死者の書
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著者名:折口信夫 

郎女(いらつめ)は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂(い)った語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗(にぬ)りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。そうして、門から、更に中門が見とおされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配(こうばい)に建てられた堂・塔・伽藍(がらん)は、更に奥深く、朱(あけ)に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかった。其寂寞(せきばく)たる光りの海から、高く抽(ぬき)でて見える二上の山。淡海公の孫、大織冠(たいしょくかん)には曾孫。藤氏族長太宰帥、南家(なんけ)の豊成、其第一嬢子(だいいちじょうし)なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行(いざ)り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女のことである。順道(じゅんとう)ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡(ひらおか)の御神か、春日の御社(みやしろ)に、巫女(みこ)の君として仕えているはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗(ほのぐら)い女部屋に起き臥ししている人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おうしたてられて来た。
寺の浄域が、奈良の内外(うちと)にも、幾つとあって、横佩墻内(よこはきかきつ)と讃えられている屋敷よりも、もっと広大なものだ、と聞いて居た。そうでなくても、経文の上に伝えた浄土の荘厳(しょうごん)をうつすその建て物の様は想像せぬではなかった。だが目(ま)のあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであった。之に似た驚きの経験は曾(かつ)て一度したことがあった。姫は今其を思い起して居る。簡素と豪奢(ごうしゃ)との違いこそあれ、驚きの歓喜は、印象深く残っている。
今の太上天皇様が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳の南家の郎女は、童女(わらわめ)として、初の殿上(てんじょう)をした。穆々(ぼくぼく)たる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで、流れて居た。昼すら真夜(まよ)に等しい、御帳台(みちょうだい)のあたりにも、尊いみ声は、昭々(しょうしょう)と珠(たま)を揺る如く響いた。物わきまえもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になって生れたことよ」と仰せられた、と言う畏(おそ)れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十(はたち)になっていた。幼いからの聡(さと)さにかわりはなくて、玉・水精(すいしょう)の美しさが益々加って来たとの噂が、年一年と高まって来る。
姫は、大門の閾(しきみ)を越えながら、童女殿上の昔の畏(かしこ)さを、追想して居たのである。長い甃道(いしきみち)を踏んで、中門に届く間にも、誰一人出あう者がなかった。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔(つつま)しく併しのどかに、御堂御堂を拝んで、岡の東塔に来たのである。
ここからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考え浮べることも、しなかったであろう。まして、家人たちが、神隠しに遭(お)うた姫を、探しあぐんで居ようなどとは、思いもよらなかったのである。唯うっとりと、塔の下(もと)から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現(うつ)し世(よ)の目からは見えぬ姿を惟(おも)い観(み)ようとして居るのであろう。
此時分になって、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝(じんちょう)の勤めの間も、うとうとして居た僧たちは、爽(さわ)やかな朝の眼を□(みひら)いて、食堂(じきどう)へ降りて行った。奴婢(ぬひ)は、其々もち場持ち場の掃除を励む為に、ようべの雨に洗ったようになった、境内の沙地(すなじ)に出て来た。
そこにござるのは、どなたぞな。
岡の陰から、恐る恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴(やっこ)は、あるべからざる事を見た様に、自分自身を咎(とが)めるような声をかけた。女人の身として、這入(はい)ることの出来ぬ結界を犯していたのだった。姫は答えよう、とはせなかった。又答えようとしても、こう言う時に使う語には、馴れて居ぬ人であった。
若(も)し又、適当な語を知って居たにしたところで、今はそんな事に、考えを紊(みだ)されては、ならぬ時だったのである。
姫は唯、山を見ていた。依然として山の底に、ある俤(おもかげ)を観じ入っているのである。寺奴は、二言とは問いかけなかった。一晩のさすらいでやつれては居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断は、つかぬ筈はなかった。又暫らくして、四五人の跫音(あしおと)が、びたびたと岡へ上って来た。年のいったのや、若い僧たちが、ばらばらと走って、塔のやらいの外まで来た。
ここまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人(にょにん)は、とっとと出てお行きなされ。
姫は、やっと気がついた。そうして、人とあらそわぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで来た。
見れば、奈良のお方そうなが、どうして、そんな処にいらっしゃる。
それに又、どうして、ここまでお出でだった。伴(とも)の人も連れずに――。
口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめいめい、貴い女性をいたわる気持ちになって居た。
山をおがみに……。
まことに唯一詞(ひとこと)。当の姫すら思い設けなんだ詞(ことば)が、匂うが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下(ぼんげ)の家々の語とは、すっかり変って居た。だから言い方も、感じ方も、其うえ、語其ものさえ、郎女の語が、そっくり寺の所化輩(しょけはい)には、通じよう筈がなかった。
でも其でよかったのである。其でなくて、語の内容が、其まま受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女、と思われてしまったであろう。
それで、御館(みたち)はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問うのだよ――。
おお。家はとや。右京藤原南家……。
俄然(がぜん)として、群集の上にざわめきが起った。四五人だったのが、あとから後から登って来た僧たちも加って、二十人以上にもなって居た。其が、口々に喋(しゃべ)り出したものである。
ようべの嵐に、まだ残りがあったと見えて、日の明るく照って居る此小昼(こびる)に、又風が、ざわつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方(こなた)にも小桜の花が、咲き出したのである。
