家なき子
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著者名:マロエクトール・アンリ 

 いや、この自分のほうを目ざしてやって来る大きな影法師(かげぼうし)が人間であるはずがなかった――わたしのまだ知らないなにかのけものか、またはおそろしい大きな夜鳥か、大きなばけぐもが木の上をとびこえて来るのだ。なんにしても確(たし)かなことは、この化け物はおそろしく長い足をしていて、ばかばかしく早く飛んで来るということであった。
 それを見るとわたしはあわてて、あとをも見ずに、足に任(まか)せて小山をかけ下りて、ヴィタリスのいる所までにげようとした。
 けれどきみょうなことに、登るときだけに早くわたしの足が進まなかった。わたしはいばらや、雑草(ざっそう)のやぶの中に転(ころ)がって、二足ごとにひっかかれた。
 ちくちくするいばらの中からはい出して、わたしはふと後ろをふり向いてみた。怪物(かいぶつ)はいよいよ近くにせまっていた。もういまにも頭の上にとびかかりそうになっていた。
 運よく野原はそういばらがなかったので、いままでよりは、早くかけだすことができた。
 でもわたしがありったけの速力(そくりょく)で、競争(きょうそう)しても、その怪物(かいぶつ)はずんずん追いぬこうとしていた。もう後ろをふり返る必要(ひつよう)はなかった。それがわたしのすぐ背中(せなか)にせまっていることはわかっていた。
 わたしは息もつけなかった。競争でつかれきっていた。ただはあすう、はあすう言っていた。しかし最後(さいご)の大努力(だいどりょく)をやって、わたしは転(ころ)げこむように親方の足もとにかけこんだ。三びきの犬はあわててはね起きて、大声でほえた。わたしはやっと二つのことばをくり返した。
「化け物が、化け物が」
 犬たちのけたたましいほえ声よりも高く、はちきれそうな大笑(おおわら)いの声を聞いた。それと同時に親方は両手でわたしの肩(かた)をおさえて、無理(むり)に顔を後ろにふり向けた。
「おばかさん」とかれはさけんで、まだ笑いやめなかった。「まあよく見なさい」
 そういうことばよりも、そのけたたましい笑(わら)い声(こえ)がわたしを正気に返らせた。わたしは片目(かため)ずつ開けてみた。そうして親方の指さすほうをながめた。
 あれほどわたしをおどかした怪物(かいぶつ)はもう動かなくなって、じつと往来(おうらい)に立ち止まっていた。
 その姿(すがた)を見ると、正直の話わたしはまたふるえだした。けれど今度はわたしも親方や犬たちのそばにいるのだ。草やぶのしげった中に独(ひと)りぼっちいるのではなかった……わたしは思い切って目を上げて、じっとその姿を見つめた。
 けものだろうか。
 人だろうか。
 人のようでもあって、胴はあるし、頭も両うでもあった。
 けものらしくもある。けれどもかぶっていた毛むくじゃらな身の皮と、それをのせているらしい二本の長細いすねは、それらしい。
 夜はいよいよ暗かったが、この黒い影法師(かげぼうし)は星明かりにはっきりと見えた。
 わたしはしばらく、それがなんだかまだわからずにいたのであったが、親方はやがてその影法師に向かって話をしかけた。
「まだ村にはよほど遠いでしょうか」と、かれはていねいにたずねた。
 話をしかけるところから見れば人間だったか。
 だがそれは返事はしないで、ただ黙った。その笑い声は鳥の鳴き声めいていた。
 するとけものかな。
 主人はやはり問いを続(つづ)けた。
 こうなると、それが今度口をきいて返事をしたら、やはり人間にちがいなかった。
 ところでわたしのびっくりしたことには、その怪物(かいぶつ)は、この近所には人家はないが、ひつじ小屋は一けんあるから、そこへ連(つ)れて行ってやろうと言った。
 おやおや、口がきけるのに、なぜけものような前足があるのだろう。
 わたしに勇気(ゆうき)があったら、その男のそばへ行って、どんなふうに前足ができているか見て来るところであったろうが、わたしはまだ少しこわかった。そこで背嚢(はいのう)をしょい上げてひと言も言わずに親方のあとについて行った。
「これでおまえ、正体がわかったろう」と親方は言って、道みち歩きながらも笑(わら)っていた。
「でもぼくはまだなんだかわかりません。じやあこのへんには大男がいるのですか」
「そうさ。竹馬に乗っていれば大男にも見えるさ」
 そこでかれはわたしに説明(せつめい)してくれた。砂地(すなじ)や沼沢(しょうたく)か多いランド地方の人は、沼地(ぬまち)を歩くとき水にぬれないように、竹馬に乗って歩くというのであった。なんてわたしはばかだったのであろう。
「これでこのへんの人が、七里ぐつをはいた大男になって、子どもをこわがらせたわけがわかったろうね」


     裁判所(さいばんしょ)

 ポー市にはゆかいな記憶(きおく)がある。そこは冬ほとんど風のふかない心持ちのいい休み場であった。
 わたしたちはそこに冬じゅういた。金もずいぶんたくさん取れた。お客はたいてい子どもたちであったから、同じ演芸(えんげい)を何度も何度もくり返してやってもあきることがなかった。金持ちの子どもたちで、多くはイギリス人とアメリカ人の子どもであった。ぽちゃぽちゃとかわいらしく太った男の子、それに、大きな優(やさ)しい、ドルスの目のような美しい目をした女の子たちであった。そういう子どもたちのおかげでわたしはアルバートだのハントリだのという菓子(かし)の味を覚(おぼ)えた。なぜというに子どもたちはいつでもかくしにいっぱいお菓子をつめこんで来ては、ジョリクールと犬とわたしに分けてくれたからであった。
 けれども春が近くなるに従(したが)って、お客の数はだんだん少なくなった。芝居(しばい)がすむと一人ずつまた二人ずつ、子どもたちはやって来て、ジョリクールとカピとドルスに握手(あくしゅ)をして行った。みんなさようならを言いに来たのであった。そこでわたしたちもまたなつかしい冬の休息所を見捨(みす)てて、またもや果(は)て知(し)れない漂泊(ひょうはく)の旅に出て行かなければならなかった。それはいく週間と知らない長いあいだ、谷間をぬけ山をこえた。いつもピレネー連山(れんざん)のむらさき色のみねを横に見た。それはうずたかくもり上がった雲のかたまりのように見えていた。
 さてある晩(ばん)わたしたちは川に沿(そ)った豊(ゆた)かな平野の中にある大きな町に着いた。赤れんがのみっともない家が多かった。とんがった小砂利(こじゃり)をしきつめた往来(おうらい)が、一日十二マイル(約十九キロ)も歩いて来た旅行者の足をなやました。親方はわたしに、ここがツールーズの町だと言って、しばらくここに滞留(たいりゅう)するはずだと話した。
 例(れい)によってそこに着いていちばん初(はじ)めにすることは、あくる日の興行(こうぎょう)につごうのいい場所を探(さが)すことであった。
 つごうのいい場所はけっして少なくはなかったが、とりわけ植物園の近傍(きんぼう)(近所)のきれいな芝生(しばふ)には、大きな樹木(じゅもく)が気持ちのいいかげを作っていて、そこへ広い並木道(なみきみち)がほうぼうから集まっていた。その並木道の一つで第一回の興行(こうぎょう)がすることにした。すると初日(しょにち)からもう見物の山を築(きず)いた。
 ところで不幸(ふこう)なことに、わたしたちが仕度をしているあいだ、巡査(じゅんさ)が一人そばに立っていて、わたしたちの仕事を不快(ふかい)らしい顔で見ていた。その巡査はおそらく犬がきらいであったか、あるいはそんな所にわれわれの近寄(ちかよ)ることをふつごうと考えたのか、ひどくふきげんでわたしたちを追いはらおうとした。
 追いはらわれるままにわたしたちはすなおに出て行けばよかったかもしれなかった。わたしたちは巡査にたてをつくほどの力はないのであったが、しかし親方はそうは思わなかった。
