヌ嬢は穏かな目つきで彼をながめていた。彼は続けて言った。
「司祭さん、あなたはほんとに情け深い。あなたは軽蔑ということをなさらない。いい牧師さんというものは実にありがたいものだ。ではあなたは私に金を払わせはしませんね。」
「いいです。」と司教は言った。「金はとっておきなさい。いくら持っています。百九フランとか言いましたね。」
「それと十五スー。」と男はつけ加えた。
「百九フラン十五スー。そしてそれを得るのにどれだけかかりました!」
「十九年。」
「十九年!」
 司教は深くため息をもらした。
 男は言い進んだ。「私はまだその金をすっかり持っています。四日の間に私は、グラスで車の荷おろしの手伝いをしてもらった二十五スーきり使わなかったのです。あなたが牧師さんだから言いますが、徒刑場にも一人の教誨師(きょうかいし)がいました。それからまたある日、私は司教を見ました。皆が閣下と言っていました。マルセイユのマジョールの司教でした。多くの司祭の上に立つ司祭なんです。どうも私にはうまく言えません。その方面のことはまるで縁が遠いんです。――あなた方にはわかりきったことでしょうが。――その司教が徒刑場のまん中で祭壇の上で弥撒(ミサ)を唱えられました。頭の上に金でできた先のとがったものをかぶっていられました。真昼間の光にそれが光っていました。私どもは並んでいました、三方に。私どもの前には、大砲と火のついた火繩とが置かれていました。よく見えませんでした。何か話をされましたが、あまり向こうの方だったので私どもの所までは聞こえませんでした。司教というものはそうしたものです。」
 彼が話している間に、司教は立っていってあけ放しになってる戸をしめた。
 マグロアールは戻ってきた。彼女は一人分の食器を持ってきてそれを食卓の上に置いた。
「マグロアールや、」と司教は言った、「その食器をできるだけ暖炉の近くに置きなさい。」そして彼は客人の方へふり向いた。「アルプスの夜風は大変きびしいです。あなたはきっとお寒いでしょう。」
 司教がそのあなたという言葉を、優しい重みのある、いかにも上品な声で言うたびごとに、男の顔は輝いた。囚人に対して言わるるあなたという言葉は、メデューズ号の難破者(訳者注 一八一六年に起こった最も悲惨な難破船)に対する一ぱいの水のごときものである。はずかしめらるる者は他人の尊敬に飢えている。
「このランプは、」と司教は言った、「あまり明るくないな。」
 マグロアールはその意味を了解した。そして閣下の寝間の暖炉の上から二つの銀の燭台(しょくだい)を取ってきて、それにすっかり火をともして食卓の上に置いた。
「司祭さん、」と男は言った、「あなたは善(よ)い方だ。あなたは私を軽蔑なさらない。私を家に入れて下さる。私のために蝋燭(ろうそく)をともして下さる。私がどこからきたかを隠さず、私が惨(みじ)めな者であることを隠さなかったのに。」
 司教は彼のそばに腰を掛けて、静かに彼の手に触(さわ)った。「あなたはあなたがだれであるかを私に言わなくてもよかったのです。ここは私の家ではなくて、イエス・キリストのお家です。この家の戸ははいって来る人に向かって、その名前を尋ねはしません、ただ心に悲しみの有る無しを尋ねます。あなたが苦しんでいられ、飢えと渇(かわ)きとを感じていられるならば、あなたは歓待せられます。そして私に礼を言ってはいけません、私があなたを自分の家に迎え入れたのだと言ってはいけません。だれも、安息所を求める人を除いてはだれも、ここは自分の家ではありません。私は通りすがりのあなたに向かってもそれを言います。ここは私の家というよりもむしろあなたの家です。すべてここに在(あ)るものはあなたのものです。何で私があなたの名前を知る必要がありましょう。それにまた、あなたが言われない前から私はあなたの一つの名前を知っています。」
 男は驚いた目を見開いた。
「本当ですか。あなたは私が何という名前か知っていられたのですか。」
「そうです。」と司教は答えた。「あなたの名前は私の兄弟というのです。」
「司祭さん、」と男は叫んだ、「ここにはいって来る時、私はたいへん腹がすいていた。けれどあなたがあまり親切なので、今ではもうどうなのかわからなくなりました。そんなことは通りすぎてしまったんです。」
 司教は彼を見まもった、そして言った。
「あなたは大変苦しんだのですね。」
「おお、赤い着物や、足の鉄丸や、板の寝床や、暑さ、寒さ、労働、囚人の群れ、打擲(ちょうちゃく)! 何でもないことに二重の鎖で縛られるのです。ちょっと一言(ひとこと)間違えばすぐに監禁です。寝ついてる病人にまで鎖がつけられてるんです。犬、そう、犬の方がまだしあわせです! それが十九年間! 私は今四十六歳です。そしてこんどは黄いろい通行券! そういうわけです。」
