政談月の鏡
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著者名:三遊亭円朝 

政談月の鏡三遊亭圓朝鈴木行三校訂編纂        一 政談月の鏡と申す外題(げだい)を置きまして申し上(あぐ)るお話は、宝暦(ほうれき)年間の町奉行で依田豐前守(よだぶぜんのかみ)様の御勤役中に長く掛りました裁判でありますが、其の頃は町人と武家(ぶげ)と公事(くじ)に成りますと町奉行は余程六(むず)ケしい事で有りましたが、只今と違いまして旗下(はたもと)は八万騎、二百六十有余頭(かしら)の大名が有って、往来は侍で目をつく様です。其の時の江戸の名物は、武士、鰹、大名小路、広小路、茶見世、紫、火消、錦絵と申して、今の消防方は四十八組有って、火事の時は道路が狭いから大騒ぎです、焼出(やけだ)されが荷を担(かつ)いで逃げ様とする、向(むこう)からお町奉行が出馬に成る、此方(こっち)の曲角からお使番が馬で来る、彼方(あちら)から弥次馬が来る、馬だらけに成りますが、只今は道路の幅が広くなりずーッと見通せますが、以前は見通しの附かんように通路(とおりみち)が迂曲(うねっ)て居りましたもので、スワと云うと木戸を打ち路次を締める、少しやかましい事が有ると六(む)ツ限(ぎり)で締切ります、此の木戸の脇に番太郎がございまして、町内には自身番が有り、それへ皆町内から町内の家主(いえぬし)(差配人さん)がお勤めに成って、自身番の後(うしろ)の処が屹度(きっと)番太郎に成って居たもので、番太郎は拍子木を打って夜廻りを致す丈(だけ)の事でスワ狼藉者だと云っても間に合う事はない、慄(ふる)えて逃げて仕舞い、拍子木を溝(どぶ)の中へ放り出して番屋へ這込(はいこ)むなどと云う弱い事で、冬になると焼芋や夏は心太(ところてん)を売りますが、其の他(た)草履草鞋を能(よ)く売ったもので、番太郎は皆金持で、番太郎は越前から出る者が多かったようで、それに湯屋の三助は能登国(のとのくに)から出て来ます、米搗(こめつき)は越後と信濃からと極って居ました、江戸ッ子の番太郎は無い中に、長谷川町(はせがわちょう)の木戸の側(わき)に居た番太郎は江戸ッ子でございます、名を喜助(きすけ)と云って誠に酒喰(さけくら)いですが、妙な男で夜番(よばん)をする時には堅い男だから鐘が鳴ると直(すぐ)に拍子木を持って出ます、向うの突当(つきあたり)までちゃんと行って帰って来ます。大概の横着者は、チョン/\チョン/\と四つ打って町内を八分程行くと、音さえ聞えれば宜(い)いんで帰って来ますが此の男は突当りまで見廻って来ないと気が済まないと云う堅い人で、ボンチョン番太と綽名(あだな)が有る位で何(ど)う云う訳かと聞いて見ると、ボーンと云う鐘とチョンと打出す拍子木と同じだからボンチョン番太と云う、余程堅い男だが酒が嗜(す)きで暇(ま)さえあれば酒を飲みます、女房をお梅と云って年齢(とし)は二十三で、亭主とは年齢が違って若うございますが、亭主思いで能く生酔(なまえい)の看護(もり)を致しますので、近所の評判にあの内儀(かみ)さんは好(い)い女だ喜助の女房には不釣合だと云われる位ですが、誠に貞節な者で一体情の深い女でございますから、本当に能く亭主の看護を致して、嗜(すき)な物を買って置き、 梅「寒いから一杯お飲(た)べかえ、沢山飲むといけないよ、二合にしてお置よ、三合に成ると少し舌が廻らなくなる、身体に障(さわ)るだろうと思って案じられるから」 喜「うむ寒いな、霜月に這入ってからグッと寒く成った何(ど)うしても寒くなると飲まずにゃ居られねえな」 梅「寒いたって、寒い訳だよ、朝から飲んでるからもう酔い醒(ざめ)のする時分だからさ、町代(まちだい)の總助(そうすけ)さんが来て余り酒を飲ましちゃアいけない、あれでは身体が堪(たま)るまいと被仰(おっしゃ)って案じておいでだよ、皆様(みなさん)が御贔屓(ごひいき)だから然(そ)う云って下さるんだよ」 喜「もう是れ限(ぎ)り飲まねえから、よう宜(い)いからもう一本燗(つ)けなよ」 梅「燗けなってお酒が無いんだよ」 喜「無けりゃア買って来ねえな、おい」 梅「もう今日はこれだけにしてお置きな」 喜「熱い時分ならそれで宜いが、寒い時分には二合じゃア足りねえ、ようお前(めえ)能く己(おれ)の面倒を見て可愛がって呉んな、其の代り己がお前を可愛がって遣(や)る事もあらア」 梅「お戯(ふざ)けでないよあのお店(たな)から酒の下物(さかな)にしろって台所の金藏(きんぞう)さんが持って来た物があるよ」 喜「彼奴(あいつ)め下物だって鮭の頭位だろう、あゝ有難い持つべきものは女房か、有難いな、何(ど)うしたっても好(い)い酒は四方(よも)へ行かなければ無(ね)えな」 とクビーリ/\飲んで居る、其の時店先へ立止りました武士(さむらい)は、ドッシリした羅紗(らしゃ)の脊割羽織(せわりばおり)を着(ちゃく)し、仙台平(せんだいひら)の袴(はかま)、黒手(くろて)の黄八丈(きはちじょう)の小袖(こそで)を着(き)、四分一拵(ごしら)えの大小、寒いから黒縮緬の頭巾を冠(かぶ)り、紺足袋(こんたび)日勤草履(にっきんぞうり)と云う行装(こしらえ)の立派なお武士、番太郎の店へ立ち、 武「これ此処(こゝ)に有る紙を一帖(いちじょう)呉れんか」 喜「へいお入来(いで)なさいまし是は何うも御免なさいまし、誠に有難う、其処(そこ)に札が附いてます、一帖幾らとして有りますへい半紙は二十四文で、駿河(するが)半紙は十六文、メンチは十個(とお)で八文でげす、藁草履は私(わっち)の処が一番安いのでございます、有難う誠に何うも、其処へ行くんですが、ちょいと銭を箱の中へ放り込んで一帖持って行って下さいまし、札が附いてますから間違えは有りません」 武「なに貴様は余程酒が嗜(す)きだな、私(わし)が此処(こゝ)を通る度(たび)に飲んで居(お)らん事はないが、貴様は余程(よっぽど)酒家(しゅか)だのう」 喜「ヘイ嗜きです、お寒くなると朝から酒を飲まねえと気が済みませんな」 武「酒家(さけのみ)は妙なものだな、酒屋の前を通ってぷーんと酒の香(におい)が致すと飲み度(た)くなる、私(わし)も同じく極(ごく)嗜(すき)だが、貴様が飲んで居(い)る処を見ると何となく羨(うらやま)しくなる」 喜「え、殿様もお嗜きで、極(ごく)好(い)い酒が有ります、私(わっち)ゃア番太郎ですが江戸ッ子の番太郎は余り無(ね)えんです、極好い酒が有りますから、誠に失礼ですが一つ召上れ」 武「それは辱(かたじけな)いなア」 梅「あらまア御免遊ばせ酔って居りますから、お前さん何と云う事だよ、お武家様を番太郎の家(うち)などへお上げ申す事が出来ますものかね」 喜「いや嗜きじゃア堪らねえ、ねエ殿様、此方(こちら)へお上(あが)んなさい、長い刀(もの)を一本半分差して斯(こ)ういう家(うち)に上ると身体を横にしなければ這入れませんよ」 武「是は御家内か、私(わし)も酒が嗜きでな、此処を通る度に御亭主が飲んで居る、今一寸(ちょっと)買物をして見ると矢張(やっぱり)飲んで居て羨しく遂(つい)やる気になりました」 梅「でも汚ない此んな狭い処へ」 喜「宜(い)いから黙ってろ、殿様此女(これ)の里は白銀町(しろかねちょう)の白旗稲荷(しらはたいなり)の神主の娘ですが、何うしたんだか、亭主思いで、私(わたくし)が酒を飲んでは世話を焼かせますが、能く面倒を見ます」 梅「お止(よ)しよ」 武「では一盃(いっぱい)戴こうか」 喜「お酌をして上げな、大きい盃(もの)で」 武「これは御内儀(ごないぎ)痛み入りますな、お酌で」 梅「誠に何うも召上る物が有りませんで」 武「いや心配してはいかん、却(かえ)って是が宜しい成程是は何うも余程好(い)い酒を飲むな」 喜「えゝ四方(よも)で、彼家(あすこ)では好い酒を売ります、和泉町(いずみちょう)では彼家ばかりで、番頭が私(わっち)を知ってるので、私が買いに行(ゆ)くと長谷川町の番太が来たって別に調合を仕ないで、一本生(いっぽんぎ)の鬼殺しを呉れますが、酒は自慢で」 武「うむ是は堪らん、では近附(ちかづき)の為に一盃(いっぱい)」 と喜助に差しました。