フランダースの犬
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:ド・ラ・ラメーマリー・ルイーズ 

「だって僕、おじいさんが病気だし――」と少年は、うつむいて言葉を濁しました。
「なんの、なんの、わしのことなら気にせんで行っといで。出がけにビュレットのおばさんに頼んで行ってさえくれればすぐ来てみてくれるよ。――ネルロ、お前どうしたんだ。まさかあそこのお嬢さんの悪口でもしゃべったんじゃあるまいな。」と、おじいさんはふしぎでならないのでした。
「いいえ、おじいさん。悪口なんか――」と、少年は口早に答えましたが、そのうなだれた顔はあかくなりました。
「なんでもないのよおじいさん。ただ、コゼツの旦那が、今年は僕を招(よ)ばなかっただけ。あの人、ちょっと僕に思いちがいをしてるらしいの。」
「だってお前、なんにも悪いことはしなかったんだろう。」
「それが、いいかわるいか、僕には分らないんです。僕は、アロアちゃんの顔を、松の板ぎれへ写生しただけなの。」
「ああそうか。」
 おじいさんはだまってしまいました。ネルロの無邪気な言葉を聞いて、おじいさんにはすっかりわけが分ったのです。老いぼれて、長い間、掘立小屋(ほったてごや)[#「掘立小屋」は底本では「堀立小屋」]の中にねたきりではありましたが、おじいさんは、まだ、世間がどう言うものかと言うことを、忘れてはいませんでした。おじいさんはやさしく孫の美しい顔を自分の胸のへんに引きよせて、
「お前は貧乏な子だからのう。」
 その声はかすれてふるえました。
「ほんとに貧乏なんだからのう。お前も辛い目を見るのう。」
「いいえ、おじいさん。僕は金持と同じよ。」と、ネルロはささやきました。実際のところ、ネルロはそう信じていたのです。自分は強い力を持っている。王様の力でもどうすることもできないほどの力を持っているように思えました。少年は立ち上って、再び戸口に佇みました。秋の夜はしずかで、高いポプラの枝が微風(そよかぜ)に揺らいでいます。空は夥(おびただ)しい星でした。少年は目をあけてじっとそれをながめました。粉挽屋の家の、窓という窓はあかあかと灯(ともしび)がもれて、時折、笛の音(ね)がひびいて来ます。涙が少年の頬をつたわりました。まだ何と言ってもほんの子供ですから、かなしいのでした。けれども、にっこり笑顔をつくって、
「なあに将来だ。」とひとり言を言いました。夜が更けるまで彼はそうして佇んでいましたが、やがてパトラッシュを抱いて床につき、さびしくもおだやかな眠りに落ちて行きました。
 さて少年には、パトラッシュのほか誰にも知らせない一つの秘密がありました。小屋には小さな次の間があって、そこはネルロだけが入るところになっていました。ひどく荒れた部屋ですが北側から光線が入ります。この部屋でネルロは、木片で無細工な画架をこしらえ、それに大きな紙を張り、そこへこれぞとおもうものをぜひ一つ描きあげようと一生懸命になっているのでした。ネルロは、誰にも画の描き方を教わったことはありません。むろん、絵具を買う余裕などもありません。ただ、白と黒の使い分けで目にうつるものを描くだけでした。いま、彼が木炭筆で描いたばかりの大きな画は、一人の老人が、倒れた樹に腰を下しているところ、ただそれだけです。少年は以前、年取った樵夫(きこり)のネッセルが、夕方になると、そんな様子で休んでいるのを度々みたのでした。輪廓の具合や影の描き方など、誰におそわったでもないけれど、ネルロは自分の考え一つで、さも老いぼれた、つかれた老人を描きました。宵闇がせまって来る暮れどき、倒れた樹に腰を下して、あらゆる世の苦労をなめつくしたようなつかれたかおつきで、じっと思い沈んでいるこの老いた樵夫の様子は、全く詩の趣きがありました。もとよりその画は素人らしく、欠点もありますが、しかし、ほんとうに自然な素直(そっちょく)な画です。いかにも、かなしさに咽(むせ)んでいるようで、ある美しささえ持っています。パトラッシュはいつも、何時間でも動かずにこの画ができ上っていくのをながめていました。そして、ネルロの心に希望が燃えているのをさとりました。その希望と言うのも、おそらく、向う見ずな、無駄なことかもしれませんが、ネルロはこの画を出品して、年額二百フランの賞金を得るために競争してみようとしているのです。そのころ、アントワープの町では、十八才以下の天分ある少年は、身分にかかわらず、鉛筆画か木炭画の自作の作品を出して、その中(うち)一枚だけがえらばれてこの賞金をもらうことになっていました。ルーベンスに縁の深いこの町では、一流の画の大家が三人審査員になって、それらの作品の優劣をきめることになっていました。
