幼年時代
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著者名:堀辰雄 

そうやって父や母などに一しょにいだすと、一人でいたときはあれほど平気でいられた私は、俄(にわ)かにわけの分からない恐怖のなかへ引きずり込まれてしまった。そうして一度無性に怯(おび)え出してしまうと、幼い私のなかの、大人の恐怖は、もう私一人だけでは手に負えなかった。
 一方、いままではちゃんと間を隔(お)いて鳴っていた近所の半鐘の方も、そのとき突然自分の立てつづけている音に怯え出しでもしたかのように、急に物狂おしく鳴り出していた。
 それを聞いて一層私が怯えるので、最初は父は溝(みぞ)の多い路地を抜けたところまで私達に附添ってくる積りだったのに、とうとう母と、佐吉に背負われた私とについて、全く水の無くなる土手上まで来なければならなかった。土手の上は、私達のような避難者で一ぱいだった。父は大川端(おおかわばた)へ行って、狂おしいように流れている水の様子を眺めてから、再び一人で水漬(みずつ)いた家々の方へ引っ返していった。
 私達は、その土手の混雑のなかで、同じように女子供だけで何処かへ避難しようとしているお竜ちゃんの一家のものにひょっくり出会った。本当にひさしぶりでまともに顔を見合わせたお竜ちゃんと私とは、そういう思いがけない邂逅(かいこう)に、思わず二人ともにっこりともしないで、怒ったように真面目(まじめ)に見つめ合った。母たち同志が二言三言立ち話をし合っている間、水の中を自分で歩いてきたらしいお竜ちゃんは、佐吉におぶさっている私の傍にきて、そんな恰好(かっこう)をしているところを見られて一人で羞(はずか)しがっている私を、しかし何とも思わないように、只なつかしそうに見上げながら、
「弘ちゃんたちは何処へ行くの?」ときいた。
「…………」私ははにかんで、口もきかれなかった。
「神田の方ですよ」いつもお竜ちゃんと仲の悪い佐吉が、私に代って突慳貪(つっけんどん)な返事をした。
「…………」お竜ちゃんはそんな佐吉の方を憎そうに見かえして、それから、「ほんとう?」ときくように私の方を見上げた。
 私はただ首肯(うなず)いて見せた。
「私たちは王子へ行くの……ずいぶん遠いのよ……」お竜ちゃんは何か私に同情されたいように云った。
 それきりで私達は別れなければならなかった。
 が、こういうような出来事のおかげで、お竜ちゃんとこうやって思いがけず仲直りのできたのが、私には本当に嬉(うれ)しかった。逢(あ)ったのがたかちゃんの方でなくってよかった、そんなことまで私は子供らしい身勝手さで考えた位だった。それもただお竜ちゃんに逢えただけではない、このまますぐ別れるのでなかったら再び昔のように仲好くなれそうになった事で、私は小さな胸を一ぱいにさせていた。そのためそんないつまた逢えるかも知れない別離そのものさえ、殆ど私を悲しませなかったほどだった。

