家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

「その一座はどこにある」
「もうご推察(すいさつ)あろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」
 こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは想像(そうぞう)したように、犬ではなかった。
 わたしはこのきみょうな動物を生まれて初(はじ)めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。
 わたしはびっくりしてながめていた。
 それは金筋(きんすじ)をぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。実際(じっさい)それは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、縦(たて)につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の穴(あな)が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは鏡(かがみ)のようにぴかぴかと光った。
「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。
 ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。
「さあ、これが一座(いちざ)の花形(はながた)で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」
 さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。
「さて」とヴィタリスはことばを続(つづ)けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に一座(いちざ)のものをご紹介(しょうかい)申しあげる光栄(こうえい)を有せられるでしょう」
 このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を胸(むね)の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている巡査(じゅんさ)のかぶと帽(ぼう)が地べたについた。
 敬礼(けいれい)がすむとかれは仲間(なかま)のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、片足(かたあし)をさしのべて、みんなそばに寄(よ)るように合図をした。
 白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会(社交界)の人たちがするように厳(おごそ)かに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)に向かっておじぎをした。
 そのときヴィタリス親方が言った。
「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の頭(かしら)ということです。いちばんかしこくって、わたしの命令(めいれい)を代わってほかのものに伝(つた)えます。その黒いむく毛の若(わか)いハイカラさんは、ゼルビノ侯(こう)ですが、これは優美(ゆうび)という意味で、よく様子をご覧(らん)なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い雌犬(めすいぬ)はドルス夫人(ふじん)です。あの子はイギリス種(だね)で、名前はあの子の優(やさ)しい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな芸人(げいにん)ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」
 カピと呼(よ)ばれた犬は前足を十文字に組んだ。
「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの貴人(きじん)たちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のような丸(まる)い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」
 カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを探(さぐ)って大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。
「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス夫人(ふじん)になわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」
 カピはまた主人のかくしを探(さぐ)って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの真向(まむ)かいに座(ざ)をしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。
 つなの運動が規則(きそく)正しくなったとき、ドルスは輪(わ)の中にとびこんで、優(やさ)しい目で主人を見ながら軽快(けいかい)にとんだ。
「このとおりずいぶんりこうです」と老人(ろうじん)は言った。「それも比(くら)べるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと仲間(なかま)になって、ばかの役を務(つと)める者があれば、いっそうそれらの値打(ねう)ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが欲(ほ)しいというのだ。あの子にばかの役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」
「へえ、この子がばかを務(つと)めるのかね」とバルブレンが口を入れた。
 老人(ろうじん)は言った。「ばかの役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく試(ため)してみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から晩(ばん)まで同じ牧場(ぼくじょう)で牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、泣(な)いてじだんだをふむだろう。そうすればわたしは連(つ)れては行かない。それで孤児院(こじいん)に送られて、ひどく働(はたら)かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」
 わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお弟子(でし)たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらといっしょに旅をするのは、ゆかいだろう。だがバルブレンのおっかあは……おっかあに別(わか)れるのはつらいなあ……
 でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり孤児院(こじいん)に送られなければならない。
 わたしはほんとに情(なさ)けなくなって、目にいっぱいなみだをうかべていた。するとヴィタリス老人(ろうじん)が軽くなみだの流れ出したほおをつついた。
「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい胸(むね)で思案(しあん)をしているのだな。それであしたは……」
「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ置(お)いてください。どうぞ置いてください」とわたしはさけんだ。
 カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた食卓(しょくたく)のほうへとび上がった。例(れい)のさるはみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み干(ほ)そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。
「ジョリクールさん」とヴィタリスが厳(きび)しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえにどろぼうです。あそこのすみに行ってかべのほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。握手(あくしゅ)をしましょう」
 さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は得意(とくい)な顔をして前足を主人に出した。
「さて」と老人(ろうじん)はことばをついで、「先刻(せんこく)の話にもどりましょう。ではこの子に三十フラン出すことにしよう」
「いや、四十フランだ」
 そこでおし問答が始まった。だが老人(ろうじん)はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。
「よし、じゃあ裏(うら)へ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」
 バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。
 あの人たちはわたしのことを相談(そうだん)している。どうするつもりだろう。
 心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが裏(うら)へ出て来た。
 かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで連(つ)れて来たのだな。
「さあ帰るのだ」とかれは言った。
 なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに別(わか)れないでもすむのかな。
 わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。
 それで……だまってうちのほうへ歩いた。
 けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして乱暴(らんぼう)にわたしの耳をつかみながらこう言った。
「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」


     おっかあの家

「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」
「会わなかったよ」
「どうして会わなかったのさ」
「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」
 それではバルブレンは犬を連(つ)れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。
 うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと疑(うたが)っていたが、いまのことばでその疑(うたが)いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを訪(たず)ねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。
 バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその晩(ばん)一晩じゅううちをはなれないので話す機会(きかい)がなかった。
 すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。
 けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの姿(すがた)が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。
「おっかあ」
「ああ、それなら村へ行った。昼過(ひるす)ぎでなければ帰るものか」
 おっかあはまえの晩(ばん)、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。
 なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。
 バルブレンの顔を見るとよけいに心配が積(つ)もるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしは裏(うら)の野菜畑(やさいばたけ)へかけこんだ。
 畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる野菜物(やさいもの)は残(のこ)らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を残(のこ)しておいてくれたので、わたしはそこへ雌牛(めうし)を飼(か)いながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と呼(よ)んでだいじにしていた。
 わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが芽(め)をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから続(つづ)いておいおい芽を出しかけている。
 もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。
 どんな花がさくだろう。
 それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。
 それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい野菜(やさい)を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの野菜(やさい)をいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで料理(りょうり)をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて器用(きよう)な子だろう』と感心させてやろう。
