神曲
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著者名:ダンテアリギエリ 

思ふに昔エージナの民の悉く病めるをみる悲しみといへども、(この時空に毒滿ちて小さき蟲にいたるまで 五八―
生きとし生けるもの皆斃る、しかして詩人等の眞(まこと)とみなすところによればこの後古の民
蟻の族(やから)よりふたゝびもとのさまにかへさる)、この暗き溪の中にあまたの束(たば)をなして衰へゆく魂を見る悲しみにまさらじ ―六六
ひとりは俯(うつむ)きて臥し、ひとりは同囚(なかま)の背にもたれ、ひとりはよつばひになりてこの悲しみの路をゆけり 六七―六九
我等は病みて身をあぐるをえざる此等の者を見之に耳をかたむけつつ言(ことば)はなくてしづかに歩めり 七〇―七二
こゝにわれ鍋の鍋に凭(もた)れて熱をうくる如く互に凭れて坐しゐたる二人(ふたり)の者を見き、その頭より足にいたるまで瘡斑點(かさまだら)をなせり 七三―七五
その痒きことかぎりなく、さりとてほかに藥なければ、彼等はしば/\おのが身を爪に噛ましむ 七六―
主(きみ)を待たせし厩奴(うまやもり)または心ならず目を覺(さま)しゐたる僕の馬梳(うまぐし)を用ふるもかくはやきはいまだみず ―八一
爪の痂(かさぶた)を掻き落すことたとへば庖丁の鯉またはこれより鱗大なる魚の鱗をかきおとすごとくなりき 八二―八四
わが導者そのひとりにいひけるは、指をもて鎧を解きかくしてしば/\これを釘拔にかゆる者よ 八五―八七
この中(なか)なる者のうちにラチオ人(びと)ありや我等に告げよ、(かくて願はくは汝の爪永遠(とこしへ)にこの勞(いたづき)に堪へなんことを) 八八―九〇
かの者泣きつゝ答へて曰ひけるは、かく朽果てし姿をこゝに見する者はともにラチオ人なりき、されど我等の事をたづぬる汝は誰ぞや 九一―九三
導者曰ふ、我はこの生くる者と共に岩また岩をくだるものなり、我彼に地獄を見せんとす 九四―九六
この時互の支(さゝへ)くづれておの/\わなゝきつゝ我にむかへり、また洩れ聞けるほかの者等もかくなしき 九七―九九
善き師身をいとちかく我によせ、汝のおもふことをすべて彼等にいへといふ、我乃ちその意に從ひて曰ひけるは 一〇〇―一〇二
ねがはくは第一の世にて汝等の記憶人の心をはなれず多くの日輪の下にながらへんことを 一〇三―一〇五
汝等誰にて何の民なりや我に告げよ、罰の見苦しく厭はしきをおもひて我に身を明(あ)かすをおそるゝなかれ 一〇六―一〇八
そのひとり答へて曰ふ、我はアレッツオの者なりき、アールベロ・ダ・シエーナによりてわれ火にかゝるにいたれるなり、然(され)ど 一〇九―
我をこゝに導けるは我を死なしめし事に非ず、我戲れに彼に告げて空飛ぶ術(すべ)をしれりといひ、彼はまた事を好みて智乏しき者なりければこの技(わざ)を示さん事を我に求め、たゞわが彼をデーダロたらしめざりし故により彼を子となす者に我を燒かしめしは實(まこと)なり ―一一七
されど過つあたはざるミノスが我を十の中なる最後の嚢(ボルジヤ)に陷らしめしはわが世に行へる錬金の術によりてなりき 一一八―一二〇
われ詩人に曰ひけるは、そも事を好むシエーナ人の如き民かつて世にありしや、げにフランス人(びと)といへどもはるかにこれにおよばじ 一二一―一二三
此時いまひとりの癩を病める者かくいふをきゝてわが言に答へて曰ひけるは、費(つひえ)を愼しむ術(すべ)しれるストリッカ 一二四―
丁子(ちやうじ)の實(み)ねざす園の中にその奢れる用(もちゐ)をはじめて工夫(くふう)せしニッコロを除け ―一二九
また葡萄畑と大なる林とを蕩盡(つかひはた)せしカッチア・ダシアーンおよびその才を時めかせしアツバリアート等の一隊を除け 一三〇―一三二
されどかく汝に與してシエーナ人にさからふ者の誰なるやをしるをえんため、目を鋭くして我にむかへ、さらばわが顏よく汝に答へ 一三三―一三五
汝はわが錬金の術によりて諸□の金(かね)を詐り變へしカポッキオの魂なるをみん、またわが汝を見る目に誤りなくば、汝は思ひ出づるなるべし 一三六―一三八
我は巧みに自然を似せし猿(ましら)なりしを 一三九―一四一
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   第三十曲

テーベの血セーメレの故によりユノネの怒りに觸れし時(その怒りをあらはせることしば/\なりき) 一―三
いたく狂へるアタマンテはその妻が二人(ふたり)の男子(をとこのこ)を左右の手に載せてゆくを見て 四―六
我等網を張らむ、かくしてわれ牝獅子と獅子の仔をその路にてとらへんとさけび、非情の爪をのばし 七―九
そのひとり名をレアルコといへるを執らへ、ふりまはして岩にうちあて、また女は殘れる荷をもて自ら水に溺れにき 一〇―一二
また何事をもおそれず行へるトロイア人(びと)の僭上命運の覆すところとなりて、王その王土と共に亡ぶにいたれる時 一三―一五
悲しき、あぢきなき、囚虜(とらはれ)の身のエークバは、ポリッセーナの死せるをみ、またこのなやめる者その子ポリドロを 一六―
海のほとりにみとめ、憂ひのために心亂れ、その理性(さとり)をうしなひて犬の如く吠えたりき ―二一
されど物にやどりて獸または人の身を驅るテーベ、トロイアの怒りの猛きも 二二―
わが蒼ざめて裸なる二の魂の中にみし怒りには及ばじ、彼等は恰も欄(をり)を出でたる豚の如く且つ噛み且つ走れり ―二七
その一はカポッキオにちかづき、牙を項(うなじ)にたてゝ彼を曳き、堅き底を腹に磨(す)らしむ 二八―三〇
震ひつゝ殘れるアレッツオの者我に曰ひけるは、かの魔性の魑魅(すだま)はジャンニ・スキッキなり、狂ひめぐりてかく人をあしらふ 三一―三三
我彼に曰ふ、(願はくはいま一の者汝に齒をたつるなからんことを)請ふ此者の誰なるやをそのはせさらぬまに我に告げよ 三四―三六
彼我に、こはいとあしきミルラの舊(ふり)し魂なり、彼正しき愛を超えてその父を慕ひ 三七―三九
おのれを人の姿に變へてこれと罪を犯すにいたれり、あたかもかなたにゆく者が 四〇―
獸の群の女王をえんとて己をブオソ・ドナーティといつはり、その遺言書(ゆゐごんしよ)を作りてこれを法例(かた)の如く調(とゝの)ふるにいたれるに似たり ―四五
狂へる二の者過ぎ去りて後、我は此等に注げる目をめぐらし、ほかの幸(さち)なく世に出でし徒(ともがら)を見たり 四六―四八
我見しにこゝにひとり人の叉生(またさ)すあたりより股の附根(つけね)を切りとるのみにて形琵琶に等しかるべき者ありき 四九―五一
同化しえざる水氣によりて顏腹と配(そ)はざるばかりに身に權衡(けんかう)を失はせ、また之を重からしむる水腫(すゐしゆ)の病は 五二―五四
たえずその唇をひらかしめ、そのさまエチカをやめる者の渇きて一を頤(おとがひ)に一を上にむくるに似たりき 五五―五七
彼我等に曰ふ、あゝいぶかしくも苦患(なやみ)の世にゐて何の罰をもうけざる者よ、心をとめてマエストロ・アダモの幸なきさまを見よ 五八―