此時分になって、奈良の家では、誰となく、こんな事を考えはじめていた。此はきっと、里方の女たちのよくする、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習しである。春秋の、日と夜と平分する其頂上に当る日は、一日、日の影を逐(お)うて歩く風が行われて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送って行く女衆が多かった。そうして、夜に入ってくたくたになって、家路を戻る。此為来(しきた)りを何時となく、女たちの咄(はな)すのを聞いて、姫が、女の行として、この野遊びをする気になられたのだ、と思ったのである。こう言う、考えに落ちつくと、ありようもない考えだと訣(わか)って居ても、皆の心が一時、ほうと軽くなった。
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕光(ゆうかげ)の、催して来る時刻が来た。昨日は、駄目になった日の入りの景色が、今日は中日にも劣るまいと思われる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなって居た。

   八

奈良の都には、まだ時おり、石城(しき)と謂(い)われた石垣を残して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符(だいじょうがんぷ)で、其を家の周りに造ることが、禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなって居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代御一代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあった。其で凡(およそ)、都遷(みやこうつ)しのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城(とじょう)の姿は備えて行った。其数朝の間に、旧族の屋敷は、段々、家構えが整うて来た。
葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣(そがのおみ)なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城(しき)なども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城づくりの屋敷を構えるようになって行った。
蘇我臣一流(ひとなが)れで最栄えた島の大臣家(おとどけ)の亡びた時分から、石城の構えは禁(と)められ出した。
この国のはじまり、天から授けられたと言う、宮廷に伝わる神の御詞(みことば)に背く者は、今もなかった。が、書いた物の力は、其が、どのように由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いて居た。
其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様(たかまのはらひろぬひめのみことさま)の思召(おぼしめ)しで、其から一里北の藤井个(が)原に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様(もろこしよう)の端正(きらきら)しさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来(いまき)の高麗馬(こま)に跨(またが)って、馬上で通う風流士(たわれお)もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖(さぎす)の阪の北、香具山の麓(ふもと)から西へ、新しく地割りせられた京城(けいじょう)の坊々(まちまち)に屋敷を構え、家造りをした。その次の御代になっても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行って、ここを永宮(とこみや)と遊ばす思召しが、伺われた。その安堵(あんど)の心から、家々の外には、石城を廻すものが、又ぼつぼつ出て来た。そうして、そのはやり風俗が、見る見るうちに、また氏々の族長の家囲いを、あらかた石にしてしまった。その頃になって、天真宗豊祖父尊様(あめまむねとよおおじのみことさま)がおかくれになり、御母(みおや) 日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになすひめ)の大尊様(おおみことさま)がお立ち遊ばした。その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。ところがまるで、追っかけるように、藤原の宮は固(もと)より、目ぬきの家並みが、不意の出火で、其こそ、あっと言う間に、痕形(あとかた)もなく、空(そら)の有(もの)となってしまった。もう此頃になると、太政官符(だいじょうがんぷ)に、更に厳しい添書(ことわき)がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した転変に、目を瞠(みは)るばかりであったので、久しい石城の問題も、其で、解決がついて行った。
古い氏種姓(うじすじょう)を言い立てて、神代以来の家職の神聖を誇った者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気がついて居なかった。
最早くそこに心づいた、姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇って来た家職を、末代まで伝える為に、別に家を立てて中臣の名を保とうとした。そうして、自分・子供ら・孫たちと言う風に、いちはやく、新しい官人(つかさびと)の生活に入り立って行った。
ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持(おおとものやかもち)は、父旅人(たびと)の其年頃よりは、もっと優れた男ぶりであった。併し、世の中はもう、すっかり変って居た。見るもの障るもの、彼の心を苛(いら)つかせる種にならぬものはなかった。淡海公の、小百年前に実行して居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍(おぞ)ましさが、憤らずに居られなかった。そうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざまざ省みて、慄然(りつぜん)とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥(なず)んで居た南家の横佩(よこはき)右大臣は、さきおととし、太宰員外帥(だざいのいんがいのそつ)に貶(おと)されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。
世間の氏上家(うじのかみけ)の主人(あるじ)は、大方もう、石城など築き廻(まわ)して、大門小門を繋(つな)ぐと謂(い)った要害と、装飾とに、興味を失いかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲われた家の中で、家の子どもを集め、氏人たちを召(よ)びつどえて、弓場(ゆば)に精励させ、棒術(ほこゆけ)・大刀かきに出精させよう、と謂ったことを空想して居る。そうして年々(としどし)頻繁に、氏神其外の神々を祭っている。其度毎に、家の語部大伴語造(おおとものかたりのみやつこ)の嫗(おむな)たちを呼んで、之に捉(つかま)え処もない昔代(むかしよ)の物語りをさせて、氏人に傾聴を強いて居る。何だか、空(くう)な事に力を入れて居たように思えてならぬ寂しさだ。
だが、其氏神祭りや、祭りの後宴(ごえん)に、大勢の氏人の集ることは、とりわけやかましく言われて来た、三四年以来の法度(はっと)である。
こんな溜(た)め息(いき)を洩(もら)しながら、大伴氏の旧(ふる)い習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外はない家持だったのである。