喜助は頭(かしら)を下げ。 喜「へー有難う、おいお梅此処(こゝ)へ来い酌をして呉れ手前(てめえ)は己に能く酒を飲むな/\てえが立派なお武家様がこんな汚い家(うち)へ這入って来て番太郎と酒を飲合(のみあ)い、殿様のお盃(さかずき)を私(わし)が飲んで其の猪口(ちょく)を洗(そゝ)ぐのは水臭いって殿様が直(すぐ)に召上ると云うのは酒の徳だ」 武「酒には上下の差別をしてはいけない」 喜「洒落(しゃれ)た好い殿様だ、何卒(どうぞ)毎日来て下さいまし、殿様私(わっち)の為めには大切のお店の番頭が私を贔屓で去年の暮に塩辛を呉れましたが、好い鯛の塩辛で、それと一緒に雲丹(うに)を貰ったんですが、女房(かゝあ)は雲丹をしらねえもんだから、鬼を喰うと間違えました、是は※(からすみ)」 武「是は何うも皆(みんな)酒家(さけのみ)の喰う物ばかりで」 梅「何かお肴を」 喜「鰻でも然(そ)う云って来ねえよ」 梅「上(あが)るかえ」 喜「上っても上らなくっても宜(い)い、鰌(どじょう)の抜きを、大急ぎで然う云って来や、冷飯草履を穿(は)いて往(い)け殿様彼(あれ)は年は二十三ですが、器量が好(よ)うございましょう、幾ら器量が好くたって了簡が悪くっちゃア仕様が無(ね)えが、良い了簡で私(わっち)を可愛がりますよ」 武「是は恐入った、馳走に成るからお前のうけ[#「うけ」に傍点]も聞かなければならんが、貴様は酒が嗜きだと云う処から初めて私(わし)が来て馳走に成り放(ばな)しでは済まんから、少し譲り難い物を遣(や)ろうか、是は容易に得難い酩酒で有る、何(いず)れで出来るか其処(そこ)は聞かんが、是は何か京都の大内から将軍家へ参って、将軍家から御三家御三卿方へ下されに成って、たしない[#「たしない」に傍点]事で有るから其の又家来共に少しずつ之を頂戴致させるんだが、何うも利き目が違って、其の酒の中へぽっちり、たらりと落して、一合の中へ猪口(ちょく)に四半分もポタリと落してやると何(なん)とも云えん味(あじわ)いのものだ、飲む気が有るなら遣ろうか」 喜「是は何うも、何(なん)ですかえ…夫(それ)は有難うございます…此盃(これ)へ何卒(どうぞ)…是は何うも頂く物は、えへゝゝ大きな物へ」 武「余り大きな物へ入れちゃア困る、徳利が小さいから、これへ入れてやろう」 風呂敷を解いて小さい徳利を取出(とりいだ)して、栓(くち)の堅いのを抜きまして、首を横にしてタラ/\/\と彼是(かれこ)れ茶椀に半分程入れて、 武「実は私(わし)も親類共へ些(ちっ)と遣り度(た)いと思って提(さ)げて来たのだが、馳走に成って何も礼に遣る物がないから」 喜「有難う存じます、おゝお梅、行って来たか」 梅「あゝ行って来たよ」 喜「今な、禁裏さまや公方様が喰(くら)って、丁寧な事(こた)ア云えねえが、御三家御三卿が喰(くら)う酒で番太郎風情が戴ける物じゃねえんだが、殿様が遣ると仰しゃって戴いた」 梅「夫(それ)はまア有難い事で、何もございませんが、召上るか召上らないか存じませんが、只今鰌の抜(ぬき)を云い付けて参りましたから」 武「何も構って呉れちゃア困る」 喜「宜(い)いから彼方(あっち)へ行ってろ、夫(それ)から香物(こう/\)の好いのを出しな」 武「夫(それ)を直接(じか)に飲んではいけない、何(ど)んな酒家(さけのみ)でも直接にはやれない」 喜「なに旦那私(わし)は泡盛でも焼酎でもやります」 とグイと一口飲みました。 武「此奴(こいつ)ア気強(きつ)い」 喜「ムヽ、是は何うも酷(ひど)いな、此奴ア、ムヽ、脳天迄滲(し)みるような塩梅(あんばい)で」 武「なか/\えらいな、それを二タ口と飲む者はないよ」 喜「なに二タ口、訳アございません、薩摩の泡盛だって何(な)んでもない、ムム」 梅「何う仕たんだよ」 喜「なに宜(い)いよ、ム、ム大変だ、頭が割れるような酷いもので、此奴(こいつ)を公方様が喰(くら)うかね」 武「酒を割ってやらんければいかん、残りは大切(だいじ)に取って置きな」 喜「ヘエお梅是を何処(どっ)かへ入れて置きな」 武「ポッチリ酒に割って飲むのだ、私(わし)は少し取急ぐで、是を親類共に持って行ってやらんければならん、又此の頃に来る」 喜「只今抜きが直(じ)きに参りますが…左様ですか…御迷惑で、誠に失礼を致して恐入ります」 武「大きに厄介で有った、御家内誠に世話に成りました」 と丁寧にお武家が家内にも挨拶をして落着き払って、チャラリ/\雪駄(せった)を穿いて行(ゆ)く後影(うしろかげ)を木戸の処を曲るまで見送って、 喜「有難うございました、どうぞ殿様此の後(のち)も寄ってお呉んなさい、へえへえ有難う、おい嬶(かゝ)ア、大切(たいせつ)に取って置きな、御三家御三卿が喰(くら)うてえんだが、旨くも何共(なんとも)ねえものを飲むんだな、香の物の好(い)いのを出して呉れ、酒家(しゅか)は沢山(たんと)の肴は要らない、香の物の好いのが有ればそれで沢山だ、併(しか)し酷(ひど)い酒を飲(のま)せやアがったなあゝ痛(いて)え、変な酒だな、おいお梅一寸(ちょっと)来て呉んな、ウ、ウ、腹が痛えから一寸来て呉れ」 梅「極りを云ってるよ、お前飲み過(すぎ)だよ、※癪(せんしゃく)に障るんだよ」 喜「彼(あ)ン畜生変な物を飲ましやアがって、横ッ腹(ぱら)を抉(えぐ)るように、鳩尾骨(みぞおち)を穿(ほじ)るような、ウヽ、あゝ痛え」 梅「何うしたんだよ」 喜「アヽ痛え、ア痛たゝゝ、お、お梅、脊中を押して呉れ、脊中じゃアねえ、肩の処を横ッ腹を」 梅「何処(どこ)だよ」 喜「其処(そこ)じゃアねえ、此方(こっち)の足の爪先だ、膝だ、あゝ肩だ」 ともがいて居ます、恐ろしいもので、節々(ふし/″\)の痛みが夥(おびたゞ)しく毛穴が弥立(よだ)って、五臓六腑悩乱(のうらん)致し、ウーンと立上るから女房は驚いて居ると、喜助は苦しみながら台所へ這い出してガーと血の塊を吐いて身を震わして居る。