省察
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著者名:デカルトルネ 

神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を
論証する、第一哲学についての省察


     書簡


   聖なるパリ神学部の
 いとも明識にしていとも高名なる
    学部長並びに博士諸賢に
        レナトゥス デス カルテス

 私をしてこの書物を諸賢に呈するに至らしめました理由は極めて正当なものでありますし、諸賢もまた、私の企ての動機を理解せられました場合、この書物を諸賢の保護のもとにおかれまするに極めて正当な理由を有せられるであろうと確信いたしますので、ここにこの書物を諸賢にいわば推薦いたしまするには、私がその中で追求しましたことを簡単に申し述べるにしくはないと考える次第であります。
 私はつねに、神についてと霊魂についてと、この二つの問題は、神学によってよりもむしろ哲学によって論証せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ信ある者には、人間の霊魂の肉体と共に滅びざること、また神の存在したまうことは、信仰によって信ずることで十分でありますとはいえ、たしかに、信なき者には、まず彼等にこの二つのことが自然的理性によって証明せられるのでなければ、いかなる宗教も、またほとんどいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思われないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳にいっそう大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また来世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少数であるでありましょう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教えられているところでありますから、まったく真でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。まことに信仰は神の賜物でありまするゆえに、余のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れたまうその神はまた、神の存在したまうことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得たまうからであります。とはいえ、これはしかし、信仰なき人々に対しましては、彼等はこれを循環論であると判断いたすでありましょうから、持ち出すことができませぬ。そして実に私は、単に諸賢一同並びに他の神学者たちが神の存在は自然的理性によって証明せられ得ると確信いたされるということのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりもさらに容易であり、まったくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるということに、気づきました。これはすなわちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またそのゆえをもって彼等は宥すべからざらなり、けだし彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、弁解することを得ず、と言われております。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顕わなり、という言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の処においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根拠によって、明白にし得るということが告げられていると思われるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によって神はこの世のものよりもさらに容易にさらに確実に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無関係なことではないと考えた次第であります。
 また霊魂に関しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判断いたしており、そして或る者は人間的な根拠からは霊魂が肉体と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によってのみその反対が理解せられるとすら敢えて申しておりますとはいえ、しかしレオ十世の下に開かれましたラテラン公会議は、第八会同におきまして、彼等を非とし、そしてキリスト教哲学者たちにかの人々の論拠を破り、全力を挙げて真理を証明するように命ずるのでありますから、私もまたこれを企てることを恐れなかった次第であります。
 さらに私は、多数の不信者が神の存したまうこと、人間の精神が身体から区別せられることを信じようと欲しない原因はまさに、この二つのことがらは従来何人によっても論証せられ得なかったと我らが申しますところに存することを知っておりますゆえに、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反対にこれらの問題に対して偉大なる人々によって持ち出されましたほとんどすべての根拠は、十分に理解せられます場合には、論証の力を有すると考えておりますし、従って私は前に他の何人かによって発見せられなかったような根拠はほとんど何も与え得ないと信じておりますとはいえ、しかもひとたびそれらすべての根拠のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして厳密に明瞭に解明し、かくてすべての人々の前に今後これが論証であることを確かにいたしますならば、哲学においてこれにまさる有益なことは為し得ないと思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの学問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成いたしましたことを知っております或る者は―――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、真理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して実のり多かったことを見ているのであります。―――この仕事が私によって為されることを切に請い求めましたゆえにかようにして私はこれについて若干試みることが私の義務であると考えた次第であります。
