レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

 すべてそれらのものは彼の前に口を開いていた。
 彼は恐怖し、目を閉じ、そして魂の奥底で叫んだ、「いや決して!」
 しかも、彼のいっさいの考えを戦慄(せんりつ)せしめ、彼をほとんど狂わする悲痛な運命の悪戯(いたずら)によって、その法廷にいるのは他の彼自身であった。裁判を受けている男を、人々は皆ジャン・ヴァルジャンと呼んでいた。
 生涯のうち最も恐ろしかったあの瞬間が、再びそこに自分の影によって演出されているのを、彼は目前に見た。何たる異様な光景ぞ。
 すべてがそこにあった、同じ機関、同じ夜の時刻、判事や兵士や傍聴者のほとんど同じ顔が。ただ、裁判長の頭の上に一つの十字架像がかかっていた。それだけが彼の処刑の時の法廷になかったものである。彼が判決を受けた時には、神はいなかったのである。
 彼の後ろに一つの椅子(いす)があった。彼は人に見らるるのを恐れてその上に身を落とした。席について彼は、判事席の上に積み重ねてあった厚紙とじの影に隠れて、広間全体の人々の前に自分の顔を隠した。もう人に見られずにすべてを見ることができた。しだいに彼は落ち着いてきた。再び現実のことを十分よく感ずるようになった。外部のことを聞き取り得る平静を得てきた。
 バマタボア氏も陪審員の一人としてそこにいた。
 彼はジャヴェルをさがしたが、見つからなかった。証人の席はちょうど書記のテーブルに隠れていた。そしてまた、前に言ったとおりその広間は十分に明るくなかった。
 彼がはいってきた時は、被告の弁護士がその弁論を終えようとしてるところだった。人々の注意は極度に緊張していた。事件は三時間も前から続いていたのである。三時間の間人々は、その男、その曖昧(あいまい)な奴(やつ)、極端にばかなのか極端に巧妙なのかわからないその浅ましい奴、それが恐るべき真実らしさの重荷の下にしだいに屈してゆくのをながめていたのである。読者の既に知るとおり、その男は一の浮浪人であって、ピエロンの園といわれているある果樹園の林檎(りんご)の木から、熟した林檎のなってる枝を一本折って持ち去るところを、すぐそばの畑の中で捕えられたのである。でその男はいったい何という奴であるか? 調査がなされた。証人らの供述も求められたが、みなその言葉は一致していた。事件は初めから明瞭(めいりょう)であった。起訴は次のとおりだった。――この被告は、単に果実を盗んだ窃盗犯人たるのみではない。被告は実に無頼漢であり、監視違反の再犯者であり、前徒刑囚であり、最も危険なる悪漢であり、長く法廷よりさがされていたジャン・ヴァルジャンと呼ばるる悪人である。彼は八年前ツーロンの徒刑場をいずるや、プティー・ジェルヴェーと呼ばるるサヴォアの少年より大道において強盗を行なった。これ実に刑法第三百八十三条に規定せる犯罪である。これについては、人物証明の成るをまって更に追及すべきである。彼は今新たに窃盗を働いた。これは実に再犯である。よってまず新たなる犯罪について処罰し、更に再犯については後に裁(さば)くべきである。――この起訴に対して、また証人らの一様なる供述に対して、被告は何よりもまず驚いたようだった。彼はそれを否定せんとするつもりらしい身振りや手つきをし、または天井を見つめていた。彼はかろうじて口をきき、当惑した返答をしたが、頭から足先までその全身は否定していた。彼は自分を包囲して攻めよせるそれらの知力の前にあって白痴のごとく、自分を捕えんとするそれらの人々の中にあってあたかも局外者のごとくであった。けれどもそれは彼の未来に関する最も恐るべき問題であった。真実らしさは各瞬間ごとに増していった。そして公衆は、おそらく彼自身よりもなおいっそうの懸念をもって、不幸なる判決がしだいに彼の頭上にかぶさって来るのをながめた。もし同一人であることが認定せられ、後にプティー・ジェルヴェーの事件までが判決せらるるならば、徒刑は愚か死刑にまでもなりそうな情勢だった。しかるにその男はいかなる奴(やつ)であったか? 彼の平気はいかなる性質のものであったか。愚鈍なのかまたは狡猾(こうかつ)なのか。彼はあまりによく了解していたのか、または何もわかっていなかったのか。そういう疑問に、公衆は二派に分かれ、陪審員も二派にわかれているらしかった。その裁判のうちには、恐るべきまた困惑すべきものがあった。その悲劇は単に陰惨なるばかりでなく、また朦朧(もうろう)としていた。
 弁護士はあの長く弁護士派の雄弁となっていた地方的言辞でかなりよく論じた。その地方的言辞は、ロモランタンやモンブリゾンにおいてはもとよりパリーにおいても、昔あらゆる弁護士によって使われたものであるが、今日では一種のクラシックとなって、ただ法官の公の弁論にのみ使用され、荘重なる音と堂々たる句法とによってそれによく調和している。夫や妻を配偶者と言い、パリーを学芸および文明の中心地と言い、王を君主と言い、司教を聖なる大司祭と言い、検事を能弁なる訴訟解釈者と言い、弁論をただいま拝聴せる言語と言い、ルイ十四世時代を偉大なる世紀と言い、劇場をメルポメネの殿堂と言い、王家を王のおごそかなる血統と言い、演奏会を音楽の盛典と言い、師団長を何々の高名なる勇士と言い、神学校の生徒をかの優しきレヴィ人と言い、新聞紙に帰せらるる錯誤を新聞機関の欄内に毒を注ぐ欺瞞と言い、その他種々の言い方を持っている。――ところで弁護士はまず林檎(りんご)窃盗の件の説明より初めた。美しい語法においては説明に困難な事がらである。しかしベニーニュ・ボシュエもかつて祭文のうちにおいて一羽の牝鶏(めんどり)の事に説きおよぼさなければならなかった、しかも彼はみごとにそれをやってのけたのだった。今弁護士は、林檎の窃盗は具体的には少しも証明せられていない旨を立論した。――弁護人として彼がシャンマティユーと呼び続けていたその被告は、壁を乗り越えもしくは枝を折るところをだれからも見られたのではない。――彼はただその枝(弁護士は好んで小枝と言った)を持っているところを押さえられただけである。――しかして彼は、地に落ちているのを見いだして拾ったまでだと言っている。どこにその反対の証拠があるのか? ――おそらくその一枝はある盗人によって、壁を越えた後に折られ盗まれ、見つかってそこに捨てられたものであろう。疑いもなく、盗人はあるにはあった。――しかしその盗人がシャンマティユーであったという何の証拠があるか。ただ一事、徒刑囚であったという資格、不幸にしてそれはよく確証せられたらしいことを弁護士も否定しなかった。被告はファヴロールに住んでいたことがある。被告はその地で枝切り職をやっていた。シャンマティユーという名前は本来ジャン・マティユーであったであろう。それは事実である。それから四人の証人も、シャンマティユーを囚人ジャン・ヴァルジャンであると躊躇(ちゅうちょ)するところなく確認している。それらの徴証とそれらの証言に対しては、弁護士も被告の否認、利己的な否認をしか持ち出し得なかった。しかし、たとい彼がもし囚徒ジャン・ヴァルジャンであったとしても、それは彼が林檎(りんご)を盗んだ男であるという証拠になるであろうか? それは要するに推定であって、証拠ではない。が被告は「不利な態度」を取った。