「なるほど、」と司教は言った、「あなたは悲しみの場所から出てこられた。がお聞きなさい。百人の正しい人々の白衣に対してよりも、悔い改めた一人の罪人(つみびと)の涙にぬれた顔に対して、天にはより多くの喜びがあるでしょう。もしあなたがその痛ましい場所から、人間に対する憎悪と憤怒との思想を持って出てこられるならば、あなたはあわれむべき人で、もしそこから好意と穏和と平和との思想を持って出てこられるならば、あなたはわれわれのだれよりもまさった人です。」
 その間にマグロアールは夕食を整えた。水と油とパンと塩とでできたスープ、少しの豚の脂肉(あぶらにく)、一片の羊肉、無花果(いちじく)、新しいチーズ、それに裸麦の大きなパン。彼女はまた自分で、司教の普通の食物にそえてモーヴの古いぶどう酒の一びんを出した。
 司教の顔には急に、人を歓待する性質の人に特有な快活な表情が浮かんだ。「どうか食卓に!」と彼は元気よく言った。いつも他人と食事を共にする時のとおりに、彼は男を自分の右にすわらせた。バティスティーヌ嬢はまったく穏かにそして自然に、彼の左の席についた。
 司教はいつものとおりに、祝祷(しゅくとう)をささげてからみずからスープをついだ。男はむさぼるように食い初めた。
 突然司教は言った。「何か食卓に足りないようだね。」
 マグロアールは実際そこに必要だった三人分の食器をそろえたのみだった。しかるに、司教がだれかと食事を共にする場合には、無邪気な見栄(みえ)ではあるが、卓布の上に六組の銀の食器をすっかり置いておくのが家の習慣となっていた。その優しい贅沢(ぜいたく)の見栄は、貧しさをも一つの品位たらしめているこの穏和な厳格の家の中にあって、一種の子供らしい愛嬌であった。
 マグロアールは司教の注意の意味を了解して、何とも言わずに室を出ていった。そして間もなく、司教の言った余分の三組みの食器は、食卓の三人のおのおのの前にきちんと並べられて、卓布の上に輝いた。

     四 ポンタルリエのチーズ製造所の話

 さて食卓でいかなることが起こったかをだいたい伝えんがためには、バティスティーヌ嬢がボアシュヴロン夫人に送った手紙の一節をここに書き写すに如(し)くはないと思われる。その手紙の中には、囚人と司教との会話がありのままに細かく述べられている。
 …………
 ……その男はだれにも注意を向けませんでした。飢えた者のようにむさぼり食っていました。けれども、スープのあとで彼は言いました。
「ありがたい神様の司祭さん、このような食物は私にとってはなお結構すぎます。ですが申し上げたいのは、私をいっしょに食べさしてくれなかったあの馭者たちは、あなたよりもっとぜいたくをしています。」
 ここだけのお話ですが、その言葉はいくらか私に快からぬ感じを与えました。兄は答えました。
「彼らは私よりも多く疲れています。」
「いえ、」と男は言いました、「よけいに金を持っているのです。あなたは貧乏だ。よく私にもわかっている。あなたはたぶん司祭でもないんでしょう。それとも司祭ではあるんですか。ああまったくのところ、神様が公平だったら、あなたは確かに司祭にはなってるはずですが。」
「神様はこの上もなく公平ですよ。」と私の兄は答えました。
 しばらくして兄はまた申しました。
「ジャン・ヴァルジャンさん、あなたがこれから行かれるのはポンタルリエですね。」
「そして旅程もちゃんと定められているのです。」
 私はその男が答えたのはたしかにそのようにであったと覚えています。それから彼は続けて言いました。
「明日私は夜明けに出立つしなければなりません。旅をするのは辛(つら)いものです。夜は寒いし、昼は暑いんです。」
「あなたの行かれようとする土地はいい所です。」と私の兄は言いました。「革命の時に私の家は零落して、私は最初フランシュ・コンテにのがれて、そこでしばらく働いて生活していました。私は丈夫な意志を持っていたのです。仕事はたくさんあって、ただ勝手に何かを選ぶだけでした。製紙場、製革所、蒸溜(じょうりゅう)所、製油場、時計製作所、製鋼所[#「製鋼所」は底本では「製綱所」]、製銅所、その他少なくも二十余りの鉄工所があって、そのうち、ロオ、シャーティヨン、オーダンクール、ブールの四カ所にある四つは重立ったものです……。」
 私はたぶん聞き違いはないと存じます、そして兄があげた地名は右のとおりだったと思います。兄はそれから言葉を切って、私の方へ話を向けました。
「ねえ、あの土地に親類はなかったかね。」
 私は答えました。
「ええあります。そのうちでも、革命前にポンタルリエの門衛長であったリュスネーさんがあります。」
「そうそう。」と兄は言いました。「しかし、一七九三年には、もう親類なんか無いも同様だった。ただ自分の腕だけだった。私は働いたのです。ヴァルジャンさん、あなたがおいでになろうというポンタルリエには、まったく素朴な楽しい仕事が一つあります。それはフリエイティエールと言われているチーズ製造所です。」
