怪奇人造島
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著者名:寺島柾史 

 二人は、悄然(しょうぜん)として階段を下りた。
 中甲板をおり立つと、どこにいたのか、五人の水夫が、不意に現われて、二人の前に立塞(たちふさが)った。
「停れ(ストップ)――」太い低音(バス)で叫んだのは、髪の縮れた、仁王のような安南人だ。右手を突出(つきだ)し、ピストルの銃口を二人の胸に向けた。
「やい小僧。てめえたちは、とんでもねえことをしてくれたな。さア、はやく機関を動かせ」
 陳君は、落着払って、
「故障で動かないのだ。このうえは、潮流に乗って漂うまでさ」
「漂流?……よろしい。……で、小僧、てめえたちは、このピストルが怖くはねえのか。怖かったら、乃公(おれ)に降伏しろ」
「降伏?」
「そうだ。本船では、乃公が一番の強者だ。何故(なぜ)なら、乃公はピストルを持っている。そこで、強者の乃公は、ピコル船長に代って、今から船長様だ。てめえたちも、乃公の命令に従うがいい」
「黙れ! 縮毛。船長は、この僕だ。おまえこそ、われわれ二人の部下じゃないか」陳君が、肩を聳(そびや)かすと、縮毛の大男は、大口開いて笑った。
「ワハ……。小僧、大きく出たな。だが、いくら力んでも、どうにもならんさ。この船の宝物は、乃公のものだ。絶対に手を触れることはならぬ」
「うぬ!」陳君は、隙(すき)をみて、縮毛の大男の右手を叩(たた)きつけた。
「あッ!」ピストルは、甲板に落ちた。僕は、素早くそれを拾おうとしたが、同時に荒鷲(あらわし)のような手がそれに伸びた。
「何を!」
「やるか」僕と、べつな水夫とは、野獣のように組打ちとなった。
「さア来い。小僧!」
「何を! 大僧!」
 陳君と縮毛の大男も、その場で格闘をはじめた。他の水夫たちも、これを傍観しなかった。二組の格闘のうえに、折重なって、烈(はげ)しい乱闘となった。
 が、二人は、衆寡(しゅうか)敵(てき)せず、忽(たちま)ち甲板上で、荒くれ水夫たちに組敷かれてしまった。
「太い小僧だ。銃殺にしろ。……いや、それよりか、一束にして、水葬にしてしまえ」
 縮毛の大男は、怒号した。
 水夫たちは、麻縄(ロープ)を持ってきて、僕と陳君を一緒にして、ぐるぐる巻にしてしまった。
 僕も陳君も、観念して、もう抵抗はしなかった。白人海賊たちの手で、海ン中へ叩き込まれる代りに、こんどは、中国や安南の水夫たちのために、同じ水葬の憂目をみなければならないのか。

     中甲板の乱闘

 いよいよ、生きながら水葬にされるのだ。僕は、眼を瞑(つむ)った。と、このとき、水夫の一人が、縮毛の大男に向って、念を押した。
「で、何かい。冷凍室のラッコの分配は、どういうことになるンだ」
 縮毛の大男は、空嘯(そらうそぶ)いた。
「船長の乃公(おれ)の自由さ」
「何に! てめえが船長だと?」
「むろんさ。ピコル親分に代って、きょうから乃公が船長様だ。つまり、この船で一番強い人間が、宝物を独占していいわけだ」
「よし、じゃ誰が一番強いか、腕ずくでいくか」
「やるか!」
 縮毛の大男と、若い水夫とが、野獣のような唸(うめ)きを立てて、たちまち、肉弾(にくだん)相(あい)搏(う)つ凄(すさ)まじい格闘をはじめた。慾(よく)の深い水夫たちは、二人の勝敗如何(いか)にと、血眼(ちまなこ)になってこの格闘を見守っている。
「う……」若い水夫は、低い唸きを立て、縮毛の大男の胸に打かっていくが、そのたびに、甲板に投げ飛ばされた。
「おのれ!」
 起(た)ち上って、また突進すると、面倒なりとばかり、大男は、怪腕を揮(ふる)って、若い水夫の顔面に一撃を加えた。
「あッ!」
 そのまま、鮮血に染って倒れるやつを、足をあげて、脇腹を蹴(け)ると、急所をやられたか、そのまま息絶えた様子。このさまを見て、他の水夫――頬(ほお)に創痕(きずあと)のある物凄(ものすご)い男が、
「よしッ! 兄弟の仇(かたき)だ! 来い」と、叫んで、縮毛の大男に突進した。が、これも、たちまち、血だらけになって、その場にへたばってしまった。
「口ほどもねえ奴等だ。さア、われとおもわん者は、来い!」縮毛の大男は、仁王立ちになって、四辺(あたり)を睨め廻したが、この勢いに辟易(へきえき)してか、誰もあとに続くものがない。
「誰もいないか、自信のある奴がなければ乃公(おれ)が一番強いのだ。腕ずくで、宝物は乃公の自由にするまでさ」が、このとき、背後にいた水夫の一人が、二、三歩前に進み出で、
「いや、船長は、この乃公だ」と、力強く叫んだ。
「何に! どいつだ」
 縮毛の大男が、振りかえった途端。
 ズドン! と一発、銃声が起った。
「あッ!」胸を射貫(いぬ)かれて、大男は、もろくも、甲板に殪(たお)れてしまった。
 ピストルを握った、豹(ひょう)のような水夫は、続けさまにピストルを乱射した。そして、中甲板を逃げまどう残りの水夫の背後(うしろ)に、一発お見舞申してしまった。甲板は血に染み、四人の水夫の屍骸(しがい)が散乱した。ピストルを握った水夫は、会心の笑みをうかべて独言(ひとりご)った。
「これで、きれいさっぱりした。宝船の主人は、つまり、この乃公(おれ)だ」
 彼は、麻縄(ロープ)でぐるぐる巻にされ、甲板に転がっている僕等に気がつくと、また、険しい眼付で、ピストルの銃口を向けた。
「待ちたまえ」僕は、落着払って云った。
「何だ!」
「僕等は、冷凍室のラッコなど欲しかないよ、……何よりも、君の勇気に感心した。改めて君の部下になろう」
「…………」
 豹のような水夫は、豹(ひょう)のように、疑深く、なおもピストルを、僕の胸に擬(ぎ)したままだ。
「ね、君! この船は、機関(エンジン)の故障で航海が続けられないのだぜ。つまり、漂流船だ。この先、何十日、何百日、海洋を流されるかしれないじゃないか。僕等まで射殺して、たった一人で、太平洋を漂流するなンか、心細いだろう」
 豹のような水夫は、肯(うなず)いて、僕等の麻縄を解きはじめた。