越中守として踏み歩いた越路の泥のかたが、まだ行縢(むかばき)から落ちきらぬ内に、もう復(また)、都を離れなければならぬ時の、迫って居るような気がして居た。其中、此針の筵(むしろ)の上で、兵部少輔(ひょうぶしょう)から、大輔(たいふ)に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た。そうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を浮き立たした。本朝出来の像としてはまず、此程物凄い天部(てんぶ)の姿を拝んだことは、はじめてだ、と言うものもあった。神代の荒神(あらがみ)たちも、こんな形相でおありだったろう、と言う噂も聞かれた。
まだ公(おおやけ)の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒(ま)いていた。あの多聞天と、広目天との顔つきに、思い当るものがないか、と言うのであった。此はここだけの咄(はなし)だよ、と言って話したのが、次第に広まって、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大倭(やまと)一だと言われる男たちの顔、そのままだと言うのである。貴人は言わぬ、こう言う種類の噂は、えて供をして見て来た道々の博士たちと謂った、心蔑(さも)しいものの、言いそうな事である。
多聞天は、大師藤原恵美中卿(ちゅうけい)だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失わぬあの方が、近頃おこりっぽくなって、よく下官や、仕え人を叱るようになった。あの円満(うま)し人(びと)が、どうしてこんな顔つきになるだろう、と思われる表情をすることがある。其面(おも)もちそっくりだ、と尤(もっとも)らしい言い分なのである。
そう言えば、あの方が壮盛(わかざか)りに、棒術を嗜(この)んで、今にも事あれかしと謂った顔で、立派な甲(よろい)をつけて、のっしのっしと長い物を杖(つ)いて歩かれたお姿が、あれを見ていて、ちらつくようだなど、と相槌(あいづち)をうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言うと、
さあ、其がの――。
と誰に言わせても、ちょっと言い渋るように、困った顔をして見せる。
実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言うがや。……けど、他人(ひと)に言わせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐(う)たれなされた前太宰少弐(ぜんだざいのしょうに)―藤原広嗣―の殿に生写(しょううつ)しじゃ、とも言うがいよ。
わしには、どちらとも言えんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さっしゃるには、似ていさっしゃるげなが……。
何しろ、此二つの天部が、互に敵視するような目つきで、睨(にら)みあって居る。噂を気にした住侶(じゅうりょ)たちが、色々に置き替えて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦(まなじり)を裂いて見つめて居る。とうとうあきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方(しかた)がない、と思うようになったと言う。
若(も)しや、天下に大乱でも起らなければええが――。
こんな□(ささや)きは、何時までも続きそうに、時と共に倦(う)まずに語られた。
前少弐殿でなくて、弓削新発意(ゆげしんぼち)の方であってくれれば、いっそ安心だがなあ。あれなら、事を起しそうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないじゃまで――。
言いたい傍題(ほうだい)な事を言って居る人々も、たった此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師恵美朝臣(えみのあそん)の姪の横佩家(よこはきけ)の郎女(いらつめ)が、神隠しに遭(お)うたと言う、人の口の端に、旋風(つじかぜ)を起すような事件が、湧き上ったのである。

   九

兵部大輔(ひょうぶたいふ)大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人(とねり)が徒歩(かち)で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享(う)け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎(かげろ)うばかりである。資人の一人が、とっとと追いついて来たと思うと、主人の鞍(くら)に顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
柔らかく叱った。そこへ今(も)一人の伴(とも)が、追いついて来た。息をきらしている。
ふん。汝(わけ)は聞き出したね。南家(なんけ)の嬢子(おとめ)は、どうなった――。
出端(でばな)に油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄(はな)し方で、まともに鼻を蠢(うごめか)して語った。
当麻(たぎま)の邑(むら)まで、おととい夜(よ)の中に行って居たこと、寺からは、昨日午後横佩墻内(かきつ)へ知らせが届いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかったことまで。家持の聯想(れんそう)は、環(わ)のように繋(つなが)って、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであった。
南家で持って居た藤原の氏上(うじのかみ)職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移ろうとしている。来年か、再来年(さらいねん)の枚岡祭りに、参向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなって居る。恵美家からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子(だいいちじょうし)をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代って返し歌を作って遣した。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文(けそうぶみ)が、来ていた。
その壻候補(むこがね)の父なる人は、五十になっても、若かった頃の容色に頼む心が失せずにいて、兄の家娘にも執心は持って居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終(しょっちゅう)来る古刀自(ふるとじ)の、人のわるい内証話であった。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡(もた)げて来て困った。仲麻呂は今年、五十を出ている。其から見れば、ひとまわりも若いおれなどは、思い出にもう一度、此匂やかな貌花(かおばな)を、垣内(かきつ)の坪苑(つぼ)に移せぬ限りはない。こんな当時の男が、皆持った心おどりに、はなやいだ、明るい気がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統(すじ)で一番、神(かん)さびたたちを持って生れた、と謂(い)われる娘御である。今、枚岡の御神に仕えて居る斎(いつ)き姫(ひめ)の罷(や)める時が来ると、あの嬢子(おとめ)が替って立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだろう。
