家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

 その小屋は丸太(まるた)やしばをつかねて造(つく)ったもので、屋根も木のえだのたばを積(つ)み重ねて、雪が間から流れこまないように固(かた)くなわでしめてあった。
 犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立てて転(ころ)げ回(まわ)っていた。
 わたしたちの満足(まんぞく)もかれらにおとらず大きかった。
「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が降(ふ)ってもかまわないぞ」
「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。
 わたしは戸口――というよりも小屋に出入(しゅつにゅう)する穴(あな)というほうが適当(てきとう)で、そこにはドアも窓(まど)もなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた部屋(へや)をぬらすまいと思ったからである。
 わたしたちの宿(やど)の構造(こうぞう)はしごく簡単(かんたん)であった。備(そな)えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりに置(お)いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六枚(まい)、かまどの形に積(つ)んであったことである。なによりもまず火を燃(も)やさなければならぬ。
 なによりも火がいちばんのごちそうだ。
 さてまきだが、このうちでそれを見つけることは困難(こんなん)ではなかった。
 わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。
 まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの欲(ほっ)しているのは火と熱(ねつ)であった。
 わたしは両手をついて、腹(はら)ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り巻(ま)いて、首をのばして、ぬれた背中(せなか)を火にかざしていた。
 ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを確(たし)かめて満足(まんぞく)したらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を占領(せんりょう)して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。
 親方は用心深い、経験(けいけん)に積(つ)んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の食料(しょくりょう)を包(つつ)んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て満足(まんぞく)した。
 情(なさ)けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか晩飯(ばんめし)に残(のこ)しておくほうが確実(かくじつ)だと考えたからであった。
 わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが背嚢(はいのう)に納(おさ)められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。
 背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピは灰(はい)の中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらの例(れい)にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気が利(き)いている。
 わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目が覚(さ)めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。無理(むり)に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。
 何時だろう。
 わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら例(れい)のカピが時間を示(しめ)した大きな銀時計は売られてしまった。かれは罰金(ばっきん)や裁判(さいばん)の費用(ひよう)をはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。
 時計を見ることができないとすれば、日の加減(かげん)で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を推量(すいりょう)するのが困難(こんなん)であった。
 なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。
 わたしは小屋の入口に立っていると、親方の呼(よ)ぶ声が聞こえた。
「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。
「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」
「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」
 それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。
「どうせまた雪は降(ふ)ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが無事(ぶじ)だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」
 そうだ。わたしたちはこの小屋に逗留(とうりゅう)するほかはない。胃(い)ぶくろのひもを固(かた)くしめておく、それだけのことだ。
 夕飯(ゆうはん)に親方が残(のこ)りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも残(のこ)さず、がつがつして食べた。このつましい晩食(ばんしょく)がすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれらがりこうであるか知った。
 親方がナイフをズボンのかくしにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろのにおいをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の吟味(ぎんみ)で、もうなにも食物の残(のこ)っていないことがわかった。それでかれはたき火の前の自分の席(せき)に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきはあきらかにどうもしんぼうするほかはないよという意味を示(しめ)していた。そこでかれはあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。
「もうなにもない。ねだってもだめだよ」かれはこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと仲間(なかま)の犬たちに会得(えとく)さしていた。
 かれの仲間(なかま)はこのことばを理解(りかい)したらしく、これもやはりため息をつきながらたき火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっしてほんとうにあきらめたため息ではなかった。おなかの減(へ)っているうえに、ゼルビノはひじょうに大食らいであった。だからこれはかれにとっては大きな犠牲(ぎせい)であった。
