駅夫日記
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著者名:白柳秀湖 

     一

 私は十八歳、他人(ひと)は一生の春というこの若い盛りを、これはまた何として情ない姿だろう、項垂(うなだ)れてじっと考えながら、多摩川(たまがわ)砂利の敷いてある線路を私はプラットホームの方へ歩いたが、今さらのように自分の着ている小倉の洋服の脂垢(あぶらあか)に見る影もなく穢(よご)れたのが眼につく、私は今遠方シグナルの信号燈(ランターン)をかけに行ってその戻(もど)りである。
 目黒の停車場(ステーション)は、行人坂(ぎょうにんざか)に近い夕日(ゆうひ)が岡(おか)を横に断ち切って、大崎村に出るまで狭い長い掘割になっている。見上げるような両側の崖(がけ)からは、芒(すすき)と野萩(のはぎ)が列車の窓を撫(な)でるばかりに生(お)い茂って、薊(あざみ)や、姫紫苑(ひめじおん)や、螢草(ほたるぐさ)や、草藤(ベッチ)の花が目さむるばかりに咲き繚(みだ)れている。
 立秋とは名ばかり燬(や)くように烈(はげ)しい八月末の日は今崖の上の黒い白樫(めがし)の森に落ちて、葎(むぐら)の葉ごしにもれて来る光が青白く、うす穢(ぎたな)い私の制服の上に、小さい紋波(もんぱ)を描くのである。
 涼しい、生き返るような風が一としきり長峰の方から吹き颪(おろ)して、汗ばんだ顔を撫でるかと思うと、どこからともなく蜩(ひぐらし)の声が金鈴の雨を聴(き)くように聞えて来る。
 私はなぜこんなにあの女(ひと)のことを思うのだろう、私はあの女に惚(ほ)れているのであろうか、いやいやもう決して微塵(みじん)もそんなことのありようわけはない、私の見る影もないこの姿、私はこんなに自分で自分の身を羞(は)じているではないか。

     二

 品川行きの第二十七列車が出るまでにはまだ半時間余りもある。日は沈んだけれども容易に暮れようとはしない、洋燈(ランプ)は今しがた点(つ)けてしまったし、しばらく用事もないので開け放した、窓に倚(よ)りかかってそれとはなしに深いもの思いに沈んだ。
 風はピッタリやんでしまって、陰欝(いんうつ)な圧(お)しつけられるような夏雲に、夕照(ゆうやけ)の色の胸苦しい夕ぐれであった。
 出札掛りの河合というのが、駅夫の岡田を相手に、樺色(かばいろ)の夏菊の咲き繚れた、崖に近い柵(さく)の傍(そば)に椅子を持ち出して、上衣を脱いで風を入れながら、何やらしきりに笑い興じている。年ごろ二十四五の、色の白い眼の細い頭髪(かみ)を油で綺麗(きれい)に分けた、なかなかの洒落者(しゃれもの)である。
 山の手線はまだ単線で客車の運転はホンのわずかなので、私たちの労働(しごと)は外から見るほど忙しくはない。それに会社は私営と来ているので、官線の駅夫らが嘗(な)めるような規則攻めの苦しさは、私たちにないので、どっちかといえばマアのんきというほどであった。
 私はどうした機会(はずみ)か大槻芳雄(おおつきよしお)という学生のことを思い浮べて、空想はとめどもなく私の胸に溢(あふ)れていた。大槻というのはこの停車場(ステーション)から毎朝、新宿まで定期券を利用してどこやらの美術学校に通うている二十歳(はたち)ばかりの青年である。丈(せい)はスラリとして痩型(やせぎす)の色の白い、張りのいい細目の男らしい、鼻の高い、私の眼からも惚(ほ)れ惚(ぼ)れとするような、嫉(ねた)ましいほどの美男子であった。
 私は毎朝この青年の立派な姿を見るたびに、何ともいわれぬ羨(うらや)ましさと、また身の羞(はず)かしさとを覚えて、野鼠(のねずみ)のように物蔭(ものかげ)にかくれるのが常であった。永い間通っているものと見えて、駅長とは特別懇意でよく駅長室へ来ては巻煙草(まきたばこ)を燻(くす)べながら、高らかに外国語のことなどを語り合うているのを聞いた。
 私の眼には立派な紳士の礼服姿よりも、軍人のいかめしい制服姿よりも、この青年の背広の服を着た書生姿が言い知らず心を惹(ひ)いて堪えられない苦痛(くるしみ)であった。私は心から思うた、功名もいらない、富貴(ふうき)も用はない、けれどもただ一度この脂垢のしみた駅夫の服を脱いで学校へ通うてみたい……
 ああ私の盛りはこんなことをして暮らしてしまうのか。
 私は今ふと昔の小学校時代のことを想い出した。薄命な母と一しょに叔父(おじ)の宅(うち)に世話になっていたころ、私は小学校でいつでも首席を占めて、義務教育を終るまで、その地位を人に譲らなかったこと、将来はきっと偉い者になるだろうというて人知れず可愛がってくれた校長先生のこと、世話になっている叔父の息子の成績が悪いので、苦労性の母が、叔父の細君に非常に遠慮をしたことなど、それからそれへと思いめぐらして、追懐(おもいで)はいつしか昔の悲しい、いたましい母子(おやこ)の生活の上に遷(うつ)ったのである。
 ぼんやりしていた私は室の入口のところに立つ人影に驚かされた、見上げるとそれは白地の浴衣(ゆかた)に、黒い唐縮緬(とうちりめん)の兵児帯(へこおび)を締めた、大槻であった。
「君! 汽車は今日も遅れるだろうね」
「ええ十五分ぐらい……は」と私は答えた。山の手線はまだ世間一般によく知られていないので、客車はほとんど附属(つけたり)のような観があった、列車の遅刻はほとんど日常(いつも)のこととなっていた。
 日はもういつしか暮れて蜩(ひぐらし)の声もいつの間にか消えてしまった。
 大槻はちょっと舌を鳴らしたが、改札の机から椅子を引き寄せて、鷹揚(おうよう)に腰を下した、出札の河合は上衣の袖(そで)を通しながら入って来たが、横眼で悪々(にくにく)しそうに大槻を睨(にら)まえながら、奥へ行ってしまった。
「今からどちらへいらっしゃるのですか」私は何と思ってか大槻に問うた。
「日比谷まで……今夜、音楽があるんだ」と言い放ったが、白い華奢(きゃしゃ)な足を動かして蚊(か)を追うている。

     三

「君! 僕一つ君に面白いことを尋ねて見ようか」
「え……」
「軌道(レール)なしに走る汽車があるだろうか」
「そんな汽車が出来たのですか」
「日本にあるのさ」
「どこに」
「東京から青森まで行く間にちょうど、一里十六町ばかり、軌道(レール)なしで走るところがあるね」と言い切ったが香のいい巻煙草の煙をフッと吹いた。
 私は何だか自分がひどく馬鹿にされたような気がしてむっとした。陰欝な、沈みがちな私はまた時として非常に物に激しやすい、卒直な天性(うまれつき)を具えている。
「冗談でしょう、僕はまた真面目(まじめ)にお話ししていましたよ」私は成人(おとな)らしい少年(こども)だ、母と叔父の家に寄寓してから、それはもう随分気がね、苦労の数をつくした。母は人にかくれてまだうら若い私の耳にいたましい浮世話を聞かせたので、私は小さき胸にはりさけるような悲哀(かなしみ)を押しかくして、ひそかに薄命な母を惨(いた)んだ、私は今茲(ことし)十八歳だけれども、私の顔を見た者は誰でも二十五六歳だろうという。
「君怒ったのか、よし、君がそんなことで怒るくらいならば僕も君に怒るぞ。もし青森までに軌道なしで走るところが一里十六町あったらどうするか」声はやや高かった。
「そんなことがありますか!」私は眼をみはって呼気(いき)をはずませた。
「いいか、君! 軌道と軌道の接続点(つなぎめ)におおよそ二分ばかりの間隙(すき)があるだろう、この間下壇(した)の待合室で、あの工夫の頭(かしら)に聞いたら一哩(まいる)にあれがおよそ五十ばかりあるとね、それを青森までの哩数に当てて見給え、ちょうど一里十六町になるよ、つまり一里十六町は汽車が軌道なしで走るわけじゃあないか」
 私はあまりのことに口もきけなかった、大槻が笑いながら何か言おうとした刹那(せつな)、開塞(かいさく)の信号がけたたましく鳴り出した。