 私達の避難したのは、神田の或(ある)裏通りにある「きんやさん」という、父の懇意にしていた、大きな問屋だった。
 その昔風の、問屋がまえの、大きな家は、昼間から薄暗かった。細い櫺子(れんじ)の窓からだけ明りを採り入れている部屋部屋の、ずっと奥まった中の間のような所に、私達は寝泊りしていた。そうして私達はいつもおおぜい人のいる店の方へはめったに行かないで、狭い路地にひらかれている、裏の小さなくぐり戸から出這入(ではい)りしていた。そういう商家のすべての有様が少年にはいかにも異様だった。……
 そこに私達が何日ぐらい、或(あるい)は何箇月ぐらい泊っていたか、覚えていない。それからその家の主人の、「きんやさん」といつも私の父母が親しそうにしていた大旦那(おおだんな)のことも、それから私達の世話をよくしてくれたそのお内儀(かみ)さんのことも、殆ど私の記憶から失われている。それからもう一人、――たとえ偶然からとはいえ、私が自分の人生の或物をその人に負うているのに、いつか私の記憶から逸せられようとして、あやうくその縁に踏み止(とど)まっているといったようなのは、その日々私をたいへん可愛がってくれた店の若衆の一人だった。よくお昼休みなどに、彼は私をその頃まだ私には珍らしかった自転車に乗せて、賑(にぎ)やかな電車通りまで連れていってくれた。そこの広場には、はじめて私の見る怪物のような、大きな銅像が立っていた。その近くにはまた一軒の絵双紙屋があった。その絵双紙屋で、彼は私のためにその一冊を何気なく買ってくれたりした。……
 恐らく私は他の誰かに他の本を与えられたかも知れなかった。それはそれでも好かったろう、――が、ともかくも、はじめて自分に与えられた一冊の絵双紙くらい、少年の心にとってなつかしいものはない。――さて、私に与えられたその絵双紙というのは、その或一枚には、大雪のなかに、異様な服装をした大ぜいの義士たちが赤い門の前にむらがって、いまにも中へ討ち入ろうとしている絵が描かれてあった。又他の一枚には、雪の庭の大きな池にかかった橋の上に、数人の者が入り乱れて闘っていた、そしてそのうちの若い義士の一人は、刀を握ったまま池の中に真逆様(まっさかさま)に落ちつつあった。……それらの闘っている人々は、いずれも、日頃私が現実の人々の上に見かけたことのないような、何んとも云えず美しい顔をしていた。私はそれがどういうドラマチックな要素をもった美しさであるかを知らない内から、その異常な美しさそのものに惹(ひ)かれ出していた。後年、私は何度となくそれと類似の絵双紙を見、それを愛した。そうして私もだんだん大きくなり、それの劇的要素が分かるようになりだした頃には、そのときはもう私は、――それが何んの物語を描いた絵だかもさっぱり分からずに見入りながら、しかも一種の興奮を感ぜずにはいられなかった、――そういうはじめてそれを手にしたときの幼時の自分に対するなつかしさなしには、その物語を味(あじわ)われなくなっていた。たとえば、はじめて物語の世界、いわば全然別箇の世界を私に啓示するきっかけとなった、それらの雪の日の絵だけを例にとって云えば、私はその絵を見る度毎(たびごと)に、それをはじめて母の膝下(ひざもと)でひもといた、或古い家のなんとなく薄暗い雰囲気(ふんいき)を、知らず識(し)らずの裡(うち)に思い出さずにはいられないのだ。――そうしてまた同時にその思い出の生じさせる一種の切なさにちがいないのだ、私がいつもその雪の絵を見るたびに感ずる何処か遠いところから来る云い知れぬ感動のようなものは……