 こんなことを思い思いこのときも、まだ芽(め)が出ないかと思って、種(たね)のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声で呼(よ)びたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、炉(ろ)の前にヴィタリス老人(ろうじん)と犬たちが立っているではないか。
 すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを連(つ)れて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。
 もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと老人(ろうじん)のほうへかけ寄(よ)った。
「ああ、ぼくを連(つ)れて行かないでください。後生(ごしょう)ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく泣(な)きだした。
 すると老人(ろうじん)は優(やさ)しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。仲間(なかま)には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」
「おっかあが……」
「どうせきさまはここには置(お)けないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳を引(ひ)っ張(ぱ)った。
「このだんなについて行くか、孤児院(こじいん)へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」
「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」
「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」
「この子は母親に別(わか)れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。優(やさ)しい心だ。いいことだ」
「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」
「まあ、話を決めよう」
 そう言いながら、老人(ろうじん)は五フランの金貨(きんか)を八枚(まい)テーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。
「この子の荷物は」と老人が言った。
「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった包(つつ)みをわたした。
 中にはシャツが二枚(まい)と、麻(あさ)のズボンが一着あるだけであった。
「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これはぼろばかりだね」
「こいつはほかにはなにもないのだ」
「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを争(あらそ)っているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」
「ルミ」
「そうか、よしよし、ルミ。包(つつ)みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」
 わたしは哀訴(あいそ)するように両手を老人(ろうじん)に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。
 わたしは行かなければならない。
 ああ、このうちにもお別(わか)れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへ残(のこ)して行くようにわたしは思った。
 なみだをいっぱい目にうかべて[#「うかべて」は底本では「うがべて」]わたしは見回したが、手近にはだれもわたしに加勢(かせい)してくれる者がなかった。往来(おうらい)にもだれもいなかった。牧場(ぼくじょう)にもだれもいなかった。
 わたしは呼(よ)び続(つづ)けた。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり泣(な)きの中に消えてしまった。
 わたしは老人(ろうじん)について行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。
「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。
 かれはうちの中へはいった。
 ああ、これでおしまいである。
「さあ、行こう、ルミ、進め」と老人(ろうじん)が言って。わたしのひじをおさえた。
 わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。
 わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから最後(さいご)の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。
 幸い坂道は長かったが、それもいつか頂上(ちょうじょう)に来た。
 老人(ろうじん)はおさえた手をゆるめなかった。
「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。
「うん、そうだなあ」とかれは答えた。
 かれはやっとわたしをはなしてくれた。
 けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。
 それですぐと、ひつじ飼(か)いの犬のように、一座(いちざ)の先頭からはなれてわたしのそばへ寄(よ)って来た。
 わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。
 わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。
 わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを探(さが)した。
 下には谷があって、所どころに森や牧場(ぼくじょう)があった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。
 気の迷(まよ)いか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎ慣(な)れたかしの葉のにおいがするようであった。
 それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。
 ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。
 わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの悪党(あくとう)のバルブレンだ。