 その時私の兄は、男に食事をさせながら、ポンタルリエのチーズ製造所がどんなものであるかくわしく説明してやりました。兄の言葉によればおおよそ次のようなのです。――それには二つの種類があります。大納屋というのは金持ちに属するもので、四、五十頭の牝牛(めうし)があり、一夏ごとに六、七千斤のチーズができます。また組合製造所という方は貧しい人たちに属するもので、彼らは山地の百姓でして、共同に牝牛(めうし)を飼って、その産物を分配するのです。彼らはグリュランと呼ばるるチーズ製造人を雇います。グリュランは日に三度組合の牛乳を受け取り、その量を合札(あいふだ)に誌(しる)します。チーズ製造の仕事が初まるのは四月の末ごろでありまして、チーズ製造人らがその牝牛を山中に追いやってしまうのは六月中ごろだそうです。
 男は食事をしているうちに元気づいて参りました。兄は彼にモーヴのいいぶどう酒を飲ませました。それは高価なものだといって兄自身飲まなかったものなのです。兄は御存じのとおりの気安そうな快活な調子で、そして時々私の方へもやさしく言葉を向けながら、男に右の細かい話をしてきかせました。兄は何度もそのグリュランのおもしろい有様をくり返しまして、それがその男のための逃(のが)れ場所であることを、直接にぶしつけに説かないで自然にわからせようと願っているかのようでありました。
 それから一つ私の心を動かしたことがございます。その男は前に申したとおりの者なのです。ところが私の兄は、彼がはいってきた時キリストについて二、三のことを申しましたほかには、食事の間もまたその晩中も、その男に身分を思い起こさせまた自分がだれであるかを知らせるようなことは、一言も言わなかったのであります。ちょっと考えれば、多少の説教などをいたし、囚人の上に司教の威を示して、その通りがかりの印象を深くしてやるのにいい機会であったように思われます。またその不幸な男を家に入れてやったことでありますから、その身体を養ってやるとともに心をも養ってやり、いくらかその罪を責めるとともに訓戒や忠告を与えたり、または彼の将来の善行を勧めながら少しの慈悲を施してやりますのに、ちょうどいい場合のようにも思われるのでありました。しかるに兄は、彼がどこの生まれであるかを聞きもしなければ、その経歴を尋ねもいたしませんでした。それも彼の経歴のうちには罪悪があったのでありまして、兄は彼にそれを思い起こさせるような話をいっさいさけてるようでありました。一度兄はポンタルリエの山国の人たちのことを話しまして、彼らは天に近く穏かな仕事をしているということにつけ加えて、彼らは心が潔(きよ)らかであるから幸福であると申しました時、ふともらしたその言葉のうちに、男の心を痛ましめるようなものがありはしないかを恐れて、突然口をつぐんでしまったほどでした。いろいろ考えてみますと、兄の心のうちにどういう考えがあったかは私にも理解できるように思われます。そのジャン・ヴァルジャンという男は自分の惨(みじ)めさをはっきり心に感じているので、そういうことを忘れさせ、普通の待遇をしてやって、たとい一時でも他の人と同じような人間であると信ぜさせるが最上の策だと、兄はきっと思っていたに違いありません。実際それこそ慈悲ということをよく了解した仕方ではありませんでしょうか。説教や訓戒や諷諭(ふうゆ)などをいたさないその思いやりの深い態度のうちにこそ、本当に伝道的な何物かがあるのではありませんでしょうか。そして人が心の痛みを持つ時には、少しもそれに触れないようにするのが最もいいあわれみではないでしょうか。兄の内心の考えもそこにあったに違いないように私には思われました。けれども、いずれにせよ、私のここに断言し得ますことは、たとい兄がそういう考えを持っていましたとしても、兄は私に対してさえそういう素振りを少しも見せなかったことであります。兄はどこまでもいつもの晩と同じようでありました。そして、牧師会長のジェデオン氏やまたは教区のある司祭と会食する時と全く同じような様子と仕方とで、ジャン・ヴァルジャンと食事をともにいたしました。
