花の話
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著者名:折口信夫 

     一

茲には主として、神事に使はれた花の事を概括して、話して見たいと思ふ。
平安朝中頃の歌の主題になつて居た歌枕の中に、特に、非常な興味を持たれたものは、東国の歌枕である。
東国のものは、異国趣味を附帯して、特別に歌人等の歓迎を受けた。其が未だに吾々の間に勢力を持つて居る。譬へば関東には「迯(に)げ水」の実在が信ぜられて居た。それは、先へ行けば行く程、水が逃げて行くと考へられて居たものである。又「入間(イルマ)言葉」なども、大分後になつて、歌枕に這入つて来た。其は、人の言葉を何でも反対に言ふと信ぜられて居るものである。「ほりかねの井」など言ふものも、後になつて出来た。下野には「室の八島」がある。此類のものは他にも沢山ある。旅行者が、旅路の見聞談を敷衍して話した為に、都の人々は非常な興味を持つて居た。「常陸帯」の由来も其一つである。総じて東国のものは、奥州に跨つて、異国趣味を唆る事が強かつた。
そんな事の中に、錦木(ニシキギ)を門に樹てることがある。里の男が、懸想した女の家の門へ錦木(ニシキギ)を切つて来て樹てるのである。美しい女の家の門には、村の若者によつて、沢山の錦木が樹てられる。どれが誰のか、判断はどうしてつけるのか訣らぬが、女が其中から、自分の気に入つた男の束を取り入れる。其は、女が承諾した事を示す。此は、平安朝の末頃、陸奥の結婚にはかう言ふ話があつた、と言ふ諸国噺の一つとして、語り伝へられて、歌枕になつたのであるが、よく考へて見ると、さう言ふ事でないのかも知れぬ。
此は恐らく、正月の門松の御竈木(ミカマギ)と同じ物で、他人の家の外に、知らぬ間に、木を樹てに来るものではなかつたらうか。其樹を何故、錦木と言ふのであらうか。錦木と言ふ木なのか、或は其樹てた木を錦木と言うたのか、問題であるが、それは結婚の為ではなく、私は外から来るある人が、土産として、樹てゝ行つたことの、一つの説明なのだらうと思ふ。御竈木の古い形を見たのは、三・信境の山間、遠州の山奥辺の風俗であつた。三河の奥で、初春行はれる祭りに「花祭り」といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであつた。其時、山人の持つて来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木(ニフギ)か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る。
花祭りと、にう木が門に樹てられる事とは、別の時ではあるが、今は正月の初めと小正月前後に当るから、近づいて来たのである。中世では、にう木の樹てられる初春と、花祭りの行はれる霜月とは、間があいて居たけれども、もつと古い時代には、にう木の樹てられる時と、花祭りの時とは同じ時で、其が次第に岐れて来たのであらうと推定出来る。
花祭りの行事は「花育て」といふ行事が演芸種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場所、其は普通舞屋(マヒヤ)と言ふ家の土間、即まひとを廻るのである。其中央に、大きな釜があつて、湯がたぎつて居る。昂奮して来ると、見物人までも参加して、其周囲をまはる。其人々の中心に、山伏姿のみようどと云ふ者が居つて、花の荘厳(唱言、或は処によつて、唱文とも言うて居る)と言ふ文句を唱へる。此花の唱言は、場合によつては、非常に戯曲的になつて居る事もある。かうした儀式は、必しも花祭りでなくとも、行はれて居た様に思はれる事であるが、何故、かうした行事をしたかは、大きな問題になる。尠くとも、半解の問題である。
私の考へを述べると、みようどは即、私の言ふ山人である。其山人は、山から多くの眷属を連れて、群行(グンギヤウ)して来る。其時山人は杖をついて来て、去る時には、其山人のしるしなる杖を、地面に突き挿して帰る。其杖から根が生えると、此祭りの唱言が効果を奏して、村の農業生活が幸福になる。根が生えない時は効力がない事になると信じた。其杖は、普通根のあるものであるが、場合によつては、根のないものもある。桑の木などは、根がなくとも著き易い木で、祝詞にも「生(イカ)し八桑枝(ヤクハエ)の如く」などゝ書かれて居て、枝の繁る木である。ともかく、山人は根の附いて居る棒、或は根のない棒を持つて来て、其を挿して行くのである。
昔の人は、杖を倒に突いて、梢の方を下にして居る。此杖を叉杖(マタブリ)と言ふ。昔は乞食房主が此を持つて歩いた。此は西洋にも、何処にでもある形で、物を探つて行く為のものである。杖には根がある。後世の人には、杖を立てたのに、芽の出る事は非常に、不思議に感ぜられるけれども、此は、杖に対する観念が変化して居るからである。高僧たちが突きさして行つた一夜竹・一夜松の如きも、此が伝説化したものに過ぎない。さうして、弓矢でも根が生える様に、変つて考へられて行つたのだ。
此等は杖の信仰である。祝福の効果があるか、どうかの試みである。此効果の現れることを「ほ」が現れるとも「うら」が現れるとも言ふ。此杖は即「花育て」の花杖と同じものである。杖の先に花の咲く事がある。三河の花祭りに、杖の先に稲の穂を附けて来たといふが、此では、意味が訣らなくなる。花杖は、今年の稲の花を祝福する為のものである。花祭りの花は、稲の花の象徴であるのだ。

