神曲
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著者名:ダンテアリギエリ 

我、わが師よ、わがこの者によりて一の疑ひを離るゝをうるため請ふ、この處にて我を待ち、その後心のまゝに我をいそがせたまへ 八二―八四
導者は止まれり、我すなはちなほ劇しく詛ひゐたる者にむかひ、汝何者なればかく人を罵るやといへるに 八五―八七
彼答へて、しかいふ汝は何者なればアンテノーラを過ぎゆきて人の頬を打つや、汝若し生ける者なりせば誰かはこれに耐(た)へうべきといふ 八八―九〇
我答へて曰ひけるは、我は生く、このゆゑに汝名を求めば、わが汝の名を記録の中にをさむるは汝の好むところなるべし 九一―九三
彼我に、わが求むるものはその反對(うら)なり、こゝを立去りてまた我に累をなすなかれ、かく諂(へつら)ふともこの窪地(くぼち)に何の益あらんや 九四―九六
この時我その項(うなじ)の毛をとらへ曰ひけるは、いまはのがるゝに途なし、若し名をいはずば汝の髮一筋をだにこゝに殘さじ 九七―九九
彼聞きて曰ふ、汝たとひわが髮を□(むし)るとも我の誰なるやを告げじ、また千度(ちたび)わが頭上(づじやう)に落來るともあらはさじ 一〇〇―一〇二
我ははやくも髮を手に捲き、これを拔くこと一房より多きにおよび、彼は吠えつゝたえずその目を垂れゐたるに 一〇三―一〇五
ひとり叫びていひけるは、ボッカよ何をかなせる、□(あぎと)を鳴らすもなほ足らずとて吠ゆるか、汝に觸(さは)るは何の鬼ぞや 一〇六―一〇八
我曰ふ、恩に背きし曲者奴(くせものめ)、いまは汝に聞くの用なし、我汝の眞(まこと)の消息(おとづれ)を携へゆきこれを汝の恥となさん 一〇九―一一一
彼答へて曰ふ、往け、しかして思ひのまゝにかたれ、されど汝この中よりいでなば、いまかく口を輕くせし者のことをものべよ 一一二―一一四
彼こゝにフランス人(びと)の銀を悼(いた)む、汝いふべし、我は罪人の冷ゆる處にヅエラの者をみたりきと 一一五―一一七
汝またほかに誰ありしやと問はるゝことあらん、しるべし、汝の傍(そば)にはフィオレンツァに喉を切られしベッケーリアの者あり 一一八―一二〇
かなたにガネルローネ及び眠れるファーエンヅァをひらきしテバルデルロとともにあるはおもふにジャンニ・デ・ソルダニエルなるべし 一二一―一二三
我等既に彼をはなれし時我は一の孔の中に凍れるふたりの者をみき、一の頭は殘りの頭の帽となり 一二四―一二六
上なるものは下なるものゝ腦(なう)と項(うなじ)とあひあふところに齒をくだし、さながら饑ゑたる人の麪麭(パン)を貪り食ふに似たりき 一二七―一二九
怒れるティデオがメナリッポの後額(こめかみ)を噛めるもそのさま之に異ならじとおもふばかりにこの者腦蓋(なうがい)とそのあたりの物とをかめり 一三〇―一三二
我曰ふ、あゝかく人を食(は)みあさましきしるしによりてその怨みをあらはす者よ、我に故を告げよ、我も汝と約を結び 一三三―一三五
汝の憂ひに道理(ことわり)あらば、汝等の誰なるや彼の罪の何なるやをしり、こののち上(うへ)の世に汝にむくいん 一三六―一三八
わが舌乾くことなくば 一三九―一四一
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   第三十三曲