 その絵双紙に次いで、もっと他の絵双紙が私のまわりにだんだん集って来て、私の前に現実の世界に対抗できるほどの新しい見事な世界を形づくり出したのは、しかし、その神田の家を立ち去ってからであった。
 私の父は、向島の水漬いた家からときどき私達に会いに来た。一時は軒下までも来た水ももうすっかり去ったが、そのあとの目もあてられない程にひどくなっていることを話し、何処かにしばらく一時借住いしなけれはならない家の相談などを母たちとし合ったりしていた。
 幼い私は、父が来てそんな話をしていく度毎に、そんなわが家のことなどは思わず、唯(ただ)、ながいこと可哀そうに水につかっていた無花果の木のことだの、どこかへ流れ去っただろう玉網のことだの、それから其処(そこ)から引越してしまえば、もう会えなくなってしまうだろうお竜ちゃんのことだの、それから少し、たかちゃんのことだのを、切なく思い出していた。


     芒(すすき)の中


「ほら、見てごらん」と父はその家の壁のなかほどについている水の痕(あと)を私達に示しながら、「ここいらはこの辺までしか水が来なかったのだよ。前の家の方はお父さんの身丈(みたけ)も立たない位だったからね。……」
 その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島(むこうじま)のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍(わざわ)いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家(や)ばかりだったから、ずっと物静かだった。
 引越した当時は、私の家の裏手はまだ一めんの芒原(すすきはら)になっていて、大きな溝(みぞ)を隔てて、すぐその向うが華族のお屋敷になっていた。こちら側には低い生籬(いけがき)がめぐらされているだけだったので、自分より身丈の高い芒の中を掻(か)き分けて、その溝の縁まで行くと、立木の多い、芝生(しばふ)や池などのある、美しいお屋敷のなかは殆(ほとん)ど手にとるように見えるのだった。ときおりその一家の人達がその庭園の中に逍(さまよ)ったり、その花の世話をしたりしているのを見かけると、私の胸には何とも云いようのない寂しい気もちと、それから生ずる一種のとりとめのない憧憬(どうけい)の心とが湧(わ)いてきた。
 そういう自分たちのいる世界とは全く別の世界があるという発見は、もう一つの物語の世界の発見と相俟って、他のいかなる大きな現実の出来事よりも、私の小さな人生の上にその影響を徐々に目立たせて行った。
 父はその芒の生(は)えていた空地の一部を借りて、そこへ細工場を建て増すことになった。それは私がいつもこっそりと一人でさまざまな事を夢みていた隠れ場所を早くも狭(せば)めることになった。しかし、そういう子供たちの隠れ場所というものは、それが狭ければ狭いほど、ますます見つかりにくく、そして子供たちにますます愛せられるのだった。
 その裏の大きな溝に、私は或る日、どこの家の所有だか分からない、古い一艘(いっそう)の小舟が繋留(けいりゅう)せられずにあるのを見出した。その日からそれに気をつけて見ていると、それは毎日のように、流れのままに漂って、あっちへ行ったりこっちへ流れよったりしているのだった。私はその小舟をいつか愛し出していた。若し私がそれに乗れたら、その日頃私の夢みていたすべての望みが、何もかも不思議に果たされそうな気がされてならなかった。……


