時と永遠
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著者名:波多野精一 

     亡き妻の記念に
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     序

 時と永遠の問題は古今を通じて哲學及び宗教の最も重大なる關心事に屬する。それはまた最も困難なる問題の一である。本書は舊著『宗教哲學』において展開されたる解決の試みに基づき、それの敷衍擴充を企圖したものである。尤もここかしこ修正にをはつた處もある。この問題は哲學と宗教とが互の敬意と理解とをもつて相接近することによつてのみ解決されるといふことは著者のかねてより信ずる所である。外面的方便的なる利用や借用又は盲從や迎合などを意味する接近は、いつも行はれがちの事ではあるが、双方の品位を損ね純潔を汚すものとして、遠ざくべきである。本書は哲學の立場に立つたゆゑ勢ひ宗教哲學の觀點を取つた。
 本書に使用した術語は今日學界における慣例に從ひ異を樹てることは力めて避けたが、止むを得ずただ一つの例外を殘した。それは「將來」と「未來」との兩語に關するものである。それらは通常大體において同義語として使用されるが、今日の學界は、おほかた長き過去を有する習慣の惰性によつてであらうが、「未來」に對して偏愛の念を抱くらしく、計畫や希望の如き積極的態度に對應する場合にさへ、この語を用ゐる傾きがある。これは自ら省るべきことである。立入つた論述は本文(二節、四三節)に讓るが、兩者は少數の場合ながら實質においても必ずしも一致せず、一致する多數の場合においても、「將來」は單純に積極的に事柄の根源的意義を言ひ表はすものとして優先權を要求する。來らむとしてしかも未だ來らぬといふのが「未來」である。派生的現象といふべきである。言語上の表現に徴するも、將來は簡單に動詞の一變化によつて言ひ表はされうるが、「未來」の場合には副詞が特に添へられねばならぬ。それ故本書はあらゆる場合に通ずる總稱として「將來」を採用した。

   昭和十八年一月
著者[#改ページ]

    目次

第一章 自然的時間性
第二章 文化及び文化的時間性
  一 文化
  二 活動と觀想
  三 文化的時間性
第三章 客觀的時間
第四章 死
第五章 不死性と無終極性
第六章 無時間性
第七章 永遠性と愛
  一 エロースとアガペー
  二 神聖性 創造 惠み
  三 象徴性 啓示 信仰
  四 永遠と時 有限性と永遠性
  五 罪 救ひ 死
  六 死後の生と時の終りの世
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    第一章 自然的時間性

        一

「永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考へられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の觀點よりして取扱はれ得る。吾々は今これを宗教哲學の觀點より取扱はうと思ふ。これはプロティノス以來の歴史的傳統の壓倒的壓力によつてすでに促される事でもあるが、又特に、「永遠」の觀念が、後の論述の示すであらう如く、宗教においてはじめてそれの本來の力と深みと豐富さとを發揮し得ることによつて實質的にも要求される。「永遠」は宗教に本來の郷土を有する觀念である。このことによつて「時」乃至「時間性」の取扱ひ方も一定の方向を指し示される。表象の内容をなすだけの又は單なる客觀的存在者として理論的認識の對象をなすだけの永遠は、宗教においては殆ど無用の長物である。このことに應じて、吾々の論究は時乃至時間性に關してもそれの特殊の形に重點を置かねばならぬであらう。これは時と永遠との相互の密なる聯關よりして當然期待される事柄である。すなはち、吾々は體驗の世界に深く探り入つて、吾々自らその中にあり又生きる「時」、即ち生の「時間性」の本來の姿を見究めねばならぬ。
 吾々は日常生活においてすでに、世界のすべての事物・存在及び動作を支配する一種の秩序の如きものとして、又それに屬することによつて吾々の認識が萬人に共通なる尺度と法則とを得るものとして、時を表象し理解する。しかしながらかくの如きは決して時の根源的の姿ではない。それは、われわれ自らその中にあつて生きる所のものを、われわれの前に置き外(そと)の世界に投射して客體化したものであつて、すでに反省の作用によつて著しく變貌を遂げた派生的形象である。時の根源的の姿を見ようとする者は、一應かかる表象を全く途に置き棄てて根源的體驗の世界に進み入らねばならぬ。尤も體驗の理解は反省において行はれねばならぬ故、その際反省の産物である客觀的時間の姿は、吾々の視野を遮り目的物を蔽ひ隱し、かくて、すでにアウグスティヌス(Augustinus)も歎いた如く(一)、吾々の仕事を甚しく困難ならしめる傾きがある。さもあれ體驗的時間の眞の姿を明かにすることは吾々にとつて最も肝要なる基本的課題である。
(一) Augustinus: Confessiones. XI, 14.