     二

花と言ふ語(ことば)は、簡単に言ふと、ほ・うらと意の近いもので、前兆・先触れと言ふ位の意味になるらしい。ほすゝき・はなすゝきが一つ物であるなどを考へ併せればわかる。物の先触れと言うてもよかつたのである。
雪は豊年の貢、と言うた。雪は、土地の精霊が、豊年を村の貢として見せる、即、予め豊年を知らせる為に降らせるのだと考へた。雪は米の花の前兆である。雪を稲の花と見て居る。ほんとうは、山にかゝつて居る雪を主とするのであるが、後には、地上の雪も山の雪と同様に見るやうになつた。稲の花の一種の象徴なのである。処が、かうした意味の花は沢山ある。譬へば、冬の祭り、殊に宮廷の冬祭りなる鎮魂祭に持ち出す桙は、柊で作つたものである。日本紀・続日本紀を見ると、八尋桙根と言ふのが国々から奉られて居る。此は恐らく、棒ではなくて、柊を立ち樹のまゝ抜いて来たものであらう。それで、根の字が着いて居るのであらう。此で以て地面をどん/\と、胴突きして廻つたのである。「柊」の字も「椿」の字も国字である。
榎・楸の如き字も、何故問題になるのか。其は村々国々によつて特殊な祭りに、手草(タグサ)として使用するものであつたから、木偏に其季を附けて表したのであらう。勿論、柊の花は冬咲くものであるが、其花の咲き方で占つたり、或は柊の桙で突いて、占つたものと思はれる。春になると雪が、今言うたやうに、花になる。其外、卯月に卯の花、五月に皐月(サツキ)・躑躅(ツヽジ)などがある。
花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようどが勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ徴(シルシ)である。
三月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木は、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた。花が早く散つたら大変である。
考へて見ると、奈良朝の歌は、桜の花を賞めて居ない。鑑賞用ではなく、寧、実用的のもの、即、占ひの為に植ゑたのであつた。万葉集を見ると、はいから連衆は梅の花を賞めてゐるが、桜の花は賞めて居ない。昔は、花は鑑賞用のものではなく、占ひの為のものであつたのだ。奈良朝時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教へられたのである。
打ち靡(ナビ)き春さり来(ク)らし。山の際(マ)の遠き木末(コヌレ)の咲き行く 見れば(万葉巻十)
の如き歌もあるが、此は花を讃めた歌ではない。名高い藤原広嗣の歌
此花の一弁(ヒトヨ)の中(ウチ)に、百種(モヽクサ)の言(コト)ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻八)
は女に与へたものである。此は桜の枝につけて遣つたものであらう。
此花の一弁(ヒトヨ)の中(ウチ)は、百種の言(コト)保(モ)ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。桜の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、桜の花が暗示の意味を有して居たからである。
此意味を考へると、桜は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。
平安朝になつて文学態度が現れて来ると、花が美しいから、散るのを惜しむ事になつて来る。けれども、実は、かう云ふ処に、其基礎があつたのである。かうした意味で、花の散るのを惜しむといふ昔の習慣は吾々の文学の上には見られなくなつて来たが、民間には依然として伝はつて居る。
文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。