かの罪人(つみびと)口をおそろしき糧(かて)よりもたげ、後方(うしろ)を荒らせし頭なる毛にてこれをぬぐひ 一―三
いひけるは、望みなき憂ひはたゞ思ふのみにて未だ語らざるにはやくも我心を絞るを、汝これを新(あらた)ならしめんとす 四―六
されどわが言(ことば)我に噛まるゝ逆賊の汚辱(をじよく)の實を結ぶ種たりうべくば汝はわがかつ語りかつ泣くを見ん 七―九
我は汝の誰なるをも何の方法(てだて)によりてこゝに下れるをも知らず、されどその言をきくに汝は必ずフィレンツェの者ならん 一〇―一二
汝知るべし、我は伯爵(コンテ)ウゴリーノ此(こ)は僧正ルツジェーリといへる者なり、いざ我汝に何によりてか上る隣人(となりびと)となれるやを告げん 一三―一五
彼の惡念あらはるゝにおよびて彼を信ぜる我とらへられ、のち殺されしことはいふを須ひず 一六―一八
されば汝の聞きあたはざりし事、乃ちわが死のいかばかり殘忍なりしやは汝聞きて彼我を虐(しひた)げざりしや否やを知るべし 一九―二一
わがためには餓(うゑ)の名をえてこののちなほも人を籠(こ)むべき塒(とや)なる小窓が 二二―二四
既に多くの月をその口より我に示せる頃、我はわが行末の幔(まく)を裂きし凶夢を見たり 二五―二七
すなはちこの者長(をさ)また主(きみ)となりてルッカをピサ人に見えざらしむる山の上に狼とその仔等を逐ふに似たりき 二八―三〇
肉瘠せ氣燥(はや)り善く馴らされし牝犬(めいぬ)とともにグアンディ、シスモンディ、ランフランキをその先驅(さきて)とす 三一―三三
逐はれて未だ程なきに父も子もよわれりとみえ、我は彼等が鋭き牙にかけられてその傍腹(わきばら)を裂かるゝを見しとおぼえぬ 三四―三六
さて曉に目をさましし時我はともにゐしわが兒等の夢の中に泣きまた麪麭(パン)を乞ふ聲をきゝぬ 三七―三九
若しわが心にうかべる禍ひの兆(きざし)をおもひてなほいまだ悲しまずば汝はげに無情なり、若し又泣かずば汝の涙は何の爲ぞや 四〇―四二
彼等はめさめぬ、糧(かて)の與へらるべき時は近づけり、されど夢のためそのひとりだに危ぶみ恐れざるはなかりき 四三―四五
この時おそろしき塔の下なる戸に釘打つ音きこえぬ、我はわが兒等の顏を見るのみ言(ことば)なし 四六―四八
我は泣かざりき、心石となりたればなり、彼等は泣けり、わがアンセルムッチオ、かく見たまふは父上いかにしたまへるといふ 四九―五一
かくても我に涙なかりき、またわれ答へでこの日この夜をすごし日輪再び世にあらはるゝ時に及べり 五二―五四
微(かすか)なる光憂ひの獄(ひとや)にいりきたりてかの四の顏にわれ自らのすがたをみしとき 五五―五七
我は悲しみのあまり雙手(もろて)を噛めり、わがかくなせるを食(くら)はんためなりとおもひ、彼等俄かに身を起して 五八―六〇
いひけるは、父よ我等をくらひたまはゞ我等の苦痛(いたみ)は却つて輕からむ、この便(びん)なき肉を我等に着せたまへるは汝なれば汝これを剥(は)ぎたまへ 六一―六三
我は彼等の悲しみを増さじとて心をしづめぬ、この日も次の日も我等みな默(もだ)せり、あゝ非情の土よ、汝何ぞ開かざりしや 六四―六六
第四日(よつかめ)になりしときガッドはわが父いかなれば我をたすけたまはざるやといひ、身をのべわがあしもとにたふれて 六七―六九
その處に死にき、かくて五日と六日目の間に我はまのあたり三人(みたり)のあひついでたふるゝをみぬ、我また盲(めしひ)となりしかば 七〇―
彼等を手にてさぐりもとめて死後なほその名を呼ぶこと二日、この時斷食の力憂ひにまさるにいたれるなりき ―七五
かくいへる時彼は目を斜(なゝめ)にしてふたゝび幸(さち)なき頭顱(かうべ)を噛めり、その齒骨に及びて強きこと犬の如くなりき 七六―七八
あゝピサよ、シを語となすうるはしき國の民の名折(なをれ)よ、汝の隣人(となりびと)等汝を罰するおそければ 七九―八一
ねがはくはカプライアとゴルゴーナとゆるぎいでゝアルノの口に籬(まがき)をめぐらし、汝の中なる人々悉く溺れ死ぬるにいたらんことを 八二―八四
そはたとひ伯爵(コンテ)ウゴリーノに汝に背きて城を賣れりとのきこえありとも汝は兒等をかく十字架につくべきにあらざればなり 八五―八七
第二のテーべよ、年若きが故にすなはち罪なし、ウグッチオネもイル・ブリガータもまた既にこの曲に名をいへる二人(ふたり)の者も 八八―九〇
我等はなほ進み、ほかの民の俯(うつむ)かずうらがへりてあらく氷に包まるゝところにいたれり 九一―九三
こゝには憂へ憂ひをとゞめ、なやみは目の上の障礙(しやうげ)にさへられ、苦しみをまさんとて内部(うち)にかへれり 九四―九六
そははじめの涙凝塊(かたまり)となりてあたかも玻璃の被物(おほひ)の如く眉の下なる杯を滿たせばなり 九七―九九
わが顏は寒さのため、胼胝(たこ)のいでたるところにひとしく凡ての感覺を失へるに 一〇〇―一〇二
この時わが風に觸るゝを覺え、曰ひけるは、わが師よ、これを動かすものは誰ぞや、この深處(ふかみ)には一切の地氣消ゆるにあらずや 一〇三―一〇五
彼即ち我に、汝は程なく汝の目が風を降(ふ)らす源(もと)をみてこれが答を汝にえさすところにいたらん 一〇六―一〇八
氷の皮なる幸なき者の中ひとり叫びて我等にいひけるは、あゝ非道にして最後の立處(たちど)に罪なはれたる魂等よ 一〇九―一一一
堅き被物(おほひ)を目よりあげて涙再び凍らぬまに我胸にあふるゝ憂ひを少しく洩すことをえしめよ 一一二―一一四
我すなはち彼に、わが汝をたすくるをねがはゞ汝の誰なるやを我に告げよ、かくして我もしその支障(さゝはり)を去らずば我は氷の底にゆくべし 一一五―一一七
この時彼答ふらく、我は僧(フラーテ)アルベリーゴなり、よからぬ園の木の實の事ありてここに無花果に代へ無漏子(むろし)をうく 一一八―一二〇
我彼に曰ふ、さらば汝既に死にたるか、彼我に、我はわが體(からだ)のいかに上の世に日をふるやをしらず 一二一―一二三
このトロメアには一の得ありていまだアトローポスに追はれざるに魂しば/\こゝに落つることあり 一二四―一二六
また汝玻璃にひとしき此涙をいよ/\こゝろよくわが顏より除くをえんため、しるべし、魂わがなせるごとく信に背くことあれば 一二七―
鬼たゞちにその體(からだ)を奪ひ、みづからこれが主となりて時のめぐりをはるを待ち ―一三二
おのれはかゝる水槽(みづぶね)の中におつ、さればわが後方(うしろ)に冬を送る魂もおもふにいまなほその體(からだ)を上の世にあらはすなるべし 一三三―一三五
汝今此處にくだれるならば彼を知らざることあらじ、彼はセル・ブランカ・ドーリアなり、かく閉されてより既に多くの年を經たり 一三六―一三八
我彼に曰ふ、我は汝の欺くをしる、ブランカ・ドーリアは未だ死なず、彼食(く)ひ飮み寢(い)ねまた衣(ころも)を着るなり 一三九―一四一
彼曰ふ、上なるマーレブランケの濠の中、粘(ねば)き脂(やに)煮ゆるところにミケーレ・ツァンケ未だ着かざるうち 一四二―一四四
この者その體(からだ)に鬼を殘して己にかはらせ、彼と共に逆を行へるその近親のひとりまたしかなせり 一四五―一四七
されどいざ手をこなたに伸べて我目をひらけ、我はひらかざりき、彼にむかひて暴(みだり)なるは是即ち道なりければなり 一四八―一五〇
あゝジエーノヴァ人(びと)よ、一切の美風をはなれ一切の邪惡を滿たす人々よ、汝等の世より散りうせざるは何故ぞ 一五一―一五三
我は極惡(ごくあく)なるローマニアの魂と共に汝等のひとりその行(おこなひ)によりて魂すでにコチートに浸(ひた)り 一五四―
身はなほ生きて地上にあらはるゝ者をみたりき ―一五九
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   第三十四曲

