レ・ミゼラブル
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:ユゴーヴィクトル 

 ついにジャン・ヴァルジャンを捕え得たという確信は、魂の中にあるすべてをその顔の上に現わさしたのである。かき回された水底のものが水面に上がってきたのである。少し手掛かりを失って一時シャンマティユーを誤認したという屈辱の感は、最初いかにもよく察知して長い間正当な本能を持ち続けていたという高慢の念に消されてしまった。ジャヴェルの満足はその昂然(こうぜん)たる態度のうちに現われた。醜い勝利の感はその狭い額(ひたい)の上に輝いた。それは満足したる顔つきが与え得る限りの恐怖の発現であった。
 ジャヴェルは、その瞬間に天にいたのである。自らはっきり自覚してはいなかったが、しかし自己の有用と成功とに対するおぼろな直覚をもって彼ジャヴェルは、悪をくじく聖(きよ)き役目における正義光明真理の権化(ごんげ)であった。彼はその背後と周囲とに、無限の深さにおいて、権威、正理、判定せられたるもの、合法的良心、重罪公訴など、あらゆる星辰(せいしん)を持っていた。彼は秩序を擁護し、法律よりその雷電を発せしめ、社会のために復讐(ふくしゅう)し、絶対なるものに協力し、自ら光栄のうちに突っ立っていた。彼の勝利のうちには、なお挑戦と戦闘とのなごりがあった。光彩を放ちながら傲然(ごうぜん)とつっ立って彼は、獰猛(どうもう)なる天使の長(おさ)の超人間的獣性を青空のまんなかにひろげていた。彼が遂げつつある行為の恐るべき影は、社会の剣の漠然(ばくぜん)たる光をその握りしめた拳(こぶし)に浮き出さしていた。満足しかつ憤然として彼は、罪悪、不徳、反逆、永罰、地獄を、その足下に踏み押さえていた。彼は光り輝き、撃滅し、微笑していた。そしてその恐るべき聖ミカエル(訳者注 天の兵士の長)のうちには争うべからざる壮大の趣があった。
 ジャヴェルはかく恐ろしくはあったが、何ら賤(いや)しいところはなかった。
 清廉、真摯(しんし)、誠直、確信、義務の感などは、悪用せらるる時には嫌悪(けんお)すべきものとなるが、しかしなおそれでも壮大さを失わない。人間の良心に固有なるそれらのものの威厳は、人をおびえさする時にもなお残存する。それらのものは、錯誤という一つの欠点をのみ有する徳である。凶猛に満ちた狂信者の正直な無慈悲な喜悦のうちには、痛ましくも尊むべきある光燿(こうよう)がある。ジャヴェルは自ら知らずして、あらゆる無知なる勝利者と同じく、そのおそるべき幸福のうちにあってあわれまるべき者であった。善の害悪とも称し得べきものの現われてるその顔ほど、痛切なまた恐るべきものはなかった。

     四 官憲再び権力を振るう

 ファンティーヌは市長が彼女を奪い取ってくれたあの日いらいジャヴェルを見なかったのである。彼女の病める頭には何事もよくわからなかったが、ただ彼が再び自分を捕えにきたのだということを信じた。彼女はその恐ろしい顔を見るにたえなかった。息がつまるような気がした。彼女は顔を両手のうちに隠して苦しげに叫んだ。
「マドレーヌ様、助けて下さいませ!」
 ジャン・ヴァルジャン――われわれはこれからはもうこの名前で彼を呼ぶことにしよう――は立ち上がっていた。彼は最もやさしい落ち着いた声でファンティーヌに言った。
「安心なさい。あの人がきたのはあなたのためにではありません。」
 それから彼はジャヴェルへ向かって言った。
「君の用事はわかっている。」
 ジャヴェルは答えた。
「さあ、早く!」
 その二語の音調のうちにはある荒々しい狂気じみたものがあった。ジャヴェルは「さあ、早く!」というよりもむしろ、「さあやく!」と言ったようだった。いかなるつづりをもってしても、それが発せられた調子を写すことはできないほどだった。それはもはや人間の言葉ではなく、一種の咆哮(ほうこう)だった。
 彼は慣例どおりのやり方をしなかった。一言の説明も与えず、拘引状をも示さなかった。彼の目にはジャン・ヴァルジャンは一種不思議なとらえ難い勇士であって、五年間手をつけながらくつがえすことのできなかった暗黒な闘士であるように見えた。その逮捕は事の初めではなく終局であった。彼はただ「さあ、早く!」とだけ言った。
 そう言いながらも彼は一歩も進まなかった。彼はいつも悪党らを自分の方へ手荒らく引きつけるあの目つきを、鉤索(かぎなわ)のようにジャン・ヴァルジャンの上に投げつけた。
 二カ月以前ファンティーヌが骨の髄まで貫かれたように感じたあの目つきが、やはりそれであった。
 ジャヴェルの叫ぶ声に、ファンティーヌは目を開いた。しかしそこには市長さんがいる、何を恐(こわ)がることがあろう?