 かれはたかが犬を連(つ)れていなかを興行(こうぎょう)いて回る見世物師(みせものし)の老人(ろうじん)ではあったが、ひじょうに気位(きぐらい)が高かったし、権利(けんり)の思想(しそう)をじゅうぶんに持っていたかれは、法律(ほうりつ)にも警察(けいさつ)の規律(きりつ)にも背(そむ)かないかぎりかえって警察から保護(ほご)を受けなければならないはずだと考えた。
 そこで巡査(じゅんさ)が立ちのいてくれと言うと、かれはそれを拒絶(きょぜつ)した。
 もっとも親方はひじょうにていねいであった。親方があまりはげしくおこらないとき、または他人をすこし愚弄(ぐろう)(ばかにする)しかけるときするくせで、まったくかれはそのイタリア風の慇懃(いんぎん)(ばかていねい)を極端(きょくたん)に用(もち)いていた。ただ聞いていると、かれはなにか高貴(こうき)な有力(ゆうりょく)な人物と応対(おうたい)しているように思われたかもしれなかった。
「権力(けんりょく)を代表せられるところの閣下(かっか)よ」とかれは言って、ぼうしをぬいでていねいに巡査(じゅんさ)におじぎをした。「閣下は果(は)たして、右の権力より発動しまするところのご命令(めいれい)をもって、われわれごときあわれむべき旅芸人(たびげいにん)が、公園においていやしき技芸(ぎげい)を演(えん)じますることを禁止(きんし)せられようと言うのでございましょうか」
 巡査(じゅんさ)の答えは、議論(ぎろん)の必要(ひつよう)はない、ただだまってわたしたちは服従(ふくじゅう)すればいいというのであった。
「なるほど」と親方は答えた。「わたくしはただあなたがいかなる権力(けんりょく)によって、このご命令(めいれい)をお発しになったか、それさえ承知(しょうち)いたしますれば、さっそくおおせつけに服従(ふくじゅう)いたしますことを、つつしんで誓言(せいごん)いたしまする」
 この日は巡査(じゅんさ)も背中(せなか)を向けて行ってしまった。親方はぼうしを手に持ってこしを曲げたまま、にやにやしながら、旗(はた)を巻(ま)いて退(しりぞ)く敵(てき)に向かって敬礼(けいれい)した。
 けれどその翌日(よくじつ)も、巡査はまたやって来た。そうしてわたしたちの芝居小屋(しばいごや)の囲(かこ)いのなわをとびこえて、興行(こうぎょう)なかばにかけこんで来た。
「この犬どもに口輪(くちわ)をはめんか」と、かれはあらあらしく親方に向かって言った。
「犬に口輪をはめろとおっしゃるのでございますか」
「それは法律(ほうりつ)の命ずるところだ。きさまは知っているはずだ」
 このときはちょうど『下剤(げざい)をかけた病人』という芝居(しばい)をやっている最中(さいちゅう)でツールーズでは初(はじ)めての狂言(きょうげん)なので、見物もいっしょうけんめいになっていた。
 それで巡査(じゅんさ)の干渉(かんしょう)に対して、見物がこごとを言い始めた。
「じゃまをするない」
「芝居(しばい)をさせろよ、おまわりさん」
 親方はそのときまず見物のさわぐのをとどめて、さて毛皮のぼうしをぬぎ、そのかざりの羽根(はね)が地面の砂(すな)と、すれすれになるほど、三度まで大げさなおじぎを巡査(じゅんさ)に向かってした。
「権力(けんりょく)を代表せられる令名(れいめい)高き閣下(かっか)は、わたくしの一座(いちざ)の俳優(はいゆう)どもに、口輪(くちわ)をはめろというご命令(めいれい)でございますか」
 とかれはたずねた。
「そうだ。それもさっそくするのだ」
「なに、カピ、ゼルビノ、ドルスに口輪(くちわ)をはめろとおっしゃるか」親方は巡査(じゅんさ)に向かって言うよりも、むしろ見物に対して聞こえよがしにさけんだ。「さてさてこれは皮肉なお考えですな。なぜと申せば、音に名高き大先生たるカピ君(ぎみ)が、鼻の先に口輪をかけておりましては、どうして不幸(ふこう)なるジョリクール氏(し)が服すべき下剤(げざい)の調合を命ずることができましょう。物もあろうに口輪(くちわ)などとは、氏が医師(いし)たる職業(しょくぎょう)がふさわしからぬ道具であります」
 この演説(えんぜつ)が見物をいっせいに笑(わら)わした。子どもたちの黄色い声に親たちのにごった声も交じった。親方はかっさいを受けると、いよいよ図に乗って弁(べん)じ続(つづ)けた。
「さてまたかの美しき看護婦(かんごふ)ドルス嬢(じょう)にいたしましても、ここに権力(けんりょく)の残酷(ざんこく)なる命令(めいれい)を実行いたしましたあかつきには、いかにしてあの巧妙(こうみょう)なる弁舌(べんぜつ)をもって、病人に勧(すす)めてよくその苦痛(くつう)を和(やわら)ぐる下剤(げざい)を服用させることができましょうや。賢明(けんめい)なる観客諸君(かんきゃくしょくん)のご判断(はんだん)をあおぎたてまつります」
 見物人の拍手(はくしゅ)かっさいと笑(わら)い声(ごえ)で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に賛成(さんせい)して巡査(じゅんさ)を嘲弄(ちょうろう)した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ面(つら)をするのをおもしろがっていた。このさるは『権力(けんりょく)が代表せられる令名(れいめい)高き閣下(かっか)』の真後(まうし)ろに座(ざ)をかまえてこっけいなしかめっ面をして見せていた。巡査(じゅんさ)は両うでを組んで、それからまた放して、げんこつをこしに当てて、頭を後ろに反(そ)らせていた。そのとおりをさるはやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。
 巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいださると人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。
 群衆(ぐんしゅう)はおもしろがって金切り声を上げていた。
「きさまの飼(か)い犬(いぬ)があすも口輪(くちわ)をしていなかったらすぐきさまを拘引(こういん)する。それだけを言いわたしておく」
「さようなら閣下(かっか)。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。
 巡査(じゅんさ)が大またに出て行くと、親方はこしをほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかい面(づら)に敬礼(けいれい)していた。そして芝居(しばい)は続(つづ)けて演(えん)ぜられた。
 わたしは親方が犬の口輪(くちわ)を買うかと思っていたけれども、かれはまるでそんな様子はなかった。その晩(ばん)は巡査とけんかをしたことについては一言(ごん)の話もなしに過(す)ぎた。
 わたしはとうとうがまんがしきれなくなって、こちらからきりだした。
「あしたもしカピが芝居(しばい)の最中(さいちゅう)に、口輪(くちわ)を食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて慣(な)らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」
「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」
「でも巡査(じゅんさ)がやかましく言いますから」
