家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

     マチアの心配

 春の来るのはおそかったが、とうとう一家がロンドンを去る日が来た。馬車がぬりかえられて、商品が積(つ)みこまれた。そこにはぼうし、肩(かた)かけ、ハンケチ、シャツ、膚着(はだぎ)、耳輪(みみわ)、かみそり、せっけん、おしろい、クリーム、なんということなしにいろいろなものが積(つ)まれた。
 馬車はもういっぱいになった。馬が買われた。どこからどうして買ったか、わたしは知らなかったが、いつのまにか馬が来ていた。それでいっさい出発の用意ができた。
 わたしたちは、いったい祖父(そふ)といっしょにうちに残(のこ)るのか、一家とともに出かけるのか、知らずにいた。けれど父親はわたしたちが音楽でなかなかいい金を取るのを見て、まえの晩(ばん)わたしたちにかれについて行って音楽をやれと言いわたした。
「ねえ、フランスへ帰ろうよ」とマチアは勧(すす)めた。「いまがいいしおどきだ」
「なぜイギリスを旅行して歩いてはいけないのだ」
「なぜならここにいると、きっとなにか始まるにちがいないから。それにフランスへ行けば、ミリガン夫人(ふじん)とアーサを見つけるかもしれない。アーサが加減(かげん)が悪いのだと、夫人(ふじん)はきっと船に乗せて来るだろう。もうだんだん夏になってくるから」
 でもわたしはかれに、どうしてもこのままいなければならないと言った。
 その日わたしたちは出発した。その午後かれらがごくわずかの値打(ねう)ちしかない品物を売るところを見た。わたしたちはある大きな村に着くと、馬車は広場に引き出されていた。その馬車の横側(よこがわ)は低(ひく)くなっていて、買い手の欲(よく)をそそるように美しく品物がならんでいた。
「値段(ねだん)を見てください。値段を見てください」と父親はさけんだ。「こんな値段はどこへ行ったってあるものじゃありません。まるで売るんじゃない。ただあげるのだ。さあさあ」
「あいつはどろぼうして来たにちがいない」
 品物の値段(ねだん)づけを見た往来(おうらい)の人がちょいちょいこう言っているのをわたしは聞いた。かれらがもしそのとき、そばでわたしがきまり悪そうな顔をしているのを見たら、いよいよ推察(すいさつ)の当たっていることを知ったであろう。
 かれらはしかしわたしに気がつかなかったとしても、マチアは気がついていた。
「いつまできみはこれをしんぼうしていられるのだ」とかれは言った。
 わたしはだまっていた。
「フランスへ帰ろうよ」とかれはまた勧(すす)めた。「なにか起こる。もうすぐになにか起こるとぼくは思う。おそかれ早かれ、ドリスコルさんが、こう品物を安売りするところを見れば、巡査(じゅんさ)がやって来るのはわかっている。そうなればどうする」
「おお、マチア……」
「きみが目をふさいでいれば、ぼくはいよいよ大きく目をあいていなければならない。ぼくたちは二人ともつかまえられる。なにもしなくっても、どうしてその証拠(しょうこ)を見せることができよう。ぼくたちは現(げん)にあの人がこの品物を売って得(え)た金で、三度のものを食べているのではないか」
 わたしはついにそこまでは考えなかった。こう言われて、いきなり顔をまっこうからなぐりつけられたように思った。
「でもぼくたちはぼくたちで自分の食べ物を買う金は取っている」と、わたしはどもりながら弁護(べんご)しようとした。
「それはそうだ。けれどぼくたちはどろぼうといっしょに住まっていた」と、マチアはこれまでよりはいっそう思い切った調子で答えた。「それでもし、ぽくたちが牢屋(ろうや)へやられればもう、きみのほんとうのうちの人を探(さが)すこともできなくなるだろう。それにミリガン夫人(ふじん)にも、あのジェイムズ・ミリガンに気をつけるように言ってやりたい。あの人がアーサにどんなことをしかねないか、きみは考えないのだ。まあ行けるうちに少しも早く行こうじゃないか」
「まあもう二、三日考えさしてくれたまえ」とわたしは言った。
「では早くしたまえ。大男退治(たいじ)のジャックは肉のにおいをかいだ――ぼくは危険(きけん)のにおいをかぎつけている」
 こんなふうにして煮(に)えきれずにいるうちに、とうとうぐうぜんの事情(じじょう)が、わたしに思い切ってできなかったことをさせることになった。それはこうであった。
 わたしたちがロンドンを立ってから数週間あとであった。父親は競馬(けいば)のあるはずの町で、屋台店の車を立てようとしていた。マチアとわたしは商売のほうになにも用がないので、町からかなりへだたっていた競馬場(けいばじょう)を見に行った。
 イギリスの競馬場のぐるりには、たいてい市場が立つことになっていた。いろいろ種類(しゅるい)のちがう香具師(やし)や、音楽師(おんがくし)や、屋台店が二、三日まえから出ていた。
 わたしたちはあるテント張(は)り小屋(こや)で、たき火の上に鉄びんがかかっている所を通り過(す)ぎると、曲馬団(きょくばだん)でマチアの友だちであったボブを見つけた。かれはまたわたしたちを見つけたので、たいそう喜(よろこ)んでいた。かれは二人の友だちといっしょに競馬場(けいばじょう)へ来て、力持ちの見世物を出そうとしているところであった。そのためある音楽師(おんがくし)を二、三人やくそくしたが、まぎわになってだめになったので、あしたの興行(こうぎょう)は失敗(しっぱい)になるのではないかと心配していたところであった。かれの仕事にはにぎやかな人寄(ひとよ)せの音楽がなければならなかった。
 わたしたちはそこでかれの手伝(てつだ)いをしてやろうということになった。一座(いちざ)ができて、わたしたち五人の間に利益(りえき)を分けることになった。そのうえカピにもいくらかやることにした。ボブはカピが演芸(えんげい)の合い間に芸(げい)をして見せてくれることを望(のぞ)んでいた。わたしたちはやくそくができて、あくる日決めた時間に来ることを申し合わせた。
 わたしが帰ってこのもくろみを父に話すと、かれはカピはこちらで入用だから、あれはやられないと言った。わたしはかれらがまた人の犬をなにか悪事に使うのではないかと疑(うたが)った。わたしの目つきから、父はもうわたしの心中を推察(すいさつ)した。
「ああ、いや、なんでもないことだよ」とかれは言った。「カピはりっぱな番犬だ。あれは馬車のわきへ置(お)かなければならん。きっとおおぜい回りへたかって来るだろうから、品物をかすめられてはならない。おまえたち二人だけで行って、友だちのボブさんと一かせぎやって来るがいい。たぶんおまえのほうは夜おそくまですむまいと思うから、そのときは『大がしの宿屋(やどや)』で待ち合わせることにしよう。あしたはまた先へたって行くのだから」
 わたしたちはそのまえの晩(ばん)『大がしの宿屋』で夜を明かした。それは一マイル(約一・六キロ)はなれたさびしい街道(かいどう)にあった。その店はなにか気の許(ゆる)せない顔つきをした夫婦(ふうふ)がやっていた。その店を見つけるのはごくわけのないことであった。それはまっすぐな道であった。ただいやなことは、一日つかれたあとで、かなりな道のりを歩いて行かなければならないことであった。でも父親がこう言えば、わたしは服従(ふくじゅう)しなければならなかった。それでわたしは宿屋(やどや)で会うことをやくそくした。