地獄の王の旗あらはる、此故に前方(まへ)を望みて彼を認むるや否やを見よ、わが師かく曰へり 一―三
濃霧起る時、闇わが半球を包む時、風のめぐらす碾粉車(こひきぐるま)の遠くかなたに見ゆることあり 四―六
我もこの時かゝる建物(たてもの)をみしをおぼえぬ、また風をいとへどもほかに避くべき處なければ、われ身を導者の後方(うしろ)に寄せたり 七―九
我は既に魂等全く掩(おほ)ひ塞(ふさ)がれ玻璃の中なる藁屑(わらくづ)の如く見え透(す)ける處にゐたり(これを詩となすだに恐ろし) 一〇―一二
伏したる者あり、頭を上にまたは蹠(あしうら)を上にむけて立てる者あり、また弓の如く顏を足元(あしもと)に垂れたる者ありき 一三―一五
我等遠く進みし時、わが師は昔姿美しかりし者を我にみすべき機(おり)いたれるをみ 一六―一八
わが前をさけて我にとゞまらせ、見よディーテを、また見よ雄々(をゝ)しさをもて汝を固(かた)むべきこの處をといふ 一九―二一
この時我身いかばかり冷(ひ)えわが心いかばかり挫(くじ)けしや、讀者よ問ふ勿れ、言(ことば)及ばざるがゆゑに我これを記(しる)さじ 二二―二四
我は死せるにもあらずまた生けるにもあらざりき、汝些(すこし)の理解(さとり)だにあらば請ふ今自ら思へ、彼をも此をも共に失へるわが當時のさまを 二五―二七
悲しみの王土の帝(みかど)その胸の半(なかば)まで氷の外(そと)にあらはれぬ、巨人をその腕に比ぶるよりは 二八―
我を巨人に比ぶるかたなほ易し、その一部だにかくのごとくば之に適(かな)へる全身のいと大いなること知りぬべし ―三三
彼今の醜(みにく)きに應じて昔美しくしかもその造主(つくりぬし)にむかひて眉を上げし事あらば一切の禍ひ彼よりいづるも故なきにあらず 三四―三六
我その頭に三の顏あるを見るにおよびてげに驚けることいかばかりぞや、一は前にありて赤く 三七―三九
殘る二は左右の肩の正中(たゞなか)の上にてこれと連(つらな)り、かつ三ともに□冠(とさか)あるところにて合へり 四〇―四二
右なるは白と黄の間の色の如く、左なるはニーロの水上(みなかみ)より來る人々の如くみえき 四三―四五
また顏の下よりはかゝる鳥ににつかしき二(ふたつ)の大いなる翼いでたり、げにかく大いなるものをば我未だ海の帆にも見ず 四六―四八
此等みな羽なくその構造(つくりざま)蝙蝠(かうもり)の翼に似たり、また彼此等を搏ち、三の風彼より起れり 四九―五一
コチートの悉く凍れるもこれによりてなりき、彼は六の眼(まなこ)にて泣き、涙と血の涎(よだれ)とは三の頤(おとがひ)をつたひて滴(したゝ)れり 五二―五四
また口毎にひとりの罪人(つみびと)を齒にて碎くこと碎麻機(あさほぐし)の如く、かくしてみたりの者をなやめき 五五―五七
わけて前なる者は爪にかけられ、その背しば/\皮なきにいたれり、これにくらぶれば噛まるゝは物の數ならじ 五八―六〇
師曰ふ、高くかしこにありてその罰最も重き魂はジユダ・スカリオットなり、彼頭を内にし脛を外に振る 六一―六三
頭さがれるふたりのうち、黒き顏より垂るゝはプルートなり、そのもがきて言(ことば)なきを見よ 六四―六六
また身いちじるしく肥ゆとみゆるはカッシオなり、されど夜はまた來れり、我等すでにすべてのものを見たればいざゆかん 六七―六九
我彼の意に從ひてその頸を抱けるに彼はほどよき時と處をはかり、翼のひろくひらかれしとき 七〇―七二
毛深き腋に縋(すが)り、叢(むら)また叢をつたはりて濃き毛と氷層のあひだをくだれり 七三―七五
かくて我等股の曲際(まがりめ)腰の太(ふと)やかなるところにいたれば導者は疲れて呼吸(いき)もくるしく 七六―七八
さきに脛をおけるところに頭をむけて毛をにぎり、そのさま上(のぼ)る人に似たれば我は再び地獄にかへるなりとおもへり 七九―八一
よわれる人の如く喘ぎつゝ師曰ひけるは、かたくとらへよ、我等はかゝる段(きだ)によりてかゝる大いなる惡を離れざるをえず 八二―八四
かくて後彼とある岩の孔(あな)をいで、我をその縁(ふち)にすわらせ、さて心して足をわが方(かた)に移せり 八五―八七
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を擧げて見たりしにその脛上にありき 八八―九〇
わが此時の心の惑ひはわが過ぎし處の何なるやを辨(わきま)へざる愚なる人々ならではしりがたし 九一―九三
師曰ふ、起きよ、路遠く道程(みちすぢ)艱(かた)し、また日は既に第三時の半に歸れり 九四―九六
我等の居りし處は御館(みたち)の廣間(ひろま)にあらず床(ゆか)粗(あら)く光乏しき天然の獄舍(ひとや)なりき 九七―九九
我立ちて曰ひけるは、師よ、わがこの淵を去らざるさきに少しく我に語りて我を迷ひの中よりひきいだしたまへ 一〇〇―一〇二
氷はいづこにありや、この者いかなればかくさかさまに立つや、何によりてたゞしばしのまに日は夕(ゆふ)より朝に移れる 一〇三―一〇五
彼我に、汝はいまなほ地心のかなた、わがさきに世界を貫くよからぬ蟲の毛をとらへし處にありとおもへり 一〇六―一〇八
汝のかなたにありしはわがくだれる間のみ、われ身をかへせし時汝は重量(おもさ)あるものを四方より引く點を過ぎ 一〇九―一一一
廣き乾ける土に蔽はれ、かつ罪なくして世に生れ世をおくれる人その頂點のもとに殺されし半球を離れ 一一二―
いまは之と相對(あひむか)へる半球の下にありて、足をジユデッカの背面を成す小さき球の上におくなり ―一一七
かしこの夕はこゝの朝にあたる、また毛を我等の段(きだ)となせし者の身をおくさまは今も始めと異なることなし 一一八―一二〇
彼が天よりおちくだれるはこなたなりき、この時そのかみこの處に聳えし陸は彼を恐るゝあまり海を蔽物(おほひ)となして 一二一―一二三
我半球に來れるなり、おもふにこなたにあらはるゝものもまた彼をさけんためこの空處をこゝに殘して走り上(のぼ)れるなるべし 一二四―一二六
さてこの深みにベルヅエブの許より起りてその長さ墓の深さに等しき一の處あり、目に見えざれども 一二七―
一の小川の響きによりてしらる、この小川は囘(めぐ)り流れて急ならず、その噛み穿てる岩の中虚(うつろ)を傳はりてこゝにくだれり ―一三二
導者と我とは粲(あざや)かなる世に歸らんため、このひそかなる路に入り、しばしの休(やすみ)をだにもとむることなく 一三三―一三五
わが一の圓き孔の口より天の負(お)ひゆく美しき物をうかゞふをうるにいたるまで、彼第一に我は第二に上(のぼ)りゆき 一三六―一三八
かくてこの處をいでぬ、再び諸□の星をみんとて 一三九―一四一
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       註


