レ・ミゼラブル
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著者名:ユゴーヴィクトル 

「私はあえて言うが、」と議員は言った、「アルジャン公爵やピロンやホッブスやネージョン氏など決して野人(やじん)ではないです。私はこれら哲学者たちの金装の著書を書棚に持っているが。」
「伯爵、それはあなたと同様な人たちです。」と司教は口を入れた。
 上院議員は言葉を続けた。
「私はディドローがきらいだ。彼は観念論者で、壮語家で、革命家で、それで内心神を信じてい、そしてヴォルテール以上に頑迷(がんめい)である。ヴォルテールはニードハムを嘲(あざけ)ったが、それは誤りだ。何となればニードハムの針鰻(はりうなぎ)は神の無用を証明するのだから。一匙(さじ)の捏粉(こねこ)のうちに酢の一滴をたらせば、それがすなわち光あれ(フィア・リュクス)である。かりにその一滴をいっそう大きくし、その一匙をいっそう大きくしてみれば、すなわち世界となる。そして人間はすなわち針鰻である。しからば永久の父なる神も何の役に立とう! 司教さん、エホバの仮説には私はもうあきあきする。そういう仮説はただ、がらん洞(どう)のやせこけた人間を作るに役立つばかりだ。予をわずらわすこの大なる全(ぜん)を仆(たお)せ、予を安静ならしむるかの無(む)なるかな、である。ここきりの話だが底をわって言えば、そして私の牧人(ひつじかい)なる君に至当なる懺悔(ざんげ)をすれば、私は正当なる理性を有するのである。口を開けば常に解脱と犠牲とを説く君のイエスに私は熱中することができない。それは乞食(こじき)に対する吝嗇家(りんしょくか)の助言である。解脱! 何ゆえか。犠牲! 何物に対してか。私は一つの狼(おおかみ)が他の幸福のために身を犠牲にするのをかつて見ない。われわれは自然に従うべきである。われわれは頂上にいる。優(すぐ)れたる哲学を持たなければならない。他人の鼻の頭より以上を見得ないならば、高きにいる事も何の役に立とう。愉快に生きるべしである。人生、それがすべてだ。人は未来の生を、かの天国にか、かの地獄にか、どこかに所有すると言わば言うがいい。私はそういう欺瞞(ぎまん)の言葉を信じない。ああ人は私に犠牲と脱却とを求める。自分のなすすべての事に注意し、善と悪、正と邪、合法(ファス)と非法(ネファス)とに頭を痛めざるべからずと言う。しかし何のためにであろう。私はやがて自己の行ないを弁義せなければならないであろうからというのか。そしてそれは何の時に? 死して後にである。何というりっぱな夢か? 死して後に私を取り上げるとは結構なことだ。影の手をもって私の一握の灰をつかむがいい。神秘に通じイシスの神の裳(もすそ)をあげたる吾人をして真を語らしめよ、曰(いわ)く、善もあるなく悪もあるなし、ただ生長あるのみ。真実を求むべきである。掘りつくすべきである。奥底まで行くべきである。真理を追い求め、地下を掘り穿(うが)ちてそれをつかまなければならない。その時真理は人に美妙なる喜びを与える。人は力強くなり、真に笑うことができる。私は確乎(かっこ)たる信念を持っている。司教さん、人間の不死というのは一つの狐火(きつねび)にすぎない。まことに結構な約束だ! それを信ずるもまたいいでしょう。アダムは結構な手形を持ったものだ。人は霊である、天使になるであろう、双肩に青い翼を持つであろうと。それからテルツリアヌスではないですか、幸福なる人々は星より星へ行くであろうと言ったのは。それもいいでしょう。人は星の蝗虫(ばった)になる。そしてそれから、神を見るであろう。アハハハ。それらの天国なるものは皆囈語(たわごと)にすぎない。神というはばかばかしい怪物にすぎない。もちろん私はかかることを新聞雑誌の上で言いはしないが、ただ親友の間でささやくだけです。杯盤(インテル)の間(ポキュラ)にです。天のために地を犠牲にするのは、水に映った影を見て口の餌物(えもの)を放すようなものです。無限なるものから欺かるるほど愚かなことはない。私は虚無である。私は自ら元老院議員虚無伯と呼ぶ。生まれいずる前に私は存在していたか。否。死後に私は存在するであろうか。否。私は何物であるか。有機的に凝結したわずかの塵(ちり)である。この地上において何をなすべきか。それは選択を要する。すなわち、苦しむべきかもしくは楽しむべきか。ところで、苦しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に苦しんだ後にである。楽しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に楽しんだ後にである。私の選択は定まっているのだ。食(くら)うべきかもしくは食わるべきかの問題だ。私は食う。草たらんよりはむしろ歯たるに如(し)かず。そういうのが私の知恵である。いいですか、その後には墓掘りが控えている。われわれにとっては神廟(しんびょう)が。皆大きな穴の中に落ちこむのである。死。結末(フィニス)。全部の清算。そこが消滅の場所である。死は死しているのである。私に何か言うべき人がそこにいるというのか。考えるだに可笑(おか)しい。乳母(うば)の作り話だ。子供にとってはお化け、大人(おとな)にとってはエホバ。いな。われわれの明日(あす)は夜である。墓のかなたにはだれにも同じ虚無があるばかりだ。背徳漢サルダナパロスであろうと、聖者ヴァンサン・ド・ポールであろうと、常に同じ無(む)に帰する。それが真実である。ゆえに何よりもまず生きるべし。汝が汝の自己を保つ間、そを用うべし。実際、司教さん、君に重ねて言うが、私には私の哲学がある、私の哲学者たちがある。私は児戯に類した言によっておのれを飾りはしない。もとより下層の者には、乞食や研師(とぎし)や惨(みじ)めな奴(やつ)らには、何かがなくてはならない。彼らには伝説や妄想(もうそう)や霊魂や不死や天国や星などを食わせるがよい。彼らはそれをかみしめる。堅パンの上にふりかける。何物をも有しない者は善良なる神を持つ。まあそれくらいのものだ。私は決してそれに反対はしない。しかし私は自分のためにネージョン氏の説を取っておくのである。善良なる神は民衆にとって善良なのだ。」
 司教は手をたたいた。
