家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

「わたしは目が見えなくなったかしらん」と親方は低(ひく)い声で言って、両手を目に当てた。「森についてまっすぐにおいで。手を貸(か)しておくれ」
「おや、へいがあります」
「いいや、それは石の山だよ」
「いいえ、確(たし)かにへいです」
 親方は、一足はなれて、ほんとうにわたしの言ったとおりであるか、試(ため)してみようとした。かれは両手をさし延(の)べてへいにさわった。
「そうだ、へいだ」とかれはつぶやいた。「入口はどこだ。車の輪(わ)のあとのついた道を探(さが)してごらん」
 わたしは地べたに身をかがめて、へいの角(かど)の所まで残(のこ)らずさわってみたが、入口はわからなかった。そこでまたヴィタリスの立っている所までもどって、今度は向こうの側(がわ)をさわってみた。結果(けっか)は同じことであった。入口もなければ門もなかった。
「なにもありません」とわたしは言った。
 情(なさ)けないことになった。疑(うたが)いもなく親方は思いちがいをしていた。たぶんここには石切り場などはないのだ。ヴィタリスはしばらくゆめの中をたどっているように、ぼんやりつっ立っていた。カピはがまんができなくなってほえ始めた。
「もっと先を見ましょうか」とわたしは聞いた。
「いや石切り場にへいが建(た)ったのだ」
「へいが建った」
「そうだ、入口をふさいでしまったのだ。中へはいることはできなくなったのだ」
「へえ、じゃあ」
「どうするって。もうわからなくなった。ここで死ぬのさ」
「まあ親方……」
「そうだ。おまえは死にはしない。おまえはまだ若(わか)いのだから。さあ歩こう。まだ歩けるかい」
「おお、でもあなたは」
「いよいよ行けなくなったら、老(お)いぼれ馬(うま)のようにたおれるだけさ」
「どこへ行きましょう」
「パリへもどるのだ。巡査(じゅんさ)に出会ったら、警察(けいさつ)へ連(つ)れて行ってもらうのだ。わたしはそれをしたくなかったが、おまえをこごえ死にさせることはできない。さあ、おいで、ルミ。さあ、前へ進め、子どもたち、元気を出せ」
 わたしたちはもと来た道をまた引っ返した。何時であったかわたしはまるでわからない。なんでも何時間も何時間も長い長いあいだそれはのろのろと歩いた。きっと十二時か一時にもなったろう。空は相変(あいか)わらずどんよりしてすこしばかり星が出ていた。その出ていたすこしばかりの星もいつもよりはずっと小さいように思われて、風の勢(いきお)いは強くなるばかりであった。往来(おうらい)の家は戸閉(とじ)まりをしっかりしていた。そこに、夜着にくるまってねむっている人たちも、わたしたちが外でどんなに寒い目に会っているか、知っていたら、わたしたちのためにそのドアを開けてくれたろうと思われた。
 親方はただのろのろ歩いた。息がだんだんあらくなって、長い道をかけた人のようにせいせい言っていた。わたしが話しかけると、かれはだまっていてくれという合図をした。
 わたしたちはもう野原をぬけて、いまは町に近づいていた。そこここのへいとへいとの間にガス燈(とう)がちらちらしていた。親方は立ち止まったとき、かれがいよいよ力のつきたことをわたしは知った。
「一けんどこかのうちをたたきましょうか」とわたしはたずねた。
「いいや、入れてくれはしないよ。このへんに住んでいるのは植木屋だ。朝早く市場へみんな出かけるのだ。この時刻(じこく)にどうして起きてうちへ入れてくれるものか。さあ行こう」
 しかし意地は張(は)っても、からだの力はまったくつきていた。しばらくしてまたかれは立ち止まった。
「すこし休まなければ」とかれは力なく言った。「わたしはもう歩けない」
 さくで大きな花園を囲(かこ)った家があった。その門のそばの積(つ)みごえの山にかけてあるたくさんのわらを、風が往来(おうらい)のさくの根かたにふきつけていた。
「わたしはここにすわろう」と親方が言った。
「でもすわれば、今度立ち上がることができなくなるとおっしゃったでしょう」
 かれは返事をしなかった。ただわたしに手まねをして、門の前にわらを積(つ)み上げるようにと言った。このわらのしとねの上にかれはすわるというよりばったりたおれた。かれの歯はがたがた鳴って、全身がひどくふるえた。
「もっとわらを持っておいで」とかれは言った。「わらをたくさんにして風を防(ふせ)ごう」
 まったく風がひどかった。寒さばかりではなかった。わたしは集められるだけありったけのわらを集めて親方のわきにすわった。
「しっかりわたしにくっついておいで」とかれは言った。「カピをひざに乗せておやり。からだのぬくみでおまえもいくらか温かくなるだろう」
 親方ほどの経験(けいけん)を積(つ)んだ人がいまの場合こんなまねをすればこごえて死んでしまうことはわかりきっているのに、その危険(きけん)を平気でおかすということは、もう正気ではなかつた証拠(しょうこ)であった。実際(じっさい)久(ひさ)しいあいだの心労(しんろう)と老年(ろうねん)に、この最後(さいご)の困苦(こんく)が加(くわ)わって、かれはもう自分を支(ささ)える力を失(うしな)っていた。自分でもどれほどひどくなっているか、かれは知っていたろうか。わたしがかれのそばにぴったりはい寄(よ)ったときに、かれは身(み)をかがめてわたしにキッスした。これがかれがわたしにあたえた二度目のキッスであった。そしてああ、それが最後(さいご)のキッスであった。
 わたしは親方にすり寄(よ)ったと思うと、もう目がくっついたように思った。わたしは目を開けていようと努(つと)めたができなかった。うでをつねっても、肉にはなんの感じもなかった。わたしがひざを立てたその間にもぐって、カピはもうねむっていた。風はわらのたばを木からかれ葉をはらうようにわたしたちの頭にふきつけた。往来(おうらい)には人ひとりいなかった。わたしたちのぐるりには死の沈黙(ちんもく)があった。
 この沈黙(ちんもく)がわたしをおびえさせた。なにをわたしはこわがっているのだ。わたしはわからなかったが、とりとめもない恐怖(きょうふ)がのしかかってきた。わたしはここで死にかけているように思った。そう思うとたいへん悲しくなった。
 わたしはシャヴァノンを思い出した。かわいそうなバルブレンのおっかあを思い出した。わたしはかの女をもう一度見ることなしに、わたしたちの小さな家や、わたしの小さな花畑を見ることなしに死ななければならないのだ……。
 するうちわたしはもう寒くはなくなった。わたしはいつか自分の小さな花畑に帰って来たように思った。太陽はかがやいていて、それはずいぶん暖(あたた)かかった。きくいもが金の花びらを開いていた。小鳥がこずえの中やかきねの上で鳴いていた。そうだ、そうしてバルブレンのおっかあがさざ波を立てている小川へ出て、いま洗(あら)ったばかりの布(ぬの)を外へ干(ほ)している。
 わたしはシャヴァノンをはなれて、アーサとミリガン夫人(ふじん)といっしょに白鳥号に乗っている。
 やがてまた目が閉(と)じた。心が重たくなったように思った。そしてもうなにも覚(おぼ)えてはいなかった。


     リーズ