     四

 品川行きのシグナルを処理して私は小走りに階壇を下りた。黄昏(たそがれ)の暗さに大槻の浴衣(ゆかた)を着た後姿は小憎らしいほどあざやかに、細身の杖(つえ)でプラットホームの木壇(もくだん)を叩(たた)いている。
 私は何だか大槻に馬鹿にされたような気がして、言いようのない不快の感が胸を衝(つ)いて堪えがたいので筧(かけい)の水を柄杓(ひしゃく)から一口グイと飲み干した。
 筧の水というものはこの崖から絞れて落つる玉のような清水を集めて、小さい素焼きの瓶(かめ)に受けたので綰物(まげもの)の柄杓が浮べてある。あたりは芒(すすき)が生いて、月見草が自然に咲いている。これは今の駅長の足立熊太という人の趣向で、こんなことの端にも人の心がけはよく表われるもの、この駅長はよほど上品な風流心に富んだ、こういう職業に埋(うも)れて行くにはあたら惜しいような男である。長く務めているので、長峰界隈(かいわい)では評判の人望家ということ、道楽は謡曲で、暇さえあれば社宅の黒板塀(くろいたべい)から謡(うた)いの声が漏れている。
 やがて汽車が着いた。私は駅名喚呼をしなければならぬ、「目黒目黒」と二声ばかり戸(ドアー)を開けながら呼んで見たが、どうも羞かしいような気がして咽喉がつまった。列車は前後(あとさき)が三等室で、中央(まんなか)が一二等室、見ると後の三等室から、髪をマガレットに束(つか)ねた夕闇に雪を欺(あざむ)くような乙女の半身が現われた。今玉のような腕(かいな)をさし伸べて戸の鍵(ラッチ)をはずそうとしている。
「高谷(たかや)千代子!」私は思わず心に叫んだが胸は何となく安からぬ波に騒いだ。
 大槻はツカツカと前へ進んだと思うと高谷の室の戸をグッと開けてやる。縫上げのたっぷりとした中形の浴衣(ゆかた)に帯を小さく結んで、幅広のリボンを二段に束ねた千代子の小柄な姿がプラットホームに現われたが、ちょっと大槻に会釈(えしゃく)してそのまま階段の方に歩む。手には元禄模様の華美(はで)な袋にバイオリンを入れて、水色絹に琥珀(こはく)の柄の付いた小形の洋傘(こうもり)を提(さ)げている。
 大槻はすぐ室に入ったが、今度はまた車窓から半身を出して、自分で戸の鍵をかった。千代子はほかの客に押されて私の立っている横手を袖(そで)の触れるほどにして行く、私はいたく身を羞(は)じてちょっと体躯(からだ)を横にしたがその途端に千代子は星のような瞳(ひとみ)をちょっと私の方にうつした。
 汽車はこの時もう動いていた、大槻の乗っている三等室がプラットホームを歩いている千代子の前を横ぎる時、千代子はその美しい顔をそむけて横を見た。
「マア大槻という奴(やつ)は何といういけ好かない男だろう」私はこう思いながら、ぼんやりとして佇(たたず)むと、千代子の大理石のように白い素顔、露のこぼれるような瞳、口もとに言いようのない一種の愛嬌(あいきょう)をたたえて大槻に会釈した時のあでやかさ、その心象(まぼろし)がありありと眼に映って私は恐ろしい底ひしられぬ嫉妬(ねたみ)の谷に陥った。
「藤岡! 閉塞を忘れちゃあ困るよ、何をぼんやりとしているかね」
 駅長のおだやかな声が聞えた。私があわてて振り向くと駅長はニッコリ笑っていた、私はもしやこの人に私のあさましい心の底を見抜かれたのではあるまいかと思うと、もうたまらなくなってコソコソと階壇を駆け上って、シグナルを上げた。
 権之助坂(ごんのすけざか)のあたり、夕暮の煙が低くこめて、もしやと思ったその人の姿は影も見えない。

     五

 野にも、岡にも秋のけしきは満ち満ちて来た。
 休暇(やすみ)の日の夕方、私は寂しさに堪えかねてそぞろに長峰の下宿を出たが足はいつの間にか権之助坂を下りていた。虎杖(いたどり)の花の白く咲いた、荷車の砂塵のはげしい多摩川道を静かにどこという目的(あて)もなく物思いながらたどるのである。
 私は権之助という侠客(おとこだて)の物語を想うた、いつか駅長の使いをしてやった時、駅長は遠慮する私を無理に引きとめて、南の縁で麦酒(ビール)を飲みながら私にいろいろの話をしてくれた、目黒界隈(かいわい)はもと芝増上寺(ぞうじょうじ)の寺領であったが、いつのころか悪僧どもが共謀して、卑しい手段で恐ろしい厳しい取立てをした、その時村に権之助という侠客がいて、百姓の難渋を見ていることが出来ないというので、死を決して増上寺から不正の升を掠(かす)めて町奉行(まちぶぎょう)に告訴した、権之助のために増上寺の不法は廃(や)められたけれども、かれはそれがために罪に問われて、とある夕ぐれのことであった、情知らぬ獄吏に導かれて村中引き廻(まわ)しにされた上、この岡の上で惨(いた)ましい処刑(しおき)におうたということ。
 ああ、権之助の最後はこんな夕ぐれであったろうか。
 私は空想の翼を馳(は)せて、色の浅黒い眼の大きい、骨格の逞(たくま)しい一個の壮漢の男らしい覚悟を想い浮べて見た。いかに時代(ときよ)が違うとは言いながら昔の人はなぜそんなに潔く自分の身を忘れて、世間のために尽すというようなことが出来たのであろう。
 羞かしいではないか、私のような欝性(うつしょう)がまたと世にあるであろうか、欝性というのも皆自分の身のことばかりクヨクヨと思うからだ、私がかつて自分のことを離れて物を思うたことがあるであろうか、昼の夢、夜の夢、げに私は自分のことばかりを思う。
 いつの間にか私は目黒川の橋の上に佇んで欄干にもたれていた。この川は夕日が岡と、目黒原の谷を流れて、大崎大井に落ちて、品川に注ぐので川幅は狭いけれども、流れは案外に早く、玉のような清水をたたえている。水蒸気を含んだ秋のしめやかな空気を透してはるかに水車の響が手にとるように聞えて来る、その水車の響がまた無声にまさる寂しさを誘(いざな)うのであった。
 人の橋を渡る気配がしたので、私はフト背後(うしろ)をふりかえると、高谷千代子とその乳母(うば)というのが今橋を渡って権之助の方へ行くところであった。私がそのうしろ姿を見送ると二人も何か話の調子で一しょに背後を見かえった。私と千代子の視線が会うと思いなしか千代子はニッコリ笑うたようであった。
 私は俯伏(うつぶ)して水を眺めた。そこには見る影もない私の顔が澄んだ秋の水鏡に映っている。欄干のところに落ちていた小石をそのまま足で水に落すと、波紋はすぐに私の象(かた)を消してしもうた。
 波紋のみだれたように、私の思いは掻(か)き乱された。
 あの女(ひと)はいま乳母と私について何事を語って行ったろう、あの女は何を笑ったのであろう、私の見すぼらしい姿を嘲笑(あざわら)ったのではあるまいか、私の穢(むさ)くるしい顔をおかしがって行ったのではあるまいか。
 波紋は静まって水はまたもとの鏡にかえった、私は俯伏して、自分ながら嫌気のするような容貌(かおつき)をもう一度映しなおして見た、岸に咲きみだれた藤袴(ふじばかま)の花が、私の影にそうて優しい姿を水に投げている。

