レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「陪審員諸君、今法廷を乱したこの不思議な意外なできごとは、ここに説明をまつまでもない感情を、諸君並びに吾人(ごじん)に与える。諸君は皆少なくとも世間の名声によって、名誉あるモントルイュ・スュール・メールの市長マドレーヌ氏を御存じであることと思う。もしこの中に医者がおらるるならば、マドレーヌ氏を助けてその自宅に送り届けられんことを、吾人(ごじん)は裁判長殿とともに願うものであります。」
 マドレーヌ氏は検事をして終わりまで言わせなかった。彼は温厚と権威とにみちた調子で検事の言葉をさえぎった。彼が発した言葉は次のとおりであった。そしてこれは、その光景を目撃した者の一人が裁判後直ちに書きつけておいた原文どおりのものであって、それを聞いた人の耳には約四十年後の今日までまだはっきりと残っているそのままのものである。
「私は、検事殿、あなたに感謝します、しかし私は気が狂ったのではありません。今におわかりになるでしょう。あなたは非常な誤りを犯されようとしていたのです。この男を放免して下さい。私はただ自分の義務を果すのです。私が問題の罪人です。この事件を明確に見通せる者はただ私一人です。私はあなたに事実を語っています。今私のなすことは、天にいます神が見ていられる。それで十分である。私はここにいるから、あなたは私を捕縛されることができます。とはいえ、私は私の最善をなしてきたのです。私は違った名前のもとに身を穏した、富を得た、市長になった。私は正直なる人の列に再び加わろうと欲した。しかしそれはできないことのように思われる。要するに、私が今語ることのできないいろいろなことがある。ここに私は自分の一生を物語ろうとはしますまい。他日すべてわかるでしょう。私は司教閣下のものを盗んだ、それは事実です。私はプティー・ジェルヴェーのものを盗んだ、それも事実です。ジャン・ヴァルジャンなる者はあわれむべき悪漢であるというのは道理です。しかしおそらく罪は彼にのみあるのではありますまい。判事諸君、しばらく聞いていただきたい。私のように堕落したる人間は、天に対して不平を言う資格もなく、また社会に対して意見を述べる資格もないでしょう。しかしながら、私がぬけ出そうと試みたあの汚辱ははなはだ人を害(そこな)うものです。徒刑場は囚人を作るものです。少しくこの点を考えていただきたい。徒刑場にはいる前、私は知力の乏しい一個のあわれな田舎者(いなかもの)でした、一種の白痴でした。しかるに徒刑場は私を一変さしてしまった。愚鈍であった私は、悪人となった。一個の木偶(でく)にすぎなかった私は、危険な人物となった。そして苛酷(かこく)が私を破滅さしたと同じく、その後寛容と親切とは私を救ってくれたのである。いやしかし、諸君は私がここに言うことをおわかりにならないでしょう。諸君は私の家の暖炉の灰の中に、七年前私がプティー・ジェルヴェーから盗んだ四十スー銀貨を見いだされるでしょう。私はもうこれ以上何も申すことはありません。私を捕縛していただきたい。ああ検事殿は頭を振っていられる。あなたはマドレーヌ氏は気が狂ったと言われるのですか。あなたは私の言うのを信じないのですか! それははなはだ困ることです。少なくともこの男を処刑せられないようにしていただきたい。なに、この人々は私を知らないというのか。ジャヴェルがここにいないのを私は残念に思う。彼ならば、必ず私を認めてくれるだろう。」
 それらの言葉が発せられた調子のうちに、親愛にして悲痛な憂鬱(ゆううつ)のこもっていた様は、到底これを伝えることはできない。
 彼は三人の囚徒の方へ向いた。
「おい、私の方ではお前たちを覚えている! ブルヴェー! お前は思い出さないのか?……」彼は言葉を切って、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。それから言った。
「お前が徒刑場で使っていたあの弁慶縞(べんけいじま)の編みズボンつりを、お前は覚えていないか。」
 ブルヴェーは愕然(がくぜん)とした、そして恐る恐る彼を頭から足先まで見おろした。彼は続けて言った。「シュニルディユー、お前は自分でジュ・ニ・ディユーと呼んでいたが、お前には右の肩にひどい火傷(やけど)の跡がある。T・F・Pという三つの文字(訳者注 汝は人を恐れしむるならんという意を表わす入墨の文字)を消すために、火のいっぱいはいった火鉢(ひばち)にある時その肩を押し当てたのだ。しかし文字はやはり残っている。どうだ、そのとおりだろう。」
「そのとおりです。」とシュニルディユーは言った。
 彼はコシュパイユに向かって言った。
「コシュパイユ、お前には左の腕の肱(ひじ)の内側(うちがわ)に、火薬で焼いた青い文字の日付がある。それは皇帝のカーヌ上陸の日で、一八一五年三月一日というのだ。袖(そで)をまくってみろ。」
 コシュパイユは袖をまくった。すべての人々の目はその露(あら)わな腕の上に集まった。一人の憲兵はランプを差し出した。日付はそこにあった。
 その不幸な人は傍聴人および判事らの方へ向き直った。顔には微笑を浮かべていた。その微笑を見た者は、今なお思い出しても心の痛むのを感ずるのである。それは勝利の微笑であり、同時にまた絶望の微笑であった。
「よくおわかりでしょう、」と彼は言った、「私はジャン・ヴァルジャンです。」
 その室のうちには、もはや判事も検事も憲兵もいなかった。ただじっと見守ってる目と感動した心ばかりだった。だれもみな自分のなすべき職分を忘れていた。検事は求刑するためにそこにいることを忘れ、裁判長は裁判を統(す)べるためにそこにいることを忘れ、弁護士は弁護するためにそこにいることを忘れていた。驚くべきことには、何らの質問もなされず、何らの権威も手を出し得なかった。およそ荘厳なる光景の特質は、すべての人の魂をとらえ、すべての目撃者をして単なる傍観者たらしむるにある。おそらく何人(なんぴと)も、その時感じたことを自ら説明することはできなかったであろう。何人もただ、そこに偉大なる光明の光り輝くのを見たとしか自ら言い得なかったであろう。人々は皆、眩惑(げんわく)されたのを内心に感じた。
 明らかに人々は眼前にジャン・ヴァルジャンを見たのである。それは光を投じた。その男の出現は、一瞬間前まであれほど朦朧(もうろう)としていた事件を明白ならしむるに十分だった。それ以上何らの説明をもまたないで、すべての人々は、自分のために刑に処せられようとする一人の男を救わんがために身を投げ出した彼の簡単なしかも壮麗な行為を、あたかも電光に照らされたごとく直ちに一目で了解した。その詳細、逡巡(しゅんじゅん)、多少反対の試みなどは、その広大なる燦然(さんぜん)たる一事のうちにのみ去られてしまった。
 その印象はやがてすみやかに消え失せたのであるが、その瞬間には抗すべからざる力を持っていた。