 目を覚(さ)ますとわたしは寝台(ねだい)の上にいた。大きな炉(ろ)のほのおがわたしのねむっている部屋(へや)を照(て)らした。わたしはついぞこの部屋を見たことがなかった。わたしを取り巻(ま)いて寝台のそばに立っている人たちの顔も知らなかった。そこにねずみ色の背広(せびろ)を着て、木のくつをはいた男と、三、四人の子どもがいた。その中でことに目についたのは六つばかりの小さな女の子で、それはすばらしく大きな目がいまにもものを言うかと思うように、いかにも生き生きとかがやいていた。
 わたしはひじで起き上がった。みんながそばへ寄(よ)って来た。
「ヴィタリスは」とわたしはたずねた。
「あの子は父さんを探(さが)しているのだよ」と、子どもたちの中でいちばん総領(そうりょう)らしいのが言った。
「あの人は父さんではありません。親方です」とわたしは言った。「どこへ行きました。カピはどこにいますか」
 ヴィタリスがほんとうの父親であったなら、たぶんこの人たちもえんりょしいしいこの知らせを伝(つた)えたかもしれない。けれどその人はほんの親方というだけであったと知ると、かれらはいきなり事実を打ち明けて聞かしてくれた。
 みんなの話では、あの気のどくな親方は死んだのであった。わたしたちがつかれきってたおれたその門の中に住んでいた植木屋が見つけたのであった。あくる朝早く、かれのむすこが野菜(やさい)や花を持って市場へ出かけようとするときに、かれらはわたしたちがいっしょにしもの上に固(かた)まって、すこしばかりのわらをかぶってねむっていたのを見つけた。ヴィタリスはもう死んでいた。わたしも死ぬところであったのを、カピが胸(むね)の所へはいって来て、わたしの心臓(しんぞう)を温(あたたか)かにしていてくれたために、かすかな気息(きそく)が残(のこ)っていた。かれらはわたしたちをうちの中に運び入れて、子どもたちの一人の温かい寝台(ねだい)の上にねかしてくれたのである。それから六時間ほど、まるで死んだようになってねていたが、血のめぐりがついてくると、呼吸(こきゅう)も強く出るようになった。そうしてとうとう目を覚(さ)ましたのであった。
 わたしはからだもたましいもまったくしびれきったようになっていたが、このときはもうかれらの話を聞いてわかるだけに覚(さ)めていたのであった。
 ああ、ヴィタリスは死んでしまったのである。
 この話をしてくれたのは、ねずみ色の背広(せびろ)を着た人であった。この人の話をしているあいだ、びっくりした目をして、じつとわたしを見つめていた女の子は、ヴィタリスが死んだと聞いて、わたしがいかにもがっかりしたふうをしたのを見つけると、そこを立って父のそばへ行き、片手(かたて)を父のうでにかけ、片手でわたしのほうを指さしながらなにか話をした。話といっても、ふつうのことばでなく、ただ優(やさ)しい、しおらしい嘆息(たんそく)の声のようなものであった。
 それにかの女の身ぶりと目つきとは、べつにことばの助けを借(か)りる必要(ひつよう)のないほどじゅうぶんにものを言って、そこによけい自然(しぜん)な情愛(じょうあい)がふくまれているようであった。
 アーサと別(わか)れてこのかた、わたしはつい一度もこんなに取りすがりたいような、親切のこもった、ことばに言えない情味(じょうみ)を感じたことはなかった。それはちょうど、バルブレンのおっかあが、いつもキッスするまえにわたしをながめるときのような感じであった。ヴィタリスが死んで、わたしは世の中に置(お)き去りにされたが、でももう独(ひと)りぼっちではない、という気がした。わたしを愛(あい)してくれる者が、まだそばにいるような気持ちがした。
「ああ、そうだ、リーズの言うとおりだ。こりゃああの子も聞くのがつらいだろうが、やはりほんとうのことは言わねばならぬ。わたしたちが言わないでも、巡査(じゅんさ)が話すだろうから」
 お父さんはむすめのほうへ向きながら言った。そうしてなお話を続(つづ)けながら、警察(けいさつ)に届(とど)けたことや、巡査がヴィタリスを運んで行ったことや、わたしを長男のアルキシーの寝台(ねだい)にねかしたことなどを残(のこ)らず話してくれた。この話のすむのを待ちかねて、
「それからカピは――」とわたしは聞いた。
「なに、カピ」
「ええ。犬です」
「知らないよ。いなくなったよ」
「あの犬はたんかについて行ったよ」と子どもたちの一人が言った。「バンジャメン、おまえ見たかい」
「ぼくよく知ってるよ」ともう一人の子が答えた。「あの犬は釣台(つりだい)のあとからついて行った。首を垂(た)れてときどきたんかにとび上がった。下にいろと言われると、犬はなんだかおそろしい声でうなったり、ほえたりした」
 かわいそうなカピ。役者であったじぶん、あの犬は何度ゼルビノのお葬式(そうしき)を送るまねをしたであろう。それはどんなにまじめくさった子どもでも、あの犬の悲しい様子を見ては笑(わら)わずにはいられなかった。カピが泣(な)けば泣くほど見物はよけい笑った。
 植木屋と子どもたちはわたしを一人置(お)いて出て行った。まったくどうしていいか、どうしようというのかわからずに、わたしは起き上がって、着物を着かえた。わたしのハープはねむっていた寝台(ねだい)のすそに置(お)いてあった。わたしは肩(かた)に負い皮をかけて、家族のいる部屋(へや)へと出かけて行った。わたしはなんでも出かけて行かなければならない気がするが、さてどこへ行こうか。ねどこにいるうちはそんなに弱っているとも思わなかったが、起きてみるともう立つことが苦しかった。わたしはいすにすがって、やっと転(ころ)がらないょうに、からだを支(ささ)えなければならなかった。うちの人たちは炉(ろ)の前の食卓(しょくたく)に向かって、キャベツのスープをすすっていた。そのにおいがわたしにとってはあんまりであった。わたしはゆうべなんにも食べなかったことをはげしく思い出した。わたしは気が遠くなるように思って、よろよろしながら炉(ろ)ばたのいすにこしを落とした。
「おまえさん、気分がよくないか」と植木屋がたずねた。
 わたしはかれに、どうも具合の悪いことを話した。そうしてしばらく火のそばへ置(お)いてくれとたのんだ。
 でもわたしの欲(ほっ)していたのは火ではなかった。それは食物であった。わたしはうちの者がスープを吸(す)うところをながめて、だんだん気が遠くなるように思えた。わたしがかまわずにやるなら一ぱいくださいと言うところであったが、ヴィタリスはわたしにこじきはするなと教えた。わたしはかれらにおなかが減(へ)っているとは言いださなかった。なぜだろう。わたしはひもじゅうございますと言うよりは、なにも食べずに死んでしまうほうがよかった。
 あの目にきみょうな表情(ひょうじょう)を持った女の子は――名前をリーズと呼(よ)ばれていたが、わたしの向こうにこしをかけていた。この子はなにも言わずに、じっとわたしのほうを見つめていたが、ふと食卓(しょくたく)から立ち上がって、一ぱいスープのはいっているおさらをわたしの所へ持って来て、ひざの上に置(お)いた。もうものを言うこともできなかったので、かすかにわたしは首をうなずかせて、お礼(れい)を言った。よし、わたしがものを言えたとしても、父親が口をきかせるひまをあたえなかった。
「おあがり」とかれは言った。「リーズが持って行ったのは、優(やさ)しい心でしたのだからね。もっと欲(ほ)しければまだあるよ」
