華々しき瞬間
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著者名:久坂葉子 

が、又煙草に火をつけて落ちついた。ドアがあいた。蓬莱建介がはいって来た。
「まあ、先達てはどうも御馳走様。今日はおひとり?」
 蓬莱建介は少し渋い顔をした。妻和子の手前。
「偶然ね。私もひとりよ」
 南原杉子は、にやにや笑う。
「ちょっとのぞいてみたんだ。おい水くれ」
 彼は女の子に水を注文した。蓬莱和子は、笑っている。彼は、二人の女性が何かたくらんでいるのではなかろうかと思った。蓬莱和子の客は帰ってゆく。
「ねえ、奥様と三人でのみにゆきませんか」
 南原杉子の言葉が終りきらぬうちに、
「私、今日、約束があるのよ、お杉、彼に附合ってやって下さいな」
 蓬莱和子は、今日はおひとり? と建介に問うた南原杉子の言葉に、内心こだわっていた。

 電車通りを横ぎったところで自動車をひろった蓬莱建介と南原杉子。
「おんなって実際わからんね」
 彼女は、声高に笑った。
「だって、待合せのこと奥様におっしゃらなかったでしょう」
「何故わかる」
「あなたの奥様は、御存じのことすべておっしゃる性格の方ですもの、私に待合せのこと、おっしゃらなかったわ」
「じゃあ、偶然の出会いになってるわけだね」
「そうよ」
 南原杉子の右手が、ふと蓬莱建介の膝にふれた。彼女はそれをわざと意識的な行為にするため、強く又彼の膝に手の重みをかけた。
「どこへ連れてって下さるわけ」
「僕のね、かわいい女をみてほしいんだ」
「それは興味」
 自動車は繁華街の手前でとまった。二人は横丁のバーへはいった。
「ひろちゃん、居るかい」
 中からばたばたと草履をならして出てきたのほ、色白のあごの線の美しい娘。小紋の御召しが似合っている。
「まあ、けんさん、ひどいおみかぎり」
 隅のソファへ彼はどっかりこしかけた。南原杉子もその隣にすわる。
「この女史、ジャズシンガーだよ」
 南原杉子は、マッチの火をちかづけてくれるその娘ににっこり笑った。
「おビールだっか」
 娘がスタンドの方へゆく。御客は一組。スタンドの中で、マダムは愛想わらいをふりまいている。
「ひろちゃん、どうだ」
「いいわね。大阪に珍しいわ、だらだらぐにゃにゃした女性ばかりですものね」
「いいだろう」
「もう少し観察してから、アダナつけるわ」
 ひろちゃんを相手に、二人はのんだり喋ったりした。大した話ではない。けれど、二人の親密度をました。
「あなたはスポットガールの何に魅かれるわけなの?」
 腕をくんで、少しさびた通りを歩いている時、南原杉子は蓬莱建介に問うた。スポットガールとは、彼女が先刻、ひろちゃんにささげた愛称である。たった一つの点。決して線がそれにつながってないという意味。蓬莱建介は、何のことだかわからないが、彼女のつけたアダナの音(オン)がよいと云った。
「魅力ね、魅力の根源はね」
「つまり、スポットだからでしょう。彼女は誰からも触れられてない」
「成程ね、僕も彼女にふれがたいんだ。いい女さ」
 突然、南原杉子はたちどまった。
「ねえ、あなたが好きになったわ、かまわないこと、私、好きになったら、もうれつ好きなのよ」
 南原杉子は、自分が心にもないことを口にしていることに、一種のよろこびを感じた。
「君は、スポットじゃないね」
「勿論よ。そしてあなたのスポッツでもないわ」

 ――如何して私から誘惑などしたのかしら。金をうるための娼婦。肉体的な享楽だけの芦屋婦人、彼女等は割切っているのに。けれど私は、金のためでも、肉慾のためでも、勿論、恋でもない。別の意味……。たしかに意味はある筈。だが、その意味は何の心の動きだかわかっちゃいないわ。蓬莱建介は、私を愛しちゃいない。単に肉慾の対象にしているのだわ――
 ――阿難がみじめだわ。仁科六郎を愛している阿難がみじめだわ――
 ――衝動的なものだろうか、いいえ、下宿を出る時、今夜は用事で帰れませんと云ったんだわ――
 ――阿難があんなにとめたのに、南原杉子はひどいわ――
 ――いいえ、阿難が南原杉子をこんな結果にさせたのよ。仁科六郎を愛する故に、かえって、蓬莱建介とのつながりを強いたのよ。何故……。いや蓬莱和子。彼女に対しての働きはないのかしら。それが最も大きいんだわ。彼女が、私に示す、いつわれる真実のマスクをはがしてみたいのよ。彼女の嫉妬と憎悪を露骨にうけたいのよ――
「ねえ、あなた、奥様におっしゃるおつもりなの」
「云ったらいけないのかね」
「どちらでもいいわ」
 二人は笑った。蓬莱建介は笑った後、背筋に不愉快な戦慄を感じた。不気味な女だ。と彼は思った。
「私から、云ったらどうかしら」
「六ちゃんに云いつけられるよ」
「奥様、何ておっしゃる? お杉と主人とが浮気しましたって、彼に云うわけ?」
「一体、君は、六ちゃんとどうなんだ」
「どうってきくのは愚問よ」
 愚問だと云うのは返答ではない。全く、あいまいな言葉であるが、しかし、愚問よと云われると、二つの意味を一つに確証してしまう。潜在意識のはたらきでである。南原杉子は、度々愚問よという言葉を口にすることがあった。
「じゃ、君は僕を好きだと云ったのは嘘?」
「好きだから本当よ」
「同時に二人を好きなのかい」
「三人よ。あなたの奥様もよ」
「でも、誰かを裏切ったことになるね。つまり、六ちゃんか、うちの妻君か、僕か。背信の行為じゃないか」
「背信、背信って何故?」
「君は少しおかしいよ。じゃあね、君が若し、六ちゃんともうれつに愛し合っていてさ。六ちゃんが他の誰かと、そうだ、僕の妻君でもいいさ、関係したとすれば、背信の行為じゃないか、嫉くだろ?」
「あら、背信じゃないし、私嫉かないわ。その場合を仮定したらよ。嫉くのは自分達の愛情の接点がぐらつくからでしょう。そういった行動。つまり第三者との交渉などは、たしかな愛情の裏付けにならないわ」
「じゃあ、君は三人、つまり、僕と、六ちゃんと僕の妻君のうち、一人以外は、愛情がないわけになるじゃないか」
「あなたは、私のたとえを私の現実だと思ってしまったのね。私の現在の場合、三人の誰とも愛情の接点をみとめていないのよ。私が好きでも相手は私を愛しちゃいないものね。あなたはおかしな人ね、スポットを好きなこと、それは、奥様に対して背信だとはおもってらっしゃらないし、私とこうなったことも別に心に矛盾がないのでしょう。それは、奥様との愛の接点がたしかにあるからなのか、あるいは、私のように、誰からの愛情もみとめていないのか、どちらかよ。百パーセント前者でしょう」
「わからないね、君の云うこと」
「私は、あなたがわからないことが、何か知っててよ。私が三人の人に愛情をもつということでしょう? だって何も一人の人以外に、愛情を抱いてはいけないことはない筈よ。それからあなたの心はちゃんと見抜けてよ。あなたは、奥様以外の女性が複数だとしても、単に肉体的な快楽の対象にしているし、スポットはまだ手が届かないだけ、いずれそうなるに違いないわ、そして、すぐにあきるのでしょう、わかっててよ」
「どうだっていいさ、理窟のこね合いはよしにしよう」
 蓬莱建介は黙るより他はない。
「人間って、割切れないものを割切ろうとする。へんね」
 南原杉子も、これ以上、理窟も云いたくなかった。彼女は、阿難がしきりに身もだえしはじめたことに、はっとしたのだ。
 ――阿難、私は、未来によこたわっている大きな事件をたのしみにしているのよ。そこへ到達するまでのことは、すべて手段として自分でみとめているだけよ――
「ねえ、あなたを好きなのは、あなたに迷惑かしら」
「別にね、僕だって好きなんだからね」
「だったらいいわ、いいじゃないの」
「何が」
「いえね、じやあ、度々会ってくださる?」
「こっちがのぞむところだね」
「じゃあ余計いいわ」
「だが、君困るだろ、六ちゃんとも会わなきゃなんない」
「あなただって、スポットやこの間の踊り子や、あら、又同じことのくりかえし、とにかくお互いの邪魔にならなきゃいいでしょう」