お梅は恟(びっく)りして、 梅「家(うち)の良人(ひと)が何うか為(し)ましたから誰方(どなた)か来て下さいよう、總助さん/\」 總「何うした/\、きまりだ、吐血だ、だから酒を飲んじゃア宜(い)かねえと云うのだ、何う云うものだこれ喜助確(しっか)りしろ、喜助/\」 喜「ウーン」 それなりに相成りました。 總「何う云う訳だ」 と云うとお梅は涙ながら、これ/\斯(こ)う云う訳で御酒(ごしゅ)を割って飲まなければ宜(い)けないと云うのを家(うち)の良人(ひと)が直接(じか)に飲みましたから身体に障ったのでございましょう。 總「夫(それ)は怪(け)しからん事だ、何しても御検視を願わなければならん」 と云うので、御検視到来に相成りお医者も立会って調べると、是は全く酒の毒だが、尋常(たゞ)の死にようではない、余程効能(きゝめ)の強い毒酒ではないかと、依田豊前守様の白洲へ持出したが御奉行が其の酒を段々お調べに成り、医者を立会(たちあわ)して見ると、一ト通りならん処の毒薬で、何でも是は大名旗下(はたもと)の中(うち)に謀叛(むほん)之(こ)れ有る者、お家を覆(くつがえ)さんとする者が、毒酒を試しに来たに相違ないと云うので、女房に其の武家の顔を知って居(お)るかと尋ねると、これ/\斯(こ)う云う姿の武家体(てい)と申し上げたので、人相書を作り八方十方へお手配(てくば)りに成り箱根の前まで手が廻る事に成ったが、知れません。お梅は貞節な婦人ゆえ泣いてばかり居ります。里方で引取ろうと云うと、 梅「私(わたくし)はお願いだから、あの武士(さむらい)が毒を試しに来て、始めから何うも様子が訝(おか)しいと思ったが、顔を知って居るのは私(わたし)ばかり、此の長谷川町を再び通る気遣いは有るまいから、人の盛(さか)る処へ行ってあの侍を見付けて、亭主の敵(かたき)を強いお上(かみ)に取って貰わなければならないから、何うぞ私(わたくし)を吉原へ女郎に売って下さい、格子先へ立つ人の中にあの武家に似た人が有ったら騙(だま)して捕まえて亭主の敵を討つ」 と云い張り、幾ら留めても肯(き)かず遂に江戸町(えどちょう)一丁目辨天屋(べんてんや)の抱えと成って名を紅梅(こうばい)と改め、彼(か)の武士(さむらい)の行方を探すと云う亭主の敵討(かたきうち)の端緒でございます。        二 今日(こんにち)の処は、長谷川町の番人喜助の続きとお話が二途(ふたみち)に分れますが、後(のち)に一つ道に成る其の前文でありますからお聴き悪(にく)い事でございましょう、扨(さて)築地(つきじ)の本郷町(ほんごうちょう)と小田原町(おだわらちょう)、柳原町(やなぎはらちょう)と町内が繋(つな)がって居りますが、小田原町の家主(やぬし)に金兵衞と申す者がございまして、其の頃は家号(いえな)を申して近江屋(おうみや)の金兵衞と云う処から近金(ちかきん)と云われます、年齢(とし)は四十二に成りますが、真実な人で、女房をお蓮(れん)と云って三十八に成ります、家主(いえぬし)の内儀(かみ)さんは随分権式(けんしき)ぶったものでございますが至って気さくなお喋りのお内儀さんで、夫婦寄ると子が無いので其の噂ばかりして居ります。 蓮「旦那え/\、もう何(ど)うも何(な)んですね、夫婦の中に子の無い位心細いものは無いと思って居ます、お互に年齢(とし)を取って、来年はお前さんは四十三だよ」 金「年齢(とし)の事を云うと心細くなるから其んな事を云うな」 蓮「だってさ、夫婦養子をしても気心の知れない者に気兼(きがね)をするのも厭(いや)だし、五人組の安兵衞(やすべえ)さんなどは、無い子では泣きを見ないから寧(いっ)そ子の無い方が宜(い)いと云う側から子が出来て、今度ので十二人だてえます」 金「あの人は子福者(こぶくしゃ)だのう」 蓮「其の癖お内儀さんは痩ぎすで子は無さそうだのに」 金「お前(めえ)などはポッチャリ肥満(ふと)ってゝお尻も大きいから子は出来そうだが」 蓮「授かりものですね、子がなければ夫婦養子を仕なければ成りませんが、夫婦養子と云うよりも私の考えじゃア一人娘を貰って置いて、お前様(さん)には甥(おい)だが竹次郎(たけじろう)を宅(うち)へ入れる積りですが、当人が厭だと云うかも知れませんが、お前様の血統(ちすじ)だから是非此の家(や)を継(つが)せるより仕方は無いが、嫁が悪いといけないよ、それが本当の子で無いから私が心細いよ、お前さんには身内だから竹は宜(い)いが嫁の根性が悪いと竹さんまで嫁に捲(まか)れて仕舞って、訝(おか)しな了簡に成って親不孝をされた日にア大変だよ、お前さんが長生きをしてお呉んなされば宜いが若(も)し眼でも眠った後(あと)は大変だよ、だから嫁の宜いのが欲しいね」 金「欲しいたって無いよ、縁ずくだから」 蓮「裏に居る売卜者(うらないしゃ)の浪人の娘は好(い)い器量だね」 金「うむ、彼(あれ)は何(ど)うも無いのう、品格と云い、親孝行でな、彼(あ)の娘(こ)に味噌漉(みそこし)を提げさせるのは惜しいものだ、お父(とっ)さんはヨボ/\してえるがまだ其んなに取る年でもないようだが、寒さ橋(ばし)の側へ占いに出るのだが可哀想だのう」 蓮「あの娘(こ)を貰い度(た)いもんだね」 金「貰い度いたって先方(むこう)も一人娘だから」 蓮「其処(そこ)を工夫してさ」 金「工夫たって一人子(ひとりっこ)だから呉れないよ」 蓮「私に宜(い)い工夫が有るんです、先方(さき)は大変に困って居る様子だから、可愛がって店賃(たなちん)を負けておやんなさいよ」 金「店賃を負けるてえ訳にはいかない、地主へ遣(や)らなくっちゃアならないから」 蓮「成る丈(た)け催促をしないようにおしなさい」 金「催促するのも、少しは遠慮をして居るのよ」 蓮「彼(あ)んな親孝行な娘(こ)は有りませんね、浪人ぐるみ引取っても構やアしない」 金「親付きでか」 蓮「親付きだって、あの浪人者なら宜いよ、あの浪人者を呼んで、お前さんね、親一人子一人だが、良い子を持ってお仕合せだ、どうせ宅(うち)へ養子をするのだが、甥の竹と云う者が奉公先から下(さが)って来れば宅の養子に成る身の上だが、彼(あれ)に添わしたいように思うが、お前様(さん)も一人子(ひとりご)だから他(ほか)へ呉れる理由(わけ)にも行(ゆ)くまいから、一緒こたにお成んなさいと云って御覧なさい」 金「馬鹿ア云え、そんな事が云えるものか、あの浪人は堅い男だ、毎朝板の間へ手を突いて、お早うと丁寧に厳格(こつ/\)した人だが、そんな篦棒(べらぼう)な事を頭を禿(はげ)らかして云えるものか」 蓮「じゃア斯(こ)う仕ましょう宅(うち)へみいちゃんだのおしげさんだのが綿(わた)摘みの稽古に来ますから、あの娘(こ)にも綿を摘む内職を成さいと云って呼寄せ様じゃアありませんか、幸いすうちゃんが休んで桶が明いてるから」 金「あゝ云う遠慮深い人だから身装(なり)があの通りだからって寄越すめえ」 蓮「それは此方(こちら)で貸して手間で差引くといって悉皆(そっく)り私の物を貸して遣って習いに来ればもう占めたもので、内職が出来ても出来なくても、あの娘(こ)のは光沢(つや)が好(よ)くって評判が宜(い)い、是丈(これだけ)揚(あが)ったって手習丈の物はなくても宜いから無闇に手間賃を出してお遣んなさいよ」 金「夫(それ)は大変な散財だな」 