 雪がまたずんずん降(ふ)りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高くふくれ上がって、しまいに、小さな若木(わかぎ)や灌木(かんぼく)がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな雪片(せっぺん)がなお暗い空からほの明るい地の上にしきりなしに落ちていた。
 わたしたちはいよいよここへねむるとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くねつくことであった。わたしは昼間火でかわかしておいた毛皮服にくるまってまくらの代わりにした。平ったい石に頭をのせて、たき火の前に横になった。
「おまえはねむるがいい」親方が言った。「わたしのねむる番になればおまえを起こすから。この小屋ではけものもなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心してかぜをひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」
 わたしはさっそくねむった。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふけていた。たき火はまだ燃(も)えていた。雪はもう降(ふ)ってはいなかった。
「今度はわたしのねむる番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん採(と)っておいたまきをくべればいい」
 なるほどかれはたき火のわきに小えだをたくさん積(つ)み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいちかべからまきをぬくたんびに音を立てて目を覚(さ)まさせられることをいやがった。それでわたしはかれのこしらえておいてくれたまきの山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。
 たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、情(なさ)けないことに親方は、これがどんな意外な結果(けっか)を生むかさとらなかった。
 かれはいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、たき火の前にからだをのばした。まもなくしだいに高く、しだいに規則(きそく)正しいいびきで、よくねいったことが知れた。
 そのときわたしはそっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。
 草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。日の届(とど)くかぎりどこも目がくらむような白色であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどくこおっていた。すきまからはいる空気は氷のようであった。喪中(もちゅう)にいるような静(しず)けさの中に、雪の表面のこおりつく音がいく度となく聞こえた。
「ああ、この森のおくで雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」
 わたしはそっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の荘厳(そうごん)はかれにとってなんでもなかった。かれはしばらく景色(けしき)をながめたが、やがてたいくつして外へ出て行こうとした。
 わたしはかれに中にはいるように命令(めいれい)した。ばかな犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、暖(あたた)かいたき火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。かれは不承不承(ふしょうぶしょう)にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ面(つら)をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを忘(わす)れない犬であった。
 わたしは、まっ白な夜をながめながらまだ二、三分そこに立っていた。それは美しい景色(けしき)ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中にはいって、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。
 とうとうわたしはまたたき火のそばへ帰って、二、三本まきをたがいちがいに火の上に組み合わせて、まくらの代わりにした石の上にこしをかけた。
 親方はおだやかにねむっていた。犬たちとジョリクールもまたねむっていた。ほのおが火の中から上って、ぴかぴか火花を散(ち)らしながら屋根のほうまで巻(ま)き上がった。ぱちぱちいうたき火のほのおの音だけが夜の沈黙(ちんもく)を破(やぶ)るただ一つの音であった。
 長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん我知(われし)らずうとうとし始めた。わたしが外へ出てまきをこしらえる仕事でもしていたら、日を覚(さ)ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなくねむくなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を覚(さ)ましているつもりになっていた。
 ふとはげしいほえ声にわたしは目が覚めて、とび上がった。まっ暗であった。わたしはかなり長いあいだねむったらしく、火はほとんど消(き)えかかっていた。もう小屋の中にほのおが光ってはいなかった。
 カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。
「どうした。どうした」と親方が目を覚(さ)ましてさけんだ。
「知りません」
「おまえはねむっていたのだな。火も消えている」
 カピは入口までかけ出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、ウウ、ほえていた。
「どうした。どうしたというんだろう」わたしは今度は自分にたずねた。
 カピのほえ声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い距離(きょり)から聞こえて来た。
 わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの肩(かた)に手をのせて引き止めた。
「まあまきをくべなさい」かれは命令(めいれい)の調子で言った。
 言いつけられたとおりにわたしがしていると、かれは火の中から一本小えだを引き出して、火をふき消して、燃(も)えている先を吹(ふ)いた。
 かれはそのたいまつを手に持った。
「さあ、行って見て来よう」とかれは言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」
 外へ出ようとすると、はげしいほえ声が聞こえた。カピはこわがって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。
「おおかみだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」
 なにをわたしが言えよう。二ひきの犬はわたしのねむっているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがねつくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。
 おおかみがかれらをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、かれの声にはその恐怖(きょうふ)があった。
「たいまつをお持ち」とかれは言った。「あれらを助けに行かなければならない」
 村でわたしはよくおおかみのおそろしい話を開いていた。でもわたしはちゅうちょすることはできなかった。わたしはたいまつを取りにかけて帰って、また親方のあとに続(つづ)いた。