「よくも言われた!」と彼は叫んだ、「あなたの唯物主義は実にりっぱな、まことに驚くべきものです。だれにでも得らるるものではない。ああそんな主義を会得した暁には、もう欺かるることはないです。愚かにもカトーのように追放さるることもなく、エティエンヌのように石で打たるることもなく、ジャンヌ・ダルクのように生きながら焼かるることもないでしょう。そういうみごとな唯物主義を首尾よく得た者は、責任解除の喜びを得るものです。いかなる地位も、冗官(じょうかん)も、位階も、正当に得られた権利も不当に得られた権利も、利益ある変説も、有利な背反も、都合よい自己弁解も、すべてを安んじて食い得ると思う喜びを得るものです。そして消化を終えて墓の中にはいると思う喜びを得るものです。まことに愉快なことです! 私はそれをあなたに向かって言うのではありませんよ。けれどもあなたに祝意を表わさずにはおれないです。あなた方りっぱな方々は、お言葉のとおりに、御自身のそして御自身のための一つの哲学を持っていられる。美妙で、精巧で、富者ばかりが手にすることができ、いかなるものにもよくきくソースであって、人生の快楽にうまく味をつける哲学です。その哲学は地下深くから取られ、特別な探求者によって掘り出されたものです。しかしあなたはいい方です。善良なる神の信仰は民衆の哲学であることが差しつかえないと言われる、あたかも鵞鳥(がちょう)の栗(くり)料理は貧しい者にとっては七面鳥の松露料理だとでも言うように。」

     九 妹の語りたる兄

 ディーニュの司教一家の生活状態と、二人の聖(きよ)き婦人がその行為も思想もまた動かされやすい本性まで、司教の指導をまつまでもなく彼の習慣と考えとに従わしていった日常の様とを、おおよそ示さんがためには、バティスティーヌ嬢がその幼な友だちのボアシュヴロン子爵夫人にあてた一通の手紙を、ここに写すに越したことはない。その手紙をわれわれは所有している。

ディーニュにて、一八――年十二月十六日 子爵夫人さま、一日としてあなたのお噂(うわさ)をせずに過ごしたことはありませぬ。それはほとんど私どもの習慣でもありますが、なお他に一つの理由がありますので。マグロアールが天井や壁のほこりをはらったり洗ったりして、ある発見をいたしたのです。ただ今では、石灰乳で白くぬられた古い壁紙の私どもの二つの室は、お宅のようなりっぱなお住居(すまい)にも比べて恥ずかしからぬほどになりました。マグロアールが壁紙をみなはがしてしまいましたところ、その下にあるものがあったのです。私の客間は、何の道具もなく、ただ洗濯物をひろげるくらいのことに使っていまして、高さ十五尺に縦も横もともに十八尺でありますが、天井はもとから金色に塗られ、桁(けた)はちょうどお宅ののようにこしらえてあります。施療院でありましたころは、布地(きれじ)で蔽(おお)われていたのでした。それからまた、私どもの祖母時代に属する壁板細工もあります。けれども特にお目にかけたいのは、私の居間(いま)なのです。マグロアールが、少なくも十枚ばかりの壁紙の張られていました下に、絵画を見出したのです。いいものではないにしてもかなり見られます。テレマックが馬上にてミネルヴァに迎えらるる所、それからまた彼が庭にいる所など。画家の名はちょっとわかりません。またローマの婦人たちが一夜出歩いてゆく場所。どう申したらよろしいでしょうか、まあ多くのローマの男子や(この所一語読み難し)婦人や、その多くの従者たちがいます。マグロアールがそれらの絵からすっかり塵(ちり)を払ってくれました。そしてこの夏には、室の所々の破損を直し全部を塗りかえるように言っていますので、私の室はまったく博物館のような趣になりますでしょう。彼女はまた納屋の片すみに古風な二つの木卓を見つけました。それを金色に塗りかえるには六リーヴル金貨二枚くらいはかかるでしょう。けれどそれは貧しい人たちに施した方がよろしいのです。その上その小卓はごく体裁が悪くて、マホガニーの円卓の方が私は好ましいのです。
 私はいつも仕合わせでいます。兄はきわめて親切なのです。自分の持ってるものは残らず困窮な者や病人などに与えてしまいます。大変困まることもあります。この地方は冬がごく厳(きび)しくて、貧乏[#「貧乏」は底本では「貧之」]な人たちのために何かしてやらなければなりません。私どもはようやくに薪(まき)をたいたり燈火(あかり)をともしたりしています。でもそれは非常に楽しいことなのです。
 兄は自己一流のやりかたを持っています。話をする時には、司教たるものはかくしなければならないというようなことを申します。家の戸口は決して締りをいたしません。だれでもはいれます、そしてすぐに兄の所へ行けるのです。兄は何物も恐れません、夜ですら。自分でよく言いますように、それが兄の勇気なのです。
 兄は私やマグロアールが兄の身を心配するのを好みません。どんな危険でも冒しまして、そして私たちがその危険を案じているようなふうをするのさえ好みません。よく兄の性質を了解しなければいけないのです。
 兄は雨中に出かけたり、水の中を歩いたり、冬に旅をしたりいたします。兄は夜をもこわがりません、怪しい道や、悪者に出会うことなども。
 昨年のことでしたが、兄は一人で盗賊の出没している地方に出かけました。私どもを連れてゆくことを好まなかったのです。十五日間帰りませんでした。帰って来るまで兄には何事も起こらなかったのでした。兄は死んでいるものとだれも思っていましたのに、丈夫でいたのです。そして、こんな盗人に出会った、と申します。行李(こうり)を開きますと、中にはアンブロン大会堂のいっさいの宝物がはいっています。盗賊どもがそれを兄にくれたのです。
 私は兄の友だちの方々といっしょに二里ばかり出迎えに行ったのでしたが、その帰りに、その時ばかりは少し小言(こごと)を言わないではおれませんでした。それでも他の人に聞こえないように馬車が音を立てて走っている間に申したのです。
 初めのうち私は、いかなる危険も兄を止めることはできない、兄は恐ろしい人である、と思っていました。けれど今ではそれになれてしまいました。マグロアールにも合い図をして兄の意に逆(さから)わぬようにさせます。兄は自分で思ったことはどんな危険をも冒します。私はマグロアールを伴ない、自分の室に帰り、兄のために祈りをして、それから眠るのです。私は心安らかにしております。もし兄に何か不幸が起こるならばその時が私の終わりであることを、はっきり知っていますから。私は私の兄たり司教たる人とともに神様のもとへ行きますでしょう。マグロアールの方は、彼女が兄の不用心と呼んでいますこのことになれるのに、私よりもよほど困難でありました。けれどもただ今ではもうなれっこになっています。私どもは二人でいっしょに祈り、いっしょに気づかい、いっしょに眠りにつきます。家の中に悪魔がはいってきますなら、なすままにさしておきましょう。要するにこの家の中で私どもは何を恐れることがありましょう。最も強い人が常に私どもとともにいるのです。悪魔はこの家を通り過ぎることもありましょう。しかし神様はこの家に住まわれています。
 それで私には十分であります。兄はもう今では私に一言も申さなくてよろしいのです。ことばなくとも私は兄の心を了解します。そして私どもは神のおぼし召しに身を任せます。