それは事実で、弁護士も「誠実なところ」それを認めざるを得なかった。被告は頑固(がんこ)にすべてを否認した、窃盗(せっとう)もまた囚人の肩書きをも。だがこの後者の方は確かに自白した方がよかったであろう。そうすればあるいは判事らの寛大な処置を買い得たかも知れなかった。弁護士もそれを彼に勧めておいたのであった。しかし被告は頑強にそれを否認した。きっと何も自白しなければすべてを救い得ると思ったのであろう。それは明らかに誤りであった。しかしかく思慮の足りないところもよろしく考量すべきではあるまいか。この男は明らかに愚かである。徒刑場における長い間の不幸、徒刑場を出て後の長い間の困苦、それは彼を愚鈍になしてしまったのである。云々(うんぬん)。彼は下手(へた)な弁解をしたが、それは彼を処刑すべき理由にはならない。ただプティー・ジェルヴェーの事件に至っては、弁護士もそれを論議すべきものを持たなかった。それはまだ訴件のうちにはいっていなかったのである。結局、もし被告がジャン・ヴァルジャンと同一人であると認定せらるるにしても、監視違反囚に対する警察法にのみ彼を問い、再犯囚に対する重罪に処せないようにと、弁護士は陪審員および法官一同に向かって懇願しながら、その弁論を結んだ。
 検事は弁護士に対して反駁(はんばく)した。彼は検事の通性として辛辣(しんらつ)でまた華麗であった。
 彼は弁護士の「公明」を祝した、そしてその公明を巧みに利用した。彼は弁護士の認めたすべての点によって被告を難じた。弁護士は被告がジャン・ヴァルジャンであることを認めたがようであった。彼はその点をとらえた。被告はゆえにジャン・ヴァルジャンである。この点は既に起訴のうちに明らかで、もはや抗弁の余地はない。そこで検事は巧みに論法を換えて、犯罪の根本および原因にさかのぼり、ロマンティック派の不道徳を痛論した。ロマンティック派は当時、オリフラム紙やコティディエンヌ紙の批評家らが与えた悪魔派の名の下に起こりかけていたのだった。検事はいかにも真(まこと)らしく、シャンマティユーいや換言すればジャン・ヴァルジャンの犯罪は、その敗徳文学の影響であるとした。その考察が済んで、彼は直接ジャン・ヴァルジャンに鋒先(ほこさき)を向けた。ジャン・ヴァルジャンとはいったい何物であるか? 彼はそこでジャン・ヴァルジャンのことを詳細に描出した。地より吐き出されたる怪物云々(うんぬん)。それらの描出の模範はこれをテラメーヌ(訳者注 ラシーヌの戯曲フエードル中の人物)の物語のうちに求められる。それは悲劇には無用なものであるが、常に法廷の雄弁には大なる貢献をなすものである。傍聴人や陪審員らは「震え上がった。」その描出がすんで彼は、翌朝のプレフェクチュール紙の大なる賛辞をかち得んための抑揚(よくよう)をもって言を進めた。――そして被告は実にかくのごとき人物である、云々。浮浪人であり、乞食(こじき)であり、生活の方法を有せぬ奴(やつ)である、云々。――被告は過去の生涯によって悪事になれ、入獄によっても少しもその性質が改まらなかったのである。プティー・ジェルヴェーに関する犯罪はそれを証して余りある、云々。――被告は不敵なる奴である。大道において、乗り越した壁より数歩の所において、盗める品物を手に持っていて、現行犯を押さえられ、しかもなおその現行犯を、窃盗(せっとう)を、侵入を、すべてを否認し、おのれの名前までも否認し、同一人なることまでも否認している。しかし吾人(ごじん)はここに一々持ち出さないが、幾多の証拠がある。それを外にしても四人の証人が認めている。すなわち、ジャヴェル、あの清廉なる警視ジャヴェル、および被告の昔の汚辱の仲間、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユの三人の囚人。その一致したる恐るべき証言に対して、彼はいかなる反駁(はんばく)を有するか? 彼は単に否定する。いかなる頑強さぞ! 陪審員諸君、諸君はよろしく公平なる判断を下さるることと思う、云々(うんぬん)。――検事がかく語っている間、被告は多少感嘆を交じえた驚きをもって呆然(ぼうぜん)と口を開いて聞いていた。人間の力でよくもかく語り得るものだと彼は明らかに驚いたのである。時々、論告の最も「溌剌(はつらつ)」たる瞬間、自らおさえかねる能弁が華麗なる文句のうちにあふれ出て、被告を暴風雨のごとく包囲する瞬間には、彼は右から左へ左から右へとおもむろに頭を動かした。それは一種の悲しい無言の抗弁であって、彼は弁論の初めよりそれだけで自ら満足していたのである。彼の最も近くに立会ってる人々は、彼が二、三度口のなかで言うのを聞いた。「バルーさんに尋ねなかったからこんなことになるんだ!」――その愚昧(ぐまい)な態度を検事は陪審員らに注意した。それは明らかに故意にやっているもので、被告の痴鈍を示すものではなく、実に巧妙と狡猾(こうかつ)とを示すものであり、法廷を欺く常習性を示すものであり、被告の「根深い奸悪(かんあく)」を現わすものである。そして彼は、プティー・ジェルヴェーの事件はこれを保留しておき、厳刑を請求しながら弁論を終えた。
 ここに厳刑というのは、読者の知るとおり、無期徒刑をさすのである。
 弁護士はまた立ち上がって、まず「検事殿」にその「みごとなる弁舌」を祝し、次にできる限りの答弁を試みた。しかし彼の論鋒(ろんぽう)は鈍っていた。地盤は明らかに彼の足下にくずれかけていた。

     十 否認の様式

 弁論を終結すべき時はきた。裁判長は被告を起立さして、例のごとく尋ねた。「被告はなお何か申し開きをすることはないか。」
 男は立ったまま手に持っているきたない帽子をひねくっていた。裁判長の言葉も聞こえぬらしかった。
 裁判長は再び同じ問いをかけた。
 こんどは男にも聞こえた。彼はその意味を了解したらしく、目がさめたというような身振りをし、周囲を見回し、公衆や憲兵や自分の弁護士や陪審員や法官らをながめ、腰掛けの前の木柵(さく)の縁にその大きな拳(こぶし)を置き、なお見回して、突然検事の上に目を据えて語り初めた。それはあたかも爆発のごときものだった。その言葉は、支離滅裂で、急激で、互いに衝突し混乱して、口からほとばしりいで、一時に先を争って出て来るかのようだった。彼は言った。
