組踊り以前
是非お友達にも!
■暇つぶし何某■

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著者名:折口信夫 

     一

親友としての感情が、どうかすれば、先輩といふ敬意を凌ぎがちになつてゐる程睦しい、私の友伊波さんの「組み踊り」の研究に、口状役を勤めろ、勤めようと約束してから、やがて、足かけ三年になる。其間に、大分書き貯めた原稿すら、行き方知れずなる位、長い時の空費と、事の繁さが続いた。今日になつて、書きはじめる為のぷらんを立てゝ見ると、何もかも、他人の説でも受けつぐ様な気分がするばかり、興味の鈍つて了うてゐるのに気がついた。こんな無感興・認識未熟の文章が、友の本の情熱に水をさしはすまいか、と案じながら、ほんのぷらんを詞に綴つたと言ふだけの、組踊り成立案を書いて見る。さうせねば時間のない位、もう板行の時が迫つてゐるのを知り乍ら、うか/\してゐた事は、申し訣もない。
かうした解説文も、今六年以前なら、別に其仁があつたのである。亡くなつた麦門冬 末吉安恭さんである。大正十三年の末、那覇港大桟橋の下に吸ひつけられてゐた、なき骸を発見したとの知らせを聞いて、琉球芸能史を身を以て、実証研究する学者は、これで空に帰したのだ、と長大息した事であつた。此文章が、伊波さんの本の役に立つ傍、亡き南島第一の軟流文学・風俗史の組織者――たるべき――末吉さんの為の回向にもなれば、この上なく嬉しいと思ふ。
沖縄演劇史の探究の効果は、決して、東の海の波が西に越え、西の浪が東の磯にうち越える、と言つた孤島を出ないものではない。必、日本の歌舞妓芝居や、小唄類の発達過程を示すことになると言ふ自信だけは持つて居る。それでかうした文章も、この友の誂へをしほとして書いたのである。
南島における演劇関係の書物は、大抵、伊波館長時代の県立図書館の沖縄部屋とも称すべき室に、一週間籠つてゐる間に、そこに蒐められてゐたゞけの物は読んだ。だがもう、其記憶も薄れて来てゐる。それが、首里・那覇の学問の権威の、この本の為に、提供せられた資料の前には、星の光りにも値せぬ事を恥ぢるし、又沖縄人の嫌ふ、他府県人のいらざる世話やきにもなつて、島の彼方で苦笑する人々の、俤の浮ぶのも堪へられぬから、さうした引用や、伊波さんから貰うた、沢山の抜き書きなどは、勝手ながら下積みにさせて頂いて、今の場合、忙しい概念だけを綴る事にした。

