レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 ミリエル氏には少しも財産がなかった。彼の一家は革命のために零落したのだった。が、妹の方は五百フランの終身年金を得ていて、僧家にあっては、それで自分の費用にはじゅうぶんだった。ミリエル氏は司教として国家から一万五千フランの手当を受けていた。施療院の方へ移り住んだその日に、彼は次のようにその金を使おうと断然決心した。ここに彼自らしたためた覚え書きを写すとしよう。

  わが家の支出規定覚え書き
神学予備校のため…………………………………千五百リーヴル
伝道会……………………………………………………百リーヴル
モンディディエの聖ラザール会員のため……………百リーヴル
パリー外国伝道学校…………………………………二百リーヴル
サン・テスプリ修道会……………………………百五十リーヴル
聖地宗教会館……………………………………………百リーヴル
母の慈善会……………………………………………三百リーヴル
なおアールの同会のため……………………………五十リーヴル
監獄改善事業…………………………………………四百リーヴル
囚徒慰問および救済事業……………………………五百リーヴル
負債のため入獄せる戸主解放のため…………………千リーヴル
管下教区の貧しき教員の手当補助…………………二千リーヴル
上アルプの備荒貯蔵所…………………………………百リーヴル
貧民女子無料教育のためのディーニュ、マノスク、および
 システロンの婦人会……………………………千五百リーヴル
貧しき人々のため……………………………………六千リーヴル
自家費用…………………………………………………千リーヴル
 合計……………………………………………一万五千リーヴル
           (訳者注 リーヴルはフランの同称)

 ミリエル氏はディーニュの司教だった間、この処置にほとんど少しの変更もなさなかった。覚え書きに見らるるとおり彼はそれをわが家の支出規定と呼んでいた。
 バティスティーヌ嬢もこの処置に絶対に服従していた。この聖(きよ)き嬢にとっては、ディーニュ司教は同時に自分の兄であり自分の司教であった、自然からいえば親しい友で、教会からいえば教長だった。彼女はただ単純に彼を愛し彼を崇敬していた。彼が口をきく時にはそれに承服し、彼が行動する時にはそれに力を合わせていた。ただ召し使いのマグロアールのみが少し不平をもらした。前述のとおり司教は千リーヴルきり取って置かないので、バティスティーヌ嬢の年金と加えて年に千五百フランになるきりだった。それだけの金で二人の老婦と一人の老人とが生活したのである。
 それでも、マグロアールのきりつめた節倹と、バティスティーヌ嬢の巧みな家政とのおかげで、村の司祭などがディーニュにやって来る時には、司教はなおそれをもてなすことができるのだった。
 ある日――もうディーニュにきてから三月ばかりたったころ――司教は言った。
「これだけのものではなかなか苦しい!」
「そうでございましょうとも。」とマグロアールは叫んだ。「旦那(だんな)様は、町でのられます馬車代と教区をお回りになる費用とを、県に当然御請求をなさらないからでございます。以前の司教様方はいつもそうなさいましたのですよ。」
「なるほど!」と司教は言った、「マグロアール、お前の言うことはもっともだ。」
 彼はその請求をした。
 しばらくたって、県会ではこの請求を評議して、次のような名目で彼に年三千フランを与えることに定めた。四輪馬車代、駅馬車代、及び教区巡回の費用として、司教へ支給。
 その一事は市民の物議を醸(かも)した。そして革命第二月十八日に味方した五百人会の一人であって、現に帝国の上院議員でありディーニュの近くにりっぱな世襲財産を持っていた一人は、そのとき宗務大臣ビゴー・ド・プレアムヌー氏に宛(あて)て、不平満々たる内密な寸簡をしたためた。今ここにそのうちの信ずべき数行を引用してみよう。

 「――四輪馬車代とや。人口四千をいでざる小都市において何ぞそを用いんや。駅馬車および巡回の費用とや。まず、かかる巡回の用いずこにある。次にかかる山間の地において、いかんぞ駅馬車を用ゆることを得(う)べき。道路と称すべきものなく、人はただ馬によりて行くのみ。シャトー・アルヌーへ至るデューランス河(がわ)の橋さえもほとんど牛車を支(ささ)うること能(あた)わじ。彼ら牧師輩は皆かくのごとく、貪慾(どんよく)飽くなきの徒なり。この司教も就任の初めにおいては善良なる使徒らしく振舞いたれども、今や他と異なる所なし。今や彼には四輪馬車を要し駅馬車を要す。以前の司教らの如く豪奢(ごうしゃ)を要す。おおこれらすべての司祭輩よ! 陛下がこれら緇衣(しい)の手より我らを解放せらるる時に非(あら)ずんば、伯爵よ、事みなそのよろしきを得じ。法王を仆(たお)せ!(そのころ万事が皆ローマと乖離(かいり)していたのである。)余はただ皇帝のためにのみ尽さんとするなり。云々(うんぬん)」

 その代わりにこのことはマグロアールをひじょうに喜ばせた。彼女はバティスティーヌ嬢に言った。「けっこうなことでございます。閣下は他人のことからお初めなさいました。けれどやはりおしまいには御自身のことをなさらなければならなかったのです。慈善の方はすっかりもう定めてございます。それでこの三千リーヴルは私どものものでございますよ。」
 その晩に司教は、次のような覚え書きをしたためてそれを妹に渡した。

  馬車と巡回との費用
施療院の患者に肉汁を与えるため……………千五百リーヴル
エークスの母の慈善会のため………………二百五十リーヴル
ドラギィニャンの母の慈善会のため………二百五十リーヴル
捨児のため…………………………………………五百リーヴル
孤児のため…………………………………………五百リーヴル
 合計………………………………………………三千リーヴル

 これがミリエル氏の予算表であった。
 司教区の臨時の収入、すなわち結婚公示免除、結婚免許、灌水(かんすい)式、説教、会堂や礼拝堂の祝祷(しゅくとう)、結婚式、などの収入について、司教はできるだけ多く富者から徴収し、それだけまた貧しい人々に与えた。
 しばらくの後、金銭の寄進が流れ込んできた。金のある者もない者もミリエル氏の門をたたいた。後者は前者が置いていった施与を求めるためである。一年たたないうちに司教は、あらゆる慈善の会計係となり、あらゆる困窮の金庫係となった。莫大(ばくだい)な金額が彼の手を経るようになった。しかしなお彼の生活法は少しも変わるところなく、彼の必要に対して何かが加えられることもなかった。
 いや、それどころではなかったのである。上の者に情けがあるよりも下の者に困窮がある方がいつも多いものであるから、言わばすべてが受けらるる前にまず与えられたのであった。乾(かわ)ききった土地の上の水のようなものだった。いかに彼は金を受け取っても、手には一文もなかった。そういう時、彼は身の衣をもはいだ。
 司教たるものは、すべて宗教上の命令や教書の初めに自分の洗礼名を書く習慣になっていたので、この地方の貧しい人たちは、一種の本能的な愛情よりして、司教の種々な姓名のうちから意味のあるようなのを選んで、彼をビヤンヴニュ(訳者注 歓待の意)閣下としか呼ばなかった。われわれもこれから彼らの例にならって、場合によっては彼をそう呼ぶことにしよう。その上、この呼び名は彼の気にいっていた。彼は言った、「私はその名がすきだ。ビヤンヴニュという言葉は閣下という言葉を償ってくれる。」
 われわれは、ここに描かれてる彼の面影が真実らしいものであるとは主張しない、ただ本物に似よったものであると言うに止めておく。