     幼稚園


 桜並木のある堤の下の、或(ある)小さな路地の奥に、その幼稚園はあった。――その堤の上からも、よく晴れた午前などには、その路地の突きあたりに、いつも明け放たれた白い門の向うに、青葉に埋もれたような小さな運動場が見え、みんな五つ六つぐらいの男の子や女の子が入れ雑(ま)じって、笑ったり、わめいたりしながら、遊戯なんぞをしていた。ぶらんこが光り、オルガンが愉(たの)しげに聴(きこ)えていた。……、
 屡□(しばしば)、その堤へおばあさんに伴われて散歩に来るときなど、私はよく桜の木の下に立ち止まって、彼等の遊戯に見入っていた。ことにそのオルガンの音が私には何んとも言うに言われず魅惑的だった。そんな私を待ちくたびれて、ぼつぼつと歩き出していたおばあさんが、いつかもうずっと先きの方まで行ってしまっているのに気がつくと、私は漸(ようや)っとその場を立ち去るのだった。
 或る日、母が私に言った。
「お前、幼稚園へ行きたいの?」
「…………」私は羞(はず)かしそうに、頭を振るばかりだった。
 しかし、私はそこの幼稚園へ入れられることに決められた。或る午後、私は母に連れられて、その土手下の幼稚園のなかへ這入(はい)っていった。生徒たちはもういないで、園内はすっかり建物の影になっていた。そんな園内を歩きながら、一人の、庇髪(ひさしがみ)の、胸高に海老茶(えびちゃ)の袴(はかま)をつけた、若い女の人が私の母に何やら話していた。それがいつも愉しそうにオルガンを弾(ひ)いている人であることが私には自然に分かった。その見知らぬ女の人は私の手をとって、いろんな運動器具に乗せてくれたりした。何もかも私には少しこわかった。……
 最初の朝、金の総(ふさ)のついた帽子をかぶせられて、おばあさんに伴われながら、私はその幼稚園の門の前まで行った。が、私達よりか先きに来て、仲好さそうに運動場で遊んでいる数人の子供たちを見ると、私は急に気まり悪くなって、どうしてもその門の中へはいれず、おばあさんの手を無理に引張って、そのまま帰って来てしまった。
 それから二三日、私は、幼稚園へはいるというので父に買って貰(もら)ったその金の総のついた帽子を、家の中でかぶって、一人で絵本ばかり見ながら遊んでいた。或る日、見おぼえのある海老茶の袴をつけた、若い女の人が訪れてきた。私は宥(なだ)めすかされて、又次ぎの日から幼稚園に行くことになった。
 翌日、私は再びおばあさんに伴われて、こんどは三十分ほども前から、まだ誰もいない園内にはいって、皆の集ってくるのを、先きまわりして待っていた。最初は唱歌の時間だった。みんな一緒になって同じ唱歌を何べんも繰りかえして唱(うた)っていた。しかし私だけはいつまでも一緒にそれを唱えなかった。しまいには私は火のような頬(ほお)をして、じっと下を向いたきりでいた。あんなに私の好きだったオルガンまで、その時間中、私には意地悪な音ばかり立てているように見えた。次ぎの遊戯の時間になると、他のオルガンが運動場の真ん中に持ち出された。戸外では、オルガンはそんな意地悪をしないのに決まっている。果してそれはいつもの単純な、機嫌(きげん)のいい音を立て出した。みんなはそのオルガンのまわりに、手と手とつなぎながら、環(わ)を描いた。私だけは、ぶらんこの傍(そば)で待っているおばあさんのところに行って、その環の中には加わらずにいた。そうしてみんなが愉しそうに手をあげ足を動かし出すのを側から眺(なが)めていることに、その環の中に加わっては私には反(かえ)って一緒に味(あじわ)えない、みんなとそっくり同じな愉しさを見出していた。