     怪老人の冷笑

 麻縄を解かれて、やっと自由になった。僕も、陳(チャン)君も、雀躍(こおどり)して、中甲板を飛び廻った。
 と、豹のような水夫は、何をおもったか、不意にまた、陳君の背後に、ピストルの銃口を向けた。
「あッ! あぶない」
 僕は、おもわず絶叫したが、すでに遅かった。兇暴な水夫の放った一弾が、陳君の左肩(さけん)を貫通した。
「あッ!」
 と一声、悲鳴をあげて、陳君は、よろよろとその場に倒れてしまった。
「卑怯(ひきょう)だ!」
 僕は、水夫を睨みつけながら、駈け寄って陳君を抱いた。
「しっかりしろ。傷は浅いぞ」
 血に染った陳君は虫の息で、
「や、山路君。……く、口惜(くや)しい」
「しっかりしろ」
「おなじ、東洋人に、や、やられるとは、……く、口惜しい」
「陳君! か、讐(かたき)は討ってやるぞ。しっかりしろ」
「た、たのむ……。もう、僕は、だ、駄目だ……」
 陳君は、僕の手を、かたく握り締めたが、しだいにその力が失われ、ぐったりとなってしまった。
「しっかりしろ」
 僕は、猛然と立ち上った。
「何故、罪の無い陳君を射殺(うちころ)したのだ」
 豹のような水夫は、ピストルを、僕の胸板(むないた)に突(つき)つけたまま、
「陳の奴は、油断がならねえからやっつけたのだ。小僧、てめえだけは、たすけてやろう」
「いや、断じて妥協はせんぞ。陳君の讐を討ってやろう」
「ハハハハハ。無手(むて)で、このピストルに立向うつもりかい。いくら、日本の少年でも、そいつはいけねえ。乃公(おれ)に降伏しろ」
「黙れ! 日本男児の、鋼鉄のような胸を、射貫(いぬ)けるものなら、討ってみろ」
「ハハハハハ。慈悲をもって、たすけてやろうとおもったが、陳と一緒に、冥途へ往きていなら、一思いに眠らしてやるさ。観念しろ」
 豹のような水夫は冷笑をうかべて、ピストルの引金に指をからませた。
 と、このとき、何処(どこ)からか、不意に、
「ワハハハハハハ」
 と、突破(つきやぶ)ったような笑声が起った。それは、豪快な笑いにかかわらず、僕にも、豹(ひょう)のような水夫にも、死人の笑いのように冷たくきこえたので、振りかえった。
 おおそこには、いつのまに現われたのか、船室の降り口のところに、白衣(びゃくえ)を着た、白髪の老人が、亡霊のように立っているではないか。しかも、彼は、歯の無い口を開いて、
「ワハハハハハハ。おまえたち、甲板のうえで、生命のやり取をしても無駄だろうぜ」
 と、不気味に、冷たく笑った。
「てめえは、誰だ」
 豹のような水夫は、恐怖におびえた眼で、怪老人を睨めつけながら云った。
「わしこそは、この船の主人じゃ。おまえたち、生命のやり取を、止(や)めて、はやく、この船を退散しろ」
「何を!」
 水夫は、こんどは、亡霊のような怪老人に、ピストルを向けた。
「ワハハハハハ。若いの、そいつは無駄さ。おまえが、わしの胸を射貫(いぬ)いても、この船には長く居られまいぞ」
「え! 何故だ」
「船底の、火薬庫が、あと三分で、爆発するだろ」
「えッ!」
「わしは、たった今、火薬庫に、導火線を投入れ、その先に火を点(つ)けて来たのさ。導火線は、あと三分。いや二分で、燃え尽きるだろう」
「えッ!」
 豹のような水夫は、これをきくと、反射的に駈け出した。たぶん、端艇(ボート)を探し廻ろうというのだろう。だが、端艇は一艘も本船に残っていない。これに気がつくと、水夫は、真蒼(まっさお)になって顫(ふる)え上った。
 僕は、このまに船橋(ブリッジ)の柱に架けてあった浮袋(ブイ)を外して、それを身に着けた。何しろ、あと二、三分で、一千五百噸(トン)の汽船が、爆破して、木葉微塵(こっぱみじん)になるのだ。愚図愚図していられない。僕は、素早く浮袋を身に着けると、そのまま、身を躍らして、海中に飛込んだ。
 このさまをみた、豹のような水夫も、急いで、浮袋を身に着けると、僕にならって、海中へ身を躍らした。

     亡霊の仕業か

 北太平洋の浪(なみ)は、さすがに高かった。
 僕も、水夫も、巨浪に飜弄(ほんろう)されながら、懸命に、本船から遠ざかろうと努めた。
 が、二分経(た)っても、五分過ぎても、冷凍船虎丸(タイガーまる)の火薬庫は爆発しそうにもなく、本船は悠々潮流に乗って、可成(かな)りの速さで、僕等を遠ざかって往(い)く。しかも、甲板のうえでは、白衣の怪老人は、僕等を見送りながら、相変らず、冷笑をうかべている。
「失策(しま)った!」
 僕は、おもわず叫んだ。
「ど、どうした?」
 水夫は、飛沫(しぶき)を避けながら、僕の方へ近寄ってきて訊(たず)ねた。
「あの、怪老人に、一杯喰(く)わされたぞ」
「うむ」
「火薬庫が、一向に爆発しないじゃないか。あの怪老人、うまく僕等をだましたのだ」
「なるほど……」
 水夫は、今になって、しきりに感心している。
「こうなれば、船に泳ぎついて、あの怪老人を退治てやらねばならん」
 僕は、巨浪に逆(さから)って、抜手を切った。水夫は、そのあとを追って、
「だが、船は、潮流に乗って、あの速さで走っているぜ。とうてい追いつけまいよ」
「だが、口惜(くや)しい。あんな、老人にだまされたかとおもうと……」
「それに、あの老人は、ひょっとすると、亡霊かもしれんぜ」
「どうして?」
「だって、本船には、最初からあんな老人が乗組んでなかったはずだ。……そ、それに、乃公(おれ)ア見たが、あの老人には、足が無かったようだぜ」
「そんなことがあるものか。亡霊など出てたまるものか」
「いや。虎丸(タイガーまる)は、これまで北洋で、たくさんの東洋人を殺したので、その亡霊が、老人の姿になって現われたのだろう。乃公は、たしかに見たよ。あいつには、足が無かった」
「じゃ、亡霊が、何のために、僕等を、船から追出したのだ」
「亡霊だって、冷凍室のラッコが欲しいだろう」
「そんな、莫迦(ばか)なことがあるものか。亡霊が、ラッコの皮を売ってどうするンだ」
「なるほど、そいつもそうだ」
 水夫は、肯(うなず)いたが、しかし、怪老人の姿をおもいうかべると、ぞっとした。果して亡霊だろうか、仮面の怪人物か。その謎(なぞ)の解けぬうちに、虎丸は、僕等とは、可成り距(へだた)ってしまった。およそ、十数分も経ったが、火薬庫など爆発しやしない。潮流に乗って、悠々と、南々東を指して流れて往く。
 僕も、水夫も、北太平洋の真ン中に、置去りにされてしまったのだ。しかも、浮袋(ブイ)一つに生命を托して、ひょうひょうと巨浪に飜弄されている。
 もうすでに夕暮だ。赤い太陽が、西の空に沈もうとしている。海は、黄金を撒(ま)いたように輝いているが、それを眺めて楽しむどころではない。夕方でも、この寒さだから、夜になったら、一層寒さが加わるだろう。水が刃(やいば)のように肌を刺し、僕等は、明日を待たず、凍死するにちがいない。
「ひでえことになったなア」
 豹(ひょう)のような水夫も、さすがに心細くなったとみえ、今はもう、もぐらもちのように意気地(いくじ)がなく、浪に乗り、浪に沈みながら、悲鳴をあげている。
「ああ。ああ……」
 そして、いつのまにか、僕との距離が遠ざかってしまった。
「おーい」
 といっても返事がない。
「しっかりしろ」
 振りかえって叫んだが、もはや、姿も見えなかった。虎丸は何処と、顔をあげてみたが、もうそれも僕の視野から消え失せてしまった。
 僕は、只(ただ)一人、浮袋(ブイ)に身を托して、涯(はて)しない洋上を、浪に漂わねばならないのだ。