 ジャヴェルは室のまんなかまで進んだ、そして叫んだ。
「さあ、貴様こないか。」
 あわれなる彼女は周囲を見回した。そこには修道女と市長とのほかだれもいなかった。その貴様というひどい言葉はだれに向けられたのであろう。自分よりほかにない。彼女は震え上がった。
 その時彼女は異常なことを見た。それほどのことは、熱に浮かされた最も暗黒な昏迷(こんめい)のうちにさえ見たことがなかった。
 彼女は探偵ジャヴェルが市長の首筋をとらえたのを見た。市長が頭をたれたのを見た。彼女には世界が消え失せるような気がした。
 ジャヴェルは事実ジャン・ヴァルジャンの首筋をつかんだのだった。
「市長様!」とファンティーヌは叫んだ。
 ジャヴェルはふきだした。歯をすっかりむき出した恐ろしい笑いだった。
「もう市長さんなどという者はここにいないんだぞ!」
 ジャン・ヴァルジャンはフロックのえりをとらえられた手を離そうともしなかった。彼は言った。
「ジャヴェル君……。」
 ジャヴェルはそれをさえぎった。「警視殿と言え。」
「あなたに、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「内々で一言言いたいことがあります。」
「大声で、大声で言え!」とジャヴェルは答えた、「だれでも俺(おれ)には大声で言うのだ。」
 ジャン・ヴァルジャンはやはり声を低めて言った。
「あなたに是非一つのお願いがあるのですが……。」
「大声で言えというに。」
「しかしあなただけに聞いてもらいたいのですから……。」
「俺に何だって言うのだ。俺は聞かん!」
 ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ向き、早口にごく低く言った。
「三日の猶予を与えて下さい! このあわれな女の子供を連れに行く三日です。必要な費用は支払います。いっしょにきて下すってもよろしいです。」
「笑わせやがる!」とジャヴェルは叫んだ。「なあんだ、俺は貴様をそんなばかだとは思わなかった。逃げるために三日の猶予をくれと言うのだろう。そしてそいつの子供を連れて来るためだと言ってやがる。あはは、けっこうなことだ。なるほどうまい考えだ!」
 ファンティーヌはぎくりとした。
「私の子供!」と彼女は叫んだ。「私の子供を連れに行く! では子供はここにいないのかしら! 童貞さん、言って下さい、コゼットはどこにいるんです? 私は子供がほしい。マドレーヌ様、市長様!」
 ジャヴェルは足をふみ鳴らした。
「またそこに一人いるのか! 静かにしろ、醜業婦(じごく)め! 徒刑囚が役人になったり、淫売婦が貴族の取り扱いを受けたり、何という所だ! だがこれからはそうはいかないぞ。もう時がきたんだ。」
 彼はファンティーヌをにらみつけ、ジャン・ヴァルジャンのえり飾りとシャツと首筋とをつかみながらつけ加えた。
「もうマドレーヌさんも市長さんもないんだぞ。泥坊がいるだけだ、悪党が、ジャン・ヴァルジャンという懲役人が。そいつを今俺が捕えたんだ。それだけのことだ。」
 ファンティーヌは硬(こわ)ばった腕と両手とでそこに飛び起きた。ジャン・ヴァルジャンを見、ジャヴェルを見、修道女を見、何か言いたそうに口を開いた。ごろごろいう音が喉(のど)の奥から出、歯ががたがた震えた。そして彼女は苦悶(くもん)のうちに両腕を差し伸べ、痙攣的(けいれんてき)に両手を開き、おぼれる者のようにあたりをかき回し、それからにわかに枕(まくら)の上に倒れた。その頭は枕木にぶつかって、胸の上にがっくりたれた。口はぽかんと開いて、目は開いたまま光が消えていた。
 彼女は死んだのである。
 ジャン・ヴァルジャンは自分をつかんでいるジャヴェルの手の上に自分の手を置き、赤児の手を開くがようにそれを開き、そしてジャヴェルに言った。
「あなたはこの女を殺した。」
「早く片づけてしまおう!」とジャヴェルは憤激して叫んだ。「俺は理屈を聞きにここにきたんじゃない。そんなことははぶいたがいい。護衛の者は下にいる。すぐに行くか、もしくは手錠かだぞ!」