     二

沖縄の村々・島々の祭儀には、現に原始演劇的要素――世界民族一般に窺はれる――を示すものが、まだ/\沢山に残つてゐる。時を定めて来臨する神、及び、その迎へに出る神と信じられてゐるものは、皆巫女の仮装する所である。さうして又、其が巫女のやつし姿だ、とさへ知つてゐる処も、沢山ある。或は既に、巫女自身の資格において、さうした神事を行ふと考へる地方が、却つて普通になつてゐる。
そして、此等はいまだに、演劇としての立ち場に入つたものとの自覚なしに、行はれてゐる。併し、其中から分化した演劇は、夙くから意識せられ、今も行はれてゐる。此が、都では「組み踊り」、地方(ムラ)では「村踊り」と言はれてゐる、二種のものである。
玉城(タマグスク)朝薫の天才が、組踊りの芸能を、享保年中になつて、創造したとは信じられない。又、先進日本の能・歌舞妓が、島の宮廷の式楽に飜作せられたものとも思はれない。さうした「忽然」を考へる事の、不都合な幾多の例蹤を、私は見てゐる。猿楽能の、元曲から案出せられたものとする説などが、其である。縷説は避けるであらう。が尠くとも、長い種族生活過程の顧みを閑却したもの、と言ふことは出来る。
首里宮廷を考へるのに、京都の禁裡を思ひ浮べてはならない。又、江戸柳営を頭に置いても、比論は成り立ち難い。まづ大々名の家庭に、将軍家の生活気分を加味した位の考へ方が、ほんとうだらうと思ふ。其ほど、気易い処があつたのを思はねば、民間風と、宮廷風との交渉ぐあひが、察せられない。離宮に作つた瓢を、那覇の市に売り出して、王様瓢(ワウガナシチブル)の名を伝へた王もある。城内に大穴を穿つて、そこに優人を喚んで、遊楽に耽つた城人(グスクンチユ)なる、大奥の女中めいたものもあつた。かう言つた宮廷と、里方との交渉は、首里の芸能と、地方(ムラ)の民俗芸術との間に、相互作用を容易ならしめたのである。
宮廷において、王の為に、楽を奏し技を行ふ事を、貴族・士分の副職分といふ様に考へ、男の芸能に精出して、上流人の面目とする風をなさしめた。此が、其等貴族士分の郷貫にまで及んで、遂に所謂男逸女労の外貌を、全く整へさせる方に導いたのである。
かうした人々の芸能と関聯してゐるものは、地方の間切々々特有の曲節・舞踊を伴うた詞章であつた。其が、次第に宮廷に這入つて行つたのである。此が所謂「ふし」なるものゝ、正式な意義である。地方の国邑名の冠するふしに伴ふ踊りが、其間切や、村の雑多な舞踊の中から、精選せられたものなることも考へられる。
今の琉歌の発生は、速断は出来ぬが、伊波さんの研究によると、「おもろ双紙」にも、その俤はある様である。巫女の呪詞に伴ふ鎮舞(アソビ)から出て、小曲の舞踊の出来る径路は知れる。長章・小曲を踊る行事が、次第に祝言の座の余興となつて来る。この小曲が、地方の巫女の口から、相聞唱和の歌となつて出て来る。恩納節その他が、「恩納なびい」の発唱によるものとする説も、概念的には、琉歌成生・展開の暗示となる。古いおもろの類のあそびと、新しいふしの踊りとの区別は、踊りての上にもあつた。女性の舞踊から出たふしは、男を原則とする様になつた。女性の踊りは其伝襲に重きを置く物にのみ残つた。又男舞ひを模倣する意義に於て、遊女の間にも行はれた。
おもろは後代程、まづ国王の果報を、次に村邑の幸福を祈る様になつてゐる。其表現法は、此あそびの首里宮廷に対する誓約を兼ねて、奏せられたものなる事を示す。此が短章となつて、恋愛味を離れて来ると、やはり国王の為の賀寿に傾くのである。さうでなくとも、恋愛詞章なら、恋愛詞章なりに、其効果は、国王を祝福すると考へる信仰があつた。国邑の古い神事歌以来のものだからである。かう言ふ祝賀の趣きに専らになつてゐるふし踊りに、大きな影響を与へたものは、千秋万歳を祝する芸能の渡来である。日本(ヤマト)の為政者や、記録家の知らぬ間に、幾度か、七島の海中(トナカ)の波を凌いで来た、下級宗教家の業蹟が、茲に見えるのである。
念仏宗の地盤の、既に出来てゐた上に、袋中(タイチユウ)の渡海があつたものと見てよい。浄土宗の布教は、実に行き届いてゐた。地理的に階級的に、忘れられた未信者のありかを、追求して止まなかつた。此宗旨が純化するに従うて、他派の例を逐うて、奴隷階級の布教者が出来た。これが、浄土の念仏(ギヨウギヨク)聖である。時には、新興の禅宗の組織を移してゐた部分では、行者(アンジヤ)と言うたらしい。此念仏聖なる布教家も、日本古来の巡遊伝教者のとつた方法を守つてゐた。其は布教と同格に、祝福芸能を行うた事である。唯念仏になると、祝福の外に、悪霊退散を迫る舞踏を持つ様になつてゐた。だから、念仏聖とは謂へ、千秋万歳としての歌詠も、舞踏も演じるのだ。又精霊の物語や、踊り神中心の、神送りの乱舞をも行うた。浄土其他の念仏に伴ふ、成仏得道の過去生譚をも語つた。其に連れて、いつか人形を舞はす事さへ、招来した様である。更にくづれては、やまとの京のあはれな草子物語の筋を、語つた事もあるらしい。其上、現世の為の訓喩めいた文句さへ、唱へる様になつた。沖縄の念仏者伝ふる所の歌謡は、宗教家のものらしくないものも、だから残つてゐるのである。
此等の語つた浄土念仏の説経語りは、やまとの神道説経を、南島までも搬んだ。釜神の話(組踊りでは、花売の縁)などが、其である。後には、継子の苦難を題材とする、京太郎(チヨンダラ)を多く演じた為に、演者自身の祖先が、やまとの京から流離した、京の小太郎だとさへ考へられた。春は、万歳・京太郎を以て、島中を祝福して廻つた。今こそ、行者村は特殊待遇を享けてゐるが、盛んに渡つて来た当時は、必、村邑の豪家に、喜び迎へられたものに相違ない。
今日行はれる若衆踊りを見ると、凡そは万歳系統のものである。だから、一行中の若衆の演芸種目は、略、察せられる。踊るものは、主として若衆であつたのであらう。江戸期に近づくに連れて、さうした形を整へる事になつて来たもの、と思うてよい様だ。
念仏者の行ふすべての行儀・芸能を籠めて、念仏(ギヨウギヨク)と称へ、盂蘭盆会から初つて、初春の祝言にまで、用ゐられる様になつたのを、多少、劇的の進行を備へたものであつた。貴人・士分の者まで行ふ様になつた。此が、村をどりの古形なる、にせ念仏である。似せと解すれば、念仏もどきの芸能といふ事になるが、私は、伊波さんの賛成を得て、若衆(ニセ)念仏だと考へて居る。これは、朝薫出現の前にも言うた語であらう。組踊りと念仏との関係を、更に内容に見る。万歳敵討の主人公が、念仏者自身なのは、意義がある。現当二世の親の慈愛や、孝養を説く二童敵討その他の仇討物や、狂女物・継母物は皆、今も念仏者の謡ふ唱文の主題だ。かうした物の原型の、村踊りを統一したのが、更に分化して、神能・蔓・修羅・祝言などに、各近づいてゐたのを、能楽が現れて、意識上の事としたのであると思ふ。