 もっと欲しいかと言うのか。一ぱいのスープはみるみる吸(す)われてしまった。わたしがスープを下に置(お)くと、前に立ってながめていたリーズがかわいらしい満足(まんぞく)のため息をした。それからかの女はわたしの小ざらを取って、また父の所へ一ぱい入れてもらいに行った。いっぱいにしてもらうと、かの女はかわいらしい笑顔(えがお)をしながら、また持って来た。それがあんまりかわいらしいので、腹(はら)は減(へ)っていても、わたしは小ざらを取ることを忘(わす)れて、じっとその顔に見とれたくらいであった。二はい目の小ざらもさっそく初(はじ)めのと同様になくなった。もう子どもたちもくちびるをゆがめて微笑(びしょう)するくらいではすまなくなった。みんなはいっぱい口を開けて笑(わら)いだしてしまった。
「どうもおまえ、なかなかいけるねえ。まったく」とかの女の父親が言った。
 わたしはたいへんはずかしかった。けれどもそのうちわたしは食いしんぼうと思われるよりもほんとうの話を打ち明けてしたほうがいいと思ったので、じつはゆうべ晩飯(ばんめし)を食べなかったことを話した。
「それではお昼は」
「お昼もやはり食べません」
「では親方は」
「あの人も、やはりどちらも食べませんでした」
「ではあの人は寒さばかりでなく、飢(かつ)えて死んだのだ」
 熱(あつ)いスープがわたしに元気をつけてくれた。わたしは立ち上がって、出かけようとした。
「おまえさん、どうするのだ」と父親がたずねた。
「おいとまいたします」
「どこへ行く」
「わかりません」
「パリにだれか友だちか親類(しんるい)でもあるのかい」
「いいえ」
「宿(やど)はどこだね」
「宿はありません。ついきのうこの町へ来たばかりです」
「ではなにをしようというのだね」
「ハープをひいたり、歌を歌ったりして、すこしのお金をもらいます」
「パリでかい。おまえさん、それよりかいなかのご両親の所へ帰ったほうがいいだろう。ご両親はどこに住んでいなさる」
「わたしには両親がありません」
「あのひげの白いじいさんは、父さんではないというじゃないか」
「ええ、ほかにも父さんはありません」
「母さんは」
「母さんもありません」
「おじさんか、おばさんか、親類(しんるい)は」
「なにもありません」
「どこから来たのだね」
「親方はわたしを養母(ようぼ)の夫(おっと)の手から買ったのです。あなたがたは親切にしてくだすったし、ぼくは心からありがたく思っています。ですからおいやでなければ、わたしは日曜日にここへもどって来て、あなたがたのおどりに合わせてハープをひいてあげましょう」
 こう言いながらわたしは戸口のほうへ行きかけたが、ほんの二足三足で、すぐあとからわたしについて来たリーズが、わたしの手を取ってハープを指さした。
「あなた、いまひいてもらいたいの」と、わたしはかの女に笑(わら)いかけながらたずねた。かの女はうなずいて手をたたいた。
「うん。ひいてやっておくれ」とかの女の父親は言った。
 わたしはハープをひく元気はなかったけれど、このかわいらしい女の子のためにいちばんかわいらしいワルツをひいてやらずにはいられなかった。
 はじめかの女は大きな美しい目をじっとわたしに向けて聞いていたが、やがて足で拍子(ひょうし)を合わせ始めた。するうち、うれしそうに食堂(しょくどう)の中をおどり歩いた。かの女の兄弟たちはその様子をだまってながめていた。かの女の父親もうれしがっていた。ワルツがすむと、子どもはやって来て、わたしにかわいらしいおじぎをした。そして指でハープを打って「アンコール」(もう一つ)という心持ちを示(しめ)した。
 わたしはこの子のためには一日でもひいていてやりたかったが、父親はもうそれだけおどればたくさんだと言った。そこでワルツや舞踏曲(ぶとうきょく)の代わりに、わたしはヴィタリスが教えてくれたナポリ小唄(こうた)を歌った。リーズはわたしの向こうへ来て立って、あたかも歌のことばをくり返しているようにくちびるを動かした。するとかの女はくるりとふり向いて、泣(な)きながら父親のうでの中にとびこんだ。
「それで音楽はけっこう」と父親が言った。
「リーズはばかじゃないか」とバンジャメンと呼(よ)ばれた兄弟があざけるように言った。「はじめはおどりをおどって、今度は泣(な)くんだもの」
「あの子はあんたのようにばかではないわ」と総領(そうりょう)の姉(あね)が小さい妹をいたわるようにのぞきこみながら答えた。
「この子にはよくわかったのだよ……」
 リーズが父親のひざの上で泣(な)いているあいだにわたしはまたハープを肩(かた)にかけて行きかけた。
「おまえさん、どこへ行く」と植木屋がたずねた。
「おいとまいたします」
「おまえさん、やはり芸人(げいにん)でやっていくつもりかい」
「でもほかにすることがありませんから」
「旅でかせぐのはつらいだろう」
「だってうちがありませんから」
「それはそうだろうが、夜というものがあるからね」
「それは、わたしだって寝台(ねだい)にねたいし、火にも当たりたいと思います」
「火に当たったり寝台にねるには、それそうとう働(はたら)かなければならないが、おまえはどうだね。このうちにいて働く気はないか。なかなか楽な仕事ではないが、それは朝もずいぶん早くから起きて、まる一日働かなければならないけれど、ただおまえがゆうべ出会ったような目にはけっして二度と出会う気づかいはなかろうよ。おまえはねどこも、食べ物も得(え)られるし、自分で働(はたら)いてそれを得たという満足(まんぞく)もあろうというものだ。それでおまえがわしが考えているようにいい子どもであるなら、同じうちの者にして、いっしょにくらしてゆきたいとも思っているのだよ」
 リーズがふり返って、なみだの中からわたしをながめてにっこりした。
 わたしはいま聞いたことをほとんど信(しん)ずることができなかった。わたしはただ植木屋をながめていた。
 するとリーズが、父親のひざからとんで来て、わたしの手を取った。
「うん、どうだね、おまえ」と父親がたずねた。
 家族だ。わたしは家族を持つようになった。わたしは独(ひと)りぼっちではなくなるのだ。いいゆめよ。今度は消えずにいてくれ。
 わたしが四、五年いっしょにくらして、ほとんど父親のようであった人は死んだ。なつかしい、優(やさ)しいカピは、わたしがあれほど愛(あい)した仲間(なかま)でもあり友だちでもあったカピは、いなくなった。わたしはなにもかもおしまいになったと思っていた。ところへこのいい人がわたしを自分の家族にしてやると言ってくれた。
 わたしのために新しい生涯(しょうがい)がまた始まるのだ。かれはわたしに食べ物と宿(やど)をあたえると言ったが、それよりももっとわたしにうれしかったのは、このうちの中の生活がやはりわたしのものになるということであった。この男の子たちはわたしの兄弟になるであろう。このかわいらしいリーズはわたしの妹になるであろう。わたしはもうみなし子ではなくなるであろう。わたしの子どもらしいゆめの中で、いつかわたしも父親と母親を見つけるかもしれないと思ったこともあった。けれど兄弟や妹を持とうとは考えなかった。それがわたしにあたえられようとしているのだ。わたしはさっそくハープの負い皮を肩(かた)からはずした。