「私の言うのはこうだ。私はパリーで車大工をしていた。バルー親方の家だ。それはえらい仕事だ。車大工というものは、いつも戸外(そと)で、中庭で、仕事をしなくちゃならない。親切な親方の家じゃ仕事場でするんだが、決してしめ切った所じゃない。広い場所がいるからだ。冬なんかひどく寒いから、自分で腕を打って暖まるくらいだ。だが親方はそれを喜ばない。時間がつぶれるというんだ。舗石(しきいし)の間には氷がはりつめていようという寒い時に鉄を扱うのは、つらいもんだ。すぐに弱ってしまう。そんなことをしていると、まだ若いうちに年をとってしまう。四十になる頃にはもうおしまいだ。私は五十三だった、非常につらかった。それに職人というものは意地が悪いんだ! 年が若くなくなると、もう人並みの扱いはしないで老耄奴(おいぼれめ)がと言いやがる。私は一日に三十スーよりもらわなかった。給金をできるだけ安くしようというのだ。親方は私が年をとってるのをいいことにしたんだ。それに私は、娘が一人あった。川の洗たく女をしていたが、その方でも少ししか取れなかった。でも二人で、どうにかやってはゆけた。娘の方もつらい仕事だった。雨が降ろうが、雪が降ろうが、身を切るような風に吹かれて、腰まである桶(おけ)の中で一日働くんだ。氷が張っても同じだ。洗たくはしなけりゃならない。シャツをよけいに持っていない人がいるんだ。後を待っている。すぐに洗わなけりゃ流行(はや)らなくなってしまう。屋根板がよく合わさっていないので、どこからでも雨がもる。上着や下着は皆びしょぬれだ。身体にまでしみ通ってくる。娘はまた、アンファン・ルージュの洗たく場でも働いたことがある。そこでは水が鉄管から来るので、桶の中にはいらないですむ。前の鉄管で洗って、後ろの盥(たらい)でゆすぐんだ。戸がしめてあるんだからそんなに寒くはない。だが恐ろしく熱い蒸気が吹き出すから、目を悪くしてしまう。娘は夕方七時に帰ってきて、すぐに寝てしまう。そんなに疲れるんだ。亭主はそれをなぐる。そのうち娘は死んでしまった。私どもは非常に不仕合わせだった。娘は夜遊びをしたこともなく、おとなしいいい子だった。一度カルナヴァルのしまいの日に、八時に帰ってきて寝たことがあったばかりだ。そのとおりだ。私は本当のことを言ってる。調べたらすぐわかることだ。ああそうだ、調べるといったところで、パリーは海のようなもんだ。だれがシャンマティユーじいなんかを知ってよう。だがバルーさんなら知ってる。バルーさんの家に聞いてみなさい。その上で私をどうしようと言いなさるのかね。」
 男はそれで口をつぐんで、なお立っていた。彼はそれだけのことを、高い早い嗄(しわが)れたきつい息切れの声で、いら立った粗野な率直さで言ってのけた。ただ一度、群集の中のだれかにあいさつするため言葉を途切らしただけだった。やたらにつかんでは投げ出したようなその断定の事がらは、吃逆(しゃっくり)のように彼の口から出た。そして彼はその一つ一つに、木を割ってる樵夫(きこり)のような手つきをつけ加えた。彼が言い終わった時、傍聴人は失笑(ふきだ)した。彼はその公衆の方をながめた。そして皆が笑ってるのを見て、訳もわからないで、自分でも笑い出した。
 それは彼にとって非常な不利であった。
 注意深いまた親切な裁判長は、口を開いた。
 彼は「陪審員諸君」に、「被告が働いていたという以前の車大工親方バルーという者を召喚したが出頭しなかった、破産をして行方(ゆくえ)がわからないのである、」ということを告げた。それから彼は被告の方に向いて、自分がこれから言うことをよく聞くようにと注意し、そして言った。「その方はよく考えてみなければならない場合にあるのだぞ。きわめて重大な推定がその方の上にかかったのだ、そして最悪な結果をきたすかも知れないのだ。被告、その方のために本官は最後に今一度言ってやる。次の二つの点を明瞭(めいりょう)に説明してみよ。第一に、その方はピエロンの果樹園の壁を乗り越え枝を折り林檎(りんご)を盗んだか、否か。言い換えれば、侵入窃盗(せっとう)の罪を犯したか、否か。第二に、その方は放免囚ジャン・ヴァルジャンであるか、否か。」
 被告はそれをよく理解しかつ答うべきことを知ってるかのように、悠然(ゆうぜん)と頭を振った。彼は口を開き、裁判長の方を向き、そして言った。
「まず……。」
 それから彼は自分の帽子を見、天井をながめ、それきり黙ってしまった。
「被告、」と検事は鋭い声で言った、「注意せい。その方は審問には何も答えない。その方の当惑を見ても罪は十分明らかだ。みな明瞭にわかっているのだぞ。その方はシャンマティユーという者ではない。徒刑囚ジャン・ヴァルジャンである。初め母方の姓を取ってジャン・マティユーという名の下に隠れていたのだ。その方はオーヴェルニュに行ったことがある。その方はファヴロールの生まれで、そこで枝切り職をやっていた。それからまた、その方がピエロン果樹園に侵入して熟した林檎(りんご)を盗んだことも明白である。陪審員諸君も十分認められることと思う。」
 被告は再び席についていた。しかし検事が言い終わると急に立ち上がって叫んだ。
「旦那(だんな)はわるい人だ、旦那は! 私は初めから言いたかったのだが、どう言っていいかわからなかったのだ。私は何も盗みはしなかった。私のようなものは、毎日食べなくてもいいのだ。私はその時アイイーからやってきた。その田舎(いなか)を歩いていた。夕立の後で田圃(たんぼ)は黄色くなっていた。池の水はいっぱいになっていた。路傍(みちばた)には小さな草が砂から頭を出してるきりだった。私は林檎のなってる枝が折れて地に落ちてるのを見つけた。私はその枝を拾った。それがこんな面倒なことになろうとは知らなかったのだ。私はもう三月(みつき)も牢にはいっている。方々引き回された。それから、私は何と言っていいかわからないが、旦那方は私を悪くいって、返事をしろ! と言いなさる。憲兵さんは親切に、私を肱(ひじ)でつっついて、返事をするがいいと小声で言いなさる。が私は何と説き明かしていいかわからない。私は学問もしなかった。つまらない男だ。それがわからないと言うのは旦那方の方がまちがってるんだ。私は盗みはしなかった。落ちてるものを地から拾い上げたまでだ。旦那方はジャン・ヴァルジャン、ジャン・マティユーと言いなさる。私はそんな人たちは知らない。それは村の人かも知れない。私はロピタル大通りのバルーさんの家で働いていたんだ。私はシャンマティユーという者だ。よくも旦那方は私の生まれた所まで言ってきかしなさる。だが自分ではどこで生まれたか知らないんだ。生まれるに家のない者もいる。その方が便利かもわからないんだ。私の親父(おやじ)と母親(おふくろ)とは大道を歩き回ってる者だったに違いない。だがそれも私はよく知らない。子供の時私は小僧と言われていた、そして今では爺さんと人が言ってくれる。それが私の洗礼名だ。どう考えようとそれは旦那方(だんながた)の勝手だ。私はオーヴェルニュにもいたし、ファヴロールにもいた。だが、オーヴェルニュやファヴロールにいた者は皆牢にいた者だというのかね。私は泥坊なんかしなかったというんだ。私はシャンマティユー爺というものだ。私はバルーさんのうちにいた。ちゃんと住居(すまい)があったんだ。旦那方は訳もわからないことを言って私をいじめなさる。なぜそう一生懸命になって私を皆でつけ回しなさるのかね!」
 検事はその間立ったままでいたが、裁判長へ向かって言った。
「裁判長殿、被告は曖昧(あいまい)なしかも至って巧妙な否認を試み、白痴として通らんとしている。しかしそうはゆかぬ。吾人(ごじん)はその手には乗らない。裁判長並びに法廷の諸君、吾人は被告の否認に対して、ふたたび囚徒ブルヴェー、コシュパイユ、シュニルディユー、および警視ジャヴェルを、この場に召喚することを請求したい。しかして最後に今一度、被告とジャン・ヴァルジャンとが同一人なるや否やを彼らに尋問したいのである。」
「検事に注意するが、」と裁判長は言った、「警視ジャヴェルは公用によって隣郡の町に帰るため、供述を終えて直ちに法廷を去り、この町をも去っている。検事および被告弁護士の同意を得てそれを彼に許可したのである。」