 もう一足(あし)往来(おうらい)へ出れば、わたしの畑もなにもかもかくれてしまうのだ。
 ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。
 それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。
 けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。確(たし)かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。
「さて出かけようか」と老人(ろうじん)が言った。
「ああ、いいえ、後生(ごしょう)ですからも少し」
「じゃあ話とはちがって、おまえは、から(ぜんぜん)、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」
 わたしは答えなかった。ただながめていた。
 やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。
 白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。
 わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。
 おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。
 かの女はわたしを探(さが)しているのだ。
 わたしは首を前に延(の)ばして、ありったけの声でさけんだ。
「おっかあ、おっかあ」
 けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。
「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。
 わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、往来(おうらい)へ出て、きょろきょろしていた。
 もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、初(はじ)めの声と同様にむだであった。
 そのうち老人(ろうじん)もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。かれもまもなく白いボンネットを見つけた。
「かわいそうに、この子は」とかれはそっと独(ひと)り言(ごと)を言った。
「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまの優(やさ)しいことばに乗(の)って、泣(な)き声(ごえ)を出した。
 けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて往来(おうらい)へ出た。
「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。
 わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。
「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。
 二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。
 二足(ふたあし)三足(みあし)行くと、わたしはふり向いた。
 わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに遠山(とおやま)がうすく青くかすんでいた。果(は)てしもない空の中にわたしの目はあてどなく迷(まよ)うのであった。


     とちゅう

 四十フラン出して子どもを買ったからといって、その人は鬼(おに)でもなければ、その子どもの肉を食べようとするのでもなかった。ヴィタリス老人(ろうじん)はわたしを食べようという欲(よく)もなかったし、子どもを買ったが、その人は悪人ではなかった。
 わたしはまもなくそれがわかった。
 ちょうどロアール川とドルドーニュ川と、二つの谷を分かった山の頂上(ちょうじょう)で、かれはふたたびわたしの手首をにぎった。その山を南へ下り始めて十五分も行ったころ、かれは手をはなした。
「まああとからぽつぽつおいで。にげることはむだだよ。カピとゼルビノがついているからな」
 わたしたちはしばらくだまって歩いていた。
 わたしはふとため息を一つした。
「わしにはおまえの心持ちはわかっているよ」と老人(ろうじん)は言った、「泣(な)きたいだけお泣き。だがまあ、これがおまえのためにはいいことだということを考えるようにしてごらん。あの人たちはおまえのふた親ではないのだ、おっかあはおまえに優(やさ)しくはしてくれたろう。それでおまえも好(す)いていたから、それでそんなに悲しく思うのだろう。けれどもあの人は、ご亭主(ていしゅ)がおまえをうちに置(お)きたくないと言えば、それを止めることはできなかったのだ。それにあの男だって、なにもそんなに悪い男というのでもないかもしれない。あの男はからだを悪くして、もうほかの仕事ができなくなっている。かたわのからだでは食べてゆくだけに骨(ほね)が折(お)れるのだ。そのうえおまえを養(やしな)っていては、自分たちが飢(う)えて死ななければならないと思っているのだ。そこでおまえにひとつ心得(こころえ)てもらいたいことがある。世の中は戦争(せんそう)のようなもので、だれでも自分の思うようにはゆかないものだということだ」
 そうだ、老人(ろうじん)の言ったことはほんとうであった。貴(とうと)い経験(けいけん)から出た訓言(くんげん)(教訓)であった。でもその訓言よりももっと力強い一つの考えしか、わたしはそのとき持っていなかった。それは『別(わか)れのつらさ』ということであった。
 わたしはもう二度とこの世の中で、いちばん好(す)きだった人に会うことができないのだ。こう思うとわたしは息苦しいように感じた。
「まあ、わたしの言ったことばをよく考えてごらん。おまえはわたしといれば不幸(ふしあわ)せなことはないよ」と老人(ろうじん)は言った。「孤児院(こいじん)などへやられるよりはいくらましだかしれない。それで言っておくが、おまえはにげ出そうとしてもだめだよ。そんなことをすれば、あのとおりの広野原(ひろのはら)だ。カピとゼルビノがすぐとおまえをつかまえるから」
 こう言ってかれは目の前のあれた高原(こうげん)を指さした。そこにはやせこけたえにしだが、風のまにまに波のようにうねっていた。
 にげ出す――わたしはもうそんなことをしようとは思わなかった。にげていったいどこへわたしは行こう。
 この背(せい)の高い老人(ろうじん)は、ともかく親切(しんせつ)な主人であるらしい。
 わたしは一息にこんなに歩いたことはなかった。ぐるりに見るものはあれた土地と小山ばかりで、村を出たらば向こうはどんなに美しかろうと思ったほど、この世界は美しくはなかった。
 老人(ろうじん)はジョリクールを肩(かた)の上に乗せたり、背嚢(はいのう)の中に入れたりして、しじゅう規則(きそく)正しく、大またに歩いていた。三びきの犬はあとからくっついて来た。
 ときどき老人はかれらに優(やさ)しいことばをかけていた。フランス語で言うこともあったし、なんだかわからないことばで言うこともあった。