    第一曲

ダンテ路を失ひて暗き林の中に迷ふ、會□一丘上に光明を認め之に向ひて進む、されど豹、獅子、狼の出でゝ路を塞ぐにあひ再び林にかへらんとす、この時ウェルギリウスこれにあらはれて救ひの道を示し三界の歴程を勤め且つ自ら導者となりてまづ地獄、淨火をめぐらんと告ぐ
一―三
【正路】有徳の路
【半】詩人三十五歳の時、人生を七十と見做してその半にあたるをいふ(詩篇、九〇・一〇及びダンテの『コンヴィヴィオ』四・二三、八八以下參照)
ダンテの生れしは一二六五年なり、故に『神曲』示現の時は一三〇〇年聖金曜日の前夜にはじまる(地、二・一註參照)一三〇〇年はダンテがフィレンツェのプリオレとなりし年又ローマに有名なる大會式(ジュビレーオ)(地、一八・二九及び註參照)ありし年なり
【林】罪の路乃ち時黒なる娑婆世界
七―九
【幸】覺醒、理性の聲を聞き、覺めて救ひの路に就くにいたれること
一〇―一二
【睡り】罪の甘き夢に魁せられ我知らず光の路を失へるさま
一三―一五
【溪】即ち暗き林
【山】喜びの始めまた源なる幸の山(七八行)、罪の路は林の苦しみに導き有徳の路は山の喜びに導く
一六―一八
【直くみちびく】ヨハネ、一一・九に曰、人若し晝あるかば躓くことなしこの世の光を見るによりてなり
【遊星】太陽、當時遊星の一にかぞへられたればなり、太陽の光は神より出づる生命の光なり(ヨハネ、八・一二)
二二―二四
【人】破船の厄に遭へる人
二五―二七
【路】林の路、即ち罪の生涯を囘顧せるなり
二八―三〇
【低き足】坂路を上るが故に片足高く片足低し
三一―三三
【豹】肉慾の象徴、その皮斑紋ありて美しければなり
註釋者曰、豹、獅子、狼は肉慾、慢心、貪婪の三惡を表はし、エレミヤ、五・六に、林よりいづる獅子は彼等を殺し荒野の狼は彼等を滅ぼし豹は彼等の町々をねらふとあるに據れるなりと
三七―四五
【朝の始め】一三〇〇年聖金曜日の朝まだき
【星】白羊宮の星、太陽の白羊宮にあるは春の始め(三月下旬より四月下旬まで)なり
傳説に曰、天地の創造せられし時は春なり而して太陽が白羊宮に入りてその運行をはじめし日乃ち春分はキリストの懷胎並びに磔殺の日と相同じと
【美しき物】天體(地、三四・一三七參照)神天地を造り日月星辰に始めて運行を與へ給へる時白羊宮にありし太陽はこの天宮の中なる他の諸星と共に今同じ處にありて登れり
【望み】豹に勝つべき望み
四九―五〇
【多くの民】貪婪の禍ひ大なるをいふ
五八―六〇
【默す】光照らざる
六一―六三
【聲嗄る】久しく人と語らざる古人の靈の如く見えたり
六七―六九
【彼】ウェルギリウス(ヴィルジリオ)、有名なるラテン詩人(前七〇―一九年)、著書數卷あり、就中『アエネイス』最もあらはる
ウェルギリウスはホメロスと共に古來最大詩人の一に數へられ、中古特にいちじるしく歎美せられし詩人なり、しかしてダンテのあまねくその著作を愛讀しこれに精通せるは、この曲中ダンテ自らいへること及び『神曲』を通じてこの古詩人を引照せる甚だ多き事等によりてあきらかなり、『アエネイス』はその詩材よりいふもアエネアスの冥府めぐりイタリア建國の事業等ダンテ自身及びその詩に關係深きものゝみなればこの歌の作者を導者にえらべるはその當をえたりといふべし、『神曲』中のウェルギリウスは理性若しくは哲理の代表者なり
【ロムバルディア】イタリア北部の國名、ダンテの時代には今の所謂ロムバルディアより廣かりきといふ
【マントヴァ】ロムバルディアにある町、その地勢及び由來は地、二〇・五五以下に詳し
七〇―七二
【後れて】ウェルギリウスはユーリウス・カエサル(ジウリオ・チエーザレ)に後るゝこと二十九年にして生れカエサルの殺害せられしとき二十六歳なりき
おもふに七〇行の Sub Iulio(ユーリオの世)はカエサルの名の世に知られし時をも加へおしなべてかくいへるなるべし、カエサルが政權を掌握せるはウェルギリウスの誕生よりはるかに後の事なればなり
【アウグスト】アウグストゥス・オクタウィアヌス、ローマ皇帝(前六三―後一四年)
七三―七五
【イーリオン】トロイア。小アジアの海濱にありし町にて有名なるトロイア戰爭ありし處
トロイア王プリアモスの子パリス、スパルタ王メネラオスに客たりしがその妻ヘレネを奪ひて本國に歸り、これがためにトロイア戰爭なるもの起るにいたれるなり、戰ひ十年に亙りて城陷り兵火に罹りて燒く
【アンキーゼの義しき子】アエネアス、アンキセスとアプロディテの間に生る、トロイアの名將なり
ウェルギリウスの『アエネイス』はトロイア城陷落の後なるアエネアスの流落にはじまり、そのイタリアにいたりツルヌスを殺して建國の基を起すにをはる
八五―八七
【譽】『神曲』以前の作なる短詩すでに世に知らる(淨、二四・四九以下參照)
九一―九三
【他(ほか)の路】罪の恐るべきをさとれる者徳の生涯を心中に畫くといへども未だ全く罪の覊絆を脱せるにあらず徳に入るの準備成れるにあらねばたゞちに光明の山に登りて神恩に浴する能はず、まづ地獄を經て罪をはなれ淨火を經て穢れを淨めざるべからず
一〇〇―一〇二
【妻とする獸】貪婪に伴ふ罪惡
【獵犬】將來世に出でゝ物質上及び精神上よりその救ひとなるべき偉大の人物(恐らくは皇帝若しくは法王)
註釋者或ひはキリストの再來をいひ或ひは當時ヴェロナの明君なりしカン・グランデ・デルラ・スカーラの如き知名の士を擧ぐるもいづれも疑はし、思ふに捕捉し難きダンテの獵犬にしひて具體的な解釋を求めんとするは無益の業ならん
一〇三―一〇五
【フェルトロ】意義不明
一〇六―一〇八
【カムミルラ】ヴォルシ人の王メタブルの女なり、ツルヌスを助けてトロイア人と戰ひ、戰死す(『アエネイス』七・八〇三及び一一卷)
【エウリアーロ、ニソ】エウリアルス、ニスス共にトロイア人、友情を以て名高し、ヴォルシ人と戰ひ共に斃る(同上、九・一七九以下)
【ツルノ】ツルヌス、ルツルリア人の王、アエネアスと戰ひて死す(同上、一二卷)
【低きイタリア】古くラチオ(ラティウム)と稱しローマを含めるイタリアの一部、北方の高地に對し平野多きを以て低しといふ
一〇九―一一一
【嫉み】地獄の王ルチーフェロ(ルキフェル)の嫉み、惡魔人類の幸福をねたみ、禍ひの獸なる貪慾を世に放てるなり
一一二―一一四
【不朽の地】地獄
一一五―一一七
異本曰、汝はそこに望みなき叫びを聞き第二の死を呼び求なる古のなやめる魂をみるべし
【第二の死】魂肉を離るゝは第一の死、魂無に歸するは第二の死なり、地獄に罰をうくる魂苦しみのあまり己の滅び失せんことを求むるなり
【古の】ダンテ以前の死者を總括していへり
一一八―一二〇
時滿ちて天界に登るを得る望みあるが故に甘んじて淨めの苦しみをうくる淨火中の魂
一二一―一二三
【魂】ベアトリーチェ
一二四―一二六
【律法に背ける】神をあがむるの道をつくさゞりしをいふ(地、四・三八)
一三〇―一三二
【禍ひ】現世の
【大なる禍ひ】後世の
一三三―一三五
【聖ピエートロの門】淨火の門、キリスト鑰をピエートロに與へ(マタイ、一六・一九)、ピエートロはこれを天使に托して淨火の門を開閉せしむ(淨、九・一一七以下參照)


