レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「ああ、ついにあなたはそこまでこられた。九三年! 私はその言葉を待っていたのです。暗雲は千五百年間形造られていた。十五世紀間の後にそれが破裂したのです。あなたはまるで雷電の一撃を非難されるがようです。」
 司教は、おそらく自らそうとは認めなかったろうが、心の中の何かに一撃を受けたように感じた。けれど彼は従容(しょうよう)として答えた。
「法官は正義の名において語り、牧師は憐憫(れんびん)の名において語るのです。そして憐憫とはいっそう高い正義にほかならないです。雷電の一撃に道を誤ってはいけません。」
 それから彼は民約議会員をじっと見つめながらつけ加えた。
「しかるにルイ十七世は?」
 議員は手を伸べて司教の腕をつかんだ。
「ルイ十七世! よろしい。あなたは何のために涙を流すのです? 一個の罪なき子供としてそのためにですか。それならば至当です。私はあなたとともに涙を流しましょう。また一個の王家の子供としてそのためにですか。それならば私はあなたに考慮を求めたい。私をして言わしむれば、凶賊カルトゥーシュの弟、単にその弟であったという罪のためにグレーヴの広場で繩(なわ)をもって両腋(わき)をつるされ、ついに死に至ったあの罪なき子供は、単にルイ十五世の孫であったという罪のためにタンブル城の塔内で死に処せられたルイ十五世の罪なき孫ルイ十七世に比して、同じく惨(いた)ましいものであったのです。」
「私は、」と司教は言った、「それらの二つの名前をいっしょにすることを好まないです。」
「カルトゥーシュのためにですか。またはルイ十五世のためにですか。二人のうちどれのためにあなたは異議をとなえるのです?」
 ちょっとの間沈黙が続いた。司教はほとんどここにきたことを悔いた。それでもなお彼は、漠然(ばくぜん)とまた不思議に心の動揺を感じた。
 議員はまた言った。
「あああなたは生々(なまなま)しい真実を好まれないのです。がキリストはそれを好んでいた。キリストは笞(むち)を取ってエルサレムの寺院から奸商(かんしょう)らを追い放った。彼の光輝に満ちた笞は真理を生々しく語るものです。彼が幼児をして(シニテ・パルヴュロス)(訳者注 幼児をして我にきたらしめよ)と叫んだ時、彼は幼児(おさなご)の間に何らの区別をも立てなかった。彼は凶賊バラバスの子と国王ヘロデの子とをあわせ呼ぶに少しも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。罪なき心は、それ自身に王冠を持っているのです。王家に属するの要はありません。ぼろをまとっても百合(ゆり)の花に飾られたと同じくりっぱなものです。」
「それは本当です。」と司教は低い声で言った。
「私はなお主張したい。」と民約議会員G(ゼー)は続けた。「あなたはルイ十七世のことを言われた。それについては互いに理解したいものです。すべての罪なき者、すべての道のために殉ぜる者、すべての幼き者、高き者と同じく卑(いや)しき者、すべてそれらのために涙を流すというのですか。それは私も同意です。しかしそれならば、前に申したとおり、九三年以前にさかのぼらなければならないです、そしてわれわれの涙の初まるべきは、ルイ十七世以前にあるのです。私もあなたとともに王の子らのために涙をそそぎましょう、ただあなたが私とともに人民の子らのために涙を流して下さるならば。」
「私はすべての人の上に涙をそそぐのです。」と司教は言った。
「同じ程度に!」とGは叫んだ。「そしてもしいずれかが重くなるべきであるならば、それは人民の方へでありたいです。人民の方がいっそう久しい前から苦しんでいるのです。」
 またちょっと沈黙が続いた。それを破ったのは民約議会員であった。彼は肱(ひじ)をついて立ち上り、尋問し裁断する時に人が機械的になすように、人さし指をまげて親指との間にほほの一端をつまみ、臨終の精力を全部こめた眼眸(まなざし)で司教に呼びかけた。それはほとんど一つの爆発であった。
「そうです、人民は久しい前から苦しんでいる。しかも単にそれだけではない。あなたはいったい何をルイ十七世について私に尋ねたり話したりしにきたのです? 私は、私はあなたがどんな人だか知らない。この地方にきていらい、私はこの囲いのうちにただひとりで暮らしてきた。一歩も外に出たこともなく、私を助けてくれているあの子供のほかだれにも会わなかった。実際あなたの名前はぼんやり私の耳にはいってい、それも悪いうわさではなかった。しかしそれは何の意味をもなさないです。巧みな人々は、正直な人民に自分をよく言わせる種々な方法を知っているものです。ついでながら、私はあなたの馬車の音を聞かなかったですが、たぶんあすこの分かれ道の所の林の後ろに乗り捨ててこられたのでしょう。あえて言うが私はあなたを知らないです。あなたは司教であると言われた、しかしそれはあなたの精神上の人格について私に何かを告げるものではない。要するに私は私の質問をくり返すばかりです。あなたはだれであるか? あなたは司教である。換言すれば教会の主長で、金襴(きんらん)をまとい、記章をつけ、年金を受け、ばく大な収入を有する人々の一人である。ディーニュの司教、一万五千フランの定収入、一万フランの臨時収得、合計二万五千フラン。多くの膳部(ぜんぶ)があり、多くの従僕があり、美食を取り、金曜日には田鶴(ばん)を食し、前後に従者を従えて盛装の馬車を駆り、大邸宅を持ち、はだしで歩いたイエス・キリストの名において四輪馬車を乗りまわす人々の一人である。あなたは法衣の役人である。定収入、邸宅、馬車、従僕、珍膳(ちんぜん)、あらゆる生活の楽しみ、あなたはそれらのものを他の人々と同じく所有し、同じく享楽していらるる。それは結構である。しかしそれは十分の説明にはならない。おそらく私に知恵を授けんつもりでこられたあなた自身の、あなたの真実根本の価値について、それは私に何も知らせないのである。今私が話してる相手はだれであるか? あなたはだれであるか?」
 司教は頭をたれて答えた、「私は虫けらにすぎません。」
「四輪馬車に乗った地上の虫けら!」と民約議会員はつぶやいた。
 こんど傲然(ごうぜん)たるは民約議会員であって、謙譲なるは司教であった。
 司教は穏やかに言った。
「それとまあしておきましょう。しかし私に説明していただきたいものです。あの木立ちの向こう二歩の所にある私の四輪馬車が、私が金曜日に食する田鶴(ばん)と珍膳とが、私の邸宅や従僕らが、憐憫(れんびん)は徳でなく、寛容は義務でなく、九三年は苛酷(かこく)なものでなかった、ということを何において証明するでしょうか。」
 民約議会員は手を額(ひたい)にやった、あたかもある雲をそこから払いのけんがためのように。
「あなたにお答えする前に、」と彼は言った、「私はお許しを願っておきたい。私はただ今間違ったことをしたようです。あなたは私の家にきておられ、あなたは私の客人です。私はあなたに対して丁寧であらねばならないはずです。あなたは私の意見を論ぜらるる。で私はあなたの推論を駁(はく)するに止むるが至当です。あなたの財宝や享楽などは私があなたを説破するための利点です。しかしそんなことについては何も言わない方が作法でしょう。私は誓ってそれらの利点をもう用いないことにしましょう。」
「それはありがたいことです。」と司教は言った。
 G(ゼー)は更に言った。
「あなたが求められた説明に帰りましょう。ところでどういうことでしたか。何をあなたは言ってたのですか。九三年は苛酷であったと?」