蓮「夫から段々覚えて来たから前貸だと気を附けてお金子(かね)を貸してやって、ホイ/\云って子の様に可愛がって遣ってお父(とっ)さんが留守の内は私の側に置いて娘(こ)のようにして可愛がって、段々馴染(なじみ)が深く成るうち一年が二年と年月(としつき)がたつ内に、三年経つと竹が年期が明いて来ますから、丁度宜いねえ二人差向いに成ったら気を利かしてお外(はず)しなさいよ、私はお参りに行(ゆ)くよ、二人置いて行(ゆ)けば、冬なら炬燵(こたつ)が有るから当人同志で旨く成って仕舞い、当人が来たいと云えば宜いじゃアないか」 金「夫じゃア無理無体にか、併(しか)しあの浪人は堅いから寄越すか知らん、おゝ噂をすれば影だ、ピー/\風でさむさ橋に出て居ても、見て貰い人(て)もないかしてもう帰って来た、帰り際に早いから屹度(きっと)寄るぜ」 浪「えゝ御免を」 金「はい」 浪「留守中誠に有難う存じました、えゝ只今帰りました、清左衞門で」 金「まア一寸お上(あが)んなさいよ」 蓮「ちょいとお這入んなさい」 浪「はい御免を、誠に何(ど)うも両三日(さんにち)は引続いてお寒い事で、併しながら何日(いつ)も御壮健(おたっしゃ)な事で」 金「其んな堅い事を云わないでも宜(よろ)しい、お茶を煎(い)れて羊羹(ようかん)でも切んなさい、なに無く成ったえ、何か切んなよ」 蓮「切んなって切るものは無いよ」 金「じゃア最中(もなか)でも出しなよ」 浪「えゝ御内室(ごないしつ)様私(わたくし)が出ますると娘一人を残しまして一日留守に致し何かと御厄介勝で、夫(それ)にお隣の麹屋のお内儀(かみ)さんが誠に御真実になすって一通りならんお目をお懸け下され誠に有難い事でございます、お礼にも都度(つど)/\上(あが)り度(と)う存じますが何分貧乏暇なしで遂々(つい/\)御無沙汰勝に相成って済みません」 金「其んな堅い事には及びません、裏の方の屋根が少し損じたから其の内に修繕(なお)させます、お前さんは能く毎日寒さ橋へお出(で)なさる、此の寒いのに名さえ寒さ橋てえんだから嘸(さ)ぞお寒かろう、ピュー/\風で、貴公(あなた)はお幾歳(いくつ)です」 清「いえ何(ど)うも誠に多病の人間で、大きに病魔(やまい)の為(た)めに老けて見られますんですが、未だ四十六歳で」 金「御壮(ごさか)んですな」 浪「いえ甚(ひど)く弱むしに成りまして困ります、貴方(あなた)は何日(いつ)も御壮健ですな」 金「マお茶をお喫(あが)んなさい」 清「是は有難う存じます、頂戴致します、結構なお茶で、手前は茶が嗜(すき)で素(もと)より酒が嫌いだから、好(よ)い菓子も買えません、斯(か)くの如く困窮零落しては菓子も喫(た)べられません、斯様(かよう)な結構なお茶、結構なお菓子を、イエ/\是は戴きますまい是は娘に持って行って遣(つか)わしましょう」 金「今お前様(さん)処(とこ)のお嬢さんのお噂をして居たのだが、実に私は鼻が高い、私の長屋にあゝ云う親孝行の娘が居れば私は何(ど)の位鼻が高いか知れない、お前さんはお仕合せだと云ってお噂ばかりして居ます、お前さんが留守でも隙間(ひま)なく働いて、長屋の評判も好(よ)し、ちょいと宅(うち)へ来ても水を汲みましょうか、買い物はありませんかといって気を附けてお呉れで、御品格と云い、御器量と云い実に申し分が有りませんね」 清「イエ何う致しまして誠に不束者(ふつゝかもの)で、屋敷育ちで頓(とん)と町家(まちや)の住居(すまい)を致した事がないので様子合(あい)を一向に心得ませんから皆様に不行届勝ちで、夫(それ)に一体無口で」 金「イエ余りペラ/\喋るのは宜(い)けません、年の行(ゆ)かん娘などがお世辞を云うのはいかんもので、今ね其の家内がお噂をして居ましたので、お宅で何か内職でもおさせですかえ」 清「イエ恥入ります、碌(ろく)な事も出来ませんが少々ばかり鼻緒を縫ったり致して居ります」 金「鼻緒も宜(よ)うございましょうが、家内が綿を紡(つ)むことを覚えて近所の娘子(むすめこ)に教えるので、惠比壽屋(えびすや)だの、布袋屋(ほていや)だの、通り四丁目の棒大(ぼうだい)や何かから頼まれましてお店(たな)の仕事ばかり為(し)ますが余程宜(い)い手間で、立派な男の手間位には成ります、処が此の節おすみと云う娘(こ)が休んでて桶が明いてますから、教えて上げ度(た)いが、甚(はなは)だ失礼で何うしたら宜かろうなんて、家内(これ)が云いますから、なに失礼な訳は無い、覚えてお父(とっ)さんのお手助けに成れば結構だ、鼻緒を縫ってお在(い)でのようだが、夫(それ)も時々休みが有るようだ、夫から見れば是は毎日の仕事だから少しはお父さんのお手助けに成るかも知れんと考えたんで」 清「夫は御親切に有難い事で、実は娘も好(よ)い内職を皆さんが御当家へ来て成さるが、何うかして私(わたくし)もあゝいう内職を覚え度(た)いと申して居りますが、何分立派なお嬢さん方の入らっしゃる中へ」 蓮「いえそんな事を心配してはいけません、尤(もっと)も宅(うち)へ参る娘達(むすめたち)は可なりの処の娘(こ)ですから其ん中へ這入るのだからとお思いなさるのは御尤ですが、私の着物が明いてますから、碌なのじゃアありません私が若い時分に着たので、今は入りませんから上げちまっても宜(よ)いが、失礼ですからお貸し申します、其の内に手間が取れゝば又拵(こしら)えて上げるように為(し)ますが、是は若い時分に締めた帯で、宅には娘はなし、親類にも女の児(こ)がないから取って置いても仕様が有りませんから」 金「何か上げなよ、失礼だが半纒(はんてん)を、誠に失礼で御立腹か知らんが襦袢(じゅばん)なども上げなよ」 蓮「どうぞ不用なのですから、赤いのも今は土器色(かわらけいろ)に成ったんです」 金「細帯も附けて上げなよ」 清「是は何(ど)うも恐れ入ります、残らず拝借致しても他の物と違いまして、瀬戸物や塗物は瑾(きず)を付けた位で済みますが、着類(きるい)は着れば切れるもので」 金「宜しい切れても、仕舞って置いたって折切(おりき)れます、誰(たれ)にも遣る者はなし詰らんわけだから着せて下さい、綺麗な身装(なり)をして出入(ではい)りをして下されば私も鼻が高い、今だって汚くも何(なん)ともない、私の綿入羽織が有ったろう、お前さんの身装を軽蔑(けなす)んじゃアございませんが是は古くって一旦染(そめ)たんで、一寸(ちょっと)余所(よそ)へ行(ゆ)く時に之を着て出て下さると私(わたくし)は鼻が高い、然(そ)うして姉(ねえ)さんは是非寄越して下さいよ」 清「是は何共(なんとも)何(ど)うも御親切千万有難う、親子の者が窮して居りまするのを蔭ながら御心配下され、着物がなければ貸して遣ろうと仰しゃる思召(おぼしめ)し、千万辱(かたじけな)い事で、御親切は無にいたしません、然(しか)らば拝借を願います」 蓮「姉さんを屹度(きっと)お寄越しなさいよ」 清「何(ど)のようにも是は願わなければ成りません、筆も嘸(さ)ぞ悦びましょう」 金「お筆さんと云いますか、私は始めてお名を覚えました宜しく」 清「左様なら拝借を致します」 と清左衞門悉(こと/″\)く悦んで、ニコ/\しながら家(うち)に帰って来ました、娘お筆は、寒さの取附(とっつき)だと云うにまだ綿の入った着物が思うように質受(しちうけ)が出来ず、袷(あわせ)に前掛だけで短い半纒に幅の狭い帯を締てお筆は頻(しきり)に働いて居ります。 