 室の片すみに古い鉄の寝台があった。かなりひどくなっていたが、修道女たちが病人を看護しながら寝る時のに使われていた。ジャン・ヴァルジャンはその寝台の所へ歩み寄り、いたんでるその枕木をまたたくまにはずした。それくらいのことは彼のような腕力にはいとたやすいことだった。彼はその枕木の太い鉄棒をしっかとつかんで、ジャヴェルを見つめた。
 ジャヴェルは扉(とびら)の方へ退いた。
 鉄棒を手にしたジャン・ヴァルジャンは、おもむろにファンティーヌの寝台の方へ歩いて行った。そこまで行くと彼はふり返って、ようやく聞き取れるくらいの声でジャヴェルに言った。
「今しばらく私の邪魔をしてもらいますまい。」
 確かなことには、ジャヴェルは震えていた。
 彼は護衛の者を呼びに行こうと思ったが、その間を利用してジャン・ヴァルジャンは逃走するかも知れなかった。それで彼はそのままそこに残って、その杖の一端を握りしめ、ジャン・ヴァルジャンから目を離さずに扉(とびら)の框(かまち)を背にして立っていた。
 ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木の頭に肱(ひじ)をつき、額を掌(てのひら)に当て、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。彼はそのまま気を取られて無言でいた。明らかにこの世のことは何にも思っていなかったのであろう。彼の顔にも態度にも、もはや言い知れぬ憐憫(れんびん)の情しか見えなかった。そしてその瞑想(めいそう)をしばらく続けた後、彼はファンティーヌの方に身をかがめて、低い声で何かささやいた。
 彼は彼女に何と言ったのであろうか? この世から捨てられたその男は死んだその女に何を言い得たであろうか。その言葉は何であったろうか。地上の何人(なんぴと)にもそれは聞こえなかった。死んだ彼女にはそれが聞こえたであろうか。おそらくは崇高なる現実となる痛切なる幻影が世にはある。少しの疑いもはさみ得ないことには、その光景の唯一の目撃者であったサンプリス修道女がしばしば語ったところによれば、ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの耳に何かささやいた時、墳墓の驚きに満ちたるその青ざめた脣(くちびる)の上と茫然(ぼうぜん)たる瞳のうちとに、言葉に尽し難い微笑の上ってきたのを、彼女ははっきり見たのであった。
 ジャン・ヴァルジャンはその両手にファンティーヌの頭を取り、母親が自分の子供にするようにそれを枕の上にのせ、それからシャツのひもを結んでやり、帽子の下に髪の毛をなでつけてやった。それがすんで、彼はその目を閉ざしてやった。
 ファンティーヌの顔はその時、異様に明るくなったように見えた。
 死、それは大なる光耀(こうよう)への入り口である。
 ファンティーヌの手は寝台の外にたれていた。ジャン・ヴァルジャンはその手の前にひざまずいて、それを静かに持ち上げ、それに脣(くちびる)をつけた。
 それから彼は立ち上がった、そしてジャヴェルの方へ向いた。
「さあ、これから、」と彼は言った、「どうにでもしてもらいましょう。」

     五 ふさわしき墳墓

 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを市の監獄に投じた。
 マドレーヌ氏の逮捕はモントルイュ・スュール・メールに、一つの感動を、あるいはむしろ非常な動揺を起こした。まことに悲しむべきことではあるが、あの男は徒刑囚であったというそれだけの言葉でほとんどすべての人は彼を捨てて顧みなかったことを、われわれは隠すわけにはゆかない。わずか二時間足らずのうちに、彼がなしたすべての善行は忘れられてしまった、そして彼はもはや「一人の徒刑囚」に過ぎなくなった。ただし、アラスのできごとの詳細はまだ知られていなかったことを言っておかなければならない。終日町の方々で次のような会話がかわされた。
