名人長二
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著者名:三遊亭円朝 

 和「今日は最(も)う仕事は出来はすまい、ムヽ仕事と云えば私(わし)も一つ煙草盆を拵(こさ)えてもらいたいが、何ういうのが宜(え)いかな……これは前住(せんじゅう)が持って居ったのじゃが、暴(あろ)うしたと見えて此様(こない)に毀(こわ)れて役にたゝんが、落板(おとし)はまだ使える、此の落板に合わして好(え)い塩梅に拵えてもらいたいもんじゃ」
 と種々話をしかけますから長二は帰ることが出来ません、其の内に幸兵衛は参詣をしまい戻って来て、
 幸「毎月墓参(はかまいり)をいたしたいと思いますが、屋敷家業というものは体が自由になりませんので、つい不信心(ぶしん/″\)になります」
 和「お忙しいお勤めではなか/\寺詣りをなさるお暇はないて、暇のある人でも仏様からは催促が来(こ)んによって無沙汰勝になるもので」
 幸「まア左様いう塩梅で……二月(ふたつき)ばかり参詣をいたさんうちに御本堂が大層お立派になりました、彼(あ)の左の方にある経机は何方(どちら)からの御寄附でございますか、彼様(あん)な上作(じょうさく)は是まで見ません、余(よっ)ぽど良い職人が拵(こしら)えた物と見えます」
 和「あの机かな、あれは此処(こゝ)にござる此の方の御寄附じゃて」
 幸「へい左様(さよう)ですか……これは貴方(あなた)御免なさい……へい初めてお目にかゝります、私(わたくし)は幸兵衛と申す者で……只今承まわれば彼の経机を御寄附になったと申すことですが、あれは何処(どこ)の何(なん)と申す者へお誂(あつら)えになったものでございます」
 長「へい、あれは、ヘイ私(わっち)が拵(こせ)えたので、仕事の隙(すき)に剰木(あまりっき)で拵えたのですから思うように出来ていません」
 幸「へえーそれでは貴方は指物をなさるので」
 和「はて、これが指物師で名高い不器用イヽヤナニ長二さんという人さ」
 幸「フム、それでは予(かね)て風聞に聞いた名人の木具屋(きぐや)さん……へえー貴方が其の親方でございますか、慥(たし)か本所の〆切とかにお住いですな」
 長「左様です」
 幸「それでは柳島の私(わし)の別荘からは近い…就てはお目にかゝったのを幸い、差向(さしむ)き客火鉢を二十に煙草盆を五六対拵えてもらいたいのですが、尤(もっと)も桐でも桑でもかまいません、何時頃までに出来ますね」
 長「早くは出来ません、良く拵(こせ)えるのには木の十年も乾(から)した筋の良(い)いのを捜さなけれアいけませんから」
 幸「どうか願います、お近いから近日柳島の宅へ一度来てください、漸々(よう/\)此間(こないだ)普請(ふしん)が出来上ったばかりだから、種々誂えたいものがあります」
 長「へい、私(わっち)はどうも独身(ひとりもの)で忙(せわ)しないから、屹度上(あが)るというお約束は出来ません」
 幸「そういう事なら近日私(わし)がお宅へ出ましょう」
 長「どうか左様(そう)願います」
 と長二は斯様な人と応対をするのが嫌いでございますから、話の途切れたのを機(しお)に暇乞(いとまごい)をして帰りました。

        十二

 後(あと)で幸兵衛は和尚に、
 幸「伎倆(うで)の良(い)い職人というものは、お世辞も軽薄もないものだと聞いていましたが、成程彼の長二も其の質(たち)で、なか/\面白い人物のようです」
 和「職人じゃによって礼儀には疎(うと)いが、心がけの善(え)い人で、第一陰徳(いんとく)を施す事が好きで、此の頃は又仏のことに骨を折っているじゃて、余程妙な奇特(きどく)な人じゃによって、どうか贔屓にしてやってください」
 幸「左様(さよう)ですか、職人には珍らしい変り者でございますが、それには何か訳のある事でしょう」
 和「はい、お察しの通り訳のあることで、全体あの男は棄児でな、今に其の時の疵が背中に穴になって残って居(お)るげな」
 幸「へえー、それは何うした疵で、どういう訳でございますか」
 と幸兵衞が推(お)して尋ねますから、和尚は長二の身の上を委しく話したならば、不憫が増して一層贔屓にしてくれるであろうとの親切から、先刻長二に聞きました一伍一什(いちぶしじゅう)のことを話しますと、幸兵衛は大きに驚いた様子で、左様に不仕合な男なれば一層目をかけてやろうと申して立帰りました後(のち)は、度々(たび/\)長二の宅を尋ねて種々の品を注文いたし、多分の手間料を払いますので、長二は他の仕事を断って、兼松を相手に龜甲屋の仕事ばかりをしても手廻らぬほど忙(せわ)しい事でございました。其の年の四月から五月まで深川に成田の不動尊のお開帳があって、大層賑いました。其のお開帳へ参詣した帰りがけで、四月の廿八日の夕方龜甲屋幸兵衞は女房のお柳(りゅう)を連れ、供の男に折詰の料理を提(さ)げさせて、長二の宅へ立寄りました。
 幸「親方宅(うち)かえ」
 兼「こりゃアいらっしゃい……兄い……鳥越の旦那が」
 長「そうか、イヤこれは、まアお上(あが)んなさい、相変らず散かっています」
 幸「今日はお開帳へまいって、人込で逆上(のぼ)せたから平清(ひらせい)で支度をして、帰りがけだが、今夜は柳島へ泊るつもりで、近所を通る序(ついで)に、妻(これ)が親方に近付になりたいと云うから、お邪魔に寄ったのだ」
 長「そりゃア好(よ)く……まア此方(こっち)へお上んなさい」
 と六畳ばかりの奥の室(ま)の長火鉢の側へ寝蓆(ねござ)を敷いて夫婦を坐らせ、番茶を注(つ)いで出す長二の顔をお柳が見ておりましたが、何ういたしたのか俄に顔が蒼くなって、眼が逆(さか)づり、肩で息をする変な様子でありますから、長二も挨拶をせずに見ておりますと、まるで気違のように台所の方から座敷の隅々をきょろ/\見廻して、幸兵衛が何を云っても、只はいとかいゝえとか小声に答えるばかりで、其の内に又何か思い出しでもしたのか、襟の中へ顔を入れて深く物を案じるような塩梅で、紙入を出して薬を服(の)みますから、兼松が茶碗に水を注いで出すと、一口飲んで、
 柳「はい、もう宜しゅうございます」
 長「何(ど)っか御気分でも悪いのですか」
 幸「なに、人込へ出ると毎(いつ)でも血の道が発(おこ)って困るのさ」
 兼「矢張(やっぱり)逆上(のぼ)せるので、もっと水を上げましょうか」
 幸「もう治りました、早く帰って休んだ方が宜しい……これは親方生憎(あいにく)な事で、とんだ御厄介になりました、又其の内に出ましょう」
 とそこ/\に帰ってまいります。