 二人は、会社の電話を教え合ってわかれた。朝、十時である。
 別れてから、蓬莱建介は実に妙な気がした。南原杉子。一体彼女は何だろう。わからないものには一種の魅力がある。そして、わかる迄は不安でもある。とにかく、一夜の享楽は享楽だったのだ。彼は会社へむかった。
 南原杉子は、洋服はそのまま、ただ髪型だけ、いつものように結いあげで会社へ。
 夕刻、仕事から解放された時、彼女はいそぎ足で放送会社へむかった。仁科六郎に会いたいのだ。彼への愛情を確証するためである。受付で彼の名をたずねた。二日お休み。昨日と今日。
 彼女は、ダンス場へおもむいた。彼の病気――多分病欠にちがいない――重いような気がする。ダンスを教えながら、何かひどくいらだたしい。早々にひきあげて下宿へ。
 南原杉子は二階へあがり、たった自分一人の世界になったと思った途端、つみあげていたふとんに体を投げて急に泣きだした。
 ――阿難、ごめんなさい。阿難、ゆるして下さいね。でも、ああなったことは阿難がさせたのよ。阿難の熱愛している仁科六郎の存在がさせたのよ――
 涙を流したのは、南原杉子であろうか。否、阿難が涙を流したのだ。
 ――阿難がかわいそうよ。どうして、蓬莱建介とああなったの。阿難はせめるわ、かなしいわ。阿難は仁科六郎だけで生きているのよ。阿難が宿っている南原杉子の肉体。それは勿論かりそめのものなんだわ。だけど、阿難が一たん宿ったかぎりは、仁科六郎以外の男にふれさせたくないわ――
 阿難は、南原杉子の肉体をゆすぶった。はげしく。南原杉子は阿難に抵抗しようとする。
 ――阿難、もうしばらく私を解放しておいて、阿難の純潔をけがしやしない。私は蓬莱建介を愛してやいない――
 ――ゆるさないわ。ゆるすことは出来ないわ――
 彼女は泣きつづけた。

 蓬莱建介は、わけのわからないものを背負ったなり、蓬莱和子の前に現われた。いつもの如く、うすぎたない空気のよどんだ家庭とも云えない場所。
「昨日はおたのしみだった? どう、思いがかないました? 御とまりのところをみれば、私が背広を買うことになったかな」
 彼女は、昨夜一晩寐ていなかった。
「いや、未完遂、昨夜は、友達に会ったのさ、軍隊の時のね」
「それは、御気の毒様」
 蓬莱建介は、妻をみた瞬間、浮気をした話を云ってはならないものと心に決めていた。彼はひどくむっつりと、おそい夕飯をたべた。蓬莱和子は非常に朗かであった。夫の言葉を信じたからなのだ。
「賭の期限をきめないこと、一カ月にしましょう」
 蓬莱建介は黙っていた。その夜、二階の彼の部屋に、蓬莱和子は姿をみせた。ひどく、やさしく。

     九

「私、子供が出来たらしいですわ」
 仁科たか子は、夫六郎の枕許にすわっていた。欠勤四日目である。流行性感冒にかかって仁科六郎はひどく高熱を出して苦しんだ。たか子は献身的に看護した。熱も降り坂。だが、まだ起き上ることは出来ない。うつらうつらゆめをみていた彼は、彼女の声にはっとした。彼は、阿難のことしか意識の中になかったのだ。
「それはよかったね。身体を大事にして」
 仁科六郎は、しばらくしてぽっつり云った。彼は子供をほしがっていた。けれど、最近は子供のことに関心を持たなくなっていたのだ。
「あなたこそ早く元気になってほしいわ」
 流行性感冒にかかったということは、平常から体が弱っていたのだと、たか子は解釈していた。彼女は夫を疑わなかった。夫婦関係の間隔がいつのまにかひろくなっていたのだ。
「今、何時だろう」
「二時すぎよ」
 仁科六郎は又目を閉じた。
「あなた、うわごと云ってらしたわよ」
「なんて」
「よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました」
「そうか」
 仁科六郎の瞳の裏に阿難が浮んでいる。夢で、ドビュッシーをきいていたのだ――阿難がピアノを弾いている。その背後に自分がたっている。突然、彼女が弾く手をやすめた。ところがピアノは鳴りつづけている。ふしぎでしょう、と彼女が笑う。そして、ピアノの傍からどこかへ逃げ出そうとする。自分が追いかけようとする。突然、彼女が両手で顔を掩い泣きはじめた。近寄ると、私を苦しめないでと云う。――
 仁科六郎は、阿難が泣いている姿を、現実にみたことがないのに、夢でみたことに何か不安を感じた。
「ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら」
「どっちがいい」
「女の子がほしいの」
「何故」
「私が、女にうまれてよかったと思うから」
 仁科六郎は、はっきり目をひらいて、たか子の顔をみた。
「ね、幸せそうでしょう」
 仁科六郎は、その言葉を率直にうけとることが出来なかった。
「気の毒だと思っているよ。仕事が仕事で、帰りはおそいし、酒はのむし、月給はすくないしね」
 彼は、そしてたか子の顔から視線をはずした。
「そんなこと。私は大事よ、あなたが」
 仁科六郎は、甘える気持でたか子の手をつねった。
「腹がへったから、何か食べさせて」
 たか子が台所へたった後、仁科六郎は阿難のことを又考えはじめていた。一分もしたろうか、彼は、両手をくみあわせて、自分の内部に発見されたことに驚いた。
 ――ゆるしてくれ、と僕は阿難に云っているのだ。たか子へ愛情がないとは云え、夫婦生活をおくっているのだ。それを僕は阿難にすまないと思っている。たか子に、ゆるしてくれとは思っていない――