「君は知らないのか、あれは放免囚徒だったとさ。――だれが?――市長だ。――なにマドレーヌ氏が?――そうだ。――本当か。――彼はマドレーヌというのではなくて、何でもベジャンとかボジャンとかブージャンとかいう恐ろしい名前だそうだ。――へーえ!――彼は捕(つかま)ったのだ。――捕った!――護送するまで市の監獄に入れられてるんだ。――護送するって! これから護送するって! どこへ連れて行くんだろう。――昔大道で強盗をやったとかで重罪裁判に回されるそうだ。――なるほど、僕もそんな奴(やつ)だろうと思っていた。あまり親切で、あまり申し分がなく、あまり物がわかりすぎた。勲章は断わるし、餓鬼どもに会えばだれにでも金をやっていた。それには何かきっと悪いことでもしてきた奴だろうと、僕はいつも思っていた。」
「客間」では特にその種の話でもちきっていた。
 ドラポー・ブラン紙の読者である一人の老婦人は、ほとんど測り得られないほど深い意味のこもった次のような考えを述べた。
「私は別にお気の毒とも思いませんよ。ブオナパルト派の人たちにはいい見せしめでしょう。」
 かくのごとくして、マドレーヌ氏と呼ばれていた幻はモントルイュ・スュール・メールから消え失せてしまった。ただ全市中において三、四人の人々がその記憶を忠実に保っていた。彼に仕えていた門番の婆さんもそのうちの一人だった。
 その日の晩、その忠実な婆さんは、なお心おびえながら悲しげに思い沈んで、門番部屋の中にすわっていた。工場は終日閉ざされ、正門は閂(かんぬき)がさされ、街路には人通りもなかった。家の中には、ファンティーヌの死体のそばで通夜をしてるペルペチューとサンプリスとの二人の修道女がいるばかりだった。
 マドレーヌ氏がいつも帰って来る頃の時間になると、善良な門番の婆さんは機械的に立ち上がり、引き出しからマドレーヌ氏の室の鍵(かぎ)を取り出し、毎晩マドレーヌ氏が自分の室に上がってゆく時に使っていた手燭(てしょく)を取り上げて、それから、マドレーヌ氏がいつも取ってゆく釘(くぎ)に鍵をかけ、そのそばに手燭を置き、あたかも彼を待ってるかのようだった。それからまた彼女は椅子(いす)に腰をおろして考え初めた。その正直なあわれな婆さんは、自分でも知らずにそれらのことをしたのだった。
 それからおよそ二時間あまりも過ぎてからだったが、彼女は夢想からさめて叫んだ。「まあ、どうしたというんだろう、私はあの方の鍵を釘にかけたりなんかして!」
 その時、部屋(へや)のガラス窓が開き、そこから一つの手が出てきて、鍵と手燭とを取り、火のついた別の蝋燭(ろうそく)から手燭の小蝋燭に火をつけた。
 門番の婆さんは目をあげてあっと口を開いた。喉元(のどもと)まで叫び声が出たが、彼女はそれを押さえつけた。
 彼女は、その手、その腕、そのフロックの袖(そで)を覚えていた。
 それはマドレーヌ氏であった。
 彼女は数秒間口がきけなかった。彼女自ら後になってそのできごとを人に話す時いつも言ったように、まったくたまげてしまったのである。
「まあ、市長様、」と彼女はついに叫んだ、「私はあなたのいらっしゃる所は……。」
 彼女は言い澱(よど)んだ。その言葉の終わりは初めの言い方に対して敬意を欠くことになるのだった。ジャン・ヴァルジャンは彼女にとってはやはり市長様であった。
 彼は彼女の思ってるところを言ってやった。
「牢屋だと思ってたというんだろう。」と彼は言った。
「私はなるほど牢屋にいた。だが私は窓の格子(こうし)をこわし、屋根の上から飛びおり、そしてここにきたのだ。私は自分の室に上がってゆくから、サンプリス修道女を呼びに行ってくれ。きっとあのあわれな女のそばにいるだろうから。」
 婆さんは急いでその言葉に従った。
 彼は彼女に何らの注意も与えなかった。自分で用心するよりもなおよく彼女は自分を保護してくれることと、彼は信じきっていたのである。
 どうして彼が正門をあけさせないで中庭にはいって来ることができたかは、だれにもわからなかったことである。彼は小さな潜(くぐ)り戸を開く合い鍵を持っていて、それを常に身につけてはいた。しかし身体をしらべられてその合い鍵も取り上げられたはずであった。この点は不明のままに終わった。
 彼は自分の室に通ずる階段を上がっていった。その上までゆくと、手燭を階段の一番上の段に置き、音のしないように扉を開き、手探りに進んでいって窓と雨戸とを閉ざし、それから手燭を取りに戻ってきて、室の中にまたはいった。
 それは有用な注意であった。彼の窓が街路から見えることは読者の思い起こすところであろう。