「おまえはんのいなかの子どもだな。百姓(ひゃくしょう)らしくおまえは巡査をこわがっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り計らって、巡査がわたしをつかまえることのできないようにするし、そのうえ犬がふゆかいな目に会わないようにしてやるつもりだ。それに見物も少しはうれしがるだろう。この巡査(じゅんさ)はおかげでわたしたちによけいな金もうけをさせてくれることになるだろう。おまけにあいつは、わたしがあいつのためにしくんでおいた芝居(しばい)で道化役(どうけやく)を演(えん)じることになるだろう。さてあしたは、おまえはあそこへジョリクールだけを連(つ)れて行くのだ。おまえはなわ張(ば)りをして、ハーブで二、三回ひくのだ。やがておおぜい見物が集まって来れば、巡査(じゅんさ)めさっそくやって来るだろう。そこへわたしは犬を連(つ)れて現(あらわ)れることにする。それから茶番が始まるのだ」
 わたしはそのあくる日一人で行きたいことは少しもなかったけれども、親方の言うことには服従(ふくじゅう)しなければならないと思った。
 さてわたしはいつもの場所へ出かけて、囲(かこ)いのなわを回してしまうと、さっそく曲をひき始めた。見物はぞろぞろほうぼうから集まって来て、なわ張(ば)りの外に群(むら)がった。
 このごろではわたしもハープをひくことを覚(おぼ)えたし、なかなかじょうずに歌も歌った。とりわけわたしはナポリ小唄(こうた)を覚(おぼ)えて、それがいつも大かっさいを博(はく)した。けれどもきょうだけは見物がわたしの歌をほめるために来たのでないことはわかっていた。
 きのう巡査(じゅんさ)との争論(そうろん)を見物した人たちは残(のこ)らず出て来たし、おまけに友だちまで引(ひ)っ張(ぱ)って来た。いったいツールーズの土地でも巡査はきらわれ者になっていた。それで公衆(こうしゅう)はあのイタリア人のじいさんがどんなふうにやるか。「閣下(かっか)、いずれ明日」と言った捨(す)てぜりふの意味がなんであったか、それを知りたがっていたのである。
 それで見物の中には、わたしがジョリクールと二人だけなのを見て、わたしの歌っている最中(さいちゅう)口を入れて、イタリアのじいさんは来るのかと言ってたずねる者もあった。
 わたしはうなずいた。
 親方は来ないで、先に巡査(じゅんさ)がやって来た。ジョリクールがまっ先にかれを見つけた。
 かれはさっそくげんこつをこしの上に当てて、こっけいないばりくさった様子で、大またに歩き回った。群衆(ぐんしゅう)はかれの道化芝居(どうけしばい)をおかしがって手をたたいた。
 巡査はこわい目つきをしてわたしをにらみつけた。
 いったいこの結末(けつまつ)はどうなるだろう。わたしは少し心配になってきた。ヴィタリス親方がいてくれれば、巡査(じゅんさ)に答えることもできよう。巡査がわたしに立ちのけと命令(めいれい)したら、わたしはなんと言えばいいのだ。
 巡査(じゅんさ)はなわ張(ば)りの外を行ったり来たりしていた。それもわたしのそばを通るときには、なんだか肩(かた)ごしにわたしをにらみつけるようにした。それでいよいよわたしは気が気でなかった。
 ジョリクールは事件(じけん)の重大なことを理解(りかい)しなかった。そこでおもしろ半分なわ張(ば)りの中で巡査(じゅんさ)とならんで歩きながら、その一挙一動(いっきょいちどう)を身ぶりおかしくまねていた。おまけにわたしのそばを通るときには、やはり巡査のするように首を曲げて、肩(かた)ごしににらみつけた。その様子がいかにもこっけいなので、見物はなおのことどっと笑(わら)った。
 わたしはあんまりやりすぎると思ったから、ジョリクールを呼(よ)び寄(よ)せた。けれどもかれはとても言うことを聞くどころではなかった。わたしがつかまえようとすると、ちょろちょろにげ出して、す早く身をかわしては、相変(あいか)わらずとことこ歩いていた。
 どうしてそんなことになったかわからなかったが、たぶん巡査(じゅんさ)はあんまり腹(はら)を立てて気がちがったのであろう。なんでもわたしがさるをけしかけているように思ったとみえて、いきなりなわ張(ば)りの中へとびこんで来た。
 と思うまにかれはとびかかって来て、ただ一打ちでわたしを地べたの上にたたきたおした。
 わたしが目を開いて起き上がろうとすると、ヴィタリス老人(ろうじん)はどこからとび出して来たものか、もうそこに立っていた。かれはちょうど巡査(じゅんさ)のうでをおさえたところであった。
「わたしはあなたがその子どもを打つことを止めます。なんというひきょうなまねをなさるのです」とかれはさけんだ。
 しばらくのあいだ二人の人間はにらみ合って立っていた。
 巡査(じゅんさ)はおこってむらさき色になっていた。
 親方はどうどうとした様子であった、かれは例(れい)の美しいしらが頭をまっすぐに上げて、その顔には憤慨(ふんがい)と威圧(いあつ)の表情(ひょうじょう)がうかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。
 けれどもかれはどうして、そんなことはしなかった。かれは両うでを広げて親方ののど首をつかまえて、乱暴(らんぼう)に前へおし出した。
 ヴィタリス親方はよろよろとしてたおれかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査のうで首を打った。
 親方はがんじょうな人ではあったが、なんといっても老人(ろうじん)であった。巡査(じゅんさ)のほうは年も若いし、もっとがんじょうであった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしははらはらしていた。
 けれども取っ組むまでにはならなかった。
「あなたはどうしようというのです」
「わたしといっしょに来い」と巡査(じゅんさ)は言った。「拘引(こういん)するのだ」
「なぜあの子を打ったのです」と親方は質問(しつもん)した。
「よけいなことを言うな。ついて来い」
 親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。
「宿屋(やどや)へ帰っておいで」とかれは言った。「犬といっしょに待っておいで。あとで口上(こうじょう)で言って寄(よ)こすから(ことずてをするから)」
 かれはそのうえもうなにも言う機会(きかい)がなかった。巡査(じゅんさ)はかれを引きずって行った。
 こんなふうにして、親方が余興(よきょう)にしくんだ狂言(きょうげん)はあっけなく結末(けつまつ)がついた。
 犬たちは初(はじ)め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが呼(よ)び返すと、服従(ふくじゅう)に慣(な)らされているので、かれらはわたしのほうへもどって来た。気をつけてみるとかれらは口輪(くちわ)をはめていた。けれどもそれはふつうの金あみや金輪(かなわ)ではなくって、ただ細い絹糸(きぬいと)を二、三本、鼻の回りに結(むす)びつけて、あごの下にふさを垂(た)らしてあった。白いカピは赤い糸を結(むす)んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気のどくな親方はこんなふうにして、いかめしい権力(けんりょく)の命令(めいれい)を逆(ぎゃく)に喜劇(きげき)の種(たね)に利用(りよう)しようとしていたのである。
 群衆(ぐんしゅう)はさっそく散(ち)ってしまった。二、三人ひま人(じん)が残(のこ)っていまの事件(じけん)を論(ろん)じ合っていた。
「あのじいさんがもっともだよ」
「いや、あの男がまちがっている」
「なんだって巡査(じゅんさ)は子どもを打ったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって口をききはしなかった」
「とんだ災難(さいなん)さ。巡査に反抗(はんこう)したことを証明(しょうめい)すれば、あのじいさんは刑務所(けいむしょ)へやられるだろう、きっと」
 わたしはがっかりして宿屋(やどや)へ帰った。