「おお、それでこの子の返事がわかった」とお父さんが笑(わら)いながら言った。「わたしはおまえの顔つきで、どんなにおまえが喜(よろこ)んでいるかわかる。もうなにも言うことは要(い)らない。そのハープをかべにおかけ。いつかおまえがここにあきたら、またそれを下ろして好(す)きなほうへ行くがよろしい。けれどおまえもつばめのように、とび出して行く季節(きせつ)を選(えら)ばなければならない。まあ、冬のさ中に出て行くのだけはおよし」
 わたしの新しい家庭の場所はグラシエール、うちの名はアッケン家、植木屋が商売で、ピエール・アッケンというのがお父さんで、アルキシーに、バンジャメンという二人の男の子、それから女の子はエチエネットに、うちじゅうでいちばん小さいリーズでこれが家族残(のこ)らずであった。
 リーズはおしであった。生まれつきのおしではなかったが、四度目の誕生日(たんじょうび)をむかえるすこしまえに、病気でものを言う力を失(うしな)った。この不幸(ふこう)は、でも幸せとかの女のちえを損(そこ)ないはしなかった。その反対にかの女のちえはなみはずれた程度(ていど)に発達(はったつ)した。かの女はなんでもわかるらしかった。でもその愛(あい)らしくって、活発で優(やさ)しい気質(きしつ)が、うちじゅうの者に好(す)かれていた。それで病身の子どもにありがちのうちじゅうのきらわれ者になるようなことのないばかりか、リーズのいるために、うちじゅうがおもしろくくらしている。むかしは貴族(きぞく)の家の長子に生まれると福分(ふくぶん)を一人じめにすることができたが、今日の労働者(ろうどうしゃ)の家庭では、総領(そうりょう)はいちばん重い責任(せきにん)をしょわされる。母親が亡(な)くなってから、エチエネットが家庭の母親であった。かの女は早くから学校をやめさせられ、うちにいてお料理(りょうり)をこしらえたり、お裁縫(さいほう)をしたり、父親や兄弟たちのために家政(かせい)を取らなければならなかった。かれらはみんなかの女がむすめであり、姉(あね)であることを忘(わす)れきって、女中の仕事をするのばかり見慣(みな)れていた。いくらひどく使っても出て行く心配もなければ、不平(ふへい)を言う気づかいもない重宝(ちょうほう)な女中であった。かの女が外へ出ることはめったになかったし、けっしておこったこともなかった。リーズをうでにかかえてベンニーの手を引きながら、朝は暗いうちから起きて、父親の朝飯(あさめし)をこしらえ、夜はおそくまでさらを洗(あら)ったりなどをしてからでなくては、とこにはいらなかったから、かの女はまるで子どもでいるひまがなかった。十四だというのにかの女の顔はきまじめにしずんでいた。それは年ごろのむすめの顔ではなかった。
 わたしはハープをかべにかけてから、ゆうべ出会った出来事をぽつぽつ話しだした。石切り場にねむろうとして失敗(しっぱい)して、それからあとの始末を一とおり話しかけて、やっと五分たつかたたないうちに、園(その)に向かっているドアを引っかく音が聞こえた。それから悲しそうにくんくん鳴く声がした。
「カピだ。カピだ」わたしはさけんですぐとび上がった。
 けれどもリーズがわたしより早かった。かの女はもうかけ出してドアを開けていた。
 カピがわたしにとびかかって来た。わたしはかれをうでにかかえた。小さな喜(よろこ)びのほえ声をたてて、全身をふるわせながら、かれはわたしの顔をなめた。
「するとカピは……」とわたしはたずねた。わたしの問いはすぐに了解(りょうかい)された。
「うん、むろんカピもいっしょにおくよ」とお父さんが言った。
 カピはわたしたちの言っていることがわかったというように、地べたにとび下りて、前足を胸(むね)に置(お)いておじぎをした。それが子どもたち、とりわけリーズを笑(わら)わせた。で、よけいかれらを喜(よろこ)ばせるために、わたしはカピに、いつもの芸(げい)をすこしして見せろと望(のぞ)んだ。けれどもかれはわたしの言いつけに従(したが)う気がなかった。かれはわたしのひざの上にとび上がって顔をなめ始めた。
 それからとび下りて、わたしの上着のそでを引き始めた。
「あの犬はわたしを外へ連(つ)れ出そうというのです」
「おまえの親方の所へ行こうというのだよ」
 親方を引き取って行った巡査(じゅんさ)は、わたしが暖(あたた)まって正気づいたら、聞きたいことがあると言ったそうだ。その巡査がいつ来るか、あやふやであった。
 でもわたしは早く報告(ほうこく)を聞きたいと思った。たぶん親方はみんなの思ったように死んではいないのだ。たぶん親方はまだ生きて帰れるのだ。
 わたしの心配そうな顔を見て、お父さんはわたしを警察(けいさつ)へ連(つ)れて行ってくれた。
 警察へ行くとわたしは長ながと質問(しつもん)された。けれどわたしはいよいよ気のどくな親方がまったく死んだという宣告(せんこく)を聞くまでは、なにも申し立てようとはしなかった。わたしは知っているだけのことは述(の)べたが、それはほんのわずかのことであった。わたし自身については、せいぜい両親のないこと、親方が前金で養母(ようぼ)の夫(おっと)に金をはらってわたしをやとったこと、それだけしか言えなかった。
「それでこれからは……」署長(しょちょう)がたずねた。
「わたくしどもでこの子を引き取ろうと思います」とわたしの新しい友人がことばをはさんだ。
「それをお許(ゆる)しくださいますならば」
 署長(しょちょう)は喜(よろこ)んでわたしをかれの手に委任(いにん)すると言った。そのうえその親切な心がけをほめた。
 自分のことはそれでいいとして、今度は親方のことを言わなければならなかった。でもまったくなんにも知らないのが事実であった。
 ただ一つわからないことは、最後(さいご)の興行(こうぎょう)のとき、どこかの夫人(ふじん)が天才(てんさい)だと言っておどろいたこと、それからガロフォリがむかしの名前をどうとか言いだして、かれをおどしたことであった。
 けれど親方があれほどかくしていたことを死んだのちにあばき立てることはいらない。でもそうは思いながら、事に慣(な)れた警官(けいかん)の前で子どもがかくしおおせるものではなかった。かれらはわけなくわなにかけて、かくしたいと思うことをずんずん言わせてしまうのである。わたしの場合がやはりそれであった。
 署長(しょちょう)はさっそくわたしから、ガロフォリについてなにもかもかぎ出してしまった。
「この子をガロフォリというやつの所へ連(つ)れて行くよりほかにしかたがない」と、かれは部下の一人に言った。「一度この子の言うルールシーヌ街(まち)へ連(つ)れて出れば、すぐその家を見つけるよ。きみはこの子といっしょに行って、その男を尋問(じんもん)してくれたまえ」
 わたしたち三人――巡査(じゅんさ)とお父さんとわたしは、いっしょに出かけた。
 署長(しょちょう)が言ったように、わたしはわけなくその家を見つけた。わたしたちは四階へ上がって行った。マチアはもう見えなかった。警官(けいかん)の顔を見て、それから見覚(みおぼ)えのあるわたしを見つけると、ガロフォリは青くなって、ぎょっとしたようであった。けれどみんなの来たのは、ヴィタリスのことをたずねるためであったことがわかると、かれはすぐに落ち着いた。
「やれやれ、じいさん、死にましたか」とかれは言った。
「おまえはその老人(ろうじん)を知っているだろう」
「はい」
「じゃああの老人について知っていることを残(のこ)らず話してくれ」
