山越しの阿弥陀像の画因
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著者名:折口信夫 

山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけでも、相当の数にはなるだろう。が、悉(ことごと)く所伝通り、凡(すべて)慧心僧都以後の物ばかりと思われて、優れた作もありながら、何となく、気品や、風格において高い所が欠けているように感じられる。唯如何にも、空想に富んだ点は懐しいと言えるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好(かっこう)に、宗教画につきものの俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言っても、金戒光明寺のは、伝来正しいらしいだけに、他の山越し像を圧する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあって、彫刻に見るような堅い線が出て来ている。両手の親指・人さし指に五色の糸らしいものが纏(まと)われている。此は所謂(いわゆる)「善の綱」に当るもので、此図の極めて実用式な目的で、描かれたことが思われる。唯この両手の指から、此画の美しさが、俄(にわ)かに陥落してしまう気がする。其ほど救い難い功利性を示している。此図の上に押した色紙に「弟子天台僧源信。正暦甲午歳冬十二月……」と題して七言律一首が続けられている。其中に「……光芒忽自二眉間一照。音楽新発耳界驚。永別二故山一秋月送。遥望二浄土一夜雲迎」の句がある。故山と言うのは、浄土を斥(さ)しているものと思えるが、尚意の重複するものが示されて、慧心院の故郷、二上山の麓(ふもと)を言うていることにもなりそうだ。
此図の出来た動機が、此詩に示されているのだろうから、我々はもっと、「故山」に執して考えてよいだろう。浄土を言い乍(なが)ら同時に、大和当麻を思うていると見てさし支えはない。此図は唯上の題詞から源信僧都の作と見るのであるが、画風からして、一条天皇代の物とすることは、疑われて来ている。さすれば色紙も、慧心作を後に録したもの、と見る外はないようだ。
一体、山越し阿弥陀像は比叡の横川(よがわ)で、僧都自ら感得したものと伝えられている。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず凡そう言う事のありそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせているということは出来る。横川において感得した相好とすれば、三尊仏の背景に当るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべてそう言う意図を持っているのだから。併し若(も)し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなことも謂(い)えぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、漣(さざなみ)とを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。
禅林寺のは、製作動機から見れば、稍(やや)後出を思わせる発展がある。併し画風から見て、金戒光明寺のよりも、幾分古いものと、凡(およそ)判断せられて居る。さすれば両者とも、各今少し先出の画像があり、其型の上に出て来たものなることが想像出来る。此方は、金戒光明寺の図様が固定する一方、その以前に既に変化を生じて居たものの分出と見ることが出来る。但中尊の相好は、金戒光明寺のよりも、粗朴であり、而も線の柔軟はあるが、脇士(わきじ)・梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四天王等の配置が浄土曼陀羅(まんだら)風といえば謂えるが、後代風の感じを湛(たた)えている。其を除けると、中尊の態様、殊に山の端に出た、胸臆のずっしりした重さは如何にも感覚を通して受けた、弥陀(みだ)らしさが十分に出ていて、金戒光明寺の作りつけた様なのとは違う。其に山の姿もよい。若し脇士を仮りに消して想像すれば、更に美しい山容である。此山、此山肌の感触はどうも、写実精神の出た山である。