     三 良司教に難司教区

 司教はその馬車代を施与に代えてしまったとはいえ、巡回をやめてしまったのではなかった。ディーニュの司教区は困難な土地であった。前に言ったとおり、平地は非常に少なく、山は多く、ほとんど道路というほどのものがなかった。三十二の主任司祭館と四十一の助任司祭館と二百八十五の補助礼拝堂とがあった。それらをすべて見舞うことはかなりの仕事だった。司教はそれをやってのけた。近くは徒歩で、平地は小車(こぐるま)で、山は騾馬(らば)の椅子鞍(いすくら)で行った。二人の老婦人が彼の伴(とも)をした。道が彼女らに困難な時には、司教は一人で行った。
 ある日彼は、昔司教在住の町であったスネズに驢馬(ろば)で行った。その時、彼の財布はきわめて軽く、他の乗り物を取ることができなかったのである。町長は司教館の入り口まで彼を出迎えた、そして彼が驢馬からおりるのを憤慨したような目つきでながめた。数名の町人はその周囲で笑っていた。「町長さん並びに皆さん、」と司教は言った、「私には皆さんの憤慨しておられる理由がわかっています。イエス・キリストの乗り物であった驢馬にまたがることは、憐(あわ)れな一牧師にとってははなはだ不遜(ふそん)なことである、と諸君は思われるでしょう。しかし私はやむを得ずそうしたのでして、断じて虚栄からではありません。」
 巡回中において彼は、きわめて寛大で穏和であって、説教するというよりもむしろ話をするという方が多かった。彼は人の了解し難い言辞を有効だとしていなかった、そして理論や範例を決してかけ離れたところに求めなかった。ある地方の人々にはその付近の地方の例を取ってきた。貧乏な人たちに冷酷である村々では、次のように言った。「ブリアンソンの人々をごらんなさい。彼らは貧民や寡婦(かふ)や孤児などには、人より三日前から牧場の草を刈ることを許しています。その家が壊(こわ)れる時は無料で建ててやります。それゆえその地方は神に恵まれているのです。まる百年もの間、一人の人殺しもないのでした。」
 利益や収穫を貪(むさぼ)る村々では、彼は次のように言った。
「アンブロンの人々をごらんなさい。もし刈り入れの時に、息子(むすこ)たちは兵役に出ており、娘たちは町に奉公に出ており、主人は病気で働けないような場合には、司祭は説教のとき彼のことを皆に伝えます。そして日曜日の弥撒(ミサ)の後に、村の男や女や子供やすべての人々が、その人の畑に行って刈り入れをしてやり、藁(わら)や穀物を納屋へ納めてやります。」――金銭や遺産の問題で反目している家族には次のように言った。「ドゥヴォルニーの山国の人々をごらんなさい。そこは五十年に一度も鶯(うぐいす)の声が聞かれぬほどの荒涼たる地方です。そこで、一家の主人が死にますと、息子たちは稼(かせ)ぎに他国へ出て行って、娘たちが夫を得ることができるように、全財産を彼女たちに残してやります。」――訴訟を好んで印紙税に破産してしまうような村々では、彼は言った。「クイラスの谷地の善良な農夫たちをごらんなさい。そこには三千人の人たちがいます。おおちょうど小さな共和国のようです。一人の裁判官も執達吏もいません。村長がいっさいの事をするのです。村長は税を割り当て、各人に正当な負担を負わせ、無報酬で争いを裁(さば)き、無料で遺産を分配し、無費用で判決を下しています。人々は皆彼に服します、というのは彼は素朴な人々のうちの正しい人でありますから。」――学校の教師がいない村々には、やはりクイラスの人々の話をした。「彼らがどんなふうにやっているかを御存じですか。十二軒や十五軒くらいの小さな村では、いつも一人の先生を雇うことができませんから、その地方全体で幾人かの教師を雇っています。教師たちは、ある村には八日、ある村には十日というふうに、村々を回って教えています。彼らは市場に行きます。私はそれを見かけました。帽子のリボンにさしている羽筆(ペン)でそれとわかるのです。読み方だけを教える人は一本の羽筆(ペン)、読み方と算術とを教える人は二本、読本と算術とラテン語とを教える人は三本つけています。そういう人は非常な学者です。何にも知らないということは何という恥辱でしょう! このクイラスの人々のようになさるがよろしいです。」
 彼はかくまじめにまた慈父のように語り、実例がない場合には比喩(ひゆ)をこしらえ、言葉少なく形象豊かに、直接に要点をつくのであった。実に自ら確信し人を説服させるイエス・キリストの雄弁にも似寄っていた。