 春と夏と秋を打(ぶ)っ通して、ネルロはこの大作の完成に余念がありませんでした。もしこれがうまく栄冠を担えれば彼にとっては、年来の宿望に向って第一歩をふみ出すことになるのです。ネルロはこの企てを誰にも言いませんでした。おじいさんに言ったところで分ってはもらえないし、それはアロアは、もう彼にとって、ないも同じでした。打ち明けるのはただ犬のパトラッシュだけ。そうしていつも、
「ああルーベンス、ルーベンスの魂が知っていたら、きっと僕をえらび出してくれるのだが。」とつぶやくのでした。パトラッシュもまた、こんなことを考えていました。ルーベンスと言う人は、きっと犬を愛していたにちがいない。もし犬を深く愛していたんでなければ、あんなに正しく、美しい、犬が描けるものではないと――。
 出品する画は、いずれも十二月の一日に運ばれて、その月の二十四日に結果が発表されることになっていました。で、もしうまく、入選すれば、クリスマスには二重のよろこびを持てるわけでした。身を切るような寒風の吹き荒(すさ)ぶその日、ネルロは波打つ胸をおさえて、いよいよでき上った苦心の画を、牛乳車にのせて、パトラッシュと一しょに、町へ運んで行きました。そして、きめられた通りに展覧会の入口のところにおきました。
「大抵だめだろう――僕には分らない――。」
 ネルロは、妙に臆病になって、なにか、胸がいたいほどでした。画はおいて来たものの、考えてみれば、ずいぶん向う見ずな話です。靴下もないようなこの貧乏な子供が、自分の名さえろくろく書けない無学の身で、はずかしくもなく、そんな一流の大家たちに、自分の画を見てもらうなんて――
 だが、ネルロは、大寺院に近づくにつれてだんだん元気をとりもどしました。威厳のある王様のようなルーベンスの姿が、暗い中からすっと浮んで来て、ネルロに微笑みかけ、ささやくようにおもわれたからです。
「気を落してはいけないよ。私だって、アントワープに名を残すようになったのは、決して、弱い心ではできなかったことだよ。」
 冷たい夜を、ネルロは、わが心をはげましつつ、かえって行きました。彼は全力をつくしたのです。あとはもう、神様の御心に任せる他ありませんでした。
 その夜、ネルロが家へかえってから雪が降り出し、幾日も幾日もふりつづきました。田も畑もあぜみちも、すっかり雪にうずもれてしまい、川という川はみんな、かたく凍りついてしまいました。もうこうなると、牛乳を持ちまわるのは、実に辛いのでした。吹きさらしの野、夜明けの暗い人気のない町は、よけい寒さがこたえるのでした。殊に犬のパトラッシュは、少年が年毎に次第に力を増して行くのに反し、ますます老いぼれて行くのみで、骨の節々が硬(こわ)ばって来てはげしく疼いて苦しいのでした。
「パトラッシュ、お前はもううちでねておいでよ。お前ももう隠居してもいい頃だ、大丈夫、僕ひとりで車はひけるから。」と、ネルロが無理にも止めようとしたのは、一朝(ひとあさ)や二朝(ふたあさ)のことではありませんでした。が、パトラッシュはききません。毎朝、起きると、彼はちゃんと梶棒のところへ行っています。そして、今まで長(なが)の年月通い慣れたその野道を、雪を蹴って、進むのでした。ただ少年に、以前より手数をかけるのは、牛乳車の輪が、凍った轍の跡にはまって、動きのとれない時、後から棒をさしこんでもらうだけでした。これだけ、昔より力がおとろえたのです。
「死ぬまでは休息と言うことはない。」パトラッシュはいつもこうかんがえていました。が、ときどき、ふっと、その最後の休息が、間近に迫って来たようにかんじられて、なんだか目が前ほどはっきり見えなくなったし、教会堂の鐘が五つ鳴って、パトラッシュに、起きて働かねばならぬ時が来たと知らせると、ぱっとはね起るのに変りありませんが、それが前とちがって、非常な苦痛にかんじられるのです。
「かわいそうなパトラッシュ。お前も、わしと一しょに、安楽往生をするのかい。」
 ジェハンじいさんは、やせこけた皺だらけの手で、犬の頭をなでました。このおじいさんと老犬とは、いつも、パンの皮を分けてたべました。そしていつも同じ心で、年を取るのを嘆きつつ行末(ゆくすえ)のことを案じ合うのでした。お互いが死んでしまったら、あとに残るあの可愛いネルロはどうなるでしょう。
 ある日の午後のこと、少年と犬とが、アントワープからのかえりみちでした。雪は凍って、まるで大理石のようにひろい野原にしきつめていました。ふと足許を見ると、可愛らしい人形が落ちていました。五六寸の、たいへん美しい太鼓叩きの人形で、ちっとも傷のついていない立派なおもちゃでした。ネルロは拾い上げて、いろいろ探してみましたが、落し主が分らないので、それをアロアにやったら、さぞよろこぶだろう、とかんがえました。落し主が分らないのだから、それを長い間の仲よしにやっても、別にわるいことではあるまい、と彼は思ったのでした。
