東山時代における一縉紳の生活
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著者名:原勝郎 

 予がここに東山時代における一縉紳(しんしん)の生活を叙せんとするのは、その縉紳の生涯を伝えることを、主なる目的としてのことではない。また代表的な縉紳を見出すことが至って困難であって見れば、一人の生活を叙して、それでもって縉紳階級の全部を被(おお)わんとするの無理なることは明白だ。しかしながら予の庶幾(しょき)するところは、その階級に属する一員の生活の叙述によりて、三隅ともに挙げ得るまでには行かないでも、せめてこれによって縉紳界の一半位をば想知することを得せしめ、もしなおその上にでき得べくんば、当時の文明の源泉なる京都における社会生活の一面を、これをして語らしめようというにある。しかしながら叙述の出発点を個人にのみとり、それから拡充して社会を説明しようとするのは、企てとしてはなはだ困難である。ここにおいて予は便宜上この論文を二段に分ち、その第一段には、性質上結論であるべきはずの東山時代に関する予の意見を、先ず一通り縷述(るじゅつ)しよう。しかして第二段に至って或る一縉紳の生活を叙してみたい。結論の性質のものを前にするのは、冠履顛倒のやり方で事実を基礎として立つべき歴史家の任務を忘却したわけになるようであるけれど、一縉紳の生活をいかに綿密に叙述したとて、それのみで、時代の大勢を推し尽くすことは、とうてい不可能であって見れば、予の第一段は必ずしも第二段の結論ではなくむしろ序論の性質を帯びたものである。これを第一段として先ず説くのは、第二段において叙せらるべき一縉紳の生活の背景を画かんがためである。しかして第二段においてなすべき叙述をば、たんにこれをして如上の背景を利用せしむるのみでなく、第一段の概括的評論と相反映し、少なくもその一部分だけでも立証させたいものだと思う。読者あるいはこの論文をもって帰納によらざる空論なりとし、あるいは帰納と見せかけた演繹(えんえき)論だと評するかも知れぬが、予はひたすらに帰納をくりかえすことをもって史家の任務の第一義だとは考えておらぬのであるから、かかる批評はあまり苦にならぬ。手品だと評せられるならば、それでも甘受しよう。ただ恐るるところは拙い手品の不成功に終りそうであることのみである。先ず第一段から始めよう。因(ちなみ)に述べておくが予はかつて『芸文』第三年第十一号に、「足利時代を論ず」と題する一篇を掲げたことがある。東山時代は足利時代の中軸であるからして、本篇とそれと、大体の帰趣において重複を免れない。しかしながらかつて論じたのは東山時代を主として睨(にら)んだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。

 鎌倉幕府の開設は、たんに政柄の把握者を替えたのみではない。政庁の所在地を移したのみでもない。これと同時に日本の文明が従来の径路と違った方向をとりかけたという点において、歴史上重大な意義を有するのだ。行き詰った藤原時代の文明はかくして新生面を開こうというのであったのだが、しかるにその文明の方向転換は鎌倉幕府の衰滅とともに失敗におわり、将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。復古といわば、復古ともいわれよう。さて何故に鎌倉時代の初期にあらわれた彼の新気運が、そもそも頓挫してこの始末になったかということについては、けだし種々の原因もあろうが、主因としては、従来の文明の根柢がすこぶる堅く、これを動かして方向を転ぜしめることの容易でなかった点にある。従来藤原時代の文明に関しては種々な説が史家の間に闘わされてあったので、当時の文明は決して輸入分子を主としたのではない、付焼刃の文明ではない、日本を本位にしたその基礎の上に支那文明の長所のみを採り加えたのだと主張する論者もある。この論はわれわれの祖先の名誉を発揮する所以のものであるからして、それがもしはたして真を得ている論であるならば、これに優る結構なことはないのである。しかしながら退いて考えると多少ショウヴィニズムの臭がある。この種の論者の論拠とするところは、大宝の律令をもって唐の律令に対照し、その全部が彼の模倣でなく、所々にわが国情に適するごとき修正を加えているという点を力説するにあるのであるが、これははなはだ強くない論であるので、全然彼を模倣してはおらぬと言うだけでは、輸入分子を主としておらぬという証明にはならぬ。もし当時の日本の指導者が、行き届いた細心をもって取捨を行ない、己を主として然る後に彼に採るところがあったとすれば、換言すれば彼らのやり方が進歩的保守主義であったとすれば、藤原時代の文明というものは、決して然るがごとく早く行き詰まるはずのないものである。予の見るところではどうしても彼を本にしてこれに若干の修正を加えたと考えるほかはない。
 すでに彼を主にしたといえば、次に起こってくる問題は、そのこれを輸入した当時の彼国の文明の如何なるものであったかというまでに及ぶのであるが、隋唐の文明はこれを輸入した当時のわが国のナイーヴなのに比べて、宵壌(しょうじょう)の差ある優秀のものであった。隋はともかくとしても、唐にいたっては、その文明が支那においてすら行き詰まるほど発達してしまった時である。かくのごとき高度に達した一種の文明は、これをいっそう進歩した国に移植したとて格別の累をばなさず、かえって進歩を助けるのであるけれども、これをはるかに彼に劣った当時の日本に移植したのであるからして、日本でもいくばくもなく行き詰まるべき運命を持っていたのだ。日本は幸いにして、これを齟嚼(そしゃく)するのに反芻(はんすう)作用をもってしたので、はなはだしい害をば受けずにすんだのであるけれども、もしそれがなかったならば、日本も朝鮮のようになったにきまっている。だいたいにおいては一旦行き詰まりかけたに相違ないのである。しかしてこの行き詰まりを切り開いたのはすなわち鎌倉幕府の建設である。いわゆる窮してまさに通ぜんとしたものだ。それが十分に通じかね転じかねたのは、輸入された方があまりに優勢であったからであって、たとえてみれば一河まさに氾濫せんとし、幸いに支流の注入によってしばらく流路を転ぜんとする勢いを示すも、原流のあまりに水勢強きがために、ついに大いに流路を転ずることあたわずして終るがごときものである。要するに幕府が鎌倉からして京都に移されるとともに、せっかく鎌倉に出来かけた新しい文明の気運はここに萎靡(いび)し果てて京都のみがまた旧のごとく文明の唯一中心となるに至った。しからばその京都はどんな有様であったか。