     六

 岡田の話では高谷千代子の家は橋を渡って突き当りに小学校がある、その学校の裏ということである。それを尋ねて見ようというのではないけれども、私はいつとはなしに大鳥神社の側を折れて、高谷千代子の家の垣根(かきね)に沿うて足を運んだ。
 はるかに火薬庫の煙筒は高く三田村の岡を抽(ぬ)いて黄昏(たそがれ)の空に現われているけれども、黒蛇のような煤煙はもうやんでしまった。目黒川の対岸(むこう)、一面の稲田には、白い靄(もや)が低く迷うて夕日が岡はさながら墨絵を見るようである。
 私がさる人の世話で目黒の停車場(ステーション)に働くことになってからまだ半年には足らぬほどである。初めて出勤してその日から私は千代子のあでやかな姿を見た。千代子はほかに五六人の連れと同伴(いっしょ)に定期乗車券を利用して、高田村の「窮行(きゅうこう)女学院」に通っているので、私は朝夕、プラットホームに立って彼女を送りまた迎えた。私は彼女の姿を見るにつけて朝ごとに新しい美しさを覚えた。
 世には美しい人もあればあるもの、いずくの処女(おとめ)であるだろうと、私は深く心に思うて見たがさすがに同職(なかま)に聴いて見るのも気羞かしいのでそのままふかく胸に秘めて、毎朝さまざまの空想をめぐらしていた。
 ある日のこと、フトした機会(はずみ)から出札の河合が、千代子の身の上についてやや精(くわ)しい話を自慢らしく話しているのを聞いた。彼は定期乗車券のことで毎月彼女と親しく語(ことば)を交すので、長い間には自然いろいろなことを聞き込んでいるのであった。
 千代子は今茲(ことし)十七歳、横浜で有名な貿易商正木某(なにがし)の妾腹に出来たものだそうで、その妾(めかけ)というのは昔新橋で嬌名の高かった玉子とかいう芸妓(げいしゃ)で、千代子が生まれた時に世間では、あれは正木の子ではない訥弁(とつしょう)という役者の子だという噂(うわさ)が高く一時は口の悪い新聞にまでも謳(うた)われたほどであったが、正木は二つ返事でその子を引き取った。千代子はその母の姓を名乗っているのである。
 千代子の通うている「窮行女学院」の校長の望月貞子というのは宮内省では飛ぶ鳥も落すような勢力、才色兼備の女官として、また華族女学校の学監として、白雲遠き境までもその名を知らぬ者はないほどの女である。けれども冷めたい西風は幾重の墻壁(しょうへき)を越して、階前の梧葉(ごよう)にも凋落(ちょうらく)の秋を告げる。貞子の豪奢(ごうしゃ)な生活にも浮世の黒い影は付き纏(まと)うて人知れず泣く涙は栄華の袖に乾(かわ)く間もないという噂である。この貞子が世間に秘密(ないしょ)で正木某から少からぬ金を借りた、その縁故で正木は千代子が成長するに連れて「窮行女学院」に入学させて、貞子にその教育を頼んだ。高谷千代子は「窮行女学院」のお客様にあたるのだ。
 賤(いや)しい女の腹に出来たとはいうものの、生まれ落ちるとそのままいまの乳母の手に育てられて淋しい郊外に人となったので、天性(うまれつき)器用な千代子はどこまでも上品で、学校の成績もよく画も音楽も人並み優れて上手という、乳母の自慢を人のいい駅長なんかは時々聞かされるということであった。
 私は始めて彼女のはかない運命を知った。自分ら親子の寂しい生活と想いくらべて、やや冷めたい秋の夕を、思わず高谷の家の門のほとりに佇んだ。洒然(さっぱり)とした門の戸は固く鎖(とざ)されて、竹垣の根には優しい露草の花が咲いている。

     七

 次の日の朝、私は改札口で思わず千代子と顔を合わせた。私は千代子の眼に何んと知れぬ一種の思いの浮んだことを見た、私は千代子のような美人が、なぜ私のような見すぼらしい駅夫風情(ふぜい)に、あんな意味(こころ)のありそうな眼つきをするのだろうと思うとともに今朝もまた千代子を限りなく美しい人と思うた。
 今日は岡田が休んだので私は改札もしなければならないのだ。
 客は皆階壇を下りた、私は新宿行きという札をかけ変えて、一二等の待合室を見廻りに行った。見ると待合のベンチの上に油絵の風景を描き出した絵葉書が二枚置き忘れてある。
 急いで取り上げて見たが、私はそれが千代子の忘れたものであることをすぐに気づいた。改札口の重い戸を力まかせに閉めて、転ぶように階壇を飛び降りたが、その刹那(せつな)、新宿行きの列車は今高く汽笛を鳴らした。
「高谷さん□ 高谷さん□」と私は呼んでいつもの三等室の前へ駆けつけて絵はがきを差し出したけれども、どうしたものか今日に限って高谷は後背(うしろ)の室にいない。
 プラットホームに立っていた助役の磯というのが、私の手から奪うように葉書を取って、すでに徐行を始めた列車を追うて、一二等室の前を駆け抜けたが、
「高谷さん! お忘れもの!」と呼んで絵はがきを差し出した。
 掌中の玉を奪われたようにぼんやりとして佇んでいると、千代子は車窓から半身を出して、サモ意外というたようにそれを受け取って一旦顔を引いたが、窓からこちらを見て、はるかに助役に会釈した。
 平常(ふだん)から快からず思う磯助役の今日の仕打ちは何事であろう、あまり客に親切でもないくせに、美しい人と言えばあの通りだ。そのくせ自分はもう妻子もある身ではないか。
 運転手は今馬力をかけたものと見えて、汽鑵車はちょうど巨人の喘(あえ)ぐように、大きな音を立てて泥炭(でいたん)の煙を吐きながら渋谷の方へ進んで行く、高谷の乗っている室(クラス)がちょうど遠方シグナルのあたりまで行ったころ、思い出したように、鳥打帽子が窓から首を出してこちらを見た。
 それは大槻芳雄であった。
 ああ千代子は大槻と同じ室に乗るために常例(いつも)の室をやめたのではあるまいか、千代子はフトすると大槻と恋に陥ったのかも知れない、千代子は大槻を恋しているに違いない。私はこう思って見たが、心の隅ではまさかそうでもあるまいと言う声がした。
 俯向(うつむ)いて私は私の掌を見た。労働に疲れ雨にうたれて渋を塗ったような見苦しい私の掌には、ランプの油煙と、機械油とが染み込んでいかにも見苦しい、こんな穢(きたな)い手で私は高谷さんの絵葉書を持ったのか。
 洗ったら少しは綺麗になるだろう。
 かの筧(かけい)の水のほとりには、もう野菊と紫苑(しおん)とが咲き繚(みだ)れて、穂に出た尾花の下には蟋蟀(こおろぎ)の歌が手にとるようである。私は屈(かが)んで柄杓(ひしゃく)の水を汲み出して、せめてもの思いやりに私の穢い手を洗った。
「おい藤岡! あんまりめかしちゃあいけないよ、高谷さんに思いつかれようたッて無理だぜ」
 助役は別に深い意味で言うたわけでもなかったろうけれど、私にとっては非常に恐ろしい打撃であった。ほとんど脳天から水を浴びせられたように愕然(ぎょっ)として見上げると磯は、皮肉な冷笑を浮べながら立っていた。
「お千代さんがよろしくって言ったぜ、どうも御親切にありがとうッて……」
「だって私は自分の……」
とまでは言うたが、あとは唇(くちびる)が強張(こわば)って、例えば夢の中で悶(もだ)え苦しむ人のように、私はただ助役の顔をジッと見つめた。
「君! 腹を立てたのか、馬鹿な奴だ、そんなことで上役に怒って見たところで何になる」
 私は怒ったわけじゃなかッたけれども、助役の語があまり烈(はげ)しく私の胸に応(こた)えたので、それがただの冗談とは思われなかったからである。
 私は初めから助役を快よく思うていなかったのが、このこと以来、もう打ち消すことの出来ない心の隔てを覚えるようになったのである。