 精神に偉大なものを持っている人とともにあるには、かくなければなりません。
 フォー一家についてお尋ねのことは兄に聞き訊(ただ)してみました。兄は常に善良な王党の人でありますので、御承知のとおりいろいろなことを知っており、いろいろな事を記憶しております。この一家は確かにカアン地方のきわめて古いノルマンディーの家がらであります。五百年前にはラウール・ド・フォー、ジャン・ド・フォー、トーマ・ド・フォーなどの貴族がありまして、その一人はロシュフォールの領主でした。一家の最後の人はギー・エティエンヌ・アレクサンドルと言って、連隊の指揮官でまたブルターニュ軽騎兵の何かの役を持っていました。その娘のマリー・ルイズは、ルイ・ド・グラモン公爵の息子(むすこ)アドリアン・シャール・ド・グラモンと言って、枢密官であり親衛軍の連隊長で陸軍中将であった人と、結婚しています。それからフォーというのには Faux, Fauq, Faoucq の三とおりの綴(つづ)り方があります。
 子爵夫人さま、私どものことをあなたの聖(きよ)き御親戚枢機官様へよろしくお願いいたします。あなたの御親愛なるシルヴァニー様については、おんもとに御滞在もしばしのことと存じますので、私へおたよりのひまもございますまい。ただ、いつもお健やかに、あなたのお望みのとおりによく務められ、また常に私を愛して下されんこと、それのみが私の望みであります。あなたを通してお送り下さいましたあの方の記念の品、到着いたしました。たいへんにうれしく存ぜられます。私の健康はさして悪い方ではありませぬ、けれども日に日にやせて参ります。それでは紙もつきましたのでこれで筆をとめます。
かしこ。#crlf#
バティスティーヌ 追白――御令弟夫人には若き御一家とともにいつもこの地におられます。御子息はまことに愛くるしくていられます。御存じでもありましょうが、やがて五歳になられます。昨日、膝当(ひざあて)をした馬の通るのを見て言われるのです。「あの馬は膝をどうしたの。」いかにもかわいらしいお子様です。その小さい弟御は古い箒(ほうき)を馬車にして室の内を引きずりながら、「ハイ、ハイ」と申されています。

 この手紙によって見るも、これらの二人の婦人は、男子が自らを了解するよりもいっそうよく男子を了解するあの特殊な女の才能をもって、司教のやり方におのれを一致させることを得たのである。ディーニュの司教は、常に変わらぬ穏和率直なふうをもってして、しかも往々豪胆な崇高な大事をなしたのである。彼は自らもそれに気付かないがようであった。二人の婦人はそれを非常に心配したが、しかし彼のなすままにして置いた。時としてマグロアールは事の前にあらかじめ注意することもあったが、その最中や事後には決してしなかった。一度何かが初められると、彼女たちは決して身振りでさえも彼をわずらわすことをしなかった。ある場合など、彼はおそらく自らもはっきり意識しないほどまったく単純に行なったので、一言も言われなくても、彼女たちは漠然(ばくぜん)と彼が司教らしい行動をしているように感じた。そういう時には、彼女たちは家の中において単に二つの影にすぎなかった。彼女たちは全く受動的に司教に仕え、もし身を退けることが彼の意に従うならば、その傍(そば)から身を退くのであった。彼女たちは非常に微妙な本能によって、ある種の世話はかえって彼の心をわずらわすものであることを知っていた。それで司教が危険な場合に臨んでいると思う時ですら、彼女たちは、彼の思想をとは言えずとも彼の性質をよく了解していたので、彼の身についてあまり注意することをしなかった。彼女たちは彼を神にゆだねていた。
 その上前の手紙にあったようにバティスティーヌは、司教の最期はまた自分の最期であると言っていた。マグロアールは、そうと口には出さなかったが、また彼女にとってもそうであることを知っていた。

     十 司教未知の光明に面す

 前章に引用した手紙の日付より少し後のことであったが、司教はあることを行なった。市民の言うところを信ずれば、それはあの盗賊の出没する山間を通ったことよりもいっそう危険なことだったのである。
 ディーニュの近くの田舎(いなか)に、孤独な生活をしている一人の男があった。この男は、一言無作法な言葉をもって言えば、もとの民約議会の一員であった。名をG(ゼー)某と言った。
 ディーニュの小さな社会では、一種の恐怖をもってこの民約議会の一員Gのことが話された。民約議会の一員、それを想像してもみよ。互いにぞんざいな言葉を使い、君と呼びあう革命時代にいた奴(やつ)である。彼はほとんど一つの怪物である。彼は王の死刑には賛成しなかったが、ほとんどしたも同じである。准弑虐者(しぎゃくしゃ)で、恐るべき奴である。正当な君主が戻られた際に、人々はなぜこの男を臨時国事犯裁判所に連れ出さなかったのか。必ずしも首を切る必要はなかったかも知れない。寛大が必要であったろうから。しかし終身追放くらいは。要するに一つの見せしめなんだ! それから……またそれから……。その上彼は、その仲間の奴らと同じに無神論者なんだ。――市民らはちょうど禿鷹(はげたか)について鶩(あひる)の騒ぐがような調子であった。
 で結局このGは禿鷹であったであろうか。もし彼の孤独な生活のうちにおけるその獰猛(どうもう)な有様より判断するならば、しかりと言わなければならなかった。ただ王の処刑に賛成しなかったばかりで、彼は追放被布告者のうちに入れられずに、フランスにとどまってることができたのであった。
 彼は町から四五十分ほどかかる所に、村里遠く道路から遠く、荒涼たる谷間の人知れぬ場所に住んでいた。彼はそこに少しの畑地と、一つの陋屋(ろうおく)、巣窟(そうくつ)を持っていると言われていた。隣人もなく通りすぎる人もなかった。彼がその谷合いに住んでいらい、そこに通ずる一筋の小道は草におおわれてしまった。そこのことを人々は死刑執行人の住家のように言っていた。
 けれども司教はそれに思いを馳(は)せ、一群(ひとむれ)の木立ちがその年老いた民約議会員のいる谷間を示しているあたりを時折ながめた。そして言った、「彼処(あそこ)に一人ぽっちの魂がある。」
 そして彼は胸の奥でつけ加えて言った。「私は彼を訪れてやるの責がある。」
 しかし実を言えば、一見きわめて自然なことのように見えるその考えは、少しの考慮の後には尋常ならぬ不可能なことのように彼には思えた、そしてほとんど嫌悪(けんお)すべきことのようにさえ思えた。何となれば、彼もまた内心一般の人々と同じ印象を受けていた。そして彼自らはっきり自覚はしなかったが、この民約議会員は憎悪(ぞうお)に近い感情を、敬遠という言葉によってよく現わさるる一種の感情を、彼の心に吹き込んでいたのである。
 けれども、羊の悪病は牧人を後(しり)えに退かしむるであろうか。いな。とはいえ何という羊であるかよ!
