世界怪談名作集
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著者名:プーシキンアレクサンドルS 

ヘルマンは自分の老いたる乳母と勘違いをして、どうして真夜中に来たのであろうと驚いていると、その白い着物の女は部屋を横切って、彼の前に突っ立った。――ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに気がついた。
「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を容(い)れてやれと言いつかったのです。三、七、一の順に続けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでしょう。しかし二十四時間内にたった一回より勝負をしないということと、生涯に二度と骨牌の賭けをしないという条件を守らなければなりません。それから、あなたがわたしの附き添い人のリザヴェッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、私はあなたに殺されたことを赦(ゆる)しましょう」
 こう言って、彼女は静かにうしろを向くと、足を引き摺るようにドアの方へ行って、たちまちに消えてしまった。ヘルマンは表のドアのあけたてする音を耳にしたかと思うと、やがてまた、何者かが窓から覗いているのを見た。
 ヘルマンはしばらく我れに復(かえ)ることが出来なかったが、やっとのことで起ち上がって次の間へ行ってみると、伝令下士は床(ゆか)の上に横たわって眠っていたので、さんざん手古摺(てこず)った挙げ句にようやく眼をさまさせて、表のドアの鍵をかけさせた。彼は自分の部屋にもどって、蝋燭をつけて、自分が幻影を見たことを細かに書き留めておいた。