「私はこれ以上法廷を乱すことは欲しません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「諸君は私を捕縛されぬゆえ、私は引き取ります。私はいろいろなすべき用を持っています。検事殿は、私がどういう者であるか、私がどこへ行くかを、知っていられる。いつでも私を捕縛されることができるでしょう。」
 彼は出口の方へ進んで行った。一言声を発する者もなく、手を差し延べて引き止めようとする者もなかった。皆身を遠ざけた。群集をして退かしめ一人の前に道を開かしむるある聖なるものが、その瞬間のうちにあった。彼はおもむろに足を運んで人々の間を通って行った。だれが扉(とびら)を開いたか知る者はなかったが、彼がそこに達した時扉は確かに開かれていた。そこまで行って、彼はふり返って言った。
「検事殿、御都合でいつでもよろしいです。」
 それから彼は傍聴人の方へ向かって言った。
「諸君、ここに列席された諸君、諸君は私をあわれむに足るべきものと思われるでしょう。ああしかし私は、こういうことをなそうとする瞬間の自分がいかようであったかと思う時、自分はうらやむに足るべきものと思います。しかしながら、かような事の起こらなかった方を私はむしろ望みたかったのであります。」
 彼は出て行った。そして扉(とびら)は開かれた時と同じようにだれからともなく閉ざされた。荘厳なる何かを行なう者は、群集のうちのだれかによって常に奉仕されるものである。
 それから一時間とたたないうちに、陪審員らの裁決は、あのシャンマティユーをいっさいの起訴から釈放した。シャンマティユーは直ちに放免されて、皆気狂(きちが)いばかりだと考え、またその光景について少しも訳がわからないで、呆然(ぼうぜん)として帰って行った。
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   第八編 反撃


     一 マドレーヌ氏の頭髪を映せし鏡

 夜は明け初めていた。ファンティーヌは、楽しい幻を見続けた熱の高い不眠の一夜を過ごしたのだった。朝方彼女は眠りについた。夜通し彼女についていたサンプリス修道女は、その間を利用して規那皮(きなひ)の新しい薬をこしらえに行った。尊むべき彼女はしばらく病舎の薬局にはいって、夜明けの薄暗い光のうちに、薬剤や薬びんの上近く身をかがめてそれを見わけていた。とふいに彼女は頭をめぐらして、軽い叫び声を立てた。マドレーヌ氏が彼女の前に立っていた。彼は黙ってそこにはいってきたのである。
「ああ市長様でございますか!」と彼女は叫んだ。
 彼は低い声でそれに答えた。
「あのかわいそうな女はどんなあんばいです。」
「ただいまはそう悪くはございません。でも私どもは大変心配いたしました。」
 彼女は経過を話した。ファンティーヌは前日非常に悪かったが、今では、市長がモンフェルメイュに子供を引き取りに行ってると思い込んでるのでずっとよくなったと。彼女はあえて市長に尋ね得なかったが、市長がそこから帰ってきたのでないことをその様子で見て取った。
「それはいい具合だ、」と彼は言った、「事実をうち明けないでおかれたのはよかった。」
「さようです。」と修道女は言った。「ですけれど今、あの女(ひと)があなたに会って子供を見なかったら、私どもは何と申してやったらよろしいでしょう。」
 彼はちょっと考え込んだ。
「神様が何とか教えて下さるでしょう。」と彼は言った。
「ですけれど嘘(うそ)は言えないんですもの。」と修道女は口の中でつぶやいた。
 昼の光は室の中に流れ込んでいた、そしてマドレーヌ氏の顔を正面から照らしていた。修道女はふと目を上げた。
「まあ、あなた!」と彼女は叫んだ、「どうなされたのでございます? あなたの髪はまっ白になっております。」
「まっ白に!」と彼は言った。
 サンプリス修道女は鏡を持っていなかった。彼女はそこにある道具鞄(かばん)の中を探って、小さな鏡を一つ取り出した。病人が死んで呼吸(いき)が止まったのを確かめるために病舎の医者が使っていたものである。マドレーヌ氏はその鏡を取って、それに映して自分の髪の毛をながめた。そして言った、「ほほう!」
 彼はその言葉を、あたかも他に心を取られているかのように無関心な調子で言った。
 修道女はそれらのことのうちに何か異様なものを感じてぞっとした。
 マドレーヌ氏は尋ねた。
「あの女に会ってもいいでしょうかね。」
「あなたは子供をつれ戻してやるつもりではいらっしゃらないのですか。」と彼女はようやくにして一つ問いをかけた。
「もとよりそうするつもりです。けれど少なくも二、三日はかかるでしょう。」
「ではその時まであの女(ひと)に会わないことになさいましては。」と彼女はおずおず言った。「あの女はあなたがお帰りの事を知らないでしょう。そうして気長く待たせるようにするには容易でございましょう。そして子供がきましたら、自然に市長様も子供といっしょにお帰りなすったと思うに違いありません。そういたせば少しも嘘(うそ)を言わないですみます。」
 マドレーヌ氏はしばらく考えてるようだったが、それから落ち着いた重々しい調子で言った。
「いや、私はあの女(ひと)に会わなけりゃならない。たぶん、私は急ぐんだから。」
 修道女はその「たぶん」という語に気づかないらしかった。しかしそれは、市長の言葉に曖昧(あいまい)な特殊な意味を与えるものだった。彼女はうやうやしく目を伏せ声を低めて答えた。
「それでは、あの女(ひと)は寝(やす)んでいますが、おはいり下さいませ。」
 彼は扉(とびら)の具合いが悪くてその音が病人の目をさまさせるかも知れないことをちょっと注意して、それからファンティーヌの室にはいり、その寝台に近づいて、帷(とばり)を少し開いてみた。彼女は眠っていた。胸から出る息には悲痛な音が交じっていた。その音はその種の病気に固有なものであって、眠りについてる死に瀕(ひん)した子供のそばで徹宵(てっしょう)看護する母親らの胸を痛ましめるところのものである。しかしその困難な呼吸も、彼女の顔の上にひろがって彼女の眠った姿を変えている一種言い難い晴朗さを、ほとんど乱してはいなかった。彼女の青ざめた色は今は白色になっていた。その頬(ほほ)には鮮やかな色が上っていた。処女と青春とからなお残っている彼女の唯一の美である長い金色の睫毛(まつげ)は、低く閉ざされていながら揺(ゆら)めいていた。彼女の全身は軽く震えていた。目には見えないがその動くのは感ぜらるるある翼がまさに開いて、彼女を運び去ろうとしているかのようだった。そのような彼女の姿を見ては、ほとんど絶望の病人であるとは信ぜられなかったろう。彼女はまさに死なんとしているというよりもむしろ、まさに飛び去らんとしているかのようだった。