 かれも犬たちもくたびれた様子がなかった。だがわたしはつかれた。足を引きずって、この新しい主人にくっついて歩くのが精(せい)いっぱいであった。けれども休ませてくれとは言いだし得(え)なかった。
「おまえがくたびれるのは木のくつのせいだよ」とかれは言った。「いずれユッセルへ着いたらくつを買ってやろう」
 このことばはわたしに元気をつけてくれた。わたしはしじゅうくつが欲しいと思っていた。村長のむすこも、はたごやのむすこもくつを持っていた。それだから日曜というとかれらはお寺へ来て石のろうかをすべるように走った。それをわれわれほかのいなかの子どもは、木ぐつでがたがた、耳の遠くなるような音をさせたものだ。
「ユッセルまではまだ遠いんですか」
「ははあ、本音(ほんね)をふいたな」とヴィタリスが笑(わら)いながら言った。「それではくつが欲(ほ)しいんだな。よしよし、わたしはやくそくをしよう。それも大きなくぎを底(そこ)に打ったやつをなあ。それからビロードの半ズボンとチョッキとぼうしも買ってやる。それでなみだが引っこむことになるだろう。なあ、そうしてもらおうじゃないか。そしてあと六マイル(約四十キロ)歩いてくれるだろうなあ」
 底(そこ)にくぎを打ったくつ、わたしは得意(とくい)でたまらなかった。くつをはくことさええらいことなのに、おまけにくぎを打ってある。わたしは悲しいことも忘(わす)れてしまった。
 くぎを打ったくつ、ビロードの半ズボンに、チョッキに、ぼうし。
 まあバルブレンのおっかあがわたしを見たらどんなにうれしがるだろう。どんなに得意(とくい)になるだろう。
 けれども、なるほどくつとビロードがこれから六マイル歩けばもらえるというやくそくはいいが、わたしの足はそんな遠方まで行けそうにもなかった。
 わたしたちが出かけたときに青あおと晴れていた空が、いつのまにか黒い雲にかくれて、細かい雨がやがてぽつぽつ落ちて来た。
 ヴィタリスはそっくりひつじの毛皮服にくるまっているので、雨もしのげたし、さるのジョリクールも、一しずく雨がかかるとさっそくかくれ家(が)ににげこんだ。けれども犬とわたしはなんにもかぶるものがないので、まもなく骨(ほね)まで通るほどぬれた。でも犬はぬれてもときどきしずくをふり落とすくふうもあったが、わたしはそんなことはできなかった。下着までじくじくにぬれ通って、骨まで冷(ひ)えきっていた。
「おまえ、じきかぜをひくか」と主人は聞いた。
「知りません。かぜをひいた覚(おぼ)えがないから」
「それはたのもしいな。だがこのうえぬれて歩いてもしようがないことだから、少しでも早くこの先の村へ行って休むとしよう」
 ところがこの村には一けんも宿屋(やどや)というものはなかった。当たり前の家ではじいさんのこじきの、しかも子どもに三びきの犬まで引き連(つ)れて、ぬれねずみになった同勢(どうぜい)をとめようという者はなかった。
「うちは宿屋(やどや)じゃないよ」
 こう言ってどこでも戸を立てきった。わたしたちは一けん一けん聞いて歩いて、一けん一けん断(ことわ)られた。
 これから四マイル(約六キロ)ユッセルまで一休みもしないで行かなければならないのか。暗さは暗し、雨はいよいよ冷(つめ)たく骨身(ほねみ)に通った。ああ、バルブレンのおっかあのうちがこいしい。
 やっとのことで一けんの百姓家(ひゃくしょうや)がいくらか親切があって、わたしたちを納屋(なや)にとめることを承知(しょうち)してくれた。でもねるだけはねても、明かりをつけることはならないという言いわたしであった。
「おまえさん、マッチを出しなさい。あしたたつとき返してあげるから」とその百姓家(ひゃくしょうや)の主人はヴィタリス老人(ろうじん)に言った。
 それでもとにかく、風雨を防(ふせ)ぐ屋根だけはできたのであった。
 老人(ろうじん)は食料(しょくりょう)なしに旅をするような不注意(ふちゅうい)な人ではなかった。かれは背中(せなか)にしょっていた背嚢(はいのう)から一かたまりのパンを出して、四きれにちぎった。
 さてこのときわたしははじめて、かれがどういうふうにして、仲間(なかま)の規律(きりつ)を立てているかということを知った。さっきわれわれが一けん一けん宿(やど)を探(さが)して歩いたとき、ゼルビノがある家にはいったが、さっそくかけ出して来たとき、パンの切れを口にくわえていた。そのとき老人(ろうじん)はただ、
「よしよし、ゼルビノ……今夜は覚(おぼ)えていろ」とだけ言った。
 わたしはもうゼルビノのどろぼうをしたことは忘(わす)れて、ヴィタリスがパンを切る手先をぼんやり見ていた。ゼルビノはしかしひどくしょげていた。
 ヴィタリスとわたしはとなり合ってジョリクールをまん中に置(お)いて、二つあるわらのたばの上、かれ草のたばの上にこしをかけて、三びきの犬はその前にならんでいた。カピとドルスは主人の顔をじっと見つめているのに、ゼルビノは耳を立ててしっぽを足の間に入れて立っていた。
 老人(ろうじん)は命令(めいれい)するような調子で言った。「どろぼうは仲間(なかま)をはずれて、すみに行かなければならんぞ。夕食なしにねむらなければならんぞ」
 ゼルビノは席(せき)を去って、指さされたほうへすごすご出て行った。それでかれ草の積(つ)んである下にもぐりこんで、姿(すがた)が見えなくなったが、その下で悲しそうにくんくん泣(な)いている声が聞こえた。
 老人(ろうじん)はそれからわたしにパンを一きれくれて、自分の分を食べながら、ジョリクールとカピとドルスに、小さく切って分けてやった。
 どんなにわたしはバルブレンのおっかあのスープがこいしくなったろう。それにバターはなくっても、暖(あたた)かい炉(ろ)の火がどんなにいい心持ちであったろう。夜着の中に鼻をつっこんでねた小さな寝台(ねだい)がこいしいな。
 もうすっかりくたびれきって、足は木ぐつですれて痛(いた)んだ。着物はぬれしょぼたれているので、冷(つめ)たくってからだがふるえた。夜中になってもねむるどころではなかった。
「歯をがたがた言わせているね。おまえ寒いか」と老人(ろうじん)が言った。
「ええ、少し」
 わたしはかれが背嚢(はいのう)を開ける音を聞いた。
「わたしは着物もたんとないが、かわいたシャツにチョッキがある。これを着てまぐさの下にもぐっておいで。じきに暖(あたた)かになってねむられるよ」
 でも老人(ろうじん)が言ったようにそうじき暖かにはならなかった。わたしは長いあいだわらのとこの上でごそごそしながら、苦しくってねむられなかった。もうこれから先はいつもこんなふうにくらすのだろうか。ざあざあ雨の降(ふ)る中を歩いて、寒さにふるえながら、物置(ものお)きの中にねて、夕食にはたった一きれの固(かた)パンを分けてもらうだけであろうか。スープもない。だれもかわいがってくれる者もない。だきしめてくれる者もない。バルブレンのおっかあももうないのだ。
 わたしの心はまったく悲しかった。なみだが首を流れ落ちた。
 そのときふと暖(あたた)かい息が顔の上にかかるように思った。
 わたしは手を延(の)ばすと、カピのやわらかい毛が手にさわった。かれはそっと草の上を音のしないように歩いて、わたしの所へやって来たのだ。わたしのにおいを優(やさ)しくかぎ回る息が、わたしのほおにも髪(かみ)の毛(け)にもかかった。
 この犬はなにをしようというのであろう。
 やがてかれはわたしのすぐそばのわらの上に転(ころ)げて、それはごく静(しず)かにわたしの手をなめ始めた。