 けれども外には犬も見えなければおおかみも見えなかった。雪の上にただ二ひきの犬の足あとがぽつぽつ残(のこ)っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとややはなれて雪の中でなにかけものが転(ころ)がり回ったようなあとがあった。
「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時にかれはゼルビノとドルスを呼(よ)び寄(よ)せる呼(よ)び子(こ)をふいた。
 けれどこれに答えるほえ声は聞こえなかった。森の中の重苦しい沈黙(ちんもく)を破(やぶ)る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにかけ出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも恐怖(きょうふ)にたえない様子であった。いつもはあれほど従順(じゅうじゅん)でゆうかんなカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの勇気(ゆうき)がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先はただどんよりと暗かった。
 もう一度親方は呼(よ)び子(こ)をふいて、迷(まよ)い犬(いぬ)を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。
「ああ、かわいそうなドルス」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。
「おおかみがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」
 そう、どうして――そう言われて、わたしは答えることばがなかった。
「行って探(さが)して来なければ」とわたしはしばらくして言った。
 わたしは先に立って行こうとしたけれど、かれはわたしを引き止めた。
「どこへ探しに行くつもりだ」とかれはたずねた。
「わかりません、ほうぼうを」
「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で……」
 それはほんとうであった。雪がわたしたちのひざの上まで積(つ)もっていた。わたしたちの二本のたいまつをいっしょにしても、暗がりを照(て)らすことはできなかった。
「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」とかれは言った。
「わたしたちは、むやみに進むことはならない。おおかみはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」
 かわいそうな犬どもを、その運命(うんめい)のままに任(まか)せるということは、どんなに情(なさ)けないことであったろう。
 ――われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより困(こま)ったことは、それがわたしの責任(せきにん)だということであった。わたしはねむりさえしなかったら、かれらも出て行きはしなかった。
 親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに続(つづ)きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。
 雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。
 こうしてわたしたちが、小屋にはいると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいたえだは勢(いきお)いよく燃(も)え上がって、小屋のすみずみの暗い所まで照(て)らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。かれの着ていた毛布(もうふ)はたき火の前にぬぎ捨(す)ててあった。けれどかれは小屋の中にはいなかった。親方もわたしも呼(よ)んだ。けれどかれは出て来なかった。
 親方の言うには、かれの目を覚(さ)ましたときには、さるはわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。燃(も)えているたいまつを雪の積(つ)もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。
 どこかたばねたまきのかげにでもかくれているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく探(さが)し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。
 わたしは親方の肩(かた)に上って、屋根に葺(ふ)いてあるえだたばの中を探してみた。二度も三度も呼(よ)んでみた。けれどもなんの返事もなかった。
 親方はぷりぷりかんしゃくを起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。
 わたしは親方に、おおかみがかれまでも取って行ったのではないかとたずねた。
「いいや」とかれは言った。「おおかみは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへかかくれたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっとかぜをひくであろう。寒さがあれにはなにより効(き)くのだから」
「じゃあどんどん探(さが)してみましょうよ」
 わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。
「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。
「どのくらいで明けるでしょう」
「二時間か三時間だろう」
 親方は両手で頭をおさえてたき火の前にすわっていた。
 わたしはそれをじゃまする勇気(ゆうき)がなかった、わたしはかれのわきにつっ立って、ただときどき火の中にえだをくべるだけであった。一、二度かれは立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。
 わたしはかれがそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。
 三時間はのろのろ過(す)ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。
 でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに従(したが)って、寒さはいよいよひどくなった。戸口からはいって来る風が骨(ほね)までこおるようであった。
 これでジョリクールを見つけたとしても、かれは生きているだろうか。
 見つけ出す希望(きぼう)がほんとにあるだろうか。
 きょうもまた雪が降(ふ)りださないともかぎらない。
 でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの好天気(こうてんき)を予告(よこく)するようであった。
 すっかり明るくなって、樹木(じゅもく)の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、棒(ぼう)をかかえて小屋を出た。
 カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでかけ出す仕度をしていた。
 わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを探(さが)し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。かれはわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。
 小屋のわきの大きなかしの木のまたで、わたしたちはなにか黒い小さなもののうごめく姿(すがた)を見つけた。
 これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声におびえて、かれはわたしたちが出ているまに、小屋の屋根によじ上った。そしてそこから一本のかしの木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの呼(よ)ぶ声にも答えず、じっとからだをかがめてすわっていたのであった。