 奈良朝以前から輸入されきたった文明は、平安奠都によって京都において涵養(かんよう)され、爛熟し、しかして行き詰まったのであるが、さてこの文明とともに終始すべき運命の京都も、またその文明の行き詰まりとともに行き詰まった。時代の推移に従う多少の変化を容(い)るる余地がまったくなくなったというでは無論ないけれど、その大体において京都はすでに都会として出来上がってしまった。根本的の変更をなすことのとうてい不可能なほどに出来上がってしまった。本邦には珍しい、むしろ支那式ともいうべき都市生活が発達してしまった。かかる高度の文明を具体した京都は、将軍の幕府が鎌倉から引き移って来たからとて、それがために鎌倉式に成るものではない。その鎌倉すらも実は末になるにしたがって、だんだん京都風になりかけておったのであるからして京都が今度そのかわりに征夷将軍牙営の地となったからとて、その故に京都の趣が大いに替わるということのあるべきはずがなく、かえりて反対に将軍が鎌倉時代よりもいっそう公卿化したのである。しからば足利時代の京都は全然藤原時代と同様な有様に逆戻りしたのか。
 余は前文において京都は鎌倉に打ち勝った、武家政治は終に旧文明の根本的性質を変更することができなかったと述べた。然り、根本的には変革を来たし得なかった、しかしながらまったく何らの影響をも及ぼし得なかったというのではない。予は元来足利時代をもって大体において藤原時代の復旧と見なさんと欲する者であって、もし藤原時代を日本の古典的時代と考え得るならば、足利時代はルネッサンスに擬せらるべきものであると思う。ただそれと同時に忘るべからざることは、彼のルネッサンスが決して古典時代そのままの再現ではないごとくに、足利時代もまた決して藤原時代そのままの復旧ではないということである。鎌倉時代はおおよそ一百五十年の久しきにわたりており藤原時代と足利時代とは時間においてそれだけの隔(へだた)りがある以上、仮りに武家政治というものが開設せられなかったにもせよ、その他何らレジームを攪乱するごとき事件がその間に出来(しゅったい)[#「出来(しゅったい)」は底本では「出来(ゅしったい)」]しなかったにせよ、藤原時代の有様が、そのままに引いて足利時代まで伝わるべきものではなく、外部からの影響がなくても、内面的変化を免るることのできるはずはない。しかしてあくまでも従来の傾向を続け、爛熟の上にも爛熟することがとうていできぬことであるとすれば、その行き詰まった末には遂に頽廃期に入るべきものである。しかしながら足利時代において認め得べき変化は単にこの種のもののみではない。換言すれば鎌倉幕府は失敗に終ったとはいいながら、武家政治がともかく一たび開設せられたということは、まったく歴史に影響を及ぼさずにはいられぬ重大なことであって、足利時代というものは、ある意味における武家政治の継続になる、公卿化したとはいいながら、将軍およびその臣隷は武人に相違ない。もし承久の事変に宮方が勝利を得たと仮定しても、それは足利将軍が京都から号令した有様と異ったものでなければならぬのであるが、いわんや藤原時代にいたっては、承久時代ともまた大いに相違があるからして、足利時代は決して藤原時代そのままの再現であり得ぬのである。要するに足利時代は武人化したる藤原時代ともいえる、復古とはいいながら中間に挾まった鎌倉武家政治の影響を少なからず受けている。さてそれならば、武人化するというのはいかなる意味か。およそ武人化したという義の中には、世の中において武力によって決せられる場合の多くなって来て、事実上の執政者の間に尚武の気象が旺盛になったという点もある。足利義尚の六角征伐のごときは、藤氏全盛時代の公達(きんだち)には見られぬ現象であって、この見地からするも両時代の差を分明に示すものであろう。しかしながらこのほかにも武人化なる語に尚別の意義がある。
 元来藤原時代の文明はすこぶる階級的な文明であった。この文明の下に庶民もいくらかの進歩をなし得たことはもちろんであるけれど、それはいずれの階級的文明にもあることで、この文明の浸潤がある故をもって、藤原時代の文明がかなりに庶民をも眼中に置いたもので、すなわち階級的なるに甘んじた文明ではないというのはこれ少しくいい過ぎた論である。そもそも庶民を眼中に置いたか否かが階級的であるないの標準となるものではなく、上流社会が庶民を自分らとははるかに隔った徒輩と目して、もってこれを眼中に置くということがそれがすなわち立派な階級的精神である。さてその階級的であった状態からして、次第に平等の域に向って移り行くのには、かの慈悲とか憐愍とかいうように、己を先ず一段高き地位に標置して、それから下に向って施すところのその厚意に基くことははなはだ稀であって、多くは上流者が下級者の己に接近するのを認容することによって実現されるのだ。しかしてかかる厚意は稀に自発的に発することもないとは限るまいけれど、多くの場合においてはむしろ強請によってやむを得ず表現せざるを得ぬ事情に立ち至るのである。しからばかかる強請が時と場合とを択ばずに行ない得るものであるかというに、それは決してそうでない。強請といえば少々語弊があるが、要するに請求してよいだけの資格が生じて、しかる後にした請求でなければ、真にその欲するところを貫徹することができぬ。換言すれば階級精神を打破するか、あるいはその衰微を促すのには、下層人民が進歩し、向上し、その属する国家社会において己らがいかに重要なる分子を構成しているかを自覚することが最も必要である。喜んで上流よりする仁愛を仰ぎつつある間は、とうてい階級精神の打破はできぬものである。藤原時代においては最下層の者はもちろん、それよりもなお一段上に在る中流階級すらも、みな文明の上において所動者であって、概括すれば社会は階級上三というよりもむしろ二に大別され、藤原氏の一部および少数の異姓者が上流を組織し、もって武士以下の下級者に臨んだものだ。武士らは中流社会というよりも、むしろ下級中の上層に位すというべきものであった。その証拠には現に彼らの多数は、保元の頃まで藤原氏に臣事しつつあったのである。平氏が政権を握るに至ったのはこの下級中の上層に在った一族が跳びこえて上流の仲間入りをしたのであるが、しかしその目的を達するに至った手段は、平氏の本職たる武力によったのではなく、むしろ藤原氏中の一族が久しき沈淪から脱出して栄達したというような有様で、要するに宮臣的のやり方が、あずかりて大いに力をなしている。であるからして平氏中の特別な一族が立身したからとて、これにつれて平氏一門が栄達したというわけでもなく、また武士たる者の社会的地位が総体に向上したというわけでもない。武士という者が相胥(あいもち)いてその位置を高め、社会の表面に現われるようになったのは、武力によって、詳言すれば一個人の勇気ではなく多数武人の集合したる武力によりて、鎌倉の幕府が開かれてからの、その以後のことである。予が上文において武人化したというのはすなわちかくのごとき推移をさすので、階級的精神がこれによりてまったく打破されたというのではないけれども、ともかくかくのごとくして中流階級が出来たといおうか、もしくは上流階級が多人数になり、しかも単純なる一種に限らず、廷臣のほかに武人という分子をもその中に算するに至ったという有様になったのが、これすなわち階級精神を弱むる一因たるに相違ないので、つまりその打破に向って一歩を進めたものである。しかしてこの傾向は承久の役の鎌倉の勝利および建武中興の不成功によりて、いよいよ跡戻りし難い大勢となった。武人化は常に階級制度の衰微に伴うものとはいえないけれども、この場合においてはたしかに民主主義に一歩を進めたものなのである。しかして足利時代というものは、実にこの大勢の成した結果だとすれば、たといその文明の本質において大いに復古的の点があるにもせよ、これを藤原時代に比して顕著なる差異のあるものと考えざるを得ない。