筆「おやお帰り遊ばせ」 清「今日は風が吹くんで往来も繁くないから早く帰って来た」 筆「私がお迎いに出ようと思って居りました処で、大層にこ/\笑って在(いら)っしゃいますね」 清「お家主(いえぬし)さんが御親切に色々仰しゃって下さり、それにあのお内儀さんは綿を紡む内職が名人だそうで近所の娘達も稽古に来るからお前も遣(よこ)したら宜かろうと、色々と御親切に仰しゃって衣類まで貸して下さり、此の通り私(わし)に綿入羽織にしろと被仰(おっしゃ)ってこれを貸して下すった実に御親切な事で恐入った訳で、仇(あだ)に思っては成りませんぞ、実に仕合せな事で、何(ど)うか一生懸命に覚えて呉れるかね」 筆「お父様(とうさま)、私(わたくし)は一生懸命に神信心をして上手に成ってお父様のお手助けをいたし度(と)うございますから御心配なく、来年の夏迄には屹度(きっと)一人前に成りますから」 清「然(そ)う早くも覚えられまいが其の心得で居れば宜(よ)い」 と直(すぐ)に貰った着物を着せて礼に遣ると此方(こちら)は嫁に仕様と思うのでございますから、ちやほや致し是から綿紡みを教えまして出来ても出来なくても、あゝ能く出来た、お前のはお店(たな)の受けが好(よ)い是は光沢(つや)が別だと云うので手間を先へ貸して呉れるように致して万事に気をつけて呉れるから大仕合(おおじあわ)せで、其の内暮になると何か手伝いをして遣り度(た)いと思って居る処へ清左衞門が礼に参りました。 清「エヽ御免を蒙(こうむ)ります」 金「おやお出(いで)なさい斯(こ)うなって近々(ちか/″\)お出でになるに、然(そ)うお前さんの様に窮屈で悪固(わるがた)くっては困る」 清「何うも私は武骨者で困ります、段々とお世話様に相成り何共(なにとも)お礼の申し上げようが有りません、先達(せんだって)は又出来もせんものに、前以(まえもっ)てお給金を頂戴致し、中々今からお手間などを戴けるわけのものでは有りません」 蓮「なアにお前さん何日(いつ)でも旦那と噂をして居るの、大層お店(たな)の受けが宜(よ)い事、ちょいとお前さん早くお出しなさいよ」 金「あれはね其のどうせ来年の三月迄の手間賃で、私が上げる訳じゃアない、店(たな)から来たんだから遠慮をしてはいけない、是はね私の心許(こゝろばか)りのお歳暮でお筆さんに上げます、家内がお年玉をって、今から年玉を上げるのも可笑(おか)しいが、どうせ上げる物だからお歳暮と一緒に預かって置いて下さい」 清「是は何うも暮の二十八日にお年玉を、是は千万辱(かたじけ)ない事で」 蓮「それから正月のうちはね、女子供は皆(みんな)美(よ)い身装(なり)をして来るから、貴方もお筆さんに着せ度(た)くお思いでしょう、また追々(おい/\)春の手間で差引きますが、年頃の娘の事ですから皆の身装を見たら羨(うらやま)しくも思いなさろう、仮令(よし)其様(そん)な気がないにもせよ、お筆さんばかり悪い身装をして来る訳にもいきますまい、是は台なしに成って今は不粋(ぶいき)ですが、荒っぽい小紋が有るんです、好(い)いンじゃアないんですが、お筆さんは人柄だけに小紋の紋付はお似合いだろうと思って、仕立屋へ遣ったんではないので、家(うち)で縫ったんですよ、夫(それ)に帯は紫繻子(むらさきじゅす)が宜かろうと、斯(こ)う云う訳で、赤い物が交(まじ)って気に入らないかも知らないが、朱(しゅ)の紋縮緬(もんちりめん)と腹合せにしてほんのチョク/\着るように、此の前掛は古いのですが、二度ばかりっきゃア締めないんで、此の簪(かんざし)は私が若い時分に買ったんですが、丸髷(まるまげ)には差せないから、不粋(やぼ)なもんですが…」 金「貴方にお歳暮に羽織を上げましょう」 清「是は何うも斯うは戴けません、其んなに無闇と然(そ)う下さる訳のものではない、又人様に無闇と戴くべき道理がない、然う御贔屓下さいますと却(かえ)って褪(さ)めるもので、何うか末長く幾久しく」 金「其んな堅い事を云わずに取ってお置きなさい、只上げやアしません、後で差引きますよ」 清「こんなに何うも何共(なんとも)ハヤ千万有難う、親子の者が助かります、彼(あれ)は誠に孝行致して呉れ、親思いでワク/\致して呉れますが、才覚(はたらき)の無い親を持って不便(ふびん)とは思いながら、何一つ買って与える事も出来ませんが御当家(こちら)へ内職に上(あが)るように成ってから、結構な櫛を戴いたり、食物(たべもの)まで贈って下さり、何(なん)たる御真実の事か実に何(ど)うも此の御恩は決して忘却は致しません、千万辱ない事で有難う、折角の思召ゆえ当季拝借致しましょう」 と悦んで包みに致し小脇に抱えて宅(たく)へ帰って話すと娘は飛立つ程の嬉しさ、是から僅(わずか)な物を持って娘が礼に参るような事で、其の年も果てゝ宝暦三年となりましたが、職を致す者は大概正月廿日(はつか)迄は休みますので、此の金兵衞の宅(うち)の内職も十七日迄休みでございます、丁度六日お年越しの朝早く起きて金兵衞は近辺に年始に出ました、此方(こちら)はお筆が昼飯(ひるめし)を喰(た)べましたから、かねて近金から貰った小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて出ると一際目立つ別嬪(べっぴん)でございます、時々金兵衞の家内とお湯に行(ゆ)きますから誘いました。 筆「お内儀(かみ)さんお湯に入(いら)っしゃるならお供を致しましょう」 蓮「私は今御年始客が有るから先へ行ってお呉れ、直(すぐ)に後から行(ゆ)くから、柳原町のお湯だろうね」 筆「はい」 娘は一人でお湯に参りましたのが一つのお話になりますことで、お筆がそこ/\に湯から上りましたがまだお内儀さんが来るようすがない、何か御用が出来てお手間が取れるのか、お迎いに行(ゆ)こうかと、手拭を小桶で絞って居ると、最前から板の間で身体を洗って居た婆さんは、年の頃六十四五で、頭の中央(まんなか)が皿のように禿げて居り、本郷町の桂庵(けいあん)のお虎と云うもので、 虎「ちょいと姉(ねえ)さん、待ってお呉れよ……おい姉さん」 筆「はい」 虎「お前ね、今此処(こゝ)に居る人は一人か二人しか居ないよ、小紋の紋付に紫繻子の帯を締めて良(い)い処(とこ)のお嬢さんのふりをして、大胆な女じゃアないか人の金入(かねいれ)を取りやアがって、あの巾着にゃア金は沢山(たんと)入ってやアしないよ、三両一歩入ってるの、此方(こっち)へ返えせ、此の前(めえ)も此方ア銘仙の半纒が失(なくな)ってらア、疾(と)うから眼を注(つ)けて居たんだ、近所で毎度顔を見て知ってるぞ、左の袂(たもと)に入ってるから出しなよ、何(なん)だ利いた風な阿魔女(あまっちょ)だ」 と口穢(くちぎた)なく罵(のゝし)るのを此方(こちら)は何を云われても只おど/\して居ると、お虎婆アは無闇に来てお筆の袂から巾着を引出して、 虎「それ見やアがれ此の通りだ、此の阿魔女め」 と小桶を取って投(ほう)り付けると小鬢(こびん)に中(あた)って血が出る。