        二

 吾々は、主體は、「現在」において生きる。現に生きる即ち實在する主體にとつては「現在」と眞實の存在とは同義語である。然らば體驗される即ち根源的の姿における時は單に現在に盡きるであらうか。若し人がややもすれば考へ易い如く又多くの學者が事實考へた如く、現在が延長をも内部的構造をも缺く一個の點に過ぎぬならば、この歸結は避け難いであらう。點は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によつて區劃さるべき筈の「將來」も「過去」も實は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであらう(一)。しかしながらかくの如きは體驗における時を無視して客觀的時間のみを眼中に置く誤つた態度より來る誤つた結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、後に立入つて論ずる如く、客觀的時間の場合には避け難き事であり、從つて現在を點として表象することも許される事、又特に時を數量的に取扱はうとする場合には、避け難き事であらう。しかもかかる考へ方の覊絆を脱すべく力めることが、時の眞の理解に達しようとする者にとつては、何よりも肝要なる先決條件なのである。
 現在は決して單純なる點に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内部的構造を具へてゐる(二)。體驗においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と將來とを缺くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく來り絶え間なく去る。來るは「將來」よりであり、さるは「過去」へである。將に來らんとするものが來れば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間無き流動推移が時である。かくの如く將來も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。ここでは生ずるはいつも滅ぶるであり、來るはつねに去るである。動く生きるといふことが現在の、又從つて時の、基本的性格である。時のある限り流動は續き從つて現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは單に内容のみと考へるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主體の生の充實・存在の所有として、現在は内容を離れて單獨には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。
 來るを迎へることにおいて將來は、又去るを送ることにおいて過去は成立つとすれば、その來るはいづこよりであり又その去るはいづこへであるか。考察を嚴密に體驗の範圍に限定する限り等しく「無」又は「非存在」と答へねばならぬやうにも思はれる。さて、將來を未だ有らずとの故をもつて非存在と看做すは多分多くの異議を呼ばぬであらうが、之に反して過去即ちすでに有つたものを單純に非存在への移行と同一視することには力強き反對が起るであらう。人は先づ過去が囘想又は記憶の内容となつて存在し又影響を及ぼすことを論據としてそれの非存在性を否定するであらう。しかしながら、後にも論ずる如く、囘想の内容として主體の前に置かれるのは、實は反省によつて客體化されたる何ものかであつて、それの有り方は過去ではなく現在なのである。囘想は現に生きる主體の働きとしてそれの内容はかかる主體に對する客體として存在するのである。次に、人はかく問ふであらう。體驗されるものは何等かの形において有るもの、從つて「無」や「非存在」はそれ自らとして體驗され得ぬものである以上、非存在への移り行きも亦體驗を超越する事柄でなければならず、かくては時の内部的構造に屬する一契機として體驗されるといふ過去も結局空想に過ぎぬのではなからうか。將來に關しても同じ論法が適用され得るとすれば、體驗上の事柄としては結局現在のみが殘るのではなからうかと。さてこの異議に對しては、吾々は、無や非存在が單純にそれ自らとして體驗されぬことは、決してそれが何等の形においても體驗されぬことを意味せぬと答へよう。單純にそれとしての他より切離されたるものとしての無や非存在は、實は反省によつて客體化されたる意味内容である。かかるものとしてそれは却つてむしろ一の有であり一の存在である。無を無として單純に攫まうとする働きは却つてそれを有として存在としてのみ手中に收め得るのである(三)。それにも拘らずそれが論理的の矛盾や背理として葬り去られず、思惟され理解される意味内容として成立ち得るのは、それが體驗に基づき體驗に源を有する事柄であるからである。體驗はこの場合にもあらゆる論理的疑惑を打拂ふに足る。缺乏・空虚・消滅等すべて無を契機とする事柄の體驗において又それを通じて無は體驗されるのである。時の體驗においても同樣の事態が存在する。現在は將來より來るや否や直ちに無くなつて行く。かくの如く有るもの存在するものが無くなること從つて現在における過去の體驗こそ無の體驗に外ならぬ。すなはち、時は生の存在の最も基本的なる性格として、それの體驗は無の體驗の從つてそれの思惟や理解の最も深き活ける泉なのである。無くなることの體驗を反省において處理することによつて吾々は無そのものの思惟や理解へと進み得るのである。
 過去は無くなること非存在に陷ることであり、過去となつたものは無きものであるといふ眞理を、體驗の明白に教へる所に從ひつつ素直に承認することは、「時と永遠」の問題の解決に向ふ途上實に基本的意義を有する極めて重要なる第一歩である。等しく肝要なる第二歩は「將來」の正しき理解である。吾々はさきに、無きところより來るを迎へるを將來の體驗の本質となし、從つて現在と區別される限りにおいて將來を非存在となす、考へ方を假りに一應許容した。これは、將來がまた「未來」とも呼ばれ、その場合呼稱そのものにおいてすでに非存在が表現されてゐる事實に徴しても、人々の傾き易きややもすれば最も自然的と見え易き解釋である。しかしながら立入つて精細に觀察すればこの解釋は誤つてゐる。今體驗の語る所に耳を傾けるならば、時において、現在における「將來」の契機において、主體が待ち迎へるのは無や非存在でなく、又非存在より來る存在でさへもなく、單純に存在である。非存在へと去りたる存在(現在)を補ふべく新しき存在(現在)が來るのである。存在を迎へる働きそのものは、主體にとつては、それの本來の自己主張(自己の存在の保存及び擴張)の基本的傾向に背進するどころか、むしろその傾向の最も自然的なる發現である。その限りむしろ喜びの體驗といふべきである。その限りそこには無の契機は全く見出されない。それ故將來を無造作に「未來」と呼び替へるのは、それの根源的性格の理解の上からは、當を得たといひ難い。過去と結び附けそこよりしてそれの意義を解釋することによつてはじめて將來は未來となるのである。すなはち「未來」は「將來」に對してむしろ派生的觀念である。將來が未來となり來るものが無より來るものとなるのは、現在即ち存在が絶えず流れ去つて同じ現在として止まることがないからである。何ものかがそれへと向ひ來る現在は、その何ものかが、それに來り着く現在とは異なつてゐる。一つの今へと向ふものは他の今に到着せねばならぬ。更に言ひ換へれば、過去あるがため現在はそれに向つて來る將來にいつまでも出會ひ得ずに去るのである。將來を未來たらしめる無の契機は將來そのものに本來具はるのでなく過去が提供するのである。すなはち過去による現在の流失と存在の喪失とを補ふべき任務を有する限りにおいて將來が未來となるに過ぎぬ。それ故將來は必ずしも未來ではない。若し滅びぬ現在無くならぬ今――即ち永遠――が成立つたと假定すれば、そこで先づ姿を消すは過去であるが、未來も過去と運命を共にせねばならぬであらう。しかも、後の論述の明かにするであらう如く、將來はそこでもなほ現在の維持者として依然その存在を續けるばかりか、むしろ滅びぬ存在の源として新しき意義に輝くであらう(四)。
(一) Aristoteles, Physica. 217b seqq. においてすでにかくの如き論難に出會ふ。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq. 總じてアウグスティヌスの時の論は觀點と所見とを異にするものも尊敬と感謝とをもつて仰ぎ見るべき劃期的業績である。
(三) このことをはじめて明かにしたのはプラトン(「ソピステース」篇において)の功績である。
(四) 今日わが國の學界においては「將來」を無造作に「未來」と呼ぶことが殆ど流行といつてもよき程廣く行はれてゐる。これは自省すべき、場合によつては、斷然改むべき不穩當なる習慣である。「將來」と「未來」とが實質的に一致する場合においても、前者は單純な積極的な正面より見ての言ひ表はしであり、後者は裏に□はつて主として事柄の含みを見ようとする派生的態度の所産である。言語上の表現について觀るも、「將來」は「來らむ」「來らば」などによつて代表される動詞の形――文法學上「將然段」と呼ばれる形――によつて直接に單純に言ひ表はされ得るが、「未來」を言ひ表はすためには何らかの副詞を附け加へることが必要である。同じ事態はギリシア語の to mellon ラテン語及び近代諸外國語の futurum においても明かに見られるであらう。

