神曲
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著者名:ダンテアリギエリ 

そは我等壞れし橋にいたれる時、導者はわがさきに山の麓に見たりし如きうるはしき氣色(けしき)にてわがかたにむかひたればなり 一九―二一
かれまづよく崩壞(くづれ)をみ、心に思ひめぐらして後その腕(かひな)をひらきて我をかゝへ 二二―二四
且つ行ひ且つ量り常に預め事に備ふる人の如く我を一の巨岩(おほいは)の頂(いただき)に上げつゝ 二五―
目をほかの岩片(いはくづ)にとめ、これよりかの岩に縋(すが)るべし、されどまづその汝を支へうべきや否やをためしみよといふ ―三〇
こは衣を着し者の路にはあらじ、岩より岩を上りゆくは我等(彼輕く我押さるゝも)にだに難きわざなりき 三一―三三
若しこの堤の一側(かたがは)對面(むかひ)の側(かは)より短かゝらずば、彼のことはしらねど、我は全く力盡くるにいたれるなるべし 三四―三六
されどマーレボルジェはみないと低き坎(あな)の口にむかひて傾くがゆゑに、いづれの溪もそのさまこの理にもとづきて 三七―三九
彼岸(かのきし)高く此岸ひくし、我等はつひに最後の石の碎け散りたる處にいたれり 四〇―四二
上り終れる時はわが氣息(いき)いたく肺より搾(しぼ)られ、我また進むあたはざれば、着くとひとしくかしこに坐れり 四三―四五
師曰ひけるは、今より後汝つとめて怠慢(おこたり)に勝たざるべからず、夫れ軟毛(わたげ)の上に坐し、衾(ふすま)の下に臥してしかも美名(よきな)をうるものはなし 四六―四八
人これをえず徒(いたづら)にその生命(いのち)を終らば地上に殘すおのが記念(かたみ)はたゞ空(そら)の烟(けぶり)水の泡抹(うたかた)のみ 四九―五一
此故に起きよ、萬(よろづ)の戰ひに勝つ魂もし重き肉體と共になやみくづほるゝにあらずば之をもて喘(あへぎ)に勝て 五二―五四
是よりも長き段(きだ)のなは上るべきあり、これらを離るゝのみにて足らず、汝わが言(ことば)をさとらばその益を失ふなかれ 五五―五七
我乃ち身を起し、くるしき呼吸(いき)をおしかくしていひけるは、願はくは行け、身は強く心は堅し 五八―六〇
我等石橋を渡りて進むに、このわたりの路岩多く狹く艱くはるかにさきのものよりも嶮し 六一―六三
我はよわみをみせざらんため語りつゝあゆみゐたるに、忽ち次の濠の中より語を成すにいたらざる一の聲いでぬ 六四―六六
この時我は既にこゝにかゝれる弓門(アルコ)の頂にありしかども、その何をいへるやをしらず、されど語れるものは怒りを起せし如くなりき 六七―六九
我は俯(うつむ)きたりき、されど闇のために生ける目底にゆくをえざれば、すなはち我、師よ請ふ次の堤にいたれ 七〇―
しかして我等石垣をくだらん、そはこゝにてはわれ聞けどもさとらず、見れども認(したゝ)むるものなければなり ―七五
彼曰ふ、行ふの外我に答なし、正しき願ひには所爲(わざ)たゞ默(もだ)して從ふべきなり 七六―七八
我等は橋をその一端、第八の岸と連れるところに下れり、この時嚢(ボルジヤ)の状(さま)あきらかになりて 七九―八一
我見しに中にはおそろしき蛇の群ありき、類(たぐひ)いと奇(くす)しく、その記憶はいまなほわが血を凍らしむ 八二―八四
リビヤも此後その砂に誇らざれ、たとひこの地ケリドリ、ヤクリ、ファレー、チェンクリ、アムフィシベナを出すとも 八五―八七
またこれにエチオピアの全地または紅海の邊(ほとり)のものを加ふとも、かく多きかくあしき毒を流せることはあらじ 八八―九〇
この猛くしていとものすごき群のなかを孔をも血石(エリトロピア)をも求めうるの望みなき裸なる民おぢおそれて走りゐたり 九一―九三
蛇は彼等の手を後方(うしろ)に縛(いま)しめ、尾と頭にて腰を刺し、また前方(まへ)にからめり 九四―九六
こゝに見よ、こなたの岸近く立てるひとりの者にむかひて一匹の蛇飛び行き、頸と肩と結びあふところを刺せり 九七―九九
oまたはiを書くともかく早からじとおもはるゝばかりに彼は忽ち火をうけて燃え、全く灰となりて倒るゝの外すべなかりき 一〇〇―一〇二
彼かく頽(くづ)れて地にありしに、塵おのづからあつまりてたゞちにもとの身となれり 一〇三―一〇五
名高き聖等(ひじりたち)またかゝることあるをいへり、曰く、靈鳥(フエニーチエ)はその齡(よはひ)五百年に近づきて死し、後再び生る 一〇六―一〇八
この鳥世にあるや、草をも麥をも食(は)まず、たゞ薫物(たきもの)の涙とアモモとを食む、また甘松と沒藥(もつやく)とはその最後の壽衣(じゆい)となると 一〇九―一一一
人或ひは鬼の力によりて地にひかれ、或ひは塞(ふさぎ)にさへられて倒れ、やがて身を起せども、おのがたふれし次第をしらねば 一一二―
うけし大いなる苦しみのためいたくまどひて目をうちひらき、あたりを見つゝ歎くことあり ―一一七
起き上れる罪人(つみびと)のさままた斯くの如くなりき、あゝ仇を報いんとてかくはげしく打懲す神の威力(ちから)はいかにきびしきかな 一一八―一二〇
導者この時彼にその誰なるやを問へるに、答へて曰ひけるは、我は往日(さきつひ)トスカーナよりこのおそろしき喉の中に降(ふ)り下れる者なり 一二一―一二三
我は騾馬なりければまたこれに傚ひて人にはあらで獸の如く世をおくるを好めり、我はヴァンニ・フッチといふ獸なり、しかして 一二四―
ピストイアは我に應(ふさは)しき岩窟(いはあな)なりき、われ導者に、彼に逃(にぐ)る勿れといひ、また彼をこゝに陷らしめしは何の罪なるやを尋ねたまへ
わが見たるところによれば彼は血と怒りの人なりき、この時罪人これを聞きて佯(いつは)らず、心をも顏をも我にむけ、悲しき恥に身を彩色(いろど)りぬ ―一三二
かくて曰ひけるは、かゝる禍ひの中にて汝にあへる悲しみは、わがかの世をうばゝれし時よりも深し 一三三―一三五
我は汝の問を否むあたはず、わがかく深く沈めるは飾美しき寺の寶藏(みくら)の盜人たりし故なりき 一三六―一三八
またこの罪嘗てあやまりて人に負はされしことあり、されど汝此等の暗き處をいづるをえてわがさまをみしを喜びとなすなからんため 一三九―一四一
耳を開きてわがうちあかすことを聞け、まづピストイアは黒黨(ネーリ)を失ひて痩せ、次にフィオレンツァは民と習俗(ならはし)を新(あらた)にすべし 一四二―一四四
マルテはヴァル・ヂ・マーグラより亂るゝ雲に裹(つゝ)まれし一の火氣をひきいだし、嵐劇しくすさまじく 一四五―一四七
カムポ・ピチェンに戰起りて、この者たちまち霧を擘(つんざ)き、白黨(ビアンキ)悉くこれに打たれん 一四八―一五〇
我これをいふは汝に憂ひあらしめんためなり 一五一―一五三
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   第二十五曲

かたりをはれる時かの盜人雙手(もろて)を握りて之を擧げ、叫びて曰ひけるは、受けよ神、我汝にむかひてこれを延ぶ 一―三
此時よりこの方蛇はわが友なりき、一匹(ひとつ)はこの時彼の頸にからめり、そのさまさながら我は汝にまた口をきかしめずといへるに似たりき 四―六