娘だけに他(はた)が大騒ぎで、 番「外へ立っちゃアいけません、板の間稼ぎでも何でもない物の間違でげす」 と云って居る所へ、人を掻分けて近江屋金兵衞が参り、 金「何だ/\」 番「是は大屋さん入らっしゃいまし、相手は帰りましたが、本郷町の桂庵婆(ばゞあ)のお虎てえいけない奴で」 金「何か取ったのか」 番「婆アが取ったんじゃア有りませんが、貴方の店子(たなこ)で、それ浪人で売卜(うらない)に出る人が有りましょう」 金「ア、ア」 番「あの綺麗な娘が有りますな」 金「ア、お筆さんと云うのだが、何(なん)だえ、何(ど)う云う間違いなんです」 番「婆アが云いますには嬢さんが巾着を取ったって、嬢様(さん)が着物を着て了(しま)い、手拭を絞ってる所へ婆アが板の間から飛んで来て嬢さんの袂へ手を入れると、辷(すべ)り込んだのでゞも有りますか巾着が出ましたお嬢様(さま)が他人(ひと)の物を取るようなお子様じゃア有りませんが」 金「なにー、篦棒めえ、貴様は何だ」 番「湯屋の番頭で」 金「何だって番をして居るのだよ」 番「番はして居ましたが、袂から巾着が出たので」 金「出たって他人(ひと)の物を取るようなお筆さんじゃアねえのに、そんな悪名(あくみょう)を付けられて堪(たま)るものか、己の店子に間違いが有っちゃア此の儘に捨置かれねえ、何処(どこ)までも詮議を為(し)なけりゃアならねえ、他(ほか)の事とは違う、婆アは何処に居る、姉さんは何処に居る」 番「お虎婆アは先刻(さっき)帰りましたが、何(なん)でも是は姉さんに恨(うらみ)が有って仕た事でしょう、姉さんは間が悪いとでも思ったか、裏口から駈け出した限(き)り行方が知れません」 金「夫(それ)は大変だ」 と汗をダク/\かいて宅(たく)へ帰って参り、 金「おい/\何故お前(めえ)お筆さんと一緒に湯に行(い)かねえんだ」 蓮「だって尾張町の夫婦が子供を連れて来て漸(ようや)く帰して仕舞うと又彌兵衞(やへえ)さんが来たのだもの」 金「今本郷町の桂庵婆アがお筆さんに泥棒をしたって悪名(あくみょう)を附けやアがった」 蓮「お前さん黙って居たかえ」 金「己は跡から行ったのだから様子が分らねえ」 蓮「お前さん何(なん)の為に行ったんだねえ」 金「知らずに行ったのよ、板の間だと云う騒ぎなんだがお前さえ附いて行(ゆ)けば其んな事ア有りアしねえんだ」 蓮「私は宅(うち)の片付け物をして居らアねお前さんこそブラ/\遊んでばかり居る癖に」 金「遊んでやアしない、己が今湯屋の前を通り掛ると人が立って居るから、何うしたんだてえと、浪人者の姉さんがなコレ/\てえから慌てゝ帰(けえ)って来た…おゝ清左衞門さんか、此方(こっち)へお這入り、大変な事が出来た」 清「へえー何う云うお間違いで」 金「今家内に小言を云ってる処ですが、お筆さんと湯へ行(ゆ)く約束をしてお筆さんが誘って下さると、丁度客が来て居たもんですから、お筆さん一人で柳原町(やなぎはらまち)の湯へ行くと、本郷町の桂庵の婆ア、意地の悪そうな奴で妾の周旋(しゅうせん)をしたり何(なに)かしていけない奴です、其奴(そいつ)がお筆さんに己の巾着を取ったって、板の間から直(すぐ)に上(あが)って来てお筆さんの袂へ手を突ッ込んでお筆さんの袂から巾着を引出すと、僅かな金でも……腹ア立(たっ)ちゃアいけない、取ったと云うのではない、是には何か理由(いりわけ)の有る事だろうと思うが、今帰って、家内(これ)へ厳(やかま)しく小言を申して居る処で、お筆さんを奥へ連れてってなだめて居る内に、お筆さんが居なくなったのだが、桂庵婆アに突合(つきあわ)して掛合えば何うでもなるが、何ういう理由(わけ)だか薩張(さっぱり)理由が分らねえ、恨を受けるような事は有りゃアしませんか、姉さんは他人(ひと)に憎まれるような事は有るまいと思うが何か有りませんか」 清「何処(どこ)へ参りました」 金「何処へ行ったか分りません、世間へ対して面目なくお前さんに叱られると思って何処(どっ)かへ行ったのでしょう」 清「はい私(わたくし)は斯(か)く零落を致して裏家(うらや)住いはして居っても人様の物を一厘一毛でも掠(かす)めるような根性は有りません、殊(こと)に御当家様から多分に此の春は戴き物をして何一つ不足なく餅も搗(つ)き明日(あす)は七草粥でも祝おうと存じて居ましたに、人様の物を取りますなんて」 金「取ったか取らないか未だ分らない、なにお筆さんが人の物を取る訳はないが、お前さん何か本郷町の桂庵の婆アに恨を受けるような覚えは有りませんか」 清「桂庵の婆ア、あの何(なん)ですか、色の黒い肥満(ふとり)ました…」 金「左様」 清「あの豊胖(でっぷり)肥満ました、頭の禿(はげ)た」 金「左様」 清「うゝむ、あの婆ア」 金「ほら何か有るに違(ちげ)えねえんだ」 清「昨年の十月頃から再度参り、お前の処の娘を他(わき)で欲しがる番頭とか旦那とか有るから世話を致そうと申しますが、私(てまえ)取合いませんでした、すると昨年の暮廿九日に又私(てまえ)方へ参りまして、三十金並べまして、お前さんはお堅いけれ共三十金は容易(たやす)い金じゃアない、殊に暮ゆえ百金にも向うじゃアないか、此の金(きん)を取ってお嬢さんを他家(わき)の妾にしなさればお前さんの為めになる、悪い事は勧めないと申しますから、私(わたくし)は立腹致して、不埓至極な婆(ばゞあ)だ、仮令(たとい)浪人しても武士だ、一人の娘を見苦しい目掛手掛に遣れるものか、何(なん)と心得て居る、そんな事を云わずにと申して又金を出しましたから、私(わたくし)は立腹の余り婆の胸倉を捕(と)って戸外(おもて)へ突出して、二度と再び参る事はならんと云って、唾(つばき)を横ッ面へ吐ッ掛けて遣(つか)わしました」 金「それだ、何しろ嬢さんの行(い)きそうな処は有りませんか」 清「左様、何処(どこ)と云って尋ねて参る処も有りませんが、小日向(こびなた)水道町に今井玄秀(いまいげんしゅう)と申す医者が有ります、其の娘と手習朋輩で前々(まえ/\)懇意に致した事が有りますが、手紙の贈答(やりとり)を致すと云う事を聴いて居ましたが夫(それ)へは多分参りますまいと思います」 金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」 清「中番町(なかばんちょう)で外村金右衞門(とのむらきんえもん)と云う是はその直参(じきさん)と申しても小普請(こぶしん)で居ります、母方の縁類と云う訳でも何(なん)でも有りませんが極(ごく)別懇に致しまして、両度程連れて行(ゆ)きましたが夫へは多分参りますまい」 金「だから何処か行きそうな処は有りませんか」 清「谷中(やなか)日暮(ひぐらし)に瑞応山(ずいおうざん)南泉寺(なんせんじ)と云う寺が有ります、夫に宮内健次郎(みやのうちけんじろう)と云う者が居ますが、夫へは多分参りますまい」 金「行かない処ばかり云っては困る」 清左衞門は唯おど/\して何処を探そうと云う目途(めあて)もなく心配致して居ります。