 そういう私を、ときどきみんなを見廻しながらオルガンを弾いていた若い女の先生がとうとう見つけて、無理やりにその環の中に加わらせた。遊戯がはじまって、自分がどう動作したらいいのか分からなくなると、私はオルガンを弾いている先生の方を見ないで、遠く離れたおばあさんの方へ困ったような顔を向けた。そうやってちょっとでも私が足を止めようとすると、私のすぐ隣りにいた私よりか背の高い、目の大きな、ちぢれ毛の、異人さんのような少女が、手を上げたり下ろしたりする拍子に、私を横柄(おうへい)そうにこづいた。そのたびに、私は振り向いて、その高慢そうな少女に対(むか)って、なぜかしら、それまでは誰にもしたことのないような反抗の様子を示した。
 それからお午(ひる)の時間になった。小さな生徒たちは教室にはいるなり、先生のお許しも待たずに、きゃっきゃっと言いながら、お弁当をひろげ出した。その目の大きな、異人さんのような少女は、私から少ししか離れない席についていた。みんながその少女だけ特別扱いにするのを変だと思っていたら、それはその幼稚園にゆく途中にある、或る大きなお屋敷のお嬢さんだった。その少女のところへは、お屋敷から大きな重箱が届いていた。そうして附添の小間使いが二人がかりでその少女のお弁当の面倒を見ていた。私はそういう様子をちらりと目にすると、それきりそっぽを向いてしまった。
「食べんの、厭(いや)……」私はおばあさんが私の傍で小さなアルミニウムのお弁当箱をあけようとするのを邪慳(じゃけん)に遮(さえぎ)った。
「食べないのかい……」おばあさんは又私がいつもの我儘(わがまま)をお言いだなとでも云うような、困った様子で、「……ほら、お前の好きな玉子焼だよ。……ね、一口でもお食べ……」
「……」私は黙って首を振った。
 他の生徒たちは私と同じような小さなアルミニウムのお弁当箱をひろげて、きゃっきゃっと言いながら食べ出していた。例の少女のところでは、二人の小間使いが代る代る立ったり腰を下ろしたりして何かと面倒を見ていた。おばあさんは私にすっかり手を焼いて、それ等(ら)の光景を上気したような顔をして見ていた。私の隣席にいた、雀斑(そばかす)のある、痩(や)せた少女が私に目くばせをして、そのちぢれ毛の少女に対する彼女の反感へ私を引き込もうとしていた。が、私がそれにも知らん顔をしていたので、彼女はしまいには私にも顔をしかめて見せた。
 私はとうとう強情に自分の小さなお弁当箱をひらかずにしまった。
 午後からは折り紙のお稽古(けいこ)があった。例の少女のところでは、小間使いが一緒になって、大きな鶴(つる)をいく羽もいく羽も折っていた。私には折り紙なんぞはいくらやっても出来そうもないので、おばあさんにみんな代りに折って貰(もら)いながら、私は何かをじっと怺(こら)えているような様子をして、自分の机の上ばかり見つめていた。
 その日行ったきりで、翌日から又私は、こんどはまるでお弁当の事からみたいに、幼稚園を休んでしまった。
 しかし、その一ぺん見たっきりの、その異人のような、目の大きい、ちぢれ毛の少女は、他の優しい少女たちとはまるで異(ちが)った風に、いかにも高慢そうな様子をして、私がいくら彼女に対して無関心を示しても、いつまでも私の記憶の裡(うち)に残っていた。……


     口髭(ひげ)