 南原杉子は受話器を降した。仁科六郎はまだ休んでいる。会社の机の前の椅子にこしかけて、煙草を吸いながら、彼女の表面に現れた阿難を煙でかくそうとした。その時、別の卓上の電話が鳴った
「南原さん、御電話です」
 彼女は、紙片と鉛筆をもって、その電話にちかづく。
「もしもし、南原でございます」
「もしもし、蓬莱建介でございます」
「なんだ、あなたなの」
「どうして電話くれない?」
「あなただってくれない。待っていたのよ」
「きょう、きみの生活に、少し割こむ余地があるかい」
「ある。ガラアキ」
「六時」
「カレワラで」
「駄目、梅田のね、そら新しいビルの地下で」
「わかった」
 南原杉子はガチャリと受話器をかけた。阿難が、いたましいさけび声をあげた。

「不思議だね。僕が今迄抱いていた女性観がくつがえされそうな気がして来た」
 蓬莱建介は、南原杉子を、たった二時間だけの相手に出来なくなって来たようだ。今迄のように、二時間後に、これでしまいと決め、次はさらりとした気持で新しい女に自分をむかわせる。そして、又偶然別れた女に出会えば、出会った時に新鮮になれる。ところが南原杉子の一夜の後、彼女を、他の女性のように、簡単に処理出来なくなった。
「あなたは、スポットガールを何故私に会わせたのでしょうね」
 しばらく笑っていた南原杉子が突然話題を転じた。
「深い意味はないがね」
「そう、それなら、スポットガールのこと私忘れてしまうわね。ちょっと煩雑すぎて来たから」
「何が」
 南原杉子は答えなかった。蓬莱建介は、蓬莱和子の夫であるだけでいいのだ、と彼女は思った。
「ところで、君と僕の間を永続させる希望があるかね」
「永続? だって、あなたは私を深く好きじゃないでしょう」
「君は、愛されてもいない人に肉体を提供したと思っているのかい?」
「そうよ。だけど、私、あなたが好きなんだから後悔しないわ。どれだけ永続出来るものか、わからないけれどもね」
「僕に愛されたいとは云わないのかい」
「云わないけど、思うわよ。云えない筈よ」
「愛してるかも知れんぞ、六ちゃんと決闘するかも知れんぞ」
「おやんなさい」
 南原杉子は、故意につめたく云いはなった。冗談に対して、冗談でこたえかえすのは、つまらないと思ったからだ。その上、南原杉子は、仁科六郎の名前が、この空気の中に出たことを少し悲しんだのだ。阿難の部分が、既に大きくひろがっている。蓬莱建介は、南原杉子の表情をみておどろいた。
 ――こいつは本当なのかもしれない。うっかりすると、僕がワイフに強いている、蓬莱夫人の地位を、逆にワイフから蓬莱氏の地位をと、強いられる結果になりはせぬか。南原杉子は、自分の行動に於いて、まったくエゴイズムなんだし――
「すると、勝負は僕の負だね」
 蓬莱建介は、南原杉子との勝負を意味したわけだ。ところが、南原杉子は、仁科六郎と蓬莱建介との勝負にとった。だから、僕の負だと云った言葉を面白がって笑った。蓬莱建介は不気味な笑いだと思った。
 その日は泊らなかった。

 南原杉子は、下宿の二階で煙草をやたらに吸った。
 ――抵抗を感じたのだわ、阿難が、私に抵抗を感じさせたのだわ、そして、エクスタセの中に、はっきりと仁科六郎が存在していたわ。彼はひどく真顔だった。それは、私にとってよろこばしい発見なんだわ――
 ――何をいうの、阿難をいじめてるみたいよ。阿難ははやく仁科六郎に会いたいわ。会った時、阿難は、蓬莱建介と南原杉子のことを告白するわ――
 ――いけない。それはいけない。だけど仁科六郎に会う迄、蓬莱建介には会わないわね――
 ――南原杉子。あなたは無智な女だわ――
 ――阿難、私は無智な女かも知れないわね――

 蓬莱建介の帰りを、待つという気持で待つようになった蓬莱和子は、ピアノをたたいて大声でうたをうたっていた。南原杉子も仁科六郎も、カレワラに顔を出さない。いつでも、自分が真中につったっていないと、気が済まない彼女は、その二人の沈黙と併せて、夫の行動が案じられたのだ。彼女は、自分でおかしい程うろたえはじめた。三人からボイコットされている。彼女の心の中には、すでに、南原杉子へのにくしみが存在していた。
 蓬莱建介は終電車で帰って来た。黙っている。蓬莱和子の方からは、南原杉子のことを口に出しかねた。愛想よく、夫の着替えを手伝いながら、彼女の内部は、ざわめきがはげしい。蓬莱和子は、貞淑な婦人の持つ感情を、はじめて抱いたのである。

     十

 仁科六郎が出勤したのは、一週間ぶりの水曜日であった。彼は、喫茶店から阿難に電話をし、阿難は、しかけのスクリプトを持ったまま、すぐにその喫茶店へおもむいた。阿難は、南原杉子のことを仁科六郎に云うつもりであった。けれど、彼の顔をみた途端、口ごもってしまった。お互に話合ったことは、会ったことのよろこびにすぎなかった。そして、その日の午後七時に、二人は再会した。無言であった。抱擁は、すべて気づまりなことを葬ってしまった。阿難は、南原杉子のことも、つづいて蓬莱建介のことも、すっかり忘却していた。だから、仁科六郎の胸にすがりながら,自己荷責もなかった。阿難は酔っていた。仁科六郎も、妻のある自分を忘れていた。阿難に済まないと思ったのは、過去の真実であるにすぎなかった。
 阿難は、みちがえるようにいきいきとしはじめた。仁科六郎も又、健康を取り戻してから、そして、阿難との愛の交流をはっきり自覚してから歓喜の日常を送りはじめた。彼は、もはや妻たか子との夫婦生活にも苦悩がなくなっていた。阿難を常に思い浮べながら、たか子と相対することに抵抗を感じなくなっていた。南原杉子は、蓬莱建介とも時々会った。そして、享楽の夜を共にしながら、その時は、阿難を抹殺させることが出来た。つまり、南原杉子と、蓬莱建介との関係によって、阿難は仁科六郎との恋愛を絶対的なものと信じることが出来たからなのだ。
 蓬莱建介は、南原杉子への愛を認めた。然し、認めながら彼は、蓬莱氏を念頭においていた。そして時折、女給やダンサーの類とちがって、話をして面白い取得、妻和子にない新鮮さ、若さを、南原杉子に感じて、いい女に出会ったものだと心でつぶやいた。彼の愛とは、肉慾の中に存在するものである。そして、南原杉子を強いて解剖する必要はないと思っていた。不気味な女だけれど魅かれる。いつかはあきるだろう。唯、それだけであった。
 蓬莱和子は、三人が人間らしい喜びに浸っている日常を、唯一人、いらだたしくおくっていた。夫、お杉、六ちゃん。すべて、彼女から遠ざかっていたからである。