 善良な司教は困惑していた。時とするとその方へ出かけてみたが、また戻ってきた。
 ところがある日、一の噂(うわさ)が町にひろがった。その陋屋(ろうおく)の中で民約議会員G(ゼー)に仕えていた牧者らしい若者が、医者をさがしにきたそうである。年老いた悪漢はまさに死にかかっている。全身麻痺(まひ)している。今晩がむつかしい。「ありがたいことだ!」とある者はその話の終わりにつけ加えた。
 司教は杖(つえ)を取った。それから、前に言ったとおりあまりすり切れている法衣を隠すためと、間もなく吹こうとする夕の風を防ぐために、外套を着た。そして家を出かけた。
 日は傾いてまさに地平線に沈まんとする頃、司教はその世を距(へだ)てた場所に着いた。小屋の近くにきたことを知って、一種の胸の動悸(どうき)を覚えた。溝(みぞ)をまたぎ、生籬(いけがき)を越え、垣根(かきね)を分け、荒れはてた菜園にはいり、大胆に数歩進んだ。すると突然、その荒地の奥の高く茂った茨(いばら)の向こうに一つの住家が見えた。
 それは軒低い貧しげなこぢんまりした茅屋(ぼうおく)であって、正面にぶどう棚がつけられていた。
 戸の前に、農夫用の肱掛椅子(ひじかけいす)である車輪付きの古い椅子に腰掛けて、白髪の一人の男が太陽を見てほほえんでいた。
 腰掛けている老人の傍(そば)には、牧者である年若い小僧が立っていた。彼は老人に一杯の牛乳を差し出していた。
 司教がじっとながめている間に、老人は声を立てて言った。「ありがとう。もう何もいらないよ。」そして彼のほほえみは太陽の方から子供の上に向けられた。
 司教は進んでいった。その足音に、腰掛けていた老人は頭をめぐらした。彼の顔には、長い生涯を経た後にもなお感じ得るだけの驚きが浮かんだ。
「私がここにきていらい、人が私の所へきたのはこれが初めてだ。」と彼は言った。「あなたはどなたです。」
 司教は答えた。
「私はビヤンヴニュ・ミリエルという者です。」
「ビヤンヴニュ・ミリエル! 私はその名前をきいたことがあります。人々がビヤンヴニュ閣下と呼んでいるのはあなたですか。」
「私です。」
 老人は半ば微笑を浮かべて言った。
「それではあなたは私の司教ですね。」
「まあいくらか……。」
「おはいり下さい。」
 民約議会員は司教に手を差し出した。しかし司教はそれを取らなかった。そしてただ言った。
「私の聞き違いだったのを見て、私は満足です。あなたは確かに御病気とは見受けられません。」
「もう癒(なお)るに間もないのです。」と老人は答えた。
 彼はそれからちょっと言葉を切ったが、また言った。
「三時間もしたら死ぬでしょう。」
 それからまた彼は続けて言った。
「私は少々医学の心得があります。どんなふうに最期の時間がやって来るかを知っています。昨日私は足だけが冷えていました。今日は膝(ひざ)まで冷えています。ただ今では冷えが腰まで上ってきてるのを感じます。心臓まで上って来る時は、私の終わりです。太陽は美しいではありませんか。私は種々なものに最後の一瞥(いちべつ)を与えるため、外に椅子を出さしたのです。お話し下すってかまいません。私はそれで疲れはしませんから。あなたは死んでゆく者を見守りにちょうどよくこられました。死に目を見届けてくれる人がいるのはいいことです。人には何かの奇妙な望みがあるものです。私は夜明けまで生きていたいと思っています。しかしやっと三時間くらいきり生きられないのをよく知っています。夜になるでしょう。だが実はそんなことはどうでもよろしいのです。生を終わるということは簡単なことです。そのためには別に朝を必要としません。そうです、私は星の輝いた下で死にましょう。」
 老人は牧者の方へふり向いた。
「お前は行っておやすみ。昨夜は一晩起きていた。お前は疲れている。」
 子供は小屋の中にはいった。
 老人は彼を見送った。そしてひとり言のようにしてつけ加えた。
「彼が眠っている間に私が死ぬだろう。二つの眠りはよい仲間だ。」
 司教は想像されるほど感動してはいなかった。かくのごとき死に方のうちに神が感ぜらるるような気はしなかった。偉大な心のうちの小さな矛盾も他のものと同じく示されなければならないから、うちあけてすべてを言ってしまえば、折りにふれて大人様という敬称を好んで笑っていた彼も、閣下と今呼ばれないことをいくらか気持ち悪く感じていた、そして君と呼び返してやりたい気持ちさえも覚えていた。また医者や牧師のよくする不作法ななれなれしい態度をとってみようという気もしたが、それは彼には仕慣れないことだった。要するに、この男は、この民約議会員は、この人民の代表者は、世俗の有力な一人であったことがあるのである。おそらく生涯にはじめて、司教は厳酷な気持になったように自ら感じた。
 民約議会員は謙譲な実意で彼を見守っていた。まさに塵に帰らんとする人にふさわしい卑下(ひげ)とも思えるものがそこにあった。
 司教は元来好奇心をもって侮辱に隣せるものとしてそれを慎んでいたのであるけれども、今や一種の注意をもってこの民約議会員を観察せざるを得なかった。それは同情から出たものではなくて、おそらく他の人に対してなら彼は自ら良心の非難を感じたであろう。しかし民約議会員たる者は、法の外にある、慈悲の法の外にさえある、という印象を彼に与えたのである。
 ほとんど真っ直な体躯(たいく)と震える声とを持っているこの冷静なG(ゼー)は、生理学者を驚かしむる堂々たる八十年配の老人であった。革命は時代にふさわしいかかる人々の多くを出した。この老人のうちには堅忍不撓(ふとう)な人物を思わせるものがあった。かく臨終に近づいていながら、彼は健康の外見を保っていた。その明らかな目つき、しっかりした語調、両肩の頑健(がんけん)な動き、それらのうちには死と不調和なものがあった。マホメット教の墳墓の天使なるアズラエルも、家を間違えたと思って道を引き返したかも知れない。G(ゼー)はただ自ら欲したが故に死なんとしているもののようであった。彼の臨終の苦痛のうちには何か自由なものがあった。ただ両脚のみが動かなかった。そこから暗黒が彼を捕えていた。両足は既に死して冷ややかであったが、頭脳はなお生命のすべての力をもって生きており、光明のさなかにあるように見えた。Gはこの危急な場合において、上半は肉体で下部は大理石であったという東方の物語の王にも似寄っていた。
 そこに石があったので、司教は腰を掛けた。対話の初まりはまったくだしぬけであった。
「私はあなたを祝します。」と司教はまるで詰責するような調子で言った。「あなたは少なくとも国王の死刑には賛成しなかったのですから。」
 民約議会員はこの「少なくとも」という言葉のうちに隠されている言外の苦々(にがにが)しい意味を見て取ったようではなかった。彼は答えた。微笑は彼の顔から消えてしまっていた。
「あまり私を祝して下さるな。私は暴君の終滅に賛成したのです。」
 それは酷(きび)しい調子に返されたる厳粛な調子であった。
「それはどういう意味です。」と司教は聞き返した。
「人間は一つの暴君を持っているというのです。すなわち無知を指(さ)すのです。私はその暴君の終滅に賛成しました。その暴君は王位を生んだ。王位は虚偽のうちに得られた権力です。しかるに学問は真実のうちに取られた権力です。人はただ学問によって支配さるべきです。」
「それから良心によって。」と司教はつけ加えた。
「良心も同じものです。良心とは、われわれが自己のうちに有している天稟(てんびん)の学問の量をさすのです。」