 さて私が為し遂げ得ましたほどのことはことごとくこの論文の中に含まれております。もっとも、かのことがらを証明すべきものとして持ち出され得るであろう様々の根拠のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何ら十分に確実な根拠を有しない場合にしか、労力に値しないと思われるからであります。かえって私はただ第一の、何よりも重要な諸根拠をば、今これらを極めて確実な、極めて明証的な諸論証として提出することを敢えて致し得るような仕方で、追求したのであります。なおまた私は、これらは、惟(おも)うに、人間の智能にとりましてはさらにすぐれた根拠を発見し得るいかなる道も開かれていないような性質のものであるということを、附け加えるでありましょう。すなわち、ことがらの緊要性と、これがことごとく関係するところの神の栄光とは、この場合私の習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るように私を強要する次第であります。もっとも私は、私の根拠を確実で明証的なものと考えますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合しているものとは信じませぬ。まことに幾何学におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるいは他の人々によって多くのことが書かれておりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないような何物も、またそれにおいて後続するものが先行するものと厳密に関聯しないような何物もまったく含まないゆえに、すべての人によって極めて明証的でまた確実なものと看做(みな)されておりますとはいうものの、しかしそれはどちらかといえば長く、そして非常に注意深い読者を要求いたしますから、まったく少数の者によってのほか理解せられないのであります。あたかもそのように、私がここに使用いたしますものは、確実性と明証性とにおきまして幾何学に関することがらと同等あるいはこれを凌駕しさえすると私は認めておりますとはいえ、しかし多くの人々によって十分に洞見せられ得ないであろうと恐れる次第であります。すなわち、一つにはこれらもどちらかといえば長く、そして一は他に依繋いたしているからであり、また一つには主として、先入観からまったく解放せられた、自己自身を感覚の連累から容易に引き離すところの精神を要求するからであります。そして確かに世の中には形而上学の研究に適する者は幾何学の研究に適する者よりも多く見出されないのであります。さらにまた次の点に差異が存しております。すなわち、幾何学におきましては、すべての人が、確実な論証を有しないいかなることがらも書かれない慣わしであると信じておりますゆえに、精通しない者は、真なる事柄を反駁することにおいてよりも、偽なることがらを、これを理解すると見せ掛けようと欲しまして、是認することにおいていっそうしばしば過ちを犯すのでありますが、これに反して哲学におきましては、双方の側において論争せられ得ないいかなることがらもないと信じられておりますゆえに、少数の者のみが真理を探索し、そして大多数の者は敢えて最もすぐれた説を攻撃することによって、智能ある者との名声を得ようと努めるのであります。
 かるがゆえに、私の根拠がいかなる性質のものでありましょうとも、ともかく哲学に属しているのでありますから、諸賢の庇護によって助けられるのでなければ、それらの根拠をもって労力に値する大きな効果を挙げ得ようとは、私は期待いたしませぬ。しかるに諸賢の学部につきましてはすべての人が深く尊敬の念を抱いており、またソルボンヌの名ははなはだ権威を有しており、かくて単に信仰に関することがらにおいて聖なる公会議に亜(つ)いで諸賢の団体ほど信頼せられているおよそいかなる団体も存しないのみでなく、また人文的な哲学におきましても、他のいずこにも[#「いずこにも」は底本では「いずこも」]さらに大きな明察と堅実性とが、また判断を下すにあたってさらに大きな健全性と叡智とが存しないと看做されているのであります。かるがゆえに、もし諸賢においてこの書物に対しまして、まず第一に、それが諸賢によって訂正せられますように、―――すなわち、単に私の人間的な弱さのみでなく、何よりもまた私の無知を想起いたしまして、この書物の中に何らの誤謬も存しないと私は確信いたしませぬ。―――次に、欠けていることがら、あるいは十分に完全でないことがら、あるいはさらに詳細な説明を要求することがらが、諸賢みずからによりまして、それとも、諸賢から告げられました後に、少くとも私によりまして、附け加えられ、完全にせられ、闡明せられますように、そして最後に、神の存したまうこと、また精神の身体とは別のものであることを証明するこの書物の中に含まれる根拠が、実にこれを極めて厳密な論証と看做さねばならぬほどまで、明瞭性に達せしめられました後に、―――私はそれがかかる明瞭性に達せしめられ得ると確信いたしております、―――諸賢がまさにこのことを言明し、公に証言して下さいますように、かように高配を賜りますならば、その場合には、これらの問題についておよそ存しましたすべての誤謬はまもなくもろもろの人間の精神から拭い去られるますことを、私は疑わないのであります。すなわち、真理そのものは容易に余の智能の士並びに博学の士が諸賢の判断に同意いたすようにするでありましょう。また権威は、智能の士とか博学の士とかであるよりもむしろ多くは一知半解の徒であるのを慣わしといたします無神論者が、反対する心を棄てるように、それのみかは、おそらくすべての学識ある人々によってそれが論証と看做されていることを彼等が知っているところの根拠を、理解せぬと思われたくないために、彼等みずから弁護するようにさえ、するでありましょう。そして最後に、その余のすべての者はかくも多くの証拠に容易に信をおくでありましょう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の霊魂と肉体との実在的な区別とかを敢えて疑う者は誰もないでありましょう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みずから、諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評価せられることができる次第であります。つねにカトリック教会の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに関することがらをこれ以上の言葉を費してここに推薦いたしますことは、私にはふさわしくないでありましょう。
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     読者への序言

 神及び人間の精神に関する問題は、すでに少し前、フランス語で一六三七年に公にせられた『理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の叙説』の中で、私は触れた。もっともそれは、この問題をかしこで厳密に取扱うためではなく、ただこれにちょっと触れて、読者の判断から、いかなる仕方で後にこれを取扱うべきかを、知るためであった。というのは、この問題は私には極めて重要なものと思われたので、一度ならずこれについて論じなければならぬと私は判断したのである。またこの問題を説明するために私が辿る道は、ほとんど先蹤のないもので、一般の慣用から極めてかけ離れたものであるので、智能の脆弱な者がこの道を自分も歩まねばならぬと信じると悪いから、これをフランス語で書かれた、差別なしにすべての人に読まるべき書物の中で、あれ以上詳細に述べるということは、益のないことと考えたのである。