 わたしもうれしくなって、わらのとこの上に半分起き返って、犬の首を両うでにかかえて、その冷(つめ)たい鼻にキッスした。かれはわずか息のつまったような泣(な)き声(ごえ)を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に預(あず)けて、じつとおとなしくしていた。
 わたしはつかれも悲しみも忘(わす)れた。息苦しいのどがからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。


     初舞台(はつぶたい)

 そのあくる日は早く出発した。
 空は青あおと晴れて、夜中のから風がぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りにもつれていた。ときどきカピが後足で立ち上がって、わたしの顔を見ては二、三度続(つづ)けてほえた。かれの心持ちはわたしにはわかっていた。
「元気を出せ、しっかり、しっかり」
 こう言っているのであった。
 かれはりこうな犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の尾(お)のふり方にはたいていの人の舌(した)や口で言う以上(いじょう)の頓知(とんち)と能弁(のうべん)がふくまれていた。わたしとカピの間にはことばは要(い)らなかった。初(はじ)めての日からおたがいの心持ちはわかっていた。
 わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、初(はじ)めて町を見るのはなにより楽しみであった。
 でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の塔(とう)や古い建物(たてもの)などよりも、もっと気になるのはくつ屋の店であった。
 老人(ろうじん)がやくそくをしたくぎを打ったくつのある店はどこだろう。
 わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人は市場(いちば)の後ろの一けんの店にはいった。店の外に古い鉄砲(てっぽう)だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、さびたかぎだのがつるしてあった。
 わたしたちは三段(だん)ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな部屋(へや)にはいった。
 くぎを打ったくつなんぞを、どうしてこんな気味の悪い所で売っているだろう。
 けれども老人(ろうじん)にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木ぐつの十倍(ばい)も重たい、くぎを打ったくつをはくことになった。うれしいな。
 老人の情(なさ)けはそれだけではなかった。かれはわたしに水色ビロードの上着と、毛織(けお)りのズボンと、フェルトぼうしまで買ってくれた。かれのやくそくしただけの品は残(のこ)らずそろった。
 まあ、麻(あさ)の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それにくつは。ぼうしは。わたしはたしかに世界じゅうでいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。ほんとうにこの老人(ろうじん)は世界じゅうでいちばんいい人でいちばん情(なさ)け深い人だと思われた。
 もっともそのビロードは油じみていたし、毛織(けお)りのズボンはかなり破(やぶ)れていた。それにフェルトぼうしのフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。
 ところで宿屋(やどや)に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは、老人(ろうじん)がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。
 わたしは丸い目をしてかれの顔を見た。
「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」とかれは説明(せつめい)した。
 わたしはいよいよびっくりしてしまった。
「わたしたちは芸人(げいにん)だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらのいなかの人間のようなふうをして歩いたら、だれが目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでもていさいを作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」
 こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その晩(ばん)はもうイタリアの子どもになっていた。
 ズボンはやっとひざまで届(とど)いた。老人(ろうじん)はくつ下にひもをぬいつけて、フェルトぼうしの上にはいっぱいに赤いリボンを結(むす)びつけた。それから毛糸の花でおかざりをした。
 わたしはほかの人がどう思うかは知らないが、正直に言えば自分ながらなかなかりっぱになったと思った。親友のカピも同じ考えであったから、しばらくわたしの顔をじっと見て、満足(まんぞく)したふうで前足を出した。
 わたしはカピの賛成(さんせい)を得(え)たのでうれしかった。それというのが、わたしが着物を着かえている最中(さいちゅう)、例(れい)のジョリクールめが、わたしのまん前にべったりすわって、大げさな身ぶりで、さんざんひとのするとおりのまねをして、すっかり仕度ができると、今度はおしりに手を当て、首をちぢめて、あざけるように笑(わら)ったので、一方にそういう実意のある賛成者(さんせいしゃ)のできたのがよけいにうれしかったのである。
 いったいさるが笑うか笑わないかということは、学問上の問題だそうだ。わたしは長いあいだジョリクールと仲(なか)よくくらしていたが、かれはたしかに笑った。しかもどうかすると人をばかにした笑(わら)い方(かた)をしたものだ。もちろんかれは人間のようには笑わなかった。けれどもなにかおもしろいことがあると、口を曲げて、目をくるくるやって、あのしっぽをす早く働(はたら)かせる。そうしてまっ黒な目はぴかぴか光って、火花がとび出すかと思われた。
「さあ仕度ができたら」と最後(さいご)にぼうしを頭にかぶると老人(ろうじん)が言った。「わたしたちはいよいよ仕事にかからなければならない。あしたは市(いち)の立つ日だから、おまえは初舞台(はつぶたい)を務(つと)めなければならない」
 初舞台。初舞台とはどんなことだろう。
 老人(ろうじん)はそこで、この初舞台というのは、三びきの犬とジョリクールを相手(あいて)に芝居(しばい)をすることだと教えてくれた。
「でもぼく、どうして芝居(しばい)をするのか知りません」と、わたしはおどおどしながらさけんだ。
「それだから、わたしが教えてあげようというのだよ。教わらなけりゃわかりゃしない。この動物どももいっしょうけんめい自分の役をけいこしたものだ。カピが後足で立つのでも、ドルスがなわとびの芸当(げいとう)をやるのでも、みんなけいこをして覚(おぼ)えたのだ。ずいぶん骨(ほね)の折(お)れたことではあったが、その代わりご覧(らん)、あのとおりかしこくなっている。おまえも、これからいろいろの役を覚えるためにはよほど勉強が要(い)る。とにかく仕事にかかろう」