     四 言葉にふさわしい行ない

 司教の談話は懇切で愉快であった。自分のそばで生涯を送ってる二人の年老いた婦人にもよくわかるようなことばを使った。笑う時には小学児童のような笑い方をした。
 マグロアールは彼を好んで大人(だいじん)様と呼んだ。ある日彼は椅子から立ち上がって、一冊の書物をさがしに図書室に行った。その書物は上方の書棚(しょだな)にあった。彼はかなり背が低い方だったからそれに届かなかった。「マグロアールや、」と彼は言った、「椅子を持ってきておくれ。大人様もあの棚までは届かないよ。」
 彼の遠い親戚(しんせき)の一人であるロー伯爵夫人は、折りさえあればたいてい彼の前で、彼女のいわゆる三人の息子の「希望」なるものを数え立てることを忘れなかった。彼女はごく年老いて死ぬに間もない多くの親戚を持っていたが、彼女の息子たちは自然その相続者であった。三人のうちの末の子は一人の大伯母(おおおば)から十万リーヴルのいい年金を継ぐことになっており、二番目の子はその伯父(おじ)の公爵の称号をつぐことになっており、長男はその祖父の爵位を継承することになっていた。司教はいつも、それらの罪のない許さるべき母の自慢話を黙ってきいていた。それでもある時、ロー夫人がまたそれらの相続や「希望」などの細かい話をくり返していた時、司教はいつになく考え込んでるように見えた。彼女はもどかしそうにその話を止めた。「まあ、あなた、いったい何を考え込んでいなさるのです?」司教は言った。「私は妙なことを何か考えていました。そう、たしか聖アウグスチヌスのうちにあった句と思いますが、『その遺産を継承し能(あた)わざる者に汝(なんじ)の希望をかけよ』というのです。」
 またある時、彼はその地方の一人の紳士の死を報ずる手紙を受けたが、その中には、故人の位階のみならずあらゆる親戚の封建的貴族的資格のすべてが全紙にしるしてあった。「まあ死ぬのに何といういい肩書きだろう!」と彼は叫んだ。「何というりっぱな肩書きの重荷をやすやすと負わせられてることだろう。かようにして虚栄のために墓まで用うるとは、人間というものは何と才知に長(た)けてることか。」
 時として司教は軽い冗談(じょうだん)の口をきいたが、そのうちにはいつもたいていまじめな意味がこもっていた。四旬節の間に、一人の年若い助任司祭がディーニュにきて大会堂で説教をしたことがあった。彼はかなりの雄弁だった。説教の題目は慈善であった。彼は富者に勧むるに地獄をさけて天国を得るため貧者に施さんことをもってし、でき得(う)る限り恐ろしく地獄の光景を説き、楽しく快きものとして天国の様を説いた。聴衆のうちにジェボランという隠退した金持ちの商人がいた。高利貸しの類(たぐい)で、粗悪なラシャやセルや綾織布(あやおり)やトルコ帽などを製造して五十万ばかりを得たのだった。一生のうちで彼は一人の不幸な人にも施しをしたことがなかった。がこの説教いらい、大会堂の玄関にいる年をとった乞食(こじき)の女どもに、日曜ごとに一スー(訳者注 一スーは一フランの二十分の一)を与えている彼の姿が見られた。その一スーを乞食の女たち六人は分けなければならなかった。ある日司教はジェボランがいつもの慈善をしているのを見て、ほほえみながら妹に言った。「そらジェボランさんが一スーで天国を買っているよ。」
 慈善に関する場合には、司教はたとい拒まれてもそのまま引っ込むことをしなかった、そして人をして再考せしむるような言葉を発するのだった。かつて彼は町のある客間で、貧民のために寄付金を集めたことがあった。そこには、老年で富裕で貪慾(どんよく)で、過激な王党であるとともに過激なヴォルテール党ともなるシャンテルシエ侯爵がいた。そういう変わった男もずいぶんいたものである。司教は彼の所へ行ってその腕を捉(とら)えた。「侯爵、あなたは私に何か下さらなければなりません。」侯爵はふり向いて冷淡に答えた。「私にもまた自分の貧民があるんです。」「それを私にいただきたいのです、」と司教は言った。
 ある日司教は大会堂で次の説教をした。
「親愛なる兄弟たち、善良なる皆さん、フランスには、ただ三個の開(あ)き口だけを持ってる民家が百三十二万戸、一つの戸口と一つの窓との二つの開き口だけを持ってる民家が百八十一万七千戸、最後に一つの戸口すなわち一つの開き口だけを持ってる茅屋(ぼうおく)が三十四万六千戸あります。そしてそれは戸口および窓の税と呼ばるるものから由来してるのであります。貧しい家族、年老いた女や幼い小児を、これらの家に起臥(きが)せしめる、熱病やその他病気が起こるのは明らかです。ああ神は人に空気を与えたもう、しかも法律は人に空気を売る。私は法律を咎(とが)むるのではありません。しかし私は神を讃(たた)えるのです。イゼール県、ヴァール県、上下両アルプ二県などにおいては、農夫は手車をも持っていません。人の背によって肥料を運んでいます。彼らは蝋燭(ろうそく)をも持っていません。樹脂(やに)のある木片や松脂(まつやに)に浸した繩屑(なわくず)を燃しています。ドーフィネの山地においても、すべてそのとおりです。彼らは一度に六カ月分のパンを作り、乾かした牛糞(ぎゅうふん)でそれを焼きます。冬には斧(おの)でそのパンをうちわって、食べられるようにするため二十四時間水中に浸すのです。――兄弟たちよ、憐憫(れんびん)の情をお持ちなさい。皆さんの周囲においていかに人が苦しんでるかをごらんなさい。」
 プロヴァンスの生まれであったので彼はたやすく南方の方言に親しむことができた。たとえば、下ラングドック地方の言葉で、「まあ、ごきげんだった。」また下アルプ地方の言葉で、「どこば通っておいでなはったか。」あるいは上ドーフィネ地方の言葉で「よか羊と、脂肪(あぶら)のうんとあるよかチーズを持ってきちゃんなさい。」それはひじょうに人民を喜ばせ、あらゆる人たちと近づきになることを少なからず助けた。彼は茅屋(ぼうおく)の中においても山中においても親しく振舞った。きわめて卑俗な語法できわめて高遠なことを言うことができた。あらゆる方言を話しながらあらゆる人の心の中にはいり込んだ。
 その上彼は、上流の人々に対してもまた下層の人々に対しても同様の態度を取っていた。
 彼は何事をも早急に咎(とが)むることなく、また周囲の事情を斟酌(しんしゃく)せずして咎むることがなかった。彼はいつも言った、誤ちが経てきた道を見てみよう。
 彼自ら自分を昔罪ありし者とほほえみながら言っていただけに、彼は少しも苛酷(かこく)なことがなかった、そしていかめしい道学者のごとく眉根(まゆね)を寄せることもせずに一つの教理を公言していた。その要点は大略次のようであった。
「人は同時におのれの重荷たりおのれの誘惑たる肉体を身に有す。人はそれを担(にな)い歩きしかしてそれに身を委(ゆだ)ぬるなり。」
「人はこの肉体を監視し制御し抑制して、いかんともなす能(あた)わざるに至りて初めてそれに屈服すべきなり。かくのごとき屈服においても、なお誤ちのあることあれど、かくてなされたる誤ちは許さるべきものなり。そは一の墜堕なり、しかれども膝(ひざ)を屈するの墜堕にして、祈祷(きとう)に終わり得べきものなればなり。」
「聖者たるは異例なり、正しき人たるは常則なり。道に迷い、務めを欠(か)き、罪を犯すことはありとも、しかも常に正しき人たれ。」
「能う限り罪の少なからんことこそ、人の法なれ。全く罪の無きは天使の夢想なり。地上に在(あ)りと在るものは皆罪を伴う。罪は一の引力なり。」
 世の人々が声高く叫びたやすく怒るのを見る時、彼はほほえみながら言うのであった。「おおおお、世人が皆犯しているこのことは大いなる罪のように見える。それ、脅かされた偽善が、抗弁することを急ぎ、おのれを隠すことを急いでいる。」
 社会の重荷の下にある婦人や貧者に対して彼は寛容であった。彼はいつも言った。
「婦人や子供や召し使いや、弱者や貧者や無学者など、彼らの誤ちは皆、夫や父や主人や強者や富者や学者などのせいである。」
 彼はなお言った。「無学の人々には能う限り多くのことを教えねばいけない。無料の教育を与えないのは社会の罪である。社会は自ら作り出した闇(やみ)の責を負うべきである。心のうちに影多ければ罪はそこに行なわるる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。」
 上に見らるるとおり、彼は事物を判断するのに彼独特の方法を持っていた。おそらくそれは、福音書から得られたものと察せらるる。