また一匹(ひとつ)はその腕にからみてはじめの如く彼を縛(いまし)め、かつ身をかたくその前に結びて彼にすこしも之を動かすをゆるさゞりき 七―九
あゝピストイアよ、ピストイアよ、汝の惡を行ふこと己(おの)が祖先の上に出づるに、何ぞ意を決して己を灰し、趾(あと)を世に絶つにいたらざる 一〇―一二
我は地獄の中なる諸□の暗き獄(ひとや)を過ぎ、然も神にむかひてかく不遜なる魂を見ず、テーべの石垣より落ちし者だに之に及ばじ 一三―一五
かれ物言はで逃去りぬ、此時我は怒り滿々(みち/\)し一のチェンタウロ、何處(いづこ)にあるぞ、執拗(かたくな)なる者何處にあるぞとよばはりつゝ來るを見たり 一六―一八
思ふに彼が人の容(かたち)の連(つらな)れるところまでその背に負へるとき多くの蛇はマレムマの中にもあらぬなるべし 一九―二一
肩の上項(うなじ)の後(うしろ)には一の龍翼をひらきて蟠まり、いであふ者あればみなこれを燒けり 二二―二四
わが師曰ひけるは、こはカーコとてアヴェンティーノ山の巖の下にしばしば血の湖(うみ)を造れるものなり 二五―二七
彼はその兄弟等と一の路を行かず、こは嘗てその近傍(あたり)にとゞまれる大いなる家畜(けもの)の群を謀りて掠めし事あるによりてなり 二八―三〇
またこの事ありしため、その歪(ゆが)める行(おこなひ)はエルクレの棒に罹りて止みたり、恐らくは彼百を受けしなるべし、然もその十をも覺ゆる事なかりき 三一―三三
彼斯く語れる間(彼過ぎゆけり)三(みつ)の魂我等の下に來れるを我も導者もしらざりしに 三四―三六
彼等さけびて汝等は誰ぞといへり、我等すなはち語ることをやめ、今は心を彼等にのみとめぬ 三七―三九
我は彼等を識らざりき、されど世にはかゝること偶然(ふと)ある習ひとて、そのひとり、チヤンファはいづこに止まるならんといひ 四〇―四二
その侶の名を呼ぶにいたれり、この故に我は導者の心をひかんためわが指を上げて頤(おとがひ)と鼻の間におきぬ 四三―四五
讀者よ、汝いまわがいふことをたやすく信じえずともあやしむにたらず、まのあたりみし我すらもなほうけいるゝこと難ければ 四六―四八
我彼等にむかひて眉をあげゐたるに、六の足ある一匹の蛇そのひとりの前に飛びゆきてひたと之にからみたり 四九―五一
中足(なかあし)をもて腹を卷き前足をもて腕をとらへ、またかなたこなたの頬を噛み 五二―五四
後足(あとあし)を股(もゝ)に張り、尾をその間(あひ)より後方(うしろ)におくり、ひきあげて腰のあたりに延べぬ 五五―五七
木に絡(から)む蔦(つた)といへどもかの者の身に纏(まつ)はれる恐ろしき獸のさまにくらぶれば何ぞ及ばん 五八―六〇
かくて彼等は熱をうけし蝋のごとく着きてその色を交(まじ)へ、彼も此も今は始めのものにあらず 六一―六三
さながら黯(くろず)みてしかも黒ならぬ色の炎にさきだちて紙をつたはり、白は消えうするごとくなりき 六四―六六
殘りの二者(ふたり)之を見て齊しくさけびて、あゝアーニエルよ、かくも變るか、見よ汝ははや二(ふたつ)にも一にもあらずといふ 六七―六九
二の頭既に一となれる時、二の容(かたち)いりまじりて一の顏となり二そのうちに失せしもの我等の前にあらはれき 七〇―七二
四の片(きれ)より二の腕成り、股(もゝ)脛(はぎ)腹(はら)胸(むね)はみな人の未だみたりしことなき身となれり 七三―七五
もとの姿はすべて消え、異樣の像(かたち)は二にみえてしかも一にだにみえざりき、さてかくかはりて彼はしづかに立去れり 七六―七八
三伏の大なる笞(しもと)の下に蜥蜴籬(とかげまがき)を交(か)へ、路を越ゆれば電光(いなづま)とみゆることあり 七九―八一
色青を帶びて黒くさながら胡椒の粒(つぶ)に似たる一の小蛇の怒りにもえつゝ殘る二者(ふたり)の腹をめざして來れるさままたかくの如くなりき 八二―八四
この蛇そのひとりの、人はじめて滋養(やしなひ)をうくる處を刺し、のち身を延ばしてその前にたふれぬ 八五―八七
刺されし者これを見れども何をもいはず、睡りか熱に襲はれしごとく足をふみしめて欠(あくび)をなせり 八八―九〇
彼は蛇を蛇は彼を見ぬ、彼は傷より此は口よりはげしく烟を吐き、烟あひまじれり 九一―九三
ルカーノは今より默(もだ)して幸なきサベルロとナッシディオのことを語らず、心をとめてわがこゝに説きいづる事をきくべし 九四―九六
オヴィディオもまた默してカードモとアレツーザの事をかたるなかれ、かれ男を蛇に女を泉に變らせ、之を詩となすともわれ羨まじ 九七―九九
そは彼二(ふたつ)の自然をあひむかひて變らしめ兩者の形あひ待ちてその質を替ふるにいたれることなければなり 一〇〇―一〇二
さて彼等の相應ぜること下の如し、蛇はその尾を割きて叉(また)とし、傷を負へる者は足を寄せたり 一〇三―一〇五
脛(はぎ)は脛と股(もゝ)は股と固く着き、そのあはせめ、みるまにみゆべき跡をとゞめず 一〇六―一〇八
われたる尾は他の失へる形をとりて膚(はだへ)軟らかく、他のはだへはこはばれり 一〇九―一一一
我また二(ふたつ)の腕(かひな)腋下に入り、此等の縮むにつれて獸の短き二の足伸びゆくをみたり 一一二―一一四
また二の後足(あとあし)は縒(よ)れて人の隱すものとなり、幸なき者のは二にわかれぬ 一一五―一一七
烟新(あらた)なる色をもて彼をも此をも蔽ひ、これに毛を生(は)えしめ、かれの毛をうばふあひだに 一一八―一二〇
此(これ)立ち彼(かれ)倒る、されどなほ妄執(まうしふ)の光を逸(そ)らさず、その下(もと)にておのおの顏を變へたり 一二一―一二三
立ちたる者顏を後額(こめかみ)のあたりによすれば、より來れる材(ざい)多くして耳平(たひら)なる頬の上に出で 一二四―一二六
後方(うしろ)に流れずとゞまれるものはその餘(あまり)をもて顏に鼻を造り、またほどよく唇を厚くせり 一二七―一二九
伏したる者は顏を前方(まへ)に逐ひ、角を收(をさ)むる蝸牛の如く耳を頭にひきいれぬ 一三〇―一三二
またさきに一にて物言ふをえし舌は裂け、わかれし舌は一となり、烟こゝに止みたり 一三三―一三五
獸となれる魂はその聲あやしく溪に沿ひてにげゆき、殘れる者は物言ひつゝその後方(うしろ)に唾(つば)はけり 一三六―一三八
かくて彼新しき背を之にむけ、侶に曰ひけるは、願はくはブオソのわがなせしごとく匍匐(はらば)ひてこの路を走らんことを 一三九―一四一
我は斯く第七の石屑(いしくづ)の變り入替(いりかは)るさまをみたりき、わが筆少しく亂るゝあらば、請ふ人事(こと)の奇なるをおもへ 一四二―一四四
またわが目には迷ひありわが心には惑ひありしも、かの二者(ふたり)我にかくれて逃ぐるをえざれば 一四五―一四七
我はひとりのプッチオ・シヤンカートなるをさだかに知りき、さきに來れるみたりの伴侶(なかま)の中にて變らざりしはこの者のみ 一四八―一五〇
またひとりは、ガヴィルレよ、いまも汝を悼(いた)ましむ 一五一―一五三
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   第二十六曲

フィオレンツァよ、汝はいと大いなるものにて翼を海陸の上に搏(う)ち汝の名遍く地獄に藉(し)くがゆゑに喜べ 一―三