 これまでわたしは仕事といえば、畑にくわを入れるとか、石を切るとか、木をかるとかいうほかにはないように思っていた。
「さてわたしたちのやる狂言(きょうげん)は、『ジョリクール氏(し)の家来、一名とんだあほうの取りちがえ』というのだ。それはこういう筋(すじ)だ。ジョリクール氏はこれまで一人家来を使っていた。それはカピという名前で、ジョリクール氏はこの家来に満足(まんぞく)していたのだが、年を取ったのでひまを取ろうとする。それでカピは主人にひまを取るまえに、代わりの家来を見つけるやくそくをする。さてその後がまの家来というのは、犬ではなくって子どもなのだ。ルミと名乗るいなかの子どもなのだ」
「やあ、ぼくと同じ名前の……」
「いや、同じ名前ではない、それがおまえなんだ。おまえはジョリクール氏(し)の所へ奉公口(ほうこうぐち)を探(さが)しにいなかから出て来たのだ」
「おさるに家来はないでしょう」
「そこが芝居(しばい)だよ。さておまえはいきなり村からとび出して来た。それでおまえの新しい主人はおまえをあほうだと思う」
「おお、ぼく、そんなこといやです」
「人が笑(わら)いさえすれば、そんなことはどうでもいいじゃないか。さておまえは初(はじ)めてこのだんなの所へ家来になってやって来た。そして食事のテーブルごしらえを言いつけられる。それ、ちょうどそこに、芝居(しばい)に使うテーブルがある。さあ、仕度におかかり」
 このテーブルの上には、おさらに、コップに、ナイフが一本、フォークが一本、白いテーブルかけが一枚(まい)置(お)いてあった。
 どうしてこれだけのものをならべようか。
 わたしはそれを考えて、両手をつき出してテーブルによっかかって、ぽかんと口を開けたまま、なにから手をつけていいか困っていると、親方は両手を打って、腹(はら)をかかえて笑(わら)いだした。
「うまいうまい。それこそ本物だ」とかれはさけんだ。「わたしが先(せん)に使っていた子どもは狡猾(こうかつ)そうな顔つきで、どうだ、あほうのまねはうまかろうと言わないばかりであった。おまえのはそれがいかにも自然(しぜん)でいい。どうしてすばらしいものだ」
「でもぼく、どうしていいのかわからないんです」
「それだからそんなにうまくやれるのだ。おまえに芝居(しばい)がわかるとかえって、いま思っているようなことをわざとするようになるだろう。なんでもいまのどうしていいかわからずに困(こま)っている心持ちを忘(わす)れないようにしてやれば、いつも上出来だよ。つまり役の性根(しょうね)は、さると人間が、主人と家来と身分を取りかえたついでに、ばかをりこうと取りかえて、とんだあほうの取りちがえ、これが芝居(しばい)のおかしいところなのだ」
 『ジョリクール氏(し)の家来』は大芝居(おおしばい)というのではなかったから、二十分より長くは続(つづ)かなかった。ヴィタリスはわたしたちにたびたびそれをくり返させた。わたしは主人がずいぶんしんぼう強いのでおどろいた。これまで村でよく動物をしこむところを見たが、ひどくしかったり、ぶったりしてやっとしこむのであった。ずいぶんけいこは長くやったが、親方は一度もおこったこともなければ、しかったこともなかった。
「さあ、もう一度やり直しだ」とかれは厳(きび)しい声で言って、いけないところを直した。「カピ、それはいけません。ジョリクール、気をつけないとしかりますぞ」
 これがすべてであった。しかしそれでじゅうぶんであった。
 わたしを教えながらかれは言った。「なんでもけいこには犬をお手本にするがいい。犬とさるとを比べてごらん。ジョリクールはなるほどはしっこいし、ちえもあるけれども、注意もしないし、従順(じゅうじゅん)でもないのだ。かれは教えられたことはわけなく覚(おぼ)えるが、すぐそれを忘(わす)れてしまう。それにかれは言われたことをわざとしない。かえってあべこべなことをしたがる。それはこの動物の性質(せいしつ)だ。だからわたしはあれに対してはおこらない。さるは犬と同じ良心(りょうしん)を持たない。あれには義務(ぎむ)ということばの意味がわかっていない。それが犬におとるところだ。わかったかね」
「ええ」
「おまえはりこうで注意深い子だ。まあなんによらずすなおに、自分のしなければならないことをいっしょうけんめいにするのだ。それを一生覚(おぼ)えておいで」
 こういう話をしているうち、わたしは勇気(ゆうき)をふるい起こして、芝居(しばい)のけいこのあいだなによりわたしをびっくりさせたことについてかれに質問(しつもん)した。どうしてかれが犬やさるやわたしに対してあんなにしんぼう強くやれるのであろうか。
 かれはにっこり笑(わら)った。「おまえは百姓(ひゃくしょう)たちの仲間(なかま)にいて、手あらく生き物を取りあつかっては、言うことを聞かないと棒(ぼう)でぶつようなところばかり見てきたのだろう。だがそれは大きなまちがいだよ。手あらくあつかったところでいっこう役に立たない。優(やさ)しくしてやればたいていはうまくゆくものだ。だからわたしは動物たちに優しくするようにしている。むやみにぶてばかれらはおどおどするばかりだ。ものをこわがるとちえがにぶる。それに教えるほうでかんしゃくを起こしては、ついいつもの自分とはちがったものになる。それではいまおまえに感心されたようなしんぼう力は出なかったろう。他人を教えるものは自分を教えるものだということがこれでわかる。わたしが動物たちに教訓(きょうくん)をあたえるのは、同時にわたしがかれらから教訓を受けることになるのだ。わたしはあれらのちえを進めてやったが、あれらはわたしの品性(ひんせい)を作ってくれた」
 わたしは笑(わら)った。それがわたしにはきみょうに思われた。でもかれはなお続(つづ)けた。
「おまえはそれをきみょうだと思うか。犬が人間に教訓(きょうくん)を授(さず)けるのはきみょうだろう。だがこれはほんとうだよ。
 すると主人が犬をしこもうと思えば、自分のことをかえりみなければならない。その飼(か)い犬(いぬ)を見れば主人の人がらもわかるものだ。悪人の飼っている犬はやはり悪ものだ。強盗(ごうとう)の犬はどろぼうをする。ばかな百姓(ひゃくしょう)が飼い犬はばかで、もののわからないものだ。親切な礼儀(れいぎ)正しい人は、やはり気質(きしつ)のいい犬を飼っている」
 わたしはあしたおおぜいの前に現(あらわ)れるということを思うと、胸(むね)がどきどきした。犬やさるはまえからもう何百ぺんとなくやりつけているのだから、かえってわたしよりえらかった。わたしがうまく役をやらなかったら、親方はなんと言うだろう。見物はなんと言うだろう。
 わたしはくよくよ思いながらうとうとねいった。そのゆめの中で、おおぜいの見物が、わたしがなんてばかだろうと言って、腹(はら)をかかえて笑(わら)うところを見た。
 あくる日になると、いよいよわたしは心配でおどおどしながら、芝居(しばい)をするはずのさかり場まで行列を作って行った。
 親方が先に立って行った。背(せい)の高いかれは首をまっすぐに立て、胸(むね)を前へつき出して、おもしろそうにふえでワルツをふきながら、手足で拍子(ひょうし)をとって行った。その後ろにカピが続(つづ)いた。イギリスの大将(たいしょう)の軍服(ぐんぷく)をまねた金モールでへりをとった赤い上着を着、鳥の羽根(はね)でかざったかぶとをかぶったジョリクールがその背中(せなか)にいばって乗っていた。
 ゼルビノとドルスが、ほどよくはなれてそのあとに続いた。