 ある日、蓬莱和子は、放送会社へ出むいた。仁科六郎を呼び出したのだ。
「どうして来なくなったの」
「病気で寐てたのさ。それにとてもいそがしいんだ」
「お杉も来ないわよ。お杉はどうして来ないの」
「僕にきいたってわかることじゃない」
「お杉と会っているのでしょう」
「うん」
 彼女は、間の抜けた質問をしたものだと思った。そして、はっきりと邪魔者にされた自分を感じて、おそろしく激怒しはじめた。
「私ね、何にもあなたとお杉のことを、とやかく云うつもりはないんですよ、私は、お杉が好きなんですからね。お杉に来てほしいのですよ。お杉に会いたいのですよ」
「だったら、彼女に云いたまえ」
「ええ、云いますとも」
 蓬莱和子は、ハンドバッグをあけ、伝票と共に、カウンターにお札をつきつけると、仁科六郎に挨拶もしないで喫茶店を出た。彼女は、自分が興奮している原因をかんがえてみるひまもなかった。そして、ただちに、南原杉子のオフィスへむかった。だが、オフィスの前まで行った彼女は、南原杉子を訪ねることが、非常に屈辱的な行為であると感じた時、さっさとカレワラへ戻った。
 ――お杉に侮辱される位なら、夫に屈従する方がましだ――
 彼女は、今夜、建介に南原杉子のことを、たずねてみようと決心した。
 ところが、カレワラのドアをあけた時、中から晴れやかな声がした。
「ごぶさた、ごめんなさい」
 南原杉子である。
「あらまあ、御久しぶり、どうなさってらしたの」
 言葉は、相変らずの真実性をおびているが、その表情には、もはやかくしきれない敵意識があった。
「何だかばたばたしちゃってて。二週間以上になるわね。ごめんなさい」
「心配したわよ」
 蓬莱和子は、南原杉子に自分のうろたえをみぬかれないかと案じた。そして、強いて快活に、
「うちの旦那様がね。あなたにとってもまいっちゃったらしいの」
「あら、御冗談、御主人にいつだったか、散々あなたのこと、のろけられちゃったわ」
 南原杉子、蓬莱建介が、妻にかくしていることを知っていた。蓬莱和子は、年下のものから、からかわれている気がして腹立しかった。
「六ちゃんのところへ、さっき寄ったのよ。六ちゃんは、とてもあなたを愛してるのね。すぐわかったわ。あなたはうちの旦那様からももてて、すごいじゃないの」
 南原杉子は、蓬莱和子が、しきりに自分を観察していることを愉快に思った。
「ねえ、あなたは、うちの旦那様どう思って?」
「いい方ですわ、いい御主人様ですわ、いい御夫婦ですわ」
「そうかしら、私、六ちゃんの夫婦は、とてもいい御夫婦だと思ってよ。あの人愛妻家よ」
 南原杉子はにこやかである。
「あなたは嫉かないの」
 南原杉子は、答えないで笑っていた。南原杉子は、仁科六郎の妻を知らない。知ろうともしない。彼女は、彼の妻のことを問題にしていなかった。阿難は、彼の妻に会えば、嫉妬するだろうから、知らない方が苦しみが少ないのだと思っていた。
「あなたはでも素晴しい方ね。あなたに、ひきつけられるのは、あなたの感覚ね」
 その時、南原杉子はふといたずらめいたことを考えた。
「一度、あなた御夫婦とのみたいわ」
 それには、蓬莱和子大賛成である。日はまだ決めることが出来ないが、近いうちにと約束した。蓬莱和子は夫の浮気が未完遂であることを感じた。そして本当に快活になった。

 その日の夜、仁科六郎と阿難は、ウィスキーを飲みながら、いつもになくおしゃべりをはじめた。
「阿難は、ピアノを弾く時、直覚が大事だと思うのよ。直覚は直感とちがうの、ある程度理解の上でなければ感じることの出来ないものよ。阿難は、今迄、随分自分の感覚にたよりすぎていたのよ。感覚には自信もてるのよ。でも感覚だけで物事を判断することは危険だと知ったわ。阿灘が若し、昔のままで、感覚的に物事を処理してゆくとしたら、あなたとの恋愛は永続出来ないでしょう。阿難はあなたを直覚出来たから、幸福をつかめたのよ。時折、そりゃさみしいと思うわ。でも阿難は、あなたを知って、あなたと共に、こうして居られることが。阿難は言葉で云えないわ、阿難は作曲してみるわね」
「阿難、有難う、僕は嬉しい」
 仁科六郎は、阿難の言葉がまだ終らないうちに、力強く云った。
「阿難、僕こそ幸せだ。僕達のことは、おそらく僕達しかわからたい世界かもしれない。僕達の間だけに存在する世界なんだ。お互に、この世界を大事にしようね」
 阿難は大きくうなずいた。彼女は一つの問題を仁科六郎に呈しようとした。ところが、それが南原杉子の働きのように感じたので、云わずに終えた。つまり、その世界が、肉体をはなれて存在するのか、という疑問である。今、お互に、肉体的な交渉を断った場合、その世界はぐらつかないものか? それは疑問である。

 下宿の二階で、南原杉子は夜を徹した。
 ――阿難の愛は、南原杉子の肉体を介さないでも存在します。でも、そんなこと、申出るのは嫌です。あまりにも阿難はみじめよ――
 ――仁科六郎の返答をききたいのだから――
 ――よして下さい。その返答がどちらであっても阿難はあわれです――
 阿難は懇願する。
 ――蓬莱建介との関係を断って下さい。彼との関係で得たことは、大きいでした。つまり、阿難と、仁科六郎の世界は絶対のものだったのです。確証を得たのです。それがわかったのだから、もう蓬莱建介の必要はないわけでしょう――
 ――阿難、だけど、蓬莱建介に興味をもったのは、蓬莱和子の存在があったからなのよ。彼女の真実、彼女の妖気。彼女の自信の根源、すべてまだわかっちゃいないのよ。勿論、そんなことよりも、[#「よりも、」は底本では「より、も」]阿難と仁科六郎との愛情の確証を得たことの方が大きな発見だったことは間違いないけれど――
 ――阿難がかわいそうです。阿難が抹殺されてなければならない時間があるということは、しかも、仕事の時でない。享楽の時なのよ――
 南原杉子は、阿難の申出を拒絶することが出来なくなった。南原杉子は、がく然とした。阿難が、彼女のすべてになってしまったのである。そして、阿難のすべては仁科六郎なのだ。蓬莱夫妻は存在しないのだ。

 その夜、同じ夜、蓬莱建介夫妻は語り合っていた。
「お杉とあなたは何でもないのね。さあ、真珠を買って頂かなくちゃ。だけどもう一週間あるわ、一カ月の期限にね、そうだ、お杉が一度一しょにのもうと云ってたのよ。三人で。来週の土曜日、大宴会しましょう。カレワラをかしきってね、七時頃から、そうそ、六ちゃん夫婦も呼びましょうよ」
 蓬莱和子ははしゃいでいた。彼女は、やはり蓬莱建介の妻であったのだ。蓬莱建介は、妻を欺いている形になってしまった。
 ――今更、浮気しましたとは云えない。真珠を買ってやらなければ。だが安いことだ。彼女はもう僕だけのものになりそうだ。案外いい奥さん。さて、しかし、土曜日は、おそろしいことになりはしないかな――
「ねえ、あなた、背広買ったげますわね、浮気出来なくて御気の毒でしたもの」
 実際、蓬莱和子は、その夜部屋の中を片附け、御馳走をつくって夫の帰りを待ったのである。安心して、信頼して、そして彼女は、夫を愛していることをはっきり気付き、そのことを喜んだのである。
「ねえ、私、カレワラよすことにしたわ。そしてちょっと骨休みしてから、うちで、御弟子さんをふやして御稽古するわ。丁度、今うり時らしいから」
 蓬莱建介は苦笑した。彼は、妻和子を今迄にないかわいいものと思った。だが、彼は別段浮気をよそうとも思わなかった。
「おい、来いよ」
 彼は、二階へあがる時、蓬莱和子に声をかけた。
 ――ゆるしてね、あなた。私、今迄さんざ浮気をしたけれど、誰も愛したのでもないの、若くて美しい自分を知る喜びだけだったの。――
 蓬莱和子は、夫建介の背広をプレスしながら、心でつぶやいた。