 ネルロが粉挽屋のところを通った時は、もうしずかな晩になっていました。アロアの部屋の小さい窓はよく分っています。その窓のすぐきわから斜下(ななめした)につき出た屋根、彼はその屋根によじのぼって、しずかに窓をたたくと、中で小さな灯(ともしび)がつきました。アロアは窓をあけてびっくりしました。ネルロは太鼓叩きの人形をアロアの手に握らして、小さな声で口早に言いました。
「アロアちゃん、お人形だよ。雪の上で拾ったの。とっておおきなさいよ、ね、神様が下すったんですもの。」
 ネルロはするすると屋根をすべりおりて、アロアが、ありがとう、と言う間もなく、闇の中に消えてしまいました。その夜、粉挽場が火事になって、水車場と母屋だけは助かりましたが、納屋と沢山の麦がやけました。村中は大へんなさわぎで、アントワープからは、雪を蹴立てて、蒸気ポンプがかけつけて来ました。さいわい、保険がつけてあったので、大した損害にはなりませんでしたが、主人のコゼツは、かんかんに怒って、この火事はあやまちからではなく、きっと誰かが、つけ火をしたにちがいないと、どなりました。この時ネルロも、円(まろら)かな夢を破られて、びっくりしてかけつけて来ましたが、コゼツの旦那は荒々しく彼をつきのけて、腹が立ってたまらないように、
「貴様は宵にここらをうろついていたな。俺はちゃんと知っているぞ、貴様こそ今夜の火事には一番覚えがあるはずだ。」と怒鳴りました。ネルロはあまりのことにぼんやりしてしまって口が利けませんでした。場合が場合だから、聞いている人は、それを冗談だと聞きすごしてくれないだろうと、全く途方にくれてしまいました。
 粉挽屋の主人は、翌日になっても、近所の人の前で大っぴらにこの言葉を口にしました。すると中には、ネルロがその夜、別に用もないのに粉挽場の辺をうろうろしていたの、アロアと遊ぶことを断られたので、ネルロがコゼツの旦那を恨んでいたのと、蔭口をきく者も出て来、その上何とかしてこのお金持に取入って、その一人娘を息子の嫁にもらい、財産にありつこうと言う腹ぐろい人達も交って、ジェハンじいさんの孫は、全く可哀想な立場におかれてしまいました。
 村の人達は誰もまさか、コゼツの旦那の言葉を、信じるわけではないのですが、何しろ、狭い村のことではあり、村一番のお金持の気に逆っては何かと自分たちの損ですから、あんまり親切そうにしているところをコゼツの旦那に見られては面倒だと、みんな、申し合せたように、ネルロを避けるようになってしまったのでした。ですから、それからは、ネルロとパトラッシュが、毎朝アントワープへ運んで行く牛乳の御用を聞きにまわっても、牧場主たちは、以前のように、何かと親切に計らってくれず、素気ない態度で、あまり口も利いてくれないのでした。
 粉挽屋のおかみさんは、涙ぐんで、おそるおそる主人に言いました。
「あなた、それではあんまり可哀想ですわ。私、あの子が気の毒でたまりません。あの子はほんとに、無邪気な正直者ですもの。いくら、くやしくかんじたことがあったとしたって、ゆめにもあんな大それた悪いことをするような子ではありませんわ。」
 けれどもコゼツの旦那は一徹者ですから、一度、自分の口から言いふらしたことは、是が非でも、押し通さねばすまないのでした。たとえ、心の奥底で、悪かったが、と気がついて居りながらも、あわれなネルロ、いかに身が潔白なればかまわないとは言え、そこはまだ子供です。
「なあに。僕の画さえ入選したら、村の人達だって、すこしは僕に同情してくれるだろう。」と気をとりなおしとりなおしても、パトラッシュとたったふたりでいる時など、止めようもない涙があふれ落ちるのでした。全く幼い時から会う人毎に可愛がられ、ほめられて大きくなった身が、突然あられもない汚名をきせられ、その頼りにしていた世間の、打って変った冷たい素気ない態度を堪えしのんで行くことは、死にも勝る苦しみでした。雪がふりつづき、村の人達はみんな炉ばたに集まるのに、ネルロとパトラッシュは除者(のけもの)で、もう用はないのです。隙間の多いあばら家に、ふたりはしょんぼりとおじいさんのお守りをする。炉は、いつしか火が消えて冷たく、食卓の上には、食べもののない時がつづくのでした。それもそのはず、近頃アントワープから驢馬を仕立てて、毎日牛乳を買い出しに来る商人があらわれたのです。そうして、少年をあわれんで、その商人の牛乳を買わず、緑いろの小さな牛乳車を待っていてくれる家は、ほんの三、四軒に減ってしまい、そのために、パトラッシュが曳かねばならぬ車の荷は軽くなったものの、ネルロの財布に入る端金(はしたがね)はいよいよわずかになってしまったのでした。