     三

平安朝の初めから著しくなつて来るものに、花鎮(ハナシヅ)めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及して居る。
鎮花祭の歌詞は今も残つてゐるが、田歌であつて、かういふ語で終つて居る。
やすらへ。花や。やすらへ。花や。
普通は「やすらひ花や」としてゐる。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であつて、ぐづ/\する事である。ぐづ/\して、一寸待つて居てくれと言ふ意味である。だから、此鎮花祭を「やすらひ祭り」と言ふのである。
この祭りの対象になる神は三輪の狭井(サヰ)の神であつて、尠くとも、大和から持ち越した神に相違ない。田の稲の花が散ると困ると言ふ歌を歌つて、踊つたのである。其がだん/\と芸術化し、宗教化して来た。最初は花の咲いて居る時に行うたのであるが、後には、花の散つてしまうてから行はれる様になつた。此では何の役にもたゝない。
日本人の古い信仰では、色々関係の近い事柄は皆、並行して居ると考へてゐた。譬へば田に蝗が出ると、人間の間にも疫病が流行すると考へて居たのも、其だ。平安朝の末になると、殊に、衛生法が行届かなくなつて、死人は加茂の河原や西院に捨てゝ置かれた程である。そこで、普通の考へでは、春と夏との交叉期、即ゆきあひの時期に、予め起つて来さうな疫病を退散させる為に、鎮花祭は行はれたものであると言うて居るが、実はさうではない。此以前に、もつと大切な意味があつたのだ。即、最初は花のやすらふ事を祈つたのであつた。其が、蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言ふので、其を退散させる為の群集舞踏になつたのだ。此によつても、桜が農村生活と関係あつた事は訣ると思ふ。さう言ふ意味で、山の桜は、眺められたのである。
其後になると、卯の花が咲き、躑躅が咲き、皐月が咲く。卯の花は、卯月に咲くから卯の花だと言はれて居る。此説には私は少し疑ひを持つて居たが、近頃では却つて、此考へに同情して来た。卯月と卯の花とは関係があると思ふ。此 ut は、何か農村の呪法に関係がある様だ。私は卯月と言ふ月は、此と月と結合して出来た語であり、卯の花の u と ut とは同じものと見て居る。
正月に使用するうづゑ(卯杖)・うづち(卯槌)などゝ言ふものがある。形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつには、意味がある。捨てるも「うつ」である。うつちやる・なげうつも、捨てる事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。
十月の卯の日に玄猪の行事をする。土龍(モグラ)を嚇すと言ふのは後の附会で、地中に潜んで居る精霊を追ひやるのである。初春に杖をもつて、まづ地面を打つて置き、いよ/\田の行事にかゝる四月になると、復此行事を繰り返す。即、も一度田の行事をするのである。此為、卯月と言ふのだとするのが、私の仮説である。
卯月に咲く山の花なる卯の花は、空木(ウツギ)の花だと言ふ説もあるが、たま/\卯の花を空木の花であると言ふのには、原因があるのである。卯杖(ウヅヱ)・卯槌(ウヅチ)を空木で作り、そして、空木は鬼やらひに用ゐる木なのである。即、卯の花が占ひの象徴になつて居ると思ふ。卯の花が早く腐ると困る処から、卯の花くたしと言ふ名が、雨にまで附けられたのである。卯の花の咲く時分に、長雨が降る。卯の花を腐らせる雨に、気を病んで居る人々が作つた詞である。
これからは、幾らでも、象徴の花が出て来る。卯月に入ると、女達の物忌みが始まる。此事は、柳田国男先生が、最初に注意された。私が、躑躅の花を竿の先につけて外に出す習慣の行はれて居る四月八日の、てんたうばな(天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、此時に女の山籠りの習慣があつて、此女たちが山から帰つて来る際に、躑躅の花を持つて来るが、此と関係がある事を指摘された。其為に、私の考へは変つて来たのであつた。