翌朝(よくちょう)に成って、 金「清左衞門さん私(わし)の家(うち)へお出(いで)なさい、一緒に七草粥を祝おうじゃアないか」 と云うので是から諸方へ手分けをして迷子を捜し大川筋を尋ねさせましたが知れません、今七草粥を祝おうと箸を取って、喰(たべ)に掛ると表をバラバラ人が通り、 ○「何(ど)うした/\」 □「浪除杭(なみよけぐい)に打付(ぶっつ)かった溺死人(どざえもん)は娘の土左衛門で小紋の紋付を着て紫繻子の腹合せの帯を締めて居る、好(い)い女だが菰(こも)を船子(ふなこ)が掛けてやった」 △「行って見ろ/\」 金兵衞も清左衞門も之を聞くと等しく慌てゝ茶椀と箸を持(もっ)たなりで戸外(おもて)へ飛出したから見物人は驚きました。 ○「何を丼鉢(どんぶりばち)を振廻すのだ」 清「そ其の土左衛門は何処に居ります」 金「旦那土左衛門は何処に居ります」 ○「何を為(し)やアがるんだ、見ねえ、どうも気違(きちげ)えだ、人に飯を打掛(ぶっか)けて」 金「何(なん)と心得て居る、町役人(ちょうやくにん)だぞ、ど何処だ/\」 ○「土左衛門へは船子が菰を掛けてやって、ブッカリ/\彼方(あっち)へ流れて行きました」 と云われて両人は気脱(きぬけ)のした様になり箸と茶椀を持ったなりで帰って来て、 清「はあー娘は面目ないので身を投げたか」 金「いや昨夜(ゆうべ)飛込んだものが然(そ)う急に浮く訳のものじゃアない、似た人は世間に幾らも有る、お筆さんはよもや死んなさりゃアしまい、心配なさんな」 清左衞門は実に呆然(ぼんやり)して、娘は盗賊(どろぼう)の汚名を受けこれを恥かしいと心得て入水(じゅすい)致した上は最早世に楽(たのし)みはないと遺書(かきおき)を認(したゝ)め、家主(いえぬし)へ重ね/″\の礼状でございます、其の儘浪宅をさまよい出(い)で諸方を探したが知れん。不図(ふと)気附いたは高奈部(たかなべ)の家の姪(めい)は放蕩無頼の女で、十六位から浮気心が有って、只今は女郎に成って居ると云う事だが、折々先方から手紙が来て、私(わし)に知らさんように手紙の贈答(やりとり)をして居ったが、万一(ひょっと)したら行(い)き宜(い)いから左様な処へでも行きはしまいかと、是から吉原へ這入って彼処此処(あちこち)を探して歩行(ある)いたが分りません。店先を覗(のぞ)きながら段々来て、江戸町一丁目の辨天屋の前まで来ました。 娼「ちょいと喜助(きすけ)どん、あの格子先に立って居るお客さんに会いたいから、そら覗いて居る人だよ」 喜「えへゝ旦那/\」 清「はい」 喜「華魁(おいらん)が貴方にお目に掛りたいと仰しゃいますんで」 清「左様でございますか、何処(どれ)へ出ます」 喜「何うか籬(まがき)の方へお出(いで)を願います」 其の内華魁が上草履(うわぞうり)を穿(は)いて跡尻(あとじり)から廻って参りますのを見て。 清「お前さんかえ、すっかり忘れてしまった、極(ごく)年の行かん時分に会ったのだから」 娼妓はいきなり清左衞門の胸倉を固く捕(と)り、声を振立て、 娼「此の武家(さむらい)だよ、私の亭主に毒を飲まして殺した奴は」 清「何をする………」 其の中(うち)に若者(わかいもの)が多勢(おおぜい)にて清左衞門を取押えて大門(おおもん)の番所へ引く事に成りました。是れから直(すぐ)に町奉行所へ出て、依田豊前守のお調べに成りましたが、此の下河原(しもがわら)清左衞門は人違いか、全く彼(か)の毒を盛った武家(さむらい)か、是れは後篇に申し上げることにいたします。        三 えゝ引続きの依田政談で依田豊前守御勤役中には少しお六(むず)ケしい事があると吟味与力に任して置かず直々(じき/\)の御裁断がありまして、先(ま)ず重罪なるものは罪を軽(かろ)くいたすようなお情深いお奉行で余程お調べに仁恵(じんけい)がありました事でございます、其の中でも吉田監物(よしだけんもつ)の家の事に付いて豊前守様から曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)様へお引継になり、両奉行の誉(ほまれ)になったというお話でございます。宝暦の三年下河原清左衞門という浪人者が築地小田原町に裏家住いを致して居る中(うち)に、家主(いえぬし)金兵衞が、娘の孝心から誠に気の毒だというので、目を掛けましたから大きに親子の者も貧苦を免(まぬか)れ幸(さいわい)を得て喜んで居る甲斐もなく、翌年宝暦四年正月の六日年越しの晩に娘の行方が知れなくなったので、父の下河原清左衞門が娘を探しに吉原に懇意に致す婦人が遊女になって居ると云う話だから、相談をしようと云うので、事によったら娘が懇意に致した婦人があるから、其の遊女の所へ尋ねて往(ゆ)きはしないかと、吉原へ参って格子先を覗いて歩くと、辨天屋祐三郎(ゆうざぶろう)という江戸町一丁目の大籬(おおまがき)の次位大町(だいまち)小見世(こみせ)というべき店で、此の家(や)の紅梅という女が籬まで廻って呉れというので、娘が居た事と心得て籬へ廻ると、紅梅が下(おり)て来まして突然(だしぬけ)に清左衞門の胸倉を取って、私の亭主に毒酒を盛(もっ)た侍が通ったらば知らせて呉れ、と若い者にも頼んであるから、四五人の若い者が来て左右を取巻き会所へ連行(つれゆ)くというので、清左衞門は会所へ引かれて、是から田町(たまち)の番屋へ廻され、一通り調べがあって依田豐前守役宅の砂利の上に坐る様な事になったから、人という者は災難のあるもので、此の毒酒の事に就(つい)て依田様は余程心配をなすって居たと見えて、直(すぐ)に白洲へお呼出(よびいだ)しに相成り、辨天屋の遊女紅梅、祐三郎代(だい)かや、附添の者が皆出て居ります、清左衞門縄に掛って御町(おまち)奉行へ呼出される、依田様は八ツ時の御下城から直に御出席に相成りまして、じっと下河原清左衞門の顔を見て居りましたが、人は見掛けに依らんものと見えて柔和温順の人に悪人があったり、或(あるい)は人殺しでもしそうな強(こわ)い顔色(がんしょく)の者に却(かえ)って誠の善人がある、解らんものでございますから名御奉行は皆向うの云う事を聞きますに、心に蟠(わだかま)りがあると言葉に濁りがあるから、目を眠って裁判を致されたと申しますが、依田様も吟味中は目を眠って先の云う事を聞かれました。 豐「新吉原町江戸町一丁目辨天屋祐三郎抱え紅梅、祐三郎代かや附添の者罷(まか)り出(い)でたか」 かや「皆出でましてございます」 豐「うむ、紅梅何歳に相成る」 紅「はい二十七なんです」 豐「うむ、其の方昨年十一月三日亭主番人喜助に毒酒を盛ったる侍を取押えた由、是なる浪人清左衞門は其の方の夫喜助に毒を盛ったる者に相違ないか」 紅「はい、間違いやアしません、何も女郎になりたい事はありませんので、一生懸命に何(ど)うかして亭主の敵(かたき)が討ちたいと思って親類の止るのも聞かずに泥水の中に這入り、苦海(くがい)の中(うち)に居ても万一(ひょっと)して敵を尋ぬる手掛りにもなろうと思ったから、此んな処へ這入って居るので、察してお呉んなさいよ」 なんと云う。