   二 抹香鯨(まっこうくじら)と人造島

     海の怪物

 その夜半。真暗な洋上で、僕は、何物かに、頭をコツンと叩(たた)かれたような気がして、はッ! として、失いかけていた意識を、取返すことができた。
「おや! 何だろう」
 手探りに、四辺(あたり)を探ると、怪物は、ふたたび僕の頭をコツンと叩いた。
「畜生! 誰だ」
 が、手に触れたものは、変に冷たい、大きな、妙に不気味な怪物だった。
「岩礁かな」
 とおもったが、撫(な)で廻してみると、いやにつべつべした代物(しろもの)だ。
「動物のような感じだぞ」
 だが、動物にしては、これはまた、変に茫漠(ぼうばく)として大きい。
「何でもいい。気力を失って、凍死しかかっている僕の頭を、コツンと叩いて意識をかえしてくれた怪物は、僕の生命の恩人だ。ありがとう」
 僕は、心からそう感謝して、怪物の肌を撫で廻した。すると、それは海の怪物海馬か、海象か、鯨といった感じである。
「あッ! いけない。海馬や鯨だったら、こうしてはいられない。いまに尾鰭(おびれ)で一つあおられると、参ってしまう。こいつは剣呑(けんのん)剣呑……」
 そこで、周章(あわ)てて、怪物の身辺を離れた。が、離れて暗闇(くらやみ)の海に漂うと、やっぱり心細い。気力を失いかけている僕は、このまま数時間、寒汐(さむしお)に漂うたら、ふたたび意識を失ってしまうだろう。
「よしッ! 海馬でも、海象でも、何でもいい。そいつの背中を借りて、一息入れるとしようか」
 僕は、またも、怪物に近づいた。そして、小山のような背中によじ登ろうと試みた。海馬や、海象なら、こうして僕に、いくたびか取縋(とりすが)られると、うるさくなって、海へもぐり込むにちがいない。だのに、一向気にもとめず、僕の為(な)すままに任している。
「こいつア、海馬や、海象よりも、もっと大きな怪物かもしれんぞ」
 僕は、いくたびか辷(すべ)り落ちて、やっと、怪物の背中へ這(は)い上ることが出来た。そこは、やはりつべつべしているが、小丘のように広い。足もとに気をつけて、歩いてみると、可成(かな)りある。
「駆逐艦ぐらいあるぞ。鯨かな」
 僕は、不安におもったが、ええままよとばかり、怪物の背中で肘(ひじ)を枕に横になった。鯨なら、やがて海底へ沈んでしまうだろう。そのときは、それまでだ。一緒に海底見物と洒落(しゃれ)ようか。
 僕は、そんな暢気(のんき)なことを考えて、悠々と怪物の背中で横になってみたが、怪物は、一向に海底へ沈んで往く様子もない。僕をのせたまま、潮流に乗って、何処(どこ)へか流されて往くようだ。
 怪物の背中に横になっていると、夜風が肌を刺すようだ。しかし、浮袋につかまって、巨浪に飜弄(ほんろう)されているのとちがって、飛沫(ひまつ)を浴びることもなければ、手足を動かすこともいらない。濡鼠(ぬれねずみ)になって寒いが、極度に疲れているので、いつか睡気(ねむけ)を催して来た。
「眠って転げ落ちたら大変だ」
 そうおもいながらも、うとうととなる。そこで僕は、怪物の背中で、腹這(はらば)いになった。これなら、なかなか転げ落つることもあるまい。
 僕は、正体のわからぬ怪物の背中で、そのまま、深い眠りに落ちてしまった。

     あッ! 氷山?

 幾時間眠ったろう。ふと眼が醒(さ)めた。
 朝の太陽が、僕の背中をあたためてくれた。
「おお、こいつは、素敵(すてき)素敵」
 僕は、怪物の背中に起き直って、四辺(あたり)の景色を眺め入った。相変らず、水また水の、茫々(ぼうぼう)たる海原だが、いつか北洋の圏内を去ったとみえて、空気も爽(さわや)かで、吹く風も暖かだ。
 もう、凍死することはあるまい。だが、まだ怪物の背中に乗っかっているのだ。幸い、ゆうべは、怪物も、海中へ沈まずにいてくれたから、たすかったようなものの、何時(いつ)、もぐり込むかわからぬ。眼が醒めて、元気づくと、こんどは、怪物の背中にいることが不安になって来た。
「それにしても、怪物は一体、何物だろう」
 僕は、怪物の正体を突止めるために、背中を歩き廻った。なるほど、駆逐艦ほどもある大きさだ。歩きながら、よく見究めると、やっぱり鯨だった。大きな抹香鯨(まっこうくじら)だった。しかも、鯨の奴(やつ)、白いお腹(なか)を上に向けて、悠々潮流に乗っている。
 僕は、ゆうべから、抹香鯨のお腹の上に眠っていたのだった。
「なアんだ。お腹の上にいたのか」
 僕は、可笑(おか)しくなってひとりで笑った。が、考えてみると、鯨がお腹を上に向けて泳いでいるわけはない。僕は、やっと怪物の謎(なぞ)を解くことが出来た。
「ああ、そうだ。こいつは、鯨の屍骸(しがい)だったのか。どうりで、僕を竜宮へ連れて往かなかったはずだ」
 それがわかると、少しつまらなくなった。けれど、鯨の屍骸なら、結局安全だ。竜宮へ連れて往ってくれないかわりに、こうして漂流しているうちに、やがて、捕鯨船に発見されるだろう。
「まずまず安心」
 そこで、僕は、また、鯨のお腹の上で横になろうとして、ふと、左手はるかに瞳(ひとみ)を投げると、おもわず、
「おや!」
 と叫んだ。そのおどろきも当然、はるか南東の洋上に、ふしぎな島が、うかんでいるではないか。しかも、その島は純白で、朝陽(あさひ)をいっぱいにうけて、銀色さんぜんと輝いているではないか。
「島かな。帆船かな。それとも氷山かな」
 だが、氷山が、こんな暖かい風の吹く海洋まで流れてくるはずはない。では、貝殻の島かもしれない。貝殻や鳥糞(ちょうふん)が、島嶼(しま)のうえに堆積して、白い島にみえるのもある。けれど、その白さとちがって、あの銀色さんぜんと輝いているところは、どうしても氷山だ。
 可笑(おか)しい。どうして、氷山が、こんな暖かい海洋へ流れて来て溶けないのかしら。
 ふしぎにおもって、なおもよく見入っていると、僕を乗せた鯨の屍骸は、どうしたことか、いつのまにか、急速力を出して、かの氷山を目指して進んでいるではないか。
「おや、いよいよ可笑しいぞ。鯨が生き返ったのかしら」いや、生きたのではない。鯨の屍骸は、狂おしく迅(はや)い潮流に乗って、矢のように走り出したのだ。しかも、その方向は、はるか彼方(かなた)に浮ぶ氷山を目指している。それが磁石に吸いつけられるように、かなりの速力で氷山に近づいているのだ。
「こいつは剣呑(けんのん)! あの氷山に正面衝突してみろ、鯨諸共(もろとも)、僕の身体も木葉微塵(こっぱみじん)になるだろう」
 さすがの僕も、今度こそは、怖(おそ)ろしくなって眼を瞑(つむ)った。氷山と鯨は、刻々にその距離を狭めていくようだ。万事休矣(ばんじきゅうす)?

