東山時代における一縉紳の生活
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著者名:原勝郎 

 次は綴喜郡の北端、淀川と木津川との落ち合いで、後の淀城の対岸なる美豆の御牧である。日記には略して単に御牧と書いてある方が多い。その代官に関しては、明応ごろに中村宮千世丸という名前が同五年三月の日記に見えておる。ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。これあるいは前に掲げた森弥次郎かも知れぬ。この庄からしての収入は百疋の年貢と茶とである。茶は一袋一斤半ずつの懸茶二十四袋が例となってあった。淀の魚市の年貢、これもまた収入の一であったが、これに関してもまた西園寺家との間に紛争のあったことは、明応五年の日記にしばしば見える。一旦は訴訟になり、幕府の裁決を仰がんとしたが、西園寺家からして、三分一年貢においては違乱を止めるとの一札を出して、事落著したことがある。この魚市からの収入は別に雑掌あるいは代官をしてこれを取り立てさせておったが、その代官の名には、明応四年ごろ玉泉という者をもってこれに任じたことがあり、永正元年には和泉屋すなわち四条烏丸太志万平次郎といえる者補任されて請文を出したとある。月宛銭は市況によって一定せず、百疋、百五十疋、二百疋等さまざまであり、正月七月十二月には別に増徴があり、往々にして二貫文以上に達したとあるから、三条家の収入として先ず主なる財源といわねばならぬ[#「いわねばならぬ」は底本では「いわぬばならぬ」]。また所領と称するのはいかがわしいかも知れぬが、京中にも三条西家の所有地があった。一は旧跡なる武者小路で、一年両度の地子百三十疋、ほかには六条坊門の地子で、盆暮八十疋の収入があった。
 以上は山城国に散在する所領からしての表向きの収入を述べたのであるが、なおその外にもこれら所領からの臨時の収入がある。正月には三栖庄から嘉例として八木の進献があり、武射饗三および打竹をも進上する。鳥羽庄からは鏡餅を持って来る。端午(たんご)の節句が近づくと、同じく鳥羽庄からして菖蒲の持参に及ぶ。続いて瓜の季節になると御牧から花瓜を持って来るので、その一部を禁裏に進上する例になっている。同じく御牧から八月には茄子を持って来る。九月になると祭礼の神酒一桶を三栖庄から送って来る。十月には自然生芋を御牧からよこす。屋根を葺くための葦は御牧から取り寄せる。また御牧の代官の嘉例の進物茶十袋という定めもあり、同じ御牧から秋には大根百本くらいを納めた。これも幾分を禁裏に献上したのである。なお御牧に在る三ヶ寺からは、正月年頭の礼に何か進上したらしい。のみならずこれら所領の多くは河沼に接しているので、したがいて魚介の利があり、石原庄からは鯉を献上しているが、なかんずく魚の最も多くとれるのが三栖で魚の種類は鱸(すずき)を主とした。百姓の多数は半農半漁であって、その代替りの礼などにはこの鱸持参でやって来る。
 三条西家はこれらの物を収得するばかりでなく、当時荘園一般の例として、その所領から人夫を徴発した。人夫を出すのは主として御牧で、あるいは庭の草の掃除のため、あるいは屋根葺のため、あるいはその他の普請のために呼寄せられている。また三条西家自分用のためのみならず、荘園の主として幕府から人夫を課せらるることもあった。たとえば義政の東山の普請につき、文明十七年春厳重な沙汰を受け、西園寺家と相談のうえ百十人の人夫を出したごときはその一端である。
 かく述べたてると山城国から得られる三条西家の収入は極めて多端であるように見えるが、実隆の晩年大永七年ごろになると、御牧のみの未進が十二貫文の多きに至っているから、他もこれに準じて未進が多かったろうと思われる。山城に在る分すら右のとおりであるとすれば、ましてそれよりも遠い国々にある所領からは、満足に年貢の納まろうはずがない。次には実隆がいかなる苦心をして遠国からこれを取り立てたかを叙述しよう。
 山城国以外で京都に近い三条西家の荘園を算(かぞ)うれば、先ず丹波に今林の庄というがあった。本来どれほどの収入があったのか知れぬが、文明九年には十石の分を竜安寺に寄進したとある。おそらくは爾後三条西家へは、ほとんど年貢米の納入がなかったのではあるまいか。日記永正七年十月の条に「年貢米二石初めて運送の祝著極まりなく千秋万歳自愛自愛」とあって、思いがけなかった仕合わせのように記している。しかして同年内になお二駄の年貢米がまた今林庄から納付になっているからして、三石六斗の合計になり、かなりの収入となったのである。なお丹波にはこの今林庄のほかに桐野河内という所から莚の年貢があり、土著の代官として、明応四年に片山五郎左衛門、同六年に月山加賀守という者が見えている。これらの代官は主として苧(からむし)の公事(くじ)のために置いてあるので、莚の方は実は第二だ。この地方から秋になると柿や松茸などを鬚籠に入れて送って来たことが日記に見える。
 遠近の丹波と相若(し)くのは、摂津富松庄である。富松は河辺郡と武庫郡とに分れて、東西富松の二つある。しかして富松庄は三条西家の専領ではなく、むしろ西園寺家の所領というべきもので、三条西家はわずかにその三分一をのみ取得としておったことが日記の永正三年四月の条に見え、西園寺家でこの荘園を沽却(こきゃく)しようとするから、その三分一の権利を三条西家に保留してあることを奉書の中に記入してもらいたいと、幕府へ申し入れた記事がある。して見ると東西に分けて分領したのではなく、富松庄の表向きの領主は、西園寺家だけであったろう。しかしこの庄の代官としては、日記文明十八年と延徳二年の条とに、富田某という名があらわれて、その註に「細河被官人薬師寺備後の寄子(よりこ)」とある。この代官が延徳元年に上洛した時には、柳二荷、鴈(がん)、干鯛、黒塩三十桶、刀一腰(助包)持参に及んだから、実隆はこれに対面し、かつその返礼として、以前義尚将軍から鉤りの里で拝領した太刀一腰を遣わしたとある。丹瓜がこの富松の名物と見え代官からこれを進上しているし、それのみではなく正月の若菜および盆供公事物を送って来る例になっておった。年貢米がどれだけあったかは判明しない。
 摂津の先きの播磨(はりま)の飾磨(しかま)郡にある穴無庄、同じく揖保郡にある太田庄、また共に三条西家の所領であった。穴無の郷の公用というのは、その公文職の年貢なので、年一千疋が定額であったらしい。守護不入の地とはいうものの、延徳ごろの代官たる中村弥四郎のごとき、守護赤松の被官人であって見れば、陣夫銭その他の課役を納めぬわけにも行かず、故に三条西家からしきりに催促されても、半分くらいはこれを翌年廻しにする。現に延徳三年十一月のごときは、右の中村が赤松に催されて、坂本の陣中に在り、そこへ三条西家の使者が出かけて催促したけれど、要領を得なかったのである。その後次第に納額が減少し、三百疋の年もあり五百疋の年もあった。この郷からの収入は三条西家の青女の所得になるので、あまりに少ない時には青女憤慨して受け取らずに突き返そうといきまいたこともあるが、代官の方から守護の配符数通を添えて、公用減少の理由を証明されると、どうすることもできなかった。かくて永正の[#「永正の」は底本では「永の正」]初年には遂に全く無音となり、同三年の春になってようやく前年分、しかも少分のみを納めたに過ぎなかったが、この時になると実隆もいよいよあきらめたと見え、「形のごとしといえども珍重す」と記して喜悦を表している。しかしてその翌年になると安宗左衛門という者が代官に補任され、大永四、五年ころの公用は、五貫三百文というのが定額と認められた。