 わたしはこのころでは毎日だんだんと親方が好(す)きになっていた。わたしたちは朝から晩(ばん)までいっしょにくらしてきた。どうかすると夜から朝までも同じわらのねどこにねむっていた。どんな父親だって、かれがわたしに見せたような行(ゆ)き届(とど)いた注意をその子どもに見せることはできなかった。かれはわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い流浪(るろう)の旅のあいだに、かれはこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、毛布(もうふ)を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでもかれはけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、かれはいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほどときどきはわたしがいやなほど、ひどく乱暴(らんぼう)に耳を引(ひ)っ張(ぱ)ることもあったけれど、わたしに過失(かしつ)があれば、それもしかたがなかった。一言(ごん)で言えばわたしはかれを愛(あい)していたし、かれはわたしを愛していた。
 だからこの別(わか)れはわたしにはなによりつらいことであった。
 いつまたいっしょになれるだろうか。
 いったいどのくらい牢屋(ろうや)へ入れておくつもりなのだろう。
 そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。
 ヴィタリス親方はいつもからだに金(かね)をつけている習慣(しゅうかん)であった。それが引(ひ)っ張(ぱ)られて行くときになにもわたしに置(お)いて行くひまがなかった。
 わたしはかくしに五、六スーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。
 わたしはそれから二日のあいだ、宿屋(やどや)から外へ出る気にもならずに、ぼんやりくらしてしまった。さるも犬もやはりすっかりしょげきっていた。
 やっとのことで三日目に一人の男が親方の手紙を届(とど)けて来た。その手紙によると、親方はこのつぎの土曜日に、警察権(けいさつけん)に反抗(はんこう)し、かつ巡査(じゅんさ)に手向かいをした科(とが)で裁判(さいばん)を受けるはずになっていた。
「わたしがかんしゃくを起こしたのは悪かった」と手紙に書いてあった。「とんだ災難(さいなん)を招(まね)いたがいまさらいたしかたもない。裁判所(さいばんしょ)へ来てごらん、教訓(きょうくん)になることがあるであろう」
 こういって、それからなお二、三の注意を書きそえて、自分に代わって犬やさるたちをかわいがってくれるようにと書いてあった。
 わたしが手紙を読んでいるあいだ、カピがわたしの両足の間にはいって、鼻を手紙にこすりつけて、くんくんやっていた。かれが尾(お)をふる具合で、わたしはかれがこの手紙が主人から来たことを知っていると思った。この三日のあいだにかれが少しでもうれしそうな様子を見せたのはこれが初(はじ)めてであった。
 わたしは土曜日の朝早く裁判所(さいばんしょ)に行って、いの一番に傍聴席(ぼうちょうせき)にはいった。巡査(じゅんさ)とのけんかを目撃(もくげき)した人たちの多くがやはり来ていた。わたしは裁判所に出るのがなんだかこわかったので、大きなストーブのかげにはいってかべにくっついて、できるだけ小さくからだをちぢめていた。
 どろぼうをして拘引(こういん)された男や、けんかをしてつかまった男が初(はじ)めに裁判(さいばん)を受けた。弁護人(べんごにん)は無罪(むざい)を言(い)い張(は)っていたけれど、それはみんな有罪(ゆうざい)を宣告(せんこく)された。
 いちばんおしまいに親方が引き出された。かれは二人の憲兵(けんぺい)の間にはさまってこしかけにかけていた。
 はじめにかれがなにを言ったか、人びとがかれになにをたずねたか、わたしはひじょうに興奮(こうふん)しきっていたのでよくわからなかった。
 わたしはただじっと親方を見ていた。
 かれはしらが頭を後ろに反(そ)らせて、まっすぐに立っていた。かれははじて苦んでいるように見えた。裁判官(さいばんかん)は尋問(じんもん)を始めた。
「おまえは、おまえを拘引(こういん)しようとした警官(けいかん)を何回も打ったことを承認(しょうにん)するか」と、裁判官は言った。
「何回も打ちはいたしません、閣下(かっか)」と親方は言った。「わたしはただ一度手を上げました。わたくしはいつもの演芸(えんげい)をいたしまする場所にまいりますと、ちょうど警官がわたくしの連(つ)れています子どもを地の上に打ちたおすところを見たのでございます」
「その子はおまえの子ではないだろう」
「はい、しかしわたくしの実子同様にかわいがっております。それで警官(けいかん)がかれを打ちますところを見て、わたしはかっととりのぼせまして、警官が打とうとする手をおさえました」
「おまえは警官を打ったろう」
「警官(けいかん)がわたくしに向かって手をあげましたから、わたくしはもはや警官としてではない、通常の人としてこれに向かってのであります。まったくいかりに乗じた結果(けっか)であります」
「おまえぐらいの年輩(ねんぱい)でいかりに乗ずるということはないはずだ」
「そうです。そういうはずはないのですが、人はおうおう不幸(ふこう)にして過失(かしつ)におちいりやすいのです」
 巡査(じゅんさ)はそれから自分の言い分を申し立てた。それは打たれたことよりも、より多く自分が嘲弄(ちょうろう)(あざける)された事実についてであった。
 親方の目はそのあいだ部屋(へや)の中を探(さが)すようであった。それはわたしがいるかどうか探しているのだということがわかっていたから、わたしは思い切ってかくれ場所からとび出して、おおぜいの中をおし分けながら、前へ出て、いちばん前の列の、かれの席(せき)に近い所へ出た。かれのさびしい顔はわたしを見るとかがやきだした。わたしの目にもなみだがあふれ出した。
 まもなく裁判(さいばん)は決まった。かれは二か月の禁固(きんこ)と、百フランの罰金(ばっきん)に処(しょ)せられることになった。
 ああ、二か月の禁固(きんこ)。
 ドアは開かれた。なみだにぬれた目の中からわたしは、かれが憲兵(けんぺい)のあとからついて行くのを見た。ドアはその後ろからばたんと閉(と)ざされた。ああ、二か月の別(わか)れ。
 どこへわたしは行こう。


     船の上

 わたしが重たい心で、赤い目をふきふき宿屋(やどや)に帰ると、ちょうど亭主(ていしゅ)が庭に出ていた。
 わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、かれはわたしを引き止めた。
「どうだ、親方は」とかれは言った。
「有罪(ゆうざい)の宣告(せんこく)を受けました」
「どのくらい」
「二か月の禁固(きんこ)です」
「罰金(ばっきん)はどのくらい」
「百フラン」
「二か月……百フラン」かれは二、三度くり返した。
 わたしはずんずん行こうとした。するとかれはまた引き止めた。
「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」
「ぼくはわかりません」
「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬やさるに食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」
「いいえ、ないのです」
「じゃあ、おまえはわたしが養(やしな)ってくれると思っているのか」
「いいえ、わたしはだれのやっかいになろうとも思いません」
 それはまったくであった。わたしはだれのやっかいにもなるつもりはなかった。
