東山時代における一縉紳の生活
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著者名:原勝郎 

今までは闕位がなかったからいたし方もないが、前年の二月に左大臣公興がやめたので、くり合わせのやりようによっては、内大臣に空位を作ることも不可能でなくなった。のみならず舅教秀の歿した明応五年の九月と十月と、二度に吐血し、七年の十月にまた吐血をしてから、とにかく体がすぐれない。一方において子の公条は、年齢も二十に達し、順序よく昇進を重ねて来ている。それにはもはや心配がない。そこでこの辺でもって引退しようと決心したが、さていよいよ引くとすると、花を飾って引きたくなる。
 ここでちょっと実隆の相続人たる公条のことについて説明しよう。公条実は実隆の嫡子ではない。文明十六年に生まれ、公条よりも三歳長じている兄があった。しかるに実隆はこれに家督を相続させない。その理由は、実隆みずからその日記において語るところによると、抜群の器量でもない子は、強(しい)て相続させたところで、笑を傍倫に取るのみで、その益ないことであるから、息子が何人生れようと、皆ことごとく釈門に入れようと、多年思慮しておったのである。しかしながらまたよく考えてみると、近ごろ世間には、数年断絶したことの知れている家を、縁(ゆか)りのない他氏他門から、勝手に相続することもある。いま自分が名を重んじて跡を断ったからとて、後になってどんな者に相続されるかも知れない。また自分の子を釈門に入れたからとて、それで永く家が断えるともきまらぬというのは、近ごろ出家した者の還俗(げんぞく)首飾する例が多いのでもわかる。なまじいなことをして、狗(く)をもって貂(ちょう)に続き、竹を栽(き)って木を修むるような仕儀に立ち至らしむるよりは、いっそのこと己の子をもって、相続せしむる方がよいとのことだ。実隆が己の子に跡目をつがす決心をしたことは、それで合点が行くけれど、長子を措(お)いて次男を相続人に定めたことは、これだけでは分明でない。相続人の定まった長享二年には、長子五歳次男二歳であった。長子の方が格別の器量でないという見当がほぼついたので、それよりは未知数の次男にと決したのか、さりとも他の理由あってのことか。『実隆公記』には、長享二年三月第二子公条叙位の条に、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり、次男相続また嘉模(かぼ)なり」とある。叙爵の早い方がめでたいには相違ないけれど、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり」とあるのは解し難い。現に実隆当人は四歳で叙爵している。もし自分を嘉例の中にかぞえぬというならば、「次男相続また嘉模」の方が了解し難い。実隆は次男で、父公保の跡を相続したのであるけれど、その公保に至りては、正親町三条家の次男で、三条西の跡を養子として相続したのである。要するにこれぞ十分な理由というべきものが知られてない。何か深い事情があるのかもわからぬ。長子誕生の初め、春日大明神に奉ることを祈念したというからには、あるいはそのためかとも思う。
 理由はともかく第二子公条は相続人と定まり、その兄は出家することになったが、場所は春日大明神の管領する大和国内でなければならぬというので、最初は興福寺を望んだが、都合がつかなかったので、東大寺の勧学院に入れることにし西室と称した。入室以来いっこう学問に身が入らず、実隆も心配しておったが十三歳のとき文殊講をやり、その所作神妙で諸人感嘆したというので、先ず大いに安心した。その得度(とくど)して名を公瑜と号することになったのは、翌々明応七年十五歳の時である。この間に公条の方は次第に昇進し、明応二年には美作権介(みまさかごんのすけ)を兼ね、三年には従五位上、六年には十一歳で元服、右近衛権少将に任ぜられ、七年の十二月ちょうど兄の得度する少し前に正五位下に叙せられた。それからして父実隆の致仕(ちし)した永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
 諸種の事態が輻湊(ふくそう)して実隆の辞意を決せしめた。日記永正三年正月二十七日の条に、「孟光いささか述懐の儀あり、不可説の事なり」とある。実隆が夫人から何事を述懐されたのかは記してないから、夫人が引退を勧めたのか、または抑止したのか、その辺は知り難い。とにかく実隆は内大臣にしてもらいたいと歎願に及んだ。一旦大臣になりさえすれば、直ぐに引退するということを、最初からして条件にして願っている。そこで朝廷では空位である左大臣へ、右大臣の尚経を転じさせ、その後に内大臣の公藤を移し、もって実隆を内大臣に任命した。任ぜられたのは二月の五日で、在職わずかに二か月、任大臣の拝賀をも行なわないで四月五日に致仕した。時に年五十四、実隆が引退すると、その翌年に公条が参議になり、従三位に叙せられた。実隆の希望どおり、相続がめでたく行なわれたのである。
 致仕後の実隆は望みを官場に絶ったから風流三昧(さんまい)に日を暮らした。永正十二年に従一位に叙せらるべき勅定があったけれども、固く辞し奉り、翌永正十三年春の花が散ると間もなく、四月の十三日というに、照雲上人を戒師と頼んで盧山寺において落飾し、法名堯空、逍遙院と号した。後世永く歌人の間に尊ばれた逍遙院内府の名は、これからして起こったのである。実隆は致仕以前からしばしば異様の服装で外出をしたもので、嵯峨の先塋(せいえい)に詣ずる時などは、三衣種子袈裟をもって行粧となしたとある。いかなる服装かまだ調べては見ないが、「十徳の体」と自分で日記に認(したた)めているから、大抵は想像される。実隆はこれ家計不如意のためにやむを得ずやった服装だといっているけれど、一には彼の好みでもあったらしい。日記永正五年六月十八日の条には、夜一条観音に参詣するのに、山臥(やまぶし)の体をしたとある。されば落飾後、平素黒衣を著し律を持したというのも、さもあるべきことで、これからして天文六年後の物故するまで全く遁世人の生活をなし遂げたのである。