 しかし私はかしこで、私の書物において何か非難に値いすることがらに出会ったすべての人に、これを私に知らせていただくようにお願いしたが、右の問題について私が触れたことがらに関して、二つしか注目に値いする駁論は出なかった。この駁論に対して私はここで、右の問題のさらに厳密な説明を企てるに先立って、簡単に答えたい。
 第一の駁論は、自己に向けられた人間の精神は、自己を思惟するものであるとしか知覚しないということから、その本性すなわち本質はただ、思惟するものであることに、このただという語がおそらくはまた霊魂の本性に属すると言われ得るであろう余のすべてを排除する意味において、存するということは帰結しない、というのである。この駁論に対して私は答える、私もまたかしこで余のすべてを、ものの真理そのものに関する秩序において(これについてもちろん私はあのとき論じたのではない)排除しようと欲したのではなく、かえって単に私の知覚に関する秩序において排除しようと欲したのである、と。かくてその意味は、私の本質に属すると私が知るものとしては、私は思惟するもの、すなわち自己のうちに思惟する能力を有するものであるということのほか何物も私はまったく認識しないということであった、と。しかし以下において私は、いかにして、そのほかの何物も私の本性に属しないと私が認識することから、また実際にそのほかの何物も私の本性に属しないということが帰結するかを明白にするであろう。
 もう一つの駁論は、私が私のうちに私よりも完全なものの観念を有するということから、この観念が私よりも完全であるということ、ましてこの観念によって表現せられるものが存在するということは帰結しない、というのである。しかし私は答える、この場合、観念なる語に両義性が伏在すると。すなわち、それは一方質料的に、悟性の作用の意味に解せられることができ、この意味においては私よりも完全とは言われ得ないが、他方それは客観的に、この作用によって表現せられたものの意味に解せられることができ、このものは、たとい悟性の外に存在すると仮定せられなくとも、自己の本質にもとづいて私より完全であり得る、と。しかし、いかにして、ただこのこと、すなわち私のうちに私よりも完全なものの観念があるということから、かのものが実際に存在するということが帰結するかは、以下において詳細に解明せられるであろう。
 ほかに私は二つのかなり長い文章を見た。しかしその中では右の問題についての私の根拠ではなくむしろ結論が、無神論者たちのきまり文句から借りてこられた議論でもって駁撃せられているのである。ところで、この種の議論は、私の根拠を理解する人々の前では何らの力も有し得ないからして、また実に、多くの人々の判断は弱くて正しからず、たとい偽であり、理を離れたものであっても、最初に受け取った意見によってのほうが、真で堅固な、しかし後に聞いたその反駁によってよりも、いっそう多く説得せられるものであるから、ここではその議論に対して私が最初に述べねばならぬとすると悪いから、答弁することを欲しない。そしてただ一般的に私は言っておこう、神の存在を駁撃するために無神論者たちによって通例持ち出される一切は、つねに、人間的な情念が間違って神に属せしめられることに、あるいは僣越にも、神の為し得ることまた為すべきことを決定しまた理解することまでを我々が欲求し得るほど多くの力と智慧とが我々の精神に属せしめられることに、懸っており、かくて実に、我々がただ、我々の精神は有限で、神はしかし理解を超え無限であると考えねばならぬことを忘れない限り、かの論駁は我々に何らの困難も示さないであろう、と。
 さて今、ともかく一度人々の判断を知った後、ここに再び私は神と人間の精神とに関する問題を論究し、そして同時に全第一哲学の基礎を取扱おうと思う。しかしその際私は何ら大衆の称賛を、また何ら読者の多いことを期待しないであろう。私はただ本気で私と共に思索し、精神をもろもろの感覚から、また同時にすべての先入見から引離すことができまた引き離すことを欲する人々だけに読まれるように、これを書いたのであって、かような人がまったくわずかしか見出されないことを私は十分に知っている。しかるに私の根拠の連結と聯関とを理解することに意を用いないで、多くの人々にとって慣わしであるように、ただ箇々の語句に拘泥して、お喋りをすることに熱心な人々についていえば、彼等はこの書物を読むことから大きな利益を収めないであろう。そしてたとい彼等がおそらく多くの箇所において嘲笑する機会を発見するにしても、何か緊要なあるいは答弁に値する駁論は容易になし得ないであろう。
 しかしまた他の人々に対しても、私がすべての点において初手から彼等を満足させるであろうと私は約束しないのであるからして、また僣越にも私が何人かに困難と思われるであろう一切のことがらを予見し得ると私は確信しないのであるからして、私はまずこれらの省察において、私がそれによって真理の確実な明証的な認識に到達したと思われるところの同一の思惟の作用を開陳し、もって私が説得せられたのと同じ根拠によっておそらく私は他の人々をも説得し得るかどうかを知りたいと思う。そして、かくして後、これらの省察を印刷に附せられる前に検討してもらうために送った幾人かの智能と学識とによってすぐれた人々の駁論に対して答えるであろう。というのは、この人々によってなされた駁論は十分に数多くまた種々様々であるので、そこにすでに触れられていない、少くとも或る重要な、他の駁論が容易に何人の心にも浮かばないであろう、と私は敢えて期待するのである。そしてかるがゆえに、私は読者に、右のすべての駁論及びこれに対する弁明を通読する労力をとられない以前に、この省察について判断を下されないように、繰り返しお願いする。
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     以下の六省察の概要

 第一省察においては、いかなるわけで我々はすべてのもの、とりわけ物質的なものについて、少くとも我々がこれまで有したものよりほかの、もろもろの学問の基礎を有しない間は、疑うことができるかの理由が示される。かような全般的な懐疑の効用は初手には明かではないとはいえ、しかしそれはあらゆる先入見から我々を解放し、精神を感覚から引き離すに最も容易な道を用意し、そして最後に、我々がかくして後に真であると理解したことについてもはや疑い得ないようにするという点において、その効用は極めて大きいのである。
 第二省察においては、自己の有する自由を使用する精神は、その存在について極めて少しでも疑い得る一切は存在しないと仮定するが、自身はしかし存在せざるを得ないことに気づくのである。そのことはまた、このようにして、自己に、すなわち思惟する本性に属するものと、身体に属するものとを容易に区別するからして、極めて大きな効用を有している。しかしおそらく或る者は、その箇所において霊魂の不死についての根拠を期待するであろうから、ここで彼等に告げておかねばならぬと思う、私は厳密に論証しない何物も書かないことに努めたので、幾何学者たちの間で慣用せられている順序、すなわち何かを結論する前に、求められた命題が依繁する一切を前もって提論するという順序よりほかの順序に従うことができなかった、と。しかるに霊魂の不死をよく認識するために前もって要求せられる第一の何より重要なことがらは、霊魂についてできるだけ分明な、そして身体のあらゆる概念からまったく区別せられた概念を作るということである。これはそこでなされている。しかしそのほかに、我々が明晰に判明に理解する一切は、我々がそれを理解する通りに、真であるということを知ることがまた要求せられるのである。これは第四省察以前には証明せられることができなかった。