生ける時は我ゆたかにわが望めるものをえたりしに、いまはあはれ水の一滴(ひとしづく)をねぎもとむ ―六三
カセンティーンの緑の丘(をか)よりアルノにくだり、水路涼しく軟かき多くの小川は 六四―六六
常にわがまへにあらはる、またこれ徒(いたづら)にあらず、その婆の我を乾すことわが顏の肉を削(そ)ぐこの病よりはるかに甚しければなり 六七―六九
我を責むる嚴(おごそか)なる正義は、我に歎息(ためいき)をいよ/\しげく飛ばさしめんとてその手段(てだて)をわが罪を犯せる處に得たり 七〇―七二
即ちかしこにロメーナとてわがバッティスタの像(かた)ある貨幣(かね)の模擬(まがひ)を造り、そのため燒かれし身を世に殘すにいたれる處あり 七三―七五
されど我若しこゝにグイード、アレッサンドロまたは彼等の兄弟の幸(さち)なき魂をみるをえばその福(さいはひ)をフォンテ・ブラングにもかへじ 七六―七八
狂ひめぐる魂等の告ぐること眞(まこと)ならば、ひとりはすでにこの中にあり、されど身繋(つな)がるゝがゆゑに我に益なし 七九―八一
たとひ百年(もゝとせ)の間に一吋(オンチヤ)をゆきうるばかりなりともこの身輕くば、この處周圍(めぐり)十一哩(ミーリア)あり 八二―八四
幅半哩を下らざれども、我は既に出立ちて彼をこの見苦しき民の間に尋ねしなるべし 八五―八七
我は彼等の爲にこそ斯かる家族(やから)の中にあるなれ、我を誘ひて三カラートの合金(まぜがね)あるフィオリーノを鑄らしめしは乃ち彼等なればなり 八八―九〇
我彼に、汝の右に近く寄りそひて臥し、冬の濡手(ぬれて)のごとく烟(けぶ)るふたりの幸なき者は誰ぞや 九一―九三
答へて曰ふ、我この巖間(いわま)に降(ふ)り下れる時彼等すでにこゝにありしが其後一度(たび)も身を動かすことなかりき、思ふに何時(いつ)に至るとも然(しか)せじ 九四―九六
ひとりはジユセッポを讒(しこづ)りし僞りの女、一はトロイアにありしギリシア人(びと)僞りのシノンなり、彼等劇しき熱の爲に臭き烟を出すことかく夥(おびたゞ)し 九七―九九
この時そのひとり、かくあしざまに名をいはれしを怨めるなるべし、拳(こぶし)をあげて彼の硬き腹を打ちしに 一〇〇―一〇二
その音恰も太鼓の如くなりき、マエストロ・アダモはかたさこれにも劣らじとみゆるおのが腕をもてかの者の顏を打ち 一〇三―一〇五
これにいひけるは、たとひこの身重くして動くあたはずともかゝる用(もちゐ)にむかひては自在の肱(かひな)我にあり 一〇六―一〇八
かの者即ち答へて曰ふ、火に行ける時汝の腕かくはやからず、貨幣(かね)を造るにあたりてはかく早く否これよりも早かりき 一〇九―一一一
水氣を病める者、汝のいへるは眞(まこと)なり、されどトロイアにて眞を問はれし時汝はかかる眞の證人(あかしびと)にあらざりき 一一二―一一四
シノネ曰ふ、我は言(ことば)にて欺けるも汝は貨幣(かね)にて欺けるなり、わがこゝにあるは一(ひとつ)の罪のためなるも汝の罪は鬼より多し 一一五―一一七
腹脹(ふく)るゝ者答へて曰ふ、誓ひを破れる者よ、馬を思ひいで、この事全世界にかくれなきをしりて苦しめ 一一八―一二〇
ギリシアの者曰ふ、汝はまた舌を燒くその渇(かわき)と腹を目の前の籬(まがき)となすその腐水(くさりみづ)のために苦しめ 一二一―一二三
この時贋金者(にせがねし)、汝の口は昔の如く己が禍ひのために開(あ)く、我渇き水氣によりて膨るるとも 一二四―一二六
汝は燃えて頭いためば、もしナルチッソの鏡だにあらば人のしふるをもまたで之を舐(ねぶ)らむ 一二七―一二九
我は彼等の言をきかんとのみ思ひたりしに、師我に曰ふ、汝少しく愼しむべし、われたゞちに汝と爭ふにいたらん 一三〇―一三二
彼怒りをふくみてかく我にいへるをきける時我は今もわが記憶に渦(うづま)くばかりの恥をおぼえて彼の方にむかへり 一三三―一三五
人凶夢を見て夢に夢ならんことをねがひ、すでに然るを然らざるごとく切(せち)に求むることあり 一三六―一三八
我亦斯くの如くなりき、我は口にていふをえざれば、たえず詫(わ)びつゝもなほ詫びなんことを願ひてわが既にしかせるを思ふことなかりき 一三九―一四一
師曰ふ、恥斯く大いならずともこれより大いなる過ちを洗ふにたる、されば一切の悲しみを脱れよ 一四二―一四四
若し民かくの如く爭ふところに命運汝を行かしむることあらば、わが常に汝の傍にあるをおもへ 一四五―一四七
かゝる事をきくを願ふはこれ卑しき願ひなればなり 一四八―一五〇
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   第三十一曲

同じ一の舌なれども先には我を刺して左右の頬を染め、後には藥を我にえさせき 一―三
聞くならくアキルレとその父の槍もまたかくのごとく始めは悲しみ後は幸ひを人に與ふる習ひなりきと 四―六
我等は背を幸(さち)なき大溪にむけ、之を繞れる岸の上にいで、言(ことば)も交(まじ)へで横ぎれり 七―九
さてこの邊(あたり)は夜たりがたく晝たりがたき處なれば、我は遠く望み見るをえざりしかど、はげしき雷(いかづち)をも微(かすか)ならしむるばかりに 一〇―
角笛(つのぶえ)高く耳にひゞきて我にその行方(ゆくへ)を溯りつゝ目を一の處にのみむけしめき ―一五
師(いくさ)いたましく敗れ、カルロ・マーニオその聖軍を失ひし後のオルラントもかくおそろしくは吹鳴らさゞりしなりけり 一六―一八
われ頭(かうべ)をかなたにめぐらしていまだほどなきに、多くの高き櫓(やぐら)をみしごとく覺えければ、乃ち曰ふ、師よ、告げよ、これ何の邑なりや 一九―二一
彼我に、汝はるかに暗闇の中をうかゞふがゆゑに量ることたゞしからざるにいたる 二二―二四
ひとたびかしこにいたらば遠き處にありては官能のいかに欺かれ易きものなるやをさだかに知るをえん、されば少しく足をはやめよ 二五―二七
かくてやさしく我手をとりていひけるは、我等かなたにゆかざるうち、この事汝にいとあやしとおもはれざるため 二八―三〇
しるべし、彼等は巨人にして櫓にあらず、またその臍(ほぞ)より下は坎(あな)の中岸のまはりにあり 三一―三三
水氣空に籠(こも)りて目にかくれし物の形、霧のはるゝにしたがひて次第に浮びいづるごとく 三四―三六
我次第に縁(ふち)にちかづきわが眼(まなこ)濃き暗き空を穿つにおよびて誤りは逃げ恐れはましぬ 三七―三九
あたかもモンテレッジオンが圓き圍(かこひ)の上に多くの櫓を戴く如く、おそろしき巨人等は 四〇―
その半身をもて坎をかこめる岸を卷けり(ジョーヴェはいまも雷(いかづち)によりて天より彼等を慴(おび)えしむ) ―四五
我は既にそのひとりの顏、肩、胸および腹のおほくと腋を下れる雙腕(もろかひな)とをみわけぬ 四六―四八
げに自然がかゝる生物を造るをやめてかゝる臣等(おみら)をマルテより奪へるは大いに善し 四九―五一
また彼象と鯨を造れるを悔いざれども、見ることさとき人はこれに依りて彼をいよいよ正しくいよ/\慮(おもんぱかり)あるものとなすべし 五二―五四
そは心の固めもし惡意と能力(ちから)に加はらばいかなる人もこれを防ぐあたはざればなり 五五―五七