     三

玉城の現れてから後、その競争者及び、追随者の業蹟に到るまでの観察は、他の方々の研究に任せる。其代り、方々のお残しになつてゐる筈の、琉球演劇――歌劇と言ふ方がふさはしい――の発生を髣髴せしめてゐる村をどりを、考へて見るであらう。
沖縄教育の先輩、名護小学校長島袋源一郎さんが、まだ県視学であつた当時、鉄道開通祝ひの村をどりが、新停車場のある、そちこちの村で行はれた。私は誘はれて、其一つの祝賀場に宛てられた大嶺村の小学校の、焦げつく様な校庭で、朝から八つさがりまで、やまとの旅人として、相伴の見物をした。さうして、今言ふ村をどりには、段々芸尽しといふやうな形で、ある時代の村人の知つた限りの芸が、持ちこまれて、複雑になつて来てゐる事を感じた。だから古くは、尠くとも、今よりはもつと簡単な形で、行はれてゐたもの、と思ふ外はなかつたのである。尤、この時は、村をどり以外に、相撲その他の興行もあつたが、此等臨時の添へ物をとり除けても、尚、今の村をどりは、をどり上手を、個人的に使ひ過ぎてゐるのではないか、と思うたのである。
私の村をどりについての知識は、わづか一回のこの経験が、比嘉春潮さん・島袋源七さんなどの、生きた愛に充ちた説明によつて、生かされて来てゐるのである。あの日は幸福であつた。東島尻の広々とした田の面を、鉦・太鼓で囃し乍ら、一行が練り込んで来るはじめから、なごりを惜しませつゝ、還つて行く行列まで、見てゐたのであつた。
この行事は、実は七月のわらびみち(童満?)のおがん(拝み>お願)に行ふ事であつた。この斎日の本義は、村の若者を作る成年戒の日に、兼ねて二度目の農作を、祝福するものであつたらしいのである。
◇ピンチです!◇
★暇つぶし何某★

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