神曲
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著者名:ダンテアリギエリ 

夜は今南極のすべての星を見、北極はいと低くして海の床(ゆか)より登ることなし 一二七―一二九
我等難路に入りしよりこのかた、月下の光五度(いつたび)冴え五度消ゆるに及べるころ 一三〇―一三二
かなたにあらはれし一の山あり、程遠ければ色薄黒く、またその高さはわがみし山のいづれにもまさるに似たりき 一三三―一三五
我等は喜べり、されどこの喜びはたゞちに歎きに變れり、一陣の旋風新しき陸(くが)より起りて船の前面(おもて)をうち 一三六―一三八
あらゆる水と共に三度(みたび)これに旋(めぐ)らし四度(よたび)にいたりてその艫(とも)を上げ舳(へさき)を下せり(これ天意(みこゝろ)の成れるなり) 一三九―一四一
遂に海は我等の上に閉ぢたりき 一四二―一四四
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   第二十七曲

語りをはれるため、焔はすでに上にむかひて聲なく、またやさしき詩人の許しをうけてすでに我等を離れし時 一―三
その後(うしろ)より來れるほかの焔あり、不律の音を中より出して我等の目をその尖(さき)にむけしめき 四―六
たとへばシチーリアの牡牛が(こは鑢(やすり)をもて己を造れる者の歎きをその初聲(はつごゑ)となせる牛なり、またかくなせるや好し) 七―九
苦しむ者の聲によりて鳴き、銅(あかがね)の器(うつは)あたかも苦患(なやみ)に貫かるゝかと疑はれし如く 一〇―一二
はじめは火に路も口もなく、憂ひの言(ことば)かはりて火のことばとなれるも 一三―一五
遂に路をえて登り尖(さき)にいたれる時、こゝにその過ぐるにのぞみて舌よりうけし動搖(ゆるぎ)を傳へ 一六―一八
いひけるは、わが呼ぶ者よ、またいまロムバルディアの語にていざゆけ我また汝を責めずといへる者よ 一九―二一
我おくれて來りぬとも請ふ止まりて我とかたるを厭ふなかれ、わが燃ゆれどもなほ之を厭はざるを見よ 二二―二四
汝若しわが持來れるすべての罪を犯せる處、かのうるはしきラチオの國よりいまこの盲(めしひ)の世に落ちたるならば 二五―二七
ローマニヤ人(びと)のなかに和ありや戰ひありや我に告げよ、我はウルビーノとテーヴェレの源なる高嶺(たかね)との間の山々にすめる者なればなり 二八―三〇
我はなほ心を下にとめ身をまげゐたるに、導者わが脇に觸れ、汝語るべしこれラチオの者なりといふ 三一―三三
この時既にわが答成りければ我ためらはずかたりていふ、下にかくるゝたましひよ 三四―三六
汝のローマニヤには今も昔の如く暴君等の心の中に戰ひたえず、たゞわが去るにあたりて顯著(あらは)なるものなかりしのみ 三七―三九
ラヴェンナはいまも過ぬる幾年(いくとせ)とかはらじ、ポレンタの鷲これを温(あたゝ)め、その翼をもてさらにチェルヴィアを覆ふ 四〇―四二
嘗て長き試みに耐へ、フランス人(びと)の血染めの堆(つか)を築ける邑(まち)は今緑の足の下にあり 四三―四五
モンターニアを虐(しひた)げし古き新しきヴェルルッキオの猛犬(あらいぬ)は舊(もと)の處にゐてその齒を錐(きり)とす 四六―四八
夏より冬に味方を變ふる白巣(しろす)の小獅子はラーモネとサンテルノの二の邑(まち)を治む 四九―五一
またサーヴィオに横を洗はるゝものは野と山の間にあると等しく暴虐と自由の國の間に生く 五二―五四
さて我こゝに汝に請ふ、我等に汝の誰なるやを告げよ、人にまさりて頑ななるなかれ、(かくて願はくは汝の名世に秀でんことを) 五五―五七
火はその習ひにしたがひてしばらく鳴りて後とがれる鋒(さき)をかなたこなたに動かし、氣息(いき)を出していひけるは 五八―六〇
我若しわが答のまた世に歸る人にきかるとおもはゞこの焔はとゞまりてふたゝび搖(ゆら)めくことなからん 六一―六三
されどわがきくところ眞(まこと)ならば、この深處(ふかみ)より生きて還れる者なきがゆゑに、我汝に答ふとも恥をかうむるの恐れなし 六四―六六
我は武器の人なりしがのち帶紐僧(コルヂーリエロ)となれり、こはかく帶して罪を贖はんとおもひたればなり、また我を昔の諸惡にかへらしめし 六七―六九
かの大いなる僧(禍ひ彼にあれ)微(なか)つせばわれこの思ひの成れるを疑はず、されば請ふ事の次第と濫觴(おこり)とをきけ 七〇―七二
我未だ母の與へし骨と肉とをとゝのへる間、わが行(おこなひ)は獅子に似ずして狐に似たりき 七三―七五
我は惡計(たくらみ)と拔道(ぬけみち)をすべてしりつくし、これらの術(わざ)をおこなひてそのきこえ地の極(はて)にまで及べり 七六―七八
わが齡(よはひ)すゝみて人おの/\その帆をおろし綱をまきをさむる時にいたれば 七九―八一
さきにうれしかりしものいまはうるさく、我は悔いまた自白して身を棄てき、かくして救ひの望みはありしをあゝ幸(さち)なし 八二―八四
第二のファリセイびとの王ラテラーノに近く軍(いくさ)を起し、(こはサラチーノ人またはジュデーア人との戰ひにあらず 八五―八七
その敵はいづれも基督教徒(クリスティアーノ)にてしかもその一人(ひとり)だにアークリに勝たんとてゆきまたはソルダーノの地に商人(あきびと)たりしはなし) 八八―九〇
おのが至高の職をも緇衣の分をもおもはず、また帶ぶるものいたく瘠するを常とせし紐(ひも)のわが身にあるをも思はず 九一―九三
あたかもコスタンティーンが癩を癒されんとてシルヴェストロをシラッティに訪へる如く、傲(たかぶり)の熱を癒されんとて 九四―
この者我を醫(くすし)として訪へり、彼我に謀を求め我は默(もだ)せり、その言(ことば)醉へるに似たりければなり ―九九
この時彼我に曰ふ、汝心に懼るゝ勿れ、今よりのち我汝の罪を宥さん、汝はペネストリーノを地に倒さんためわがなすべき事を我に教へよ 一〇〇―一〇二
汝の知る如く我は天を閉ぢまた開くをうるなり、この故に鑰(かぎ)二あり、こは乃ち我よりさきに位にありしものゝ尊まざりしものなりき 一〇三―一〇五
此時この力ある説我をそゝのかして、默すのかへつてあしきを思はしむるにいたれり、我即ちいひけるは、父よ、汝は 一〇六―
わがおちいらんとする罪を洗ひて我を淨むるが故に知るべし、長く約し短く守らば汝高き座(くらゐ)にありて勝利(かち)を稱(とな)ふることをえん ―一一一
我死せる時フランチェスコ來りて我を連(つ)れんとせしに、黒きケルビーニの一(ひとり)彼に曰ひけるは彼を伴ふ勿れ、我に非をなす勿れ 一一二―一一四
彼は下りてわが僕等と共にあるべし、これ僞りの謀を授けしによる、この事ありてより今に至るまで我その髮にとゞまれり 一一五―一一七
悔いざる者は宥さるゝをえず、悔いと願ひとはその相反すること障礙(しやうげ)となりて並び立ちがたし 一一八―一二〇
あゝ憂ひの身なるかな、彼我を捉へて汝は恐らくはわが論理に長(た)くるをしらざりしなるべしといへる時わがをのゝけることいかばかりぞや 一二一―一二三
彼我をミノスにおくれるに、この者八度(やたび)尾を堅き背に捲き、激しく怒りて之を噛み 一二四―一二六