 太田庄の所領もまた全部ではなくして三分の一であったろうと思われることは文亀三年正月二日の条に見えているが、とにかくこの庄からして三条西家に入るべき公用は年千疋であって、しかも他の諸庄に比べ、比較的正確に納付されたらしい。代官としては文明十六年の末に安丸なる者の没落したこと、その後任として太田垣与二なる者望んでこれに補せられたことが見えている。この庄からの収入をも、三条西家ではやはり青女どもの給分に宛てておったのであるが、これを受領するには直接ではなく、建仁寺の塔頭(たっちゅう)大昌院を経由した。故に滞りなく千疋納入になった時には、実隆大悦で、わざわざ大昌院まで出かけ一緡(いちびん)を礼に与えたくらいだ。明応五年に広岡入道道円という者をその代官職に補したところが、その年には恒例の千疋のほかに、補任料をも添えて大昌院経由で送って来たので、実隆はいよいよ喜んだ。享禄二年に土佐狩野の画家に扇十本を描かしめて、これを太田庄に遣わしたというのも多分かく都合のよい荘園であったからだろうと思われる。
 山城以西は上述のとおりであるが、以東の美濃・越前にも所領があった。越前の所領というは田野村にあるのであるが、その公用は千疋であったらしく、これも同じく滞納がちで、濃州の所領とともに文明十八年幕府に訴うるところがあったけれど、その効が見えず、ほとんど断念しておったのである。ところが明応元年になって宗祇の取次で千疋を送ってよこしたので、実隆はこれ「天の与えしところというべきものなり」とて大いに悦んだ。永正二年[#「永正二年」は底本では「正二永年」]に納付のあった節も同断である。翌三年にもまた千疋送られた。それといっしょに朝倉の妻からの進物として、美絹一疋をもらったと見えているから、この田野村の公用の納入は主として朝倉の尽力によったものらしい。そこで実隆はさらに一歩を進めて、永正七年の春にはその年の分を前借したらしいが、それにもかかわらずその年末に相変らず千疋到来した。それ故に実隆も「もっとも大いなる幸なり」と日記にしるしてある。
 美濃からの収入というは主なるはその国衙(こくが)料であって、これは直接に取り立てるのではなく、美濃の守護土岐氏の手を経由するものである。ただし土岐氏がみずからこれを取り扱うのではなく、その下に雑掌斎藤越後守というが見え、またその下に衣斐某という代官もあったらしい。ところがなかなかにこの国衙が納まらぬので文明十八年にこれを幕府に訴えたこと既述のとおりであるが、その時には有利な裁訴を得たけれど、土岐氏の方からして奉書遵行の請文を出さぬ。そこで例の中沢重種を催促にやった。この催促の使が頻繁に派遣されて、長享三年の春には一か月に三回くらいも出かけている。ただし濃州まで出張したのではなく、ちょうどこのころ近江征伐が再興されて、土岐も将軍の命に応じ江州阪本に出陣していたから、それへ談判に行ったのである。そもそも国衙公用の三条西家に納まらなかったこと、およそ三十年に及んだと、実隆の日記に見えるから、寛正年間からして不知行であったので、応仁の一乱のために無音になったのではない。約言すれば時効にかかるほど久しく放棄した財産なのである。ところが不思議にも催促の効能が見えて、長享三年の三月に三千疋だけ納入になった。実隆の喜悦一方ならず、「小分といえども先ず到来す、天の与えというべきか。千秋万歳祝著祝著」と記している。三千疋を小分というのは、今までの怠納を計算するとかなりの多額になっているからで、一か年の定額は千疋、盆暮に五百疋ずつというのがきまりであったらしい。長享三年の春からして、延徳三年の五月までおよそ二か年間に催促して取り得た総額は、二万疋以上に達し、延徳二年以前の分はこれで勘定がすんだとあるが、おそらくはあまりに古い未進をば、切りすててしまったのかも知れない。前にちょっと述べた通り長享二年からの催促には、ひととおりならぬ手数をつくしたもので、義尚将軍薨去につき土岐右京太夫が斎藤越後守を従えて四月入洛し、土岐は芬陀利花院(ふんだりげいん)に、斎藤越後守は東福寺に宿営すると、早速にまたたびたび催促の使者を差し向けた。延徳二年の秋には葉室家が義植将軍に昵近(じっきん)なのを利用し、葉室家に頼んで土岐への御奉書を出してもらった。翌年の秋に土岐がまた坂本の陣に戻ると、さらにそれへ使者を出した。葉室家からの手紙をも添えてやったこともある。しかして一方においてかく矢の催促をしたのみでなく、同時に種々と土岐や斎藤の機嫌をとった。三栖庄からして巨口細鱗の鱸がとれたとて進献になると、先ずその一尾を東福寺の斎藤のもとにやった。富松庄の代官が土産を持って来ると、すぐにその一部を土岐への音物(いんもつ)にした。斎藤にも柳樽(やなぎだる)に瓦器盛りの肴を添えて送ることもある。雉(きじ)に葱(ねぎ)を添えてやったこともある。鴈(がん)をやったこともある。太刀一腰の進物のこともあった。かかる関係からして延徳三年の二月末に、土岐が三条西家を尋ねたが、その時には主人の実隆が在宅であったけれど、折悪しく取次をすべき青侍がみな他行中であったので、土岐は来訪の旨を玄関でいい入れたまま、面会を得ずして帰ってしまった。美濃の土岐といえば、日本中に聞えた武家であるのに、実隆は取次の人がないというので、これに玄関払いを食わした。そのところちょっと当時の公卿が武家に対する態度が伺われる。しかしながら実隆ももちろん土岐を怒らすことをば好まなかったので、翌日すぐに使者を斎藤のもとへやって前日の土岐来訪の礼を述べ申しわけをした。そこで土岐も阪本に移ってから、三条西家に対しては疎略を存ぜぬ旨をいってよこしてある。
 かくのごとくして国衙の徴収を成し遂げたので、その収入によりて、延徳元年の拝賀の費用をも弁じ、亡父公保の月忌、例会は都合あしく無沙汰にしたことも多くあったのに、この年はこれを執行し、また大工二人を呼んで家屋の小修繕をもやれば、旧借をも少々返却し、中沢や老官女以下の男女の召使の給金をも下渡し得たのである。しかしながら一年平均一万疋といえば、当時において少なからぬ大金である。それだけの大金を催促と少しばかりの音物とだけで、しかも三十年間不知行の後に、徴収し得たとは考えられない。実は別にもっと有効な方法を講じたのである。それはほかでもない、前回にもちょっと述べた武人に利益分配することである。長享三年二月久しぶりで三千疋を受領した条に、南昌庵という者が坂本の扇屋で、これを斎藤から受け取ったが、「この儀については重々子細等あり、記すこと能わず」としてある。延徳二年七月の条には、「斎藤越後契約の間事いささかこれをつかわす」とあって、そのとき受け取った千六百疋の中から、何ほどかを与えている。これらの記事によって斎藤と三条西家との関係を伺い知ることができるので、かかる消息が通っておればこそ、斎藤越後守も時によっては、立替えをもなし、また用脚が到着するとわざわざ使者をもって受取人派遣の督促をなし、あるいはわざわざ太刀金二百疋の折紙持参でやって来て、実隆に謁することもあったのである。しかるに明応五年美濃の喜田城陥落し、土岐九郎は切腹、左京太夫は没落したので、この国衙料もまた不知行となること三十年ばかり、大永四年に至り持明院の周旋によりて、また納入さるることになった。