「苛酷、そうです。」と司教は言った。「断頭台に向かって拍手をしたマラーをどう考えますか。」
「では新教迫害に関して讃歌(テデオム)を歌ったボシュエについて何と考えます?」
 答えは冷酷だった、しかも刃の切れ先をもってするごとく厳(きび)しく要所を衝(つ)いた。司教はぞっとした。何の抗論もちょっと彼の心に浮かばなかった。しかし彼はボシュエに対するかくのごとき言い方に不快の念をいだいた。すぐれたる人も皆その崇拝者を有するものである。そしてしばしば論理上にもその人に対する尊敬を欠かれると漠然と不快の念を覚ゆることがある。
 民約議会員は息をあえぎはじめた。臨終の呼吸に交じり来る苦痛の息切れは、彼の言葉を妨げた。それでも彼はなお、目のうちにはまったく明瞭(めいりょう)な精神を宿していた。彼は続けて言った。
「なおかれこれ数言費やしてみましょう。全体としては広大なる人類的肯定である革命の外にあって、九三年は不幸にも一つの抗弁です。あなたはそれが苛酷であると言わるる。しかしすべて王政時代はどうですか。カリエは盗賊であるとするも、しかしあなたはモントルヴェルにいかなる名前を与えるのですか。フーキエ・タンヴィールは乞食(こじき)であるとするも、しかしラモアニョン・バーヴィルについてあなたはいかなる意見をいだいているのですか。マイヤールは恐るべきであるとするも、しかしソー・タヴァンヌはいかがです。老デュシェーヌは獰猛(どうもう)であるとするも、しかし老ルテリエに対してあなたはいかなる形容をするのですか。ジュールダン・クープ・テートは怪物であるとするも、しかしルーヴォア侯ほどではなかった。私は大公妃にして女王であったマリー・アントアネットをあわれに思う。しかし私はまた、ルイ大王の時に、小児(こども)に乳を与える所を捕えられて、腰まで裸にされ、杭(くい)に縛られ、小児は彼方(かなた)へ引き離された、あのユーグノー派の気の毒な婦人をも、同様にあわれむのです。乳房(ちぶさ)は乳に満ち心は苦しみに満ちていた。飢えたまっさおな小児はその乳房を見ながら、もだえ泣き叫んだ。刑執行人は母たり乳母(うば)たるその婦人に向かって、異端の信仰を去れ、と言いながら、小児の死か良心の死かいずれかを選ばせようとした。一個の母親に適用されたタンタルス(訳者注 永久の飢渇に処刑せられたるギリシャ神話中の人物)の処刑を、あなたは何と言われますか。よろしいですか、フランス大革命はその正当の理由を有しているのです。その憤怒は未来によって許さるるでしょう。その結果はよりよき世界です。その最も恐るべき打撃からは人類に対する愛撫(あいぶ)が出て来るのです。簡単に言ってのけましょう。私の方が有利だから止(よ)しましょう。それに私はもう死ぬのです。」
 そして司教を見るのをやめて民約議会員は、次の静かな数語のうちにその思想を言ってのけた。
「そうだ、進歩の激烈なるを革命と呼ぶ。革命が過ぎ去る時に人は認むる、人類は酷遇されたと、しかも人類は進歩をしたと。」
 民約議会員は、司教の内心の防御障壁をことごとくそれからそれへと打ち破ったことを疑わなかった。しかれどもなおそこには一つ残っていた。そしてビヤンヴニュ閣下の最後の抵抗手段たるその障壁から、次の言葉が出た。そのうちにはほとんど初めのとおりの辛辣(しんらつ)さがまた現われていた。
「進歩なるものは神を信じてるはずです。善は不信の僕(しもべ)を持つわけはありません。無神論者である人は、人類の悪い指導者です。」
 人民の代表者たる老人は答えをしなかった。彼は身を震わした。彼は空をながめた、そしてしだいに目に涙がわき出てきた。涙はまぶたにあふれて、蒼白(そうはく)のほほに伝わって流れた。彼は空の深みに目を定めたまま、自分自らにささやくがように声低くほとんどどもりながら言った。
「おお汝(なんじ)! おお理想! 汝のみひとり存在する!」
 司教は名状すべからざる一種の衝動を感じた。
 ちょっと沈黙の後、老人は空の方に指をあげてそして言った。
「無限は存在する。無限は彼処(かしこ)にある。もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である。」
 瀕死(ひんし)の彼は、あたかも何者かを認めたがように、恍惚(こうこつ)として身を震わしながら声高に、それらの最後の言葉を発した。言い終えた時に、彼の目は閉じた。努力のために疲憊(ひはい)しつくしたのであった。残された数時間を一瞬間のうちに彼は明らかに生きたのだった。彼の今言ったことが、彼を死のうちにある彼と接近せしめたのだった。最期の時が近づいていた。
 司教はそれを了解した。時機は切迫していた。彼がそこへきたのは、あたかも臨終に迎えられた牧師のようであった。彼は極度の冷淡よりしだいに極度の感動に移されていた。彼はその閉じた目をながめた。彼は年老いしわ寄ったその冷たい手を取った。そして臨終の人の上に身をかがめた。
「今は神の時間です。もしわれわれが互いに出会ったことが無益であるならば、それは遺憾なことだとは思われませぬか。」
 民約議会員は目を再び開いた。暗影の漂った沈重さが顔には印せられた。「司教、」と彼はゆるやかに言い出した。そのゆるやかな調子は、気力の喪失によるよりもむしろ尊厳な心霊のためにであったろう。「私は自分の一生を瞑想(めいそう)と研究と観照とのうちに過ごした。国家が私を招き国事に参与するように命じた時、私は六十歳であった。私はその命に服したのである。多くの弊害があった。私はそれと戦った。種々の暴戻(ぼうれい)があった。私はそれを破壊した。種々の正義と主義とがあった。私はそれを布告し宣言した。領土は侵された。私はそれを防御した。フランスは脅かされた。私はそのために自己の胸を差し出した。私は富者ではなかった。私は貧しい者である。私は参事院議官の一人であった。国庫の室は正金に満ちていて、金銀貨の重みにこわれかかってる壁には支柱を施さねばならなかった。が私はアルブル・セック街で一人前二十二スーの食事をしていた。私は虐(しいた)げられし者を助け、悩める者を慰めた。私が祭壇の幕を引き裂いたのは事実である。しかしそれは祖国の瘡痍(そうい)を繃帯(ほうたい)せんがためであった。私は常に光明へ向かって人類が前進するのを助けた。そして時としては慈悲を知らぬ進歩には反対した。場合によってはあなた方私自身の敵をも保護した。フランドルのペテゲムに、メロヴァンジアン家の諸王が夏の宮殿を所有していたあの場所に、ユルバニストらの修道院たるサント・クレール・アン・ボーリユー修道院があったが、一七九三年には私はそれを救った。私は自分の力に従って自分の義務を尽くし、自分のなし得る善をなした。しかる後に私は、追われ、狩り出され、追跡され、迫害され、誹謗(ひぼう)され、嘲笑(ちょうしょう)され、侮辱され、のろわれ、人権を剥奪(はくだつ)された。既に久しい以前から私は自分の白髪とともに、多くの人々が私を軽蔑(けいべつ)するの権利を有するかのように思っているのを、知っている。憐れな無知な群衆にとっては、私は天罰を被った者のような顔をしていただろう。そして私は自らだれをも恨まずに、人より嫌悪(けんお)せられた者の孤独を甘受している。今や私は八十六歳になっている。私はまさに死なんとしている。あなたは私に何を求めにこられたのか?」
「あなたの祝祷を。」と司教は言った。
 そして彼はひざまずいた。
 司教が再び頭をあげた時、民約議会員の顔はおごそかになっていた。彼は息を引き取ったのであった。