「なんでもないことでございます。あの男の名前はヴィタリスではございません。本名はカルロ・バルザニと申しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイタリアにおいででしたら、あの男についてご承知(しょうち)だったでしょう。それはほんの名前を言うだけで、どんな人物だということは残(のこ)らずおわかりになったでしょう。カルロ・バルザニと言えばそのころでいちばん有名な歌うたいでした。かれはナポリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ロンドン、それからパリでも歌いました。どこの大劇場(だいげきじょう)もたいした成功(せいこう)でした。やがてふとしたことからかれはりっぱな声が出なくなりました。もう歌うたいの中でいちばんえらい者でいることができなくなると、かれは自分の偉大(いだい)な名声に相応(そうおう)しない下等な劇場に出て、歌を歌って、だんだん評判(ひょうばん)をうすくすることをしませんでした。その代わりかれはまるっきり自分を世間の目からくらまして、全盛時代(ぜんせいじだい)にかれを知っていた人びとからかくれるようにしました。けれどもかれも生きなければなりません。かれはいろいろの職業(しょくぎょう)に手を出してみましたが、どれもうまくいきません。そこでとうとう犬を慣(な)らして、大道(だいどう)の見世物師(みせものし)にまで落ちることになりました。けれどいくらなり下がってもやはり気位(きぐらい)が高く、これが有名なカルロ・バルザニのなれの果(は)てだということを世間に知られるくらいなら、はずかしがって死んだでしょう。わたしがあの男の秘密(ひみつ)を知ったのは、ほんのぐうぜんのことでした」
 これが長いあいだ心にかかっていた秘密の正体であった。
 気のどくなカルロ・バルザニ。なつかしいヴィタリス親方。


     植木屋


 そのあくる日ヴィタリスをほうむらなければならなかった。アッケン氏(し)はわたしをお葬式(そうしき)に連(つ)れて行くやくそくをした。
 けれどその日わたしは起き上がることができなかった。夜のうちにひじょうに具合が悪くなった。ひどい熱(ねつ)が出て、はげしい寒けを感じた。わたしの胸(むね)の中は、小さなジョリクールがあの晩(ばん)木の上で過(す)ごしたとき受けたと同様、焼(や)きつくやうな熱気(ねっき)を感じた。
 実際(じっさい)わたしは胸にはげしい□衝(きんしょう)(焼きつくような感じ)を感じた。病気は肺炎(はいえん)であった。それはすなわちあの晩(ばん)気のどくな親方とわたしがこの家(や)の門口(かどぐち)にこごえてたおれたとき、寒気のために受けたものであった。
 でもこの肺炎(はいえん)のおかげで、わたしはアッケン家の人たちの親切、とりわけてエチエネットの誠実(せいじつ)をしみじみ知ったのであった。びんぼうなうちではめったに医者を呼(よ)ぶということはないが、わたしの容態(ようだい)がいかにも重くって心配であったので、わたしのため特別(とくべつ)に、習慣(しゅうかん)のためいつか当たり前になっていた規則(きそく)を破(やぶ)ってくれた。呼ばれて来た医者は長い診察(しんさつ)をしたり、細かい容態を聞いたりするまでもなく、いきなり病院へ送れと言いわたした。
 なるほどこれはいちばん簡単(かんたん)で、手数がかからなかった。でもこの父さんは承知(しょうち)しなかった。
「ですがこの子はわたしのうちの門口でたおれたんですから、病院へはやらずに、やはりわたしどもが看病(かんびょう)しなければなりません」とかれは言った。
 医者はこの因縁論(いんねんろん)に対して、いろいろうまいことばのかぎりをつくして説(と)いたが、承知(しょうち)させることができなかった。かれはわたしをどうしても看病しなければならないと考えた。そしてまったく看病してくれた。
 こうしてあり余(あま)る仕事のあるうえ、エチエネットにはまた一つ、看護婦(かんごふ)の役が増(ふ)えた。でもセン・ヴェンサン・ド・ポールの尼(あま)さんがするように、親切にしかも規則(きそく)正しく看護(かんご)してくれて、けっしてかんしゃく一つ起こさないし、なに一つ手落ちなしにしてくれた。かの女が家事のためにどうしてもついていられないときには、リーズが代わってくれた。たびたび熱(ねつ)にうかされながら、わたしは寝台(ねだい)のすそで不安心(ふあんしん)らしい大きな目をわたしに向けているかの女を見た。熱にうかされながらわたしはかの女を自分の守護天使(しゅごてんし)であるように思って、天使に向かって話をするように、自分の望(のぞ)みや願(ねが)いをかの女に打ち明けた。このときからわたしは我知(われし)らずかの女を、なにか後光に包(つつ)まれた人間以上(いじょう)のものに思うようになり、それが白い大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれわれただの人間と同様にしていることをふしぎに思ったりした。
 わたしの病気は長かったし、重かった。快(こころよ)くなってはたびたびあともどりをしたので、ほんとうの両親でもいやきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはどこまでもがまん強く誠実(せいじつ)をつくしてくれた。いく晩(ばん)かわたしは肺臓(はいぞう)が痛(いた)んで、息がつまるように思われて、ねむられないことがあった。それでアルキシーとバンジャメンが代わりばんこに、寝台(ねだい)のそばにつききりについていてくれた。
 ようようすこしずつ治(なお)りかけてきた。でも長い重病のあとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グラシエールの牧場(ぼくじょう)が青くなり始めるまで待たなければならなかった。
 そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになって、ビエーヴル川の岸のほうへわたしを散歩(さんぽ)に連(つ)れて行ってくれた。真昼(まひる)の日ざかりに、わたしたちはうちを出て、カピを先に立てて、手を組みながらそろそろと歩いた。その年の春は暖(あたた)かで、日和(ひより)がよかった。少なくともわたしは暖かな心持ちのいい記憶(きおく)を持っている。だから同じことであった。
 このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの間にある土地で、パリの人にはあまり知られていなかった。このへんに小さな谷があるということだけはぼんやり知られていたが、その谷に注(そそ)ぐ川はビエーヴル川であるから、この谷はパリの郊外(こうがい)ではいちばんきたない陰気(いんき)な所だと言いもし、信(しん)じられもしていた。だがそんなことはまるでなかった。うわさほど悪い所ではなかった。ビエーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの場末(ばすえ)で、工場地になっているというので、頭からきたない所と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジには自然(しぜん)のおもむきがあった。少なくともわたしのいたじぶんには、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を水が流れていた。その両岸には緑の牧場(ぼくじょう)が、人家や庭のある小山のほうまでだんだん上りに続(つづ)いていた。春は草が青あおとしげって、白い小ぎくが碧玉(へきぎょく)をしきつめたもうせんの上に白い星をちりばめていたし、芽出(めだ)しやなぎやポプラの若木(わかぎ)からはねっとりとやにが流れていた。そうしてうずらや、こまどりや、ひわやなんぞの鳥が、ここはまだいなかで、町ではないというように歌を歌っていた。