我は盜人の中にて汝の際(きは)貴(たか)き邑民(まちびと)五人(いつたり)をみたり、我之を恥とす、汝もまた之によりて擧げられて大いなる譽を受くることはあらじ 四―六
されど曙(あかつき)の夢正夢ならば、プラート(その他はもとより)の汝のためにこひもとむるもの程なく汝に臨むべし、また今既にこの事ありとも 七―九
早きに過ぎじ、事避くべきに非ざれば若かず速に來らんには、そはわが年の積るに從ひ、この事の我を苦しむる愈□大なるべければなり 一〇―一二
我等この處を去れり、わが導者はさきに下れる時我等の段(きだ)となれる巖角(いはかど)を傳ひて上りまた我をひけり 一三―一五
かくて石橋の上なる小岩大岩の間のさびしき路を進みゆくに手をからざれば足も效(かひ)なし 一六―一八
この時我は悲しめり、わがみしものに心をむくれば今また憂へ、才を制すること恆(つね)を超ゆ 一九―二一
これわが才、徳の導きなきに走り、善き星または星より善きものこの寶を我に與へたらんに、我自ら之を棄つるなからんためなり 二二―二四
たとへば世界を照すもの顏を人にかくすこといと少なき時、丘(をか)の上に休む農夫が 二五―二七
蚊の蠅に代る比(ころはひ)、下なる溪間(たにま)恐らくはおのが葡萄を採りかつ耕す處に見る螢の如く 二八―三〇
數多き炎によりて第八の嚢(ボルジヤ)はすべて輝けり、こはわがその底のあらはるゝ處にいたりてまづ目をとめしものなりき 三一―三三
またたとへば熊によりてその仇をむくいしものが、エリアの兵車の去るをみし時の如く(この時その馬天にむかひて立上り 三四―三六
彼目をこれに注げども、みゆるはたゞ一抹の雲の如く高く登りゆく炎のみなりき) 三七―三九
焔はいづれも濠(ほり)の喉を過ぎてすゝみ、いづれもひとりの罪人(つみびと)を盜みてしかも盜(ぬすみ)をあらはすことなかりき 四〇―四二
我は見んとて身を伸べて橋の上に立てり、さればもし一の大岩をとらへざりせば押さるゝをもまたで落ち下れるなるべし 四三―四五
導者はわがかく心をとむるをみていひけるは、火の中に魂あり、いづれも己を燒くものに卷かる 四六―四八
我答へて曰ひけるは、わが師よ、汝の言によりてこの事いよ/\さだかになりぬ、されど我またかくおしはかりて既に汝に 四九―
エテオクレとその兄弟との荼毘(だび)の炎の如く上方(うへ)わかれたる火につゝまれてこなたに來るは誰なりやといはんとおもひたりしなり ―五四
彼答へて我に曰ふ、かしこに苛責せらるゝはウリッセとディオメーデなり、ともに怒りにむかへるごとくまたともに罰にむかふ 五五―五七
かの焔の中に、彼等は門を作りてローマ人(びと)のたふとき祖先をこゝよりいでしめし馬の伏勢(ふせぜい)を傷(いた)み 五八―六〇
かしこにアキルレのためにいまなほデイダーミアを歎くにいたらしめし詭計(たくみ)をうれへ、またかしこにパルラーディオの罰をうく 六一―六三
我曰ふ、彼等かの火花のなかにて物言ふをえば、師よ、我ひたすらに汝に請ひまた重ねて汝に請ふ、さればこの請ひ千度(ちたび)の請ひを兼ねて 六四―六六
汝は我に角(つの)ある焔のこゝに來るを待つを否むなかれ、我わが願ひのためにみたまふ如く身をかなたにまぐ 六七―六九
彼我に、汝の請ふところ甚だ善し、この故に我これを容る、たゞ汝舌を愼しめ 七〇―七二
我既に汝の願ひをさとりたれば語ることをば我に任(まか)せよ、そは彼等はギリシア人(びと)なりしがゆゑに恐らくは汝の言を侮るべければなり 七三―七五
焔近づくにおよびて導者は時と處をはかり、これにむかひていひけるは 七六―七八
あゝ汝等二の身にて一の火の中にあるものよ、我生ける時汝等の心に適ひ、高き調(しらべ)を世に録(しる)して 七九―
たとひいさゝかなりとも汝等の心に適へる事あらば、請ふ過ぎゆかず、汝等の中ひとり路を失ひて後いづこに死處をえしやを告げよ ―八四
年へし焔の大いなる角、風になやめる焔のごとく微(かすか)に鳴りてうちゆらぎ 八五―八七
かくて物いふ舌かとばかりかなたこなたに尖(さき)をうごかし、聲を放ちていひけるは 八八―
一年(ひとゝせ)あまりガエタ(こはエーネアがこの名を與へざりしさきの事なり)に近く我を匿(かく)せしチルチェと別れ去れる時 ―九三
子の慈愛(いつくしみ)、老いたる父の敬ひ、またはペネローペを喜ばしうべかりし夫婦(めをと)の愛すら 九四―九六
世の状態(さま)人の善惡を味はひしらんとのわがつよきねがひにかちがたく 九七―九九
我はたゞ一艘の船をえて我を棄てざりし僅かの侶(とも)と深き濶き海に浮びぬ 一〇〇―一〇二
スパニア、モロッコにいたるまで彼岸をも此岸をも見、またサールディニア島及び四方この海に洗はるゝほかの島々をもみたり 一〇三―一〇五
人の越ゆるなからんためエルクレが標(しるし)をたてしせまき口にいたれるころには 一〇六―
我も侶等もはや年老いておそかりき、右にはわれシビリアをはなれ左には既にセッタをはなれき ―一一一
我曰ふ、あゝ千萬(ちよろづ)の危難(あやふき)を經て西にきたれる兄弟等(たち)よ、なんぢら日を追ひ 一一二―
殘るみじかき五官の覺醒(めざめ)に人なき世界をしらしめよ、汝等起原(もと)をおもはずや
汝等は獸のごとく生くるため造られしものにあらず、徳と知識を求めんためなり ―一二〇
わがこの短き言(ことば)をきゝて侶は皆いさみて路に進むをねがひ、今はたとひとゞむとも及び難しとみえたりき 一二一―一二三
かゝれば艫(とも)を朝にむけ、櫂を翼として狂ひ飛び、たえず左に舟を寄せたり 一二四―一二六
夜は今南極のすべての星を見、北極はいと低くして海の床(ゆか)より登ることなし 一二七―一二九
我等難路に入りしよりこのかた、月下の光五度(いつたび)冴え五度消ゆるに及べるころ 一三〇―一三二
かなたにあらはれし一の山あり、程遠ければ色薄黒く、またその高さはわがみし山のいづれにもまさるに似たりき 一三三―一三五
我等は喜べり、されどこの喜びはたゞちに歎きに變れり、一陣の旋風新しき陸(くが)より起りて船の前面(おもて)をうち 一三六―一三八
あらゆる水と共に三度(みたび)これに旋(めぐ)らし四度(よたび)にいたりてその艫(とも)を上げ舳(へさき)を下せり(これ天意(みこゝろ)の成れるなり) 一三九―一四一
遂に海は我等の上に閉ぢたりき 一四二―一四四
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   第二十七曲

語りをはれるため、焔はすでに上にむかひて聲なく、またやさしき詩人の許しをうけてすでに我等を離れし時 一―三
その後(うしろ)より來れるほかの焔あり、不律の音を中より出して我等の目をその尖(さき)にむけしめき 四―六
たとへばシチーリアの牡牛が(こは鑢(やすり)をもて己を造れる者の歎きをその初聲(はつごゑ)となせる牛なり、またかくなせるや好し) 七―九
苦しむ者の聲によりて鳴き、銅(あかがね)の器(うつは)あたかも苦患(なやみ)に貫かるゝかと疑はれし如く 一〇―一二
はじめは火に路も口もなく、憂ひの言(ことば)かはりて火のことばとなれるも 一三―一五