     八

「ちょいと、マア御覧よ、こんどはこんなことが書いてあってよ」と一人が小さい紙切を持ってベンチの隅に俯伏すとやっと、十四五歳のを頭に四五人の子守女が低い足駄をガタつかせて、その上に重なりおうててんでに口のなかで紙切の仮名文字をおぼつかなく読んで見てはキャッキャッと笑う。
 子守女とはいうものの皆近処の長屋に住んでいる労働者の娘で、学校から帰って来るとすぐ子供の守をさせられる。雨が降っても風が吹いてもこの子守女が停車場(ステーション)に来て乗客(のりて)の噂をしていないことはただの一日でもない、華(はな)やかに着飾った女の場合はなおさらで、さも羨ましそうに打ち眺めてはヒソヒソと語りあう。
 季節の変り目にこの平原によくある烈しい西風が、今日は朝から雨を誘(いざの)うて、硝子(がらす)窓に吹きつける。沈欝な秋の日に乗客はほんの数えるばかり、出札の河合は徒然(つれづれ)に東向きの淡暗(うすぐら)い電信取扱口から覗(のぞ)いては、例の子守女を相手に聞きぐるしい、恥かしいことを語りおうていたが、果てはさすがに口へ出しては言いかねるものと見えて、小さい紙片に片仮名ばかりで何やら怪しいことを書きつけては渡してやる。
 女はそれを拾い読みに読んでは娯(たの)しんでいる。その言いしれぬ肉のおもいを含んだ笑い声が、光の薄い湿っぽい待合室に鳴り渡って人の心を滅入(めい)らすような戸外(そと)の景色に対(くら)べて何となく悲しいような、またあさましいような気がして来る。
「あれ――河合さん嫌(いや)だよ、よう! 堪忍してよう!」と賤しい婦人(おんな)の媚(こ)びるような、男の心を激しく刺激するような黄いろい声がするかと思うと、ほかの連中が、ワッと手をたたいて笑う、
「もう雷様が鳴らなけりゃあ離れない、雷様が」と河合が圧(お)しつけるような低い声で言う。
「謝ったよう! 謝った」と女は泣くように叫ぶ。一番年量(としかさ)の、多分高谷の姿でも真似たつもりだろう、髪を廂(ひさし)に結うて、間色のリボンを付けたのが、子を負ったまま、腰を屈めて、愛嬌の深い丸顔を真赤にしてしきりに謝っている。
 見ると女はどうしたものか火燈口から右の手を河合に取られている。河合はその手をギュッと握って掌へ筆で何か描こうとしている。
「痛いじゃあないか、謝ったからよう! あれ――あんなものを書くよう……」
 雨はまた一としきり硝子窓を撲(う)つ、淋しい秋の雨と風との間に猥(みだ)りがましい子守女の声が絶えてはまた聞えて来る。
 私の机の下の菰包(こもづつ)みの蔭では折ふし思い出したように虫の音がする。
 ふと見ると便所の方に向いた窓の硝子に人影が射したので、私はツイと立って軒伝いに冷たい雨の頻吹(しぶき)を浴びながら裏の方に廻って見ると、青い栗(くり)の毬彙(いが)が落ち散って、そこに十二三歳の少年(こども)が頭から雫(しずく)のする麦藁(むぎわら)帽子を被(かぶ)ってションボリとまだ実の入らぬ生栗を喰べている。
 秋もやや闌(た)けて、目黒はもうそろそろ栗の季節である。

     九

 見れば根っから乞食(こじき)の児(こ)でもないようであるのに、孤児(みなしご)ででもあるのか、何という哀れな姿だろう。
「おい、冷めたいだろう、そんなに濡(ぬ)れて、傘(かさ)はないのか」
「傘なんかない、食物だってないんだもの」といまだ水々しい栗の渋皮をむくのに余念もない。
「そうか、目黒から来たのか、家はどこだい父親(ちゃん)はいないのか」
「父親なんかもうとうに死んでしまったい。母親(おっかあ)だけはいたんだけれど、ついとうおれを置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまったのさ、けどもおらアその方が気楽でいいや、だって母親がいようもんならそれこそ叱(しか)られ通しなんだもの」
「母親は何をしていたんだい」
「納豆(なっとう)売りさ、毎朝麻布(あざぶ)の十番まで行って仕入れて来ちゃあ白金の方へ売りに行ったんだよ、けどももう家賃が払えなくなったもんだから、おればっかり置いてけぼりにしてどこかへ逃げ出してしまったのさ」
「母親一人でか?」
「小さい坊やもつれて!」
「どこに寝ているのか」
「昨夜(ゆうべ)は大鳥様へ寝た」と権之助坂の方を指さして見せる。
 私はあまりの惨(いた)ましさに、ポケットから白銅を取り出してくれてやると少年は無造作に受け取って「ありがとう」と言い放つとそのまま雨を衝いて長峰のおでん屋の方に駆けて行ってしまった。
 見送ってぼんやりと佇んでいると足立駅長が洋服に蛇(じゃ)の目(め)の傘をさして社宅から来かけたが、廊下に立ってじっと私の方を見ていた。雨垂れの音にまぎれて気がつかなかったが、物の気配に振り向くとそこに駅長が微笑を含んでいた。
 今の白銅は私が夕飯のお菜(かず)を買うために持っていたので、考えて見ると自分の身に引き比べて何だか気羞かしくなって来た。コソコソと室に入って椅子によると同時に大崎から来た開塞の信号が湿っぽい空気に鳴り渡った。乗客(のりて)は一人もない。