 そのあくる日、カピを馬車に結(ゆ)わえつけて番犬において、わたしはマチアと競馬場(けいばじょう)へ急いで行った。
 わたしたちは行くとさっそく、音楽を始めて、夜まで続(つづ)けた。わたしの指は何千という針(はり)でさされたように、ちくちく痛(いた)んだし、かわいそうなマチアはあんまりいつまでもコルネをふいて、ほとんど息が出なくなった。
 もう夜中を過(す)ぎていた。いよいよおしまいの一番をやるときに、かれらが演芸(えんげい)に使っていた大きな鉄の棒(ぼう)がマチアの足に落ちた。わたしはかれの骨(ほね)がくじけたかと思ったが、運よくそれはひどくぶっただけであった。骨はすこしもくじけなかったが、やはり歩くことはできなかった。
 そこでかれはその晩(ばん)ボブといっしょにとまることになった。わたしはあくる日ドリスコルの一家の行く先を知らなければならないので、一人「大がしの宿屋(やどや)」へ行くことにした。その宿屋へわたしが着いたときは、まっくらであった。馬車があるかと思って見回したが、どこにもそれらしいものは見えなかった。二つ三つあわれな荷車のほかに、目にはいったものは大きなおりだけで、そのそばへ寄(よ)ると野獣(やじゅう)のほえ声がした。ドリスコル一家の財産(ざいさん)であるあのごてごてと美しくぬりたてた馬車はなかった。わたしは宿屋(やどや)のドアをたたいた。亭主(ていしゅ)はドアを開けて、ランプの明かりをまともにわたしの顔にさし向けた。かれはわたしを見覚(みおぼ)えていたが、中へ入れてはくれないで、両親はもうルイスへ向けて立ったから、急いであとを追っかけろと言って、もうすこしでもぐずぐずしてはいられないとせきたてた。それでぴしゃりとドアを立てきってしまった。
 わたしはイギリスに来てから、かなりうまくイギリス語を使うことを覚(おぼ)えた。わたしはかれの言ったことが、はっきりわかったが、ぜんたいそのルイスがどこらに当たるのか、まるっきり知らなかった。よしその方角を教わったにしても、わたしは行くことはできなかった。マチアを置(お)いて行くことはできなかった。
 わたしは痛(いた)い足をいやいや引きずって競馬場(けいばじょう)に帰りかけた。やっと苦しい一時間ののち、わたしはボブの車の中でマチアとならんでねむっていた。
 あくる朝ボブはルイスへ行く道を教えてくれたので、わたしは出発する用意をしていた。わたしはかれが朝飯(あさはん)のお湯をわかすところを見ながら、ふと目を火からはなして外をながめると、カピが一人の巡査(じゅんさ)に引(ひ)っ張(ぱ)られて、こちらへやって来るのであった。どうしたということであろう。
 カピがわたしを見つけたしゅんかん、かれはひもをぐいと引っ張った。そして巡査の手からのがれてわたしのほうへとんで来て、うでの中にだきついた。
「これはおまえの犬か」と巡査(じゅんさ)がたずねた。
「そうです」
「ではいっしょに来い。おまえを拘引(こういん)する」
 かれはこう言って、わたしのえりをつかんだ。
「この子を拘引するって、どういうわけです」とボブが火のそばからとんで来てさけんだ。
「これはおまえの兄弟か」
「いいえ、友だちです」
「そうか。ゆうべ、おとなと子どもが二人、セント・ジョージ寺へどろぼうにはいった。かれらははしごをかけて、窓(まど)からはいった。この犬がそこにいて番をしていた。ところが犯行(はんこう)中おどろかされて、あわてて窓からにげ出したが、犬を寺へ置(お)いて行った。この犬を手がかりにして、どろぼうは確(たし)かに見つかると思っていた。ここに一人いた。今度はそのおやじだが、そいつはどこにいる」
 わたしはひと言も言うことができなかった。この話を聞いていたマチアは、車の中から出て来て、びっこをひきひきわたしのそばに寄(よ)った。ボブは巡査(じゅんさ)に、この子が罪人(ざいにん)であるはずがない、なぜならゆうべ一時までいっしょにいたし、それから「大がしの宿屋(やどや)」へ行って、そこの主人と話をして、すぐここへ帰って来たのだからと言った。
「寺へはいったのは一時十五分過(す)ぎだった」と巡査(じゅんさ)が言った。「するとこの子がここを出たのは一時だから、それから仲間(なかま)に会って、寺へ行ったにちがいない」
「ここから町までは十五分以上(いじょう)かかります」とボブが言った。
「なに、かければ行けるさ」と巡査が答えた。「それに、こいつが一時にここを出たという確(たし)かな証拠(しょうこ)があるか」
「わたしが証人(しょうにん)です。わたしはちかいます」とボブがさけんだ。
 巡査(じゅんさ)は肩(かた)をそびやかした。
「まあ子どもが判事(はんじ)の前へ出て、自分で陳述(ちんじゅつ)するがいい」とかれは言った。
 わたしが引かれて行くときに、マチアはわたしの首にうでをかけた。それはあたかも、わたしをだこうとしたもののようであったが、マチアにはほかの考えがあった。
「しっかりしたまえ」とかれはささやいた。「ぼくたちはきみを見捨(みす)てはしないよ」
「カピを見てやってくれたまえ」とわたしはフランス語で言った。けれど巡査(じゅんさ)はことばを知っていた。
「おお、どうして」とかれは言った。「この犬はわしが預(あず)かる。この犬のおかげできさまを見つけたのだ。もう一人もこれで見つかるかもしれない」
 巡査(じゅんさ)に手錠(てじょう)をかわれて、わたしはおおぜいの目の前を通って行かなければならなかった。けれどこの人たちはわたしがまえにつかまったときの、フランスの百姓(ひゃくしょう)のように、はずかしめたりののしったりはしなかった。この人たちはたいてい巡査に敵意(てきい)を持っていた。かれらはジプシー族や浮浪者(ふろうしゃ)であった。どれも宿(やど)なしの浮浪人であった。
 今度拘引(こういん)された留置場(りゅうちじょう)にはねぎが転(ころ)がしてはなかった。これこそほんとうの牢屋(ろうや)で、窓(まど)には鉄の棒(ぼう)がはめてあって、それを見ただけで、もうどうでもにげ出したいという気を起こさせた。部屋(へや)にはたった一つのこしかけと、ハンモックがあるだけであった。わたしはこしかけにぐったりたおれて、頭を両手にうずめたまま、長いあいだじっとしていた。マチアとボブは、よし、ほかの仲間(なかま)の加勢(かせい)をたのんでも、とてもここからわたしを救(すく)い出すことはできそうもなかった。わたしは立ち上がって窓(まど)の所へ行った。鉄の格子(こうし)はがんじょうで、目が細かかった。かべは三尺(じゃく)(約一メートル)も厚(あつ)みがあった。下のゆかは大きな石がしきつめてあった。ドアは厚い鉄板をかぶせてあった。どうしてにげるどころではなかった。