 人の手が花を摘み取らんとして近づく時、その枝は震えて、身を退けるとともにまた身を差し出すがごとく思われる。死の神秘なる指先がまさに魂を摘み取らんとする時、人の身体もそれに似た震えをなすものである。
 マドレーヌ氏は病床のそばにしばらくじっとたたずんで、ちょうど二カ月前初めて彼女をこの避難所に見舞ってきた日のように、病人と十字架像とを交互にながめていた。彼らは二人ともそこにやはり同じ姿勢をしていた、彼女は眠り、彼は祈って。ただ二カ月過ぎた今日では、彼女の髪は灰色になり、彼の髪はまっ白になっていた。
 サンプリス修道女は彼とともにはいってきていなかった。彼は寝台のそばに立ちながら、あたかも室の中にだれかがいてそれに沈黙を命ずるかのように、指を口にあてていた。
 ファンティーヌは目を開いた。彼女は彼を見た。そしてほほえみながら静かに言った。
「あの、コゼットは?」

     二 楽しきファンティーヌ

 ファンティーヌはびっくりした身振りも喜びの身振りもしなかった。彼女は喜びそのものであった。「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信とをもって、不安も疑念もまったくなしに発せられたので、マドレーヌ氏はそれに答うべき言葉が見つからなかった。ファンティーヌは続けて言った。
「私はあなたがそこにいらっしゃるのを知っていました。私は眠っておりましたが、あなたを見ていました。もう長い間見ていました。夜通し私は目であなたの後(あと)をつけていました。あなたは栄光に包まれて、あなたのまわりにはあらゆる天の人たちがいました。」
 彼は十字架像の方に目を上げた。
「ですが、」と彼女は言った、「どこにコゼットはいるのか教えて下さい。私が目をさます時のために、なぜ私の寝床の上に連れてきて下さらなかったのでしょう。」
 彼は何か機械的に答えた。しかし何と答えたのか、自分でも後でどうしても思い出せなかった。ちょうど仕合わせにも、医者が知らせを受けてやってきた。彼はマドレーヌ氏を助けた。
「まあ静かになさい。」と医者は言った。「子供はあちらにきています。」
 ファンティーヌの目は輝き渡り、顔一面に光を投げた。すべて祈願の含み得る最も激しいまた優しいものをこめた表情をして、彼女は両手を握り合わした。
「ああどうか、」と彼女は叫んだ、「私の所へ抱いてきて下さい。」
 ああいかに人の心を動かす母の幻想であるかよ! コゼットは彼女にとっては常に、抱きかかえ得る小さな子供であった。
「まだいけません。」と医者は言った。「今すぐはいけません。まだあなたには熱があります。子供を見たら、興奮して身体にさわるでしょう。まずすっかりなおらなければいけません。」
 彼女は苛(い)ら立ってその言葉をさえぎった。
「私はなおっていますわ! なおっていますっていうのに! この先生は何てわからずやでしょう。ああ、私は子供に会いたいんです。私は!」
「それごらんなさい、」と医者は言った、「あなたはそんなに興奮するでしょう。そんなふうでいる間は、子供に会うことに私は反対します。子供に会うだけでは何にもなりません、子供のために生きなければいけません。あなたがしっかりしてきたら、私が自分で子供は連れてきてあげます。」
 あわれな母は頭を下げた。
「先生、お許し下さい。ほんとうに許して下さいませ。昔は今のような口のきき方をしたことはありませんでしたが、あんまりいろいろな不仕合わせが続きましたので、どうかすると自分で自分の言ってる事がわからなくなるのです。私はよくわかっております、あまり心を動かすことを御心配なすっていらっしゃるんですわね。私は先生のおっしゃるまで待っていますわ。ですけれど、娘に会っても身体にさわるようなことは決してありませんわ。私は娘を見ています。昨晩から目を離さないでいます。今娘が抱かれて私の所へきても、私はごく静かに口をききます。それだけのことですわ。モンフェルメイュからわざわざ連れてきて下すった子供に会いたがるのは、当たりまえのことではありませんか。私は苛(い)ら立ってはいません。私はこれから仕合わせになるのをよく知っています。夜通し私は、何か白いものを、そして私に笑いかけてる人たちを見ました。先生のおよろしい時に、私のコゼットを抱いてきて下さいませ。私はもう熱はありません、なおってるんですもの。もう何ともないような気がしますわ。けれど、病人のようなふうをして、ここの御婦人方の気に入るように動かないでおりましょう。私が静かにしてるのを御覧なすったら、子供に会わしてやるがいいとおっしゃって下さいますでしょう。」
 マドレーヌ氏は寝台のそばにある椅子(いす)にすわっていた。ファンティーヌは彼の方に顔を向けた。彼女はまるで子供のような病衰のうちに、自分でも言ったとおり、静かにそして「おとなしく」しているのを見せようと明らかに努力をしていた。そして自分が穏やかにしているのを見たらだれもコゼットを連れて来るのに反対しないだろうと、思っているらしかった。けれども、自らそうおさえながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことを尋ねてやまなかった。
「市長様、旅はおもしろうございましたか。ほんとに、私のために子供を引き取りに行って下さいまして、何という御親切でしょう。ただちょっと子供の様子をきかして下さいませ。旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、娘は私を覚えていませんでしょう! あの時から私をもう忘れてるでしょう、かわいそうに! 子供には記憶というものがないんですもの。小鳥のようなものですわ。今日はこれを見てるかと思うと、明日はあれを見ています、そしてもう何にも思い出しません。娘は白いシャツくらいは着ていましたでしょうか。テナルディエの人たちは娘をきれいにしてくれていましたでしょうか。どんな物を食べていましたでしょう。ほんとうに、私は困っていました頃、そんなことを考えてはどんなに苦しい思いをしましたでしょう。でも今ではみんな済んでしまいました。私はほんとにうれしいのです。ああ私はどんなに娘に会いたいでしょう! 市長様、娘はかわいうございましたか。娘はきれいでございましょうね。あなたは駅馬車の中でお寒くていらっしゃいましたでしょうね。ほんのちょっとの間でも娘をつれてきていただけませんでしょうか。一目見たらまたすぐ向こうに連れてゆかれてもよろしいんですが。ねえ、あなたは御主人ですから、あなたさえお許しになりますれば!」
 彼は彼女の手を取った。「コゼットはきれいです。」と彼は言った。「コゼットは丈夫です。じきに会えます。がまあ落ち着かなくてはいけません。あなたはあまりひどく口をきくし、それに寝床から腕を出しています。それで咳(せき)が出るんです。」
 実際、激しい咳はほとんど一語一語彼女の言葉を妨げていた。