 司教はある言い知れぬ考えに沈みながら家に帰った。彼は終夜祈祷のうちに過ごした。その翌日、好奇(ものずき)な人々は民約議会員G(ゼー)氏のことについて彼と話そうとした。が彼はただ天を指(さ)すのみであった。その時いらい、彼は小児や苦しめる者に対する温情と友愛とを倍加した。
 この「極悪なるG老人」に関するあらゆる言葉は皆、彼を特殊な専念のうちに沈み込ませるのであった。彼の精神の目前におけるあの精神の通過と、彼の本心の上に投じたあの大なる本心の反映とは、彼を多少ともますます完全の域に近づかしめる助けにならなかったであろうとは、だれが言い得よう。
 この「牧師的訪問」は自然に、その地方の小さな社会にとっては議論の種となった。
「……かくのごとき男の死の枕辺(まくらべ)は、司教たる者の行くべき場所であったろうか。信仰にはいることなどをそこに待ち望むことは明らかにできなかったのである。すべてかれら革命家どもは、皆異端に陥る者らである。それでは何のためにそこに行くか。何をながめに彼は行ったのか。悪魔によって魂がかの世に運ばるるのを見たかったのに違いない。」
 ある日、自ら才機があると思っている一種無作法な一人の未亡人が、次のような皮肉を彼にあびせかけた。「大人様がいつ赤い帽子をもらわれるだろうかと人々は言っていますよ。」司教は答えた。「おおそれは下等な色です。ただ幸いにも、帽子だとそれを軽蔑する人も冠(かんむり)だとそれを尊敬します。」(訳者注 赤い帽子は革命党の章、赤の冠は枢機官の冠)

     十一 制限

 前述のことよりして、ビヤンヴニュ閣下は「哲学的司教」もしくは「愛国的司祭」であったと結論するならば、誤解に陥りやすい恐れがある。彼のその出会い、民約議会員G(ゼー)との連結ともほとんど呼ばれ得るところのその出会いは、彼の心に一種の驚異を残し、彼をしてなおいっそう温和ならしめた。単にそれだけのことであった。
 ビヤンヴニュ閣下は少しも政治家的人物ではなかったけれども、当時の事件に対して彼がある態度を取らんとするならばその態度はいかなるものであったかを、きわめて簡単に示すのに、今ちょうどよい場所であるように思われる。
 それで、数年前のことにさかのぼってみよう。
 ミリエル氏が司教にあげられてしばらく後のことであるが、皇帝は他の多くの司教とともに彼を帝国の男爵になした。そして人の知るとおり、一八〇九年七月五日から六日の夜に法王の逮捕がなされた。その時にミリエル氏は、パリーに催されるフランスおよびイタリーの司教会議にナポレオンから召集された。この会議はノートル・ダーム寺院において、枢機官フェーシュ氏の議長のもとに、一八一一年六月十五日に初めて開かれた。ミリエル氏はそこに赴(おもむ)いた九十五人の司教の一人であった。しかし彼はただ一回の会議と三、四回の特殊協議に出席しただけだった。山間の教区の司教であり、粗野と欠乏とのうちに自然に接して生活していた彼は、これら顕著な人々のうちに、会議の気分を変更せしむるほどの思想をもたらしたがようであった。彼は早くディーニュに帰ってきた。そしてそのわけを尋ねられたのに対して答えた。「私は皆の邪魔になったのです。戸外の空気が私から皆に伝わったのです。私は扉をあけ放したようなものでした。」
 また他のおりに言った。「どうせよと言うんですか。あの司教たちは殿様なんです。それに私の方は貧しい田舎者の司教にすぎません。」
 事実を言えば、彼は人々から喜ばれなかったのである。種々な変わったことのうちでも、ある晩最も高位な仲間の一人の家に行った時、彼はこんなことをうっかり言ったらしい。「まことに美しい掛け時計、美しい絨緞(じゅうたん)、美しい召し使いの服装である。こんなものはどんなにかわずらわしいにちがいない。おお私はこんな贅沢物なんかは実にいやである。それは絶えず私の耳にこうささやく。飢えている人たちがいる、凍えている人たちがいる、貧しい人たちがいる、貧しい人たちがいるのだ。」
 ついでに言うが、贅沢を憎むことは知的の嫌悪(けんお)ではないだろう。かかる嫌悪のうちには芸術の嫌悪が含まれるようである。さりながら教会の人々の間においては、演戯典例を除いては、贅沢は一つの不正である。それは実際においてあまり慈善的ならぬ習慣を示すがように見える。栄耀(えいよう)なる牧師というものは一つの矛盾である。牧師は貧しき人々に接触していなければならない。およそ自ら自己のうちに、労働の埃(ほこり)のごとき聖(きよ)き貧しさを多少有せずして、人はいかにして日夜絶えずあらゆる憂悶(ゆうもん)や不運や困窮に接することができるであろうか。炉(いろり)のほとりにいて暖かくないという者を、想像し得らるるであろうか。絶えず竈(かまど)で働いている労働者で、髪の毛を焦がさず、爪(つめ)を黒くせず、一滴の汗をも知らず、顔に一粒の灰をも受けない者を、想像できるであろうか。牧師において、特に司教において、慈悲の第一のしるしは、それは貧しいということである。
 ディーニュの司教が考えていたことは、疑いもなくその点であったろう。
 その上またある微妙な点において、司教はわれわれが「時代思潮」と称するところのものを分有していたと信じてはいけない。彼は当時の神学上の議論にあまり立ち交わらなかった。そして教会と国家とが混入している問題には口を噤(つぐ)んだ。もし意見を強(し)いられたならば、彼はフランス教会派というよりもむしろ法王派の態度を取ったであろう。われわれは司教の人物を描くのであって何物をも隠すを欲しないから、彼がナポレオンの衰微に対しては冷淡な態度を取ったことを付記しなければならない。一八一三年以後、あらゆるナポレオン反対の運動に彼は賛成しもしくは喝采(かっさい)した。彼はナポレオンがエルバ島より帰来する途中、それを迎えることを拒み、またナポレオンの再挙一百日の間、皇帝のための公の祈祷を教区内に禁じた。
 妹のバティスティーヌ嬢のほかに彼は二人の兄弟を持っていた。一人は将軍で他は知事であった。彼は二人のいずれにもかなりしばしば手紙を書いた。前者はナポレオンのカーヌ上陸の際プロヴァンスの司令官をしていて、千二百人の部下を率いてナポレオンを追跡したが、それがあたかも彼に遁走(とんそう)することを故意に許したような追跡だったので、司教は一時あまり好意を持たなかった。も一人の兄弟に対する司教の通信はいっそう愛情の籠(こも)ったものであった。その兄弟はもと知事であったが、堂々たるりっぱな人で、今はパリーのカセット街に隠退していた。
 それでビヤンヴニュ閣下といえどもまた、党派心を有する時があり、にがにがしい気分の時があり、心の曇ることがあった。永遠の事物に向けられているその穏かな偉大な精神にも、一時の私情の影がさすこともあった。たしかにかくのごとき人物は政治上の意見を有しないでもよろしいわけだった。といってもこの言を誤解してはいけない。われわれはいわゆる「政治上の意見」というものを、進歩に対する熱望、現今の高潔な知力の根本たるべき愛国的民主的人類的なる崇高な信念と、混同するものではない。だがこの書物の主題と間接にしか交渉のない問題には深入りすることをしないで、ただ単に次のことだけを、ここにしるしておこう。すなわち、ビヤンヴニュ閣下が王党でなかったならばみごとであったろう。そして、騒然と去来する人事をこえて、真理と正義と慈愛との三つの潔(きよ)き光が輝くのが明らかに認め得らるるあの清澄な観想から、彼が一瞬たりとも目を転じなかったならば、みごとであったろう。