 わたしはカピがお寺にいたという事実に対して、自分の無罪(むざい)を証拠(しょうこ)だてることができるであろうか。マチアとボブとは、わたしが現場(げんじょう)にいなかったという証人(しょうにん)になって、わたしを助けることができようか。かれらがこれを証明(しょうめい)することさえできたら、あのあわれな犬が、わたしのためにつごう悪く提供(ていきょう)した無言(むごん)の証明があるにかかわらず、放免(ほうめん)になるかもしれない。看守(かんしゅ)が食べ物を持って来たとき、わたしは判事(はんじ)の前へ出るのは、手間がとれようかと聞いた。わたしはそのときまで、イギリスでは、拘引(こういん)されたあくる日、裁判所(さいばんしょ)へ呼(よ)ばれるということを知らなかった。親切な人間らしい看守は、きっとそれはあしただろうと言った。
 わたしは囚人(しゅうじん)が差(さ)し入(い)れの食べ物の中に、よく友だちからの内証(ないしょう)のことづけを見つけるという話を聞いていた。わたしは食べ物に手がつかなかったが、ふと思いついて、パンを割(わ)り始めた。わたしは中になにも見つけなかった。パンといっしょについていたじゃがいもをも粉(こな)ごなにくずしてみたが、ごくちっぽけな紙きれをも見つけなかった。
 わたしはその晩(ばん)ねむられなかった。つぎの朝看守(かんしゅ)は水のはいったかめと金だらいを持って、わたしの部屋(へや)にはいって来た。かれは顔を洗(あら)いたければ洗えと言って、これから判事(はんじ)の前へ出るのだから、身なりをきれいにすることは損(そん)にはならないと言った。しばらくしてまた看守(かんしゅ)はやって来て、あとについて来いと言った。わたしたちはいくつかろうかを通って、小さなドアの前へ来ると、かれはそのドアを開けた。
「おはいり」とかれは言った。
 わたしのはいった部屋(へや)はたいへんせま苦しかった。おおぜいのわやわやいうつぶやきをも聞いた。わたしのこめかみはぴくぴく波を打って、ほとんど立っていることができないくらいであったが、そこらの様子を見ることはできた。
 部屋は大きな窓(まど)と、高い天井(てんじょう)があって、りっぱな構(かま)えであった。判事(はんじ)は高い台の上にこしをかけていた。その前のすぐ下には、ほかの三人の裁判官(さいばんかん)がこしをかけていた。そのそばにわたしは法服(ほうふく)を着て、かつらをかぶった紳士(しんし)といっしょにならんだ。これがわたしの弁護士(べんごし)であることを知って、わたしはおどろいた。どうして弁護士ができたろう。どこからこの人はやって来たのだろう。
 証人(しょうにん)の席(せき)には、ボブと二人の仲間(なかま)、「大がしの宿屋(やどや)」の亭主(ていしゅ)、それからわたしの知らない二、三人の人がいた。それから向(む)こう側(がわ)には五、六人の人の中に、わたしを拘引(こういん)した巡査(じゅんさ)を見つけた。検事(けんじ)は二言三言で、罪状(ざいじょう)を陳述(ちんじゅつ)した。セント・ジョージ寺で窃盗事件(せっとうじけん)があった。どろぼうはおとなと子どもで、はしごを登ってはいるために、窓(まど)をこわした。かれらは外へ張(は)り番(ばん)の犬を置(お)いた。一時十五分過(す)ぎにおそい通行人が寺の明かりを見つけて、すぐに寺男を起こした、五、六人、人が寺へかけつけると、犬ははげしくほえて、どろぼうは犬をあとに残(のこ)したまま、窓(まど)からにげた。犬のちえはおどろくべきものであった。つぎの朝その犬を巡査(じゅんさ)が競馬場(けいばじょう)へ連(つ)れて行った。そこでかれはすぐと主人を認識(にんしき)した。それはすなわち現(げん)に囚人席(しゅうじんせき)にいる子どもにほかならなかった。なお一人の共犯者(きょうかんしゃ)に対しては、追跡(ついせき)中であるからほどなく捕縛(ほばく)の手続(てつづ)きをするはずである。
 わたしのために言われたことはいたってわずかであった。わたしの友人たちはわたしが現場(げんじょう)がいなかったという証言(しょうげん)をしたけれども、検事(けんじ)は、いや、寺へ行って共犯者(きょうはんしゃ)に出会って、それから「大がしの宿屋(やどや)」へかけて行く時間はじゅうぶんあったと言った。わたしはそれからどうして犬が一時十五分ごろ寺にいたか、その理由を述(の)べろと言われた。わたしは犬はまる一日自分のそばにいなかったのだから、それをなんとも言うことはできないし、わたしはなにも知らないと申し立てた。
 わたしの弁護士(べんごし)は、犬がその日のうちに寺に迷(まよ)いこんで、寺男が戸を閉(し)めたとき、中へ閉めこまれたものであるということを証拠(しょうこ)立(だ)てようと努(つと)めた。かれはわたしのためにできるだけのことをしてくれたが、その弁護は力が弱かった。
 そのとき判事(はんじ)はしばらくわたしを郡立刑務所(ぐんりつけいむしょ)へ送っておいて、いずれ巡回裁判(じゅんかいさいばん)の回って来るまで待つことにしようと言いわたした。
 巡回裁判。わたしはこしかけにたおれた。おお、なぜわたしはマチアの言うことを聞かなかったのであろう。


     ボブ

 判事(はんじ)が子どもを連(つ)れて寺へはいったどろぼうの捕縛(ほばく)を待つために、わたしはとうとう放免(ほうめん)されなかった。かれらはそのときになって、わたしがその男の共犯者(きょうはんしゃ)であるかどうか初(はじ)めて決めようと言うのである。
 かれらはただいま追跡(ついせき)中であると検事(けんじ)が言った。そうすると、わたしはその男とならんで、囚人席(しゅうじんせき)に入れられて、巡回裁判官(じゅんかいさいばんかん)の前に出る恥辱(ちじょく)と苦痛(くつう)をしのばなければならないのであろう。
 その晩(ばん)日のくれかかるまえ、わたしははっきりとコルネの音を聞いた。マチアが来ているのだ。なつかしいマチアよ。かれはじきそばに来て、わたしのことを思っていることを知らそうとしたのであった。かれはまさしく窓(まど)の外の往来(おうらい)にいるのであった。わたしは足音とおおぜいのぶつぶつ言う声を聞いた。マチアとボブが、きっと演芸(えんげい)を始めているのであった。
 ふとわたしはよくとおる声で、「あした夜明けに」とフランス語で言う声を聞いた。わたしはそれがなんのことだか確(たし)かにはわからなかった。とにかくあしたの夜明けにはしっかり気を張(は)っていなければならなかった。
 暗くなるとさっそくわたしはハンモックにはいった。たいへんつかれてはいたけれど、ねこむにはなかなか手間がとれた。そのうちやっとぐっすりねこんだ。目が覚(さ)めるともう夜中であった。星は暗い空にかがやいて、沈黙(ちんもく)がすべてを支配(しはい)していた。時計は三時を打った。わたしはこれで一時間、これで十五分と勘定(かんじょう)していた。かべによりかかりながら、じっと目を窓(まど)に向けて、星が一つ一つ消えてゆくのをながめた。遠方には鶏(とり)がときを作る声が聞こえた。もう明け方であった。
 わたしはごく静(しず)かに窓(まど)を開けた。なにがそこにあったか。相変(あいか)わらず鉄の格子(こうし)と、高いかべが前にあった。わたしは出ることができない。けれどばかげた考えではあっても、わたしは自由になることを待ちもうけていた。