「裁判長殿、まさにそのとおりです。」と検事は言った。「しかしてジャヴェル君の不在により、私は彼が二、三時間前この席において供述したところのことを、陪審員諸君の前に再び持ち出したい。ジャヴェルはりっぱな人物であり、下役ではあるが、しかし至って重要なるその役目を厳粛なる正直(せいちょく)さをもって果たす男である。そして彼は実にかくのごとく陳述したのである。『私は被告の否認を打ち消すべき心理的推定並びに具体的証拠をさえも必要としませぬ。私はこの男を十分見識(し)っています。この男はシャンマティユーという者ではありませぬ。この男は極悪なる恐るべき徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであります。刑期過ぎてこの男を放免するのもすこぶる遺憾なほどでありました。彼は加重情状付窃盗(せっとう)のために十九年間の徒刑を受けたのです。その間に五、六回の脱獄を企てたのであります。プティー・ジェルヴェーに関する窃盗並びにピエロンに関する窃盗のほかに、私はなお、故ディーニュの司教閣下の家においてもある窃盗を働いたことを睨(にら)んでいるのであります。私はツーロンの徒刑場において副看守をしていました時に、彼をしばしば見たことがあります。私はこの男を十分識(し)っていることをここにくり返して申したいのであります。』」
 そのきわめて簡明なる申し立ては、公衆および陪審員に強い印象を与えたらしかった。検事はジャヴェルを除いた三人の証人、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユを再び呼び寄せて厳重に尋問すべきを主張して席に着いた。
 裁判長は一人の守衛に命令を伝えた。直ちに証人の室の扉(とびら)は開かれた。守衛は万一の場合手助けとなる憲兵を一人伴って、囚徒ブルヴェーを導いてきた。傍聴人らは不安に息を凝らし、彼らのすべての胸はただ一つの心を持ってるかのように皆一時におどった。
 前囚徒ブルヴェーは、中央監獄の暗灰色の上衣を着ていた。六十歳ばかりの男で、事務家らしい顔つきと悪者らしい様子とをそなえていた。事務家の人相と悪者の様子とは互いに相応することがあるものである。彼はある新しい悪事で再び監獄にはいったのであるが、いくらか取り立てられて牢番になっていた。「奴(やつ)何かの役にたちたいと思ってるらしい、」と上役どもから言われていた。教誨師(きょうかいし)らも彼の宗教上の平素については善(よ)く言っていた。もちろんそれは王政復古後のことであるのはいうまでもないことである。
「ブルヴェー、」と裁判長は言った、「その方は賤(いや)しい刑を受けたる身であるから、宣誓をすることはできないが……。」
 ブルヴェーは目を伏せた。
「しかしながら、」と裁判長は続けた、「法律によって体面を汚された者のうちにも、神の慈悲によって、なお名誉と公正の感情はとどまり得る。今この大切なる時に当たって本官はその感情に訴えたい。なおその方のうちに、本官の希望するごとく、その感情があるならば、本官に答える前によく考えてみよ。一方には、その方の一言によって身の破滅をきたすかも知れない男があり、他方には、その方の一言によって公明になるかも知れない正義があるのだ。重大な場合である。誤解だと信ずるならばその方はいつでも前言を取り消してよろしい。――被告、起立せい。――ブルヴェー、よく被告を見、記憶をたどって、被告はその方の徒刑場の昔の仲間ジャン・ヴァルジャンであるとなお認むるかどうか、その方の魂と良心とをもって申し立ててみよ。」
 ブルヴェーは被告をながめた。それから法官の方へ向き直った。
「そうです、裁判長殿。最初に彼を認めたのは私です。私は説を変えませぬ。この男はジャン・ヴァルジャンです。一七九六年にツーロンにはいり、一八一五年にそこを出たのです。私はそれから一年後に出ました。今ばかな様子をしていますが、それは老耄(おいぼれ)たからでしょう。徒刑場では狡猾(こうかつ)な奴でした。私は確かにこの男を覚えています。」
「席につけ。」と裁判長は言った。「被告は立っておれ。」
 シュニルディユーが導かれてきた。その赤い獄衣と緑の帽子とが示すように無期徒刑囚であった。彼はツーロンの徒刑場で服役していたが、その事件のために呼び出されたのである。いらいらした、顔にしわのよった、弱々しい身体の、色の黄いろい、鉄面皮な、落ち着きのない、五十歳ばかりの背の低い男で、手足や身体には病身者らしいところがあり、目つきには非常な鋭さがあった。徒刑場の仲間らは彼をジュ・ニ・ディユーと綽名(あだな)していた。(訳者注 吾神を否定するという意味であってシュニルディユーをもじったものである)
 裁判長はブルヴェーに言ったのとほとんど同じような言葉を彼に言った。裁判長が彼に、その汚辱のために宣誓する権利がないことを注意した時、彼は頭を上げて、正面の群集を見つめた。裁判長は彼によく考えるように言って、それからブルヴェーに尋ねたとおり、彼がなお被告を知っていると主張するかどうかを尋ねた。
 シュニルディユーは放笑(ふきだ)した。
「なあに、知ってるかって! 私どもは五年も同じ鎖につながれていたんだ。おい爺さん、何をそう口をとがらしているんだ。」
「席につけ。」と裁判長は言った。
 守衛はコシュパイユを連れてきた。シュニルディユーと同じく徒刑場から呼び出された、赤い獄衣を着てる無期徒刑囚だった。ルールドの田舎者(いなかもの)で、ピレネー山の山男だった。彼は山中で羊の番をしていたのであるが、羊飼いから盗賊に堕したのである。被告同様の野人で、かつなおいっそう愚鈍らしかった。自然から野獣に作られ社会から囚人に仕上げられた不幸なる人々の一人だった。
 裁判長は感慨ぶかい荘重な言葉で、彼の心を動かそうとした、そして前の二人にしたように、前に立っている男を何らの躊躇(ちゅうちょ)も惑いもなく認定しつづけるかどうかを尋ねた。
「こいつはジャン・ヴァルジャンだ。」とコシュパイユは言った。「起重機のジャンとも言われていた。そんなに力が強かったんだ。」
 明らかにまじめに誠実になされたその三人の断定をきくたびごとに、傍聴人の間には被告の不利を予示するささやきが起こった。新しい証言が前の証言に加わってゆくごとに、そのささやきはますます大きくなり長くなった。被告の方は、それらの証言を例のびっくりしたような顔つきで聞いていた。反対者から言わすれば、それは彼の自己防衛の重なる手段であった。第一の証言に、両側にいた二人の憲兵は彼が口のうちでつぶやくのを聞いた。「なるほど彼奴(あいつ)がその一人だな!」第二の証言の後、彼はほとんど満足らしい様子ですこし高い声で言った、「結構だ!」三番目には彼は叫んだ、「素敵だ!」
 裁判長は彼に言葉をかけた。
「被告、ただいま聞いたとおりだ。何か言うことがあるか。」
 彼は答えた。
「私は、素敵だ! と言うのだ。」
 喧騒(どよめき)が公衆のうちに起こって、ほとんど陪審員にまでおよんだ。その男がもはや脱(のが)れられないのは明白であった。
「守衛たち、」と裁判長は言った、「場内を取り静めよ。本官はこれより弁論の終結を宣告する。」
 その時、裁判長のすぐ傍に何か動くものがあった。人々は一つの叫ぶ声をきいた。
「ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユ! こちらを見ろ。」