さらに、物体的本性の判明な概念を有しなければならないのであって、かかる概念は一部分この第二省察において、また一部分は第五及び第六省察において作られている。なおまたこれら一切のことから、精神と身体とがまさにそのように把握せられるごとく、別個の実体として明晰に判明に把握せられるものは、全く実在的に互に区別せられた実体であることが結論せられねばならないのである。そしてこれは第六省察においてその通り結論せられている。これはしかも、同じ第六省察において、我々はいかなる物体も可分的としてでなければ理解せず、反対にいかなる精神も不可分的としてでなければ理解しないということによって、確かめられている。すなわち我々はどのように小さい物体でもその半分を考えることはできるが、いかなる精神についてもその半分を考えることはできぬ。かようにして両者の本性は単に別であるのみでなく、また或る点で相反することが認められる。しかしながらこのことについてはこの書物の中ではそれ以上立ち入って論じなかった。というのは、一方それだけで、身体の消滅から精神の死が帰結しないことを示し、そしてかようにして人間に来世の生の希望を与えるには、十分であるからであり、他方またこの精神の不死を結論し得るもろもろの前提はあらゆる自然学からの説明に依繁しているからである。すなわちまず、およそあらゆる実体、詳しく言うと、存在するためには神によって創造せられねばならぬものは、自己の本性上不滅であり、その同じ神によって、そのものに神の協力が拒まれることによって、無に帰せしめられるのでなければ、決してあることをやめ得ないということが知られねばならぬ。そして次に、一般的に見られた物体は実体であり、それがために決してまた滅びないということ、しかし人間[#「人間」は底本では「人問」]の身体は、余の物体と異なる限り、ただ単にもろもろの器官の或る一定の布置、及びこの種の他の偶有性から組立てられたものであり、しかるに人間の精神はかように何らかの偶有性から成るのではなく、純粋な実体であるということ、に着目せられねばならぬ。というのは、たといその一切の偶有性が変化せられ、その結果、別のものを思惟し、別のものを意欲し、別のものを感覚し、など、するにしても、そのために同じ精神が別のものにならないが、人間の身体はしかし、ただ単にその何らかの部分の形体が変化せられることによって、別のものになる。そのことから身体はきわめて容易に滅亡し、精神はしかし自己の本性上不死であるということが帰結せられるのである。
 第三省察においては、神の存在を証明するための私の主要な論証を、私の見るところでは、十分に詳しく展開した。しかしながら、読者の心をできるだけ感覚から引き離すために、私はかしこでは物体的なものから藉りてこられた比較を用いることを欲しなかったからして、たぶん多くの不明な点が残っているであろう。しかしそれは、私の希望するところでは、後に駁論に対する答弁の中でまったく除き去られるであろう。中にも、例えば、いかにして、我々のうちにあるこの上なく完全な実有の観念は、この上なく完全な原因によらなくては存し得ないほど大きな客観的実在性を有するかということであるが、これは答弁において、その観念が或る工人の精神のうちにある極めて完全な機械との比較によって解説せられている。すなわち、この観念の客観的製作は或る原因、言うまでもなくこの工人の知識、あるいは彼にそれを授けた或る他の者の知識、を有しなければならないのと同様に、我々のうちにある神の観念は神自身を原因として有せざるを得ないのである。
 第四省察においては、我々が明晰に判明に知覚する一切は真であるということが証明せられる。同時にまた虚偽の根拠が何に存するかが説明せられる。これは前に述べたことがらを確かにするためにも、後に続くことがらを理解するためにも、必ず知ることを要するのである。(しかしながら注意しておかねばらぬ、かしこで私は決して罪、すなわち善悪の追求において犯される誤謬についてではなく、ただ真偽の判別において起る誤謬について論じたのである、と。また私は信仰、あるいは処世に属することがらではなく、ただ思弁的な、そしてもっぱら自然的な光によって認識せられた真理を検討したのである、と。)
 第五省察においては、一般的に見られた物体的本性が説明せられるほか、また新しい根拠によって神の存在が論証せられる。しかしこの根拠にもおそらく或る困難が生ずるであろうが、これは後に駁論に対する答弁の中で解決せられるであろう。そして最後に、幾何学的論証の確実性さえも神の認識に依繁するということの、いかにして真であるかが示される。
 最後に、第六省察においては、悟性が想像力から分たれる。その区別の徴表が記述せられる。精神が実在的に身体から区別せられることが証明せられる。にもかかわらず精神が身体に、これと或る統一を成すほど密接に結合せられていることが示される。感覚から起るのを慣わしとするすべての誤謬が調査せられる。これを避け得る手段が開陳せられる。そして最後に、物質的なものの存在を結論し得る一切の根拠が提示せられる。それは、この根拠がまさに証明することがら、すなわち、世界は実際にあるということ、また人間は身体を有するということ、その他この類のことがらを証明するために、この根拠が極めて有益であると考えるからではない、かかることがらについては健全な精神を有する何人も決して本気に疑わなかったのである。そうではなくて、この根拠を考察することによって、これがかの我々を我々の精神及び神の認識に達せしめる根拠ほど堅固でも分明でもないことが認められるゆえである。従ってかの根拠は人間の智能によって知られ得る一切のうち最も確実で最も明証的である。ただこの一事を証明することを私はこの省察において目的としたのである。かるがゆえに私はその中でまたたまたま取扱われた他の種々の問題をここで枚挙しないことにする。
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     省察一

  疑いをいれ得るものについて。

 すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根柢から覆えし、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。しかしこれはたいへんな仕事であると思われたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適当ないかなる時も後に来ないという年齢に達するまで待った。かようなわけで長い間延ばしてきたので、いまやもし私が実行するために残っている時間をなおも思案に空費するならば、私は過ちを犯すことになるであろう。そこで、幸に今日、私の心は一切の憂いから放たれ、独り離れて、平穏な閑暇を得たから、いよいよ私は本気にかつ自由に私のもろもろの意見のこの全般的顛覆に従事しよう。
 ところがこれがためには、その意見のすべてが偽なるを示す必要はないであろう、かかることはおそらく私の到底為し遂げ得ないことである。かえって、すでに理性は、まったく確実でもなく疑い得ぬものでもないものに対しては、明白に偽なるものに対するに劣らず注意して、同意を差し控うべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいずれのうちになりとも何か疑いの理由を見出すならば、それでそのすべてを拒斥するに十分であろう。またこれがためにその意見の一つ一つを調べ□ることを要しないであろう、かかることは際限のない仕事である。かえって、土台を掘りかえせばその上に建てられたものはいずれもおのずと一緒に崩れるのであるから、私はかつて私が信じたところの一切が拠っていた原理そのものに直ちに肉薄しよう。