 朝の風が耳がちぎれるように寒かったけれど、わたしは窓(まど)のそばに立ち止まって、なにを見るということなしに見て、なにを聞くということなしに耳を立てた。
 大きな白い雲が空にうかんだ。夜明けであった。わたしの心臓(しんぞう)ははげしく鼓動(こどう)した。
 するとかべをがりがり引っかく音が聞こえた。でも足音をすこしも聞かなかった。わたしは耳をすませた。引っかく音が続(つづ)いた。ぬっと人の頭がかべの上に現(あらわ)れた。うす暗い光の中にわたしはボブを見つけた。
 かれは鉄格子(てつごうし)に顔をおしつけて、わたしを見た。
「静(しず)かに」とかれはそっと言った。
 かれはわたしに窓(まど)からどけという合図をした。ふしぎに思いながら、わたしは服従(ふくじゅう)した。かれは豆鉄砲(まめでっぽう)を口に当ててふいた。かわいらしい鉄砲玉(てっぽうたま)が空をまって、わたしの足もとに落ちた。ボブの頭が消えた。
 わたしは弾丸(だんがん)をわしづかみにつかんだ。それはうすい紙をまめのように小さい玉に丸めたものであった。明かりがあんまり暗いので、なにが書いてあるか見えなかった。夜の明けるまで待たなければならなかった。わたしはそっと窓(まど)を閉(し)めて、小さな紙玉を手に持ったまま、またハンモックに転(ころ)がった。光の来ることのどんなにおそいことぞ。やっとわたしはその紙に書いてある文字を読むことができた。それにはこうあった。
「あしたきみは汽車に乗せられて、郡立刑務所(ぐんりつけいむしょ)へ送られるはずだ。巡査(じゅんさ)が一人ついて行くことになっている。きみは汽車の戸口に近い所にいたまえ。よく勘定(かんじょう)していたまえ、四十五分目に汽車は連結点(れんけつてん)の近くで速力(そくりょく)をゆるめる。そのときドアを開けてとびだしたまえ。左手の小山を登れば、われわれはそこに待っている。しつかりやれ。なによりもうまく前へとんで、足を下に着くことだ」
 助かった。わたしは巡回裁判(じゅんかいさいばん)の前に出ないですむ。ありがたい、マチア。それから、ボブ。マチアに加勢(かせい)してくれるボブはずいぶんいい人だ。かわいそうにマチア一人では、とてもこれだけできやしない。
 わたしは書きつけを二度読み直した。汽車が出てから四十五分……左手の小山……汽車からとび下りるのはけんのんな仕事だ。でもそれをやり損(そこ)なって死んでも、したほうがいい。どろぼうの宣告(せんこく)を受けて死ぬよりましだ。
 わたしはまたもう一度書きつけを読んでから、それをくちゃくちゃにかんでしまった。
 そのあくる日の午後、巡査(じゅんさ)は監房(かんぼう)にはいって来て、すぐついて来いと言った。かれは五十以上(いじょう)の男であった。わたしはかれがたいしてはしっこそうでないのを見て、まずよしと思った。
 事件(じけん)はボブが言ったように進んで行った。汽車は走り出した。わたしは汽車の戸口に席(せき)をしめた。巡査はわたしの前にこしをかけた。車室の中はわたしたちだけであった。
「おまえはイギリス語がわかるか」と巡査(じゅんさ)はたずねた。
「あまり早く言われなければわかります」とわたしは答えた。
「そうか。よし。それでは少しおまえに相談(そうだん)がある」とかれは言った。「法律(ほうりつ)をあなどらないようにしろ。まあどういうしだいの事件(じけん)だか、話してごらん。おまえに五シルリングやる。牢(ろう)の中で金を持っていればよけい気楽だ」
 わたしはなにも白状(はくじょう)することがないと言おうとしたが、そう言うと巡査(じゅんさ)をおこらせるだろうと思って、なにも言わなかった。
「まあ、よく考えてごらん」とかれは続(つづ)けた。「で、刑務所(けいむしょ)へ行っても、向こうで、いちばん先に来た者に言わないで、わたしの所へそう言ってお寄(よ)こし。おまえのことを心配している人間のあることは、つごうのいいことだし、わたしは喜(よろこ)んでおまえの加勢(かせい)をしてやる」
 わたしはうなずいた。
「ドルフィンさんと言ってお聞き。おまえ、名前を覚(おぼ)えたろうなあ」
「ええ」
 わたしはドアによりかかっていた。窓(まど)はあいていて、風がふきこんだ。巡査(じゅんさ)はあまり風がはいると言って、こしかけのまん中へ席(せき)を移(うつ)した。わたしの左の手がそっと外へ回ってハンドルを回した。右の手でわたしはドアをつかんだ。数分間たった。汽笛が鳴って速力(そくりょく)がゆるんだ。
 いよいよだいじなしゅんかんが来た。わたしは急いてドアをおし開けて、できるだけ遠くへとんだ。運よく前へ出していたわたしの手が草にさわった。でも震動(しんどう)はずいぶんひどかったから、わたしは人事不省(じんじふせい)で地べたに転(ころ)がった。わたしが正気に返ったとき、わたしはまだ汽車の中にいると思った。わたしはまだ運ばれているように感じたのであった。そこらを見回して、わたしは馬車の中に転がっていることを知った。きみょうだ。わたしのほおはしめっていた。やわらかな温(あたた)かい舌(した)が、わたしをなめていた。少しふり向くと、一ぴきの黄色い、みっともない犬がわたしの顔をのぞきこんでいた。マチアがわたしのそばにひざをついていた。
「きみは助かったよ」とかれは言って、犬をおしのけた。
「ぼくはどこにいるんだ」
「きみは馬車の中だよ。ボブが御者(ぎょしゃ)をしている」
「どうだな」とボブが御者台から声をかけた。「手足が動かせるか」
 わたしは手足をのばして、かれの言うとおりにした。
「よし」とマチアは言った。「どこもくじきやしない」
「どうしたんだ」
「きみはぼくらの言ったとおりに、汽車からとび下りた。だが震動(しんどう)で目が回って、みぞの中に転(ころ)がりこんだ。きみがいつまでも来ないから、ボブが馬車を下りて、小山をかけ下りて、きみをうでにひっかかえて帰って来た。ぼくらはきみが死んだと思ったよ。まったく心配したよ」
 わたしはかれの手をさすった。
「それから巡査(じゅんさ)は」とわたしは聞いた。
「汽車はあのまま進んだ。止まらなかった」
 わたしの目はまた、そばでわたしをながめている、みにくい黄色い犬の上に落ちた。
 それはカピに似(に)ていた。でもカピは白かった。
「なんだね、この犬は」とわたしはたずねた。
 マチアが答える間もないうちに、そのみっともない小さな動物はわたしの上にとびかかった。はげしくなめ回して、くんくん鳴いていた。
「カピだよ。絵の具で染(そ)めたのだよ」とマチアが笑(わら)いながらさけんだ。
「染めた、どうして」
「だって見つからないようにさ」
 ボブとマチアが馬車の中にうまくわたしをかくすようにくふうしてくれているあいだに、わたしは、いったいこれからどこへ行くのだとたずねた。
「リツル・ハンプトンへ」とマチアが言った。「そこへ行けば、ボブのにいさんが船を持っていて、ノルマンデーからバターと卵(たまご)を運んで、フランスの海岸を回っているのだ。ぼくらはなにからなにまでボブの世話になった。ぼくのようなちっぽけな者が、一人でなにができよう。汽車からとび下りるくふうもボブが考えたのだ」
