琉球の宗教
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著者名:折口信夫 

火の神と言ふ名は、高級巫女の住んでゐる神社類似の家、即、聞得大君御殿(チフイヂンオドン)・三平等(ミヒラ)の「大阿母(ウフアム)しられ」の殿内(トヌチ)では、お火鉢の御前(オマヘ)と言ふ事になつて居た。
尚(シヤウ)王家の宗廟とも言ふべき聞得大君御殿(チフイヂンオドン)並びに、旧王城正殿百浦添(モンダスイ)の祭神は、等しく御日(オチダ)・御月(オツキ)の御前(オマヘ)・御(オ)火鉢の御前(オマヘ)(由来記)であるが、女官御双紙(オサウシ)などによると、御(オ)すぢの御前(オマヘ)・御火鉢の御前(オマヘ)・金の美御(ミオ)すぢの御前(オマヘ)の三体、と言ふ事になつて居る。伊波普猷氏は、御(オ)すぢの御前(オマヘ)を祖先の霊、御火鉢の御前(オマヘ)を火の神、金の美御すぢを金属の神と説いて居られる。前二者は疑ひもないが、金の美おすぢは、日月星辰を鋳出した金物の事かと思はれる節〔荻野仲三郎氏講演から得た暗示〕がある。併し語どほりに解すると、かねは、おもろ・おたかべの類に、穀物の堅実を祝福する常套語で、又かねの実(ミ)ともいふ。みおすぢの「み」が「実(ミ)」か「御(ミ)」かは判然せぬが、いづれにしても、穀物の神と見るべきであらう。或は、由来記を信じれば、月神が穀物の神とせられてゐる例は、各国に例のあること故、御月(オツキ)の御前(オマヘ)に宛てゝ考へることが出来さうである。
御すぢの御前は、琉球最初の陰陽神たるあまみきょ・しねりきょの親神なる太陽神即、御日(オチダ)の御前(オマヘ)を、祖先神と見たのだと解釈せられよう。琉球神道の主神は、御日(オチダ)の御前(オマヘ)で、やはり太陽崇拝が基礎になつてゐる。国王を、天加那志(チダカナシ)(又は、おちだがなし、首里ちだがなし)と言ふのも、王者を太陽神の化現即、内地の古語で言へば、日のみ子と見たのであるらしい。
祖先崇拝の盛んな事、其を以て、国粋第一と誇つてゐる内地の人々も、及ばぬ程である。旧八月から九月にかけて、一戸から一人づゝ、一門中一かたまりになつて遠い先祖の墓や、一族に由緒ある土地・根所、其外の名所・故跡を巡拝して廻る神拝みと言ふ事をする。首里・那覇辺から、国頭(クニガミ)の端まで出かける家すらある。単に此だけで、醇化せられた祖先崇拝と言ふ事は出来ない。常に其背後には、墓に対する恐怖と、死霊に対する諂(コ)び仕への心持ちが見えてゐる。

     六 神地

琉球神道では、神の此土に来るのは、海からと、大空からとである。勿論厳密に言へば、判然たる区別はなくなるのであるが、ともかく此二様の考へはある様である。空から降ると見る場合を、あふり・あをり・あもりなど言ふ。皆天降(アモ)りと一つ語原である。山や丘陵のある場合には、其に降るのが、古式の様だが、平地にも降る事は、間々ある。但、其場合は喬木によつて天降るものと見たらしい。蒲葵(クバ)(=びらう)の木が神聖視されるのは、多く此木にあふりがあると見たからである。蒲葵の木が、最神聖な地とせられてゐる御嶽(オタケ)の中心になり、又さなくともくば・こぼう・くぼうなど言ふ名を負うた御嶽の多いのは、此信仰から出たのである。