ほのかな感傷が、家持の心を浄(きよ)めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十(とお)を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾(や)んで居る太宰府へ降(くだ)って、夙(はや)くから、海の彼方(あなた)の作り物語りや、唐詩(もろこしうた)のおかしさを知り初(そ)めたのが、病みつきになったのだ。死んだ父も、そうした物は、或は、おれよりも嗜(す)きだったかも知れぬほどだが、もっと物に執著(しゅうじゃく)が深かった。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を悩まして居た。おれも考えれば、たまらなくなって来る。其で、氏人を集めて喩(さと)したり、歌を作って訓諭して見たりする。だがそうした後の気持ちの爽(さわ)やかさは、どうしたことだ。洗い去った様に、心が、すっとしてしまうのだった。まるで、初めから家の事など考えて居なかった、とおなじすがすがしい心になってしまう。
あきらめと言う事を、知らなかった人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑(すぐ)れた、と伝えられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてこうだろう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋(つなが)らず、段々気にかかるものが、薄らぎ出して来ている。
ほう これは、京極(きょうはて)まで来た。
朱雀大路も、ここまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも区画にも、家は建って居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍(やや)茎を立て初めたのとがまじりあって、屋敷地から喰(は)み出し、道の土までも延びて居る。
こんな家が――。
驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構えの家が、建ちかかって居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事(しごと)に這入(はい)ったらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形(じぎょう)が出来て、見た目にもさっぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代えた垣、此頃言い出した築土垣(つきひじがき)というのは、此だな、と思って、じっと目をつけて居た。見る見る、そうした新しい好尚(このみ)のおもしろさが、家持の心を奪うてしまった。
築土垣の処々に、きりあけた口があって、其に、門が出来て居た。そうして、其処から、頻(しき)りに人が繋っては出て来て、石を曳(ひ)く。木を搬(も)つ。土を搬(はこ)び入れる。重苦しい石城(しき)。懐しい昔構え。今も、家持のなくなしたくなく考えている屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となって、彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
おれには、だが、この築土垣を択(と)ることが出来ぬ。
家持の乗馬(じょうめ)は再、憂鬱(ゆううつ)に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角(まちかど)を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
こんなにも、変って居たのかねえ。
ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
……旧草(ふるくさ)に 新草(にひくさ)まじり、生ひば 生ふるかに――だな。
近頃見つけた歌□所(かぶしょ)の古記録「東歌(あずまうた)」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
そうだ。「おもしろき野(ぬ)をば 勿(な)焼きそ」だ。此でよいのだ。
けげんな顔を仰(あおむけ)けている伴人(ともびと)らに、柔和な笑顔を向けた。
そうは思わぬか。立ち朽(ぐさ)りになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
仰(おっしゃ)るとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋は蝗(いなご)まろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
今一人が言う。
建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣(つきひじがき)を築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年三形王(みかたのおおきみ)の御殿での宴(うたげ)に誦(くちずさ)んだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
うつり行く時見る毎に、心疼(いた)く 昔の人し 思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日の杜(もり)は、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋(みかさ)山・高円(たかまど)山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和(はるびより)になって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは迹(あと)を潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京(おおやまとへいせいけい)の土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、跨(またが)って居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、夥(おびただ)しい数の氏人などから、すっかり截(き)り離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人(おおやまとびと)である。おれには、憂鬱(ゆううつ)な家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心は饒(にぎ)わしく和らいで来て、為方がなかった。
おい、汝(わけ)たち。大伴氏上家(うじのかみけ)も、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
二人の声が、おなじ感情から迸(ほとばし)り出た。
年の増した方の資人(とねり)が、切実な胸を告白するように言った。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門(みかど)御垣(みかき)と、関係深い称(とな)えだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧(ごろう)じませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪(のろ)い申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族を蔑(ないがしろ)に致すことになりましょう。
こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持は忙(あわ)てて、資人の口を緘(と)めた。
うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談(じょうだん)だ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、晩(おそ)かれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群(へぐり)の丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