        十三

 お柳の装(なり)は南部の藍の子持縞(こもちじま)の袷に黒の唐繻子(とうじゅす)の帯に、極微塵(ごくみじん)の小紋縮緬(こもんちりめん)の三紋(みつもん)の羽織を着て、水の滴(たれ)るような鼈甲(べっこう)の櫛(くし)笄(こうがい)をさして居ります。年は四十の上を余程越して、末枯(すが)れては見えますが、色ある花は匂(におい)失せずで、何処やらに水気があって、若い時は何様(どん)な美人であったかと思う程でございますが、来ると突然(いきなり)病気で一言(ひとこと)も物を云わずに帰って行く後影(うしろかげ)を兼松が見送りまして、
 兼「兄い……ちっと婆さんだが好(い)い女だなア」
 長「そうだ、装(なり)も立派だのう」
 兼「だが、旨味の無(ね)え顔だ、笑いもしねいでの」
 長「塩梅(あんべえ)がわるかったのだから仕方がねえ」
 兼「左様(そう)だろうけれども、一体が桐の糸柾(いとまさ)という顔立だ、綺麗ばかりで面白味が無(ね)え、旦那の方は立派で気が利いてるから、桑の白質(しらた)まじりというのだ」
 長「巧(うま)く見立てたなア」
 兼「兄いも己が見立てた」
 長「何(なん)と」
 兼「兄いは杉の粗理(あらまさ)だなア」
 長「何故」
 兼「何故って厭味なしでさっぱりしていて、長く付合うほど好(よ)くなるからさ」
 長「そんなら兼、手前(てめえ)は檜の生節(いきぶし)かな」
 兼「有難(ありがて)え、幅があって匂いが好(い)いというのか」
 長「いゝや、時々ポンと抜けることがあるというのよ」
 兼「人を馬鹿にするなア、毎(いつ)でもしめえにア其様(そん)な事だ、おやア折(おり)を置いて行ったぜ、平清のお土産とは気が利いてる、一杯(いっぺい)飲めるぜ」
 長「馬鹿アいうなよ、忘れて行ったのなら届けなけりゃアわりいよ」
 兼「なに忘れてッたのじゃア無(ね)え、コウ見ねえ、魚肉(なまぐさ)の入(へえ)ってる折にわざ/\熨斗(のし)が挿(はさ)んであるから、進上というのに違いねえ、独身もので不自由というところを察して持って来たんだ、行届いた旦那だ………何が入(へえ)ってるか」
 長「コウよしねえ、取りに来ると困るからよ」
 兼「心配(しんぺい)しなさんな、そんな吝(けち)な旦那じゃア無(ね)え、もしか取りに来たら己が喰っちまったというから兄いも喰いねえ、一合買って来るから」
 と、兼松は是より酒を買って来て、折詰の料理を下物(さかな)に満腹して寝てしまいました。其の翌朝(よくあさ)長二は何か相談事があって大徳院前の清兵衛親方のところへ参りました後(あと)で兼松が台所を片付けながら、空の折を見て、長二の云う通り忘れて行ったので、柳島から取りに来はしまいかと少し気になるところへ、毎度使いに来る龜甲屋の手代が表口から、
 手代「はい御免なさい、柳島からまいりました」
 と聞いて兼松はぎょっとしました。

        十四

 兼松は遁(に)げる訳にも参りませんから、まご/\しながら、
 兼「えい何か御用で」
 手「はい、御新造(ごしんぞ)様が此のお手紙をお見せ申して、昨日(きのう)忘れた物を取って来てくれろと仰しゃいました」
 兼「へえー忘れた物を、へえー」
 手「それに此の品を上げて来いと仰しゃいました」
 と手紙と包物(つゝみもの)を出しましたが、兼松は蒼くなって、遠くの方から、
 兼「何(なん)だか分りやせんが、生憎兄(あにき)えゝ長二が留守ですから、手紙も皆(みん)な置いてっておくんなせえ」
 手「いゝえ、是非手紙をお目にかけろと申付けられましたから、お前さん開けて見ておくんなさい」
 兼「だって私(わっち)にはむずかしい手紙は読めねえからね」
 手「御新造様のは毎(いつ)でも仮名ばかりですが」
 兼「そうかね」
 と怖々手紙を開(ひら)いて、
 兼「えゝと何(なん)だナ……鳥渡申上々(とりなべちゅうじょう/″\)……はてな鳥なべになりそうな種はなかったが、えゝと……昨日(さくひ)はよき折……さア困った、もしお使い、実はね鉋屑(かんなくず)の中にあったからお土産だと思ってね、お手紙の通り好(い)い折でしたが、つい喰ったので」
 手「へえー左様(さよう)でございますか、私(わたくし)は火鉢の側のように承わりましたが」
 兼「何処でも同じ事だが、それから何だ、えゝ……よき折から……空になった事を知ってるのか知らん、御(おん)めもし致(いたし)…何という字だろう…御うれしく……はてな、御めしがうれしいとは何ういう訳だろう、それから…そんじ上(じょう)…※[#「まいらせそろ」の草書体文字、42-3]…サア此の瘻(せむし)のような字は何とか云ったッけねえお前(めえ)さん、此の字は何と云いましたッけ」
 手「へい、どれでございます、へい、それはまいらせそろという字で」
 兼「そう/\、まいらせそろだ、それにしても何が損じたのか訳が分らねえが、えゝと……その折は、また折の事だ喰わなければよかった……持(もち)びょうおこり……おごりには違(ちげ)えねいが、持(もち)びょうとは何の事だか…あつく御(おん)せわに…相成り…御きもじさまにそんじ※[#「まいらせそろ」の草書体文字、42-8]……又損じて瘻のような字がいるぜ、相摸(さがみ)の相(さが)という字に楠正成(くすのきまさしげ)の成(しげ)という字だが、相成(さがしげ)じゃア分らねえし、又きもじさまとア誰の名だか、それから、えゝと……あしからかす/\御(おん)かんにん被下度候……何だか読めねえ」
 手「お早く願います」
 兼「左様(そう)急(せ)いちゃア尚分らなくならア、此のからす/\かんざえもんとア此間(こねえだ)御新造が来た夕方の事でしょう」
 手「そんな事が書いてございますか」
 兼「あるから御覧なせえ、それ」
 手「こりゃアあしからず/\御(ご)かんにんくだされたくそろでございます」
 兼「フム、お前(めえ)さんの方がなか/\旨(うめ)い物(もん)だ、其の先にむずかしい字が沢山(たんと)書いてあるが、お前さん読んでごらんなせい」
 手「こゝでございますか」
 兼「何でも其の見当だッた」
 手「こゝは……其の節置わすれ候(そろ)懐中物此のものへ御(おん)渡し被下度候(くだされたくそろ)、此の品粗まつなれどさし上候(あげそろ)先(まず)は用事のみあら/\※[#「かしく」の草書体文字、43-2]」
 兼「旨(うめ)い其の通りだ、その結尾(しまい)にある釣鉤(つりばり)のような字は何とか云ったね」
 手「かしくと読むのでございます」
 兼「ウムそうだ、分った事ア分ったが、兄いがいねえから、帰って其の訳を御新造に云っておくんなせい」
 と申しますので、手代も困って帰りました。其の後(あと)へ長二が戻って来ましたから、兼松が心配しながら手紙を見せると、
 長「昨日(きのう)御新造が薬を出したまんま紙入を忘れて行ったのを、今朝見(め)っけたから取りに来ないうちにと思って、親方の所へ行った帰(けえ)りがけに柳島へ廻って届けに行ったら、先刻(さっき)取りにやったと云ったが、また此様(こん)な土産物をよこしたのか、気の毒な、何だ橋本の料理か、兼又一杯(いっぺい)飲めるぜ」
 兼「ありがてえ、毎日(めえにち)斯ういう塩梅(あんべえ)に貰(もれ)え物があると世話が無(ね)えが、昨日のは喰いながらも心配だッた」
 長「何も其様(そん)な思いをして喰うにア及ばない、全体(ぜんてい)手前(てめえ)は意地がきたねえ、衣食住と云ってな着物と食物(くいもの)と家(うち)の三つア身分相応というものがあると、天竜院の方丈様が云った、職人ふぜいで毎日(めえにち)店屋(てんや)の料理なんぞを喰っちア罰(ばち)があたるア、貰った物にしろ毎日こんな物を喰っちア口が驕(おご)って来て、まずい物が喰えなくなるから、実ア有がた迷惑だ、職人でも芸人でも金持に贔屓にされるア宜(い)いが、見よう見真似で万事贅沢になって、気位(きぐらい)まで金持を気取って、他の者を見くびるようになるから、己(おら)ア金持と交際(つきあ)うことア大嫌(でえきれ)えだ、龜甲屋の旦那が来い/\というが、今まで一度も行かなかったが、忘れて行ったものを黙って置いちゃア気が済まねえから、持って云って投(ほう)り込んで来たが、柳島の宅(うち)ア素的(すてき)に立派なもんだ、屋敷稼業というものア、泥坊のような商売(しょうべえ)と見える、そんな人のくれたものア喰っても旨くねえ、手前(てめえ)喰うなら皆(みん)な喰いねえ、己ア天麩羅でも買って喰うから」
 と雇いの婆さんに天麩羅を買わせて茶漬を喰いますから、兼松も快よく其の料理を喰うことは出来ません。婆さんと二人で少しばかり喰って、残りを近所に住んでいる貧乏な病人に施すという塩梅で、万事並の職人とは心立(こゝろだて)が異(ちが)って居ります。