        三

 以上の諸點を從つて時の眞の姿を更に立入つて理解するため、今それを存在論的に主體の存在におけるそれの意義の觀點より考察すれば、吾々は時が現實的生即ち自然的文化的生における主體の基本的構造であるを知るであらう。時間性は人間性の最も本質的なる特徴である。主體の存在は他者への存在である(一)。それは他者との關係交渉において成立ち又維持される。しかるに一切の存在の基礎を置くものは自然的生である。「自然」(phusis)といふ語はギリシアの古へにおいては基本的根源的存在の意に用ゐられ、かくて人爲的作爲的なるものの反對を意味するに至つた。ありのまま・單純・直接等の意味あひはそれに附隨する。吾々が今自然的生と名づけるものにおいては、實在する主體は實在する他者と直接的なる關係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的根源的姿である。この土臺の上に文化的人間的生は建設される。生が上の段階へ進むにつれて時間性も幾分の變形を見るであらうが、本質的姿を決定するものは自然的生である。ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張つてゐるか、いかに強く殆ど宿命的に生の性格を色づけてゐるかは理解されるであらう。
 主體は實在するものとして飽くまでも自己の存在を主張する。すなはち他者に對して自己の存在を維持し更に擴張しようとするのがそれの本質的傾向である。さてかくの如き傾向を有する實在者の直接性における交りとして、自然的生は次の二重的性格を示す。主體はそれとの關係交渉に立つ他者が無くしては虚空に飛散消失して壞滅に歸せねばならぬゆゑ、即ちそれの行くへを遮つてそれに抵抗を與へ緊張を促しつつそれの自己主張を誘發する實在者を俟つてはじめてそれの實在性は維持されるゆゑ、――しかして更に主體の生内容はかかる實在的交渉に際して他者を意味し代表するそれの象徴としてのみ成立つゆゑ、――實在的他者は主體にとつて實在性及び生の内容の、從つてあらゆる存在の、維持者乃至供給者であるといはねばならぬ。しかしながら他面において、自然的生は實在者と實在者との直接的なる從つて外面的なる接觸乃至衝突であるゆゑ、主體にとつてそれは他者よりの壓迫侵害であり、又存在の喪失である。自然的生を生きる限り主體は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。ここでは生ずるは滅ぶるであり來るは去るである。
 自然的生のこの絶え間なき流動推移においてこそ時及び時間性の最も基本的の姿即ち自然的時間乃至自然的時間性は成立つのである。「現在」は主體の自己主張に基づき生の充實・存在の所有を意味するものとして中心に位しそこよりして時の全體を包括する。之に反して「過去」は生の壞滅・存在の喪失・非存在への沒入である。しかしてこれら兩者を成立たしめる主體と他者との接觸交渉に對應するものが「將來」である。將來は絶えず流れ去る現在絶えず無くなり行く存在を補給しつつ維持する役目を演ずると同時に、又それの過去への絶え間なき移り行きの原因ともなる。將に來らんとするものはいつも來つて現在となりつつ、しかも他方それの向ひ行く現在にいつまでも出會ふことなしにをはる。將來と現在との間に存するこの矛盾的關係は畢竟主體と他者とが生及び存在の眞の共同に達し居らぬことを指し示す。後に説くであらう如く、永遠性における時間性の克服は主としてこの點に手掛かりを見出すであらう。
 吾々の見解は歴史的瞥見によつて一段の力を添へるであらう。アウグスティヌスの「時」の論はこの題目について思索する何人も研究の出發點となし又終始指導者となさねばならぬ劃期的業績である(二)。時の實在性が「現在」に存することを承認しながら、その現在が延長を有すること一定の内部的構造を具へてゐることを洞察して、根源的體驗における時の眞の姿を明かにしたのは彼の不朽の功績である。かれは時を精神の延長(distentio animi)と呼び、これを、現在が單純無差別なものでなく、將來と過去とを包括することに置いた。すなはち彼に從へば現在は三つの樣態乃至契機より成立つ。時は主體の基本的なる存在の仕方であるゆゑ、これら三つの契機には主體の三つの基本的動作が對應する。すなはち現在は直觀(contuitus)將來は期待(expectatio)過去は記憶(memoria)において成立つ。云々。基礎的段階をなす自然的時間とそれの上に建設される文化的時間との區別に、アウグスティヌスが想ひ到らなかつたことは確かにこの説の缺陷である。「期待」は自然的時間における將來に對應するとして許されようが、「記憶」は、後に論ずる如く、文化的歴史的生の段階に屬する働きである。しかして文化的生が自然的生よりの解放の企圖を意味することを思へば、上述の如き缺陷と聯關して、かれの説いた「時」が單純孤立の状態にある主體の生き方を意味するに過ぎなかつたことは、當然の事態といふべきであらう。彼は將來が、實在的他者との關係交渉において自己の存在を維持する人間的主體の生き方を示す、といふ眞理を認識し得ずにをはつた。彼が永遠を時と單に區別し對峙せしめるに止まつて、それとの活きた聯關において眞にそれの克服者として理解し得るに至らなかつたのも、同一缺陷の發露である。
 ベルグソン(Bergson)の才氣溢れる「時」の論において吾々は、派生的第二義的意義しか有せぬ表象より根源的體驗において與へられる時の根源的姿に立戻らうとする、正當なる努力を認める。彼が實踐的目的に向ふ、從つてその意味において將來に向ふ、主體の動作を根源的體驗より遠ざけようとしたことも、今それに聯關する特色あるかれの形而上學的所信を考慮の外に置くならば、文化的時間を第二義的のものとする點においてたしかに正當である。又同樣にかれの形而上學を離れて考へれば、かれが時を「持續」において成立つとしたことも又時における内容の融合滲透を説いたことも、空間的に表象される客觀的時間より特に體驗的時間を區別し後者の根源性を強調しつつ、それの延長性それの内部的構造を主張したものとして、識見の卓拔を思はしめる。しかしながら彼が根源的體驗における時より將來を抹殺したことは勿論謬見である。そのことの結果として「持續」は過去と現在とのみより成立つものとなる。この場合過去は正しき順序を顛倒して現在に先立つもの從つて後者に對して存在を補給するものとなる。すなはち過去の内容は現在のそれと融合滲透を遂げつつ持續換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持續としての時は文化的時間より將來を取除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいづこに源を有するであらうか。いふまでもなく、主體が單獨孤立の立場に置かれたことが一切の誤謬の原因である。持續を體驗する主體は、他者への生に沒頭する本來の態度を置き棄て、自己の姿を自覺の鏡に寫さうとする反省の位置に退いてゐる。認識の方法は直觀といはれてはゐるが、これは抽象的思惟を却けるだけのもので、根源的體驗に比べてはすでに反省の立場に移つてゐる。
(一) この點に關しては拙著「宗教哲學」及び「宗教哲學序論」の諸處、並びに本書第七章一參看。
(二) Confessiones. XI, 14 seqq.

        四

 以上述べ來つた時及び時間性の本質的構造よりして吾々は、永遠性との對立及び聯關において觀られる場合特に重要性を發揮する諸の特徴、時間性の形式的特徴ともいふべきもの、を導き出しつつ理解し得るであらう。第一は時の方向である。時の方向は將來より現在を經て過去へ向ふとも、又反對に過去より將來へ向ふとも考へられる。この矛盾は時の觀念の中に伏在する問題を示唆するとしての意義はあらうが(一)、その問題は、後の論述の明かにするであらう如く、時間性の異なつた段階を區別することによつてのみ解決を見る。自然的體驗的時間即ち時間性の最も基本的根源的姿においては、方向は將來より過去へと向ふ。しかもこの方向は斷然動かし得ぬものである。過去になつたものは無に歸したものである。單純率直なる非存在である。無くなつたものは取返へしのつかぬもの、主體の處理の手の屆きかねるもの、この意味において絶對的なるものである。昔を今になる由もないのが時の本然の姿である。ここに時の「不可逆性」(Unumkehrbarkeit)は成立つ。要するに有より無へ存在より非存在へ向ふのが時の最も根源的方向時間性の最も本質的性格である。
 次に、時間性は無常性と可滅性とを意味する。時と時における存在とは、絶え間なき流動推移の中に有より無への方向を取りつつ、息みもせず振返へりもせず、ひたすらまつしぐらに壞滅の道を進む。以上と聯關して第三に、時間性は斷片性不完成性を意味する。時間的存在はいつも滅びつつある從つていつも缺乏に陷りつつある存在である。現在において主體は自己の存在を所有はするが、その所有は直ちに喪失であり、その存在はいつまでも確保されるに至らない。いつも完きを得ずいつも自己の所有に達せずいつも斷片的なのが時の本質的特徴である。第四、時間性は主體と實在的他者との直接的關係交渉において成立つものとして、一方まつしぐらの沒頭を、他方主體性の本質をなす自己主張に加へられる拘束を意味する。これは主體が自己の任意なる自由なる決意や努力により取除かれ得る事態ではない。いかにとも致方なきいはば宿命的事態である。第五、生ずるは滅ぶるであり、有は無に等しく、生の意味の實現も達成されず、一切が果無き幻にをはる處、しかも主體がこの事態を自らの力をもつていかにともなし得ぬ處、には生の意味の否定、幸福の喪失、空虚の感、不安哀愁落膽等は避け難き歸結である。「永遠」は時の克服である限り生のこれらの特徴の絶滅を期せねばならぬであらう。
(一) Lotze: Metaphysik. II, 3 參看。
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    第二章 文化及び文化的時間性