珍しい発見をしたように、彼は馬から身を翻(かえ)しておりた。二人の資人はすぐ、馳(か)け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かい柵(さく)をし囲(めぐ)らし、目隠しに枳殻(からたちばな)の叢生(やぶ)を作った家の外構えの一個処に、まだ石城(しき)が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
荒れては居るが、ここは横佩墻内(よこはきかきつ)だ。
そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとり毀(こぼ)たないとか申します。何分、帥(そつ)の殿のお都入りまでは、何としても、此儘(このまま)で置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女(いらつめ)のお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い魂(たま)や、霊(もの)が、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館(みたち)も、古いおところだけに、心得のある長老(おとな)の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。

   十

おとめの閨戸(ねやど)をおとなう風(ふう)は、何も、珍しげのない国中の為来(しきた)りであった。だが其にも、曾(かつ)てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老(とね)たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入(はい)れ相(そう)に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神(もの)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼(もの)との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲(す)むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚(はばか)りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸(しとみど)をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美(くわ)し女(め)の家に、奴隷(やっこ)になって住みこんだ古(いにしえ)の貴(あて)びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼神(もの)に入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあったし、田舎の村々では、之を言い立てに、ちっとでも、石城を残して置こうと争うた人々が、多かったのである。
そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。卅年も昔、――天平八年厳命が降(くだ)って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣(ちょうしん)が先って行わぬからである。汝等(みましたち)進んで、石城(しき)を毀(こぼ)って、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流の如き、今に旧態を易(か)えざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎(とが)めが降(くだ)った。此時一度、凡(すべて)、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡(もがさ)がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まず此時疫(じえき)に亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿(うまかいきょう)まで仆(たお)れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。其でまた、とり壊した家も、ぼつぼつ旧(もと)に戻したりしたことであった。
こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、現(うつつ)の恐しさであった。
其は其として、昔から家の娘を守った邑々(むらむら)も、段々えたいの知れぬ村の風に感染(かま)けて、忍(しの)び夫(づま)の手に任せ傍題(ほうだい)にしようとしている。そうした求婚(つまどい)の風を伝えなかった氏々の間では、此は、忍び難い流行であった。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。が、家庭の中では、母・妻・乳母(おも)たちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、呪(のろ)いやめなかった。
手近いところで言うても、大伴宿禰(すくね)にせよ。藤原朝臣(あそん)にせよ。そう謂(い)う妻どいの式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。
でも何時か、そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……
から謡い起す神語歌(かみがたりうた)を、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなって居た。
南家(なんけ)の郎女(いらつめ)にも、そう言う妻覓(つまま)ぎ人が――いや人群(ひとむれ)が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り残された石城の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み――たぶう――を犯すような危殆(ひあい)な心持ちで、誰も彼も、柵(さく)まで又、門まで来ては、かいまみしてひき還(かえ)すより上の勇気が、出ぬのであった。
通(かよ)わせ文(ぶみ)をおこすだけが、せめてものてだてで、其さえ無事に、姫の手に届いて、見られていると言う、自信を持つ人は、一人としてなかった。事実、大抵、女部屋の老女(とじ)たちが、引ったくって渡させなかった。そうした文のとりつぎをする若人―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱って居る事も、度々見かけられた。
其方(おもと)は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕え遊ばす、清らかな常処女(とこおとめ)と申すのだ、と言うことを知らぬのかえ。神の咎(とが)めを憚(はばか)るがええ。宮から恐れ多いお召しがあってすら、ふつにおいらえを申しあげぬのも、それ故だとは考えつかぬげな。やくたい者。とっとと失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率川(いざかわ)の一の瀬で浄めて来くさろう。罰(ばち)知らずが……。
こんな風に、わなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかった。横佩家(よこはきけ)の女部屋に住んだり、通うたりしている若人は、一人残らず一度は、経験したことだと謂(い)っても、うそではなかった。
だが、郎女は、ついに一度そんな事のあった様子も、知らされずに来た。
上つ方の郎女が、才(ざえ)をお習い遊ばすと言うことが御座りましょうか。それは近代(ちかつよ)、ずっと下(しも)ざまのおなごの致すことと承ります。父君がどう仰(おっしゃ)ろうとも、父御(ててご)様のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣(おむね)、とお思いつかわされませ。
氏の掟(おきて)の前には、氏上(うじのかみ)たる人の考えをすら、否みとおす事もある姥(うば)たちであった。
其老女たちすら、郎女の天稟(てんぴん)には、舌を捲(ま)きはじめて居た。