    第二曲

既にしてダンテ自らかへりみてその力よく冥界をめぐるに足るや否やを疑ふ、ウェルギリウス乃ちこれに告ぐるに己がリムボを出でゝ曠野に來るに至れる由來を以てし、これを勵まして地獄にむかはしむ
一―三
【日は傾けり】一三〇〇年四月八日の夕暮
兩詩人の地獄にむかへるは一三〇〇年の聖金曜日なりしこと地、二一・一一二以下なるマラコダの言によりて明かなり、されどこの金曜日は何月何日に當りしや、或人は三月二十五日といひ或人は四月八日といふ、こゝにはムーア博士の説に從ひて後説を採れり、詳しくは博士の『神曲中の時に就て』(Moore, Time-Reference in the Divina Commedia)を見よ
四―六
ダンテに二の難あり、路の瞼惡なるは其一、見るに忍びざる罪人の苦患を見るの苦しみ其二なり、前者は身を攻め後者は心を攻む
七―九
【ムーゼ】ムーサ、神話中の女神、九柱ありて詩音樂等を司る
第一曲は『神曲』の總序にして所謂地獄篇は第二曲にはじまるが故にこゝにムーゼと理想の才と記憶とを呼べり、卷頭に詩神をよべるは古來詩人の例に倣へるなり、『神曲』の他の二篇また然り
一三―一五
【いへらく】『アエネイス』六・二三六以下に
【シルヴィオの父】アユネアス、シルウィウス(シルヴィオ)はアエネアスとラウィニア(地、四・一二六)の間の子なり
一六―一八
【誰】ローマ人の祖先
【何】ローマ帝國の創業者
【衆惡の敵】神
一九―二一
【エムピレオの天】至高の天
二二―二四
ローマ(彼)もローマ帝國(此)も神の定むるところによりて共に聖地となり聖ピエートロの後繼者なる法王の座所こゝにあり
寺院と互に獨立し、しかも相提携して天命を行ふ、これダンテの理想の帝國なり
【大ピエロ】聖ピエートロ又はペテロ、キリスト十二弟子の一、道をローマに傳へ、教に殉じて死す
二五―二七
アエネアス冥府にゆきてその父アンキセスにめぐりあひ、これと語りて己が將來の事を知り信念いよ/\固く遂にイタリアにいたりて亂を平げ建國の基を起せり、されば後年法王の座所をこの地に見るにいたれるもアエネアスの冥府めぐりに負ふとこる多し
二八―三〇
【選の器】使徒パウロ(使徒、九・一五)
【かしこ】冥界
コリント後、一二・二以下にはたゞ第三の天に擧げらる云々とあり、されど中世紀の傳説によればパウロは天堂のみならず地獄にも赴けるなり
五二―五四
【懸垂の衆】第一の地獄なるリムボの賢哲、天界の祝福を受くるにあらず地獄の苛責を受くるにあらすその中間に懸れるなり
【淑女】ベアトリーチェ(七〇―七二行註參照)
五八
【動】諸天の運行、即ち時の存するかぎり
異本、世のあるかぎりは殘らん
譯者曰くこの書本文殆ど全くムーアの『ダンテ全集』(Tutte le Opere di Dante Alighieri)に據れり、異本各種の比較については同博士の『神曲用語批判』(Textual Criticism of the Divina Commedia)を見ば詳細を知るをうべし、乃ちこの項 moto 及び mondo の比較はその第二七一―三頁にあり、以下煩を避けて一々引照せず
六一―六三
我に愛せられてしかも命運に愛せられざるもの
七〇―七二
【ベアトリーチェ】ダンテの『新生』(La Vita Nuova)に出づる詩人の戀人
(1)『新生』の解説につきては甲論乙駁今に至りて定説なし、されどこれを以て史實に基づき詩想によりて潤飾せる詩人自傳の一部と見做す説多くの點に於て信ずべきに似たり、故にベアトリーチェ及びベアトリーチェとダンテの關係を知らんと欲せば必ずまづ『新生』によらざるをえず
また假りに『新生』を以て一種の譬喩と見做しダンテはこれによりて自己の理想を表現しその理想の形成せるところに「ベアトリーチェ」なる名稱を冠らしめしに過ぎずとし或ひは之を以て詩人の宗教觀詩人時代の寺院及び教理等を寫し出せる一種の象徴に過ぎずと見做すも、ダンテのベアトリーチェを知らんと欲せば同じくまづ『新生』によらざるをえざるなり
(2)『新生』中ベアトリーチェに關する事項の主なるものをあぐれば、ダンテが始めてベアトリーチェを見たる事及びこの時八歳の少女が九歳の少年の心に殘せし深き印象(二)、ダンテが寺院内に一婦人を帷としてベアトリーチェの祈姿をうかゞひ見しこと(五)、ベアトリーチェを婚姻の(ベアトリーチェ自身の婚姻なるべし)席上に見、友の扶けによりてこの席を去れること(一四)、ベアトリーチェの父の死=一二八九年(二二)、ベアトリーチェの死=一二九〇年(二九、但し學會本によれば――從つて岩波文庫も――二八)、等なり、戀人の家系住居につきては何等云ふ所なし
(3)ベアトリーチェを史實と配合せる者はボッカッチョなり、その説に曰く、ベアトリーチェはフォルコ・ポルチナーリの女にしてフィレンツェに生る、一二七四年ダンテ始めてこの女を見、後次第に愛慕するにいたれり、一二八六年の頃ベアトリーチェはシモネ・デ・バルヂなるものと婚し一二九〇年六月死すと
(4)『神曲』中のベアトリーチェは『新生』のベアトリーチェのさらに理想化したる者にて神學の象徴なり、ダンテ、ウェルギリウスに導かれて地獄・淨火の兩界をめぐれども、進んで天上に赴くに及びてはベアトリーチェに導かれざるをえず、これ靈界の機微にいたりては天啓によるにあらざれば覺得し難きを示せるなり
【愛】淨、三〇・七九以下及び天、一・一〇一―二參照
七六―七八
【天】月天、地球は宇宙の中心にありて日月星辰の諸天之をめぐる、而して月は最も地球に近ければその天は諸天中最小の天なり、人、地上の萬物にまさるはたゞ天の奧義をさとるによる