 犬は、いつも止る家の前には、ちゃんと車を止めますが、その門は、もはや彼等のためには開かれませんでした。あわれみを乞うようにじっと見上げる犬の眼は、見る人の胸を打ちましたがみんなむりに目をつぶって心を鬼にして閉め出すのでした。パトラッシュは、力なく空車(あきぐるま)をひいて行きます。誰だって、人情のないものはありませんが、コゼツの旦那の気にさわるのをおそれたからでした。
 いよいよクリスマスは近づいて来ました。寒さは一そうきびしくなり、雪は六尺も積もり、氷は、牛や人間が、どこをふんでも大丈夫な程厚くなりました。この季節が、このあたりでは一番たのしい時なのです。どんな貧乏な家にも、あたたかなおいしい御馳走やお菓子が用意され、ストーヴの上には、スープ鍋が、さもうまそうに湯気を立てていて、部屋は色美しくかざられて、たのしげな笑声(わらいごえ)がもれるのでした。馬という馬はみんな鈴をつけられ、その音が、いたるところに、にぎやかにひびくのでした。またそとには、若い娘たちが美しい頭巾に厚い上着をつけ、キャッキャッとはしゃぎながら、雪みちをあちこちの集まりに行きつ戻りつしています。その中(うち)に、ただ、ネルロの小屋だけが、暗くつめたいのでした。
 ネルロとパトラッシュは、全くのふたりっきりになってしまいました。クリスマスの一週間前とうとうジェハンじいさんは息をひきとってしまったのです。おじいさんは、ねている間に死にました。明け方のうす明りに、はじめてそれを知ったふたりの嘆きは、どんなだったでしょう。おじいさんは、どんなに彼等を愛しぬいていたことでしょう。おじいさんは、長い長い間、病の床についたきりで身動きもならず、ふたりのために何をしてやることもできませんでしたが、しかもこの親切な言葉とやさしい笑顔とは、つかれてかえって来るふたりにとって、どんなに大きな慰めだったことか―― そのなきがらを松板の棺におさめ、小さな教会堂のとなりの名もない墓に葬ったとき、ふたりは悲しみ極まわって、雪の上に泣きくずれたまま、立ち去ろうともしませんでした。ああ、犬と少年――彼等は全く、この世に頼るものなく取残されたのでした。
 今度こそはあわれにおもって心も解けるだろう、と信じたおかみさんの心だのみも空しく、粉挽屋の主人は、そのささやかな葬式が、門前をすぎるのを見ても、眉をよせたままくやみ一つつぶやこうとはしませんでした。気の弱いおかみさんは、とりつく術もなく涙をふきふき、そっと凋(しぼ)まない花を花環に編んで、アロアにそれを墓場へ持って行かせ、今は少年も立ち去って、人影もないその墓の上にうやうやしくおかせたのでした。
 ネルロとパトラッシュは、はりさけるような悲しい胸を抱いて墓場を立ち去ったが、そのかえり行く小屋さえも、なおふたりに[#「ふたりに」は底本では「ふたりにめ」]慰めを与えることをしませんでした。それは、この小さな家の地代が一月おくれになってしまっていたところへ、このかなしい葬式のために、ネルロは、最後の一銭まで、払ってしまったのです。小屋の持主というのは靴やのおやじで、世の中に金ほど可愛いものはないと思っている人情知らずでした。彼は、ネルロの詫言(わびごと)に耳をも貸さず、家賃や地代が払えないなら、その代り小屋にあるものは、鍋から釜から、木片(きぎれ)一つ、石塊(いしくれ)一つに至るまで、すっかりおいて明日限り立ち退けと、むごい宣告を下したのでした。小屋は、貧しく小さかったが、ネルロたちは、どんなになつかしい思い出を、そこに持っていることでしょう。夏になれば、一面にまといついて繁るぶどう。朝まだき、露をふくんで彼等にほほえみかける、畑の豆の花。彼等のどんなよろこびも、どんなかなしみも、みんな見守っていたこの小屋。どんなにつかれてかえって来ても、安らかにいこわせてくれたこの小屋。――その晩ネルロとパトラッシュは、一晩中火の気のない炉ばたで、灯(ともしび)もつけず抱き合っていました。めいめい、心の中に、この小屋の、すぎ去った日のことを思い起しながら――
 やがて一夜があけました。それはクリスマスの前の日でした。ネルロはふるえながら、冷え切った両腕でかたく犬を抱きしめた。大粒の涙が、はらはらと犬の額にかかりました。
「パトラッシュ、行こうよ。ね、行こう。僕らはじっとして蹴り出されるまでもない。ね、さ、行こう。」
 ふたりは、かなしげに並んで小屋を出ました。どんな大事なものも、どんななつかしいものもすっかり残して、全くの着のみ着のままで――。緑いろの牛乳車のまえをとおる時、パトラッシュは、さも切なげに頸をたれてしまいました。ああこれももうふたりのものではないのでした。
 彼等は、通いなれた道を、アントワープの方へ辿りました。まだ太陽は登らず、道に沿うた大抵の家は、まだ戸を閉めていました。町には、二三の人影もありましたが、誰も少年と犬をふりむく人はありません。