     十

 雨がやむと快晴が来た。
 シットリと濡れた尾花が、花やかな朝日に照りそうて、冷めたい秋風が一種言いしれぬ季節の香を送って来る。崖の上の櫨(はじ)はもう充分に色づいて、どこからとなく聞えて来る百舌鳥(もず)の声が、何となく天気の続くのを告げるようである。
 今日は日曜で、乗客が非常に多い。午後一時三十五分品川行きの列車が汽笛を鳴らして運転をはじめたころ、エビスビールあたりの帰りであろう、面長の色の浅黒い会社員らしい立派な紳士が、眼のあたりにポッと微薫を帯びて、洋杖(ステッキ)を持った手に二等の青切符を掴んで階壇を飛び降りて来た。
「危険(あぶない)! もうお止しなさい※[#感嘆符三つ、447-下-14] 駄目(だめ)です駄目(だめ)です!」と私は一生懸命に制止した。
 紳士は微酔(ほろよ)い機嫌(きげん)でよほど興奮しているものと見えて、私のいうことをさらに耳に入れない。行きなり疾走をはじめた二等室を追いかけて飛び乗りをしようとする。私はこの瞬間慥(たし)かに紳士の運命を死と認めた。
 よし救え! 私は立ちどころに大胆な決心をした。
 まさに紳士が走り出した汽車の窓に手をかけようとした刹那(せつな)、私は紳士のインバネスの上から背後(うしろ)ざまに組みついた。
「な、な、何をするか! 失敬な※[#感嘆符三つ、448-上-2] こやつ……」
「お止しなさい、危険(あぶない)です※[#感嘆符三つ、448-上-3]」
 駅長も駆けつけた。
 けれどもこの時紳士は男の力をこめて私を振り放したが、かっとして向き返ると私の胸を突き飛ばした。私は突かれるとそのまま仰向けに倒れたので、アッという間もなく、柱の角に後頭部をしたたか打ちつけた。

     *    *    *

 仮繃帯(かりほうたい)の下から生々しい血汐(ちしお)が潤(にじ)み出して私はいうべからざる苦痛を覚えたが、駅長の出してくれた筧(かけい)の水をグッと飲み干すとやや元気づいて来た。
 汽車はもう遠く去ったけれども、隧道(トンネル)の口にはまだ黒い煙が残っている。見ると紳士の顔にもしたたか泥が付いて、恐ろしい争闘(いさかい)でもした跡のよう、顔は青褪(あおざ)めて、唇には血の気の色もない、俯向いてきまりが悪そうに萎(しお)れている。口髯(くちひげ)のやや赤味を帯びたのが特長で、鼻の高い、口もとに締りのある、ちょっと苦味走った男である。
 紳士の前に痩身(やせぎす)の骨の引き締った三十前後の男が茶縞(ちゃじま)の背広に脚袢(きゃはん)という身軽な装束(いでたち)で突き立ったまま眼を光らしている。鳥打帽子の様子といい、草鞋(わらじ)をはいたところといいどこから見ても工夫の頭(かしら)としか見えない。
「どうだ上まで歩かれるか、大丈夫だろう洗って見たら大した傷でもあるまい」と駅長が優しくいうので、私も気を取り直して柱を杖に立ち上った。
 傷は浅いと見えてもうあまり眩暈(めまい)もしない。「もう大丈夫です」と答えると、駅長はちょっと紳士の方を向いて、
「どうかちょっとお話し致したいことがございますから」というと紳士は黙って諾(うなず)いた。
「じゃあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。その親しげなものの言い振りで私ははじめて、二人が知己(しりあい)であるということを知った。
 駅長は親切に私をいたわって階壇を昇(のぼ)るとその後から紳士と工夫頭とがついて来た。壇を昇りきると岡田が駆けて来て、
「大槻さんが今すぐに参りますそうで」と駅長の前に呼気(いき)を切りながら復命した。

     十一

 私はそのまま駅長の社宅に連れて行かれて、南向きの縁側に腰を下すと、駅長の細君が忙わしく立ち働いていろいろ親切に手を尽してくれる。
 そこへ罷職軍医の大槻延貴(のぶたか)というのがやって来て、手当てにかかる。私はジッと苦痛(くるしみ)を忍んだ。
 手術はほどなく済んで繃帯も出来た。傷は案外に浅くって一週間ばかりで全治するだろうという話、細君の汲んで来た茶を飲みながら大槻は傍にいた岡田を相手に、私が負傷した顛末(てんまつ)を尋ねると細君も眉(まゆ)を顰(ひそ)めながら熱心に聞いていたが、
「マア、ほんとうに危険(あぶな)いですね、――それにしても藤岡さんがいなけれゃあ、その人は今ごろもうどうなっているか分りませんね」
「何にしろ、すぐ隧道(トンネル)になるのですからね、どうしたって助かるわけはないです」と岡田が口を入れる。
「危険(あぶない)ですな! 汽車も慣れるとツイ無理をしたくなって困るのです」と大槻はいうたが、細君と顔を見合わせて、さて今まで忘れていたように互いに時候の挨拶をする。
 大槻は年ごろ五十歳あまり、もと陸軍の医者で、職を罷(や)めてからは目黒の三田村に遷(うつ)り住んで、静かに晩年を送ろうという人、足立駅長とは謡曲の相手で四五年以来(このかた)の交際(つきあい)であるそうだ。
 大槻芳雄というのは延貴の独(ひと)り息子(むすこ)で、少からぬ恩給の下る上に遺産もあるので、出来るだけ鷹揚(おうよう)には育てたけれど、天性(うまれつき)才気の鋭い方で、学校も出来る、それに水彩画がすきでもし才気に任せて邪道に踏み込まなかったならばあっぱれの名手となることだろうと、さる先輩は嘆賞した。けれどもこの人の欠点をいえばあまり画才に依頼しすぎて技術の修練をおろそかにするところにある。近ごろ大槻はある連中とともに日比谷公園の表門に新設される血なまぐさいパノラマを描いたとかいうので朋友(なかま)の間には、早くもこの人の前途に失望して、やがては、女のあさましい心を惹(ひ)くために、呉服屋の看板でも描くだろうというような蔭口をきく者もあるそうである。
 岡田はしばらくするうちに、停車場(ステーション)の方に呼ばれて行く、大槻軍医も辞し去ってしもうた。後で駅長の細君は語を尽して私を慰めてくれた。細君というのは年ごろ三十五六歳、美人というほどではないけれども丸顔の、何となく人好きのするというたような質である。
「下宿にいちゃあ何かと困るでしょう、どうせ一週間ばかりなら宅(うち)にいて養生してもいいでしょう、ね、宅でも大変お前さんに見込みをつけていろいろお国の事情なんかも聞いて見たいなんて言うていましたよ」
「え、ありがとう、しかしこの分じゃあ大した傷でもないようですから、それにも及びますまい、奥様にお世話になるようではかえって恐れ入りますから」
「何もお前さん、そんな遠慮には及ばないよ、ちっとも構やあしないんだから気楽にしておいでなさいよ」細君は一人で承知している。
 ブーンとものの羽音がしたかと思うとツイ眼の先の板塀で法師蝉(ほうしぜみ)が鳴き出した。コスモスの花に夕日がさして、三歩の庭にも秋の趣はみちみちている。
「オ※[#感嘆符三つ、450-上-4] 奥さんですか、今日はとんだことでしたね」と言う声に見ると、大槻が開け放して行った坪の戸から先刻(さっき)プラットホームで見受けた工夫頭らしい男が、声をかけながら入って来たのであった。細君は立ち上って、
「マア小林さん、今日は……随分久しぶりでしたね」という口で座蒲団を出す。小林はちょっと会釈して私を繃帯の下からのぞくようにして、
「どうだい君! 痛むかい、乱暴な奴もあるもんだね」
「え、ありがとう、なに大したこともないようです」
「傷も案外浅くてね、医者も一週間ばかりで癒(なお)るだろうって言うんですよ」と細君が口を添える。
「奥さん、今日は僕も関係者(かかりあい)なんですよ」
「エ! どうして?」とポッチリとした眼をみはる。
「あんまり乱暴なことをしやあがるので、ツイ足がすべって野郎を蹴倒(けたお)したんです」と言うたが細君の汲んで出した茶をグッと飲み干す。私は小耳を引っ立てて聴いている。