 ビヤンヴニュ閣下は、少し驚いて、自分にとってきわめて新しいその言葉に耳を傾けた。
 民約議会員は続けた。
「ルイ十六世については、私は否と言ったのです。私は一人の人を殺す権利を自分に信じない。しかし私は悪を絶滅するの義務を自分に感ずる。私は暴君の終滅に賛成したのです。言い換えれば、婦人に対しては醜業の終滅、男子に対しては奴隷(どれい)の終滅、小児に対しては暗夜の終滅に。私は共和政治に賛成することによって、以上のことに賛成したのです。私は友愛と親和と曙(あけぼの)とに賛成した。私は偏見と誤謬(ごびゅう)との倒壊を助けた。誤謬と偏見との崩落は光明をきたすものである。われわれは古き世界を倒したのです。そして悲惨の容器であった古き世界は、人類の上に覆(くつがえ)って喜悦(きえつ)の壺(つぼ)となったのです。」
「混乱したる喜悦の。」と司教は言った。
「錯乱したる喜悦とも言えるでしょう。そして今日、一八一四年と称するあの痛ましい過去の復帰の後に、喜びは消え失せてしまったのです。不幸にも事業は不完全であった。私もそれは認める。われわれは事実のうちにおいて旧制を打破したが、思想のうちにおいてそれをまったく根絶することはできなかったのです。弊風を破る、それだけでは足りない、風潮を変更しなければならない。風車はもはや無くなったが、風はなお残っているのです。」
「あなた方は打破せられた。打破することが有益であることもある。しかし私は憤怒の絡(から)みついた打破には信を置きません。」
「正義にはその憤怒があるものです、そして、正義の憤怒は進歩の一要素です。とまれ何と言われようとも、フランス大革命はキリスト降誕以来、人類の最も力強い一歩です。不完全ではあったでしょう。しかし荘厳なものでした。それは社会上の卑賤(ひせん)な者を解放した。人の精神をやわらげ、それを静め慰め光明を与えた。地上に文明の波を流れさした。りっぱな事業であった。フランス大革命は実に人類を聖(きよ)めたのです。」
 司教は自らつぶやくことを禁じ得なかった。
「え、一七九三年が!」
 民約議会員はほとんど悲痛なほどのおごそかさをもって椅子の上に起き直った。そして瀕死(ひんし)の人の発し得る限りの大きな声で言った。
「ああ、ついにあなたはそこまでこられた。九三年! 私はその言葉を待っていたのです。暗雲は千五百年間形造られていた。十五世紀間の後にそれが破裂したのです。あなたはまるで雷電の一撃を非難されるがようです。」
 司教は、おそらく自らそうとは認めなかったろうが、心の中の何かに一撃を受けたように感じた。けれど彼は従容(しょうよう)として答えた。
「法官は正義の名において語り、牧師は憐憫(れんびん)の名において語るのです。そして憐憫とはいっそう高い正義にほかならないです。雷電の一撃に道を誤ってはいけません。」
 それから彼は民約議会員をじっと見つめながらつけ加えた。
「しかるにルイ十七世は?」
 議員は手を伸べて司教の腕をつかんだ。
「ルイ十七世! よろしい。あなたは何のために涙を流すのです? 一個の罪なき子供としてそのためにですか。それならば至当です。私はあなたとともに涙を流しましょう。また一個の王家の子供としてそのためにですか。それならば私はあなたに考慮を求めたい。私をして言わしむれば、凶賊カルトゥーシュの弟、単にその弟であったという罪のためにグレーヴの広場で繩(なわ)をもって両腋(わき)をつるされ、ついに死に至ったあの罪なき子供は、単にルイ十五世の孫であったという罪のためにタンブル城の塔内で死に処せられたルイ十五世の罪なき孫ルイ十七世に比して、同じく惨(いた)ましいものであったのです。」
「私は、」と司教は言った、「それらの二つの名前をいっしょにすることを好まないです。」
「カルトゥーシュのためにですか。またはルイ十五世のためにですか。二人のうちどれのためにあなたは異議をとなえるのです?」
 ちょっとの間沈黙が続いた。司教はほとんどここにきたことを悔いた。それでもなお彼は、漠然(ばくぜん)とまた不思議に心の動揺を感じた。
 議員はまた言った。
「あああなたは生々(なまなま)しい真実を好まれないのです。がキリストはそれを好んでいた。キリストは笞(むち)を取ってエルサレムの寺院から奸商(かんしょう)らを追い放った。彼の光輝に満ちた笞は真理を生々しく語るものです。彼が幼児をして(シニテ・パルヴュロス)(訳者注 幼児をして我にきたらしめよ)と叫んだ時、彼は幼児(おさなご)の間に何らの区別をも立てなかった。彼は凶賊バラバスの子と国王ヘロデの子とをあわせ呼ぶに少しも躊躇(ちゅうちょ)しなかった。罪なき心は、それ自身に王冠を持っているのです。王家に属するの要はありません。ぼろをまとっても百合(ゆり)の花に飾られたと同じくりっぱなものです。」
「それは本当です。」と司教は低い声で言った。
「私はなお主張したい。」と民約議会員G(ゼー)は続けた。「あなたはルイ十七世のことを言われた。それについては互いに理解したいものです。すべての罪なき者、すべての道のために殉ぜる者、すべての幼き者、高き者と同じく卑(いや)しき者、すべてそれらのために涙を流すというのですか。それは私も同意です。しかしそれならば、前に申したとおり、九三年以前にさかのぼらなければならないです、そしてわれわれの涙の初まるべきは、ルイ十七世以前にあるのです。私もあなたとともに王の子らのために涙をそそぎましょう、ただあなたが私とともに人民の子らのために涙を流して下さるならば。」
「私はすべての人の上に涙をそそぐのです。」と司教は言った。
「同じ程度に!」とGは叫んだ。「そしてもしいずれかが重くなるべきであるならば、それは人民の方へでありたいです。人民の方がいっそう久しい前から苦しんでいるのです。」
 またちょっと沈黙が続いた。それを破ったのは民約議会員であった。彼は肱(ひじ)をついて立ち上り、尋問し裁断する時に人が機械的になすように、人さし指をまげて親指との間にほほの一端をつまみ、臨終の精力を全部こめた眼眸(まなざし)で司教に呼びかけた。それはほとんど一つの爆発であった。
「そうです、人民は久しい前から苦しんでいる。しかも単にそれだけではない。あなたはいったい何をルイ十七世について私に尋ねたり話したりしにきたのです? 私は、私はあなたがどんな人だか知らない。この地方にきていらい、私はこの囲いのうちにただひとりで暮らしてきた。一歩も外に出たこともなく、私を助けてくれているあの子供のほかだれにも会わなかった。実際あなたの名前はぼんやり私の耳にはいってい、それも悪いうわさではなかった。しかしそれは何の意味をもなさないです。巧みな人々は、正直な人民に自分をよく言わせる種々な方法を知っているものです。ついでながら、私はあなたの馬車の音を聞かなかったですが、たぶんあすこの分かれ道の所の林の後ろに乗り捨ててこられたのでしょう。あえて言うが私はあなたを知らないです。あなたは司教であると言われた、しかしそれはあなたの精神上の人格について私に何かを告げるものではない。要するに私は私の質問をくり返すばかりです。あなたはだれであるか? あなたは司教である。換言すれば教会の主長で、金襴(きんらん)をまとい、記章をつけ、年金を受け、ばく大な収入を有する人々の一人である。ディーニュの司教、一万五千フランの定収入、一万フランの臨時収得、合計二万五千フラン。多くの膳部(ぜんぶ)があり、多くの従僕があり、美食を取り、金曜日には田鶴(ばん)を食し、前後に従者を従えて盛装の馬車を駆り、大邸宅を持ち、はだしで歩いたイエス・キリストの名において四輪馬車を乗りまわす人々の一人である。あなたは法衣の役人である。定収入、邸宅、馬車、従僕、珍膳(ちんぜん)、あらゆる生活の楽しみ、あなたはそれらのものを他の人々と同じく所有し、同じく享楽していらるる。それは結構である。しかしそれは十分の説明にはならない。おそらく私に知恵を授けんつもりでこられたあなた自身の、あなたの真実根本の価値について、それは私に何も知らせないのである。今私が話してる相手はだれであるか? あなたはだれであるか?」