「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに借(か)りがある」とかれは言った。「わたしは二か月のあいだ金をはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」
「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」
「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」
 しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。亭主(ていしゅ)の言うことはもっともであった。どうしてかれがわたしの世話をしてくれよう。
「さあ、犬とさるを連(つ)れて出て行ってくれ。親方の荷物は預(あず)かっておく。親方が刑務所(けいむしょ)から出て来れば、いずれここへ寄(よ)るだろうし、そのときこちらの始末(しまつ)もつけてもらおう」
 このことばから、ある考えがわたしの心にうかんだ。
「いずれそのときはお勘定(かんじょう)をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを置(お)いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも加(くわ)えてはらえばいいでしょう」
「おやおや、おまえの親方は二日分の食料(しょくりょう)ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで別(べつ)な話だよ」
「わたしはいくらでも少なく食べますから」
「だが、犬もいればさるもいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこかいなかで仕事を見つけて、金をもらって歩けばいいのだ」
「でも親方が刑務所(けいむしょ)から出て来たときに、どうしてわたしを探(さが)すでしょう。きっとこちらへ訪(たず)ねて来るにちがいありません」
「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」
「それでもし手紙が届(とど)いたら」
「手紙は取っておいてやるよ」
「でもわたしが返事を出さなかったら……」
「まあいつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の猶予(ゆうよ)をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば承知(しょうち)しないから」
 わたしはこの男と言い合うのはむだだということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。
 わたしは犬とジョリクールを連(つ)れにうまやへ行った。それから肩(かた)にハープをしょって、宿(やど)を出た。
 わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に口輪(くちわ)がはめてないのだから、巡査(じゅんさ)にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには金がないといおうか、それはまったくであった。わたしはかくしにたった十一スーしか持たなかった。それだけでは口輪を買うにも足りなかった。巡査がわたしを拘引(こういん)するかもしれない。親方もわたしも二人とも刑務所(けいむしょ)に入れられたら、犬やさるはどうなるだろう。わたしは自分の位置(いち)に責任(せきにん)を感じていた。
 わたしが足早に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見ちがえようもなかった。かれらは腹(はら)が減(へ)っていた。
 わたしの背嚢(はいのう)に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を引(ひ)っ張(ぱ)って無理(むり)に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、かれはせっせと腹(はら)をかいて見せた。
 わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは朝飯(あさめし)を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と晩食(ばんしょく)を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方兼帯(けんたい)の昼食を食べて、満足(まんぞく)しなければならなかった。
 わたしたちは巡査(じゅんさ)に出っくわさないように、少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには金が要(い)るし、宿屋(やどや)へとまれば宿銭(やどせん)を取られる。それにねむる場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの暖(あたた)かい季節(きせつ)ではわたしたちは野天にねむることができた。
 さしせまっているのは食物だ。
 一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き続(つづ)けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちはたのむような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を引(ひ)っ張(ぱ)って、絶(た)えずおなかをさすっていた。
 とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にとびこんだ。
 わたしは一斤半(きんはん)パンを切ってくれと言った。
「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても要(い)りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの同勢(どうぜい)にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、畜生(ちくしょう)にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」
 おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの財布(さいふ)にはたっぷりすぎた。
 パンは一斤(きん)五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのはりこうなことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ以上(いじょう)を切(き)らないようにていねいにたのんだ。
 わたしは両うでにしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが髪(かみ)の毛(け)を引(ひ)っ張(ぱ)ってうれしそうにくっくっと笑(わら)った。
 わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。
 まっ先に目に当たった道ばたの木の下でわたしはハープを幹(みき)によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろとうの目たかの目で、なんでもまっ先に一きれせしめようとねらっていた。