     四

女の物忌みとして、田を植ゑる五月処女(サウトメ)を選定する行事は、卯月の中頃のある一日に「山籠り」として行はれる。さうして、山から下りる時には、躑躅の花をかざして来る。山籠りは、処女が一日山に籠つて、ある資格を得て来るのが本義である。けれども、後には、此が忘れられて、山に行き、野に行きして、一日籠つて来るのは、たゞの山遊び・野遊びになつてしまうた。「山行き」といふ言葉は、山籠りのなごりである。かうして山籠りは、一種の春の行楽になつて了うたが、昔は全村の女が村を離れて、山籠りをした。即、皐月の田植ゑ前に、五月処女(サウトメ)を定める為の山籠りをしたのである。
此山籠りの帰りに、処女たちは、山の躑躅を、頭に挿頭(カザ)して来る。此が田の神に奉仕する女だと言ふ徴(シルシ)である。そして此からまた厳重な物忌みの生活が始まるのである。此かざしの花は、家の神棚に供へる事もあり、田に立てる事にもなつた。此が一種の成り物の前兆になるのである。
四月八日を中心とした此日は、普通「山籠り」の日と言うて居る。此日、村の娘が五月処女(サウトメ)としての資格を得るのである。そうとめと音便で呼ばれる語形さをとめの結合は、近世では出来ない結合である。処女(ヲトメ)は神事に仕へる女、と言ふ事である。をとこも神事に仕へる男の意である。処女が花を摘みに行つて、花をかざして来る事は、神聖な資格を得た事であつて、此時に「成女戒」が授けられる。此は一年の中、二度か三度行はれたが、もとは一度であつて、男を避けて暮すのが習慣である。
処女が其資格を得ようとする徴(シルシ)に花かざしをする。躑躅が用ゐられた。一種の山蔓(ヤマカヅラ)である。こゝに何か秘密な行事があるので、其時に花をさしたと言ふ事が、成女戒を授けられた事になる。此は毎年生れかはる形であるので、毎年受けるものなのだが、一生の中に、二度うける様にもなつた。だが、昔は、事実はおなじ女性がつとめても、毎年別の人が生(ア)れ出て来ると信じて居た。
男は五歳から十歳頃までに袴着(ハカマギ)を行ひ、女は裳着(モギ)をする。此袴着・裳着は、幼時に一度行ふばかりでなく、大きくなつてから今一度行ふ。貴族の男児は、成年戒には黒□をつける。其形は日本在来の鬘の形で、後方で結んで居て、植物の蔓を頭へ巻いたと同じ形である。物忌みの間につける蔓の形が、支那の□の形と合して、黒□となつたのだ。
此に対して女は「はねかづら」を着ける。万葉集には「はねかづら」と言ふ語が四个所に出て来る。
はね蔓今する妹を夢に見て、心の中(ウチ)に恋ひわたるかも(家持――巻四)
はね蔓今する妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、許多(コヽダ)恋ひたる(童女報歌)
はね蔓今する妹をうら若み、いざ、率(イザ)川の音のさやけさ(巻七)
はね蔓今する妹がうら若み、笑(ヱ)みゝ、怒(イカ)りみ、つけし紐解く(巻十一)
即「はね蔓(カヅラ)今する妹」といふ様な形になつてゐる。此はねかづらは花かづらの事であらう、と言ふ説がある。其はとにかく、此ははねかづらを着ける事かどうか判明しないが、尠くとも、純粋の処女の時代であつて、手の触れられない事を意味する物忌みの徴(シルシ)のものであるらしい。
処女を犯すと、非常な穢れに触れるのだ。曾て私は、小田原で猟師の歌つてゐる唄を聞いた。其は「下田の沖のけなし島。けのないヽヽヽヽはかはらけだ。かはらけヽヽすりや七日の穢れ。七日どころか一生の穢れ」といふのである。即、けなし島と言ふ所に、処女の期間を意味して居る。つまり処女犯には、七日のつゝしみを経なければならぬと言ふ事で、即、神事に仕へない女は、女ではなかつたのである。神事に仕へると、神の成女戒を受ける。神のためしを受けて、始めて、男に媾ふ事が出来るのである。
処女がはねかづらをするのは、成女戒の前である。成女戒が済めば、其鬘(カツラ)を取つてしまふ。はねかづらは、花でなくても、尠くとも植物ではあらう。けれども、此は結局、今日からは解く事は出来ない。ただ当時は、此だけで、皆了解出来たのであらう。とにかく、これが、男の黒□になつたものと同様に、女の物忌みの徴であつた。
壱岐では、独身者が死ぬと、頭陀袋(ヅダブクロ)を首に懸けさせて、道々花を摘んでは入れてやる。この意味は、女房をもたぬ男が死ぬと、地獄へ行つて、手で筍を掘らねばならぬ。其を助ける為と言ひ、此袋の事を「花摘み袋」と言ふ。信州松本辺でも聞く話である。吾々は、花がなければ、村の人間の行つて居る処へ、行く事が出来ぬ。即、村人の魂の居る所へ行くには、花の鬘が必要であつたのである。
沖縄では、子供の墓と大人の墓とは区別されて居る。花摘み袋の習慣が、仏教の輸入後、頭陀袋を利用する様になつたのである。近頃では、男の習慣ばかりが残つてゐる。ともかく、男でも女でも、花が成年戒を受けた徴になつてゐたと思はれる。此が、夏の田植ゑの為の神人を定める行事であり、又、田の実りの前兆を見る行事の意味に附帯して来る。田の畔に躑躅の花を樹てるのも、此習慣からである。躑躅は、桙や杖と関係が少くなつて来て、かざしの方に近づいて来る。