「それからカピは。カピをうまく取り返したのはだれだ」
「ぼくだよ。だが、ぼくらが犬を交番から取りもどしたあとで、見つからないように黄色く絵の具をぬったのはボブだった。判事(はんじ)はあの巡査(じゅんさ)を気が利(き)いていると言った。だがカピを連(つ)れて行かれるのは、あんまり気が利いたと言えない。もっともカピはぼくのにおいをかぎつけて、ほとんど一人で出て来た。ボブは犬どろぼうの術(じゅつ)を知っているのだ」
「それからきみの足は」
「よくなったよ。たいていよくなったよ。じつはぼくは足のことを考えているひまがなかった」
 夜になりかかっていた。わたしたちはまだ長い道を行かなければならなかった。
「きみはこわいか」とわたしがだまって転(ころ)がっていると、マチアがたずねた。
「いや、こわくはない」とわたしは答えた。「だってぼくはつかまるとは思わないから。でもにげ出すということが罪(つみ)になりやしないかと思うのだ。それが気になるのだ」
「ボブもぼくも、きみを巡回裁判(じゅんかいさいばん)に出すぐらいなら、なにをしてもいいと思ったからな」
 あれから、汽車が止まったところで、巡査(じゅんさ)がさっそく捜索(そうさく)にかかることは確(たし)かなので、わたしたちはいっしょうけんめい馬を走らせた。わたしたちの通って行く村は、ひじょうに静(しず)かであった。明かりがただ二つ三つ窓(まど)に見えた。マチアとわたしは毛布(もうふ)の下にもぐった。しばらくのあいだ寒い風がふいていた。くちびるに舌(した)を当てると、塩(しお)からい味がした。ああ、わたしたちは海に近づいていた。
 まもなくわたしたちは、ときどき明かりのちらちらするのを見つけた。それが燈台(とうだい)であった。ふとボブは馬を止めて、馬車からとび下りながら、わたしたちに待っていろと言った。かれは兄弟の所へ行って、わたしたちをその船に乗せて、安全に向こう岸までわたれるか、様子を聞きに行ったのであった。
 ボブはひじょうに遠くへ行ったらしかった。わたしは口をきかなかった。すぐ間近の岸に、波のくだける音が聞こえた。マチアはふるえていた。わたしもふるえていた。
「寒いね」とかれはささやいた。わたしたちをふるえさせるのは寒さのためだけであったろうか。
 やがて往来(おうらい)に足音がした。ボブは帰って来た。わたしの運命が決められた。胴服(どうふく)を着て油じみたぼうしをかぶったぶこつな顔つきの船乗りが、ボブといっしょに来た。
「これがぼくの兄貴(あにき)だ」とボブが言った。「きみたちを船に乗せて行ってくれるはずだ。そこでぼくはここでお別(わか)れとしよう。だれもぼくがきみをここへ連(つ)れて来たことを知るはずがないよ」
 わたしはボブに礼を言おうとしたが、かれは手短に打ち切った。わたしはかれの手をにぎった。
「それは言いっこなしだ」とかれは軽く言った。「きみたち二人は、このあいだの晩(ばん)ぼくを助けてくれた。いいことをすればいい報(むく)いがあるさ。それでぼくもマチアの友だちを助けてあげることができたのだから、自分でもゆかいだ」
 わたしたちはボブの兄弟のあとについて、いくつか折(お)れ曲がった静(しず)かな通りを通って、波止場(はとば)に着いた。かれはひと言も口をきくことなしに、一そうの小さい帆船(はんせん)を指さした。二、三分でわたしたちは甲板(かんぱん)の上にいた。かれはわたしたちに下の小さな船室にはいれと言った。
「二時間すれば船を出す」とかれは言った。「そこにはいって、音のしないようにしておいで」
 でもわたしたちはもうふるえてはいなかった。わたしたちはまっ暗な中で肩(かた)をならべてすわっていた。


     白鳥号

 ボブの兄弟が立ち去ったあと、しばらくのあいだわたしたちは、ただ風の音と、キールにぶつかる波の音を聞くだけであった。やがて足音が上の甲板(かんぱん)に聞こえて、滑車(かっしゃ)が回りだした。帆(ほ)が上げられて、やがて急に一方にかしいだ。動き始めたと思うまもなく、船はあらい海の上へぐんぐんすべり出した。
「マチア、気のどくだね」とわたしはかれの手を取った。
「かまわないよ。助かったのだから」とかれは言った。「船に酔(よ)ったってなんだ」
 そのあくる日、わたしは船室と甲板(かんぱん)の間に時間を過(す)ごした。マチアは一人うっちゃっておいてもらいたがった。とうとう船長が、あれがバルフルールだと指さしてくれたとき、わたしは急いで船室に下りて、かれにいい知らせを伝(つた)えようとした。
 もう、バルフルールに着いたときは、夕方おそくなっていたので、ボブの兄弟はわたしたちによければ今夜一晩(ひとばん)船の中でねて行ってもいいと言った。
「おまえさんがまたイギリスへ帰りたいと思うときには」とそのあくる朝、わたしたちがさようならを言って、かれの骨折(ほねお)りを感謝(かんしゃ)すると、こう言った。「エクリップス号は毎火曜日ここから出帆(しゅっぱん)するのだから、覚(おぼ)えておいで」
 これはうれしい好意(こうい)であったが、マチアにもわたしにも、てんでん、この海を二度とわたりたくない……ともかくも、ここしばらくはわたりたくないわけがあった。
 運よくわたしたちのかくしには、ボブの興行(こうぎょう)を手伝(てつだ)ってもうけたお金があった。みんなで二十七フランと五十サンチームあった。マチアはボブに二十七フランを、わたしたちの逃亡(とうぼう)のために骨(ほね)を折(お)ってくれた礼にやりたいと思ったが、かれは一スーの金も受け取らなかった。
「さてどちらへ出かけよう」わたしはフランスへ上陸(じょうりく)するとこう言った。
「運河(うんが)について行くさ」とマチアはすぐに答えた。「ぼくは考えがあるのだ。ぼくはきっと白鳥号がこの夏は運河に出ていると思うよ。アーサが悪いのだからね。ぼくはきっと見つかるはずだと思うよ」とかれは言い足した。
「でもリーズやほかの人たちは」とわたしは言った。
「ぼくたちはミリガン夫人(ふじん)を探(さが)しながら、あの人たちにも会える。運河(うんが)をのぼって行きながらとちゅう止まってリーズをたずねることができる」
 わたしたちは持って来た地図で、いちばん近い川を探(さが)すと、それはセーヌ川であることがわかった。
「ぼくたちはセーヌ川をのぼって行って、とちゅう岸で会う船頭に片(かた)っぱしから白鳥号を見たかたずねようじやないか。きみの話では、その船はだいぶなみの船とはちがうようだから、見れば覚(おぼ)えているだろうよ」
 これからおそらく続(つづ)くかもしれない長い旅路(たびじ)にたつまえに、わたしはカピのからだを洗(あら)ってやるため、やわらかい石けんを買った。わたしにとっては、黄色いカピは、カピではなかった。わたしたちは代わりばんこにカピをつかまえては、かれがいやになるまでよく洗ってやった。でもボブの絵の具は上等な絵の具で、洗ってやってもやはり黄色かった。だがいくらか青みをもってはきた。それでかれをもとの色に返すまでには、ずいぶんたびたび石(せっ)けん浴(よく)をやった。幸いノルマンデーは小川の多い地方であったから、毎日わたしたちは根気よく行水をつかってやった。