        十五

 長二は母の年回(ねんかい)の法事に、天竜院で龜甲屋幸兵衛に面会してから、格外の贔屓を受けていろ/\注文物があって、多分の手間料を貰いますから、活計向(くらしむき)も豊になりましたので、予(かね)ての心願どおり、思うまゝに貧窮人に施す事が出来るようになりましたのは、全く両親が草葉の蔭から助けてくれるのであろうと、益々両親の菩提[#「菩提」は底本では「菩堤」と誤記]《ぼだい》を弔うにつきましては、愈々(いよ/\)実(まこと)の両親の無慈悲を恨み、寐ても覚めても養い親の大恩と、実の親の不実を思わぬ時はございません。さて其の夏も過ぎ秋も末になりまして、龜甲屋から柳島の別荘の新座敷の地袋に合わして、唐木(からき)の書棚を拵えてくれとの注文がありました。前にも申しました通り、長二はお柳が置忘れた紙入を届けに行ったきり、是まで一度も龜甲屋へ参った事はございませんが、今度の注文物は其の地袋の摸様(もよう)を見なければ寸法其の外の工合(ぐあい)が分りませんので、余儀なく九月廿八日に自身で柳島へ出かけますと、折よく幸兵衞が来ておりまして、お柳と共に大喜びで、長二を座敷へ通しました。長二は地袋の摸様を見て直(すぐ)に帰るつもりでしたが、夫婦が種々(いろ/\)の話を仕かけますので、迷惑ながら尻を落付けて挨拶をして居るうちに、橋本の料理が出ました。
 幸「親方……何にもないが、初めてだから一杯やっておくれ」
 長「こりゃアお気の毒さまな、私(わたくし)ア酒は嫌いですから」
 柳「そうでもあろうが、私がお酌をするから」
 長「へい/\これは誠にどうも」
 幸「酒は嫌いだというから無理に侑(すゝ)めなさんな、親方肴でもたべておくれ」
 長「へい、こんな結構な物ア喰った事アございませんから」
 幸「だッて親方のような伎倆(うでまえ)で、親方のように稼いでは随分儲かるだろうから、旨い物には飽きて居なさろう」
 長「どう致しまして、儲かるわけにはいきません、皆(みん)な手間のかゝる仕事ですから、高い手間を戴きましても、一日(いちんち)に割ってみると何程にもなりやしませんから、なか/\旨い物なんぞ喰う事ア出来ません」
 幸「左様(そう)じゃアあるまい、人の噂に親方は貧乏人に施しをするのが好きだという事だから、それで銭が持てないのだろう、何ういう心願かア知らないが、若いにしちア感心だ」
 長「人は何(なん)てえか知りませんが、施しといやア大業(おおぎょう)です、私(わたくし)ア少(ちい)さい時分貧乏でしたから、貧乏人を見ると昔を思い出して、気の毒になるので、持合せの銭をやった事がございますから、そんな事を云うんでしょう」
 柳「長さん、お前少(ちい)さい時貧乏だッたとお云いだが、お父(とっ)さんやお母(っか)さんは何商売だったね」
 長「元は田舎の百姓で私(わたくし)の少さい時江戸(こっち)へ出て来て、荒物屋を始めると火事で焼けて、間もなく親父が死んだものですから、母親(おふくろ)が貧乏の中で私を育ったので、三度の飯さえ碌に喰わない程でしたから、子供心に早く母親の手助けを仕ようと思って、十歳(とお)の時清兵衛親方の弟子になったのですが、母親も私が十七の時死んでしまったのです」
 と涙ぐんで話しますから、幸兵衛夫婦も其の孝心の厚いのに感じた様子で、
 柳「お前さんのような心がけの良い方が、何うしてまア其様(そんな)に不仕合(ふしあわせ)だろう、お母さんをもう少し生かして置きたかったねえ」
 長「へい、もう五年生きていてくれると、育ってくれた恩返(おんげえ)しも出来たんですが、まゝにならないもんです」
 と鼻をすゝって握拳(にぎりこぶし)で涙を拭きます心を察してか、お柳も涙ぐみまして、
 柳「お察し申します、お前さんのように親思いではお父さんやお母さんに早く別れて、孝行の出来なかったのはさぞ残念でございましょう」
 長「へい左様(そう)です、世間で生(うみ)の親より養い親の恩は重いと云いますから、猶残念です」
 柳「へえー、そんならお前さんの親御は本当の親御さんではないの」
 と問われたので、長二はとんだ事を云ったと気がつきましたが、今さら取返しがつきませんから。
 長「へい左様(さよう)……私(わたくし)の親は……へい本当の親ではごぜいません、私を助けて、いゝえ私を養ってくれた親でございます」
 幸「はて、それでは親方は養子に貰われて来たので、本当の親御達はまだ達者かね」
 長「其様(そん)な訳じゃアございませんから」
 幸「そんなら里っ子ながれとでもいうのかね」
 長「いゝえ、左様(そう)でもございません」
 幸「どうしたのか訳が分らない」
 長「へい、此の事は是まで他(ひと)に云った事アございませんから、どうもヘイ私(わたくし)の恥ですから誠に」
 柳「親方何だね、お前さんの心掛が宜(い)いというので、旦那が此様(こんな)に可愛がって、お前さんの為になるように心配してくださるのだから、話したって宜いじゃアないかね」
 幸「どんな事か知らないが、次第によっちゃア及ばずながら力にもなろうから、話して聞かしなさい、決して他言はしないから」
 長「へい、そう御親切に仰しゃってくださるならお話をいたしましょうが、何卒(どうぞ)内々(ない/\)に願います………実ア私(わたくし)ア棄児です」
 柳「お前さんがエ」
 長「へい、私(わたくし)の実の親ほど」
 と云いかけて実親(じつおや)の無慈悲を思うも臓腑(はらわた)が沸(にえ)かえるほど忌々(いま/\)しく恨めしいので、唇が痙攣(ひきつ)り、烟管(きせる)を持った手がぶる/″\顫(ふる)えますから、お柳は心配気に長二の顔を見詰めました。
 柳「本当の親御達が何うしたのだえ」
 長「へい私(わたくし)の実の親達ほど酷(むご)い奴は凡(およ)そ世界にございますめえ」
 とさも口惜(くやし)そうに申しますと、お柳は胸の辺(あたり)でひどく動悸(どうき)でもいたすような慄(ふる)え声で、
 柳「何故だえ」
 長「何故どころの事(こっ)ちゃアございません、私(わたくし)の生れた年ですから二十九年前(めえ)の事です、私を温泉のある相州の湯河原の山ん中へ打棄(うっちゃ)ったんです、只打棄るのア世間に幾許(いくら)もございやすが、猫の死んだんでも打棄るように藪ん中へおッ投込(ぽりこ)んだんと見えて、竹の切株が私(わっち)の背中へずぶり突通(つッとお)ったんです、それを長左衛門という村の者が拾い上げて、温泉で療治をしてくれたんで、漸々(よう/\)助かったのですが、其の時の傷ア……失礼だが御覧なせい、こん通りポカンと穴になってます」
 と片肌を脱いで見せると、幸兵衞夫婦は左右から長二の背中を覘(のぞ)いて、互に顔を見合せると、お柳は忽(たちま)ち真蒼(まっさお)になって、苦しそうに両手を帯の間へ挿入(さしい)れ、鳩尾(むなさき)を強く圧(お)す様子でありましたが、圧(おさ)えきれぬか、アーといいながら其の場へ倒れたまゝ、悶え苦(くるし)みますので、長二はお柳が先刻(さっき)からの様子と云い、今の有様を見て、さては此の女が己を生んだ実の母に相違あるまいと思いました。

