東山時代における一縉紳の生活
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著者名:原勝郎 

三条の大橋からして御所の燈火が見えたという話は、人のよく知っていることであるが、これは必ずしも御所の大破損のために燈火の洩れたのと断言ができない。兵乱のために京中の人屋一時ことごとく曠野と化した時、御所の東門からして鴨川原まで一望し得るようになり、したがってその荒野原で噛み合いをした犬どもが禁裏の中に紛れ込んで、しばしば触穢(しょくえ)の原因をなしたということがあるから、多分同じころ一時の現象として、御所の燈火も大橋から見えたのだろうとも思われる。要するに応仁乱後の京都は乱前よりもいっそうさびれ、公家の生活は一段と苦しくなったであろうけれど、後世からして史家が想像したほどではなく、いろいろな工面をしつつどうにか過ごしたものらしい。下級の貧困なる朝臣が朝飯からして他人の家で認めなければ糊口が出来なかったもののあることは、日記などに見えているけれど、下級の朝臣の困窮は藤原時代からのことであって、足利時代において始めて見る現象でない。また足利時代の京都は、無警察であるとはいうものの、また公卿の家も時々賊に襲われたとはいうものの、生命の安全からいえば、公卿の家ははるかに武家よりも安全で、深く武家と結托し、戦陣まで同道するというような連中のほかには、生命の危険というものは極めて稀であった。されば公卿でも、中以上の連中になると、概して応仁後においても気楽な暮らしをなしつつあったのである。しからばその中で三条西実隆はいかなる生活を送ったか。さらに回を重ねてこれを説こう。
 先ず実隆の住宅からして説き起そう。『実隆公記』の明応七年五月十八日の条に、中山家の雑色(ぞうしき)が黄昏(たそがれ)ごろ武者小路において、何者のためにか疵を蒙ったことを記して、その割註に「この亭垣を築く前」としてあるところを見ると、この時分の三条西家は武者小路に在ったらしい。しかも北側ではなかったろうかと思われる。というのは三条西家の東隣には正親町三条家がおったらしく、実隆のみならず家族までもそれと往来しているが、その東隣の宅地の巽(たつみ)の角に、諏訪信濃守の被官人某が、明応七年に地借りをして、小屋を造ったということがある。さてその小屋なるものは地内でもたいてい武者小路の往来に近く建てられたものと想像し得べく、しかしてそれが巽の角であって見れば、これを街路の南側とは見なし難い。ところが文亀二年になると、西面の築地新造の際西の方があき地であったので、二間ほどそのあき地へ押し出したことが日記に見え、また南の方は不遠院宮と地続きであったがその不遠院宮でも同様に西の方へはみ出されたと日記に記されてある。しかしてそれがかつて応永の末日野資教の住した地だといっている。さすればこれは武者小路の宅ではない。実隆の家は明応九年六月下旬の火災に類焼したのであるから、おそらくはこれが移転の原因となったものであろうと思われる。さてその引移り以前の武者小路の住宅はいかなるものであったろうかというに、前に述べたとおり、宅地そのものは南向きで、北は今出川の通りまでぬけておった。一般の公卿の邸宅の例に洩れずして、往来に面した方は土塀すなわち築地をもって囲われ、その築地の外側には堀を穿ってあったのであるが、これが土砂のために浅くなるので、時々浚(さら)いをしたらしい。深くしておかなければならぬのは、盗賊の用心のためである。しかしながらこの外堀のみでは、安心ができぬによって、さらに釘貫をつけそのうえ土塀の内側にいま一条の堀を廻してあった。されば南門からして入っても、先ず一の橋を渡らなければならない。この内堀は東西南北の四面に在ったらしいが、東南の角だけは、後に埋め立てられて築山になった。これは多分物見に便するためであったろう。家屋は宅地の中心より少々西に偏しており、庭はその東方にあったらしい。母屋の西の方には、独立の小家屋があったが、これは三条西家で久しく召使った老官女の扣家(ひかえや)であって、明応九年の類焼の前年に取り毀ちになった。その理由は『実隆公記』に、「修繕手廻りかぬるため」とあって、その跡が用心のため、西内堀に直されたのである。旧宅は今出川の通りからして、武者小路の通りまで貫いておったのであるが、新宅の方は西の方が室町通りに面しているのみで、南は不遠院宮北は新大納言の典侍の間に挾まっておったらしい。新大典侍の方からして北方の地を割(さ)いてくれとの交渉が永正七年にあったのを見ると、どうしても地続きとしか思われぬ。西側が往来に面しているからして、新宅の此側の用心はなかなか厳重で、例の釘貫の設備もあった。築地も造り直した。西北隅には矢倉があった。門の前には土橋を構えたとあるが、これはもちろん塀の外の堀に架した橋だ。南、東の側には塀内に堀があったらしく、北側の用心に、釘貫のあったことだけは明かである。文亀二年になって売物に出た小座敷を買入れて、これを邸内に建て直したとあるのは、これは子なる公条がこの年十六歳でその春には右中将に転じたほどであるから、だんだん家が手狭になったによっての故であろう。この建直しの普請のために、以前の堀を埋めて別に掘り直したとある。永正六年には公条邸の南面に水門を掘らしめ築山をも造った。しかして矢倉の方はその一年ばかり以前に取り毀ってしまった。南隣に住まわれた不遠院宮は文亀四年に薨ぜられたが、その後はその邸もあるいは実隆の差配に属したのかも知れぬ。大永七年に花山家からして借入れを申込まれた時に、実隆は今仁和寺宮の衆が宿舎としているから、貸すわけに行きかぬると断わっている。
 住宅は先ず右のとおりであったと仮定して、次にそれに住した家族について説こう。実隆の父は長禄四年に六十三歳をもって薨じたのであるが、そのとき実隆の年甫(はじ)めて六歳。その後は専ら母親の手塩に育った。故に実隆は父を懐うよりも母を慕う情が深く、父の墓所二尊院に参詣するよりも、しの坂の母の墓に謁する方が、思い出の種も多かったのである。母というのは前にも述べたごとく、甘露寺親長の姉で、寡婦となってのち子の傅育(ふいく)に忙わしかったが、文明二年十月の末実隆が十六歳に達し、従四位下少将まで進んだ時、鞍馬寺において落髪した。当時鞍馬寺境内に公卿の居住すること稀ならず、長直朝臣などもおったらしい。三条西家もいかなる縁故あってかまだ穿鑿(せんさく)をしてはみぬけれども、以前からして鞍馬寺境内に家屋を所持し、もしくは寺の建物を借り入れて住居としておったらしく、実隆の母公の落髪も、やはりその宿所においてしたので、その時には母公の弟親長の妻が、はるばる鞍馬まで出向いた。翌文明三年尼公が執行作善の時には、実隆は叔父親長とともに出向き、親長は二泊して帰洛したとある。このころの実隆は主として母尼公とともに鞍馬の方に住居し、時々京都に下ったものらしく、文明三年の十二月下旬から出京し、己の第(やしき)と親長の第(やしき)とに、十余日淹留(えんりゅう)、正月年頭の儀を了えて鞍馬に帰ったとある。しかるに母尼公は落髪後久しからずして、文明四年十月中旬に歿した。実隆の室勧修寺教秀の女が、三条西家へ輿入れして来た年月をば探し当てかねたが、長子公順の生れたのは、文明十六年すなわち実隆が三十歳の時で、その後三年にして次男公条が生れた。子としてはこのほかに女子一人あったが、これは二人の男子の姉であって、後に九条尚経に嫁し、植通の母となった従三位保子である。