 子供の私は口髭を生(は)やした人に何んとなく好意を感じていた。
 私の父は無髭だった。それからまた私のおじさん達の中には、誰一人、口髭なんぞを生やしている者はなかった。彼等(ら)は勿論(もちろん)、例外だった。――若し彼等の中で一人でも口髭なんぞ生やしている者があったら、反(かえ)って何かそぐわないような気がされ、子供の私にもおかしく見えたろう。――それに反して、うちへ来る客のなかで、私の特に好意をもった人々は、みんな口髭を生やしていた。その真面目(まじめ)な口髭が私には何んとなくその人に対する温かな信頼のようなものを起させた。この人になら安心していいと云った気もちになれるのだった。――どういうところからそれが来るかは、勿論、私は知りようもなかった。
 その頃、私はよく両親に伴われて、すぐ川向うの、浅草公園へ行った。そうして寄席(よせ)へ連れて行かれたり、活動写真を見て来たりした。又、おばあさんとだけやらされるときもあったが、そんなときには私はいつも球乗(たまの)りや花屋敷などへ彼女を引っぱって行った。(それらの事はまた他の機会にも書けるだろう。――)しかし一番、母だけに連れられて行くことが多かったが、そういう折にはいつも観音(かんのん)様とその裏の六地蔵様とにお詣(まい)りするだけで、帰りには大抵並木町(なみきちょう)にある母方のおばさん(其処(そこ)のおじさんはきん朝さんという噺(はな)し家(か)だった。……)の家に寄ったり、それからそのおなじ裏通りの、もう少し厩橋(うまやばし)よりにある、或る小さな煙草屋の前まで私を連れて行った。その頃その煙草屋の二階に、皆がおよんちゃんといっている、一番小さなおばさんが一人で間借りをしていた。母は、私をすこし離れたところに待たせて、決して上へはあがらずに、そのおよんちゃんを外へ呼び出して、暫(しばら)く夕やみの中で何か立ち話をし合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
 そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋(あずまばし)の袂(たもと)から俥(くるま)をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝(ひざ)の上に乗せられるのが好きだった。……
 母がまだ父と一緒にならないうちに、向島(むこうじま)の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出(みいだ)す幸福という幸福のすべてが、いかにそれらの子供らしい悲しみにまんべんなく裏打ちされていることか!……)
 そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみち、駒形(こまがた)の四つ辻まで来ると、ある薬屋の上に、大きな仁丹(じんたん)の看板の立っているのが目(ま)のあたりに見えた。私はその看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をかぶり、口髭をぴんと立てた、或(ある)えらい人の胸像が描かれているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこのよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計に好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることが、そうやっておばさん達のところへ母に連立って行くときの、私のひそかな悦(よろこ)びになってもいた。
 その後、私はそのおよんちゃんという人が、目の上に大きな黒子(ほくろ)のある、年をとったおじいさんみたいな人と連れ立って歩いているところを二度ばかり見かけた。一度は私が父と一しょに浅草の仲見世(なかみせ)を歩いているときだった。それからもう一度は、並木のおばさんの病気見舞に行って母と一しょに出て来たとき、入れちがいに向うから二人づれでやって来るところをぱったりと行き逢(あ)った。その目の上に大きな黒子のあるおじいさんみたいな人は、母とは丁寧な他人行儀の挨拶(あいさつ)を交(か)わしていたが、私には何んとなく人の好い、親切そうな人柄のように見えた。


     小学生


 とうとう幼稚園へはあれっきり行かずに、それから約一年後、私はすぐ小学校へはいった。
 その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにまだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだったので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、その町内から五六人ずつ連れ立っていく男の子や女の子たちとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうして学校へ着いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人ぼっちに取残されることを怖(おそ)れ、授業の終るまで、母に教室のそとで待っていて貰(もら)った。最初のうちは、そういう生徒に附き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、だんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになった。
 まだ授業のはじまらない前の、何んとなくざわめき立った教室の中で、私は隣りの意地悪い生徒にわざとしかめ面(つら)なぞをされながら、半ば開いた硝子窓(ガラスまど)ごしに、廊下に立ったままでいる私の母の方へ、ときどき救いを求めるような目で見た。やっと頭の禿(は)げた、ちょぼ髭(ひげ)の、人の好さそうな受持の先生が来て、こんどは出欠を調べるために、生徒の名を順々に読み上げてゆく。それがまた私には死ぬような苦しみだった。自分の苗字(みょうじ)が呼ばれても、私は一ぺんでもってそれに返事をした事はなかった。私はどういうわけか、父とは異(ちが)った苗字で呼ばれることになったので、その新しい苗字を忘れまいとすればするほど、いざと云う時になってそれをけろりと忘れていた。そんなとき、私はふいと窓のそとの母の方を見ると、母がはらはらしながら、私に手ぶりで合図をしている。私はやっと先生が同じ名を何度も繰り返しながら、自分の方を見下ろしているのに気がつき、はじめてはっとしてそれにおずおずと返事をするのだった。
 学校からの帰りみち、母と子とはよくこんな会話をし合った。
「もう明日からは一人で学校へお出(いで)……」
「うん」
「……いいかい、お前の苗字を忘れるんじゃないよ……」
「うん……」私は自分にどうしてそんな父とは異った苗字がついているのか訊(き)こうともせずに、まるで自分の運命そのもののように、それをそのまま鵜呑(うの)みにしようと努力していた。