九四―九六
慈悲の泉なる聖母マリア、ダンテの大難をあはれみてその罪に對する上帝の怒りをやはらぐ
九七―九九
【ルチーア】聖ルチーア、シラクサ(シケリア島にあり)の殉教者を指せるなるべしといふ、惠みの光なり
一〇〇―一〇二
【ラケーレ】ラケル。ラバンの女にしてヤコブの妻(創世記、二九・一〇以下及び地、四・六〇)、默想の象徴
一〇三―一〇五
【神の眞の讚美】『新生』二六・一四(岩波文庫『新生』八七頁參照)以下に曰く
かれ(ベアトリーチェ)過ぐる時多くの人々いひけるは、こは女にあらでいと美しき天使のひとりなり、またほかの人々いひけるは、こは世の常の女にあらず、かくたへなるみわざをあらはし給ふ主は讚むべきかな
【汝のために】『新生』の末(同上・一二九頁參照)に曰く
この歌ありて後我は異象によりて多くの事を見、わがいまよりもなほふさはしくこの惠まれしもの(ベアトリーチェの事を陳ぶるをうるにいたるまでは再びかれの事をいはじと思ひ定めたり、またわがこゝにいたらんため力を盡して勵みいそしむことはかれのよく知るところなり、かくて萬物に生をさづくるものわが世にあるなほ數年なるを許したまはゞ望むらくはわれ未だ女につきて用ゐられざりし言をかれにつきて用ゐることをえん
一〇六―一〇八
【河水漲りて】或ひは、河波さわぎたち(詩篇、九三・三―四參照)、罪の路を激流にたとへしなり
一一八―一二〇
【獸】狼
一二一―一二六
【三人】聖母、ルチーア、ベアトリーチェ
一三三―一三五
【淑女】ベアトリーチェ
一四二
【艱き】或ひは、低き


    第三曲

地獄門上の銘を讀みて後兩詩人まづ地獄圈外に入りこゝに怯者の魂を見、進んでアケロンテの川にいたれば舟子カロン亡魂を麾き船に載せて對岸にむかふ、この時曠野鳴動して電光閃めきダンテ爲に喪神して地に倒る
一―三
【憂ひの都】地獄全體
四―六
正義の念によりて獄門を建つるの天意定まり、父(威力)子(智慧)聖靈(愛)なる三一の神の働きによりてその意行はる
七―九
【永遠の物】諸天、天使等
一六―一八
【智能の功徳】神を見ること
【さきに】地、一・一一四以下
一九―二一
【祕密の世】原文、祕密の物の中
二八―三〇
【旋風吹起る時】異本、風旋風に似たる時
三一―三三
【怖れ】異本、迷ひ
三四―三六
地獄外房の罪人、善を行ふの勇なく惡を行ふの膽なく、卑怯にして意味なき生を送れるもの
三七―三九
ルキフェル(魔王ルチーフェロ)神に背ける時、中立の態度に出でし天使の一群
四〇―四二
【罪ある者】地獄に罰をうくる者等惡を行はざりし天使の一群の己と同じく罰せらるゝを見て自ら得たりとなさゞらんため
四六―四八
【死】魂の消滅
【失明】暗く光なき地獄のさまに神を見るをえざる迷ひの生涯を含めていへり
【いかなる分際】天上の祝福を享くる者をも地獄圈内に前を受くるをも妬むなり
四九―五一
【慈悲も正義も】天を逐はれ地獄は拒まる
五八―六〇
【魂】『神曲』中疑問の人物の一なり、されど古來最も有力なる説はこれを以て法王ケレスティヌス五世を指せりとなす。ケレスティヌス五世はピエートロ・ダ・モルロネといひアブルッチの隱者なりしが一二九四年選ばれて法王となり在位五ケ月の後自らその器に非ざるをしりて辭しボニファキウス(ボニファーチョ)八世其後をうくるに至れり、一説にはボニファキウス、法王の位を望み謀を以てケレスティヌスに退位の意を固めしめきといふ(地、一九・五五―七參照)
六四―六六
【生けることなき】一生を空しくおくれる
七〇―七二
【川】アケロンテ、冥界を流るゝ諸水の一、屡□『アエネイス』にいづ
八二―八四
【翁】カロン、神話にいづる三途の川の渡守なり
古代神話にみゆる多くの神々は中古なほその存在を保ち寺院に屬する人々之を以て鬼となせり、使徒パウロの言に、異邦人の獻ぐるものは神に獻ぐるにあらず鬼に獻ぐるなり(コリント前、一〇・二〇)とあるもかゝる信仰を生むにいたれる一因なるべし、さればダンテが傳説の神々傳説の人物材料を多く『神曲』中に收むるにいたりしも此等のものゝ存在を認め事件を事實と信ぜしにあらず、たゞその人口に膾炙し當時の思想を具體的にあらはすに最も適したるによりてなり、古典とダンテの關係を詳しく知らんと欲する人はムーア博士の『ダンテ研究』(Studies in Dante)第一卷を見よ
九一―九三
フラティチェルリ(Fraticelli)曰く、カロンが此處には他に渡る舟なく舟子なきをしりてかくいへるは生者に對する怒りと嘲りをあらはせるなりと
註釋者多くはこれを以て淨火の路即ちテーヴェレの河口より淨火の山に至る路をいひ、輕き舟は淨、二・四一なる天使の舟を指すものとなせども、生けるダンテに對する怒れるカロンの言としてふさはしからざるに似たり
九四―九六
地、二一・八三―四參照
一〇三―一〇五
神、親、人類、生國、生時、祖先(蒔かれし種)、生みの親(生れし種)
一〇九―一一一
【後るゝ、】或ひは、くつろぐ(船の中にて)
一一二―一一四
『アエネイス』六・三〇九以下に曰く
たとへば秋始めて冷やかなる頃、數しれぬ木の葉の凋みて林に落つるごとく、または鳥群をなして寒さきびしき年に逐はれ、暖き陸を求めてわたつみのかなたより來るごとく
【衣】或ひは、獲物
【地にをさむる】異本、地に見る
一一五―一一七
【アダモ】アダム、人類の始祖(創世記)
【呼ばるゝ】鷹匠が小鳥若しくは鳥の羽を合せしものを示して放ちやりし鷹を呼戻すこと
一二四―一二六
【願ひ】望なきを知りて刑に服せんとの心
一二七―一二九
【善き】罰のためにくだれるにあらざる