 美濃国からは、国衙公用のほかに、なお三条西家の収入があった。一に宝田寺役、これはだいたい西園寺家のもので、三分の一だけ実隆の方に入ったのである。第二は鷲巣の綿の年貢である。第三は苧(からむし)の関務である。この収入はもっぱら官女の給分等に充てたものらしく、年貢については文亀三年に三百疋の収入があったことを記しているのみで、定額がわからない。この苧の関務をばやはり斎藤氏の一族が取り扱っておったものと見えるが、美濃、坂本、京都の間をしばしば上下する金松四郎兵衛という者もまた周旋の労をとっておった。土岐の明応五年の没落を報じて来たのもまたこの男である。
 以上のほか三条西家の所領としては尾張に福永保があると記してあるけれど、つまびらかなことは知れない。また近江の阪田郡加田庄、これはもと正親町三条家のもので、転じて実隆の領有に帰したのであるが、岩山美濃守政秀なるもの半済を掠(かす)め取ったので、これに交渉を重ねたことが見える。年貢としては明応五年に飯米三俵の収入があったほかに何もわからぬ。
 最後に三条西家の収入として叙せねばならぬことは、苧の課役の一件である。三条西家が美濃の苧の関務を領し、丹波の苧代官とも関係があり、阪本からも苧の課役が運ばれ、また天王寺の苧商人からも収得するところあった。して見ると二条家と殿下渡領とでもって、菅笠の座からの運上を壟断(ろうだん)したように、三条西家は苧の売買からして課役をとる権利を有しておったので、必ずしもある一国に限った収入でなかったのかも知れぬ。しかして日記永正八年七月の条に天王寺商人からして、とても課役を納める力がないから、この上はじかに越後商人から徴収してもらいたいと申し出でているのによって考えると、その課役は便宜上買方なる阪本や天王寺の商人らからして納付の習慣となっていたのであろう。阪本からして取り立てた税については、阪本月輪院から送り来ったこともあり、また南林坊なるものが文明十六年堅田においてこれを沙汰したこともある。その時の年貢額は二百疋とあるが、これが平均額以上か以下かはわからぬ。明応五年正月からして阪本に苧課役を月俸にして沙汰をすることにしたと日記に見えているが、それ以前は年二回の徴収であったかも知れぬ。しかし苧の課役中で三条西家にとり最も収入の多かったのは、もちろん天王寺の座からして納入するものであった。天王寺の苧商人らは、越後からして荷物を取り寄せる時に船でもって若狭まで、次に若狭から近江を通さなければならなかった。ところが山門がその近江通過を要して課役でもかけたものと見え、苧商人から山門に対する苦情の出たことがある。また阪本の商人ら越後において青苧の盗買をし、課役を免(まぬか)れんとしたので、その荷物の差押えがあり、それには天王寺の商人の一人なる香取という者が関係しており、その香取が金策をして三条西家の屋根葺の費用を弁じたことが日記にある。かくのごとき越後産の苧が課役の基礎になっておったのであるからして、その越後の国が乱れると、天王寺商人らも身を全うして逃げ帰るが精一杯で、苧の買入れどころではなく、したがって苧の公事も納まらなくなる。時としては越後から積み出しが実際にあっても、抜荷の恐れのあることもあったが、幸いに着船地たる若州の守護は武田で、その被官人の粟屋という者は、実隆の妻の実家なる勧修寺尚顕の女を娶(めと)って、実隆とも別懇にしているので、苧船が着くと早速にこれを留め置いて三条西家に報告してくれた。苧船の隻数は時々不同であるが、日記に見えるところでは、十一隻というのが最も多い。苧の課役の納期は年二回で五月と十月とであったろうと思われるのは、五月に受領しているのが、日記にたびたび見えるし、また延徳三年十二月の条に、次の年から十月中に究済せぬ時には利息を取り立てると苧商人らに申渡した記事があるからだ。しかしながらこの威嚇は効をなさなかったらしい。貢税額はハッキリわからぬ。明応七年五月の春成公用は二千疋とあるが、五年十二月の条には千二百疋とある。商人香取のことは前にちょっと述べたが、そのほかには日記には北林弥六という者苧商人雑掌と記されてある。こちらが苧商人の代表者であったかも知れぬ。この北林もまた時々実隆のために借金の周旋をしてやっている。
 実隆は大略以上のごとき収入をもって暮らしを立てておったのであるが、しからばかかる楽屋を有する彼の公生活は如何であったろうか。次においてこれを述べることにしよう。
 上文に述べたような楽屋を有する三条西実隆に、もし衣冠束帯をさしたならばどんな者になるであろうか。これがこれからして予の描こうとするところである。
 そもそも実隆というのは、彼の最初からしての名ではない。第一につけられた名は、公世というのであって、その公世時代、すなわち長禄二年の末に、四歳にして従五位下に叙せられた。これがいわゆる叙爵なるものであって、その遅速がすなわち家柄の高下を示すところから、公家にとっては重大な事になっている。叙爵と同時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
 公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母を喪(うしな)ったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭(くろうどのかみ)に進み、位は正四位に陞(のぼ)り、文明九年二十三歳の時の暮にはようよう参議となり、公卿補任に載る身分となったので、実隆の公生活はまずこの辺からしてようやく多忙になった。
 公生活といえば大袈裟に聞えるが、実はさほど仕掛けの大きいものではない。政権が武家に移ったのは、昔の昔の話で、その武家すら政権というべきほどのものを持たなかった足利の中葉以後のことであるから、普通の意味で理解される政治とほとんど交渉を絶たれた当時の朝廷に、繁多の政務のあるべきはずがなく、したがって公卿の従事すべき公務とても、恒例臨時の節会(せちえ)を除けば、外は時々の除目(じもく)または御料所の年貢の催(うなが)し、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。しかしてその公家の数も明応二年のころ総計六十七家のみであったと『蔭涼軒日録』の六月五日の条に見えているによって考えると、それら公家衆が総出で行なう儀式とても、その綺羅びやかさに至っては、五百以上の参衆を数うること稀ならぬ当時の禅徒らの執行するものに比べて、規模のすこぶる小なるものといわなければならなかった。しかもそれらの儀式すら応仁の一乱以後は廃絶したものが多く、文明七年に至って始めて諸公事が再興されたのであるから、それまでの大内山のわびしさは、けだし想像に余ることであったろう。