      一 文化

        五

 自然的時間性を根源とし基體として文化的時間性は成立つ。この時間性を理解するため、吾々はいま道を文化及び文化的生の一般的基本的構造の考察へと取らねばならぬであらう。
 文化は實在的他者との直接性における關係交渉よりの離脱、自然的生における沒頭・拘束・緊張よりの解放、を意味する。もと主體は獨立の中心を有しその中心よりして生きる存在者である。それの本質即ち主體性は實在性において成立ち自己主張として働く。かくの如き實在者としての主體が、等しく實在する他者にひたと行きあひ正面より衝突しまつしぐらに自己の貫徹擴張へと突進する以上、究極は他を滅ぼし自らも滅びる外に途はないであらう。主體の存在は他者への存在であり、他者との關係交渉を離れて主體性は成立ち得ぬが、自然的生における限り、他者への存在は徹底すれば實は事志に反して却つてむしろ自滅的存在となるのである。この難關を克服し他者の壓迫侵害より解放されて自由の天地に飽くまでも自己主張を續けようとする所に文化的生の本質は存する。それ故吾々の現實的生はいかに原始的であり幼稚であり低級である場合にせよ、存立を保つ限り、すでに何等かの程度何らかの形において文化を含んでゐる。自然的生は根源へ遡る理論的分析によつてはじめて到達され開示される基本的契機に外ならず、決して事實上單獨に存在するものではないのである。
 文化的生における主體の解放及び自由は「客體」の成立によつて行はれる。主體の存在は飽くまでも他者への存在であり主體性は飽くまでも自己主張に存するが、今や實在者は他者の位置より退いてその代りに客體がその場處を占める。客體は實質上よりは觀念的存在者である。これはもと自然的生において主體の生の内容をなし又實在的他者の象徴であつたものが、この持場を離れ遊離の状態に入り他者として特異の存在を保ちつつ、いくばくかの隔りにおいて主體の前に置かれたものである。客體の分離は、その反面として、主體の分離である。主體と客體とのこの分離この對立が「反省」である。反省によつて自覺・自己意識は客體の意識とともに表面に浮び出る。かくて主體は「我」又は「自我」として成立つ。自然的生においては主體は實在的他者へ向つたまま前後左右を顧る遑がなかつた。文化においてそれははじめて寛ぎとゆとりとを得、自由と獨立とを樂しみつつ、自己の存在の主張貫徹に邁進し得るに至る。さてこのことはいかにして行はれるであらうか。このことを、從つて文化の本質を、理解するためには、吾々は客體の示す二つの面それの有する二重の性格を今少し立入つて考察せねばならぬ。

        六

 客體は客體としてもとより單純に主體に屬し單純に意識の内容をなすものではないが、觀念的存在者としては、それは實在者と異なつて遙かに主體に接近した位置に立ち、わづかに半ば獨立性を保つものである。それの存在は主體への乃至主體に對する存在である。すなはち、實在的存在者が獨立の中心として存在しその中心より生き働くとは異なつて、觀念的存在者はかくの如き獨立の中心を缺く。主體が實在者として飽くまでも隱れたる中心を守り自己を他者の所有に委ねるを拒むとは異なつて、客體は觀念的存在者として隱れたる中心と奧行とを有せぬ平面的なる顯はなる存在者である。それの存在は主體の中に取入れられ、主體のもの、主體の自己に屬するものとなつてはじめて安定を見る。いはば宙に浮いた存在である。顯はなるものとしてそれは觀らるべきものである。すなはち主體のそれに對する態度は結局觀想(Kontemplation)でなければならぬ。
 客體は觀念的存在者であると同時に他方又他者である。それに對して主體は自己主張をなす。しかしながら實在的他者に對しての場合と異なつてここでは主體の自己主張は、客體の有り方の特異性に應じて、他者を排斥しつつ自己を貫徹しようとする形を棄て、他者において隱れたる自己を顯はになしつつ自己を實現する働きとなる。自己實現こそ文化的生の基本的動作である。ここより觀れば、主體に對してそれの顯はなる自己即ち現實的自己となることによつて客體の任務は果されるのである。すなはちそれの他者性は可能的自己性に存する。さて主體の自己實現は隱れたるものを顯はになし、實在的中心より觀念的存在の明るき周邊へ表へと自己を表はし出す動作である。これは「表現」と名づくべきであらう。文化的主體性が自己表現に存するといふことは吾々がライプニッツの天才的洞察に負ふ眞理である(一)。尤も彼はこれをあらゆる實在者、換言すれば中心を有し中心より動作する――しかして傳統に從つて彼が實體と名づけた――一切の存在者に推し廣めたが、このことも、後の論述で明かにされるであらう如く、客觀的實在世界の認識が現に實行しつつある所を形而上學的原理の地位に高めたに過ぎないのである。
 客體は主體の表現としてのみ他者的存在を保つ。このことによつて客體的存在者相互の間にも同樣の關係が成立する。客體内容は相互には他者の間柄に立つが、各は主體の自己表現であることによつて、更に一が他を表現するに至る。かくてここに客體の世界に固有なる一事態が發生する。すなはち、客體は觀念的存在者として、實在的存在者としての主體との關係に立つが、そのことによつてそれは更に「意味」としての性格を擔ふに至る。意味には、内なるもの乃至隱れたるものを表はし出すといふこと、次に共通の中心によつて統べ括られることにより互に共通性乃至聯關を保つこと、がそれの本質的特徴をなす。全く孤立したるいはば一點に盡きる客體は、他者を離れたる主體と同じく、抽象乃至空想の産物に過ぎぬであらう。意味の無き客體は暗黒に等しく、もはや表現の任務を果し得ぬとともに、又觀らるべきもの觀想の對象でもあり得ぬであらう。かくの如く客體は主體によつて支へられつつ中心を有することによつて意味を獲得するが、又逆に主體も客體において表現を遂げることによつて單に隱れたる暗闇の存在にをはるを免れる。かくて主體は隱れたる中心に立ちその中心より生き又働くに相違ないが、顯はなる觀られ解される存在、意味ある存在を保つ限り、その存在は客體のそれに盡きる。客體及び客體的聯關、意味聯關、を離れて主體そのものを捉へようとする企てはすべて徒勞に歸せねばならぬ。主體の自己表現として客體は徹頭徹尾主體を代表する。
 尤もこれは客體が表現の任務を成遂げそれにおいて主體の自己が現實性に到達した限りにおいてのみ起る事態である。しかもかくの如き事態は決して完全に事實とはなり得ぬのである。客體は主體の表現ではあるが同時にそれに對して他者の位置に立つ。他者である限り客體は主體に對して單に可能的自己であるに止まる。それは、それにおいて主體の自己が實現さるべきものとしての、換言すれば、その自己實現に對する質料としての意義を擔ふものである。しかしながら純粹の可能性に盡きるとしたならば、顯はなる自己は全く姿を消し從つて客體も存立を失ふであらう。それ故客體はあくまでも形相及び現實性の性格をあはせ保たねばならぬ。かくして客體の成立從つて文化的主體の成立のためには、一方において自己性と現實性と形相と、他方において他者性と可能性と質料と、の兩者は缺くべからざる本質的契機としていつも共に具はつて居らねばならぬ。一方のみの徹底は結局一切の壞滅を意味するであらう。今他者性を徹底させるならば、それは實在的他者性に逆轉し、文化は自然的生及びそれの自滅の墓に葬られるであらう。之に反して自己性を徹底させるならば、自己を實現し盡して全く表面化した主體は、働きの向ふ先の他者と同時に働きの發する中心をも失ひ、實質なき夢の如く幻の如く消え失せるであらう。他者を失ふことは主體にとつては等しく死を意味するであらう。
(一) ライプニッツは exprimer 又は repr□senter といふ語を用ゐた。