 普通尋常の一公卿を中心人物としての記述ならば、予が今まで説いただけでも、それすらすでに大袈裟に過ぎるので、その上にさらに呶々(どど)弁を弄する必要はないのであるが、事実上の主人公を三条西実隆にとった本篇においては、なお一回読者の忍耐を濫用しなければならぬ廉(かど)がある。それはほかでもない文筆殊に歌道の方面からしての宗祇およびその他との関係である。
 当代能書の第一人として、禁裏からしばしば書写の命を受けたことは、前回にすでに述べたごとくであるが、彼の名の都はおろか、津々浦々のはてまでも永く記憶されたのは、一つにはその水茎の跡のかおりであって見れば、煩をいとわず今少しく彼の書について補いしるさんこと、必ずしも蛇足ではあるまい。実隆の入木道の妙を得、在来の御家流に唐様を加味した霊腕を揮ったことは、その筆に成れりという『孝経』によっても徴し得らるることであるが、彼が何人からしてこれを習い伝えたかは、予の不敏いまだこれを明かにしない。天稟にもとづいたことでもあろうが、必ずやしかるべき師もあったろう。あるいはまた古法帖などからして会得したところもあるかも知れぬ。とにかくに彼の能書であったことは、論をもちいぬのであるから、禁裏や宮方や武家の御用のほかに、随分と方々からの依頼があった。それにつれて[#「それにつれて」は底本では「それにつて」]筆屋や経師屋(きょうじや)の出入りも頻繁であった。経師では良椿法橋(ほっきょう)というのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。諸所の注文により、先方へ出張して筆の毛を結ぶ職工である。彼らのある者は、たんに京都の得意を廻わって、筆を結びあるくのみならず、また田舎の巡業をしたものらしい。現に実隆の邸に出入した筆工のごとき、高野山の学僧だちをも得意としておったことは、実隆の日記にも見えている。筆工を喚んで筆を結ばす場合には、軸をばいずれから供給したか判明しないが、結ぶべき毛をば頼んだ方から差し出す。毛に狸毛と兎毛とあったことは今日と同様で、実隆に贈り物をする人の中には、気転をきかして兎毛を持ち込んだ者もあった。結び賃は、ハッキリとは知れぬけれど、享禄五年に実隆からして十六本の結び賃を筆工に払ったことがある。もちろん筆の種類によっても差等のあったことであろう。ただし当時における筆の供給が、一般にかくのごとき出張製造の方法によったかどうかは疑問である。おそらくは書道に心掛けのあって、特に筆に関して選り好みをし、かつ多く筆を需要した人に限って、かかる方法に出でたので、大方の人々は、筆屋の仕出し物で用を弁じておったこと、今日の需要者のごとくであったのかとも思われる。依頼によって実隆が揮毫する場合に、料紙をば多く依頼者の方からして差し出すこと、今日見る例と変わりがなかったらしい。依頼を受けた書の種類は一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土双六(すごろく)の文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
 他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功を竣(おわ)ったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工を喚(よ)んでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢すでに七十五で、またと五十四帖を写すこともできず、その残り惜しさは推し測られる。
 実隆の書はかくまでに広く上下に持てはやされたが、しかしながらその持てはやされたのは、たんに彼が上手な書家であったためばかりではない。彼の文藻があずかって大いに力あるのだ。彼は歌人であり、連歌師であるのみならずまた漢詩をもよくした。作者として抜群なのみでなく、『万葉』『古今』等の古典的歌集はもちろんのこと、そのほかに物語類、歴史類にもかなり通暁し、また漢籍の渉猟(しょうりょう)においても浅からざるものがあった。みだりに美辞麗句を連ぬるのみでなく、彼の思想の根柢には、浄土教より得たるところの遒麗と静寂とを兼ねたものがあった。慧信の『往生要集』、覚鑁の『孝養抄』、さては隆堯の『念仏奇特条々』等、念仏に関した書で彼が眼をさらした数も少なくはなかったが、甚深の感化を受けたのは、そのころ高徳の聖(ひじり)として朝野に深く渇仰された西教寺の真盛上人であった。実隆は宮中やその他において、上人の講釈説教等を聴聞したのみならず延徳三年の春三月の十五日には、わざわざ江州の西教寺に詣でて、上人から十念を授けられ、その本尊慈覚大師の作と称する阿弥陀如来を拝して、浅からぬ随喜結縁(けちえん)の思いをなしたとある。かく上人との昵(なじ)みの深くなるにつれて、上人の来訪もあり、『円頓戒私記』の書写を頼まるることになったが、これも往生の縁というので、実隆は子細なく領状し、わずか二日間にその功を終えた。真盛上人との関係以外に、浄土宗信者としての実隆は、旭蓮社やその他の僧とも交りがあった。日記文明八年六月二十七日の条には、その日から日課として六万反の念仏を唱うることにしたとある。この日課はいつまで持続されたのか、その辺は知り難いけれど、とにかく彼は熱心な念仏の帰依者であったには相違ない、平素殺生戒を守ろうと念篤かったものと見え、明応六年の五月、薬用のために、庭上で土龍(もぐら)を捉えてこれを殺した時、やむを得ぬとはいえ、慚愧の念に堪えないと記している。明応六年といえば彼の遯世(とんせい)に先だつこと二十年である。しかるに当時すでにかくのごとくであったとすれば彼の遯世の決して世間一様のものでないことが知らるべきで、阿弥陀の尊像はいうまでもなく、土佐光茂に命じて画かしめた法然上人、善恵上人の両肖像は、彼の旦暮祈念をこらした対象であった。されば絵師に註文するにあたっても、用意なかなか周到なもので、善恵上人の肖像には黄色の珠数を添えるようにとの注意をすら、ことさらに与えている。