この文明七年の四方拝には、実隆はまた右近衛権中将でこれに勤仕したのであるが、その際の日記に、「一天昇平よろしく今春に在るものか」と認(したた)めているのを見ても、公卿一般に蘇生の思いのあったことが、ありありとわかる。その翌文明八年の正月には、実隆の地位一段と進み、四方拝には蔵人頭としてこれに勤仕したが、乱後のこととて調度の類もととのわなかったと見え、式場に建て廻わすべき四帖の屏風のうち、二帖だけは大宋屏風で、式場相応のものであるけれど、残り二帖に事を欠き、しかるべき屏風の見当らぬところから、平素風前に立て置ける屏風を持ち出して間に合わせた。ところが暁天の寒む空に御拝を行なわれつつあった最中、風が吹き出して御屏風が倒れそうになったので、列座の公卿らが式の間これを抑えて倒れぬようにしたとある。絶えず歓楽と悲哀との間を出入しつつあった当時において、四方拝の如法にしかも寒夜に行なわれたということは、さすがに神ながらのすがすがしさを失われざる朝廷の趣がしのばれて、一段の異彩を放っている。同じ正月朔日の日記に「鶏鳴き、紫階星落つ、朱欄曙色にして誠に新しきものなり」とあるが、これ叙し得て妙というべきで、この数句は『実隆公記』中の圧巻といって可なるもの、ほとんど『明月記』の塁を摩するものである。
 文明九年参議となった実隆は、それから一年余りで従三位に叙せられ、その後また一年あまりで権中納言に任じ、侍従をも兼ねた。しかしてその主として奉仕した職務は番直や儀式の外には書写であった。当時多少文筆の嗜(たしな)みある公卿の多くは、勅命によって書写もしくは校合をやったのであるが、中にも能筆でかつ文字の造詣の深かった実隆は、他の公卿よりもいっそう頻繁にこの御用を仰せつけられた。書写をしたのは物語類とおよびそれに類した絵巻の詞書であった。あるいは書写をせずに勅命によって朗読したこともある。その書写または朗読したものを列挙するのは、当時の好尚を示すに足ると思うから、今繁を厭(いと)わずしてこれを掲げると、先ず絵巻の種類では『山寺法師絵巻』、『本願寺曼陀羅縁起』、『石山寺縁起』、『誓願寺縁起』、『因幡堂縁起』、『みしまに絵詞』、『源夢絵詞』、『春日権現霊験絵詞』、『東大寺執金剛絵詞』、『石地蔵絵詞』、『翻邪帰正絵詞』、『石山絵詞』、『介錯仏子絵詞』、『三宝絵詞』、『弘法大師絵詞』、『北野縁起絵詞』等で、このほかに書いたでもなく、また読んだでもなく、勅命によって一見を仰せつけられたものは数々あった。歌道は飛鳥井家の門人であって出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)高かったから、歌集の書写等を下命になったこともしばしばで、単に勅命のみならず、宮家、武家等からも依頼があった。歌集でないものにも筆を染めた。今それらを列挙すると、『続後拾遺集』、『殷富門院大輔集』、『樗散集』、『道因法師集』、『寂然法師集』、『鎌倉大納言家五十番詩歌合』、『北院御室御集』、『伊勢大輔集』、『出羽弁集』、『康資王母集』、『四条宮主殿集』で、これらの多くは伝奏たる広橋家を通じての武家からの注文であった。『万葉集』第一巻をば功成ると伏見宮に進献した。『十問最秘抄』と『樵談治要』と『心経』とをば禁裏に進上した。中身をば染筆せず、表題のみを勅命で認めた分もあった。
 朝廷に類(たぐ)い少なき文学者であったところからして、御製の讃等を遊ばす時には、実隆は多く御談合を受けて意見を奏上した。また書籍に明るいところからして、御買上げの場合にはしばしば実隆の意見を徴せられた。かくして御手許に召置かれることになったものの中には、成化戊戌(つちのえいぬ)の年の述作にかかる『和唐詩』四冊、功徳院所蔵の『日本紀』の珍本および『園太暦』等がある。中にも『園太暦』のごときは、中院入道内府がかつて百二十三巻十四帙を千疋で買得して所持し来ったところ、同入道の歿後中院窮困したので、やむを得ず内幾冊かを沽却(こきゃく)しようとした。それを実隆が聞き込んで散佚(さんいつ)を惜しみ、禁裏に奏上して、八百疋で全部御買上げを願うことにした。史料の散佚を拒ぐことに尽力した実隆の功績は、後世史家の永く感謝すべきところであろう。
 実隆はかくして朝廷で調法がられたのみならず、武家からも重ぜられ、風流の嗜み深かった義尚将軍のごときは、文明十五年七月からして、隔日に室町殿へ出頭してくれるようにと頼んだ。禁裏の御用もたくさんあるので、実隆にとってはすこぶる難有(ありがた)迷惑に感じたのであるけれど、何にせよ武命で違背し難く、これを承諾した。その用向というのはほかでもない。源氏の打聞きであった。されば義尚の方でも実隆をば等閑(なおざり)ならずもてなし、禁裏当番かつは御連歌の御催しがあるので実隆にとりては是非祗候すべきはずの日にも、武家の招待のためにやむを得ず御断りを申し上げたこともある。京都での待遇の渥(あつ)かったのみならず、文明十九年の十一月に義尚はわざわざ江洲鉤りの里の陣からして吉見六郎を使として京都なる実隆のもとへやり、その詠んだ歌に雁一双を添えて贈り物にしたこともある。同年の十二月に答礼かたがた実隆が鉤りの里に伺候した時には、特別に引見した。しかし実隆がかく公武の間にひっぱり凧になって、用いられたので、おのずから朝廷と幕府との間に立ち、円滑に事を運ぶに与(あずか)って功を立てたこともある。たとえば延徳二年朝鮮の商人が来着して進物を献じた時に、朝廷のみで御受納なく、武家にも渡されるようにと進言し、また永正五年には実隆たびたびの口入れが功を奏し、武家からして御服用脚五千疋を献上し、その功によって禁裏から青□(せいふ)三百疋を賜わったこともある。義尚の時代のみならず、義植、義澄の代にわたって、実隆が幕府の眷顧(けんこ)を得たのも主として文筆の功徳であって、文亀三年に実隆新作の能「狭衣」の曲が室町殿において演ぜられ、実隆がわざわざ見物に招かれたなども、一佳話として伝うる価値があろう。ただし実隆といえども能の作者としては不適材であったのか、この「狭衣」の曲のほかには「閔子蹇(びんしけん)」というのを作ったが、両曲ともに今は廃曲となっているとのことである。
 文筆に関したこと以外で実隆の干与(かんよ)した職務といえば、御料所たる荘園の未進年貢の催促、勅額勅願所に関する出願の取次等もあった。神社仏閣等に関する取次は、当時の公卿の通有なことであって、その周旋料は彼らにとりて財源の一つであったのである。実隆のごときはむしろ稀にかかることに関係した方であるけれども、それでも日記の所々に散見しておって、中にも大内家の依頼した氷上山勅額勅願所のことにつき、斡旋した時などは、その礼として、大内政弘から、唐紗の浅黄文雲のもの一段、同じく無文白地のもの一段と、それに堆紅(たいく)の盆とをもらい、実隆にとりてはよほど珍しかったと見えて、浅黄紗の方はさっそく物尺で計ったらしく、二丈一尺七寸余あったと認めている。大内家との親しみはそれのみでなく、延徳元年実隆が権大納言になった時には、政弘から昇進の祝として太刀用脚等の贈遺があり、実隆の方でもまた政弘の所望に応じて『新古今和歌集』を書写して遣わした。大内家は外国貿易に従事し、西国でも有数な富裕の大名であり、その富むに従いてしきりに京都風の文化を模倣し、京都との連絡を濃くしようとしたのであるからして、大内家にとりては、実隆のごときは公卿中でも特に親しみを厚くしたい人柄であり、実隆の方でもまたこれによっていくらか家計を補ったことであったろう。永正五年大内義興が義植将軍を奉じて入京し、四位に叙せられた時には、礼のために太刀一腰と二千疋の折紙を持って、わざわざ実隆の邸を訪問した。この時は実隆すでに内大臣を辞した後であるけれども、やはり口入れの労をとったと見える。二千疋の臨時の収入は、意外に感ぜられたと見えて、日記十月一日の条に「いささか屋をうるおす云々」と記している。この大内との縁からして、彼家の重臣である杉二郎左衛門の所望に応じ、三十六歌仙の歌を色紙に認めたり、同じく重臣の陶三郎から、筑前名産の海児(うに)二桶をもらったなども、またこのころのことであった。