これで見ると、山の端に伸(の)しあがった日輪の思われる阿弥陀の姿である。古語で雲居というのは、地平線水平線のことだが、山の端などでも、夕日の沈む時、必見ることである。一度落ちかけた日が、ぬっと伸しあがって来る感じのするものだが――、この絵の阿弥陀仏には、実によく、其気味あいが出ている。容貌の点から言うと、金戒光明寺の方が遥かに美男らしいが、直線感の多い描線に囲まれただけに、ほんとうのふくらみが感じられぬ。こちらは、阿弥陀というよりは、地蔵菩薩(ぼさつ)と謂えば、その美しさは認められるだろう。腹のあたりまでしか出ていぬが、すっくと立った全身の、想見出来るような姿である。ところが其優れた山の描写が亦、最異色に富んで居る。峰の二上山形に岐(わか)れている事も、此図に一等著しい。金戒光明寺の来迎図(らいごうず)は、唯の山の端を描いたばかりだし、其から後のものは、峰の分れて見えるのは、凡(すべて)そこから道が通じて、聖衆が降って来るように描かれている。雲に乗って居ながら、何も谷間の様な処を通って来るにも及ばぬ訣(わけ)である。禅林寺の方で見ると、二脇士は山の曲(たわ)に関係なく、山肌の上を降って来る様に見える。上野家や川崎家のでは、今も言った来迎の山を「二上」型に描く習慣が脱却出来ず、而も何の為に、其ほどに約束を守らねばならぬか訣(わか)らずなった為に、聖衆降臨の途次といった別の目的を、見つけることになったと見る外はない。
上野家蔵のも相好の美しさ、中尊の姿態の写実において優れているのや、川崎家旧蔵の山越図の古朴な感じが充ち、中尊仏の殊に上体と山との関聯(かんれん)に、日想観を思わせるものが、十分に出て居るが、二つ乍(なが)ら聖衆と中尊との関聯の上に、稍不自然な処がある。即、阿弥陀は山の端に留り、聖衆ばかり動いていると謂った画様の川崎家の物や、何やら、中尊の背後にした聖衆の動静に来迎図離れの感じられる上野氏の物、特に後者は、阿弥陀の立像を膝元近くで画いたところに、山越し像の新様式の派出を示している。なぜなら、そうなると西に沈む日の姿が、よほど態様を変えて来ることになるからだ。而も、此図に見られる一つの異点は、阿弥陀浄土変相図に近づいて居ることである。こうなって来ると、私などにも「山越し」像の画因は、やっとつかむことが出来るのではないかと思う。
大串純夫さんに、来迎芸術論(国華)と言う極めて甘美な暗示に富んだ論文があって、この稿の中途に、当麻寺の松村実照師に示されて、はじめて知ったのだが、反省の機会が与えられて、感謝している。此には、山越し像と、来迎図との関聯、来迎図と御迎講又は来迎講と称すべきものとの脈絡を説いて、中世の貴族庶民に渉(わた)る宗教情熱の豊けさが書かれている。唯一点、私が之に加えるなら、大串さんのひきおろした画因――宗教演劇にも近い迎え講の儀式の、芸術化と言う所から、更にずっと、卸して考えることである。
山越し像において、新しいほど、御迎講の姿が、画因に認められるのに、古いほど却(かえっ)て来迎図の要素たる聖衆が少くなって、唯の三尊仏と言うより、其すら脇士なるが故に伴うているだけで、眼目は中尊にあると言う傾向がはっきり見えるのは、其が唯阿弥陀三尊に止るなら、問題はない。阿弥陀像には、自ら約束として、両脇士の随(したが)うものなのだから。ところが、之に附随して山の端の外輪が胸のあたりまで掩(おお)うていることになると、そう簡単には片づかぬ。常に来迎が山上から、たなびく紫雲に乗って行われ易いと考えたにしても、画面は必しも、其ばかりではない。
慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院(こんぶいん)の来迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必須条件でないといえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。
結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの浄土変相図としての条件を、持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