 神がミリエル閣下を造ったのは政治上の職務のためではなかったことを是認しながらも、われわれはまた、全権を有するナポレオンに対して、正義と自由との名における抗議、傲然(ごうぜん)たる反対、危険なるしかも正当なる対抗、それを彼があえてなした理由を了解し賞賛したいのである。しかしながら、勢いの盛んなる人々に対する行為にしてわれわれに快心なことも、勢いの衰えゆく人々に対してはさほどにもないものである。われわれは危険の伴う戦いをのみ快しとする。そしていかなるばあいにおいても、最初の戦士のみが最後の撃滅者たるの権利を有する。人の盛時において、執拗(しつよう)なる非難者でなかった者は、その滅落の前に黙すべきである。成功の排斥者のみが失敗の正当なる裁断者である。われわれは天命が手を出して打撃を与える時には、天命の成すままに任せるのである。一八一二年はわれわれの武装を解除しはじめた。一八一三年において、黙々たりし立法部は、災害に勇気を得て卑怯(ひきょう)にも沈黙を破ったが、それは恥ずべき行ないであった、それを喝采(かっさい)するは誤りであった。一八一四年において、裏切れるあの将軍らの前から、一度跪拝(きはい)せしものを凌辱(りょうじょく)しながら、汚行より汚行へ移りゆきしあの上院の前から、遁走しながら偶像を唾棄(だき)するあの偶像崇拝の前から、顔をそむけるのが正当であった。一八一五年において、最後の災いが大気に瀰漫(びまん)した時、フランスがその不吉なる災いの近接のもとに震えた時、ワーテルローの敗戦がナポレオンの前に開かれしことが漠然と感じ得られた時、運命に罰せられたる人に対する軍隊および国民の悲しき歓呼の声は、決して笑うべきものではなかった。しかしその専制君主に多くの難を認むるとしても、ディーニュの司教のごとき心の人は、偉大なる一国民と偉大なる一人の人との深淵(しんえん)の縁における堅き抱擁のうちには厳粛にして痛切なるもののありしことを、おそらく否認してはいけなかったであろう。
 それを外にしては、司教は何事においても常にまたその時々に、正当、真実、公平、聡明(そうめい)、謙譲、廉直であった。恵み深く、また慈恵の一種なる親切でもあった。彼は一個の牧師で、一個の賢者で、かつ一個の人であった。そしてここに言わなければならないことは、われわれが彼を非難し、ほとんどあまりに厳(きび)しく彼を批判せんとしたあの政治上の意見においても、彼は寛容で穏和であって、おそらくここに語るわれわれよりもいっそうそうであろう。――ディーニュの市役所の門衛は皇帝からそこに置かれたものであった。彼は以前の近衛軍の老下士で、アウステルリッツの戦いに臨んだ勲章所有者で、鷲(わし)の紋章のごとく離るべからざるブオナパルト党であった。このあわれな男は時々、当時の掟(おきて)にいわゆる挑発的言論という無遠慮な言葉をもらすことがあった。皇帝の横顔像がレジオン・ドンヌールの勲章から除かれてからは、彼は決して彼のいわゆる制定服を着なかった。その服を着てその十字勲章をかけさせらるることのないようにである。彼はナポレオンから授かったその十字勲章から、皇帝の肖像をうやうやしく自ら取り除いた。ために、そこに一つの穴ができたが、彼は何物をもつめることを欲しなかった。彼は言った。「三びきの蛙(訳者注 該勲章に新たにつけられたる三葉模様をさす)を胸につけるよりは死んだがましだ。」また彼は好んで声高にルイ十四世を嘲(あざけ)って言った。「イギリスふうのゲートルをつけた中風病みの老耄奴、サルシフィの髪(訳者注 ルイ十八世式の頭髪)といっしょにプロシアへでも行っちまうがいい。」彼はうまく一つの悪口のうちに最もきらいなプロシアとイギリスとをいっしょに言ってのけたのであった。が彼はそういう毒舌をあまりきいたので、ついに自分の地位を失った。かくて妻子をつれて街頭にパンに窮したのである。司教は彼をよんで、穏かに戒(いさ)め、そして大会堂の門番に任じたのであった。
 ミリエル氏はその教区のうちにあって、真の牧人(ひつじかい)であり、すべての人の友であった。
 九年の間にビヤンヴニュ閣下は、聖(きよ)き行ないと穏かな態度とをもって、優しいそして子の父に対するがごとき一種の尊敬の念をディーニュ市民の心にいだかしめた。ナポレオンに対する彼の態度すら、人民から容認され黙許されたがようであった。彼らは善良な弱い羊の群れであって、彼らの皇帝を崇拝していたが、また彼らの司教を愛していた。

     十二 ビヤンヴニュ閣下の孤独

 司教のまわりには、あたかも将軍の周囲に少年士官の多数が集まっているように、年少宗教家らの取り巻きが常にある。あのおもしろいサン・フランソア・ド・サールがどこかで「黄口の牧師」と呼んだところのものが、それである。いかなる仕事にも、その志望者があって、すでに到達した人の周囲に集まる。いかなる権威もその取り巻きを有せざるはなく、いかなる幸運もその阿諛者(あゆしゃ)を持たざるはない。未来の成功を目ざす人々は、現在の光栄のまわりに集合する。あらゆる大司教所在地にはその一群の幕僚がある。多少とも勢力のあるあらゆる司教の近くには、紅顔の神学校生徒らの斥候がある。彼らは司教の宮殿内において巡邏(じゅんら)をなし秩序を維持し、司教の微笑を窺(うかが)う。司教の気にいることは、副助祭になるについて既に鐙(あぶみ)に足をかけることである。人は巧みに自分の途を開くことを要する。使徒たらんには、まず役僧たるを厭(いと)ってはならない。
 世界に大なる冠があるごとく、教会にも大なる司教の冠がある。宮廷の覚えめでたく、富裕で、収入があり、巧妙で、世間に受けがよく、神に祈ることはもちろん、人に哀願する術をも心得ており、全教区内の人々にひそかに面接することもあまり疚(やま)しく思わず、神事と外交との間の連鎖となり、牧師たるよりはむしろ修道院長たるに適し、司教たるよりはむしろ法王庁内の役人たるに適するがごとき司教らが、すなわちそれである。彼らに近づく人は幸いなるかな! 彼らは勢力を有するがゆえに、自己のまわりに、奔走する者らや贔屓(ひいき)の者らに、彼らを喜ばすことを知れるすべての若き者らに、司教の位を得るに至るまでの間にまず、広き教区や扶持や大補祭の職や教誨師(きょうかいし)の職や大教会堂内の役目などを盛んに与える。自ら位階を経上がりながら、彼らは取り巻き者どもを引き立ててゆく。あたかも行進し行く一の太陽系のようである。彼らの輝きはその従者らに紅の光を投ずる。彼らの栄達はその背後に控ゆる人々に何らかの昇進をまき散らす。保護者の教区が大なれば、従って恩顧を受くる牧師の受け持ち区も大きい。しかして終わりにローマがある。大司教となり得る司教は、更に枢機官となり得る大司教は、汝を随行員として召し連れるであろう、そして汝は宗務院にはいり、汝は肩布を賜わり、やがて汝は聴問官となり、法王の侍従となり、司教となる。司教職と枢機官職との間は一歩にすぎず、更に枢機官職と法王の位との間にはただ徒(いたず)らなる投票があるのみである。頭巾(ずきん)の牧師は皆法王の冠を夢想し得る。今日において普通の順序により王となり得るはただ牧師あるのみである。しかもその王たるや最上の王である。ゆえに神学校なるものはいかに高きへの野心を起させるところなるか! 顔を赤らめる合唱隊の子供のいかに多くが、年わかき法師のいかに多くが、ペルレットの牛乳の壺(つぼ)を頭にいただくことであるか!(訳者注 ペルレットとはラ・フォンテーヌの物語中の娘、町に売りにゆく牛乳の代より大なる幸運を夢想し、それに心を奪われて途中牛乳の壺を地上に落としてしまったのである)しかして野心は、自らおのれをごまかしながらしかもおそらくはまじめに、いかに恬然(てんぜん)として天職の名を容易に僣することであるか!