 次に実隆が旅行した話に移ろう。旅行は必ずしも公務ではないが、生活としてはよそ行きの部に属する。前回にもしばしば述べたとおり当時の公卿はしばしば遍歴をやったもので、その主なる動機は生活の困難から来たのであるが、実隆は台所向きずいぶん困難であって、殊に文明十九年ごろは「当年家務の儀毎事期に合わず」と日記に書いているほど難渋したのであったけれど、しかしながら遍歴をしなければ立ち行かぬほどの貧乏でもなかったのであるから、この種の旅行をばやらなかった。故に彼の旅行の範囲は極めて狭いものであった。けれどもさすがは実隆だけあって、その旅行の記事がなかなかおもしろい。奈良に最初行ったのが文明十年で、春三月花のまさに散らんとするころであった。落花を踏み朧月(おぼろづき)に乗じて所々を巡礼したが、春日(かすが)山の風景、三笠の杜(もり)の夜色、感慨に堪えざるものがあったといっている。二度目に出ている奈良旅行の記事は、実隆の長子で東大寺公兼僧正の弟子となり、西室公瑜と称した人が、京都から奈良に戻る時に同道した際のことで、明応五年閏二月中旬、花の早きは散り遅きは未だ開かぬころであった。宇治に近く三条西家の荘園があるので、奈良行きの時にはそこで中休をするの例であり、この時も南都からの迎馬に宇治で乗りかえ、黄昏奈良に着したのであるが、今見てすら少なからず感興をひく春日社頭の燈籠が、すでに掲焉(けちえん)とともっており、社中の花は盛りで、三笠山の月が光を添えた。この行はもと単に奈良のみでなく、大和めぐりを思い立ったのであるから、奈良に数日滞在ののち芳野に向い、道を八木市場から壺坂にとった。夕陽の時分芳野に着いて見ると、まだ花は盛りで腋(わき)の坊に一泊し、翌日は蔵王堂からそれぞれと見物し、関屋の花を眺めて橘寺に出で、夜に入り松明(たいまつ)の出迎えを受けて安部寺に一宿し、長谷、三輪、石上を経て奈良に戻った。その後明応七年二月にもまた春日社参をやったが、この時は前駈(ぜんく)の馬がなかったので石原庄でもって借り入れたとある。永正二年には春日祭上卿をも勤めた。高野山の参詣に至っては、その記事が『群書類従』所載の「高野参詣日記」につまびらかであるからこれを省くが、その途中堺・住吉等を経由したことはもちろんである。奈良・高野の外に実隆の旅行区域といえば江州くらいのものであった。元三大師に参詣の序に石山寺まで趣いたこともある。鉤りの里に将軍義尚の御機嫌伺いに行ったことは前に述べた。このころは京都の兵乱を避けて大津・坂本に居を占めた公卿もあったし、また京都にすら多く見出し難い普請(ふしん)の立派な酒屋もあって、京都から遊士の出かけること頻繁であったので、実隆も江州には時々出向いた。
 実隆の官歴は文明五年以来とどこおりなく進んだ。まる二年と間を隔つることなしに、官もしくは位が高まった。しかるに文明十二年の三月に、権中納言になり、翌月侍従兼務となってからというものは、四か年ほど何の昇進もない。以前は人を超えて進んだけれど、今度はかえりて人にこさるるようになった。実隆も少し気が気でない。文明十六年の正月朔日に、「今夜節分の間、『般若心経』三百六十余巻これを誦す。丹心の祈りを凝らす」、とあるは、その辺の消息を語るものであろう。しかるにその年も何の沙汰とてなく、十七年の二月に至りてようやく正三位となった。官は依然として動かない。長享三年二月に至ってようやく権大納言となったが、その延引したのにすこぶる不平であった。昇進を賀する客が済々焉(せいせいえん)とやって来るけれども、嬉しくもないと日記に書いている。しかしながら文明十二年以来彼を超えて進んだのは、みな彼よりも年上の者ばかりで、権大納言になった時には、また上席の者六人を飛び越しての昇進であるから、彼にとりてはめでたいという方が至当だろう。
 実隆の立身は実隆の思い通りに行かないとしても、はなはだしく坎□(かんか)不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺(しせき)する機会が多かった。これは彼が侍従の職にほとんど絶え間なくおったからで、しかしてその侍従として久しく召仕われたのも、畢竟ずるに彼の文才抜群の徳のいたすところであったろうと想像される。さてこの文才の秀でた実隆が、侍従として朝夕奉仕し、たんに表立った儀式に臨んだのみならず、内宴その他の宮中燕安の席にも陪し、その光景を日記に書きしるしておいたのが、これまた後世の人に教うるに、当時の九重の奥にも、いかに下ざまに流行した趣味好尚が波及しておったかをもってする貴重なる史料で、換言すれば日本の文化史に、大なる貢献をなしているのである。いま読者の参考に資するために、実隆が陪観したという遊芸の重(おも)なるものを挙ぐれば、京都のものでは、七条辺に住居した西川太夫一座の猿楽で、中にも児舞は最も興がられた。大黒衆の拍子というのもあった。観世太夫の弟で、遁世して宗観と称した者がまかり出でて、尺八、音曲、太鼓等を御聴に達したこともある。旧遊女で後尼となり真禅と号した女が、曲舞を演じたこともある。幸若(こうわか)の流を汲む越前の芸人が上洛して、二人舞というを御覧に入れたこともある。また昔からありきたった傀儡子(くぐつし)が、宮中でもって輪鼓、手鞠等を興行したこともある。曲舞(くせまい)の児の上手を叡感あらせられて、扇を賜わった時に、実隆が仰せによって古歌を認めて与えたこともある。これによって見ると、能狂言の少ない点だけが朝廷の好尚の武家と異るところで、その他にいたってはほとんど差別のなかったことがわかるだろう。日記文亀元年四月七日の条に、内裏の女中衆が今熊野の観進猿楽を見物に出かけたことを叙して、故大納言典侍の在世中は、後宮の取締りも厳重であったが、その後自由になり過ぎたと記しているけれど、外出はできなくとも、宮中にも相応の慰めがあったのである。
 実隆が侍従として朝夕に禁闕に出入し、ますます眷顧に浴することが深くなるにつれて、時々の賜わり物も、他にすぐれて多かったようである。毎年灰方の御料所からして年貢米が納まると一俵を実隆に賜わることがほとんど恒例のようになっており、実隆の方からは、年々の嘉例として六月に瓜を進上した。この瓜はその領地なる御牧からして持参するのであるが、延徳三年のごときは、この美豆御牧が水損で瓜もとれぬ。しかし嘉例である瓜を進上せぬも残念であるというので、人を京都中に走らし、瓜を求め出して献上した。ただしいつもならば親戚知者にも配るのであるけれど、この年はそれだけは見合わせたと日記に見えている。実隆はまた庭に葡萄(ぶどう)を植えたとみえて、延徳元年の八月にこれを始めて禁裏に献上しているが、ちょっとわからぬのは、庭の榎の樹を斫(き)って薪にした時に、三把を禁裏に進上していることである。薪三把の献上はいかにもおかしいが、これをも差し上げるくらいならば、けだしほかにもいろいろなものを献上しただろうと思われる。