 予がかく浄土教と実隆との関係を縷説するのは、これが大いに実隆の文藻に影響を有するからなので、いたずらに言を費すのではない。その昔アッシシのフランシスの信仰が、トルヴァドールと密接なる関係を有したのみならず、この聖者の感化が、当時のイタリア美術に少なからぬ影響を与えたことは、史家の明かに認むるところだ。フランシスのキリスト教におけるは、ちょうど法然等の仏教におけるのと酷似している。しかしてわが国の浄土宗は、もし美術史家のいうごとくに日本美術に影響を与えたものとすれば、美術以外文学の方面にも、相当な影響のあって然るべきはずで、実隆の文学のごときはたしかにその実例を示すものであろう。予は単に実隆が連歌、または連歌気分の和歌を善くしたから、しかいうのではない。連歌にも和歌にも種々の色彩のものがある。禅宗的のものもあれば、浄土宗風のものもある。そもそも足利時代を風靡した宗教は、浄土宗よりもむしろ禅宗ではあろうけれど、実隆において浄土宗は全く無勢力ではなかった。狩野派の絵画と禅味との関係も、しばしば論ぜられることではあるが、絵画は当時まだ狩野派の独占に帰しおわったのでなくして、土佐派というものになおかなりの余勢があった。一概に評し去るのは如何(いかが)わしいけれど、もし狩野派の絵画をもって、禅的気分に富んだものとなし得べくんば、足利時代の土佐派をもって浄土気分のあるものといい得るかも知れぬ。少なくも浄土教が、狩野派よりも土佐派の方に相応(ふさ)わしいとはいい得るだろう。わが国の肖像画というものは、足利時代に始まったのではないけれど、主としてこの時代から流行したもので、土佐派でもこれを画けば、狩野派でもこれを画いた。武家の側の、主として影像を狩野派に描かした事例は、『蔭涼軒日録』に数多く見える。禅僧の肖像とても同様多く狩野であった。実隆は交際の広い人であって禅僧にも、近づきがあったのみならず、画人において土佐派のみを知って狩野派を知らなかったというのではない。現に太田庄へくれてやる扇面の画をば、狩野家にも頼んだ例がある。しかるに旦暮仰瞻(ぎょうせん)しようという法然善恵の肖像を、武家の顰(ひそみ)にならって狩野家に頼むことをせずに、これを土佐光茂に頼んだということは、簡単にこれを出来心とのみ解釈するよりも、彼の浄土教好尚のおもむくところに従ったのだとする方が、むしろ適切な説明ではあるまいか。けだし実隆は縉紳(しんしん)中の流行(はや)り役者であり、蔭涼軒は武家社交界の中心であった。しかして実隆は武家からも尊敬されて、しばしば柳営に出入した。しかるに不思議にも実隆と蔭涼軒とはほとんど没交渉である。『実隆公記』に蔭涼軒の名の見えているのは、たんに一か所だけであったと記憶する。両者の日記は、東山時代を説明する絶好の二大史料であるが、両者ともおのおの別世界の人であるかのように、自己およびその周囲を叙している。史家からして見れば、そこにまた面白味があるので、これを対照することによって、浄土的な実隆の面影も、さらにいっそう判明になり得るのだ。
 実隆はその情緒を浄土宗的信仰によって養った。しかしながら宗教心のみで文学者ができるものではない。実隆がその詞藻を養うためには、またそれだけの修養を積んだのである。歴代の歌集をば、読みもし写しもしたのみならず、いわゆる和学の書で古典とも称すべきものは、ほとんど残りなく渉猟した。『曾我物語』や、『平家』や、『太平記』や、ないしはまた足利時代に流行した『秋夜長物語』の類にも通暁した。歴史物では『神皇正統記』を愛読した。漢籍においても相当の薀蓄(うんちく)はあったので、その師は今いちいちこれを尋ぬるに由がないけれど、菅大納言益長の文明六年十二月に逝去せるを悲しみて、「譜代の鴻儒当時の碩才なり」と称え、かつその孫和長とは特別に懇意にしておったのを見ると、年輩から推して益長などにも教えを受けたのかと思われる。次に師と頼んだというほどではあるまいけれど、長享から延徳にかけて、一勤という者の講義をたびたび聴聞したこともある。この一勤は厚首座といい、坂東から上京した博学の老僧であって、京都では宮方や縉紳の邸に迎えられ、漢籍の講義をしたものだ。実隆は彼からして『毛詩』、『孟子』、または兵書などの講釈を聴聞したことをその日記にしるしている。詩に関しては早くから稽古を始めたらしく、幼少のとき紹印蔵主という者に就いて、『三体詩』の読習を受けたことを、文明十年の日記に叙して、すでに十二年を隔てて今日相遭うといっているから、その『三体詩』の読習というのは、彼の十二、三歳くらいのころの話であったろう。何故に『三体詩』からして始めたかというに、これは当時流行の教科書であったからで、ちょうど徳川時代において、素読といえば『大学』からして始めたようなものだ。そのいかに流行したかは、明応四年に新板の出来たのでも知れる。その『三体詩』の講釈をば文明九年には、宗祇法師の庵で、正宗から、文明十一年に蘭坡から聴いた。翌年には同じく蘭坡からして山谷の詩の講釈をも聴いた。蘭坡和尚というのは南禅寺の詩僧である。また当時山谷とならんでもてはやされた東坡詩の講義をば、桃源周興から聴聞した。周興をば実隆は「間出の雄才なり」と称讃している。かくのごとく詩集に造詣のあったくらいであるからして、彼はまた時々作詩をも試みた。禁裏での和漢の席に列し、また勅命によって孫子□(そんしばく)[#「孫子□」は底本では「□子孫」]と□山(てきざん)とを題とせる詩を作ったことは文明十二年の日記に見え、永正三年には陳外郎から和韻を求められてこれを書し与えたとあり、同六年には雲谷の書いた北野天神の尊像に賛詩を題したこともある。これらはたんに例に過ぎないことはもちろんである。漢籍で愛読したものの中には、『老子経』や『唐才子伝』、『黄梁夢』等の挙げられてあるのを見ると、この方面においても彼の読書の趣味のすこぶる広かったことが知られるだろう。日記永正元年五月の条に、実隆が『源氏』と『蒙求』とを講義したということが見えるが、これがすなわち実隆の実隆たる所以で、まことによく彼の才学の特徴を示している。