 ある日彼はさる客間で、既に予審がすんで、まさに判決が下されようとしている一つの犯罪事件のことを耳にした。ある困窮な男が、金を得る手段もつき果てて、一人の女とその間にできた子供とを愛するあまり、貨幣を贋造(がんぞう)した。当時なお貨幣贋造は死刑をもって罰せられたものであった。女は男が造った贋造貨幣を初めに使って捕えられた。彼女は拘留されたけれども、彼女の現行犯以外には何らの証拠も得られなかった。ただ彼女のみがその情人(おとこ)の罪証を挙(あ)げることができ、自白によって彼を破滅せしむることができるのであった。彼女は否認した。いかに尋問されても、彼女はかたく否認して動かなかった。そこで検事はある手段を考えついた。彼は情人(おとこ)の不実を言い立て、巧みに偽った手紙の紙片を見せて、彼女には一人の競争者があり、彼女は男から欺かれたのであるということを、ついにその不幸な女に信じさせてしまった。そのとき女は嫉妬(しっと)の情に駆(か)られて、男を訴え、すべてを白状しすべてを立証した。男の罪は定まった。彼はその共犯者の女とともに近々エークスで判決を下されることになっていた。
 人々はその事実を語り合って、皆検事の巧妙さを讃嘆(さんたん)した。彼は嫉妬心を利用して、怒りの念によって真実を現わさせ、復讐心(ふくしゅうしん)から正義を引き出したのであると言われた。司教はそれを黙って聞いていた。そして話が終わると彼は尋ねた。
「その男と女はどこで裁判されるのですか。」
「重罪裁判所においてです。」
 司教はまた言った。
「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」
 また他の悲惨な一事件がディーニュに起こった。一人の男が殺人罪のために死刑に処せられた。その不幸な男はまったく文盲でもなくまったく無知でもなかった。市場の手品師だったこともあり、代書人だったこともある。その裁判は非常に市人の興味をひいた。死刑執行の前日に監獄の教誨師(きょうかいし)が病気になった。刑人の臨終の折りに立会うため一人の牧師が必要になった。で、主任司祭を呼びにやった。ところが主任司祭は次のように言ってそれを断わったらしい。「それは私の関するところでない。そんな仕事やそんな手品師なんか私の知るところでない。私もまた病気なんです。その上、それは私の地位じゃない。」この主任司祭の答えを聞かされて司教は言った。「司祭の言うのは道理だ。それは彼の地位じゃない、私の地位だ。」
 彼は即刻監獄に行って、「手品師」の監房へやって行った。彼はその男の名前を呼んで、その手をとって話をした。彼は終日終夜その男のそばで過ごし、ほとんど寝食を忘れて、刑人の霊のために神を祈り、また自分の霊のためにその刑人を祈った。彼は最も単純な最善の真理を語ってきかせた。彼はその男の父となり兄弟となり友となった。ただ祝福するためにのみ司教であった。あるいは元気をつけてやったりあるいは慰めたりして、その男にいっさいの事を教えた。その男はまさに絶望のうちに死なんとしていたのである。死は彼にとって深淵のようだった。その悲しむべき岸辺(きしべ)に立って震えながら、恐怖のために後退(あとずさ)りしていた。彼はまったく平気でいられるほど無知ではなかった。その処刑は、その深い震動は、われわれを事物の神秘から距(へだ)てわれわれが人生と呼ぶところのあの障壁を、かしこ、ここ、彼のまわりにうち破ったようであった。彼は絶えずその痛ましいすき間からこの世の外をながめていた、そしてそこに暗黒を見るのであった。司教は彼にある光明を見さしてやった。
 翌日、人々が罪人を引き立てにきた時、司教はなおそこにいた。彼は罪人のあとに従った。彼は紫の上着を着、首に司教の十字架章をつけ、繩(なわ)で縛られた罪人と相並んで群集の目前に現われた。
 彼は罪人とともに馬車に乗り、罪人とともに断頭台に上った。前日まであれほど憂悶(ゆうもん)のうちに沈んでいた罪人は、今は輝きに満ちていた。彼は自分の魂がやわらいでいるのを感じ、そして神に希望をつないでいた。司教は彼を抱擁した。そして刃がまさに下されんとするとき彼に言った。「人が殺すところの者を神は蘇(よみがえ)らしめたもう。同胞に追われたる者は父なる神を見い出す。祈れよ、信ぜよ、生命(いのち)のうちにはいれよ。父なる神は彼処(かしこ)にいます。」彼が断頭台から下りてきた時、彼の目の中にはあるものがあって、人々は思わず道を開いた。彼の蒼白(そうはく)さに心を打たれたのか、またはその清朗さに心を打たれたのか、人々はいずれとも自らわからなかった。司教は自ら御殿と呼んでいたその粗末な住家に帰ると、妹に言った。「私は今司教の式をすましてきた。」
 最も崇高なことは往々にして最も了解せられ難いことであるので、その市においても、司教のかかる行ないを解して「それは見栄である」と言う者もあった。がそれは単なる客間の話にすぎなかった。神聖なる行為に悪意を認めない人民たちは、いたく心を動かされて讃嘆した。
 司教の方では、断頭台を見たことは一種の感動であった。心を落ち着けるにはかなりの時間を要した。
 実際断頭台がくみ建てられてそこに立っている時、それは人に幻覚を起こさせるだけのある物を持っている。自らの目で断頭台を見ない間は、人の死の苦痛について一種の無関心であり得る、そして可否を言わずにいることができる。しかしながら断頭台の一つに出会う時には、受くる感動は激しく、断然賛否いずれかを決しなければいられない。ある者はド・メェーストルのごとくそれを讃美するであろう、またある者はベッカリアのごとくそれを呪(のろ)うであろう。断頭台は法律の具現であり、称してこれを刑罰と呼び、中性ではない、そして人をして中立の地位に立つことを許さない。それを見る者は最も神秘な戦慄(せんりつ)を感ずる。あらゆる社会の問題はその疑問点をこの首切り刃のまわりに置く。断頭台は一の幻影である。それは一個の木組(きぐみ)ではない、一個の機械ではない、木材と鉄と綱とで作られた無生の仕掛けではない。それは言い知れぬ一種の陰惨な自発力を有する生物であるかのようである。あたかもその木組は物を見、その機械は物を聞き、その仕掛けは物を了解し、その木材やその鉄やその綱は物を欲するがようである。見る人の魂を投げこむ恐ろしい夢幻のうちに、断頭台は恐怖すべき姿を現わし、そこに行なわるることと絡(から)みつく。断頭台は刑執行人の共働者であり、人を呑(の)みつくし、肉を食い、血をすする。それは法官と大工とによって作られた一種の怪物である。おのれが与えたるすべての死より成るある恐るべき生に生きているらしい一つの悪鬼である。
 ゆえに、その印象は深刻でまた恐るべきものであった。刑執行の翌日およびその後なお長い間、司教は心が圧倒せられたように見えた。あの最期の瞬間の激越な清朗さは消え失(う)せ、社会的正義の幻が彼につきまとった。あらゆる仕事から常に輝きに満ちた満足の意をもって帰ってきていた彼は、今や自らおのれを咎めてるもののようであった。時々彼は自分自身に話しかけ、半ば口の中で憂うつな独白をもらした。その独白の一つを、ある晩、彼の妹は聞き取った。「それがかくも恐ろしいものとは私は信じていなかった。人間の法(おきて)に気がつかないほど神の法に専心するのは一つの誤りだ。死は神の手にのみあるものである。いかなる権利をもって人はこの測り知るべからざるものに手を触れるのか?」
 しかし時とともに、それらの印象は薄らぎ、そしておそらく消え失せたであろう。それでも、以来、司教はその刑場を通ることを避けているのが、傍(はた)にもわかった。
 人はいつでも病人やまたは臨終の人の枕辺(まくらべ)にミリエル氏を呼び迎えることができた。彼はそこに自分の最も大なる務めと仕事とがあることを知らなくはなかった。寡婦や孤児の家では、わざわざ頼む必要はなかった。彼は自分できてくれたのである。愛する妻を失った男や子供を失った母親のそばに、彼はすわって長い間黙っていた。彼は黙(もだ)すべき時を知っていたように、また口をきくべき時をも知っていた。嘆賞すべき慰藉(いしゃ)者よ! 彼は忘却によって悲しみを消させることなく、希望によってそれを大きくなし崇(たか)めさせんとした。彼は言った。「亡(な)くなった人の方をふり返るその仕方を注意しなければならないのです。滅び朽ちることを考えてはいけません。じっと見つめてごらんなさい。あなたは、あなたが深く愛する死者の生ける光耀(こうよう)を高き天のうちに認むるでしょう。」信仰は健全なるものであることを彼は信じていた。忍従の人の例を引いて絶望の人を教え和(やわら)げんとつとめた。そして星を見つめる人の悲しみを示して、墓穴を見つめる人の悲しみを変形させんとつとめた。