 しからばその召仕にはいかなる者どもがおったかというに、最古参者は父公保の時代永享十一年十八歳で三条西家へ奉公し、もって実隆の代に至るまで歴仕した右京大夫という侍女である。彼の武者小路の家で西の小屋に住しておった者すなわちそれで文明十五年ごろまでは、その母なる者も存生であったらしい。永正元年八十三歳まで勤続して落髪し、法名を光智禅尼といった。その後五年にして老病のため永正六年に歿したが、実隆はこの侍女の三十四歳の時に生れ、厚く介抱を受けているからして、その亡母の年回にも贈り物をし、その老官女が歿した時は、葬式その他万端特別の待遇であって、命日には法事をも営んでやったほどである。この老官女の下に梅枝という下女があった。これも久しく召仕われた婢で、永正二年その中風で歿した時の条に、「三十余年召仕う正直ものなり、不便にして力を失しおわんぬ」とあるから、おそらく文明の初年ごろからしてこの家に奉公した者であろう。されど老官女ですら、私穢を厭(いと)う当時の習慣のために、その病革(あらた)まるに及び、来客の輿(こし)を借りて、急にこれを近所の小庵に移したくらいであるから、まして梅枝のごときは、死に瀕してから夜分今出川辺に出してしまった。大病人を逐い出すのは当時一般に行なわれたことで、三条家の知合なる某亜相のごときは、十一年間も妾同様にしておった女を、やはり大病になると近所の道場まで舁(か)き出させたことがある。されば実隆が二人の女中を死際に門外に出したとて、決して残酷な所為とはいい難い。この二人のほかに女中に関することは、総領娘保子の乳母にて雇った女が、男を拵えて逃亡を企てたところ、一旦は尋ね出された、しかし遂にはその男と奥州に下向したとの記事あるのみである。しかしながら女中はこの三人と限ったわけではなく、駈落した右の乳母の後任も入れたろうし、男の子のために別に雇われた乳母もあったかも知れぬ。また老官女や梅枝のかわりも出来たかも知れない。
 三条西家の男子の召仕には、雑掌すなわち家令のような役をしておった元盛という者がある。これは通勤の役人であって、時としては主人の一家を私宅に招待し宴を催すこともあったが、文明十九年三月末に賜暇を得て越前の国へ下向し、間もなくその地において病歿した。この者は青侍(あおさぶらい)中特別の者であったからして年回には相当の合力をしてやったのである。この元盛が老年になってからわざわざ越前に赴き、そのまま歿したところを見ると、越前に在った三条西家の所領の出身なのであったろう。しかし元盛の妻は本来尾州の者であったらしい。尾州には三条西家の所領があったから、あるいはその出身かも知れぬ。これは夫の歿後には尾州に下向した。その際夫婦が住みならした家屋をば、さる公卿に売り渡したことが、『実隆公記』に見えている。この元盛の子に盛豊というものがあった。父の後を承(う)けて三条西家に奉仕しておったが、父の功をかさに著てか、我儘の振舞多く、過言などもしばしばあったと見え、明応五年には実隆も堪忍しかねたらしく、一旦は召仕わぬと申し渡した。けれどもそれまでの好みを考えると、そうもできなかったらしく、明応八年四月、元盛の十三回忌に、盛豊が形のごとく僧斎を儲けた時に、実隆は家計不如意のため、志があっても力が及ばぬ、十分な補助ができぬのは遺憾だと歎いている。元盛父子のほかに三条西家の召仕としては、故参者に中沢新兵衛重種という者があって、元盛の歿後は、この者が家令のようである。この重種の父もやはり三条西家奉公人であったらしく、延徳二年その亡父の十七回忌に当ったので、家中衆が斎食の儲をした記事が見える。延徳三年の春からして、この中沢は年千疋の給金になった。ただしこの中沢は元盛のごとくに外から通勤したらしくはなく、三条西家の邸内に住んでおったらしい。そのほか実隆が永正六年に雇った青侍に、林五郎左衛門というのがある。近江高島郡の者で、数年間正親町一位入道の青侍をしたのであるが、日記に「新参のよう先ず召仕うべし」とあるから、返り新参ですなわち以前三条西家にも奉公した履歴のある者だろう。『親長記』文明六年の条に、内侍所刀自が病気になったにつき、親長は実隆の家の青侍林五郎左衛門といえる者を医師として、見舞にやったと記してあるからには、この林は同一人かあるいは親子であろう、そして当時しばしば見受ける素人医者であったものと考えられる。この林はその在所にいくらか資産のあった者と見え、永正七年近江が乱れた時、その資財の始末のため、賜暇を得て帰郷したことがある。なお森弥次郎、千世松の両人の三条西家の召仕人として見えているが、この両人は喧嘩両成敗で永正二年に暇を出されている。暇を出した後数日弥次郎の父が誅せられたということを聞いて、それとは知らず弥次郎を逐い出したのであったが、まことに好時分に出したもので、天の与うるところであったと、実隆は記している。千世松のことはつまびらかにわからぬが、少なくとも弥次郎は譜代の奉公人ではなかったらしい。

 上述のごとき家族と上述のごとき使用人とを有した実隆の家計は、いかにして支えられたか。先ずその領する荘園からして説こう。三条西家の所領は各地に散在しておりその最も近くに在ったのは、山城に在るもので、桂新免、石原庄、塔森庄、鳥羽庄。この四つはみな桂川に沿うている。美豆御牧、あるいは単に御牧、これは河を隔てて淀と相対している。それからして富森、三栖庄これは伏見の西南に在る。これらの所領からして得る収入は、石原庄で麦若干、米一石前後、地子月別五十疋くらい、塔森からは月別銭で少ない時は七十疋、多い時は百五十疋くらい、一か年一貫七百文納入になったことがあるが、それは大永五年のことであるからして、それ以前にはいま少し収入が多かったろうと思う。鳥羽庄は文明十一年に中沢重種をもってその代官職に補したと記してあるが、この中沢は鳥羽庄のみならず石原塔森等をすべて管理しておったことがあるらしい。この庄の収入は、つまびらかにし難い。ただ西園寺家と共同にこの鳥羽庄の領主であったらしく、畠山の被官人とこの荘園を争い、訴訟に及んだ時には、西園寺家と連合してこれに当り、本所の方が勝利を得たから、使者をもって互に祝著同心の旨を告げたとある。しかしながら、共に同一庄園の主であるところから、時として争いも起こる。荘園の住人鳥羽新三郎の闕所(けっしょ)作分につき、西園寺家の方よりして押妨(おうぼう)をしかけたから、重種が西園寺家へ出向き、先方の家職と談判していい伏せたとある。富森は麦の収納があり、地子は大永五年の年末に二十疋とあるからあまり多くはなかったろう。富森から川岸に沿いてさかのぼれば、三栖庄になる。この庄は三条家の古くからの所領で、正親町三条家からして分れた時に、これを分領することにしたものらしい。代官としては日記永正元年の条に、山本太郎左衛門という名が見え、塔森の侍なりとしてある。この三栖に上下の二つあるが、上は正親町三条家の手に残り下は西家に伝った。日記明応五年四月の条に、東隣すなわち正親町三条家から三栖庄内で鷹にとらしたという青鷺をもらった記事がある。この三栖の所領からも米と麦とがとれた。この麦をば祇園因幡堂に施入するのが、三条家の嘉例ということになっている。三条家に限らず、当時京洛の士民はみなこの因幡堂の薬師を信仰し、祈願を籠めたものであるが、わけても実隆のごときは、尊崇すこぶる厚かった。しかしてかかる施入に対し、因幡堂からは、年々香水を三条家に送ることこれまた例になっておったのである。三栖の年貢米は日記大永七年十月二十八日の条に四斗を般舟院から受け取ったとあるが、これのみならばはなはだ僅少なものである。のみならずその四斗も実際三条家で桝にかけて見たら、三斗一升しかなかったと記してある。紀伊郡散在の所領は前述のとおりであるが、その北にして対岸なる葛野郡の東南隅にあるが、すなわち桂新免河島の所領であって、年貢は米であった。かつこの地もまた西園寺家と共同の所有であったらしい。