     十一

 蓬莱建介は、来る土曜日の夜までに、南原杉子に、ぜひ会っておく必要があると思った。そして電話をした。南原杉子は不在であった。又、電話をした。又不在であった。電話をくれるように伝えて下さい。だが、電話はかからなかった。又、電話をした。彼はもう、二人の関係に終止符が打たれたことを感じた。
 三四日すぎた。蓬莱和子は、招待のことをわざわざ南原杉子の会社まで知せに行った。南原杉子は、愛想のいい蓬莱和子に対して、仕方なくほほえんだ。
「夫はね、あなたにふられてしょげこんでるのよ、私、あんまりかわいそうだもんで、これからちょっとサーヴィスしてあげるつもりなのよ。御店をうることにしたの。私、本格的に、声楽の勉強をしたいしね。でも、お店やめてもあなたと御つき合いしたいのよ。私の気持、うけいれて下さるわね。あなたに対して私、真実よ。それでね、土曜日に、あなたをおまねきするつもりなの」
 南原杉子は、例の調子の真実らしき表情や言葉に、反撥も疑問もいだかなかった。その上、彼女は、蓬莱和子から憎悪の言葉を浴びたいと思っていたのに、あてがはずれたことにも決して失望しなかった。
 ――蓬莱和子は、どっちみち心理に変化をきたしたのだわ。私の出現の結果、南原杉子と蓬莱建介の関係の結果にちがいないのだわ。もう、この一組の夫婦に、完全に関心をもたなくなったわ。いや、それよりも、阿難が全面的に、南原杉子を掩ってしまったからだわ――
 蓬莱和子は、仁科六郎も招待するものだと告げた。けれども仁科夫人を招待するとは云わないでいた。
「六ちゃんに、あなたから伝えて下さいませね、ぜひ、カレワラへ七時にね」
 蓬莱和子は、南原杉子に対して憎しみだけは依然として内部にもっていた。そして、土曜日に、南原杉子が、うろたえた姿を想像してみた。蓬莱和子は、南原杉子と仁科六郎の恋愛を認めていたからなのだ。そして、夫婦のつながりが、案外強靭でゆるがないものであることを、南原杉子にみせつけたかったのだ。彼女は、仁科夫婦をみて、嫉妬する南原杉子を考えていたのだ。

 仁科六郎と会った阿難は、土曜日の招待の話をした。
「他人の目のあるところで、あなたに接するのはとてもいやよ。でも、行きたくないけど行かなきゃならないわね。阿難は、仮面かぶらなければならないの、阿難は、阿難をその間葬ってしまうのがかなしいわ」
「僕だって行きたくない。だけど行かねばならないね、僕達の間が永続するように、ありのままの姿を、他人の前にさらけ出すことはさけなきゃならないよ。とにかく、行こう。阿難は、蓬莱氏を知らないだろう? いい人だ」
 瞬間、南原杉子が表面にあらわれた。
「一二度、カレワラで御目に掛ったわ」
 沈んだ声であった。阿難は何か云いたいのだ。告白。だが、南原杉子は懸命に押えた。

 蓬莱建介はいよいよ明日に土曜日がせまったことを知った。だが、もう心配はしなかった。南原杉子が何を云うことが出来るか。仁科六郎の前なんだから。だが、電話がかからないのは少し癪にさわる。まあいい、いずれは終りが来ることなんだ。

 土曜日が来た。仁科たか子は、郵便受から速達の手紙をうけとった。仁科六郎が出勤した後である。
「先日は突然御邪魔して失礼しました。さて、明土曜日の夜七時、ささやかな御招きを致し度く、せいぜいおいで下さいますように。急にとりきめましたことで、御都合もいろいろおありのことと存じますが、何とぞ御出まし下さいませ。御主人様には御電話で御招待いたします」
 カレワラの地図がはいっていた。たか子は不審に思った。この手紙をかいたのは、昨日の夕方。消印が六時になっている。それなら、夫六郎のところへ、夫人同伴でと招待の電話をすればすむことなのだ。彼女は、夫に電話をして問い合せようと思った。けれど、何か、夫の背後に、そして蓬莱和子の背後に、あやしいものがありそうな気がした。留守番を、近所の妹にたのんで、いきなり、カレワラへ行ってみようと決心した。彼女は、蓬莱和子が芦屋に住む金持の夫人で、声楽家であるという、それだけのことを知っていたにすぎない。だから、カレワラなんておかしな名前の喫茶店の存在もはじめて知ったわけなのだ。疑念が湧いた。しかし、彼女が招待に応じてゆけは、すぐに何もかも諒解出来るだろうと思った。午後から、いそいそと美粧院へ出かけてセットしてもらい単衣の御召を箪司から出し、襦袢の衿をかけなおした仁科たか子は、すっかり外出気分になった。
 カレワラは、本日終了の札を出した。蓬莱和子は、黒のシフォンヴェルヴェットのワンピースを着て、昨日、夫が買って来てくれた真珠の首飾りをしていた。彼女は、女の子に手伝わせてカナッペをつくり、その他、お酒や御馳走を注文した。奥の部屋からピアノを運び出し、喫茶店らしくなく、家具のおきかえもした。真紅なばらを壺いっぱいに活けた。これはその朝、南原杉子が花屋にとどけさせたものである。蓬莱和子は、今日の集りが、非常に面白いものであると考えた。そして自分が中心になれると思った。客はかならず集るものと信じていた。用意万端ととのえた彼女は、ピアノにむかって、ぽつぽつかきならしながら歌をうたい、飾りたてた部屋の中に恍惚としはじめた。彼女は、さっきちらりとみた鏡の中の自分を思い出した。
 ――シンプソン夫人のように、高尚だわ――

 南原杉子は、金茶色のタフタの洋服を下宿の二階できつけていた。髪型は、ひきつめで、後をまるく結いあげ、平常の型を、少し粋にさせた。そして、金茶色の大きな半円のマべ(真珠の一種)の耳輪と腕輪をはめた。鏡を斜めにして、彼女は自分の姿をうつした。しまった胴。フレヤーのスカートがゆるやかに動いて、地模様のこまかい縞がひかる。その上に、白の毛糸のすかしあみのケープをはおり、ゴールドの靴とハンドバッグを片手に二階を降りた。時間は、六時半をとっくにまわっていた。今から、自動車にのってゆけば四十分の遅刻であろう。彼女は広い通りへ出た。五分位待った。空車は彼女の傍へとまった。彼女は自動単にのってから、ハンドバッグをあけ、つけ忘れていた香水を耳もとにふった。香水だけは阿難の香水。阿難のにおいを。彼女は小さなびんを両手で抱きしめた。それは、すぐ消える淡いにおいであった。仁科六郎に会う前は、必ずその香水をつけた。別れる時は消えるものであった。香水のにおいがよく悲劇をもたらせてしまうことを彼女はフランスの小説で知っていたからである。
 ――阿難、今日は阿難、じっとしていてね。その代り、南原杉子の肉体は、もうほんとにすっかり阿難のものとなっているのよ。今日、無言のうちに蓬莱建介と別離の挨拶をするわね。彼の女類の中に加えられても私は侮辱されたと思わないわ。その方が気楽よ――
 ――阿難は今日本当にかなしくってよ。でも、じっとがまんをしているわね。仁科六郎のためによ――
 ――阿難、かわいそうに――
 彼女はぽろりと涙を落した。自動車は、繁華街にちかづいた。