『源氏物語』は、足利時代の著作物でももちろんなく、また足利時代において始めてもてはやされたのでもないが、しかも足利時代と特殊の関係を有すものである。鎌倉時代において『源氏』がかなりに読まれ、行なわれたとはいうものの、それは京都の一部縉紳間にのみに限られたもので、『源氏』はまだ日本の『源氏』ではなかった。そもそも鎌倉時代には、いろいろな型の文化が芽ざし、既存の文化と相競わんとしたもので、まだ『源氏』をもって日本文学唯一の典型とするまでには行かなかった。『源氏』が文学界において独歩の勢を成し、文学といえば『源氏』が代表する趣味が最上のものであると考うるに至ったのは、将軍が京都に柳営を開き、一種の公武合体を成し、これに伴って日本の文化も統一しかけ、しかして王朝気分の復活となった、その足利時代のことである。もし足利時代をもって日本文化のルネッサンスといい得べくんば、そのルネッサンスの中心は『源氏』である。『源氏』は足利時代において始めて日本の『源氏物語』となったのである。『源氏』を読まずして足利時代の文化を理解することは、ほとんど不可能といってよろしい。足利時代の物語類の、千篇一律に流れているのは、その根柢においていずれも『源氏』を模倣するかで、これをもっても当時における『源氏物語』の勢力が推測される。しかして実隆は実にこの『源語』の熱心なる研究者であり、擁護者であった。
 実隆が『源語』を読み初めたのは何歳ごろからのことであるか、日記ではこれを詳(つまびらか)にし難いが、けだし文明の初年からのことであろう。始めは師に就いたのではなく、『花鳥余情』とか『原中最秘抄』などいう註解本によって研究したらしく、相談相手としては、牡丹花肖柏が出入したらしい。肖柏が実隆の少時よりの交友であることは、日記大永七年四月肖柏堺に歿した記事の中にも見えるとおりであるのみならず、肖柏の名の日記に見えているのが、宗祇の名よりも早いところからして考えても、実隆は先ず肖柏を知り、しかるのち宗祇を知ったらしい。文明八年の八月十九日の条に、この晩肖柏が来て『源氏物語』「夢浮橋」の巻を書写してくれと懇望したとある。あるいは肖柏の手引きによって、実隆は宗祇と近づきになったのかとも思われる。宗祇に関する記事の始めて日記に出ているのは、文明九年七月宗祇の草庵において『源氏』第二巻の講釈があって、実隆が連日これを聴聞した記事である。こののち文明十七年まで宗祇から『源氏』の講釈を聞く話はない。日記にも闕漏はあるが。それのみならず宗祇がその地方遊歴のために、講義を開く折がなかったからでもあろう。文明十七年の閏三月の下旬、五十四帖書写の功成ったというので、その晩宗祇と肖柏とが、実隆の邸に来り、歌道の清談に耽りつつ、暮れ行く春を惜んだとのことである。この写本が出来てからして、『源氏』の講釈はまた開講せられたが、このたびは宗祇の種玉庵においてではなく、実隆の邸において催されたのである。宗祇は宗観、宗作、または玄清等の同宿をかわるがわる連れてきた。肖柏もまたおりおりこれに同伴した。聴手としては、主人公の実隆のほか、滋野井、姉小路等の諸公卿の来会することもあった。宗祇の見えぬ時には、肖柏がこれにかわって講釈をしたが、先ず三度に一度は肖柏の代講という有様であった。場所も三条西家のみならず、時には徳大寺家などへ宗祇を誘引し、そこで講釈せしめたこともある。一帖を講じおわると、慰労として饂飩(うどん)[#「饂飩」は底本では「飩饂」]くらいで献酬することもあり、あるいは余興として座頭を呼び、『平家』を語らすこともあった。かくて文明十八年六月の十八日に『源氏』の講義その功を終えたというので、その夕実隆はわざわざ宗祇の種玉庵に赴いて、だんだんの謝意を表したとのことである。
『源氏物語』の講義の始まっている間に、それよりも少しく遅れて、文明十七年六月の朔日から、同じく宗祇の『伊勢物語』の講釈が、実隆邸に開かれた。『源氏』の方は夕刻を期しての催しであったけれども、『伊勢物語』の講義の方は、朝に開かれたものらしい。されば同日の朝に『伊勢物語』の講釈を聞きて、その晩になると『源氏』の講義を聞くというようなこともないではなかった。その聴聞衆としては、中御門黄門、滋前相公、双蘭、藤、武衛、上乗院、および肖柏等であったと見える。『伊勢物語』は同じく古典であっても、『源氏』などとは異なり、肩のあまり凝らぬ物語であるから宗祇も腕によりをかけ、『源氏』の場合とは違った手加減で語巧みに縦横自在の講釈をなしたらしい。したがって『源氏』の講釈にない面白味もあったらしく、実隆はその日記に、「言談の趣き、もっとも神妙神妙」と記している。『伊勢物語』は『源氏』のごとく浩翰なものでないので、わずか七回でもって、その全部を同月二十一日までに講了した。そこで実隆は檀紙(だんし)十帖、布一段を謝礼として種玉庵[#「種玉庵」は底本では「種庵玉」]に遣わした[#「遣わした」は底本では「遺わした」]けれども、宗祇はかたく辞してこれを返送したとのことである。
 宗祇の『伊勢物語』の講義は、よほど面白いものであったと見え、その証拠には伏見宮家からも実隆を経てしきりに所望せられた。宗祇は少々渋ったのであるけれども、実隆の切なる勧め辞し難く、ついに宮家に参入して講義をすることにしたのは、それは文明十九年閏十一月のことであった。しかしてその翌すなわち長享二年の四月には江州の陣に在る義尚将軍からして、同じく『伊勢物語』の講釈を宗祇に命ぜられ、宗祇はわざわざ江州の御陣まで出張して、八か度の講釈をなし、その功を終え、数々の拝領物をし、面目を施して帰洛したとのことである。
『源氏』の講釈が終ると、その翌月からして著手せられたのは、これもやはり宗祇を煩わしての『古今集』の講談であった。宗祇は先ず不立不断のこと、貞応本のこと、為世と為兼との六問答のことなどからして説き起こした。つまり実隆はここに日本文学史上の一秘事たる『古今』の伝授を受け始めたのである。『古今』の伝習にやかましい儀式の附随しておったことは、世人もよく知るごとくであって、宗祇は「先ず心操をもって本となし、最初思い邪(よこしま)なくこの義を習う」ともいい、また「口決の事等、ただ修身の道にあり」とも説いた。講談中は魚味を食することに差支えはないけれど、房事は二十四時を隔てなければならぬということなども、談義中の一か条であった。すべて秘事であるので講談も密々に行なわれ、文明十八年の七月から始めて、翌十九年四月下旬、宗祇の地方遊歴に出かける時に至り、一旦中止となった。皆伝(かいでん)になったのではないので、翌々年すなわち長享三年の三月、宗祇はさらに『古今集序』聞書ならびに三ヶ事のうち切紙一、題歌事切紙一、以上を、実隆の邸に持参して、口伝いろいろ仔細があったと、実隆はその日記に載せている。