顏は長く大きくしてローマなる聖ピエートロの松毯(まつかさ)に似、他(ほか)の骨みなこれに適(かな)へり 五八―六〇
されば下半身の裳(も)なりし岸は彼を高くその上に聳えしむ、おもふに三人(みたり)のフリジア人(びと)もその髮に屆(とゞ)くを 六一―
誇りえざりしなるべし、人の外套(うはぎ)を締合(しめあ)はすところより下方(した)わが目にうつれるもの裕(ゆたか)に三十パルモありき ―六六
ラフェル・マイ・アメク・ツアビ・アルミ、猛き口はかく叫べり、(これよりうるはしき聖歌はこの口にふさはしからず) 六七―六九
彼にむかひてわが導者、愚なる魂よ、怒り生じ雜念起らばその角笛に縋りて之をこころやりとせよ 七〇―七二
あわたゞしき魂よ、頸をさぐりてつなげる紐をえ、また笛のその大いなる胸にまつはるをみよ 七三―七五
かくてまた我に曰ひけるは、彼己が罪を陳ぶ、こはネムブロットなり、世に一の言語(ことば)のみ用ゐられざるは即ちそのあしき思ひによれり 七六―七八
我等彼を殘して去り、彼と語るをやめん、これ益なきわざなればなり、人その言(ことば)をしらざる如く彼また人の言をさとらじ 七九―八一
かくて左にむかひて我等遠くすゝみゆき弩(いしゆみ)とゞく間(あひ)をへだてゝまたひとりいよ/\猛くかつ大いなる者をみき 八二―八四
縛(しば)れる者の誰なりしや我はしらねど、彼鏈(くさり)をもてその腕を左はまへに右はうしろに繋(つな)がれ 八五―
この鏈頸より下をめぐりてその身のあらはれしところを絡(ま)くこと五囘(いつまき)に及べり ―九〇
わが導者曰ふ、この傲(たかぶ)る者比類(たぐひ)なきジョーヴェにさからひておのが能力(ちから)をためさんとおもへり、此故にこの報(むくい)をうく 九一―九三
彼名をフィアルテといふ、巨人等が神々の恐るゝところとなりし頃大いなる試(こゝろみ)をなし、その腕を振へるも、今や再び動かすによしなし 九四―九六
我彼に、若しかなはゞ願はくは量り知りがたきブリアレオのわが目に觸れなんことを 九七―九九
彼すなはち答へて曰ふ、汝はこゝより近き處にアンテオを見ん、彼語るをえて身に縛(いましめ)なし、また我等を凡ての罪の底におくらん 一〇〇―一〇二
汝の見んとおもふ者は遠くかなたにありてかくの如く繋がれ形亦同じ、たゞその姿いよ/\猛きのみ 一〇三―一〇五
フィアルテ忽ち身を搖(ゆ)れり、いかに強き地震(なゐ)といへどもその塔をゆるがすことかく劇しきはなし 一〇六―一〇八
此時我は常にまさりて死を恐れぬ、また若し繋(つなぎ)を見ることなくば怖れはすなはち死なりしなるべし 一〇九―一一一
我等すゝみてアンテオに近づけり、彼は岩窟(いはあな)より外にいづること頭を除きて五アルラを下らざりき 一一二―一一四
あゝアンニバールがその士卒と共に背(そびら)を敵にみせし時、シピオンを譽の嗣(よつぎ)となせし有爲(うゐ)の溪間に 一一五―一一七
そのかみ千匹の獅子の獲物(えもの)をはこべる者よ(汝若し兄弟等のゆゝしき師(いくさ)に加はりたらば地の子等勝利(かち)をえしものをと 一一八―
いまも思ふものあるに似たり)、願はくは我等を寒さコチートを閉すところにおくれ、これをいとひて ―一二三
我等をティチオにもティフォにも行かしむる勿れ、この者よく汝等のこゝに求むるものを與ふるをうるがゆゑに身を屈(かゞ)めよ、顏を顰(しか)むる勿れ 一二四―一二六
彼はこの後汝の名を世に新にするをうるなり、彼は生く、また時未だ至らざるうち恩惠(めぐみ)彼を己が許によぶにあらずばなほ永く生くべし 一二七―一二九
師かく曰へり、彼速かに嘗てエルクレにその強(つよみ)をみせし手を伸べてわが導者を取れり 一三〇―一三二
ヴィルジリオはおのが取られしをしりて我にむかひ、こゝに來(こ)よ、我汝をいだかんといひ、さて己と我とを一の束(たば)とせり 一三三―一三五
傾ける方(かた)よりガーリセンダを仰ぎ見れば、雲その上を超ゆる時これにむかひてゆがむかと疑はる 一三六―一三八
われ心をとめてアンテオの屈むをみしにそのさままた斯くの如くなりき、さればほかの路を行かんとの願ひもげにこれ時に起れるなるを 一三九―一四一
彼は我等をかるやかにジユダと共にルチーフェロを呑める底におき、またかくかゞみて時ふることなく 一四二―一四四
船の檣の如く身を上げぬ 一四五―一四七
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   第三十二曲

若し我にすべての巖壓(いはほお)しせまる悲しみの坎(あな)にふさはしきあらきだみたる調(しらべ)あらば 一―三
我わが想(おもひ)の汁(しる)をなほも漏れなく搾(しぼ)らんものを、我に是なきによりて語るに臨み心後る 四―六
夫れ全宇宙の底を説くは戲れになすべき業(わざ)にあらず、阿母阿父とよばゝる舌また何ぞよくせんや 七―九
たゞ願はくはアムフィオネをたすけてテーべを閉せる淑女等わが詩をたすけ、言(ことば)の事と配(そ)はざるなきをえしめんことを 一〇―一二
あゝ萬の罪人にまさりて幸なく生れし民、語るも苦(つら)き處に止まる者等よ、汝等は世にて羊または山羊(やぎ)なりしならば猶善かりしなるべし 一三―一五
我等は暗き坎(あな)の中巨人の足下(あしもと)よりはるかに低き處におりたち、我猶高き石垣をながめゐたるに 一六―一八
汝心して歩め、あしうらをもて幸なき弱れる兄弟等の頭を踏むなかれと我にいふものありければ 一九―二一
われ身をめぐらしてみしにわが前また足の下に寒さによりて水に似ず玻璃に似たる一の池ありき 二二―二四
冬のオステルリッキなるダノイアもかの寒空(さむぞら)の下なるタナイもこの處の如く厚き覆面衣(かほおひ)をその流れの上につくれることあらじ 二五―
げにタムベルニッキまたはピエートラピアーナその上に落ちぬともその縁(ふち)すらヒチといはざりしなるべし ―三〇
また農婦が夢にしば/\落穗を拾ふころ、顏を水より出して鳴かんとする蛙の如く 三一―三三
蒼ざめしなやめる魂等は愧(はぢ)のあらはるゝところまで氷にとざゝれ、その齒を鶴の調(しらべ)にあはせぬ 三四―三六
彼等はみなたえず顏を垂る、寒さは口より憂き心は目よりおの/\その證(あかし)をうけぬ 三七―三九
我しばしあたりをみし後わが足元にむかひ、こゝに頭の毛まじらふばかりに近く身をよせしふたりの者を見き 四〇―四二
我曰ふ、胸をおしあはす者よ、汝等は誰なりや我に告げよ、彼等頸をまげ顏をあげて我にむかへるに 四三―四五
さきに内部(うち)のみ濕へるその眼(まなこ)、あふれながれて唇に傳はり、また寒さは目の中の涙を凍らしてふたゝび之をとざせり 四六―四八
鎹(かすがひ)といふともかくつよくは木と木をあはすをえじ、是に於て彼等はげしき怒りを起し、二匹の牡山羊(をやぎ)の如く衝(つ)きあへり 四九―五一
またひとり寒さのために耳を二(ふたつ)ともに失へるもの、うつむけるまゝいひけるは、何ぞ我等をかく汝の鏡となすや 五二―五四
汝このふたりの誰なるを知らんとおもはゞ、聞くべし、ビセンツォの流るゝ溪は彼等の父アルベルト及び彼等のものなりき 五五―五七