        七

 客體の二重性格より來る文化的生の構造を正しく理解するために、吾々はここに「表現」と「象徴」とを特に區別しようと思ふ。これら二つの概念は必ずしも相背くものではない。むしろ半ばは相蔽ふものである。考へやうによつては表現は象徴作用によつて行はれ、象徴は何ものかの表現であるとも又すべての表現は象徴であり逆にすべての象徴は表現であるとも言ひ得るであらう(一)。共に表はす作用(表現)とも指し示す作用(象徴)とも名づけ得るであらう。共に一と他との二つの契機を含み、相分かれるものと相通ずるものとの二つの面を有する。しかしながら今吾々は表現においては特に同一性の契機を、象徴においては特に他者性の契機を強調しつつ、兩概念の適用の領域を特に區別することによつて、別つべきを別ち明かにすべきを明かにしようと思ふ。
 前にも述べた如く「表現」は全く主體の勢力範圍内に留まつてゐる。それは顯はとなつた主體の自己であり、動作として解すればこの自己を顯はにする動作である。そこになほ殘留する他者性は客體のそれに過ぎず、從つてむしろ可能的自己性を本質とする。尤も主體は隱れたる中心として儼然存立するに相違ないが、表現の主體である限りそれは完き自己を表面に現はし盡し、かくて自滅を遂げることによつてはじめて行くべき處に行き着くのである。幸ひにかくの如き自滅を免れるとしても孤立は到底避け難き歸結である。文化においても主體は事實上實在的他者との關係交渉を全く離れることはない。しかしながら文化が文化である限り實在的他者は本質上不用である。ここでは主體の直接の對手は、實在的他者に對して遊離状態に置かれたる客體であり、主體の自己を顯はにすることにそれの存在の意義は盡きる。このことは客體の基體をなす實在者が「物」と稱せられる場合にのみならず「人」と名づけられる場合にも等しく當嵌まる(二)。文化においては我と他の人との共通なる生内容共通なる客體世界は建設され維持されるが、「我」と「汝」との間に成立つべき實在者間の關係、嚴密の意味の人格的關係、はここでは無きに等しい。假りに我以外人と稱すべき何等の實在者もないとするも、原理的に考へれば、文化はなほ存在し得るのである。文化の世界に現はれるであらう他の人は、自己實現自己表現がそれにおいて行はれる質料としての客體に過ぎぬ。それの原理的性格よりみれば、それは單なる「物」であるに盡きる。内在性乃至孤立性はかくの如く表現乃至それの主體の本質的特徴である。ライプニッツの「モナド」(單子)の説はこの事態の極めて明瞭且つ適切なる言表はしといふべきであらう。文化の世界においては主體は「窓無き」モナドなのである。このことはヘーゲルの如く主體を「絶對的精神」にまで擴大した場合にも變りが無い。文化は飽くまでも自己實現であり表現であり、從つて根柢においては内在的動作、主體を孤立に導く動作である。そこには主體に對立する嚴密の意味の他者即ち實在的他者は存在しない。總じて文化主義は形而上學にまで發展する場合には汎神論への道を取る傾きがある。絶對的主體即ち所謂神に對する他者はその場合自己實現の質料の意義しか有せず、無よりの形成乃至創造が説かれてもその「無」は可能的有の性格を有する質料に過ぎぬであらう(三)。
「象徴」(Symbol)は表現とは異なつて實在的他者との關係交渉において發生する現象である(四)。主體の生内容が遊離して客體となり主體の顯はなる形相の意義を獲得することが表現とすれば、その同じ内容が主體の領域を超越したる彼方の實在的中心と結び附き、從つて自己を顯はにするのでなく他者を顯はにする任務を擔ひ、かくて實在的他者を指し示し代表するものとなる場合に象徴は成立つのである。表現が内在的なのに反し象徴は超越的である。それは一の中心と他の中心とを結び附ける線の上に位し、それ無くば到底相交り難きむしろ相反撥する外なき二つの實在者の間に立ち、兩者を繋ぐ楔を提供し、かくて或る意味においては實在的他者が主體の中に入り來るを可能ならしめるものとして、主體を孤立の状態從つて自滅の運命より救ひつつ、生本來の性格である他者への存在を確保せしめる。中心が存する限り象徴も存し、逆に象徴があることによつて中心も亦あるのである。象徴が去り從つて他者の語る言葉を聽かぬに至れば、主體にとつては死の外に何もないであらう。生が文化的段階まで昇れば象徴は同時に表現であるが、表現は必ずしも象徴ではない。任務を成遂げることによつて表現は却つて主體を自滅に誘ふが、之に反して象徴は自己をますます堅く他者と結びつつ存在の基礎を鞏固にする。表現は吾々を時間性より救ひ得ぬが、後に論ずるであらう如く、象徴をたよりに吾々は永遠の世界に昇るのである。
(一) Cassirer: Philosophie der symbolischen Formen. 3 Bde. は文化のあらゆる領域を象徴作用によつて説明しようとする頗る注目すべき試みを示してゐる。
(二) 「人」と「物」との區別については拙著「宗教哲學」二九節以下參看。
(三) 本書第七章三六參看。
(四) 「象徴」に關しては本書は「宗教哲學」において説いた所に基づいて「表現」との區別を一層明確にした。「宗教哲學」五・二六・四一・四四・四五・四七・四八等の諸節參看。