 その声を聞いた者は皆凍りつくような感じがした。それほど悲しいまた恐ろしい声であった。人々の目はその声のした一点に向けられた。法官席の後ろにすわっている特別傍聴人のうちの一人の男が、立ち上がって、判事席と法廷とをへだてる半戸を押し開き、広間の中央につっ立っていた。裁判長も検事もバマタボア氏も、その他多くの人が、その男を認めた、そして同時に叫んだ。
「マドレーヌ氏!」

     十一 シャンマティユーますます驚く

 それは実際マドレーヌ氏であった。書記席のランプは彼の顔を照らしていた。彼は手に帽子を持っていた。その服装には少しも乱れた所はなく、フロックはよくボタンがかけられていた。ひどく青ざめて軽く震えていた。アラスに着いた頃はまだ半白であったその髪の毛も、今はまったく白くなっていた。そこにいた一時間前から白くなったのである。
 人々は皆頭を上げた。その激情の光景は名状すべからざるものだった。聴衆のうちには一瞬間躊躇(ちゅうちょ)があった。あの声はいかにも痛烈で、そこに立っている人はいかにも平静で、初めは何のことだか人々にはわからなかった。だれがいったい叫んだのかわからなかった。あれほど恐ろしい叫びを発したのがその落ち着いた人だとは、だれにも思えなかった。
 がその不決定な時間は数秒しか続かなかった。裁判長や検事が一言を発する間もなく、憲兵や守衛が身を動かす間もなく、まだその時までマドレーヌ氏と呼ばれていたその人は、証人コシュパイユ、ブルヴェー、シュニルディユー、三人の方へ進んで行った。
「お前たちは私を知らないか?」と彼は言った。
 三人はびっくりしたままで、頭を振って知らない旨を示した。コシュパイユは恐れて挙手の礼をした。マドレーヌ氏は陪審員および法官の方へ向いて、穏やかな声で言った。
「判事諸君、被告を放免していただきたい。裁判長殿、私(わたし)を捕縛していただきたい。あなたのさがしていらるる人物は、彼ではない、この私である。私がジャン・ヴァルジャンである。」
 皆息をひそめた。最初の驚駭(きょうがい)の動揺に次いで、墳墓のような沈黙がきた。人々はその広間の中に、何か偉大なることがなさるる時群集を襲うあの宗教的恐怖の一種を感じた。
 そのうちに裁判長の顔には同情と悲哀との色が上った。彼は検事とすみやかな合い図をかわし、陪席判事らと低声な数語を交じえた。彼は公衆の方に向かって、すべての人にその意中がわかる調子で尋ねた。
「このうちに医者はおりませんか。」
 検事は口を開いた。
「陪審員諸君、今法廷を乱したこの不思議な意外なできごとは、ここに説明をまつまでもない感情を、諸君並びに吾人(ごじん)に与える。諸君は皆少なくとも世間の名声によって、名誉あるモントルイュ・スュール・メールの市長マドレーヌ氏を御存じであることと思う。もしこの中に医者がおらるるならば、マドレーヌ氏を助けてその自宅に送り届けられんことを、吾人(ごじん)は裁判長殿とともに願うものであります。」
 マドレーヌ氏は検事をして終わりまで言わせなかった。彼は温厚と権威とにみちた調子で検事の言葉をさえぎった。彼が発した言葉は次のとおりであった。そしてこれは、その光景を目撃した者の一人が裁判後直ちに書きつけておいた原文どおりのものであって、それを聞いた人の耳には約四十年後の今日までまだはっきりと残っているそのままのものである。
「私は、検事殿、あなたに感謝します、しかし私は気が狂ったのではありません。今におわかりになるでしょう。あなたは非常な誤りを犯されようとしていたのです。この男を放免して下さい。私はただ自分の義務を果すのです。私が問題の罪人です。この事件を明確に見通せる者はただ私一人です。私はあなたに事実を語っています。今私のなすことは、天にいます神が見ていられる。それで十分である。私はここにいるから、あなたは私を捕縛されることができます。とはいえ、私は私の最善をなしてきたのです。私は違った名前のもとに身を穏した、富を得た、市長になった。私は正直なる人の列に再び加わろうと欲した。しかしそれはできないことのように思われる。要するに、私が今語ることのできないいろいろなことがある。ここに私は自分の一生を物語ろうとはしますまい。他日すべてわかるでしょう。私は司教閣下のものを盗んだ、それは事実です。私はプティー・ジェルヴェーのものを盗んだ、それも事実です。ジャン・ヴァルジャンなる者はあわれむべき悪漢であるというのは道理です。しかしおそらく罪は彼にのみあるのではありますまい。判事諸君、しばらく聞いていただきたい。私のように堕落したる人間は、天に対して不平を言う資格もなく、また社会に対して意見を述べる資格もないでしょう。しかしながら、私がぬけ出そうと試みたあの汚辱ははなはだ人を害(そこな)うものです。徒刑場は囚人を作るものです。少しくこの点を考えていただきたい。徒刑場にはいる前、私は知力の乏しい一個のあわれな田舎者(いなかもの)でした、一種の白痴でした。しかるに徒刑場は私を一変さしてしまった。愚鈍であった私は、悪人となった。一個の木偶(でく)にすぎなかった私は、危険な人物となった。そして苛酷(かこく)が私を破滅さしたと同じく、その後寛容と親切とは私を救ってくれたのである。いやしかし、諸君は私がここに言うことをおわかりにならないでしょう。諸君は私の家の暖炉の灰の中に、七年前私がプティー・ジェルヴェーから盗んだ四十スー銀貨を見いだされるでしょう。私はもうこれ以上何も申すことはありません。私を捕縛していただきたい。ああ検事殿は頭を振っていられる。あなたはマドレーヌ氏は気が狂ったと言われるのですか。あなたは私の言うのを信じないのですか! それははなはだ困ることです。少なくともこの男を処刑せられないようにしていただきたい。なに、この人々は私を知らないというのか。ジャヴェルがここにいないのを私は残念に思う。彼ならば、必ず私を認めてくれるだろう。」
 それらの言葉が発せられた調子のうちに、親愛にして悲痛な憂鬱(ゆううつ)のこもっていた様は、到底これを伝えることはできない。
 彼は三人の囚徒の方へ向いた。
「おい、私の方ではお前たちを覚えている! ブルヴェー! お前は思い出さないのか?……」彼は言葉を切って、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)した。それから言った。
「お前が徒刑場で使っていたあの弁慶縞(べんけいじま)の編みズボンつりを、お前は覚えていないか。」
 ブルヴェーは愕然(がくぜん)とした、そして恐る恐る彼を頭から足先まで見おろした。彼は続けて言った。「シュニルディユー、お前は自分でジュ・ニ・ディユーと呼んでいたが、お前には右の肩にひどい火傷(やけど)の跡がある。T・F・Pという三つの文字(訳者注 汝は人を恐れしむるならんという意を表わす入墨の文字)を消すために、火のいっぱいはいった火鉢(ひばち)にある時その肩を押し当てたのだ。しかし文字はやはり残っている。どうだ、そのとおりだろう。」
「そのとおりです。」とシュニルディユーは言った。
 彼はコシュパイユに向かって言った。
「コシュパイユ、お前には左の腕の肱(ひじ)の内側(うちがわ)に、火薬で焼いた青い文字の日付がある。それは皇帝のカーヌ上陸の日で、一八一五年三月一日というのだ。袖(そで)をまくってみろ。」