 ネルロはある家の前に来ると、立ち止って、訴えるような目つきで家の中をのぞきました。それは、おじいさんが元気だったころ、よくやって来たことのある人の家でした。
「もし。パンの堅皮がありましたら、犬にやって下さいませんか。これはもう老いぼれている上に、きのうのおひるから、なんにも食べてないのです。」と、ネルロはおそるおそる言いました。すると家の女の人はすばやく戸をしめて、このごろは麦が高くって、というようなことをぶつぶつ呟くのでした。ネルロとパトラッシュはとりつくすべもなく、またとぼとぼとつかれた足をひきずって行きました。町についた時には、もう鐘は十時を鳴らしていました。
「僕がなんか売れそうなものを持ってたら、パトラッシュにパンを買ってやれるんだが。」
 だが、ネルロが身につけているものと言っては、ぼろぼろの着物と、汚れた木靴だけでした。パトラッシュはネルロの心持を悟って、鼻先をネルロの掌(て)の中(うち)に押しつけ、どうか、自分のためなら心配してくれるな、なにもいらぬからと、頼むような様子をみせました。
 その日の十二時には、例の画の審査の結果が発表されることになっていました。その会場の入口には、もう大ぜいの少年が集まっていました。みんなお父さんやお母さんにつれられていろいろささやき合っているのでした。その群に入りこんだ時、ネルロの胸は激しく波打って、いたいようでした。彼はパトラッシュをしっかりと抱きしめました。やがて町の大鐘が音たかく鳴りわたりました。十二時になったのです。と同時に玄関の扉(ドア)が開いて、大勢はときめく胸をおさえながら、なだれこみました。当選の画は、上段においてある台の上にかざられることになっていたのです。はっと思った瞬間、ネルロは目がくらみ、頭がぼーっとして、からだがくずおれかかりました。ようやく気をしずめて、も一度そのかざられた画を見ましたが、ああ、それは彼の描いた画ではありませんでした。やがて、よくひびき渡る声で、当選した画は、アントワープ生れの埠頭場主(はとばぬし)の子、ステフアン・キイスリングの作であると告げられました。
 ネルロが気がついた時は、彼は玄関先の石の上に倒れていて、パトラッシュが一生懸命彼を正気づかせようと鼻をすりつけていました。すこしはなれたところでは、アントワープの少年団が入選した名誉ある友達を大さわぎをしてとりかこみながら、これからその埠頭場(はとば)の家まで威勢よく送って行こうとしているところでした。ネルロはよろよろと立ち上って、パトラッシュをしっかり抱きしめました。
「ああ、もうだめだ。パトラッシュ、もう何もかも。」
 ネルロは幾度も倒れそうになるのを、ようよう踏みこらえました。もう、お腹が空き切って、辛抱できないほどです。やっぱり、村へひきかえすほかはないのです。犬は頭をたれて、したがいました。パトラッシュの強い足も、もうつかれはてているのでした。雪はますます降りしきりきびしい北風が吹きつけました。野原は殊に凄まじく、慣れた道を横切るにも、並大抵ではないのでした。やっとの思いで村に近づいた時、鐘が四つ鳴りました。突然パトラッシュは立ち止りました。なにか、雪の中にかぎつけたものとみえ、妙な吠え方をして、咬(くわ)え出したのは小さな革袋で、それをネルロにわたしました。丁度その近くに小さな十字架像があって、その下にささやかなお燈明(とうみょう)があったので、ネルロは気のない様子で、そのうすあかりに袋を近づけてしらべると、コゼツという名が書いてあり、中には六千法(フラン)という大金の切手が入っていました。これを見るとぼんやりしていた少年の気持が、しゃんとして来ました。彼は早速それをふところに押しこんで、犬をなでて歩き出しました。パトラッシュも小走りにつづきました。ネルロはまっすぐに粉挽小屋へかけつけて、入口の戸をたたきました。開けたのはおかみさんで、目を泣きはらしていました。アロアもそばにすがりついていました。
「ああお前さんだったの、可哀想に。」とおかみさんは涙をこぼしこぼし優しい声で言いました。
「でもね、早くおかえりよ。旦那さんが見たらやかましいからね。今夜、うちでは大変な心配事ができたんだよ。旦那さんが、さっき馬でおかえりの途中、大金の入った財布を落してね、今探しにお出かけなすったところなの。生憎この雪ではねえ――。もしみつからなかったら、うちは丸つぶれになってしまうんだよ。ほんとにうちの人が、お前さんに辛くしたむくいが、今来たのですよ。」
 少年は革袋を取り出し、パトラッシュを家の中に呼び入れました。
「この犬が、このお金をいま見つけたんです。」と、ネルロは口早に言いました。
「どうぞ旦那さまにそうおっしゃって下さい。もうこの犬も老いぼれて来ましたから、どうかこの犬だけ宿を貸して饑(う)えないようにしてやって下さい。おねがいです。僕の跡を追いますから、どうかやさしくなだめてやって――。」