     十二

「今度複線工事のことについてちょっと用事が出来てここまでやって来たのです。プラットホームで足立さんに会って挨拶をしていると、今の一件です。
 駅長さんが飛び出したもんですから、私もすぐその後へついて行った。この児が」といいかけてちょっと私の方を見て、「野郎に突き倒されるのを見ると、グッと癪(しゃく)に障(さわ)って男の襟頸(えりくび)を引っ掴んで力任せに投げ出したんです、するとちょうど隧道(トンネル)に支(つか)えた黒煙が風の吹き廻しでパッと私たちの顔へかかったんでどうなったか一切夢中でしたけれども、眼を開(あ)いて見ると可哀そうに野郎インバネスを着たまま横倒しに砂利の上に這(は)いつくばっている……」
「マア!」と言うて人のいい細君は眉を顰(ひそ)めた、私も敵(かたき)ながらこの話を聞いては、あんまりいい気もしなかった。
「それから足立さんと二人で、男を駅長室に連れ込んで談(はな)して見たところが、イヤどうも分らないの何のって、工学士と言えば、一通りの教育もありながら、あんまり馬鹿げていて、話にも何にもならないです」
「悪かったとも何とも言わないのですか」
「ヤレ駅夫が客に対してあんまり無法なことをするとか、ヤレ自分は工学士で汽車には慣れているから、大丈夫飛乗りぐらいは出来るとか、まるで酔漢(えいどれ)を相手にして話するよりも分らないのです。何しろ柔和(おとな)しい足立さんも今日はよほど激していたようでした」
 私は小林の談話(はなし)を聴いて、言いしれぬ口惜しさを覚えた。自分の職務というよりも、私があの紳士を制止したのは紳士の生命をあやぶんでのことではないか、私は弱き者の理由がかくして無下に蹂(ふ)み躙(にじ)られて行くのを思うて思わず小さい拳を握った。
「柔和しい足立さんの言うことが私にはもう、まだるっこくなって来たもんですから、手厳(てきび)しく談じつけてやろうとすると足立さんが待てというて制する。足立さんはそれから静かに理を分けてまるで三歳児(みつご)に言い聞かすように談すと野郎もさすがに理に落ちたのか、私の権幕に怖(お)じたのか、駅夫の負傷は気の毒だから療治代はいくらでも出すとぬかすじゃあありませんか」
 私は思わず涙の頬に流れるのを禁じ得なかった、療治代は出してやる、私はつくづく人の心の悲しさを知った。さすがに人のいい細君も「マア何という人でしょう!」というてホッと吐息を漏らした。
「ところが驚くじゃあありませんか、私と足立さんとが、決して金を請求するためにこんなことを言うたのじゃあない、療治代を貰いたいために話したのじゃあないと言うと、野郎怪訝(けげん)な顔をしているのです。それから何と言うかと思うと、おれは日本鉄道の曽我とは非常に懇意の間(なか)だ、何か話しがあるならば曽我に挨拶しようと言う。私はもうグッと胸が塞(つま)って来ましたから、構うことはないもうやっつけてしまえと思ったのですけれども、足立さんがしきりに止める。私も駅長の迷惑になるようではと思いかえして腕力だけはやめにして出て来たんです」
 話しているところへ駅長が微笑を含んで入って来た。
「曽我祐準の名をよほどわれわれが怖がるものと思うたのか、曽我曽我と言い通して腕車(くるま)で逃げ出してしもうたよ」と言いながら駅長は制服のまま、小林と並んで縁側に腰を下したが、「どうも立派な顔はしていても、話して見ると、あんな紳士が多いのだからな」と言うたが思い出したように私の方を見て、
「傷はどうだい、あんまり大したこともあるまい、今、岡田に和服(きもの)を取りに行ってもらうことにした」
 短かい秋の日はもう暮れかけて、停車場では電鈴がさも忙しそうに鳴り出した。

     十三

 栗の林に秋の日のかすかな大槻医師の玄関に私はひとり物思いながら柱に倚(よ)って、薬の出来るのを待っている。
「もういいのよ……」どこかで聞き覚えのある、優しい処女(おとめ)の声が、患者控室に当てた玄関を距(へだ)てて薬局に相対(むきあ)った部屋の中から漏れて来たが、廊下を歩く気配がして、しばらくすると、中庭の木戸が開いた。
 高谷千代子の美しい姿がそこへ現われた。いつにない髪を唐人髷(とうじんまげ)に結うて、銘仙の着物に、浅黄色の繻子(しゅす)の帯の野暮(やぼ)なのもこの人なればこそよく似合う。小柄な体躯(からだ)をたおやかに、ちょっと欝金色(うこんいろ)の薔薇釵(ばらかざし)を気にしながら振り向いて見る。そこへ大槻が粋(いき)な鳥打帽子に、紬(つむぎ)の飛白(かすり)、唐縮緬(とうちりめん)の兵児帯(へこおび)を背後(うしろ)で結んで、細身の杖(ステッキ)を小脇(こわき)に挾(はさ)んだまま小走りに出て来たが、木戸の掛金を指(さ)すと二人肩を並べて、手を取るばかりに、門の方に出て行くのである。
 千代子は小さい薬瓶を手巾(ハンケチ)に包んでそれに大槻の描いた水彩画であろう半紙を巻いたものを提(さ)げている。私はハッとしたが隠れるように項垂(うなだ)れて、繃帯のした額に片手を当てたが、さすがにまた門の方を見返した。
 私が見返した時に、二人はちょうど今門を出るところであったが、一斉(いっせい)に玄関の方を振り向いたので、私とパッタリ視線が会うた。私は限りなき羞かしさに、俯向いたまま薬局の壁に身を寄せた。
 きのうまで相知らなかった二人がどうして、あんな近附きになったのであろう、千代子が大槻を訪ねたのか、イヤイヤそんなことはあるまい、私は信じなかったが世間の噂では大槻は非常に多情な男で、これまでにもう幾たびも処女を弄(もてあそ)んだことがあるという、そう言えばこの間も停車場(ステーション)でわざわざ千代子の戸(ドアー)を開けてやったところなど恥かしげもなく、あつかましいのを見れば大槻が千代子を誘惑したに相違ない。それにしても何と言うて言い寄ったろうか。
 千代子が大槻のところへどこか診察してもらいに行って、この玄関に待ち合わしているところへ大槻が奥から出て来て物を言いかけたに違いない、「マアこっちへ来て画でも見ていらっしゃい」などと言う、大槻はいい男だし、それにあの才気で口を切られた日には、千代子でなくとも迷わない者はあるまい。
 佳人と才子の恋というのはこれであろう、大槻が千代子を恋うるのが無理か、千代子が大槻を慕うのが無理か、たとえば絵そらごとに見るような二人の姿を引きくらべて見て私はさらに、「私が千代子を恋するのは無理ではないだろうか」と、われとわが心に尋ねて見たが、今まで私の思うたことのいつか恐ろしい嫉妬(ねたみ)の邪道(よこみち)に踏み込んでいたのに気がつくと、私はもう堪えかねて繃帯の上から眼を蔽(おお)うて薬局の窓に俯伏した。
「藤岡さん、薬が出来ましたよ」と書生は薬を火燈口から差し出してくれたが、私の姿をあやぶんで、
「また痛みますか、どうしたんです?」と窮屈そうに覗(のぞ)きながら尋ねる。
「いいえ、どうも致しません」と私は簡単に応(こた)えて大槻の家の門を出たが、水道の掘割に沿うて、紫苑(しおん)の花の咲きみだれた三田村の道を停車場の方にたどるのである。
 私はなぜに千代子のことを想(おも)うてこんなに苦しむのだろう、私はゆめあの女(ひと)を恋してはいない、私がいつまでもいつまでもあの女のことを思うたにしてもそれは思うばかりで、それでつまりがどうしようというのでもない、恋してもいない人のことをなぜこんなに気にするのだろう。
 それともこれが恋というものであろうか。
 私の耳には真昼の水の音がさながらゆめのように聞えて、細い杉(すぎ)の木立から漏れて来る日の光が、さながら月夜の影のように思いなされた。