 コシュパイユは袖をまくった。すべての人々の目はその露(あら)わな腕の上に集まった。一人の憲兵はランプを差し出した。日付はそこにあった。
 その不幸な人は傍聴人および判事らの方へ向き直った。顔には微笑を浮かべていた。その微笑を見た者は、今なお思い出しても心の痛むのを感ずるのである。それは勝利の微笑であり、同時にまた絶望の微笑であった。
「よくおわかりでしょう、」と彼は言った、「私はジャン・ヴァルジャンです。」
 その室のうちには、もはや判事も検事も憲兵もいなかった。ただじっと見守ってる目と感動した心ばかりだった。だれもみな自分のなすべき職分を忘れていた。検事は求刑するためにそこにいることを忘れ、裁判長は裁判を統(す)べるためにそこにいることを忘れ、弁護士は弁護するためにそこにいることを忘れていた。驚くべきことには、何らの質問もなされず、何らの権威も手を出し得なかった。およそ荘厳なる光景の特質は、すべての人の魂をとらえ、すべての目撃者をして単なる傍観者たらしむるにある。おそらく何人(なんぴと)も、その時感じたことを自ら説明することはできなかったであろう。何人もただ、そこに偉大なる光明の光り輝くのを見たとしか自ら言い得なかったであろう。人々は皆、眩惑(げんわく)されたのを内心に感じた。
 明らかに人々は眼前にジャン・ヴァルジャンを見たのである。それは光を投じた。その男の出現は、一瞬間前まであれほど朦朧(もうろう)としていた事件を明白ならしむるに十分だった。それ以上何らの説明をもまたないで、すべての人々は、自分のために刑に処せられようとする一人の男を救わんがために身を投げ出した彼の簡単なしかも壮麗な行為を、あたかも電光に照らされたごとく直ちに一目で了解した。その詳細、逡巡(しゅんじゅん)、多少反対の試みなどは、その広大なる燦然(さんぜん)たる一事のうちにのみ去られてしまった。
 その印象はやがてすみやかに消え失せたのであるが、その瞬間には抗すべからざる力を持っていた。
「私はこれ以上法廷を乱すことは欲しません。」とジャン・ヴァルジャンは言った。「諸君は私を捕縛されぬゆえ、私は引き取ります。私はいろいろなすべき用を持っています。検事殿は、私がどういう者であるか、私がどこへ行くかを、知っていられる。いつでも私を捕縛されることができるでしょう。」
 彼は出口の方へ進んで行った。一言声を発する者もなく、手を差し延べて引き止めようとする者もなかった。皆身を遠ざけた。群集をして退かしめ一人の前に道を開かしむるある聖なるものが、その瞬間のうちにあった。彼はおもむろに足を運んで人々の間を通って行った。だれが扉(とびら)を開いたか知る者はなかったが、彼がそこに達した時扉は確かに開かれていた。そこまで行って、彼はふり返って言った。
「検事殿、御都合でいつでもよろしいです。」
 それから彼は傍聴人の方へ向かって言った。
「諸君、ここに列席された諸君、諸君は私をあわれむに足るべきものと思われるでしょう。ああしかし私は、こういうことをなそうとする瞬間の自分がいかようであったかと思う時、自分はうらやむに足るべきものと思います。しかしながら、かような事の起こらなかった方を私はむしろ望みたかったのであります。」
 彼は出て行った。そして扉(とびら)は開かれた時と同じようにだれからともなく閉ざされた。荘厳なる何かを行なう者は、群集のうちのだれかによって常に奉仕されるものである。
 それから一時間とたたないうちに、陪審員らの裁決は、あのシャンマティユーをいっさいの起訴から釈放した。シャンマティユーは直ちに放免されて、皆気狂(きちが)いばかりだと考え、またその光景について少しも訳がわからないで、呆然(ぼうぜん)として帰って行った。
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   第八編 反撃


     一 マドレーヌ氏の頭髪を映せし鏡

 夜は明け初めていた。ファンティーヌは、楽しい幻を見続けた熱の高い不眠の一夜を過ごしたのだった。朝方彼女は眠りについた。夜通し彼女についていたサンプリス修道女は、その間を利用して規那皮(きなひ)の新しい薬をこしらえに行った。尊むべき彼女はしばらく病舎の薬局にはいって、夜明けの薄暗い光のうちに、薬剤や薬びんの上近く身をかがめてそれを見わけていた。とふいに彼女は頭をめぐらして、軽い叫び声を立てた。マドレーヌ氏が彼女の前に立っていた。彼は黙ってそこにはいってきたのである。
「ああ市長様でございますか!」と彼女は叫んだ。
 彼は低い声でそれに答えた。
「あのかわいそうな女はどんなあんばいです。」
「ただいまはそう悪くはございません。でも私どもは大変心配いたしました。」
 彼女は経過を話した。ファンティーヌは前日非常に悪かったが、今では、市長がモンフェルメイュに子供を引き取りに行ってると思い込んでるのでずっとよくなったと。彼女はあえて市長に尋ね得なかったが、市長がそこから帰ってきたのでないことをその様子で見て取った。
「それはいい具合だ、」と彼は言った、「事実をうち明けないでおかれたのはよかった。」
「さようです。」と修道女は言った。「ですけれど今、あの女(ひと)があなたに会って子供を見なかったら、私どもは何と申してやったらよろしいでしょう。」
 彼はちょっと考え込んだ。
「神様が何とか教えて下さるでしょう。」と彼は言った。
「ですけれど嘘(うそ)は言えないんですもの。」と修道女は口の中でつぶやいた。
 昼の光は室の中に流れ込んでいた、そしてマドレーヌ氏の顔を正面から照らしていた。修道女はふと目を上げた。
「まあ、あなた!」と彼女は叫んだ、「どうなされたのでございます? あなたの髪はまっ白になっております。」
「まっ白に!」と彼は言った。
 サンプリス修道女は鏡を持っていなかった。彼女はそこにある道具鞄(かばん)の中を探って、小さな鏡を一つ取り出した。病人が死んで呼吸(いき)が止まったのを確かめるために病舎の医者が使っていたものである。マドレーヌ氏はその鏡を取って、それに映して自分の髪の毛をながめた。そして言った、「ほほう!」
 彼はその言葉を、あたかも他に心を取られているかのように無関心な調子で言った。
 修道女はそれらのことのうちに何か異様なものを感じてぞっとした。
 マドレーヌ氏は尋ねた。
「あの女に会ってもいいでしょうかね。」
「あなたは子供をつれ戻してやるつもりではいらっしゃらないのですか。」と彼女はようやくにして一つ問いをかけた。
「もとよりそうするつもりです。けれど少なくも二、三日はかかるでしょう。」
「ではその時まであの女(ひと)に会わないことになさいましては。」と彼女はおずおず言った。「あの女はあなたがお帰りの事を知らないでしょう。そうして気長く待たせるようにするには容易でございましょう。そして子供がきましたら、自然に市長様も子供といっしょにお帰りなすったと思うに違いありません。そういたせば少しも嘘(うそ)を言わないですみます。」
 マドレーヌ氏はしばらく考えてるようだったが、それから落ち着いた重々しい調子で言った。
「いや、私はあの女(ひと)に会わなけりゃならない。たぶん、私は急ぐんだから。」
 修道女はその「たぶん」という語に気づかないらしかった。しかしそれは、市長の言葉に曖昧(あいまい)な特殊な意味を与えるものだった。彼女はうやうやしく目を伏せ声を低めて答えた。