 次は綴喜郡の北端、淀川と木津川との落ち合いで、後の淀城の対岸なる美豆の御牧である。日記には略して単に御牧と書いてある方が多い。その代官に関しては、明応ごろに中村宮千世丸という名前が同五年三月の日記に見えておる。ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。これあるいは前に掲げた森弥次郎かも知れぬ。この庄からしての収入は百疋の年貢と茶とである。茶は一袋一斤半ずつの懸茶二十四袋が例となってあった。淀の魚市の年貢、これもまた収入の一であったが、これに関してもまた西園寺家との間に紛争のあったことは、明応五年の日記にしばしば見える。一旦は訴訟になり、幕府の裁決を仰がんとしたが、西園寺家からして、三分一年貢においては違乱を止めるとの一札を出して、事落著したことがある。この魚市からの収入は別に雑掌あるいは代官をしてこれを取り立てさせておったが、その代官の名には、明応四年ごろ玉泉という者をもってこれに任じたことがあり、永正元年には和泉屋すなわち四条烏丸太志万平次郎といえる者補任されて請文を出したとある。月宛銭は市況によって一定せず、百疋、百五十疋、二百疋等さまざまであり、正月七月十二月には別に増徴があり、往々にして二貫文以上に達したとあるから、三条家の収入として先ず主なる財源といわねばならぬ[#「いわねばならぬ」は底本では「いわぬばならぬ」]。また所領と称するのはいかがわしいかも知れぬが、京中にも三条西家の所有地があった。一は旧跡なる武者小路で、一年両度の地子百三十疋、ほかには六条坊門の地子で、盆暮八十疋の収入があった。
 以上は山城国に散在する所領からしての表向きの収入を述べたのであるが、なおその外にもこれら所領からの臨時の収入がある。正月には三栖庄から嘉例として八木の進献があり、武射饗三および打竹をも進上する。鳥羽庄からは鏡餅を持って来る。端午(たんご)の節句が近づくと、同じく鳥羽庄からして菖蒲の持参に及ぶ。続いて瓜の季節になると御牧から花瓜を持って来るので、その一部を禁裏に進上する例になっている。同じく御牧から八月には茄子を持って来る。九月になると祭礼の神酒一桶を三栖庄から送って来る。十月には自然生芋を御牧からよこす。屋根を葺くための葦は御牧から取り寄せる。また御牧の代官の嘉例の進物茶十袋という定めもあり、同じ御牧から秋には大根百本くらいを納めた。これも幾分を禁裏に献上したのである。なお御牧に在る三ヶ寺からは、正月年頭の礼に何か進上したらしい。のみならずこれら所領の多くは河沼に接しているので、したがいて魚介の利があり、石原庄からは鯉を献上しているが、なかんずく魚の最も多くとれるのが三栖で魚の種類は鱸(すずき)を主とした。百姓の多数は半農半漁であって、その代替りの礼などにはこの鱸持参でやって来る。
 三条西家はこれらの物を収得するばかりでなく、当時荘園一般の例として、その所領から人夫を徴発した。人夫を出すのは主として御牧で、あるいは庭の草の掃除のため、あるいは屋根葺のため、あるいはその他の普請のために呼寄せられている。また三条西家自分用のためのみならず、荘園の主として幕府から人夫を課せらるることもあった。たとえば義政の東山の普請につき、文明十七年春厳重な沙汰を受け、西園寺家と相談のうえ百十人の人夫を出したごときはその一端である。
 かく述べたてると山城国から得られる三条西家の収入は極めて多端であるように見えるが、実隆の晩年大永七年ごろになると、御牧のみの未進が十二貫文の多きに至っているから、他もこれに準じて未進が多かったろうと思われる。山城に在る分すら右のとおりであるとすれば、ましてそれよりも遠い国々にある所領からは、満足に年貢の納まろうはずがない。次には実隆がいかなる苦心をして遠国からこれを取り立てたかを叙述しよう。
 山城国以外で京都に近い三条西家の荘園を算(かぞ)うれば、先ず丹波に今林の庄というがあった。本来どれほどの収入があったのか知れぬが、文明九年には十石の分を竜安寺に寄進したとある。おそらくは爾後三条西家へは、ほとんど年貢米の納入がなかったのではあるまいか。日記永正七年十月の条に「年貢米二石初めて運送の祝著極まりなく千秋万歳自愛自愛」とあって、思いがけなかった仕合わせのように記している。しかして同年内になお二駄の年貢米がまた今林庄から納付になっているからして、三石六斗の合計になり、かなりの収入となったのである。なお丹波にはこの今林庄のほかに桐野河内という所から莚の年貢があり、土著の代官として、明応四年に片山五郎左衛門、同六年に月山加賀守という者が見えている。これらの代官は主として苧(からむし)の公事(くじ)のために置いてあるので、莚の方は実は第二だ。この地方から秋になると柿や松茸などを鬚籠に入れて送って来たことが日記に見える。
 遠近の丹波と相若(し)くのは、摂津富松庄である。富松は河辺郡と武庫郡とに分れて、東西富松の二つある。しかして富松庄は三条西家の専領ではなく、むしろ西園寺家の所領というべきもので、三条西家はわずかにその三分一をのみ取得としておったことが日記の永正三年四月の条に見え、西園寺家でこの荘園を沽却(こきゃく)しようとするから、その三分一の権利を三条西家に保留してあることを奉書の中に記入してもらいたいと、幕府へ申し入れた記事がある。して見ると東西に分けて分領したのではなく、富松庄の表向きの領主は、西園寺家だけであったろう。しかしこの庄の代官としては、日記文明十八年と延徳二年の条とに、富田某という名があらわれて、その註に「細河被官人薬師寺備後の寄子(よりこ)」とある。この代官が延徳元年に上洛した時には、柳二荷、鴈(がん)、干鯛、黒塩三十桶、刀一腰(助包)持参に及んだから、実隆はこれに対面し、かつその返礼として、以前義尚将軍から鉤りの里で拝領した太刀一腰を遣わしたとある。丹瓜がこの富松の名物と見え代官からこれを進上しているし、それのみではなく正月の若菜および盆供公事物を送って来る例になっておった。年貢米がどれだけあったかは判明しない。