こは盜む火の罪人等の同囚(なかま)なりといへり、さればみらるゝ如く我こゝに罰をうけてこの衣を着、憂ひの中に歩を(あゆみ)すゝむ 一二七―一二九
さてかく語りをはれる時、炎は歎きつゝその尖れる角をゆがめまた振りて去りゆけり 一三〇―一三二
我もわが導者もともに石橋をわたりて進み、一の濠を蔽へる次の弓門(アルコ)の上にいたれり、この濠の中には 一三三―一三五
分離を釀して重荷を負ふものその負債(おひめ)をつくのへり 一三六―一三八
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   第二十八曲

たとひ紲(きづな)なき言(ことば)をもちゐ、またしば/\かたるとも、此時わが見し血と傷とを誰かは脱(おち)なく陳べうべき 一―三
收(をさ)むべきことかく多くして人の言(ことば)記憶には限りあれば、いかなる舌といふとも思ふに必ず盡しがたし 四―六
命運定(さだめ)なきプーリアの地に、トロイア人(びと)のため、また誤ることなきリヴィオのしるせるごとくいと多くの指輪を 七―
捕獲物(えもの)となせし長き戰ひによりて、そのかみその血を歎ける民みなふたゝびよりつどひ ―一二
またロベルト・グイスカールドを防がんとて刃(やいば)のいたみを覺えし民、プーリア人のすべて不忠となれる處なるチェペラン 一三―
およびターリアコッツォのあたり、乃ち老いたるアーラルドが素手(すで)にて勝利(かち)をえしところにいまなほ骨を積重ぬる者之に加はり ―一八
ひとりは刺されし身ひとりは斷たれし身をみすとも、第九の嚢(ボルジヤ)の汚らはしきさまには較(くら)ぶべくもあらぬなるべし 一九―二一
我見しにひとり頤(おとがひ)より人の放屁する處までたちわられし者ありき、中板(なかいた)または端板(はしいた)を失へる樽のやぶれもげにこれに及ばじ 二二―二四
腸(はらわた)は二の脛(はぎ)の間に垂れ、また内臟と呑みたるものを糞(ふん)となす汚(きたな)き嚢(ふくろ)はあらはれき 二五―二七
我は彼を見んとてわが全心を注ぎゐたるに、彼我を見て手をもて胸をひらき、いひけるは、いざわが裂かれしさまをみよ 二八―三〇
マオメットの斬りくだかれしさまをみよ、頤(おとがひ)より額髮まで顏を斬られて歎きつゝ我にさきだちゆくはアーリなり 三一―三三
そのほか汝のこゝにみる者はみな生ける時不和分離の種を蒔けるものなり、この故にかく截らる 三四―三六
後方(うしろ)に一の鬼ありて、我等憂ひの路をめぐりはつればこの群の中なるものを再び悉く劒の刃(は)にかけ 三七―
かく酷(むご)く我等を裝(よそふ)ふ、我等再びその前を過ぐるまでには傷すべてふさがればなり ―四二
されど汝は誰なりや、石橋の上よりながむるはおもふに汝の自白によりて定められたる罰に就くを延べんためならん 四三―四五
わが師答ふらく、死未だ彼に臨まず、また罪彼を苛責に導くにあらず、たゞその知ること周(あまね)きをえんため 四六―四八
死せる我彼を導いて地獄を過ぎ、圈また圈をつたひてこゝに下るにいたれるなり、この事の眞(まこと)なるはわが汝に物言ふことの眞なるに同じ 四九―五一
此言を聞ける時、あやしみのあまり苛責をわすれ、我を見んとて濠の中に止まれる者その數(かず)百を超えたり 五二―五四
さらば汝ほどなく日を見ることをうべきに、フラー・ドルチンに告げて、彼もしいそぎ我を追ひてこゝに來るをねがはずば 五五―
雪の圍(かこみ)が、たやすく得べきにあらざる勝利(かち)をノヴァーラ人に與ふるなからんため糧食(かて)を身の固(かため)となせといへ ―六〇
すでにゆかんとしてその隻脚(かたあし)をあげし後、マオメットかく我に曰ひ、さて去らんとてこれを地に伸ぶ 六一―六三
またひとり喉を貫かれ、鼻を眉の下まで削(そ)かれ、また耳をたゞ一のみ殘せるもの 六四―六六
衆と共にあやしみとゞまりてうちまもりゐたりしが、その外部(そと)ことごとく紅なる喉吭(のどぶえ)を人よりさきにひらきて 六七―六九
いひけるは、罪ありて罰をうくるにあらず、また近似(により)の我を欺くにあらずば上(うへ)なるラチオの國にてかつて見しことある者よ 七〇―七二
汝歸りてヴェルチェルリよりマールカーボに垂るゝ麗しき野を見るをえば、ピエール・ダ・メディチーナの事を忘れず 七三―七五
ファーノの中のいと善き二人(ふたり)メッセル・グイードならびにアンジオレルロに、我等こゝにて先を見ること徒(いたづら)ならずば 七六―
ひとりの殘忍非道の君信を賣るをもて彼等その船より投げられ、ラ・カットリーカに近く沈めらるべしと知らしめよ ―八一
チープリとマイオリカの二の島の間に、海賊によりても希臘人(アルゴスびと)によりてもかゝる大罪の行はるゝをネッツーノだに未だ見ず 八二―八四
かの一をもて物を見、かつわが同囚(なかま)のひとりにみざりしならばよかりしをとおもはしむる邑(まち)の君なる信なき者 八五―八七
詢(はか)ることありとて彼等を招き、かくしてフォカーラの風のためなる誓ひも祈りも彼等に用なきにいたらしむべし 八八―九〇
我彼に、わが汝の消息(おとづれ)を上(うへ)に齎らすをねがはゞ、見しことを痛みとするは誰なりや我に示しかつ告げよ 九一―九三
この時彼手を同囚(なかま)のひとりの□(あぎと)にかけて口をあけしめ、叫びて、これなり、物いはず 九四―九六
彼は逐はれて後チェーザレに説き、人備(そなへ)成りてなほためらはゞ必ず損害(そこなひ)をうくといひてその疑ひを鎭めしことありきといふ 九七―九九
かく臆することなく物言ひしクーリオも舌を喉吭(のどぶえ)より切放たれ、その驚き怖るゝさまげにいかにぞや 一〇〇―一〇二
こゝにひとり手を二(ふたつ)ともに斷たれしもの、殘りの腕を暗闇のさにさゝげて顏を血に汚し 一〇三―一〇五
さけびていふ、汝また幸なくも事行はれて輙ち成るといへるモスカをおもへ、わがかくいへるはトスカーナの民の禍ひの種なりき 一〇六―一〇八
この時我は詞を添へて、また、汝の宗族(うから)の死なりきといふ、こゝにおいて憂へ憂ひに加はり、彼は悲しみ狂へる人の如く去れり 一〇九―一一一
されど我はなほ群をみんとてとゞまり、こゝに一のものをみたりき、若しほかに證(あかし)なくさりとて良心 一一二―
(自ら罪なしと思ふ思ひを鎧として人に恐るゝことなからしむる善き友)の我をつよくするあらずば、我は語るをさへおそれしなるべし ―一一七
げに我は首(くび)なき一の體(からだ)の悲しき群にまじりてその行くごとくゆくを見たりき、また我いまもこれをみるに似たり 一一八―一二〇
この者切られし首の髮をとらへてあたかも提燈(ちようちん)の如く之をおのが手に吊(つる)せり、首は我等を見てあゝ/\といふ 一二一―一二三
體(からだ)は己のために己を燈(ともしび)となせるなり、彼等は二にて一、一にて二なりき、かゝる事のいかであるやはかく定むるもの知りたまふ 一二四―一二六
まさしく橋下に來れる時、この者その言(ことば)の我等に近からんため腕を首と共に高く上げたり 一二七―一二九
さてその言にいふ、氣息(いき)をつきつゝ死者を見つゝゆく者よ、いざこの心憂き罰を見よ、かく重きものほかにもあるや否やを見よ 一三〇―一三二