        十六

 其の時の男というは此の幸兵衛か、但(たゞ)しは幸兵衛は正しい旦那で、奸夫(かんぷ)は他の者であったか、其の辺の疑いもありますから、篤(とく)と探索した上で仕様があると思いかえして、何気なく肌を入れまして、
 長「こりゃとんだ詰らないお話をいたしまして、まことに失礼を……急ぎの仕事もございますからお暇(いとま)にいたします」
 幸「まア宜(い)いじゃアないか、種々(いろ/\)聞きたい事もあるから、今夜泊ってはどうだえ」
 長「へい、有難うございますが、兼松が一人で待ってますから」
 柳「親方御免よ、生憎また持病が発(おこ)って」
 長「お大事(でえじ)になさいまし……左様なら」
 と急いで宅へ帰りましたが、考えれば考えるほど、幸兵衛夫婦が実の親のようでありますから、それから段々二人の素性を探索いたしますと、お柳は根岸辺に住居していた物持某(なにがし)の妻(さい)で、某が病死したについて有金(ありがね)を高利に貸付け、嬬暮(やもめぐら)しで幸兵衛を手代に使っているうち、何時か夫婦となり、四五年前に浅草鳥越へ引移って来たとも云い、又先(せん)の亭主の存生中(ぞんしょうちゅう)から幸兵衞と密通していたので、亭主が死んだのを幸い夫婦になったのだとも云って、判然(はっきり)はしませんが、谷中の天竜院の和尚の話に、何故(なにゆえ)か幸兵衞が度々(たび/″\)来て、長二の身の上は勿論両親(ふたおや)の素性などを根強く尋ねるというので、彼是を思い合すと、幸兵衛夫婦は全く親には違いないが、無慈悲の廉(かど)があるので、面目なくって今さら名告(なの)ることも出来ないから、贔屓というを名にして仕事を云付け、屡々(しば/″\)往来(ゆきゝ)して親しく出入(でいり)をさせようとしたが、此方(こっち)で親しまないので余計な手間料を払ったり、不要な道具を注文したりして恩を被(き)せ、余所(よそ)ながら昔の罪を償おうとの了簡であるに相違ないが、前非(ぜんぴ)を後悔したなら有体(ありてい)に打明けて、親子の名告(なのり)をすればまだしも殊勝だのに、そうはしないで、現在実子と知りながら旧悪を隠して、人を懐(なず)けようとする心底は面白くないから、今度来たなら此方から名告りかけて白状させてやろうと待もうけて居(お)るとは知らず、幸兵衛は女房お柳と何(いず)れかへ遊山にまいった帰りがけと見えて、供も連れず、十一月九日の夕方長二の宅(うち)へ立寄りました。丁度兼松は深川六間堀に居(お)る伯母の病気見舞に行き、雇婆さんは自分の用達(ようたし)に出て居りませんから、長二は幸兵衛夫婦を表に立たせて置いて、其の辺に取散してあるものを片付け、急いで行灯(あんどう)を点(とも)して夫婦を通しました。
 幸「夕方だが、丁度前を通るから尋ねたのだ、もう構いなさんな」
 長「へい、誠にお久しぶりで、なに今皆(みん)な他へまいって一人ですから、誠にどうも」
 と番茶を注(つ)いで出しながら、
 長「いつぞやは種々御馳走を戴きまして、それから此来(こっち)体が悪(わり)いので、碌に仕事をいたしませんから、棚も木取(きど)ったばかりで未だ掛りません」
 幸「今日は其の催促じゃアないよ、彼(あ)の時ぎりでお目にかゝらないから、妻(これ)が心配して」
 とお柳の顔を見ると、お柳は長二の顔を見まして、
 柳「いつぞやは生憎持病が発(おこ)って失礼をしましたから、今日はそのお詫かた/″\」
 長「それは誠にどうも」
 と挨拶をしながら立って、戸棚の中を引掻きまわして、漸々(よう/\)菓子皿を探して、有合せの最中を五つばかり盛って出し、
 長「生憎兼松も婆さんも留守で、誠にどうも」
 柳「お一人ではさぞ御不自由でしょう」
 長「へい、別に不自由とも思いませんが、此様(こん)な時何が何処に蔵(しま)って在(あ)るか分りませんので」
 柳「左様(そう)でしょう、それに病み煩いの時などは内儀(おかみ)さんがないと困りますから、早くお貰いなすっては何うです、ねえ旦那」
 幸「左様(そう)だ、失礼な云分(いいぶん)だが、鰥夫(おとこやもめ)に何(なん)とやらで万事所帯に損があるから、好(い)いのを見付けて持ちなさい」
 長「だって私(わっち)のような貧乏人の処(とけ)えは来人(きて)がございません、来てくれるような奴は碌なのではございませんから」
 柳「なアに左様したもんじゃアない、縁というものは不思議なもんですよ、恥を云わないと分りませんが、私は若い時伯母に勧められて或所へ嫁に行って、さん/″\苦労をしたが、縁のないのが私の幸福(しあわせ)で、今は斯ういう安楽な身の上になって、何一つ不足はないが子供の無いのが玉に瑕(きず)とでも申しましょうか、順当なら長さん、お前さんぐらいの子があっても宜(い)いんですが、子の出来ないのは何かの罰(ばち)でしょうよ、いくらお金があっても子の無いほど心細いことはありませんから、長さん、お前さんも早く内儀さんを貰って早く子をお拵えなさい……お前さん貧乏だから嫁に来人がないとお云いだが、お金は何うにでもなりますから早くお貰いなさい、まだ宅(うち)の道具を種々拵(こさ)えてもらわなければなりませんから、お金は私が御用達(ごようだ)てます」
 と云いながら膝の側に置いてある袱紗包(ふくさづゝみ)の中から、其の頃新吹(しんふき)の二分金の二十五両包を二つ取出し、菓子盆に載せ、折熨斗(おりのし)を添えて、
 柳「これは少いが、内儀さんを貰うにはもう些(ちっ)と広い好(い)い家(うち)へ引越さなけりゃアいけないから、納(と)ってお置きなさい、内儀さんが決ったなら、又要るだけ上げますから」
 と長二の前へ差出しました。長二は疾(と)くに幸兵衞夫婦を実の親と見抜いて居りますところへ、最前からの様子といい、段々の口上は尋常(ひとゝおり)の贔屓でいうのではなく、殊に格外の大金に熨斗を付けてくれるというは、己を確かに実子と認めたからの事に相違ないに、飽までも打明けて名告らぬ了簡が恨めしいと、むか/\と腹が立ちましたから、金の包を向うへ反飛(はねと)ばして容(かたち)を改め、両手を膝へ突きお柳の顔をじっと見詰めました。