 摂津の先きの播磨(はりま)の飾磨(しかま)郡にある穴無庄、同じく揖保郡にある太田庄、また共に三条西家の所領であった。穴無の郷の公用というのは、その公文職の年貢なので、年一千疋が定額であったらしい。守護不入の地とはいうものの、延徳ごろの代官たる中村弥四郎のごとき、守護赤松の被官人であって見れば、陣夫銭その他の課役を納めぬわけにも行かず、故に三条西家からしきりに催促されても、半分くらいはこれを翌年廻しにする。現に延徳三年十一月のごときは、右の中村が赤松に催されて、坂本の陣中に在り、そこへ三条西家の使者が出かけて催促したけれど、要領を得なかったのである。その後次第に納額が減少し、三百疋の年もあり五百疋の年もあった。この郷からの収入は三条西家の青女の所得になるので、あまりに少ない時には青女憤慨して受け取らずに突き返そうといきまいたこともあるが、代官の方から守護の配符数通を添えて、公用減少の理由を証明されると、どうすることもできなかった。かくて永正の[#「永正の」は底本では「永の正」]初年には遂に全く無音となり、同三年の春になってようやく前年分、しかも少分のみを納めたに過ぎなかったが、この時になると実隆もいよいよあきらめたと見え、「形のごとしといえども珍重す」と記して喜悦を表している。しかしてその翌年になると安宗左衛門という者が代官に補任され、大永四、五年ころの公用は、五貫三百文というのが定額と認められた。
 太田庄の所領もまた全部ではなくして三分の一であったろうと思われることは文亀三年正月二日の条に見えているが、とにかくこの庄からして三条西家に入るべき公用は年千疋であって、しかも他の諸庄に比べ、比較的正確に納付されたらしい。代官としては文明十六年の末に安丸なる者の没落したこと、その後任として太田垣与二なる者望んでこれに補せられたことが見えている。この庄からの収入をも、三条西家ではやはり青女どもの給分に宛てておったのであるが、これを受領するには直接ではなく、建仁寺の塔頭(たっちゅう)大昌院を経由した。故に滞りなく千疋納入になった時には、実隆大悦で、わざわざ大昌院まで出かけ一緡(いちびん)を礼に与えたくらいだ。明応五年に広岡入道道円という者をその代官職に補したところが、その年には恒例の千疋のほかに、補任料をも添えて大昌院経由で送って来たので、実隆はいよいよ喜んだ。享禄二年に土佐狩野の画家に扇十本を描かしめて、これを太田庄に遣わしたというのも多分かく都合のよい荘園であったからだろうと思われる。
 山城以西は上述のとおりであるが、以東の美濃・越前にも所領があった。越前の所領というは田野村にあるのであるが、その公用は千疋であったらしく、これも同じく滞納がちで、濃州の所領とともに文明十八年幕府に訴うるところがあったけれど、その効が見えず、ほとんど断念しておったのである。ところが明応元年になって宗祇の取次で千疋を送ってよこしたので、実隆はこれ「天の与えしところというべきものなり」とて大いに悦んだ。永正二年[#「永正二年」は底本では「正二永年」]に納付のあった節も同断である。翌三年にもまた千疋送られた。それといっしょに朝倉の妻からの進物として、美絹一疋をもらったと見えているから、この田野村の公用の納入は主として朝倉の尽力によったものらしい。そこで実隆はさらに一歩を進めて、永正七年の春にはその年の分を前借したらしいが、それにもかかわらずその年末に相変らず千疋到来した。それ故に実隆も「もっとも大いなる幸なり」と日記にしるしてある。
 美濃からの収入というは主なるはその国衙(こくが)料であって、これは直接に取り立てるのではなく、美濃の守護土岐氏の手を経由するものである。ただし土岐氏がみずからこれを取り扱うのではなく、その下に雑掌斎藤越後守というが見え、またその下に衣斐某という代官もあったらしい。ところがなかなかにこの国衙が納まらぬので文明十八年にこれを幕府に訴えたこと既述のとおりであるが、その時には有利な裁訴を得たけれど、土岐氏の方からして奉書遵行の請文を出さぬ。そこで例の中沢重種を催促にやった。この催促の使が頻繁に派遣されて、長享三年の春には一か月に三回くらいも出かけている。ただし濃州まで出張したのではなく、ちょうどこのころ近江征伐が再興されて、土岐も将軍の命に応じ江州阪本に出陣していたから、それへ談判に行ったのである。そもそも国衙公用の三条西家に納まらなかったこと、およそ三十年に及んだと、実隆の日記に見えるから、寛正年間からして不知行であったので、応仁の一乱のために無音になったのではない。約言すれば時効にかかるほど久しく放棄した財産なのである。ところが不思議にも催促の効能が見えて、長享三年の三月に三千疋だけ納入になった。実隆の喜悦一方ならず、「小分といえども先ず到来す、天の与えというべきか。千秋万歳祝著祝著」と記している。三千疋を小分というのは、今までの怠納を計算するとかなりの多額になっているからで、一か年の定額は千疋、盆暮に五百疋ずつというのがきまりであったらしい。長享三年の春からして、延徳三年の五月までおよそ二か年間に催促して取り得た総額は、二万疋以上に達し、延徳二年以前の分はこれで勘定がすんだとあるが、おそらくはあまりに古い未進をば、切りすててしまったのかも知れない。前にちょっと述べた通り長享二年からの催促には、ひととおりならぬ手数をつくしたもので、義尚将軍薨去につき土岐右京太夫が斎藤越後守を従えて四月入洛し、土岐は芬陀利花院(ふんだりげいん)に、斎藤越後守は東福寺に宿営すると、早速にまたたびたび催促の使者を差し向けた。延徳二年の秋には葉室家が義植将軍に昵近(じっきん)なのを利用し、葉室家に頼んで土岐への御奉書を出してもらった。翌年の秋に土岐がまた坂本の陣に戻ると、さらにそれへ使者を出した。葉室家からの手紙をも添えてやったこともある。しかして一方においてかく矢の催促をしたのみでなく、同時に種々と土岐や斎藤の機嫌をとった。三栖庄からして巨口細鱗の鱸がとれたとて進献になると、先ずその一尾を東福寺の斎藤のもとにやった。富松庄の代官が土産を持って来ると、すぐにその一部を土岐への音物(いんもつ)にした。斎藤にも柳樽(やなぎだる)に瓦器盛りの肴を添えて送ることもある。雉(きじ)に葱(ねぎ)を添えてやったこともある。鴈(がん)をやったこともある。太刀一腰の進物のこともあった。かかる関係からして延徳三年の二月末に、土岐が三条西家を尋ねたが、その時には主人の実隆が在宅であったけれど、折悪しく取次をすべき青侍がみな他行中であったので、土岐は来訪の旨を玄関でいい入れたまま、面会を得ずして帰ってしまった。美濃の土岐といえば、日本中に聞えた武家であるのに、実隆は取次の人がないというので、これに玄関払いを食わした。そのところちょっと当時の公卿が武家に対する態度が伺われる。しかしながら実隆ももちろん土岐を怒らすことをば好まなかったので、翌日すぐに使者を斎藤のもとへやって前日の土岐来訪の礼を述べ申しわけをした。そこで土岐も阪本に移ってから、三条西家に対しては疎略を存ぜぬ旨をいってよこしてある。