 ビヤンヴニュ閣下は、謙譲で貧しく独特な性質の人であって、右の大なる司教の冠のうちにはいらなかった。それは彼のまわりに年若い牧師が一人も集まっていないことからでも明らかにわかるのであった。パリーにおいても「彼はうまくやらなかった」ことは、既に述べたとおりである。未来を望む者は一人として、この孤独な老人によって身を立てようと思う者はなかった。野心の芽をもつ者で、彼の影に枝葉を伸ばさんとするの愚をなすものは一人もなかった。彼の下の役僧や大補祭らは皆善良な老人のみであった。彼らは彼と同じく多少平民的であり、枢機官になる望みもないその教区のうちに籠(こも)り、司教にまったく似寄っていて、ただその差異は、彼らは老衰しており、司教は完成しているというのみだった。ビヤンヴニュ閣下の側(そば)にあっては昇進が不可能であることはだれも明らかに感じたところで、彼から資格を与えられた若い人々も、神学校をいずれば直ちにエークスやオーシュの大司教らに紹介を得て、すみやかに去ってしまうのであった。何となれば、繰り返して言うが、人は引き立てらるることを求むるから。極端なる克己のうちに生きている聖者は、危険なる隣人である。彼は、不治の貧困や、昇進に利ある技能の麻痺(まひ)や、要するに人が欲する以上の解脱を、伝染せしむることがある。かかるところからビヤンヴニュ師の孤立はきたった。吾人の住む社会は暗澹(あんたん)たるものである。成功することこそ、まさに潰(つぶ)れんとする腐敗より一滴また一滴としたたる教えである。
 ついでにここに付言したい。成功とは嫌悪すべきことである。真の価値と誤られ易(やす)いその類似は人を惑わす。群衆に対しては、成功はほとんど優越と同じ面影を有する。才能の類似者たる成功は一つの妄信者(もうしんじゃ)を持つ。すなわち歴史である。ただユヴェナリスとタキツスのみがそれに不平をとなえた。今日においては、ほとんど公の哲学が成功の家に住み込み、その奴僕(どぼく)の服をつけ、その控え室の仕事をしている。成功せよ、というが学説である。栄達は能力を仮定する。投機に富を得ればその人はすなわち巧妙な人物となる。勝利者は尊敬せらるる。幸運に生まれよ、そこにすべてがある。幸機を得よ、さらば汝は悉(ことごと)くを得ん。幸福なれ、さらば汝は偉大なりと信ぜられん。時代の精彩たる五、六の偉大なる例外を除けば、同時代の賞賛は近視にすぎない。鍍金(めっき)は純金となる。第一着者であることは、到達者であることを得さえすれば何物をもそこなわない。俗衆は、自らおのれを崇拝しまた俗衆を喝采(かっさい)する一つの年老いたナルシスにすぎない。人をモーゼたらしめ、アイスキロスたらしめ、ダンテたらしめミケランゼロたらしめ、あるいはナポレオンたらしむる巨大なる才能を、群衆は何事によらずその目的に到達せる者に、即座にしかも歓呼してこれを与える。ある公証人が代議士となり、ある似而非(えせ)コルネイユがティリダートを書き、ある宦官(かんがん)が後宮を所有し、陸軍のあるプルュドンムが偶然に一時期を画すべき決定的勝利を得、ある薬種商がサンブル・エ・ムーズの軍隊のためにボール紙の靴底(くつぞこ)を発明し、それを皮として売り出して四十万リーヴルの年金を得、ある行商人が高利貸しの女と結婚して二人の仲に七、八百万の金を出産させ、ある説教者がその鼻声のために司教となり、ある家の執事がその役を止(や)むる頃には大なる富者となって大蔵大臣になされるなど、世人はそれを呼んで天才と言う。あたかも彼らがムスクトンの顔を美なりと称し、クロードの風采(ふうさい)を尊厳なりと称すると同一である。天空の星座と軟(やわら)かき泥地に印するあひるの足跡の星形とを、彼らは混同するのである。

     十三 彼の信仰

 ローマ正教の見地よりすれば、われわれはディーニュの司教を検校してみるの要を持たない。彼がごとき魂の前においては、われわれはただ尊敬の念を感ずるのみである。正しき人の良心はそのままに信ぜられなければならない。その上、ある種の性質が提出さるる時、われわれは、われわれと異なる信仰の中においても、人間の徳のあらゆる美が発展し得るものであることを認めるのである。
 司教は甲の信条についてどう考えていたか、また乙の秘蹟(ひせき)についてどう考えていたであろうか。しかしそのような内心の信念の奥秘は、人の魂があらゆる衣をぬぎすててはいりゆく墳墓によって知らるるのみである。ただ吾人に確かであることは、信仰上の難事に会っても彼はかつてそのために偽善に陥ることがなかったということである。金剛石にはいかなる腐敗もあり得ない。彼はでき得(う)る限り信仰のうちに身を投じ、われ父なる神を信ずと、しばしば叫んだ。その上、彼はおのれの善行のうちより良心に必要なだけの満足をくみ取り、汝神とともにありと、低くささやく声を自らきいた。
 ここにしるさなければならないと思われることは、言わば信仰の外に、そして信仰のかなたに司教が過度の愛を有していたことである。自己主義が衒学癖(げんがくへき)の合言葉となるようなこの悲しき時代の用語を用うれば、彼が「まじめな人々」や「謹厳な人々」や「理性的な人々」から欠点ありと目せられたのは、そこから由来したことであって、彼があまりに多く愛したがゆえである。がこの過度の愛とは何であったか。それは吾人がすでに前に示したように、人間の上に満ちあふれ、時としては事物にまでも及ぶ一つの朗らかな親切であった。司教は何物をも侮蔑(ぶべつ)しなかった。彼は神の造られし万物に対して仁慈であった。人は皆、最善の人といえども、動物に対して思慮なき酷薄さを心中にひそかに有するものである。その酷薄さは多くの牧師に固有なものであるが、ディーニュの司教は少しもそれを持たなかった。もとよりバラモン教の僧侶(そうりょ)ほどに極端ではなかったが、「動物の魂のどこへ行くかを知れる者ありや」という伝道書の言葉を、彼は深く考えたのであるように思われる。その外貌(がいぼう)の醜悪も、その本能の不具も、彼をわずらわさず彼をいら立たせなかった。彼はそれに感動させられ、ほとんど心をやわらげられた。彼は深く考えに沈みながら、その醜怪の原因や説明や弁明を表面の生のかなたにさがし求めんとするがようであった。時としては変更を神に求むるがようであった。彼は怒りの念もなく、古文書を判読する言語学者のごとき目をもって、自然のうちになお存する多くの混沌(こんとん)たるものを観察した。その夢想は時として彼の口から不思議な言語を発せさせるのであった。ある朝、彼は庭に出ていた。彼は自分一人だと思っていた、自分のうしろに妹が歩いていたのを気づかなかったのである。突然、彼は歩みを止めて、地上に何かを見つめた。それは毛のはえたまっ黒な恐ろしい大蜘蛛(ぐも)であった。妹は彼がこう言うのを聞いた。「かわいそうなものだ! それも彼自身の罪ではない。」