彼等は一の身より出づ、汝あまねくカイーナをたづぬとも、氷の中に埋(いけ)らるゝにふさはしきこと彼等にまさる魂をみじ 五八―六〇
アルツーの手にかゝりたゞ一突(ひとつき)にて胸と影とを穿たれし者も、フォカッチヤーも、また頭をもて我を妨げ我に遠く 六一―
見るをえざらしむるこの者(名をサッソール・マスケローニといへり、汝トスカーナ人(びと)ならばよく彼の誰なりしやをしらむ)もまさらじ ―六六
又汝かさねて我に物言はす莫からんため、我はカミチオン・デ・パッチといひてカルリンのわが罪をいひとくを待つ者なるをしるべし 六七―六九
かくて後我は寒さのため犬の如くなれる千の顏をみき、又之を見しによりて凍れる沼は我をわなゝかしむ、後もまた常にしからむ 七〇―七二
我等一切の重力集まる處なる中心にむかひてすゝみ、我はとこしへの寒さの中にふるひゐたりし時 七三―七五
天意常數命運のいづれによりしやしらず、頭(かうべ)の間を歩むとてつよく足をひとりの者の顏にうちあてぬ 七六―七八
彼泣きつゝ我を責めて曰ひけるは、いかなれば我をふみしくや、モンタペルティの罰をまさんとて來れるならずば何ぞ我をなやますや 七九―八一
我、わが師よ、わがこの者によりて一の疑ひを離るゝをうるため請ふ、この處にて我を待ち、その後心のまゝに我をいそがせたまへ 八二―八四
導者は止まれり、我すなはちなほ劇しく詛ひゐたる者にむかひ、汝何者なればかく人を罵るやといへるに 八五―八七
彼答へて、しかいふ汝は何者なればアンテノーラを過ぎゆきて人の頬を打つや、汝若し生ける者なりせば誰かはこれに耐(た)へうべきといふ 八八―九〇
我答へて曰ひけるは、我は生く、このゆゑに汝名を求めば、わが汝の名を記録の中にをさむるは汝の好むところなるべし 九一―九三
彼我に、わが求むるものはその反對(うら)なり、こゝを立去りてまた我に累をなすなかれ、かく諂(へつら)ふともこの窪地(くぼち)に何の益あらんや 九四―九六
この時我その項(うなじ)の毛をとらへ曰ひけるは、いまはのがるゝに途なし、若し名をいはずば汝の髮一筋をだにこゝに殘さじ 九七―九九
彼聞きて曰ふ、汝たとひわが髮を□(むし)るとも我の誰なるやを告げじ、また千度(ちたび)わが頭上(づじやう)に落來るともあらはさじ 一〇〇―一〇二
我ははやくも髮を手に捲き、これを拔くこと一房より多きにおよび、彼は吠えつゝたえずその目を垂れゐたるに 一〇三―一〇五
ひとり叫びていひけるは、ボッカよ何をかなせる、□(あぎと)を鳴らすもなほ足らずとて吠ゆるか、汝に觸(さは)るは何の鬼ぞや 一〇六―一〇八
我曰ふ、恩に背きし曲者奴(くせものめ)、いまは汝に聞くの用なし、我汝の眞(まこと)の消息(おとづれ)を携へゆきこれを汝の恥となさん 一〇九―一一一
彼答へて曰ふ、往け、しかして思ひのまゝにかたれ、されど汝この中よりいでなば、いまかく口を輕くせし者のことをものべよ 一一二―一一四
彼こゝにフランス人(びと)の銀を悼(いた)む、汝いふべし、我は罪人の冷ゆる處にヅエラの者をみたりきと 一一五―一一七
汝またほかに誰ありしやと問はるゝことあらん、しるべし、汝の傍(そば)にはフィオレンツァに喉を切られしベッケーリアの者あり 一一八―一二〇
かなたにガネルローネ及び眠れるファーエンヅァをひらきしテバルデルロとともにあるはおもふにジャンニ・デ・ソルダニエルなるべし 一二一―一二三
我等既に彼をはなれし時我は一の孔の中に凍れるふたりの者をみき、一の頭は殘りの頭の帽となり 一二四―一二六
上なるものは下なるものゝ腦(なう)と項(うなじ)とあひあふところに齒をくだし、さながら饑ゑたる人の麪麭(パン)を貪り食ふに似たりき 一二七―一二九
怒れるティデオがメナリッポの後額(こめかみ)を噛めるもそのさま之に異ならじとおもふばかりにこの者腦蓋(なうがい)とそのあたりの物とをかめり 一三〇―一三二
我曰ふ、あゝかく人を食(は)みあさましきしるしによりてその怨みをあらはす者よ、我に故を告げよ、我も汝と約を結び 一三三―一三五
汝の憂ひに道理(ことわり)あらば、汝等の誰なるや彼の罪の何なるやをしり、こののち上(うへ)の世に汝にむくいん 一三六―一三八
わが舌乾くことなくば 一三九―一四一
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   第三十三曲

かの罪人(つみびと)口をおそろしき糧(かて)よりもたげ、後方(うしろ)を荒らせし頭なる毛にてこれをぬぐひ 一―三
いひけるは、望みなき憂ひはたゞ思ふのみにて未だ語らざるにはやくも我心を絞るを、汝これを新(あらた)ならしめんとす 四―六
されどわが言(ことば)我に噛まるゝ逆賊の汚辱(をじよく)の實を結ぶ種たりうべくば汝はわがかつ語りかつ泣くを見ん 七―九
我は汝の誰なるをも何の方法(てだて)によりてこゝに下れるをも知らず、されどその言をきくに汝は必ずフィレンツェの者ならん 一〇―一二
汝知るべし、我は伯爵(コンテ)ウゴリーノ此(こ)は僧正ルツジェーリといへる者なり、いざ我汝に何によりてか上る隣人(となりびと)となれるやを告げん 一三―一五
彼の惡念あらはるゝにおよびて彼を信ぜる我とらへられ、のち殺されしことはいふを須ひず 一六―一八
されば汝の聞きあたはざりし事、乃ちわが死のいかばかり殘忍なりしやは汝聞きて彼我を虐(しひた)げざりしや否やを知るべし 一九―二一
わがためには餓(うゑ)の名をえてこののちなほも人を籠(こ)むべき塒(とや)なる小窓が 二二―二四
既に多くの月をその口より我に示せる頃、我はわが行末の幔(まく)を裂きし凶夢を見たり 二五―二七
すなはちこの者長(をさ)また主(きみ)となりてルッカをピサ人に見えざらしむる山の上に狼とその仔等を逐ふに似たりき 二八―三〇
肉瘠せ氣燥(はや)り善く馴らされし牝犬(めいぬ)とともにグアンディ、シスモンディ、ランフランキをその先驅(さきて)とす 三一―三三
逐はれて未だ程なきに父も子もよわれりとみえ、我は彼等が鋭き牙にかけられてその傍腹(わきばら)を裂かるゝを見しとおぼえぬ 三四―三六
さて曉に目をさましし時我はともにゐしわが兒等の夢の中に泣きまた麪麭(パン)を乞ふ聲をきゝぬ 三七―三九
若しわが心にうかべる禍ひの兆(きざし)をおもひてなほいまだ悲しまずば汝はげに無情なり、若し又泣かずば汝の涙は何の爲ぞや 四〇―四二
彼等はめさめぬ、糧(かて)の與へらるべき時は近づけり、されど夢のためそのひとりだに危ぶみ恐れざるはなかりき 四三―四五
この時おそろしき塔の下なる戸に釘打つ音きこえぬ、我はわが兒等の顏を見るのみ言(ことば)なし 四六―四八
我は泣かざりき、心石となりたればなり、彼等は泣けり、わがアンセルムッチオ、かく見たまふは父上いかにしたまへるといふ 四九―五一
かくても我に涙なかりき、またわれ答へでこの日この夜をすごし日輪再び世にあらはるゝ時に及べり 五二―五四
微(かすか)なる光憂ひの獄(ひとや)にいりきたりてかの四の顏にわれ自らのすがたをみしとき 五五―五七