もう、自身たちの教えることものうなった。
こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母(むさのちおも)・桃花鳥野乳母(つきぬのまま)・波田坂上刀自(はたのさかのえのとじ)、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息(たんそく)し続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗(なかとみのしいのおむな)・三上水凝刀自女(みかみのみずごりのとじめ)なども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。
才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜(たも)れ。
素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。
何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口を挿(はさ)む。
唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂(たま)を揺(いぶ)る様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰を蒙(こうむ)らなければなりません。
こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃(たの)む知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手(おんなで)の写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母(ひおおば)にも当る橘(たちばな)夫人の法華経、又其御胎(おはら)にいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論(がっきろん)。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。
横佩大納言と謂われた頃から、父は此二部を、自分の魂のように大事にして居た。ちょっと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人(とねり)の荷として、持たせて行ったものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言わずにいたのである。さすがに我強(がづよ)い刀自たちも、此見覚えのある、美しい箱が出て来た時には、暫らく撲(う)たれたように、顔を見合せて居た。そうして後(のち)、後(あと)で恥しかろうことも忘れて、皆声をあげて泣いたものであった。
郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したような興奮は、認められなかった。唯一途(いちず)に素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。
其からは、此二つの女手の「本」を、一心に習いとおした。偶然は友を誘(ひ)くものであった。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺(あすかでら)―元興寺(がんこうじ)―から巻数(かんず)が届けられた。其には、難波にある帥(そつ)の殿の立願(りゅうがん)によって、仏前に読誦(とくしょう)した経文の名目が、書き列(つら)ねてあった。其に添えて、一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発(おこ)して、書き綴った「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠(こ)めたもの、と言うことは察せられる。其一巻が、どう言う訣(わけ)か、二十年もたってゆくりなく、横佩家へ戻って来たのである。
郎女の手に、此巻が渡った時、姫は端近く膝行(いざ)り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
難波とやらは、どちらに当るかえ。
と尋ねて、示す方角へ、活(い)き活(い)きした顔を向けた。其目からは、珠数の珠(たま)の水精(すいしょう)のような涙が、こぼれ出ていた。
其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本(おおやまと)びとなる父の書いた文(もん)。指から腕、腕から胸、胸から又心へ、沁(し)み沁(じ)みと深く、魂を育てる智慧の這入(はい)って行くのを、覚えたのである。
大日本日高見(おおやまとひたかみ)の国。国々に伝わるありとある歌諺(うたことわざ)、又其旧辞(もとつごと)。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くの語(かた)り詞(ごと)を、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々(のろのろ)しく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母(おも)や、嚼母(まま)たちの唱える詞(ことば)が、今更めいて、寂しく胸に蘇(よみがえ)って来る。
おお、あれだけの習しを覚える、ただ其だけで、此世に生きながらえて行かねばならぬみずからであった。
父に感謝し、次には、尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母(おおおば)の尊(みこと)に、何とお礼申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。だがまず、父よりも誰よりも、御礼申すべきは、み仏である。この珍貴(うず)の感覚(さとり)を授け給う、限り知られぬ愛(めぐ)みに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。郎女(いらつめ)は、塗香(ずこう)をとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣を薫(かお)るばかりに匂わした。

   十一

ほほき ほほきい ほほほきい――。
きのうよりも、澄んだよい日になった。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかっきりと、木草の影を落して居た。ほかほかした日よりなのに、其を見ていると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳(かげ)りもなく、晴れきった空だ。高原を拓(ひら)いて、間引いた疎(まば)らな木原(こはら)の上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったり降(さが)ったりして居る。たった一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けているのだ。
家の刀自(とじ)たちが、物語る口癖を、さっきから思い出して居た。出雲宿禰(いずものすくね)の分れの家の嬢子(おとめ)が、多くの男の言い寄るのを煩しがって、身をよけよけして、何時か、山の林の中に分け入った。そうして其処で、まどろんで居る中に、悠々(うらうら)と長い春の日も、暮れてしまった。嬢子は、家路と思う径(みち)を、あちこち歩いて見た。脚は茨(いばら)の棘(とげ)にさされ、袖(そで)は、木の楚(ずわえ)にひき裂かれた。そうしてとうとう、里らしい家群(いえむら)の見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物(きもの)も、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して来ている。嬢子はさくり上げて来る感情を、声に出した。
ほほき ほほきい。