 わたしたちはある朝小山の上に着いた。わたしたちの前途(ぜんと)に当たって、セーヌ川が大きな曲線を作って流れているのを見た。それから進んで行って、わたしたちは会う人ごとにたずね始めた。あのろうかのついた美しい船の白鳥号を見たことはないか――だれもそれを見た者はなかった。きっと夜のうちに通ってしまったのかもしれなかった。わたしたちはそれからルーアンへ行った。そこでもまた同じ問いをくり返したが、やはりいい結果(けっか)は得(え)られなかった。でもわたしたちは失望(しつぼう)しないで、一人ひとりたずねながらずんずん進んだ。
 行く道みち食べ物を買う金を取るために、足を止めなければならなかったから、やがてパリの郊外(こうがい)へ着くまでは五日間かかった。
 幸いシャラントンに着くと、まもなくどの方角に向かっていいか見当がついた。さっそく例(れい)のだいじな質問(しつもん)を出すと、初(はじ)めてわたしたちは待ちもうけていた返答を受け取った。白鳥号に似(に)た大きな遊山船(ゆさんぶね)が、この道を通ったが、左のほうへ曲がって、セーヌ川をずんずん上って行った、というのであった。
 わたしたちは岸の近くに下りてみた。マチアは船頭たちの中で舞踏曲(ぶとうきょく)をやることになったので、たいへんはしゃぎきっていた。とつぜんダンスをやめて、ヴァイオリンを持って、マチアは気ちがいのように凱旋(がいせん)マーチをひいた。かれがひいているまに、わたしはその船を見たという男によくたずねた。疑(うたが)いもなくそれは白鳥号であった。なんでもそれはふた月ほどまえ、シャラントンを通って行った。
 ふた月か。なんという遠い話であろう。だがなにをちゅうちょすることがあろう。わたしたちにも足がある。向こうも二ひきのいい馬の足がある。でもいつか追い着くであろう。ひまのかかるのはかまったことではない。なによりだいじな、しかもふしぎなことは、白鳥号がとうとう見つかったということであった。
「ねえ、まちがってはいなかった」とマチアがさけんだ。
 わたしに勇気(ゆうき)があれば、マチアに向かって、わたしがひじょうに大きな希望(きぼう)を持っていることを打ち明けたかもしれない。けれどわたしは自分の心を自分自身にすら細かく解剖(かいぼう)することができなかった。わたしたちはもういちいち立ち止まって人に聞く必要(ひつよう)はなかった。白鳥号がわたしたちの先に立って進んで行く。わたしたちはただセーヌ川について行けばいいのだ。わたしたちは道みちリーズのいる近所を通りかけていた。わたしはかの女がその家のそばの岸を船の通るとき、見ていなかったろうかと疑(うたが)った。
 夜になっても、わたしたちはけっしてつかれたとは言わなかった。そしてあくる朝は早くから出かける仕度をしていた。
「ぼくを起こしてくれたまえ」とねむることの好(す)きなマチアは言った。
 それでわたしが起こすと、かれはすぐにとび起きた。
 倹約(けんやく)するためにわたしたちは荒物屋(あらものや)で買ったゆで卵(たまご)と、パンを食べた。でもマチアはうまいものはたいへん好(この)んでいた。
「どうかミリガン夫人(ふじん)が、そのタルトをうまくこしらえる料理番(りょうりばん)をまだ使っているといいなあ」とかれは言った。「あんずのタルトはきっとおいしいにちがいない」
「きみはそれを食べたことがあるかい」
「ぼくはりんごのタルトを食べたことはあるが、あんずのタルトは知らない。見たことはあるよ。あの黄色いジャムの上にいっぱいくっついている、白い小さなものはなんだね」
「はたんきょうさ」
「へええ」こう言ってマチアはまるでタルトを一口にうのみにしたように口を開いた。
 水門にかかって、わたしたちは白鳥号の便(たよ)りを聞いた。だれもあの美しい小舟(こぶね)を見たし、あの親切なイギリスの婦人(ふじん)と、甲板(かんぱん)の上のソファにねむっている子どものことを話していた。
 わたしたちはリーズの家の近くに来た。もう二日、それから一日、それからあとたった二、三時間というふうに近くなってきた。やがてその家が見えてきた。わたしたちはもう歩いてはいられない。かけ出した。どこへわたしたちが行くかわかっているらしいカピは、先に立って勢(いきお)いよく走った。かれはわたしたちの来たことをリーズに知らせようとしたのであった。かの女はわたしたちをむかえに来るだろう。
 けれどもわたしたちがその家に着いたとき、戸口には知らない女の人が一人立っているだけであった。
「シュリオのおかみさんはどうしました」とわたしはたずねた。
 しばらくのあいだかの女は、ばかなことを聞くよ、と言わないばかりに、わたしたちの顔をながめた。
「あの人はもうここにはいませんよ」とやっとかの女は言った。「エジプトに行っていますよ」
「なにエジプトへ」
 マチアとわたしはあきれて顔を見合わせた。わたしたちはほんとうにエジプトのある位置(いち)をよくは知らなかったが、それはぼんやりごくごく遠い海をこえて向こうのほうだと思っていた。
「それからリーズはどうしたでしょう。知っていますか」
「ああ、小さなおしのむすめだね。そう、あの子は知っているよ。あの子はイギリスのおくさんと船に乗って行きましたよ」
「へえ、リーズが白鳥号に」
 ゆめを見ているのではないか。マチアとわたしはまた顔を見合った。
「おまえさん、ルミさんかい」とそのとき女はたずねた。
「ええ」
「まあ、シュリオさんは、水で死にましたよ……」
「ええ、水で死んだ」
「そう、あの人は水門に落ちて、くぎにひっかかって死んだのだ。それから気のどくなおかみさんはどうしていいかわからずにいた。するとあの人が先(せん)におよめに来るまえに奉公(ほうこう)していたおくさんが、エジプトへ行くというので、そのおくさんにたのんで子どもの乳母(うば)にしてもらった。そうなるとリーズはどうしていいかわからずに困(こま)っていたところへ、イギリスのおくさんと病身の子どもが船に乗って運河(うんが)を下りて来た。そのおくさんと話をしているうち、おくさんはいつも独(ひと)りぼっちでたいくつしているむすこさんの遊(あそ)び相手(あいて)を探(さが)しているところなので、リーズをもらって行って、教育してみようと言ったのさ。おくさんの言うのには、この子を医者にみせたら、おしが治(なお)っていつか口がきけるようになろうということだからと言った。それでいよいよたって行くときに、リーズがおばさんに、もしおまえさんがここへ訪(たず)ねて来たら、こうこう言ってくれということづけをたのんで行ったそうだ。それだけですよ」
 わたしはなんと言おうか、ことばの出ないほどおどろいた。でもマチアはわたしのようにぼんやりはしなかった。
「そのイギリスのおくさんはどこへ行ったでしょう」
「スイスへね。リーズはわたしの所に向けて、おまえさんにあげるあて名を書いて寄(よ)こすはずだったが、まだ手紙は受け取らないよ」


     生きた証拠(しょうこ)

「さあ、進め、子どもたち」婦人(ふじん)に礼を言ってしまうと、マチアがこうさけんだ。