遂に路をえて登り尖(さき)にいたれる時、こゝにその過ぐるにのぞみて舌よりうけし動搖(ゆるぎ)を傳へ 一六―一八
いひけるは、わが呼ぶ者よ、またいまロムバルディアの語にていざゆけ我また汝を責めずといへる者よ 一九―二一
我おくれて來りぬとも請ふ止まりて我とかたるを厭ふなかれ、わが燃ゆれどもなほ之を厭はざるを見よ 二二―二四
汝若しわが持來れるすべての罪を犯せる處、かのうるはしきラチオの國よりいまこの盲(めしひ)の世に落ちたるならば 二五―二七
ローマニヤ人(びと)のなかに和ありや戰ひありや我に告げよ、我はウルビーノとテーヴェレの源なる高嶺(たかね)との間の山々にすめる者なればなり 二八―三〇
我はなほ心を下にとめ身をまげゐたるに、導者わが脇に觸れ、汝語るべしこれラチオの者なりといふ 三一―三三
この時既にわが答成りければ我ためらはずかたりていふ、下にかくるゝたましひよ 三四―三六
汝のローマニヤには今も昔の如く暴君等の心の中に戰ひたえず、たゞわが去るにあたりて顯著(あらは)なるものなかりしのみ 三七―三九
ラヴェンナはいまも過ぬる幾年(いくとせ)とかはらじ、ポレンタの鷲これを温(あたゝ)め、その翼をもてさらにチェルヴィアを覆ふ 四〇―四二
嘗て長き試みに耐へ、フランス人(びと)の血染めの堆(つか)を築ける邑(まち)は今緑の足の下にあり 四三―四五
モンターニアを虐(しひた)げし古き新しきヴェルルッキオの猛犬(あらいぬ)は舊(もと)の處にゐてその齒を錐(きり)とす 四六―四八
夏より冬に味方を變ふる白巣(しろす)の小獅子はラーモネとサンテルノの二の邑(まち)を治む 四九―五一
またサーヴィオに横を洗はるゝものは野と山の間にあると等しく暴虐と自由の國の間に生く 五二―五四
さて我こゝに汝に請ふ、我等に汝の誰なるやを告げよ、人にまさりて頑ななるなかれ、(かくて願はくは汝の名世に秀でんことを) 五五―五七
火はその習ひにしたがひてしばらく鳴りて後とがれる鋒(さき)をかなたこなたに動かし、氣息(いき)を出していひけるは 五八―六〇
我若しわが答のまた世に歸る人にきかるとおもはゞこの焔はとゞまりてふたゝび搖(ゆら)めくことなからん 六一―六三
されどわがきくところ眞(まこと)ならば、この深處(ふかみ)より生きて還れる者なきがゆゑに、我汝に答ふとも恥をかうむるの恐れなし 六四―六六
我は武器の人なりしがのち帶紐僧(コルヂーリエロ)となれり、こはかく帶して罪を贖はんとおもひたればなり、また我を昔の諸惡にかへらしめし 六七―六九
かの大いなる僧(禍ひ彼にあれ)微(なか)つせばわれこの思ひの成れるを疑はず、されば請ふ事の次第と濫觴(おこり)とをきけ 七〇―七二
我未だ母の與へし骨と肉とをとゝのへる間、わが行(おこなひ)は獅子に似ずして狐に似たりき 七三―七五
我は惡計(たくらみ)と拔道(ぬけみち)をすべてしりつくし、これらの術(わざ)をおこなひてそのきこえ地の極(はて)にまで及べり 七六―七八
わが齡(よはひ)すゝみて人おの/\その帆をおろし綱をまきをさむる時にいたれば 七九―八一
さきにうれしかりしものいまはうるさく、我は悔いまた自白して身を棄てき、かくして救ひの望みはありしをあゝ幸(さち)なし 八二―八四
第二のファリセイびとの王ラテラーノに近く軍(いくさ)を起し、(こはサラチーノ人またはジュデーア人との戰ひにあらず 八五―八七
その敵はいづれも基督教徒(クリスティアーノ)にてしかもその一人(ひとり)だにアークリに勝たんとてゆきまたはソルダーノの地に商人(あきびと)たりしはなし) 八八―九〇
おのが至高の職をも緇衣の分をもおもはず、また帶ぶるものいたく瘠するを常とせし紐(ひも)のわが身にあるをも思はず 九一―九三
あたかもコスタンティーンが癩を癒されんとてシルヴェストロをシラッティに訪へる如く、傲(たかぶり)の熱を癒されんとて 九四―
この者我を醫(くすし)として訪へり、彼我に謀を求め我は默(もだ)せり、その言(ことば)醉へるに似たりければなり ―九九
この時彼我に曰ふ、汝心に懼るゝ勿れ、今よりのち我汝の罪を宥さん、汝はペネストリーノを地に倒さんためわがなすべき事を我に教へよ 一〇〇―一〇二
汝の知る如く我は天を閉ぢまた開くをうるなり、この故に鑰(かぎ)二あり、こは乃ち我よりさきに位にありしものゝ尊まざりしものなりき 一〇三―一〇五
此時この力ある説我をそゝのかして、默すのかへつてあしきを思はしむるにいたれり、我即ちいひけるは、父よ、汝は 一〇六―
わがおちいらんとする罪を洗ひて我を淨むるが故に知るべし、長く約し短く守らば汝高き座(くらゐ)にありて勝利(かち)を稱(とな)ふることをえん ―一一一
我死せる時フランチェスコ來りて我を連(つ)れんとせしに、黒きケルビーニの一(ひとり)彼に曰ひけるは彼を伴ふ勿れ、我に非をなす勿れ 一一二―一一四
彼は下りてわが僕等と共にあるべし、これ僞りの謀を授けしによる、この事ありてより今に至るまで我その髮にとゞまれり 一一五―一一七
悔いざる者は宥さるゝをえず、悔いと願ひとはその相反すること障礙(しやうげ)となりて並び立ちがたし 一一八―一二〇
あゝ憂ひの身なるかな、彼我を捉へて汝は恐らくはわが論理に長(た)くるをしらざりしなるべしといへる時わがをのゝけることいかばかりぞや 一二一―一二三
彼我をミノスにおくれるに、この者八度(やたび)尾を堅き背に捲き、激しく怒りて之を噛み 一二四―一二六
こは盜む火の罪人等の同囚(なかま)なりといへり、さればみらるゝ如く我こゝに罰をうけてこの衣を着、憂ひの中に歩を(あゆみ)すゝむ 一二七―一二九
さてかく語りをはれる時、炎は歎きつゝその尖れる角をゆがめまた振りて去りゆけり 一三〇―一三二
我もわが導者もともに石橋をわたりて進み、一の濠を蔽へる次の弓門(アルコ)の上にいたれり、この濠の中には 一三三―一三五
分離を釀して重荷を負ふものその負債(おひめ)をつくのへり 一三六―一三八
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   第二十八曲

たとひ紲(きづな)なき言(ことば)をもちゐ、またしば/\かたるとも、此時わが見し血と傷とを誰かは脱(おち)なく陳べうべき 一―三
收(をさ)むべきことかく多くして人の言(ことば)記憶には限りあれば、いかなる舌といふとも思ふに必ず盡しがたし 四―六
命運定(さだめ)なきプーリアの地に、トロイア人(びと)のため、また誤ることなきリヴィオのしるせるごとくいと多くの指輪を 七―
捕獲物(えもの)となせし長き戰ひによりて、そのかみその血を歎ける民みなふたゝびよりつどひ ―一二
またロベルト・グイスカールドを防がんとて刃(やいば)のいたみを覺えし民、プーリア人のすべて不忠となれる處なるチェペラン 一三―
およびターリアコッツォのあたり、乃ち老いたるアーラルドが素手(すで)にて勝利(かち)をえしところにいまなほ骨を積重ぬる者之に加はり ―一八
ひとりは刺されし身ひとりは斷たれし身をみすとも、第九の嚢(ボルジヤ)の汚らはしきさまには較(くら)ぶべくもあらぬなるべし 一九―二一