何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかった。「おお此身は」と思った時に、自分の顔に触れた袖は袖ではないものであった。枯(か)れ原(ふ)の冬草の、山肌色をした小な翼であった。思いがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押えようとすると、自身すらいとおしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行ってしまって、替りに、ささやかな管のような喙(くちばし)が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考えさえもつかなかった。唯、身悶(みもだ)えをした。するとふわりと、からだは宙に浮き上った。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔(かけ)り昇って行く。五日月の照る空まで……。その後、今の世までも、
ほほき ほほきい ほほほきい。
と鳴いているのだ、と幼い耳に染みつけられた、物語りの出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。
郎女は、徐(しず)かに両袖(もろそで)を、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、褻(な)れ、皺立(しわだ)っているが、小鳥の羽には、なって居なかった。手をあげて唇に触れて見ると、喙でもなかった。やっぱり、ほっとりとした感触を、指の腹に覚えた。
ほほき鳥―鶯―になって居た方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原(しもとはら)へ入り込んだ。そうして、飛ぶ鳥になった。この身は、何とも知れぬ人の俤(おもかげ)にあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうして居る。せめて蝶飛虫(ちょうとり)にでもなれば、ひらひらと空に舞いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの――。
ほほき ほほきい。
自身の咽喉(のど)から出た声だ、と思った。だがやはり、廬(いおり)の外で鳴くのであった。
郎女の心に動き初めた叡(さと)い光りは、消えなかった。今まで手習いした書巻の何処かに、どうやら、法喜と言う字のあった気がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に、感(かま)けて鳴くのではなかろうか。そう思えば、この鶯も、
ほほき ほほきい。
嬉しそうな高音を、段々張って来る。
物語りする刀自たちの話でなく、若人らの言うことは、時たま、世の中の瑞々(みずみず)しい消息(しょうそこ)を伝えて来た。奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した、広いものであった。郎女の帳台の立ち処(ど)を一番奥にして、四つの間に、刀自・若人、凡(およそ)三十人も居た。若人等は、この頃、氏々の御館(みたち)ですることだと言って、苑(その)の池の蓮の茎を切って来ては、藕糸(はすいと)を引く工夫に、一心になって居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲(ま)いたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになって、水の反射が蔀(しとみ)を越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒(よ)る。
郎女は、女たちの凝っている手芸を、じっと見て居る日もあった。ほうほうと切れてしまう藕糸を、八合(こ)・十二合(こ)・二十合(はたこ)に縒って、根気よく、細い綱の様にする。其を績(う)み麻(お)の麻(お)ごけに繋(つな)ぎためて行く。奈良の御館でも、蚕(かうこ)は飼って居た。実際、刀自たちは、夏は殊にせわしく、そのせいで、不機嫌になって居る日が多かった。
刀自たちは、初めは、そんな韓(から)の技人(てびと)のするような事は、と目もくれなかった。だが時が立つと、段々興味を惹(ひ)かれる様子が見えて来た。
こりゃ、おもしろい。絹の糸と、績み麻との間を行く様な妙な糸の――。此で、切れさえしなければのう。
こうして績(つむ)ぎ蓄(た)めた藕糸は、皆一纏(ひとまと)めにして、寺々に納めようと、言うのである。寺には、其々(それそれ)の技女(ぎじょ)が居て、其糸で、唐土様(もろこしよう)と言うよりも、天竺風(てんじくふう)な織物に織りあげる、と言う評判であった。女たちは、唯功徳の為に糸を績いでいる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言う風に貯(たま)って来ると、言い知れぬ愛著(あいちゃく)を覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかった。
若人たちは茎を折っては、巧みに糸を引き切らぬように、長く長くと抽(ぬ)き出す。又其、粘り気の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるように、手際よく糸にする間も、ちっとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では、出来ぬ掟(おきて)になって居た。なっては居ても、物珍(ものめ)でする盛りの若人たちには、口を塞(ふさ)いで緘黙行(しじま)を守ることは、死ぬよりもつらい行(ぎょう)であった。刀自らの油断を見ては、ぼつぼつ話をしている。其きれぎれが、聞こうとも思わぬ郎女の耳にも、ぼつぼつ這入(はい)って来勝ちなのであった。
鶯の鳴く声は、あれで、法華経(ほけきょう)法華経(ほけきょう)と言うのじやて――。
ほう、どうして、え――。
天竺のみ仏は、おなごは、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、其果てに、女(おなご)でも救う道が開かれた。其を説いたのが、法華経じゃと言うげな。
――こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思おうけれど、でも、世間では、そう言うもの――。
じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるといの。
ほんまにその、天竺(てんじく)のおなごが、あの鳥に化(な)り変って、み経の名を呼ばるるのかえ。
郎女(いらつめ)には、いつか小耳に挿(はさ)んだ其話が、その後、何時までも消えて行かなかった。その頃ちょうど、称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう)を、千部写そうとの願を発(おこ)して居た時であった。其が、はかどらぬ。何時までも進まぬ。茫(ぼう)とした耳に、此世話(よばなし)が再また、紛(まぎ)れ入って来たのであった。
ふっと、こんな気がした。
ほほき鳥は、先の世で、御経(おんきょう)手写の願を立てながら、え果さいで、死にでもした、いとしい女子がなったのではなかろうか。……そう思えば、若(も)しや今、千部に満たずにしまうようなことがあったら、我が魂(たま)は何になることやら。やっぱり、鳥か、虫にでも生れて、切なく鳴き続けることであろう。
ついに一度、ものを考えた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまま、何も知らず思わずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性(にょしょう)の間に、蓮(はちす)の花がぽっちりと、莟(つぼみ)を擡(もた)げたように、物を考えることを知り初(そ)めた郎女であった。
おれよ。鶯よ。あな姦(かま)や。人に、物思いをつけくさる。
荒々しい声と一しょに、立って、表戸と直角(かね)になった草壁の蔀戸(しとみど)をつきあげたのは、当麻語部(たぎまのかたり)の媼(おむな)である。北側に当るらしい其外側は、□(まど)を圧するばかり、篠竹(しのだけ)が繁って居た。沢山の葉筋が、日をすかして一時にきらきらと、光って見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃(ひらめ)き過ぎた色を、瞼(まぶた)の裏に、見つめて居た。おとといの日の入り方、山の端に見た輝きが、思わずには居られなかったからである。