 食事の終わりに無花果(いちじく)を食べていました時に、だれか戸をたたきました。それはジェルボー婆さんが子供を抱いてきたのでありました。兄は子供の額(ひたい)に接吻(せっぷん)しまして、それからジェルボー婆さんにやるために私が持ち合わしていた十五スーを借りました。その間、あの男は別に注意もいたしていませんでした。もう一言も口をきかないで、大変疲れているように見受けられました。あわれなジェルボー婆さんは立ち去りました。兄は食後の祈祷をしまして、それから男の方へ向いて、きっともうお寝(やす)みになりたいんでしょう、と言いました。マグロアールは急いで食器を片付けました。旅人を静かに眠らせるために室に退くべきだと私は存じまして、マグロアールと二人で二階の室へ上がりました。けれどもすぐそのあとで、私はマグロアールに、私の室にありましたフォレー・ノアールの鹿(しか)の皮を男の寝床に持たしてやりました。夜は凍るように寒くありますが、それで暖まれましょう。ただ残念なことには、その皮はもう古くて毛がすっかりなくなっています。それは、兄がダニューブ河の水源近くのドイツのトットリンゲンに居ました頃、私が食卓で使っています象牙(ぞうげ)柄の小さなナイフといっしょに、買ってきてくれたものであります。
 マグロアールは、すぐにまた二階へ戻ってきました。私どもは、洗たく物をひろげる室で神を祈り初めました。それから二人とも一言も交じえないでおのおの自分の室に退きました。

     五 静穏

 ビヤンヴニュ司教は妹に晩の別れを言った後、テーブルの上の二つの銀の燭台の一つを自分の手に取り、一つを客に渡し、そして言った。
「さあ、あなたの室に御案内しましょう。」
 男は彼の後ろに従った。
 上に述べた所によってわかるとおり、その家の構造は、寝所のある礼拝所にゆき、またはそこから出て来るには、司教の寝台を通らなければならないようになっていた。
 彼らがその寝室を通る時にちょうど、マグロアールは寝床の枕頭(まくらもと)にある戸棚に銀の食器をしまっていた。それは毎晩彼女が寝に行く前にする最後の仕事であった。
 司教は客を礼拝所の寝所に導いた。白く新しい寝床ができていた。男は小卓の上に燭台を置いた。
「それでは、」と司教は言った、「よくお寝(やす)みなさい。あしたの朝はお出かけの前に、家の牝牛(めうし)から取れる乳を一杯あたたかくして差し上げましょう。」
「ありがとうございます。」と男は言った。
 その和(やわら)ぎに満ちた言葉を発したかと思うと、彼は突然そしてだしぬけに、一種異様な身振いをした。もし二人の聖(きよ)き婦人がそれを見たなら、おそらく慄然(りつぜん)として縮み上がったであろう。その時男がどういう感情に駆られたのかは、今もってわれわれにもよくはわからない。何かあることを知らせんためであったか、または脅かさんがためであったか? 彼自身にもわからない一種の本能的な衝動に従ったのみであったろうか? とにかく彼は、突然老司教の方へふり向き、両腕を組み、あらあらしい目つきで見つめながら、嗄(しゃが)れた声で叫んだ。
「ああなるほど! こんなふうにあなたのすぐそばに私を泊めるのですな!」
 彼はふと口をつぐんで、何かある恐るべきものを含んだ笑い方をしながら付け加えた。
「よく考えてみましたか? 私が人殺しではないというようなことをだれかが言いでもしましたか?」
 司教は天井の方へ目をあげて、答えた。
「それは神の知らるるところです。」
 それから、祈りをしあるいは独語をしている人のように脣(くちびる)を動かしながら荘重に、司教は右手の二本の指をあげて男の上に祝福を祈った。が彼は首もたれなかった。そして頭をめぐらしもせず、うしろを顧みもせずして、寝所にはいった。
 寝所に人が泊まる時には、礼拝所の中に大きなセルの幕が一方から他方へ張りめぐらされて祭壇を隠すことになっていた。司教はその幕の前を通る時に跪(ひざまず)いて、短い祈祷をした。
 そのあとですぐ彼は庭に出た。歩きながら、夢想にふけり、観想に沈み、なお開かれている人の目に夜間神が示す、あの偉大な神秘なある物に心も頭もすっかり投じてしまった。
 男の方は、まったく疲れ切っていたので、りっぱな白い敷き物さえ何が何やらわからなかった。囚人らがやるように鼻息で蝋燭を吹き消し、着物を着たまま寝床の上に身を投げ出して、すぐにぐっすり寝込んでしまった。
 司教が庭から自分の室に帰ってきた時、十二時が打った。
 数分の後には、その小さな家の中は寝静まってしまっていた。

     六 ジャン・ヴァルジャン

 真夜中ごろに、ジャン・ヴァルジャンは目をさました。
 ジャン・ヴァルジャンは、ブリーの貧しい農家に生まれた。子供の時に文字も教わらなかった。成人してからファヴロールで樹木の枝切り人となった。母はジャンヌ・マティーユーと言い、父はジャン・ヴァルジャンと言い、あるいはたぶん語を縮めまたボアラ・ジャン(ジャンの野郎)の綽名(あだな)としてヴラジャンとも言った。