 ファンティーヌはもう不平を言わなかった。あまり激しく訴えすぎて、皆に安心させようとしていたのがむだになりはしないかと恐れた。そして関係のない他のことを言い出した。
「モンフェルメイュは相当よい所ではございませんか。夏になるとよく人が遊びに行きます。テナルディエの家は繁盛しておりますか。あの辺は旅の客が多くありません。であの宿屋もまあ料理屋みたようなものですわね。」
 マドレーヌ氏はやはり彼女の手を取ったままで、心配して彼女の顔を見ていた。明らかに彼女に何事かを言うためにきたのであったが、いまや彼の頭はそれに躊躇(ちゅうちょ)していた。医者は診察をすまして出て行った。ただサンプリス修道女だけが彼らの傍に残った。
 そのうち、その沈黙の最中に、ファンティーヌは叫んだ。
「娘の声がする。あ、娘の声が聞こえる!」
 彼女は周囲の人たちに黙っているように腕を伸ばし、息を凝らして、喜ばしげに耳を澄まし初めた。
 ちょうど中庭に一人の子供が遊んでいた。門番の女の児か、またはだれか女工の児であろう。それこそ実に、痛ましいできごとの神秘な舞台面の一部をなすらしいあのよくある偶然事の一つである。それは一人の小さな女の児で、身を暖めるために行ったりきたり走ったりして、高い声で笑い歌っていた。ああ、子供の戯れまですべてのことに立ち交じるものである! ファンティーヌが聞いたのはその小さい娘の歌う声であった。
「おお!」とファンティーヌは言った、「あれは私のコゼットだわ! 私はあの声を覚えている。」
 子供はきた時のようにまたふいに去って行った。声は聞こえなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳を傾けていたが、次にその顔は暗くなった。そしてマドレーヌ氏は、彼女が低い声で言うのを聞いた。「私を娘に会わしてくれないとは、あのお医者は何という意地悪だろう! ほんとにいやな顔をしているわ、あの人は。」
 しかし彼女の頭の底の楽しい考えはまた浮き出してきた。彼女は頭を枕につけながら、自ら自分に語り続けた。「私たちは何と仕合わせになることだろう! まず一番に小さな庭が持てる。マドレーヌ様がそうおっしゃっていらした。娘はその庭で遊ぶだろう。それにもう字も覚えなければならない。綴(つづ)り方を教えてやろう。草の中に蝶々(ちょうちょう)を追っかけることだろう。私はその姿を見てやるわ。それからまた、初めての聖体拝受(コンムユニオン)もさしてやろう。ああ、いつそれをするようになるかしら?」
 彼女は指を折って数え初めた。
「……一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、もう七歳(ななつ)になる。もう五年したら。白いヴェールを被(かぶ)らせ、透き編みの靴下をはかせよう。一人前の娘さんのようになるだろう。ああ童貞さん、ほんとに私はばかですわね、娘の最初の聖体拝受(コンムユニオン)なんかを考えたりして。」
 そして彼女は笑い出した。
 マドレーヌ氏はファンティーヌの手を離していた。彼は下に目を伏せ底知れぬ考えのうちに沈んで、あたかも風の吹く音を聞くかのようにそれらの言葉に耳を貸していた。と突然、彼女は口をつぐんだ。彼はそれで機械的に頭を上げた。ファンティーヌは恐ろしい様子になっていた。
 彼女はもう口をきこうとしなかった、息さえも潜めていた。彼女はそこに半ば身を起こし、やせた肩はシャツから現われ、一瞬間前まで輝いていた顔はまっさおになり、そして、自分の前に室の向こうの端に、何か恐ろしいものを見つめてるようだった。その目は恐怖のために大きく見開かれていた。
「おう!」と彼は叫んだ、「どうした? ファンティーヌ。」
 彼女は答えなかった。その見つめたある物から目を離さなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手で後ろを見るように合い図をした。
 彼はふり返って見た。そこにはジャヴェルが立っていた。

     三 満足なるジャヴェル

 事実の経過はこうである。
 マドレーヌ氏がアラスの重罪裁判廷を去ったのは、夜の十二時半が鳴った時だった。彼は宿屋に帰って、読者の知るとおり席を約束しておいた郵便馬車で出発するのに、ちょうど間に合った。朝の六時少し前にモントルイュ・スュール・メールに到着した。そして第一の仕事は、ラフィット氏への手紙を郵便局に投げ込み、次に病舎へ行ってファンティーヌを見舞うことだった。
 しかるに一方では、彼が重罪裁判の法廷を去るや、検事は初めの驚きから我に返って、モントルイュ・スュール・メールの名誉ある市長の常規を逸した行動をあわれむ由を述べ、後にわかるべきその奇怪なできごとによっても自分の確信は少しも変わらないことを表明し、真のジャン・ヴァルジャンなることが明白であるそのシャンマティユーの処刑をさしあたり要求する旨を論じた。その検事の固執は、公衆や法官や陪審員などすべての人の感情と明らかに衝突した。弁護士は容易に検事の論旨を弁駁(べんばく)することができ、マドレーヌ氏すなわち真のジャン・ヴァルジャンの告白によって事件の局面は根本からくつがえされ、陪審の人々はもはや眼前に一個無罪の男を見るのみであることを、容易に立論することができた。彼はまたそれに乗じて、裁判上の錯誤やその他種々のことについて、惜しいかな、さして事新しくもない感慨的結論を述べたてた。裁判長は結局弁護士に同意した。そして陪審員らは数分の後、シャンマティユーを免訴した。
 しかし検事には一人のジャン・ヴァルジャンが必要であった。そして既にシャンマティユーを逸したので、マドレーヌの方をとらえた。
 シャンマティユーの放免後直ちに、検事は裁判長とともに一室に閉じこもった。彼らは「モントルイュ・スュール・メールの市長その人の逮捕の必要のこと」を商議した。こののという文字の多い文句は検事のであって、検事長への報告の原稿に全部彼の手によってしたためられたものである。初めの感動はもう通り過ぎていたので、裁判長もあまり異議を立てなかった。正義の行進をささえ止めるわけにはいかなかった。なおついでに言ってしまえば、裁判長は善良なかなり頭のいい男ではあったが、同時に非常なほとんど激烈な王党であって、モントルイュ・スュール・メールの市長がカーヌ上陸のことを言うおり、ブオナパルトと言わないで皇帝と言ったことに気を悪くしていたのである。
 そこで逮捕の令状は発送せられた。検事は特使に馬を駆らしてモントルイュ・スュール・メールにつかわし、警視ジャヴェルにそのことを一任した。
 ジャヴェルは供述をすました後直ちにモントルイュ・スュール・メールに帰っていたことは、読者の既に知るとおりである。
 特使が逮捕令状と拘引状とをもたらした時には、ジャヴェルはもう起き上がっていた。