 そんな或る日、きょうは学校の前までで好いからと言って附いて来て貰った母と一緒に、私は運動場の入口に近いところで、始業の鐘のなるまで、皆がわあわあ云いながら追っかけごっこをしたり、環(わ)になって遊んでいるのを、ただもう上気したようになって見ていた。
 そのとき、数人の少女たちがその入口の方へ笑いさざめきながら、互に肩に手をかけあって、走って来た。そうして走りながら、みんなでくっくっと云って笑っていた。そのなかの少女の一人が、ふと彼女たちの前にいる私の母に気がつくと、急にその群から離れて、母のそばへ来て娘らしいお辞儀をした。それはおもいがけずお竜ちゃんだった。彼女はまだ何処(どこ)か笑いに揺すぶられているような少女らしい身ぶりで、母と立ち話をしていた。その話の間、一遍だけちらっと私のいる方をふり向いたが、――それに気がついて私がほほ笑(え)みかけようか、どうしようかと迷っているうちに、にこりともしないで、再び母の方へ向いて、話しつづけていた。……
「お竜ちゃん、早くいらっしゃいな……」皆に呼ばれて、お竜ちゃんは母に慌(あわ)ててお辞儀をして、私の方は見ずに、皆のところへ帰って行った。それからまた前のように、肩に手をかけあって一緒に走り出してから、暫(しばら)く立ったのち、彼女たちは一どに私の方を振り返ったかと思うと、どっと笑いくずれた。……
 その翌日から、私はやっと一人で学校へ通い出した。そうして毎朝、誰よりも先きに行って、まだ締まっている学校の門が小使の手で開かれるのを待っている、几帳面(きちょうめん)な数名の生徒たちの一人になった。

 そのうちにだんだん一人で通学することにも慣れ、頭の禿げた、ちょぼ髭の先生にも自分が特別に目をかけられていることを知るようになった時分には、それまでどうかすると内気なために他の者から劣り勝ちだった学課の上にも、急に著しい進歩を見せ出した。大抵の学課では、他の生徒たちにあまり負けないようになった。どういうものか算術が一番得意で、読方、書方がそれに次ぎ、唱歌と手工だけは相変らず不得手だった。
 これはやや後の話だが、私のあまり得意でない図画の時間に、その先生が皆にめいめいの好きな人物を描いてみろと云って描かせた絵の中で、私の描いた海軍士官の絵だけが、ながいこと教室に張り出されていた事さえある。その絵が決して上手(じょうず)ではないこと、――ことに私が丹念(たんねん)に描き過ぎた立派な口髭のために、反(かえ)って変てこな顔になってしまっていることは、私自身も知っていた。しかし、その先生にはその絵がひどく気に入っていたらしかった。それは私がその海軍士官の腕に、私以外には誰もそれを思いつかなかった、黒い喪章をちょっと添えただけの事のためらしかった。(それは明治大帝がおかくれになってから間もない事だったからである。……)
 さて、私がお竜ちゃんとおもいがけず再会して、それからほどもなかった、或る日の出来事に戻ろう。――屡□(しばしば)、受持の先生たちが相談して、男の組と女の組とを互に競い合わせるために男の組の半分を女の教室へやり、女の組の半分を男の教室に入り雑(まじ)らせて、一緒に授業を受けさせることがあった。或る日、そういう目的で女の組のものが這入(はい)ってきたとき、私はその中にお竜ちゃんのいるのをすぐ認めた。その上、順ぐりに席に着きながら、私の隣りに坐らせられたのは、そのお竜ちゃんだったのである。
 お竜ちゃんは、しかし、私を空気かなんぞのように見ながら、澄まして、寧(むし)ろつんとしたような顔をして、私の隣りに坐った。私は心臓をどきどきさせながら、一人でどうしてよいか分からず、机の蓋(ふた)を開けたり閉めたりしていた。
 それは私の得意な算術の時間だった。どんなに上(うわ)ずったような気もちの中でも、私は与えられる間題はそばから簡単に解いていた。そういう私とは反対に、お竜ちゃんには計算がちっとも出来ないらしかった。そうして帳面の上に、小さな、いじけたような数字を、いかにも自信なさそうに書き並べているのを、私はときどきちらっと横目で見ていた。しかし、お竜ちゃんは、大きな、無恰好(ぶかっこう)な数字が一めんに躍(おど)っているような私の帳面の方は偸見(ぬすみみ)さえもしようとはしなかった。
 突然、私は鉛筆の心(しん)を折った。他の鉛筆もみんな心が折れたり先きがなくなっているので、私は小刀でその鉛筆をけずり出した。しかしいそげばいそぐほど、私は下手糞(へたくそ)になって、それをけずり上げない先きに折ってしまった。
 お竜ちゃんは、そんな私をも見ているのだか見ていないのだか分からない位にしていたが、そのとき彼女の千代紙を張った鉛筆箱をあけるなり、誰にも気づかれないような素ばしっこさで、その中の短かい一本を私の方にそっと押しやった。
 私も私で、黙ってその鉛筆を受取った。その鉛筆は、よくまあこんなに短かくなるまで、こんなに細くけずれたものだと思ったほど、短かくしかも尖(とが)っていた。私はそれがいかにもお竜ちゃんらしい気がした。私はすこし顔を赤らめながら、そんな先きの尖った短かい鉛筆で、いまにもそれを折りはしないかと思って、こわごわ数字を並べているうちに、だんだん自分の描いている数字までが何処かお竜ちゃんの数字みたいに小さな、顫(ふる)えているような数字になりだしているのを認めた。……
 やっと授業が終ったとき、私は「有難う」ともいわずに、その鉛筆をそっとお竜ちゃんの方へ返しかけた。しかし、その鉛筆は私の置き方が悪かったので、すぐころころと私の方へころがって来てしまった。――そのときは、みんなはもう先生に礼をするために起立し出していた。私もその鉛筆を握ったまま立ち上がった。礼がすむと、女の生徒たちは急にがやがや騒ぎ出しながら、教室から出て行った。お竜ちゃんは他の生徒たちの手前、最後まで私を知らない風に押し通してしまった。そのため、彼女の貸してくれた使い古しの短かい鉛筆は、そのまま私の手に残された。