 ジャン・ヴァルジャンは陰気ではないが考え込んだ性質の男であった。それは情の深い性質の特徴である。けれども全体として少なくとも外見上、ジャン・ヴァルジャンにはかなり無精なやくざな様子があった。彼はごく早くに両親を失った。母は産褥熱(さんじょくねつ)の手当てがゆき届かなかったために死に、父は彼と同じく枝切り職であったが木から落ちて死んだ。ジャン・ヴァルジャンに残ったものは、七人の男女の子供をかかえ寡婦(かふ)になっているずっと年上の姉だけだった。その姉がジャン・ヴァルジャンを育てたのであって、夫のある間は若い弟の彼を自分の家に引き取って養っていた。そのうちに夫は死んだ。七人の子供のうち一番上が八歳で、一番下は一歳であった。ジャン・ヴァルジャンの方は二十五歳になったところだった。彼はその家の父の代わりになり、こんどは彼の方で自分を育ててくれた姉を養った。それはあたかも義務のようにただ単純にそうなったので、どちらかといえばジャン・ヴァルジャンの方ではあまりおもしろくもなかった。そのようにして彼の青年時代は、骨は折れるが金はあまりはいらない労働のうちに費やされた。彼がその地方で「美しい女友だち」などを持ってるのを見かけた者はかつてなかった。彼は恋をするなどのひまを持たなかった。
 夕方彼は疲れきって帰ってきて、黙って夕飯を食べた。姉のジャンヌお上(かみ)さんはよく彼の食べてるそばから、牛肉や豚肉の片(きれ)や、キャベツの芯(しん)など、食べ物のいい所を彼の皿から取って、それを自分の子供にくれてやった。彼はいつも食卓に身をかがめ、ほとんど顔をスープの中につけるようにして、長い髪を鉢(はち)のまわりにたらし自分の目を隠しながら、何にも見ないようなふうをして姉のするままにさしておいた。ファヴロールには、ヴァルジャンの藁(わら)家から遠くない所に、道路の向こう側に、マリー・クロードという百姓の女がいた。ヴァルジャンの子供らはいつも腹をすかしていて、時々母の名前を言ってはマリー・クロードの所へ牛乳を一杯借りに出かけて行って、それを生垣(いけがき)のうしろや小路の角で互いにつぼを奪い合いながら飲んだ。しかもそれを大急ぎでやったので、小さい娘の児たちはよく乳を前掛けの上や胸の中にたらした。もし彼らの母がその騙(かた)りを知ったら、罪人らをきびしく罰したであろう。けれども性急でむっつりやのジャン・ヴァルジャンは、母に知らせずにマリー・クロードへ牛乳の代を払ってやったので、子供たちはいつも罰せられないですんだ。
 彼は樹木の枝おろしの時期には日に二十四スー得ることができた。それからまた、刈り入れ人や、人夫や、農場の牛飼い小僧や、耕作人などとして、雇われていった。彼はできるだけのことは何でもやった。姉も彼について働いたが、七人の幼児をかかえてはどうにも仕方がなかった。それはしだいに貧困に包まれて衰えてゆく悲惨な一群であった。そのうちあるきびしい冬がやってきた。ジャンは仕事がなかった。一家にはパンがなかった。一片のパンもなかったのである、文字どおりに。それに七人の子供。
 ある日曜の晩、ファヴロールの教会堂の広場に面したパン屋のモーベル・イザボーという男が、これから寝ようと思っている時に、格子(こうし)とガラスとでしめた店先に当たって激しい物音がするのを聞きつけた。きてみるとちょうど、格子とガラスとを一度にたたき破った穴から一本の手が出てるのを見つけた。その手は一片のパンをつかんで持っていった。イザボーは急いで表に飛び出した。盗人は足に任して逃げ出した。イザボーはその後を追っかけて取り押えた。盗人はパンを早くも投げすてていたが、手には血が流れていた。その男こそジャン・ヴァルジャンだったのである。
 それは一七九五年のことであった。ジャン・ヴァルジャンは、「夜間家宅を破壊して窃盗を働きし廉(かど)により、」時の裁判官の前に連れてゆかれた。彼は前から小銃を一挺(ちょう)持っていて、だれよりも上手で、少しは密猟もやっていた。それが彼にはなはだ不利であった。密猟者に対しては世間一般の至当な悪感情がある。密猟者は密輸入者とともに、きわめて盗賊に近いものである。けれどもついでに一言すれば、これらの人々と憎悪すべき都会の殺人者との間にはなお大なる相違がある。密猟者は森林中に住み、密輸入者は山中もしくは海上に住む。都会は腐敗したる人を作るがゆえにまた猛悪なる人を作る。山や海や森は野性の人を作る。それらは人の荒々しい方面を大ならしむるが、しかしそれでもなおよく人の人間的な方面を失わせはしない。
 ジャン・ヴァルジャンは有罪を宣告された。法典の規定は明白であった。われわれの文明においても恐るべき時期がある。処刑が一つの破滅を宣告する時期がそれである。社会がまったく遠ざかってゆき、一個の精神を有する人が再び回復し得ざるまでに全然棄却され終わるその時期は、いかに恐るべき時期であるか! ジャン・ヴァルジャンは五カ年の懲役に処せられた。