 第三に足利時代のその既往に比して異り、したがいて藤原時代と大いに同じからざる点は、文明の伝播力の強弱の差である。足利時代において日本の文明の分布が、前時代に比し、すこぶる普遍平均の度を加えたのは、これ一には当時における文化なるものが、藤原時代において上流社会の壟断(ろうだん)するところとなっておった文明に比べて、その典雅の度を減じて通俗になり、卑近になり、必ずしも上流者流の間にのみ限らなければならぬ底(てい)のものでなくなったことに基づくとはいいながら、なおそのほかに伝播力が藤原時代に比して大いに増加したということも、そのまた有力な一原因をなしている。そもそも文明の伝播なるものは、ある意味において伝染病と同様であって、同じ伝染病でも時と場合によって、伝染性の強弱一様でないごとくに、本質を同じくする文明でも、時代によってその波及力に差等がある。本質と伝播力とは必ずしも並行するものではない。しからばこの伝播力が何からして最も有力なる衝動を受けるかというに、それはすなわち政治である。政治は文化の一要素をなすのみでなくあわせてこれを波及せしむる原動力をなすものである。藤原時代においては、その文明の品位がいかに優秀であったにせよ、その制度がいかに整然たるものであったにせよ、その政治の実施に必要な統治力が微弱であったため、大いに伝播すべきはずでありながら、しかもその伝播ははなはだ遅々たるものであった。あたかも道路の予定線の網のみが系統的に整備しておって、しかしてその線をたどる通行人の極めて寥々(りょうりょう)たるがごときものである。しかして何故に統治力が微弱であったかというに、その原因は主として非尚武的な支那文明を過度に採用したからである。支那人が人種として尚武的であるか、あるいは非尚武的であるかは、しばしば論議せらるることであるが、これは今予の論ぜんと欲する点ではない。のみならず仮りに支那人をもって、本来の非尚武的人民ではないとしたところで、およそ民族の尚武的分子というものは、その文明の爛熟とともに次第に比較的減少をなすものであるからして、支那文明の絶盛期である唐代に、尚武的色彩があまり濃厚でないのは、これはなはだしく怪しむに足らぬ。しかしながら文明の燦然たる盛唐ですらも、予は尚武的分子の減退の程度はなはだしきに過ぎたと思う。ましてそれよりも未開の程度にある当時の日本が彼の系統的なのを喜んで、その本質をそのままに輸入し、日本が支那よりもさらに深く尚武的要素の必要を感ずるものだということに思い至らなかったのは、これすなわち政治の統治力の足らなかった有力なる原因であると考える。血液そのものの成分には欠点が少なくとも、日本の血管に文明の血の循環が十分でなかったのはその故主としてここに存せなければならぬ。
 鎌倉時代の文明は藤原時代の継続で、多少デカダンに陥りていこそすれ、古典的なる品質において向上しているとはいい難い、しかれども武力を基とした、新政治は、その系統的制度としての価値こそ前時代に劣る観があるとはいえ、溌溂たる活力をそなえたもので、したがって、その文明の伝播力に与えた衝動は、前代におけるがごとく微弱な者ではなかった。もし鎌倉幕府が今少し長く持続し得たならば、日本の文明はおそらくもっと早く進歩したであろう。しかしながらたといさほど長く持ちこたえなかったにもせよ、この新政治が与えた衝動の決していたずらに終らなかったことは争われない。しかして足利時代はその後を承けたものである。将軍が、公卿化して京都におっても、政治は武家政治に相違なく、その与うる衝動力は藤原時代よりもむしろ旺盛であった。そればかりでなく、武家政治の本拠が文明の源泉である京都にあったということが、鎌倉時代すなわち幕府の京都になかった時代よりも、むしろ京都文明の伝播に好都合であった。ここにおいて足利時代の京都文明は古典的見地からしていえば鎌倉時代のそれよりもさらにデカダンの趣を加えているのにかかわらず、日本全体の文明はその尚武的分子の加わったために、藤原時代そのままの復活にはならぬと同時にかえって新しき光彩を発揮したのである。都鄙の交渉の頻繁なるがごときは、まさにもってこの伝播の盛んなのを徴すべき有力なる証拠といえるだろう。
 かくいわばあるいは異論が起こるかも知れぬ。鎌倉時代はその論でよろしいとしても足利時代は乱世であるではないか。その文明にはあるいは藤原時代になかった伝播力が具わっているにもせよ、群雄は各地に割拠(かっきょ)し盗賊は所在に横行し、旅行の安全を害しつつあったではないか。しかして交通安全でなければ、いかなる文明も遠隔の地に波及すること至難ではあるまいか。伝播力があっても、壅塞(ようそく)の方が強くして、伝播の事実が現われ難いだろう云々。この説は一応もっともではあるが、実は考察の未だ至らぬ点がある。なぜかというに藤原時代に文明の波及が遅々としておったのは、一はその伝播力の強からざるにもよるが、また一には伝播に対する自然の障碍(しょうがい)の未だ除かれざるものが数多あったに坐する。しかしてこれらの自然的障礙は、鎌倉時代から足利時代にかけて次第に打ち勝たれ取り除けられた。これは交通を易(やす)からしめ、したがって文明の伝播に資したこと少なくない。文明の伝播に最も必要なる書籍の足利時代に入ってから頻繁に刊行されたということも伝播を促す原因を成すと同時に、伝播の可能である形勢を前提として始めて起こり来るべきことである。小人数の仲間にのみ行なわれ、一局地以外に伝播する見込みのない時代にたとい木版とはいいながらも、とにかく書籍の刊行がしばしば行なわれるはずがなかろう。まだ以上のほかに足利時代の交通を論ずるにあって忘れてはならぬことは、当時の交通は陸よりも海を主としたということである。徳川時代からして以来陸上の交通が安全になり便利になったその状態に馴致(じゅんち)し、その旅行に際しては、主として鉄道によりて海路を避け、やむを得ず乗船するとしても、いわゆる聯絡航路なるものを採って、なるべく乗船時間を短縮せんとする現在の日本人は、徳川時代以前の交通に関してややもすれば誤れる考えに陥りやすく、当時の田舎人が京都に往来するには専ら陸路により、あたかも徳川時代の関西と江戸との間の往来が五十三次を伝わったごとくに、つねに長亭短亭を一々に経過しつつ旅行したものの様に考えむとする。換言すれば五畿七道という建制順序に過重の意義を付し、京都からして東海、東山、北陸、山陰、山陽の五道に進発するのには、国尽くしに挙げてあるような順序で国々を通り貫いたものと合点したがる。かように考えれば、なるほど東山時代に交通の障碍が到る処に横わり、いかに強い力のある文明でも伝播ができず、日本の大部分が暗黒に想像されるのも無理はない。しかしながらかく想像したのでは、大内家と京都との関係のごときはまったく説明のできぬことになる。