 かくのごとくして国衙の徴収を成し遂げたので、その収入によりて、延徳元年の拝賀の費用をも弁じ、亡父公保の月忌、例会は都合あしく無沙汰にしたことも多くあったのに、この年はこれを執行し、また大工二人を呼んで家屋の小修繕をもやれば、旧借をも少々返却し、中沢や老官女以下の男女の召使の給金をも下渡し得たのである。しかしながら一年平均一万疋といえば、当時において少なからぬ大金である。それだけの大金を催促と少しばかりの音物とだけで、しかも三十年間不知行の後に、徴収し得たとは考えられない。実は別にもっと有効な方法を講じたのである。それはほかでもない、前回にもちょっと述べた武人に利益分配することである。長享三年二月久しぶりで三千疋を受領した条に、南昌庵という者が坂本の扇屋で、これを斎藤から受け取ったが、「この儀については重々子細等あり、記すこと能わず」としてある。延徳二年七月の条には、「斎藤越後契約の間事いささかこれをつかわす」とあって、そのとき受け取った千六百疋の中から、何ほどかを与えている。これらの記事によって斎藤と三条西家との関係を伺い知ることができるので、かかる消息が通っておればこそ、斎藤越後守も時によっては、立替えをもなし、また用脚が到着するとわざわざ使者をもって受取人派遣の督促をなし、あるいはわざわざ太刀金二百疋の折紙持参でやって来て、実隆に謁することもあったのである。しかるに明応五年美濃の喜田城陥落し、土岐九郎は切腹、左京太夫は没落したので、この国衙料もまた不知行となること三十年ばかり、大永四年に至り持明院の周旋によりて、また納入さるることになった。
 美濃国からは、国衙公用のほかに、なお三条西家の収入があった。一に宝田寺役、これはだいたい西園寺家のもので、三分の一だけ実隆の方に入ったのである。第二は鷲巣の綿の年貢である。第三は苧(からむし)の関務である。この収入はもっぱら官女の給分等に充てたものらしく、年貢については文亀三年に三百疋の収入があったことを記しているのみで、定額がわからない。この苧の関務をばやはり斎藤氏の一族が取り扱っておったものと見えるが、美濃、坂本、京都の間をしばしば上下する金松四郎兵衛という者もまた周旋の労をとっておった。土岐の明応五年の没落を報じて来たのもまたこの男である。
 以上のほか三条西家の所領としては尾張に福永保があると記してあるけれど、つまびらかなことは知れない。また近江の阪田郡加田庄、これはもと正親町三条家のもので、転じて実隆の領有に帰したのであるが、岩山美濃守政秀なるもの半済を掠(かす)め取ったので、これに交渉を重ねたことが見える。年貢としては明応五年に飯米三俵の収入があったほかに何もわからぬ。
 最後に三条西家の収入として叙せねばならぬことは、苧の課役の一件である。三条西家が美濃の苧の関務を領し、丹波の苧代官とも関係があり、阪本からも苧の課役が運ばれ、また天王寺の苧商人からも収得するところあった。して見ると二条家と殿下渡領とでもって、菅笠の座からの運上を壟断(ろうだん)したように、三条西家は苧の売買からして課役をとる権利を有しておったので、必ずしもある一国に限った収入でなかったのかも知れぬ。しかして日記永正八年七月の条に天王寺商人からして、とても課役を納める力がないから、この上はじかに越後商人から徴収してもらいたいと申し出でているのによって考えると、その課役は便宜上買方なる阪本や天王寺の商人らからして納付の習慣となっていたのであろう。阪本からして取り立てた税については、阪本月輪院から送り来ったこともあり、また南林坊なるものが文明十六年堅田においてこれを沙汰したこともある。その時の年貢額は二百疋とあるが、これが平均額以上か以下かはわからぬ。明応五年正月からして阪本に苧課役を月俸にして沙汰をすることにしたと日記に見えているが、それ以前は年二回の徴収であったかも知れぬ。しかし苧の課役中で三条西家にとり最も収入の多かったのは、もちろん天王寺の座からして納入するものであった。天王寺の苧商人らは、越後からして荷物を取り寄せる時に船でもって若狭まで、次に若狭から近江を通さなければならなかった。ところが山門がその近江通過を要して課役でもかけたものと見え、苧商人から山門に対する苦情の出たことがある。また阪本の商人ら越後において青苧の盗買をし、課役を免(まぬか)れんとしたので、その荷物の差押えがあり、それには天王寺の商人の一人なる香取という者が関係しており、その香取が金策をして三条西家の屋根葺の費用を弁じたことが日記にある。かくのごとき越後産の苧が課役の基礎になっておったのであるからして、その越後の国が乱れると、天王寺商人らも身を全うして逃げ帰るが精一杯で、苧の買入れどころではなく、したがって苧の公事も納まらなくなる。時としては越後から積み出しが実際にあっても、抜荷の恐れのあることもあったが、幸いに着船地たる若州の守護は武田で、その被官人の粟屋という者は、実隆の妻の実家なる勧修寺尚顕の女を娶(めと)って、実隆とも別懇にしているので、苧船が着くと早速にこれを留め置いて三条西家に報告してくれた。苧船の隻数は時々不同であるが、日記に見えるところでは、十一隻というのが最も多い。苧の課役の納期は年二回で五月と十月とであったろうと思われるのは、五月に受領しているのが、日記にたびたび見えるし、また延徳三年十二月の条に、次の年から十月中に究済せぬ時には利息を取り立てると苧商人らに申渡した記事があるからだ。しかしながらこの威嚇は効をなさなかったらしい。貢税額はハッキリわからぬ。明応七年五月の春成公用は二千疋とあるが、五年十二月の条には千二百疋とある。商人香取のことは前にちょっと述べたが、そのほかには日記には北林弥六という者苧商人雑掌と記されてある。こちらが苧商人の代表者であったかも知れぬ。この北林もまた時々実隆のために借金の周旋をしてやっている。
 実隆は大略以上のごとき収入をもって暮らしを立てておったのであるが、しからばかかる楽屋を有する彼の公生活は如何であったろうか。次においてこれを述べることにしよう。
 上文に述べたような楽屋を有する三条西実隆に、もし衣冠束帯をさしたならばどんな者になるであろうか。これがこれからして予の描こうとするところである。
 そもそも実隆というのは、彼の最初からしての名ではない。第一につけられた名は、公世というのであって、その公世時代、すなわち長禄二年の末に、四歳にして従五位下に叙せられた。これがいわゆる叙爵なるものであって、その遅速がすなわち家柄の高下を示すところから、公家にとっては重大な事になっている。叙爵と同時に改名したので、その二日後に侍従に任官した時にはもはや公世ではなく、公延であった。五歳で備中権介を兼ぬることになったが、その翌年父公保が六十三歳で薨じた。この公保は内大臣まで歴進したけれど、槐位に列することわずかに一か月余で辞し、その後五年、すなわち実隆が生れた康正元年に出家した。その後なお五年間在世であったとはいえ、親のすでに出家した後、しかして家督たる実隆がまだ元服せぬ前であるから、このころは三条西家にとりてはなはだ引き立たぬ時代というべきであるが、それに加えて公保の薨去となって後は、いよいよ沈みがちの日を送ることとなったのである。
 公延という二度目の名は文明元年すなわち彼の十五歳になるまで続いたが、元服と同時に官は右近衛権少将に進み、名は実隆と改まり、いくばくもなくして正五位下に叙せられ、翌年従四位下となった。このころからして禁裏にも出入し、一人前の公卿として働くこととなり、三条西家の人々もようやく愁眉を開くこととなったのに、好事には魔多くして、十八歳のとき母を喪(うしな)ったのである。これからしておよそ五か年の間に右近衛権中将、蔵人頭(くろうどのかみ)に進み、位は正四位に陞(のぼ)り、文明九年二十三歳の時の暮にはようよう参議となり、公卿補任に載る身分となったので、実隆の公生活はまずこの辺からしてようやく多忙になった。