       六

 精神界において二つの固定した想念(アイデア)が共存するということは、物質界において二つの物体が同時に同じ場所に存在する事と同じように不可能である。「三、七、一」の秘伝は、すぐにヘルマンの心から死んだ伯爵夫人の思い出を追いのけてしまって、彼の頭のなかを間断なく駈け廻っては彼の口によって繰り返されていた。
 もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでしょう。まるでハートの三そっくりだ」と言うであろう。また、もし誰かが「いま何時でしょうか」と訊(き)いたとしたら、彼は「七時五分過ぎ」と答えるであろう。それからまた、丈夫そうな人たちに出逢ったときには彼はすぐに一の字を思い出した。「三、七、一」の字は寝ていても彼の脳裏に出没して、あらゆる形となって現われた。
 彼の目の前には三の切り札が爛漫(らんまん)たる花となって咲き乱れ、七の切り札はゴシック式の半身像となり、一の切り札は大きい蜘蛛となって現われた。そうして、ただ一つの考え――こんなにも高価であがなった以上、この秘密を最も有効に使用しようということばかりが彼の心をいっぱいに埋めていた。彼は賜暇(しか)を利用して外遊して、パリにたくさんある公営の賭博場へ行って運試しをやろうと考えた。ところが、そんな面倒なことをするまでもなく、彼にとっていい機会が到来した。
 モスクワには、有名なシェカリンスキイが元締(もとじめ)をしている富豪連の賭博の会があった。このシェカリンスキイはその全生涯を賭博台の前に送りながら何百万の富を築き上げたという人間で、自分が勝てば手形で受け取り、負ければ現金で即座に支払っていた。彼は自分の長いあいだの経験によって仲間からも信頼せられ、彼のあけっ放しの家と、彼の腕利きの料理人と、それから彼が人をそらさぬ態度とによって、一般の人びとから尊敬のまとになっていた。その彼がセント・ペテルスブルグにやって来たので、この首府の若い人びとは舞踏や、女を口説きおとすことなどはそっちのけにして、ファロー(指定の骨牌一組のうちから出て来る順序を当てる一種の賭け骨牌)に耽溺(たんでき)せんがために、みなその部屋に集まって来た。
 かれらは慇懃(いんぎん)な召使いの大勢立っている立派な部屋を通って行った。賭博場は人でいっぱいであった。将軍や顧問官はウイスト(四人でする一種の賭け骨牌)を試みていた。若い人びとはビロード張りの長椅子にだらしなく倚(よ)りながら氷菓子(アイス)を食べたり、煙草をくゆらしたりしていた。応接間では、賭けをするひと組の連中が取り巻いている長いテーブルの上席にシェカリンスキイが坐って元締をしていた。
 彼は非常に上品な風采(ふうさい)の五十がらみの男で、頭髪は銀のように白く、そのむっくりと肥(ふと)った血色のいい顔には善良の性(しょう)があらわれ、その眼は間断なく微笑にまたたいていた。ナルモヴは彼にヘルマンを引き合わせた。シェカリンスキイは十年の知己のごとくにヘルマンの手を握って、どうぞご遠慮なくと言ってから、骨牌を配りはじめた。
 その勝負はしばらく時間をついやした。テーブルの上には三十枚以上の切り札が置いてあった。シェカリンスキイは骨牌を一枚ずつ投げては少しく間(ま)を置いて、賭博者に持ち札を揃えたり、負けた金の覚え書きなどをする時間をあたえ、一方には賭博者の要求に対していちいち慇懃(いんぎん)に耳を傾け、さらに賭博に沈黙を守りながら、賭博者の誰かが何かの拍子に手で曲げてしまった骨牌の角を伸(の)ばしたりしていた。やがて、その勝負は終わった。シェカリンスキイは骨牌を切って、再び配る準備をした。
「どうぞ私にも一枚くださいませんか」と、ヘルマンは勝負をしている一人の男らしい紳士のうしろから手を差し伸べて言った。
 シェカリンスキイは微笑を浮かべると、承知しましたという合図に静かに頭(かしら)を下げた。ナルモヴは笑いながら、ヘルマンが長いあいだ守っていた――骨牌を手にしないという誓いを破ったことを祝って、彼のために幸先(さいさき)のいいように望んだ。
「張った」と、ヘルマンは自分の切り札の裏に白墨(チョーク)で何か印(しるし)を書きながら言った。
「おいくらですか」と、元締が眼を細くしてたずねた。「失礼ですが、わたくしにはよく見えませんので……」
「四万七千ルーブル」と、ヘルマンは答えた。
 それを聞くと、部屋じゅうの人びとは一斉に振りむいて、ヘルマンを見つめた。
「こいつ、どうかしているぞ」と、ナルモヴは思った。
「ちょっと申し上げておきたいと存じますが……」と、シェカリンスキイが、例の微笑を浮かべながら言った。「あなたのお賭けなさる金額は多過ぎはいたしませんでしょうか。今までにここでは、一度に二百七十五ルーブルよりお張りになったかたはございませんが……」
「そうですか」と、ヘルマンは答えた。「では、あなたはわたくしの切り札をお受けなさるのですか、それともお受けなさらないのですか」
 シェカリンスキイは同意のしるしに頭を下げた。
「ただわたくしはこういうことだけを申し上げたいと思うのですが……」と、彼は言った。「むろん、わたくしは自分のお友達のかたがたを十分信用してはおりますが、これは現金で賭けていただきたいのでございます。わたくし自身の立ち場から申しますと、実際あなたのお言葉だけで結構なのでございますが、賭け事の規定から申しましても、また、計算の便宜上から申しましても、お賭けになる金額をあなたの札の上に置いていただきたいものでございます」
 ヘルマンはポケットから小切手を出して、シェカリンスキイに渡した。彼はそれをざっと調べてからヘルマンの切り札の上に置いた。
 それから彼は骨牌を配りはじめた。右に九の札が出て、左には三の札が出た。
「僕が勝った」と、ヘルマンは自分の切り札を見せながら言った。
 驚愕のつぶやきが賭博者たちのあいだから起こった。シェカリンスキイは眉をひそめたが、すぐにまた、その顔には微笑が浮かんできた。
「どうか清算させていただきたいと存じますが……」と、彼はヘルマンに言った。
「どちらでも……」と、ヘルマンは答えた。
 シェカリンスキイはポケットからたくさんの小切手を引き出して即座に支払うと、ヘルマンは自分の勝った金を取り上げて、テーブルを退いた。ナルモヴがまだ茫然としている間に、彼はレモネードを一杯飲んで、家へ帰ってしまった。
 翌日の晩、ヘルマンは再びシェカリンスキイの家へ出かけた。主人公はあたかも切り札を配っていたところであったので、ヘルマンはテーブルの方へ進んで行くと、勝負をしていた人たちは直(ただ)ちに彼のために場所をあけた。シェカリンスキイは丁寧に挨拶した。
 ヘルマンは次の勝負まで待っていて、一枚の切り札を取ると、その上にゆうべ勝った金と、自分の持っていた四万七千ルーブルとを一緒に賭けた。
 シェカリンスキイは骨牌を配りはじめた。右にジャックの一が出て、左に七の切り札が出た。
 ヘルマンは七の切り札を見せた。
 一斉に感嘆の声が湧きあがった。シェカリンスキイは明らかに不愉快な顔をしたが、九万四千ルーブルの金額をかぞえて、ヘルマンの手に渡した。ヘルマンは出来るだけ冷静な態度で、その金をポケットに入れると、すぐに家へ帰った。
 次の日の晩もまた、ヘルマンは賭博台にあらわれた。人びとも彼の来るのを期待していたところであった。将軍や顧問官も実に非凡なヘルマンの賭けを見ようというので、自分たちのウイストの賭けをやめてしまった。青年士官らは長椅子を離れ、召使いたちまでがこの部屋へはいって来て、みなヘルマンのまわりに押し合っていた。勝負をしていたほかの連中も賭けをやめて、どうなることかと、もどかしそうに見物していた。
 ヘルマンはテーブルの前に立って、相変わらず微笑(ほほえ)んではいるが蒼い顔をしているシェカリンスキイと、一騎打ちの勝負をする準備をした。新しい骨牌の封が切られた。シェカリンスキイは札を切った。ヘルマンは一枚の切り札を取ると、小切手の束でそれを掩(おお)った。二人はさながら決闘のような意気込みであった。深い沈黙が四方を圧した。
 シェカリンスキイの骨牌を配り始める手はふるえていた。右に女王が出た。左に一の札が出た。
「一が勝った」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。
「あなたの女王が負けでございます」と、シェカリンスキイは慇懃に言った。
 ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。
 彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違いをしたかを理解することも出来なかった。途端(とたん)に、そのスペードの女王が皮肉な冷笑を浮かべながら、自分の方に眼配せしているように見えた。その顔が彼女に生き写しであるのにぎょっとした。
「老伯爵夫人だ」と、彼は恐ろしさのあまりに思わず叫んだ。
 シェカリンスキイは自分の勝った金を掻き集めた。しばらくのあいだ、ヘルマンは身動き一つしなかったが、やがて彼がテーブルを離れると、部屋じゅうが騒然と沸き返った。
「実に見事な勝負だった」と、賭博者たちは称讃した。シェカリンスキイは新しく骨牌を切って、いつものように勝負を始めた。

 ヘルマンは発狂した。そうして今でもなお、オブコフ病院の十七号病室に監禁されている。彼はほかの問いには返事をしないが、絶えず非常な早口で「三、七、一!」「三、七、一!」とささやいているのであった。
 リザヴェッタ・イヴァノヴナは、老伯爵夫人の以前の執事の息子で前途有望の青年と結婚した。その男はどこかの県庁に奉職して、かなりの収入を得ているが、リザヴェッタはやはり貧しい女であることに甘んじている。
 トムスキイは大尉級に昇進して、ポーリン公爵令嬢の夫となった。




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