    第四曲

我にかへれば詩人すでに第一の地獄の縁にあり、こゝよりウェルギリウスに導かれてリムボにくだる、すなはちキリストを知らず洗禮をうけざりし者の止まるところなり、ダンテこゝに古の詩人哲人名將烈婦の魂を見、導者とともにさらに進んで第二の地獄にむかふ
一―三
【雷】第三曲の終りにみえたる電光にともなふ雷
或ひは曰、九行の雷と同じく罪人の叫喚あつまりて雷の如きをいふと、ダンテがいかにしてアケロンテの川を越えしやは知りがたし
七―九
【溪】地獄全體
一三―一五
【盲の世】地、三・四七註參照
一九―二一
【下なる民】リムボ即ち第一の地獄の民
二二―二四
【獄】原語、圈、深淵の縁をめぐる一帶の地にて一大環状をなすが故にかくいふ
三四―三六
【一部】異本、門
三七―三九
【道】天啓によりキリストの出現を信じて神を拜すること
【我も】ウェルギリウスの詩によりて詩人となり又キリストの徒となれるスタティウスは救はれて福の路に就きウェルギリウス自身は今もリムボにゐて望みなき生をおくる、これ彼は、火をうしろにともして夜行く人の如くわが身に益をえず後の人をさとくす(淨、二二・六七以下)る者なればなり
四〇―四二
【願ひ、望み】神を見るの願ひ、その願ひ成るの望み
四三―四五
【リムボ】(端、縁の義)第一の地獄の名
【懸れる】地、二・五二―四註參照
四六―四八
【信仰】キリスト教の信仰、特にキリスト、地獄に下り給へることありとの信仰
五二―五四
【ほどなき】ウェルギリウスの死せる年乃ち紀元前一九年よりキリストの死乃ち紀元三三年までの間
【權能あるもの】キリスト、聖母と同じく地獄内に名を稱へず
五五―六三
【第一の父】アダム
【アベル】アダムの第二子(創世記四・二以下)
【ノエ】ノア、大洪水を免かれしヘブライ人の族長(創世記五・二八以下)
【モイゼ】モーゼ、舊約時代の偉人にしてヘブライ人の律法を定めし者(出エヂプト記二以下)
【神に順へる】民數紀略一二・七に曰く、わが僕モーゼは然らず、彼はわが全家に忠義なる者なり(ヘブル、三・五參照)
或ひは ubidiente を五八行のアブラハムに附し、立法者モーゼ、從順なる族長アブラハムと讀む人あり、これアブラハムがその子イサクを神に捧げんとしたる(創世記第二二章)を特にこゝに指せりとなせしなり
【アブラアム】アブラハム、舊約時代の偉人(創世記一一・二六以下)
【ダヴィーデ】ダヴィデ、イスラエルの王、『詩篇』中の詩人(ルツ、四・二二、其他)
【イスラエル】アブラハムの孫なるヤコブ、天使と相撲ひて後この名を得たり(創世記三二・二八)
【その父】アブラハムの子イサク
【その子等】創世記二九・三一以下參照
【ラケーレ】ラケル、イスラエルの妻
【多くの事】ラケルを妻とせんためその父ラバンの許にとゞまりて十四年間勞役に從へるをいふ(創世記二九・九以下)
六四―六六
【林】古はリムボを大人と小兒との二部に分ちしかどダンテは當時の教に基づきこの區別を廢して之を厚く遇せらるゝ魂と然らざるものとの二にわかてるなり、こゝにいふ林は即ち後者の群なり
六七―六九
【睡り】この曲の始めダンテが頭の中なる熟睡を破られしところ
異本、響き(雷の)または頂
【半球の闇を】偉人等の止まるところより道理の光いでゝリムボの獄の一半を照せるなり
七九―八一
【聲】註釋者多くはこれをホメロスの聲なりといふ
八五―八七
【劒】その詩多く戰ひを敍したればなり
八八―九〇
【オーメロ】ホメロス、ギリシアの詩聖、『イリアス』の作者(前九〇〇年頃)
ダンテは零碎なるラテン語の飜譯によりて僅かにその一部をうかゞひみしに過ぎず、しかれども彼がこの大詩人を尊重する甚だ大なるを見る(淨、二二・一〇一―二參照)
【オラーチオ】ホラティウス、有名なるラテン詩人(前六五―八年)、『サチレス』(諷刺の詩)二卷及び其他の著作あり
されどムーア博士は Satiro は教の詩人(乃ち詩論の著者として)の意にて、諷刺家の意にあらず、ダンテがホラティウスの『サチレス』を知れることはその著作の中にあらはれずといへり、いかゞ
【オヴィディオ】オウィディウス、有名なるラテン詩人(前四三―後一八年)、その著書の中『メタモルフォセス』最もあらはる、ダンテがウェルギリウスに次ぎて最も多く引用せる詩人なり
【ルカーノ】ルカヌス、有名なるラテン詩人(三九―六五年)、カエサルとポムペイウスとの戰ひを敍したる『ファルサリア』の作者なり
九一―九三
【一の聲】或ひはひとりの聲、七九行にいでし聲をいふ
いとたふとき詩人の讚辭は彼等皆我と同じくうくべきものなり、かゝる詩人にしてはじめてよく詩人をしりかく我をうやまふ、また詩聖等相和して他を讚むるに吝ならざるは善し
九四―九六
【鷲の如く天翔る歌聖】ホメロス
一〇三―一〇八
【光】六七―九行
一〇六―一〇八
【城】智徳世にすぐれし知名の士女にしてしかもキリストを信ずるにいたらざりし者のとゞまるところ
【七重の高壘】註釋者曰、七重の高壘は四徳(思慮、公義、剛氣、節制)三知(聰明、知識、智慧)をあらはし一一〇行の七の門は當時ローマの教育科目たりし三文(文法、修辭、論理)四數(音樂、算術、幾何、天文)をあらはせるなりと
ダンテの七數にかゝる寓意ありしや否やもとより明かに知り難し、或ひは單に七數を好み用ゐし一例に過ぎざるか
【流れ】註釋者曰、これ美しき詞の流れなり、これを地上をゆく如く容易に渡りゆきしは筆路の難は詩人の難しとするところにあらざればなりと
一一八―一二〇
【緑の※[#「さんずい+幼」、222-7]藥】緑草の美しきをいへり
一二一―一二三
【エレットラ】エレクトラ、神話、アトラスの女にしてゼウス(ジョーヴェ)神との間にトロイアの建設者なるダルダノスを生めり
【侶】エレクトラの子孫なるトロイア人
【エットル】ヘクトル、トロイア王プリアモスの長子、トロイア戰役の名將
【エーネア】地、一・七三―五註參照
【チェーザレ】ユーリウス・カエサル、最も著名なる古の英傑(前一〇〇―四四年)
アエネアスはイタリア帝業の基をたてしトロイア人なればローマ人はその起源をトロイア人と同じうするのみならず中古の人々カエサルを最初の皇帝と信ぜるが故にダンテ彼をヘクトル、アエネアスと並ばしめしなり
一二四―一二六
【カムミルラ】地、一・一〇六―八註參照
【パンタシレア】アレスの女にしてアマゾン(女軍)の王たり、トロイアの役にギリシア軍と戰ひて死す
【ラティーノ】ラティヌス、ラティウム人の王、アエネアスの外舅
【ラヴィーナ】ラウィニア、ラティヌスの女、アエネアスの妻
一二七―一三二
【ブルート】ルキウス・ユウニウス・ブルートゥス、前六世紀の人、ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスを逐ひローマ共和國を建設す
【ルクレーチア】ルクレティア、ブルートゥスと共にローマ共和國の民政官となれるコルラティヌスの妻なり、タルクィニウスの子セスト(セクストゥス)の辱しむるところとなりて死す
【ユーリア】カエサルの女、ポムペイウスの妻
【マルチア】マルキウス・フィリップスの女にして初めカートン(カトー・ウティケンシス)の妻たりし者
【コルニーリア】スキピオ・アフリカヌスの女、ティベリウス・セムプロニウス・グラックスの妻にてローマ施政の改革に殉ぜる有名なるグラックス兄弟の母なり
【サラディーノ】エヂプト及びシリアのソルダン、寛仁大度の明君として世に知らる(一一三七―一一九三年)
【智者の師】アリストテレス、(アリストーテレ)有名なるギリシアの哲學者、中古の人これを以て哲人中の第一となせり、ダンテはラテン語譯によりてその著書に精通し引用せること甚だ多し(前三八四―三二二年)
一三三―一三五
【ソクラーテ】ソクラテス、有名なるギリシアの哲學者(前四七〇―三九九年)
【プラートネ】プラトン、有名なるギリシアの哲學者(前四二七―三四七年)
一三六―一三八
【デモクリート】デモクリトス、ギリシアの哲學者、その師レウキッボスの説に基づきて原子論を敷衍せり(前三六一年死)
デモクリトスを原子偶然に結合して世界成ると説けりといへるはキケロの著書に據れるなり
【ディオジェネス】ディオゲネス、有名なるキュニコス派の哲學者、小アジアに生れてギリシアに住めり(前三二三年死)
【アナッサーゴラ】アナクサゴラス、ギリシアの哲學者(前四二八年死)
【ターレ】タレス、ギリシア七賢の一、水原説を以て名高し(前六世紀)
【エムペドクレス】シケリアの哲學者(前五世紀)
【エラクリート】ヘラクレイトス、ギリシアの哲學者(前六世紀)
【ツェノネ】ゼノン、ギリシアの哲學者、ストア學派を起せる者(前三〇〇年頃)
一三九―一四四
【ディオスコリーデ】ディオスクリデス、ギリシアの名醫、藥法に關する著者五卷ありてその中に草木の特性を論じたりといふ(一世紀)
【オルフェオ】オルフェウス、ギリシア神話中の詩人樂人
【ツルリオ】マルクス・ツルリウス・キケロ、ローマの哲人能辯家、ダンテ善くその著作に通ぜり(前四三年死)
【リーノ】リノス、ギリシア神話中の詩人伶人
異本、リヴィウス(ローマの史家)
【セネカ】ルキウス・アンナエウス・セネカ、ローマの哲學者、ダンテ善くその著作に通ぜり(六五年死)
【道徳を説ける】文人なりしその父セネカと區別せるなり
【エウクリーデ】エウクレイデス、有名なるアレクサンドレイアの數學者、『幾何原理』十三卷を著はす(前三〇〇年頃)
【トロメオ】クラウディウス・プトレマイオス、有名なるアレクサンドレイアの天文地理學者、ダンテ時代の天文學多く之に據れり(二世紀)
【イポクラーテ】ヒッポクラテス、ギリシアの名醫(前四世紀頃)
【アヴィチェンナ】アラビアの名醫(一〇三七年死)
【ガリエーノ】クラウディウス・ガレヌス、ギリシアの名醫(二〇一年死)
【アヴェルロイス】アラビアの名醫、哲學者、アリストテレスの註疏を大成せるを以て廣く世に知らるゝにいたれり(一一二六―一一九八年)
一四八―一五〇
【二者】ダンテと導者
或ひは、分れて二(乃ち二組)となれりと解する人あり、事同じ
【震ひゆらめく空】第二の獄の