 わたしがしんがりを務(つと)めていた。わたしたちの行列は親方の指図どおり適当(てきとう)な間をへだてて進んだので、かなり人目に立つ行列になった。
 なによりも親方のふくするどいふえの音(ね)にひかれて、みんなうちの中からかけ出して来た。とちゅうの家の窓(まど)という窓はカーテンが引き上げられた。
 子どもたちの群(む)れがあとからかけてついて来た。やがて広場に着いたじぶんには、わたしたちの行列に、はるか多い見物の行列がつながって、たいした人だかりであった。
 わたしたちの芝居小屋(しばいごや)はさっそくできあがった。四本の木になわを結(むす)び回して、その長方形のまん中にわたしたちは陣取(じんど)ったのである。
 番組の第一は犬の演(えん)じるいろいろな芸当(げいとう)であった。わたしは犬がなにをしているかまるっきりわからなかった。わたしはもう心配で心配で自分の役を復習(ふくしゅう)することにばかり気を取られていた。わたしが記憶(きおく)していたことは、親方がふえをそばへ置(お)き、ヴァイオリンを取り上げて、犬のおどりに合わせてひいたことで、それはダンス曲であることもあれば、静(しず)かな悲しい調子の曲であることもあった。なわ張(ば)りの外に見物はぞろぞろ集まっている。わたしはこわごわ見回すと、数知れないひとみの光がわたしたちの上に集まっていた。
 一番の芸当(げいとう)が終わると、カピが歯の間にブリキのぼんをくわえて、お客さまがたの間をぐるぐる回りを始めた。見物の中で銭(ぜに)を入れない者があると、立ち止まって二本の前足をこのけちんぼうなお客のかくしに当てて、三度ほえて、それから前足でかくしを軽くたたいた。それを見るとみんな笑(わら)いだして、うれしがってときの声を上げた。
 じょうだんや、嘲笑(ちょうしょう)のささやきがそこここに起こった。
「どうもりこうな犬じゃないか。あいつは金を持っている人といない人を知っている」
「そら、ここに手をかけた」
「出すだろうよ」
「出すもんか」
「おじさんから遺産(いさん)をもらったくせに、けちな男だなあ」
 さてとうとう銀貨(ぎんか)が一枚(まい)おく深(ふか)いかくしの中からほり出されて、ぼんの中にはいることになった。そのあいだ親方は一言(ごん)もものは言わずに、カピのぼんを目で見送りながら、おもしろそうにヴァイオリンをひいた。まもなくカピが得意(とくい)らしくぼんにいっぱいお金を入れて帰って来た。
 いよいよ芝居(しばい)の始まりである。
「さてだんなさまがたおよびおくさまがたに申し上げます」
 親方は、片手(かたて)に弓(ゆみ)、片手にヴァイオリンを持って、身ぶりをしながら口上(こうじょう)を述(の)べだした。
「これより『ジョリクール氏(し)の家来。一名とんだあほうの取りちがえ』と題しまするゆかいな喜劇(きげき)をごらんにいれたてまつります。わたくしほどの芸人(げいにん)が、手前みそに狂言(きょうげん)の功能(こうのう)をならべたり、一座(いちざ)の役者のちょうちん持ちをして、自分から品(ひん)を下げるようなことはいたしませぬ。ただ一言(ごん)申しますることは、どうぞよくよくお目止められ、お耳止められ、お手拍子(てびょうし)ごかっさいのご用意を願(ねが)っておくことだけでございます。始(はじ)まり」
 親方はゆかいな喜劇(きげき)だと言ったが、じつはだんまりの身ぶり狂言(きょうげん)にすぎなかった。それもそのはずで、立役者(たてやくしゃ)の二人まで、ジョリクールも、カピもひと言も口はきけなかったし、第三の役者のわたしもふた言とは言うことがなかった。
 けれども見物に芝居(しばい)をよくわからせるために、親方は芝居の進むにつれて、かどかどを音楽入りで説明(せつめい)した。
 そこでたとえば勇(いさ)ましい戦争(せんそう)の曲をひきながら、かれはジョリクール大将(たいしょう)が登場を知らせた。大将はインドの戦争でたびたび功名(こうみょう)を現(あらわ)して、いまの高い地位(ちい)にのぼったのである。これまで大将はカピという犬の家来を一人使っていたが、出世していてお金が取れて、ぜいたくができるようになったので、人間の家来をかかえようと思っている。長いあいだ動物が人間の奴隷(どれい)であったけれども、それがあべこべになるときが来たのである。
 家来の来るのを待つあいだに、大将は葉巻(はま)きをふかしながらあちこちと歩き回る。見物の顔にかれがたばこのけむりをふっかけるふうといったら、見物(みもの)であった。なかなか来ないのでじれて、人間がかんしゃくを起こすときのように目玉をくるくる回し始める。くちびるをかむ。じだんだをふむ。三度目にじだんだをふんだときに、わたしがカピに連(つ)れられて舞台(ぶたい)に現(あらわ)れることになる。
 わたしが役を忘(わす)れていれば犬が教えてくれるはずになっていた。
 やがてころ合いのじぶんに、かれは前足をわたしのはうへ出して、大将(たいしょう)がわたしを紹介(しょうかい)した。
 大将(たいしょう)はわたしを見ると、がっかりしたふうで両手を上げた。なんだ、これがわざわざ連(つ)れて来た家来かい。それからかれは歩いて来て、わたしの顔をぶえんりょにながめた。そうして肩(かた)をそびやかしながら、わたしの回りを歩き回っていた。その様子がそれはこっけいなので、だれもふき出さずにはいられなかった。見物がなるほど、このさるはわたしをあほうだと思っているなとなっとくする。そうして見物もやはりわたしをあほうだと思いこんでしまう。
 芝居(しばい)がまたいかにもわたしのあほうさの底(そこ)が知れないようにできていた。することなすことにさるはかしこかった。
 いろいろとわたしを試験(しけん)をしてみた末(すえ)、大将(たいしょう)はかわいそうになって、とにかく朝飯(あさめし)を食(た)べさせることにする。かれはもう朝飯の仕度のできているテーブルを指さして、わたしにすわれといって合図をした。
「大将の考えでは、この家来にまあなにか食べるものでも食べさしたら、これほどあほうでもなくなるだろうというのですが、さて、どんなものでしょうか」と、ここで親方が口上(こうじょう)をはさんだ。
 わたしは小さなテーブルに向かってこしをかけた。テーブルの上には食器(しょっき)がならんで、さらの上にナプキンが置(お)いてあった。このナプキンをわたしはどうすればいいのだろう。
 カピがその使い方を手まねで教えてくれた。しばらくしげしげとながめたあとで、わたしはナプキンで鼻をかんだ。
 そのとき大将(たいしょう)が腹(はら)をかかえて大笑(おおわら)いをした。そうしてカピはわたしのあほうにあきれ返って、四つ足ででんぐり返しを打った。
 わたしはやりそこなったことがわかったので、またナプキンをながめて、それをどうすればいいかと考えていた。
 やがて思いついたことがあって、わたしはそれを丸(まる)く巻(ま)いてネクタイにした。大将(たいしょう)がもっと笑(わら)った。カピがまたでんぐり返しを打った。
 そのうちとうとうがまんがしきれなくなって、大将がわたしをいすから引きずり下ろして、自分が代わりにこしをかけて、わたしのためにならべられている朝飯(あさめし)を食べだした。
 ああ、かれのナプキンをあつかうことのうまいこと。いかにも上品に軍服(ぐんぷく)のボタンの穴(あな)にナプキンをはさんでひざの上に広げた。それからパンをさいて、お酒を飲む優美(ゆうび)なしぐさといったらない。
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