お奉行様は少しお考えで、 豐「夫(それ)に相違ないな」 かや「かやが申し上げますが、もう紅梅が勤めて居りまして皆(みんな)是々(これ/\)だと打明けて話しました、店の若い者や何かに皆(みんな)頼んでありますから、網を張って待って居た処へ、あの侍が来たというので一時(いちどき)に取押えましたから、まア容易(たやす)く縄に掛けて会所へ廻し、此の度(たび)御奉行様の御厄介に成りましたどうか何分宜しくお願い申します」 豊「うむ、浪人下河原清左衞門」 清「はゝア」 と残念そうな顔をしてずっと首を擡(あ)げました。 豐「其の方は何歳だ」 清「四十九歳に相成ります、へえ…」 豐「昨年十一月三日八ツ半時(どき)と申す事じゃが、番人喜助方へ参って小さい徳利(とくり)を持ち銘酒だと云って喜助に毒を飲ませたに相違あるまい、真直(まっすぐ)に白状致せ」 清「恐れながら手前毛頭覚えがございません、はい何故(なにゆえ)に毒を盛りましょうか、何等(なんら)の人違いか、頓と解りません、侍でござる、仮令(たとえ)浪人しても汚名は厭(いと)います事で、如何にも残念に心得まする、何故斯様(かよう)な事を申すか頓と相解りません、神に誓い決して人を毒殺いたすなどゝいうは毛頭覚えのない事、御推察下さるように」 豐「其の方何様(いかよう)に陳じても、是なる遊女紅梅は貞節なる心から致して夫(おっと)の敵が討ちたいばかりで遊女になり、其の侍を取押えて上(かみ)に厄介を掛けても亭主の仇(あだ)を討ちたいという精神から致して漸く尋ね当てた事である、迚(とて)も逃(のが)れる道はない、さア何方(いずかた)に於(おい)て毒薬調合致したか、それを申せ」 清「はい、どうも思い掛けない事で、毒薬調合などというは容易ならん事で、医者としては、仮令(たとい)君父(くんぷ)の命たりとも毒薬調合はせぬのが掟(おきて)、夫故(それゆえ)医者に相成る時は、其の師匠へ証文を差出(さしいだ)すと然(さ)る医に承りて承知致して居ります、何故(なにゆえ)に拙者が毒を盛りましょう、毛頭覚えない事、拙者に能く似た者が有って必ず人間違いでござろう、毛頭覚えはございません」 豐「亭主の敵を討ちたいという心掛の女が、毒を盛った者と他(た)の者と取り違えようか、如何に陳ずるとも迚も免(のが)れん処、其の方天命は心得て居(お)るだろうな」 清「存じて居ります、存じては居りますが、決して覚えはございません」 豊「上(かみ)を欺くな」 清「いえ欺きません、殺して置いて殺さんと云えば上を欺き、殺しませんものを殺したというも上を欺く事でございます、どのような強い責(せめ)に遭いましても覚えない事は白状いたされません、はい如何にも残念な事で、御推察下され」 とどうも言葉の様子に曇りもなく、毒を盛るような侍ではないなと云う事がお目に触れたから、 豊「然(しか)れば其の方は前々(ぜん/\)は何処(いずく)の藩中である、主名(しゅめい)を申せ」 清「主名は申されません、主家(しゅか)の恥辱(はじ)に相成る事、どのようなお尋ねがあっても主人の名前は申されません、仮令(たとい)身体が砕けましょうとも、骨が折れましても主名を明かしましては武士道が立たんから決して申し上げられません」 豐「其の方出生(しゅっしょう)は何処(いずく)だ」 清「天地の間でございます」 豐「黙れ、其の方奉行を嘲弄(ちょうろう)いたすな」 清「いえ/\、何(ど)ういたして、天下のお役人様、殊に御名奉行と承り承知致して居ります、甚(はなはだ)恐れ多い事で、決して嘲弄は致しませんが、主名を申すと主(しゅう)の恥辱(はじ)に相成るから申し上げられんと云うので、又々生れ処をお問がありましても是を申し上げればおのずから主名を明すような事で、故に天地の間と申し上げましたが、何はやお上を軽蔑いたすような申し分で重々恐れ入ります、だが何(ど)のように仰せられ肉がたゞれ骨を砕かれても決して申し上げられません、毛頭覚えはございません」 と更に恐るゝ気色(けしき)なきに御奉行も言い様がない。主名は明されん、武士道が立たんというに、 豐「吟味中入牢(じゅろう)申し付ける」 と此の下河原清左衞門が入牢を申し付けられたのは実に災難な事で、なれども斯ういう柔和の人が或(あるい)は毒を盛ったか解りません、是から何(いず)れも念に念を入れ、吟味与力も骨を折って調べたがいっかな云わん、誠に薄命の事で。是からお話が二つに分れまして、又娘のお筆は、どうも身に覚えのない濡衣(ぬれぎぬ)で袂(たもと)から巾着が出て板の間の悪名(あくみょう)を付けられたからは、お父(とっ)さんが物堅いから言訳を申しても立たない、誰(たれ)にも顔を合されないから寧(いっ)その事一と思いに死のうというので、湯屋の裏口から駈出して小日向に参りましたのは、祖父(じゞ)祖母(ばゞ)の葬ってある寺は小日向台町(だいまち)の清巌寺(せいがんじ)で有りますから参詣を致し、夫(それ)から又廻り道をして両国へ掛って深川霊岸(れいがん)の寺中(じちゅう)永久寺(えいきゅうじ)へ参り、母の墓所へ香華(こうげ)を手向(たむ)けて涙ながら、 筆「もしお母様(っかさん)、誠に私(わたくし)は不孝者でございます、お母(っか)さんには早くお別れ申して何一つ御恩も送らず小さい時から御養育をうけました大恩のある一人のお父(とっ)さんを捨(すて)て、先立つ不孝は済まぬ事ではございますが、どうもお父さんの前へ面目なくってお顔が合わせられませんから、お父さんに先立って今晩入水(じゅすい)致し相果てます、草葉の蔭にお在(いで)なさるお母様にお目に掛りまして不孝のお詫を致しますから、どうぞお免(ゆる)し下さい」 と生(いき)たる母にもの云う如く袖を絞って泣き伏して居ますのがやゝ暫くの間で、其の中(うち)に最(も)う日が暮れかゝりましたから霊岸を出て、深川の木場を廻り夜(よ)の更(ふけ)るを待(まっ)て永代橋(えいたいばし)へ掛りました。其の時空は少し雪模様になってひゅう/\と風が吹き往来(ゆきゝ)も止った様子、当今なれば巡査がポカアリ/\廻られて居るから飛込む事は出来ませんが、人通りのないのを幸(さいわい)欄干に手を掛けて、 ふで「南無阿弥陀仏/\」 と唱えながら覚悟を極めましてぽかり飛込みました。するとすーッと浮くもので、飛込むと丁度足が下へ着くとずっと浮く、夫(それ)から又沈んでまた浮く、其の中(うち)にがぶ/\水を飲んで苦しむので断末間(だんまつま)の苦(くるし)みをして死ぬのだと云う事で、沈着(おちつ)いた人は水へ落ちても死なぬと申します、彼(あれ)は慌(あわ)てると身体が竪(たて)[#「竪」は底本では「堅」]になるので沈みますので身体が横になると浮上るものです、心の静(しずか)な人は川へ落ちても、あー落ちたなと少しも騒がないで腕を組んで下迄すーっと沈むと又ずっと浮いて来る、処で水をかけば助かるというのですが、然(そ)う旨くは行(ゆ)かん者で、お筆は二度目にずッと浮上った処へ、永代の橋杭(はしぐい)の処へずッと港板(みよし)が出て何(なん)だか知りませんがそれと云って船頭が島田髷を取って引上げました。
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