 実にこれまで私が何よりも真と認めたものはいずれも、感覚からか、または感覚を介してか、受取ったのであった。しかるにこの感覚は時として欺くということがわかった。そして一度たりとも我々を瞞したものには決してすっかり信頼しないのが賢明なことである。
 しかしおそらく、感覚はあまり小さいもの、あまり遠く離れたものに関しては時として我々を欺くとはいえ、同じく感覚から汲まれたものであっても、まったく疑い得ぬ他の多くのものがある。例えば、今私がここに居ること、煖炉のそばに坐っていること、冬の服を着ていること、この紙片を手にしていること、その他これに類することのごとき。まことにこの手やこの身体が私のものであるということは、いかにして否定され得るであろうか、もし私がおそらく私を誰か狂った者に、その脳が黒い胆汁からの頑固な蒸気でかき乱されていて、極貧であるのに自分は帝王であるとか、赤裸であるのに緋衣を纒うているとか、粘土製の頭を持っているとか、自分は全体が南瓜であるとか、硝子から出来ているとか、と、執拗に言い張る者に、比較するのでなければ。しかし彼等は狂人であるのだが、もし私が何か彼等の例を私に移すならば、私自身また彼らに劣らぬ精神錯乱と見られるであろう。
 いかにもその通りだ。だが私は、夜には眠るのをつねとし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼等狂人が覚めているときに経験するよりもっと真らしくないことをさえ経験する人間でないとでもいうのか。実際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、かの慣わしとすること、すなわち、私がここに居ること、服を着ていること、煖炉のそばに坐っていることを、信じているか、しかも私は着物を脱いで寝床の中に横たわっているのに。とはいえ現在私は確かに覚めたる眼をもってこの紙片を視ている、私が動かすこの頭は眠ってはいない、私はあらかじめ考えて、意図を持ってこの手を伸ばしかつ感覚している。眠っている場合に生ずることはこのように判明なものではないであろう。それにしても私は他の時には夢のなかでまた同様の意識によって騙されたことを思い出さないとでもいうのか。かかることをさらに注意深く考えるとき、私は覚醒と夢とが決して確実な標識によって区別され得ないことを明かに認めて、驚愕し、そしてこの驚愕そのものは、私は現に夢見ているのだとの意見を私にほとんど説得するのである。
 それゆえにいま、我々は夢みているものとしよう。そしてこの特殊的なもの、すなわち、我々が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、が真でなく、いな、またおそらく我々はかような手も、またかような身体全体も有するのではないとしよう。それにしても実際我々は、睡眠の間に見られたものが、あたかもかの現実にあるものに象(かたど)ってでなければ作られ得ぬところの絵に画かれた像のごときものであること、従って少くともこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、また全部の身体は、或る空想的なものではなくて真なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。というのは、実に彼等画家は、セイレネスやサチュロイを極めて怪奇な形で描こうと努力する場合でさえ、それにあらゆる点で新しい本質を付与することは出来ないのであって、単に種々の動物のもろもろの部分を混ぜ合わせるに過ぎないから。それとも、もし彼等がおそらく、およそ類似のある何物も見たことがない、従ってまったく虚構であり虚妄であるというほど新しいものを案出するとしても確かに少くとも彼等がそれを構成する色は真なるものでなければならないのである。そして同じ理由によって、たといまたこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、その他これに類するものが空想的なものであり得るとしても、少くとも或る他のなおいっそう単純な、かつ普遍的なものは、すなわち、それでもってあたかも真なる色でもってのごとく、この、真にせよ偽にせよ、我々の思惟のうちにある物の一切の像が作られるところのものは、真なるものであることは、必然的に承認しなければならない。
 この類に属すると思われるものは、物体的本性一般、及びその延長、さらに延長あるものの形体、さらにその量、すなわちその大いさと数、さらにそれがそのうちに存在する場所、及びそのあいだ存続する時間、その他これに類するものである。
 かるがゆえにこのことから我々はたぶん正当に、物理学、星学、医学、その他すべて複合せられたものの考察に関わる学問はたしかに疑わしいということ、これに反して算術、幾何学、その他かようなもの、すなわち極めて単純でいたって一般的なもののみを取扱い、そしてそれが世界のうちに存するか否かをほとんど顧みない学問は、或る確実で疑いを容れぬものを含むということ、を結論し得るであろう。なぜなら、私が覚めているにせよ、眠っているにせよ、二と三を加えれば五であり、また四角形は四より多くの辺を有しないのであり、そしてかように分明な真理が虚偽の嫌疑をかけられることは起り得ないと思われるからである。
 さりながら私の心には或る古い意見、すなわちすべてのことを為し能う神が存在し、そして私はこの神によって現に私が有るごとき性質のものとして創造せられたという意見が刻みつけられている。さすればしかし、この神が、何らの地も、何らの天も、何らの延長あるものも、何らの形体も、何らの大きさも、何らの場所も、まったく存在せずに、しかもこのすべてのものが現在とたがわず私には存在するごとく思われるように、為さなかったということを、私はどこから知るのであるか。否、むしろ、私はときどき他の人々が自分では極めて完全に知っていると思っていることに関して間違いをしていると判断するのであるが、これと同じように、私が二と三とを加えるたびごとに、あるいは四角形の辺を数えるたびごとに、あるいはもし何か他のさらに容易なことを想像し得るならそのことについて判断するたびごとに、私が過つように、神は為した、とさえ言うことができるであろうか。しかしおそらく神はかように私が欺かれることを欲しなかったであろう、なぜなら神はこの上なく善であると言われているから。しかるにもしこのこと、すなわち私を常に過つようなものとして創造したということが神の善意に反するとするならば、私がときどき過つことを許すということも神の善意と相容れないように思われる、けれどもこの最後のことはそうは言い得ないのである。
 もちろん、余のすべてのものが不確実であると信ずるよりか、むしろそのように有力な神を否定することを選ぶ者がたぶんあるであろう。しかし我々はいまは彼等に反対せずにおこう。そして神についてここで言われた全部が虚構であるとしておこう。さりながら、彼等がどのような仕方で、運命によるにせよ、偶然によるにせよ、物の連続的な聯結によるにせよ、あるいは何か他の仕方によるにせよ、私が私の現に有るものに成るに至ったと仮定するにしても、過つこと思い違いすることは或る不完全性であると思われるからして、彼等が私の起原の創造者をより無力であると考えれば考えるほど、私が常に過つほど不完全であるということは、ますます確からしくなるであろう。この議論に対して私はまことに何ら答うべきものを有しない。しかし私は、かつて私が真と思ったもののうちに疑うことを許さぬものは何もないこと、しかもこれは無思慮とか軽率とかによるのではなく、強力な熟慮せられた理由によるのであること、従ってもし私が何か確実なものを見出そうと欲するならば、この議論に対しても、明白に偽のものに対してと劣らず用心して、今後は同意を差し控えねばならないこと、を告白せざるを得ないのである。