 待って、と言う間もなく、少年は身をかがめて犬に接吻(キス)したかと思うと、すばやく扉(ドア)を閉め、闇の中へ走り去ってしまいました。おかみさんもアロアも、あまりのよろこびとおどろきに言葉も出ませんでした。パトラッシュは閉めこまれた樫の扉(ドア)に腹立たしく吠えかかったがもうだめでした。おかみさんもアロアも、ネルロのことは気になりましたが、何事も父親がかえってから、今はせめてパトラッシュだけにもと、お菓子や肉を一ぱい出して来て、一生けんめいなだめ、炉ばたの温(あたたか)いところに誘おうとしましたが、それは何の甲斐もありませんでした。パトラッシュは石のように扉(ドア)の前に頑張ったままみむきもしないのでした。
 しばらくたって、別の入口から、主人のコゼツがしょんぼりかえって来ました。どっかと腰を下すと、うめくように言いました。
「ああ、もうだめだ。提灯をつけて残らず探して見たのだが、もうない。――娘にゆずる分も何もかもすっかりなくなってしまった。」
 おかみさんは革袋を差出して、事の次第をはなしました。聞いているうちに、コゼツはたまらなくなって、ぶるぶるふるえるからだを投げ出し、両手でしっかりと顔を掩(おお)ってしまいました。
「ああ、わしはあの子に辛く当って来た。わしのような人間が、どうしてあの子の親切を受けることができようか。」と、彼は身悶えしてうめきました。小さなアロアは、それに元気づいて父のそばへにじり寄り、その美しい捲毛の頭を父の膝におしつけながら、
「お父さん、ネルロはもう家へ来てもいいのね。明日招んでもいいのね、先(せん)のように。」
 コゼツは娘をしっかり抱きしめました。その顔は涙でぬれていました。
「ああ、そうとも、そうとも。明日のクリスマスには招ぶのだよ。いつでも遊びに来たい時は来てもらうがいい。わしの剛慾(ごうよく)がこんな罪をつくったので、いま神様がこらしめて下すったのだ。わしは神様におすがりして、あの子に償いをせねばならぬ。罪ほろぼしをせねばならぬ。」
 アロアはうれしさのあまり、父親に接吻(キス)して、大きな膝からすべり落ちるか早いか、扉(ドア)の方ばかり、見守っている犬の許にかけて行って、
「今夜、パトラッシュに御馳走してやってもいいの。」とさもうれしそうに叫びました。
「いいとも、いいとも。うんと御馳走しておやり。」とコゼツは言いました。この老いた頑固なおやじさんも、全く心の底から改心してしまったのでした。
 その夜はクリスマスの前夜ですから、大きな粉挽場の中は、目のさめるように美しくかざり立てられていました。吊された線の枝々(えだえだ)。うめもどきの赤い実がたくさんなっている枝の間から、十字架像と、時鳥(ほととぎす)の形をした置時計がのぞいています。アロアをよろこばせるための、紙でこしらえた提灯には灯(ともしび)がつき、いろいろなおもちゃや、目のさめるような絵紙につつんだおいしいお菓子が一ぱい並んでいます。このクリスマスのかざりをした明るいたのしい、そして食物(たべもの)のたくさんある部屋で、パトラッシュを一番のお客さんにしようと、アロアは一生けんめいでした。が、パトラッシュは暖(あたたか)い炉ばたへ行こうとも御馳走をふりむこうともしませんでした。からだは凍え、おなかは空き切っているにもかかわらず、ネルロがいなければ犬はなんにも食べたくもなく、なぐさめられもしないのです。パトラッシュはただ石のように扉(ドア)のそばにすわりこんで逃げ道はないかと、そればかりねらっているのでした。これを見たコゼツは言いました。
「あの子がいないといかんのだな。よしよし夜があけたら、何はおいてもわしがむかいに行ってやるからな。」
 ああ、パトラッシュのほかに、誰がネルロの心を知っていよう。犬を残してただひとり、饑(う)えと悲しみとを覚悟して出て行ったその雄々しくもいたましい心――それはただ、パトラッシュだけがかんじていることなのです。
 粉挽屋の台所は大へん暖(あたたか)です。炉のなかでは、大きな榾(ほだ)がぱちぱちと赤く燃え、隣近所の人々は、夕飯のために焙った鵞鳥の肉一片(ひときれ)とお酒一ぱいとにありつくために、交る交るやって来ます。アロアは、明日こそ大好きなネルロと遊べるといううれしさにはしゃぎまわって、その金髪が頭のうしろでおどってばかりいました。主人のコゼツは、胸が一ぱいになって、涙ぐんだ眼で娘に笑いかけながら、どうしたら娘のなつかしがる友達と仲なおりができるかとかんがえています。また、おかみさんはやさしい、満足そうなかおつきで、静かに糸車のそばにすわりました。置時計は時鳥の啼き声そっくりに時を告げました。その中でパトラッシュは、第一のお客さまとしていろいろ親切な言葉をかけられても、やはり頑張って動きません。ネルロがいなくては、どんなにたのしみも御馳走もパトラッシュをよろこばすことはできないのです。
