レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「まあ、市長様、」と彼女はついに叫んだ、「私はあなたのいらっしゃる所は……。」
 彼女は言い澱(よど)んだ。その言葉の終わりは初めの言い方に対して敬意を欠くことになるのだった。ジャン・ヴァルジャンは彼女にとってはやはり市長様であった。
 彼は彼女の思ってるところを言ってやった。
「牢屋だと思ってたというんだろう。」と彼は言った。
「私はなるほど牢屋にいた。だが私は窓の格子(こうし)をこわし、屋根の上から飛びおり、そしてここにきたのだ。私は自分の室に上がってゆくから、サンプリス修道女を呼びに行ってくれ。きっとあのあわれな女のそばにいるだろうから。」
 婆さんは急いでその言葉に従った。
 彼は彼女に何らの注意も与えなかった。自分で用心するよりもなおよく彼女は自分を保護してくれることと、彼は信じきっていたのである。
 どうして彼が正門をあけさせないで中庭にはいって来ることができたかは、だれにもわからなかったことである。彼は小さな潜(くぐ)り戸を開く合い鍵を持っていて、それを常に身につけてはいた。しかし身体をしらべられてその合い鍵も取り上げられたはずであった。この点は不明のままに終わった。
 彼は自分の室に通ずる階段を上がっていった。その上までゆくと、手燭を階段の一番上の段に置き、音のしないように扉を開き、手探りに進んでいって窓と雨戸とを閉ざし、それから手燭を取りに戻ってきて、室の中にまたはいった。
 それは有用な注意であった。彼の窓が街路から見えることは読者の思い起こすところであろう。
 彼はあたりをじろりと見回した、テーブルや、椅子(いす)や、三日前から手もつけられていない寝台などを。一昨夜の取り乱した跡は少しも残っていなかった。門番の婆さんが「室をこしらえた」のであった。ただ彼女は、鉄のはまった杖の両端と火に黒くなった四十スー銀貨とを、灰の中から拾い上げて丁寧にテーブルの上に置いていた。
 彼は一枚の紙を取って、その上にしたためた。「これは我が鉄を着せし杖の両端および重罪法廷にて語りたるプティー・ジェルヴェーより奪いし四十スー貨幣なり。」そして彼は、その紙の上に銀貨と二つの鉄片とを置き、室にはいれば一番に目につくようにしておいた。彼は戸棚から自分の古いシャツを引き出して、それを引き裂いた。そして幾つかの布片を作って、その中に二つの銀の燭台を包み込んだ。彼は別に急いでもそわそわしてもいなかった。司教の燭台を包みながら、黒パンの一片をかじった。たぶんそれは、脱走しながら携えてきた監獄のパンであったろう。
 そのことは、警察からあとで捜索にきた時、室の床(ゆか)の上に見いだされたパンのくずによって確かめられた。
 だれかが扉(とびら)を低く二つたたいた。
「おはいりなさい。」と彼は言った。
 サンプリス修道女であった。
 彼女は色青ざめ、両眼は赤くなり、持っていた蝋燭(ろうそく)は手のうちに揺らめいていた。運命の暴力は、いかに吾人(ごじん)が完成しておりあるいは冷静となっていても、吾人の臓腑(ぞうふ)の底より人間性を引き出し、それを外部に現わさせるだけの特性を持っているものである。その一日の感動のうちに、その修道女も再び一個の女性となっていた。彼女は泣いたのだった、そして今震えていた。
 ジャン・ヴァルジャンは一枚の紙に数行したため終わって、それを修道女に差し出して言った。
「どうかこれを司祭さんに渡して下さい。」
 その紙は折り畳んであった。彼女はその上に目を落とした。
「読んでもよろしいです。」と彼は言った。
 彼女は読んだ。「ここに残してゆくいっさいのものを御監理下さるよう司祭殿に御願い申し候。そのうちより、訴訟費用および今日死去せる婦人の埋葬費御支払い下さるべく候。残余のものは貧しき人々へ御施し下されたく候。」
 修道女は何か言おうとした。しかしかろうじて不明な音を少しつぶやき得たばかりだった。それでもついに彼女はこれだけ言うことができた。
「市長様は、最後にも一度あのかわいそうな女(ひと)を見ておやりになりたくはございませんか。」
「いや、」と彼は言った、「私は追跡されています。その室で捕(つか)まるばかりです。そうなるとかえってあの女の霊を乱すでしょう。」
 彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、大きな物音が階段にした。二人は階段を上がって来る騒々しい足音を聞いた。そしてまた、できるだけ高い鋭い声で門番の婆さんの言うのが聞えた。
「あなた、私は誓って申します、昼間も晩もだれ一人ここへははいりませんでした、それに私は一度も門から離れたこともなかったのです。」
 一人の男が答えた。
「それでもあの室に燈火(あかり)が見える。」
 二人にはジャヴェルの声だとわかった。
 その室は、扉(とびら)を開くとそれで右手の壁のすみが隠れるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火を吹き消した、そしてそのすみにはいった。
 サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。
 扉(とびら)は開かれた。
 ジャヴェルがはいってきた。
 数人の者のささやく声と、門番の婆さんの言い張る声とが、廊下に聞こえていた。
 修道女は目をあげなかった。彼女は祈っていた。
 蝋燭(ろうそく)は暖炉の上にあって、ごく淡い光を投げていた。
 ジャヴェルは修道女を見て、茫然(ぼうぜん)と立ち止まった。
 ジャヴェルの根本、彼の元素、彼の呼吸の中心、それはあらゆる権威に対する尊敬であったことは、読者の思い起こし得るところであろう。彼はまったく単一であって、何らの異論も制限も容(ゆる)さないのだった。もとより彼にとっては、宗教上の権威はすべての権威の第一なるものであった。彼はこの点について他のあらゆることについてと同じく、厳格で皮相的で正確だった。彼の目には、牧師は誤りをすることのない者であり、修道女は罪を犯すことのない者であった。それはいずれも、真実を通す時のほかは決して開かぬただ一つの扉でこの世と通じてる魂であった。
 修道女を認めて、彼の第一の動作は引き退(さが)ろうとすることだった。
 けれどもまた、彼を捕え彼を反対の方向に厳として押し進めるも一つの義務があった。そして彼の第二の動作は、そこに立ち止まり、少なくとも一つの問いをかけてみることだった。
 しかもそれは生涯に一度も嘘(うそ)を言ったことのないサンプリス修道女だった。ジャヴェルはそれを知っていた、そして特にそのために彼女を尊敬していた。
「童貞さん、」と彼は言った、「この室にはあなた一人ですか。」
 恐ろしい一瞬間があった。あわれな門番の婆さんは気が遠くなるような心地がした。
 修道女は目をあげて、そして答えた。
「はい。」
「だが、」とジャヴェルは言った、「しつこく言うのをお許し下さい、私の義務ですから。あなたは今晩、だれか、一人の男を見かけませんでしたか。その男が逃走したのでさがしているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。あなたはその男を見かけませんでしたか。」
 修道女は答えた。「いいえ。」
 役女は嘘(うそ)を言った。相次いで、躊躇(ちゅうちょ)することなく、即座に、献身的に、続けて二度嘘を言った。
「失礼しました。」とジャヴェルは言った。そして彼は深くおじぎをして退いて行った。
 おお聖(きよ)き貞女よ! 汝は既に久しき以前よりこの世の者ではなかった。汝は光明のうちに汝の姉妹の童貞たちや汝の兄弟の天使たちと伍(ご)していたのである。その虚言も汝のために天国において数えられんことを!
 サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとってはある決定的なものであって、吹き消されたばかりでテーブルの上にまだ煙ってる手燭の訝(いぶか)しさにも気を留めなかったのである。
 一時間ほど過ぎて、一人の男が、木立ちと靄(もや)との間を、パリーの方へ向かってモントルイュ・スュール・メールから急いで遠ざかって行った。それはジャン・ヴァルジャンだった。彼に出会った二、三の荷車屋の証言によって、彼は一つの包みを持ち、身には作業用の上衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその上衣を手に入れたか? だれにも知られなかった。ところで、数日前に工場の病舎で一人の老職工が死んだが、残ってるものとてはその作業服だけだった。彼が着ていたのはたぶんそれであったろう。
 最後にファンティーヌについて一言する。
 吾人(ごじん)は皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。
 司祭はジャン・ヴァルジャンが残していったもののうちからできるだけ多くの金を貧しい人々のために取って置いた。彼はそうするのがいいと信じた、そしてまたおそらくそれは至当であったろう。結局、だれに関係したことであったか、一人の徒刑囚と一人の醜業婦とに関することではなかったか。それゆえに彼は、ファンティーヌの埋葬を簡単にし、共同墓地と言われるただ形(かた)だけの所に彼女を葬った。
 ファンティーヌはかくて、すべての人のものでありかつ何人(なんぴと)にも属さない墓地、貧しい人々の消え失せゆく無料の墓地の一隅(いちぐう)に埋められた。ただ幸いにも神はその魂のいずこにあるかを知りたもう。人々は何人たるを問わない無名の死骨の間に暗やみのうちにファンティーヌを横たえた。彼女は塵(ちり)にまみれてしまった。彼女は共同墓地に投げ込まれた。彼女の墓地はその寝所に似寄っていた。




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