     十二

 カレワラに、最初にあらわれた客は、仁科たか子であった。
「まあ、いらして下さったのね、ありがとう。嬉しいわ。さあおかけになって、あら、いい御召物ね。えんじ色、よく御似合いだわ」
 仁科たか子は狼狽した。
「主人はまだでしょうか」
「あら、もうすぐいらしてよ。さあさ」
 その時、蓬莱建介と仁科六郎が、連れだってはいって来た。男同志の友情とはよいものである。道で、仁科六郎に出会った蓬莱建介は、歩きながら今日の期待のことを話したのだ。
「女房の奴、君の妻君も招待したんだぜ」
 仁科六郎は一瞬たじろいた。
「まったく、いつまでたっても子供じみた女房だよ」
 仁科六郎は蓬莱建介に心の中で感謝した。彼は、無事に終るようにねがった。
 ――阿難がかわいそうだ。僕はたか子にやさしくしなければならないのだから――
「まあ、大いにのもう。女房の御馳走は有難いもんだ」
 蓬莱建介は、仁科六郎の気持をよく推察出来た。彼は、世間ずれしている。そして、臆病者である。事件をこのまない。だから、仁科六郎に親切したわけなのだ。

 仁科六郎は、にこやかに妻たか子をみた。彼は、阿難がまだ来ていないことにほっとした。
「いたずらするんですね。蓬莱女史は、一しょに招待すればいいものを」
 仁科六郎はたか子の横にこしかけた。蓬莱和子は、夫が喋ったことをすぐ感付いていた。
「びっくりさせようと思ってたくらんだのよ。ごめんなさい」
 蓬莱建介は、ばらの花の枝にしばりつけてあるネーム・カードをみながら大きな声で云った。
「僕をふった女性はまだ来ないかね」
「お杉、来る筈よ。わざとおくれて来るんでしょう」
 蓬莱和子は、ビールの栓をぬきながらこたえた。
「お杉ってどなたですの」
 仁科たか子は夫に小声でささやいた。
「あら、御存知なかったわね。南原杉子さんって、とてもきれいないい方よ。あなた、屹度好きになれるわ」
 たか子の質問を耳にはさんだ蓬莱和子は、愉快そうにこたえた。
「放送の仕事している人だ」
 仁科六郎は、たか子に云った。
 ――夫がまるで関心のない人なんだわ、そして、蓬莱和子にだって、夫は別にとりたてて好意をもってないわ。美人だけど、もう年輩の方だし、御夫婦は仲よさそうだもの――
 たか子は、夫六郎の方に笑顔をおくった。
 四人はビールの乾杯をした。
「ねえ、あなた、こんなおまねき本当にうれしいですわ」
「じゃあ、これから度々しましょうね、今度はうちの方へ御まねきするわ」
 蓬莱和子はふたたび口をはさんだ。
「南原女史、何してるんだ。シャンパンがぬけないじゃないか」
 蓬莱建介はわざと又大声で云った。然し、彼は、南原杉子が来ない方がいいように思っていた。
 ――彼女のことだから、二組の夫婦の前にあらわれても平気だろう。僕と最初の出会いからして芝居げたっぷりなんだから。でも、四人だけでも仲々厄介な関係になっているのだから、そこへ又、もっと厄介な関係の彼女があらわれたら。あんまりかんばしくないことだ――
 彼は、南原杉子とすっかり関係をたつべきだと考えていた。然し、浮気をよす心算ではない。ワイフの知っている女との関係など、物騒だと思ったのだ。
 気づまりな空気にならないように、さかんに喋るのが蓬莱和子であったが、本当は、自分の注目をひきたいような言葉ばかりであった。
「この真珠のいわくを申しましょうか」
 彼女は、仁科たか子にささやいた。
「たか子さん、うちの女房は大へんな女房ですよ。僕に浮気したら背広買ったげると云ってね、出来なかったから真珠を買わされたのですよ。相手は、もうじきあらわれるだろうところの南原女史。浮気は出来ない。真珠は買わされる。さんざんです」
 蓬莱建介が笑いながら云った。たか子は、目の前の夫婦が不思議だと思った。仁科六郎は不愉快でならなかった。だが、快活をよそおわねばならないと思った。
「たか子。僕が浮気したらどうする?」
「いやですわ、冗談おっしゃっちゃ」
「たか子さん、御心配御無用よ。六ちゃんは絶対大丈夫。私が太鼓判を押すわ」
 たか子は素直に笑った。蓬莱和子は悠然と頬笑んだ。彼女は、誰からも信頼され、誰からも頭をさげられたいのだ。
 ――御心配御無用よ。私はばらしやしませんよ――
 彼女は、仁科六郎の方をちらりとみた。そして、すこぶる優越的な気持になっていた。表で自動車のとまる音がした。瞬間、四人の間に、不気味な空気がわきあがった。
 ――阿難、すまない。がまんしてほしい――
 ――お杉はどんな表情をするかしら、今日という今日は、私に顔があがらないだろう――
 ――とうとうやって来た、南原杉子。どうにかうまくゆくだろう。しかし僕はびくびくなんだ――
 ――どんな方かしら、きれいな方らしいけど、夫が今まで私に黙っていた人。夫のまるで関心のない人にちがいないけど――
 ドアがあいた。
「待ってたよ。おそかったね。仁科君の奥さんも来てられるんだよ」
 蓬莱建介である。彼は誰よりもはやく、殆どドアがあいた時に、入口の方へちかよって行った。蓬莱和子の視線。のりだすように、こちらをみている着物の婦人。仁科六郎はうつむいている。南原杉子は、自動車を降りた途端、まるで阿難を葬っていたのだが、胸にはげしい鼓動を感じた。蓬莱建介は、奥の方へ背中をむけ、南原杉子を、ほんのしばらくかばってやっていた。彼の愛情である。
「さあ、はやく、はじめてるんだぜ」
 南原杉子は、蓬莱建介に、まず無言のうちに諒解したというまなぎしを与えて、正しい姿勢で奥へはいった。それまで、いつもの饒舌を忘れていた蓬莱和子は、たち上ると、
「お杉。何故、おそかったの、さあさ、六ちゃんの奥様よ」
 蓬莱和子は、夫の南原杉子に対する好意的な行為を、何か意味あるものととった。そして真珠の首飾りを無意識につかんだ。
「南原でございます」
 仁科たか子は、たち上ってしずかに会釈した。南原杉子は、仁科たか子をみなかった。そして傍の仁科六郎をもみなかった。
「南原女史、さあ」
 蓬莱建介は、シャンパンをいさましくぬいて、最初にカットグラスを彼女の手に渡した。彼女はそれを手にして、あいている椅子に腰かけた。それは、四人の視線をまっすぐにうける中央のソファであった。南原杉子の手は、かすかにふるえていた。蓬莱建介は、なみなみとシャンパンをつぎながら、注ぎ終えても、しばらくそのままの恰好で、南原杉子がおちつくのを待ってやった。
「おい、レコードをかけろよ」