また汝わが消息(おとづれ)をもたらすをえんため、我はベルトラム・ダル・ボルニオとて若き王に惡を勸めし者なるをしるべし 一三三―一三五
乃ち我は父と子とを互に背くにいたらしめしなり、アーキトフェルがアブサロネをよからぬ道に唆(そゝの)かしてダヴィーデに背かしめしも 一三六―
この上にはいでじ、かくあへる人と人とを分てるによりて、わが腦はあはれこの體(からだ)の中なるその根元(もと)より分たれ、しかして我これを携ふ ―一四一
應報の律(おきて)乃ち斯くの如くわが身に行はる 一四二―一四四
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   第二十九曲

多くの民もろ/\の傷はわが目を醉はしめ、目はとゞまりて泣くをねがへり 一―三
されどヴィルジリオ我に曰ふ、汝なほ何を凝視(みつむ)るや、何ぞなほ汝の目を下なる幸なき斬りくだかれし魂の間にそゝぐや 四―六
ほかの嚢(ボルジヤ)にては汝かくなさゞりき、もし彼等をかぞへうべしとおもはゞこの溪周圍(めぐり)二十二哩(ミーリア)あるをしるべし 七―九
月は既に我等の足の下にあり、我等にゆるされし時はや殘り少なきに、この外にもなほ汝の見るべきものぞあるなる 一〇―一二
我之を聞きて答へて曰ふ、汝わがうちまもりゐたりし事の由(よし)に心をとめしならんには、わがなほ止まるを許し給ひしなるべし 一三―一五
かくかたる間も導者はすゝみ我は答へつゝうしろに從ひ、さらにいひけるは 一六―
わが目をとめし岩窟(いはあな)の中には、おもふにかく價高き罪をいたむわが血縁の一の靈あり ―二一
この時師曰ひけるは、汝今より後思ひを彼のために碎くなかれ、心をほかの事にとめて彼をこゝに殘しおくべし 二二―二四
我は小橋のもとにて彼の汝を指示(さししめ)し、指をもていたく恐喝(おびや)かすを見たり、我またそのジェリ・デル・ベルロと呼ばるゝを聞けり 二五―二七
汝は此時嘗てアルタフォルテの主なりしものにのみ心奪はれたればかしこを見ず、彼すなはち去れるなり 二八―三〇
我曰ふ、わが導者よ、彼はその横死の怨みのいまだ恥をわかつものによりて報いられざるを憤り 三一―
はかるにこれがために我とものいはずしてゆけるなるべし、我またこれによりて彼を憐れむこといよ/\深し ―三六
斯く語りて我等は石橋のうち次の溪はじめてみゆる處にいたれり、光こゝに多かりせばその底さへみえしなるべし 三七―三九
我等マーレボルジェの最後の僧院の上にいで、その役僧等(やくそうたち)我等の前にあらはれしとき 四〇―四二
憂ひの鏃(やじり)をその矢につけし異樣の歎聲(なげき)我を射たれば我は手をもて耳を蔽へり 四三―四五
七月九月の間に、ヴァルディキアーナ、マレムマ、サールディニアの施療所(せれうじよ)より諸□の病みな一の濠にあつまらば 四六―
そのなやみこの處のごとくなるべし、またこゝより來る惡臭(をしう)は腐りたる身よりいづるものに似たりき ―五一
我等は長き石橋より最後の岸の上にくだり、つねの如く左にむかふにこの時わが目あきらかになりて 五二―五四
底の方(かた)をもみるをえたりき、こはたふとき帝(みかど)の使者(つかひ)なる誤りなき正義がその世に名をしるせる驅者(かたり)等を罰する處なり 五五―五七
思ふに昔エージナの民の悉く病めるをみる悲しみといへども、(この時空に毒滿ちて小さき蟲にいたるまで 五八―
生きとし生けるもの皆斃る、しかして詩人等の眞(まこと)とみなすところによればこの後古の民
蟻の族(やから)よりふたゝびもとのさまにかへさる)、この暗き溪の中にあまたの束(たば)をなして衰へゆく魂を見る悲しみにまさらじ ―六六
ひとりは俯(うつむ)きて臥し、ひとりは同囚(なかま)の背にもたれ、ひとりはよつばひになりてこの悲しみの路をゆけり 六七―六九
我等は病みて身をあぐるをえざる此等の者を見之に耳をかたむけつつ言(ことば)はなくてしづかに歩めり 七〇―七二
こゝにわれ鍋の鍋に凭(もた)れて熱をうくる如く互に凭れて坐しゐたる二人(ふたり)の者を見き、その頭より足にいたるまで瘡斑點(かさまだら)をなせり 七三―七五
その痒きことかぎりなく、さりとてほかに藥なければ、彼等はしば/\おのが身を爪に噛ましむ 七六―
主(きみ)を待たせし厩奴(うまやもり)または心ならず目を覺(さま)しゐたる僕の馬梳(うまぐし)を用ふるもかくはやきはいまだみず ―八一
爪の痂(かさぶた)を掻き落すことたとへば庖丁の鯉またはこれより鱗大なる魚の鱗をかきおとすごとくなりき 八二―八四
わが導者そのひとりにいひけるは、指をもて鎧を解きかくしてしば/\これを釘拔にかゆる者よ 八五―八七
この中(なか)なる者のうちにラチオ人(びと)ありや我等に告げよ、(かくて願はくは汝の爪永遠(とこしへ)にこの勞(いたづき)に堪へなんことを) 八八―九〇
かの者泣きつゝ答へて曰ひけるは、かく朽果てし姿をこゝに見する者はともにラチオ人なりき、されど我等の事をたづぬる汝は誰ぞや 九一―九三
導者曰ふ、我はこの生くる者と共に岩また岩をくだるものなり、我彼に地獄を見せんとす 九四―九六
この時互の支(さゝへ)くづれておの/\わなゝきつゝ我にむかへり、また洩れ聞けるほかの者等もかくなしき 九七―九九
善き師身をいとちかく我によせ、汝のおもふことをすべて彼等にいへといふ、我乃ちその意に從ひて曰ひけるは 一〇〇―一〇二
ねがはくは第一の世にて汝等の記憶人の心をはなれず多くの日輪の下にながらへんことを 一〇三―一〇五
汝等誰にて何の民なりや我に告げよ、罰の見苦しく厭はしきをおもひて我に身を明(あ)かすをおそるゝなかれ 一〇六―一〇八
そのひとり答へて曰ふ、我はアレッツオの者なりき、アールベロ・ダ・シエーナによりてわれ火にかゝるにいたれるなり、然(され)ど 一〇九―
我をこゝに導けるは我を死なしめし事に非ず、我戲れに彼に告げて空飛ぶ術(すべ)をしれりといひ、彼はまた事を好みて智乏しき者なりければこの技(わざ)を示さん事を我に求め、たゞわが彼をデーダロたらしめざりし故により彼を子となす者に我を燒かしめしは實(まこと)なり ―一一七
されど過つあたはざるミノスが我を十の中なる最後の嚢(ボルジヤ)に陷らしめしはわが世に行へる錬金の術によりてなりき 一一八―一二〇
われ詩人に曰ひけるは、そも事を好むシエーナ人の如き民かつて世にありしや、げにフランス人(びと)といへどもはるかにこれにおよばじ 一二一―一二三
此時いまひとりの癩を病める者かくいふをきゝてわが言に答へて曰ひけるは、費(つひえ)を愼しむ術(すべ)しれるストリッカ 一二四―
丁子(ちやうじ)の實(み)ねざす園の中にその奢れる用(もちゐ)をはじめて工夫(くふう)せしニッコロを除け ―一二九
また葡萄畑と大なる林とを蕩盡(つかひはた)せしカッチア・ダシアーンおよびその才を時めかせしアツバリアート等の一隊を除け 一三〇―一三二
されどかく汝に與してシエーナ人にさからふ者の誰なるやをしるをえんため、目を鋭くして我にむかへ、さらばわが顏よく汝に答へ 一三三―一三五