     エピロオグ


 私は、自分の最初の幼時を過ごした、一本の無花果(いちじく)の木のあった、昔の家を、洪水のために立退(たちの)いてしまってから、その後、ついぞ一ぺんも行って見たことがなかった。
 私は、いま、この幼年時代について思い出すがままに書きちらした帳面を一先(ひとま)ず閉じるために、私がもう十二三になってから、本当に思い設けずに、その昔の小さな家を偶然見ることになった一つの□話(そうわ)を此処(ここ)に付け加えておきたい。
 その頃私たちの同級生に、緒方(おがた)という、母親のいない少年がいた。級中で一番体が大きかったが、また一番成績の悪い少年だった。学校が終ると、いつも数名連れ立って帰ってくる私達に、ときどきその緒方という少年は何処(どこ)までも一しょにくっついてきて、自分の家へは帰ろうともせずに、夕方遅くまで私達と石蹴(いしけ)りやベイごまなどをして遊んでいた。相当腕力も強かったので、彼を自分たちの仲間にしておこうとして、私達は何かと彼の機嫌(きげん)をとるようにしていた。それにまた、そういうベイなどの遊びにかけては彼は誰よりも上手だったのだ。――或る日、私は横浜から父の買ってきてくれた立派なナイフをもっているところをその緒方に見つかった。緒方はそれをいかにも欲しそうにし、しまいに、彼の持っているベイ全部と交換してくれと言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私は返事をした。そんな分(ぶ)の悪い交換に私が同意したのは、腕力の強い緒方を怖(おそ)れたばかりではなかった。私の裡(うち)には何かそういう彼をひそかに憐憫(れんびん)するような気もちもいくらかはあったのだ。
 それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすことにし、私は自分で好きなベイを選ぶことになって、はじめて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしに、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝(みぞ)を越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私が最初の幼時を過ごした家のある横丁かも知れないと思い出した。私は急に胸をしめつけられるような気もちになって、しかしなんにも言わずに彼についていった。二三度狭苦しい路次を曲った。と、急に一つの荒れ果てた空地を背後にした物置小屋に近い小さな家の前に連れ出された。私はその殆(ほとん)ど昔のままの荒れ果てた空地を見ると、突然何もかもを思い出した。――彼が自分の家だといって私に示したのは、それは昔私の家の離れになっていた、小さな細工場をそれだけ別に独立させたものにちがいなかった。その一間きりらしい家の中では、老父が一人きり、私達を見ても無言のまま、せっせと自分の仕事に向っていた。それは履物(はきもの)に畳表を一枚々々つける仕事だった。――その家というのもほんの名ばかりのような小屋から、もと私達の住んでいた母屋(おもや)とその庭は、高い板塀(いたべい)に遮(さえぎ)られて殆ど何も見えなかった。唯(ただ)、その板塀の上から、すっかり葉の落ちつくした、ごつごつした枝先をのぞかせているのは、恐らくあの私の大好きだった無花果の木かも知れなかった。いまの私達の家に引越すとき、他の小さな植木類は大抵移し植えたが、その無花果の木だけはそのままに残してきた筈(はず)だった。――
 私はその老人が何も言わずに気むずかしげに仕事をしつづけているのに気がねしながら、縁側に倚(よ)りかかって、緒方の出してきた袋の中から自分のもらうベイを選んでいる間も、絶えず隣りの家に気をとられていた。そのときの私のおずおずした目にも、それはまあ何んとうす汚(よご)れて、みじめに見えたことか。それは私が緒方にさえもその家が昔の自分の家だったことを口に出せずにいた位だった。
「お隣りは何んだい?」私は漸(ようや)っとためらいがちに訊(き)いてみた
「ふふ……」緒方はいかにも早熟(ませ)たような薄笑いをした。
 それから彼はちらりと自分の老父の方を偸(ぬす)み見ながら、私にそっと耳打ちをした。
「お妾(めかけ)さんの家だ。」
 私はその思いがけない言葉をきくと、不意と、何か悲しい目つきをした若い女の人の姿を浮べた。それは私の方でも大へん好きになれそうだし、向うでも私のことを蔭ではかわいがってくれているのに、その境遇のために何とはなしに私に近づけないでいる、あのおよんちゃんという小さなおばさんに似た、それよりももっともっと美しい人だった。……私は何かもう居ても立ってもいられないような、切ない気がしだしていた。しかし私は、いかにも何気なさそうな風をして、ベイを選ぶのはいつか緒方自身に任せながら、目の前の、枯れた無花果の木のごつごつした枝ぶりを食い入るようにして見入っていた。

註一 火事があったのは丁度私の四歳の五月の節句のときで、隣家から発したもので、私の家はほんの一部を焼いただけですんだ由。しかし、その火事で私は五月幟(のぼり)も五月人形もみんな焼いてしまったりして、その火事の恐怖が私には甚(はなは)だ強い衝動を与えたために、それまでのすべてのいろんな記憶は跡かたもなく消されてしまったらしい。そののちは端午の節句になっても、私のためにはただ一枚の鍾馗(しょうき)の絵が飾られたきりであった。    花火から茅葺(かやぶき)屋根に火がうつって火事になったのは、三囲稲荷のほとりの、其角堂(きかくどう)であった。そしてそれは全然別のときのことであった。
註二 数年後、私達が引越して行った水戸さまの裏の家の植込みにも、それと同じ木があり、夏になるといつもぽっかりと円い紫の花を咲かせているのを毎年何気なく見過ごしていたが、それが最初の家から移し植えたものであり、また紫陽花(あじさい)という名であるのを知ったのは、私がもう十二三になってからだった。それまでながい間、私はその花の咲いているのを見ていると、どうしてこうも自分の裡(うち)に何ともいえずなつかしいような悲しみが湧(わ)いてくるのだか分からないでいた。
註三 「掘割づたいに曳舟通(ひきふねどおり)から直(す)ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂回(うかい)した小径(こみち)が三囲稲荷の横手を巡(めぐ)って土手へと通じている。小径に沿うては田圃(たんぼ)を埋立てた空地(あきち)に、新しい貸長屋がまだ空家のままに立並んだ処(ところ)もある。広々とした構えの外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎(いなか)らしい茅葺の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それ等(ら)の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかっている女の姿の見える事もあった。……」    これは荷風の『すみだ川』の一節であるが、全集を見ると明治四十二年作とあるから、まだ私が五つか六つの頃である。それだから、私の記憶はこれほどはっきりとはしていないが、ここに描かれてある小径は、ことによると、曳舟通りに近かった私の家から尼寺の近所のおばさんの家へ行くときにいつも通っていた小径と同じであるかも知れない。



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