    第五曲

やがて第二の地獄にいたればこゝには邪淫の罪を犯せる多くのものゝ狂風に漂はされて暗空の中をめぐるあり、その一なるフランチェスカ・ダ・リミニの魂ダンテに招かれて戀人パオロと共にこれに近づきおのが悲哀なる戀物語をなす
一―三
【少なく】地獄は一大漏斗状をなすが故に下るに從つて地狹し
四―六
【ミノス】地獄の法官
神話に曰、ミノスはゼウスとエウロペの間の子なりクレタ島の君となりて賢明の聞え高し、死後ラダマントス及びアイアコスと共に冥界の法官となると
【入る者あれば】或ひは、入口にて
七―九
【幸なく】マタイ、二六・二四に曰く、その人生れざりしならばかへつて幸なりしならん
一〇―一二
ミノス、刑を宣告するにあたり尾にて身を卷きその卷きたる囘數によりて送るべき獄を示すなり、地、二七・一二
四―六に彼グイードを第八の地獄に送らんため八度尾をもておのが背を卷きしこといづ
一三―一五
【投げらる】地、二一・三四―六には鬼によりて獄に送らるゝ例もあれど多くは罪人のみ各自の刑場におちゆくに似たり
一九―二一
ミノスはダンテと共にあるものの鬼にあらずしてウェルギリウスなるを見、ダンテを威嚇してその導者に對する信念を奪はんとせしなり
【入口ひろき】マタイ、七・一三に曰く、滅亡にいたる路は廣し
三一―三三
心に檢束を加へず情の翼に駕してその行方に任せし生前のさまをあらはすなり
三四―三六
ruina(狂風の吹きまく勢ひ)、異説或ひはこれをキリスト磔殺の當時に起れる岩の崩れ(地、一二・三一以下及び二一・一一二以下)とし或ひはこれを第二の地獄の入口とす
四六―五〇
【暴風】原語、なやむるもの、或ひは爭ひ
五二―五四
【語】語を異にする國民
五五―五七
己が非倫の行爲を蔽はんため不正の結婚を諸氏にゆるせる事
五八―六〇
【セミラミス】アッシリアの女王、前十四世紀頃の者なりといはる
【書】中古廣く行はれし五世紀の史家パウルス・オロシウスの歴史、乃ちダンテの引用書目の主なるものゝ一なり
【ニーノ】ニーヌス。オロシウス曰く、彼ニーノ(ニーヌス)死せる時その妻セミラミス位を繼げり(オロシウス『歴史』第一卷四の四)
【ソルダンの治むる地】エヂプトなるバビロニア(昔のカイロ)
セミラミスはアッシリアの女王なればこゝにソルダンの治むる地云々といへるはエウフラテス河畔のバビロニアとナイル河畔のバビロニアとを混同せるダンテの誤りか、或ひは或る註釋者のいへる如くニーヌスはその存命中にエヂプトの一部を征服してこれをアッシリアの領地に加へしことありとの傳説によれるものか明かならず
六一―六三
【操を破れる者】ディド、アフリカ北海岸なるカルタゴの女王、夫死して後こゝに漂着せるアエネアスを慕ひ、アエネアス、イタリアに向ふに及びて失望のあまり自刃して死す、事『アエネイス』第四卷にくはし
【クレオパトラース】クレオパトラ、有名なるエヂプトの女王、カエサル及びアントニウスを惱まし嬌名甚高し、オクタウィアヌス權を執るに及び恥をローマに晒すをおそれ毒蛇の毒をうけて死す(前六九―三〇年)
六四―六六
【エレーナ】ヘレネ、スパルタ王メネラオスの妻、パリスに誘はれてトロイアに赴き、爲に十年に亙れるトロイア戰役を惹起すにいたれるもの(地、一・七三―五註參照】
【アキルレ】アキレウス、トロイア戰役の猛將
アキレウスはホメロスに歌はれしギリシア方の名將なり、傳説に曰、トロイア戰役の際、彼敵將プリアモスの女ポリユクセナ(地、三〇・一七)を慕ひ武裝を解きてアポロンの宮殿に入りこゝにてパリスの殺すところとなれりと
六七―六九
【パリス】ヘレネを奪へるもの(六四―六行註參照)
【トリスターノ】トリスタン、中古ひろく行はれし英王アーサー物語にいづ、叔父マークの妻を戀ひ、マークの殺すところとなる
七三―七五
【かのふたり】パオロ・マラテスタ及びフランチェスカ・ダ・リミニ(ポレンタ)
今當時の記録によりてこの悲劇の大要をあぐれば左の如し
フランチェスカはラヴェンナの君なるグイード・ダ・ポレンタ(老グイード)の女なり、當時ポレンタ家とリミニなるマラテスタ家の間に葛藤絶ゆることなかりしが仲裁者いでて和議成るに及び、いよ/\和親を固うせんため老グイードはその女フランチェスカをマラテスタ・ダ・ヴェルルッキオ(地、二七・四六―八註參照)の子ジャンチオットに嫁するを許せり、このジャンチオットは武勇の聞えありしものなれども風姿粗野にして且つ不具なりければグイード、人の諫めに從ひその弟パオロを兄に代りてポレンタ家に來らしむ、フランチェスカはパオロの若くして美しきを見これをその夫となるべき人なりと聞き伴はれてリミニにいたれり
フランチェスカ、リミニにいたりこゝにはじめて己が欺かれしを知りて悔ゆれどもおよばず、されどパオロに對する戀々の情はかへつてこの事あるによりてまされり、會□ジャンチオット公務のため出でゝ家に在らず、兩人相會して情をかたる、ジャンチオット下人の告ぐるところによりてこれを知り不意にひきかへして彼等を殺せり(一二八五年頃の事といふ)
七九―八一
【彼】神、(Altri は古く大能ある者をあらはすに用ひし不定代名詞)、地獄内にては罪人にをかひて神の名を稱ふることなし
八二―八四
【願ひ】巣に歸らんとの
【たかめ】異本、ひらき
八五―八七
【ディド】六一−三行註參照
八八―九〇
以下一〇七行までフランチェスカの詞
【暗闇の】Perso. ダンテの『コンヴィヴィオ』第四卷二〇の一四―五に曰く、ペルソは紫と黒とまじりてしかも黒勝てる色なり
九一― 三
ヘブライの古諺に曰、祈りの門は閉さるとも涙の門は閉されず
九七― 九
【邑】ラヴェンナ、アドリアティコ海濱にあり、ダンテ時代にはこの町今よりもなほ海に近かりきといふ
【ポー】イタリア最大の川、ラヴェンナの北にあたりてアドリアティコ海に入る
【從者ら】多くの支流
一〇〇―一〇八 
三聯みな Amor(戀)なる一語にはじまる
【そのさま】ジャンチオットの刃にかゝりてこの身の魂より奪はれしさま
ムーア博士の引用せるフォスコロの説にてはこのさきに三の條項あり、乃ち、(一)死を招くにいたれる事情(二)死の急にして悔ゆるに暇なかりし事(三)殺害てふ蠻的行爲
【今猶】この戀今猶わが心を離れじ
【カイーナ】アダムの子にして弟アベルを殺せるもの(創世記四・八)、第九の地獄第一の圓はカインに因みてカイーナの名を得たる處なればこの獄に下り來るをカイーナ待つといへり、ジャンチオットの死せるは一三〇四年にて『神曲』の時なる一三〇〇年には猶存命せるなり
一二一―一二三
【汝の師】ウェルギリウス、古註曰、ウェルギリウスは願ひありてしかも望みなきリムボに止まり生時の光榮を囘顧し自己の經驗によりてかゝる苦患を味ひしると
一二七―一二九
【ランチャロット】ランスロット、『アーサー物語』(六七―九行註參照)にみゆる圓卓武士の一人にてアーサーの妻ギニヴァーを慕へるもの
【おそるゝこと】戀をそれと知らぎりしさきなれば本讀の危險なるべきを思はざりしなり
一三三―一三五
【微笑】ゑみを湛へし王妃の口
一三六―一三八
【ガレオット】王妃ギニヴァーとランスロットの不義の取持をなせるもの、昔のガレオットの如くこの物語と作者とは我等を罪に陷らしめきとの意
一三九―一四一
【一の魂】フランチェスカ


    第六曲

第三の地獄は飮食の慾に耽りし者の罰せらるゝ處なり、鬼チェルベロ雨雪と共に彼等を苛責す、こゝにフィレンツェのチヤッコなる者ありダンテを認めて之を呼び、近くその郷土に起るべき黒白兩黨の爭ひをかたる
一―三
ダンテが失神せる間に第二の地獄より第三の地獄におくられしことさきにアケロンテの川を越えし場合と同じ
【所縁】パオロはフランチェスカの義弟にあたる
七―九
【法と質】雨の落ちる度及び雨の成立に變化なく、詛ひの雨間斷なく降りくだるをいふ
一三―一五
【チェルベロ】ケルベロス、神話に出づ、地獄の門を守る怪犬、頭三ありて尾は蛇なり
一六―一八
【噛み】異本、皮剥ぎ
二二―二四
【蟲】姿の忌むべく怒るべきをいへるなり、他の生物を蟲とよべること聖書に例多し(イザヤ、四一・一四、詩篇二二・六等參照)
三四―三六
あゝ姿のほか凡て空しき魂よ(淨、二・七九)
されど地、三二にはダンテがボッカといへる罪人の頭を蹴りまたその毛髮を拔きしことあり(七八行及び一〇三行以下)
三七―三九
【ひとり】チヤッコ、フィレンツェの人にてボッカッチョが食をたしなむこと何人にも劣らじといへるものなり
四〇―四二
【わが毀たれぬ】チヤッコいまだ死なざるさきにダンテ生れしをいふ(或曰、チヤッコは一二八六年に死すと)
四九―五一
【汝の邑】フィレンツェ、黒白兩黨の爭ひ皆權勢の嫉みより起れり
五二―五四
【チヤッコ】或人はこれを食を貪るを嘲りて呼べる綽名(豚の義)なりといひ或人はジャコモの略名といひ或人は普通の家名にてフィレンツェには今もチヤッキ家なるものありといへり
五八―六三
【もし知らば】ダンテは既に魂のよく未來を知るを聞きゐたればこの問を起せるなり(地、二・二五―七註參照)
【分れし邑】フィレンツェ
一二一五年この方フィレンツェはグエルフィ、ギベルリニの兩黨に分る、十三世紀の末グエルフィ黨、獨り權勢を得て爭亂一時鎭靜に歸せしもピストイアに生ぜし黒白兩黨の軋轢ひいて濁波をフィレンツェに揚げチェルキ、ドナーティ兩家の確執となり次第にその範圍をひろくし一三〇〇年の始めにいたりて遂に激烈なる黒白の爭ひをこゝに見るにいたれるなり
六四―六六
【長き爭ひ】チェルキ、ドナーティ兩家の互に敵視せるは一二八〇年にはじまれり、前者は白黨を後者は黒黨を率ゆ
【鄙の徒黨】ビアンキ(白黨)
チェルキ家はヴァル・ディ・シエヴェといふ片田舍より來れる粗野の民なりき
【敵を逐ふべし】一三〇一年五月ネーリ(黒黨)フィレンツェの市外に逐はる
六七―六九
【三年の間】原文、三の日輪の間に(地、二九・一〇五參照)すなはちチヤッコの語れる時より三年の間に

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