我見しにひとり頤(おとがひ)より人の放屁する處までたちわられし者ありき、中板(なかいた)または端板(はしいた)を失へる樽のやぶれもげにこれに及ばじ 二二―二四
腸(はらわた)は二の脛(はぎ)の間に垂れ、また内臟と呑みたるものを糞(ふん)となす汚(きたな)き嚢(ふくろ)はあらはれき 二五―二七
我は彼を見んとてわが全心を注ぎゐたるに、彼我を見て手をもて胸をひらき、いひけるは、いざわが裂かれしさまをみよ 二八―三〇
マオメットの斬りくだかれしさまをみよ、頤(おとがひ)より額髮まで顏を斬られて歎きつゝ我にさきだちゆくはアーリなり 三一―三三
そのほか汝のこゝにみる者はみな生ける時不和分離の種を蒔けるものなり、この故にかく截らる 三四―三六
後方(うしろ)に一の鬼ありて、我等憂ひの路をめぐりはつればこの群の中なるものを再び悉く劒の刃(は)にかけ 三七―
かく酷(むご)く我等を裝(よそふ)ふ、我等再びその前を過ぐるまでには傷すべてふさがればなり ―四二
されど汝は誰なりや、石橋の上よりながむるはおもふに汝の自白によりて定められたる罰に就くを延べんためならん 四三―四五
わが師答ふらく、死未だ彼に臨まず、また罪彼を苛責に導くにあらず、たゞその知ること周(あまね)きをえんため 四六―四八
死せる我彼を導いて地獄を過ぎ、圈また圈をつたひてこゝに下るにいたれるなり、この事の眞(まこと)なるはわが汝に物言ふことの眞なるに同じ 四九―五一
此言を聞ける時、あやしみのあまり苛責をわすれ、我を見んとて濠の中に止まれる者その數(かず)百を超えたり 五二―五四
さらば汝ほどなく日を見ることをうべきに、フラー・ドルチンに告げて、彼もしいそぎ我を追ひてこゝに來るをねがはずば 五五―
雪の圍(かこみ)が、たやすく得べきにあらざる勝利(かち)をノヴァーラ人に與ふるなからんため糧食(かて)を身の固(かため)となせといへ ―六〇
すでにゆかんとしてその隻脚(かたあし)をあげし後、マオメットかく我に曰ひ、さて去らんとてこれを地に伸ぶ 六一―六三
またひとり喉を貫かれ、鼻を眉の下まで削(そ)かれ、また耳をたゞ一のみ殘せるもの 六四―六六
衆と共にあやしみとゞまりてうちまもりゐたりしが、その外部(そと)ことごとく紅なる喉吭(のどぶえ)を人よりさきにひらきて 六七―六九
いひけるは、罪ありて罰をうくるにあらず、また近似(により)の我を欺くにあらずば上(うへ)なるラチオの國にてかつて見しことある者よ 七〇―七二
汝歸りてヴェルチェルリよりマールカーボに垂るゝ麗しき野を見るをえば、ピエール・ダ・メディチーナの事を忘れず 七三―七五
ファーノの中のいと善き二人(ふたり)メッセル・グイードならびにアンジオレルロに、我等こゝにて先を見ること徒(いたづら)ならずば 七六―
ひとりの殘忍非道の君信を賣るをもて彼等その船より投げられ、ラ・カットリーカに近く沈めらるべしと知らしめよ ―八一
チープリとマイオリカの二の島の間に、海賊によりても希臘人(アルゴスびと)によりてもかゝる大罪の行はるゝをネッツーノだに未だ見ず 八二―八四
かの一をもて物を見、かつわが同囚(なかま)のひとりにみざりしならばよかりしをとおもはしむる邑(まち)の君なる信なき者 八五―八七
詢(はか)ることありとて彼等を招き、かくしてフォカーラの風のためなる誓ひも祈りも彼等に用なきにいたらしむべし 八八―九〇
我彼に、わが汝の消息(おとづれ)を上(うへ)に齎らすをねがはゞ、見しことを痛みとするは誰なりや我に示しかつ告げよ 九一―九三
この時彼手を同囚(なかま)のひとりの□(あぎと)にかけて口をあけしめ、叫びて、これなり、物いはず 九四―九六
彼は逐はれて後チェーザレに説き、人備(そなへ)成りてなほためらはゞ必ず損害(そこなひ)をうくといひてその疑ひを鎭めしことありきといふ 九七―九九
かく臆することなく物言ひしクーリオも舌を喉吭(のどぶえ)より切放たれ、その驚き怖るゝさまげにいかにぞや 一〇〇―一〇二
こゝにひとり手を二(ふたつ)ともに斷たれしもの、殘りの腕を暗闇のさにさゝげて顏を血に汚し 一〇三―一〇五
さけびていふ、汝また幸なくも事行はれて輙ち成るといへるモスカをおもへ、わがかくいへるはトスカーナの民の禍ひの種なりき 一〇六―一〇八
この時我は詞を添へて、また、汝の宗族(うから)の死なりきといふ、こゝにおいて憂へ憂ひに加はり、彼は悲しみ狂へる人の如く去れり 一〇九―一一一
されど我はなほ群をみんとてとゞまり、こゝに一のものをみたりき、若しほかに證(あかし)なくさりとて良心 一一二―
(自ら罪なしと思ふ思ひを鎧として人に恐るゝことなからしむる善き友)の我をつよくするあらずば、我は語るをさへおそれしなるべし ―一一七
げに我は首(くび)なき一の體(からだ)の悲しき群にまじりてその行くごとくゆくを見たりき、また我いまもこれをみるに似たり 一一八―一二〇
この者切られし首の髮をとらへてあたかも提燈(ちようちん)の如く之をおのが手に吊(つる)せり、首は我等を見てあゝ/\といふ 一二一―一二三
體(からだ)は己のために己を燈(ともしび)となせるなり、彼等は二にて一、一にて二なりき、かゝる事のいかであるやはかく定むるもの知りたまふ 一二四―一二六
まさしく橋下に來れる時、この者その言(ことば)の我等に近からんため腕を首と共に高く上げたり 一二七―一二九
さてその言にいふ、氣息(いき)をつきつゝ死者を見つゝゆく者よ、いざこの心憂き罰を見よ、かく重きものほかにもあるや否やを見よ 一三〇―一三二
また汝わが消息(おとづれ)をもたらすをえんため、我はベルトラム・ダル・ボルニオとて若き王に惡を勸めし者なるをしるべし 一三三―一三五
乃ち我は父と子とを互に背くにいたらしめしなり、アーキトフェルがアブサロネをよからぬ道に唆(そゝの)かしてダヴィーデに背かしめしも 一三六―
この上にはいでじ、かくあへる人と人とを分てるによりて、わが腦はあはれこの體(からだ)の中なるその根元(もと)より分たれ、しかして我これを携ふ ―一四一
應報の律(おきて)乃ち斯くの如くわが身に行はる 一四二―一四四
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   第二十九曲

多くの民もろ/\の傷はわが目を醉はしめ、目はとゞまりて泣くをねがへり 一―三
されどヴィルジリオ我に曰ふ、汝なほ何を凝視(みつむ)るや、何ぞなほ汝の目を下なる幸なき斬りくだかれし魂の間にそゝぐや 四―六
ほかの嚢(ボルジヤ)にては汝かくなさゞりき、もし彼等をかぞへうべしとおもはゞこの溪周圍(めぐり)二十二哩(ミーリア)あるをしるべし 七―九
月は既に我等の足の下にあり、我等にゆるされし時はや殘り少なきに、この外にもなほ汝の見るべきものぞあるなる 一〇―一二
我之を聞きて答へて曰ふ、汝わがうちまもりゐたりし事の由(よし)に心をとめしならんには、わがなほ止まるを許し給ひしなるべし 一三―一五
かくかたる間も導者はすゝみ我は答へつゝうしろに從ひ、さらにいひけるは 一六―
わが目をとめし岩窟(いはあな)の中には、おもふにかく價高き罪をいたむわが血縁の一の靈あり ―二一
この時師曰ひけるは、汝今より後思ひを彼のために碎くなかれ、心をほかの事にとめて彼をこゝに殘しおくべし 二二―二四
