翁の発生
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著者名:折口信夫 

     一 おきなと翁舞ひと

翁の発生から、形式方面を主として、其展開を考へて見たいと思ひます。しかし個々の芸道特有の「翁」については、今夜およりあひの知識の補ひを憑む外はないのであります。翁芸を飛躍させたのは、猿楽であります。翁が、田楽の「中門口(チユウモングチ)」に相当する定式の物となつた筋道が、幾分でも訣つて貰へるやうに致したいと存じます。
おきなと言ふ語(ことば)は、早くから芸能の上に分化したおきなの用語例の印象をとり込んでゐます。尠くとも我々の観念にあるおきなは、唯の老夫ではない。芸道化せられたおきなを、実在のおきなに被せたものなのであります。
おきな・おみな(媼)の古義は、邑国の神事の宿老(トネ)の上位にある者を言うたらしい。おきな・おみなに対して、をぐな・をみなのある事を思ひ併せると、大(お)・小(を)の差別が、き(く)・み(む)の上につけられてゐる事が知れます。つまりは、老若制度から出た社会組織上の古語であつたらしいのです。舞踊(アソビ)を手段とする鎮魂式が、神事の主要部と考へられて来ると、舞人の長なるおきなの芸能が「翁舞」なる一方面を分立して来ます。雅楽の採桑老(サイシヨウラウ)、又はくづれた安摩(アマ)・蘇利古(ソリコ)の翁舞と結びついて、大歌舞(オホウタマヒ)や、神遊びの翁が、日本式の「翁舞」と認められたと見ても宜しい。
尾張ノ浜主の
翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でゝ舞ひてむ(続日本後紀)
と詠じた舞は、此交叉時にあつたものと思ひます。翁舞を舞ふ翁の意で、唯の老夫としての自覚ではなさ相です。おきなさぶと言ふ語も、をとめさぶ・神さぶと共に、神事演舞の扮装演出の適合を示すのが、元であつた様です。
翁さび、人な咎めそ。狩衣、今日ばかりとぞ 鶴(タヅ)も鳴くなる
と在原の翁の嘆じた、と言ふ歌物語の歌も、翁舞から出た芸謡ではなかつたでせうか。古今集の雑の部にうんざりする程多い老い人の述懐も、翁舞の詠歌と見られぬ事もない。私など「在原」を称するほかひ人の団体があつて、翁舞を演芸種目の主なものにしてゐたのではないかとさへ思うて居ます。
山姥が山の巫女であつたのを、山の妖怪と考へた様に、翁舞の人物や、演出者を「翁」と称へる様になり、人長(ニンヂヤウ)(舞人の長)の役名ともなり、其表現する神自体(多くは精霊的)の称号とも、現じた形とも考へる様になつて行つたものであります。
だから「翁」は、中世以後、実生活上の老夫としてのみ考へる事が出来なくなつてゐるのです。
此夜話の題目に択んだ翁は、其翁舞の起原を説いて、近世の歪んだ形から、元に戻して見る事に落ちつくだらう、と思ひます。