神影向の地と信じて、神人の祭りの時に出入(でいり)する外、一切普通の人殊に男子を嫌ふ場処が、御嶽(オタケ)である。神は時あつて、此処に凉傘(リヤンサン)を現じて、其下にあふるのである。首里王朝の頃は、公式に凉傘(リヤンサン)の立つ御嶽と認められて居たものは、極つて居た。併し、間切々々(マギリ/″\)の御嶽の神々も、凉傘(リヤンサン)を下してあふるのが、古風なのである。御嶽のある地を、普通森(モリ)といふ。「もり」は丘陵の事である。高地に神の降るのが原則である為の名に違ひない。其が、内地の杜(モリ)と同じ内容を持つ事になつたのである。
神は御嶽(オタケ)に常在するのではないが、神聖視する所から、いつでも在(イマ)す様に考へられもする。内地の杜々(モリ/\)の神も、古くは社を持たなかつたに相違ない。三輪の如きは「三輪の殿戸」の歌を証拠として、社殿の存在した事を主張する人も出て来たが、あの歌だけでは、此までの説を崩すまでにはゆかぬ。杜(モリ)・神南備(カムナビ)などは、社殿のないのが本体で、社あるは、家(ヤカ)つ神(ガミ)或は、梯立で昇り降りするほくらの神から始まるのである。社ある神と、ない神とが、同時に存在したのは、事実である。社殿に斎(いつ)かなかつた神は、恐らく御嶽と似た式で祀られてゐたものであらう。
処によつては、極めて稀に、御嶽の中に、小さな殿を作つてゐる処もある。此は必、祭儀の必要から出来たもので、神の在り処でないであらう。
御嶽は、神人(カミンチユ)の外は入れない地方と、女ならば出入を自由にしてあるところとがある。女には、神人となる事の出来る資格を認めるからと思はれる。どの地方でも、男は絶対に禁止である。島尻の斎場(サイフア)御嶽でも、近年までは、女装を学ばねば這入れぬ事になつてゐた。
大きな御嶽(オタケ)なら、其中に、別に歌舞(アソビ)をする場処がある。久高の仲の御嶽(オタケ)の如きが其である。併し多くは、其為に神あしゃげがある。
神あしゃげ多くは、神あさぎと言ふ。神あしあげの音転である。建て物の様式から出た名であらう。此建て物は、原則として、柱が多く、壁はなく、床を張らぬ事になつてゐる。天地根元宮造りの、掘(ホ)つ立ての合掌式の、地上に屋根篷(トマ)の垂れたのから、一歩進めたものであらう。古式なのは、桁行(ケタユキ)長く、梁間(ハリマ)の短い三尺位の高さのもので、地に掘つ立てた数多い叉木(マタギ)で、つき上げた形に支へられてゐる。つまり伏せ廬の足をあげたものであるからの名と思はれる。此式は国頭(クニガミ)地方に多いが、外の地方は、大抵屋根は瓦葺き、柱は厚さの薄い物に、緯(ヌキ)を沢山貫いて、柱間一つだけを入り口として開けてゐる。勿論丈も高くなつて、屈むに及ばない。中はたゝきになつて居て、一隅に火の神の三つ石を、炉の形にした凹みに据ゑてある。大抵御嶽(オタケ)からは遠く、祝女殿内(ノロドンチ)からは近い。御嶽(オタケ)に影向あつたり、海から来た神を迎へて、此処で歌舞(アソビ)をする。其中では、祝女(ノロ)を中心に、根神おくで其他の神人(カミンチユ)が定まつた席順に居並ぶ。其中のあすびたもとと言ふ神人(カミンチユ)が、のろ等の謳ふ神歌(オモロ)(おもろ双紙の内にあるものでなく、其地方々々の神人の間に伝承してゐるもの)で、舞ふのである。舞ふのは勿論、右のあしゃげ庭(ナア)と言ふ建て物の外の広場でゞある。又、唯あしゃげとばかり言ふ建て物がある。此は、根所々々の先祖を祀つてゐる建て物で、一軒建ちの、住宅と殆ど違ひのない、床もかいてある物である。此は正しくは、殿と言ふべきもので、根所之殿・里主所之殿など、書物にあるのが、其であらう。