 パンを同じ大きさに分けるのはむずかしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さなきれに割って一きれずつめいめいに分けた。
 わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それでかれがすっかり満腹(まんぷく)してしまったとき、わたしたちはやはり腹(はら)がすいていた。わたしはかれのぶんから三きれ取って背嚢(はいのう)の中にかくして、あとで犬たちにやることにした。それからまだ少し残(のこ)っていたので、わたしはそれを四つにちぎって、てんでに一きれずつ分けた。それが食後のお菓子(かし)であった。
 このごちそうがけっして食後の卓上演説(たくじょうえんぜつ)を必要(ひつよう)とするほどりっぱなものではなかったのはもちろんであるが、わたしは食事がすんだところで、いまがちょうど仲間(なかま)の者に二言三言いいわたす機会だと感じた。わたしはしぜんかれらの首領(しゅりょう)ではあったが、この重大な場合に当たって、かれらに死生をともにすることを望(のぞ)むだけの威望(いぼう)の足(た)りないことを感じていた。
 カピはおそらくわたしの意中を察(さっ)したのであろう。それでかれはその大きなりこうそうな目を、じつとわたしの日の上にすえてすわっていた。
「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを伝(つた)えなければならないのだよ。わたしたちはこれから二か月も親方に会うことができないのだよ」
「ワウ」とカピがほえた。
「これは親方のためにも困(こま)ったことだし、わたしたちのためにも困ったことなのだ。なぜといって、わたしたちはなにもかも親方にたよっていたのだから、それがいま親方がいなくなれば、わたしたちにはだいいちお金がないのだ」
 この金ということばを言いだすと、カピはよく知っていて、後足で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご臨席(りんせき)の貴賓諸君(きひんしょくん)』から金を集めて回るときにすることであった。
「ああ、おまえは芝居(しばい)をやれというのだね。カピ」とわたしは言った。「それはいい考えだが、どこまでわたしたちにできるだろうか。そこが考えものだよ。うまくゆかない場合には、わたしたちはもうたった三スーしか持っていない。だからどうしても食べずにいるほかはない。そういうわけだから、ここはたいせつなときだと思って、おまえたちはみんなおとなしくぼくの言うことを聞いてくれなければだめだ。そうすればおたがいの力でなにかできるかもしれない。おまえたちはみんなしていっしょうけんめい、ぼくを助けてくれなければならない。わたしたちはおたがいにたより合ってゆきたいと思うのだ」
 こういったわたしのことばが、残(のこ)らずかれらにわかったろうとはわたしも言わないが、だいたいの趣意(しゅい)は飲みこめたらしかった。かれらは同じ考えになってはいた。かれらは親方のいなくなったについて、そこになにか大事件(だいじけん)が起こったことを知っていた。それでその説明(せつめい)をわたしから聞こうとしていた。かれらがわたしの言って聞かせた残(のこ)らずを理解(りかい)しなかったとしても、すくなくともわたしがかれらの身の上を心配してやっていることには満足(まんぞく)していた。それでおとなしくわたしの言うことに身を入れて聞いて、満足(まんぞく)の意味を表していた。
 いやお待ちなさい。なるほどそれも、犬の仲間(なかま)だけのことで、ジョリクールには、いつまでもじっとしていることが望(のぞ)めなかった。かれは一分間と一つ事に心を向けていることができなかった。わたしの演説(えんぜつ)の初(はじ)めの部分だけはかれも殊勝(しゅしょう)らしくたいへん興味(きょうみ)を持って傾聴(けいちょう)していたが、二十とことばを言わないうちに、かれは一本の木の上にとび上がって、わたしたちの頭の上のえだにぶら下がり、それからつぎのえだへととび回っていた。カピが同じやり方でわたしを侮辱(ぶじょく)したならば、わたしの自尊心(じそんしん)はずいぶん傷(きず)つけられたにちがいなかった。けれどもジョリクールがどんなことをしようと、わたしはけっしておどろかなかった。かれはずいぶん頭の空っぽな、軽はずみなやつだった。
 けれどそうはいうものの、少しはふざけたいのもかれとして無理(むり)はなかった。わたしだってやはり同じことをしたかったと思う。わたしもやはりおもしろ半分木登りをしてみたかった。けれどもわたしの現在(げんざい)の位置(いち)の重大なことが、わたしにそんな遊びをさせなかった。
 しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる青天井(あおてんじょう)の下を見つけさえすればいいのだから、なにより、あしたの食べ物を買う銭(ぜに)をいくらかでももうけることが、さし当たっての問題であった。
 小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。
 びんぼう村らしくって、あまりみいりの多いことは望(のぞ)めないが、村が小さければ巡査(じゅんさ)に出会うことも少なかろうと考えた。
 わたしはさっそく一座(いちざ)の服装(ふくそう)を整(ととの)えて、できるだけりっぱな行列を作りながら、村へはいって行った。運悪くわたしたちはあのふえがなかったし、そのうえヴィタリス親方のりっぱなどうどうとした風采(ふうさい)がなかった。軍楽隊(ぐんがくたい)の隊長(たいちょう)のようなりっぱな様子でかれはいつも人目をひいていた。わたしには背(せい)の高いという利益(りえき)もないし、あのりっぱなしらが頭も持たなかった。それどころかわたしはちっぽけで、やせっぽちで、そのうえひどくやつれた心配そうな顔をしていたにちがいなかった。
 行列の先に立って歩きながら、わたしは右左をきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう効果(こうか)を村の人たちにあたえているか、見ようとした。ごくわずか――と情(なさ)けないけれど言わなければならなかった。だれ一人あとからついて来る者もなかった。
 ちょっとした広場のまん中に泉(いずみ)があって、木かげがこんもりしている所を見つけると、わたしはハープを下ろしてワルツを一曲ひき始めた。曲はゆかいな調子であったし、わたしの指も軽く動いた。けれどもわたしの心は重かった。
 わたしはゼルビノとドルスに向かって、いっしょにワルツをおどるように言いつけた。かれらはすぐ言うことを聞いて、拍子(ひょうし)に合わせてくるくる回り始めた。
 けれどもだれ一人出て来て見ようとする者もなかった。そのくせ家の戸口では五、六人の女が編(あ)み物(もの)をしたり、おしゃべりをしているのを見た。
 わたしはひき続(つづ)けた。ゼルビノとドルスはおどり続(つづ)けた。
 一人ぐらい出て来る者があるだろう。一人来ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。
 わたしはあくまでひき続(つづ)けた。ゼルビノとドルスもくるくるじょうずに回っていた。けれども村の人たちはてんでこちらをふり向いて見ようともしなかった。
 けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。
 ふと一人、ごく小さい子が初(はじ)めて、うちの中からちょこちょことかけ出して、わたしたちのほうへやって来た。
 きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、仲間(なかま)が出て来るだろう。そうして見物ができれば、少しのお金が取れるであろう。
 わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは静(しず)かにひいた。そうして少しでもそばへ引(ひ)き寄(よ)せようとした。両手を延(の)ばして、片足(かたあし)ずつよちよち上げて、かれは歩いて来た。もう二足か三足で、子どもはわたしたちの所へ来る。ふと、そのしゅんかん母親はふり向いた。きっと子どもの姿(すがた)の見えないのを見て、びっくりするにちがいない。
 でもかの女はやっと子どもの行くえを見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで自分のほうへ呼(よ)び返した。すると子どもはおとなしくふり返って母親のほうへ帰って行った。
 きっとこのへんの人は、ダンスも音楽も好(す)かないのだ。きっとそんなことであった。
 わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの好(す)きな小唄(こうた)を歌い始めた。わたしはこんなにいっしょうけんめいになったことはなかった。
 二節(せつ)目の終わりになったとき、背広(せびろ)を着て、ラシャのぼうしをかぶった男が目にはいった。その男はわたしのほうへ歩いて来るらしかった。
 とうとうやって来たな。
 わたしはそう思って、いよいよむちゅうになって歌った。
「これこれこぞう、ここでなにをしている」と、その男はどなった。
 わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そはへ寄(よ)って来るその男をぼんやりながめた。
「なにをしているというのだ」
「はい、歌を歌っています」
「おまえはここで歌を歌う許可(きょか)を得(え)たか」
「いいえ」
「ふん、じやあ行け。行かないと拘引(こういん)するぞ」
「でも、あなた……」
「あなたとはなんだ、農林監察官(のうりんかんさつかん)を知らないか。出て行け、こじきこぞうめ」
 ははあ、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、警官(けいかん)や監察官(かんさつかん)に反抗(はんこう)すると、どんな目に会うかわかっていた。わたしはかれに二度と命令(めいれい)をくり返させなかった。わたしは急いでわき道へにげだした。
 こじきこぞうか、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。
 五分とたたないうちに、わたしはこの人情(にんじょう)のない、そのくせいやに監視(かんし)の行き届(とど)いている村をはなれた。
 犬たちは頭(かしら)を垂(た)れて、すごすごあとからついて来た。きっとつまらない目に会ったことを知っていた。
 カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。ときどきふり向いては例(れい)のりこうそうな目で、いったいどうしたのですと言いたそうに見えた。ほかのものがかれの位置(いち)に置(お)かれたのだったら、きっとわたしにそれをたずねたであろうけれども、カピはそんな無作法(ぶさほう)をするには、あんまりよくしつけられていた。
 かれはふに落ちないのを、いっしょうけんめいがまんしているふうを見せるだけで満足(まんぞく)していた。
 ずっと遠くこの村からはなれたとき、わたしは初(はじ)めてかれらに(止まれ)という合図をした。それで三びきの犬はわたしの回りに輪(わ)を作った。そのまん中にはカピがじっとわたしに目をすえていた。
 わたしはかれらがわからずにいることを、ここで説明(せつめい)してやらなければならなかった。「わたしたちは興行(こうぎょう)の許可(きょか)を得(え)ていないから、追い出されたのだよ」とわたしは言った。
「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を一ふりふってたずねた。
「だからわたしたちは今夜はどこか野天でねむって、晩飯(ばんめし)なしに歩くのだ」
 晩飯(ばんめし)ということばに、みんないちどにほえた。わたしはかれらに三スーの銭(ぜに)を見せた。
「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの朝飯(あさめし)になにも残(のこ)らない。きょうはとにかく少しでも食べたのだから、これはあしたまでとっておくほうがいいようだ」こう言って、わたしは三スーをまたかくしに入れた。
 カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほどすなおでなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶううなっていた。わたしはこわい目をしてかれを見たが、効(き)き目(め)がなかった。
「カピ、ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは忠実(ちゅうじつ)なカピに言った。
 カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二ひきの犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというようなことばを犬に使うのは少し無理(むり)だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその仲間(なかま)に通用する特別(とくべつ)なことばがあった。犬だけで言えば、かれらは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。かれらが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上をかぎ回ったりするところをご覧(らん)なさい。ふとかれらはとある草むらの前で立ち止まる。またはかべの前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの理解(りかい)しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。
 カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間のことばがわかっても、人間はかれらのことばを理解(りかい)しないのだ。わたしがただ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い張(は)ったようであった。カピは腹(はら)を立てて歯をむき出すと、少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるということばにも少し説明(せつめい)が要(い)るが、ここではころりと横になることを言うのである。
 そこで残(のこ)ったのは今夜の宿(やど)の問題だけだ。
 時候(じこう)はよし、暖(あたた)かい、いい天気であった。だから青天井(あおてんじょう)の下にねむることはさしてむずかしいことではなかった。ただこのへんに悪いおおかみでもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。おおかみよりもおそろしい農林監察官(のうりんかんさつかん)からさけることもさらに必要(ひつよう)であった。
 わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山のはしに落ちかけた赤い夕日の最後(さいご)の光が空から消えるころまで、宿(やど)を求(もと)めて歩き続(つづ)けたが、まだ見つからなかった。