観経曼陀羅の中にも、内外陣左辺右辺のとり扱いについて、種々の相違はあるようだが、定善義十三観の中、最重く見られているのが、日想観である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人(いだいけぶにん)あり、婢女一人之に侍立し、樹上に三色の雲かかり、正中上方一線の霞の下に円日あり、下に海中島ある構図である。当麻の物では、外陣左辺十三段のはじめにある。即、西方に沈もうとする日を、観じている所なのだ。浄土を観念するには、この日想観が、緊密妥当な方法であると考えたのが、中世念仏の徒の信仰であった。観無量寿経に、「汝及び衆生応(まさ)に心を専らにし、念を一処に繋けて、西方を想ふべし。云はく、何が想をなすや。凡想をなすとは、一切の衆生、生盲に非るよりは、目有る徒、皆日没を見よ。当に想念を起し、正坐し西に向ひて、日を諦(あき)らかに観じ、心を堅く住せしめ、想を専らにして移らざれ。日の歿(ぼつ)せむとするや、形、鼓を懸けたる如きを見るべし。既に見已(を)へば目を閉開するも、皆明了ならしめよ。是を日想となし、名づけて、初観といふ。」そうして水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観と言う風に続くのである。ところが、此初観に先行している画面に、序分義化前縁の段がある。王舎城耆闍崛山に、仏大比丘(おおびく)衆一千二百五十人及び許多(あまた)の聖衆と共に住んだ様を図したものである。右辺左辺と、位置を別にしているが、順序として、定善義第一日想観に続く様に解せられる所から、何かの関聯が、考えられて居たのでないかと思う。強いて、曼陀羅の中から、山越し像の画因を引き出そうとすれば、これがまず、或暗示を含んでいるとは言えよう。雲湧き立つ山下に、仏を囲んで、聖衆・大比丘のある所である。山の此方にあるのが違うのだが、此違いは大きな違いである。日想観及び次の水想観には、ただ韋提希夫人観念の姿を描いたのみであるが、其より先は、如来・菩薩の示現を描いている。日想観において観じ得た如来の姿を描くとすれば、西方海中に没しようとする懸鼓の如き日輪を、心(しん)にして写し出す外はない。さすれば、水平線に半身を顕(あらわ)し、日輪を光背とした三尊を描いたであろう。だが、此は単に私どもの空想であって、いまだ之を画因にした像を見ぬのである。併しながら、今も尚、彼岸中日海中にくるめき沈む日を拝する人々は、――即庶人の日想観を行ずる者――落日の車輪の如く廻転し、三尊示現する如く、日輪三体に分れて見えると言って、拝みに出るのである。
此日、来迎仏と観ずる日輪の在る所に行き向えば、必その迎えを得て、西方浄土に往生することになる、と考えたのは当然過ぎる信仰である。此は実践する所の習俗として残っていて、而も、伝説化・芸術化することなくして、そのまま消えて行ったのである。その消滅の径路において、彼岸の落日を拝む風と、落日を追うて海中に没入することと、また少くとも彼岸でなくとも、法悦は遂げられるという入水死(じゅすいし)の風習とに岐(わか)れて行ったのである。
ここで山越し像に到る間を、少し脇路に蹈(ふ)み入ることにしたい。
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代(みよ)御代の尊い御方に、近侍した舎人(とねり)たちが、その御宇(ぎょう)御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播(でんぱ)した。此が、日奉部(ひまつりべ)(又、日祀部(ひまつりべ))なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲(かきべ)の事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おくは後代算盤(そろばん)の上で、ある数にあたる珠(たま)を定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊(くゆう)」に、「術に曰(い)はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法(ぼくほう)である。置くが日を計ることに関聯(かんれん)していることは、略(ほぼ)疑いはないようである。ただおくなる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否む訣(わけ)には行かぬ。既に述べた「日(ひ)の伴(とも)」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、凡(およそ)考えていてよかろう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠(やまごも)りの風である。此は専ら、五月の早処女(さおとめ)となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。一方にこうした日□(ひかげ)を追う風の、早く埋没した俤(おもかげ)を、ほのか乍(なが)ら窺(うかが)わせているというものである。