我は悲しみのあまり雙手(もろて)を噛めり、わがかくなせるを食(くら)はんためなりとおもひ、彼等俄かに身を起して 五八―六〇
いひけるは、父よ我等をくらひたまはゞ我等の苦痛(いたみ)は却つて輕からむ、この便(びん)なき肉を我等に着せたまへるは汝なれば汝これを剥(は)ぎたまへ 六一―六三
我は彼等の悲しみを増さじとて心をしづめぬ、この日も次の日も我等みな默(もだ)せり、あゝ非情の土よ、汝何ぞ開かざりしや 六四―六六
第四日(よつかめ)になりしときガッドはわが父いかなれば我をたすけたまはざるやといひ、身をのべわがあしもとにたふれて 六七―六九
その處に死にき、かくて五日と六日目の間に我はまのあたり三人(みたり)のあひついでたふるゝをみぬ、我また盲(めしひ)となりしかば 七〇―
彼等を手にてさぐりもとめて死後なほその名を呼ぶこと二日、この時斷食の力憂ひにまさるにいたれるなりき ―七五
かくいへる時彼は目を斜(なゝめ)にしてふたゝび幸(さち)なき頭顱(かうべ)を噛めり、その齒骨に及びて強きこと犬の如くなりき 七六―七八
あゝピサよ、シを語となすうるはしき國の民の名折(なをれ)よ、汝の隣人(となりびと)等汝を罰するおそければ 七九―八一
ねがはくはカプライアとゴルゴーナとゆるぎいでゝアルノの口に籬(まがき)をめぐらし、汝の中なる人々悉く溺れ死ぬるにいたらんことを 八二―八四
そはたとひ伯爵(コンテ)ウゴリーノに汝に背きて城を賣れりとのきこえありとも汝は兒等をかく十字架につくべきにあらざればなり 八五―八七
第二のテーべよ、年若きが故にすなはち罪なし、ウグッチオネもイル・ブリガータもまた既にこの曲に名をいへる二人(ふたり)の者も 八八―九〇
我等はなほ進み、ほかの民の俯(うつむ)かずうらがへりてあらく氷に包まるゝところにいたれり 九一―九三
こゝには憂へ憂ひをとゞめ、なやみは目の上の障礙(しやうげ)にさへられ、苦しみをまさんとて内部(うち)にかへれり 九四―九六
そははじめの涙凝塊(かたまり)となりてあたかも玻璃の被物(おほひ)の如く眉の下なる杯を滿たせばなり 九七―九九
わが顏は寒さのため、胼胝(たこ)のいでたるところにひとしく凡ての感覺を失へるに 一〇〇―一〇二
この時わが風に觸るゝを覺え、曰ひけるは、わが師よ、これを動かすものは誰ぞや、この深處(ふかみ)には一切の地氣消ゆるにあらずや 一〇三―一〇五
彼即ち我に、汝は程なく汝の目が風を降(ふ)らす源(もと)をみてこれが答を汝にえさすところにいたらん 一〇六―一〇八
氷の皮なる幸なき者の中ひとり叫びて我等にいひけるは、あゝ非道にして最後の立處(たちど)に罪なはれたる魂等よ 一〇九―一一一
堅き被物(おほひ)を目よりあげて涙再び凍らぬまに我胸にあふるゝ憂ひを少しく洩すことをえしめよ 一一二―一一四
我すなはち彼に、わが汝をたすくるをねがはゞ汝の誰なるやを我に告げよ、かくして我もしその支障(さゝはり)を去らずば我は氷の底にゆくべし 一一五―一一七
この時彼答ふらく、我は僧(フラーテ)アルベリーゴなり、よからぬ園の木の實の事ありてここに無花果に代へ無漏子(むろし)をうく 一一八―一二〇
我彼に曰ふ、さらば汝既に死にたるか、彼我に、我はわが體(からだ)のいかに上の世に日をふるやをしらず 一二一―一二三
このトロメアには一の得ありていまだアトローポスに追はれざるに魂しば/\こゝに落つることあり 一二四―一二六
また汝玻璃にひとしき此涙をいよ/\こゝろよくわが顏より除くをえんため、しるべし、魂わがなせるごとく信に背くことあれば 一二七―
鬼たゞちにその體(からだ)を奪ひ、みづからこれが主となりて時のめぐりをはるを待ち ―一三二
おのれはかゝる水槽(みづぶね)の中におつ、さればわが後方(うしろ)に冬を送る魂もおもふにいまなほその體(からだ)を上の世にあらはすなるべし 一三三―一三五
汝今此處にくだれるならば彼を知らざることあらじ、彼はセル・ブランカ・ドーリアなり、かく閉されてより既に多くの年を經たり 一三六―一三八
我彼に曰ふ、我は汝の欺くをしる、ブランカ・ドーリアは未だ死なず、彼食(く)ひ飮み寢(い)ねまた衣(ころも)を着るなり 一三九―一四一
彼曰ふ、上なるマーレブランケの濠の中、粘(ねば)き脂(やに)煮ゆるところにミケーレ・ツァンケ未だ着かざるうち 一四二―一四四
この者その體(からだ)に鬼を殘して己にかはらせ、彼と共に逆を行へるその近親のひとりまたしかなせり 一四五―一四七
されどいざ手をこなたに伸べて我目をひらけ、我はひらかざりき、彼にむかひて暴(みだり)なるは是即ち道なりければなり 一四八―一五〇
あゝジエーノヴァ人(びと)よ、一切の美風をはなれ一切の邪惡を滿たす人々よ、汝等の世より散りうせざるは何故ぞ 一五一―一五三
我は極惡(ごくあく)なるローマニアの魂と共に汝等のひとりその行(おこなひ)によりて魂すでにコチートに浸(ひた)り 一五四―
身はなほ生きて地上にあらはるゝ者をみたりき ―一五九
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   第三十四曲

地獄の王の旗あらはる、此故に前方(まへ)を望みて彼を認むるや否やを見よ、わが師かく曰へり 一―三
濃霧起る時、闇わが半球を包む時、風のめぐらす碾粉車(こひきぐるま)の遠くかなたに見ゆることあり 四―六
我もこの時かゝる建物(たてもの)をみしをおぼえぬ、また風をいとへどもほかに避くべき處なければ、われ身を導者の後方(うしろ)に寄せたり 七―九
我は既に魂等全く掩(おほ)ひ塞(ふさ)がれ玻璃の中なる藁屑(わらくづ)の如く見え透(す)ける處にゐたり(これを詩となすだに恐ろし) 一〇―一二
伏したる者あり、頭を上にまたは蹠(あしうら)を上にむけて立てる者あり、また弓の如く顏を足元(あしもと)に垂れたる者ありき 一三―一五
我等遠く進みし時、わが師は昔姿美しかりし者を我にみすべき機(おり)いたれるをみ 一六―一八
わが前をさけて我にとゞまらせ、見よディーテを、また見よ雄々(をゝ)しさをもて汝を固(かた)むべきこの處をといふ 一九―二一
この時我身いかばかり冷(ひ)えわが心いかばかり挫(くじ)けしや、讀者よ問ふ勿れ、言(ことば)及ばざるがゆゑに我これを記(しる)さじ 二二―二四
我は死せるにもあらずまた生けるにもあらざりき、汝些(すこし)の理解(さとり)だにあらば請ふ今自ら思へ、彼をも此をも共に失へるわが當時のさまを 二五―二七
悲しみの王土の帝(みかど)その胸の半(なかば)まで氷の外(そと)にあらはれぬ、巨人をその腕に比ぶるよりは 二八―
我を巨人に比ぶるかたなほ易し、その一部だにかくのごとくば之に適(かな)へる全身のいと大いなること知りぬべし ―三三
彼今の醜(みにく)きに應じて昔美しくしかもその造主(つくりぬし)にむかひて眉を上げし事あらば一切の禍ひ彼よりいづるも故なきにあらず 三四―三六
我その頭に三の顏あるを見るにおよびてげに驚けることいかばかりぞや、一は前にありて赤く 三七―三九