 かくのごとくしていやが上に濃く成り行く宮廷と実隆との間は、一は実隆の姻戚関係にも基いているのである。実隆の室家は前にも述べたとおり、勧修寺贈左大臣教秀の三女である。さればこの教秀が伝奏を勤めておったということが、実隆と幕府とを結び付ける有力な原因をもなしたのかも知れぬ。しかるにこの教秀は役儀がら幕府に接近したのみではなく、それよりも密接な関係を皇室に結んでおったのである。というのはこの教秀の二女に房子というのがあって、これは後土御門院の後宮に召し出された。いわゆる三位局(みのつぼね)というのがすなわちこの房子で、大慈院宮と呼ばれた皇子、安禅寺宮と称せられた皇女、共にその出である。この三位局の誘引で、三条西家の奥向きの人々が、賀茂の山に躑躅(つつじ)歴覧のため出かけたことなどが実隆の日記に見えている。三位局は実隆の室の姉に当るのであるが、外にまだ一人の妹がある。これは藤子というので、後柏原天皇の後宮に召され、後奈良天皇および尼宮大聖寺殿の御生母であって、准三后、豊楽門院というのがすなわちそれだ。かくのごとく実隆がその室家の縁からして、二代の天皇と特別の関係があったのであるからして、したがって侍従をも久しく勤めることになったのであろう。実隆がその女を九条家へ嫁し得たのも、あるいはかかる事情が助けたのではあるまいか。
 三条西家は公卿の中で、決して低い階級に属すべきものではなかったけれど、さりとて九条家と並ぶべき家ではない。しからば実隆の娘保子が九条尚経に嫁したのは、異数の例であるかというに、それはそうでなく、九条家の家長または家長たるべき人の正妻は、多くこの程度の家から嫁入っている。されば三条西家から娶(めと)ったとて、九条家の格例を破ったのではないが、嫁にやった三条西家にとりては名誉のことだ。しかるに保子が尚経に嫁したのは明応四年(一四九五年)のことであるに、実隆の方から遠慮してほとんど九条家に出入しなかった。これは実に九条家に対する遠慮もあるほかに、別の事情があったのだ。というのは保子の嫁入した翌年の正月早々に、九条家においてその家礼すなわち執事の役をしておった唐橋大内記(だいないき)在数が殺害された事件があったからであろう。そもそも二重の服従関係ということは階級制度の行なわれた時代に往々あることで西洋にも珍しからぬが日本にも多々あった。大小を論せず、諸侯たる資格においては同等でありながら、小諸侯は大諸侯に対してほとんど主従のような関係を結ぶなどはその一例である。徳川時代には幕府の勢力はなはだ旺盛で、諸侯の間にかかる関係の生ずるのを禁遏(きんあつ)しておったけれど、それでもこの種のことが絶無であったとはいえない。また各藩の士族はその藩主なる諸侯の臣下たるにおいて一様でありながら、低い階級の士族は高い階級の士族に依り、その出入りとなり、役人をもやった。公卿においてもやはり同様で、身分の高くない公卿は、五摂家などに出入りしてその家職となり執事となった。一方においては低いながらも朝廷の官職を有する一廉の公卿であるかと思うと、それと同時に他の朝臣の使用人となっておったのである。しかしてこれは徳川時代に限ったことではなく、それ以前においてもそのとおりであった。唐橋在数は大内記という官を帯びた朝臣で、同時に九条家の執事であったのである。その執事としての勤めぶりが毎事緩怠至極で不義の仔細連続したという理由で、准后すなわち九条政基は目通りを止めておいた。ところが、七草の日に在数は無理に九条家に出頭したので、九条政基ならびにその子すなわち実隆の女婿(じょせい)たる尚経は、この在数を斫(き)り殺した。二人とも下手人であるともいい、あるいは父なる准后一人が下手人だとも、または尚経一人の所為(しょい)だというが、その辺はたしかでない。殺した方に理があるか、殺された方に理があるかは、一方の死んでしまった後に、分明にし得べきことでない。九条家では不届な家職を手打ちにしたというのであるけれど、それは私事で、朝臣たる大内記唐橋在数を、同じく朝臣たる九条家父子が殺害したことにもなる。おまけに在数は当時あたかも菅家一門の公卿の長者であった。そこで菅家の連中が承知せぬ。一族の協議会を開いて申状を認め、公然と出訴におよぶことにした。一族中には九条家の威勢に畏れて首鼠(しゅそ)両端の態度に出でた者もあったけれど、多数はこれに連署した。菅家以外の公卿も多くは九条家に同情しなかった。この刃傷沙汰は朝廷としても捨て置かるるわけには行かなかったので、遂に子の尚経の方に責を帰し、その出仕を止められた。そうなると世間の手前もあり、舅たる実隆も公然九条家に出入することもできず、そのために遂に四年間も無沙汰をしたのである。この無沙汰中に娘保子は男子を産んだのであるけれど、実隆は初孫の顔を見る機会を得なかった。ところが明応七年十二月の十七日に、尚経の勅勘ゆるされて出仕することになったので、実隆も大手を振って九条家を尋ね得ることとなり、その翌日早速訪問に及んだ。婿の出仕祝と無沙汰の詫(わび)とを兼ねたのであるが、ついでに保子が生んだ九条家若公のいたいけな姿を見、その容儀神妙なるを喜び、馳走を受け、前後を忘るるほどに沈酔して帰宅したとある。ことわっておくが、この時の若公というのは、後に関白になった九条植通ではない。植通の前に生れて出家し、別当大僧正経尋といった人である。
 かかる間に実隆は明応の二年に従二位に叙せられ、それからして九年を経て文亀二年に正二位に叙せられた。それからして永正三年に至るまでに、官位共に変動がない。越えられて都合のわるい人に越えられたのでもなく、憤懣するほどの理由とてはないのであるけれども、彼の権大納言たること、長享三年以来足かけすでに十八年の久しきに及んだ。ずいぶん退屈しないでもない。父公保も内大臣までは昇進したから、自分もそれまでは進みたい。今までは闕位がなかったからいたし方もないが、前年の二月に左大臣公興がやめたので、くり合わせのやりようによっては、内大臣に空位を作ることも不可能でなくなった。のみならず舅教秀の歿した明応五年の九月と十月と、二度に吐血し、七年の十月にまた吐血をしてから、とにかく体がすぐれない。一方において子の公条は、年齢も二十に達し、順序よく昇進を重ねて来ている。それにはもはや心配がない。そこでこの辺でもって引退しようと決心したが、さていよいよ引くとすると、花を飾って引きたくなる。