殿(トノ)(又、とん)と言ふのにも、色々ある。右のやうな殿もあり、又、祝女殿内(ノロドンチ)(ぬるどのち=ぬんどんち)の様に、祝女の住宅を斥(サ)す事もある。が、畢竟、神を斎いてあるからの名で、なみの住宅には、殿とは言はぬ。琉球神道では、旧跡を重んじて、城趾・旧宅地などの歴史的の関係ある処には、必殿を建てゝ、祭日にのろ以下の神人の巡遊には、立ちよつて一々儀式がある。
殿・あしゃげと区別のない建て物か、又建て物なしに必拝む場処がある。其が海中である事も、道傍の塚である事も、崖の窟(ガマ)である事もある。総称してをがんといふ。拝所即をがみである。
人形遣ひをちょんだらあと言ひ、其子孫を嫌つてゐるが、此に似て一種の特殊部落の如きねんぶつちゃあと言ふのが、首里の石嶺に居る。此は葬式の手伝ひをし、亦人形を遣ふ。人形を踊らせる箱をてらと称するが、内地のほこらと同じやうなもので、寺とは全く違うてゐる。

     七 神祭りの処と霊代と

神の目標となるものは香炉である。建築物の中には、三体の火の神(カン)が置かれてあると同様に、神の在す場所には、必香炉が置いてある。それ故、その香炉の数によつて、家族の集合して居る数が知れる。琉球の遊廓へ、税務所の官吏が出張して尾類(ズリ)(遊女)の数を見定めるには、竈の側に置いてある香炉の数で知る事が出来ると言ふ。
香炉は、其置く場所を、臨時に変へることは出来ない。女は各自、必香炉を所有して居る。女には、香炉は附き物である。香炉がなければ、神の在る所がわからない。其ほど、香炉に対する信仰がある。形は壺の如きものや、こ穢い茶碗の縁の欠けた物等が、立派に飾られてある。香炉がある所には、神が存在すると信じて居る故、香炉が神の様になつて居る。拝所には、幾種類もの香炉がある。八重山のいびと言ふ語は、香炉の事であると思ふが、先輩の意見は各異つて居る。
八重山には、御嶽に三つの神がある。又、かみなおたけ・おんいべおたけと言ふのがある。八重山のみ、いび又はいべと言ふ事を言ふが、他所のいびとうぶとは異つて居る。うぶは、奥の事である。沖縄では、奥武と書いて居る。どれがいびであるか、厳格に示す事は出来ないが、うぶの中の神々しい神の来臨する場所と言ふ意味であると思ふ。八重山の老人の話では、御嶽のうぶではなくて、門にある香炉であると言つて居る。即、香炉を神と信ずる結果、香炉自体をいびと言ふのである。処が火の神にも香炉がある。中には香炉だけの神もあるが、要するに自然的に香炉を神と信じて居る。其香炉が、又幾つにも分れる。香炉が分れるけれども、分れたとは言はないで、彼方の神を持つて来たと言ふ、言ひ方をする。つまり、嫁に行つたり、比較的長い間家を出て居るものは、香炉を作つて持つて行く。尾類(ズリ)(遊女)は、此例によつて、香炉を各自持参するのである。
沖縄には、遥拝所がある。三平(ミヒラ)の大阿母(ウフアム)しられの殿内(ドンチ)即、南風(ハエ)の平(ヒラ)には首里殿内(シユンドンチ)、真和志の比等(ヒラ)には真壁殿内(マカンドンチ)、北(ニシ)の比等(ヒラ)には儀保殿内(ギボドンチ)なる巫女の住宅なる社殿を据ゑ、神々のおとほしとして祀つてある。即、遠方より香炉を据ゑて、本国の神を遥拝するのである。此遥拝する事から、色々の問題が出て来る。例へば、祝(ノロ)の家にも香炉があり、御嶽にも香炉がある。のろは、家の香炉に線香を立てゝ御嶽に行く。時によると、香炉を中心にして社を造る事がある。沖縄の辺でも、久高島を遥拝する為に、べんが御嶽を作つて居り、八重山の中でも、よなぎ島より来た人々は、よなぎおほんを作り、宮良村では、小浜村より渡来したのであるから、小浜おほんを作り、各香炉を据ゑて、遥拝所として居る。又、白保(スサブ)村の波照間おほんの如きも其である。此等は皆、御嶽に属して居るけれども、個人で言へば、尾類(ズリ)が竈に香炉を置いて遥拝するのと同様である。