      二 活動と觀想

        八

 論述の本筋に歩みを進めよう。前に述べた如く客體性は他者性と自己性、可能性と現實性、質料と形相との二つの契機二つの面より成立つ。客體の成立にいづれ一つをも缺き難きこれら二者の間に存する聯關乃至緊張こそ文化的生の眞相である。言ひ換へれば、客體の世界はいづこにも兩契機の共存を示すが、客體そのもの從つてそれの構成要素である兩者そのものは等しく自己の表現である故、兩者は更に分離乃至對立する客體として顯はとならねばならぬ。かくて客體の世界は、主體の自己實現の動作にとつては、各の契機がそれぞれ優勢を占める二つの形象乃至領域より成立つこととなる。かくの如き二つの客體領域の聯關として主體の自己實現は行はれるのである。言葉を換へて説明すれば、すでに前に述べた如く、客體は主體の自己表現であるが、その自己は客體内容の聯關としてのみ顯はなのである。客體と客體との聯關を離れて主體の自己性は捉へらるべくもない。今假りに聯關が姿を消し單一なる内容のみ殘つたとすれば二つの契機は同時に消されねばならぬであらう。しかもこのことは客體一般の消滅從つて主體の自己性そのものの消滅を意味するであらう。自己性と他者性との二つが客體の契機である以上、いづれも客體としての存在を保たねばならず、從つて兩者は一と他との間柄に立ちつつしかも相聯關する、相異なつた客體内容として顯はにならねばならぬ。更に言ひ換へれば、客體の世界が成立つためには、各自二つの對立する契機より成る客體内容が他方更に相互に聯關において立たねばならぬ。しかるにその聯關そのものは客體的存在を保つものとして更に二つの契機より成ることを、言ひ換へれば、それらの内容が自己性と他者性との相異なつた意味と任務とを擔ふ、相聯關する二つの領域として相分離相對立するを要求する。かくの如き聯關において又それを通じて自己實現は行はれる。以上は更に簡單に次の如く言ひ換へることが出來よう。客體に對して立ちそれにおいて自己を實現するものは隱れたる中心に立つ主體である。その主體が客體へと働きかけることにそれの自己實現は存する。しかもこの自己實現は、文化的動作として成立つためには、それ自らとして顯はにならねばならぬ。すなはち主體は客體となることによつてはじめて客體に働きかけるのである。從つてそれの自己實現はそれぞれ内容と意味とを異にする二つの客體、一つは自己性の位置に他は他者性の位置に立つ二つの客體、の間の聯關として成立たねばならぬ。さてかくの如き聯關として成立つ限り文化的生は「活動」(Aktivit□t)の性格を示す。文化的生の最も基本的本質的なる性格は活動である。
 ここに吾々は文化がいかに自然的生の基礎の上に立つかを見、かくてすでにここに文化的時間性がいかにそれの根源である自然的時間性の影響のもとに立つであらうかを望み見ることが出來よう。文化的生に活動としての性格を與へるものは自己性と他者性との兩契機の共存と聯關とである。その場合他者性は、可能性として質料として活動を可能ならしめるが、他方その活動の本質である自己實現の成就を妨げる。客體は他者であるが故にそこに主體は自己を顯はになし得るが、しかも同時に他者である限り、主體と對立しそれといくらかの間隔を保ちつつ後者を顯はならぬ自己に留まらしめる。他者は主體をしてそれとの關係交渉に立つ中心たらしめ自己たらしめるが、又他方においてその自己を隱れたるものたらしめつつそれを無能力從つて非實在的ならしめる。しかるに客體はもと他者の象徴が自己の表現へと轉籍したものであり、それの有する他者性は結局發生地の殘り香に過ぎぬ。その他者性の根源は實在的他者性に求めらるべきである。吾々はさきに自然的生における他者の二重性格について語つた(一)。他者は從つて將來は一方主體の現在を可能ならしめ存在の供給者の役目を務めつつ、他方現在を從つて存在を非存在へ從つて過去へ陷入れる。そのことの歸結として時は絶え間なき流動を示し存在はいつも未完成のままなる斷片的なる結局無意味なる状態に留まる。この事態に應じて文化的生においては自己性と他者性との兩契機は一方互に相俟ち相促がしつつ、しかも他方には相牽制し相排斥するのである。かくて文化的活動はつねに現實性への方向を取りつつしかもつねに目的地を絶えず移動する地平線のかなたに求めねばならぬ。際限を知らぬ連續と安定を見ぬ緊張とは文化の必然的に陷る運命である。
(一) 三節參看。