     人造島の秘密

 あくる朝、僕は、病室とおぼしい、明るい室の、寝台のうえで眼を醒した。僕の身体は、ぐるぐる巻に繃帯(ほうたい)が施されてある。きのうの朝、鯨の屍骸に跨(またが)ったまま、潮流に押流され、急速力で氷山に近づき、ドカンと衝突したまでは覚えているが、そのとき、氷山の一角に五体を強く打突けて人事不省に陥ったまま、この病室に運ばれたものとみえる。
「それにしても、ここは一体、何処だろう。氷山に、こんな立派な病室があるわけはないし……」
 僕は、夢見心地で、寝台を降りて、ふらふらと室内を歩き廻った。
 窓から、朝陽がいっぱいに差込んでいる。戸外からみると、おどろいた。やっぱり氷山、というよりか、氷の陸地である。平坦(へいたん)な氷の島のうえに、白堊(はくあ)の家が建っているのだ。その一室が、病室になっている。いや、白堊の家だけではない、工場もあるし、動力所とおぼしい建物もあるし、飛行機の格納庫さえある。しかも、氷上には、単葉の飛行艇が二機、翼(よく)を休めているし、水色の作業服を着た人々が、水晶のように美しい氷上を歩いている。
「北極から流れて来た氷山じゃないぞ。島の上に氷を張りつめたのかしら。いや、それなら家も、格納庫も、氷に鎖(とざ)されているはずだ。だいいち、こんなに太陽が輝いて、暖かいのに、氷が溶けずに、大理石のように輝いているのは可笑(おか)しい」
 僕は、いよいよ不審におもっていると、不意に扉(ドア)が開いて、水色の作業服を着た一青年が入って来た。彼は、僕をじろりみて、いきなり、
「君の国籍は?」と妙なことを訊(たず)ねた。
「僕は、日本人です」
「うむ……それはいかん。日本人であることが不幸だった。せっかく救(たす)けてあげたが、このまま帰りたまえ」
「え!」
「われわれは、外国の漂流者を救助する義務はないのだ。すぐに、島を退去したまえ」
 その声は、氷よりも冷たく感じられた。
「どうして、僕を追払おうとするのです」
「われわれは、水難救済事業に携っているのではない。しかも、君が、日本の少年であることが不幸だった。君を、この島に滞在させるわけにはいかんのだ」
「……」
「その理由というのはつまり、この島は、人造島だからだ」
「えッ、人造島?」
「そうだ。これは、アメリカの兵器会社の技師が発明した人造島で、われわれ技術員は、その耐熱試験をやっているのだ。氷の島が温帯で、いや熱帯圏内に入っても、果して耐久力があるか否かを試験しているのだ。そこで、この島の秘密を、日本の少年に盗まれては、せっかくの、秘密特許の人造島も、無価値になるじゃないか」
「僕は、少年です。断じて人造島の秘密を盗むようなことはありません。日本へ帰るまで、この島に置いてください」
「いかん。君を救けたのは、君の労働力を必要としたからだ。つまり、君に、炊事(すいじ)やそのほかの仕事をして貰(もら)おうとおもったのだが、不幸にして君は、模倣(もほう)の巧みな日本人だったじゃないか、一刻も、この島に置くわけにはいかん」
 青年技師は、卓上の呼鈴(ベル)を押した。と、それへ、同じ作業服を着た数名の男が現われた。
「この少年を、追放してくれたまえ」
 青年技師は、冷酷無情にも、そう命じると、数名の男は、矢庭(やにわ)に僕の肩や、手をとった。僕はこれまで、幾度か生死の境をとおって来ているので、またも、この奇怪な氷の島から追放され、海へ放り込まれることを、それほど怖(おそ)れなかったが、しかし、何か曰(いわ)くのありそうな人造島の秘密を、何とかして探りたいとおもったので、むざむざと、海へ放り込まれたくはなかった。
「僕は、どんな労働でもやりますから、この島に置いて下さい」扉(ドア)の外へ、つまみ出されるのを拒(こば)んで、こう哀訴したが、青年技師はいよいよ冷酷だ。
「日本の少年なら、いいかげんに観念しろ。……さア諸君、面倒だから、この少年を麻袋に詰めて、海ン中へ叩き込んでくれたまえ」
「オーライ」作業服を着た男たちは、声とともに、寄ってたかって僕を捉(とら)え、用意の麻袋を頭からすっぽり被(かぶ)せてしまった。そして、藻掻(もが)く手足を押込んでしまうと、袋の口を麻縄(ロープ)で厳重に結(ゆわ)いてしまった。ああ、僕は、こんどこそ海底の藻屑(もくず)と消え失せなければならないのか。
 やがて、麻袋に詰められた僕は、一人の雑役夫に担がれて、氷の島の岸へ運ばれた。
 僕の生命は、風前の灯火(ともしび)だ。

     中国服の老人

 雑役夫は、麻袋をいったん置くと、こんどは、その両端を二人で持って、高く差しあげた。「ワン」「ツー」「スリー」の号令とともに、一思いにドブンと、海中に投げ込まれようとした一刹那(いっせつな)、
「待て、待ちたまえ」と、皺枯(しわが)れ声が、人々の背後にあった。雑役夫たちは、麻袋をふたたび氷の上に置いた。皺枯れ声の主は、
「その少年を、海へ叩き込むのは、いつでも出来るじゃろ。何しろ、この島じゃ、逃げも隠れも出来まいから、労働を強いてさんざ使ったあとで、海へ棄てても遅くはあるまい」と、云った。
「うん、それもそうだ」青年技師の声だ。
 僕は、麻袋からつまみ出された。大理石のような硬い氷の上に立って、ひょいと見ると、皺枯れ声の主というのは、中国服を着て、木沓(きぐつ)をはいた老人だが、中国人ではないらしい。彼は、僕の顔をじろじろ見ていたが、
「とにかく、この少年を、わしの研究室で使うことを許してもらおう。なかなか怜悧(りこう)そうな少年だ」
 こう云って、僕の肩を、枯枝のような細い手でつかんで、よろよろと歩きだした。僕は、この老人を、信じてよいのか悪いのかわからなくなったが、とにかく、危い瀬戸際に、少しでも生命を延してくれたので、感謝してもいいとおもった。
 研究室は、同じ白堊の建物で独立していた。その一室へ、僕を連込んだ老人は、
「それへ掛けたまえ」と、一脚の椅子(いす)をすすめた。
「何を、お手伝したらいいですか」
「まア、仕事は、だんだんにはじまるよ。きょうは、ゆっくり体を休めたまえ」
 なかなか親切だ。が、結局、僕をさんざん使ったあとで、海へ放り込もうというのだから、ピコル船長と五十歩、百歩だとおもった。
「君は、日本人だといったね」
「そうです」
「日本人は、科学の才能において、ドイツ人に劣らぬ。そこで、わしは、わしの研究室の助手として君を所望したのじゃ」
「あなたは、何を研究なさいますか」
「わしは、人造島を研究している」
「あなたは、この氷の島をつくられたのですか」
「そうじゃ」
「人造島というのは?」
「なるほど、少年には殊(こと)のほか、興味があろう。かんたんに説明してあげよう。人造島というのは、ドイツのゲルケ博士の考案したものが始りである。浅い海底へ、組合した太い管(くだ)を、無数に取付け、それに海水を凍らせる凍結剤を、絶えず送るという仕組になっている。つまり、そうして海上に、ぽっかり氷の島を浮べ、飛行機の着陸場にしようというのじゃ。ところが、わしの人造島は、浅い海ではなく、太平洋の真ン中でも、自由自在につくられるのだから、ゲルケ博士のものとは、規模、構成において、おのずから異っている」
「どうして、氷の島が、暖かい海でも溶けないのでしょうか」
「氷上に動力所があるだろう。あの動力所から、鉄管で絶えず凍結剤を送っているから、よしんば島の表面が溶けても、急凍する海水が、新陳代謝するから大丈夫。それに、この氷は、化学的に急凍したものだから、大理石のように硬いのじゃ」
「人造島が、自由自在に、どこにでもつくられるようになると、飛行機は、安心して飛べますね」
「そうだ。戦争になると、人造島を各処(かくしょ)につくって、そこを艦隊や、航空隊の基地とし、不安になれば、忽(たちま)ち溶かしてしまうことが出来る」
「へえ、おどろいた。じゃ、人造島を発明した国は、戦争に絶対勝つというわけですね」
「人造島をつくったのは、わしだが、わしはまた、人造島に、ある種の人工霧を放射すると、忽ち溶けてしまうという、新しい兵器を発明したのだ。完成の一歩前だが、その研究をやっているのだよ」
 老人は、梟(ふくろう)のような眼を輝かした。
「あなたは、科学者ですね。博士ですね。そして、この島の主権者ですか」
「主権者?……。なるほど、この島の創造主だから、主権者であっていいわけだ。ところが、わしは、哀れな奴隷なのじゃ」
「えッ!」

     作戦?