 これがわたしの見た小さな谷の景色(けしき)であった――その後ずいぶん変(か)わったが――それでもわたしの受けた印象(いんしょう)はあざやかに記憶(きおく)に残(のこ)っていて、ついきのうきょうのように思われる。わたしに絵がかけるなら、このポプラの林の一枚(まい)の葉をも残(のこ)すことなしにえがき出したであろう――また大きなやなぎの木を、頭の先の青くなった、とげのあるさんざしといっしょにかいたであろう。それはやなぎのかれたような幹(みき)の間に根を張(は)っていた。また砲台(ほうだい)の傾斜地(けいしゃち)をわたしたちはよく片足(かたあし)で楽にすべって下りた――それもかきたい。あの風車といっしょにうずらが丘(おか)の絵もかきたい――セン・テレーヌ寺の庭に群(むら)がっていたせんたく女もえがきたい。それから川の水をよごれくさらせていた製革(せいかく)工場もかきたい――
 もちろんこういう散歩(さんぽ)のおり、リーズはものは言えなかったが、きみょうなことに、わたしたちはなにもことばの必要(ひつよう)はなかった。わたしたちはおたがいにものを言うことなしに、了解(りょうかい)し合っているように思われた。
 そのうちにわたしにも、みんなといっしょに働(はたら)けるだけじょうぶになる日が来た。わたしはその仕事を始める日を待ちかねていた。それはわたしのためにこれだけつくしてくれた親切な友だちに、こちらからもなにかしてやりたいと思っていたからであった。わたしはこれまで仕事らしい仕事をしたことがなかった。長い流浪(るろう)の旅はつらいものではあるが、どうでもこれだけ仕上げなければというように、いっしょうけんめい張(は)りこんでする仕事はなにもなかった。けれど今度こそわたしは、じゅうぶんに働(はたら)かなければならないと感じた。少なくともぐるりにいる人たちをお手本にして、元気を出さなければならないと思った。このごろはちょうどにおいあらせいとうがパリの市場に出始める季節(きせつ)であった。それには赤いのもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その色によって分けられて、いくつかのフレームに入れられてあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列にならんでみごとであった。夕方フレームのふたをするじぶんには、花から立つかおりが風にふくれていた。
 わたしにあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの力に相応(そうおう)したものであった。毎朝しもが消えると、わたしはガラスのフレームを開けなければならなかった。夜になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければならなかった。昼のうちはわらのおおいで日よけをしてやらなければならなかった。これはむずかしい仕事ではなかったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガラスを毎日二度ずつ動かさなければならなかった。
 このあいだリーズは灌水(かんすい)に使う水上(みずあ)げ機械(きかい)のそばに立っていた。そして皮のマスクで目をかくされた老馬(ろうば)のココットが、回しつかれて足が働(はたら)かなくなると、かの女は小さなむちをふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこの機械が引き上げたおけを返す、もう一人の兄弟はお父さんの手伝(てつだ)いをする。こんなふうにしててんでに自分の仕事を持っていて、むだに時間を費(ついや)すものはなかった
 わたしは村で百姓(ひゃくしょう)の働(はたら)くところを見たこともあるが、ついぞパリの近所の植木屋のような熱心(ねっしん)なり勇気(ゆうき)なり勤勉(きんべん)なりをもって働(はたら)いていると思ったことはなかった。実際(じっさい)ここではみんないっしょうけんめい、朝は日の出まえから起き、晩(ばん)は日がくれてあとまでいっぱいの時間を使いきってのちに寝台(ねだい)に休むのである。わたしはまた土地を耕(たがや)したことがあったが、勤労(きんろう)によって土地にまるで休憩(きゅうけい)をあたえないまでに耕作(こうさく)し続(つづ)けるということを知らなかった。だからアッケンのお父さんのうちはわたしにとってはりっぱな学校であった。
 わたしはいつまでも温室のフレームばかりには使われていなかった、元気が回復(かいふく)してきたし、自分もなにか地の上にまいてみるということに満足(まんぞく)を感じてきた。その種(たね)が芽(め)を出すのを見るのが、いっそうの満足であった。これはわたしの仕事であった。わたしの財産(ざいさん)、わたしの創造(そうぞう)であった。だからよけいわたしに得意(とくい)な感じを起こさせた。
 それで自分がどういう仕事に適当(てきとう)しているかがわかった。わたしはそれをやってみせた。そのうえよけいわたしをゆかいにしたことは、まったくこれでは骨折(ほねお)りのかいがあると感じ得(え)たことであった。
 この新しい生活はなかなかわたしには苦しかったが、しかしこれまでの浮浪人(ふろうにん)の生活と似(に)ても似つかない労働(ろうどう)の生活が案外(あんがい)早くからだに慣(な)れた。これまでのように自由気ままに旅をして、なんでも大道を前へ前へと進んで行くほかに苦労(くろう)のなかったのに引きかえて、いまは花畑の囲(かこ)いの中に閉(と)じこめられて、朝から晩(ばん)まであらっぽく働(はたら)かなければならなかった。背中(せなか)にはあせにぬれたシャツを着、両手に如露(じょろ)を持って、ぬかるみの道の中を、素足(すあし)で歩かなければならなかった。でもぐるりのほかの人たちも、同じようにあらっぽい労働(ろうどう)をしていた。お父さんの如露はわたしのよりもずっと重かったし、そのシャツはわたしたちのそれよりも、もっとびっしょりあせにぬれていた。みんな平等であるということは、苦労(くろう)の中の大きな楽しみであった。そのうえわたしはもうまったく失(うしな)ったと思ったものを回復(かいふく)した。それは家族の生活であった。わたしはもう独(ひと)りぼっちではなかった。世の中に捨(す)てられた子どもではなかった。わたしには自分の寝台(ねだい)があった。わたしはみんなの集まる食卓(しょくたく)に自分の席(せき)を持っていた。昼間ときどきアルキシーやバンジャメンがわたしにげんこつをみまうこともあったが、わたしはなんとも思わなかった。またわたしが打ち返しても、かれらはなんとも思わなかった。そうして晩(ばん)になれば、みんなスープを取り巻(ま)いて、また兄弟にも友だちにもなるのであった。