 ここでちょっと実隆の相続人たる公条のことについて説明しよう。公条実は実隆の嫡子ではない。文明十六年に生まれ、公条よりも三歳長じている兄があった。しかるに実隆はこれに家督を相続させない。その理由は、実隆みずからその日記において語るところによると、抜群の器量でもない子は、強(しい)て相続させたところで、笑を傍倫に取るのみで、その益ないことであるから、息子が何人生れようと、皆ことごとく釈門に入れようと、多年思慮しておったのである。しかしながらまたよく考えてみると、近ごろ世間には、数年断絶したことの知れている家を、縁(ゆか)りのない他氏他門から、勝手に相続することもある。いま自分が名を重んじて跡を断ったからとて、後になってどんな者に相続されるかも知れない。また自分の子を釈門に入れたからとて、それで永く家が断えるともきまらぬというのは、近ごろ出家した者の還俗(げんぞく)首飾する例が多いのでもわかる。なまじいなことをして、狗(く)をもって貂(ちょう)に続き、竹を栽(き)って木を修むるような仕儀に立ち至らしむるよりは、いっそのこと己の子をもって、相続せしむる方がよいとのことだ。実隆が己の子に跡目をつがす決心をしたことは、それで合点が行くけれど、長子を措(お)いて次男を相続人に定めたことは、これだけでは分明でない。相続人の定まった長享二年には、長子五歳次男二歳であった。長子の方が格別の器量でないという見当がほぼついたので、それよりは未知数の次男にと決したのか、さりとも他の理由あってのことか。『実隆公記』には、長享二年三月第二子公条叙位の条に、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり、次男相続また嘉模(かぼ)なり」とある。叙爵の早い方がめでたいには相違ないけれど、「二歳の叙爵は数代の嘉例なり」とあるのは解し難い。現に実隆当人は四歳で叙爵している。もし自分を嘉例の中にかぞえぬというならば、「次男相続また嘉模」の方が了解し難い。実隆は次男で、父公保の跡を相続したのであるけれど、その公保に至りては、正親町三条家の次男で、三条西の跡を養子として相続したのである。要するにこれぞ十分な理由というべきものが知られてない。何か深い事情があるのかもわからぬ。長子誕生の初め、春日大明神に奉ることを祈念したというからには、あるいはそのためかとも思う。
 理由はともかく第二子公条は相続人と定まり、その兄は出家することになったが、場所は春日大明神の管領する大和国内でなければならぬというので、最初は興福寺を望んだが、都合がつかなかったので、東大寺の勧学院に入れることにし西室と称した。入室以来いっこう学問に身が入らず、実隆も心配しておったが十三歳のとき文殊講をやり、その所作神妙で諸人感嘆したというので、先ず大いに安心した。その得度(とくど)して名を公瑜と号することになったのは、翌々明応七年十五歳の時である。この間に公条の方は次第に昇進し、明応二年には美作権介(みまさかごんのすけ)を兼ね、三年には従五位上、六年には十一歳で元服、右近衛権少将に任ぜられ、七年の十二月ちょうど兄の得度する少し前に正五位下に叙せられた。それからして父実隆の致仕(ちし)した永正三年までに、位は正四位上まで、官は右近衛権中将を経て蔵人頭となった。いま一息で公卿補任中の人となるのである。
 諸種の事態が輻湊(ふくそう)して実隆の辞意を決せしめた。日記永正三年正月二十七日の条に、「孟光いささか述懐の儀あり、不可説の事なり」とある。実隆が夫人から何事を述懐されたのかは記してないから、夫人が引退を勧めたのか、または抑止したのか、その辺は知り難い。とにかく実隆は内大臣にしてもらいたいと歎願に及んだ。一旦大臣になりさえすれば、直ぐに引退するということを、最初からして条件にして願っている。そこで朝廷では空位である左大臣へ、右大臣の尚経を転じさせ、その後に内大臣の公藤を移し、もって実隆を内大臣に任命した。任ぜられたのは二月の五日で、在職わずかに二か月、任大臣の拝賀をも行なわないで四月五日に致仕した。時に年五十四、実隆が引退すると、その翌年に公条が参議になり、従三位に叙せられた。実隆の希望どおり、相続がめでたく行なわれたのである。
 致仕後の実隆は望みを官場に絶ったから風流三昧(さんまい)に日を暮らした。永正十二年に従一位に叙せらるべき勅定があったけれども、固く辞し奉り、翌永正十三年春の花が散ると間もなく、四月の十三日というに、照雲上人を戒師と頼んで盧山寺において落飾し、法名堯空、逍遙院と号した。後世永く歌人の間に尊ばれた逍遙院内府の名は、これからして起こったのである。実隆は致仕以前からしばしば異様の服装で外出をしたもので、嵯峨の先塋(せいえい)に詣ずる時などは、三衣種子袈裟をもって行粧となしたとある。いかなる服装かまだ調べては見ないが、「十徳の体」と自分で日記に認(したた)めているから、大抵は想像される。実隆はこれ家計不如意のためにやむを得ずやった服装だといっているけれど、一には彼の好みでもあったらしい。日記永正五年六月十八日の条には、夜一条観音に参詣するのに、山臥(やまぶし)の体をしたとある。されば落飾後、平素黒衣を著し律を持したというのも、さもあるべきことで、これからして天文六年後の物故するまで全く遁世人の生活をなし遂げたのである。
 普通尋常の一公卿を中心人物としての記述ならば、予が今まで説いただけでも、それすらすでに大袈裟に過ぎるので、その上にさらに呶々(どど)弁を弄する必要はないのであるが、事実上の主人公を三条西実隆にとった本篇においては、なお一回読者の忍耐を濫用しなければならぬ廉(かど)がある。それはほかでもない文筆殊に歌道の方面からしての宗祇およびその他との関係である。
 当代能書の第一人として、禁裏からしばしば書写の命を受けたことは、前回にすでに述べたごとくであるが、彼の名の都はおろか、津々浦々のはてまでも永く記憶されたのは、一つにはその水茎の跡のかおりであって見れば、煩をいとわず今少しく彼の書について補いしるさんこと、必ずしも蛇足ではあるまい。実隆の入木道の妙を得、在来の御家流に唐様を加味した霊腕を揮ったことは、その筆に成れりという『孝経』によっても徴し得らるることであるが、彼が何人からしてこれを習い伝えたかは、予の不敏いまだこれを明かにしない。天稟にもとづいたことでもあろうが、必ずやしかるべき師もあったろう。あるいはまた古法帖などからして会得したところもあるかも知れぬ。とにかくに彼の能書であったことは、論をもちいぬのであるから、禁裏や宮方や武家の御用のほかに、随分と方々からの依頼があった。それにつれて[#「それにつれて」は底本では「それにつて」]筆屋や経師屋(きょうじや)の出入りも頻繁であった。経師では良椿法橋(ほっきょう)というのが、もっぱら用を弁じたが、筆屋の方の名はわからぬ。ただし筆屋というのは、今日のいわゆる筆商ではない。諸所の注文により、先方へ出張して筆の毛を結ぶ職工である。彼らのある者は、たんに京都の得意を廻わって、筆を結びあるくのみならず、また田舎の巡業をしたものらしい。現に実隆の邸に出入した筆工のごとき、高野山の学僧だちをも得意としておったことは、実隆の日記にも見えている。筆工を喚んで筆を結ばす場合には、軸をばいずれから供給したか判明しないが、結ぶべき毛をば頼んだ方から差し出す。毛に狸毛と兎毛とあったことは今日と同様で、実隆に贈り物をする人の中には、気転をきかして兎毛を持ち込んだ者もあった。結び賃は、ハッキリとは知れぬけれど、享禄五年に実隆からして十六本の結び賃を筆工に払ったことがある。もちろん筆の種類によっても差等のあったことであろう。ただし当時における筆の供給が、一般にかくのごとき出張製造の方法によったかどうかは疑問である。