 かわいそうな弱い動物。かれはこごえてしまったにちがいない。
 親方がかれを優(やさ)しく呼(よ)んだ。かれは動かなかった。わたしたちはかれがもう死んでいると思った。
 数分間親方はかれを続(つづ)けさまに呼んだ。けれどさるはもう生きているもののようではなかった。
 わたしの心臓(しんぞう)は後悔(こうかい)で痛(いた)んだ。どれほどひどく罰(ばっ)せられたことだろう。
 わたしはつぐないをしなければならない。
「登ってつかまえて来ましょう」とわたしは言った。
「危(あぶ)ないよ」
「いいえ、だいじょうぶです。わけなくできますよ」
 それはほんとうではなかった。それは危険(きけん)でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん困難(こんなん)な仕事であった。
 わたしはごく小さかったじぶんから木登りをすることを習った。それでこの術(じゅつ)には熟練(じゅくれん)していた。わたしはとび上がって、いちばん下のえだにとびついた。そして木のえだをすけて雪が落ちて日の中にはいって来たが、でもどうやら木の幹(みき)をよじて、いちばんしっかりしたえだに手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。
 わたしは登りながら、優(やさ)しくジョリクールに話しかけた。かれは動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。
 わたしはほとんど手の届(とど)く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいとかれはほかのえだにとびついてしまった。
 わたしはそのえだまでかれを追っかけたけれど、人間の情(なさ)けなさ、子どもであっても、木登りはさるにはかなわなかった。
 これでさるの足が雪でぬれていなかったら、とてもかれをつかまえることはできそうもなかった。かれは足のぬれることを好(この)まなかった。それでじきにわたしをからかうのがいやになって、えだからえだへととび下りて、まっすぐに主人の肩(かた)にとび下りた。そして上着の裏(うら)にかくれた。
 ジョリクールを見つけるのはたいへんなことであったがそれだけではすまなかった。今度は犬を探(さが)さなければならなかった。
 もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。
 わたしたちは十間(けん)(約十八メートル)ばかりかれらの足あとをつけることができた。かれらは続(つづ)いて小屋からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに続(ぞく)いた。
 それからほかのけものの足あとが見えた。一方にはおおかみどもは犬にとびかかって、はげしく戦(たたか)ったしるしが残(のこ)っていた。こちらにはおおかみがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。
 かわいそうな二ひきの犬は、わたしのねむっているあいだに死にに行ったのであった。
 でもわたしたちはできるだけ早く帰って、ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方がさるの足と手を持って、赤んぼうをおさえるようにして、たき火にかざすと、わたしは毛布(もうふ)を温めて、その中へ転(ころ)がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。かれは湯たんぽと温かい飲み物を求(もと)めていた。
 親方とわたしはたき火のそばにすわって、だまってまきの燃(も)えるのをながめた。
「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」
 わたしたちは代わりばんこにこんなことばをつぶやいた。初(はじ)めに親方が、つぎにはわたしが。
 あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、道連(みちづ)れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。
 わたしがしっかり見張(みは)りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。おおかみはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。
 どうにかしていっそ親方がひどくわたしをしかってくれればよかった。かれがわたしを打ってくれればよかった。
 けれどかれはなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。かれは火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。


     ジョリクール氏(し)

 夜明けまえの予告(よこく)はちがわなかった。
 日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえの晩(ばん)あれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。
 たびたび親方はかけ物の下に手をやって、ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小ざるはいっこうに温まってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、かれのがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。
 かれの血管(けっかん)の中の血がこおっていたのである。
「とにかく村へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐたつことにしよう」
 毛布(もうふ)はよく温まっていた。それで小ざるはその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐ胸(むね)に当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。
 小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。
「この小屋にはずいぶん高い宿代(やどだい)をはらった」
 こう言ったかれの声はふるえた。
 かれは先に立って行った。わたしはその足あとに続(つづ)いた。わたしたちが二、三間(げん)(四〜六メートル)行くと、カピを呼(よ)んでやらなければならなかった。かわいそうな犬。かれは小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、仲間(なかま)がおおかみにとられて行った場所に向けていた。
 大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その御者(ぎょしゃ)はもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは困難(こんなん)でもあり苦しかった。雪がわたしのこしまでついた。
 たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびにかれは、小ざるはまだふるえていると言った。
 やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な宿屋(やどや)にとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、同勢(どうぜい)残(のこ)らずとめてくれそうな木賃宿(きちんやど)を選んだ。
 ところが今度は親方がきれいな看板(かんばん)のかかっている宿屋へはいった。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光る赤銅(あか)のなべがかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが空腹(くうふく)な旅人にどんなにうまそうににおったことであろう。