        九

 吾々はさきに客體に對する主體の態度は觀想に存すると言つた。しかるに今や文化の基本的動作は活動であることが明かにされた。これら二つの命題は相矛盾せぬであらうか。觀想と活動と―― the□ria と praxis と――はギリシアの昔より哲學において相爭ふ二つの陣營を區別する旗印であつた(一)。兩者は果して相容れるであらうか。相容れるとすれば兩者の關係は何に存するであらうか。吾々は次の如く答へよう。活動が文化的動作の一般的性格である以上觀想も亦一種の活動である。ただそれは特殊の意味をもち特殊の方向へ志向する活動である。簡單にいへば、それの目指す所志す所は、自ら活動でありながら活動の性格を脱却し克服することによつて、文化的生の本來の意味を徹底させるに存する。これは活動を成立たしめる客體内容の二つの契機の間の緊張が緩和されつつつひに解除されることによつて行はれる。吾々は自己性と他者性との二つの契機が二樣の表現を見ることについて語つた。活動にとつて特に固有なのは、客體界が兩契機を代表する二つの形象乃至領域に分かれ、それらの間に働きかけるものと働きかけられるものとの關係が成立つことである。この緊張が緩和されるにつれて、形相はますます實現に近づき、自己はますます表現を進め、可能性はますます稀薄となり、隱れたるものはますます顯はとなるであらう。客體が客體として主體に對していくらかの隔りにおいて對立してゐる間は、各の内容を構成するものとしての兩契機の共存はなほ殘されるであらうが、異なつた内容と内容との聯關を支配する緊張はますます解除され、かくて主體は活動者たるを止め客體の曇りなく淀みなき透明なる姿に見入りつつ靜かに休息するであらう。自己を表現し盡したる主體は客體の蔭に隱れもはやわが姿をあらはに對立的位置に置かず、ただ隱れたる中心としてのみ存立を續けるであらう。すなはちそれは生の舞臺より退場するであらう。活動においては働きかける自己が顯はになつてゐる故生は主觀性を帶びるに反し、觀想においては客觀性が特徴をなすであらう。しかしながら觀想本來の傾向は更にここにも安住を許さぬであらう。客體がいくばくかの隔りにおいて主體と對立してゐる間は、たとひ各の内容を構成する内在的契機としてにせよ他者性は從つて自己性もなほ殘存するとすれば、そのことは活動の性格がなほ克服されぬを意味するのではなからうか。一定の内容が客體としての存在を保つ以上は、それは決して單純ではあり得ない。それは兩契機を含むものとしてすでに一と他との聯關を示すものでなければならぬであらう。
 以上はまた次の如く言ひ換へることが出來よう。他者性には三種類がある(三)。第一は實在者が實在者に對する他者性、第二は客體が主體(實在者)に對するそれ、第三は客體相互の間におけるそれである。自然的生より文化的生への上昇は第一の實在的他者性よりの離脱であるが、そのことは又同時に第二第三の他者性の發生でもある。後の兩者の間では第二即ち客體そのものの他者性が根源的である。客體性に本質的に具はる他者性は、更に客體面において客體内容同志の間における一と他との關係を惹き起すのである。さて客體性に對する主體性は隱れたる中心實在的中心である。この中心が客體的他者性においてそれを質料となしつつ自己を顯はにする。かくて客體は自己性と他者性との兩面兩契機より成立つに至る。しかるにこれら兩者の分離は單にそれだけでは留まり得ない。すなはち兩者は單に客體面に内在し潛在する構成的要素であるに止らず、むしろそれであるがゆゑに、それ自身顯在的とならねばならず、かくて客體面において自己性と他者性との相區別される二つの領域として顯はにならねばならぬであらう。譬喩的に言ひ表はせば、自己性と他者性とは、反省によつて先づ成立つ客體面の、いはば表裏相重なる二つの層をなす。しかるにこれら二つの層が分離した以上、客體面はいかばかり薄くあらうとも、實は厚みがあり奧行があり立體的なのである。そのままに留まつたならば、裏にある層は全く隱れたる存在を保たねばならぬであらう。それ故この裏面が表面へ浮び出で從つて内容に内在する兩契機がともに表面化し客體面における二つの異なつた領域として顯はになり、他者性は客體内容同志の間における聯關となることが、客體成立における必然的なる第二歩でなければならぬ。客體面は、表裏兩層の存在とそれによる緊張とにより、又そのことの歸結として、裏面が表面に進出しようともがくことによつて、穩かなる滑かなる平面的存在を持續し得ず、彎曲を見動搖を來すを免れぬ。これが即ち活動である。さて觀想の目指す所は客體面の凹凸を矯正して純然たる平面に還元するに存する。しかしながらこの事は果して又いかにして成遂げられるであらうか。客體が、たとひ觀らるべきもの顯はなるべきものとしてにせよ、主體と對立してゐる間は、それの純粹なる平面的存在は望み得べきでない。それ故一旦活動の性格の克服へと發足した主體は、更に一切の他者性の克服へ歩みを進めねばならぬであらう。すなはち主體は、自己を表現し盡し殘る隅なく顯はとなることによつて、全く客體のうちに融け込み、逆に客體は他者であるを止めて全く主體の所有に歸入し、かくて兩者の完き合一が成就されるまでは歩みをとどめ得ぬであらう。しかもこのためには、いかに少しばかりとはいへ主體客體の隔りの前提の上に立つ觀想にとつては、自己を徹底させることによつて自己の破棄を企てる外に途は無いのである。古來神祕主義はかくの如き境地に達しようと努め又その努力の成功を信じた(四)。惜いかなその成功は却つて一切の夢幻化虚無化に等しいであらう。他者の無き主體は死するより外はないのである。
 以上の事態は觀想が生の最高の姿ではあり得ず、從つて文化的生は更に一段高き生の姿によつて克服止揚さるべきであるを教へる(五)。しかしながらそのことの立入つた究明はここでは割愛して、吾々はなほも文化的生の考察を續けつつ時間性の理解へ歩みを進めねばならぬ。吾々は文化的生が本質上活動であるを見た。しかるに活動するものである限り、主體は飽くまでも自己を主張し乃至露出し、同時に又飽くまでも他者との關係交渉を離れず乃至離れようとしない。ここに時間性との聯關は成立つのである。言ひ換へれば、實在する主體が自己主張としてのそれ本來の性格を抛棄せぬ以上、主體の基本的構造である時間性は、文化的活動においてもそれの基本的構造をなさねばならぬ。ただ他者がこの場合客體であることによつて時間性はいくらかの變貌を見るのである。時間性の性格において觀られたる文化的生の具體的の姿は「歴史」である。それ故文化的時間は歴史的時間としてのみ成立つ。勿論その場合吾々は歴史といふ語を最も廣き包括的なる意義において理解する。かく解して歴史の内部的構造が更に立入つていかなる姿を示すかは吾々の課題に關はりなき問題として今は考察の外に置かねばならぬ。時間性の觀點より觀れば、例へば主體が個人であるか集團であるかなどの問題は度外視して差支がない。
(一) 次の二書參看。Boll: Vita contempletiva. (1922) . ―― W. J□ger: Ursprung und Kreislauf des philosophischen Lebensideals. (1928) .
(二) 「宗教哲學」一九節參看。
(三) 三種類の他者性については「宗教哲學」の諸處殊に四四節參看。
(四) 神祕主義については「宗教哲學」二一節以下、四五節、參看。
(五) 「宗教哲學」二六節以下、三七節以下、參看。