 公生活といえば大袈裟に聞えるが、実はさほど仕掛けの大きいものではない。政権が武家に移ったのは、昔の昔の話で、その武家すら政権というべきほどのものを持たなかった足利の中葉以後のことであるから、普通の意味で理解される政治とほとんど交渉を絶たれた当時の朝廷に、繁多の政務のあるべきはずがなく、したがって公卿の従事すべき公務とても、恒例臨時の節会(せちえ)を除けば、外は時々の除目(じもく)または御料所の年貢の催(うなが)し、神社仏閣の昇格の裁許くらいのものである。しかしてその公家の数も明応二年のころ総計六十七家のみであったと『蔭涼軒日録』の六月五日の条に見えているによって考えると、それら公家衆が総出で行なう儀式とても、その綺羅びやかさに至っては、五百以上の参衆を数うること稀ならぬ当時の禅徒らの執行するものに比べて、規模のすこぶる小なるものといわなければならなかった。しかもそれらの儀式すら応仁の一乱以後は廃絶したものが多く、文明七年に至って始めて諸公事が再興されたのであるから、それまでの大内山のわびしさは、けだし想像に余ることであったろう。この文明七年の四方拝には、実隆はまた右近衛権中将でこれに勤仕したのであるが、その際の日記に、「一天昇平よろしく今春に在るものか」と認(したた)めているのを見ても、公卿一般に蘇生の思いのあったことが、ありありとわかる。その翌文明八年の正月には、実隆の地位一段と進み、四方拝には蔵人頭としてこれに勤仕したが、乱後のこととて調度の類もととのわなかったと見え、式場に建て廻わすべき四帖の屏風のうち、二帖だけは大宋屏風で、式場相応のものであるけれど、残り二帖に事を欠き、しかるべき屏風の見当らぬところから、平素風前に立て置ける屏風を持ち出して間に合わせた。ところが暁天の寒む空に御拝を行なわれつつあった最中、風が吹き出して御屏風が倒れそうになったので、列座の公卿らが式の間これを抑えて倒れぬようにしたとある。絶えず歓楽と悲哀との間を出入しつつあった当時において、四方拝の如法にしかも寒夜に行なわれたということは、さすがに神ながらのすがすがしさを失われざる朝廷の趣がしのばれて、一段の異彩を放っている。同じ正月朔日の日記に「鶏鳴き、紫階星落つ、朱欄曙色にして誠に新しきものなり」とあるが、これ叙し得て妙というべきで、この数句は『実隆公記』中の圧巻といって可なるもの、ほとんど『明月記』の塁を摩するものである。
 文明九年参議となった実隆は、それから一年余りで従三位に叙せられ、その後また一年あまりで権中納言に任じ、侍従をも兼ねた。しかしてその主として奉仕した職務は番直や儀式の外には書写であった。当時多少文筆の嗜(たしな)みある公卿の多くは、勅命によって書写もしくは校合をやったのであるが、中にも能筆でかつ文字の造詣の深かった実隆は、他の公卿よりもいっそう頻繁にこの御用を仰せつけられた。書写をしたのは物語類とおよびそれに類した絵巻の詞書であった。あるいは書写をせずに勅命によって朗読したこともある。その書写または朗読したものを列挙するのは、当時の好尚を示すに足ると思うから、今繁を厭(いと)わずしてこれを掲げると、先ず絵巻の種類では『山寺法師絵巻』、『本願寺曼陀羅縁起』、『石山寺縁起』、『誓願寺縁起』、『因幡堂縁起』、『みしまに絵詞』、『源夢絵詞』、『春日権現霊験絵詞』、『東大寺執金剛絵詞』、『石地蔵絵詞』、『翻邪帰正絵詞』、『石山絵詞』、『介錯仏子絵詞』、『三宝絵詞』、『弘法大師絵詞』、『北野縁起絵詞』等で、このほかに書いたでもなく、また読んだでもなく、勅命によって一見を仰せつけられたものは数々あった。歌道は飛鳥井家の門人であって出藍(しゅつらん)の誉(ほまれ)高かったから、歌集の書写等を下命になったこともしばしばで、単に勅命のみならず、宮家、武家等からも依頼があった。歌集でないものにも筆を染めた。今それらを列挙すると、『続後拾遺集』、『殷富門院大輔集』、『樗散集』、『道因法師集』、『寂然法師集』、『鎌倉大納言家五十番詩歌合』、『北院御室御集』、『伊勢大輔集』、『出羽弁集』、『康資王母集』、『四条宮主殿集』で、これらの多くは伝奏たる広橋家を通じての武家からの注文であった。『万葉集』第一巻をば功成ると伏見宮に進献した。『十問最秘抄』と『樵談治要』と『心経』とをば禁裏に進上した。中身をば染筆せず、表題のみを勅命で認めた分もあった。
 朝廷に類(たぐ)い少なき文学者であったところからして、御製の讃等を遊ばす時には、実隆は多く御談合を受けて意見を奏上した。また書籍に明るいところからして、御買上げの場合にはしばしば実隆の意見を徴せられた。かくして御手許に召置かれることになったものの中には、成化戊戌(つちのえいぬ)の年の述作にかかる『和唐詩』四冊、功徳院所蔵の『日本紀』の珍本および『園太暦』等がある。中にも『園太暦』のごときは、中院入道内府がかつて百二十三巻十四帙を千疋で買得して所持し来ったところ、同入道の歿後中院窮困したので、やむを得ず内幾冊かを沽却(こきゃく)しようとした。それを実隆が聞き込んで散佚(さんいつ)を惜しみ、禁裏に奏上して、八百疋で全部御買上げを願うことにした。史料の散佚を拒ぐことに尽力した実隆の功績は、後世史家の永く感謝すべきところであろう。
 実隆はかくして朝廷で調法がられたのみならず、武家からも重ぜられ、風流の嗜み深かった義尚将軍のごときは、文明十五年七月からして、隔日に室町殿へ出頭してくれるようにと頼んだ。禁裏の御用もたくさんあるので、実隆にとってはすこぶる難有(ありがた)迷惑に感じたのであるけれど、何にせよ武命で違背し難く、これを承諾した。その用向というのはほかでもない。源氏の打聞きであった。されば義尚の方でも実隆をば等閑(なおざり)ならずもてなし、禁裏当番かつは御連歌の御催しがあるので実隆にとりては是非祗候すべきはずの日にも、武家の招待のためにやむを得ず御断りを申し上げたこともある。京都での待遇の渥(あつ)かったのみならず、文明十九年の十一月に義尚はわざわざ江洲鉤りの里の陣からして吉見六郎を使として京都なる実隆のもとへやり、その詠んだ歌に雁一双を添えて贈り物にしたこともある。同年の十二月に答礼かたがた実隆が鉤りの里に伺候した時には、特別に引見した。しかし実隆がかく公武の間にひっぱり凧になって、用いられたので、おのずから朝廷と幕府との間に立ち、円滑に事を運ぶに与(あずか)って功を立てたこともある。たとえば延徳二年朝鮮の商人が来着して進物を献じた時に、朝廷のみで御受納なく、武家にも渡されるようにと進言し、また永正五年には実隆たびたびの口入れが功を奏し、武家からして御服用脚五千疋を献上し、その功によって禁裏から青□(せいふ)三百疋を賜わったこともある。義尚の時代のみならず、義植、義澄の代にわたって、実隆が幕府の眷顧(けんこ)を得たのも主として文筆の功徳であって、文亀三年に実隆新作の能「狭衣」の曲が室町殿において演ぜられ、実隆がわざわざ見物に招かれたなども、一佳話として伝うる価値があろう。ただし実隆といえども能の作者としては不適材であったのか、この「狭衣」の曲のほかには「閔子蹇(びんしけん)」というのを作ったが、両曲ともに今は廃曲となっているとのことである。