船舶というものの広く用いられなかったその昔のことならばいざ知らず、いやしくも航海の相応に行なわれるようになった以後の時代においては、日本のような環海の国にあって、交通が専ら陸路にのみ便(たよ)るというわけのあろうはずがない、海に風浪の難があるというかも知れぬけれど、陸上にも天然の困難がないでもない。兵庫なるもののかつて用いられたことのない日本において、坦々たる大道の存在を足利時代以前に想像することは不可能であるからして、狭隘と峻険とは共にしばしば旅客の忍ばねばならぬ苦痛であったろう。また陸には覆没の憂いがないにしても、旅舎の設備の不完全は、海上の旅行者の嘗(な)めずにすむところの欠乏であった。海には海賊の禍があるとするも、陸上とても群盗所在に出没した。この点においては海陸ほとんど択ぶところがない。されば乱世のために陸路が往々梗塞(こうそく)を免れなかったとしたところで、海というもののある以上、足利時代の交通がはなはだしく阻礙(そがい)されたと考えるのは、少しく早計ではあるまいか。いわんや陸上の危険においてすら、足利時代必ずしも藤原時代よりもはなはだしかったとは、にわかに断言し難いことを考えると、われわれは強いて足利時代における文明の伝播を否定するにも当らぬことになる。
 論者は往々にして足利時代殊に応仁以後の群雄割拠の状態から概論して、これを乱世だという。また群盗の横行に徴してこれを秩序紊乱(びんらん)の時代だとする。足利時代はその太平恬熈(てんき)の点において、むろん徳川時代に匹儔(ひっちゅう)し得べきものではないが、しかしはたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。換言すればかかる記事の増加をもって、文明の進歩の表徴だと考え得ぬこともあるまい。なおその上に足利時代の方がかえりてそれ以前の時代よりも、群盗横行の害少なかったろうと思われる他の理由もある。群雄の割拠がすなわちそれである。
 群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。中央政府の勢力が広く波及したようでも、その把握力が極めて脆弱(ぜいじゃく)なものでなかったろうか、中枢がただ一つであったということは、必ずしもその中枢の集中力の強大を意味するものではない。のみならず悲観論者は、群雄割拠になると、その群雄の各々の領内には数多の群盗が横行して、その秩序はいやが上に乱脈になると想像するらしいが、これが果して肯綮(こうけい)にあたった想像であろうか。もしこの想像が正鵠(せいこう)を得るものとすれば、ローマ帝国時代よりも、近世国家の樹立以後における欧洲の秩序が、一層紊乱しておらなければならぬ。はたしてそうであろうか。余の意見はこれと反対だ。群雄は国を盗む梟師(たける)である。鈎を盗む小賊が到る処に出没するよりも、彼らの若干を制馭する有力者すなわち群雄が現われて、割拠の形勢を成すということは、まさにより大なる統一を致さんとする前において、先ず小なる数個の統一をなすものであって、換言すれば集中作用の大いに発動しかける端緒である。余は群雄の崛起(くっき)をもってむしろ小盗の屏息を促すものだと考える。かく考えきたれば応仁以後の群雄割拠時代が、必ずしも藤原時代より無秩序で交通の危険が多かったと断言することがむつかしくなるではないか。
 藤原時代と比較することをば、先ずこのくらいにしておこうが、次には足利時代に時代相当の交通の不便と危険とを認めた上に、さてそれらの不便や危険等が相当の人々からいかに感受されたか、換言すればこれらの故障がいかなる程度まで交通を阻碍したかを論じてみよう。それについて第一に弁じなければならぬのは当時のいわゆる乱世なる状態が、いくばくの不安の念を起こさしめたかについてである。たんに不安といえば、大疾患もその一であるけれど、蚤の食うのもまた不安である。安逸と奉養とに事欠かぬ今日の人は、些細なる市井の出来事にも驚いて、はなはだしく不安を感じやすいのであるけれどもこの感じ方は、現今においてすら国によりて差等あるごとくに、同一国においては時代による差等があるに相違ない。予といえども、足利時代をもって人々が大いに楽観した時代だとは考えておらぬけれど、さりとて余は徳川時代の歴史家、およびその説を踏襲する今日の一部歴史家の考うるごとくに、足利時代殊に応仁以後において、都鄙の人心が戦乱のために朝夕旦暮(たんぼ)恟々(きょうきょう)として何事も手につかず、すべて絶望の状態にあったとは信じ得ない。道路の不便と交通の危険とのために、ほとんど旅行を断念したものだとは想像し得ない。海外との交通が、いわゆる乱世になってからして、かえって盛んになったのみならず、日本人の手が蝦夷島に伸びて、そこに恒久的根拠を有するに至ったのも、実にこの時代からの事である。五畿七道とてもまた同じことだ。数多の中枢が海運によって聯絡されてあったばかりでなく、陸上にも諸種の用向を帯びた旅客が絶えず徘徊しつつあった。しかしてその往来に必ずしも護衛を付するという次第でもなかった。かの宗祇およびその流れを汲む連歌師らは、鎮西から奥州まで、六十六国を股にかけ、絶えず旅行のしどおしであった。しかるに彼らの日記には、旅行危険に遭遇した記事が多くない。想像するほどに交通が杜絶しなかったことは、それによっても明瞭である。のみならず、不安の状態にも種々あって、全国に善く行き渡ることもあれば、あるいはまた一地方に局限されることもある。もし足利時代の不安が日本のある一部に限られておったものならば、その部分と他地方との連絡の、あるいはしばらく遮断せらるることがあるだろう。しかしながらこれに反して京都を始めとして六十六国ほとんど同じような不安の状態にある足利時代のごときにおいては、どこがまったく安心だというべき場所がないのであるから、不安の点において全国均一に近い。この均一の状態に近づいたという点は、すなわち文明の波及の行き届く下地になるので、この点において足利時代は、鎌倉時代および藤原時代にまさっており、この均一が基礎をなしたればこそ、徳川時代の大統一ができたのだ。
 論文の前半を終るに臨みて最後に付け加えておきたいことは、旅行と不安の念との一般の関係である。商売その他利益を得ることを目的とする旅行においては、その利益のために相当な危険を冒すことは、多数の辞せざるところだ。したがって大なる利益を獲得する望みがある場合には、大なる危険をも意とせぬことしばしばである。しからば獲利を主眼としない、たとえば快楽のための旅行はどうであるかというに、これとても不安の状態のために全然妨止せらるるものとはいい難い。否、多少の不安の念は、旅行者に与うるに、旅行に必要な設備の具全(まった)からざるものとは異るところの一種の快感をもってするものである。言語不通の外国に旅行しても、なお一種の興味を感ずるのはすなわちそれだ。というとあるいはその場合における興味は不安の念からして来るのではなくして、新奇なる事物に接触することから来るところの快感だというかも知れぬが、新奇なものが何故に快感をひき起こすかというに、それもやはり不安の念を発せしむるからではあるまいか。不安の念はすなわち驚喜の感の前提である。何ごとも予期どおりになることのみが必ずしも旅行の興味ではない。