 ほんとうを言うと、わたしたちは働(はたら)いてつかれるということはなかった。わたしたちにも休憩(きゅうけい)の時間も遊ぶ時間もあった。むろんそれは短かったが、短いだけよけいゆかいであった。
 日曜の午後には家についているぶどうだなの下にみんな集まった。わたしはその週のあいだかけっぱなしにしておいた例(れい)のハープを外(はず)して持って来る。そうして四人の兄弟姉妹(しまい)におどりをおどらせる。だれもかれもダンスを習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは一度ミルコロンヌで婚礼(こんれい)の舞踏会(ぶとうかい)へ行って、コントルダンスのしかただけ多少正確(せいかく)に記憶(きおく)していた。その記憶がかれらの手引きであった。かれらはおどりつかれると、わたしに歌のおさらいをさせる。そうしてわたしのナポリ小唄(こうた)はいつも決まって、リーズの心を動かさないことはないのであった。
 このおしまいの一節(せつ)を歌うとき、かの女の目はなみだにぬれないことはなかった。
 そのとき気をまぎらすために、わたしはカピと道化芝居(どうけしばい)をやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日であった。その日はかれにむかしのことを思い出させた。それで一とおり役目を終わると、かれはいくらでもくり返してやりたがった。
 二年はこんなふうにして過(す)ぎた。お父さんはわたしをよくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシャトードーやの花市場へ連(つ)れて行ったり、よく花を分けてやる花作りの家に連れて行ったので、わたしもすこしずつパリがわかりかけてきた。そうしてそこはわたしが想像(そうぞう)したように大理石や黄金の町ではなかったが、あのとき初(はじ)めてシャラントンやムフタール区(く)からはいって来たとき見て早飲みこみに思ったようなどろまみれの町でもないことがわかった。わたしは記念碑(きねんひ)を見た。その中へもはいってみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、歩いてみた。銅像(どうぞう)も見た。群衆(ぐんしゅう)の人波にもまれて、感心して立ち止まったこともあった。これで大都会というものがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼできてきた。
 幸いにわたしの教育はただ目で見る物から受けただけではなかった。パリの町中(まちなか)を散歩(さんぽ)したりかけ歩いたりするついでに、ぐうぜん覚(おぼ)えるだけではなかった。このお父さんはいよいよ自前(じまえ)で植木屋を開業するまえに植物園の畑で働(はたら)いていた。そこには学者たちがいて、かれにしぜん、物を読んで覚(おぼ)えたいという好奇心(こうきしん)を起こさせた。それでいく年かのあいだためた金を書物を買うために使ったし、その本を読むために休みの時間を費(ついや)した。けれど結婚(けっこん)して子どもができてからは、休みの時間がごくまれになった。なによりもその日その日のパンをもうけなければならなかった。しぜん書物からはなれたが、捨(す)てられたわけでもなく、売りはらわれたわけでもなかった。わたしが初(はじ)めてむかえた冬はたいへん長かったし、花畑の仕事はほとんど中止同様に、少なくとも何か月のあいだの仕事はひまであった。それでわたしたちは炉(ろ)を囲(かこ)んで、いっしょにくらす晩(ばん)などには、そういう古い本をたんすから引き出して、めいめいに分けて読んだ。それはたいてい植物学の本か植物の歴史(れきし)のほかには、航海(こうかい)に関係(かんけい)した本であった。アルキシーとバンジャメンはお父さんの学問の趣味(しゅみ)を受けついでいなかったから、せっかく本を開けても三、四ページもめくるとすぐいねむりを始めるのであった。わたしはしかしそんなにねむくはなかったし、ずっと本が好(す)きだったので、いよいよねどこにはいらなければならない時間まで読んでいた。こうなるとヴィタリスの手ほどきをしてくれた利益(りえき)がむだにはならなかった。わたしはねながらそれを独(ひと)り言(ごと)に言って、かれのことをありがたく思い出していた。
 わたしがものを学びたいという望(のぞ)みは、はしなくお父さんに、自分もむかし本を買うために毎朝朝飯(あさめし)のお金を二スー倹約(けんやく)したむかしを思い出させた。それでたんすの中にあった書物のほかの本までパリからわざわざ買って来てくれた。その書物の選(えら)び方(かた)はでたらめか、さもなければ表題(ひょうだい)のおもしろいものをつかみ出して来るにすぎなかったが、やはり書物は書物であった。これはそのじぶん秩序(ちつじょ)もなく、わたしの心にはいっては来たが、いつまでも消えることはなかった。それはわたしに利益(りえき)を残(のこ)した。いいところだけが残った。なんでも本を読むのは利益だということは、ほんとうのことである。
 リーズは本を読むことを知らなかったが、わたしが一時間でもひまがあれば、本と首っぴきをしているのを見て、なにがそんなにおもしろいのだろう、そのわけを知りたがっていた。初(はじ)めのうちはかの女も自分と遊ぶじゃまになるので、本を取り上げたが、それでもやはりわたしが本のほうへ心をひかれる様子を見て、今度は本を読んで聞かせてくれと言いだした。これがわたしたちのあいだの新しい結(むす)び目(め)になった。いったいこの子の性質(せいしつ)はいつも物わかりがよくって、つまらない遊びごとやじょうだんごとには身のはいらないほうであったから、やがてわたしが読んで聞かせることに楽しみを感じもし、心の養(やしな)いをえるようになった。
 何時間もわたしたちはこうやって過(す)ごした。かの女はわたしの前にすわって、本を読んでいるわたしから目をはなさずにいた。たびたびわたしは自分にわからないことばなり句(く)なりにぶつかると、ふとやめてかの女の顔を見た。そういうときわたしたちはかなりしばらく考え出すために休む。それを考えてもやはりわからないとき、かの女はあとをと言いたいような身ぶりをしてあとを読む合図をする。わたしはかの女にまた絵をかくことを教えた。まあやっと図画とでもいうようなことを教えた。これは長いことかかったし、なかなかむずかしかったがどうやら目的(もくてき)を達(たっ)しかけた。むろんわたしはりっぱな先生ではなかった。でもわたしたちは力を合わせて、やがて先生と生徒(せいと)の美しい協力一致(きょうりょくいっち)から、ほんとうの天才以上(いじょう)のものができるようになった。かの女はなにをかこうとしたか人にもわかるようなもののかけたとき、どんなにうれしがったであろう。アッケンのお父さんはわたしをだいて、笑(わら)いながら言った。
「そらね、わたしがおまえを引き取ったのはずいぶんいいじょうだんであった。リーズはいまにきっとおまえにお礼を言うよ」