 一七九六年四月二十二日、執政官政府が五百人議会にいたした革命第四年花月二日の通牒(つうちょう)にはブォナパルトと呼ばれてる、イタリー軍総司令官によって得られたモンテノッテの勝利が、パリーに伝えられた。ちょうどその日に、多くの囚徒がビセートルにおいて鎖につながれた。ジャン・ヴァルジャンもその一人であった。今ではもう九十歳に近い当時の監獄の古い看守は、中庭の北すみの第四列の一端につながれていたその一人の不幸な囚人を、今日でもなおよく思い起こすであろう。彼も他の者らと同じく地面にすわっていた。彼はただ恐ろしいものであるということを外にしては、自分の地位が何であるか少しも知らなかったようである。けれども、まったく無知なあわれな漠然(ばくぜん)たる考えのうちにも、何かしら余りに酷に過ぐるもののあるのを、たぶん感じていたであろう。頭のうしろで鉄の首輪のねじが金槌(かなづち)で荒々しく打ち付けられる時、彼は泣いた。涙に喉(のど)がつまって声も出なかった。ただ時々かろうじて言うことができた、「私はファヴロールの枝切り人です。」それからすすり泣きしながら、右手をあげて、それを七度にしだいにまた下げた、ちょうど高さの違っている七つの頭を順次になでてるようであった。彼が何かをなしたこと、そしてそれも七人の小さな子供に着物を着せ食を与えるためになしたことが、その身振りによって見る人にうなずかれた。
 彼はツーロン港へ送られた。首に鉄の鎖をつけられ、荷車にのせられて、二十七日間の旅の後にそこについた。ツーロンで彼は赤い獄衣を着せられた。過去の生涯はいっさい消え失せ、名前さえも無くなった。彼はもはやジャン・ヴァルジャンでさえもなかった。彼は二四六〇一号であった。姉はどうなったか? 七人の子供はどうなったか? だれがそんなことにかまっていようぞ。若い一本の樹木が根本(ねもと)から切り倒される時、その一つかみの木の葉はどうなるだろうか。
 それはいつも同じことである。それらのあわれな人々、神の子なる人々は、以来助ける人もなく、導く人もなく、隠れるに場所もなく、ただ風のまにまに散らばった、おそらく各自に別々に。そしてしだいに、孤独な運命の人々をのみ去るあの冷たい霧の中に、人類の暗澹(あんたん)たる進行のうちに多くの不幸な人々が相次いで消え失せるあの悲惨な暗黒のうちに、沈み込んでいった。彼らはその土地を去った。彼らの住んでいた村の鐘楼も彼らを忘れた。彼らのいた田畑も彼らを忘れた。ジャン・ヴァルジャンさえも獄裏の数年の後には彼らを忘れた。かつては傷を負っていた彼の心の中には、もはや傷跡があるのみであった。ただそれだけである。ツーロンにいた間に、彼はただ一度姉のことを聞いたことがあった。それはたぶん囚(とら)われの四年目の末ごろだったらしい。その噂がどうして彼の所まで伝わったかはわからない。ただ彼らを国で知っているある人が、姉を見かけたというのである。彼女はパリーにいた。サン・スュルピスの近くの貧しい通りギャンドル街に住んでいた。手もとには一人の子供、末の小さい男の児だけがいた。他の六人の子供はどこにいたのだろうか? 彼女自身もおそらくそれを知らなかったろう。毎朝、彼女はサボー街三番地のある印刷所に出かけ、そこで紙を折ったり製本したりして働いていた。朝の六時、冬には夜の明ける前に、そこへ行かなければならなかった。印刷所と同じ建物のうちに一つの学校があって、彼女は当時七歳になる自分の子供をそこに連れていった。彼女は六時に印刷所にはいり学校は七時にしか始まらないので、子供は中庭で学校の始まるのを一時間待たなければならなかった。冬に戸外でまだ暗い夜の一時間である。印刷所では子供を内に入れなかった。子供は邪魔になるからだそうであった。朝職工たちは、その可憐(かれん)な小さな子供が眠そうに舗石(しきいし)の上にすわり、またしばしば自分の道具包みの上にちぢこまって薄暗い中に眠っているのを、通りがかりによく見かけた。雨が降る時などは、門番の婆さんが気の毒に思って、その小屋の中に入れてくれた。そこには一つの粗末な寝床と一つの糸取り車と二つの木の椅子とがあるきりだった。そして子供はそのすみの方で、なるべく寒くないように猫(ねこ)のそばに身を寄せて眠った。七時に学校が始まって子供はそこにはいってゆくのであった。ジャン・ヴァルジャンが聞いたのはそれだけのことだった。ある日彼はその話を聞かされたのだったが、それはほんの一瞬の間、電光の間にすぎなかった。愛する人たちの運命に関して突然一つの窓が開かれたのであるが、またそれはすっかり閉ざされてしまった。彼はもうその後は何も聞かなかった、永久に。彼らの消息はもう何も彼のもとに伝わらなかった。彼は再び彼らを見かけることも彼らに出会うこともなかった。そしてこの悲しき物語のうちにも再び彼らは出てこないであろう。