 特使の男もものなれた一警官であって、わずか数語でアラスに起こった事をジャヴェルに伝えた。検事の署名のある逮捕令状は次のようだった。「警視ジャヴェルは本日の法廷において放免囚徒ジャン・ヴァルジャンなりと認定せられたるモントルイュ・スュール・メール市長マドレーヌ氏を逮捕せらるべし。」
 ジャヴェルを知らずしてたまたま彼が病舎の控え室にはいってきたところを見た人があったとしたら、その人はおそらくどういうことが起こったか察することはできなかったろう、そして彼の中に何ら異常な様子も見いださなかったろう。彼は冷ややかで落ち着いて重々しく、半白の髪をすっかり顳□(こめかみ)の上になでつけ、いつものようにゆっくり階段を上がってきたのだった。しかし彼をよく知っていて今その様子を注意して見た人があったら、その人は戦慄(せんりつ)を覚えたであろう。その鞣革(なめしがわ)のカラーの留め金は、首の後ろになくて、左の耳の所にきていた。それは非常な動乱を示すものであった。
 ジャヴェルは一徹な男であって、その義務にも服装にも一つのしわさえ許さなかった。悪人に対して規律正しいとともに、服のボタンに対しても厳正であった。
 カラーの留め金を乱している所を見ると、内心の地震とも称し得べき感情の一つが、彼のうちにあったに違いなかった。
 彼は近くの屯所(とんしょ)から一人の伍長と四人の兵士とを請求し、それを中庭に残して置き、ただ簡単にやってきたのだった。彼は門番の女からファンティーヌの室を聞いた。門番の女は兵士らが市長を尋ねてくるのは見なれていたので、別に怪しみもしなかったのである。
 ファンティーヌの室にくると、ジャヴェルは取っ手を回し、看護婦かあるいは探偵のようにそっと扉(とびら)を押し開き、そしてはいってきた。
 厳密に言えば彼は中にはいったのではなかった。帽子をかぶったまま、頤(あご)までボタンをかけたフロックに左手をつき込み、半ば開いた扉の間に立っていたのである。曲げた腕の中には、後ろに隠し持った太い杖の鉛の頭が見えていた。
 彼はだれにも気づかれずに一分間ばかりそうしていた。と突然ファンティーヌが目をあげて、彼を見、マドレーヌ氏をふり向かしたのだった。
 マドレーヌの視線とジャヴェルの視線とが合った時、ジャヴェルは身をも動かさず位置をも変えず近づきもしないで、ただ恐るべき姿になった。およそ人間の感情のうちで、かかる喜びほど恐るべき姿になり得るものはない。
 それは実に、地獄に堕(お)ちたる者を見いだした悪魔の顔であった。
 ついにジャン・ヴァルジャンを捕え得たという確信は、魂の中にあるすべてをその顔の上に現わさしたのである。かき回された水底のものが水面に上がってきたのである。少し手掛かりを失って一時シャンマティユーを誤認したという屈辱の感は、最初いかにもよく察知して長い間正当な本能を持ち続けていたという高慢の念に消されてしまった。ジャヴェルの満足はその昂然(こうぜん)たる態度のうちに現われた。醜い勝利の感はその狭い額(ひたい)の上に輝いた。それは満足したる顔つきが与え得る限りの恐怖の発現であった。
 ジャヴェルは、その瞬間に天にいたのである。自らはっきり自覚してはいなかったが、しかし自己の有用と成功とに対するおぼろな直覚をもって彼ジャヴェルは、悪をくじく聖(きよ)き役目における正義光明真理の権化(ごんげ)であった。彼はその背後と周囲とに、無限の深さにおいて、権威、正理、判定せられたるもの、合法的良心、重罪公訴など、あらゆる星辰(せいしん)を持っていた。彼は秩序を擁護し、法律よりその雷電を発せしめ、社会のために復讐(ふくしゅう)し、絶対なるものに協力し、自ら光栄のうちに突っ立っていた。彼の勝利のうちには、なお挑戦と戦闘とのなごりがあった。光彩を放ちながら傲然(ごうぜん)とつっ立って彼は、獰猛(どうもう)なる天使の長(おさ)の超人間的獣性を青空のまんなかにひろげていた。彼が遂げつつある行為の恐るべき影は、社会の剣の漠然(ばくぜん)たる光をその握りしめた拳(こぶし)に浮き出さしていた。満足しかつ憤然として彼は、罪悪、不徳、反逆、永罰、地獄を、その足下に踏み押さえていた。彼は光り輝き、撃滅し、微笑していた。そしてその恐るべき聖ミカエル(訳者注 天の兵士の長)のうちには争うべからざる壮大の趣があった。
 ジャヴェルはかく恐ろしくはあったが、何ら賤(いや)しいところはなかった。
 清廉、真摯(しんし)、誠直、確信、義務の感などは、悪用せらるる時には嫌悪(けんお)すべきものとなるが、しかしなおそれでも壮大さを失わない。人間の良心に固有なるそれらのものの威厳は、人をおびえさする時にもなお残存する。それらのものは、錯誤という一つの欠点をのみ有する徳である。凶猛に満ちた狂信者の正直な無慈悲な喜悦のうちには、痛ましくも尊むべきある光燿(こうよう)がある。ジャヴェルは自ら知らずして、あらゆる無知なる勝利者と同じく、そのおそるべき幸福のうちにあってあわれまるべき者であった。善の害悪とも称し得べきものの現われてるその顔ほど、痛切なまた恐るべきものはなかった。

     四 官憲再び権力を振るう

 ファンティーヌは市長が彼女を奪い取ってくれたあの日いらいジャヴェルを見なかったのである。彼女の病める頭には何事もよくわからなかったが、ただ彼が再び自分を捕えにきたのだということを信じた。彼女はその恐ろしい顔を見るにたえなかった。息がつまるような気がした。彼女は顔を両手のうちに隠して苦しげに叫んだ。
「マドレーヌ様、助けて下さいませ!」
 ジャン・ヴァルジャン――われわれはこれからはもうこの名前で彼を呼ぶことにしよう――は立ち上がっていた。彼は最もやさしい落ち着いた声でファンティーヌに言った。
「安心なさい。あの人がきたのはあなたのためにではありません。」
 それから彼はジャヴェルへ向かって言った。
「君の用事はわかっている。」
 ジャヴェルは答えた。
「さあ、早く!」
 その二語の音調のうちにはある荒々しい狂気じみたものがあった。ジャヴェルは「さあ、早く!」というよりもむしろ、「さあやく!」と言ったようだった。いかなるつづりをもってしても、それが発せられた調子を写すことはできないほどだった。それはもはや人間の言葉ではなく、一種の咆哮(ほうこう)だった。
 彼は慣例どおりのやり方をしなかった。一言の説明も与えず、拘引状をも示さなかった。彼の目にはジャン・ヴァルジャンは一種不思議なとらえ難い勇士であって、五年間手をつけながらくつがえすことのできなかった暗黒な闘士であるように見えた。その逮捕は事の初めではなく終局であった。彼はただ「さあ、早く!」とだけ言った。
 そう言いながらも彼は一歩も進まなかった。彼はいつも悪党らを自分の方へ手荒らく引きつけるあの目つきを、鉤索(かぎなわ)のようにジャン・ヴァルジャンの上に投げつけた。
 二カ月以前ファンティーヌが骨の髄まで貫かれたように感じたあの目つきが、やはりそれであった。
 ジャヴェルの叫ぶ声に、ファンティーヌは目を開いた。しかしそこには市長さんがいる、何を恐(こわ)がることがあろう?