「いまに」とかれが言ったのは、やがてかの女が口がきけるようになってということであった。なぜならだれもかの女が口がきけるようになろうとは思わなかったが、お医者たちはいまはだめでもいつか、なにかひょっとした機会で口がきけるようになるだろうと言った。
 なるほどかの女はわたしが歌を歌ってやると、やはりさびしそうな身ぶりで「いまにね」とそういう心持ちを現(あらわ)した。かの女は自分にもハープをひくことを教えてくれと望(のぞ)んだ。もうさっそくかの女の指はずんずんわたしのするとおりに動くことができた。もちろんかの女は歌を歌うことを学ぶことはできなかった、これをひじょうに残念(ざんねん)がっていた。たびたびわたしはかの女の目になみだが流れているのを見た。それがかの女の心の苦しみを語っていた。でも優(やさ)しい快活(かいかつ)な性質(せいしつ)からその苦しみはすぐに消えた。かの女は目をふいて、しいて微笑(びしょう)をふくみながら、こう言うのであった。
「いまにね」
 アッケンのお父さんには、養子(ようし)のようにされ、子どもたちには兄弟のようにあつかわれながら、わたしは、またしてもわたしの生活を引っくり返すような事件(じけん)はもう起こらずに、いつまでもグラシエールにいられそうには思えなかった。それはわたしというものが、長く幸福にくらしてゆくことができないたちで、やっと落ち着いたと思うときには、それはきっとまた幸福からほうり出されるときであって、自分の望(のぞ)んでもいない出来事のためにまたもや変(か)わった生活にとびこまなければならなくなるのであった。


     一家の離散(りさん)

 このごろわたしは一人でいるとき、よく考えては独(ひと)り言(ごと)を言った。
「おまえはこのごろあんまりよすぎるよ。これはどうも長続(ながつづ)きしそうもない」
 でもなぜ不幸(ふこう)が来なければならないか、それをまえから予想(よそう)することはできなかった。だがどのみち、それのやって来ることは疑(うたが)うことのできない事実のように思われてきた。
 そう思うと、わたしはたいへん心細かった。しかし、一方から見ると、その不幸(ふこう)をどうにかしてさけるようにいっしょうけんめいになるので、しぜんにいいこともあった。なぜというに、わたしがこんなにたびたび不幸な目に会うのは、みんな自分の過失(かしつ)から来ると思って、反省(はんせい)するようになったからである。
 でもほんとうは、わたしの過失ではなかった。それをそう思ったのは、自分の思い過(す)ごしであったが、不幸(ふこう)が来るという考えはちっともまちがいではなかった。
 わたしはまえに、お父さんがにおいあらせいとうの栽培(さいばい)をやっていたと言ったが、この花を作るのはわりあいに容易(ようい)で、パリ近在(きんざい)の植木屋はこれで商売をする者が多かった。その草は短くって大きく、上から下までぎっしり花がついていて、四、五月ごろになると、これがさかんにパリの市場に持ち出されるのであった。ただこの花でむずかしいのは、芽生(めば)えのうちから葉の形で八重(やえ)と一重(ひとえ)を見分けて、一重を捨(す)てて八重を残(のこ)すことであった。この鑑別(かんべつ)のできる植木屋さんはごくわずかで、その人たちが家の秘法(ひほう)にして他へもらさないことにしてあるので、植木屋仲間(なかま)でも、特別(とくべつ)にそういう人をたのんで花を見分けてもらわなければならなかった。それでたのまれた人はほうぼうの花畑を巡回(じゅんかい)して歩いて、いろいろと注意をあたえるのであった。これをレセンプラージュと言っていた。お父さんはパリではこの道にかけて熟練(じゅくれん)のほまれの高い一人であった。それでその季節(きせつ)にはほうぼうからたのまれて、うちにいることが少なかった。そしてこの季節が、わたしたちとりわけエチエネットにとって、いちばん悪いときであった。なぜというと、お父さんは一けん一けん回って歩くうちに、ほうぼうでお酒を飲ませられて、夜おそく帰るじぶんには、まっかな顔をして、舌(した)も回らないし、手足もぶるぶるふるえていた。
 そんなとき、エチエネットは、どんなにおそくなっても、きっとねずに待っていた。わたしがまだねいらずにいるか、または帰って来る足音で目を覚(さ)ましたときには、部屋(へや)の中から二人の話し声をはっきり聞いた。
「なぜおまえはねないんだ」とお父さんは言った。
「お父さんがご用があるといけないと思って」
「なんだと。そんなことを言って、このおじょうさんの憲兵(けんぺい)が、わたしを監視(かんし)するつもりだろう」
「でもわたしが起きていなかったら、だれとお話しなさるおつもり」
「おまえ、わたしがまっすぐに歩けるか見てやろうと思っているんだな。よし、この行儀(ぎょうぎ)よくならんだしき石を一つ一つふんで、子どもの寝部屋(ねべや)まで行けるかどうか、かけをしようか」
 不器用(ぶきよう)な足音が台所じゅうをしばらくがたつかせると、やがてまた静(しず)かになった。
「リーズはごきげんかい」とお父さんは言った。
「ええ。よくねていますわ。どうかお静かに」
「だいじょうぶさ。わたしはまっすぐに歩いているのだ。なにしろおじょうさんたちがやかましいから、お父さんもせいぜいまっすぐに歩かなくてはならぬ。リーズは、わたしが夕飯(ゆうはん)のときいなかったのを見て、なんとか言いはしなかったかい」
「リーズはお父さんの席(せき)を、なんだか見ていました」
「なんだ、わしの席を見ていたと」
「ええ」
「何べんもかい。何べんぐらい見ていた」
「それはたびたび」
「それからどうしていたね」
「『お父さんはいらっしゃらないのね』と言いたいような目つきをしていました」
「じゃあリーズは、わたしがそこにいないのはなぜだとたずねたろう。そしておまえは、わたしがお友だちのうちに行っていると答えたろう」
「いいえ、なんにもたずねませんでした。わたしもなにも言いませんでした。あの子はでもお父さんの行っていらっしゃる所をようく知っていますよ」
「なに、あの子が知ってるって。あの子が……もう早くからねこんでいるかい」
「いいえ、つい十五分ほどまえねたばかりです。お父さんのお帰りを待ちかねていたようです」
「で、おまえはどう思っていたえ」
「わたしはリーズが、お父さんのお帰りのところを見なければいいと思っていました」
 しばらく沈黙(ちんもく)が続(つづ)いた。
「エチエネット、おまえはいい子だ。あすはわたしはルイソーのうちへ行く。わたしはちかって夕飯(ゆうはん)にはきっと帰る。おまえが待っていてくれるのが気のどくだし、リーズが心配しいしいねるのがかわいそうだから」
 だがやくそくも誓言(せいごん)もいっこう役には立たなかった。かれはちっとも早く帰ったことはなかった。一ぱいでもお酒がのどにはいったら、もうめちゃめちゃであった。うちの中でこそ、リーズがご本尊(ほんぞん)だが、外の風に当たるともう忘(わす)れられてしまった。
 でもこんなことはしじゅうではなかった。レセンプラージュの季節(きせつ)がすむと、もうお父さんは外へ出ようとも思わない。むろん一人で居酒屋(いざかや)へ行く人ではなかった。そんなむだな時間を持つ人ではなかった。

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