     五 ビヤンヴニュ閣下長く同じ法衣を用う

 ミリエル氏の私生活はその公生活と同じ思想で満たされていた。その近くに接して見ることのできる人にとっては、この司教が自ら甘んじている貧窮の生活は、おごそかな、また美しいものであった。
 すべての老人や多くの思想家のごとく、彼は少ししか眠らなかった。がその短い眠りはいつも深い睡眠であった。朝は一時間のあいだ瞑想(めいそう)にふけり、それから大会堂かまたは家の祈祷所かで弥撒(ミサ)を唱えた。弥撒がすむと自家の牛から取った乳につけて裸麦のパンの朝食をし、それから仕事をした。
 司教の職は非常に忙しいものである。たいてい司教会員である司教書記を毎日引見し、また管轄の主(おも)な助任司祭をほとんど毎日引見しなければならない。集会を監督し、允許(いんきょ)を与え、祈祷書や教区内の教理問答や日課祈祷書など教理に関するいっさいの書物を調べ、教書を書き、説教を認可し、司祭らと村長らとの間を疎通させ、国家へ施政上の通信をなし、ローマ法王へ宗教上の通信をしたたむるなど、なすべき無数の仕事がある。
 それら無数の仕事やそれから祭式や祈祷などをしてなお余った時間を、彼はまず貧しき者や病める者や悩める者のために費やした。そしてなおその残りの時間は仕事に費やした。あるいは自分の庭の土地を耕やし、あるいは書物を読み文を綴(つづ)った。この二種の仕事のために彼は一つの言葉きり持たなかった、すなわちそれを栽培と呼んでいた。彼は言った、「人の精神も一つの庭である。」
 正午に彼は昼食をした。それは朝食と同じくらいの粗末なものであった。
 天気の時には二時ごろに家を出かけて、しばしば破屋(あばらや)に立ち寄ったりしながら、徒歩で田舎(いなか)やまたは町の方へ散歩した。一人で道を歩きながら、何か考えに沈み込み、目を伏せて長い杖(つえ)に身をささえ、綿のはいった暖い紫の絹外套(がいとう)を着、紫の靴足袋(くつたび)と粗末な靴とをはき、三すみから三つの金モールの縒総(よりふさ)がたれてる平たい帽子をかぶっている彼の姿が、よく見られた。
 彼が姿を現わす所はどこでも祭りのようであった。彼の入来は何かしら人を暖め、光明をもたらすがようだった。子供や老人は、ちょうど太陽に対するように司教に対して戸口へ出てきた。彼は人々を祝福し、人々は彼を祝福した。何か必要に迫られてる者には皆、人々が彼の家を教えてやった。
 彼処(かしこ)此処(ここ)と彼は歩みを止めて、小さい男の子や女の子に話をし、母たちに笑顔を見せた。彼は金のある間は貧しい人々を訪れ、金がなくなれば富める人々を訪れた。
 彼は長い間その法衣を着続けていて、それを人から知られることをあまり好まなかったので、紫の絹外套を着ずには決して町へ出かけなかった。夏には、少しそれに困らされた。
 晩は八時半に妹とともに夕食をした。マグロアールが彼らのうしろに立って給仕をした。この上もなく粗末な食事であった。けれども司祭たちのだれかが食事につらなることがあると、マグロアールはその機を利用して、湖水で取れるいい魚類や山で取れるりっぱな鳥類などを閣下に食べさした。どの司祭もみなごちそうの口実になった。司教はなすままにさしていた。それをほかにしては、彼のいつもの食物はほとんどゆでた野菜と油の汁とだけだった。それで町ではこんなことが言われた、「司教は司祭の御馳走をしない時には、トラピストの御馳走をする。」(訳者注 トラピストは極端な質素簡易な生活を主義とするトラップ派の信者)
 夕食後に彼はバティスティーヌ嬢やマグロアールとともに三十分ばかり話をし、それから室に引っ込んで、紙片や二折本の余白などに物を書いた。彼は文ができ、またいくらか学者だった。彼はかなり珍しい書き物を五つ六つ残した。なかんずく創世記の一節「元始に神の霊水の上に漂いたりき」という句についての論があった。彼はこの句に三つの原文を対照さした。アラビヤの文には、「神の風吹きたりき」とあり、フラヴィウス・ヨセフスによれば、「いと高きより風地上に落ちきたりたりき」であり、終わりにオンケロスのカルデア語の説明によれば、「神よりきたれる風水の面に吹きたりき」であるというのだった。も一つの論においては、本書の作者の曾祖伯父(おおおじ)であるプトレマイスの司教ユーゴーの神学上の著述を調べて、十八世紀にバルレークールという匿名で公にされた種々の小冊子はこの司教に帰せなければならない、ということを彼は確かめている。
 時としては、手にした書物が何であろうとその読書の最中に、彼は突然、深い瞑想に沈んだ。そしてその瞑想からさめると、いつも書物のページに数行したためるのであった。その数行は往々その書物に書いてあることと何の関係もないことがあった。ここに彼がある四折本の余白に書きつけた文句が一つある。その四折本の題はこういうのであった。「クリトン将軍、コルンワリス将軍、並びにアメリカ鎮守府の提督らとかわしたる、ゼルマン卿の書信。ヴェルサイユ、ポアンソー書店、および、パリー、オーギュスタン河岸、ピソー書店、発行。」
 彼の文は次のごときものである。
「おお汝(なんじ)はだれぞ!
 伝道書は汝を全能と呼び、マカベ書は汝を創造主と呼び、エベソ人(びと)に贈れる文(ふみ)は汝を自由と呼び、ベーラク書は汝を無限と呼び、詩篇(しへん)は汝を知恵および真理と呼び、ヨハネは汝を光と呼び、列王記は汝を主と呼び、出埃及記(しゅつエジプトき)は汝を天と呼び、レヴィ記は聖と、エズラ書は正義と、万物は神と、人は父と呼ぶ。しかれどもソロモンは汝を慈悲と呼ぶ。しかして、これこそ汝のあらゆる名のうちの最も美しきものなり。」
 九時ごろに二人の女は退いて二階の各自の室に上がってゆき、司教は階下(した)に一人で朝までとどまっていた。
 ここに吾人(ごじん)は、ディーニュの司教のすまいの明瞭(めいりょう)な概念を与えておかなくてはならない。