        十七

 長「何です此様(こん)な物を……あなたはお母(っか)さんでしょう」
 と云われてお柳はあっと驚き、忽ちに色蒼ざめてぶる/\顫(ふる)えながら、逡巡(あとじさり)して幸兵衛の背後(うしろ)へ身を潜めようとする。幸兵衛も血相を変え、少し声を角立てまして、
 幸「何だと長二……手前何をいうのだ、失礼も事によるア、気でも違ったか、馬鹿々々しい」
 長「いゝえ決して気は違(ちげ)えません……成程隠しているのに私(わっち)が斯う云っちア失礼かア知りませんが、棄子の廉(かど)があるから何時まで経っても云わないのでしょう、打明けたッて私が親の悪事を誰に云いましょう、隠さず名告っておくんなせえ」
 と眼を見張って居ります。幸兵衞は返答に困りまして、うろ/\するうち、お柳は表の細工場(さいくば)の方へ遁(に)げて行きますから、長二が立って行って、
 長「お母さん、まアお待ちなせえ」
 と引戻すを幸兵衛が支えて、
 幸「長二……手前何をするのだ、失礼千万な、何を証拠に其様(そん)なことをいうのだ、ハヽア分った、手前(てめえ)は己が贔屓にするに附込んで、言いがゝりをいうのだな、お邸方(やしきがた)の御用達(ごようたし)をする龜甲屋幸兵衞だ、失礼なことをいうと召連訴(めしつれうった)えをするぞ」
 柳「あれまア大きな声をおしでないよ、人が聞くと悪いから」
 幸「誰が聞いたッて構うものか、太い奴だ」
 長「何で私(わっち)が言いがゝりなんぞを致しましょう、本当の親だと明しておくんなさりゃアそれで宜(い)いんです、それを縁に金を貰おうの、お前(めえ)さんの家(うち)に厄介(やっけい)になろうのとは申しません、私は是まで通り指物屋でお出入を致しますから、只親だと一言(ひとこと)云っておくんなせえ」
 と袂に縋(すが)るを振払い、
 幸「何をするんだ、放さねえと家主(いえぬし)へ届けるが宜いか」
 と云われて長二が少し怯(ひる)むを、得たりと、お柳を表へ連れ出そうとするを、長二が引留めようと前へ進む胸の辺(あたり)を右の手で力にまかせ突倒して、
 幸「さア疾(はや)く」
 とお柳の手を引き、見返りもせず柳島の方(かた)へ急いでまいります。後影(うしろかげ)を起上りながら、長二が恨めしそうに見送って居りましたが、思わず跣足(はだし)で表へ駈出し、十間ばかり追掛(おっか)けて立止り、向うを見詰めて、何か考えながら後歩(あとじさり)して元の上(あが)り口(はな)に戻り、ドッサリ腰をかけて溜息を吐(つ)き、
 長「ハアー廿九年前(めえ)に己を藪ん中(なけ)え棄てた無慈悲な親だが、会って見ると懐かしいから、名告ってもれえてえと思ったに、まだ邪慳を通して、人の事を気違だの騙(かた)りだのと云って明かしてくれねえのは何処までも己を棄てる了簡か、それとも己の思違いで本当の親じゃア無(ね)いのか知らん、いゝや左様(そう)で無(ね)え、本当の親で無くって彼様(あん)なことをいう筈は無(ね)い、それに五十両という金を……おゝ左様だ、彼(あ)の金は何うしたか」
 と内に這入って見ると、行灯(あんどう)の側に最前の金包がありますから、
 長「やア置いて行った…此の金を貰っちゃア済まねえ、チョッ忌々(いま/\)しい奴だ」
 と独言(ひとりごと)を云いながら金包を手拭に包(くる)んで腹掛のどんぶりに押込み、腕組をして、女と一緒だからまだ其様(そんな)に遠くは行くまい、田圃径(たんぼみち)から請地(うけち)の堤伝(どてづた)いに先へ出越せば逢えるだろう、柳島まで行くには及ばねえと点頭(うなず)きながら、尻をはしょって麻裏草履を突(つっ)かけ、幸兵衞夫婦の跡を追って押上(おしあげ)の方(かた)へ駈出しました。此方(こちら)は幸兵衞夫婦丁度霜月九日の晩で、宵から陰(くも)る雪催しに、正北風(またらい)の強い請地の堤(どて)を、男は山岡頭巾をかぶり、女はお高祖頭巾(こそずきん)に顔を包んで柳島へ帰る途中、左右を見返り、小声で、
 幸「此方(こっち)の事を知らせずとも、余所ながら彼(あれ)を取立てゝやる思案もあるから、決して気(け)ぶりにも出すまいぞと、あれ程云って置いたに、余計なことを云うばかりか、己にも云わずに彼様(あん)な金を遣ったから覚(さと)られたのだ、困るじゃアねえか」
 柳「だッてお前さん、現在我子と知れたのに打棄(うっちゃ)って置くことは出来ませんから、名告らないまでも彼を棄てた罪滅(つみほろぼ)しに、彼(あ)のくらいの事はしてやらなければ今日様(こんにちさま)へ済みません」
 幸「エヽまだ其様(そん)なことを云ってるか、過去(すぎさ)った昔の事は仕方がねえ」
 柳「まだお前さんは彼を先(せん)の旦那の子だと思って邪慳になさるのでございますね」
 幸「馬鹿を云え、そう思うくらいなら彼様(あんな)に目をかけてやりはしない」
 柳「だッて先刻(さっき)なんぞア酷(ひど)く突倒したじゃアありませんか」
 幸「それでも今彼に本当のことを知られちゃア、それから種々(いろん)な面倒が起るかも知れないから、何処までも他人で居て、子のようにしようと思うからの事だ……おゝ寒い、斯様(こん)な所で云合ったッて仕方がない、速く帰って緩(ゆっ)くり相談をしよう、さア行こう」
 と、お柳の手を取って歩き出そうと致しまする路傍(みちばた)の枯蘆(かれあし)をガサ/\ッと掻分けて、幸兵衞夫婦の前へ一人の男が突立(つッた)ちました。是は申さないでも長二ということ、お察しでございましょう。