 文筆に関したこと以外で実隆の干与(かんよ)した職務といえば、御料所たる荘園の未進年貢の催促、勅額勅願所に関する出願の取次等もあった。神社仏閣等に関する取次は、当時の公卿の通有なことであって、その周旋料は彼らにとりて財源の一つであったのである。実隆のごときはむしろ稀にかかることに関係した方であるけれども、それでも日記の所々に散見しておって、中にも大内家の依頼した氷上山勅額勅願所のことにつき、斡旋した時などは、その礼として、大内政弘から、唐紗の浅黄文雲のもの一段、同じく無文白地のもの一段と、それに堆紅(たいく)の盆とをもらい、実隆にとりてはよほど珍しかったと見えて、浅黄紗の方はさっそく物尺で計ったらしく、二丈一尺七寸余あったと認めている。大内家との親しみはそれのみでなく、延徳元年実隆が権大納言になった時には、政弘から昇進の祝として太刀用脚等の贈遺があり、実隆の方でもまた政弘の所望に応じて『新古今和歌集』を書写して遣わした。大内家は外国貿易に従事し、西国でも有数な富裕の大名であり、その富むに従いてしきりに京都風の文化を模倣し、京都との連絡を濃くしようとしたのであるからして、大内家にとりては、実隆のごときは公卿中でも特に親しみを厚くしたい人柄であり、実隆の方でもまたこれによっていくらか家計を補ったことであったろう。永正五年大内義興が義植将軍を奉じて入京し、四位に叙せられた時には、礼のために太刀一腰と二千疋の折紙を持って、わざわざ実隆の邸を訪問した。この時は実隆すでに内大臣を辞した後であるけれども、やはり口入れの労をとったと見える。二千疋の臨時の収入は、意外に感ぜられたと見えて、日記十月一日の条に「いささか屋をうるおす云々」と記している。この大内との縁からして、彼家の重臣である杉二郎左衛門の所望に応じ、三十六歌仙の歌を色紙に認めたり、同じく重臣の陶三郎から、筑前名産の海児(うに)二桶をもらったなども、またこのころのことであった。
 次に実隆が旅行した話に移ろう。旅行は必ずしも公務ではないが、生活としてはよそ行きの部に属する。前回にもしばしば述べたとおり当時の公卿はしばしば遍歴をやったもので、その主なる動機は生活の困難から来たのであるが、実隆は台所向きずいぶん困難であって、殊に文明十九年ごろは「当年家務の儀毎事期に合わず」と日記に書いているほど難渋したのであったけれど、しかしながら遍歴をしなければ立ち行かぬほどの貧乏でもなかったのであるから、この種の旅行をばやらなかった。故に彼の旅行の範囲は極めて狭いものであった。けれどもさすがは実隆だけあって、その旅行の記事がなかなかおもしろい。奈良に最初行ったのが文明十年で、春三月花のまさに散らんとするころであった。落花を踏み朧月(おぼろづき)に乗じて所々を巡礼したが、春日(かすが)山の風景、三笠の杜(もり)の夜色、感慨に堪えざるものがあったといっている。二度目に出ている奈良旅行の記事は、実隆の長子で東大寺公兼僧正の弟子となり、西室公瑜と称した人が、京都から奈良に戻る時に同道した際のことで、明応五年閏二月中旬、花の早きは散り遅きは未だ開かぬころであった。宇治に近く三条西家の荘園があるので、奈良行きの時にはそこで中休をするの例であり、この時も南都からの迎馬に宇治で乗りかえ、黄昏奈良に着したのであるが、今見てすら少なからず感興をひく春日社頭の燈籠が、すでに掲焉(けちえん)とともっており、社中の花は盛りで、三笠山の月が光を添えた。この行はもと単に奈良のみでなく、大和めぐりを思い立ったのであるから、奈良に数日滞在ののち芳野に向い、道を八木市場から壺坂にとった。夕陽の時分芳野に着いて見ると、まだ花は盛りで腋(わき)の坊に一泊し、翌日は蔵王堂からそれぞれと見物し、関屋の花を眺めて橘寺に出で、夜に入り松明(たいまつ)の出迎えを受けて安部寺に一宿し、長谷、三輪、石上を経て奈良に戻った。その後明応七年二月にもまた春日社参をやったが、この時は前駈(ぜんく)の馬がなかったので石原庄でもって借り入れたとある。永正二年には春日祭上卿をも勤めた。高野山の参詣に至っては、その記事が『群書類従』所載の「高野参詣日記」につまびらかであるからこれを省くが、その途中堺・住吉等を経由したことはもちろんである。奈良・高野の外に実隆の旅行区域といえば江州くらいのものであった。元三大師に参詣の序に石山寺まで趣いたこともある。鉤りの里に将軍義尚の御機嫌伺いに行ったことは前に述べた。このころは京都の兵乱を避けて大津・坂本に居を占めた公卿もあったし、また京都にすら多く見出し難い普請(ふしん)の立派な酒屋もあって、京都から遊士の出かけること頻繁であったので、実隆も江州には時々出向いた。
 実隆の官歴は文明五年以来とどこおりなく進んだ。まる二年と間を隔つることなしに、官もしくは位が高まった。しかるに文明十二年の三月に、権中納言になり、翌月侍従兼務となってからというものは、四か年ほど何の昇進もない。以前は人を超えて進んだけれど、今度はかえりて人にこさるるようになった。実隆も少し気が気でない。文明十六年の正月朔日に、「今夜節分の間、『般若心経』三百六十余巻これを誦す。丹心の祈りを凝らす」、とあるは、その辺の消息を語るものであろう。しかるにその年も何の沙汰とてなく、十七年の二月に至りてようやく正三位となった。官は依然として動かない。長享三年二月に至ってようやく権大納言となったが、その延引したのにすこぶる不平であった。昇進を賀する客が済々焉(せいせいえん)とやって来るけれども、嬉しくもないと日記に書いている。しかしながら文明十二年以来彼を超えて進んだのは、みな彼よりも年上の者ばかりで、権大納言になった時には、また上席の者六人を飛び越しての昇進であるから、彼にとりてはめでたいという方が至当だろう。
 実隆の立身は実隆の思い通りに行かないとしても、はなはだしく坎□(かんか)不遇を歎じなければならぬほどでないことは、上文に述べたごとくであるのみならず、実隆は他の公卿に比して天顔に咫尺(しせき)する機会が多かった。これは彼が侍従の職にほとんど絶え間なくおったからで、しかしてその侍従として久しく召仕われたのも、畢竟ずるに彼の文才抜群の徳のいたすところであったろうと想像される。さてこの文才の秀でた実隆が、侍従として朝夕奉仕し、たんに表立った儀式に臨んだのみならず、内宴その他の宮中燕安の席にも陪し、その光景を日記に書きしるしておいたのが、これまた後世の人に教うるに、当時の九重の奥にも、いかに下ざまに流行した趣味好尚が波及しておったかをもってする貴重なる史料で、換言すれば日本の文化史に、大なる貢献をなしているのである。いま読者の参考に資するために、実隆が陪観したという遊芸の重(おも)なるものを挙ぐれば、京都のものでは、七条辺に住居した西川太夫一座の猿楽で、中にも児舞は最も興がられた。大黒衆の拍子というのもあった。観世太夫の弟で、遁世して宗観と称した者がまかり出でて、尺八、音曲、太鼓等を御聴に達したこともある。旧遊女で後尼となり真禅と号した女が、曲舞を演じたこともある。幸若(こうわか)の流を汲む越前の芸人が上洛して、二人舞というを御覧に入れたこともある。また昔からありきたった傀儡子(くぐつし)が、宮中でもって輪鼓、手鞠等を興行したこともある。曲舞(くせまい)の児の上手を叡感あらせられて、扇を賜わった時に、実隆が仰せによって古歌を認めて与えたこともある。これによって見ると、能狂言の少ない点だけが朝廷の好尚の武家と異るところで、その他にいたってはほとんど差別のなかったことがわかるだろう。日記文亀元年四月七日の条に、内裏の女中衆が今熊野の観進猿楽を見物に出かけたことを叙して、故大納言典侍の在世中は、後宮の取締りも厳重であったが、その後自由になり過ぎたと記しているけれど、外出はできなくとも、宮中にも相応の慰めがあったのである。