「日本の少年よ。われわれは、人造島の耐熱試験をするために、大平洋の真ン中へやって来たが、試験は大成功。そこで数日ののちに、この島を元の水に還(かえ)して、本国へ引揚げるのだが、わしの科学の頭脳を、さんざん使った兵器会社の奴等は、不要になったわしを、この老ぼれ博士を、海洋に棄てて去るだろう」
「それじゃ、僕と同じ運命なのですか」
「そうじゃ、わしは、古ぼけた兵器製造機として、もう不要になったのじゃ。そこで、海へ棄てられてしまう。……わしは、たった一人で死にたくはないので、せめてもの道連れにとおもって、君の命乞いをしたのじゃ」
 ああ、そうだったのか。僕は、それを知ると、この博士に怒りを感じた。
「僕は、あなたの道連れになるのは、お断りします」
 僕は、断然拒絶した。老博士は、淋(さび)しく笑って、
「いや、ぜひこの老人と一緒に死んで貰(もら)いたい。……それとも、君は、あの麻袋に詰められて海ン中へ叩き込まれたいのかい」
「…………」
「わしと一緒に死んでくれるか、それとも、名もない雑役夫のために、海に叩き込まれるか。その二途(ふたみち)よりないのだが……」
 少し考えていた僕は、
「あんな雑役夫に殺されるよりか……」
「おお、やっぱり、わしとこの島に残されるか」
「はい」
「うむ。それでこそ、義も情もある日本人じゃ。君は、わしの唯一の味方じゃ……では、わしの本心を明(あか)してあげよう」
「え! 本心ですって?」
「そうじゃ。わしは、いかにも古ぼけた兵器製造機じゃ。けれども、むざむざと、アメリカの兵器会社の奴等のために、海洋の真ン中に棄てられはしないぞ。君と協力して、彼等の暴力に抵抗するのじゃ」
「では、僕とともに、この島を脱(ぬ)け出そうと仰(おっ)しゃるのですか」
「脱出ではない。この島に住む狼共(おおかみども)に、戦いを挑むのじゃ。わしは、最初からその決意でいたが、君を味方に得て、いよいよ勝算が十分だ」
「でも、味方は、わずかに二人、敵は、それに十倍する人数、たいてい勝てますまい」
「ところが、わしは、科学者じゃ。科学の力は百人、千人の凡人の比ではない」
「作戦を洩(もら)してください」
「わしの作戦はこうじゃ。まず、この人造島の心臓ともいうべき、動力所を襲うて、これを占拠するのじゃ。われわれは、動力所に拠(よ)って、敵を迎える。動力が停(とま)って、凍結剤を海中の鉄管に送ることが出来なくなれば、この島は、忽ち溶けてしまうのだから、それを怖れて、敵も手出しは出来まい」
「でも、動力所を占拠して、人造島の心臓を抑えても、数台の飛行機が、彼等の手中にある以上、動力を停めて、人造島を溶かすと威(おど)かしても、彼等は、そのままに、飛行機に分乗して、危機を脱することが出来るじゃありませんか」
「なアに、その前に、ちゃんと飛行機を焼いて、敵の足を奪っておくのさ」
「えッ! 飛行機を焼いたら、僕達も、結局、人造島と運命を倶(とも)にするだけじゃありませんか」
「冒険に心配は禁物じゃ。科学のともなわぬ冒険は、もう古い。わしの人造島は、自力をもって、時速十三海里の航海が出来る。つまり、この人造島は、大洋の浮島であるとともに、一種の方船(はこぶね)なのさ。しかも、海中深く潜んでいる、すばらしい幾つかの推進機は、動力所の押ボタン一つで、猛然と回転してくれるのじゃ。動力所の心臓部を抑えながら、わしと君は数十人の敵を同伴して、一路日本へ針路を向けようじゃないか……。なアに、万一、この冒険が失敗したら、そのときは、潔(いさぎよ)く、海中の藻屑(もくず)となったらいい」
「よくわかりました。僕はやります」
「では、君は、夜半に格納庫を襲うてもらおう。わしは、同時刻に動力所を襲うて、彼処(あそこ)を占拠してみせる。君は、格納庫に火を放つのじゃ」
「爆弾がございますか」
「爆弾のような化学兵器が、手に入るくらいなら、こんな命がけの冒険はせんよ。爆弾があれば、宿舎に投げつけて、技術員も、雑役夫も、みんな一気にやっつけることが出来るじゃないか。われわれは、敵に監視されている、全くの無力者だ。そこで、非常手段をとらねばならぬ」
 老博士は、僕の耳元へ、秘策を私語(ささや)いた。

     格納庫夜襲

 遂(つい)に夜襲のときが来た。
 海洋の真只中(まっただなか)に浮んでいる人造島が、深い眠りに陥っているところを狙(ねら)うのだ。
 白堊(はくあ)の宿舎には、技術員も、雑役夫も、みんな正体もなく眠っている。外部からの襲撃をうける心配のない人造島では、歩哨(ほしょう)も、不寝番(ねずばん)も必要がなく、ただ、動力所だけに、機関士が交替に起きているに過ぎない。
 夜半、約束の時刻に、老博士は、研究室の窓の下に佇(たたず)んでいた。そして、僕の姿を見つけると、片手をあげて合図をして、そのまま、風のように動力所の方へ去った。僕も、たった一人で、格納庫焼打に往くのだ。
 満天に星はきらめき、空気は水のように澄んでいる。その星の光が、水晶のような氷の肌に、微(かす)かに映えて、あたかも黒曜石(こくようせき)のように美しかった。
 海は、はろばろと涯(はて)しもなく、濃紫(こむらさき)色にひろがっていて、何処からか、海鳥の啼音(なきね)がきこえてくる。こんな静かな夜半、決死の二人が、十倍に余る敵を迎えて、これと闘い抜き、人造島を占拠しようというのだ。いや、あと数分ののち、この黒曜石のような美しい氷上が、血の海と化するであろう。このことが、とうてい想像できなかった。
 格納庫の附近には、歩哨も、動哨もいはしない。だのに、誰か物かげに潜んでいるようで、不気味だった。僕は、四辺(あたり)に気を配りながら、格納庫の扉(ドア)を開けた。そして携えてきた小さな石油ポンプを、格納されてある飛行機の方に向けた。それから、上着を脱いで、それに石油を浸した。
 これで、準備はできたのだ。
「いいか」
 僕は、自分自身にこう云って、石油を浸して上衣(うわぎ)に火を点(つ)けると同時に、それを格納庫内の飛行機へ投げつけた。
 ボーッ! と、凄(すさ)まじい音を立てて、上衣は燃え上った。
「それッ!」とばかり、僕は、石油ポンプの把手(ハンドル)を力の限り押した。燃え上った一団の火へ、石油を雨のように注いだからたまらぬ。たちまち、格納庫内は、火の海と化してしまった。
「ばんざーい」僕は、興奮して、おもわず万歳を連呼した。連呼しながら、僕は、両頬(りょうほお)に伝う熱い涙を感じたが、それを拭(ぬぐ)おうともせず、なおも石油ポンプの把手を、力のかぎり、根かぎり押した。
 と、このとき、はるかに宿舎の方にあたって、
「わア」「わア」という、喊声(かんせい)とも、悲鳴ともつかぬ、人々の叫喚が、嵐のように湧(わ)き上った。格納庫が火を吹いたので、それを発見した一人が、度を失って、人々に告げ廻ったのだろう。人々は、半狂乱になって、我先に、こちらへ駈(か)けてくる。それが、火焔(かえん)の明りではっきり認められた。
 僕は、格納庫に十分に火が廻り、三台の飛行機が、威勢よく燃えているのを見済して、動力所の方へ駈けつけた。
 格納庫の巨大な建物が、火を吹いているので、その凄まじい大火焔(かえん)が、水晶のような氷の肌に映じて、実に壮観。絵にも、文章にも、描けぬ光景だと、僕は、振りかえり、振りかえり、それに見惚(みと)れた。