『源氏』、『伊勢』および『古今』の講義は、実隆が宗祇に習った主なるものであるが、このほかにもあるいは『詠歌大概』を読んでもらい、あるいは独吟連歌に関する心得を聞き、また宗祇の勧むるに任せて、源氏研究会とも称すべきものを、明応の初年に催したこともある。この研究会に関しては、七人で四箇条ずつの問題を提出して討論をやったが、霜月の日脚短く、宇治に関する分五箇条ほど残ったなどという記事がある。明応ごろには総じて『源氏物語』の流行も縉紳間に衰えたので、さきには講釈などをもよく聞きにきたかの姉小路宰相宗高などは、この研究会へ案内されたけれど、故障があると称して来会しなかった。実隆はその日記において大いにこれを慨嘆し、今時の人は今日のような研究会をもって、愚挙であるとして嘲弄するだろうが、かくも『源氏』を翫ばぬようになったことは、はなはだ不便(ふびん)なりというべきだといっている。実隆のごときは真に『源氏』の擁護者で、換言すればこの点において足利時代における一種の文化の代表者である。足利時代はその終りに至るまで、ついに『源語』的趣味の滅絶を見なかったが、実隆のごときはこれに与(あずか)って大いに力ある者であろう。
 実隆にとっては宗祇は師でもあり友人でもあったので、必ずしも彼に教えを仰ぐのみではなかった。前条に述べた研究会のごときはすなわちその一例であるが、歌道においても、宗祇の方からして実隆の批評を求むることもあった。文明十八年の暮に宗祇が独吟二十首を実隆に示して批評を求めたなどに徴してもわかる。その時に実隆はかれこれ批評すべきわけではないけれど、たっての要求故にやむを得ず厚顔至極をも顧みずして心底を述べておいたと、その日記に書いている。されば文明九年ごろからして始まったこの両人の交情は、普通の師弟関係とは異なり、宗祇が実隆に負うたところのものも、また決して少なからぬことであった。宗祇が室町殿に出入し、その連歌の会に臨んだのは、よほど以前からのことらしく、長享二年三月には義尚将軍からして連歌会所奉行を仰せ付けられた。これより以来この奉行人を時人呼んで宗匠と号したと、『実隆公記』に見えているが、これけだし宗匠なる名の濫觴(らんしょう)であろう。しかしてこの会所開きの会が長享二年四月の始めに催された。されば宗祇もその殊遇に感じ、将軍薨去の後、延徳二年三月に、故将軍すなわち常徳院殿のため、四要品を摺写し、十人ほどに勧誘して、和歌を詠ぜしめ、これを講じたことがあって、その時には実隆もその経の裏に歌を書いてやったとのことだ。これらから推しても、宗祇はその幕府との関係において、実隆の推挙によったのではないらしいが、『新撰菟玖波集[#「新撰菟玖波集」は底本では「新撰菟□波集」]』の修撰のことから延(ひ)いて、宗祇と宮廷との関係を生じたのは、これはひとえに実隆の取成しによったもののようだ。明応四年修撰に関して兼載との葛藤のあった際に、親王家に申し入れて、その御内意を宗祇に伝え彼を安堵(あんど)せしめたのは、すなわち実隆その人で、その際に宗祇は御蔭で胸襟愁霧を披(ひら)いたといっている。『新撰菟玖波集』二十巻がいよいよ出来上り、宗祇が肖柏、玄清、宗仲等を率いてことごとくこれを校訂し、九月十三日をもって恭しくこれを禁裏に奉献すると畏くも禁裏からは、御感の趣の女房奉書を、宗祇に賜わることになって、勾当内侍(こうとうのないじ)これを認め、実隆はこれを渡すために、宗祇の庵へと出向いたが、折節宗祇は他行不在であったから、留守の者にこれを渡して帰った。宗祇は庵に戻って見ると忝き恩命を拝したことがわかり、一壺の酒と一緡(いちびん)の銭とを持って、すぐさま実隆のもとへ礼を述べに駈けつけたが、今度は実隆の方が留守であったので、土産物を残して帰った。『新撰菟玖波集』には御製の金章長短の宸筆(しんぴつ)をも交えているので、禁裏でも等閑(なおざ)りの献上物のごとく見過ごされず、叡覧のうえ誤謬でも発見せられたものか、女房奉書を賜わった翌々日、また実隆に仰せて今一度校合の仕直しをして進上するようにと宗祇に命ぜられた。そこで宗祇はさらに宗坡とともに校合してこれを差し上げたのである。かくのごとくして宗祇の名九重の上に達し、明応七年十一月には禁裏からして三荷二合の酒肴を宗祇法師に下さるることになった。これもまた実隆の伝達によったので、翌日宗祇天恩の有り難きを謝し、かつ挨拶のため実隆邸を訪い、天恩の一荷を頒ちて、もって当座の礼心を表したとある。実隆はかく宗祇を禁裏に推挙し、その他何事につけても芳情を示したからして、宗祇もまた二なく実隆を頼んだので、在洛の間にたびたびの訪問をしたのみならず、地方遊歴に出かける前、旅行から帰洛した後そのたびごとに必ず実隆のもとに訪れるのを例としておった。そもそも連歌師の常とはいいながら、宗祇の旅行は、その回数においても、はたまたその範囲においても、共にすこぶる驚くに足るものであり、関東には七年も遍歴し、十一箇国それぞれの場所から富士山を眺めて、なかんずく筑波山から見るが最もよいと断定したほどの大旅行家で、したがって方言にも精通し、かつて実隆に『京ニ筑紫ヘ坂東サ』などの物語をしたこともある。
 実隆が文明十七年に、彼から『源氏』の講釈を聞くようになった以後、日記に見える彼の旅行だけでもおびただしいもので、最もしばしば、しかも手軽くやったのは、江州と摂州とであるが、江州行きなどは、あるいは彼にとり旅行の部に入るべきものでないかも知れぬ。摂州へ行ったのは、池田に用事があり、かつ有馬の温泉に湯治するための旅行であった。故に摂州行は必ずというではないけれど、多く気候の寒い時、すなわち十月から二月までの間にやったのである。以上二州よりもやや遠い所では、東北は若狭、越前、美濃、西南は紀、泉、播州等であった。それよりも遠くなると東北は越後、坂東、西南は中国筋から九州へかけての旅行もやった。特になじみが深かったのは越後である。これは上杉相模入道の子息なる民部大輔といえる者、仁慈博愛の武士であって、宗祇は特にその引立てを得、重恩を荷なったからである。されば右の民部大輔が長享二年三月生年三十六歳をもって鎌倉であえなき最後を遂げた際に、宗祇は哀慟のあまり、一品経を勧進して彼のための追善を営んだという。かくのごとき縁故があるので、その後も宗祇はたびたび越後におもむいた。