汝はわが錬金の術によりて諸□の金(かね)を詐り變へしカポッキオの魂なるをみん、またわが汝を見る目に誤りなくば、汝は思ひ出づるなるべし 一三六―一三八
我は巧みに自然を似せし猿(ましら)なりしを 一三九―一四一
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   第三十曲

テーベの血セーメレの故によりユノネの怒りに觸れし時(その怒りをあらはせることしば/\なりき) 一―三
いたく狂へるアタマンテはその妻が二人(ふたり)の男子(をとこのこ)を左右の手に載せてゆくを見て 四―六
我等網を張らむ、かくしてわれ牝獅子と獅子の仔をその路にてとらへんとさけび、非情の爪をのばし 七―九
そのひとり名をレアルコといへるを執らへ、ふりまはして岩にうちあて、また女は殘れる荷をもて自ら水に溺れにき 一〇―一二
また何事をもおそれず行へるトロイア人(びと)の僭上命運の覆すところとなりて、王その王土と共に亡ぶにいたれる時 一三―一五
悲しき、あぢきなき、囚虜(とらはれ)の身のエークバは、ポリッセーナの死せるをみ、またこのなやめる者その子ポリドロを 一六―
海のほとりにみとめ、憂ひのために心亂れ、その理性(さとり)をうしなひて犬の如く吠えたりき ―二一
されど物にやどりて獸または人の身を驅るテーベ、トロイアの怒りの猛きも 二二―
わが蒼ざめて裸なる二の魂の中にみし怒りには及ばじ、彼等は恰も欄(をり)を出でたる豚の如く且つ噛み且つ走れり ―二七
その一はカポッキオにちかづき、牙を項(うなじ)にたてゝ彼を曳き、堅き底を腹に磨(す)らしむ 二八―三〇
震ひつゝ殘れるアレッツオの者我に曰ひけるは、かの魔性の魑魅(すだま)はジャンニ・スキッキなり、狂ひめぐりてかく人をあしらふ 三一―三三
我彼に曰ふ、(願はくはいま一の者汝に齒をたつるなからんことを)請ふ此者の誰なるやをそのはせさらぬまに我に告げよ 三四―三六
彼我に、こはいとあしきミルラの舊(ふり)し魂なり、彼正しき愛を超えてその父を慕ひ 三七―三九
おのれを人の姿に變へてこれと罪を犯すにいたれり、あたかもかなたにゆく者が 四〇―
獸の群の女王をえんとて己をブオソ・ドナーティといつはり、その遺言書(ゆゐごんしよ)を作りてこれを法例(かた)の如く調(とゝの)ふるにいたれるに似たり ―四五
狂へる二の者過ぎ去りて後、我は此等に注げる目をめぐらし、ほかの幸(さち)なく世に出でし徒(ともがら)を見たり 四六―四八
我見しにこゝにひとり人の叉生(またさ)すあたりより股の附根(つけね)を切りとるのみにて形琵琶に等しかるべき者ありき 四九―五一
同化しえざる水氣によりて顏腹と配(そ)はざるばかりに身に權衡(けんかう)を失はせ、また之を重からしむる水腫(すゐしゆ)の病は 五二―五四
たえずその唇をひらかしめ、そのさまエチカをやめる者の渇きて一を頤(おとがひ)に一を上にむくるに似たりき 五五―五七
彼我等に曰ふ、あゝいぶかしくも苦患(なやみ)の世にゐて何の罰をもうけざる者よ、心をとめてマエストロ・アダモの幸なきさまを見よ 五八―
生ける時は我ゆたかにわが望めるものをえたりしに、いまはあはれ水の一滴(ひとしづく)をねぎもとむ ―六三
カセンティーンの緑の丘(をか)よりアルノにくだり、水路涼しく軟かき多くの小川は 六四―六六
常にわがまへにあらはる、またこれ徒(いたづら)にあらず、その婆の我を乾すことわが顏の肉を削(そ)ぐこの病よりはるかに甚しければなり 六七―六九
我を責むる嚴(おごそか)なる正義は、我に歎息(ためいき)をいよ/\しげく飛ばさしめんとてその手段(てだて)をわが罪を犯せる處に得たり 七〇―七二
即ちかしこにロメーナとてわがバッティスタの像(かた)ある貨幣(かね)の模擬(まがひ)を造り、そのため燒かれし身を世に殘すにいたれる處あり 七三―七五
されど我若しこゝにグイード、アレッサンドロまたは彼等の兄弟の幸(さち)なき魂をみるをえばその福(さいはひ)をフォンテ・ブラングにもかへじ 七六―七八
狂ひめぐる魂等の告ぐること眞(まこと)ならば、ひとりはすでにこの中にあり、されど身繋(つな)がるゝがゆゑに我に益なし 七九―八一
たとひ百年(もゝとせ)の間に一吋(オンチヤ)をゆきうるばかりなりともこの身輕くば、この處周圍(めぐり)十一哩(ミーリア)あり 八二―八四
幅半哩を下らざれども、我は既に出立ちて彼をこの見苦しき民の間に尋ねしなるべし 八五―八七
我は彼等の爲にこそ斯かる家族(やから)の中にあるなれ、我を誘ひて三カラートの合金(まぜがね)あるフィオリーノを鑄らしめしは乃ち彼等なればなり 八八―九〇
我彼に、汝の右に近く寄りそひて臥し、冬の濡手(ぬれて)のごとく烟(けぶ)るふたりの幸なき者は誰ぞや 九一―九三
答へて曰ふ、我この巖間(いわま)に降(ふ)り下れる時彼等すでにこゝにありしが其後一度(たび)も身を動かすことなかりき、思ふに何時(いつ)に至るとも然(しか)せじ 九四―九六
ひとりはジユセッポを讒(しこづ)りし僞りの女、一はトロイアにありしギリシア人(びと)僞りのシノンなり、彼等劇しき熱の爲に臭き烟を出すことかく夥(おびたゞ)し 九七―九九
この時そのひとり、かくあしざまに名をいはれしを怨めるなるべし、拳(こぶし)をあげて彼の硬き腹を打ちしに 一〇〇―一〇二
その音恰も太鼓の如くなりき、マエストロ・アダモはかたさこれにも劣らじとみゆるおのが腕をもてかの者の顏を打ち 一〇三―一〇五
これにいひけるは、たとひこの身重くして動くあたはずともかゝる用(もちゐ)にむかひては自在の肱(かひな)我にあり 一〇六―一〇八
かの者即ち答へて曰ふ、火に行ける時汝の腕かくはやからず、貨幣(かね)を造るにあたりてはかく早く否これよりも早かりき 一〇九―一一一
水氣を病める者、汝のいへるは眞(まこと)なり、されどトロイアにて眞を問はれし時汝はかかる眞の證人(あかしびと)にあらざりき 一一二―一一四
シノネ曰ふ、我は言(ことば)にて欺けるも汝は貨幣(かね)にて欺けるなり、わがこゝにあるは一(ひとつ)の罪のためなるも汝の罪は鬼より多し 一一五―一一七
腹脹(ふく)るゝ者答へて曰ふ、誓ひを破れる者よ、馬を思ひいで、この事全世界にかくれなきをしりて苦しめ 一一八―一二〇
ギリシアの者曰ふ、汝はまた舌を燒くその渇(かわき)と腹を目の前の籬(まがき)となすその腐水(くさりみづ)のために苦しめ 一二一―一二三
この時贋金者(にせがねし)、汝の口は昔の如く己が禍ひのために開(あ)く、我渇き水氣によりて膨るるとも 一二四―一二六
汝は燃えて頭いためば、もしナルチッソの鏡だにあらば人のしふるをもまたで之を舐(ねぶ)らむ 一二七―一二九
我は彼等の言をきかんとのみ思ひたりしに、師我に曰ふ、汝少しく愼しむべし、われたゞちに汝と爭ふにいたらん 一三〇―一三二
彼怒りをふくみてかく我にいへるをきける時我は今もわが記憶に渦(うづま)くばかりの恥をおぼえて彼の方にむかへり 一三三―一三五
人凶夢を見て夢に夢ならんことをねがひ、すでに然るを然らざるごとく切(せち)に求むることあり 一三六―一三八
我亦斯くの如くなりき、我は口にていふをえざれば、たえず詫(わ)びつゝもなほ詫びなんことを願ひてわが既にしかせるを思ふことなかりき 一三九―一四一