「それでは、あの女(ひと)は寝(やす)んでいますが、おはいり下さいませ。」
 彼は扉(とびら)の具合いが悪くてその音が病人の目をさまさせるかも知れないことをちょっと注意して、それからファンティーヌの室にはいり、その寝台に近づいて、帷(とばり)を少し開いてみた。彼女は眠っていた。胸から出る息には悲痛な音が交じっていた。その音はその種の病気に固有なものであって、眠りについてる死に瀕(ひん)した子供のそばで徹宵(てっしょう)看護する母親らの胸を痛ましめるところのものである。しかしその困難な呼吸も、彼女の顔の上にひろがって彼女の眠った姿を変えている一種言い難い晴朗さを、ほとんど乱してはいなかった。彼女の青ざめた色は今は白色になっていた。その頬(ほほ)には鮮やかな色が上っていた。処女と青春とからなお残っている彼女の唯一の美である長い金色の睫毛(まつげ)は、低く閉ざされていながら揺(ゆら)めいていた。彼女の全身は軽く震えていた。目には見えないがその動くのは感ぜらるるある翼がまさに開いて、彼女を運び去ろうとしているかのようだった。そのような彼女の姿を見ては、ほとんど絶望の病人であるとは信ぜられなかったろう。彼女はまさに死なんとしているというよりもむしろ、まさに飛び去らんとしているかのようだった。
 人の手が花を摘み取らんとして近づく時、その枝は震えて、身を退けるとともにまた身を差し出すがごとく思われる。死の神秘なる指先がまさに魂を摘み取らんとする時、人の身体もそれに似た震えをなすものである。
 マドレーヌ氏は病床のそばにしばらくじっとたたずんで、ちょうど二カ月前初めて彼女をこの避難所に見舞ってきた日のように、病人と十字架像とを交互にながめていた。彼らは二人ともそこにやはり同じ姿勢をしていた、彼女は眠り、彼は祈って。ただ二カ月過ぎた今日では、彼女の髪は灰色になり、彼の髪はまっ白になっていた。
 サンプリス修道女は彼とともにはいってきていなかった。彼は寝台のそばに立ちながら、あたかも室の中にだれかがいてそれに沈黙を命ずるかのように、指を口にあてていた。
 ファンティーヌは目を開いた。彼女は彼を見た。そしてほほえみながら静かに言った。
「あの、コゼットは?」

     二 楽しきファンティーヌ

 ファンティーヌはびっくりした身振りも喜びの身振りもしなかった。彼女は喜びそのものであった。「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信とをもって、不安も疑念もまったくなしに発せられたので、マドレーヌ氏はそれに答うべき言葉が見つからなかった。ファンティーヌは続けて言った。
「私はあなたがそこにいらっしゃるのを知っていました。私は眠っておりましたが、あなたを見ていました。もう長い間見ていました。夜通し私は目であなたの後(あと)をつけていました。あなたは栄光に包まれて、あなたのまわりにはあらゆる天の人たちがいました。」
 彼は十字架像の方に目を上げた。
「ですが、」と彼女は言った、「どこにコゼットはいるのか教えて下さい。私が目をさます時のために、なぜ私の寝床の上に連れてきて下さらなかったのでしょう。」
 彼は何か機械的に答えた。しかし何と答えたのか、自分でも後でどうしても思い出せなかった。ちょうど仕合わせにも、医者が知らせを受けてやってきた。彼はマドレーヌ氏を助けた。
「まあ静かになさい。」と医者は言った。「子供はあちらにきています。」
 ファンティーヌの目は輝き渡り、顔一面に光を投げた。すべて祈願の含み得る最も激しいまた優しいものをこめた表情をして、彼女は両手を握り合わした。
「ああどうか、」と彼女は叫んだ、「私の所へ抱いてきて下さい。」
 ああいかに人の心を動かす母の幻想であるかよ! コゼットは彼女にとっては常に、抱きかかえ得る小さな子供であった。
「まだいけません。」と医者は言った。「今すぐはいけません。まだあなたには熱があります。子供を見たら、興奮して身体にさわるでしょう。まずすっかりなおらなければいけません。」
 彼女は苛(い)ら立ってその言葉をさえぎった。
「私はなおっていますわ! なおっていますっていうのに! この先生は何てわからずやでしょう。ああ、私は子供に会いたいんです。私は!」
「それごらんなさい、」と医者は言った、「あなたはそんなに興奮するでしょう。そんなふうでいる間は、子供に会うことに私は反対します。子供に会うだけでは何にもなりません、子供のために生きなければいけません。あなたがしっかりしてきたら、私が自分で子供は連れてきてあげます。」
 あわれな母は頭を下げた。
「先生、お許し下さい。ほんとうに許して下さいませ。昔は今のような口のきき方をしたことはありませんでしたが、あんまりいろいろな不仕合わせが続きましたので、どうかすると自分で自分の言ってる事がわからなくなるのです。私はよくわかっております、あまり心を動かすことを御心配なすっていらっしゃるんですわね。私は先生のおっしゃるまで待っていますわ。ですけれど、娘に会っても身体にさわるようなことは決してありませんわ。私は娘を見ています。昨晩から目を離さないでいます。今娘が抱かれて私の所へきても、私はごく静かに口をききます。それだけのことですわ。モンフェルメイュからわざわざ連れてきて下すった子供に会いたがるのは、当たりまえのことではありませんか。私は苛(い)ら立ってはいません。私はこれから仕合わせになるのをよく知っています。夜通し私は、何か白いものを、そして私に笑いかけてる人たちを見ました。先生のおよろしい時に、私のコゼットを抱いてきて下さいませ。私はもう熱はありません、なおってるんですもの。もう何ともないような気がしますわ。けれど、病人のようなふうをして、ここの御婦人方の気に入るように動かないでおりましょう。私が静かにしてるのを御覧なすったら、子供に会わしてやるがいいとおっしゃって下さいますでしょう。」
 マドレーヌ氏は寝台のそばにある椅子(いす)にすわっていた。ファンティーヌは彼の方に顔を向けた。彼女はまるで子供のような病衰のうちに、自分でも言ったとおり、静かにそして「おとなしく」しているのを見せようと明らかに努力をしていた。そして自分が穏やかにしているのを見たらだれもコゼットを連れて来るのに反対しないだろうと、思っているらしかった。けれども、自らそうおさえながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことを尋ねてやまなかった。
「市長様、旅はおもしろうございましたか。ほんとに、私のために子供を引き取りに行って下さいまして、何という御親切でしょう。ただちょっと子供の様子をきかして下さいませ。旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、娘は私を覚えていませんでしょう! あの時から私をもう忘れてるでしょう、かわいそうに! 子供には記憶というものがないんですもの。小鳥のようなものですわ。今日はこれを見てるかと思うと、明日はあれを見ています、そしてもう何にも思い出しません。娘は白いシャツくらいは着ていましたでしょうか。テナルディエの人たちは娘をきれいにしてくれていましたでしょうか。どんな物を食べていましたでしょう。ほんとうに、私は困っていました頃、そんなことを考えてはどんなに苦しい思いをしましたでしょう。でも今ではみんな済んでしまいました。私はほんとにうれしいのです。ああ私はどんなに娘に会いたいでしょう! 市長様、娘はかわいうございましたか。娘はきれいでございましょうね。あなたは駅馬車の中でお寒くていらっしゃいましたでしょうね。ほんのちょっとの間でも娘をつれてきていただけませんでしょうか。一目見たらまたすぐ向こうに連れてゆかれてもよろしいんですが。ねえ、あなたは御主人ですから、あなたさえお許しになりますれば!」