 しかしながら、これらのことに気づいただけでは未だ十分ではない、いつも念頭におくように心を用いなければならぬ。というのは、習いとなった意見は絶えず還ってきて、いわば長い間の慣わしと親しさの権利とによって己れに愛着している私の信じ易い心を、ほとんど私の意に反してさえも、占領するからである。また私がこの意見を、それが実際さうであるような性質のもの、すなわち、すでに示されたごとく、なるほど多少疑わしいが、にもかかわらずはなはだ確からしいもの、従ってそれを否定するよりも信ずることが遥かに多く道理に適っているもの、であると見做す間は、私は決してそれに同意しそれを信用する習慣を脱しないであろう。かるがゆえに、私が意志をまったく反対の方向に転じて、自分を欺き、そしてしばらくの間すべての意見が偽で空想的であると仮想し、かくして遂に、いわば偏見の重量を双方ともに同等のものとし、もはや曲った習慣が私の判断をものの正しい知覚から逸らせないようにしても、私は不都合なことはしてはいまいと思う。実際、かくすることから何らの危険も誤謬もその間に生じてこないであろうということ、また現在私は実行に関することがらではなくただ認識に関することがらに専心従事しているのであるから、いかに不信を逞うしても、それが過ぎることはあり得ないということ、を私は知っているのである。
 そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の生活の仕方に返えらせる。そのさまは、おそらく夢の中で空想的な自由を味わっていた囚われびとが、後になって自分は眠っているのではないかと疑い始める場合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆっくり眠りつづけるのと異ならないのであって、そのように私はおのずと再び古い意見のうちに落ち込み、そしてこの睡眠の平穏に苦労の多い覚醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かえって既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあいだで、将来、時を過ごさねばならぬことのないように、覚めることを怖れるのである。
[#改丁]

     省察二

  人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ。

 昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。かえって、あたかも渦巻く深淵の中へ不意に落ち込んだように、私は狼狽して、足を底に着けることもできなければ、泳いで水面へ脱出することもできないというさまであった。しかしなおも私は努力し、昨日進んだと同じ道を、もちろん、極めてわずかであれ疑いを容れるものはすべて、あたかもそれが全く偽であることを私がはっきり知っているのと同じように、払い除けつつ、改めて辿ろう。そして何か確実なものに、あるいは、余のことが何もできねば、少くともまさにこのこと、すなわち、確実なものは何もないということを確実なこととして認識するに至るまで、さらに先へ歩み続けよう。アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の点のほか何も求めなかった。もし私が極めてわずかなものであれ何か確実で揺るがし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。
 そこで私は、私が見るすべてのものは偽であると仮定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよかつて存在しなかったと信じることにする。私はまったく何らの感官も有しないとする。物体、形体、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば真であるのは何であろうか。たぶんこの一つのこと、すなわち、確実なものは何もないということであろう。
 しかしながらどこから私は、いましがた数え上げたすべてのものとは別で、少しの疑うべき余地もない或るものが存しないことを、知っているのであるか。何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それゆえに少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何らかの感官、または何らかの身体を有することを否定したのであった。とはいえ私は立ち止まらされる、というのは、このことから何が帰結するのであるか。いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちに全く何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
 しかし、いま必然的に有る私、その私がいったい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。そこで次に、おそらく何か他のものを不用意に私と思い違いしないように、かくてまたこのすべてのうち最も確実で最も明証的であると私の主張する認識においてさえ踏み迷うことがないように、注意しなければならない。かるがゆえにいま、この思索に入った以前、かつて私はいったい何ものであると私が信じたのか、改めて省察しよう。このものから次に何であれ右に示した根拠によって極めてわずかなりとも薄弱にせられ得るものは引き去り、かくて遂にまさしく確実で揺がし得ないもののみが残るようにしよう。
 そこで以前、私はいったい何であると考えたのか。言うまでもなく、人間と考えたのであった。しかしながら人間とは何か。理性的動物と私は言うでもあろうか。否。何故というに、さすれば後に、動物とはいったい何か、また理性的とは何か、と問わねばならないであろうし、そしてかようにして私は一個の問題から多数の、しかもいっそう困難な問題へ落ち込むであろうから。またいま私はこのような煩瑣な問題で空費しようと欲するほど多くの閑暇を有しないのである。むしろ私はここで、私は何であるかと私が考察したたびごとに、何が以前私の思想に、おのずと、私の本性に導かれて、現われたか、に注意しよう。そこに現われたのは、もちろん、まず第一に、私が顔、手、腕、そしてこのもろもろの部分の全体の機械を有するということであって、かようなものは死骸においても認められ、そしてこれを私は身体と名づけたのである。なおまた、そこに現われたのは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、思惟するということであって、これらの活動を私は霊魂に関係づけたのである。しかしながらこの霊魂が何であるかに、私は注意を向けなかったか、それともこれを風とか火とか空気とかに似た、私のいっそう粗大な部分に注ぎ込まれた、何か知らぬが或る微細なものと想像した。物体については私は決して疑わず、判明にその本性を知っていると思っていた。これをもしおそらく、私が精神によって把握したごとくに、記述することを試みたならば、私は次のように説明したであろう。曰く、物体とはすべて、何らかの形体によって限られ、場所によって囲まれ、他のあらゆる物体を排するごとくに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、触覚、視覚、聴覚、味覚、あるいは嗅覚によって知覚せられ、そして実に多くの仕方で、決して自己自身によってではなく、他のものによって、そのどこかに触れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなわち、自己自身を動かす力、同じように、感覚する、あるいは思惟する力を有することは、決して物体の本性に属しないと私は判断したのであり、のみならずかような能力が或る物体のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。