 実隆が侍従として朝夕に禁闕に出入し、ますます眷顧に浴することが深くなるにつれて、時々の賜わり物も、他にすぐれて多かったようである。毎年灰方の御料所からして年貢米が納まると一俵を実隆に賜わることがほとんど恒例のようになっており、実隆の方からは、年々の嘉例として六月に瓜を進上した。この瓜はその領地なる御牧からして持参するのであるが、延徳三年のごときは、この美豆御牧が水損で瓜もとれぬ。しかし嘉例である瓜を進上せぬも残念であるというので、人を京都中に走らし、瓜を求め出して献上した。ただしいつもならば親戚知者にも配るのであるけれど、この年はそれだけは見合わせたと日記に見えている。実隆はまた庭に葡萄(ぶどう)を植えたとみえて、延徳元年の八月にこれを始めて禁裏に献上しているが、ちょっとわからぬのは、庭の榎の樹を斫(き)って薪にした時に、三把を禁裏に進上していることである。薪三把の献上はいかにもおかしいが、これをも差し上げるくらいならば、けだしほかにもいろいろなものを献上しただろうと思われる。
 かくのごとくしていやが上に濃く成り行く宮廷と実隆との間は、一は実隆の姻戚関係にも基いているのである。実隆の室家は前にも述べたとおり、勧修寺贈左大臣教秀の三女である。さればこの教秀が伝奏を勤めておったということが、実隆と幕府とを結び付ける有力な原因をもなしたのかも知れぬ。しかるにこの教秀は役儀がら幕府に接近したのみではなく、それよりも密接な関係を皇室に結んでおったのである。というのはこの教秀の二女に房子というのがあって、これは後土御門院の後宮に召し出された。いわゆる三位局(みのつぼね)というのがすなわちこの房子で、大慈院宮と呼ばれた皇子、安禅寺宮と称せられた皇女、共にその出である。この三位局の誘引で、三条西家の奥向きの人々が、賀茂の山に躑躅(つつじ)歴覧のため出かけたことなどが実隆の日記に見えている。三位局は実隆の室の姉に当るのであるが、外にまだ一人の妹がある。これは藤子というので、後柏原天皇の後宮に召され、後奈良天皇および尼宮大聖寺殿の御生母であって、准三后、豊楽門院というのがすなわちそれだ。かくのごとく実隆がその室家の縁からして、二代の天皇と特別の関係があったのであるからして、したがって侍従をも久しく勤めることになったのであろう。実隆がその女を九条家へ嫁し得たのも、あるいはかかる事情が助けたのではあるまいか。
 三条西家は公卿の中で、決して低い階級に属すべきものではなかったけれど、さりとて九条家と並ぶべき家ではない。しからば実隆の娘保子が九条尚経に嫁したのは、異数の例であるかというに、それはそうでなく、九条家の家長または家長たるべき人の正妻は、多くこの程度の家から嫁入っている。されば三条西家から娶(めと)ったとて、九条家の格例を破ったのではないが、嫁にやった三条西家にとりては名誉のことだ。しかるに保子が尚経に嫁したのは明応四年(一四九五年)のことであるに、実隆の方から遠慮してほとんど九条家に出入しなかった。これは実に九条家に対する遠慮もあるほかに、別の事情があったのだ。というのは保子の嫁入した翌年の正月早々に、九条家においてその家礼すなわち執事の役をしておった唐橋大内記(だいないき)在数が殺害された事件があったからであろう。そもそも二重の服従関係ということは階級制度の行なわれた時代に往々あることで西洋にも珍しからぬが日本にも多々あった。大小を論せず、諸侯たる資格においては同等でありながら、小諸侯は大諸侯に対してほとんど主従のような関係を結ぶなどはその一例である。徳川時代には幕府の勢力はなはだ旺盛で、諸侯の間にかかる関係の生ずるのを禁遏(きんあつ)しておったけれど、それでもこの種のことが絶無であったとはいえない。また各藩の士族はその藩主なる諸侯の臣下たるにおいて一様でありながら、低い階級の士族は高い階級の士族に依り、その出入りとなり、役人をもやった。公卿においてもやはり同様で、身分の高くない公卿は、五摂家などに出入りしてその家職となり執事となった。一方においては低いながらも朝廷の官職を有する一廉の公卿であるかと思うと、それと同時に他の朝臣の使用人となっておったのである。しかしてこれは徳川時代に限ったことではなく、それ以前においてもそのとおりであった。唐橋在数は大内記という官を帯びた朝臣で、同時に九条家の執事であったのである。その執事としての勤めぶりが毎事緩怠至極で不義の仔細連続したという理由で、准后すなわち九条政基は目通りを止めておいた。ところが、七草の日に在数は無理に九条家に出頭したので、九条政基ならびにその子すなわち実隆の女婿(じょせい)たる尚経は、この在数を斫(き)り殺した。二人とも下手人であるともいい、あるいは父なる准后一人が下手人だとも、または尚経一人の所為(しょい)だというが、その辺はたしかでない。殺した方に理があるか、殺された方に理があるかは、一方の死んでしまった後に、分明にし得べきことでない。九条家では不届な家職を手打ちにしたというのであるけれど、それは私事で、朝臣たる大内記唐橋在数を、同じく朝臣たる九条家父子が殺害したことにもなる。おまけに在数は当時あたかも菅家一門の公卿の長者であった。そこで菅家の連中が承知せぬ。一族の協議会を開いて申状を認め、公然と出訴におよぶことにした。一族中には九条家の威勢に畏れて首鼠(しゅそ)両端の態度に出でた者もあったけれど、多数はこれに連署した。菅家以外の公卿も多くは九条家に同情しなかった。この刃傷沙汰は朝廷としても捨て置かるるわけには行かなかったので、遂に子の尚経の方に責を帰し、その出仕を止められた。そうなると世間の手前もあり、舅たる実隆も公然九条家に出入することもできず、そのために遂に四年間も無沙汰をしたのである。この無沙汰中に娘保子は男子を産んだのであるけれど、実隆は初孫の顔を見る機会を得なかった。ところが明応七年十二月の十七日に、尚経の勅勘ゆるされて出仕することになったので、実隆も大手を振って九条家を尋ね得ることとなり、その翌日早速訪問に及んだ。婿の出仕祝と無沙汰の詫(わび)とを兼ねたのであるが、ついでに保子が生んだ九条家若公のいたいけな姿を見、その容儀神妙なるを喜び、馳走を受け、前後を忘るるほどに沈酔して帰宅したとある。ことわっておくが、この時の若公というのは、後に関白になった九条植通ではない。植通の前に生れて出家し、別当大僧正経尋といった人である。
 かかる間に実隆は明応の二年に従二位に叙せられ、それからして九年を経て文亀二年に正二位に叙せられた。それからして永正三年に至るまでに、官位共に変動がない。越えられて都合のわるい人に越えられたのでもなく、憤懣するほどの理由とてはないのであるけれども、彼の権大納言たること、長享三年以来足かけすでに十八年の久しきに及んだ。ずいぶん退屈しないでもない。父公保も内大臣までは昇進したから、自分もそれまでは進みたい。
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