 慈愛深きことほとんど神のようなそのかわいげな言葉をどうしてしるさずにおかれよう。小児らしいと言ってもよい。しかしその崇高な小児らしさは、アッシシの聖フランチェスコやマルクス・アウレリウスなどのそれと同じものであった。ある日彼は一匹の蟻(あり)を踏みつぶさないようによけたために足を挫(くじ)いたこともあった。
 そのようにしてこの正しき人は生活していたのである。時として彼は庭で眠ることもあったが、その時の彼の姿ほど尊いものはなかった。
 その青年時代やまたは壮年時代について伝えらるるところによれば、ビヤンヴニュ閣下はかつては熱情的なまたおそらく激越な人であったらしい。そして今の広い温和な性質は、天性によるものというよりはむしろ、彼の心中に長い生涯を通じて澱(よど)みきたり、思想を通じて静かに彼の心中に落ちきたった、大なる確信の結果であった。何となれば、岩石におけるごとく人の性格においても、水の点滴によって穴をあけらるることがあるからである。そのくぼみは消し得ないものであり、その形成は破壊し得ないものである。
 すでに前に述べたことと思うが、一八一五年に彼は七十五歳に達していたけれど、六十歳以上とは見受けられなかった。彼は背は高くはなかった。いくらか肥満すぎる傾きがあって、それを重らせないために好んで長い徒歩を試みた。しっかとした足取りで、ごくわずかしか腰がまがっていなかった。しかしそんな些事(さじ)からわれわれは何か結論を引き出そうとするのではない。グレゴリウス十六世は八十歳にしてなお身を真っ直ぐに保ち微笑をたたえていた、がそれでも悪い司教だったのである。ビヤンヴニュ閣下は「りっぱな人」と人民たちに言われる相貌(そうぼう)をしていたが、それはいかにもかわいらしいものだったので美しいということを忘れさせるほどだった。
 彼の優雅な風貌(ふうぼう)の一つであってわれわれが既に述べたところの、あの子供らしい快活さをもって彼が話をする時、人は彼の傍(そば)にあっていかにも安易な気持を覚え、あたかも彼の全身から喜悦がわき出て来るかのようであった。彼の生き生きした赤味を帯びた顔色や、笑うたびにほの見えるまだそろってる真っ白な歯列(はなみ)などは、彼に打ちあけた気安い風格を与えていて、若い人についてなら「いい児だ」と言いたく、老人についてなら「好々爺(こうこうや)だ」と言いたい気を起こさせるほどのものだった。彼がナポレオンに与えた感じはちょうどそういうものであったことは、人の思い起こし得るところであろう。最初のうちは、または初めて彼を見る人にとっては、実際彼はほとんど一個の好々爺にすぎなかった。しかしながら、もし彼の側に数時間とどまっているならば、そして少しでも彼が考え込んだ様子をしているのを見る時には、その好々爺はしだいに姿を変じて何かしら人を威圧するような風貌になるのであった。彼の広い真摯(しんし)な額(ひたい)は、すでにその白髪のためにおごそかであったが、また瞑想によってもおごそかになっていた。その温良のうちには威厳がのぞいていたが、しかもなお温良は光を放っていた。ほほえめる天使が静かにその翼を広げながら、なおもほほえむのをやめないでいる姿を見るような、一種の感動を人は感ずるのであった。尊敬の念、言葉に現わし得ない尊敬の念が、しだいに起こってきて心を打ち、試練を経た寛容な強い一つの魂に向き合っているように、人は感ずるのであった。その思想はあまりに偉大で、もはや穏和でしかあり得ないような魂だった。
 既に前に述べたごとく、祈祷、宗務上の祭式、施与、苦しめる者の慰安、僅少な土地の耕作、友愛、質素、歓待、節欲、信頼、研究、労作、それらが彼の生活の日々を満たしていた。満たすというのは適当な言葉である。そして確かに、司教の日々はそのすみずみまで、善良な思想と善良な言葉と善良な行為とでいっぱいになっていた。けれども、晩に二人の女が寝室に退いた後眠る前の一、二時間を庭に出てすごすことが、寒さや雨のために妨げらるるような場合には、彼の一日は完全なものではなかった。夜の空の偉観の前に瞑想して眠りを誘うことは、彼にとって一つの慣例となっていたがようである。時とすると夜ふけた頃、まだ眠りにつかないでいた二人の年老いた婦人は、彼が静かに庭の道を歩いている足音をきくことがあった。彼はそこにただ一人で、考えに沈み、心穏やかに、跪拝(きはい)の心地で、おのが心の朗らかさと精気(エーテル)の朗らかさとを比べて見、暗やみの中で目に見得る星辰(せいしん)の輝きと目に見えざる神の光輝とに感動し、未知のものより落ちてくる思いに心をうち開いていた。そういう時彼は、夜の花がかおりを送りくる時間のうちに、心を投げ出し、星の輝ける夜のただ中にランプのごとく輝き、万有の光を放つ中に恍惚(こうこつ)と伸び拡がって、おそらくおのれの精神のうちにいかなることが起こってるかを自ら知らなかったであろう。彼は何かがおのれの外に飛び去り、何かがおのれのうちに降りて来るのを感じていた。魂の深淵と宇宙の深淵との神秘なる交換であった。
 彼は神の偉大とその現在とを思った。永遠の未来という不可思議な神秘を。永久の過去という更になお不可思議な神秘を。おのれの目前にあらゆる方向に深まってるすべての無限なるものを。そして彼はその不可解なものを了解せんと努むることなく、ただそれを見つめた。彼は神を研究しなかった。彼はただそれに眩惑(げんわく)した。彼は原子のあの驚くべき逢合(ほうごう)を考察した。物質に諸(もろもろ)の外形を与え、その外形を定めながら力を顕現し、統一のうちに個性を作り、広がりのうちに割合を作り、無限のうちに無数を作り、そして光によって美を生ぜしむるあの逢合を。それはたえず結ばれてはまた解ける。そこから生と死とが生ずる。
 彼はこわれかけたぶどう棚によせかけてある木のベンチに腰掛けた、そして庭の果樹の小さな細やかな枝影をすかして星をながめた。貧しい木立ちに破屋(あばらや)や小屋が建ち並んだそのわずかの土地は、彼にとっては尊いそしてじゅうぶんなものであった。
 いたって少ないわずかな隙(ひま)の時間を、昼は園芸に夜は観想に分かち用いていたこの老人にとって、それ以上何が必要であったか。空を天井とするその狭い宅地は、神を、あるいはその最も美しい御業(みわざ)において、あるいはその最も荘厳な御業において、礼拝するには十分ではなかったか。実際そこにすべてがあるではないか、そしてそれ以外に何を望むべきであるか。歩を運ぶためには小さな庭があり、夢想するためには無窮の天がある。足下には耕耘(こううん)し採集し得るもの、頭上には研究し瞑想(めいそう)し得るもの、地上に数株の花と、空にあらゆる星辰(せいしん)と。

     十四 彼の思想

 最後に一言する。