「こうなるとぼくたちがあとを追うのは、アーサとミリガン夫人(ふじん)だけではなく、リーズまでいっしょなのだ。なんという幸せだ。どういう回り合わせになるか、わかったものではないなあ」
 わたしたちはそれからまた白鳥号探索(たんさく)の旅を続(つづ)けた。ただ夜とまって、ときどきすこしの金を取るだけに足を止めた。
「スイスからはイタリアへ出るのだ」とマチアが感情(かんじょう)をこめて言った。「もしミリガン夫人(ふじん)を追いかけて行くうちに、ルッカまで出たら、ぼくの小さいクリスチーナがどんなにうれしがるだろうな」
 気のどくなマチア、かれはわたしのために、わたしの愛(あい)する人たちを探(さが)すことに骨(ほね)を折(お)っている。しかもわたしはかれを小さな妹に会わせるためにはすこしも骨を折ってはいないのだ。
 リヨンで、わたしたちは、白鳥号の便(たよ)りを聞いた。それはほんの六週間わたしたちよりまえにそこを通ったのであった。それではいよいよスイスまで行かないうちに追い着くかもしれないと思った。そのときはまだ、ローヌ川からジュネーヴの湖水までは船が通らないことを知らなかった。わたしたちはミリガン夫人(ふじん)がまっすぐに船でスイスへ行ったものと思っていた。
 するとそのつぎの町でふと白鳥号の姿(すがた)を遠くに見つけたとき、どんなにわたしはびっくりしたであろう。わたしたちは河岸(かし)についてかけ出した。どうしたということだ。小舟(こぶね)の上はどこもここも閉(し)めきってあった。ろうかの上に花もなかった。アーサはどうかしたのかしらん。わたしたちはおたがいに同じようなしずみきった顔を見合わせながら立ち止まった。
 するとそのとき船を預(あず)かっていた男がわたしたちに、イギリスのおくさんは病人の子どもと、おしの小むすめを連(つ)れてスイスへ出かけたと言った。かれらは一人女中を連れて、馬車に乗って行った。あとの家来は荷物を運(はこ)びながら、続(つづ)いて行った。
 これだけ聞いて、わたしたちはまた息が出た。
「それでおくさんはどちらに行かれたのでしょう」とマチアがたずねた。
「おくさんはヴヴェーに別荘(べっそう)を持っておいでだ。だがどのへんだかわからない。なんでも夏はそこへ行ってくらすことになっているのだ」
 わたしたちはヴヴェーに向かって出発した。もう向こうはずんずん歩いて行く旅ではない、足を止めているのだから、ヴヴェーへ行って探(さが)せば、きっとわかる。
 こうしてわたしたちがヴヴェーに着いたときには、かくしに三スーの金と、かかとをすり切った長ぐつだけが残(のこ)った。でもヴヴェーは思ったように小さな村ではなかった。それはかなりな町で、ミリガン夫人(ふじん)はとか、病人の子どもとおしのむすめを連(つ)れたイギリスのおくさんはとか言ってたずねたところで、いっこうばかげていることがわかった。ヴヴェーにはずいぶんたくさんのイギリス人がいた。その場所はほとんどロンドン近くの遊山場(ゆさんば)によく似(に)ていた。いちばんいいしかたは、あの人たちが住んでいそうな家を一けん一けん探(さが)して歩くことである。そしてそれはたいしてむずかしいことではないであろう。わたしたちはただ町まちで音楽をやって歩けばいいのだ。
 それで毎日根(こん)よくほうぼうへ出かけて、演芸(えんげい)をやって歩いた。けれどまだミリガン夫人(ふじん)の手がかりはなかった。
 わたしたちは湖水から山へ、山から湖水へ、右左を見て、しじゅう往来(おうらい)の人の顔つきをのぞいたり、ことばを聞いて、返事をしてくれそうな人にたずねて歩いた。ある人はわたしたちを山の中腹(ちゅうふく)に造(つく)りかけた別荘(べっそう)へ行かせた。また一人は、その人たちは湖水のそばに住んでいると断言(だんげん)した。なるほど山の別荘に住んでいるのもイギリスのおくさんであった。湖水のそばに家を持っていたのもイギリスのおくさんであったが、わたしたちのたずねるミリガン夫人(ふじん)ではなかった。
 ある日の午後、わたしたちは例(れい)のとおり往来(おうらい)のまん中で音楽をやっていた。そこに大きな鉄の門のある家があった。母屋(おもや)は園(その)のおくに引っこんで建(た)っていた。前には石のかべがあった。わたしはありったけの高い声で歌を歌っていた。例のナポリの小唄(こうた)の第一節(せつ)を歌って第二節にかかろうとしていたとき、か細いきみょうな声で歌う声がした。だれだろう。なんというふしぎな声だろう。
「アーサじゃないかしら」とマチアが聞いた。
「いいや、アーサではない。ぼくはこれまであんな声を聞いたことがなかった」
 けれどそのうちカピがくんくん言い始めた。はげしい歓喜(かんき)の表情(ひょうじょう)のありったけを見せて、かべに向かってとびかかっていた。
「だれが歌を歌っているのだ」と、わたしはもう自分をおさえることができなくなってさけんだ。
「ルミ」と、そのときそのきみょうなか細い声がさけんだ。いまのわたしのことばに返事をする代わりに、わたしの名前を呼(よ)んだのだ。
 マチアとわたしはかみなりに打たれたようにおたがいに顔を見合わせた。わたしたちがあっけにとられて、てんでんの顔を見合ったまま立っていると、かべの向こうにハンケチが一枚(まい)ひらひらしているのが見えた。わたしたちはそこへかけ出して行った。わたしたちは、園(その)の向(む)こう側(がわ)を取り巻(ま)いているかきねのそばまで行ってみて、初(はじ)めてハンケチをふっている人を見つけた。
「リーズだ」
 とうとうわたしたちはかの女を見つけた。もう遠くない所にミリガン夫人(ふじん)も、アーサもいるにちがいなかった。
「でもだれが歌を歌ったのだろう」
 これがマチアもわたしも、やっとことばが出るといきなり持ち出した質問(しつもん)であった。
「わたしよ」とリーズが答えた。
 リーズが歌っていた。リーズが話しかけていた。
 医者は、いつかリーズがかの女のことばを取り返すだろう、それはたぶんはげしい感動の場合だと言っていたが、わたしはそんなことができるはずがないと思っていた。でも目の前に奇跡(きせき)は行われた。そしてそれはわたしがかの女の所に来て、いつも歌い慣(な)れたナポリ小唄(こうた)を歌うのを聞いて、はげしい感動を起こしたしゅんかんに、かの女がその声を回復(かいふく)したことがわかった。わたしはそう思って、深く心を打たれたあまり、両手を延(の)ばしてからだをまっすぐにした。
「ミリガン夫人(ふじん)はどこにいるの」とわたしはたずねた。「それからアーサは」
 リーズはくちびるを動かしたが、ほんの聞き取れない音を出しただけで、じれったくなって、いつもの手まねのことばになった。かの女はまだことばをほんとうに出すだけに器用(きよう)に舌(した)が働(はたら)かなかった。
 かの女はそのとき園(その)を指さした。そこにアーサが病人用のねいすにねているのを見た。そのそばに母の夫人(ふじん)がいた。そしてもう一つこちらには……ジェイムズ・ミリガン氏(し)がいた。
 こわくなって、実際(じっさい)戦慄(せんりつ)して、わたしはかきねの後ろにはいこんだ。リーズはわたしがなぜそんなことをするか、ふしぎに思ったにちがいない。そのときわたしは手まねをして、かの女に向こうへ行かせた。