 司教は頭をたれて答えた、「私は虫けらにすぎません。」
「四輪馬車に乗った地上の虫けら!」と民約議会員はつぶやいた。
 こんど傲然(ごうぜん)たるは民約議会員であって、謙譲なるは司教であった。
 司教は穏やかに言った。
「それとまあしておきましょう。しかし私に説明していただきたいものです。あの木立ちの向こう二歩の所にある私の四輪馬車が、私が金曜日に食する田鶴(ばん)と珍膳とが、私の邸宅や従僕らが、憐憫(れんびん)は徳でなく、寛容は義務でなく、九三年は苛酷(かこく)なものでなかった、ということを何において証明するでしょうか。」
 民約議会員は手を額(ひたい)にやった、あたかもある雲をそこから払いのけんがためのように。
「あなたにお答えする前に、」と彼は言った、「私はお許しを願っておきたい。私はただ今間違ったことをしたようです。あなたは私の家にきておられ、あなたは私の客人です。私はあなたに対して丁寧であらねばならないはずです。あなたは私の意見を論ぜらるる。で私はあなたの推論を駁(はく)するに止むるが至当です。あなたの財宝や享楽などは私があなたを説破するための利点です。しかしそんなことについては何も言わない方が作法でしょう。私は誓ってそれらの利点をもう用いないことにしましょう。」
「それはありがたいことです。」と司教は言った。
 G(ゼー)は更に言った。
「あなたが求められた説明に帰りましょう。ところでどういうことでしたか。何をあなたは言ってたのですか。九三年は苛酷であったと?」
「苛酷、そうです。」と司教は言った。「断頭台に向かって拍手をしたマラーをどう考えますか。」
「では新教迫害に関して讃歌(テデオム)を歌ったボシュエについて何と考えます?」
 答えは冷酷だった、しかも刃の切れ先をもってするごとく厳(きび)しく要所を衝(つ)いた。司教はぞっとした。何の抗論もちょっと彼の心に浮かばなかった。しかし彼はボシュエに対するかくのごとき言い方に不快の念をいだいた。すぐれたる人も皆その崇拝者を有するものである。そしてしばしば論理上にもその人に対する尊敬を欠かれると漠然と不快の念を覚ゆることがある。
 民約議会員は息をあえぎはじめた。臨終の呼吸に交じり来る苦痛の息切れは、彼の言葉を妨げた。それでも彼はなお、目のうちにはまったく明瞭(めいりょう)な精神を宿していた。彼は続けて言った。
「なおかれこれ数言費やしてみましょう。全体としては広大なる人類的肯定である革命の外にあって、九三年は不幸にも一つの抗弁です。あなたはそれが苛酷であると言わるる。しかしすべて王政時代はどうですか。カリエは盗賊であるとするも、しかしあなたはモントルヴェルにいかなる名前を与えるのですか。フーキエ・タンヴィールは乞食(こじき)であるとするも、しかしラモアニョン・バーヴィルについてあなたはいかなる意見をいだいているのですか。マイヤールは恐るべきであるとするも、しかしソー・タヴァンヌはいかがです。老デュシェーヌは獰猛(どうもう)であるとするも、しかし老ルテリエに対してあなたはいかなる形容をするのですか。ジュールダン・クープ・テートは怪物であるとするも、しかしルーヴォア侯ほどではなかった。私は大公妃にして女王であったマリー・アントアネットをあわれに思う。しかし私はまた、ルイ大王の時に、小児(こども)に乳を与える所を捕えられて、腰まで裸にされ、杭(くい)に縛られ、小児は彼方(かなた)へ引き離された、あのユーグノー派の気の毒な婦人をも、同様にあわれむのです。乳房(ちぶさ)は乳に満ち心は苦しみに満ちていた。飢えたまっさおな小児はその乳房を見ながら、もだえ泣き叫んだ。刑執行人は母たり乳母(うば)たるその婦人に向かって、異端の信仰を去れ、と言いながら、小児の死か良心の死かいずれかを選ばせようとした。一個の母親に適用されたタンタルス(訳者注 永久の飢渇に処刑せられたるギリシャ神話中の人物)の処刑を、あなたは何と言われますか。よろしいですか、フランス大革命はその正当の理由を有しているのです。その憤怒は未来によって許さるるでしょう。その結果はよりよき世界です。その最も恐るべき打撃からは人類に対する愛撫(あいぶ)が出て来るのです。簡単に言ってのけましょう。私の方が有利だから止(よ)しましょう。それに私はもう死ぬのです。」
 そして司教を見るのをやめて民約議会員は、次の静かな数語のうちにその思想を言ってのけた。
「そうだ、進歩の激烈なるを革命と呼ぶ。革命が過ぎ去る時に人は認むる、人類は酷遇されたと、しかも人類は進歩をしたと。」
 民約議会員は、司教の内心の防御障壁をことごとくそれからそれへと打ち破ったことを疑わなかった。しかれどもなおそこには一つ残っていた。そしてビヤンヴニュ閣下の最後の抵抗手段たるその障壁から、次の言葉が出た。そのうちにはほとんど初めのとおりの辛辣(しんらつ)さがまた現われていた。
「進歩なるものは神を信じてるはずです。善は不信の僕(しもべ)を持つわけはありません。無神論者である人は、人類の悪い指導者です。」
 人民の代表者たる老人は答えをしなかった。彼は身を震わした。彼は空をながめた、そしてしだいに目に涙がわき出てきた。涙はまぶたにあふれて、蒼白(そうはく)のほほに伝わって流れた。彼は空の深みに目を定めたまま、自分自らにささやくがように声低くほとんどどもりながら言った。
「おお汝(なんじ)! おお理想! 汝のみひとり存在する!」
 司教は名状すべからざる一種の衝動を感じた。
 ちょっと沈黙の後、老人は空の方に指をあげてそして言った。
「無限は存在する。無限は彼処(かしこ)にある。もしも無限にその自我がないとするならば、この我なる自我がその範囲となるだろう。無限は無限でなくなるだろう。言い換えれば無限は存在しなくなるだろう。しかるに無限は存在する。ゆえにそれは一つの自我を持つ。この無限の自我、それが神である。」
 瀕死(ひんし)の彼は、あたかも何者かを認めたがように、恍惚(こうこつ)として身を震わしながら声高に、それらの最後の言葉を発した。言い終えた時に、彼の目は閉じた。努力のために疲憊(ひはい)しつくしたのであった。残された数時間を一瞬間のうちに彼は明らかに生きたのだった。彼の今言ったことが、彼を死のうちにある彼と接近せしめたのだった。最期の時が近づいていた。
 司教はそれを了解した。時機は切迫していた。彼がそこへきたのは、あたかも臨終に迎えられた牧師のようであった。彼は極度の冷淡よりしだいに極度の感動に移されていた。彼はその閉じた目をながめた。彼は年老いしわ寄ったその冷たい手を取った。そして臨終の人の上に身をかがめた。
「今は神の時間です。もしわれわれが互いに出会ったことが無益であるならば、それは遺憾なことだとは思われませぬか。」