殘る二は左右の肩の正中(たゞなか)の上にてこれと連(つらな)り、かつ三ともに□冠(とさか)あるところにて合へり 四〇―四二
右なるは白と黄の間の色の如く、左なるはニーロの水上(みなかみ)より來る人々の如くみえき 四三―四五
また顏の下よりはかゝる鳥ににつかしき二(ふたつ)の大いなる翼いでたり、げにかく大いなるものをば我未だ海の帆にも見ず 四六―四八
此等みな羽なくその構造(つくりざま)蝙蝠(かうもり)の翼に似たり、また彼此等を搏ち、三の風彼より起れり 四九―五一
コチートの悉く凍れるもこれによりてなりき、彼は六の眼(まなこ)にて泣き、涙と血の涎(よだれ)とは三の頤(おとがひ)をつたひて滴(したゝ)れり 五二―五四
また口毎にひとりの罪人(つみびと)を齒にて碎くこと碎麻機(あさほぐし)の如く、かくしてみたりの者をなやめき 五五―五七
わけて前なる者は爪にかけられ、その背しば/\皮なきにいたれり、これにくらぶれば噛まるゝは物の數ならじ 五八―六〇
師曰ふ、高くかしこにありてその罰最も重き魂はジユダ・スカリオットなり、彼頭を内にし脛を外に振る 六一―六三
頭さがれるふたりのうち、黒き顏より垂るゝはプルートなり、そのもがきて言(ことば)なきを見よ 六四―六六
また身いちじるしく肥ゆとみゆるはカッシオなり、されど夜はまた來れり、我等すでにすべてのものを見たればいざゆかん 六七―六九
我彼の意に從ひてその頸を抱けるに彼はほどよき時と處をはかり、翼のひろくひらかれしとき 七〇―七二
毛深き腋に縋(すが)り、叢(むら)また叢をつたはりて濃き毛と氷層のあひだをくだれり 七三―七五
かくて我等股の曲際(まがりめ)腰の太(ふと)やかなるところにいたれば導者は疲れて呼吸(いき)もくるしく 七六―七八
さきに脛をおけるところに頭をむけて毛をにぎり、そのさま上(のぼ)る人に似たれば我は再び地獄にかへるなりとおもへり 七九―八一
よわれる人の如く喘ぎつゝ師曰ひけるは、かたくとらへよ、我等はかゝる段(きだ)によりてかゝる大いなる惡を離れざるをえず 八二―八四
かくて後彼とある岩の孔(あな)をいで、我をその縁(ふち)にすわらせ、さて心して足をわが方(かた)に移せり 八五―八七
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を擧げて見たりしにその脛上にありき 八八―九〇
わが此時の心の惑ひはわが過ぎし處の何なるやを辨(わきま)へざる愚なる人々ならではしりがたし 九一―九三
師曰ふ、起きよ、路遠く道程(みちすぢ)艱(かた)し、また日は既に第三時の半に歸れり 九四―九六
我等の居りし處は御館(みたち)の廣間(ひろま)にあらず床(ゆか)粗(あら)く光乏しき天然の獄舍(ひとや)なりき 九七―九九
我立ちて曰ひけるは、師よ、わがこの淵を去らざるさきに少しく我に語りて我を迷ひの中よりひきいだしたまへ 一〇〇―一〇二
氷はいづこにありや、この者いかなればかくさかさまに立つや、何によりてたゞしばしのまに日は夕(ゆふ)より朝に移れる 一〇三―一〇五
彼我に、汝はいまなほ地心のかなた、わがさきに世界を貫くよからぬ蟲の毛をとらへし處にありとおもへり 一〇六―一〇八
汝のかなたにありしはわがくだれる間のみ、われ身をかへせし時汝は重量(おもさ)あるものを四方より引く點を過ぎ 一〇九―一一一
廣き乾ける土に蔽はれ、かつ罪なくして世に生れ世をおくれる人その頂點のもとに殺されし半球を離れ 一一二―
いまは之と相對(あひむか)へる半球の下にありて、足をジユデッカの背面を成す小さき球の上におくなり ―一一七
かしこの夕はこゝの朝にあたる、また毛を我等の段(きだ)となせし者の身をおくさまは今も始めと異なることなし 一一八―一二〇
彼が天よりおちくだれるはこなたなりき、この時そのかみこの處に聳えし陸は彼を恐るゝあまり海を蔽物(おほひ)となして 一二一―一二三
我半球に來れるなり、おもふにこなたにあらはるゝものもまた彼をさけんためこの空處をこゝに殘して走り上(のぼ)れるなるべし 一二四―一二六
さてこの深みにベルヅエブの許より起りてその長さ墓の深さに等しき一の處あり、目に見えざれども 一二七―
一の小川の響きによりてしらる、この小川は囘(めぐ)り流れて急ならず、その噛み穿てる岩の中虚(うつろ)を傳はりてこゝにくだれり ―一三二
導者と我とは粲(あざや)かなる世に歸らんため、このひそかなる路に入り、しばしの休(やすみ)をだにもとむることなく 一三三―一三五
わが一の圓き孔の口より天の負(お)ひゆく美しき物をうかゞふをうるにいたるまで、彼第一に我は第二に上(のぼ)りゆき 一三六―一三八
かくてこの處をいでぬ、再び諸□の星をみんとて 一三九―一四一
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       註


    第一曲

ダンテ路を失ひて暗き林の中に迷ふ、會□一丘上に光明を認め之に向ひて進む、されど豹、獅子、狼の出でゝ路を塞ぐにあひ再び林にかへらんとす、この時ウェルギリウスこれにあらはれて救ひの道を示し三界の歴程を勤め且つ自ら導者となりてまづ地獄、淨火をめぐらんと告ぐ
一―三
【正路】有徳の路
【半】詩人三十五歳の時、人生を七十と見做してその半にあたるをいふ(詩篇、九〇・一〇及びダンテの『コンヴィヴィオ』四・二三、八八以下參照)
ダンテの生れしは一二六五年なり、故に『神曲』示現の時は一三〇〇年聖金曜日の前夜にはじまる(地、二・一註參照)一三〇〇年はダンテがフィレンツェのプリオレとなりし年又ローマに有名なる大會式(ジュビレーオ)(地、一八・二九及び註參照)ありし年なり
【林】罪の路乃ち時黒なる娑婆世界
七―九
【幸】覺醒、理性の聲を聞き、覺めて救ひの路に就くにいたれること
一〇―一二
【睡り】罪の甘き夢に魁せられ我知らず光の路を失へるさま
一三―一五
【溪】即ち暗き林
【山】喜びの始めまた源なる幸の山(七八行)、罪の路は林の苦しみに導き有徳の路は山の喜びに導く
一六―一八
【直くみちびく】ヨハネ、一一・九に曰、人若し晝あるかば躓くことなしこの世の光を見るによりてなり
【遊星】太陽、當時遊星の一にかぞへられたればなり、太陽の光は神より出づる生命の光なり(ヨハネ、八・一二)
二二―二四
【人】破船の厄に遭へる人
二五―二七
【路】林の路、即ち罪の生涯を囘顧せるなり
二八―三〇
【低き足】坂路を上るが故に片足高く片足低し
三一―三三
【豹】肉慾の象徴、その皮斑紋ありて美しければなり
註釋者曰、豹、獅子、狼は肉慾、慢心、貪婪の三惡を表はし、エレミヤ、五・六に、林よりいづる獅子は彼等を殺し荒野の狼は彼等を滅ぼし豹は彼等の町々をねらふとあるに據れるなりと
三七―四五
【朝の始め】一三〇〇年聖金曜日の朝まだき
【星】白羊宮の星、太陽の白羊宮にあるは春の始め(三月下旬より四月下旬まで)なり
傳説に曰、天地の創造せられし時は春なり而して太陽が白羊宮に入りてその運行をはじめし日乃ち春分はキリストの懷胎並びに磔殺の日と相同じと
【美しき物】天體(地、三四・一三七參照)神天地を造り日月星辰に始めて運行を與へ給へる時白羊宮にありし太陽はこの天宮の中なる他の諸星と共に今同じ處にありて登れり