 蓬莱和子は、南原杉子の衣裳をほめながら蓄音器に近づいた。
「ジャズがいいわね」
「『いつかどこかで』をかけろよ」
「あら、思い出があるの?」
 その時、南原杉子は、はっきりと南原杉子になっていた。
「あるのよ、御主人との思い出よ。私が、ホールでうたっていた時、御会いしたのよ」
 仁科六郎は驚いた表情で南原杉子をみた。
「私ね。パートナーと踊りに行って酔っぱらったから、舞台にあがっちゃったの」
「いつかどこかで」がなり出した。
「女史、踊ってくれませんか」.
「いやよ、奥様と踊るわ」
 南原杉子は、蓬莱建介の方へにっと笑ってみせた。
「お杉、踊ってくださるの、うれしいわ」
 南原杉子は、蓬莱和子をかかえた。そして、もう、彼女の肉体に何も感じなかった.
「たか子さん、おかしいね、あの二人、あなたも踊られませんか」
「私、ちっとも知らないのです」
 踊っている蓬莱和子はふと身体をかたくした。南原杉子と自分。彼女は、自信がくずれてゆくのを知った。
「御疲れ、よしましょう」
 南原杉子は、蓬莱和子をいたわるように椅子にすわらせた。
 五人は、御酒をのんだり、御馳走をたべたりするうちに、わだかまりをとかしはじめた。しかし、この際、わだかまりがとけるということは、非常に危険なのである。南原杉子は、さかんにのんだ。けれど、はっきり南原杉子を意識していた。仁科たか子は味わったことのない空気に酔いだした。そして、仁科六郎を世界一よい夫君だと信じた。蓬莱建介は、無事に終りそうなのでほっとしていた。彼は、南原杉子に、関係をつづけてくれと頼もうかと思った。それ程、彼女は美しかったのだ。蓬莱和子は、いらいらしはじめた。そして、しきりに、真珠の首飾りをいじった。
 ――本当に、浮気をしたなら、浮気をしましたなど云えないわ。夫と、お杉は何かあったのじゃないかしら。でも、彼女は、仁科六郎を愛している筈。いや、愛しているとみせかけて、夫と何かあるのをかくしているのかしら――
 蓬莱和子は、仁科六郎と、夫建介とを見比べた。蓬莱建介の方が立派である。彼女は、喜びと不安と、どっちつかずの気持であった。
「六ちゃん。いやに黙っているのね。奥様とおのろけになってもいいことよ」
 仁科たか子は、はずかしそうに、しかし嬉しそうにうつむいた。彼女は、善良な女性である。
「お前ときたら、のろけるのは人前だと考えているのかね」
 蓬莱建介は笑いながら云う。
「ねえ、あなた。でもお若い御夫婦をみてると羨しくなるわね」
「あらいやだ。ママさんは、御若いのだと、御自分で思ってらっしゃる筈よ」
 それは、鋭い南原杉子の言である。
「どうして、あなたよりずっと年寄りよ」
「年齢で若さは決められないわよ」
「じゃあ何」
「だって、人間の精神があるものね。五十でも六十でも若い人居てよ。精神的な若さに、肉体が伴わない場合、しばしば女の悲劇が起るのよ。ママさんはとにかく御若い筈よ」
 仁科たか子は、肉体という言葉を平気で口にする女性にびっくりした。
「若くみられて幸せじゃないか」
 蓬莱建介が言葉をはさむ。
「本当はおばあさんなのにね」
 蓬莱和子は、ひどく夫建介と、南原杉子から軽蔑をうけたような気がした。
 仁科六郎は飲んでばかりいた。喋ることがとても出来ないのであった。阿難がまぶしい存在に思われた。何か、遠いところにある女性のように思われた。そして傍にやさしくうつむき加減でいる妻たか子の方が、安心して接近出来る人に感じた。
「南原さんは御結婚なさいませんの」
 仁科たか子は、こんなことを云ってわるいのかしらと思ったが、酔い心地で、南原杉子に恍惚としながら、おずおず云ってしまった。
「お杉は、結婚なんか馬鹿らしくって出来ないと思ってるのよ」
 蓬莱和子は、まともに南原杉子を凝視しながら云った。
「いいえ、そうじゃありませんの、たか子さん、わけがあるのよ」
 仁科六郎は頬を硬ばらせた。
「南原女史だって、結婚したいと思っているさ、だが彼女はまだ気にいった人がないと云うわけさ」
 蓬莱建介は、ねえ、そうだね、という表情で南原杉子をみた。蓬莱和子は、又真珠の玉をにぎった。
「あなたは、いちいち私の云うことに反対なさるようね」
 蓬莱和子は、少し冷淡に、夫建介をみた。
「あら、私、あなたの解釈とも、御主人の解釈ともちがったことで結婚しないのですわ、老嬢秘話をあかしましょうか」
 仁科六郎はうつむいた。
「私、勿論、結婚してらっしゃる方をみて、羨しい限りなんですよ。でも、結婚しませんと誓ったことがあるんです。昔のことですけど、純情少女の頃、純情な少女がある男の死に捧げた誓いなんですよ」
 ――その少女は阿難なのだ。その男は、仁科六郎なのだ。そして、それは過去ではない。現在なのだ――
「おどろいたわね、お杉は子供なのね」
「そうよ、みえない世界で結婚していて、ひめやかに貞操を守りつづけているわけよ」
 蓬莱建介は、南原杉子のつくりごとであると見抜いた。仁科六郎は、みえない世界を、自分達のものだと信じた。ふと、南原杉子と視線があった時に、疲女はうなずいたのだ。
「まあ、お気の毒ね、ごめんなさい、私、いやな思いをおさせしたみたいだわ」
 仁科たか子は心から云った。
「いいえ、私、幸せよ」
 南原杉子は笑った。然し、阿難が泣きはじめた。
「お杉は案外ね」
 蓬莱和子は、わけがわからなかった。然しそれを口にだして疑問の言葉にすることは出来なかった。仁科たか子が居る。
「さあ、とにかく、もっとのまなけりゃ」
 蓬莱建介が云った。南原杉子は、元気よくグラスをつき出した。
 ――南原杉子。私と、蓬莱建介と蓬莱和子の三角の線。私と仁科六郎と蓬莱和子の三角の線。私と、仁科六郎と蓬莱建介の三角の線。私は、重なりあった三つの三角の線を断ち切って。仁科六郎と阿難の線だけを存続させようとしたのだわ。だけど、あらたに、三角の線が出来てしまった。仁科たか子があらわれたのだから――
 ――阿難は絶望――
 ――いいえ、仁科六郎の愛を信じなさい――
 仁科夫妻はむつまじかった。それだけで、仁科六郎と阿難の世界はぐらつきはしないのだが、阿難の脳裡に、色の白い細おもての仁科たか子が明確に残るものに違いないのだと、南原杉子は考えた。
「お杉って人は、仲々自分のことを云わないのね。ねえあなた。今日は、お杉の告白の一部分をきいたわけだけど、もっと何かありそうよ。お杉の性格は疑いぶかいのね。私なんか信用されてないみたいね」