師曰ふ、恥斯く大いならずともこれより大いなる過ちを洗ふにたる、されば一切の悲しみを脱れよ 一四二―一四四
若し民かくの如く爭ふところに命運汝を行かしむることあらば、わが常に汝の傍にあるをおもへ 一四五―一四七
かゝる事をきくを願ふはこれ卑しき願ひなればなり 一四八―一五〇
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   第三十一曲

同じ一の舌なれども先には我を刺して左右の頬を染め、後には藥を我にえさせき 一―三
聞くならくアキルレとその父の槍もまたかくのごとく始めは悲しみ後は幸ひを人に與ふる習ひなりきと 四―六
我等は背を幸(さち)なき大溪にむけ、之を繞れる岸の上にいで、言(ことば)も交(まじ)へで横ぎれり 七―九
さてこの邊(あたり)は夜たりがたく晝たりがたき處なれば、我は遠く望み見るをえざりしかど、はげしき雷(いかづち)をも微(かすか)ならしむるばかりに 一〇―
角笛(つのぶえ)高く耳にひゞきて我にその行方(ゆくへ)を溯りつゝ目を一の處にのみむけしめき ―一五
師(いくさ)いたましく敗れ、カルロ・マーニオその聖軍を失ひし後のオルラントもかくおそろしくは吹鳴らさゞりしなりけり 一六―一八
われ頭(かうべ)をかなたにめぐらしていまだほどなきに、多くの高き櫓(やぐら)をみしごとく覺えければ、乃ち曰ふ、師よ、告げよ、これ何の邑なりや 一九―二一
彼我に、汝はるかに暗闇の中をうかゞふがゆゑに量ることたゞしからざるにいたる 二二―二四
ひとたびかしこにいたらば遠き處にありては官能のいかに欺かれ易きものなるやをさだかに知るをえん、されば少しく足をはやめよ 二五―二七
かくてやさしく我手をとりていひけるは、我等かなたにゆかざるうち、この事汝にいとあやしとおもはれざるため 二八―三〇
しるべし、彼等は巨人にして櫓にあらず、またその臍(ほぞ)より下は坎(あな)の中岸のまはりにあり 三一―三三
水氣空に籠(こも)りて目にかくれし物の形、霧のはるゝにしたがひて次第に浮びいづるごとく 三四―三六
我次第に縁(ふち)にちかづきわが眼(まなこ)濃き暗き空を穿つにおよびて誤りは逃げ恐れはましぬ 三七―三九
あたかもモンテレッジオンが圓き圍(かこひ)の上に多くの櫓を戴く如く、おそろしき巨人等は 四〇―
その半身をもて坎をかこめる岸を卷けり(ジョーヴェはいまも雷(いかづち)によりて天より彼等を慴(おび)えしむ) ―四五
我は既にそのひとりの顏、肩、胸および腹のおほくと腋を下れる雙腕(もろかひな)とをみわけぬ 四六―四八
げに自然がかゝる生物を造るをやめてかゝる臣等(おみら)をマルテより奪へるは大いに善し 四九―五一
また彼象と鯨を造れるを悔いざれども、見ることさとき人はこれに依りて彼をいよいよ正しくいよ/\慮(おもんぱかり)あるものとなすべし 五二―五四
そは心の固めもし惡意と能力(ちから)に加はらばいかなる人もこれを防ぐあたはざればなり 五五―五七
顏は長く大きくしてローマなる聖ピエートロの松毯(まつかさ)に似、他(ほか)の骨みなこれに適(かな)へり 五八―六〇
されば下半身の裳(も)なりし岸は彼を高くその上に聳えしむ、おもふに三人(みたり)のフリジア人(びと)もその髮に屆(とゞ)くを 六一―
誇りえざりしなるべし、人の外套(うはぎ)を締合(しめあ)はすところより下方(した)わが目にうつれるもの裕(ゆたか)に三十パルモありき ―六六
ラフェル・マイ・アメク・ツアビ・アルミ、猛き口はかく叫べり、(これよりうるはしき聖歌はこの口にふさはしからず) 六七―六九
彼にむかひてわが導者、愚なる魂よ、怒り生じ雜念起らばその角笛に縋りて之をこころやりとせよ 七〇―七二
あわたゞしき魂よ、頸をさぐりてつなげる紐をえ、また笛のその大いなる胸にまつはるをみよ 七三―七五
かくてまた我に曰ひけるは、彼己が罪を陳ぶ、こはネムブロットなり、世に一の言語(ことば)のみ用ゐられざるは即ちそのあしき思ひによれり 七六―七八
我等彼を殘して去り、彼と語るをやめん、これ益なきわざなればなり、人その言(ことば)をしらざる如く彼また人の言をさとらじ 七九―八一
かくて左にむかひて我等遠くすゝみゆき弩(いしゆみ)とゞく間(あひ)をへだてゝまたひとりいよ/\猛くかつ大いなる者をみき 八二―八四
縛(しば)れる者の誰なりしや我はしらねど、彼鏈(くさり)をもてその腕を左はまへに右はうしろに繋(つな)がれ 八五―
この鏈頸より下をめぐりてその身のあらはれしところを絡(ま)くこと五囘(いつまき)に及べり ―九〇
わが導者曰ふ、この傲(たかぶ)る者比類(たぐひ)なきジョーヴェにさからひておのが能力(ちから)をためさんとおもへり、此故にこの報(むくい)をうく 九一―九三
彼名をフィアルテといふ、巨人等が神々の恐るゝところとなりし頃大いなる試(こゝろみ)をなし、その腕を振へるも、今や再び動かすによしなし 九四―九六
我彼に、若しかなはゞ願はくは量り知りがたきブリアレオのわが目に觸れなんことを 九七―九九
彼すなはち答へて曰ふ、汝はこゝより近き處にアンテオを見ん、彼語るをえて身に縛(いましめ)なし、また我等を凡ての罪の底におくらん 一〇〇―一〇二
汝の見んとおもふ者は遠くかなたにありてかくの如く繋がれ形亦同じ、たゞその姿いよ/\猛きのみ 一〇三―一〇五
フィアルテ忽ち身を搖(ゆ)れり、いかに強き地震(なゐ)といへどもその塔をゆるがすことかく劇しきはなし 一〇六―一〇八
此時我は常にまさりて死を恐れぬ、また若し繋(つなぎ)を見ることなくば怖れはすなはち死なりしなるべし 一〇九―一一一
我等すゝみてアンテオに近づけり、彼は岩窟(いはあな)より外にいづること頭を除きて五アルラを下らざりき 一一二―一一四
あゝアンニバールがその士卒と共に背(そびら)を敵にみせし時、シピオンを譽の嗣(よつぎ)となせし有爲(うゐ)の溪間に 一一五―一一七
そのかみ千匹の獅子の獲物(えもの)をはこべる者よ(汝若し兄弟等のゆゝしき師(いくさ)に加はりたらば地の子等勝利(かち)をえしものをと 一一八―
いまも思ふものあるに似たり)、願はくは我等を寒さコチートを閉すところにおくれ、これをいとひて ―一二三
我等をティチオにもティフォにも行かしむる勿れ、この者よく汝等のこゝに求むるものを與ふるをうるがゆゑに身を屈(かゞ)めよ、顏を顰(しか)むる勿れ 一二四―一二六
彼はこの後汝の名を世に新にするをうるなり、彼は生く、また時未だ至らざるうち恩惠(めぐみ)彼を己が許によぶにあらずばなほ永く生くべし 一二七―一二九
師かく曰へり、彼速かに嘗てエルクレにその強(つよみ)をみせし手を伸べてわが導者を取れり 一三〇―一三二
ヴィルジリオはおのが取られしをしりて我にむかひ、こゝに來(こ)よ、我汝をいだかんといひ、さて己と我とを一の束(たば)とせり 一三三―一三五
傾ける方(かた)よりガーリセンダを仰ぎ見れば、雲その上を超ゆる時これにむかひてゆがむかと疑はる 一三六―一三八
われ心をとめてアンテオの屈むをみしにそのさままた斯くの如くなりき、さればほかの路を行かんとの願ひもげにこれ時に起れるなるを 一三九―一四一