【望み】豹に勝つべき望み
四九―五〇
【多くの民】貪婪の禍ひ大なるをいふ
五八―六〇
【默す】光照らざる
六一―六三
【聲嗄る】久しく人と語らざる古人の靈の如く見えたり
六七―六九
【彼】ウェルギリウス(ヴィルジリオ)、有名なるラテン詩人(前七〇―一九年)、著書數卷あり、就中『アエネイス』最もあらはる
ウェルギリウスはホメロスと共に古來最大詩人の一に數へられ、中古特にいちじるしく歎美せられし詩人なり、しかしてダンテのあまねくその著作を愛讀しこれに精通せるは、この曲中ダンテ自らいへること及び『神曲』を通じてこの古詩人を引照せる甚だ多き事等によりてあきらかなり、『アエネイス』はその詩材よりいふもアエネアスの冥府めぐりイタリア建國の事業等ダンテ自身及びその詩に關係深きものゝみなればこの歌の作者を導者にえらべるはその當をえたりといふべし、『神曲』中のウェルギリウスは理性若しくは哲理の代表者なり
【ロムバルディア】イタリア北部の國名、ダンテの時代には今の所謂ロムバルディアより廣かりきといふ
【マントヴァ】ロムバルディアにある町、その地勢及び由來は地、二〇・五五以下に詳し
七〇―七二
【後れて】ウェルギリウスはユーリウス・カエサル(ジウリオ・チエーザレ)に後るゝこと二十九年にして生れカエサルの殺害せられしとき二十六歳なりき
おもふに七〇行の Sub Iulio(ユーリオの世)はカエサルの名の世に知られし時をも加へおしなべてかくいへるなるべし、カエサルが政權を掌握せるはウェルギリウスの誕生よりはるかに後の事なればなり
【アウグスト】アウグストゥス・オクタウィアヌス、ローマ皇帝(前六三―後一四年)
七三―七五
【イーリオン】トロイア。小アジアの海濱にありし町にて有名なるトロイア戰爭ありし處
トロイア王プリアモスの子パリス、スパルタ王メネラオスに客たりしがその妻ヘレネを奪ひて本國に歸り、これがためにトロイア戰爭なるもの起るにいたれるなり、戰ひ十年に亙りて城陷り兵火に罹りて燒く
【アンキーゼの義しき子】アエネアス、アンキセスとアプロディテの間に生る、トロイアの名將なり
ウェルギリウスの『アエネイス』はトロイア城陷落の後なるアエネアスの流落にはじまり、そのイタリアにいたりツルヌスを殺して建國の基を起すにをはる
八五―八七
【譽】『神曲』以前の作なる短詩すでに世に知らる(淨、二四・四九以下參照)
九一―九三
【他(ほか)の路】罪の恐るべきをさとれる者徳の生涯を心中に畫くといへども未だ全く罪の覊絆を脱せるにあらず徳に入るの準備成れるにあらねばたゞちに光明の山に登りて神恩に浴する能はず、まづ地獄を經て罪をはなれ淨火を經て穢れを淨めざるべからず
一〇〇―一〇二
【妻とする獸】貪婪に伴ふ罪惡
【獵犬】將來世に出でゝ物質上及び精神上よりその救ひとなるべき偉大の人物(恐らくは皇帝若しくは法王)
註釋者或ひはキリストの再來をいひ或ひは當時ヴェロナの明君なりしカン・グランデ・デルラ・スカーラの如き知名の士を擧ぐるもいづれも疑はし、思ふに捕捉し難きダンテの獵犬にしひて具體的な解釋を求めんとするは無益の業ならん
一〇三―一〇五
【フェルトロ】意義不明
一〇六―一〇八
【カムミルラ】ヴォルシ人の王メタブルの女なり、ツルヌスを助けてトロイア人と戰ひ、戰死す(『アエネイス』七・八〇三及び一一卷)
【エウリアーロ、ニソ】エウリアルス、ニスス共にトロイア人、友情を以て名高し、ヴォルシ人と戰ひ共に斃る(同上、九・一七九以下)
【ツルノ】ツルヌス、ルツルリア人の王、アエネアスと戰ひて死す(同上、一二卷)
【低きイタリア】古くラチオ(ラティウム)と稱しローマを含めるイタリアの一部、北方の高地に對し平野多きを以て低しといふ
一〇九―一一一
【嫉み】地獄の王ルチーフェロ(ルキフェル)の嫉み、惡魔人類の幸福をねたみ、禍ひの獸なる貪慾を世に放てるなり
一一二―一一四
【不朽の地】地獄
一一五―一一七
異本曰、汝はそこに望みなき叫びを聞き第二の死を呼び求なる古のなやめる魂をみるべし
【第二の死】魂肉を離るゝは第一の死、魂無に歸するは第二の死なり、地獄に罰をうくる魂苦しみのあまり己の滅び失せんことを求むるなり
【古の】ダンテ以前の死者を總括していへり
一一八―一二〇
時滿ちて天界に登るを得る望みあるが故に甘んじて淨めの苦しみをうくる淨火中の魂
一二一―一二三
【魂】ベアトリーチェ
一二四―一二六
【律法に背ける】神をあがむるの道をつくさゞりしをいふ(地、四・三八)
一三〇―一三二
【禍ひ】現世の
【大なる禍ひ】後世の
一三三―一三五
【聖ピエートロの門】淨火の門、キリスト鑰をピエートロに與へ(マタイ、一六・一九)、ピエートロはこれを天使に托して淨火の門を開閉せしむ(淨、九・一一七以下參照)


    第二曲

既にしてダンテ自らかへりみてその力よく冥界をめぐるに足るや否やを疑ふ、ウェルギリウス乃ちこれに告ぐるに己がリムボを出でゝ曠野に來るに至れる由來を以てし、これを勵まして地獄にむかはしむ
一―三
【日は傾けり】一三〇〇年四月八日の夕暮
兩詩人の地獄にむかへるは一三〇〇年の聖金曜日なりしこと地、二一・一一二以下なるマラコダの言によりて明かなり、されどこの金曜日は何月何日に當りしや、或人は三月二十五日といひ或人は四月八日といふ、こゝにはムーア博士の説に從ひて後説を採れり、詳しくは博士の『神曲中の時に就て』(Moore, Time-Reference in the Divina Commedia)を見よ
四―六
ダンテに二の難あり、路の瞼惡なるは其一、見るに忍びざる罪人の苦患を見るの苦しみ其二なり、前者は身を攻め後者は心を攻む
七―九
【ムーゼ】ムーサ、神話中の女神、九柱ありて詩音樂等を司る
第一曲は『神曲』の總序にして所謂地獄篇は第二曲にはじまるが故にこゝにムーゼと理想の才と記憶とを呼べり、卷頭に詩神をよべるは古來詩人の例に倣へるなり、『神曲』の他の二篇また然り
一三―一五
【いへらく】『アエネイス』六・二三六以下に
【シルヴィオの父】アユネアス、シルウィウス(シルヴィオ)はアエネアスとラウィニア(地、四・一二六)の間の子なり
一六―一八
【誰】ローマ人の祖先
【何】ローマ帝國の創業者
【衆惡の敵】神
一九―二一
【エムピレオの天】至高の天
二二―二四
ローマ(彼)もローマ帝國(此)も神の定むるところによりて共に聖地となり聖ピエートロの後繼者なる法王の座所こゝにあり
寺院と互に獨立し、しかも相提携して天命を行ふ、これダンテの理想の帝國なり
【大ピエロ】聖ピエートロ又はペテロ、キリスト十二弟子の一、道をローマに傳へ、教に殉じて死す
二五―二七
アエネアス冥府にゆきてその父アンキセスにめぐりあひ、これと語りて己が將來の事を知り信念いよ/\固く遂にイタリアにいたりて亂を平げ建國の基を起せり、されば後年法王の座所をこの地に見るにいたれるもアエネアスの冥府めぐりに負ふとこる多し
二八―三〇
【選の器】使徒パウロ(使徒、九・一五)
【かしこ】冥界