一族の神を祀るは、女の役目である。其家の香炉を拝するのは、其家の女であると言ふ観念が先入主となつて、女の旅行には必、此香炉を持つて行く。此は男にはよく訣らないが、女は秘密裡に此等を保存して居る。家によると、香炉が沢山ある所がある。中には、理由の訣らぬ香炉が出て来る。大昔、其家を造つたと称する者の香炉が二つある。嫁した娘の若死によつて、持つて行つた香炉が戻つて来る。さうして居る間に、何年も経ると理由の訣らぬ香炉が出来て来る。八重山では、香炉の格好が大分異つて来る。香炉に、ふんじんと、かんじん(又はこんじん)の二種類がある。ふんじんは、其家の分れて後の先祖を祀るもので、本神とも言ふ意味である。こんじんの名義は不明である。かんじんは、女でなければ触れる事すら出来ない。其に供へた物は、女のみが食し得るものである。此は女でなければ、供へ物をする事は出来ないと言ふ意味である。かんじんは、女の人の喰べ余りと言ふ解釈にもなる。かんじんは、女の嫁入りする時に持つて行く。而して、仏壇が別である。ふんじんは男も拝する事が出来るけれども、かんじんは女の専有物である。
沖縄本島では、自分の家の香炉を有つて来ても、別の場所に置いてある。自分の家の神は亭主が祀つてもよいが、嫁の持つて来た香炉は、女以外の人間の、全くどうする事も出来ないものである。こんじんは、根神より出たものではなからうかと思ふ。

     八 色々の巫女

琉球の神話では、天地の初め、日の神下界を造り固めようとして、あまみきょ・しねりきょに命じて、数多くの島を造らせた。それが後の有名な御嶽或は、森となつた。さうして其二柱の産んだ三男・二女が、人間の始めとなつてゐる。長男は国主の始め、二男は諸侯の始め、三男は百姓の始め、長女は君々(キミ/″\)の始め、二女は祝々(ノロ/\)の始めと称せられてゐる。
のろは、始終ゆたと対照して考へられる所から、君々(キミ/″\)はゆたの元と考へられ勝ちであるが、男の方でも、三つの階級に分けて考へてゐる以上、女の方も亦、上級・下級二組の区別を見せたものと見てよいはずである。君(キミ)と祝(ノロ)とは、女官御双紙を見ても知れるやうに、琉球の女官と言ふ考へには、普通の后妃・嬪・夫人以下の女官と聞得大君(キコエウフキミ)・島尻の佐司笠按司(サスカサアジ)・国頭の阿応理恵按司(アオリヱアジ)などの神職を等しく女官として登録してゐる。思ふに君(キミ)と言ふのは、右の三神職の外に、首里三比等(ミヒラ)の大阿母(ウフアム)しられ其他、歴史的に意味のついてゐる地方の大阿母(ウフアム)・阿母加奈志(アンガナシ)(伊平屋島)・君南風(ミキハエ)(久米島)など言ふ重い巫女たちを斥すものであらう。君南風(キミハエ)は、南君と言ふのと同じ後置修飾格で、南方に居る高級巫女の意である。毎年十二月、君々(キミ/″\)御玉改めと言ふ事があつて、三平等(ミヒラ)の大阿母(ウフアム)しられの玉かわら(巫女のつける勾玉)を調べたよし、由来記に見えてゐる。又、君(キミ)に三十三人あつた事は、女官御双紙に出てゐる。君々(キミ/″\)の祖、祝々(ノロ/\)の祖とあるのは、巫女の起原を説いたので、巫女に高下あるのは、其祖の長幼の順によつたのだ、とするのである。