 今述べたようなこの種のこまかなことは、ことに現今においては、そして現時流行の語をもってすれば、ディーニュの司教にある「汎神論(はんしんろん)者」的面影を与えるかも知れない、そして、彼を非難することになるか、もしくは賞賛することになるかはともかくとして、往々[#「往々」は底本では「住々」]孤独な人の心のうちに萌(きざ)し生長してついに宗教の地位を奪うまでになる現世紀特有な個人的哲学の一つが、彼のうちにあったことを信ぜさせるかも知れない。それでわれわれは、ビヤンヴニュ閣下を実際に知っていた人たちは一人としてそのような考え方をしていいと思っていた者のないことを、力説しておかなければならない。彼を輝かしたところのものは、その心であった。彼の知恵は、そこから来た光明によって得られたものであった。
 体系的思想の皆無と行為の豊富。深遠な推論は眩迷(げんめい)をきたすものである。司教が神秘な考察のうちに頭をつき込んだ徴(しるし)は何もない。使徒たる者は大胆なるもいい、しかし司教たるものは小心でなければならない。言わば恐るべき偉大な精神のために取り置かれてるある種の問題にあまり深入りして探究することを、彼はおそらく差し控えたであろう。謎(なぞ)の戸口の下には犯すべからざる恐怖がある。そのほの暗い入り口はそこにうち開いているが、人生の旅人なる汝らには、入るべからずと何物かがささやく。そこに足をふみ入れる者は禍(わざわい)なるかな! 抽象と純粋思索との異常な深淵のうちにおいて、言わばあらゆる信条の上高く座を占めて、天才らはおのれの観念を神に訴える。彼らの祈祷は大胆にも議論の提出であり、彼らの礼拝は質疑である。その峻嶮(しゅんけん)を試みんとする人にとっては、それは多大の憂苦と責任とのこもった直接的宗教である。
 人の瞑想には際限がない。それは自ら危難を冒しておのれの眩惑(げんわく)を分析し推究する。一種の荘厳な反動によって自然を眩惑するともほとんど言い得るであろう。吾人を囲む神秘な世界はその受けしところのものを返して、おそらく観者は被観者となるであろう。それはともかくとして、地上にはある種の人――それは果して人であるか?――がいる。彼らは夢想の地平の奥の絶対境の高地を明らかに認め、無限の山の恐ろしい幻を見る。しかしビヤンヴニュ閣下はそういう人々の一人ではなかった。彼は天才ではなかった。彼はその高遠なる境地を恐れた。ある者は、そしてスウェデンボルグやパスカルのごとき偉大なる人さえも、その境地から転落して正気を失ったのであった。確かにそれらの力強い夢想は精神的効果を有する、そしてその険しい道によって人は理想的完全の域に近づく。しかし司教は簡略な道を選んだ、すなわち福音の道を。
 彼はおのれの法衣にエリアの外套の襞(ひだ)をつけさせようとは少しもしなかった。(訳者注 旧約エリアの故事、――彼はエリアの衣鉢を継がんとはしなかった)彼は事変の暗黒な大浪の上に何ら未来の光明を投じようとはしなかった。彼は事物の輝きを凝集さして火炎たらしめようともつとめなかった。彼は何ら予言者の趣もまたは魔術師の趣も持たなかった。彼の素純なる魂はただ愛した、それがすべてであった。
 彼が超人間的な希願にまでその祈祷を高めていったというならば、おそらくそれは事実であろう。しかしながら人は、あまりに愛しすぎるということのないと同じく、あまりに祈りすぎるということはなお更ない。経典以上の祈りをすることが異端であるとなすならば、聖テレサや聖ヒエロニムスのごときも異端者となるであろう。
 彼は悲しむ者や罪を悔いる者の方へ身をかがめた。世界は彼に一つの広大なる病であるごとく思われた。彼はいたる所に病熱を感じ、いたる所に苦悩の声をきいた。そして彼はその謎(なぞ)を解かんとせず、瘡痍(そうい)を繃帯(ほうたい)せんとした。万物の恐るべき光景は、彼のうちにやさしき情をますます深からしめた。あわれみ慰むべき最良の方法を自己のために見い出すことと、他人にそれを勧むることとにのみ、彼は意を用いた。存在するところのものは皆、このまれな善良な牧師にとっては、慰藉(いしゃ)を求めながら常に悲哀に沈んでるのであった。
 世には黄金を採掘するために働いている人々がいる。司教は憐憫(れんびん)を引き出すために働いていた。全世界の悲惨は彼の鉱区であった。いたる所に苦しみがあることは、常に親切を施すの機縁となるばかりであった。汝ら互いに愛せよ。彼はその言を完全なるものとして、それ以上を何も希(ねが)わなかった。そこに彼の教理のすべてがあった。ある日、前に述べたあの自ら「哲学者」と思っている上院議員は司教に言った。「だがまず世界の光景を見らるるがいい。あらゆるものは皆互いに戦っている。最も強い者が最も知力を持っている。君の汝ら互いに愛せよは愚なことだ。」ビヤンヴニュ閣下はあえて論争せずにただ答えた。「なるほど、たといそれは愚であるとしても、貝殻の中の真珠のように、魂はその中にとじこめておかなければいけないです。」かくて彼はそこにとじこもり、その中に生き、それに絶対に満足していた。そして他のすべてを傍(かたわら)にうち捨てた。人をひきつけまた恐れさする不可思議な問題、抽象の不可測な深淵、形而上学の絶壁、使徒にとりては神が中心たり無神論者にとりては虚無が中心たるそれらのあらゆる深奥の理、すなわち、運命、善と悪、存在者相互の戦い、人の良心、動物の専心的な夢遊歩行、死による変形、墳墓のうちにおける生存の反覆、永続する自我に対する不可解な継承的愛情、本質、実体、無と有、魂、自然、自由、必然など、人類の偉大なる精神がのぞき込むあの陰惨な難問題、ルクレチウスやマヌーや聖パウロやダンテらが無限を凝視して星を生ぜしめるほどの燃え立った目で観想した恐るべき深淵、それらを彼は皆傍にうち捨てたのであった。
 ビヤンヴニュ閣下は単に一個の人であった。神秘な問題はこれを外部から観(み)るのみで、それを推究することなく、それを攪拌(かくはん)することなく、それをもっておのれの精神をわずらわすことなく、しかも神秘の闇に対する深き尊敬を魂の中に有している、一個の人にすぎなかった。
[#改ページ]

   第二編 墜落


     一 終日歩き通した日の夜

 一八一五年十月の初め、日没前およそ一時間ばかりの頃、徒歩で旅している一人の男が、ディーニュの小さな町にはいってきた。ちょうど人家の窓や戸口にあまり人のいない時間ではあったが、なおいくらかの人々はそこにいて、一種の不安の念を覚えながら旅人をながめた。おそらくこれ以上みすぼらしい風をした旅人はめったに見られなかった。それは中背の幅広い頑丈な元気盛りの男であった。四十六か七、八くらいであろう。皮の目庇(まびさし)のたれた帽子が、日に焼け風にさらされ汗の流れてる顔の一部を隠していた。黄色がかった粗末な布のシャツは、ただ首の所で銀の小さな止め金で止めてあるきりなので、そのすきから毛深い胸が見えていた。ネクタイは縒(よ)れてひものようになっている。青い綾織(あやお)りのズボンは傷(いた)んですり切れ、片膝(ひざ)は白くなり、片膝には穴があいている。ぼろぼろな灰色の上衣には、撚(よ)り糸で縫われた青ラシャの補綴(はぎ)が一方の肱(ひじ)の所にあたっている。背中にはいっぱい物のはいった、堅く締め金をとめた、まだ新しい背嚢(はいのう)を負い、手には節(ふし)のあるごく大きな杖(つえ)を持ち、足には靴足袋(くつたび)もはかずに鉄鋲(てつびょう)を打った短靴を穿(うが)ち、頭は短く刈り込み、ひげを長くはやしている。