     殺到する敵

 こちらは、動力所へ駈けつけた老博士である。博士は、低過蒸気機関の前で、椅子(いす)に腰かけたまま、こくりこくり居眠りしている、呑気(のんき)な赤髯(あかひげ)の機関士の前に立って、
「おい、起きろ」と、怒鳴った。不意を喰って機関士は、むっくり顔をあげた。きっと、上役に、居眠りの醜態を見つけられたとおもったのだろう、眼をパチクリさせている。
 老博士は、ステッキを、機関士の胸元へ突付(つきつ)けて、いかにも、新しい兵器のように見せかけ、
「これを見ろ、わしのつくった殺人ガス放射器じゃ。よいか、これが怖(おそ)ろしかったら、わしと行動を倶(とも)にしろ」
 機関士は、老博士のステッキを、恐ろしい兵器と信じて、恐怖のあまり、わくわく顫(ふる)えながら、両手をあげて、わけもなく、無抵抗の意を表した。
「よいか、わしの味方の一人はいま、格納庫を襲うて、おまえたちの唯一の足である飛行機を焼こうとしている。そこで、わしは、この動力所を襲うて、人造島の心臓部を握るのだ。われわれは、兵器会社の技術員たちに、戦いを挑まねばならない。おまえは、わしの味方になるか、それとも反抗するか」
「味方になります」
「よろしい。では、おまえの任務に忠実であれ」
 このとき、彼方(かなた)の格納庫のあたりが、急に明るくなり、ボーッという、凄まじい音がきこえて来た。
「ほう、やったな。おい、窓の外を見ろ。わしの味方が、格納庫を焼いたぞ」
 云われて、機関士は、窓から顔を出した。
「あッ、火事だ」機関士は、おどろいて、戸外へ飛び出そうとした。
「おい、これがわからぬか」
 老博士は、ステッキを突付けた。
「此処(ここ)を動いてはならない。でないと、人造島が溶けてしまうのだ。飛行機が焼けてしまったし、島が溶けたら、どうなるとおもうか」
「…………」
 機関士は、神妙に機関(エンジン)の前に戻った。
 格納庫は、物凄(ものすご)く火焔を吐いている。
 と、忽ち、人々の叫喚が嵐のように起った。目茶苦茶に、発砲するものもあるらしい。大変な騒ぎとなった。その騒動の中を、巧みに抜けて、動力所へ駈けつけたのは日本少年、僕である。
「おお、旨(うま)くやってくれたな」
 老博士は、うれしげに僕を迎えた。
「あなたも……」
「うむ、動力所も、首尾よく手に入れたよ」
「みんな、こちらへ押寄せて来ます」なるほど、火焔の明りでみると、人々は、悪鬼のような叫びをあげながら、動力所を目指して駈けてくる。
「なアに、大丈夫。敵の心臓をつかんでいるから、すでに味方の勝利じゃ」
 老博士は、落着払っている。動力所へ押寄せた一隊は、威嚇(いかく)するように、小銃を乱射した。わアーという、喚声をあげながら、悪鬼のように、
「博士をやっつけろ」
「おやじを殺せ」
「日本の少年を、渡せ」と、口々にわめき立てて、すでに、扉(ドア)の近くまで迫った。

     島が溶けだす

 このとき、老博士は、動力所の窓から、ぬっと首を出した。
「あぶない!」僕は、引止めたが、それには耳を藉(か)さず、はや間近に迫った一隊に向って、皺枯(しわが)れ声だが、しかし太い力のこもった声で呼びかけた。
「射撃を止(と)めろ。止めないと、人造島の心臓部を止めてしまうぞ」この一言が、たしかに利いたとみえて、敵の一斉射撃が、急に止み、一隊は、その場に釘付(くぎづけ)にされたかたちとなった。老博士は格納庫の火焔(かえん)に、上半身を照らしながら、語気を強めて、
「わしは、すでに、この人造島の心臓部を握った。飛行機はみんな焼けてしまった。おまえたちは、自由を失ったのだ。よいか、わしに反抗するものがあったら、わしは、ここにいる味方の一人に命じて、動力機関(エンジン)を、一挙に破壊してしまうだろう。おまえたちが、この動力所へ殺到し、われわれを銃剣で突刺すまえに、発動機の機能は、めちゃめちゃになってしまうが、どうだ」
 と、宣告を与えた。が、戸外に佇(たたず)む敵の一隊は、怒りと怖れのために、一語も発するものがない。完全に心臓部をつかまれているからだ。
 格納庫は、まだ旺(さか)んに燃えている。しかしトラスト型の鉄骨と、飛行機の形骸(けいがい)を、無慚(むざん)にも曝(さら)して、はや、火焔も終りに近かった。老博士は、敵の銃口に身を曝(さら)しながら、なおも言葉をつづける。
「沈黙を守っているのは、無抵抗の意志と認める。飛行機は、あのとおり無惨な姿になってしまったから、いくら暴れても、この島を脱(のが)れることは出来ないだろう。どうだ。和睦(わぼく)せぬか。心臓部を握るわれわれと握手して、この人造島を、大陸へ向けて移動せしめることに同意せぬか」
 戸外の人々は、なおも沈黙を守っている。
「それとも、われわれの手で、動力機関を破壊し、氷の島を溶かして、敵味方諸共(もろとも)、海底の藻屑(もくず)となるか」敵の一隊は、今は進みも退きも出来ず、死のような沈黙をつづけている。
「君たちは、わしのつくった人造島が完成すると、もう、この老ぼれには用は無いというので、わしを、この島に残し、島の動力器械を持去ってしまうのだろうが、それは、あまり酷薄無道だった。君たちは、みんな、そんな残酷な人間ではないだろう。わしを信じ、わしの科学の才能を認め、わしになお、研究を継続させたいものは、銃を捨てて、これへやって来たまえ」
 すると、先頭の一人は、銃を投げ出した。悄然(しょうぜん)と、こちらへ歩いてくる。すると、これに倣(なら)って、他の人々も銃を棄て、みなそのあとに続いた。
 が、これは、こちらの油断だった。降服とみせかけて、動力所へ入って来た一隊の半数は、いきなり、老博士に殺到した。
「わア!」
「老ぼれを殺(やっ)つけろ[#「殺(やっ)つけろ」は底本では「殺(や)つけろ」]」
 たちまち、老博士は、人々のために組敷かれてしまった。あとの半数は、僕を目指して殺到した。
「日本の少年も、やっつけろ」
「わア!」僕は飛鳥の如(ごと)く、動力機関の前までのがれた。僕は、もはやこれまでとおもって、その場にあったハンマーを執(と)ると、
「やッ!」とばかり、機関を叩きつけた。
「あッ!」殺到した悪鬼のような人々は、おもわず声を呑(の)んだ。おのれの心臓を、叩きつけられたも同然である。僕は、続けざまにハンマーを揮(ふる)って機関(エンジン)を叩きつけた。歯車は砕け、シャフトは折れ、低温蒸気は、凄(すさ)まじい勢いで、折れまがったパイプの裂け口から吹き出した。僕は、汗を拭(ふ)きながら、人々を振(ふり)かえって云った。
「さア、これで万事休矣(ばんじきゅうす)だ。敵も味方も、仲好く、海底見物をしよう。動力が停ったら、この島は、次第に溶けていくだろう。もう、お互に争うことを止めようじゃないか」
 誰も、これに応えるものはなかった。
 老博士を組敷いている人々も、その場を離れ、呆然(ぼうぜん)として、僕を見るだけだ。今は誰一人、僕に組付いてくるものもない。死のような沈黙が、動力所の内外にひろがって来た。
 老博士は、僕の傍(そば)へやって来て、
「よくやってくれた。君の勇気と果断に感謝する。そして、君と一緒に死ぬことを、わしは、悦(うれ)しいとおもう」といって、僕の手を、固く握り締めた。
「済みませんでした。機関を破壊したりなんかして……」
「いや、この場合、君の果断の行為は、結局、われわれを救ってくれたのじゃ」
「でも、そのために、みんな溺死(できし)します」
「が、動力所を、あいつ等の手に渡せば、君とわしが殺されるだけじゃないか……。おお、そういううちにも、島が溶けてくるだろう。死の直前に、人造島の溶けるさまを実際に見ておこうか」
 老博士は、悠々と、戸口の方へ歩きだした。科学に殉ずる、老科学者の態度に、敵も味方も、今は驚嘆せぬものとてない。