おそらくは書道に心掛けのあって、特に筆に関して選り好みをし、かつ多く筆を需要した人に限って、かかる方法に出でたので、大方の人々は、筆屋の仕出し物で用を弁じておったこと、今日の需要者のごとくであったのかとも思われる。依頼によって実隆が揮毫する場合に、料紙をば多く依頼者の方からして差し出すこと、今日見る例と変わりがなかったらしい。依頼を受けた書の種類は一様ではなく、『源氏』を始めとして長編の物語類、歌集類、諸種の絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等で、中にも色紙と扇面との最も多かったのは当然のことだ。しかして実隆の書いた色紙や扇面は、彼の存在中すでに骨董品として珍重され、贈答品として流行した。あるいは売買の目的物となっておったのかも知れない。以上のほかに実隆は禁裏の仰せによって浄土双六(すごろく)の文字などを認めたこともあり、また人のために将棋の駒をも書いた。将棋の駒に書くということが、いかにも書家の体面に関するとの懸念があったのか、明応五年に宗聞法師から頼まれた時には、「予は不相応にして、いまだ書を物に試みざるなり、叶うべからず」といって、これを断わったのであるけれど、その翌年姉小路中将から懇望せられ、再三堪えざる旨を述べて辞退したがきかれず、やむを得ず書いてやった。すると続いて伊勢備中守からしての所望があった。一旦筆を執った上は断わることもできず、直ぐさまこれをも書いてやった。それからして同様の注文が追々とあったらしく、書いてやった先きの人に招かれて、己の書いた将棋を翫び、大いに興を催したことなどが彼の日記に見えている。
 他人に書いてつかわしたばかりでなく、実隆はまた自分のためにも書写した。心願あって書写したという『心経』や『孝経』のほかに、自分用の『源氏物語』をも写した。五十四帖の功を竣(おわ)ったのは、文明十七年の閏三月で、これをばよほど大切にしたものと見え、延徳二年の十月には、わざわざ大工を喚(よ)んでこれを納るべき櫃を造らしめた。題銘をば後成恩寺禅閤兼良に書いてもらったのである。しかるに永正三年八月、甲斐国の某から懇望され、黄金五枚千五百疋でこれを割愛した。その後享禄二年の八月に、肥後の鹿子木三河守親貞から切に請われて、また一部を割愛した。その代価は先のよりは高く二千疋である。惜しいことではあるけれど、やむを得ず売り払ったとあるからには、活計の都合によったものであろう。享禄二年は永正三年を隔つること二十三年であるから、二度目に売った源氏というのは、おそらくこの間に新たに書写したのであろう。ただし永正三年に売った時には、それと入れかわりに、破本の『源氏』を四百五十疋で買い入れたとあるからして、あるいはその不足分七冊のみを実隆がみずから補写し、それを享禄二年に売ったのかも知れぬ。二度目に売った時は、実隆の齢すでに七十五で、またと五十四帖を写すこともできず、その残り惜しさは推し測られる。
 実隆の書はかくまでに広く上下に持てはやされたが、しかしながらその持てはやされたのは、たんに彼が上手な書家であったためばかりではない。彼の文藻があずかって大いに力あるのだ。彼は歌人であり、連歌師であるのみならずまた漢詩をもよくした。作者として抜群なのみでなく、『万葉』『古今』等の古典的歌集はもちろんのこと、そのほかに物語類、歴史類にもかなり通暁し、また漢籍の渉猟(しょうりょう)においても浅からざるものがあった。みだりに美辞麗句を連ぬるのみでなく、彼の思想の根柢には、浄土教より得たるところの遒麗と静寂とを兼ねたものがあった。慧信の『往生要集』、覚鑁の『孝養抄』、さては隆堯の『念仏奇特条々』等、念仏に関した書で彼が眼をさらした数も少なくはなかったが、甚深の感化を受けたのは、そのころ高徳の聖(ひじり)として朝野に深く渇仰された西教寺の真盛上人であった。実隆は宮中やその他において、上人の講釈説教等を聴聞したのみならず延徳三年の春三月の十五日には、わざわざ江州の西教寺に詣でて、上人から十念を授けられ、その本尊慈覚大師の作と称する阿弥陀如来を拝して、浅からぬ随喜結縁(けちえん)の思いをなしたとある。かく上人との昵(なじ)みの深くなるにつれて、上人の来訪もあり、『円頓戒私記』の書写を頼まるることになったが、これも往生の縁というので、実隆は子細なく領状し、わずか二日間にその功を終えた。真盛上人との関係以外に、浄土宗信者としての実隆は、旭蓮社やその他の僧とも交りがあった。日記文明八年六月二十七日の条には、その日から日課として六万反の念仏を唱うることにしたとある。この日課はいつまで持続されたのか、その辺は知り難いけれど、とにかく彼は熱心な念仏の帰依者であったには相違ない、平素殺生戒を守ろうと念篤かったものと見え、明応六年の五月、薬用のために、庭上で土龍(もぐら)を捉えてこれを殺した時、やむを得ぬとはいえ、慚愧の念に堪えないと記している。明応六年といえば彼の遯世(とんせい)に先だつこと二十年である。しかるに当時すでにかくのごとくであったとすれば彼の遯世の決して世間一様のものでないことが知らるべきで、阿弥陀の尊像はいうまでもなく、土佐光茂に命じて画かしめた法然上人、善恵上人の両肖像は、彼の旦暮祈念をこらした対象であった。されば絵師に註文するにあたっても、用意なかなか周到なもので、善恵上人の肖像には黄色の珠数を添えるようにとの注意をすら、ことさらに与えている。
 予がかく浄土教と実隆との関係を縷説するのは、これが大いに実隆の文藻に影響を有するからなので、いたずらに言を費すのではない。その昔アッシシのフランシスの信仰が、トルヴァドールと密接なる関係を有したのみならず、この聖者の感化が、当時のイタリア美術に少なからぬ影響を与えたことは、史家の明かに認むるところだ。フランシスのキリスト教におけるは、ちょうど法然等の仏教におけるのと酷似している。しかしてわが国の浄土宗は、もし美術史家のいうごとくに日本美術に影響を与えたものとすれば、美術以外文学の方面にも、相当な影響のあって然るべきはずで、実隆の文学のごときはたしかにその実例を示すものであろう。予は単に実隆が連歌、または連歌気分の和歌を善くしたから、しかいうのではない。連歌にも和歌にも種々の色彩のものがある。禅宗的のものもあれば、浄土宗風のものもある。そもそも足利時代を風靡した宗教は、浄土宗よりもむしろ禅宗ではあろうけれど、実隆において浄土宗は全く無勢力ではなかった。狩野派の絵画と禅味との関係も、しばしば論ぜられることではあるが、絵画は当時まだ狩野派の独占に帰しおわったのでなくして、土佐派というものになおかなりの余勢があった。一概に評し去るのは如何(いかが)わしいけれど、もし狩野派の絵画をもって、禅的気分に富んだものとなし得べくんば、足利時代の土佐派をもって浄土気分のあるものといい得るかも知れぬ。少なくも浄土教が、狩野派よりも土佐派の方に相応(ふさ)わしいとはいい得るだろう。わが国の肖像画というものは、足利時代に始まったのではないけれど、主としてこの時代から流行したもので、土佐派でもこれを画けば、狩野派でもこれを画いた。
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