 やがて、大きな食卓の上に、さまざまな御馳走が並べられ、お客さんたちは席につきました。部屋の中にはよろこびの声が満ちて、キリスト降誕の仮装をした大ぜいの子供が、それぞれ心をこめた贈物(おくりもの)をアロアに贈った、その時でした。今まですきをねらっていたパトラッシュは新しく来たお客が思わず扉(ドア)の掛金をはずしたとたん、風のようにぬけ出しました。パトラッシュはその疲れ切った足がつづく限り、暗い夜の雪みちを走りに走って行きました。ただひたむきにネルロの跡を追うばかりです。もしこれが人間であったら、あるいはそのおいしい御馳走と、暖い炉ばたと、安楽な眠りとに誘われて、止ったかもしれません。が、しかしパトラッシュは、この老いたフランダースの犬は、遠い昔を忘れてはいませんでした。あのおじいさんと幼児とが、道ばたの泥溝(どろみぞ)に息絶った自分を救い上げ、見守ってくれたその遠い昔を。
 そとは吹雪でした。もう十時でしょう。ネルロの足跡は大方消えてしまっているので、匂いを嗅いで足跡を辿って行くパトラッシュの苦心は実にいたましいようでした。ようやく見つけ出す、すぐ消えている、また探し出す、また見失う、そんなことを百度以上もくりかえしつつ、パトラッシュははしりつづけました。この一寸先も見えない吹雪の夜を、饑えと寒さによろめきながらパトラッシュは、ただ主人を探し出すという一途な愛に支えられて走りつづけて行くのでした。ネルロの足跡は、吹雪にかき消されてはいるものの、とにかくまっすぐにアントワープに向っていることだけは分ります。パトラッシュがやっとの思いでアントワープの町はずれまで辿りつきそれから狭い曲りくねった道に入った時は、もう真夜中をすぎていました。町の中もまっくらでただ、ところどころ戸の隙間から細いあかりがもれているだけでした。酔っぱらいの歌声がどこかで起って、そして消えて行きました。しんとしずまりかえった中に、風だけが街燈の高い鉄柱につきあたって、すさまじいひびきをたてるのでした。ネルロの足跡はこの町に入ってから、大ぜいの通行人の足跡にまじり合い、ふみにじられて、それを拾って行くのは、今までより、もっともっと困難でした。寒さが骨までしみ通り、足は凍った角で傷つきました。而もパトラッシュは、恐ろしいほどの忍耐を以て、ネルロの跡を嗅ぎ求めて行きました。
 こうして、堪えに堪えて、パトラッシュはついに愛する主人の足跡を追って、町の中央の旧教寺院の入口までのぼりついたのでした。ああ、ここは、一番慕っていたところだ、と、犬は思いました。ネルロが芸術というものに憧れている心持は、パトラッシュには分らないながら、なにか、哀れにかなしく、そして神々しくかんじられたのでした。
 大寺院の門は、真夜中の集まりがすんだあと、扉(ドア)が閉じていませんでした。門番が、早くかえって御馳走が食べたかったか、それとも眠くて鍵をかけ損ねて気づかなかったのか、なにかそんな手抜かりがあったからでしょう、扉(ドア)が半分開けたままんなっていて、パトラッシュの求める足跡は、そこからてんてんと白い雪を落して奥へつづいているのでした。そのかすかな白い一すじにみちびかれて、神々しい静かな堂内の、ひろびろした円天井(まるてんじょう)の下を通って、まっすぐに聖堂の入口まで来ると、そこに倒れているネルロを見出しました。パトラッシュは、よろめくようにかけよって、ぴったりと顔をすりよせました、「あなたを見すてるような、そんな不忠ものと思わないで――」と言うように。
 ネルロは低く叫んで身を起しました。そして、しっかりと犬を抱きしめながらささやきました。
「おおパトラッシュ、可哀想なパトラッシュ。ふたり一しょに死のう。世間の人は、もう僕たちには用がないのだ。ここで横になって死のう。僕たちはたったふたりっきりだ。」
 ものの言えないパトラッシュは、答えの代りに、なおもネルロの胸にひしとその頭をおしつけました。大粒の涙が、その茶色の悲しそうな瞼にたまりました。
 ふたりは刺されるような寒さの中で、しっかりと抱き合って横になりました。
 ふたりが横たわっている石造建築の広い内部は、野ざらしよりもっと寒さがひどいのでした。そのふれるもの一切を凍らせずにはおかないような狂風。――闇の中を、ときどき蝙蝠がとびまわるのでした。ルーベンスの画の下にふたりは横たわっていました。あまりの寒さに、からだはしびれ、ふしぎな眠気がおそって来て、ふたりは次第に気がとおく、うっとりとなって行きました。ふたりの心にはすぎ去った楽しい日のことが浮び出ました。夏の牧場の花の咲きみだれた中を互に追いつ追われつかけまわったことや、運河の岸のしげった草の中にすわり、静かにすべり行く船をながめくらしたことや――。ふたりは争いというものを知りませんでした。ネルロはパトラッシュをいとしみ、パトラッシュはネルロを慕い、お互に深く深く愛し合っていました。ふたりがこの世に生きていたのは短い間でしたが、ふたりがつくさねばならない義務はつくしました。どんな人にも獣にも恨みを持ったことがなく、きわめて素直でしたから、決して心に何のとがめることもなく、はればれしていました。そして今、饑えにおとろえはて、血は寒さに凍りクリスマス前夜の夜あかしのたのしさを思い浮べながら、昏々(こんこん)と死んで行こうとするのです。