     運命の方船(はこぶね)

 やがて、窓から戸外を眺めていた一人が、甲高い声で叫んだ。
「あっ、大変だ。島が溶けだした」
「えッ!」予期していたことだが、これが余りに突然だったので、人々は色を失って、われ先にと、戸外へ飛出した。彼等は、氷上を右往左往した。なかには、動力所の屋根へよじ登ろうとする者、相抱いて泣いている者もある。いやはや、白人共の、狼狽(ろうばい)ぶりは、滑稽(こっけい)なくらいだ。
「氷が溶けるのは、当然ではないか。周章(あわ)ててはいけない」老博士は、人々をかえり見(み)て、こう戒(いまし)めるが、刻々に迫る死を怖れて、人々は、なおも、右往左往して悲鳴をあげている。老博士は、木沓(きぐつ)の先でコツコツ氷を叩いてみて、僕をかえりみて云った。
「うむ、なるほど、凍結剤の効力が失われると、あれほど硬かった氷も、このとおりだ」
 それは、自分の創案した人造島の、溶け失せるのを悲しむというよりか、化学の偉力のおそろしさを証し得たことを悦(よろこ)ぶ、会心の笑いだった。
 そういううちにも、人造島は、刻々と溶けてゆく。海中に没している部分はもちろんのこと、表面も、周囲も、急速度に溶けつつある。
「救(たす)けてくれい」
「ああ……」技術員も、雑役夫たちも、今は全く手の下しようもなく、悲鳴をあげていたが、やがて彼等は、ぞろぞろと、博士の方へやって来た。
 彼等は、老博士を取巻いて、哀願した。
「博士。どうか、われわれを救ってください」
「われわれの生命(いのち)をたすけてください」
「おねがいします」果ては、彼等は、溶けゆく氷の上に膝(ひざ)をつき、手をついて、老博士に哀訴した。
 博士は、微笑をうかべたまま、
「生命が惜しかったら、わしの云うとおりになるか」
「なります」
「救けてください」
「では、あの白堊の建物へ帰りたまえ。あの建物は、島が溶けても、波に浮ぶだろう。あれは創世記の方船(はこぶね)だ」これをきくと、技術員や雑役夫たちは、
「おお、方船!」
「われわれの船」そう叫んで、われ先に、白堊(はくあ)の建物の方へ駈けだした。
「おお、日本の少年。君も、あの方船に乗って難を避けたがいい」老博士は僕を促した。
「博士は?」
「わしは、この人造島と、運命を倶(とも)にするとしようか」
「いけません、博士。僕と一緒に、あなたも、あの方船へ帰らなければなりません」
 僕は、老博士の手を執(と)って、ぐいぐい引張った。
「なるほど、君と一蓮托生(いちれんたくしょう)の約束だったのう。……では、敵も味方も、あの方船に乗って、運命の海を漂流するとしようか」老博士はやっと歩き出した。
 人造島は刻々に溶けてゆく。あと、一時間と経(た)たぬうちに、洋上の浮島は、跡形もなく消え失せるだろう。人々は先を争うて、白堊の建物へのがれたが、果して方船は人々を収容して、海洋に浮び、潮流に乗って、大陸へ無事に流れて往くであろうか。老博士は、確信をもって、方船に避けよと勧めたのか。運命の方船よ。おまえは、果して、海洋に浮んでくれるか。