また彼が中国九州におもむいたのは、主として大内家を目的にし、越前におもむいたのは、朝倉をたよって出かけたのであるこというまでもない。かく席暖まるいとまもなく、京田舎を出入した宗祇は、晩年遠国下向の時となると、その平素もっとも大切にしている『古今集聞書』以下、和歌、『左伝』、抄物等を一合の荷にまとめ、人丸の影像とともに、これを実隆のもとに預けて出発するを例とした。人丸の影像というものは、早くから歌人の崇拝の目的物となっておったもので、中には他の歌聖、京極黄門その他などを、影像にする向きもあったけれど、最も尊ばれたのは人丸像で、その影供は歌道の一大儀式となっておった。実隆は歌道において飛鳥井の門人であったこと前にも述べたごとくであるが、その門人たる実隆が、飛鳥井家へ年始の廻礼などに行くと、飛鳥井家では、これを人丸以下の影像を飾った室に引見したものだ。また実隆はかつて兼載から、信実の真跡と称する沽却物の人丸影像を示されて、大いにこれに涎垂(えんすい)したこともある。宗祇の所持の人丸影像は、信実の真筆ではなく、これを手本にして土佐刑部少輔光信に写さした新図であった。宗祇がこれらのものを、旅行に際して実隆に預けることとしたというのは、たんに不在中の紛失を恐れたためのみではない。実は長享二年宗祇の北国行のさい実隆との間に約束が結ばれ老体でもあり、遠国へ下向すると再会は期し難いことであるから、もし旅先で万一の事があり、帰京かなわぬ仕儀となったならば、聴書等を実隆に附与しようといったのである。したがってこれを実隆に預けるというのは、万一の際そのまま留め置くようにとの意味なのである。はたして宗祇はその歿する前年すなわち文亀元年の九月に『古今集聞書』切紙以下相伝の儀ことごとく凾に納め封を施して実隆のもとへ送り届けた。実隆これを記して、「誠にもって道の冥加なり、もっとも深く秘するところなり」といっている。
 宗祇と実隆との歌道の因縁上述のごとくであるからして、その往来も頻繁に単に文学上の交際のみに限らなかった。宗祇は文明十七年に闕本ながら古本ではありかつ美麗な『万葉集』十四冊をば、実隆に送り、そのほか定家卿色紙形一枚を送り、また宗祇が香道の名人で、自身調合にも巧みであったから、種々なる薫物を送り、あるいは養性のためにせよとて蒲穂子を贈り、筆の材料にとて兎毛を贈り、唐墨を贈り、旅から帰ると、旅先の名物と称せらるる器物や食物や反物などを土産とし、しからざれば一壺の酒一緡(いちびん)の青□をもって土産として、ある時は三条西家の青侍等の衣服にとて帷(かたびら)三を贈ったこともあった。実隆眼病になやむと聞きて、目薬を贈ったこともあった。実隆の方でもまた宗祇に対して一方ならぬ懇情を運んだ。秘蔵の『神皇正統記』をも、望むに任せて宗祇に与えた。宗祇の依頼に応じて、彼の連歌集なる『老葉(わくらば)』を清書してやった。同じく[#「同じく」は底本では「国じく」]依頼によって「桐壺」の巻を書写せる際などは、その出来上らんとした日に、禁裏から召されたけれども、実隆は所労を申し立てて不参し、もって書写の功を終えたのである。その他宗祇のために、あるいは『源氏』五十四帖の外題(げだい)を認め、『新古今』、『後拾遺』、『伊勢物語』等の銘を書し、またしばしば扇面に書し与えた。扇面は、時として実隆の方から旅行の餞別に出したこともあるが、多くは宗祇の所望によったものである。中には大晦日に頼まれて、即座に書いてやったこともある。色紙を三十六枚所望されてこれを書いたこともある。かくいえば頼む方もずいぶん無遠慮なやり方と称すべきで、書いてもらった扇子や色紙を、宗祇の方でいかに処分したかというに、無論自分の翫賞のためのみではなく、人に頼まれた分もあろうし、また中にはそれでもって宗祇が自分の義理をすませたことも多かろう。大晦日に頼みに来た節などは、さすがに実隆も不平であったと見えて、その日記に「※[#「總のつくり」、「怱」の正字、399-上-19]劇中の無心といえども、染筆してこれを遣わす」といって頼むままに扇三本に書いてやった。
 かく述べ来ると、それのみでは、宗祇の仕打ちがいかにも押しつけがましく聞えるのであるが、その内情を調べると、必ずしも宗祇を酷評すべきではない。実隆は生計不如意のために、一方ならず宗祇に手数をかけている。実隆は延徳、明応の交、年貢未進で三条西家を困らした越前田野村からの取立てをそのころ北国通いをした宗祇を経て、朝倉家に依頼し、若干の収納を得たことがある。明応の末年には、宗祇の摂津行きの次をもって、魚市の件に関する伊丹兵庫助との交渉をやらしたこともある。そのほかに何方(いずかた)よりか千疋の借金を宗祇にしてもらったことが、三度ほど日記に見えており、千疋以下の借入れを頼んだこともある。周防(すほう)の大内家からして用脚(ようきゃく)を調達する時にも、また宗祇の斡旋(あっせん)を得ておった。当時の大内家は中国と九州とにまたがり拠有した大勢力で、それに支那貿易に関する特権を有したところから、その富西国に冠たる有様であったことは、みな人の知るところ、実隆の大内家との関係についてもまたすでに述べたとおりである。されば宗祇のみでなく、連歌師としては兼載のごとき、また延徳ごろに周防に往復している。連歌師のみならず龍翔院右府公敦のごときを始めとして公家等のたよって行ったのもある。『平家』を語る琵琶法師等もはるばる中国下りしてその眷顧を受けた。実隆が大内政弘のために、いろいろ書写してやり、あるいは銘を書き、周防浄光寺のために朝廷に取り持ちて、灌頂(かんじょう)開壇の特許を与え、宗祇の勧めによって長門住吉法楽万首の奥書を書し、殊に用脚に関する場合に、宗祇と相談のうえ書状を発している。されば実隆と大内家との間を親密ならしめたのは、宗祇の居中周旋によるものだとも考え得られるのである。実隆のために金策の秘計をめぐらした者は宗祇のみではないけれど、その方面においての宗祇の尽力は、決して少小でなかった。実隆に書いてもらった扇子をば、宗祇はあるいは実隆のための金策の便宜上、これを他に贈遺したかも知れぬ。少なくも実隆が宗祇に書いてやった扇子は、間接に自分の家計を補う因となったのだ。大晦日に扇子を書かされたとて、あまり苦情をいうべき筋でもない。これを日記に書したのは、一時むっとしたからで、実隆もまたこれらのために宗祇に対し永く不快の念を懐いたのではないようである。