     五

椿の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、海石榴市(ツバイチ)があつた。市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。此時、山人が持つて来た杖によつて、市の名が出来たものである。椿の杖を持つて来て、魂(タマ)ふりをした為に、海石榴市と称せられたのであらうと思ふ。豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよく訣る。
椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持ち物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町時代には出て来て居り、其形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違ひない。何時までも若く又は、死なぬ長寿者であつて、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻つたものと、山姥の考へとが結合したものである。山姥は、椿の枝を山から持つて来て、春の言触(コトフ)れをするのである。春の報(シラ)せには、山茶花は早く咲くから、都合のよい木である。即、山姥が、椿でうらを示したのである。
口から吐く唾と花の椿とは、関係があつて、人間の唾も占ひの意味を含んでゐたのは事実だ。つはつばの語根であり、唾はつばきである。椿がうらを示すもの故、唾にも占ひの意味があるのだらうと考へたのである。どの時代に結合したか訣らぬが、時代は古いもので、つに占ひの意味が含まれてゐる。だから、椿と言ふ字が出来て来る。春に使われる木だから椿の宛て字が出来た。
私は、椿の古い信仰は、熊野の宗教に伴うて残つたものではないかと思ふ。熊野の男の布教者は、梛(ナギ)をもつて歩き、女の布教者は、椿をもつて歩いたのではあるまいか。此は、私の仮説である。とにかく、山人が椿の桙を持つて来たから、海石榴市である。
榎も、今言ふ様なものではない。えの音の木は沢山ある。朴の木、橿(カシ)の木の一種にもおなじ名がある。此は「斎(ユ)」と関係があるらしい。柳(ヤナギ)は斎(ユ)の木(キ)である。矢(ヤ)の木ではなくて、斎(ユ)の木、即、物忌みの木である。ゆのぎがやなぎになつて来たのである。万葉集・古今集などに青やぎとあるが、やぎは不自然である。
田の中には、躑躅でなければ、柳をさす。七部集の「田中なるこまんが柳」など言ふのも、此である。田の中へ柳をさす事は、今でも行はれて居る。柳は枝が多く、根の著き易いものであつて、一種の花なのである。此系統から行くと、正月飾るものは、皆斎(ユ)の木である。餅花・花の木・繭玉・若木・物作りの如きは、枝が沢山出て居るから、花の代りになる。其だけでは、物足りないから、物の形の餅や、稲穂・粟穂・稗穂・繭玉の如きものをつける。此が斎の木の標本的のものである。夏になると、柳である。熊野の信仰では、榎の方のゆの木を用ゐた。「榎」の音にも斎(ユ)の木の聯想があるものと思ふ。
秋は、楸を用ゐる。楸は梓の一種であつた。棒にするには、極(ゴク)都合の良い木である。恐らく、秋の祭りに楸の木を使用したものであらう。
万葉集・懐風藻等を見ても、柘(ツミ)ノ枝(エ)の仙女伝説がある。日本の昔は、神と人間との結婚の形は、神が一旦他の物に化つて、其から人間の形になる事になつて居る。柘ノ枝の仙女は、柘ノ枝で作つた杖の信仰である。
万葉集を見ると「花に」と云ふ副詞がある。はなづま・はなにしもはゞの如きものである。見たゞけの妻――妻でありながら、手も触れられない妻と云ふのが、花妻である。萩の花妻と言ふのは、普通の解釈では、萩の花は鹿の花妻で、鹿の連合ひと言ふのだとして居るが、落着かない考へだ。萩の花と鹿とはくつゝいて居るが、ほんとうの妻ではない、と言ふしやれがあるのであらう。
足柄(アシガリ)の箱根の嶺(ネ)ろのにこ草の 花妻なれや、紐解かず寝む(万葉巻十四)
は、花妻なれば知らぬこと、花妻でないから、紐解かずに寝られないと言ふ意味である。花妻の「花」と言ふのが、古い語の意味に近い。手の触れられない妻、見るだけの妻と言ふ意味である。即、処女である間の女である。「花に」と言ふ語は、もろく・あだに・いつはりに・上べだけの意味になるが、実は「花に」は、今の語では解けないのであつて、前兆はかうであつたが、結果はかうだめである、と言ふのである。一番最初に花と言ふのは、花の咲いて居るものではなく、先触れにうら・ほとして出て来るもので、先触れの木である。咲く花でない証拠には、花の木と言ふものがある。此は、一種の匂ひの高い木で、花ではなく、樒などが用ゐられた。
樒の花は、問題になる程目につく花ではなく、榊に近いものである。何かの前兆になる神の木で、榊の一種類であつた。昔、問題にされた木には、却つて、花の咲かないものが多く、咲く花のみに、捉はれはしなかつた。古く、花と言ふ語は、最多く副詞になつて現れてゐる。物の先触れと言ふ処から、空虚なものに使用せられる、浮いた言葉なのである。
秋の花の中には、秋の七草がある。此に対して、春の七草もある。春の七草は、近世では禁厭(まじな)ひの物である。秋の七草は、禁厭ひの意味は何も訣らぬが、鑑賞目的の為にのみ数へあげられたとばかりは、考へられないものがある。此点はまだ考へられない。
木や木の花を式に使ふ事は、魂を鎮める為と、予め今年一年の農作の結果を前触れする為の象徴に使用するのと、二様ある。鎮魂の方は、主に桙で、先触れの方は、花である。木に就て、此両面が分れて居る。