我は小橋のもとにて彼の汝を指示(さししめ)し、指をもていたく恐喝(おびや)かすを見たり、我またそのジェリ・デル・ベルロと呼ばるゝを聞けり 二五―二七
汝は此時嘗てアルタフォルテの主なりしものにのみ心奪はれたればかしこを見ず、彼すなはち去れるなり 二八―三〇
我曰ふ、わが導者よ、彼はその横死の怨みのいまだ恥をわかつものによりて報いられざるを憤り 三一―
はかるにこれがために我とものいはずしてゆけるなるべし、我またこれによりて彼を憐れむこといよ/\深し ―三六
斯く語りて我等は石橋のうち次の溪はじめてみゆる處にいたれり、光こゝに多かりせばその底さへみえしなるべし 三七―三九
我等マーレボルジェの最後の僧院の上にいで、その役僧等(やくそうたち)我等の前にあらはれしとき 四〇―四二
憂ひの鏃(やじり)をその矢につけし異樣の歎聲(なげき)我を射たれば我は手をもて耳を蔽へり 四三―四五
七月九月の間に、ヴァルディキアーナ、マレムマ、サールディニアの施療所(せれうじよ)より諸□の病みな一の濠にあつまらば 四六―
そのなやみこの處のごとくなるべし、またこゝより來る惡臭(をしう)は腐りたる身よりいづるものに似たりき ―五一
我等は長き石橋より最後の岸の上にくだり、つねの如く左にむかふにこの時わが目あきらかになりて 五二―五四
底の方(かた)をもみるをえたりき、こはたふとき帝(みかど)の使者(つかひ)なる誤りなき正義がその世に名をしるせる驅者(かたり)等を罰する處なり 五五―五七
思ふに昔エージナの民の悉く病めるをみる悲しみといへども、(この時空に毒滿ちて小さき蟲にいたるまで 五八―
生きとし生けるもの皆斃る、しかして詩人等の眞(まこと)とみなすところによればこの後古の民
蟻の族(やから)よりふたゝびもとのさまにかへさる)、この暗き溪の中にあまたの束(たば)をなして衰へゆく魂を見る悲しみにまさらじ ―六六
ひとりは俯(うつむ)きて臥し、ひとりは同囚(なかま)の背にもたれ、ひとりはよつばひになりてこの悲しみの路をゆけり 六七―六九
我等は病みて身をあぐるをえざる此等の者を見之に耳をかたむけつつ言(ことば)はなくてしづかに歩めり 七〇―七二
こゝにわれ鍋の鍋に凭(もた)れて熱をうくる如く互に凭れて坐しゐたる二人(ふたり)の者を見き、その頭より足にいたるまで瘡斑點(かさまだら)をなせり 七三―七五
その痒きことかぎりなく、さりとてほかに藥なければ、彼等はしば/\おのが身を爪に噛ましむ 七六―
主(きみ)を待たせし厩奴(うまやもり)または心ならず目を覺(さま)しゐたる僕の馬梳(うまぐし)を用ふるもかくはやきはいまだみず ―八一
爪の痂(かさぶた)を掻き落すことたとへば庖丁の鯉またはこれより鱗大なる魚の鱗をかきおとすごとくなりき 八二―八四
わが導者そのひとりにいひけるは、指をもて鎧を解きかくしてしば/\これを釘拔にかゆる者よ 八五―八七
この中(なか)なる者のうちにラチオ人(びと)ありや我等に告げよ、(かくて願はくは汝の爪永遠(とこしへ)にこの勞(いたづき)に堪へなんことを) 八八―九〇
かの者泣きつゝ答へて曰ひけるは、かく朽果てし姿をこゝに見する者はともにラチオ人なりき、されど我等の事をたづぬる汝は誰ぞや 九一―九三
導者曰ふ、我はこの生くる者と共に岩また岩をくだるものなり、我彼に地獄を見せんとす 九四―九六
この時互の支(さゝへ)くづれておの/\わなゝきつゝ我にむかへり、また洩れ聞けるほかの者等もかくなしき 九七―九九
善き師身をいとちかく我によせ、汝のおもふことをすべて彼等にいへといふ、我乃ちその意に從ひて曰ひけるは 一〇〇―一〇二
ねがはくは第一の世にて汝等の記憶人の心をはなれず多くの日輪の下にながらへんことを 一〇三―一〇五
汝等誰にて何の民なりや我に告げよ、罰の見苦しく厭はしきをおもひて我に身を明(あ)かすをおそるゝなかれ 一〇六―一〇八
そのひとり答へて曰ふ、我はアレッツオの者なりき、アールベロ・ダ・シエーナによりてわれ火にかゝるにいたれるなり、然(され)ど 一〇九―
我をこゝに導けるは我を死なしめし事に非ず、我戲れに彼に告げて空飛ぶ術(すべ)をしれりといひ、彼はまた事を好みて智乏しき者なりければこの技(わざ)を示さん事を我に求め、たゞわが彼をデーダロたらしめざりし故により彼を子となす者に我を燒かしめしは實(まこと)なり ―一一七
されど過つあたはざるミノスが我を十の中なる最後の嚢(ボルジヤ)に陷らしめしはわが世に行へる錬金の術によりてなりき 一一八―一二〇
われ詩人に曰ひけるは、そも事を好むシエーナ人の如き民かつて世にありしや、げにフランス人(びと)といへどもはるかにこれにおよばじ 一二一―一二三
此時いまひとりの癩を病める者かくいふをきゝてわが言に答へて曰ひけるは、費(つひえ)を愼しむ術(すべ)しれるストリッカ 一二四―
丁子(ちやうじ)の實(み)ねざす園の中にその奢れる用(もちゐ)をはじめて工夫(くふう)せしニッコロを除け ―一二九
また葡萄畑と大なる林とを蕩盡(つかひはた)せしカッチア・ダシアーンおよびその才を時めかせしアツバリアート等の一隊を除け 一三〇―一三二
されどかく汝に與してシエーナ人にさからふ者の誰なるやをしるをえんため、目を鋭くして我にむかへ、さらばわが顏よく汝に答へ 一三三―一三五
汝はわが錬金の術によりて諸□の金(かね)を詐り變へしカポッキオの魂なるをみん、またわが汝を見る目に誤りなくば、汝は思ひ出づるなるべし 一三六―一三八
我は巧みに自然を似せし猿(ましら)なりしを 一三九―一四一
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   第三十曲

テーベの血セーメレの故によりユノネの怒りに觸れし時(その怒りをあらはせることしば/\なりき) 一―三
いたく狂へるアタマンテはその妻が二人(ふたり)の男子(をとこのこ)を左右の手に載せてゆくを見て 四―六
我等網を張らむ、かくしてわれ牝獅子と獅子の仔をその路にてとらへんとさけび、非情の爪をのばし 七―九
そのひとり名をレアルコといへるを執らへ、ふりまはして岩にうちあて、また女は殘れる荷をもて自ら水に溺れにき 一〇―一二
また何事をもおそれず行へるトロイア人(びと)の僭上命運の覆すところとなりて、王その王土と共に亡ぶにいたれる時 一三―一五
悲しき、あぢきなき、囚虜(とらはれ)の身のエークバは、ポリッセーナの死せるをみ、またこのなやめる者その子ポリドロを 一六―
海のほとりにみとめ、憂ひのために心亂れ、その理性(さとり)をうしなひて犬の如く吠えたりき ―二一
されど物にやどりて獸または人の身を驅るテーベ、トロイアの怒りの猛きも 二二―
わが蒼ざめて裸なる二の魂の中にみし怒りには及ばじ、彼等は恰も欄(をり)を出でたる豚の如く且つ噛み且つ走れり ―二七
その一はカポッキオにちかづき、牙を項(うなじ)にたてゝ彼を曳き、堅き底を腹に磨(す)らしむ 二八―三〇
震ひつゝ殘れるアレッツオの者我に曰ひけるは、かの魔性の魑魅(すだま)はジャンニ・スキッキなり、狂ひめぐりてかく人をあしらふ 三一―三三