一つ卑近な例をとってこれを説明しよう。わが国で数年前に茶代廃止運動というものがあった。この運動の目的は、旅行者のために無益の費用を節減すると同時に、置くべき茶代の額を見計らいする心配を除こうというにあったのだが、この心配を除くのがすなわち不安排除だ。ちょっと考えると誠に結構な運動のようであるが、この運動は一時多少景気づいたけれども、間もなく廃(す)たれてしまって、今日このごろでは茶代廃止旅館などという看板を出しておく宿屋はほとんどなくなった。しからば何故にこの美挙が失敗に終ったかというに旅客が浪費を好むからだというわけではない。他にもいろいろ原因があろうけれど、主として不安の念を勦絶(そうぜつ)しようといういらぬ世話が旅客に好まれぬからだ。この茶代の見計らいのごときは、不安の中でも最も危険の少ないものであるから、どうでもよいようなことであるが、そもそも不安の念というものは、元来旅行にとりて嫌うべきものでないのみならず、かえってある程度まで歓迎すべきもので、中には主としてこの不安を欲するがために旅行を企つることもあるくらいだ。いわゆる冒険旅行のごときすなわちそれである。また冒険というまでには達せずとも、秩序の定まっておらぬ国を旅行して興味を感ずるのは、すなわち同一の理に基くものである。今日の支那は戦乱のない時ですらも、決して秩序の定まった国とはいえない。しかるに支那の旅行において、日本の旅行で得られない興味を感ずるのは、決して旅行者に対する設備が具わっているからでなくして、つまりその秩序が十分に立っておらぬからで、旅客をして多少不安の念を起さしめるからだ。日本の足利時代は今の支那だ。現在の日本を旅行しても感じ難い興味をば、足利時代の旅行において感ずることができたに相違ない。これを要するに足利時代のいわゆる乱世であるということが必ずしも交通の阻碍とのみ見るべきものではなくして、かえりてこれに刺戟を与えて発見を促した点もあることは、足利時代の事物を観察するに際しての忘るべからざる鎖鑰(さやく)であろう。
 約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。もしはたして然りとすれば、イタリアを除外してルネッサンスを論ずることのできぬと同様に東山時代の京都の文化の説明ができれば、それでもって同時代における日本の文化の大半を説明しおわるものとなすべきである。しかして当時の京都の文化が、その本質において縉紳の文化であるとすれば、京都に在って、文壇の泰斗と仰がれておった一縉紳の生活を叙述することは、日本文化史の一節として決して無用のことであるまい。しからばその叙述の対照たるべき縉紳として次に選択された者は何人(なんぴと)か。三条西実隆(さんじょうにしさねたか)まさにその人である。
 三条西実隆の生活を叙するに当って、第一に必要なのはその系図調べである。三条西家が正親町(おおぎまち)三条の庶流で、その正親町三条がまた三条宗家に発して庶流になるのであるから、実隆の生家は非常に貴いというほどでなく、父なる公保は正親町三条から入って西家を嗣いだためか内大臣まで歴進したけれど、養祖父実清の官歴はさまでに貴くなかった。養曾祖父とても同様である。しかして槐位まで達し得たかの公保すらも、その在職極めて短くして辞退に及んだ。これは家格不相応の昇進をなした場合によくあることである。つまり今日いわゆる名誉進級という格だ。また実隆の親類を見渡すにあまりに高貴な家は少ない。母は甘露寺家の出で房長の娘親長の姉である。妻は勧修寺教秀の女で、実隆の子公条の妻もまた甘露寺家から嫁入りをしている。要するにその一族の多くは、今の堂上華族中の伯爵級なのである。それらからして考えれば、実隆の生家というものは、公卿の中で中の上か上の下に位すべき家筋であるのであって、この家柄のよいほどであるという点は、すなわち実隆をもって当時の公家の代表者として、その生活を叙すると、それによって上流の公家の様子をも窺い、あわせて下級の堂上の状態をも知らしめることができる所以なのである。もし当時において誰か一人の公家を捉えてこれを叙するとすれば、実隆のごときはけだし最もよき標本であろう。のみならずかかる叙述をなすにあたっては、なるべく関係史料の豊富な人を択ぶ必要があるのに、幸いに実隆にはその認(したた)めた日記があって今日までも大部分は保存されてあり、足利時代の公家の日記としては、最も長き歳月にわたり、かつその中にある記事の種類においても最も豊富なものの随一であるという便がある。当人の日記がすでにかようの次第である上に、なおこれを補うべき史料としては、実隆の実母の弟甘露寺親長の日記もあり、また実隆の烏帽子子(えぼしご)であった山科言継(やましなことつぐ)の日記もある。相当に交際のあった坊城和長の日記もある。また公家日記以外にも、その文学上の関係からして、実隆についての記事は、連歌師の歌集やら日記等に散見していること少なくない。かかる事情は研究者に多く便宜を与うるものであり、したがって予をして主題として実隆を選択せしめた重(おも)なる理由の一つになるのだ。しからばそれら史料の利用によらば、実隆その人が目前に見えるように理解され得るのかというに、なかなかそうはゆかぬ、はがゆい事はなはだしい。しかし十分ならぬ史料からして生きた人間を元のままに再現することは、化学的成分の精密に知れている有機物を、人工で以て作り上げるよりも、さらにむずかしいこと勿論の話であるからして、その辺は読者の諒察を仰ぐ。
 三条西実隆は康正元年に生れ、天文六年八十三歳をもって薨じ、その日記も文明六年すなわちその二十歳の時からして、天文四年すなわちその八十一歳の時に至るまで、六十一年間のことを書きとめてある。一身でかく久しい間浮世の転変を味わったのであるが、およそ六十年といえば、その前と後とでは、世態も人情も少しならず変遷すべきであるからして、その移りゆきつつあった世の中に処した実隆の生活も、また随分と変わったに相違ない。けれどもその変遷の刹那刹那を活動写真のように描き出すことは不可能であるからして、便宜のために実隆の生活を三方面に分って記述することにしよう。第一はその家庭における私生活、第二は廷臣としての公生活、第三は文学者としての生活である。しかしてこれらを叙する前に、応仁一乱以後の京都の有様について先ず一言することにしよう。