昔から語義不明のまま、訣(わか)った様な風ですまされて来た「かげのわずらい」と謂(い)った離魂病なども、日□を追うてあくがれ歩く女の生活の一面の長い観察をして来た社会で言い出した語ではないか。其でなくては、此病気は、陰影を亡くするという意味でもなく、「わが身は陰となりにけり」の実体を失う程痩(や)せると言うことでもない。だからなぜそう呼び習したか、此意味ならではわからぬことになる。
比叡坂本側の花摘(はなつみ)の社(やしろ)は、色々の伝えのあるところだが、里の女たちがここまで登って花を摘み、序(ついで)にこの祠(ほこら)にも奉ったことは、確かである。而も山籠りして花をつむと言うことは、必しも一つの隠れどころにじっとして居ることではなく、てんでに思い思いの峰谷を渉(わた)ってあるくこともあった、ただの物忌みの為ばかりでもないようだ。女たちの馳(か)けまわる範囲が、野か、山の中に限られて、里つづきの野道・田の畦(あぜ)などを廻らぬところから、伝えなかったまでであろう。日の伴の様な自由な野行き山行きは、まだ土地が、幾つとも知らぬ郡村に地割りせられぬ以前からの風であったのである。如何ほど細かに、村境・字境がきまるようになっても、春の一日を馳け廻る女人にとっては、なかなか太古の土地を歩くと、同じ気持ちは抜けきらなかったであろう。それ故と言うより、そうした習俗だけが、時代を超えて残って居た訣なのである。此ように、幾百年とも知れぬ昔から、日を逐(お)うて西に走せ、終(つい)に西山・西海の雲居に沈むに到って、之を礼拝して見送ったわが国の韋提希夫人が、幾万人あったやら、想像に能(あた)わぬ、永い昔である。此風が仏者の説くところに習合せられ、新しい衣を装うに到ると、其処にわが国での日想観の様式は現れて来ねばならぬ訣である。
日想観の内容が分化して、四天王寺専有の風と見なされるようになった為、日想観に最適切な西の海に入る日を拝むことになったのだが、依然として、太古のままの野山を馳けまわる女性にとっては、唯東に昇り、西に没する日があるばかりである。だから日想観に合理化せられる世になれば、此記憶は自ら範囲を拡げて、男性たちの想像の世界にも、入りこんで来る。そうした処に初めて、山越し像の画因は成立するのである。
だから、源信僧都が感得したと言うのは、其でよい。ただ叡山横川において想見したとの伝説は伝説としての意味はあっても、もっと切実な画因を、外に持って居ると思われる。幼い慧心院僧都が、毎日の夕焼けを見、又年に再大いに、之を瞻(み)た二上山の落日である。今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を択ぶがよい。日は両峰の間に俄(にわ)かに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るであろう。
もし韋提希夫人が行する日想観に当る如来像を描くとすれば、やはり亦波間に見える島山の上に、三尊仏をおくことであろう。そうした大水の、見るべからざる山の国では、どうしても、山の端に来り臨む如来像を想見する外はなかったのである。
相摸国(さがみのくに)足柄上郡三久留部氏は、元来三廻部名(みくるべみょう)に居た為に称した家名で、又釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)とも書いて、訓は地名・家名の通りである。恐らくその地にあった仏堂の本尊の名の、顕れた為にさよう訓(よ)んだものだろうとせられている。併し、ここに一説がある。と言うことは、釈迦三尊においても、阿弥陀像の場合のように、やはり拝まれた場合の印象が、そうした特異事情を醸し出したのではなかろうか。即、目眩(めくるめ)く如く、三尊の光転旋して直視することの出来ぬことを表す語とも見られるのである。即みくるべはめくるめ又は、めくるめきであろうと思うのは誤りか。或は歴史地理の説明にも少し骨を折れば、この考えなどは、忽(たちまち)消え失せるものかも知れぬ。が、あまり原由近似なるが故に、試みに記しておく。
私の女主人公南家(なんけ)藤原郎女(いらつめ)の、幾度か見た二上山上の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。そうして又、仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き出た姿であったのだ、とも謂(い)われるのである。




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