     十四

 私の傷はもう大かた癒(い)えた、次の月曜日あたりから出勤しようと思うて、午後駅長の宅(うち)を訪ねて見た。細君が独りで板塀の外で張り物をしていたが、私が会釈(えしゃく)するのを見て、
「今日は留守ですよ、非番でしたけれども本社の方から用があるというて来ましたので朝出かけたままですよ」
「どんな御用でしょう、この間の事件(こと)ではないでしょうか」
「サア、宅の人もそう言うていましたがね、ちっとも心配することはないと言うて出て行きましたよ」とさりげなく言うたけれども、私は細君の眉のあたり何となく晴れやらぬ憂いの雲を見た。
 私はこのいい細君が襷(たすき)をあやどって甲斐甲斐(かいがい)しく立ち働きながらも、夫の首尾を気づこうて、憂いを胸にかくしている姿を見て、しみじみと奉職(つとめ)の身の悲しさを覚えて、私のし過しから足立駅長のような善人が、不慮の災難を被(き)ることかと思うと、身も世もあられぬような想いがした。
「心配なことはないでしょうか」
「大丈夫でしょう」と言うたが、顔を上げて、
「もう快(い)いのですか」
「ええ明後日あたりから出勤することにしたいと思いまして……」

     *    *    *

 その夜の月はいと明るかった。
 駅長は夕方帰って来たが、きょうは好きな謡曲もやらないで、私の訪ねるのを待っていろいろその日の首尾を話してくれた。
 要するに、私の心配したほどでもなかったが、駅長は言うべからざる不快を含んで帰って来たらしい。
 この間の工学士というのは品川に住んでいた東京市街鉄道会社の技師を勤めている蘆鉦次郎(ろしょうじろう)という男で、三十二年の卒業生であるそうだ、宮内省に勤めた父親の関係から、社長の曽我とも知己(しりあい)の間(なか)でこの間の失敗(しくじり)を根に持ってよほど卑怯な申立てをしたものと見えて、始めは大分事が大げさであったのを、幸いに足立駅長が非常に人望家であったために、営業所長が力を尽して調停(とりな)してくれてやっと無事に済んだということであった。
 そういう首尾では駅長が不快に思うのも無理はない、私は非常に気の毒に思うて、私が悪いのだから、私が職を罷(や)めたならば、上役の首尾も直るでしょうと言えば、駅長はすぐ打ち消して、かえって私を慰めた上に、いろいろ行末のことも親切に話してくれた。
 私は駅長の問うにまかせて、私の身の上話をした。月影のさす秋の夜に心ある夫婦の前で寂しい来しかたの物語をするのは私にとって、こよなき歓楽(よろこび)であった。
 私の父は静岡の者で、母はもと彦根の町のさる町家の娘で、まだ禿(かむろ)の時分から井伊の城中に仕えてかの桜田事件の時にはやっと十八歳の春であったということ、それから時世が変って、廃藩置県の行われたころには井伊の老臣の池田某なるものに従うて、遠州浜松へ来た。
 池田某が浜松の県令に撰抜されたからで、母は桜田の騒動以来、この池田某に養われていたのであった。
 母はここで縁があって父と結婚して、長い御殿奉公を止めて父と静岡にかなりの店を開いて、幸福に暮していた。母の幸福な生活というのは実にこの十年ばかりの夢に過ぎなかったので、私は想うて母の身の上に及ぶと、世に婦人の薄命というけれど、私の母ばかり不幸な人は多くあるまいと思わぬ時はないのである。
 父が死んでから、私たち母子(おやこ)は叔父の家に寄寓して言うに言われぬ苦労をしたが、私は小学校を出て叔父の仕事の手伝いをしている間も深く自分の無学を羞(は)じて、他人ならば学校盛りの年ごろを、いたずらに羞かしい労働に埋(うも)れて行くことを悲しんだ。私がだんだん年ごろとなるに連れて叔父との調和(おりあい)がむずかしく若い心の物狂わしきまでひたすらに、苦学――成功というような夢に憧れて、母の膝に嘆き伏した時は、苦労性の気の弱い母もついに私の願望(ねがい)を容れて、下谷の清水町にわびしく住んでいる遠縁の伯母をたよりに上京することを許してくれた。
 去年の春下谷の伯母を訪ねて、その寡婦(やもめ)暮しの聞きしにまさる貧しさに驚かされた私は、三崎町の「苦学社」の募集広告を見て、天使の救いにおうたように、雀躍(こおどり)して喜んだ。私は功名の夢を夢みて「苦学社」に入った。
 母の涙の紀念(かたみ)として肌身(はだみ)離さず持っていたわずかの金を惜しげもなく抛(な)げ出して入社した三崎町の苦学社を逃げ出して再び下谷の伯母の家に駆け込んだ時は、自分ながら生命のあったのを怪しんだほどである。私は初めて人間の生血を吸(と)る、恐ろしい野獣(けもの)の所為をまのあたり見た。
 坂本町に住む伯母の知己(しりあい)の世話で私が目黒の駅に務めることになったのは、去年の夏の暮であった。私はもう食を得ることよりほかにさしあたりの目的(あて)はない。功名も、富貴も、それは皆若い私の夢であった、私はもう塵(ちり)のような、煙のような未来(ゆくすえ)の空想を捨てて、辛い、苦しい生存(ながらえ)の途(みち)をたどらなければならないのだ。私の前には餓死(がし)と労働の二つの途があって私はただ常暗(とこやみ)の国に行くために、その途の一つをたどらなければならないのだ。
 駅長も細君も少からぬ同情をもって私の話を聞いてくれた。やや寒い秋の夜風が身にしみて坪の内には虫の声が雨のようである。