 親方は例(れい)のもっとも『紳士(しんし)』らしい態度(たいど)を用いて、ぼうしを頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、宿屋(やどや)の亭主(ていしゅ)にいいねどこと暖(あたた)かい火を求(もと)めた。初(はじ)めは宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子がみごとにかれを圧迫(あっぱく)した。かれは女中に言いつけて、わたしたちを一間(ひとま)へ通すようにした。
「早くねどこにおはいり」と親方は女中が火をたいている最中(さいちゅう)わたし言った。わたしはびっくりしてかれの顔を見た。なぜねどこにはいるのだろう。わたしはねどこなんかにはいるよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。
「さあ早く」
 でも親方がくり返した。
 服従(ふくじゅう)するよりほかにしかたがなかった。寝台(ねだい)の上には鳥の毛のふとんがあった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。
「少しでも温まるようにするのだ」とかれは言った。「おまえが温まれば温まるほどいいのだ」
 わたしの考えでは、ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く温まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。
 わたしがまだ毛のふとんにくるまってあったまろうと骨(ほね)を折(お)っているとき、親方はジョリクールを丸(まる)くして、まるで蒸(む)し焼(や)きにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。
「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。
「むれそうです」
「それでいい」かれは急いで寝台(ねだい)のそばに来て、ジョリクールをねどこにつっこんで、わたしの胸(むね)にくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小ざるは、いつもなら自分のきらいなことをされると反抗(はんこう)するくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。かれは見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれどもかれはもう冷(つめ)たくはなかった。かれのからだは焼(や)けるようだった。
 台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくしたぶどう酒を一ぱい持って帰って来た。かれはジョリクールに二さじ三さじ飲ませようと試(こころ)みたけれど、小ざるは歯(は)を食いしばっていた。かれはぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分を責(せ)めてくれるなとたのむような顔をしていた。それからかれはかけ物の下から片(かた)うでを出して、わたしたちのほうへさし延(の)べた。
 わたしはかれの思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう説明(せつめい)してくれた。
 わたしがまだ来なかったじぶん、ジョリクールは肺炎(はいえん)にかかったことがあった。それでかれのうでに針(はり)をさして出血させなければならなかった。今度病気になったのを知ってかれはまた刺絡(しらく)(血を出すこと)してもらって、先(せん)のようによくなりたいと思うのであった。
 かわいそうな小ざる。親方はこれだけの所作(しょさ)で深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということはあきらかであった。しかもひじょうに悪くって、あれほど好(す)きな砂糖(さとう)入りのぶどう酒すらも受けつけようとはしないのであった。
「ルミ、ぶどう酒をお飲み。そしてとこにはいっておいで」と親方が言った。「わたしは医者を呼(よ)んで来る」
 わたしもやはり砂糖入りのぶどう酒が好きだということを白状(はくじょう)しなければならない。それにわたしはたいへん腹(はら)が減(へ)っていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息にぶどう酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。からだの温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息がつまりそうであった。
 親方は遠くへは行かなかった。かれはまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた紳士(しんし)――お医者を連(つ)れて来た。さるだと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしがとこの中にはいって、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの額が手を当てて、すぐ「充血(じゅうけつ)だ」と言った。
 かれはよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。
 うっかりしてまちがえられて、血でも取られてはたいへんだと思って、わたしはさけんだ。
「まあ、ぼくは病人ではありません」
「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」
 わたしは少し毛布(もうふ)を上げて、ジョリクールを見せた。かれはその小さな手をわたしの首に巻(ま)きつけていた。
「病人はこれです」とわたしは言った。
「さるか」とかれはさけんで、おこった顔をして親方に向かった。「きみはこんな日にさるをみせにわたしを連(つ)れ出したか」
 親方はなかなか容易(ようい)なことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいにしかも例(れい)の大(おお)ふうな様子で、医者を引き止めた。それからかれは事情(じじょう)を説明(せつめい)して、ふぶきの中に閉(と)じこめられたことや、おおかみにこわがってジョリクールがかしの木にとび上がったこと、そこで死ぬほどこごえたことを話した。
「病人はたかがさるにすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほどだいじな友だちであり、仲間(なかま)でありますか。どうしてこれほどのふしぎな才能(さいのう)を持った動物をただの獣医(じゅうい)やなどに任(まか)されるものではない。村の獣医というものはばかであって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということはだれだって知っている。医師の標札(ひょうさつ)の出ているドアの呼(よ)びりんをおせば、知識(ちしき)があり慈愛(じさい)深い人にかならず会うことができる。さるは動物ではあるが、博物学者(はくぶつがくしゃ)に従(したが)えば、かれらはひじょうに人類(じんるい)に近いので、病気などは人もさるも同じようにあつかわれると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人とさるがどうちがうか、研究してみるのも興味(きょうみ)のあることではないでしょうか」
 こういうふうに説(と)かれて、医者は行きかけていた戸口からもどって来た。
 ジョリクールはたぶんこのめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、またうでをつき出した。
「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり刺絡(しらく)していただくつもりでいます」
 これで医者の足が止まった。
「ひじょうにおもしろい。なかなかおもしろい実験(じっけん)だ」とかれはつぶやいた。