 最初からしてあまり太平とは評し難かった足利の天下は、応仁の一乱を終って乱離いよいよはなはだしくなった。そこで当時の人々ですら、この兵乱をもって歴史上の大なる段落とし、一乱以前あるいは一乱以後という語をしばしば用いている。そもそも応仁の乱というものは、輦轂(れんこく)の下、将軍の御膝元での兵乱としては、いかに足利時代にしても、まことに稀有の大乱で、これを眼前に置きながら制馭(せいぎょ)し得なかった将軍の無能は、ここに遺憾なく曝露され、それまでにすでに横暴をやりかけておった地方の守護およびその他の豪族は、ますますその我儘に募り出したとはいうものの、応仁の乱は、足利時代史において珍しい性質の兵乱とはいえない。応永・嘉吉にあった騒動をただ一層大袈裟にやったまでのことに過ぎぬ。したがって応仁の乱は乱離の傾向に加速度を与えたには相違ないけれど、太平な世の中がにわかにこれがためにどうこうなったのでは決してない。本をただせば応仁以前の状態が、すでに永続し難い無理な状態なのだ。武家政治創始以来さなきだに不都合な荘園制度が、ますます不都合なものとなり、最初段別五升を収めるかわりに、荘園内の警察事務を行なっておった地頭なるものは、後には地頭職という名の下に、その収入のみをも意味することとなり、その職務の方は地頭代がこれを行なうこと一般の例となった。あるいは全くこれを行なう者がなくなった場合もあろう。地頭の名義人が女でも小児でも、さては僧侶でも差支えないということになったのであるから見れば、あまり確実に職務が行なわれたらしくもないのである。建武中興から始まったいわゆる南北朝の争いは、ちょうどこの荘園の有様が移りゆきつつあった、その過渡の最中に起った出来事であって、絶えざるその兵乱のために、無意味な地頭の増加は、あるいは一時食い止められたのであろうけれども、南北合体とともにまた最初の傾向どおりに大勢は動き出したのである。さてこうなると、最初からして責任なくして権利のみあった本所や領家はもちろんのこと、地頭ですらも全く無責任のものとなり、荘園内に善意の有力者がある場合をば別として、さもなければ全く無秩序の状態に陥ることとなったのだ。かような有様が永続されては、本所や領家や地頭名義人にはよいかも知れぬけれど、日本のためにはこの上ない災難である。本所や領家は、最初鎌倉からして地頭を置かれた時には大いに憤慨し、何とかして侵害された権利を恢復しようと焦慮したのであるけれども、承久・建武の経験をした後は、もはやあきらめをつけ、この上は武家と争うことを止めるのみならず、反対に武家の勢力を利用して、もってまだ手許に残って失われずにある権利だけを繋ぎ留めようとした。まことに思い切りのよい賢い分別である。しかしながらそれでもなお無責任者の手に莫大なる権利を残しているのであるからして、日本の健全なる発達のためには、荘園制度をばどうにかして顛覆する必要があり、実際に大勢はその打破に向って進みつつあったのだ。かの守護あるいはその下にある有力な被官人らが荘園を横領し、年貢を本所領家に運ばなくなったのは、すなわち成るべきように成り行(ゆ)いたもので、それらの横領者の御蔭でもって、将来の日本の秩序が促進されるということになったのだ。されば足利時代の末が群雄割拠の形勢になったということは、日本のためにひたすら悲しむべきこととのみはいい難く、しかしてこの大勢を促進したのは、すなわち応仁の乱であってみると、この兵乱は日本の文明史上案外難有味のあるものになる。ところが一条禅閤兼良は曠世の学者であったとはいいながら、政治家としては極めて簡単な保守主義で、准后親房のような達識ではなかった。この大勢を看破せず狂瀾を既倒に回さんとのみ考えた。して見ると日野家の出なる義政夫人を母とし、この兼良の教育を受けたという将軍義尚が、健気(けなげ)な若殿であったけれど、やはりこの大勢には気がつかなかったのにも不思議はない。近江の守護佐々木六角高頼が、本所領家に納むべき年貢を横領するのはけしからぬというので、義尚は公家や社寺の利益保護のため、文明十九年に近江征伐を思い立った。その戦争はずいぶんナマぬるいものであって、あたかも欧洲中世の八百長戦のようであったけれど、師の名義に至りては堂々たるもので、つまり理想のための戦争であった。ただし大勢に逆らった目的を達しようとする戦争であるから、その成功を見なかったのも怪しむに足らぬけれど、二十歳を越えたのみの将軍が、公卿と武人とを取りまぜた軍勢を引率して、綺羅(きら)びやかに出陣した有様を日記で読むと、昔ホーヘンスタウフェン末路の皇族らが、イタリア恢復のために孤軍をもって見込なき戦闘をやったのと相対比して、無限の興味をひき起こさしめる。他日機会を得たならば、余はこの近江征伐を論じてみたいと思う。
 義尚将軍の鉤(まが)りの里の陣は、応仁の一乱によって促進された大勢に、さらに動かすべからざる決定を与えたものだ。荘園制度の持ち切れないものなること、頽勢の挽回し難きものなることは、この征伐の不成功によっていよいよ明白になった。秀吉の時にて荘園が全然日本に地を掃うようになったが、その実この掃除は足利時代の後半において引き続き行なわれたので、その荘園取り払いの歴史中で、近江征伐のごときは正(まさ)に一つの大段落を劃するものだ。約言すれば応仁の乱があり、それからして近江征伐が文明年間の末に失敗におわると、その後はいよいよいわゆる天下の大乱となり、京都はその主なる舞台として物騒を加えるのである。京都市中の警察には細川、赤松らの大名その任に当っているわけであるけれど、直接その衝に立つものは、安富とか浦上などの被官人で、所司代の名をもって職権を行使しておった。しかし決して熱心な警察官とはいい難く、騒擾はなはだしきに及びてようやく手を下すのであるから、それらの力によって京都の粛清が十分にいたされ得たのではない。しばしば蜂起する土一揆は、あるいは東寺、あるいは北野または祇園を巣窟として、夜間はもちろん白昼も跳梁し、鐘をならし喊声を揚げ、富豪を劫掠する。最も多く厄に遭うものは土倉すなわち質屋ならびに酒屋であった。襲撃のおそれある家では、危険を避け、一揆が徘徊すると酒肴を出して御機嫌をとる向きもあったが、町内または知人らから竹木を集めて町の入り口に防禦の柵矢来を構うるやからもあった。いわゆる土倉の中には命よりも金銭を惜む輩もあって、刃を執って一揆等と渡り合い、夫婦共に非命の最期を遂げたという話もある。一揆は夜分こそこそ掠奪するのではなく、堂々と篝火を焚きて威嚇するのであったが、掠奪も多くは放火に終った。洛内の火災その半ばは彼ら一揆の仕業である。要するに一揆も群盗には違いがないが、一揆というほどに多勢でない群盗の横行もまた頻繁であった。したがって人殺しも珍しくない。下々の輩の気が荒くなって、何とも思わず乱暴を働く者の多かったこと勿論であるが、優にやさしかるべきはずの公卿も、殺伐の風に染みて、人を害することもあった。のみならずかく物騒なのは洛外も洛中と同じことで、大津や山崎との往来も折々は梗塞された。
 かく述べ来ると当時の京都の住民は、朝(あした)をもって夕(ゆうべ)を計り難く、恟々(きょうきょう)として何事も手につかなかったように想像されるが、実際はさほどにあわてて落ちつかぬ暮らしをしていたのではない。ノン気であったとはいえぬけれど案外に平気なもので、時に際して相応に享楽をやっている。遊散にも出かければ、猿楽も見物した。加茂や祇園の例祭には桟敷もかかり、人出も多かった。兵乱や一揆のために焦土と化した町もあると同時に、その焼け跡に普請(ふしん)をして新宅を構うる者も続々あった。土御門内裏のごときも、焼亡の後久しからずして再建になった。将軍の柳営とても同断である。これが決して驚くに足らぬわけは、内裏の御料所や公卿将軍およびその他に納まるべき年貢は、一乱以後大いに減少したとはいうものの、全く納まらなくなったのではないからである。あるいは規則どおりに、あるいは不規則に、とにかくに年貢が続いて運ばれ、越後、関東、西国等から金米その他方物が京都に輸入され、また諸種の用件を帯びて遠国からわざわざ入洛する者絶えず、故に京都には一定の地方を限りてその入洛者に特に便宜を与える店舗も出来た。これらの旅人からのコボレや輸入などで京都の町はその繁昌を維持し、殊に三条、四条辺にはかなり大きな店が並んでおったらしい。乱世であるのにこの状態は、一見すると矛盾のはなはだしいものと考えられべきはずであるが、実はそうではなくして、かえりて道理にかなった話なのである。というのは、いかに兵乱が危険でも、常習性の者になると恐れてばかりはおられないからであって、次第に危険を軽蔑するようになり、遂にはいよいよ焦眉の急に切迫した場合は別として、さもない時には成るべく取越し苦労などをしないこととなるのである。この呼吸が呑み込めずしてはとうてい足利時代を会得することができない。