彼は我等をかるやかにジユダと共にルチーフェロを呑める底におき、またかくかゞみて時ふることなく 一四二―一四四
船の檣の如く身を上げぬ 一四五―一四七
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   第三十二曲

若し我にすべての巖壓(いはほお)しせまる悲しみの坎(あな)にふさはしきあらきだみたる調(しらべ)あらば 一―三
我わが想(おもひ)の汁(しる)をなほも漏れなく搾(しぼ)らんものを、我に是なきによりて語るに臨み心後る 四―六
夫れ全宇宙の底を説くは戲れになすべき業(わざ)にあらず、阿母阿父とよばゝる舌また何ぞよくせんや 七―九
たゞ願はくはアムフィオネをたすけてテーべを閉せる淑女等わが詩をたすけ、言(ことば)の事と配(そ)はざるなきをえしめんことを 一〇―一二
あゝ萬の罪人にまさりて幸なく生れし民、語るも苦(つら)き處に止まる者等よ、汝等は世にて羊または山羊(やぎ)なりしならば猶善かりしなるべし 一三―一五
我等は暗き坎(あな)の中巨人の足下(あしもと)よりはるかに低き處におりたち、我猶高き石垣をながめゐたるに 一六―一八
汝心して歩め、あしうらをもて幸なき弱れる兄弟等の頭を踏むなかれと我にいふものありければ 一九―二一
われ身をめぐらしてみしにわが前また足の下に寒さによりて水に似ず玻璃に似たる一の池ありき 二二―二四
冬のオステルリッキなるダノイアもかの寒空(さむぞら)の下なるタナイもこの處の如く厚き覆面衣(かほおひ)をその流れの上につくれることあらじ 二五―
げにタムベルニッキまたはピエートラピアーナその上に落ちぬともその縁(ふち)すらヒチといはざりしなるべし ―三〇
また農婦が夢にしば/\落穗を拾ふころ、顏を水より出して鳴かんとする蛙の如く 三一―三三
蒼ざめしなやめる魂等は愧(はぢ)のあらはるゝところまで氷にとざゝれ、その齒を鶴の調(しらべ)にあはせぬ 三四―三六
彼等はみなたえず顏を垂る、寒さは口より憂き心は目よりおの/\その證(あかし)をうけぬ 三七―三九
我しばしあたりをみし後わが足元にむかひ、こゝに頭の毛まじらふばかりに近く身をよせしふたりの者を見き 四〇―四二
我曰ふ、胸をおしあはす者よ、汝等は誰なりや我に告げよ、彼等頸をまげ顏をあげて我にむかへるに 四三―四五
さきに内部(うち)のみ濕へるその眼(まなこ)、あふれながれて唇に傳はり、また寒さは目の中の涙を凍らしてふたゝび之をとざせり 四六―四八
鎹(かすがひ)といふともかくつよくは木と木をあはすをえじ、是に於て彼等はげしき怒りを起し、二匹の牡山羊(をやぎ)の如く衝(つ)きあへり 四九―五一
またひとり寒さのために耳を二(ふたつ)ともに失へるもの、うつむけるまゝいひけるは、何ぞ我等をかく汝の鏡となすや 五二―五四
汝このふたりの誰なるを知らんとおもはゞ、聞くべし、ビセンツォの流るゝ溪は彼等の父アルベルト及び彼等のものなりき 五五―五七
彼等は一の身より出づ、汝あまねくカイーナをたづぬとも、氷の中に埋(いけ)らるゝにふさはしきこと彼等にまさる魂をみじ 五八―六〇
アルツーの手にかゝりたゞ一突(ひとつき)にて胸と影とを穿たれし者も、フォカッチヤーも、また頭をもて我を妨げ我に遠く 六一―
見るをえざらしむるこの者(名をサッソール・マスケローニといへり、汝トスカーナ人(びと)ならばよく彼の誰なりしやをしらむ)もまさらじ ―六六
又汝かさねて我に物言はす莫からんため、我はカミチオン・デ・パッチといひてカルリンのわが罪をいひとくを待つ者なるをしるべし 六七―六九
かくて後我は寒さのため犬の如くなれる千の顏をみき、又之を見しによりて凍れる沼は我をわなゝかしむ、後もまた常にしからむ 七〇―七二
我等一切の重力集まる處なる中心にむかひてすゝみ、我はとこしへの寒さの中にふるひゐたりし時 七三―七五
天意常數命運のいづれによりしやしらず、頭(かうべ)の間を歩むとてつよく足をひとりの者の顏にうちあてぬ 七六―七八
彼泣きつゝ我を責めて曰ひけるは、いかなれば我をふみしくや、モンタペルティの罰をまさんとて來れるならずば何ぞ我をなやますや 七九―八一
我、わが師よ、わがこの者によりて一の疑ひを離るゝをうるため請ふ、この處にて我を待ち、その後心のまゝに我をいそがせたまへ 八二―八四
導者は止まれり、我すなはちなほ劇しく詛ひゐたる者にむかひ、汝何者なればかく人を罵るやといへるに 八五―八七
彼答へて、しかいふ汝は何者なればアンテノーラを過ぎゆきて人の頬を打つや、汝若し生ける者なりせば誰かはこれに耐(た)へうべきといふ 八八―九〇
我答へて曰ひけるは、我は生く、このゆゑに汝名を求めば、わが汝の名を記録の中にをさむるは汝の好むところなるべし 九一―九三
彼我に、わが求むるものはその反對(うら)なり、こゝを立去りてまた我に累をなすなかれ、かく諂(へつら)ふともこの窪地(くぼち)に何の益あらんや 九四―九六
この時我その項(うなじ)の毛をとらへ曰ひけるは、いまはのがるゝに途なし、若し名をいはずば汝の髮一筋をだにこゝに殘さじ 九七―九九
彼聞きて曰ふ、汝たとひわが髮を□(むし)るとも我の誰なるやを告げじ、また千度(ちたび)わが頭上(づじやう)に落來るともあらはさじ 一〇〇―一〇二
我ははやくも髮を手に捲き、これを拔くこと一房より多きにおよび、彼は吠えつゝたえずその目を垂れゐたるに 一〇三―一〇五
ひとり叫びていひけるは、ボッカよ何をかなせる、□(あぎと)を鳴らすもなほ足らずとて吠ゆるか、汝に觸(さは)るは何の鬼ぞや 一〇六―一〇八
我曰ふ、恩に背きし曲者奴(くせものめ)、いまは汝に聞くの用なし、我汝の眞(まこと)の消息(おとづれ)を携へゆきこれを汝の恥となさん 一〇九―一一一
彼答へて曰ふ、往け、しかして思ひのまゝにかたれ、されど汝この中よりいでなば、いまかく口を輕くせし者のことをものべよ 一一二―一一四
彼こゝにフランス人(びと)の銀を悼(いた)む、汝いふべし、我は罪人の冷ゆる處にヅエラの者をみたりきと 一一五―一一七
汝またほかに誰ありしやと問はるゝことあらん、しるべし、汝の傍(そば)にはフィオレンツァに喉を切られしベッケーリアの者あり 一一八―一二〇
かなたにガネルローネ及び眠れるファーエンヅァをひらきしテバルデルロとともにあるはおもふにジャンニ・デ・ソルダニエルなるべし 一二一―一二三
我等既に彼をはなれし時我は一の孔の中に凍れるふたりの者をみき、一の頭は殘りの頭の帽となり 一二四―一二六
上なるものは下なるものゝ腦(なう)と項(うなじ)とあひあふところに齒をくだし、さながら饑ゑたる人の麪麭(パン)を貪り食ふに似たりき 一二七―一二九
怒れるティデオがメナリッポの後額(こめかみ)を噛めるもそのさま之に異ならじとおもふばかりにこの者腦蓋(なうがい)とそのあたりの物とをかめり 一三〇―一三二
我曰ふ、あゝかく人を食(は)みあさましきしるしによりてその怨みをあらはす者よ、我に故を告げよ、我も汝と約を結び 一三三―一三五
汝の憂ひに道理(ことわり)あらば、汝等の誰なるや彼の罪の何なるやをしり、こののち上(うへ)の世に汝にむくいん 一三六―一三八