        十八

 請地の土手伝いに柳島へ帰ろうという途中、往来(ゆきゝ)も途絶えて物淋しい所へ、大の男がいきなりヌッとあらわれましたので、幸兵衞はぎょっとして遁(に)げようと思いましたが、女を連れて居りますから、度胸を据えてお柳を擁(かば)いながら、二足(ふたあし)三足(みあし)後退(あとじさり)して、
 幸「誰だ、何をするんだ」
 長「誰でもございません長二です」
 幸「ムヽ長二だ……長二、手前何(なん)しに来たんだ」
 長「何しに来たとはお情(なさけ)ねえ……私(わっち)は九月の廿八日、背中の傷を見せた時、棄てられたお母(っか)さんだと察したが、奉公人の前(めえ)があるから黙って帰(けえ)って、三月越(みつきご)しお前(めえ)さん方の身上(みじょう)を聞糺(きゝたゞ)して、確(たしか)に相違無(ね)えと思うところへ、お二人で尋ねて来てくだすったのは、親子の名告(なのり)をしてくんなさるのかと思ったら、そうで無えから我慢が出来ず、私の方から云出したのが気に触ったのか、但しは無慈悲を通す気か、気違だの騙りだのと人に悪名(あくみょう)を付けて帰(けえ)って行くような酷(むご)い親達から、金なんぞ貰う因縁が無えから、先刻(さっき)の五十両を返(けえ)そうと捷径(ちかみち)をして此処(こゝ)に待受け、おもわず聞いた今の話、もう隠す事ア出来ねえだろう、お母さん、何うかお前(めえ)さんに云い難(にく)い事があるかア知りませんが、決して他(ひと)には云わねえから、お前(めえ)を産んだお母(ふくろ)だといってくだせい……お願いです……また旦那は私の本当のお父(とっ)さんか、それとも義理のお父さんか聞かしてくだせい」
 と段々幸兵衞の傍(そば)へ進んで、袂に縋る手先を幸兵衛は振払いまして、
 幸「何をしやアがる気違奴(め)……去年谷中の菩提所で初めて会った指物屋、仕事が上手で心がけが奇特(きどく)だというので贔屓にして、仕事をさせ、過分な手間料を払ってやれば附けあがり、途方もねえ言いがゝりをして金にする了簡だな、其様(そん)な事に悸(びく)ともする幸兵衞じゃア無(ね)えぞ……えゝ何をするんだ、放せ、袂が切(きれ)るア、放さねえと打擲(ぶんなぐ)るぞ」
 と拳を振上げました。
 長「打(ぶ)つなら打ちなせえ、お前(めえ)さんは本当の親じゃアねえか知らねえが、お母(っか)さんは本当のお母さんだ……お母さん、何故私(わっち)を湯河原へ棄てたんです」
 とお柳の傍へ進もうとするを、幸兵衛が遮(さえぎ)りながら、
 幸「何をしやアがる」
 と云いさま拳固で長二の横面(よこつら)を殴りつけました。そうでなくッても憎い奴だと思ってる所でございますから、長二は赫(かっ)と怒(いか)りまして、打った幸兵衛の手を引(ひ)とらえまして、
 長「打(ぶ)ちゃアがったな」
 幸「打たなくッて泥坊め」
 長「何だと、何時己が盗人(ぬすっと)をした」
 幸「盗人だ、此様(こん)な事を云いかけて己の金を奪(と)ろうとするのだ」
 長「金が欲(ほし)いくれえなら、此の金を持って来(き)やアしねえ、汝(うぬ)のような義理も人情も知らねえ畜生の持った、穢(けがら)わしい金は要(い)らねえ、返(けえ)すから受取っておけ」
 と腹掛のかくしから五十両の金包を取出し、幸兵衛に投付けると額に中(あた)りましたから堪りません、金の角で額が打切(ぶちき)れ、血が流れる痛さに、幸兵衞は益々怒(おこ)って、突然(いきなり)長二を衝倒(つきたお)して、土足で頭を蹴ましたから、砂埃が眼に入って長二は物を見る事が出来ませんが、余りの口惜(くやし)さに手探りで幸兵衞の足を引捉(ひっとら)えて起上り、
 長「汝(うぬ)ウ蹴やアがッたな、此の義理知らずめ、最(も)う合点(がってん)がならねえ」
 と盲擲(めくらなぐ)りで拳固を振廻すを、幸兵衞は右に避(よ)け左に躱(かわ)し、空(くう)を打たして其の手を捉え捻上(ねじあげ)るを、そうはさせぬと長二は左を働かせて幸兵衛の領頸(えりくび)を掴み、引倒そうとする糞力に幸兵衛は敵(かな)いませんから、挿(さ)して居ります紙入留(かみいれどめ)の短刀を引抜いて切払おうとする白刄(しらは)が長二の眼先へ閃(ひらめ)いたから、長二もぎょッとしましたが、敵手(あいて)が刄物を持って居るのを見ては油断が出来ませんから、幸兵衞にひしと組付いて、両手を働かせないように致しました。

        十九

 長「その刄物は何だ、廿九年前(めえ)に殺そうと思って打棄(うっちゃ)った己が生きて居ちゃア都合が悪いから、また殺そうとするのか、本当の親の為になる事なら命は惜まねえが、実子と知りながら名告もしねえ手前(てめえ)のような無慈悲な親は親じゃアねえから、命はやられねえ……危ねえ」
 と刄物を※取(もぎと)[#「てへん+「宛」で「夕」の右側が「ヒ」」、61-10]ろうとするを、渡すまいと揉合う危なさを見かねて、お柳は二人に怪我をさせまいと背後(うしろ)へ廻って、長二の領元(えりもと)を掴み引分けんとするを、長二はお柳も己を殺す気か、よくも揃った非道な奴らだと、かッと逆上(のぼ)せて気も顛倒(てんどう)、一生懸命になって幸兵衛が逆手(さかて)に持った刄物の柄(つか)に手をかけて、引奪(ひったく)ろうとするを、幸兵衞が手前へ引く機(はずみ)に刀尖(きっさき)深く我と吾手(わがて)で胸先を刺貫(さしつらぬ)き、アッと叫んで仰向けに倒れる途端に、刄物は長二の手に残り、お柳に領を引かるゝまゝ将棋倒しにお柳と共に転んだのを、肩息ながら幸兵衛は長二がお柳を組伏せて殺すのであろうと思いましたから、這寄って長二の足を引張る、長二は起上りながら幸兵衞を蹴飛(けりと)ばす、後(うしろ)からお柳が組付くを刄物で払う刀尖が小鬢(こびん)を掠(かす)ったので、お柳は驚き悲しい声を振搾(ふりしぼ)って、
 柳「人殺しイ」
 と遁出(にげだ)すのを、もう是までと覚悟を決めて引戻す長二の手元へ、お柳は咬付(かみつ)き、刄物を奪(と)ろうと揉合(もみあ)う中へ、踉(よろめ)きながら幸兵衞が割って入るを、お柳が気遣い、身を楯にかばいながら白刄(しらは)の光をあちらこちらと避(よ)けましたが、とうとうお柳は乳の下を深く突かれて、アッという声に、手負(ておい)ながら幸兵衛は、
 幸「おのれ現在の母を殺したか」
 と一生懸命に組付いて長二の鬢の毛を引掴(ひッつか)みましたが、何を申すも急所の深手、諸行無常と告渡(つげわた)る浅草寺の鐘の音(ね)を冥府(あのよ)へ苞(つと)に敢(あえ)なくも、其の儘息は絶えにけりと、芝居なれば義太夫(ちょぼ)にとって語るところです。さて幸兵衞夫婦は遂に命を落しました。其の翌日、丁度十一月十日の事でございます。回向院前の指物師清兵衛方では急ぎの仕事があって、養子の恒太郎が久次(きゅうじ)留吉(とめきち)などという三四名の職人を相手に、夜延(よなべ)仕事をしておる処へ、慌(あわ)てゝ兼松が駈込んでまいりまして、
 兼「親方は宅(うち)かえ」
 恒「何だ、恟(びっく)りした……兼か久しく来なかッたのう」
 兼「長兄(あにい)は来(き)やしねえか」
 恒「いゝや」
 兼「はてな」
 恒「何うしたんだ、何(なん)か用か」
 兼「聞いておくんなせえ、私(わっち)がね、六間堀の伯母が塩梅(あんべえ)がわりいので、昨日(きのう)見舞に行って泊って、先刻(さっき)帰(けえ)って見ると家(うち)が貸店(かしだな)になってるのサ、訳が分らねえから大屋さんへ行って聞いてみると、兄(あにい)が今朝早く来て、急に遠方へ行(ゆ)くことが出来たからッて、店賃を払って、家(うち)の道具や夜具蒲団は皆(みん)な兼松に遣ってくれろと云置いて、何処(どっ)かへ行ってしまったのサ、全体(ぜんてえ)何うしたんだろう」