 もう善悪(ぜんあく)なしに、どうでもとまらなければならなかった。やっと林の間に出た。そこここに大きな花(か)こう岩(がん)が転(ころ)がっていた。この場所はずいぶんあれたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花こう岩の中にはいってねむれば、しめっぽい夜風を防(ふせ)ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、さるのジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外でねむったところでかぜをひく気づかいもなかった。わたしは自分のからだをだいじにしなければならなかった。わたしのしょっている責任(せきにん)は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの看病(かんびょう)をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。
 わたしたちは石の間にほら穴(あな)のような所を見つけた。そこにはまつの落ち葉がたまっていた。これで、上には風を防(ふせ)ぐ屋根があり、下にはしいてねるふとんができた。これはひじょうに具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと努(つと)めた。ことわざにも言うではないか、『ねむるのは食べるのだ』と。
 いよいよ横になるまえに、わたしはカピに張(は)り番(ばん)をたのむと言った。するとこの忠実(ちゅうじつ)な犬はわたしたちといっしょにまつ葉の上でねむろうとはしないで、わたしの野営地(やえいち)の入口に、歩哨(ほしょう)のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも案内(あんない)なしに近づけないと思ったから、落ち着いてねむることができた。
 でもこれだけは心配はなかったが、すぐにはねむりつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすりねむっていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとでからだをのばしていた。けれどもわたしの心配はからだのつかれよりも大きかった。
 この旅行の第一日は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは腹(はら)が減(へ)ったし、のどがかわいていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それに口輪(くちわ)はどうしよう。これから歌を歌う許可(きょか)は、いったいどうしたらいいだろう。許(ゆる)してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが減(へ)って死んでしまうだろう。
 こういうみじめな、あわれっぽい疑問(ぎもん)を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。街道(かいどう)を車のとろとろと通る音もしない。目の届(とど)く限(かぎ)りは青白い空が広がっていた。わたしたちは独(ひと)りぼっちであった。世の中から捨(す)てられていた。
 なみだは目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気のどくなヴィタリスは。
 わたしはうつぶしになって、顔を両手でかくして、しくしく泣(な)いていた。するとふと、かすかな息が髪(かみ)の毛(け)にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな舌(した)がなみだにあふれたわたしのほおをなめた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの流浪(るろう)の初(はじ)めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。
 両手でわたしはかれの首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。かれは二、三度おし殺(ころ)したような悲しそうな鼻声を出した。それがわたしといっしょに泣(な)いてくれるもののように思われた。
 わたしはねむって目が覚(さ)めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の祈祷(きとう)のかねが鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、つかれた心とからだをなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。
 わたしたちはかねの音(ね)を目当てに歩き出した。そこには村があって、パン屋もきっとあるにそういなかった。昼食も夕食もなしにねどこにはいれば、だれにだって空腹(くうふく)が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。
 村に着くと、パン屋がどこだと聞く必要(ひつよう)もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に連(つ)れて行ってくれた。においをかぎつけるわたしの感覚(かんかく)は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうなにおいをかぎつけた。
 一斤五スーするパンを三スーではたんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで朝飯(あさめし)もあっけなくすんでしまった。
 わたしたちはきょうこそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか芝居(しばい)につごうのいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、敵(てき)か味方か探(さぐ)ろうとした。
 わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する機会(きかい)をとらえるつもりであった。
 わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふとだれか後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうすぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一けんの家にかけこんで、肉を一きれぬすみだしたのであった。かれはえものを歯の間にくわえたまま、にげ出して来たのであった。
「どろぼう、どろぼう」とおばあさんはさけんだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」
 おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも罪(つみ)がある。いやすくなくともゼルビノの犯罪(はんざい)に責任(せきにん)があると感じた。そこでわたしはかけ出した。もしおばあさんがぬすまれた肉の代価(だいか)を請求(せいきゅう)じたら、なんと言うことができよう。どうして金をはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと刑務所(けいむしょ)に入れられるだろう。

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