「おいで、リーズ。それでないとぼくが、災難(さいなん)に会うから」とわたしは言った。「あした九時にここへおいで。一人でだよ。そのとき話してあげるから」
 かの女はしばらくちゅうちょしたが、やがて園へはいって行った。
「ぼくたちはミリガン夫人(ふじん)に話をするのをあしたまで待っていてはいけない」とマチアが言った。「こう言ううちもあの悪おじさんがアーサを殺(ころ)しかねない。あの人はまだぼくの顔は知らないのだから、ぼくはすぐにミリガン夫人(ふじん)に会いに行って話をする」
 マチアの言うところに道理があったので、わたしはかれを出してやった。わたしはしばらくのあいだ、少しはなれた大きなくりの木のかげに待っていることにした。
 わたしは長いあいだマチアを待った。十何度も、わたしはかれを出してやったのが、失敗(しっぱい)ではなかったかと疑(うたが)った。
 やっとのことで、わたしはかれがミリガン夫人(ふじん)を連(つ)れてもどって来るのを見た。わたしはあわてて夫人のほうへかけて行って、わたしに差(さ)し出された手をつかんで、その上にからだをかがめた。しかしかの女は両うでをわたしのからだに回して、こごみながら優(やさ)しくわたしの額(ひたい)にキッスした。
「まあ、どうおしだえ」と夫人(ふじん)はつぶやいた。
 夫人は美しい白い指で、わたしの額髪(ひたいがみ)をなでて、長いあいだわたしの顔を見た。
「そうだそうだ」とかの女は優(やさ)しく独(ひと)り言(ごと)をささやいた。
 わたしはあまり幸福で、ひと言もものが言えなかった。
「マチアとわたしは長いあいだお話をしましたよ」とかの女は言った。「でもわたしはあなたがどうしてドリスコルのうちへ行くようになったか、あなたの口から聞きたいと思うのですよ」
 わたしはかの女に問われるままに答えた。そしてかの女は、そのあいだときどき口をはさんで、所どころ要点(ようてん)を確(たし)かめるだけであった。わたしはこれほどの熱心(ねっしん)をもって話を聞いてもらったことがなかった。かの女の目はすこしもわたしからはなれなかった。
 わたしが話をしてしまったとき、かの女はしばらくだまって、わたしの顔を見つめていた。最後(さいご)にかの女は言った。
「これはなかなか重大なことだから、よく考えなければならない。けれどいまからあなたはアーサのお友だち……」
 こう言ってかの女はすこしちゅうちょしながら、「兄弟だと思ってください。二時間たったら、ザルプというホテルへ来てください。さしあたりそこに待っていてくれれば、だれか人を寄(よ)こしてそちらへ案内(あんない)させますから。ではしばらくごめんなさいよ」
 ふたたび夫人(ふじん)はわたしにキッスした。そしてマチアと握手(あくしゅ)をして、足早に歩いて行った。
「きみはミリガン夫人(ふじん)になにを話したのだ」とわたしはマチアに質問(しつもん)した。
「あの人がいまきみに言っただけのことさ。それからまだいろいろなことをね」とかれは答えた。
「ああ、あの人は親切なおくさんだね。りっぱなおくさんだね」
「アーサにも会ったかい」
「ほんの遠方から。でもりっぱな子どもだということはよくわかった」
 わたしはまだマチアに質問(しつもん)し続(つづ)けた。けれどもかれは、何事もぼんやりとしか答えなかった。
 わたしたちは相変(あいか)わらずぼろぼろの旅仕度であったが、ホテルでは黒の礼服に白のネクタイをした給仕(きゅうじ)に案内(あんない)をされた。かれはわたしたちを居間(いま)へ連(つ)れて行った。わたしたちの寝部屋(ねべや)をわたしはどんなに美しいと思ったろう。そこには白い寝台(ねだい)がならんでいた。窓(まど)は湖水を見晴らす露台(ろだい)に向かって開いていた。給仕は「夕食にはなんでもお好(この)みのものを」と言った。そうして、よければ露台へ食卓(しょくたく)を出そうかとも言った。
「タルトがありますか」とマチアがたずねた。
「へえ、大黄(だいおう)のタルトでも、いちごのタルトでも、すぐりの実のタルトでも」
「よし。ではそのタルトをぜひ出してください」
「三種(しゅ)ともみんな出しますか」
「むろん」
「それからお食事は。肉はなんにいたしましょう。野菜(やさい)は……」
 いちいちの口上(こうじょう)にマチアは目を丸(まる)くした。でもかれはいっこう閉口(へいこう)したふうを見せなかった。
「なんでもいいように見計らってください」とかれは冷淡(れいたん)に答えた。
 給仕(きゅうじ)はもったいぶって部屋(へや)を出て行った。
 そのあくる日ミリガン夫人(ふじん)は、わたしたちに会いに来た。かの女は洋服屋とシャツ屋を連(つ)れて来た。わたしたちの服とシャツの寸法(すんぽう)を計らせた。ミリガン夫人は、リーズがまだ話をしようと努(つと)めていることを話して、医者はもうじき治(なお)ると言っていると言った。それから一時間わたしたちの所にいて、またわたしに優(やさ)しくキッスし、マチアと固(かた)い握手(あくしゅ)をして、出て行った。
 四日続(つづ)けてかの女は来た。そのたんびにだんだん優しくも、愛情(あいじょう)深(ぶか)くもなっていったが、やはりいくらかひかえ目にするところがあった。五日目に、わたしが白鳥号でおなじみになった女中が夫人(ふじん)の代わりに来て、ミリガン夫人(ふじん)がわたしたちを待ち受けている、もうおむかえの馬車がホテルの門口(かどぐち)に来ていると言った。マチアはさっそく一頭引きの馬車の上に、むかしから乗りつけている人のように乗りこんだ。カピもいっこうきまり悪そうなふうもなく中へとびこんで、ビロードのしとねの上にゆうゆうと上がりこんだ。
 馬車の道はわずかであった。あまりわずかすぎたと思った。わたしはゆめの中を歩いている人のように、ばかげた考えで頭の中がいっぱいであった。いや、すくなくともわたしの考えたことはばかげていたらしかった。わたしたちは客間に通された。ミリガン夫人(ふじん)と、アーサと、リーズがそこにいた。アーサは手を差(さ)し延(の)べた。わたしはかれのほうへかけ出して行って、それからリーズにキッスした。ミリガン夫人はわたしにキッスした。「やっとのことで」とかの女は言った。「あなたのものであるはずの位置(いち)に、あなたを置(お)くことができるようになりました」
 わたしはこう言われたことばの意味を話してもらおうと思って、かの女の顔を見た。かの女はドアのほうへ寄(よ)って、それを開けた。そのときこそほんとうにびっくりするものが現(あらわ)れた。バルブレンのおっかあがはいって来た。その手には赤んぼうの着物、同じカシミアの外とう、レースのボンネット、毛糸のくつなどをかかえていた。かの女がこれらの品物を机(つくえ)に置(お)くか置かないうちに、わたしはかの女をだきしめた。わたしがかの女にあまえているあいだに、ミリガン夫人(ふじん)は召使(めしつか)いに何か言いつけた。
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