     六 司教の家の守護者

 司教が住んでいた家は、前に言ったとおり、一階と二階とから成っていた。一階に三室、二階に三室、その上に一つの屋根裏の部屋(へや)があり、家のうしろに約二反歩たらずの庭があった。二人の女は二階を占領し、司教は階下(した)に住んでいた。道路に面した第一の室は食堂となり、第二の室は寝室となり、第三の室は祈祷所(きとうしょ)となっていた。この祈祷所から出かけるには寝室を通らなければならないし、寝室から出かけるには食堂を通らなければならなかった。祈祷所の奥の方に、人を泊める場合の寝床が置いてあるしめきった寝所が一つあった。司教はこの寝床を、教区の事件や用事でディーニュに来る田舎(いなか)の司祭たちの用に供した。
 家に附属して庭のうちに建てられている小さな建物は、もと病院の薬局であったが、料理場兼物置きにされている。
 そのほかなお庭には、もと施療院の料理場となっていた家畜小屋があったが、司教はそこに二頭の牝牛(めうし)を飼っていた。それから取れる牛乳の量はどんなに少ない時でも、毎朝必ずその半分を施療院の病人たちに送った。「私は自分の十分の一税を払うのである、」と彼は言っていた。
 彼の部屋はかなり広くて、天気の悪い時など暖めるのにかなり困難であった。ディーニュでは薪(まき)がきわめて高かったので、彼は牛小屋のうちに一つの部屋を板で仕切らせることを思いついた。大寒の宵などを彼がすごしたのはそこであった。彼はそれを冬の座敷と呼んでいた。
 この冬の座敷には、食堂と同じように、四角な白木の卓と四つの藁椅子(わらいす)とのほか何の道具もなかった。食堂の方はそれになお顔料で淡紅色に塗られた古い戸棚(とだな)が一つ備えてあった。同じような戸棚を白い布とまがいレースとで適宜におおって、司教は祈祷所(きとうしょ)に備える祭壇を作っていた。
 彼が悔悟をさしてやった金持ちや、ディーニュの信仰深い婦人たちは、しばしば閣下の祈祷所に美しい新しい祭壇を備える費用を出し合ったが、彼はそのたびごとに金を受け取って、それを貧しい者に与えてしまった。彼は言った。「祭壇のうちでの最も美しいものは、神に感謝している慰められた不幸な人の心である。」
 祈祷所には祈念台の藁椅子(わらいす)が二つと、寝室には同じく藁をつめた肱掛椅子(ひじかけいす)が一つあった。偶然一度に七八人の客がある場合に、すなわち県知事や将軍や兵営の連隊参謀官たちや、または神学予備校の数人の生徒などが来る場合には、牛小屋のうちの冬の座敷の椅子や、祈祷所の祈念台や、寝室の肱掛椅子などを取りに行かなければならなかった。そのようにして客のために十一の座席だけは設けることができた。新しく客が来るごとに、各室の道具が持ち出された。
 時としては十二人の集まりとなることもあった。そんな時司教は、冬ならば暖炉の前に立ち、夏ならば庭を一巡しようと言い出して、その困った情況をまぎらすのであった。
 それからまたしめきった寝所に一つの椅子があった。しかしそれは、つめてある藁も半ば無くなり、足も三本きりなかったので、壁によせかけてでなければ役に立たなかった。バティスティーヌ嬢はまた自分の室の中に、以前は金で塗られて花模様の南京繻子(なんきんじゅす)でおおわれている木製のきわめて大きな安楽椅子を一つ持っていた。はしご段があまり狭かったので、それは窓から二階に上げなければならなかったものである。でそれは予備の道具のうちには数えることができなかった。
 バティスティーヌ嬢の望みは、ばら模様の黄いろいユトレヒトのビロードを張り、白鳥の頭を刻んだマホガニーでできてる客間の一組みの道具を、長椅子といっしょに買いたいということだった。しかしそれには少なくとも五百フランかかるのであった。そしてそのためにいくら貯蓄しても五年間に四十二フラン十スーしか得ることができなかったので、ついに彼女はその望みを投げうってしまった。がおよそおのれの理想に達することを得る者はだれがあろう。
 司教の寝室は寝室としてこの上もなく簡素なものであった。一つの出入り口が庭に向かって開かれていて、それに向き合って寝台があった。それは緑のセルの帷(とばり)がかかってる鉄製の病院用寝台であった。寝台の陰の所の幕の向こうに、昔世に時めいた人の高雅な習慣の面影がなお残っている化粧道具があった。二つの扉(とびら)があって、一つは暖炉の近くにあって祈祷所(きとうしょ)の方に通じ、も一つは書棚の近くにあって食堂の方に通じていた。書棚は大きなガラス戸棚で書物がいっぱいつまってい、暖炉は大理石模様に塗られた木がつけられていて通例は火がなかった。暖炉のうちに鉄の薪台が一対あって、以前は銀粉を塗られていた花帯と丸みぞとで飾られてる二つの花びんが備えてあった。それは司教の家の一種のぜいたく品となっていた。その上の方の普通鏡が置かれる場所には、銀色のはげ落ちた銅製の十字架像が、金箔(きんぱく)のはげた木のわくのうちに、すり切れた黒ビロードに留めてあった。出入り口の近くに、インキ壺(つぼ)の置いてある大きな卓があって、上には雑多な紙や分厚な書物がのっていた。卓の前に藁の肱掛椅子(ひじかけいす)があった。寝台の前には祈祷所から持ってこられた一つの祈念台があった。
 楕円形(だえんけい)のわくの中に入れられた二つの肖像が寝台の両側に壁にかけられていた。画布の余地に像の横に小さな金文字がその名をしるしていた。一人はサン・クロードの司教であるド・シャリオ師であり、一人はアグドの副司教でありグラン・シャンの修道院長でありシャルトル教区のシトー会員であるトゥールトー師であった。司教は病院の患者から引き継いでこの室にはいった時、そこにこの二つの肖像を見い出してそのままにしておいたのだった。二人は牧師であって、またおそらく病院への寄付者であったろう。その二つの理由から司教は二人を尊敬したのであった。二人について彼が知っていたことは、一人は司教に他は扶持付牧師に、同じ一七八五年四月二十七日に国王から任ぜられたということだけであった。マグロアールが塵(ちり)をはらうためその画面を壁からおろした時、グラン・シャン修道院長の肖像のうしろに、四つの封糊でとめられて時を経て黄色がかっている小さな四角な紙に、白っぽいインキで、それらのことがしるしてあるのを、司教は見いだしたのであった。