 しかし現在、或る極めて有力な、そして、もしそういうことが許されるならば、悪意のある、欺瞞者が、あらゆる点において、できる限り、私を欺くことに、骨を折っていると仮定する場合、どうであろうか。私は、物体の本性に属するとさきほど言ったすべてのものうち極めてわずかなものであれ私が有することを確認し得るものがあろうか。私は注意し、考え、また考える。私が有すると言い得るものには何も出会わない。私は同じことを空しく繰り返すことに疲れる。しからば霊魂に属するとしたものは、どうであろうか。栄養をとるとか歩行するとかいうことは? 実にいま私は身体を有しないのであるから、これもまた作りごと以外の何ものでもない。感覚することは? もちろんこれも身体がなければ存しないものであり、また私は夢において、後になって実際に感覚したのではないと気づいた非常に多くのことを感覚すると思ったのである。思惟することは? ここに私は発見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確実だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。なぜというに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるということがおそらくまた生じ得るであろうから。いま私は必然的に真であるもののほか何も許容しない、そこで私はまさしくただ思惟するもの、言い換えれば、精神、すなわち霊魂、すなわち悟性、すなわち理性である、これらは私には以前その意味が知られていなかった言葉である。しかし私は真のもの、そして真に存在するものである。だがいかなるものなのか。私は言った、思惟するもの、と。
 そのほかに何か。想像を働かせてみよう。私は人体と称せられるかのもろもろの部分の集合ではない。私はまたこれらの部分に注ぎ込まれた或る微妙な空気でもなく、風でも、火でも、蒸気でも、気息でも、その他私の構像するような何ものでもない。というのは、このようなものは無であると私は仮定したのであるから。けれどそれにもかかわらず、私は或るものである、という立言は動かないのである。しかし、たぶん、私に知られていないとのゆえをもって、無であると仮定するこれらのものそのものが、ものの真理においては私が知っている私、その私と別のものでないということが生じないであろうか。これについて私は何も知らない。このことについては私はいま争わない。ただ私に知られていることについてのみ、私は判断を下し得るのである。私は私が存在することを知っている。そして、私の知っている私、その私は何であるか、と問うている。この、かように厳密な意味における知識が、その存在を私が未だ知っていないものに依繋しないということ、従って私が想像力によって構像する何ものにも依繋しないということは、極めて確かである。そしてこの構像するという語が私の誤謬を私に告げるのである。なぜなら、もし私が何かであると私が想像したならば、私は実際に構像するであろうから。というのは、想像するとは物体的なものの形体、あるいは像を見ることにほかならないのであるから。しかるに既に私は、私は有るということ、同時にまた一切このような像、そして一般に物体の本性に関係づけられるあらゆるものは、夢幻以外の何ものでもないことがあり得るということ、を確かに知っている。このことに気づいた場合、私はいったい何であるかをさらに判明に知るために想像力を働かそうと言うのは、いまたしかに私は目覚めており、そして真なるものをいくらか見るが、しかし未だ十分に明証的に見ないからして、夢がこのものをさらに真にさらに明証的に表現するように、努力して眠りに入ろうと言うのに劣らず、道理に反すると思われるのである。かようにして私は、想像力の助けを藉りて捉え得るいかなるものも、この、私が私について有する知識に属しないこと、精神が自己の本性をまったく判明に知覚するためには、極力注意して精神をそのようなものから遠ざけねばならぬこと、を認識するのである。
 しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいうのか。言うまでもなく、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なおまた想像し、感覚するものである。
 まことにこれは、もし全部が私に属するならば、僅少ではない、しかしなぜ属してはならないであろうか。いまほとんど一切のものについて疑い、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは真であると肯定し、余のことを否定し、いっそう多くのことを知ろうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なおまたいわば感覚からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。たとい私がつねに眠るにしても、たといまた私を創造したものが、できる限り、私を欺くにしても、私は有るということと同等に真でないものは、これらのうち何であるか。私の思惟から区別せられるものは、何であるか。私自身から分離せられていると言われ得るものは、何であるか。というのは、疑い、理解し、欲するものが私であることは、これをさらに明証的に説明する何物も現われないほど、明白である。しかし実にまた私は想像する私と同じ私である。なぜなら、たといおそらく、私が仮定したように、想像せられたものがまったく何一つ真でないにしても、想像する力そのものは実際に存在し、そして私の思惟の部分をなしているからである。最後に、私は、感覚する、すなわち物体的なものをいわば感覚を介して認める私と同じ私である。いま私は明かに、光を見、噪音を聴き、熱を感じる。これらは偽である、私は眠っているのだから、といわれるでもあろう。しかし私は見、聴き、暖くなると私には思われるということは確実である。これは偽であり得ない。これが本来、私において感覚すると称せられることなのである。そしてこれは、かように厳密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである。