 大体上述のごとき京都市民の生活の中で、特に公卿はいかなる特別の生活をなしておったか、これがすなわち次に起こってくる問題である。ちょっと考えると王権式微の武家時代であるによって、公卿の窮乏もさぞかしはなはだしかったろうと想われるのは当然のことであって、実際生活難に苦しんだ公家もまた少なくない。皇室の供御(くご)も十分とはまいらなかった時代であるからして、公卿の困ったのはむしろ怪しむに足らぬことであろう。坊城和長がその日記中女子の生れた事を記したついでに、「女の多子なるは婦道に叶うといえども、貧計なきにおいてはもっとも、こいねがわざるか」とこぼしている。その他の公卿日記にも、秘計をやることがしばしば見えているが、秘計とは金策をするという義なのだ。先ず食物から述べると、他の階級の輩はどうであったかわからぬが、少なくともそのころの公家は二食であったらしく、すなわち朝食と夕食とのみで、昼食というものは認(したた)めなかったと見える。昼食に相当するものの喫せらるるのは、旅中の昼駄餉(だしょう)くらいであったろう。しかしてその朝食の喫せらるるのは、たいてい朝の八時から九時にかけてのことで、今日における日本人の朝食に比すると、案外落ちつきてゆっくりと認めたものらしい。時としては朝食からして引き続き酒宴に移ることもある。先ずフランス人のデジネのようなものであったろうか。かかる朝食であるからして、客を招きてこれを振舞うということもおのずからあるので、中以下の公家の間におけるその招待のさまがすこぶるおもしろい。心安い客を朝飯によぶ時には、主人の方では汁のみを支度することが往々であって、その汁とても無論一種のことが多く、あるいは松蕈(まつたけ)汁とか、あるいは鯨汁とか、あるいは菜汁とか、つまり汁の実にすべき季節の物かもしくは遠来の珍味を得た時は、それだけでもって客をするのである。しからば肝心の飯はどうしたかというに、それは招かれた者どもの方で持ち寄るのである。招待した方からは飯を供せぬ。朝飯をもろくに食することのできぬ同族を招く時はこの限りにあらずである。かくのごとき飯の持ちよりというシミッタレた招待は、無論極く懇意の間に限られたのであろうけれど、それにしても飯米というものがいかに彼らの間にすこぶる貴重に考えられておったかが想像される。また二人以上の男子を持った親は、そのうちの一人を出家にすることは珍しくなかったのだが、これも一つには糊口(ここう)の都合からしてのことらしい。しからば女子をばいかに捌(さば)いたかというに、宮中や将軍家の奥向きに奉公するか、または同輩の家へ嫁にやることができれば、さらに不思議のないことであるが、都合によりては将軍の家臣たる武人に嫁せしめることもある。武人も人によりけりで、幕府の直参(じきさん)かもしくは大国の守護へでもくれてやることならば、これまた怪しむに足らぬことで、すでに鎌倉時代にもその例多くあることであるが、東山時代になると必ずしも直参と限らず、陪臣すなわちそれら直参の被官人にくれてやることをすらも厭(いと)わなかった。中には体面を保つためかは知れぬが一旦幕府直参の武士の養女分にして、それからさらに一段低い武人に嫁入らした例もある。
 田舎の武人で相当な勢力を養い、場合によっては公家の娘でも嫁にもらおうかという権幕の者は、その日常生活においても公家の真似がしたくなるのは自然であって、それがまた公卿の財源になり、公卿の中には、手もと不如意になると遍歴を始めて、地方豪族を頼り寄付金を集めた者も少なくない。しかしてこの目的に最も好都合なのは、すなわち蹴鞠(けまり)の伝授であった。彼らが地方へ行くと蹴鞠のほかにも、連歌などをやったものだが、連歌は文学としてすこぶる愚なものであるにもかかわらず、その道に上達するのには相当の素養が必要で公卿なら誰でも連歌の師匠になれるというわけには行かぬ。故に地方の余裕ある豪族らの連歌を稽古するには、必ずしも公卿を要せずして、宗祇とかまたはその門下の連歌師に就いて教を受くる方が多かった。ただ蹴鞠に至ってはそうは行かぬ。これはほとんど公家の専売の芸であって、これを習うには地下の者を師としたのでは通らぬ、ぜひとも公家に弟子入りするほかはない。そこで蹴鞠に長じた公卿は、京都でももちろん弟子をとるが、また地方へはるばると出稽古をする。しかしてこの出稽古がなかなか実入りのよかったものだ。起原はともかく、連歌は先ず大体足利時代の特産物ともいうべきものであるが、しかしながら決して公卿の専有物ではなく、したがって武人中公家風を真似ようと思わぬ者すらも、連歌をばやったので、連歌をやる者必ず公家化したとはいえない。しかるに蹴鞠はこれと別で、公卿の真似をしようという者は、必ずこの蹴鞠から始める。これあるいは当時蹴鞠が京都で非常に流行しつつあったがためでもあろうか。その辺しかとはわからぬが、とにかく蹴鞠は公家の真似の序の口で、大名もやれば堺辺の富有な商人もやった。しかしてこれをやるものは必ず大いに余裕のある者であったから、したがって公家が地方へ出稽古をするとなかなか実入りのよかったものである。
 遠国へ出稽古というと旅行の必要が生ずるのであるが、それについては秩序の乱れた当時に物※(ぶっそう)[#「總のつくり」、「怱」の正字、356-上-15]な恐れがあろうと心配する人があるかも知れぬけれど、それにはまたそれ相当の方法を講じたものである。すなわち幕府に有力な武人の助けを借りるのだ。彼ら公卿は表面武人に雌服し、殊に将軍に対しては摂関家以上の敬意を払うことを否まなかった。さすがに太政大臣という官をば容易に将軍に許さなかったけれど、事実上の極位すなわち従一位をば、あまり惜しまずに与えた。義尚将軍はわずかに十九歳にしてこの極位に叙せられたが、これは摂関家ですらほとんどない例である。しかし内心公家は武家を軽蔑しておったので、武家に授ける官位をばあまり苦情をいわずに許したのは、武家なるが故に標準を別にしてもよいとの理由に基づくものであって、たとえていわばちょうど一しきり日本の留学生に対して、西洋の堂々たる諸大学が比較的容易に学位を授与した例があるのと似たもので、彼らの仲間内ではいつになっても官位をば苛(いやしく)もしなかったのである。