 民約議会員は目を再び開いた。暗影の漂った沈重さが顔には印せられた。「司教、」と彼はゆるやかに言い出した。そのゆるやかな調子は、気力の喪失によるよりもむしろ尊厳な心霊のためにであったろう。「私は自分の一生を瞑想(めいそう)と研究と観照とのうちに過ごした。国家が私を招き国事に参与するように命じた時、私は六十歳であった。私はその命に服したのである。多くの弊害があった。私はそれと戦った。種々の暴戻(ぼうれい)があった。私はそれを破壊した。種々の正義と主義とがあった。私はそれを布告し宣言した。領土は侵された。私はそれを防御した。フランスは脅かされた。私はそのために自己の胸を差し出した。私は富者ではなかった。私は貧しい者である。私は参事院議官の一人であった。国庫の室は正金に満ちていて、金銀貨の重みにこわれかかってる壁には支柱を施さねばならなかった。が私はアルブル・セック街で一人前二十二スーの食事をしていた。私は虐(しいた)げられし者を助け、悩める者を慰めた。私が祭壇の幕を引き裂いたのは事実である。しかしそれは祖国の瘡痍(そうい)を繃帯(ほうたい)せんがためであった。私は常に光明へ向かって人類が前進するのを助けた。そして時としては慈悲を知らぬ進歩には反対した。場合によってはあなた方私自身の敵をも保護した。フランドルのペテゲムに、メロヴァンジアン家の諸王が夏の宮殿を所有していたあの場所に、ユルバニストらの修道院たるサント・クレール・アン・ボーリユー修道院があったが、一七九三年には私はそれを救った。私は自分の力に従って自分の義務を尽くし、自分のなし得る善をなした。しかる後に私は、追われ、狩り出され、追跡され、迫害され、誹謗(ひぼう)され、嘲笑(ちょうしょう)され、侮辱され、のろわれ、人権を剥奪(はくだつ)された。既に久しい以前から私は自分の白髪とともに、多くの人々が私を軽蔑(けいべつ)するの権利を有するかのように思っているのを、知っている。憐れな無知な群衆にとっては、私は天罰を被った者のような顔をしていただろう。そして私は自らだれをも恨まずに、人より嫌悪(けんお)せられた者の孤独を甘受している。今や私は八十六歳になっている。私はまさに死なんとしている。あなたは私に何を求めにこられたのか?」
「あなたの祝祷を。」と司教は言った。
 そして彼はひざまずいた。
 司教が再び頭をあげた時、民約議会員の顔はおごそかになっていた。彼は息を引き取ったのであった。
 司教はある言い知れぬ考えに沈みながら家に帰った。彼は終夜祈祷のうちに過ごした。その翌日、好奇(ものずき)な人々は民約議会員G(ゼー)氏のことについて彼と話そうとした。が彼はただ天を指(さ)すのみであった。その時いらい、彼は小児や苦しめる者に対する温情と友愛とを倍加した。
 この「極悪なるG老人」に関するあらゆる言葉は皆、彼を特殊な専念のうちに沈み込ませるのであった。彼の精神の目前におけるあの精神の通過と、彼の本心の上に投じたあの大なる本心の反映とは、彼を多少ともますます完全の域に近づかしめる助けにならなかったであろうとは、だれが言い得よう。
 この「牧師的訪問」は自然に、その地方の小さな社会にとっては議論の種となった。
「……かくのごとき男の死の枕辺(まくらべ)は、司教たる者の行くべき場所であったろうか。信仰にはいることなどをそこに待ち望むことは明らかにできなかったのである。すべてかれら革命家どもは、皆異端に陥る者らである。それでは何のためにそこに行くか。何をながめに彼は行ったのか。悪魔によって魂がかの世に運ばるるのを見たかったのに違いない。」
 ある日、自ら才機があると思っている一種無作法な一人の未亡人が、次のような皮肉を彼にあびせかけた。「大人様がいつ赤い帽子をもらわれるだろうかと人々は言っていますよ。」司教は答えた。「おおそれは下等な色です。ただ幸いにも、帽子だとそれを軽蔑する人も冠(かんむり)だとそれを尊敬します。」(訳者注 赤い帽子は革命党の章、赤の冠は枢機官の冠)

     十一 制限

 前述のことよりして、ビヤンヴニュ閣下は「哲学的司教」もしくは「愛国的司祭」であったと結論するならば、誤解に陥りやすい恐れがある。彼のその出会い、民約議会員G(ゼー)との連結ともほとんど呼ばれ得るところのその出会いは、彼の心に一種の驚異を残し、彼をしてなおいっそう温和ならしめた。単にそれだけのことであった。
 ビヤンヴニュ閣下は少しも政治家的人物ではなかったけれども、当時の事件に対して彼がある態度を取らんとするならばその態度はいかなるものであったかを、きわめて簡単に示すのに、今ちょうどよい場所であるように思われる。
 それで、数年前のことにさかのぼってみよう。
 ミリエル氏が司教にあげられてしばらく後のことであるが、皇帝は他の多くの司教とともに彼を帝国の男爵になした。そして人の知るとおり、一八〇九年七月五日から六日の夜に法王の逮捕がなされた。その時にミリエル氏は、パリーに催されるフランスおよびイタリーの司教会議にナポレオンから召集された。この会議はノートル・ダーム寺院において、枢機官フェーシュ氏の議長のもとに、一八一一年六月十五日に初めて開かれた。ミリエル氏はそこに赴(おもむ)いた九十五人の司教の一人であった。しかし彼はただ一回の会議と三、四回の特殊協議に出席しただけだった。山間の教区の司教であり、粗野と欠乏とのうちに自然に接して生活していた彼は、これら顕著な人々のうちに、会議の気分を変更せしむるほどの思想をもたらしたがようであった。彼は早くディーニュに帰ってきた。そしてそのわけを尋ねられたのに対して答えた。「私は皆の邪魔になったのです。戸外の空気が私から皆に伝わったのです。私は扉をあけ放したようなものでした。」
 また他のおりに言った。「どうせよと言うんですか。あの司教たちは殿様なんです。それに私の方は貧しい田舎者の司教にすぎません。」
 事実を言えば、彼は人々から喜ばれなかったのである。種々な変わったことのうちでも、ある晩最も高位な仲間の一人の家に行った時、彼はこんなことをうっかり言ったらしい。「まことに美しい掛け時計、美しい絨緞(じゅうたん)、美しい召し使いの服装である。こんなものはどんなにかわずらわしいにちがいない。おお私はこんな贅沢物なんかは実にいやである。それは絶えず私の耳にこうささやく。飢えている人たちがいる、凍えている人たちがいる、貧しい人たちがいる、貧しい人たちがいるのだ。」
 ついでに言うが、贅沢を憎むことは知的の嫌悪(けんお)ではないだろう。かかる嫌悪のうちには芸術の嫌悪が含まれるようである。さりながら教会の人々の間においては、演戯典例を除いては、贅沢は一つの不正である。それは実際においてあまり慈善的ならぬ習慣を示すがように見える。栄耀(えいよう)なる牧師というものは一つの矛盾である。牧師は貧しき人々に接触していなければならない。およそ自ら自己のうちに、労働の埃(ほこり)のごとき聖(きよ)き貧しさを多少有せずして、人はいかにして日夜絶えずあらゆる憂悶(ゆうもん)や不運や困窮に接することができるであろうか。炉(いろり)のほとりにいて暖かくないという者を、想像し得らるるであろうか。絶えず竈(かまど)で働いている労働者で、髪の毛を焦がさず、爪(つめ)を黒くせず、一滴の汗をも知らず、顔に一粒の灰をも受けない者を、想像できるであろうか。牧師において、特に司教において、慈悲の第一のしるしは、それは貧しいということである。
 ディーニュの司教が考えていたことは、疑いもなくその点であったろう。