 一とおり診察(しんさつ)して、医者はかわいそうなジョリクールが今度もやはり肺炎(はいえん)にかかっていることを告(つ)げた。医者はさるの手を取って、その血管(けっかん)に少しも苦しませずにランセット(針)をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと治(なお)ると思った。刺絡(しらく)をすませて、医者はいろいろと薬剤(やくざい)にそえて注意をあたえた。わたしはもちろんとこの中にはいってはいなかった。親方の言いつけに従(したが)って、看護婦(かんごふ)を務(つと)めていた。
 かわいそうなジョリクール。かれは自分を看護してくれるのでわたしを好(す)いていた。かれはわたしの顔を見てさびしく笑(わら)った。かれの顔つきはひじょうに優(やさ)しかった。
 いつもあれほど、せっかちで、かんしゃく持ちで、だれにもいたずらばかりしていたかれが、それはもうおとなしく従順(じゅうじゅん)であった。
 その後毎日、かれはいかにわたしたちをなつかしがっているかを示(しめ)そうと努(つと)めた。それはこれまでたびたびかれのいたずらの犠牲(ぎせい)であったカピに対してすらそうであった。
 肺炎(はいえん)のふつうの経過(けいか)として、かれはまもなくせきをし始めた、この発作(ほっさ)のたびごとに小さなからだがはげくふるえるので、かれはひどくこれを苦しがった。
 わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしはかれに麦菓子(むぎがし)を買ってやった。けれどこれはよけいかれを悪くした。
 かれのするどい本能(ほんのう)で、かれはまもなくせきをするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。かれはそれをいいことにして、自分のたいへん好(す)きな薬をもらうために、しじゅうせきをした。それでこの薬はかれをよけい悪くした。
 かれのこのくわだてをわたしが見破(みやぶ)ると、もちろん麦菓子(むぎがし)をやることをやめたが、かれは弱らなかった。まずかれは哀願(あいがん)するような目つきでそれを求(もと)めた。それでくれないと見ると、かれはとこの上にすわって両手を胸(むね)の上に当てたまま、からだをゆがめて、ありったけの力でせきをした。かれの額(ひたい)の青筋(あおすじ)がにょきんととび出して、なみだが目から流れた。そしてのどのつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしくせきこんだ。
 わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、ジョリクールといっしょに宿屋(やどや)に残(のこ)っていた。ある朝かれが帰って来ると、宿(やど)の亭主(ていしゅ)がとどこおっている宿料(しゅくりょう)を要求(ようきゅう)したことを話した。かれがわたしに金の話をしたのはこれが初(はじ)めてであった。かれがわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんのぐうぜんにわたしの聞き出したことであって、そのほかにはかれのふところ具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、今度こそかれはもうわずか五十スーしかふところに残(のこ)っていないことを話した。
 こうなってただ一つ残(のこ)った手だてとしては、今夜さっそく一興行(こうぎょう)やるほかにないとかれは考えていた。
 ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。
 それができてもできなくても、どう少なく見積(みつ)もってもすぐ四十フランという金をこしらえなければならないとかれは言った。ジョリクールの病気は治(なお)してやらなければならないし、部屋(へや)には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、宿(やど)にもはらわなければならない。いったん借(か)りている物を返せば、あとはまた貸(か)してもくれるだろう。
 この村で四十フラン。この寒空といい、こんなあわれない一座(いちざ)でなにができよう。
 わたしが、ジョリクールといっしょに宿(やど)に待っているあいだに親方がさかり場で一けん見世物小屋を見つけた。なにしろ野天(のてん)で興行(こうぎょう)するなんということはこの寒さにできない相談(そうだん)であった。かれは広告(こうこく)のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、二、三枚(まい)の板でかれは舞台(ぶたい)をこしらえたりした。そして思い切って残(のこ)りの五十スーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二倍(ばい)に使うくふうをした。
 わたしたちの部屋(へや)の窓(まど)から見ていると、かれは雪の中を行ったり来たりしていた。わたしはどんな番組をかれが作るか、心配であった。
 わたしはすぐにこの問題を解(と)くことができた。というのは、そのとき村の広告屋(こうこくや)が赤いぼうしをかぶってやって来て、宿屋(やどや)の前に止まった。たいこをそうぞうしくたたいたあとで、かれはわれわれの番組を読み上げた。
 その口上(こうじょう)を聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさなふいちょうをした。なんでも世界でもっとも高名な芸人(げいにん)が出る――それはカピのことであった――それから『希世(きせい)の天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。
 それはいいとして、この山勘口上(やまかんこうじょう)で第一におもしろいことは、この興行(こうぎょう)に決まった入場料(にゅうじょうりょう)のなかったことであった。われわれは見物の義侠心(ぎきょうしん)に信頼(しんらい)する。見物は残(のこ)らず見て聞いてかっさいをしたあとで、いくらでもお志(こころざし)しだいにはらえばいいというのである。
 これがわたしにはとっぴょうしもなくだいたんなやり方に思われた。だれがわたしたちをかっさいする者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが……わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんな音(ね)が出るのだ。
 たいこの音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうどひじょうに悪かった最中(さいちゅう)であったが、やはり起き上がろうとした。たいこの音とカピのほえ声を聞くと、芝居(しばい)の始まる知らせであるということをさとったようであった。
 わたしは無理(むり)にかれをねどこにおしもどさなければならなかった。するとかれは例(れい)のイギリスの大将(たいしょう)の軍服(ぐんぷく)――金筋(きんすじ)のはいった赤い上着とズボン、それから羽根(はね)のついたぼうしをくれという合図をした。かれは両手を合わせてひざをついて、わたしにたのみ始めた。いくらたのんでも、なにもしてもらえないとみると、かれはおこって見せた。それからとうとうしまいにはなみだをこぼしていた。かれに向かって、今夜芝居(しばい)するなんという考えを捨(す)てなければならないことを納得(なっとく)させるには、たいへんな手数のかかることがわかっていた。それよりもかくれて出て行くほうがいいとわたしは思った。
 親方が帰って来ると、かれはわたしにハープをしょったり、いろいろ興行(こうぎょう)に入りようなものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって請求(せいきゅう)を始めた。かれは自分の希望(きぼう)を表すために苦しい声をしばり出したり、顔をしかめたり、からだを曲げたりするよりいいことはなかった。かれのほおにはほんとうになみだが流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。
「おまえも芝居(しばい)がしたいのか」と親方はたずねた。