コリント後、一二・二以下にはたゞ第三の天に擧げらる云々とあり、されど中世紀の傳説によればパウロは天堂のみならず地獄にも赴けるなり
五二―五四
【懸垂の衆】第一の地獄なるリムボの賢哲、天界の祝福を受くるにあらず地獄の苛責を受くるにあらすその中間に懸れるなり
【淑女】ベアトリーチェ(七〇―七二行註參照)
五八
【動】諸天の運行、即ち時の存するかぎり
異本、世のあるかぎりは殘らん
譯者曰くこの書本文殆ど全くムーアの『ダンテ全集』(Tutte le Opere di Dante Alighieri)に據れり、異本各種の比較については同博士の『神曲用語批判』(Textual Criticism of the Divina Commedia)を見ば詳細を知るをうべし、乃ちこの項 moto 及び mondo の比較はその第二七一―三頁にあり、以下煩を避けて一々引照せず
六一―六三
我に愛せられてしかも命運に愛せられざるもの
七〇―七二
【ベアトリーチェ】ダンテの『新生』(La Vita Nuova)に出づる詩人の戀人
(1)『新生』の解説につきては甲論乙駁今に至りて定説なし、されどこれを以て史實に基づき詩想によりて潤飾せる詩人自傳の一部と見做す説多くの點に於て信ずべきに似たり、故にベアトリーチェ及びベアトリーチェとダンテの關係を知らんと欲せば必ずまづ『新生』によらざるをえず
また假りに『新生』を以て一種の譬喩と見做しダンテはこれによりて自己の理想を表現しその理想の形成せるところに「ベアトリーチェ」なる名稱を冠らしめしに過ぎずとし或ひは之を以て詩人の宗教觀詩人時代の寺院及び教理等を寫し出せる一種の象徴に過ぎずと見做すも、ダンテのベアトリーチェを知らんと欲せば同じくまづ『新生』によらざるをえざるなり
(2)『新生』中ベアトリーチェに關する事項の主なるものをあぐれば、ダンテが始めてベアトリーチェを見たる事及びこの時八歳の少女が九歳の少年の心に殘せし深き印象(二)、ダンテが寺院内に一婦人を帷としてベアトリーチェの祈姿をうかゞひ見しこと(五)、ベアトリーチェを婚姻の(ベアトリーチェ自身の婚姻なるべし)席上に見、友の扶けによりてこの席を去れること(一四)、ベアトリーチェの父の死=一二八九年(二二)、ベアトリーチェの死=一二九〇年(二九、但し學會本によれば――從つて岩波文庫も――二八)、等なり、戀人の家系住居につきては何等云ふ所なし
(3)ベアトリーチェを史實と配合せる者はボッカッチョなり、その説に曰く、ベアトリーチェはフォルコ・ポルチナーリの女にしてフィレンツェに生る、一二七四年ダンテ始めてこの女を見、後次第に愛慕するにいたれり、一二八六年の頃ベアトリーチェはシモネ・デ・バルヂなるものと婚し一二九〇年六月死すと
(4)『神曲』中のベアトリーチェは『新生』のベアトリーチェのさらに理想化したる者にて神學の象徴なり、ダンテ、ウェルギリウスに導かれて地獄・淨火の兩界をめぐれども、進んで天上に赴くに及びてはベアトリーチェに導かれざるをえず、これ靈界の機微にいたりては天啓によるにあらざれば覺得し難きを示せるなり
【愛】淨、三〇・七九以下及び天、一・一〇一―二參照
七六―七八
【天】月天、地球は宇宙の中心にありて日月星辰の諸天之をめぐる、而して月は最も地球に近ければその天は諸天中最小の天なり、人、地上の萬物にまさるはたゞ天の奧義をさとるによる
九四―九六
慈悲の泉なる聖母マリア、ダンテの大難をあはれみてその罪に對する上帝の怒りをやはらぐ
九七―九九
【ルチーア】聖ルチーア、シラクサ(シケリア島にあり)の殉教者を指せるなるべしといふ、惠みの光なり
一〇〇―一〇二
【ラケーレ】ラケル。ラバンの女にしてヤコブの妻(創世記、二九・一〇以下及び地、四・六〇)、默想の象徴
一〇三―一〇五
【神の眞の讚美】『新生』二六・一四(岩波文庫『新生』八七頁參照)以下に曰く
かれ(ベアトリーチェ)過ぐる時多くの人々いひけるは、こは女にあらでいと美しき天使のひとりなり、またほかの人々いひけるは、こは世の常の女にあらず、かくたへなるみわざをあらはし給ふ主は讚むべきかな
【汝のために】『新生』の末(同上・一二九頁參照)に曰く
この歌ありて後我は異象によりて多くの事を見、わがいまよりもなほふさはしくこの惠まれしもの(ベアトリーチェの事を陳ぶるをうるにいたるまでは再びかれの事をいはじと思ひ定めたり、またわがこゝにいたらんため力を盡して勵みいそしむことはかれのよく知るところなり、かくて萬物に生をさづくるものわが世にあるなほ數年なるを許したまはゞ望むらくはわれ未だ女につきて用ゐられざりし言をかれにつきて用ゐることをえん
一〇六―一〇八
【河水漲りて】或ひは、河波さわぎたち(詩篇、九三・三―四參照)、罪の路を激流にたとへしなり
一一八―一二〇
【獸】狼
一二一―一二六
【三人】聖母、ルチーア、ベアトリーチェ
一三三―一三五
【淑女】ベアトリーチェ
一四二
【艱き】或ひは、低き


    第三曲

地獄門上の銘を讀みて後兩詩人まづ地獄圈外に入りこゝに怯者の魂を見、進んでアケロンテの川にいたれば舟子カロン亡魂を麾き船に載せて對岸にむかふ、この時曠野鳴動して電光閃めきダンテ爲に喪神して地に倒る
一―三
【憂ひの都】地獄全體
四―六
正義の念によりて獄門を建つるの天意定まり、父(威力)子(智慧)聖靈(愛)なる三一の神の働きによりてその意行はる
七―九
【永遠の物】諸天、天使等
一六―一八
【智能の功徳】神を見ること
【さきに】地、一・一一四以下
一九―二一
【祕密の世】原文、祕密の物の中
二八―三〇
【旋風吹起る時】異本、風旋風に似たる時
三一―三三
【怖れ】異本、迷ひ
三四―三六
地獄外房の罪人、善を行ふの勇なく惡を行ふの膽なく、卑怯にして意味なき生を送れるもの
三七―三九
ルキフェル(魔王ルチーフェロ)神に背ける時、中立の態度に出でし天使の一群
四〇―四二
【罪ある者】地獄に罰をうくる者等惡を行はざりし天使の一群の己と同じく罰せらるゝを見て自ら得たりとなさゞらんため
四六―四八
【死】魂の消滅
【失明】暗く光なき地獄のさまに神を見るをえざる迷ひの生涯を含めていへり
【いかなる分際】天上の祝福を享くる者をも地獄圈内に前を受くるをも妬むなり
四九―五一
【慈悲も正義も】天を逐はれ地獄は拒まる
五八―六〇
【魂】『神曲』中疑問の人物の一なり、されど古來最も有力なる説はこれを以て法王ケレスティヌス五世を指せりとなす。ケレスティヌス五世はピエートロ・ダ・モルロネといひアブルッチの隱者なりしが一二九四年選ばれて法王となり在位五ケ月の後自らその器に非ざるをしりて辭しボニファキウス(ボニファーチョ)八世其後をうくるに至れり、一説にはボニファキウス、法王の位を望み謀を以てケレスティヌスに退位の意を固めしめきといふ(地、一九・五五―七參照)
六四―六六
【生けることなき】一生を空しくおくれる
七〇―七二
【川】アケロンテ、冥界を流るゝ諸水の一、屡□『アエネイス』にいづ
八二―八四
【翁】カロン、神話にいづる三途の川の渡守なり

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