 ジャヴェルは室のまんなかまで進んだ、そして叫んだ。
「さあ、貴様こないか。」
 あわれなる彼女は周囲を見回した。そこには修道女と市長とのほかだれもいなかった。その貴様というひどい言葉はだれに向けられたのであろう。自分よりほかにない。彼女は震え上がった。
 その時彼女は異常なことを見た。それほどのことは、熱に浮かされた最も暗黒な昏迷(こんめい)のうちにさえ見たことがなかった。
 彼女は探偵ジャヴェルが市長の首筋をとらえたのを見た。市長が頭をたれたのを見た。彼女には世界が消え失せるような気がした。
 ジャヴェルは事実ジャン・ヴァルジャンの首筋をつかんだのだった。
「市長様!」とファンティーヌは叫んだ。
 ジャヴェルはふきだした。歯をすっかりむき出した恐ろしい笑いだった。
「もう市長さんなどという者はここにいないんだぞ!」
 ジャン・ヴァルジャンはフロックのえりをとらえられた手を離そうともしなかった。彼は言った。
「ジャヴェル君……。」
 ジャヴェルはそれをさえぎった。「警視殿と言え。」
「あなたに、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「内々で一言言いたいことがあります。」
「大声で、大声で言え!」とジャヴェルは答えた、「だれでも俺(おれ)には大声で言うのだ。」
 ジャン・ヴァルジャンはやはり声を低めて言った。
「あなたに是非一つのお願いがあるのですが……。」
「大声で言えというに。」
「しかしあなただけに聞いてもらいたいのですから……。」
「俺に何だって言うのだ。俺は聞かん!」
 ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ向き、早口にごく低く言った。
「三日の猶予を与えて下さい! このあわれな女の子供を連れに行く三日です。必要な費用は支払います。いっしょにきて下すってもよろしいです。」
「笑わせやがる!」とジャヴェルは叫んだ。「なあんだ、俺は貴様をそんなばかだとは思わなかった。逃げるために三日の猶予をくれと言うのだろう。そしてそいつの子供を連れて来るためだと言ってやがる。あはは、けっこうなことだ。なるほどうまい考えだ!」
 ファンティーヌはぎくりとした。
「私の子供!」と彼女は叫んだ。「私の子供を連れに行く! では子供はここにいないのかしら! 童貞さん、言って下さい、コゼットはどこにいるんです? 私は子供がほしい。マドレーヌ様、市長様!」
 ジャヴェルは足をふみ鳴らした。
「またそこに一人いるのか! 静かにしろ、醜業婦(じごく)め! 徒刑囚が役人になったり、淫売婦が貴族の取り扱いを受けたり、何という所だ! だがこれからはそうはいかないぞ。もう時がきたんだ。」
 彼はファンティーヌをにらみつけ、ジャン・ヴァルジャンのえり飾りとシャツと首筋とをつかみながらつけ加えた。
「もうマドレーヌさんも市長さんもないんだぞ。泥坊がいるだけだ、悪党が、ジャン・ヴァルジャンという懲役人が。そいつを今俺が捕えたんだ。それだけのことだ。」
 ファンティーヌは硬(こわ)ばった腕と両手とでそこに飛び起きた。ジャン・ヴァルジャンを見、ジャヴェルを見、修道女を見、何か言いたそうに口を開いた。ごろごろいう音が喉(のど)の奥から出、歯ががたがた震えた。そして彼女は苦悶(くもん)のうちに両腕を差し伸べ、痙攣的(けいれんてき)に両手を開き、おぼれる者のようにあたりをかき回し、それからにわかに枕(まくら)の上に倒れた。その頭は枕木にぶつかって、胸の上にがっくりたれた。口はぽかんと開いて、目は開いたまま光が消えていた。
 彼女は死んだのである。
 ジャン・ヴァルジャンは自分をつかんでいるジャヴェルの手の上に自分の手を置き、赤児の手を開くがようにそれを開き、そしてジャヴェルに言った。
「あなたはこの女を殺した。」
「早く片づけてしまおう!」とジャヴェルは憤激して叫んだ。「俺は理屈を聞きにここにきたんじゃない。そんなことははぶいたがいい。護衛の者は下にいる。すぐに行くか、もしくは手錠かだぞ!」
 室の片すみに古い鉄の寝台があった。かなりひどくなっていたが、修道女たちが病人を看護しながら寝る時のに使われていた。ジャン・ヴァルジャンはその寝台の所へ歩み寄り、いたんでるその枕木をまたたくまにはずした。それくらいのことは彼のような腕力にはいとたやすいことだった。彼はその枕木の太い鉄棒をしっかとつかんで、ジャヴェルを見つめた。
 ジャヴェルは扉(とびら)の方へ退いた。
 鉄棒を手にしたジャン・ヴァルジャンは、おもむろにファンティーヌの寝台の方へ歩いて行った。そこまで行くと彼はふり返って、ようやく聞き取れるくらいの声でジャヴェルに言った。
「今しばらく私の邪魔をしてもらいますまい。」
 確かなことには、ジャヴェルは震えていた。
 彼は護衛の者を呼びに行こうと思ったが、その間を利用してジャン・ヴァルジャンは逃走するかも知れなかった。それで彼はそのままそこに残って、その杖の一端を握りしめ、ジャン・ヴァルジャンから目を離さずに扉(とびら)の框(かまち)を背にして立っていた。
 ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木の頭に肱(ひじ)をつき、額を掌(てのひら)に当て、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。彼はそのまま気を取られて無言でいた。明らかにこの世のことは何にも思っていなかったのであろう。彼の顔にも態度にも、もはや言い知れぬ憐憫(れんびん)の情しか見えなかった。そしてその瞑想(めいそう)をしばらく続けた後、彼はファンティーヌの方に身をかがめて、低い声で何かささやいた。
 彼は彼女に何と言ったのであろうか? この世から捨てられたその男は死んだその女に何を言い得たであろうか。その言葉は何であったろうか。地上の何人(なんぴと)にもそれは聞こえなかった。死んだ彼女にはそれが聞こえたであろうか。おそらくは崇高なる現実となる痛切なる幻影が世にはある。少しの疑いもはさみ得ないことには、その光景の唯一の目撃者であったサンプリス修道女がしばしば語ったところによれば、ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの耳に何かささやいた時、墳墓の驚きに満ちたるその青ざめた脣(くちびる)の上と茫然(ぼうぜん)たる瞳のうちとに、言葉に尽し難い微笑の上ってきたのを、彼女ははっきり見たのであった。
 ジャン・ヴァルジャンはその両手にファンティーヌの頭を取り、母親が自分の子供にするようにそれを枕の上にのせ、それからシャツのひもを結んでやり、帽子の下に髪の毛をなでつけてやった。それがすんで、彼はその目を閉ざしてやった。
 ファンティーヌの顔はその時、異様に明るくなったように見えた。
 死、それは大なる光耀(こうよう)への入り口である。