 宗祇はもと身体壮健であったけれど、寄る年波の争い難くて、明応五年のころから、耳聾し治し難く、その他にははるかに衰弱を見ざりしも、明応の末年より越後に遊び、立居のようやく意のごとくならぬを感じたれば、臨終のまさに近からんとするを覚り、少しにても都近き所に移らんとしたるをもって、宗長ら聞きてこれを伴い帰えりしに、文亀二年の七月二十九日というに遂に相模の箱根で入滅した。この報が京都に達し実隆の耳に入ったのは、それから約一か月半あまりの九月十六日で、宗祇の弟子玄清が来たり告げた。実隆大いに驚いて「驚嘆取喩に物なく、周章比類なきものなり」と記している。さて宗祇のすでに歿した後は、『古今』の伝授ひとり実隆によるのほかはないというので、玄清のごときは、この年の末に、実隆の教えを乞うた。実隆やむを得ずこれを承諾したが、いかにせん実隆所持したところの聞書をば、ことごとく焼失したために、大概のみのほか諮問(しもん)に答うることができなかった。宗祇の忌日は、歿後も斯道(しどう)において永く記憶され、時としては遠忌の実隆邸に催さるることもあった。また当時一般の習いとして、宗祇の影像が幾通りも画かれ、宗碩の宗祇像には、実隆の取次によって、宜竹和尚これが賛を書した。しかしながら多くの人は、宗祇の後継者たる実隆の賛を望むので、実隆はあるいは己れ賛を草してこれを書き、あるいは宗祇の句を賛語に擬して書いたこともある。『国華』第二百七十号に載するところの宗祇の肖像のごときはすなわちそれである。
 宗祇との親交は、ひいて宗祇門下と実隆との交際となった。肖柏のごとく少年より交久しく、宗祇の関係によって、いっそうその交情を深くした者はいうもさらであるが、それ以外に宗祇の弟子で最も多く実隆の邸に出入りしたのは、宗長、玄清、宗碩等である。これらはいずれも実隆の家事向きに関係を有したこと宗祇同様であった。宗長は三河・駿河方面に多く旅行し、今川氏親の眷顧を受けたので、永正五年には氏親から実隆への贈与金二千疋を取り次いだことがある。今川と実隆との間は、必ずしも宗長をのみ介したのではないけれど、この二千疋の時には、実隆もよほど嬉しかったと見え、「不慮の芳志なり、闕乏の時分、いささかよみがえるものなり」と日記にしるした。玄清は文亀二年実隆が座敷を増築しようとした時に、相談を受けてその金策をしたことがあり、前に述べたごとく『源氏物語』を甲斐国の某へ売却の周旋をしたこともあり、実隆が宗長の所望に任せて抄物を譲り渡した時、宗長から代物として送って来た黄金一両を取り次ぎ、のみならずその黄金を両替してやったのも玄清で、その後いくばくもなく実隆が『伊勢物語』の本を玄清に遣わしたと日記に見えるのは、多分それらの礼心にくれたのであったろう。宗碩に至りては、しばしば美濃に往来した者であるので、実隆は同国苧関用脚の件につき、宗碩を煩わしたこともある。それ以外に宗碩は実隆のために金策をしてやり、また梅子の枝を実隆に、茶・杏一袋ずつを三条西家の不寝番の男どもに贈ったことも日記にある。その能州に行脚した時などは、行脚先きから書状に黄金二切を添えて送り来ったことすらある。肥後の鹿子木に『源氏』売却の周旋をしたのも宗碩である。宗碩のみならず、その小女までが乳母附添で実隆邸に来たことのあるのに徴すれば、宗碩は他の宗祇門下の人々よりもいっそう深く三条西家と関係のあったかも知れない。以上の三人のほかにも宗祇の弟子で宗聞という者が蟹醤一桶を実隆に送ったことが日記にあるが、その他の弟子につきては姓名の日記に見えるのみで記事のない者が多い。
 宗祇の門下は素人の方面になかなかに多かった。故に宗祇によって、それら本職ならぬ連歌師と実隆との交際も始まった。武人にして宗祇の弟子なる杉原伊賀入道宗伊、上原豊前守、二階堂入道行二、玄清の弟子宗祇の孫弟子なる明智入道玄宣等は、おりおり実隆と一座した人々である。宗祇はまたさまでに名のない田舎人をも実隆のもとに同伴し、または仲介となりて和歌の合点などを依頼した。薩摩の僧珠全や、美濃の衣斐出雲なども、皆かくして実隆に紹介された人々である。そのほか日記には明かに見えぬけれど、越後国の高梨刑部大輔政盛が『古今集』を書いてもらって、五百疋の礼をしたことや、越後上杉家の雑掌神余隼人が、実隆と別懇になったのも、直接あるいは間接に宗祇の越後通いによって作られた因縁だろうと察せられる。神余隼人の始めて実隆のもとを訪うたのは、宗祇の歿後永正元年の春のことで、初対面の土産として、太刀一腰、金一緡を持参におよび、色紙三十六枚に和歌を書いてくれと所望した。しかるに実隆は一儀に及ばずこれを承諾し、一盞を勧めてもてなした。これによって察するにこの神余なる者はよほど早くからして、少なくも音信くらいをした人らしく見える。されば永正七年には隼人のみならず、その女房衆まで三条西家に出入した記事が日記に見え、享禄二年には神余与三郎[#「与三郎」は底本では「与三部」]という者、三条西の召仕として抱え入れられている。多分隼人の近い身寄の者であろう。
 越後においては上杉の雑掌神余がかくのごとく実隆に親交ある以上、その主人たる上杉が、実隆に音信を通ずるにおいて、何の不思議もなく、永正六年に実隆よりして兵庫頭定実に遣わした書状の返事が、翌年七月に神余の手を経て実隆にいたされ、それと同時に太刀一腰と鳥目(ちょうもく)千疋とを送ってきた。その後も交通の継続しておったことは、日記からして想像される。駿河の今川家と実隆との間柄は、宗長を通じてのみならず、他の方面からしても聯絡を有していた。すなわち実隆の宗家や親戚を通じての関係である。今川氏は了俊以来文事を重んじた家柄であるのみならず、今川五郎氏親は中御門家と姻戚の好を結び、実隆の宗家なる三条大納言実望はしばらく駿州におもむいて、今川の客となり、遂にかの地に薨じた。この実望からも実隆に贈物の到来したことがある。今川の賓客として駿河におもむいた者には、三条実望のほかに冷泉為和等もあり、これも実隆と親しい。されば今川家と実隆とは、その音信に必ずしも宗長を介したわけではなく、永正六年氏親が黄金三両を実隆に送った時などは、相阿がその取扱いをした。