 突然、大きな白い光が、がらんとした堂の中に流れ入りました。月でした。いつしか雪はふり止んで、いま、雲間を逃れ出た月の光は、二つの名画を照し出しました。画をつつんであった覆いは、少年がここへ入った時すでに引き裂いてしまったから、この一瞬、「キリストの昇天」と「十字架上のキリスト」の二名画は実にはっきり認め得たのでした。思わずネルロは立ち上り、両手を画の方へさし出しました。感きわまった涙が、そのあおざめた頬にあふれ落ちました。
「見た、ああ僕はとうとう見た。」と、少年は叫びました。「ああ神さま、もうこの上はなんにもいりません。」
 足の力がつきて、膝がしらでようよう身を支えながら、なおもネルロは喰い入るように、その崇拝している荘厳な画に見入りました。清らかな月の光は、そのあこがれの画を隅々まではっきりと示しました。が、これも一瞬にしてかくれ、堂内は再びまっくらな闇がひろがりました。画の方にさし出されていたネルロの両手は、再び犬のからだを抱きました。
「ああ、神さまのお顔が拝めるだろう。――あそこに。」彼の唇がかすかに動きました。「神様は私たちをお見すてにはならない。神様は御慈悲深い――。」

 夜があけました。アントワープの町の人々は、この大伽藍[#「伽藍」は底本では「迦藍」]の内に、少年と犬とを見い出しました。もうふたりとも、冷たく息絶えていました。さびしい夜の寒さは、若い命と、年老いた命とを一しょに凍らして、しずかな、永いねむりにつかせたのでした。クリスマスの朝がほのぼのと明けて、坊さんたちがやって来た時には、石のようにかたく抱き合った少年と犬のなきがらの上に、ルーベンスの名画は覆いをむしりとられて、その偉大なる天才の筆の跡をあらわし、清々しい朝の光が、神の子の頭においたいばらの冠をてらしていました。やがて、一人の頑固そうな顔をした老人が、おいおい泣きながらやって来て、
「わしはまあこの子供に、何というむごい扱いをしたことだろう。ああすまないすまない。罪滅しをせねばらなぬ。わしの、聟(むこ)になるべきはずの子だったのに――。」
 またしばらくすると、そこ頃有名な画家がやって来て集まっている人々に言うのでした。「本当の値打から言ったら、たしかにこの子がえらばるべきだったのに。あの夕暮の、倒れた樹に腰を下した老樵夫の画。あの画には天才のひらめきがあった。未来にはきっとすぐれた画家になれる児(こ)だった。わしは何とかして探し出してみっしり仕込んで、その天才をみがかそうとかんがえていたものを――。」
 また、捲毛の美(うる)わしい少女は泣きくずれながら、父の腕にすがって、声を惜しまずかきくどくのでした。
「ネルロいらっしゃいよ。支度はみんなできてよ。あなたのために、仮装した子供たちが、めいめい贈り物を手にしているし、笛吹きのじいさんが、いま吹きはじめるところなの。あなたと私は、このクリスマスの一週間は、ちっとも離れず炉ばたで栗をやいてていいんですって。クリスマスの一週間どころかいつまでいたってかまわないって。ね、パトラッシュもうれしいでしょう。早く起きていらっしゃいよ、ネルロ。」
 けれども、偉大なルーベンスの画の方にむけたままのその死顔(しにがお)は、口許にかすかな笑を浮べたまま、あたりの人々に、「もうおそい」と答えているかのようです。
 ほがらかな鐘の音(ね)が鳴りわたり、太陽はうららかに雪の野を照らし、華やかに着飾った人々は往来にむらがって、よろこんでいますが、もはやネルロとパトラッシュとは、人の慈悲にすがる必要はありませんでした。ふたりが生きている間に一生けんめいに求めていたものを、死んで何もいらなくなった今になって、はじめてアントワープの人達が与えたのです。
 生命(いのち)のある間はなれられなかったこのふたりは、死んでからもはなれませんでした。少年の腕はどうしてもはなすことのできないほどしっかりと犬を抱きしめていました。
 恥じ入って後悔した村の人達は、ふたりのために、神さまが特別のお恵みをお与え下さるように祈りながら、墓を一つにして、主従抱き合ったままで葬りました。――永遠(とこしえ)に――(おわり)




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