     十五

 その夜駅長は茶を啜(すす)りながら、この間プラットホームで蘆(ろ)工学士を突き倒した小林浩平の身の上話をしてくれた、私がただ学問とか栄誉とかいうはかないうつし世の虚栄を慕うて、現実の身を愧(は)じ、世をかねる若い心をあわれと思ったからであろう。その話の大概(あらまし)はこうであった。
 小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿(むこ)を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁(かた)づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。
 ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。弥吉もまだ年齢は若いし、独身で暮すわけにも行かないので、小林の血統(ちすじ)から後妻(のちぞい)を迎えておだやかに暮して行くうちに後妻にも男の子が二人も生まれた。
 弥吉は性来義理固い男で、浩平は小林家の一粒種だというので、かりそめの病気にも非常に気を揉(も)んで、後妻に出来た子どもとは比較にならないほど大切にする。妻も無教育な女にしては珍らしい心がけの女で夫の処致を夢さら悪く思うようなことなく、実子はさて措(お)いて浩平に尽すという風で、世間の評判もよく弥吉も妻の仕打ちを非常に満足に想うていた。
 ところが浩平が成長して見ると誰の気質を受けたものか、よほどの変物であった。頭が割合に大きいのに顎(あご)がこけて愛嬌の少しもない、いわば小児(こども)らしいところの少い、陰気な質であった。学友(なかま)はいつしか彼を「らっきょ」と呼びなして囃(はや)し立てたけれども、この陰欝な少年の眼には一種不敵の光が浮んでいた。
 中学へ行ってからのことは駅長は少しも知らなかったそうだ。しかし一しょに行ったものの話では小学時代と打って変って恐ろしい乱暴者(あばれもの)になったそうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だろうと想像していたが、彼は上京して東京専門学校で文学を修めた、この間駅長は鉄道学校にいて彼に関する消息は少しも知らなかったが、四年ばかり以前に日鉄労働者の大同盟罷工が行われた時、正気倶楽部(せいきくらぶ)の代表者として現われたのは、工夫あがりの小林浩平であった。
 驚いて様子を聞いて見ると、彼は学校を出るとそのまま、父親に手紙をやって「小作人の汗と株券の利子とで生活するのは人間の最大罪悪だ、家産は弟にやる、自分はどうか自由に放任しておいてくれ」という意味を書き送った。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲っては小林家の先祖に対して申しわけがない、ことに世間で親の仕打ちが悪いから何か不平があって、面当てにすることと思われては困るというので、泣くようにして頼んで見たけれど浩平は頑(がん)として聞かなかった、百方(いろいろ)手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であった。
 村では浩平が気が触れたのだという評判をする者さえあったそうだ。
 幾万の家産を抛(なげう)ち、義理ある父母を棄てた浩平はそのまま工夫の群に姿を隠したがいつの間にかその前半生の歴史をくらましてしもうた。彼が野獣のような工夫の団結を見事に造り上げて、その陣頭に現われた時には社会に誰一人として彼の学歴を知っているものはなかったのである。駅長はそのころ中仙道大宮駅に奉職(つとめ)ていて、十幾年かぶりで小林に会見したのであったそうだ。
「君なんぞまだ若気の一途(いちず)に、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
 見給え、学問をしてわざわざ工夫になった人さえあるではないか、君! 大いに自重しなくちゃいけないよ、若い者には元気が第一だ」
「はい……」と小さい声で応(こた)えたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになって、熱い涙がハラハラ頬を流れる。努めて一口応答(こたえ)をしようと思うけれど、張りさけるような心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私はただ啜(すす)り上げるばかりであった。
「小林はあれで立派な学者だ、この間の話では複線工事の監督にここへ来るということだから、君も気をつけて近附きになっておいたら何かと都合がよかろう」
 私の胸には暁の光を見るように、新しい勇気と、新しい希望とが湧いた。

     十六

 社宅を辞して戸外(そと)に出ると夜は更(ふ)けて月の光は真昼のようである。私は長峰の下宿に帰らず、そのまま夢のような大地を踏んで石壇道の雨に洗われて険しい行人坂を下りた。
 故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦学社」で嘗(な)めた苦痛(くるしみ)と恐怖(おそれ)とを想い浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破滅(やぶれ)に驚きながらいつしか私は高谷千代子に対する愚かなる恋を思うた。私がこれまで私の恋を思うたびに、冷たい私の知恵は私の耳に囁(ささ)やいて、恋ではない、恋ではないとわれとわが心を欺いてわずかに良心の呵責(かしゃく)を免れていたが、今宵この月の光を浴びて来し方の詐欺(いつわり)に思い至ると、自分ながら自分の心のあさましさに驚かれる。
 私は今改めて自白する、私の千代子に対する恋は、ほとんど一年にわたる私の苦悩(なやみ)であった、煩悶(わずらい)であった。
 そして私はいままた改めてこの月に誓う、私は千代子に対する恋を捨てて新しい希望(のぞみ)に向って、男らしく進まなければならない。ちょうど千代子が私に対するような冷たさを、数限りなき私たちの同輩(なかま)はこの社会(よのなか)から受けているではないか。私はもう決して高谷千代子のことなんか思わない。
 決心につれて涙がこぼれる。立ち尽すと私は初めて荒漠(こうばく)なあたりの光景に驚かされた、かすかな深夜の風が玉蜀黍(とうもろこし)の枯葉に戦(そよ)いで、轡虫(くつわむし)の声が絶え絶えに、行く秋のあわれをこめて聞えて来る。先刻(さっき)、目黒の不動の門前を通ったことだけは夢のように覚えているが、今気がついて見ると私は桐(きり)ヶ谷(や)から碑文谷(ひもんや)に通う広い畑の中に佇んでいる。夜はもう二時を過ぎたろう、寂寞(ひっそり)としてまるで絶滅の時を見るようである。
 人の髪の毛の焦げるような一種異様な臭気がどこからともなく身に迫って鼻を撲(う)ったと思うと、ぞっとするように物寂しい夜気が骨にまでも沁み渡る。
 何だろう、何の臭気(におい)だろう。
 おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢(こずえ)には巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦(あかれんが)の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠(ぶどうねずみ)の色をした空を蛇窪村(へびくぼむら)の方に横切っている。
 私は多摩川の丸子街道に出て、大崎に帰ろうとすると火葬場の門のあたりで四五人の群に行き合うた。私はこの人たちが火葬場へ仏の骨を拾いに来たのだということを知った。両傍に尾花の穂の白く枯れた田舎道を何か寂しそうにヒソヒソと語らいながら平塚村の方に行く後影を私は見送りながら佇んだ。
「おい兄(にい)や、どうしてこんなとこへ来たんだいおかしいな、狐(きつね)に魅(つま)まれたんじゃあないの?」
 私は少年(こども)の声にぞっとして振り向きさま、月あかりにすかして見ると驚いた。この間雨の日に停車場で五銭の白銅をくれてやった、あの少年ではないか。
「君か、君こそどうしてこんなところに来ているのかい」と私はニタニタ笑っている少年の顔を薄気味悪くのぞきながら問い返した。
「おらア当り前よ、ここのお客様に貰いに来ているのじゃあないか、兄やこそおかしいや!」と少年はしきりに笑っている。
 ああ、少年は火葬場に骨拾いに来る人を待ち受けて施与(ほどこし)を貰うために、この物淋しい月の夜をこんなところに彷徨(うろつ)いているのだ。
 五位鷺(ごいさぎ)が鳴いて夜は暁に近づいた。

     十七

 その年も暮れて私は十九歳の春を迎えた。
 停車場(ステーション)ではこのごろ鉄の火鉢に火を山のようにおこして、硝子(がらす)窓を閉めきった狭い部屋の中で、駅長の影さえ見えなければ椅子を集めて高谷千代子と大槻芳雄の恋物語をする、駅長と大槻とは知己なので駅長のいる時はさすがに一同遠慮しているけれども、助役の当番の時なんぞは、ほとんど終日その噂で持ちきるようなありさまである。おれはかしこの森で二人の姿を見たというものがあれば、おれはここの野道で二人が手を取って歩いているのを見たという者がある。それから話の花が咲いて、あることないこと、果ては聴くに忍びないような猥(みだ)りがましい噂に落ちて、ドッと笑う。
 最もこれは停車場ばかりの噂ではなかった、長峰の下宿の女房(かみさん)も、権之助坂の団子屋の老婆(ばあさん)も、私は至るところで千代子の恋の噂を耳にした、千代子は絶世の美人というのではないけれども、大理石のように緻(こま)やかな肌(はだ)、愛嬌(あいきょう)の滴(したた)るような口もと、小鹿が母を慕うような優しい瞳は少くとも万人の眼を惹(ひ)いて随分評判の高かっただけに世間の嫉妬(ねたみ)もまた恐ろしい。

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