        二十

 恒「そいつは大変(てえへん)だ、あの婆さんは何うした」
 兼「婆さんも居ねえ」
 久「それじゃア長兄と一緒に駈落をしたんだ、彼(あ)の婆さん、なか/\色気があったからなア」
 恒「馬鹿アいうもんじゃアねえ……何(なん)か訳のあることだろうがナア兼……婆さんの宿へ行って様子を聞いて見たか」
 兼「聞きやアしねえが、隣の内儀(おかみ)さんの話に、今朝婆さんが来て、親方が旅に出ると云って暇をくれたから、田舎へ帰(けえ)らなけりゃアならねえと云ったそうだ」
 恒「其様(そん)な事なら第一番(でえいちばん)に此方(こっち)へいう筈だ」
 兼「己も左様(そう)だと思ったから聞きに来たんだ、親方にも断らずに旅に出る筈アねえ」
 留「女房の置去という事アあるが、此奴(こいつ)ア妙だ、兼手前(てめえ)は長兄に嫌われて置去に遭(あ)ったんだ、おかしいなア」
 兼「冗談じゃアねえ、若(わけ)え親方の前(めえ)だが長兄に限っちゃア道楽で借金があるという訳じゃアなし、此の節ア好(い)い出入場が出来て、仕事が忙がしいので都合も好い訳だのに、夜遁(よにげ)のような事をするとア合点(がってん)がいかねえ……兎も角も親方に会って行こう」
 と奥へ通りました。奥には今年六十七の親方清兵衞が、茶微塵(ちゃみじん)松坂縞(まつざかじま)の広袖(ひろそで)に厚綿(あつわた)の入った八丈木綿の半纒を着て、目鏡(めがね)をかけ、行灯(あんどん)の前で其の頃鍜冶(かじ)の名人と呼ばれました神田の地蔵橋の國廣(くにひろ)の打った鑿(のみ)と、浅草田圃の吉廣(よしひろ)、深川の田安前(たやすまえ)の政鍜冶(まさかじ)の打った二挺の鉋(かんな)の研上(とぎあ)げたのを検(み)て居ります。年のせいで少し耳は遠くなりましたが、気性の勝った威勢のいゝ爺さんでございます。兼松は長二の出奔(しゅっぽん)を甚(ひど)く案じて、気が急(せ)きますから、奥の障子を明けて突然(いきなり)に、
 兼「親方大変です、何うしたもんでしょう」
 清「えゝ、何だ、仰山な、静かにしろえ」
 兼「だッて親方私(わっち)の居ねい留守に脱出(ぬけだ)しちまッたんです」
 清「それ見ろ、彼様(あんな)にいうのに打様(うちよう)を覚えねえからだ、中の釘は真直(まっすぐ)に打っても、上の釘一本をありに打ちせえすりゃア留(とめ)の離れる気遣(きづけ)えは無(ね)いというのだ……杉の堅木(かたぎ)か」
 兼「まア堅気(かたぎ)だ、道楽をしねえから」
 清「大きいもんか」
 兼「私(わっち)より少し大きい、たしか今年廿九だから」
 清「何を云うのかさっぱり分らねえ、己(おら)ア道具の事を聞くのだ」
 兼「ムヽ道具ですか道具は悉皆(すっかり)家具(やぐ)蒲団まで私(わっち)にくれて行ったんです」
 清「まだ分らねえ……棚か箱か」
 兼「へい、店(たな)は貸店になっちまッたんです」
 清「何だと菓子棚だ、ウム菓子箪笥のことか、それが何うしたんだと」
 兼「何うしたんか訳が分らねえから聞きに来たんだが、親方へ談(はなし)なしだとねえ」
 清「そりゃア長二が為(す)る事だものを、一々己(おれ)に相談する事アねえ」
 兼「だッて、それじゃア済まねえ、己(おら)ア其様(そん)な人とア思わなかった……情(なさけ)ねえ人だなア」
 清「手前(てめえ)何か其の仕事の事で長二と喧嘩でもしたのか」
 兼「いゝえ、長(なげ)え間助(すけ)に行ってるが、喧嘩どころか大きい声をして呼んだ事もねえ……己(おれ)を可愛がって、近所の人が本当の兄弟(きょうでえ)でも彼(あ)アは出来ねえと感心しているくれえだのに、己が六間堀へ行ってる留守に黙って脱出(ぬけだ)したんだから、不思議でならねえ」
 清「何も不思議アねえ、手前(てめえ)の技(うで)が鈍いから脱出したんだ、長二は手前に何も云わねいのか」
 兼「何とも云いませんので」
 清「はてな、彼様(あんな)に親切な長二が教えねえ事アねえ筈だが……何か仔細(しせい)のある事だ」
 と腕組をして暫らく思案をいたし、
 清「些(すこ)し心当りがあるから明日(あした)でも己が尋ねてみよう」
 兼「左様(そう)です、何(なん)か深いわけがあるんです、心当りがあるんなら何も年寄の親方が行くにゃア及びません、私(わっち)が尋ねましょう」
 清「手前(てめえ)じゃア分らねえ、己が聞いてみるから手前今夜帰(けえ)ったら、長二に明日(あす)仕事の隙(すき)を見て一寸(ちょっと)来てくれろと云ってくんな」
 兼「親方何を云うんです、家(うち)に居もしねえ長兄に来てくれろとア」
 清「何処(どこ)へ行ったんだ」
 兼「何処かへ身を隠したから心配(しんぺい)しているんだ」
 清「何だと、長二が身を隠したと、えゝ、そんなら何故速くそう云わねえんだ」
 兼「先刻(さっき)から云ってるんです」
 清「先刻からの話ア釘の話じゃアねえか」
 兼「道理で訝(おか)しいと思った……困るな、つんぼ………エヽナニあの遠方へ急に旅立をすると、家主の所(とけ)え云置いて、何処へも沙汰なしに居なくなっちまッたんです」
 清「急に旅立をしたと、それにしても己の所(とけ)え何とか云いそうなもんだ、黙って行く所をもって見りゃア、何(なん)か済まねえ事でもしたんだろうが、彼奴(あいつ)に限っちゃア其様(そん)な事アあるめいに」
 と子供の時から丹誠をして教えあげ、名人と呼ばれるまでになって、親方を大切に思う長二の事ですから、清兵衛は養子の恒太郎よりも長二を可愛がりまして、五六日も顔を出しませんと直(すぐ)に案じて、小僧に様子を見せにやるという程でございますから、駈落同様の始末と聞いて清兵衞は顔色の変るまでに心配をいたして居ります。

        二十一

 恒太郎も力と頼む長二の事ですから、心配しながら兼松を呼びに来て見ると、養父が心配の最中でありますから、
 恒「兼、手前(てめえ)……長兄のことを父(とっ)さんに云ったな、云わねえでも宜(い)いに……父さん案じなくっても宜いよ、長二の居る処は直(すぐ)に知れるから」
 清「手前(てめえ)長二の居る処を知ってるのか」
 恒「大概(ていげえ)分ってるから、明日(あした)早く捜しに行こう」
 清「若(わけ)えから何様(どん)な無分別を出すめいもんでもねえから、明日(あす)といわず早いが宜い、兼と一緒に今ッから捜しに行きな」
 と急(せ)き立てる老(おい)の一徹、性急なのは恒太郎もかね/″\知って居りますが、長二の居所(いどこ)が直に分ると申しましたのは、只年寄に心配をさせまいと思っての間に合せでございますから、大きに当惑をいたし、兼松と顔を見合せまして、
 恒「行くのアわけアねえが、今夜はのう兼」
 兼「そうサ、行って帰ると遅くならア親方、明日(あした)起きぬけに行きましょう」
 清「其様(そん)なことを云って、今夜の内に間違(まちげ)えでもあったら何うする」
 兼「大丈夫(でえじょうぶ)だよ」
 清「手前は受合っても、本人が出て来て訳の解らねえうちは、己(おら)ア寝ても眠(ね)られねえから、御苦労だが早く行ってくんねえ」
 と急立(せきた)てられまして、恒太郎は余儀なく親父の心を休めるために
 恒「そんなら兼、行って来よう」
 と立とうと致します時、勝手口の外で
 「若(わけ)え親方も兼公も行くにゃア及ばねえ」
 と声をかけ、無遠慮(ぶえんりょ)に腰障子を足でガラリッと押開け、どっこいと蹌(よろめ)いて入りましたのは長二でございます。結城木綿の二枚布衣(ぬのこ)に西川縞の羽織を着て、盲縞の腹掛股引に白足袋という拵えで新しい麻裏草履を突(つッ)かけ、何所(どこ)で奢って来たか笹折(さゝおり)を提(さ)げ、微酔(ほろえい)機嫌で楊枝を使いながらズッと上って来ました様子が、平常(ふだん)と違いますから一同は恟りして、
 兼「兄い、何うしたんだ、何処へ行ってたんだ、己(おら)ア心配(しんぺい)したぜ」
 長「何処へ行こうと己(おれ)が勝手だ、心配(しんぺい)するやつが間抜だ、ゲエープウー」
 兼「やア珍らしい、兄い酔ってるな」
 長「酔おうが酔うめえが手前(てめえ)の厄介になりアしねえ、大きにお世話だ黙っていろ」
 と清兵衞の前に胡座(あぐら)をかいて坐りました。
 兼「何だか変だが、兄いが何うかしたぜ、コウ兄い……人にさん/″\心配(しんぺい)をさせておいて悪体(あくてい)を吐(つ)くとア酷(ひど)いじゃアねえか」
 長「生意気なことを吐(ぬ)かしやアがると打(たゝ)き擲(なぐ)るぞ」
 兼「何が生意気だい、兄い/\と云やア兄いぶりアがって、手前(てめえ)こそ生意気だ」
 と互に云いつのりますから、恒太郎が兼松を控えさせまして、
 恒「コウ長二、それじゃアおとなしくねえ、手前(てめえ)が居なくなったッて兼が心配(しんぺい)しているのに、悪体(あくてえ)を吐(つ)くのア宜(よ)くねえ、酔っているかア知らねえが、此処(こゝ)で其様(そん)なことをいっちゃア済むめえぜ」
 長「えゝ左様(そう)です、私(わっち)が悪かったから御免なせえ」
 恒「何も謝るには及ばねえが、聞きゃア手前(てめえ)家(うち)を仕舞ったそうだが、何処(どけ)え行く積りだ」
 長「何処(どけ)へ行こうとお前(めえ)さんの知った事(こッ)ちゃアねえ」
 と上目で恒太郎の顔を見る。血相(きっそう)が変っていて、気味が悪うございますから、恒太郎が後逡(あとじさり)をする後(うしろ)に、最前から様子を見て居りました恒太郎の嫁のお政(まさ)が、湯呑に茶をたっぷり注(つ)いで持ってまいりました。