     六

ふゆは触(フ)れることである。ふゆとふるとは同じ事である。ふゆは物を附加する事であるが、もとは物を分割する意味である。ふるはまな(外来魂)を人体に附加する事で、冬になると総てのものをきり替へるので、魂にも、外から来る勢力ある魂を附加するのである。発音がふるともふゆとも言ふ為に、附加する事を意味して居る。それが次第に変化して、魂の信仰も変つて来、自分の体の魂を分割して与へる様になる。即、魂に枝が出来る。勝手に分岐するのである。ふゆは、分岐するから、増殖すると言ふ意味が出て来る。
魂を附加するのは、鎮魂祭である。此を魂(タマ)ふりと言ひ、その儀式が厳冬に行はれる。魂ふりはまなを内部に附加して了ふ事であるが、支那の鎮魂は内の魂を出さない様にする事である。此が変化して来て、時の変り目に、内在魂が発散するから、此を防ぐ為の魂を鎮める行事となつた。此がたましづめである。
たまふりからたましづめに変る中に、ふゆなる増殖分岐を考へた。もとは人が魂を附加してくれる。此が、自分の魂の分岐増殖したのを、分けて与へる様になる。みたまのふゆは、此である。魂を祭る冬祭りと言ふ観念が、一緒にくつゝいて居る。御魂祭りは生人・死人の魂を祭る事である。平安朝時代は、専、御魂祭りをすると考へて居た。意味が固定して、古典的になつて居たのである。
以前は、みたまのふゆを「恩賚」と書いて居る。天皇の恩顧を蒙る事をみたまのふゆの義と考へて居るが、実は、天皇或は高貴の方の魂の分岐して居るのを貰ふ為に、恩賚と言ふのである。みたまのふゆは、魂の分岐したものを人に頒けてやる、其分れた魂、増殖した魂の事を言ふ。分割せられた魂を頒けて貰へば、自分も偉くなるので、其が、恩賚と宛てるやうになつた所以である。
たまふりには、鎮魂を行ふ意味と、魂を分割する意味とがある。春夏秋冬の冬は、魂の分割を考へた時代に出来た名であると思ふ。
冬の時期には、山びとが山苞(ヤマヅト)を持つて出て来る。山苞の中の寄生木(ホヤ)(昔はほよ)は、魂を分割する木の意味でふゆと言ふのである。初春の飾りに使ふ栢(カヘ)(榧)も、変化の意で、元へ戻る、即、回・還の意味である。かは・かひ・かふ・かふ・かへと活き、同時に、かへ・かへ・かふ・かふる・かふれの活用をする故に、かへる・かふるとあつても同様である。栢の木は、物が元へ戻る徴(シルシ)の木であつた。此木をもつて、色々の作用を起させる。魂の分割の木は、寄生木で、春のかへる意味に、栢が使はれるのである。かう言へば、段々年末から春へかけての植物の説明が附いて来る。
此等の木は、たぐさとして、呪(まじな)ひをする木と言ふ事である。たぐさは踊りを踊る時に、手に持つ物で、呪術の力を発揮するものである。こゝに、とうてみずむとしての植物に関聯したものゝ俤が見える。
とうてみずむについて、私のまづ動かないと思ふ考へは、吾々と吾々の祖先とが鉱物なり、動物なり、植物なりから分れて来た元の形が、それだとするのではなく、また、吾々の生活条件に必要なあるものから、吾々が、分岐して来た其もの、即、生活条件が吾々と並行して居るものとするのでもない。私は、とうてみずむは、吾々のまなの信仰と密接して居るもの、とするのである。吾々と同一のまなには、動物に宿るものもあり、植物に宿るものもあり、或は鉱物に宿るものもある。そして、吾々と同一のまなが宿る植物なり、動物なりを使用すれば、呪力が附加すると信じて居たのだ。此を古語で「成る」と言ふ。「成る」は内在する事で、其中へ物が入り込む事でもある。即、同一のとうてむを有する動物・植物・鉱物なりをたぐさとして振りまはせば、非常な偉力が体内へ這入つて来る、と考へたのである。