 その第四年目の終わりの頃に、ジャン・ヴァルジャンの脱獄の機会が到来した。彼の仲間はかかる悲惨な場所においてよく行なわれるように彼を助けた。彼は徒刑場を脱(ぬ)け出した。二日間野を自由に彷徨(さまよ)った、もしそれが自由にと言い得るならば。後(あと)をつけられ、絶えず後ろを振り返り、少しの物音にも飛び立ち、すべてのものに恐れをいだき、煙の立ち上る屋根にも、通り過ぎる人にも、犬のほえるにも、馬の走るにも、時計の鳴るにも、昼は物が見えるので、夜は物が見えないので、街道にも小路にも、叢(くさむら)にも、また眠るにも、すべてに恐れをいだいた。かくて二日目の夕方彼はまた捕えられた。三十六時間物も食べず一睡もしなかったのである。海事法廷はその罪によって彼を三カ年の延刑にした。それで彼の刑期は八カ年になった。六年目にまた脱獄の機会があった。彼はそれをのがさなかった、しかし逃走をまっとうすることはできなかった。彼は点呼の時にいなかったのである。大砲が打たれた。その晩、巡邏(じゅんら)の人々は、彼がある建造中の船の竜骨の下に隠れているのを見い出した。彼は自分を捕えにきた守衛に向かって抵抗した。脱獄と抵抗。特別法に規定せられていたその事実は、五カ年の増刑とそのうち二年の二重鉄鎖の刑とによって罰せられた。計十三カ年。十年目にまた機会がきた、そして彼はそれに乗じた、やはりうまくゆかなかった。しかしその新しい未遂犯のために三カ年。計十六カ年。終わりに十三年目だったと思うが、彼は最後にも一度やってみたが、ようやく四時間身を隠し得ただけでまたつかまった。その四時間のためにまた三カ年。計十九カ年。一八一五年十月に、彼は放免せられた。彼は窓ガラスを破りパンの一片に手をつけたがために、一七九六年にそこにはいったのであった。
 ここにちょっと一言余事をはさむ。本書の著者が刑法問題ならびに法律上の処刑判決について研究中、一片のパンの窃盗が一人の運命の破滅の出発点となった例に接するのは、これが二回目である。クロード・グウという男も一片のパンを盗んだ、ジャン・ヴァルジャンも一片のパンを盗んだ。英国のある統計によれば、ロンドンにおいて行なわれた窃盗中、五件のうち四件まではその直接原因が飢えにあることを証している。
 ジャン・ヴァルジャンはすすり泣きし戦慄(せんりつ)しながら徒刑場にはいった、そしてまったく没感情的になってそこから出てきた。彼はそこに絶望をもってはいり、そこから沈鬱(ちんうつ)をもって出てきた。
 彼の魂のうちにはいかなる事が起こったのであったか?

     七 絶望のどん底

 さて彼の魂のうちにいかなることが起こったかを述べてみよう。
 それらのことを作り出したのは社会であるから、社会はまさにそれらのことを見るべきである。
 前述のごとくこの男は無知であった、しかしながら遅鈍ではなかった。自然の光明は彼のうちにも点ぜられていた。不幸もそれ自身の光を有するもので、それはこの男の精神のうちにあった少しの明るみをいっそう大きくなした。鞭(むち)の下に、鎖の下に、牢獄のうちに、疲労の間に、徒刑場の燃ゆるがごとき太陽の下に、囚徒の板の寝床の上に、彼は自分の内心を顧み、考えにふけった。
 彼は自分を法官の地位に置いてみた。
 彼は我と我が身を裁断し初めた。
 彼は自分を無実の罪で罰せられた潔白な者とは思わなかった。罰せらるべきひどい行為を犯したことをみずから認めた。もし求めて手を差し出したならばあのパンはおそらく拒まれなかったであろう。いずれにしても、あるいは人の情けにすがるか、あるいはみずから働いてかして、そのパンを得るまで待つに如(し)かなかったであろう。飢えたる時に待つことができるか、ということは、確固たる理由にはならない。第一に、字義どおりに餓死することは至ってまれにしかない、次に、幸か不幸か人間は精神上および肉体上の苦悩を生きながら長くそして多く堪(た)えることができるように作られている。ゆえに堪え忍ぶことが必要であったのだ。あの小さなあわれな子供たちにとってもその方がよかったはずである。社会に向かって荒々しくつかみかかり窃盗によって困窮から脱せんと考えることは、弱い不幸なる自分にとってはばかげた行ないであった。いずれにしても、汚辱にはいりゆく戸口は困窮を脱するによい戸口ではなかったのである。要するに自分は誤ったのである。
 それから彼はまたみずから問うてみた。
 この不幸な事件のうちにおいて、誤ってるのは自分一人だけであったであろうか。第一に、労働者なる自分に仕事がなく勤勉な自分にパンがなかったことは、重大なことではなかったであろうか。次に、罪は犯され自白されたが、刑罰は重くして酷に過ぎはしなかったであろうか。犯人の方に過(あやまち)の弊があったとするも、法律の方に刑罰の一層の弊がありはしなかったであろうか。秤(はかり)の一方に、贖罪(しょくざい)の盛らるる一方の皿に、過度の重さがなかったであろうか。刑罰の過重も罪悪を決して消さなかったではないか。そして、事情を転換し、犯罪の過失に換うるに抑圧の過失をもってし、罪人をして犠牲者たらしめ、債務者をして債務者たらしめ、法権を破りたる者に法権を与えきるという結果になりはしなかったか。脱獄企図のために、相次いで加重されたその刑罰は、ついには弱者に対する強者の暴行ともなりはしなかったであろうか、個人に対する社会の罪、日々に新たにせられる罪、十九年間引き続いた罪、となりはしなかったであろうか。