   三 心臓と科学

 どろぼう船が、亡霊のような怪老人の出現によって、いつのまにか、幽霊船となり、僕と豹(ひょう)のような水夫が、海へ飛込んだまでは、読者諸君も、すでに御承知のことだが、その後、幽霊船虎丸(タイガーまる)はどうなったか。
 物語は、しばらく運命の方船(はこぶね)を追わず、幽霊船虎丸の甲板へ戻るとしよう。さて、幽霊船虎丸の甲板の、亡霊のような怪老人は、五ツの屍骸(しがい)の横(よこた)わる中甲板を、血の匂(にお)いを嗅(か)ぎ、よろよろ歩き廻りながら、不気味な薄笑いを洩(もら)した。
「そろそろ仕事をはじめるかな」怪老人は、そのまま船室へ姿を消したが、すぐに大きな鞄(かばん)を提げて現われた。五ツの屍骸(しがい)に、ガラスのような瞳(ひとみ)を投げながら、
「どいつを、料理(まかな)ってやろうかな」
 と、呟(つぶや)いた。いよいよ不気味なことを云う。
 鞄の中から、いろんな怪しい道具を取出した。それは外科手術用の鋸(のこぎり)や、メスや、消毒剤などだ。メスを握り、白衣(びゃくえ)の腕をまくり、大男の屍骸に居ざりよって、
「久しぶりで、肉を裂くのか。堪(たま)らないなア」
 と、またも呟いた。おお、怪老人は、メスを揮(ふる)って、大男の肉を裂き、肉を啖(くら)おうというのか。
 怪老人は、大男の屍骸の胸をひろげ、左胸部のあたりに、ぐさりメスを突立て、肉を抉(えぐ)り取ったが、それを、一口に啖うと見ていると、そうではなく、なおもメスを突立て、まもなく、大男の血の滴る心臓をつかみ出した。
「なかなか見事見事」それを片手に持って眺め廻したが、こんどは、陳(チャン)君の屍骸(しがい)に居ざりより同じように、胸をはだけ、左胸部にメスを突立てた。手を入れて、つかみ出したのは、銃弾に射貫(いぬ)かれて、めちゃめちゃに砕けた陳君の心臓だった。
「ほう、これは、台無しだ」
 二つの心臓を両手に持って、やや暫(しばら)く眺めていたが、銃弾に砕かれた陳君の心臓を、ひょいと海へ投げすてて、大男の心臓を、ていねいに消毒して、陳君の左胸部の穴へ押込んだ。
 怪老人は、大男の心臓を、陳君の左胸部へ移し植え、血管をつぎ合したり、収斂(しゅうれん)、止血剤を施したり、大童(おおわらわ)になって仕事をつづけたが、やがて、左胸部の創(きず)を縫合せてしまうと、ほっと一息入れ、
「もうこれでよし」と、自信ありげに、独(ひと)り呟(つぶや)いた。ややあって、陳君の屍骸の白蝋(はくろう)のような顔に、一抹(いちまつ)の血がのぼると、
「う……」と、呻(うめ)きだし、微(かす)かに身動きした。
「おお、やっと生きかえったかな。わしの大手術の成功じゃ」怪老人は、陳君の屍骸の手を執って、脈搏(みゃくはく)を数えはじめた。
 船長室のベッドに寝かされてから、やっと、陳君は、我にかえった。
「はてな、僕は生きていたのかしら」
 ふしぎで堪らない。豹のような水夫に背後からピストルを射(う)たれ、左胸部を貫通され、ばったり甲板に斃(たお)れたはずの自分が、船長室のベッドのうえで、意識を取返すなんか、有りうべからざることだ。
 夢ではないかとおもったが、夢ではない証拠に、左胸部の創(きず)が、烈(はげ)しく痛んでいる。咽喉(のど)が渇いて、相当に高熱だ。
「奇蹟(きせき)だ!」陳君は、おもわず呟くと、
「いや、奇蹟ではない。科学の勝利じゃ」
 と、応えるものがあった。顔をあげてみると、ベッドの傍(そば)で白衣(びゃくえ)白髪の怪老人が葉巻をくわえながら、薄笑(うすわらい)をうかべている。
「あッ!」
「驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ……」
「あなたは、何処(どこ)から来たのです?」
「わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう船の船医じゃ」
「山路君は?」
「わしに怖(おそ)れて、海へ飛込んで死んだよ」
「えッ! では、豹(ひょう)のような水夫は? 僕をピストルで射殺したあの水夫は……」
「あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、鱶(ふか)の餌食(えじき)になったことだろう」
「では、もうこの船には?」
「そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ」
「僕は、ほんとうに生きているのですか」
「ハ……。疑うのも無理はない。心臓を射貫かれ、死んだはずのおまえが、そこに生きているのだからなア……」
「誰が、僕を生(い)かしてくれたのです」
「生かしてもらって、不服かな」
「いいえ、感謝します」
「生かしてあげたのはわしだが、わしに感謝するより、科学の偉力そのものに感謝したがいい」
「あなたは、僕の胸を手術してくれたのですか」
「そうじゃ。おまえの、砕かれた心臓を、海へすて、あの大男の安南人(あんなんじん)の心臓を、移植してやったのさ。おまえの心臓は、あの大男から貰(もら)ったのじゃ」
「えッ! それじゃ、僕のこの心臓は、安南人(あんなんじん)の心臓なのですか」
「不満かな……。いや、不満とは云わさんぞ。犬の心臓と取替えたのではないからのう。ハ……」
「あなたは、死んだ人間を、勝手に生かすことが出来るのですね」
「そうじゃ。死んだ人間を生かすことが出来るが、生きた人間を殺しはせん。わしは、本国ドイツにいたころから、心臓移植の実験を、しばしば動物によって試みたものだが、人間を試みたのが、こんどが初めだったのさ」
「心臓移植は、あなたが初めて試みられたのですか」
「まず、そうじゃ。しかし、一九三三年に、ポロニーという学者が、一女性の腎臓を摘出して、新しい屍体(したい)の腎臓を移植して、毒死の危急を救ったことがある。いや、その翌年には、フイラトフという学者が、新しい屍体の眼球を摘出して、十一年間も失明していたある女に移植して成功したという事実もあるのじゃから、わしの心臓移植も、けっして珍しい手術ではあるまい」
「でも、奇蹟(きせき)です。そして、神の業です」
「おだてるなよ、わしは、奇蹟を信じない科学者だからのう。ハ……」

     亡霊か悪魔か

 怪老人は、妙技を揮(ふる)って屍体を生きかえらせ、船中には、生きた人間が二人になったが、どろぼう船虎丸(タイガーまる)の船内には、依然として、不気味な空気が漂うている。中甲板には、なおも、四つの屍体が横(よこた)えられたままだ。なぜ、怪老人は、四つの屍体を、海へすてないのか。五日を過ぎ、十日と経(た)っても、屍体の処分をしない。
 で、鬼気が身に迫るようだ。胸の創(きず)が癒(い)えて、甲板を散歩することがゆるされた陳(チャン)君は、中甲板で、四つの屍体を発見して、ぞっとした。
「どうして、屍体をすてないのですか」
 老人は、にやり笑って、
「いや。まだすてるには惜しいよ」
「また、実験に使うためですか」
「そうかも知れん。ことによったら、おまえの肉体も、必要になるか知れんよ」
「えッ!」
「驚いてはいけない。わしは、大男の心臓を、おまえに移植したのは、おまえをこの世に還(かえ)したいためではなかった。わしの学説の実験に使うためだ。だから、必要になれば、いつでも、おまえの肉体を貰(もら)うまでさ」
「あなたは、生きた人間を殺さぬと、仰(おっ)しゃったではありませんか」
「そうじゃ、わしは、生きた人間を殺さぬ。そんな殺生(せっしょう)はせぬ」
「でも、僕をまた、殺すつもりでしょう」
「いや、誤解してはいけない。わしは、死んだおまえを、元通りに死なしてやるまでさ。けっして、死んだ人間を生かしたままにはせぬよ」
「…………」陳君は、怪老人の不気味な一言に、ぞッと身顫(みぶる)いして後退(あとじさ)りした。老人は、自ら亡霊ではないと云ったが、血の通った人間とは信じられない。人間の心臓を勝手に取替えたり、屍骸(しがい)に息を吹き込んで、また元通り屍骸にしてしまうなぞ、亡霊でなければ、悪魔の仕業だ。
「油断がならぬぞ」陳(チャン)君は警戒しはじめた。虎丸(タイガーまる)は、心臓を失い、両足を失って相変らず、幽霊のように、名も知らぬ海洋をひょうひょうと漂流している。
「戦おうか」だが、仮にも、怪老人は、自分にとっては生命(いのち)の恩人だ。他人の心臓を取って、移し植え、血の通う人間にしてくれた恩人だ。たとえ、亡霊でも、悪魔でも、ふたたび自分に魔の手を伸し、心臓を抉(えぐ)り取ろうとするまでは、こちらから手出しはできないとおもった。
 真夜中ごろ、人の気配を感じてふと眼が醒(さ)めた。
「誰だ!」低く、しかも力の罩(こも)った声で叫んで、半身を起し、四辺(あたり)をみると、白衣の怪老人が片手にメスを握り、そっと、陳君の眠っているベッドに近づいて来たのだ。
「何をするのです」怪老人は、不気味に笑って、
「わしはまた、人間の肉を裂きたくなったのさ」
「えッ! では、僕の心臓を、また抉り取ろうというのですか」
「いや、心臓が欲しいのではない。その二つの眼じゃ」
「えッ!」怪老人は、一歩一歩近づいてきて、
「おまえの、美しい、若々しい眼と、このわしの老(おい)ぼれた、ガラスのような眼と、取替えて見ようというまでさ。フイラトフ博士は、新しい屍体(したい)の眼球を取り出して、十一年間も失明していた女の眼に移し植えて成功した。生きた、おまえの眼球を、わしに移し植えたら、わしは、急に若返るだろう」
「飛(と)んでもない。そんな、ガラスのような眼は、真ッ平です」陳君は、ベッドを辷(すべ)り落ちて、逃げ仕度をはじめた。老人は、じわじわと近寄って来て、
「いや、遠慮せずともよい。中国民族の眼と、ドイツ民族の眼と入替えてみるのじゃ。おまえは、この、碧(あお)い眼が欲しくはないか」

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