        二十二

 政「長さん、珍しく今夜は御機嫌だねえ…お前さんの居る所が知れないと云って、お父(とっ)さんや皆(みんな)が何様(どんな)に心配をしていたか知れないよ」
 と茶を長二の前に置いて、
 政「温(ぬる)いからおあがり、お夜食は未だゞろうね、大澤(おおさわ)さんから戴いた鰤(ぶり)が味噌漬にしてあるから、それで一膳おたべよ」
 長「えゝ有がとうがすが、今喰ったばかしですから」
 と湯呑の茶を戴いて、一口グッと飲みまして、
 長「親方……私(わっち)は遠方へ行く積りです」
 清「其様(そん)なことをいうが、何所(どけ)へ行くのだ」
 長「京都へ行って利齋の弟子になる積りで、家(うち)をしまったのです」
 清「それも宜(い)いが、己も先(せん)の利齋の弟子で、毎(いつ)も話す通り三年釘を削らせられた辛抱を仕通したお蔭で、是までになったのだから、今の利齋ぐれえにゃア指(さ)す積りだが……むゝあの鹿島(かしま)さんの御注文で、島桐(しまぎり)の火鉢と桑の棚を拵(こせ)えたがの、棚の工合(ぐえい)は自分でも好(よ)く出来たようだから見てくれ」
 と目で恒太郎に指図を致します。恒太郎は心得て、小僧の留吉と二人で仕事場から桑の書棚を持出して、長二の前に置きました。
 清「どうだ長二……この遠州透(えんしゅうすかし)は旨いだろう、引出の工合(ぐあい)なぞア誰にも負けねえ積りだ、これ見ろ、此の通りだ」
 と抜いて見せるを長二はフンと鼻であしらいまして、
 長「成程拙(まず)くアねえが、そんなに自慢をいう程の事もねえ、此の遣違(やりちげ)えの留(とめ)と透(すかし)の仕事は嘘だ」
 兼「何だと、コウ兄い……親方の拵(こせ)えたものを嘘だと、手前(てめえ)慢心でもしたのか」
 長「馬鹿をいうな、親方の拵えた物だって拙いのもあらア、此の棚は外見(うわべ)は宜(い)いが、五六年経ってみねえ、留が放(はな)れて道具にゃアならねえから、仕事が嘘だというのだ」
 恒「何だと、手前(てめえ)父さんの拵えた物ア才槌(せえづち)で一つや二つ擲(なぐ)ったって毀(こわ)れねえ事ア知ってるじゃアねえか」
 長「それが毀れる様に出来てるからいけねえのだ」
 恒「何うしたんだ、今夜は何うかしているぜ」
 長「何うもしねえ、毎(いつ)もの通り真面目な長二だ」
 恒「それが何故父さんの仕事を誹(くさ)すのだ」
 長「誹す所があるから誹すのだ、論より証拠だ、才槌(せえづち)を貸しねえ、打毀(ぶっこわ)して見せるから」
 恒「面白い、毀してみろ」
 と恒太郎が腹立紛れに才槌(さいづち)を持って来て、長二の前へ投(ほう)り出したから、お政は心配して、
 政「あれまアおよしよ、酔ってるから堪忍おしよ」
 恒「酔ってるかア知らねえが、余(あんま)りだ、手前(てまえ)の腕が曲るから毀してみろ」
 兼「若(わけ)え親方……腹も立とうが姉(あね)さんのいう通り、酔ってるのだから我慢しておくんなせえ、不断此様(こん)な人じゃアねえから、私(わっち)が連れて帰って明日(あした)詫に来ます……兄い更けねえうちに帰(けえ)ろう」
 と長二の手を取るを振払いまして、
 長「何ヨしやがる、己(おら)ア無宿(やどなし)だ、帰(けえ)る所(とこ)アねえ」
 と云いながら才□を取って立上り、恒太郎の顔を見て、
 長「今打き毀して見せるから其方(そっち)へ退(ど)いていなせい」
 と才槌を提(ひっさ)げて、蹌(よろ)めく足を蹈(ふ)みしめ、棚の側へ摺寄って行灯(あんどう)の蔭になるや否や、コツン/\と手疾(てばや)く二槌(ふたつち)ばかり当てると、忽ち釘締(くぎじめ)の留は放れて、遠州透はばら/″\になって四辺(あたり)へ飛散りました。

        二十三

 言葉の行掛(ゆきがゝり)から彼(あ)アはいうものゝよもやと思った長二が、遠慮もなく清兵衛の丹誠を尽した棚を打毀(ぶちこわ)しました。且(かつ)二つや三つ擲(なぐ)ったって毀れる筈のない棚がばら/\に毀れたのに、居合わす人々は驚きました。中にも恒太郎は長二が余りの無作法に赫(かっ)と怒(いか)って、突然(いきなり)長二の髻(たぶさ)を掴んで仰向に引倒し、拳骨で長二の頭を五つ六(む)つ続けさまに打擲(ぶんなぐ)りましたが、少しもこたえない様子で、長二が黙って打(ぶ)たれて居りますから、恒太郎は燥立(いらだ)ちて、側に落ちている才槌を取って打擲ろうと致しますに、お政が驚いて其の手に縋(すが)りついて、
 政「あれまア危ないからおよしよ、怪我をさせては悪いからサ兼松……速く留めておくれ」
 兼「まアお待ちなせえ、其様(そん)な物で擲っちア大変だ」
 と止めるのを恒太郎は振払いまして。
 恒「なに此の野郎、ふざけて居やがる、此の才槌(せえづち)で棚を毀したから己が此の野郎の頭を打毀(ぶちこわ)してやるんだ」
 と才槌を振り上げました。此の騒ぎを最前から黙って視て居りました清兵衞が、
 清「恒マア待て、よしねえ、打棄(うっちゃ)っておけ」
 と留めましたが、恒太郎はなか/\肯(き)きません。
 恒「それだッて此様(こんな)に毀してしまっちゃア、明日(あした)鹿島(かじま)さんへ納める事が出来ねえ」
 清「まア己が言訳をするから宜(い)いというに」
 と叱りつけましたので、恒太郎、余儀なく手を放したから、お政も安心して長二を引起しながら、
 政「何処も痛みはしないか、堪忍おしよ」
 長「へい、有がとうがす」
 と会釈をして坐り直す長二の顔を、清兵衛がジッと視まして、

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