 汗、暑気、徒歩の旅、ほこり、それらのものが右の荒れすさんだ全体の姿に、更に何かしらきたならしい趣を加えていた。
 頭髪は短かったが、逆立っていた。もうしばらく刈られないでいるらしく、そして少し伸びはじめていたからである。
 だれも彼を知っている者はなかった。明らかに一人の通りすがりの男にすぎなかった。どこからきたのであろうか。南方から、たぶん海辺からきたのであろう。というのは、彼がディーニュにはいってきたのは、七カ月以前にナポレオンがカーヌからパリーへ行く時に通ったのと同じ道からであった。この男は終日歩きづめだったに違いない。大変疲れているように見えていた。下手(しもて)の昔の市場のほとりの女どもが見たところによると、彼はガッサンディ大通りの並木の下に立ち止まって、そのはずれにある泉の水を飲んだ。大変喉(のど)がかわいていたにちがいない。彼の後をつけて行った子供らは、彼がそれからまた二百歩ばかり行って、市場の泉の所に立ち止まって水を飲むのを見た。
 彼はポアンシュヴェル街の角まで行って左に曲がり、市役所の方へ足を運んだ。彼は市役所にはいり、それから十五分ばかりしてまた出てきた。門のそばの石のベンチに憲兵が一人腰をかけていた。それは、ドルーオー将軍が三月四日に、驚駭(きょうがい)したディーニュ市民の群衆に向かって、ジュアン湾(訳者注 ナポレオンが一八一五年三月一日エルバ島より再びフランスに上陸したる湾)の宣言を読みきかすために上った石である。旅の男は帽子をぬいで、丁寧にその憲兵に礼をした。
 憲兵は彼に答礼もせず、彼を注意深くうちながめ、なおしばらく彼の後ろを見送ったが、それから、市役所の中にはいった。
 当時ディーニュの町にはクロア・ド・コルバという看板のりっぱな宿屋があった。その主人はジャカン・ラバールといって、昔教導兵でありグルノーブルにトロア・ドーファンの看板の宿屋を持っている他のラバールという者の親戚(しんせき)であるというので、町でかなり尊敬されていた。皇帝上陸の際には、このトロア・ドーファンの宿屋について多くの風説がその地方に伝えられたものである。ベルトラン将軍が馬車屋に仮装して一月にしばしばそこに旅をして、兵士らにクロア・ドンヌール勲章を分与し、市民らに多くの金貨を与えた、というような噂(うわさ)が立てられていた。が事実はこうである、グルノーブルにはいってきた時、皇帝は知事の邸宅に行くのを断わり、私は知り合いの男の家にゆくのだからと言って、トロア・ドーファンの宿屋に行ったのであった。そのトロア・ドーファンのラバールの光栄は、二十五里へだてたクロア・ド・コルバのラバールの上にまで反映していた。町では彼のことをグルノーブルの男の従弟だと言っていた。
 旅の男はこの地方で最上等のその宿屋の方へ歩みを向けた。そしてすぐ街路に開かれてる料理場にはいった。竈(かまど)はみな火が燃えており、炉には威勢よく炎が立っていた。主人はまた同時に料理人頭であって、竈(かまど)や鍋(なべ)を見て回り、馭者(ぎょしゃ)たちのためにこしらえる旨(うま)い食事の監督をし、ひじょうに忙しかった。馭者たちが隣の室で声高に笑い興じてるのも聞こえていた。旅をしたことのある人はだれでも知ってる通り、およそ馭者たちほどぜいたくな食事をする者はいない。肥った山鼠(モルモット)は白鷓鴣(しろやっこ)や松鶏(らいちょう)と並んで、長い鉄ぐしにささって火の前に回っており、竈の上には、ローゼ湖の二尾(ひき)の大きな鯉(こい)とアロズ湖の一尾の鱒(ます)とが焼かれていた。
 主人は、戸があいて新しくだれかはいってきた音をきいて、竈から目を離さずに言った。
「何の御用ですか。」
「食事と泊まりです。」と男は言った。
「訳ないことです。」と主人は言った。その時彼はふり向いて旅人の様子をじろりとながめたが、つけ加えて言った。「金を払って下されば……。」
 男はポケットから皮の大きい財布を取り出して答えた。
「金は持っています。」
「では承知しました。」と主人は言った。
 男は財布をポケットにしまい、背嚢をおろし、それを戸のそばに置き、手に杖を持ったままで、火のそばの低い腰掛けの所へ行って腰をおろした。ディーニュは山間の地であって、十月になれば夜はもう寒かった。
 その間主人は、あちらこちらへ行ききしながら、旅人に目をつけていた。
「すぐに食事ができますか。」と男は言った。
「ただ今。」と主人は言った。
 その新来の客がこちらに背を向けて火に当たっているうちに、しっかりした亭主のジャカン・ラバールはポケットから鉛筆をとり出して、それから窓の近くの小卓の上に散らばっていた古い新聞の片すみを引き裂いた。彼はその欄外の空所に一二行の文句を書きつけ、それを折って別に封もせずに、料理手伝いや小使いをやっているらしい子供に渡した。亭主が耳もとに一言ささやくと子供は市役所をさしてかけて行った。
 旅人はそれらのことには少しも気がつかなかった。
 彼はも一度尋ねた。「食事はすぐですか。」
「ただ今。」と主人は言った。
 子供は帰ってきた。紙片を持ち戻っていた。主人は返事を待っているかのように急いでそれを披(ひら)いた。彼は注意深くそれを読んでいるらしかったが、それから頭を振って、しばらくじっと考え込んだ。ついに彼は一歩旅人の方へ近よった。旅人は何か鬱々(うつうつ)と考えに沈んでいるらしかった。
「あなたは、」と主人は言った、「お泊めするわけにいきません。」
 男は半ば席から立ち上った。
「どうして! 私が金を払うまいと心配するんですか。前金で払ってほしいんですか。金は持っていると言ってるではないですか。」
「そのことではありません。」
「では、いったい何です。」
「あなたは金を持っている……。」
「そうです。」と男は言った。
「だが私の所に、」と主人は言った、「室がないのです。」
 男は落ち着いて口を開いた。「廐(うまや)でもいい。」
「いけません。」
「なぜ?」
「どこにも馬がはいっています。」
「それでは、」と男はまた言った、「物置きのすみでもいい。藁(わら)が一束あればいい。が、そんなことは食事の後にしましょう。」
「食事を上げることはできません。」

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