レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 修道女は何か言おうとした。しかしかろうじて不明な音を少しつぶやき得たばかりだった。それでもついに彼女はこれだけ言うことができた。
「市長様は、最後にも一度あのかわいそうな女(ひと)を見ておやりになりたくはございませんか。」
「いや、」と彼は言った、「私は追跡されています。その室で捕(つか)まるばかりです。そうなるとかえってあの女の霊を乱すでしょう。」
 彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、大きな物音が階段にした。二人は階段を上がって来る騒々しい足音を聞いた。そしてまた、できるだけ高い鋭い声で門番の婆さんの言うのが聞えた。
「あなた、私は誓って申します、昼間も晩もだれ一人ここへははいりませんでした、それに私は一度も門から離れたこともなかったのです。」
 一人の男が答えた。
「それでもあの室に燈火(あかり)が見える。」
 二人にはジャヴェルの声だとわかった。
 その室は、扉(とびら)を開くとそれで右手の壁のすみが隠れるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火を吹き消した、そしてそのすみにはいった。
 サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。
 扉(とびら)は開かれた。
 ジャヴェルがはいってきた。
 数人の者のささやく声と、門番の婆さんの言い張る声とが、廊下に聞こえていた。
 修道女は目をあげなかった。彼女は祈っていた。
 蝋燭(ろうそく)は暖炉の上にあって、ごく淡い光を投げていた。
 ジャヴェルは修道女を見て、茫然(ぼうぜん)と立ち止まった。
 ジャヴェルの根本、彼の元素、彼の呼吸の中心、それはあらゆる権威に対する尊敬であったことは、読者の思い起こし得るところであろう。彼はまったく単一であって、何らの異論も制限も容(ゆる)さないのだった。もとより彼にとっては、宗教上の権威はすべての権威の第一なるものであった。彼はこの点について他のあらゆることについてと同じく、厳格で皮相的で正確だった。彼の目には、牧師は誤りをすることのない者であり、修道女は罪を犯すことのない者であった。それはいずれも、真実を通す時のほかは決して開かぬただ一つの扉でこの世と通じてる魂であった。
 修道女を認めて、彼の第一の動作は引き退(さが)ろうとすることだった。
 けれどもまた、彼を捕え彼を反対の方向に厳として押し進めるも一つの義務があった。そして彼の第二の動作は、そこに立ち止まり、少なくとも一つの問いをかけてみることだった。
 しかもそれは生涯に一度も嘘(うそ)を言ったことのないサンプリス修道女だった。ジャヴェルはそれを知っていた、そして特にそのために彼女を尊敬していた。
「童貞さん、」と彼は言った、「この室にはあなた一人ですか。」
 恐ろしい一瞬間があった。あわれな門番の婆さんは気が遠くなるような心地がした。
 修道女は目をあげて、そして答えた。
「はい。」
「だが、」とジャヴェルは言った、「しつこく言うのをお許し下さい、私の義務ですから。あなたは今晩、だれか、一人の男を見かけませんでしたか。その男が逃走したのでさがしているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。あなたはその男を見かけませんでしたか。」
 修道女は答えた。「いいえ。」
 役女は嘘(うそ)を言った。相次いで、躊躇(ちゅうちょ)することなく、即座に、献身的に、続けて二度嘘を言った。
「失礼しました。」とジャヴェルは言った。そして彼は深くおじぎをして退いて行った。
 おお聖(きよ)き貞女よ! 汝は既に久しき以前よりこの世の者ではなかった。汝は光明のうちに汝の姉妹の童貞たちや汝の兄弟の天使たちと伍(ご)していたのである。その虚言も汝のために天国において数えられんことを!
 サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとってはある決定的なものであって、吹き消されたばかりでテーブルの上にまだ煙ってる手燭の訝(いぶか)しさにも気を留めなかったのである。
 一時間ほど過ぎて、一人の男が、木立ちと靄(もや)との間を、パリーの方へ向かってモントルイュ・スュール・メールから急いで遠ざかって行った。それはジャン・ヴァルジャンだった。彼に出会った二、三の荷車屋の証言によって、彼は一つの包みを持ち、身には作業用の上衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその上衣を手に入れたか? だれにも知られなかった。ところで、数日前に工場の病舎で一人の老職工が死んだが、残ってるものとてはその作業服だけだった。彼が着ていたのはたぶんそれであったろう。
 最後にファンティーヌについて一言する。
 吾人(ごじん)は皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。
 司祭はジャン・ヴァルジャンが残していったもののうちからできるだけ多くの金を貧しい人々のために取って置いた。彼はそうするのがいいと信じた、そしてまたおそらくそれは至当であったろう。結局、だれに関係したことであったか、一人の徒刑囚と一人の醜業婦とに関することではなかったか。それゆえに彼は、ファンティーヌの埋葬を簡単にし、共同墓地と言われるただ形(かた)だけの所に彼女を葬った。
 ファンティーヌはかくて、すべての人のものでありかつ何人(なんぴと)にも属さない墓地、貧しい人々の消え失せゆく無料の墓地の一隅(いちぐう)に埋められた。ただ幸いにも神はその魂のいずこにあるかを知りたもう。人々は何人たるを問わない無名の死骨の間に暗やみのうちにファンティーヌを横たえた。彼女は塵(ちり)にまみれてしまった。彼女は共同墓地に投げ込まれた。彼女の墓地はその寝所に似寄っていた。




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