 ファンティーヌの手は寝台の外にたれていた。ジャン・ヴァルジャンはその手の前にひざまずいて、それを静かに持ち上げ、それに脣(くちびる)をつけた。
 それから彼は立ち上がった、そしてジャヴェルの方へ向いた。
「さあ、これから、」と彼は言った、「どうにでもしてもらいましょう。」

     五 ふさわしき墳墓

 ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを市の監獄に投じた。
 マドレーヌ氏の逮捕はモントルイュ・スュール・メールに、一つの感動を、あるいはむしろ非常な動揺を起こした。まことに悲しむべきことではあるが、あの男は徒刑囚であったというそれだけの言葉でほとんどすべての人は彼を捨てて顧みなかったことを、われわれは隠すわけにはゆかない。わずか二時間足らずのうちに、彼がなしたすべての善行は忘れられてしまった、そして彼はもはや「一人の徒刑囚」に過ぎなくなった。ただし、アラスのできごとの詳細はまだ知られていなかったことを言っておかなければならない。終日町の方々で次のような会話がかわされた。
「君は知らないのか、あれは放免囚徒だったとさ。――だれが?――市長だ。――なにマドレーヌ氏が?――そうだ。――本当か。――彼はマドレーヌというのではなくて、何でもベジャンとかボジャンとかブージャンとかいう恐ろしい名前だそうだ。――へーえ!――彼は捕(つかま)ったのだ。――捕った!――護送するまで市の監獄に入れられてるんだ。――護送するって! これから護送するって! どこへ連れて行くんだろう。――昔大道で強盗をやったとかで重罪裁判に回されるそうだ。――なるほど、僕もそんな奴(やつ)だろうと思っていた。あまり親切で、あまり申し分がなく、あまり物がわかりすぎた。勲章は断わるし、餓鬼どもに会えばだれにでも金をやっていた。それには何かきっと悪いことでもしてきた奴だろうと、僕はいつも思っていた。」
「客間」では特にその種の話でもちきっていた。
 ドラポー・ブラン紙の読者である一人の老婦人は、ほとんど測り得られないほど深い意味のこもった次のような考えを述べた。
「私は別にお気の毒とも思いませんよ。ブオナパルト派の人たちにはいい見せしめでしょう。」
 かくのごとくして、マドレーヌ氏と呼ばれていた幻はモントルイュ・スュール・メールから消え失せてしまった。ただ全市中において三、四人の人々がその記憶を忠実に保っていた。彼に仕えていた門番の婆さんもそのうちの一人だった。
 その日の晩、その忠実な婆さんは、なお心おびえながら悲しげに思い沈んで、門番部屋の中にすわっていた。工場は終日閉ざされ、正門は閂(かんぬき)がさされ、街路には人通りもなかった。家の中には、ファンティーヌの死体のそばで通夜をしてるペルペチューとサンプリスとの二人の修道女がいるばかりだった。
 マドレーヌ氏がいつも帰って来る頃の時間になると、善良な門番の婆さんは機械的に立ち上がり、引き出しからマドレーヌ氏の室の鍵(かぎ)を取り出し、毎晩マドレーヌ氏が自分の室に上がってゆく時に使っていた手燭(てしょく)を取り上げて、それから、マドレーヌ氏がいつも取ってゆく釘(くぎ)に鍵をかけ、そのそばに手燭を置き、あたかも彼を待ってるかのようだった。それからまた彼女は椅子(いす)に腰をおろして考え初めた。その正直なあわれな婆さんは、自分でも知らずにそれらのことをしたのだった。
 それからおよそ二時間あまりも過ぎてからだったが、彼女は夢想からさめて叫んだ。「まあ、どうしたというんだろう、私はあの方の鍵を釘にかけたりなんかして!」
 その時、部屋(へや)のガラス窓が開き、そこから一つの手が出てきて、鍵と手燭とを取り、火のついた別の蝋燭(ろうそく)から手燭の小蝋燭に火をつけた。
 門番の婆さんは目をあげてあっと口を開いた。喉元(のどもと)まで叫び声が出たが、彼女はそれを押さえつけた。
 彼女は、その手、その腕、そのフロックの袖(そで)を覚えていた。
 それはマドレーヌ氏であった。
 彼女は数秒間口がきけなかった。彼女自ら後になってそのできごとを人に話す時いつも言ったように、まったくたまげてしまったのである。
「まあ、市長様、」と彼女はついに叫んだ、「私はあなたのいらっしゃる所は……。」
 彼女は言い澱(よど)んだ。その言葉の終わりは初めの言い方に対して敬意を欠くことになるのだった。ジャン・ヴァルジャンは彼女にとってはやはり市長様であった。
 彼は彼女の思ってるところを言ってやった。
「牢屋だと思ってたというんだろう。」と彼は言った。
「私はなるほど牢屋にいた。だが私は窓の格子(こうし)をこわし、屋根の上から飛びおり、そしてここにきたのだ。私は自分の室に上がってゆくから、サンプリス修道女を呼びに行ってくれ。きっとあのあわれな女のそばにいるだろうから。」
 婆さんは急いでその言葉に従った。
 彼は彼女に何らの注意も与えなかった。自分で用心するよりもなおよく彼女は自分を保護してくれることと、彼は信じきっていたのである。
 どうして彼が正門をあけさせないで中庭にはいって来ることができたかは、だれにもわからなかったことである。彼は小さな潜(くぐ)り戸を開く合い鍵を持っていて、それを常に身につけてはいた。しかし身体をしらべられてその合い鍵も取り上げられたはずであった。この点は不明のままに終わった。
 彼は自分の室に通ずる階段を上がっていった。その上までゆくと、手燭を階段の一番上の段に置き、音のしないように扉を開き、手探りに進んでいって窓と雨戸とを閉ざし、それから手燭を取りに戻ってきて、室の中にまたはいった。
 それは有用な注意であった。彼の窓が街路から見えることは読者の思い起こすところであろう。
 彼はあたりをじろりと見回した、テーブルや、椅子(いす)や、三日前から手もつけられていない寝台などを。一昨夜の取り乱した跡は少しも残っていなかった。門番の婆さんが「室をこしらえた」のであった。ただ彼女は、鉄のはまった杖の両端と火に黒くなった四十スー銀貨とを、灰の中から拾い上げて丁寧にテーブルの上に置いていた。
 彼は一枚の紙を取って、その上にしたためた。「これは我が鉄を着せし杖の両端および重罪法廷にて語りたるプティー・ジェルヴェーより奪いし四十スー貨幣なり。」そして彼は、その紙の上に銀貨と二つの鉄片とを置き、室にはいれば一番に目につくようにしておいた。彼は戸棚から自分の古いシャツを引き出して、それを引き裂いた。そして幾つかの布片を作って、その中に二つの銀の燭台を包み込んだ。彼は別に急いでもそわそわしてもいなかった。司教の燭台を包みながら、黒パンの一片をかじった。たぶんそれは、脱走しながら携えてきた監獄のパンであったろう。
 そのことは、警察からあとで捜索にきた時、室の床(ゆか)の上に見いだされたパンのくずによって確かめられた。
 だれかが扉(とびら)を低く二つたたいた。
「おはいりなさい。」と彼は言った。
 サンプリス修道女であった。