 彼は彼女の手を取った。「コゼットはきれいです。」と彼は言った。「コゼットは丈夫です。じきに会えます。がまあ落ち着かなくてはいけません。あなたはあまりひどく口をきくし、それに寝床から腕を出しています。それで咳(せき)が出るんです。」
 実際、激しい咳はほとんど一語一語彼女の言葉を妨げていた。
 ファンティーヌはもう不平を言わなかった。あまり激しく訴えすぎて、皆に安心させようとしていたのがむだになりはしないかと恐れた。そして関係のない他のことを言い出した。
「モンフェルメイュは相当よい所ではございませんか。夏になるとよく人が遊びに行きます。テナルディエの家は繁盛しておりますか。あの辺は旅の客が多くありません。であの宿屋もまあ料理屋みたようなものですわね。」
 マドレーヌ氏はやはり彼女の手を取ったままで、心配して彼女の顔を見ていた。明らかに彼女に何事かを言うためにきたのであったが、いまや彼の頭はそれに躊躇(ちゅうちょ)していた。医者は診察をすまして出て行った。ただサンプリス修道女だけが彼らの傍に残った。
 そのうち、その沈黙の最中に、ファンティーヌは叫んだ。
「娘の声がする。あ、娘の声が聞こえる!」
 彼女は周囲の人たちに黙っているように腕を伸ばし、息を凝らして、喜ばしげに耳を澄まし初めた。
 ちょうど中庭に一人の子供が遊んでいた。門番の女の児か、またはだれか女工の児であろう。それこそ実に、痛ましいできごとの神秘な舞台面の一部をなすらしいあのよくある偶然事の一つである。それは一人の小さな女の児で、身を暖めるために行ったりきたり走ったりして、高い声で笑い歌っていた。ああ、子供の戯れまですべてのことに立ち交じるものである! ファンティーヌが聞いたのはその小さい娘の歌う声であった。
「おお!」とファンティーヌは言った、「あれは私のコゼットだわ! 私はあの声を覚えている。」
 子供はきた時のようにまたふいに去って行った。声は聞こえなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳を傾けていたが、次にその顔は暗くなった。そしてマドレーヌ氏は、彼女が低い声で言うのを聞いた。「私を娘に会わしてくれないとは、あのお医者は何という意地悪だろう! ほんとにいやな顔をしているわ、あの人は。」
 しかし彼女の頭の底の楽しい考えはまた浮き出してきた。彼女は頭を枕につけながら、自ら自分に語り続けた。「私たちは何と仕合わせになることだろう! まず一番に小さな庭が持てる。マドレーヌ様がそうおっしゃっていらした。娘はその庭で遊ぶだろう。それにもう字も覚えなければならない。綴(つづ)り方を教えてやろう。草の中に蝶々(ちょうちょう)を追っかけることだろう。私はその姿を見てやるわ。それからまた、初めての聖体拝受(コンムユニオン)もさしてやろう。ああ、いつそれをするようになるかしら?」
 彼女は指を折って数え初めた。
「……一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、もう七歳(ななつ)になる。もう五年したら。白いヴェールを被(かぶ)らせ、透き編みの靴下をはかせよう。一人前の娘さんのようになるだろう。ああ童貞さん、ほんとに私はばかですわね、娘の最初の聖体拝受(コンムユニオン)なんかを考えたりして。」
 そして彼女は笑い出した。
 マドレーヌ氏はファンティーヌの手を離していた。彼は下に目を伏せ底知れぬ考えのうちに沈んで、あたかも風の吹く音を聞くかのようにそれらの言葉に耳を貸していた。と突然、彼女は口をつぐんだ。彼はそれで機械的に頭を上げた。ファンティーヌは恐ろしい様子になっていた。
 彼女はもう口をきこうとしなかった、息さえも潜めていた。彼女はそこに半ば身を起こし、やせた肩はシャツから現われ、一瞬間前まで輝いていた顔はまっさおになり、そして、自分の前に室の向こうの端に、何か恐ろしいものを見つめてるようだった。その目は恐怖のために大きく見開かれていた。
「おう!」と彼は叫んだ、「どうした? ファンティーヌ。」
 彼女は答えなかった。その見つめたある物から目を離さなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手で後ろを見るように合い図をした。
 彼はふり返って見た。そこにはジャヴェルが立っていた。

     三 満足なるジャヴェル

 事実の経過はこうである。
 マドレーヌ氏がアラスの重罪裁判廷を去ったのは、夜の十二時半が鳴った時だった。彼は宿屋に帰って、読者の知るとおり席を約束しておいた郵便馬車で出発するのに、ちょうど間に合った。朝の六時少し前にモントルイュ・スュール・メールに到着した。そして第一の仕事は、ラフィット氏への手紙を郵便局に投げ込み、次に病舎へ行ってファンティーヌを見舞うことだった。
 しかるに一方では、彼が重罪裁判の法廷を去るや、検事は初めの驚きから我に返って、モントルイュ・スュール・メールの名誉ある市長の常規を逸した行動をあわれむ由を述べ、後にわかるべきその奇怪なできごとによっても自分の確信は少しも変わらないことを表明し、真のジャン・ヴァルジャンなることが明白であるそのシャンマティユーの処刑をさしあたり要求する旨を論じた。その検事の固執は、公衆や法官や陪審員などすべての人の感情と明らかに衝突した。弁護士は容易に検事の論旨を弁駁(べんばく)することができ、マドレーヌ氏すなわち真のジャン・ヴァルジャンの告白によって事件の局面は根本からくつがえされ、陪審の人々はもはや眼前に一個無罪の男を見るのみであることを、容易に立論することができた。彼はまたそれに乗じて、裁判上の錯誤やその他種々のことについて、惜しいかな、さして事新しくもない感慨的結論を述べたてた。裁判長は結局弁護士に同意した。そして陪審員らは数分の後、シャンマティユーを免訴した。
 しかし検事には一人のジャン・ヴァルジャンが必要であった。そして既にシャンマティユーを逸したので、マドレーヌの方をとらえた。
 シャンマティユーの放免後直ちに、検事は裁判長とともに一室に閉じこもった。彼らは「モントルイュ・スュール・メールの市長その人の逮捕の必要のこと」を商議した。こののという文字の多い文句は検事のであって、検事長への報告の原稿に全部彼の手によってしたためられたものである。初めの感動はもう通り過ぎていたので、裁判長もあまり異議を立てなかった。正義の行進をささえ止めるわけにはいかなかった。
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