我彼に曰ふ、(願はくはいま一の者汝に齒をたつるなからんことを)請ふ此者の誰なるやをそのはせさらぬまに我に告げよ 三四―三六
彼我に、こはいとあしきミルラの舊(ふり)し魂なり、彼正しき愛を超えてその父を慕ひ 三七―三九
おのれを人の姿に變へてこれと罪を犯すにいたれり、あたかもかなたにゆく者が 四〇―
獸の群の女王をえんとて己をブオソ・ドナーティといつはり、その遺言書(ゆゐごんしよ)を作りてこれを法例(かた)の如く調(とゝの)ふるにいたれるに似たり ―四五
狂へる二の者過ぎ去りて後、我は此等に注げる目をめぐらし、ほかの幸(さち)なく世に出でし徒(ともがら)を見たり 四六―四八
我見しにこゝにひとり人の叉生(またさ)すあたりより股の附根(つけね)を切りとるのみにて形琵琶に等しかるべき者ありき 四九―五一
同化しえざる水氣によりて顏腹と配(そ)はざるばかりに身に權衡(けんかう)を失はせ、また之を重からしむる水腫(すゐしゆ)の病は 五二―五四
たえずその唇をひらかしめ、そのさまエチカをやめる者の渇きて一を頤(おとがひ)に一を上にむくるに似たりき 五五―五七
彼我等に曰ふ、あゝいぶかしくも苦患(なやみ)の世にゐて何の罰をもうけざる者よ、心をとめてマエストロ・アダモの幸なきさまを見よ 五八―
生ける時は我ゆたかにわが望めるものをえたりしに、いまはあはれ水の一滴(ひとしづく)をねぎもとむ ―六三
カセンティーンの緑の丘(をか)よりアルノにくだり、水路涼しく軟かき多くの小川は 六四―六六
常にわがまへにあらはる、またこれ徒(いたづら)にあらず、その婆の我を乾すことわが顏の肉を削(そ)ぐこの病よりはるかに甚しければなり 六七―六九
我を責むる嚴(おごそか)なる正義は、我に歎息(ためいき)をいよ/\しげく飛ばさしめんとてその手段(てだて)をわが罪を犯せる處に得たり 七〇―七二
即ちかしこにロメーナとてわがバッティスタの像(かた)ある貨幣(かね)の模擬(まがひ)を造り、そのため燒かれし身を世に殘すにいたれる處あり 七三―七五
されど我若しこゝにグイード、アレッサンドロまたは彼等の兄弟の幸(さち)なき魂をみるをえばその福(さいはひ)をフォンテ・ブラングにもかへじ 七六―七八
狂ひめぐる魂等の告ぐること眞(まこと)ならば、ひとりはすでにこの中にあり、されど身繋(つな)がるゝがゆゑに我に益なし 七九―八一
たとひ百年(もゝとせ)の間に一吋(オンチヤ)をゆきうるばかりなりともこの身輕くば、この處周圍(めぐり)十一哩(ミーリア)あり 八二―八四
幅半哩を下らざれども、我は既に出立ちて彼をこの見苦しき民の間に尋ねしなるべし 八五―八七
我は彼等の爲にこそ斯かる家族(やから)の中にあるなれ、我を誘ひて三カラートの合金(まぜがね)あるフィオリーノを鑄らしめしは乃ち彼等なればなり 八八―九〇
我彼に、汝の右に近く寄りそひて臥し、冬の濡手(ぬれて)のごとく烟(けぶ)るふたりの幸なき者は誰ぞや 九一―九三
答へて曰ふ、我この巖間(いわま)に降(ふ)り下れる時彼等すでにこゝにありしが其後一度(たび)も身を動かすことなかりき、思ふに何時(いつ)に至るとも然(しか)せじ 九四―九六
ひとりはジユセッポを讒(しこづ)りし僞りの女、一はトロイアにありしギリシア人(びと)僞りのシノンなり、彼等劇しき熱の爲に臭き烟を出すことかく夥(おびたゞ)し 九七―九九
この時そのひとり、かくあしざまに名をいはれしを怨めるなるべし、拳(こぶし)をあげて彼の硬き腹を打ちしに 一〇〇―一〇二
その音恰も太鼓の如くなりき、マエストロ・アダモはかたさこれにも劣らじとみゆるおのが腕をもてかの者の顏を打ち 一〇三―一〇五
これにいひけるは、たとひこの身重くして動くあたはずともかゝる用(もちゐ)にむかひては自在の肱(かひな)我にあり 一〇六―一〇八
かの者即ち答へて曰ふ、火に行ける時汝の腕かくはやからず、貨幣(かね)を造るにあたりてはかく早く否これよりも早かりき 一〇九―一一一
水氣を病める者、汝のいへるは眞(まこと)なり、されどトロイアにて眞を問はれし時汝はかかる眞の證人(あかしびと)にあらざりき 一一二―一一四
シノネ曰ふ、我は言(ことば)にて欺けるも汝は貨幣(かね)にて欺けるなり、わがこゝにあるは一(ひとつ)の罪のためなるも汝の罪は鬼より多し 一一五―一一七
腹脹(ふく)るゝ者答へて曰ふ、誓ひを破れる者よ、馬を思ひいで、この事全世界にかくれなきをしりて苦しめ 一一八―一二〇
ギリシアの者曰ふ、汝はまた舌を燒くその渇(かわき)と腹を目の前の籬(まがき)となすその腐水(くさりみづ)のために苦しめ 一二一―一二三
この時贋金者(にせがねし)、汝の口は昔の如く己が禍ひのために開(あ)く、我渇き水氣によりて膨るるとも 一二四―一二六
汝は燃えて頭いためば、もしナルチッソの鏡だにあらば人のしふるをもまたで之を舐(ねぶ)らむ 一二七―一二九
我は彼等の言をきかんとのみ思ひたりしに、師我に曰ふ、汝少しく愼しむべし、われたゞちに汝と爭ふにいたらん 一三〇―一三二
彼怒りをふくみてかく我にいへるをきける時我は今もわが記憶に渦(うづま)くばかりの恥をおぼえて彼の方にむかへり 一三三―一三五
人凶夢を見て夢に夢ならんことをねがひ、すでに然るを然らざるごとく切(せち)に求むることあり 一三六―一三八
我亦斯くの如くなりき、我は口にていふをえざれば、たえず詫(わ)びつゝもなほ詫びなんことを願ひてわが既にしかせるを思ふことなかりき 一三九―一四一
師曰ふ、恥斯く大いならずともこれより大いなる過ちを洗ふにたる、されば一切の悲しみを脱れよ 一四二―一四四
若し民かくの如く爭ふところに命運汝を行かしむることあらば、わが常に汝の傍にあるをおもへ 一四五―一四七
かゝる事をきくを願ふはこれ卑しき願ひなればなり 一四八―一五〇
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   第三十一曲

同じ一の舌なれども先には我を刺して左右の頬を染め、後には藥を我にえさせき 一―三
聞くならくアキルレとその父の槍もまたかくのごとく始めは悲しみ後は幸ひを人に與ふる習ひなりきと 四―六
我等は背を幸(さち)なき大溪にむけ、之を繞れる岸の上にいで、言(ことば)も交(まじ)へで横ぎれり 七―九
さてこの邊(あたり)は夜たりがたく晝たりがたき處なれば、我は遠く望み見るをえざりしかど、はげしき雷(いかづち)をも微(かすか)ならしむるばかりに 一〇―
角笛(つのぶえ)高く耳にひゞきて我にその行方(ゆくへ)を溯りつゝ目を一の處にのみむけしめき ―一五
師(いくさ)いたましく敗れ、カルロ・マーニオその聖軍を失ひし後のオルラントもかくおそろしくは吹鳴らさゞりしなりけり 一六―一八
われ頭(かうべ)をかなたにめぐらしていまだほどなきに、多くの高き櫓(やぐら)をみしごとく覺えければ、乃ち曰ふ、師よ、告げよ、これ何の邑なりや 一九―二一
彼我に、汝はるかに暗闇の中をうかゞふがゆゑに量ることたゞしからざるにいたる 二二―二四
ひとたびかしこにいたらば遠き處にありては官能のいかに欺かれ易きものなるやをさだかに知るをえん、されば少しく足をはやめよ 二五―二七