        一〇

 吾々は歴史的時間性の立入つた論述に移る前に、今ここに、活動の一種に屬しながらそれの克服を志しかくて時間性にいくらかの變貌を來すであらう觀想の働きについて、尤もこの特殊の觀點よりして、更に展望を擴げよう。觀想は大體「美的觀想」――特に觀照ともいふ――と「認識」との二つに大別することが出來よう。美的觀想においては客體は自然的實在性より遊離してはゐるが、この遊離状態にそれを維持しようとする態度は顯はには現はれぬ。内容は實在的他者の象徴としての意義を棄てるが、なほ自然的生の具體性に留まつてゐる。之に反して認識においては遊離したる觀念的存在者はそれの獨立性乃至優越性において維持堅守される。すなはち客體は固定を見る。このことに應じて内容は抽象性普遍性の方向へ進む。自然的生よりの距離はますます著しくそれよりの解放はますます明かとなる。さて觀想においては、前に述べた如く、それの志す所が成就されるとすれば、主體は自己を表現し盡して全く客體の蔭に隱れるゆゑ、後にも論ずる如く、時間性は超越されねばならぬであらう。尤もかくの如き究極地に到達するためには、主體は觀念的存在者をそれの純粹の姿において抽き出しつつ、それの獨立性乃至優越性を徹底せしむべく特別の努力を試みねばならぬであらう。しからばそのことは、觀念的存在者をそれ本來の性格に留まらしめたのでは、果して成功するであらうか(一)。前に述べた如く、文化が自己實現自己表現としてのその本質に副ふやうな存在を保つためには、客體はますます自己性從つて顯在性を強めますます他者性從つて潛在性を弱めねばならぬ。觀想こそこの任務に當るものであるが、しかもそのことの究極の歸着點は一切の他者性の克服であり、このことは結局觀想そのもの延いては主體そのものの自己破棄に外ならぬであらう。それ故客體の固定は却つてむしろ他者性の強化を要求せねばならぬであらう。このことは先づ次のやうにして行はれる。すなはち、主體は振返つて自然的生及び自然的實在性との聯關を求めつつ根源へ遡ることによつて客體の他者性を確保しようとする。その場合觀念的内容は實在的他者の象徴となることによつて、否むしろ根源的體驗において有したる象徴性を取返へすことによつて、實在性を獲得するであらう。尤もその恢復は單なる繰返へしではなく、或は整理であり或は展開であり或は擴充である。かくてここに客觀的實在世界とそれの認識とが成立つ。このことは既に日常生活において行はれるが、それを修正しつつ完成し徹底的に成就せしめようとするのが學問即ち所謂科學の任務である。科學の對象である客觀的實在世界――簡單にいへば所謂客觀的世界――は自然的生及び自然的實在性との聯關を認識によつて維持しようとする働きの所産であり、從つて科學の對象としての「自然」は、カントの洞察した如く、文化的活動の所産である。自然的生に根源を有するもそれより區別されねばならぬ。尤も客體内容のうち、實在的他者の象徴としての意義を獲得せず又それ自身實在者の位に据ゑられることなしに、それ本來の姿において他者性の固定を見るものもある。數學的並びに論理的思惟の對象の如きはこの類に屬する。
 客觀的實在世界の認識は主體が反省の立場に立ちながら、しかも、一旦少くも志向の上においては遠ざかつた、實在者との關係交渉に再び接近するを意味する。さて實在者との交りはすべての生の基礎であり根源であるが、根源を去りたる反省はいかにして又その根源へ復歸し得るであらうか。このことは根源的生が潛在的にすでに反省を内に含むことによつて可能となるのである。すなはち、反省は全く新しきものの突然の發生ではなく、すでに隱然具はつてゐたものが、表面に現はれ出で獨立性を獲得することによつて、固有の本質を自由に發揮することに外ならぬのである。すでに述べた如く、いかなる生も現實的状態においてはすでに何等かの程度において文化的であり又體驗の性格を具へてゐる。それはいかに朧げにせよ氣附く又知るといふことなしには行はれぬ。尤もこのことはなほ自然的生の闇みの中に囚はれてゐる。それが解放されたものが反省に外ならぬ。解放の動作として反省は根源的生との聯關を前提する。この聯關が維持されるが故に復歸も亦可能なのである。今かくの如き復歸を「囘想」(又は記憶)と名づけるならば、認識は囘想によつて成立つのである。尤もそれは認識が成立つて後の、從つて認識の一種としての、囘想とは異なつて、更に根源的なるもの認識そのものの成立根據をなすものである故、カントの用語を襲用すれば、「先驗的(transzendental)囘想」とも名づくべきであらう。しかるにこの囘想は更に根源的體驗と反省との聯關從つて兩者における主體の同一性を前提する。尤もこの「先驗的同一性」は反省の立場において主體の自己實現自己表現においてはじめて顯はとなり、はじめてそれと意識される。客體内容相互の聯關意味聯關を離れて直接に主體の同一性自我の同一性を捉へようとする企ては徒勞にをはらねばならぬであらう。
 客觀的世界の認識と相並んで主體の自己認識も成立つ。すでに述べた如く、客體は主體の自己表現であり、自己の顯はになつたものとして自己性の契機を含む。客體として又客體においての外は主體は自己を顯はにしない。ここに主體の自己認識の可能性の根據は與へられる。この認識は、客體が從つて主體の表現が主體自らの象徴となることによつて、言ひ換へれば、主體自らが主體自らとの交渉に入り、かくて隱れたる自己即ち認識動作の中心と顯はなる自己即ち認識される自己との二つが、分離對立しつつしかも同一性を保有し乃至貫徹することによつて行はれる。このことは單に形式論理的に考へれば或は不可能のやうにも思はれようが、反省の立場において客體が主體より分離しながらしかも可能的自己として自己の表現たる意義を保有することを思へば、むしろ必然的とさへいふべきであらう。その場合客體面が自己性の層乃至領域と他者性の層乃至領域とに分かれをることは、表現を象徴に發展せしめつつ實在者――この場合主體自ら――に關係づけ、かくして表現より認識への轉換を可能ならしめる。自然的生において實在者――この場合他者――の象徴として實在者(主體)の生内容をなしたものは、ここでも客體としての遊離状態を經て再び實在者の象徴として實在者の生内容たる意義を恢復する。この意味において吾々はここでも先驗的囘想の働きを見出すであらう。ただ客觀的世界の認識と異なつて自己認識は、根源的體驗において他者の象徴であつた觀念的存在者がその元の位置に復歸するのではなく、むしろ反對の方向を取つて新たに主體の象徴の位置に推し進められるのであり、從つてその限り復歸よりはむしろ前進を意味する。そのことと聯關して、第一、この認識は單に自然的生の主體に關してばかりでなく、あらゆる段階の生の主體に關して行はれ得る。第二、自己認識は自然的生よりの解放としては前進を意味する故、それの踏み出した歩みは更に新しきいはば高次の反省によつて新しき高次の客體の遊離へと進むであらう。ここに再び道は分かれる。正しき道はかくの如き高次の反省を通じて更に高次の自己認識へ進む。プラトンがイデアと呼んだ高次の存在はかくして生の最も高き自己認識の課題と内容とをなすであらう。ここに正しき意味の「哲學」の世界の展望が開かれる(二)。
 さてそのことは、立入つていへば、次の如くにして行はれる。すでに論述した如く、反省の段階において顯はとなる生の姿は、活動の性格を擔ひつつ二つの領域より成立つ。客體面が一方隱れたる主體的中心に對して他者でありながら他方それの表現であることは、第一段として、その同一面が自己性と他者性との兩契機より成立つことを要求し、更に第二段としては、主體の中心よりの働き掛けが顯はとなりつつ、客體面において自己性と他者性とを代表する二つの領域が分かれ出で相聯關することを要求する。すなはち主體は客體として顯はになることによつてはじめて客體に働き掛けるのである。それら二つの領域乃至二種類の形象は、一つが働き掛けるもの形作るもの他は働き掛けられるもの形作られるもの、一は形相他は質料、の間柄において立つ。反省の立場において自己認識の對象をなす主體の姿もかくの如き構造を示すのである。その場合他者性と質料との側に立つ形象は實在性を代表し、自己性と形相との側に立つ形象は内容を代表するはいふまでもない。實在性はなほ隱れたるものに當り内容はすでに顯はなるものに當る。かくの如き構造はすでに日常生活において具はるが、學問即ちこの場合所謂精神科學において確立と擴充とを見るであらう。然らばさきに高次の反省と名づけたもの即ち新しき高次の客體の分離はいかにして行はれるか。それは、自己性と形相との位置に立つ形象を、他者性と質料との位置に立つものより引離し、それに獨立性と――反省の立場においては勿論さうでなければならぬが――優越性とを付與しつつ、固定することによつて行はれる。自己性の契機のみを代表するものとして斯の如き形象即ち純粹形相は、生の最も顯はなる姿それの眞實の存在――プラトンが ont□s on 又は ousia と呼んだもの――を開示するであらう。他者性を代表する形象は後ろに置き棄てられるゆゑ、客體面の凹凸波動は跡を絶ち、實在性の曇りは吹き拂はれて、隈なく澄みわたる客體面に、各それ自らの明るさに照りはえる存在の靜かな姿のみが、見入る觀想の眼に留まるであらう。これが哲學の世界である。文化的生の及ぶ限り自然的生よりの解放は哲學において最も完全に行はれる。
 尤も異なつた第二の道を取る可能性はなほ殘されてゐる。客體の他者性の強化それの實在性への徹底はかくの如き純粹形相純粹客體の場合にも行はれ得る、少くも歴史的事實としてはしばしば行はれた。プラトンよりヘーゲルに至るまでの觀念主義の形而上學が即ちそれである(三)。
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