つまり公家らはかくして武家の名聞(みょうもん)心を満足させてこれを喜ばすと同時に己らの品位をば保ち得るものと思ったのである。したがって武人の任官叙位の標準が鎌倉時代よりも高まったとて、公家がよく多く武家を尊敬したという証拠にはならず、公家の内心にはほとんど先天的とも評すべき軽侮心を武人に対して懐きつつあったのである。義政が文明五年の二月に参内して宮中の御酒宴に加わらんとした時に、「酒宴の事は内々之儀、男女混乱の間、外人は如何、」という理由で一旦は拒まれんとしたがせっかくに願い出でたるに対しこれを拒むことになると、武家の面目を傷つけ、感情を害する恐れがあるとの説が通って、ついに参内を許さるることになったのであった。しかしそれでもなお不平な公卿があって、禁色を聴(ゆる)された者が雑役に服する例のないことを言い張り、将軍参内当日には祗候せぬ、とダダをこねた話もある。将軍に対しての待遇すでにかくのごとくであるからして、公卿と武人との交際においてもまたこれに類することが往々にしてあった。たとえば連歌の会のごとき、風流の席であって、必ずしも階級をやかましく言わず、公卿も武人も地下も、共に膝を交えて韻事を楽しんでいるように見えるけれど、その実はなかなかそんなに平民主義の徹底したものではなく、階級の障壁をばあくまでも取り除くまいとつとめた。ある年の始めにさる公卿の家で連歌の発会のあった時、杉原某という武人が講師を勤めたことがあるが、それに出席した一公卿は、雲客坐に在るにもかかわらず、その中から講師を選ばず、また主人の公卿がその任に当ることもなさずして、この名誉の職を武辺者(ぶへんもの)に勤めさすということは、はなはだ不審なことだと、その日記に認めている。畢竟(ひっきょう)貴族が己れの都合によっては、下級の者と伍することをいとわぬのは、一見平民主義から来ている現象のごとくではあるが、もし下級の者がそれらの貴族を対等視することになるとたちまちにして彼らの階級的の誇を傷つけ、不平の念を起こさしめるということは、要するに真に平民主義な貴族のはなはだ少ないことを証するものであるが、足利時代の公家の心理はまさにそれであった。武家を軽蔑するけれど、抵抗の無益なことはよくわかっているから、無謀な企てをばなさぬ。そのかわりにできるだけ武家を利用してやろう、これが公家らの立場であったのである。故に前にも述べたとおり己らの荘園からして全然地頭を斥(しりぞ)けようとはもはや試みぬかわり、それらの武人らに頼んで、取れるだけの年貢をとるようにする。百姓らが納め渋ぶる場合に武家の命をもって催促させる。御奉書を出させる。それだけでは武人の方に利益がなく、真面目に依頼の件を実行してくれそうにもない場合には、もし催促の利目(ききめ)があって首尾よく年貢が納まるならば、その半分を周旋した武人にやろうと利をもって誘う者もある。
 これに類するような公私種々の関係が、公卿と武人、殊に幕府の権臣との間に生じ、公卿はさまざまの事件を持ち込んで武人に依頼する、旅行する場合とても同断である。先ず幕府の有力者からして、前もって近国の大小名らに、何某近々旅行の件を触れてもらえば、それで途中の旅宿に心配はない。野心ある武人のお宿はどこでも喜んで引き受けるというわけに行かぬが、公卿なればどこでも歓迎する。危険はないのみならず、連歌をやったり蹴鞠をやったりして、田舎生活の単調を破ることができるからである。ちょうど今の人が漫遊の書画家を歓迎するようなもので、なおその上に高貴の人を宿し、親しくこれに接し、もって一つには家門の誉れ、一つにはこれによって己らの麁野(そや)なる生活状態に研きをかけたいという希望も添うのである。したがって彼らは遍歴の公卿のために宿を貸し、路銭を給し、乗物を供給することをいとわない。たいして歓迎せず自己の館に泊めぬにしても、然るべき旅宿、多くは寺院に案内して、相応の待遇をなしたものだ。故に公卿らは、その遍歴に際してほとんど何らの危険なきのみか路用がほとんど入らずして、かえりて少なからぬ貰いがある。はなはだしきに至っては、出発の最初から無銭旅行で、然るべき幕府の武人に無心し得たものを持って、踏み出す連中もある。ほとんど名義のみとはいえ、とにかく朝廷に官職を帯びた者どもが、勝手に旅行をして公務に全く差支えがなかったかというに、それはもちろんのこと差支えがあったのだ。中に姉小路や一条家のごときその分国に永らくの滞在をしてほとんど京都に定住せず、また三条家のごときは、永らく今川氏に寄食した。こういう例は多くある。それがために宮中に祗候の人数が減る。したがって公事に事欠ける。けれどもそのころの公事というのはほとんど儀式のみであって、実際の政務というべきものでないから、差支えといったところで格別我慢のできぬほどの差支えではなく、したがってその差支えの顧慮からして遍歴を思い止まるというほどのものではなかった。また久しく京外に在ったなら、彼らの官位の昇進に影響があるかというに、この方にもたいした影響はなく、京都におらぬ者の叙任昇進には、わざわざ使者をもって遍歴先きまで辞令書を送り届けてやったから、田舎におっても昇れるだけは昇進ができた。
 しかしながらすべての公卿が皆この遍歴の方法によって暮らしたのかというに、もちろんそうはいかぬ。ずいぶん逼迫した公卿もあって位階昇進の御礼に参内する際、武人の袍(ほう)を借り受けて間に合わした者もあるくらいだ。ただ読者の注意を促しておきたいのは、彼らの全部が、彼の蚊帳を著ておった某公卿のように、洗うがごとき赤貧でもなかったということである。禁裏の供御とても不足がちには相違なかったけれど、その不足は必ずしも幕府の専横からして来るばかりではなく御料所内の百姓の横着か、または村の有力者の私曲から起因することもあった。しかしそれらが滞りなく納入になったところで、その金額がたいしたものでなく、ずいぶん余裕の少ない御経済であったことはいうまでもない。費用のないところから即位式をも往々にして省略されたのは、けだしそのためであろう。しかしながら恒例の節会(せちえ)等の停廃をもって、直ちに宮廷の御経済向き不如意のためと、一概に断定するわけにはゆかぬ。というわけは、御料からの収入で支弁さるべきものと武家から差上ぐる御用脚で支弁さるべき分とその間おのずから区別があって、もし武家からの差上金が滞うる場合には、それがためにそれによって支弁さるべき儀式を見合わせられるので、必ずしもこれをもって官帑(かんど)全くむなしかったためのみということができぬからである。時には武家累代の重宝と称せらるる掛物が、武家からして質屋に入り、遂に質流れになったのを、二千疋以上を投ぜられて、御府に御買上げになることもあった。公卿の家に持ち伝えた日記を、その家の微禄のために散佚の恐れあるを憂えられて、代物を賜わって宮中に召置かるることもあった。従来歴史家がややもすれば王宮の式微を叙すること極端に失し、はなはだしく御逼迫のように説くのは、後に起こった勤王論と対照さすために、あるいは必要なことかも知れぬけれど、実際よりもはなはだしく御窮乏を叙し奉るのは、かえりて恐れ多いことだろうと考える。
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