     二 祭りに臨む老体

二夏、沖縄諸島を廻つて得た、実感の学問としての成績は、翁成立の暗示でした。前日本を、今日に止めたあの島人の伝承の上には、内地に於ける能芸化せられた翁の、まだ生活の古典として、半、現実感の中に、生きながらくり返されてゐる事を見て来たのです。
私は日本の国には、国家以前から常世神(トコヨガミ)といふ神の信仰のあつた事を、他の場合に度々述べました。此は「常世人」といつた方がよいかと思はれる物なのです。斉明天皇紀に見えてゐるのが、常世神の文字の初めでありますが、此は、原形忘却後の聯想を交へて来た様で、其前は思兼神も、少彦名命も、常世の神でした。然し純化しない前の常世人は、神と人間との間の精霊の一種としたらしいのが、一等古い様であります。
元来ひとと言ふ語の原義は、後世の神人に近いので、神聖の資格をもつて現れるものゝ義である、と思ひます。顕宗紀の室寿詞は「我が常世(トコヨ)たち」の文句を結んでゐます。此は、正客なる年高人(トシタカビト)を讃頌した語なのです。常世の国人といふことから、常世の国から来る寿命の長い人、唯の此世の長生の人と言ふ義になつて来たのです。
日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。
田植ゑ祭りに臨むさつきの神々なども迎へられ、季節々々の交叉期(ユキアヒ)祭りには、邪気退散の呪法を授けるか、受けるか分らぬ鬼神も来る様になりました。さうしたまれに而も、頻々とおとづれるまれびと神も、元は年の交叉点に限つて姿を現したものでした。此等の常世人の、村の若者に成年戒を授ける役をうけ持つてゐた痕が、あり/\と見えてゐます。春祭りの一部分なる春田打ちの感染所作(カマケワザ)は、尉と姥が主役でした。これの五月に再び行はれる様になつたのが「田遊び」です。此にも後に、田主(タアルジ)などゝ言ふ翁が出来ますが、主要部分は変つて居ます。簑笠着た巨人及び其伴神(トモガミ)なる群行神の所作や、其苛役を受けて鍛へ調へられる早処女(サウトメ)の労働、敵人・害虫獣等の誓約の神事劇舞(ワザヲギ)などが其です。此が田楽の基礎になつた「田遊び」の本態で、其呪師(ノロンジ)伎芸複合以前の形です。
高野博士が「呪師猿楽」なる芸能の存在を主張せられたのは、敬服しないでは居られません。但、本芸が呪師で、其くづれ・脇芸とも言ふべきのが、呪師に入つた猿楽で、唯呪師とも言ひ、呪師猿楽とも並称したらしく思はれます。此「呪師猿楽」が、田遊び化して田楽になつたとするのが、私の考へです。だが一口には、田楽は五月の田遊びから出てゐると申してよろしい。此猿楽は、田楽では、もどきと言ふ脇役に、俤を止めました。能楽と改称した猿楽能では、狂言方とまで、変転を重ねて行きました。わき方も、勿論此から出たのです。結論に近い事を申しますと、翁も純化はしましたが、やはり此で、黒尉(クロジヨウ)は猿楽の原形を伝へてゐる、と申してよろしいのです。
猿楽の用語例の一部分には、武家以前古くから興言利口などゝ言ふべき、言ひ立て又は語りの義があります。興言利口も、其根本になるべき話材までも、さう言ふ様になりました。此は、狂言の元の宛て字が興言であると共に猿楽の、言と能との二方面に岐れる道を示すものです。能楽が専ら猿楽と称へられたのは、此方面が主となつてゐたからかと思ひます。故事語りに曲舞の曲節をとりこみ、ことほぎのおどけ言ひ立てを現実化したのが、猿楽の表芸を進展させた次第であります。能芸の方は寧先輩芸道なる曲舞・田楽の能などからとり込んだらしいのです。
猿楽能に於ける翁は、此言ひ立て・語りを軽く見て、唱門師(シヨモジン)一派の曲舞(の分流)から出て、反閇(ヘンバイ)芸を重くした傾きがあります。だが、元々、猿楽と言つても、田楽の一部にも這入つて居たのです。だから、田楽にも、その演芸種目の中に猿楽が這入つてゐたのです。此が呪師芸や、其後身なる田楽のわき役(もどき役、同時に狂言方)から独立して来たものと思ひます。
だから、田楽にも、翁の言ひ立てや語りがあつたらしいのです。唯、田楽能をまるどりして、自立したにしても、猿楽能自身の特色がなくてはなりませぬ。其は、翁の本家であつた、と言ふことです。語りの方は、開口(カイコウ)や何々の言ひ立ての側に岐れて行つたのでせう。開口も、何々の言ひ立ても、元は翁の中に含まつて居たと見えるのです。奈良に残つた比擬開口(モドキカイコウ)や、江戸柳営の脇方の開口の式なども、同じ岐れです。其もどきと言ひ、脇方の勤めると言ふのは、事実の裏書きであります。此脇方――並びに狂言方の――翁一流の式に対する関係や、翁が最古式を保つてゐるとの信仰は、猿楽がわき芸であつた事を、暗示してゐるのではないでせうか。田楽と違ふ点は、念仏踊りの要素を多く含んだ彼に対して、神事舞としての部分を重く見てゐる点にある、と言へます。
冬の鎮魂を主とし、春田打ちに関係の深いのが、猿楽の、呪師習合以前の姿なのです。田植ゑに臨む群行神の最古の印象は、記・紀のすさのをの命の神話の外に、播磨風土記には統一のない形の、数多い説話として残つてゐます。此間に、常世人自身も、海の彼方から来ると信じられたものが、天から降ると考へられる様になり、山に住む巨人とせられる様にもなつて行きました。従つて、常世人と言ふ名も変り、其形貌性格や対人地位なども易つて行く一方には、原形に止り、或は、二つの形を複合した信仰も出て来ました。
我々の研究法は、経験を基調としたものであります。資料の採訪も、書斎の抜き書きも、皆、伝承の含む、ある昔の実感を誘ふ為に過ぎません。実感による人類史学と言ふべきものなのです。一芸能の翁に拘泥せず、田楽・神楽・歌舞妓其他の現在芸能は固より呪師田楽以前の神事・劇舞踊などに現れた翁の形態の知識の上に、更に、其現に行はれてゐる演出の見学から、体験に近い直観を得ねばなりますまい。沖縄の島渡りをして、私の見聞きしたのは、此から話さうとする三つの型でありました。

     三 沖縄の翁

祖先考妣の二位の外に、眷属大勢群行して、家々をおとなふ形。盂蘭盆の行事である(一)。海上或は洞穴を経て、他界の異形(又は荘厳な姿)の、人に似た霊物が来て、村・家を祝福する形。清明節其他、祭りの日にある(二)。村の族長なる宗家の主人並びに一門中の代表者と見なされる群衆を伴うた、前族長なる長者が踊り場へ来て、村を祝福するのを一番として、村々特有の狂言(チヤウゲン)(能狂言・俄などに似た)を行うて、後は芸尽しになる。村によれば、長者の一行が舞台に来ると、家長の挙げる扇に招かれて、海の彼方の富みの国から、其主神が来て、穀物の種を与へて去る式をする処もある。此神の名は儀来(ニライ)の大主(ウフヌシ)、長者の名は長者の大主(ウフヌシ)、家長の名は親雲上(ペイチン)と言ふ。童満祭(ワラビミチ)に行ふ(三)。私の目で見た知識よりも、更に大きな補助を、島袋源七・比嘉春潮二氏の報告から得ました。
此中で(一)は最、常世人に近い形であります。海の彼方なる大(オホ)やまと――又は、あんがまあと言ふ国があると考へたのが変じて、其行事又は群行の名としたのらしい――から、祖霊の男女二体及び、其他故人になつた村人の亡霊の来る日を、盂蘭盆に習合したので、其又一つ前には、初春を意味する清明節に、常世人として来た事が考へられます。此中心になる大主前(ウシユメイ)と言はれる老夫――老女(アツパア)を伴ふ――が時々立つて、訓戒・教導・祝福などを述べるのであります。其間に、眷属どもの芸尽しがあります。
此からしても、内地の古記録から考へられる常世のまれびとの元の姿はやゝ、明るくなつて来ます。
◇ピンチです!◇
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