とうてむは人間以外に、外の物へ入る事もあつて、此中、日本では、動物の信仰と植物の信仰とが、明らかに分れて了うた。日本でも、光線をとうてむに使用した痕跡があるし、また、信仰的に、動物や植物が沢山出て来る。動物の時はつかはしめとなつて居り、植物の時はたぐさとなつて居る。これが段々変化して、更に、沢山のたぐさが出来た。こゝに、植物と人間の祭りとの関係が現れて来る。さうして、時代的に合理化せられて、変化する。其過程に、桙を一突き突くと、魂がめざめて来たり、花が咲くと、今年の成りものの前兆になると言ふ考へが岐れて出た。つまり、とうてみずむの考へから、宗教の原始的思想に這入つて来た。そして人間の魂を自由に扱ふ事が出来ると言ふ考へから、ほよ・はなを考へて来た。八尋桙根は、柊の棒で作つたもので、立ち木のまゝで地を胴突くと花が咲くといふのである。此花を以て、農業の先触れとした。柊は、魂をくつ着ける予備行為の為事と、花としての為事との二様の必要があつたのだ。其為、非常に、大切にされて居る。
三河の奥の花祭りは、もとは霜月の末に行はれたのが、近頃では、春になつて居る。だが、時期から見ると、冬から春に変る時に、稲花の様子を示す祭りである。山人が、予め準備して置いた竹棒の先に、花をつけて、其で土地を突いて歩く。此が、中心行事で、土地の精霊が、其に感応して、五穀を立派に為上げると言ふ信仰であつた。
榊は、神と精霊と、神と人との、問答の木である。さか木の語原は訣らぬが、一種の通弁の機関である。謡曲の「百万」を見ると、狂女の背を榊で打つと、ものを言ひ出す科(シグサ)がある。其は一つの例である。榊と称する木にも、沢山の種類がある。小山田与清の「三樹考」を見れば、榊に属する木の名は皆、挙げられてゐる。三河の花祭りの鬼も、榊で打つと物を語り出し、それから榊を中心として、問答をする。榊によつて、言葉が伝はつて来るのである。換言すれば、榊はもどきの木、説明役の木である。
橘はまた違うて、生命を祝福する木に相違ない。橘の実を「ときじくの香(カグ)の木(コ)の実」と言うた。たぢまもりは、但馬の人――私は出石人(イヅシビト)と名をつけて置く――で、考古学者は漢人種の古く移民して来たものだと言うて居る。此人々の、祖先の中の一人であつた彼が、垂仁天皇の仰せにより、常世へ行つて、ときじくのかぐの木の実を将来した。ときじくは、常にある意で、かぐはよい香のある意である。たぢまもりが帰つて見ると、天皇はもう崩(ナ)くなつて居られた為に、哭いて天皇の御陵の前に奉つた事は名高い伝へである。
日本紀には、縵(カゲ)四縵・矛四矛を大后に奉り、縵四縵・矛四矛を御陵に奉つたとある。桙と言うても、棒のみを斥(サ)すものではなく、かげは冑をまで称せられた。橘の細い杖を撓めて鬘にし、八つの縵と八つの矛とを造つて、奉つたのである。後世から此を辿るに、其習慣が、殆ど無くなつて居るから訣らないけれど、常世は、生命の長く、此地と暦を別にして居る処である。常世の木の実は、何時までも落ちないものと考へてゐた。出石人が、貴種の葬られた墓所に、魂を喚び醒す為に樹てたものであらう。かう考へれば、たぢまもりの話も、浦島の型のみではなく、招魂の呪ひがあり、同時に橘が長寿を祝福する意味を持つた木である事が、想像出来るのである。
荻(ヲギ)も亦信仰に関係がある。万葉集の東歌に
妹(イモ)なろがつかふ川内(カハツ)のさゝら荻(ヲギ)。あしと一言(ヒトコト)語りよらしも(巻十四)
と云ふのがある。吾妹子が、誓ひに用ゐる川口の小さな荻の類だから、あしと一言、告げがあればよいと言ふのである。さゝら荻は序歌であるが、同時に、また内容になつて居る。荻が神の告げを語る信仰があつての上に使はれた序なのである。
日本の信仰上の現象を見ると、秋になつてそよ/\と戦ぐ荻が、何となく目について居る様だ。秋の草のそよ/\と揺れる事をそゝ・そゝや等と言ふ語であらはして居る。そゝ・そゝやは、神の告げを表す語であるから、荻や萩には此聯想があつたものと思はれる。そしると言ふことも、神の告げである。をぎと言ふ名は、霊魂を招き寄せる意味である。をぎ・をぐとは、霊魂を呼び醒す場合にも用ゐた。だから荻にも何か信仰上の関係があつたのである。
神楽の中に「韓神」と言ふ舞があつて、韓神が枯れた荻の葉を持つて、舞うた事が、平安朝の文献に見えて居る。韓神は韓風の祭りに使つたものであらうが、荻に神霊を招来する信仰があつたものと思はれる。此等にもとうてみずむの俤が見えて居る。