 彼はみずから問うてみた。果して人類社会は、あるいはその不道理なる不注意を、あるいはその無慈悲なる警戒を、各人に同じく受けさせるの権利を有するを得るであろうか、そして欠乏と過重との間に、仕事の欠乏と刑罰の過重との間に、あわれなる者を囚(とら)えるの権利を有するを得るであろうか。偶然によってなさるる財産の分配にあずかること最も少ない人々を、ためにまた最も容赦すべき人々を、社会はまさしくかくのごとく待遇するとするならば、それは不法なことではあるまいか。
 それらの疑問が提出されて答えられた。彼は社会を裁(さば)いてそれを罪ありとした。
 彼は社会を罰するに自分の憎悪の念をもってした。
 彼は自分の受けた運命について社会にその責任があるとなし、他日躊躇(ちゅうちょ)することなくその責を問わんと考えた。自分のなした損害と人が自分に加えた損害との間には平衡を欠いているとみずから宣言した。自分の受けた刑罰は事実不正ではなくとも確かに不公平であると結論した。
 憤怒は愚かにして不法なることもある。人は不当に怒ることもある。しかしながら人は、何処(どこ)にか心のうちに道理を有する時にしか憤慨しない。ジャン・ヴァルジャンは憤慨の気持ちを覚えたのであった。
 それにまた、人類社会が彼になしてくれたものは悪のみであった。彼はかつて社会については、社会がおのれの正義と称して打撃を与えんとする者に示す所の、あの恐るべき顔をしか見なかったのである。すべての人々はただ彼を訶(さいな)まんがためにのみ彼に接触した。人々との接触は彼にとっては皆打撃であった。いまだかつて、小児たりし時より、母の膝下にありし時より、姉に育てられし時より、彼は親しい言葉や親切な目に出会ったことがなかった。苦しみより苦しみへと過ぎるうちに、彼はしだいに一つの信念にたどりついて、人生は戦いであり、その戦いにおいて自分は敗北者であると思うに至った。彼はその憎悪を除いては他に武器を有しなかった。徒刑場においてその唯一の武器を磨(みが)き、徒刑場を去りながらそれを携えゆかんことを、彼は決心したのである。
 ツーロンには囚徒のためにインニョランタン派の教徒らが経営している学校があった。不幸な囚徒らのうちの志ある者に最も必要な事がらが教えられた。彼はその志ある者のうちの一人だった。四十歳でその学校に行った、そして読むことと書くことと計算することとを学んだ。彼は自分の知力を強固にすることはすなわち自分の憎悪を強固にすることのように感じた。ある場合においては、教育と光明といえども悪を助長する助けとなることがある。
 口にするも悲しいことではあるが、彼は彼の不幸を作り出した社会を裁断した後に、社会を作った天をも裁断した。
 彼はまた天をも罪ありと断じたのである。
 かくて苦悩と労役との十九年の間に、彼の魂は同時に上りまた墜(お)ちた。一方からは光明がはいり、他方からは暗黒がはいってきた。
 前に言ったごとく、ジャン・ヴァルジャンはその性質が悪ではなかった。徒刑場にはいった時でさえ彼はなお善良であった。しかし、彼はそこで社会を非難し、そしてみずからは悪意ある者となったのを感じた。彼はそこで天を非難し、そしてみずからは不信の徒となったのを感じた。
 ここでしばらく多少の考慮を費やさざるを得ない。
 人間の性質はかくのごとく根本より全く変化し得るものであろうか。神によって善良に創(つく)られた人間が、人によって悪くなされ得るものであろうか。人の魂が運命によって全く改造せられ、運命の悪(あ)しきがゆえに魂も悪しくなることがあり得るであろうか。あまりに低い天井の下にあって人の背骨が彎曲(わんきょく)するごとく、人の心も過重の不幸の圧迫の下に形歪(ゆが)んで、不治の醜さと不具とに陥ることがあるだろうか。ある本来のひらめき、この世において腐敗するを得ず彼(か)の世において不死なるある聖なる要素、善によって発展させられ煽(あお)られ点火され燃え立たせられ燦然(さんぜん)と輝かされるところのもの、悪によっても決して全く消さるることなきところのものが、すべての人の心のうちにないであろうか、そしてまた特にジャン・ヴァルジャンの心のうちにそれがなかったであろうか。
 それは重大にして困難な問題である。そしてこの終わりの問題に対しては、すべての生理学者はおそらく否と答えたであろう、ことにツーロンにおいて休息の時間にある彼を見たならば、躊躇(ちゅうちょ)するところなく否と答えたであろう。
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