 彼女は色青ざめ、両眼は赤くなり、持っていた蝋燭(ろうそく)は手のうちに揺らめいていた。運命の暴力は、いかに吾人(ごじん)が完成しておりあるいは冷静となっていても、吾人の臓腑(ぞうふ)の底より人間性を引き出し、それを外部に現わさせるだけの特性を持っているものである。その一日の感動のうちに、その修道女も再び一個の女性となっていた。彼女は泣いたのだった、そして今震えていた。
 ジャン・ヴァルジャンは一枚の紙に数行したため終わって、それを修道女に差し出して言った。
「どうかこれを司祭さんに渡して下さい。」
 その紙は折り畳んであった。彼女はその上に目を落とした。
「読んでもよろしいです。」と彼は言った。
 彼女は読んだ。「ここに残してゆくいっさいのものを御監理下さるよう司祭殿に御願い申し候。そのうちより、訴訟費用および今日死去せる婦人の埋葬費御支払い下さるべく候。残余のものは貧しき人々へ御施し下されたく候。」
 修道女は何か言おうとした。しかしかろうじて不明な音を少しつぶやき得たばかりだった。それでもついに彼女はこれだけ言うことができた。
「市長様は、最後にも一度あのかわいそうな女(ひと)を見ておやりになりたくはございませんか。」
「いや、」と彼は言った、「私は追跡されています。その室で捕(つか)まるばかりです。そうなるとかえってあの女の霊を乱すでしょう。」
 彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、大きな物音が階段にした。二人は階段を上がって来る騒々しい足音を聞いた。そしてまた、できるだけ高い鋭い声で門番の婆さんの言うのが聞えた。
「あなた、私は誓って申します、昼間も晩もだれ一人ここへははいりませんでした、それに私は一度も門から離れたこともなかったのです。」
 一人の男が答えた。
「それでもあの室に燈火(あかり)が見える。」
 二人にはジャヴェルの声だとわかった。
 その室は、扉(とびら)を開くとそれで右手の壁のすみが隠れるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火を吹き消した、そしてそのすみにはいった。
 サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。
 扉(とびら)は開かれた。
 ジャヴェルがはいってきた。
 数人の者のささやく声と、門番の婆さんの言い張る声とが、廊下に聞こえていた。
 修道女は目をあげなかった。彼女は祈っていた。
 蝋燭(ろうそく)は暖炉の上にあって、ごく淡い光を投げていた。
 ジャヴェルは修道女を見て、茫然(ぼうぜん)と立ち止まった。
 ジャヴェルの根本、彼の元素、彼の呼吸の中心、それはあらゆる権威に対する尊敬であったことは、読者の思い起こし得るところであろう。彼はまったく単一であって、何らの異論も制限も容(ゆる)さないのだった。もとより彼にとっては、宗教上の権威はすべての権威の第一なるものであった。彼はこの点について他のあらゆることについてと同じく、厳格で皮相的で正確だった。彼の目には、牧師は誤りをすることのない者であり、修道女は罪を犯すことのない者であった。それはいずれも、真実を通す時のほかは決して開かぬただ一つの扉でこの世と通じてる魂であった。
 修道女を認めて、彼の第一の動作は引き退(さが)ろうとすることだった。
 けれどもまた、彼を捕え彼を反対の方向に厳として押し進めるも一つの義務があった。そして彼の第二の動作は、そこに立ち止まり、少なくとも一つの問いをかけてみることだった。
 しかもそれは生涯に一度も嘘(うそ)を言ったことのないサンプリス修道女だった。ジャヴェルはそれを知っていた、そして特にそのために彼女を尊敬していた。
「童貞さん、」と彼は言った、「この室にはあなた一人ですか。」
 恐ろしい一瞬間があった。あわれな門番の婆さんは気が遠くなるような心地がした。
 修道女は目をあげて、そして答えた。
「はい。」
「だが、」とジャヴェルは言った、「しつこく言うのをお許し下さい、私の義務ですから。あなたは今晩、だれか、一人の男を見かけませんでしたか。その男が逃走したのでさがしているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。あなたはその男を見かけませんでしたか。」
 修道女は答えた。「いいえ。」
 役女は嘘(うそ)を言った。相次いで、躊躇(ちゅうちょ)することなく、即座に、献身的に、続けて二度嘘を言った。
「失礼しました。」とジャヴェルは言った。そして彼は深くおじぎをして退いて行った。
 おお聖(きよ)き貞女よ! 汝は既に久しき以前よりこの世の者ではなかった。汝は光明のうちに汝の姉妹の童貞たちや汝の兄弟の天使たちと伍(ご)していたのである。その虚言も汝のために天国において数えられんことを!
 サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとってはある決定的なものであって、吹き消されたばかりでテーブルの上にまだ煙ってる手燭の訝(いぶか)しさにも気を留めなかったのである。
 一時間ほど過ぎて、一人の男が、木立ちと靄(もや)との間を、パリーの方へ向かってモントルイュ・スュール・メールから急いで遠ざかって行った。それはジャン・ヴァルジャンだった。彼に出会った二、三の荷車屋の証言によって、彼は一つの包みを持ち、身には作業用の上衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその上衣を手に入れたか? だれにも知られなかった。ところで、数日前に工場の病舎で一人の老職工が死んだが、残ってるものとてはその作業服だけだった。彼が着ていたのはたぶんそれであったろう。
 最後にファンティーヌについて一言する。
 吾人(ごじん)は皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。
 司祭はジャン・ヴァルジャンが残していったもののうちからできるだけ多くの金を貧しい人々のために取って置いた。彼はそうするのがいいと信じた、そしてまたおそらくそれは至当であったろう。結局、だれに関係したことであったか、一人の徒刑囚と一人の醜業婦とに関することではなかったか。それゆえに彼は、ファンティーヌの埋葬を簡単にし、共同墓地と言われるただ形(かた)だけの所に彼女を葬った。
 ファンティーヌはかくて、すべての人のものでありかつ何人(なんぴと)にも属さない墓地、貧しい人々の消え失せゆく無料の墓地の一隅(いちぐう)に埋められた。ただ幸いにも神はその魂のいずこにあるかを知りたもう。人々は何人たるを問わない無名の死骨の間に暗やみのうちにファンティーヌを横たえた。彼女は塵(ちり)にまみれてしまった。彼女は共同墓地に投げ込まれた。彼女の墓地はその寝所に似寄っていた。




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