 その上またある微妙な点において、司教はわれわれが「時代思潮」と称するところのものを分有していたと信じてはいけない。彼は当時の神学上の議論にあまり立ち交わらなかった。そして教会と国家とが混入している問題には口を噤(つぐ)んだ。もし意見を強(し)いられたならば、彼はフランス教会派というよりもむしろ法王派の態度を取ったであろう。われわれは司教の人物を描くのであって何物をも隠すを欲しないから、彼がナポレオンの衰微に対しては冷淡な態度を取ったことを付記しなければならない。一八一三年以後、あらゆるナポレオン反対の運動に彼は賛成しもしくは喝采(かっさい)した。彼はナポレオンがエルバ島より帰来する途中、それを迎えることを拒み、またナポレオンの再挙一百日の間、皇帝のための公の祈祷を教区内に禁じた。
 妹のバティスティーヌ嬢のほかに彼は二人の兄弟を持っていた。一人は将軍で他は知事であった。彼は二人のいずれにもかなりしばしば手紙を書いた。前者はナポレオンのカーヌ上陸の際プロヴァンスの司令官をしていて、千二百人の部下を率いてナポレオンを追跡したが、それがあたかも彼に遁走(とんそう)することを故意に許したような追跡だったので、司教は一時あまり好意を持たなかった。も一人の兄弟に対する司教の通信はいっそう愛情の籠(こも)ったものであった。その兄弟はもと知事であったが、堂々たるりっぱな人で、今はパリーのカセット街に隠退していた。
 それでビヤンヴニュ閣下といえどもまた、党派心を有する時があり、にがにがしい気分の時があり、心の曇ることがあった。永遠の事物に向けられているその穏かな偉大な精神にも、一時の私情の影がさすこともあった。たしかにかくのごとき人物は政治上の意見を有しないでもよろしいわけだった。といってもこの言を誤解してはいけない。われわれはいわゆる「政治上の意見」というものを、進歩に対する熱望、現今の高潔な知力の根本たるべき愛国的民主的人類的なる崇高な信念と、混同するものではない。だがこの書物の主題と間接にしか交渉のない問題には深入りすることをしないで、ただ単に次のことだけを、ここにしるしておこう。すなわち、ビヤンヴニュ閣下が王党でなかったならばみごとであったろう。そして、騒然と去来する人事をこえて、真理と正義と慈愛との三つの潔(きよ)き光が輝くのが明らかに認め得らるるあの清澄な観想から、彼が一瞬たりとも目を転じなかったならば、みごとであったろう。
 神がミリエル閣下を造ったのは政治上の職務のためではなかったことを是認しながらも、われわれはまた、全権を有するナポレオンに対して、正義と自由との名における抗議、傲然(ごうぜん)たる反対、危険なるしかも正当なる対抗、それを彼があえてなした理由を了解し賞賛したいのである。しかしながら、勢いの盛んなる人々に対する行為にしてわれわれに快心なことも、勢いの衰えゆく人々に対してはさほどにもないものである。われわれは危険の伴う戦いをのみ快しとする。そしていかなるばあいにおいても、最初の戦士のみが最後の撃滅者たるの権利を有する。人の盛時において、執拗(しつよう)なる非難者でなかった者は、その滅落の前に黙すべきである。成功の排斥者のみが失敗の正当なる裁断者である。われわれは天命が手を出して打撃を与える時には、天命の成すままに任せるのである。一八一二年はわれわれの武装を解除しはじめた。一八一三年において、黙々たりし立法部は、災害に勇気を得て卑怯(ひきょう)にも沈黙を破ったが、それは恥ずべき行ないであった、それを喝采(かっさい)するは誤りであった。一八一四年において、裏切れるあの将軍らの前から、一度跪拝(きはい)せしものを凌辱(りょうじょく)しながら、汚行より汚行へ移りゆきしあの上院の前から、遁走しながら偶像を唾棄(だき)するあの偶像崇拝の前から、顔をそむけるのが正当であった。一八一五年において、最後の災いが大気に瀰漫(びまん)した時、フランスがその不吉なる災いの近接のもとに震えた時、ワーテルローの敗戦がナポレオンの前に開かれしことが漠然と感じ得られた時、運命に罰せられたる人に対する軍隊および国民の悲しき歓呼の声は、決して笑うべきものではなかった。しかしその専制君主に多くの難を認むるとしても、ディーニュの司教のごとき心の人は、偉大なる一国民と偉大なる一人の人との深淵(しんえん)の縁における堅き抱擁のうちには厳粛にして痛切なるもののありしことを、おそらく否認してはいけなかったであろう。
 それを外にしては、司教は何事においても常にまたその時々に、正当、真実、公平、聡明(そうめい)、謙譲、廉直であった。恵み深く、また慈恵の一種なる親切でもあった。彼は一個の牧師で、一個の賢者で、かつ一個の人であった。そしてここに言わなければならないことは、われわれが彼を非難し、ほとんどあまりに厳(きび)しく彼を批判せんとしたあの政治上の意見においても、彼は寛容で穏和であって、おそらくここに語るわれわれよりもいっそうそうであろう。――ディーニュの市役所の門衛は皇帝からそこに置かれたものであった。彼は以前の近衛軍の老下士で、アウステルリッツの戦いに臨んだ勲章所有者で、鷲(わし)の紋章のごとく離るべからざるブオナパルト党であった。このあわれな男は時々、当時の掟(おきて)にいわゆる挑発的言論という無遠慮な言葉をもらすことがあった。皇帝の横顔像がレジオン・ドンヌールの勲章から除かれてからは、彼は決して彼のいわゆる制定服を着なかった。その服を着てその十字勲章をかけさせらるることのないようにである。彼はナポレオンから授かったその十字勲章から、皇帝の肖像をうやうやしく自ら取り除いた。ために、そこに一つの穴ができたが、彼は何物をもつめることを欲しなかった。彼は言った。「三びきの蛙(訳者注 該勲章に新たにつけられたる三葉模様をさす)を胸につけるよりは死んだがましだ。」また彼は好んで声高にルイ十四世を嘲(あざけ)って言った。「イギリスふうのゲートルをつけた中風病みの老耄奴、サルシフィの髪(訳者注 ルイ十八世式の頭髪)といっしょにプロシアへでも行っちまうがいい。」彼はうまく一つの悪口のうちに最もきらいなプロシアとイギリスとをいっしょに言ってのけたのであった。が彼はそういう毒舌をあまりきいたので、ついに自分の地位を失った。かくて妻子をつれて街頭にパンに窮したのである。司教は彼をよんで、穏かに戒(いさ)め、そして大会堂の門番に任じたのであった。
 ミリエル氏はその教区のうちにあって、真の牧人(ひつじかい)であり、すべての人の友であった。
 九年の間にビヤンヴニュ閣下は、聖(きよ)き行ないと穏かな態度とをもって、優しいそして子の父に対するがごとき一種の尊敬の念をディーニュ市民の心にいだかしめた。ナポレオンに対する彼の態度すら、人民から容認され黙許されたがようであった。彼らは善良な弱い羊の群れであって、彼らの皇帝を崇拝していたが、また彼らの司教を愛していた。

     十二 ビヤンヴニュ閣下の孤独

 司教のまわりには、あたかも将軍の周囲に少年士官の多数が集まっているように、年少宗教家らの取り巻きが常にある。あのおもしろいサン・フランソア・ド・サールがどこかで「黄口の牧師」と呼んだところのものが、それである。いかなる仕事にも、その志望者があって、すでに到達した人の周囲に集まる。いかなる権威もその取り巻きを有せざるはなく、いかなる幸運もその阿諛者(あゆしゃ)を持たざるはない。未来の成功を目ざす人々は、現在の光栄のまわりに集合する。あらゆる大司教所在地にはその一群の幕僚がある。
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