 これらのことによってともかく私は、私はいったい何であるかを、いくらかよく知り始める。しかしながらこれまでのところ、その像が思惟によって形作られ、そして感覚そのものが検証する物体的なものは、この何か知らぬが、想像力の支配下に入り来らぬ、私に属するものよりも、遥かに判明に認知せられると私には思われ、また私はそう考えざるを得ないのである。とはいえ、実際、疑わしくて、知られていないで、私に関係がないと私の認めるものが、真であるもの、認識せられているもの、要するに私自身よりも、いっそう判明に、私によって理解せられるということは、奇異なことであろう。しかし私はこれがどういうことであるかを看取する、すなわち、私の精神はさ迷い歩くことを好み、そして未だ真理の限界内に引き留められることを甘受しないのである。それならそれで宜しい。我々はさらにひとたびこの精神に手綱を極度に弛めてやり、かくして、やがて適当な時に再び引き締める場合、それがいっそう容易に統御せられ得るようにしよう。
 そこで我々はかの普通にすべてのもののうち最も判明に理解せられると思われているもの、すなわち、言うまでもなく、我々が触れ、我々が見る物体を考察しよう。しかし物体一般ではない。というのは、この一般的な知覚はむしろいっそう不分明であるのがつねであるから。かえって我々は特殊的な一つのものを考察する。我々は、例えば、この蜜蝋をとろう。それは今しがた蜜蜂の巣から取り出されたばかりで、未だ自己の有する蜜のあらゆる味を失わず、それが集められた花の香りのいくらかを保っている。その色、形体、大きさは明白である。すなわち、それは堅くて冷たく、容易に掴まれ、そして指で打てば音を発する。要するに或る物体をできるだけ判明に認識し得るために要求せられ得ると思われる一切が、この蜜蝋に具わっている。しかしながら、見よ、私がこう言っている間に、それを火に近づけると、残っていた味は除き去られ、香は散り失せ、色は移り変わり、形体は毀され、大きさは増し、流動的となり、熱くなり、ほとんど掴まれることができず、またいまは、打っても音を発しない。それでもなお同じ蜜蝋は存続しているのか。存続していると告白しなければならぬ。誰もこれを否定しない。誰もこれと違って考えない。しからばこの蜜蝋においてあのように判明に理解せられたものは、何であったのか。それは確かに私が感官によって捉えたところのいかなるものでもない。なぜなら味覚、あるいは嗅覚、あるいは視覚、あるいは触覚、あるいは聴覚によって感知したあらゆるものは、いまは変化しているからである。しかもなお蜜蝋は存続している。
 たぶんそれは私が現在思惟するものであったのであろう、すなわち、疑いもなく、蜜蝋そのものは、かの蜜の甘さでも、花の香りでも、かの白さでも、形体でも、音でも、あったのではなく、かえって少し前にはかの仕方で分明なものとして私に現われ、現在は別の仕方で現われるところの物体であったのである。しかしかように私が想像するこのものは、厳密に言えば、何であるか。我々は注意しよう、そして、蜜蝋に属しないものを遠ざけることによって、何が残るかを見よう。疑いもなく、延長を有する、屈曲し易い、変化し易い或るもの以外は何も残らない。しからばこの屈曲し易い、変化し易いとは、どういうことであるか。それは、この蜜蝋が円い形体から四角な形体に、あるいはこの四角な形体から三角の形体に転じられ得ると私が想像することであろうか。決してそうではない。なぜなら、私は蜜蝋がこの種の無数の変化を受け得ることを理解するが、しかし私はこの無数のものを、想像することによってはことごとく辿り得ず、従ってこの理解は想像する能力によっては仕遂げられないからである。さらに延長を有するとは、どういうことであるか。蜜蝋の延長そのものもまた知られていないのではあるまいか。なぜならそれは、溶解しつつある蜜蝋においていっそう大きくなり、煮沸せられるときにはさらにいっそう大きくなり、そして熱が増されるなら従ってまたいっそう大きくなるからである。そして蜜蝋が何であるかは、このものがまた延長において私がかつて想像することによって把握するよりも多くの多様性を容れると考えるのでなければ、正しく判断せられないであろう。従って私は、この蜜蝋が何であるかを実に想像するのではなく、ただ単に精神によって知覚する、ということを認めるのほかはないのである。私はこの特殊的な蜜蝋を言っている、なぜなら蜜蝋一般については、そのことはさらに明瞭であるから。しからば精神によってのほか知覚せられないこの蜜蝋は、いったいどういうものであるのか。疑いもなく、私が見、私が触れ、私が想像するものと同じもの、要するに私が始めからこういうものであると思っていたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覚は、視覚の作用でも、触覚の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかように思われたにしても、かつてかようなものであったのではなく、かえってただ単に精神の洞観である、そしてこれは、これを構成しているものに私が向ける注意の多少に応じて、あるいは以前そうであったように不完全で不分明であることも、あるいは現在そうあるように明晰で判明であることもできるのである。
 しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陥り易いものであるかに驚く。というのは、たとい私がこのことどもを自分において黙って、声を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そしてほとんど日常の話し方そのものによって欺かれるからである。すなわち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は蜜蝋そのものを見る、と言い、我々は色あるいは形体を基として蜜蝋がそこにあると判断する、と我々は言わないのである。そこから私は直ちに、蜜蝋はそれゆえに眼の視る作用によって、ただ単に精神の洞観によってではなく、認識せられると結論するであろう。ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通っている人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に従って、私は人間そのものを見る、と言う。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隠されていることもあり得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判断する。そしてかように私は、私が眼で見ると思ったものでも、これをもっぱら私の精神のうちにある判断の能力によって把捉するのである。
 しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は、一般人が発明した話の形式から懐疑を探し出したことを恥じるであろう。我々は絶えず先へ進もう。いったい私が蜜蝋の何であるかをいっそう完全にいっそう明証的に知覚したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覚そのものによって、あるいは少くとも人々のいわゆる共通感覚によって、言い換えると想像的な力によって、認識すると信じた時であるか、それとも実にむしろ現在、すなわち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、いっそう注意深く探究した後であるか、に注目しよう。このことについて疑うのは確かに愚かなことであろう。最初の知覚において何が判明であったか。どんな動物でも有し得ると思われないものは何であったのか。
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