 窓には粗悪な毛織りの古代窓掛けがあったが、それは非常に古くなっていて、新しいのを買わないで倹約するためには、マグロアールはそのまん中に大きな縫い目をこしらえなければならなかった。その縫い目は十字になっていた。司教はよくそれを指(さ)して言った。「何とうまくいってることだろう。」
 一階も二階もすべての室はみな、ことごとく石灰乳で白く塗ってあった。それは兵営や病院に普通のやり方だった。
 けれども後年になってマグロアールは、いずれそれは後に語ることではあるが、バティスティーヌ嬢の室には、その白塗りの壁紙の下に絵画があるのを見い出した。施療院になる前、この建物は市民の集会所であった。それでそういう装飾がなされたものであろう。各室は皆赤い煉瓦(れんが)で敷かれていて、それは毎週洗われ、また寝台の前には藁で編んだ蓆(むしろ)が置かれていた。その上この住居は、二人の婦人で保たれているので、いたるところ心地(ここち)よいほどきれいであった。それが司教の許した唯一の贅沢だった。彼は言った。「それは貧しい人々から何物をも奪いはしない。」
 しかしながら、司教には昔の所持品のうちから、銀製の食器類が六組みと大きなスープ匙(さじ)が一つ残っていたことを言わなければならない。それが粗末な白い卓布の上に光り輝いているのを、毎日マグロアールはながめて喜んでいた。そしてここにはディーニュの司教のありのままを描いているのだから、次の一事もつけ加えておかなくてはならない。すなわち彼は一度ならずこう言った。「銀の器で食事することはなかなかやめ難いものである。」
 この銀の食器に加うるに、彼がある大伯母(おおおば)の遺産から所持している、二つの大きな銀の燭台(しょくだい)があった。それには二本の蝋燭(ろうそく)が立てられてたいてい司教の暖炉の上に置かれていた。夕食に客がある場合には、マグロアールは両方の蝋燭に火をともして、その二つの燭台を食卓の上に置いた。
 司教の室のうちには、寝台の枕頭(まくらもと)に小さな戸棚が一つあった。マグロアールはその中に毎晩六組みの銀の食器と一本の大きな匙とをしまった。戸棚の鍵(かぎ)はいつもつけっ放しであったことは言っておかなければならない。
 後園は前述のかなり見すぼらしい建物で、いくらかそこなわれていたが、池のまわりに放射している十字に交わった四つの道がついていた。またも一つの道は、囲いの白壁に沿ってそのまわりに走っていた。それらの道は黄楊樹(こうようじゅ)でかこんだ四つの方形を作っていた。その三つにマグロアールは野菜を栽培し、残った一つに司教は草花を植えていた。またそこここに数本の果樹があった。
 マグロアールは一度、一種の穏やかな皮肉の調子で彼に言った。「旦那(だんな)様はどんなものでも利用なされますのに、これはまた地面をむだにしていらっしゃいます。花よりはサラダでもお植えなされたがよろしいでしょうに。」司教はそれに答えた。「マグロアール、それは考え違いだよ。美しいものは有用なものと同じように役に立つものだ。」それからちょっと言葉を切って、またつけ加えた。「いやおそらくいっそう役に立つだろう。」
 三つか四つの花壇でできているこの第四の区画は、ほとんど書籍と同じくらいに司教の心をとらえていた。木を切ったり草を取ったり、あちこちに地を掘って種をまいたりしながら、喜んでそこに一、二時間を過した。彼は園芸家のように、虫を敵視することがなかった。その上何ら植物学に対して私見を有しなかった。類別や分類などを知らなかった。また少しもトゥールヌフォールの方法と自然栽培法とのいずれかを選ぶこともせず、胞果と子葉(しよう)とのいずれかを取ることもなく、ヂュシユーとリンネとのいずれかの説を取るということもしなかった。彼は植物を研究することもせず、ただ花を愛した。学者をもはなはだ尊敬していたが、なおいっそう無学者を尊敬していた。そして決してこの両者に対する尊敬を失わないで、夏の夕方など毎日青く塗ったブリキのじょうろで花壇に水をやった。
 家には錠をおろされる戸は一枚もなかった。前に言ったように、石段もなくすぐに会堂の広場に出られる食堂の戸口は、昔の牢屋(ろうや)の戸口のように錠前と閂(かんぬき)とがつけられていた。が司教はそれらいっさいの金具をとり除いたので、戸口は昼も夜も□(かきがね)でしめられるばかりであった。通りかかりの人でも何時たるを問わず、ただそれを押せば開くのだった。初め二人の女はこの締りのない戸口をたいへん心配したが、司教は彼女たちに言った。「もしよければ自分の室に閂をつけさせるがいい。」でついに彼女たちも彼と同様に安心し、また少なくとも安心したふうをするようになった。ただマグロアールだけは恐ろしがった。司教の方は、彼が聖書の余白に自ら書きつけた次の三行の句に、その考えが説明され、もしくは少なくとも示されている。「ここにその微妙なる意味あり。医師の戸は決して閉さるるべからず、牧師の戸は常に開かれてあらざるべからず。」
 医学の哲理と題する他の一冊の書物に、彼はも一つ文句を書いていた。「余もまた彼らのごとく医師に非(あら)ざるか。余もまた余が患者を有す。第一に、彼らが病人と称する彼らの患者を余は有し、次に、余が不幸なる者と呼ぶ余の患者を有するなり。」
 他に彼はまたしるした。「汝に宿を求むる者にその名を尋ぬべからず。自ら名乗るに心苦しき者こそ特に避難所を要する人なればなり。」
 ある日のことたまたま、クールーブルーの司祭であったかまたはポンピエリーの司祭であったかちょっとわからないが、あるりっぱな主任司祭が、たぶんマグロアールに説かれてであろう、司教に次のことを尋ねてみた。だれでもはいろうとする人の意のままに昼夜戸を開いておくことは、ある意味において軽率なふるまいとはならないと信ずるのであるか、そしてまた、かくも締りのない家のうちに何か不幸な事が起こりはしないかを恐れないのであるか。すると司教は、おごそかに、しかもやさしく司祭の肩に手を置いて言った。「神が家を守って下さらなければ、人がいかにそれを守っても無益です。」それから彼は顧みて他のことを言った。
 彼はよく好んでこんなことを言った。「竜騎兵の隊長の勇気というものがあるように、牧師の勇気というものがある。」またつけ加えて言った。「ただわれわれ牧師の勇気は静かなものでなければならない。」