わが舌乾くことなくば 一三九―一四一
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   第三十三曲

かの罪人(つみびと)口をおそろしき糧(かて)よりもたげ、後方(うしろ)を荒らせし頭なる毛にてこれをぬぐひ 一―三
いひけるは、望みなき憂ひはたゞ思ふのみにて未だ語らざるにはやくも我心を絞るを、汝これを新(あらた)ならしめんとす 四―六
されどわが言(ことば)我に噛まるゝ逆賊の汚辱(をじよく)の實を結ぶ種たりうべくば汝はわがかつ語りかつ泣くを見ん 七―九
我は汝の誰なるをも何の方法(てだて)によりてこゝに下れるをも知らず、されどその言をきくに汝は必ずフィレンツェの者ならん 一〇―一二
汝知るべし、我は伯爵(コンテ)ウゴリーノ此(こ)は僧正ルツジェーリといへる者なり、いざ我汝に何によりてか上る隣人(となりびと)となれるやを告げん 一三―一五
彼の惡念あらはるゝにおよびて彼を信ぜる我とらへられ、のち殺されしことはいふを須ひず 一六―一八
されば汝の聞きあたはざりし事、乃ちわが死のいかばかり殘忍なりしやは汝聞きて彼我を虐(しひた)げざりしや否やを知るべし 一九―二一
わがためには餓(うゑ)の名をえてこののちなほも人を籠(こ)むべき塒(とや)なる小窓が 二二―二四
既に多くの月をその口より我に示せる頃、我はわが行末の幔(まく)を裂きし凶夢を見たり 二五―二七
すなはちこの者長(をさ)また主(きみ)となりてルッカをピサ人に見えざらしむる山の上に狼とその仔等を逐ふに似たりき 二八―三〇
肉瘠せ氣燥(はや)り善く馴らされし牝犬(めいぬ)とともにグアンディ、シスモンディ、ランフランキをその先驅(さきて)とす 三一―三三
逐はれて未だ程なきに父も子もよわれりとみえ、我は彼等が鋭き牙にかけられてその傍腹(わきばら)を裂かるゝを見しとおぼえぬ 三四―三六
さて曉に目をさましし時我はともにゐしわが兒等の夢の中に泣きまた麪麭(パン)を乞ふ聲をきゝぬ 三七―三九
若しわが心にうかべる禍ひの兆(きざし)をおもひてなほいまだ悲しまずば汝はげに無情なり、若し又泣かずば汝の涙は何の爲ぞや 四〇―四二
彼等はめさめぬ、糧(かて)の與へらるべき時は近づけり、されど夢のためそのひとりだに危ぶみ恐れざるはなかりき 四三―四五
この時おそろしき塔の下なる戸に釘打つ音きこえぬ、我はわが兒等の顏を見るのみ言(ことば)なし 四六―四八
我は泣かざりき、心石となりたればなり、彼等は泣けり、わがアンセルムッチオ、かく見たまふは父上いかにしたまへるといふ 四九―五一
かくても我に涙なかりき、またわれ答へでこの日この夜をすごし日輪再び世にあらはるゝ時に及べり 五二―五四
微(かすか)なる光憂ひの獄(ひとや)にいりきたりてかの四の顏にわれ自らのすがたをみしとき 五五―五七
我は悲しみのあまり雙手(もろて)を噛めり、わがかくなせるを食(くら)はんためなりとおもひ、彼等俄かに身を起して 五八―六〇
いひけるは、父よ我等をくらひたまはゞ我等の苦痛(いたみ)は却つて輕からむ、この便(びん)なき肉を我等に着せたまへるは汝なれば汝これを剥(は)ぎたまへ 六一―六三
我は彼等の悲しみを増さじとて心をしづめぬ、この日も次の日も我等みな默(もだ)せり、あゝ非情の土よ、汝何ぞ開かざりしや 六四―六六
第四日(よつかめ)になりしときガッドはわが父いかなれば我をたすけたまはざるやといひ、身をのべわがあしもとにたふれて 六七―六九
その處に死にき、かくて五日と六日目の間に我はまのあたり三人(みたり)のあひついでたふるゝをみぬ、我また盲(めしひ)となりしかば 七〇―
彼等を手にてさぐりもとめて死後なほその名を呼ぶこと二日、この時斷食の力憂ひにまさるにいたれるなりき ―七五
かくいへる時彼は目を斜(なゝめ)にしてふたゝび幸(さち)なき頭顱(かうべ)を噛めり、その齒骨に及びて強きこと犬の如くなりき 七六―七八
あゝピサよ、シを語となすうるはしき國の民の名折(なをれ)よ、汝の隣人(となりびと)等汝を罰するおそければ 七九―八一
ねがはくはカプライアとゴルゴーナとゆるぎいでゝアルノの口に籬(まがき)をめぐらし、汝の中なる人々悉く溺れ死ぬるにいたらんことを 八二―八四
そはたとひ伯爵(コンテ)ウゴリーノに汝に背きて城を賣れりとのきこえありとも汝は兒等をかく十字架につくべきにあらざればなり 八五―八七
第二のテーべよ、年若きが故にすなはち罪なし、ウグッチオネもイル・ブリガータもまた既にこの曲に名をいへる二人(ふたり)の者も 八八―九〇
我等はなほ進み、ほかの民の俯(うつむ)かずうらがへりてあらく氷に包まるゝところにいたれり 九一―九三
こゝには憂へ憂ひをとゞめ、なやみは目の上の障礙(しやうげ)にさへられ、苦しみをまさんとて内部(うち)にかへれり 九四―九六
そははじめの涙凝塊(かたまり)となりてあたかも玻璃の被物(おほひ)の如く眉の下なる杯を滿たせばなり 九七―九九
わが顏は寒さのため、胼胝(たこ)のいでたるところにひとしく凡ての感覺を失へるに 一〇〇―一〇二
この時わが風に觸るゝを覺え、曰ひけるは、わが師よ、これを動かすものは誰ぞや、この深處(ふかみ)には一切の地氣消ゆるにあらずや 一〇三―一〇五
彼即ち我に、汝は程なく汝の目が風を降(ふ)らす源(もと)をみてこれが答を汝にえさすところにいたらん 一〇六―一〇八
氷の皮なる幸なき者の中ひとり叫びて我等にいひけるは、あゝ非道にして最後の立處(たちど)に罪なはれたる魂等よ 一〇九―一一一
堅き被物(おほひ)を目よりあげて涙再び凍らぬまに我胸にあふるゝ憂ひを少しく洩すことをえしめよ 一一二―一一四
我すなはち彼に、わが汝をたすくるをねがはゞ汝の誰なるやを我に告げよ、かくして我もしその支障(さゝはり)を去らずば我は氷の底にゆくべし 一一五―一一七
この時彼答ふらく、我は僧(フラーテ)アルベリーゴなり、よからぬ園の木の實の事ありてここに無花果に代へ無漏子(むろし)をうく 一一八―一二〇
我彼に曰ふ、さらば汝既に死にたるか、彼我に、我はわが體(からだ)のいかに上の世に日をふるやをしらず 一二一―一二三
このトロメアには一の得ありていまだアトローポスに追はれざるに魂しば/\こゝに落つることあり 一二四―一二六
また汝玻璃にひとしき此涙をいよ/\こゝろよくわが顏より除くをえんため、しるべし、魂わがなせるごとく信に背くことあれば 一二七―
鬼たゞちにその體(からだ)を奪ひ、みづからこれが主となりて時のめぐりをはるを待ち ―一三二
おのれはかゝる水槽(みづぶね)の中におつ、さればわが後方(うしろ)に冬を送る魂もおもふにいまなほその體(からだ)を上の世にあらはすなるべし 一三三―一三五
汝今此處にくだれるならば彼を知らざることあらじ、彼はセル・ブランカ・ドーリアなり、かく閉されてより既に多くの年を經たり 一三六―一三八
我彼に曰ふ、我は汝の欺くをしる、ブランカ・ドーリアは未だ死なず、彼食(く)ひ飮み寢(い)ねまた衣(ころも)を着るなり 一三九―一四一
彼曰ふ、上なるマーレブランケの濠の中、粘(ねば)き脂(やに)煮ゆるところにミケーレ・ツァンケ未だ着かざるうち 一四二―一四四