また一時(いっとき)、廬堂(いおりどう)を廻って、音するものもなかった。日は段々闌(た)けて、小昼(こびる)の温(ぬく)みが、ほの暗い郎女の居処にも、ほっとりと感じられて来た。
寺の奴(やっこ)が、三四人先に立って、僧綱(そうごう)が五六人、其に、大勢の所化(しょけ)たちのとり捲(ま)いた一群れが、廬へ来た。
これが、古(ふる)山田寺だ、と申します。
勿体ぶった、しわがれ声が聞えて来た。
そんな事は、どうでも――。まず、郎女さまを――。
噛みつくようにあせって居る家長老(いえおとな)額田部子古(ぬかたべのこふる)のがなり声がした。
同時に、表戸は引き剥(は)がされ、其に隣った、幾つかの竪薦(たつごも)をひきちぎる音がした。
ずうと這い寄って来た身狭乳母(むさのちおも)は、郎女の前に居たけを聳(そびや)かして、掩(おお)いになった。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人(あてびと)の姿を暴(さら)すまい、とするのであろう。伴(とも)に立って来た家人(けにん)の一人が、大きな木の叉枝(またぶり)をへし折って来た。そうして、旅用意の巻帛(まきぎぬ)を、幾垂れか、其場で之に結び下げた。其を牀(ゆか)につきさして、即座の竪帷(たつばり)―几帳(きちょう)―は調った。乳母(おも)は、其前に座を占めたまま、何時までも動かなかった。

   十二

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良に還(かえ)って、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、寺の奴ばらを追い払って貰うとまで、いきまいた。大師を頭(かしら)に、横佩家に深い筋合いのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願わずには置かぬ、と凄い顔をして、住侶(じゅうりょ)たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢(けが)し、結界まで破られたからは、直にお還りになるようには計われぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖(あがな)いはして貰わねばならぬ、と寺方も、言い分はひっこめなかった。
理分に非分にも、これまで、南家の権勢でつき通してきた家長老(おとな)等にも、寺方の扱いと言うものの、世間どおりにはいかぬ事が訣(わか)って居た。乳母に相談かけても、一代そう言う世事に与った事のない此人は、そんな問題には、詮(かい)ない唯の女性(にょしょう)に過ぎなかった。
先刻(さっき)からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
其は、寺方が、理分でおざるがや。お随(おしたが)いなされねばならぬ。
其を聞くと、身狭乳母は、激しく、田舎語部の老女を叱りつけた。男たちに言いつけて、畳にしがみつき、柱にかき縋(すが)る古婆(ふるばば)を掴(つか)み出させた。そうした威高さは、さすがに自(おのずか)ら備っていた。
何事も、この身などの考えではきめられぬ。帥(そつ)の殿(との)に承ろうにも、国遠し。まず姑(しば)し、郎女様のお心による外はないもの、と思いまする。
其より外には、方(ほう)もつかなかった。奈良の御館(みたち)の人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴いてする人々である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。
郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤(もっとも)、寺方でも、候人(さぶらいびと)や、奴隷(やっこ)の人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案お洩(もら)し遊ばされ。
謂(い)わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母(おも)も、子古も、凡(およそ)は無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返(こだまがえ)しの様に、躊躇(ためら)うことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、凛(りん)としていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。
姫の咎(とが)は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
郎女の声・詞(ことば)を聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか此ほどに、頭の髄まで沁(し)み入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母(ちおも)だった。
寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此爽(さわ)やかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまで賢(さか)しい魂を窺(うかが)い得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだ曾(かつ)て覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。
ともあれ此上は、難波津(なにわづ)へ。
難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅(しらぎ)問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。
万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏(ほふく)した。
子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々(うらうら)と照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。
暴風雨(あらし)の夜、添下(そうのしも)・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎(かげろう)も立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長く靡(なび)いて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々(いよいよ)遠く裾を曳(ひ)いて見えた。早い菫(すみれ)―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女(いらつめ)は、膝を叢(くさむら)について、じっと眺め入った。
これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来(しきた)りになって居た。
蓮(はちす)の花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広い萼(うてな)の上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。
夕風が冷(ひや)ついて参ります。内へと遊ばされ。
乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖(なぎ)の幾重も重った上に、二上の男岳(おのかみ)の頂が、赤い日に染って立っている。
今日は、又あまりに静かな夕(ゆうべ)である。
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