     七 クラヴァット

 ここに自然、省いてならない一事を述べておかなければならない。それはディーニュの司教がいかなる人物であったかをよく示す事がらの一つだから。
 オリウールの峡路を荒した山賊ガスパール・ベスの一隊が瓦解(がかい)した後、その首領の一人であったクラヴァットという者が山中に逃げ込んだ。彼はガスパール・ベスの仲間の残党である無頼の徒とともに、しばらくニースの伯爵領に身を潜めていたが、それからピエモンの方へ行き、そして突然フランスのバルスロンネットの方面に現われた。ジューグ・ド・レーグルの洞窟(どうくつ)に身を隠して、そこからユベーおよびユベイエットの谷合いを通って村落の方へやってきた。アンブロンまでも出かけてゆき、ある晩などは大会堂に侵入して聖房の品物を奪い去った。その略奪はその地方を悩ました。憲兵をして追跡せしめたが無益であった。彼はいつも巧みに脱し、時としては猛烈な抵抗を試みた。実に不敵な悪漢だった。
 その恐惶(きょうこう)の最中に司教がそこへやって行った。巡回をしていたのである。シャストラルで、村長は彼を訪れてきて途を引き返すように勧めた。クラヴァットはアルシュおよびその向こうまで山を占領していたのである。警護の人をつれてもなお危険であった。三四人の不幸な憲兵をいたずらに危険にさらすのみだった。
「それですから、」と司教は言った、「私は警護なしに一人で行くつもりです。」
「そんなお考えを……。」と村長は叫んだ。
「そう考えているのです。で私は絶対に憲兵をお断わりします。そして一時間後には出立つするつもりです。」
「御出立つ?」
「出立つします。」
「お一人で?」
「一人で。」
「閣下、そんなことをなされてはいけません。」
「あの山の中には、」と司教は言った、「ごく小さな憐(あわ)れな村があります。もう三年このかたそこを見舞わないでいます。皆私の善良な友だちです。穏和な正直な羊飼いたちです。飼っている山羊(やぎ)のうち三十頭につき一頭を自分のものにしています。彼らはいろいろな色のごく美しい毛糸ひもをこしらえたり、または六つの穴のある小さな笛で山の歌を吹きます。時々は彼らにも神様のことを話してきかせなければなりません。物を恐(こわ)がっている司教のことをきいたら彼らは何と申すでしょう。もし私があそこへ行かなかったら彼らは何と申すでしょう。」
「けれども閣下、山賊が! もし山賊にお出会いなされたら!」
「いや、」と司教は言った、「それも考えています。御道理(ごもっとも)です。山賊に出会うかも知れません。彼らもまた神様のことを話してきかせられる必要があるに違いありません。」
「ですけれども彼らは徒党を組んでいます。狼(おおかみ)の群れでございます。」
「村長どの、イエスが私を牧人(ひつじかい)にされたのは、まさにそれらの群れの牧人にされたのかもわかりません。だれが神の定められた道を知りましょう。」
「閣下、彼らはあなたの持物(もちもの)を奪うでしょう。」
「私は何も持っていません。」
「あなたを殺すかも知れません。」
「他愛もないことをつぶやいて通ってゆく年老いた牧師をですか? ばかな! それが何になるでしょう。」
「ああそれでも、もしお出会いなされたら!」
「私は彼らに貧しい人々のための施しを求めましょう。」
「閣下、どうか行かないで下さい。お命にかかわります。」
「村長どの、」と司教は言った、「ちょうどそのことです。私がこの世にいるのは、自分の生命(いのち)を守るためではなくて、人々の魂を守らんがためです。」
 彼のなすに任せるよりほかはなかった。彼は案内者になろうと自ら申し出た一人の子供だけを伴なって出立つした。彼の頑固(がんこ)はその付近の人々の口に上り、そして非常に人々の心を痛めた。
 彼は妹をもマグロアールをも連れて行こうとしなかった。彼は騾馬(らば)の背に乗って山を通り、だれにも出会わず、無事に彼の「善良な友」たる羊飼いたちのもとに着いた。そこで彼は信仰を説き祭式を執り物を教え道徳を説きなどして、十五日の間留まっていた。出発の迫ってきた頃彼は正式をもって讃歌(テデオム)を歌うことにした。彼はそのことを主任司祭に話した。しかしいかにしたらいいか。司教の飾具なんか一つもない。村のみすぼらしい聖房と平紐(ひらひも)で飾られたダマ織りの古いすりきれた二三の法衣とが、使用し得らるるすべてであった。
「なに、」と司教は言った、「司祭さん、やはり会衆に讃歌(テデオム)のことを伝えておきましょう。どうにかなるでしょう。」
 人々は付近の会堂をさがし歩いた。が付近の教区のすべてのりっぱなものを集めても、大会堂の一人の合唱隊長の適宜な衣装にも足りなかった。
 この当惑の最中に、二人の見知らぬ騎馬の男が大きな一つの箱を持ってきて、司教へと言って司祭の家に置き、そのまま立ち去ってしまった。箱を開いてみると中には、金襴(きんらん)の法衣、金剛石をちりばめた司教の冠、大司教の十字架、見事な笏杖(しゃくじょう)、その他一月前にアンブロンのノートル・ダーム寺院から盗まれたすべての司教服がはいっていた。箱の中に一枚の紙があって、その上に次の語が誌(しる)してあった。「クラヴァットよりビヤンヴニュ閣下へ。」
「だから、どうにかなるでしょうと私が申したのです!」と司教は言った。それから彼はほほえみながらつけ加えた。「司祭の白衣で満足する者に、神は大司教の法衣を下されます。」
「閣下、」と司祭は頭を振り立てながらほほえんでつぶやいた、「神様か――または悪魔か。」
 司教は司祭をじっとながめた、そしておごそかに言った。「神です。」
 司教がシャストラルに帰っていった時、またその途中でも、人々は出てきて不思議そうに彼をながめた。彼はシャストラルの主任司祭の家に、彼を待っていたバティスティーヌ嬢とマグロアールとを見い出した。彼は妹に言った。「ごらん、私が言うとおりではなかったか。憐(あわ)れな牧師は何も持たずにあの憐れな山中の人たちの所へ行った、そしてたくさんのものを手にして帰ってきた。私はただ神に対する信頼の念だけを持って行ったが、大会堂の宝を持ち返ってきた。」
 その晩床につく前に彼はなお言った。「決して盗賊や殺人者をも恐れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。われわれはわれわれ自身を恐れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険はわれわれの内部にある。われわれの頭(こうべ)や財布を脅かすものは何でもない。われわれの心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。」
 それから彼は妹の方へふり向いた。「ねえお前、決して牧師の方から隣人に向かって用心をする必要はない。隣人がなすことは神の許されるところである。危険が身に迫ってると思う時には、ただ神を祈るだけのことだ。われわれ自身のためにではない、われわれの兄弟がわれわれのことで罪を犯すことのないようにと、神を祈ればよいのだ。」
 もとよりかかる変わった事件は彼の生涯(しょうがい)においてきわめて稀(まれ)であった。われわれはただわれわれの知るところだけを物語るのである。普通彼はいつも同じ時間に同じようなことをしつつ生涯を過ごしていたのである。その一年の一月(ひとつき)もその一日の一時間と変わりはなかった。
 アンブロン大会堂の「宝」がどうなったかについては、それを尋ねられるとわれわれは当惑するのである。きわめてりっぱなもの、非常に心をそそるもの、不幸な人たちのために盗むによいものがそこにあった。盗むとしてもそれは実際既にもう盗まれてあったのである。仕事はもう半ば遂げられていた。ただ盗みの方面を変えることだけが残っていた、そしてただ貧しい人々の方へ少しばかり進ませることだけが。といってもわれわれはこのことについては何にも言明すまい。ただたぶんこの事がらに関係がありそうに思わるるかなり曖昧(あいまい)な手記が、司教の書き物のうちに見いだされた。次のような文句である。「それは大会堂に戻さるべきかもしくは施療院に送らるべきか、その決定が問題なり。」

     八 酔後の哲学

 前に述べたあの上院議員は悧巧(りこう)な男で、自分の途に当たるあらゆるもの、いわゆる良心、信仰、正義、義務などと称せらるる障害物を意に介せずして、一直線におのれの道を進んできた男であった。彼はまっすぐに目的に向かって進み、昇進と利益との途中において一度も躓(つまず)かなかったのである。もと検事であって、成功して性質が柔らぎ、決して悪意のある男ではなかった。自分の子供や婿や親戚(しんせき)やまたは朋友(ほうゆう)などにさえ、できるだけのわずかな世話はしてやった。いい方面やいい機会や不意の利得などを巧みに世の中からつかんだ。その他のことはばかげてると彼は思っていた。才気があり、またかなり学問もあって、エピクロスの弟子(でし)であると自ら思っていたが、おそらくビゴール・ルブランの描いた人物くらいのものに過ぎなかったろう。無窮とか永久とかいうことや、「司教輩の児戯」などについては、よく愉快そうに冷笑した。時としては、じっと聞いているミリエル氏の前でさえ、愛すべきおごそかな調子でそれらのことを嘲笑(あざわら)った。
 ある何か半ば非公式の機会に、伯爵(この上院議員)とミリエル氏とは知事の家で晩餐(ばんさん)を共にすることになった。食後のお茶の時に、上院議員は少し上きげんでしかも品位をくずさずに言い出した。
「さあ司教さん、少し論じようではないですか。上院議員と司教とはまともには妙に顔を見合わせ悪(にく)いものだが、われわれはお互いに先覚者である。私は君にこれから一つ打ち明けて話をしよう。私は私の哲学を持っている。」
「なるほどもっともです。」と司教は答えた。
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