 彼はあたりをじろりと見回した、テーブルや、椅子(いす)や、三日前から手もつけられていない寝台などを。一昨夜の取り乱した跡は少しも残っていなかった。門番の婆さんが「室をこしらえた」のであった。ただ彼女は、鉄のはまった杖の両端と火に黒くなった四十スー銀貨とを、灰の中から拾い上げて丁寧にテーブルの上に置いていた。
 彼は一枚の紙を取って、その上にしたためた。「これは我が鉄を着せし杖の両端および重罪法廷にて語りたるプティー・ジェルヴェーより奪いし四十スー貨幣なり。」そして彼は、その紙の上に銀貨と二つの鉄片とを置き、室にはいれば一番に目につくようにしておいた。彼は戸棚から自分の古いシャツを引き出して、それを引き裂いた。そして幾つかの布片を作って、その中に二つの銀の燭台を包み込んだ。彼は別に急いでもそわそわしてもいなかった。司教の燭台を包みながら、黒パンの一片をかじった。たぶんそれは、脱走しながら携えてきた監獄のパンであったろう。
 そのことは、警察からあとで捜索にきた時、室の床(ゆか)の上に見いだされたパンのくずによって確かめられた。
 だれかが扉(とびら)を低く二つたたいた。
「おはいりなさい。」と彼は言った。
 サンプリス修道女であった。
 彼女は色青ざめ、両眼は赤くなり、持っていた蝋燭(ろうそく)は手のうちに揺らめいていた。運命の暴力は、いかに吾人(ごじん)が完成しておりあるいは冷静となっていても、吾人の臓腑(ぞうふ)の底より人間性を引き出し、それを外部に現わさせるだけの特性を持っているものである。その一日の感動のうちに、その修道女も再び一個の女性となっていた。彼女は泣いたのだった、そして今震えていた。
 ジャン・ヴァルジャンは一枚の紙に数行したため終わって、それを修道女に差し出して言った。
「どうかこれを司祭さんに渡して下さい。」
 その紙は折り畳んであった。彼女はその上に目を落とした。
「読んでもよろしいです。」と彼は言った。
 彼女は読んだ。「ここに残してゆくいっさいのものを御監理下さるよう司祭殿に御願い申し候。そのうちより、訴訟費用および今日死去せる婦人の埋葬費御支払い下さるべく候。残余のものは貧しき人々へ御施し下されたく候。」
 修道女は何か言おうとした。しかしかろうじて不明な音を少しつぶやき得たばかりだった。それでもついに彼女はこれだけ言うことができた。
「市長様は、最後にも一度あのかわいそうな女(ひと)を見ておやりになりたくはございませんか。」
「いや、」と彼は言った、「私は追跡されています。その室で捕(つか)まるばかりです。そうなるとかえってあの女の霊を乱すでしょう。」
 彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、大きな物音が階段にした。二人は階段を上がって来る騒々しい足音を聞いた。そしてまた、できるだけ高い鋭い声で門番の婆さんの言うのが聞えた。
「あなた、私は誓って申します、昼間も晩もだれ一人ここへははいりませんでした、それに私は一度も門から離れたこともなかったのです。」
 一人の男が答えた。
「それでもあの室に燈火(あかり)が見える。」
 二人にはジャヴェルの声だとわかった。
 その室は、扉(とびら)を開くとそれで右手の壁のすみが隠れるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火を吹き消した、そしてそのすみにはいった。
 サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。
 扉(とびら)は開かれた。
 ジャヴェルがはいってきた。
 数人の者のささやく声と、門番の婆さんの言い張る声とが、廊下に聞こえていた。
 修道女は目をあげなかった。彼女は祈っていた。
 蝋燭(ろうそく)は暖炉の上にあって、ごく淡い光を投げていた。
 ジャヴェルは修道女を見て、茫然(ぼうぜん)と立ち止まった。