この者その體(からだ)に鬼を殘して己にかはらせ、彼と共に逆を行へるその近親のひとりまたしかなせり 一四五―一四七
されどいざ手をこなたに伸べて我目をひらけ、我はひらかざりき、彼にむかひて暴(みだり)なるは是即ち道なりければなり 一四八―一五〇
あゝジエーノヴァ人(びと)よ、一切の美風をはなれ一切の邪惡を滿たす人々よ、汝等の世より散りうせざるは何故ぞ 一五一―一五三
我は極惡(ごくあく)なるローマニアの魂と共に汝等のひとりその行(おこなひ)によりて魂すでにコチートに浸(ひた)り 一五四―
身はなほ生きて地上にあらはるゝ者をみたりき ―一五九
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   第三十四曲

地獄の王の旗あらはる、此故に前方(まへ)を望みて彼を認むるや否やを見よ、わが師かく曰へり 一―三
濃霧起る時、闇わが半球を包む時、風のめぐらす碾粉車(こひきぐるま)の遠くかなたに見ゆることあり 四―六
我もこの時かゝる建物(たてもの)をみしをおぼえぬ、また風をいとへどもほかに避くべき處なければ、われ身を導者の後方(うしろ)に寄せたり 七―九
我は既に魂等全く掩(おほ)ひ塞(ふさ)がれ玻璃の中なる藁屑(わらくづ)の如く見え透(す)ける處にゐたり(これを詩となすだに恐ろし) 一〇―一二
伏したる者あり、頭を上にまたは蹠(あしうら)を上にむけて立てる者あり、また弓の如く顏を足元(あしもと)に垂れたる者ありき 一三―一五
我等遠く進みし時、わが師は昔姿美しかりし者を我にみすべき機(おり)いたれるをみ 一六―一八
わが前をさけて我にとゞまらせ、見よディーテを、また見よ雄々(をゝ)しさをもて汝を固(かた)むべきこの處をといふ 一九―二一
この時我身いかばかり冷(ひ)えわが心いかばかり挫(くじ)けしや、讀者よ問ふ勿れ、言(ことば)及ばざるがゆゑに我これを記(しる)さじ 二二―二四
我は死せるにもあらずまた生けるにもあらざりき、汝些(すこし)の理解(さとり)だにあらば請ふ今自ら思へ、彼をも此をも共に失へるわが當時のさまを 二五―二七
悲しみの王土の帝(みかど)その胸の半(なかば)まで氷の外(そと)にあらはれぬ、巨人をその腕に比ぶるよりは 二八―
我を巨人に比ぶるかたなほ易し、その一部だにかくのごとくば之に適(かな)へる全身のいと大いなること知りぬべし ―三三
彼今の醜(みにく)きに應じて昔美しくしかもその造主(つくりぬし)にむかひて眉を上げし事あらば一切の禍ひ彼よりいづるも故なきにあらず 三四―三六
我その頭に三の顏あるを見るにおよびてげに驚けることいかばかりぞや、一は前にありて赤く 三七―三九
殘る二は左右の肩の正中(たゞなか)の上にてこれと連(つらな)り、かつ三ともに□冠(とさか)あるところにて合へり 四〇―四二
右なるは白と黄の間の色の如く、左なるはニーロの水上(みなかみ)より來る人々の如くみえき 四三―四五
また顏の下よりはかゝる鳥ににつかしき二(ふたつ)の大いなる翼いでたり、げにかく大いなるものをば我未だ海の帆にも見ず 四六―四八
此等みな羽なくその構造(つくりざま)蝙蝠(かうもり)の翼に似たり、また彼此等を搏ち、三の風彼より起れり 四九―五一
コチートの悉く凍れるもこれによりてなりき、彼は六の眼(まなこ)にて泣き、涙と血の涎(よだれ)とは三の頤(おとがひ)をつたひて滴(したゝ)れり 五二―五四
また口毎にひとりの罪人(つみびと)を齒にて碎くこと碎麻機(あさほぐし)の如く、かくしてみたりの者をなやめき 五五―五七
わけて前なる者は爪にかけられ、その背しば/\皮なきにいたれり、これにくらぶれば噛まるゝは物の數ならじ 五八―六〇
師曰ふ、高くかしこにありてその罰最も重き魂はジユダ・スカリオットなり、彼頭を内にし脛を外に振る 六一―六三
頭さがれるふたりのうち、黒き顏より垂るゝはプルートなり、そのもがきて言(ことば)なきを見よ 六四―六六
また身いちじるしく肥ゆとみゆるはカッシオなり、されど夜はまた來れり、我等すでにすべてのものを見たればいざゆかん 六七―六九
我彼の意に從ひてその頸を抱けるに彼はほどよき時と處をはかり、翼のひろくひらかれしとき 七〇―七二
毛深き腋に縋(すが)り、叢(むら)また叢をつたはりて濃き毛と氷層のあひだをくだれり 七三―七五
かくて我等股の曲際(まがりめ)腰の太(ふと)やかなるところにいたれば導者は疲れて呼吸(いき)もくるしく 七六―七八
さきに脛をおけるところに頭をむけて毛をにぎり、そのさま上(のぼ)る人に似たれば我は再び地獄にかへるなりとおもへり 七九―八一
よわれる人の如く喘ぎつゝ師曰ひけるは、かたくとらへよ、我等はかゝる段(きだ)によりてかゝる大いなる惡を離れざるをえず 八二―八四
かくて後彼とある岩の孔(あな)をいで、我をその縁(ふち)にすわらせ、さて心して足をわが方(かた)に移せり 八五―八七
我はもとのまゝなるルチーフェロをみるならんとおもひて目を擧げて見たりしにその脛上にありき 八八―九〇
わが此時の心の惑ひはわが過ぎし處の何なるやを辨(わきま)へざる愚なる人々ならではしりがたし 九一―九三
師曰ふ、起きよ、路遠く道程(みちすぢ)艱(かた)し、また日は既に第三時の半に歸れり 九四―九六
我等の居りし處は御館(みたち)の廣間(ひろま)にあらず床(ゆか)粗(あら)く光乏しき天然の獄舍(ひとや)なりき 九七―九九
我立ちて曰ひけるは、師よ、わがこの淵を去らざるさきに少しく我に語りて我を迷ひの中よりひきいだしたまへ 一〇〇―一〇二
氷はいづこにありや、この者いかなればかくさかさまに立つや、何によりてたゞしばしのまに日は夕(ゆふ)より朝に移れる 一〇三―一〇五
彼我に、汝はいまなほ地心のかなた、わがさきに世界を貫くよからぬ蟲の毛をとらへし處にありとおもへり 一〇六―一〇八
汝のかなたにありしはわがくだれる間のみ、われ身をかへせし時汝は重量(おもさ)あるものを四方より引く點を過ぎ 一〇九―一一一
廣き乾ける土に蔽はれ、かつ罪なくして世に生れ世をおくれる人その頂點のもとに殺されし半球を離れ 一一二―
いまは之と相對(あひむか)へる半球の下にありて、足をジユデッカの背面を成す小さき球の上におくなり ―一一七
かしこの夕はこゝの朝にあたる、また毛を我等の段(きだ)となせし者の身をおくさまは今も始めと異なることなし 一一八―一二〇
彼が天よりおちくだれるはこなたなりき、この時そのかみこの處に聳えし陸は彼を恐るゝあまり海を蔽物(おほひ)となして 一二一―一二三
我半球に來れるなり、おもふにこなたにあらはるゝものもまた彼をさけんためこの空處をこゝに殘して走り上(のぼ)れるなるべし 一二四―一二六
さてこの深みにベルヅエブの許より起りてその長さ墓の深さに等しき一の處あり、目に見えざれども 一二七―
一の小川の響きによりてしらる、この小川は囘(めぐ)り流れて急ならず、その噛み穿てる岩の中虚(うつろ)を傳はりてこゝにくだれり ―一三二

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