 蓬莱和子は、夫建介と南原杉子を交互にみる。
「じゃあ、何でもべらべら喋ったら、それが信用している証拠になりますの」
 南原杉子は、にこやかに云う。
「まあまあ何でもいいさ」と蓬莱建介。
「いいことないわよ。私は、お杉がすきだから、お杉のために一肌ぬごうっていう気なんですもの」
「僕のために一肌ぬいでくれたらどうだい」
 蓬莱建介は、冗談まじりに蓬莱和子の肩をたたく。
「南原さん、御かわいそうよ。昔のこと思い出されて」
 その時、南原杉子に同情の言葉をよせたのは、仁科たか子である。南原杉子は黙ってうなずかねばならなかった。
 ――何ということだろう。仁科たか子に同情されたのだ。阿難がここで、仁科六郎を愛してますと云って、仁科たか子から嘲笑か、にくしみなうけた方が同情されるよりましだわ――
 ――もう駄目、何もかも駄目。阿難は何も云えないわ――
 蓬莱和子は、真珠をいじりながら、自分が想像していたような集りのふんいきにならなかったことに気付いて腹立たしかった。彼女は、夫建介と親密な関係を、南原杉子にみせるつもりだったのだ。ところが、蓬莱建介は、何かというと南原杉子をかばい、その上、仁科たか子までが。
「ねえ、六ちゃん。あなたはお杉がいつも仮面をかぶっているらしいことをどうも思わない?」
 遂に、彼女は最期の一人に同意を得ようとした。
「僕、わかりませんよ。そんなこと。それより、うたでもうたってくださいよ」
 仁科六郎は、蓬莱和子の得意とする歌をうたわすことが、この場合、最も座が白けないで済むと思ったのだ。案の定、彼女ははれやかにピアノの傍へちかづいた。仁科六郎は、無言でピアノをひけと阿難に命じた。
「私、伴奏しますわ」
「あら、お杉、ピアノひけるの」
「南原女史は何でも屋なんだね」
 蓬莱和子は、楽譜をめくりながら、一番むずかしそうな伴奏のを選んだ。
「初見でおひきになれる?」
「ええ。エルケニッヒね」
 南原杉子は苦笑した。そして、ピアノのキイに手をのせたかと思うと、はやい三連音符をならしはじめた。
 仁科六郎はほっとした。黙って居られることが、そして、南原杉子が自分に背をむけていることが救いであった。
 ――阿難、僕達は何てかなしい対面をしたのだろう――
 彼は、蓬莱和子の歌声などきいていなかった。そして、両手をくんでじっとその手をみていた。
 蓬莱建介もきいていない。彼は、妻和子の不穏を感じて、この集りが終る時までに、何とかして彼女の機嫌をとらなくてはと思っていた。
 蓬莱和子は、時折楽譜をみながらピアノの傍で自分の声に酔っていた。
 ――私は、何といったって今宵の中心人物なんだわ。お杉だってそれに気付いて、内心私に嫉妬しているのだわ。あら、夫が私をみて頬笑んだわ。やっぱり私の美貌が得意なんだろう――
 南原杉子は、ミスがないようにと忠実にひいた。
 曲が終った時、相手をしたのは仁科たか子であった。彼女は、拍手をしなければならないものと、曲がはじまった時から待機の姿勢でいたのだ。
「音が狂ってますわ」
 南原杉子は、三つ四つ、キイをたたいた。
「お杉ったら、どうしてピアノひけるって云わなかったの」
 南原杉子は苦笑した。
「お杉、何かひきなさいよ」
「え、ひきますわ」
 南原杉子は、そっけなく答えた。そして、しばらく静かにピアノをみつめていた。四人の男女は耳をそばだてた。
 ――阿難、かわいそうな阿難。あなたの愛している人は幸せな家庭をもっている人なのよ。たか子さんって人は大人しいいい方なのよ。阿難。あなた嫉妬してはいけないわよ。阿難、泣かないで。あなたの愛している人が苦しんではいけないからね――
 彼女はひきはじめた。彼女の作曲である。テーマは出来ていた。彼女は、ひきながらヴァリエーションをつけてゆく。もう彼女の背後には、仁科六郎一人しか存在していない。弾いているのは阿難。
 ――お杉がピアノを弾く。お杉がうたをうたう。夫の前でうたったのだ。お杉と自分。若さ。才能。いや、私の方が。私は蓬莱建介の妻。妻の資格。お杉にはそれがないのだ。お杉はどんなにすぐれていても老嬢なんだわ――
 蓬莱和子は、老嬢南原杉子を軽蔑した。軽蔑出来たのは、蓬莱建介の存在のおかげであるのだが。
 蓬莱建介は、南原杉子の、立体的な側面の姿を眺めていた。だが、傍に、妻和子が居ることを心得ていた。だから、時折、妻和子の方をみることを忘れなかった。蓬莱和子の真珠の光沢は、彼に、南原杉子とのこれから先の関係を肯定しているようであった。
 仁科たか子は、こんなにはやくいろいろの音の連続を出せるのかと、不思議に思った。
 ――ああ、阿難。ピアノをやめて、僕は狂いそうだ。阿難の感覚。阿難の作曲。阿難の音。だが、やっぱりつづけてくれ、いつまでも、僕は狂いそうだ――
 仁科六郎は目を閉じていた。
 高音部のトレモロ、マイナーのアルペジオ。
 ――阿難。阿難――
 阿難は、頬をつたって流れる涙を感じた。最期の三つのハーモニー。
「阿難」
 突然。それは、仁科六郎の声であった。本当の声であった。阿難は、ピアノにうつる彼の姿をみた。彼女は、キイに手をおいたまま、ペダルもきらずにうなだれた。
 仁科たか子も、蓬莱夫妻も、仁科六郎のさけびをきき、彼の表情を目撃した。誰も何一言云わない。つったっている仁科六郎を、唖然として見上げている。彼の、短いさけびを理解することがどうして出来よう。
 ふいに、金茶色の布がきらめいた。阿難は、まっすぐドアの方をみたまま、部屋を小走りによこぎった。涙がひかっていた。

「魔性なんだよ。彼女には魔性があるんだよ。たか子さん、あなたの御主人は、魔につかれたんですよ。さあ。飲みなおしだ」
 蓬莱建介は、やっとそれだけのことを云うことが出来たのだ。彼にとって、蓬莱氏と、蓬莱夫人が無事に終ったことが一まず安心にちがいなかった。
「あなた、どうなさったの」
 たか子は、共に不安なまなざしをおくった。仁科六郎は、悄然と椅子にこしをおろした。その時、蓬莱和子は、傍のグラスを一息にのむと、ヒステリックな笑い声をたてた。

     十三

 ――阿難は生きてゆけません。一生、こんな大きな幸福の、華々しい瞬間は、もうございませんもの。阿難、とあなたの声。阿難の幸福の瞬間、華々しい瞬間が――
〈昭和二十七年〉



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