 ジャヴェルの根本、彼の元素、彼の呼吸の中心、それはあらゆる権威に対する尊敬であったことは、読者の思い起こし得るところであろう。彼はまったく単一であって、何らの異論も制限も容(ゆる)さないのだった。もとより彼にとっては、宗教上の権威はすべての権威の第一なるものであった。彼はこの点について他のあらゆることについてと同じく、厳格で皮相的で正確だった。彼の目には、牧師は誤りをすることのない者であり、修道女は罪を犯すことのない者であった。それはいずれも、真実を通す時のほかは決して開かぬただ一つの扉でこの世と通じてる魂であった。
 修道女を認めて、彼の第一の動作は引き退(さが)ろうとすることだった。
 けれどもまた、彼を捕え彼を反対の方向に厳として押し進めるも一つの義務があった。そして彼の第二の動作は、そこに立ち止まり、少なくとも一つの問いをかけてみることだった。
 しかもそれは生涯に一度も嘘(うそ)を言ったことのないサンプリス修道女だった。ジャヴェルはそれを知っていた、そして特にそのために彼女を尊敬していた。
「童貞さん、」と彼は言った、「この室にはあなた一人ですか。」
 恐ろしい一瞬間があった。あわれな門番の婆さんは気が遠くなるような心地がした。
 修道女は目をあげて、そして答えた。
「はい。」
「だが、」とジャヴェルは言った、「しつこく言うのをお許し下さい、私の義務ですから。あなたは今晩、だれか、一人の男を見かけませんでしたか。その男が逃走したのでさがしているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。あなたはその男を見かけませんでしたか。」
 修道女は答えた。「いいえ。」
 役女は嘘(うそ)を言った。相次いで、躊躇(ちゅうちょ)することなく、即座に、献身的に、続けて二度嘘を言った。
「失礼しました。」とジャヴェルは言った。そして彼は深くおじぎをして退いて行った。
 おお聖(きよ)き貞女よ! 汝は既に久しき以前よりこの世の者ではなかった。汝は光明のうちに汝の姉妹の童貞たちや汝の兄弟の天使たちと伍(ご)していたのである。その虚言も汝のために天国において数えられんことを!
 サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとってはある決定的なものであって、吹き消されたばかりでテーブルの上にまだ煙ってる手燭の訝(いぶか)しさにも気を留めなかったのである。
 一時間ほど過ぎて、一人の男が、木立ちと靄(もや)との間を、パリーの方へ向かってモントルイュ・スュール・メールから急いで遠ざかって行った。それはジャン・ヴァルジャンだった。彼に出会った二、三の荷車屋の証言によって、彼は一つの包みを持ち、身には作業用の上衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその上衣を手に入れたか? だれにも知られなかった。ところで、数日前に工場の病舎で一人の老職工が死んだが、残ってるものとてはその作業服だけだった。彼が着ていたのはたぶんそれであったろう。
 最後にファンティーヌについて一言する。
 吾人(ごじん)は皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。
 司祭はジャン・ヴァルジャンが残していったもののうちからできるだけ多くの金を貧しい人々のために取って置いた。彼はそうするのがいいと信じた、そしてまたおそらくそれは至当であったろう。結局、だれに関係したことであったか、一人の徒刑囚と一人の醜業婦とに関することではなかったか。それゆえに彼は、ファンティーヌの埋葬を簡単にし、共同墓地と言われるただ形(かた)だけの所に彼女を葬った。
 ファンティーヌはかくて、すべての人のものでありかつ何人(なんぴと)にも属さない墓地、貧しい人々の消え失せゆく無料の墓地の一隅(いちぐう)に埋められた。ただ幸いにも神はその魂のいずこにあるかを知りたもう。人々は何人たるを問わない無名の死骨の間に暗やみのうちにファンティーヌを横たえた。彼女は塵(ちり)にまみれてしまった。彼女は共同墓地に投げ込まれた。彼女の墓地はその寝所に似寄っていた。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:622 KB

担当:undef