     七

つくり花と言ふのは沢山ある。其中一番古くからあつて、一番長く伝はつて居るのは、削(ケヅ)り掛けである。柳などの木を削つて、ひげを沢山出してある。此を削(ケヅ)り掛け、或は削(ケヅ)り花と言ふ。此があいぬの信仰に這入つて、いなうと言ふものになつて居る。此は、あいぬ在来のものでなく、日本の稲穂の信仰様式があいぬへ這入つたものであらう。いなうは、日本の御幣の如きものであるが、御幣ではない。甲州ではあぼ・へぼと言ふが、粟穂・稗穂等と言ふ意味であらう。削りぐあひで、色々あるのだ。稲穂は其一種である。此があいぬへ這入つて行つたのは、近代の事ではない。
筑波嶺に雪かも降らる。否諾(イナヲ)かも。愛(カナ)しき児等(コロ)が布(ニヌ)乾(ホ)さるかも(巻十四)
といふ歌が、万葉集の東歌の中にある。あいぬの木幣(イナウ)を知つて居る学者は、木幣(イナウ)と信じて、此歌をもつて、あいぬが此附近に住んで居た証とするが、此は勿論さうではない。
削り花は早くからある。古今集巻十の「物名(モノヽナ)」の籠め題に「二条后の東宮の御やすん所と申しける時に、めどにけづり花させりけるを詠ませたまひける」と言ふ詞書があつて、
花の木にあらざらめども 咲きにけり。ふりにし木の実なる時もがな(文屋康秀)
とある。めどは馬道で、廊下の暗い処に削り花の掛つて居たのを詠んだものである。此頃には既に、削り掛けの出所を疑ひ、後には合理化して、花の形だとして居る。何故花の如きものを作つたかと言ふに、祝福の形なのである。此以前に、も一つ先の形があつたと思ふ。其は、山人が突いて来た杖の先のさゝけたものが、花の徴(シルシ)になつたものであらう。卯杖と言ふ杖は、土地をつゝき廻ると、先の方がさゝけ、根は土の中で著く。此さゝけが花の徴(シルシ)になり、そして、最初の形であると思ふ。竹ですればさゝらになる。簓(サヽラ)も一種の占ひの花であつた。葬式等には髯籠(ヒゲコ)を作る。此先のさゝけが肝腎である。其さゝけの分れ方で、一種の占ひになつたものと思ふ。
此話と関聯して、言はなければならないのは、万葉集の東歌や防人歌などを見ると、はやしと言ふ語が沢山に出て来る事である。
麁玉(アラタマ)の伎倍(キベ)のはやしに名を立てゝ、行き敢(カ)つましゞ。寝(イ)を先立(サキダ)たに
此歌は難解の歌である。「麁玉(アラタマ)の伎倍(キベ)のはやし」と言ふのは、麁玉(アラタマ)郡の伎倍(キベ)のはやし(林)と言ふのかも訣らぬ。併し、私は、麁玉郡に伎倍(キベ)があるのではなく、遠江に同名の地があるから、此を聯想したものであらうと思ふ。村境に建てる柵が「き」である。そこへ、旅に行く人と別れる時、切りはなした木を樹てゝ、其魂を留めて置く。柵辺(キベ)にはやした木を樹てるのである。此木を樹てると、魂が留まると信じて居たのであらう。其が「伎倍(キベ)のはやし」であると思ふ。「寝(イ)を先だゝに」は、そんな所ではやしの行事をして居ないで、早く村へ入つて了へ。お前を立たせて置いては、私が先へ行きかねまい、と言ふのである。
上(カミ)つ毛野(ケヌ) 佐野(サヌ)のくゝたち折りはやし、吾(ワレ)は待(マ)たむゑ。今年来(コ)ずとも
くゝたち(植物の名か)を折りはなして来て、何のたよりがなくとも、私は待つて居りませうと言ふのである。此はやすといふ所に、一種の霊魂を移す信仰があつたのである。
松(マツ)の木(ケ)のなみたる見れば、家人(イハビト)の 我(ワレ)を見送ると、立たりしもころ
なむ(なみ)は撓(シナ)えて居る事、なびくと同じで、ぐにやりとして居る事である。「もころ」は占ひの詞である。卦と言葉とぴつたり合ふ正占の事で、二つのものがぴつたり合ふ事がもころである。もころは、元は、占ひの語に相違ない。
我を見送ると言ふ事も、今の見送るではない。後に残つて居て、私を護つて居ると言ふ意味である。遠くから、其人に災のない様に、気をつけて居る事が見送るである。「立たりし」は「立てりし」と同じことである。家人が此松と同様にぐにやりとして、私に災がない様に、と見守つて立つて居るのが、眼にあざやかに浮ぶと言ふ位の意である。
後世東国では、家人の誰かゞ遠く旅をして居る家では、家の前に祠を建てゝ、其人の帰る迄置いた。近世の伊勢参りの如きも此形である。魂を留める為に、家の門に木を切つて立てゝ置いた。此動作がはやすである。かうして解くと、万葉集の中で、今日まで解けなかつた歌が、大分解けて来る。
この様に、木の花を以て祝福したり、将来の事を占つて見たり、魂ふりをする習慣が沢山あるのである。これで、私は、四季の花を中心として、神事に関係ある花の事は、大体述べたつもりである。




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