 駿河の今川家は、その京都との関係からしていうと、周防の大内家に似た点がある。されば実隆のごとき、当時の京都文明の一半を代表した人が、この両家に特別の交際をなしたことも怪むに足らぬ。しかして実隆とこれら両家との間には、好便による書状の往復や、遍歴する連歌師などがあって、これを聯絡しつつあったのである。ほかに、聯絡の一鎖をなした者の中には音一という座頭などもあった。音一はもと尾張生れの者で、六歳にして明を失い、十二歳のとき京都へ出で、『平家』を語ることを稽古してその技に熟達した。同人が実隆に紹介されたのは、永正三年その二十四歳の時で、紹介人は実隆と別懇なる渡唐の禅僧了庵であった。初対面の時には実隆に数齣の『平家』を語らせ一泊させて帰した。この音一これが翌永正四年五月、西国での文芸の保護者なる大内家をたよって周防に下向したが、その出発の際には、実隆より餞別として帯三筋、三位局と、新大納言典侍から帯各一筋、上□局から白帷一を送ったので、音一は祝着の体で出発したのである。その音一の周防から上洛したのは翌年の十月であるが、その後検校(けんぎょう)となり相変らず実隆邸で『平家』を語り、七年九月に駿河国に下向した時には実隆の手紙をも頼まれたのである。おそらくは久しからずして音一は駿河から帰洛したものであろう。永正九年閏四月には、能登へ遍歴のため出発したのであるが、その発足以前に、実隆はかねて音一から所望されてあった『伊勢物語絵詞』を書写してやった。伊勢の北畠と実隆との音信も、またこの音一の取次であったろうと思われるのは、永正七年五月、音一が伊勢に下向せんとした時、実隆がこれに木造ならびに龍興寺宛の書状を託したのに、同年七月北畠家からして任官の礼だといって、五百疋を贈ってきているからである。
 以上述べきたったほかに若州武田の被官粟屋左衛門尉親栄は、勧修寺家の縁故からして実隆のもとに頻繁に出入した。殊に文亀三年四月には、一日から十七日まで、毎日三条西家を訪うている。また永正元年には実隆のために金策をしたこともある。この粟屋が若州に在る伏見殿御料松永庄の代官職を命ぜられたのは、あるいは実隆の推挙によるかも知れない。同じ武田の被官に久村某というのがあって、土産物持参で実隆を訪うたことは、日記に見えるが、これは多分粟屋の紹介によったものであろう。
 実隆の交遊広く、雷名の僻陬(へきすう)まで及んでおったことは、日本のはてから彼を尋ねて来る者の多かったのでも推すことができる。薩摩からは、前にもちょっと述べた僧珠全が、一度は宗祇により、一度は宗碩と同道して、実隆に面謁したのみでなく、同国人吉田若狭守位清という者からは、和歌の合点(ごうてん)を依頼してきた。同じく島津西見は、十首和歌の儀興行のため、実隆を訪うたこともある。薩摩の者で、三条西家の近隣に小庵を結び、説経をした会下僧の、彼を訪れるもあった。薩摩も同様な大隅からは、禰寝(ねじめ)大和守という者が、礼と称して青□一緡と太刀代とを携えて、実隆に謁したこともある。薩摩・大隅すらすでにかくのごとくであるとすれば、肥前の住人志自岐兵部少輔縁定のごときは、まだしも近国からの来客というべき分である。
 奥州のはてからも実隆に発句(ほっく)を所望して来る者があった。日記にはある巡礼男の同地方から訪ね来たった例をしるしている。岩城家の息女も歌を持ち来たって合点を所望した。伊達の一族も、二百疋を土産として対面を求め、連歌小巻の合点を頼んだ。常陸からは、江戸蓮阿という者が上洛のついでをもってたびたび訪問した。下野の小山左京大夫政長は、大永八年に連歌付句合点のことを依頼に来た。この時は実隆も、年老いたればにや、あるいは思うところありてか、かかるものに合点することを停止した後であったので、これを辞したけれども、政長かたく懇望し、黄金一両を懐中から取り出し、是非とも頼むといって、両巻を預け置いて去り、続いて葉雪という者をもってさらに依頼に及んだ。よって実隆もやむことを得ず書いてやった。そのほかに上野の僧も来た。信濃の僧も来た。しかしてこれら坂東者の多くは、しかるべき紹介の手蔓を有するもののほか、坂東屋という商人の取次によったらしい。
 これら人々の来訪や音信によって得たる実隆の見聞というものは、ずいぶん広かったろうと想像されるが、その上に彼は、当時の人には異域同様に考えられた蝦夷(えぞ)ヶ島に関する知識をも有しておった。というのは、彼が蝦夷人と交際したのではなく、蝦夷ヶ島に渡った僧友松という者が上洛して彼を訪ねたからである。実隆は細川家の被官で、阿波と丹波とへ往来する斎藤彦三郎なる者と懇意であったが、最初友松は丹波の出生者たる関係で、この斎藤につれられて実隆を尋ねた。蝦夷ヶ島から戻ってのち実隆に謁したのは永正四年で、土産として青□半緡を携えたとある。談話の詳細は日記に見えないが、おそらく蝦夷ヶ島の奇談で時の移るを忘れたことであろう。
 実隆は文学者として禅僧等に比してはむしろ日本的趣味の人であった。さりながら漢籍をもかなりに渉猟せること前にも述べたごとくで、明人との交際もあった。ただし当時京洛の人士が目に触れた明人といえば、すなわち有名な陳外郎で、実隆の最も親しく交わったという明人も、この陳外郎にほかならぬ。しかしてその陳外郎なる者は、明人とはいえほとんど本邦人と同様で、連歌の会にまで出席したほどの日本通である。さればこの陳外郎と交際したからとて、これをもって外人との交際と見なすべきものであるか否かは考えものであるが、この人ばかりではなく、来朝の唐人で禅僧の紹介を持ち実隆に面会を求めた宋素卿のごときもあった。して見ると明人の間にも実隆の評判がいくらかひろがっておったのではあるまいか。
 かくのごとくして三条西実隆は、知己(ちき)を六十六国に有する一代社交の顕著なる中心となり、逍遙院前内府の文名が後の代まで永く歌人の欽仰するところとなり、ややもすれば灰色がちになり自暴自棄に傾かんとしつつあった彼の足利時代の文化に、微なりといえどもいくらか暖かみのある光を投げ得たのだ。本邦文化史上における彼の存在の意義はまさにここにあるべきである。むかし実隆の友なる宗祇の、山吹の花を愛したということは、肖柏の『春夢草』に見える。春の盛りをば飾らぬけれど、さりとてまた一種の趣なきにあらざるその山吹の花のごときは、けだしもって実隆を喩うべきものあろう。




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