かくてやさしく我手をとりていひけるは、我等かなたにゆかざるうち、この事汝にいとあやしとおもはれざるため 二八―三〇
しるべし、彼等は巨人にして櫓にあらず、またその臍(ほぞ)より下は坎(あな)の中岸のまはりにあり 三一―三三
水氣空に籠(こも)りて目にかくれし物の形、霧のはるゝにしたがひて次第に浮びいづるごとく 三四―三六
我次第に縁(ふち)にちかづきわが眼(まなこ)濃き暗き空を穿つにおよびて誤りは逃げ恐れはましぬ 三七―三九
あたかもモンテレッジオンが圓き圍(かこひ)の上に多くの櫓を戴く如く、おそろしき巨人等は 四〇―
その半身をもて坎をかこめる岸を卷けり(ジョーヴェはいまも雷(いかづち)によりて天より彼等を慴(おび)えしむ) ―四五
我は既にそのひとりの顏、肩、胸および腹のおほくと腋を下れる雙腕(もろかひな)とをみわけぬ 四六―四八
げに自然がかゝる生物を造るをやめてかゝる臣等(おみら)をマルテより奪へるは大いに善し 四九―五一
また彼象と鯨を造れるを悔いざれども、見ることさとき人はこれに依りて彼をいよいよ正しくいよ/\慮(おもんぱかり)あるものとなすべし 五二―五四
そは心の固めもし惡意と能力(ちから)に加はらばいかなる人もこれを防ぐあたはざればなり 五五―五七
顏は長く大きくしてローマなる聖ピエートロの松毯(まつかさ)に似、他(ほか)の骨みなこれに適(かな)へり 五八―六〇
されば下半身の裳(も)なりし岸は彼を高くその上に聳えしむ、おもふに三人(みたり)のフリジア人(びと)もその髮に屆(とゞ)くを 六一―
誇りえざりしなるべし、人の外套(うはぎ)を締合(しめあ)はすところより下方(した)わが目にうつれるもの裕(ゆたか)に三十パルモありき ―六六
ラフェル・マイ・アメク・ツアビ・アルミ、猛き口はかく叫べり、(これよりうるはしき聖歌はこの口にふさはしからず) 六七―六九
彼にむかひてわが導者、愚なる魂よ、怒り生じ雜念起らばその角笛に縋りて之をこころやりとせよ 七〇―七二
あわたゞしき魂よ、頸をさぐりてつなげる紐をえ、また笛のその大いなる胸にまつはるをみよ 七三―七五
かくてまた我に曰ひけるは、彼己が罪を陳ぶ、こはネムブロットなり、世に一の言語(ことば)のみ用ゐられざるは即ちそのあしき思ひによれり 七六―七八
我等彼を殘して去り、彼と語るをやめん、これ益なきわざなればなり、人その言(ことば)をしらざる如く彼また人の言をさとらじ 七九―八一
かくて左にむかひて我等遠くすゝみゆき弩(いしゆみ)とゞく間(あひ)をへだてゝまたひとりいよ/\猛くかつ大いなる者をみき 八二―八四
縛(しば)れる者の誰なりしや我はしらねど、彼鏈(くさり)をもてその腕を左はまへに右はうしろに繋(つな)がれ 八五―
この鏈頸より下をめぐりてその身のあらはれしところを絡(ま)くこと五囘(いつまき)に及べり ―九〇
わが導者曰ふ、この傲(たかぶ)る者比類(たぐひ)なきジョーヴェにさからひておのが能力(ちから)をためさんとおもへり、此故にこの報(むくい)をうく 九一―九三
彼名をフィアルテといふ、巨人等が神々の恐るゝところとなりし頃大いなる試(こゝろみ)をなし、その腕を振へるも、今や再び動かすによしなし 九四―九六
我彼に、若しかなはゞ願はくは量り知りがたきブリアレオのわが目に觸れなんことを 九七―九九
彼すなはち答へて曰ふ、汝はこゝより近き處にアンテオを見ん、彼語るをえて身に縛(いましめ)なし、また我等を凡ての罪の底におくらん 一〇〇―一〇二
汝の見んとおもふ者は遠くかなたにありてかくの如く繋がれ形亦同じ、たゞその姿いよ/\猛きのみ 一〇三―一〇五
フィアルテ忽ち身を搖(ゆ)れり、いかに強き地震(なゐ)といへどもその塔をゆるがすことかく劇しきはなし 一〇六―一〇八
此時我は常にまさりて死を恐れぬ、また若し繋(つなぎ)を見ることなくば怖れはすなはち死なりしなるべし 一〇九―一一一
我等すゝみてアンテオに近づけり、彼は岩窟(いはあな)より外にいづること頭を除きて五アルラを下らざりき 一一二―一一四
あゝアンニバールがその士卒と共に背(そびら)を敵にみせし時、シピオンを譽の嗣(よつぎ)となせし有爲(うゐ)の溪間に 一一五―一一七
そのかみ千匹の獅子の獲物(えもの)をはこべる者よ(汝若し兄弟等のゆゝしき師(いくさ)に加はりたらば地の子等勝利(かち)をえしものをと 一一八―
いまも思ふものあるに似たり)、願はくは我等を寒さコチートを閉すところにおくれ、これをいとひて ―一二三
我等をティチオにもティフォにも行かしむる勿れ、この者よく汝等のこゝに求むるものを與ふるをうるがゆゑに身を屈(かゞ)めよ、顏を顰(しか)むる勿れ 一二四―一二六
彼はこの後汝の名を世に新にするをうるなり、彼は生く、また時未だ至らざるうち恩惠(めぐみ)彼を己が許によぶにあらずばなほ永く生くべし 一二七―一二九
師かく曰へり、彼速かに嘗てエルクレにその強(つよみ)をみせし手を伸べてわが導者を取れり 一三〇―一三二
ヴィルジリオはおのが取られしをしりて我にむかひ、こゝに來(こ)よ、我汝をいだかんといひ、さて己と我とを一の束(たば)とせり 一三三―一三五
傾ける方(かた)よりガーリセンダを仰ぎ見れば、雲その上を超ゆる時これにむかひてゆがむかと疑はる 一三六―一三八
われ心をとめてアンテオの屈むをみしにそのさままた斯くの如くなりき、さればほかの路を行かんとの願ひもげにこれ時に起れるなるを 一三九―一四一
彼は我等をかるやかにジユダと共にルチーフェロを呑める底におき、またかくかゞみて時ふることなく 一四二―一四四
船の檣の如く身を上げぬ 一四五―一四七
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   第三十二曲

若し我にすべての巖壓(いはほお)しせまる悲しみの坎(あな)にふさはしきあらきだみたる調(しらべ)あらば 一―三
我わが想(おもひ)の汁(しる)をなほも漏れなく搾(しぼ)らんものを、我に是なきによりて語るに臨み心後る 四―六
夫れ全宇宙の底を説くは戲れになすべき業(わざ)にあらず、阿母阿父とよばゝる舌また何ぞよくせんや 七―九
たゞ願はくはアムフィオネをたすけてテーべを閉せる淑女等わが詩をたすけ、言(ことば)の事と配(そ)はざるなきをえしめんことを 一〇―一二
あゝ萬の罪人にまさりて幸なく生れし民、語るも苦(つら)き處に止まる者等よ、汝等は世にて羊または山羊(やぎ)なりしならば猶善かりしなるべし 一三―一五
我等は暗き坎(あな)の中巨人の足下(あしもと)よりはるかに低き處におりたち、我猶高き石垣をながめゐたるに 一六―一八
汝心して歩め、あしうらをもて幸なき弱れる兄弟等の頭を踏むなかれと我にいふものありければ 一九―二一
われ身をめぐらしてみしにわが前また足の下に寒さによりて水に似ず玻璃に似たる一の池ありき 二二―二四
冬のオステルリッキなるダノイアもかの寒空(さむぞら)の下なるタナイもこの處の如く厚き覆面衣(かほおひ)をその流れの上につくれることあらじ 二五―

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