「そうですとも」とジョリクールのからだ全体がさけんでいるように思われた。かれは自分がもう病人でないことを示(しめ)すために、とび上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを連(つ)れ出せば、いよいよかれを殺(ころ)すほかはないことをよく知っていた。
 わたしたちはもう出て行く時刻(じこく)になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、ジョリクールを毛布(もうふ)の中にすっかりくるんだ。かれはまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。
 雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜はしっかりやってもらいたいということを話した。もちろん一座(いちざ)の主(おも)な役者たちがいなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、カピとわたしとでおたがいにいっしょうけんめいにやれるだけはやらなければならなかった。なにしろ四十フラン集めなければならなかった。
 四十フラン。おそろしいことであった。できない相談(そうだん)であった。
 親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがすべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ芝居(しばい)のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。
 わたしたちがいよいよ芝居小屋にはいったとき、広告屋(こうこくや)はたいこをたたいて、最後(さいご)にもう一度村の往来(おうらい)を一めぐりめぐり歩いていた。
 カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。
 たいこの音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。たいこのあとからは子どもがおおぜい調子を合わせてついて来た。たいこを打ちやめることなしに、広告屋(こうこくや)は芝居小屋(しばいごや)の入口にともっている二つの大きなかがり火のまん中に位置(いち)をしめた。こうなると見物はただ、中にはいって場席(ばせき)を取れば、芝居(しばい)は始められるのであった。
 おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口のたいこはゆかいそうにどんどん鳴り続(つづ)けていた。村じゅうの子どもは残(のこ)らず集まっているにちがいなかった。けれど四十フランの金をくれるものは子どもではなかった、ふところの大きい、物おしみをしない紳士(しんし)が来てくれなければならなかった。
 とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくというやっかいな問題があるので、このうえ長くは待てなかった。
 わたしはまずまっ先に現(あらわ)れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けたかっさいはごく貧弱(ひんじゃく)だった。わたしは自分を芸人(げいにん)だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい冷淡(れいたん)さがわたしをがっかりさせた。わたしがかれらをゆかいにしえなかったとすると、かれらはきっとふところを開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った名誉(めいよ)のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を興奮(こうふん)させ、かれらを有頂天(うちょうてん)にさせようと願(ねが)っていたことだろう……けれども見物席(けんぶつせき)はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『希世(きせい)の天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。
 でもカピは評判(ひょうばん)がよかった。かれはいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで興行(こうぎょう)が割(わ)れるようなかっさいで終わった。かれらは両手をたたいたばかりでなく、足拍子(あしびょうし)をふみ鳴らした。
 いよいよ勝負の決まるときが来た。カピはぼうしを口にくわえて、見物の中をどうどうめぐりし始めた。そのあいだわたしは親方の伴奏(ばんそう)でイスパニア舞踏(ぶとう)をおどった。カピは四十フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな態度(たいど)を示しながら、この問題がしじゅうわたしの胸(むね)を打った。
 わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり続(つづ)けた。かれはあわてなかった。一枚(まい)の銀貨(ぎんか)ももらえないとみると、前足を上げてその人のかくしをたたいた。
 いよいよかれが帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。
 わたしはおどり続(つづ)けた。そして二足三足カピのそばへ行きかけて、ぼうしがいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。
 親方はやはりみいりの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。
「紳士(しんし)ならびに貴女(きじょ)がた。じまんではございませんが、本夕(ほんせき)はおかげさまをもちまして、番組どおりとどこおりなく演(えん)じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も燃(も)えつきませんことゆえ、みなさまのお好(この)みに任(まか)せ、今度は一番てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ一座(いちざ)のカピ丈(じょう)はもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご祝儀(しゅうぎ)をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を願(ねが)いたてまつります」
 親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだほんとうにかれの歌うのを開いたことはなかった。いや、少なくともその晩(ばん)歌ったように歌うのを開いたことがなかった。かれは二つの歌を選(えら)んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール獅子王(ししおう)の歌であった。
 わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。かれの歌を聞いているうちに、目にはなみだがいっぱいあふれたので、舞台(ぶたい)のすみに引っこんでいた。
 そのなみだの霧(きり)の中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていた若(わか)いおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった百姓(ひゃくしょう)たちとちがっていることを見つけた。かの女は若(わか)い美しい貴婦人(きふじん)で、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもを連(つ)れていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによく似(に)ているところを見れば、それはかの女のむすこであった。
 初(はじ)めの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。
 親方が第二の曲をすませたとき、かの女は手招(てまね)きをしてわたしを呼(よ)んだ。
「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。
 わたしはびっくりした。(そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい)とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。
「あの婦人(ふじん)がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。
「あなたにお話がしたいそうです」
「わたしはなにも話すことなんかない」
「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」
「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」
 そうは言いながら、かれは行くことにして、犬を連(つ)れて行った。わたしもかれらのあとに続(つづ)いた。そのとき一人の僕(ぼく)(下男)が出て来て、ちょうちんと毛布(もうふ)を持って来た。かれは婦人(ふじん)と子どものわきに立っていた。
 親方は冷淡(れいたん)に婦人(ふじん)にあいさつをした。
「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、お祝(いわ)いを申し上げたいと思いました」
 でも親方は一言(ごん)も言わずに、ただ頭を下げた。
「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの技術(ぎじゅつ)の天才にはまったく感動いたしました」
 技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの見世物師(みせものし)が。わたしはあっけにとられた。
「わたしのような老(お)いぼれになんの技術(ぎじゅつ)がありますものか」とかれは冷淡(れいたん)に答えた。
「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と婦人(ふじん)はまた始めた。
「なるほどあなたのようなまじめなかたの好奇心(こうきしん)を満足(まんぞく)させてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも若(わか)いじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の下男(げなん)でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして覚(おぼ)えたのですね。それだけのことです」
 婦人(ふじん)は答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。
「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。
「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに金貨(きんか)を一枚(まい)落とした。
 わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。
「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれは危(あぶ)なくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ垂(た)らした。
「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしは忘(わす)れていた。すぐ行ってやろう」
 わたしはそうそうに切り上げて、宿(やど)へ帰った。
 わたしはまっ先に宿屋(やどや)のはしごを上がって部屋(へや)へはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。
 わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。
 やがてかれが陸軍大将(りくぐんたいしょう)の軍服(ぐんぷく)を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、毛布(もうふ)の上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。
 わたしはからだをかがめて、優(やさ)しくかれの手を取って引き起こそうとした。
 その手はもう冷(つめ)たかった。
 親方がそのとき部屋にはいって来た。
 わたしはかれのほうを見た。
「ジョリクールが冷(つめ)たいんですよ」とわたしは言った。
 親方はそばへ来て、やはりとこの上にのぞきこんだ。
「死んだのだ」とかれは言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン夫人(ふじん)の所から無理(むり)に連(つ)れて来たのは悪かった。わたしは罰(ばっ)せられたのだ。ゼルビノ、ドルス、それから今度はジョリクール……だがこれだけではすむまいよ」


     パリ入り

 まだパリからはよほどはなれていた。
 わたしたちは雪でうずまった道をどこまでも歩いて行かなければならなかった。朝から晩(ばん)まで北風に顔を打たれながら、とぼとぼ歩いて行かなければならなかった。
 この長いさすらいの旅はどんなにつらかったろう。親方が先に立って歩く。続(つづ)いてわたし、その後からカピがついて来た。こうして一列になって、わたしたちは何時間も、何時間も、ひと言も口をきかずに、寒さで血の気(け)のなくなった顔をして、ぬれた足と空っぽな胃(い)ぶくろをかかえて歩き続(つづ)けた。とちゅうで行き会う人はふり返って、わたしたちの姿(すがた)が見た。まさしくかれらはきみょうに思ったらしかった。このじいさんは、子どもと犬をどこへ連(つ)れて行くのであろう。
 沈黙(ちんもく)はわたしにとって、つらくもあり悲しくも思われた。わたしはしきりと話をしたかったけれど、やっと口を切ると、親方はぷっつり手短に答えて、顔をふり向けもしなかった。うれしいことにカピはもっと人づき(人づき合い)がよかった。それでわたしが足を引きずり引きずり歩いて行くと、ときどきかれのぬくい舌(した)が手にさわった。かれはあたかもお友だちのカピがここについていますよというように、優(やさ)しくなめてくれた。そこでわたしもさすり返してやった。わたしたちはおたがいに心持ちをさとり合った。おたがいに愛(あい)し合っていた。
 わたしにとっては、これがなによりのたよりであったし、カピもそれをせめてものなぐさめとしているらしかった。物に感ずる心は犬の心も子どもの心もさしてちがいがなかった。
 こうしてわたしがカピをかわいがってやると、カピもそれになぐさめられて、いくらかずつ仲間(なかま)をなくした悲しみをまぎらしてゆくようであった。でも習慣(しゅうかん)の力はえらいもので、ときどき立ち止まっては、一座(いちざ)の仲間(なかま)が後から来るのを待ちうけるふうであった。それはかれが以前(いぜん)一座の部長であったとき、座員を前にやり過(す)ごして、いちいち点呼(てんこ)する習慣(しゅうかん)があったからである。けれどそれもほんの数秒時間のことで、すぐ思い出すと、もうだれも後から来るはずがないと思ったらしく、すごすご後から追い着いて来て、ドルスもゼルビノも来ませんが、それでやはりちがってはいないのですというように親方をながめるのであった。その目つきには感情(かんじょう)とちえがあふれていて、見ていると、こちらも引き入れられるように思うのであった。
 こんなことは、ちっとも旅行をゆかいにするものではなかったが、わたしたちの気をまぎらす種(たね)にはなった。
 行く先ざきの野面(のづら)はまっ白な雪でおおわれて、空には日の光も見えなかった。いつも青白い灰(はい)色の空であった。畑(はた)をうつ百姓(ひゃくしょう)のかげも見えなかった。馬のいななきも聞こえなければ、牛のうなりも聞こえなかった。ただ食に飢(う)えたからすが、こずえの上で虫を探(さが)しあぐねて悲しそうに鳴いていた。村で戸を開けているうちはなくって、どこもしんと静(しず)まり返っていた。
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