女官の中、皇后の次に位し、巫女では最高級の聞得大君(チフイヂン)(=きこえうふきみ)は、昔は王家の処女を用ゐて、位置は皇后よりも高かつたのを、霊元院の寛文七年に当る年、席順を換へたのである。王家の寡婦が、聞得大君(チフイヂン)となる事になつたのも、可なり古くからの事と思はれる。昔は、琉球神道では、巫祝の夫を持つ事を認めなかつたのであらうが、段々変じて、二夫に見(まみ)えない者は、許す事になつたのである。地方豪族の妻を大阿母(ウフアム)・祝女(ノロ)などに任じた事も、可なり古くからの事らしい。唯形式だけでも、いまだに、独身を原則として居るのは、国頭(クニガミ)の巫女たちで、今帰仁(ナキジン)の阿応理恵(アオリヱ)は独身、辺土のろは表面独身で、私生の子を育てゝゐる。其外のろの夫の夭折を信じてゐる事も、国頭地方に強い。神の怨みを受けると信じてゐたのである。此は、国頭(クニガミ)地方が、北山時代からの神道を伝へて、幾分、中山・南山の神道と趣きを異にしてゐる所があるからであらう。久高島では、結婚の時、嫁が壻を避けて逃げ廻る習慣があつたが、其は夜分のことで、昼の間は現れて為事を手伝うたりした。夜になつて壻が大勢の友人と嫁を捜すのをとじとめゆん即嫁(ヨメ)さがしと称する。此島には現在のろが二人居るが、其一人の老婆は、七十余日の間逃げ廻つたと言ふので有名である。
聞得大君(チフイヂン)は、我が国の斎宮・斎院と同じ意味のもので、其居処聞得大君御殿(チフイヂンオドン)は、琉球神道の総本山の様な形があつた。此琉球の斎王が、皇后の上に在つたと言ふ事は、琉球の古伝説に数多い、巫女と巫女の兄なる国主・島主の話を生み出した根元の、古代習俗であつたのである。
久高島の結婚の時に合唱する謡
女神殿(ヰナグメガナサ)は、君(キミ)の愛(メデ)(?)。男神殿(ヰキガミガナサ)は、首里殿愛(スンヂヤナシメデ)。
と言ふ文句は、新郎なる此島男は、国王に愛せられむ。新婦なる此女は、聞得大君(チフイヂン)に愛せられむとの意であらう。民間伝承にすら、此様に国王と、聞得大君とを双べ考へてゐる。
琉球本島を分けどつてゐた、昔の北山・南山・中山の三国は、各大同であつて小異を含んだ神道を持つてゐて、中山は聞得大君、南山は佐司笠按司(サスカサアジ)、北山は阿応理恵按司(アオリヱアジ)を最高の巫女としてゐたものであらう、と柳田先生も、伊波氏も言うてゐられる。其三巫女の代理とも言ふべきものを、首里三平等(ヒラ)(台地)に置いた。南風(ハエ)の平等(ヒラ)には首里殿内(シユンドンチ)、真和志の平等(ヒラ)には真壁殿内(マカンドンチ)、北(ニシ)の平等(ヒラ)には儀保殿内(ギボドンチ)なる巫女の住宅なる社殿を据ゑて、三つの台地に集めた、三山豪族たちの信仰の中心にしてあつた。而も、殿内々々には、聞得大殿同様の祭神を祀らして居た。此等の殿内は皆、三山の主神の遥拝所(オトホシ)として設けたのであらう。三殿内には、真壁大阿母志良礼(マカンウフアムシラレ)・首里大阿母志良礼(シユンウフアムシラレ)・儀保大阿母志良礼(ギボウフアムシラレ)を置いた。其上更に官として、聞得大君が据ゑてあつたのである。三つの大阿母志良礼(ウフアムシラレ)の下には、其々の地方の巫女が附属してゐる。佐司笠(サスカサ)・阿応理恵(アオリヱ)は、実力から自然に、游離して来る事になつたのである。併し、此とて、元々別々のものが帰一せられたものではなく、同根の分派が再び習合せられたものと見るのが、当を得てゐるであらう。
三比等(ヒラ)の殿内の下には、間切(マキリ)々々(今、村)、村々(今、字)の君(キミ)並びに、のろたちが附属してゐる。のろは敬称してのろくもいと言ふ。くもいは雲上と宛て字する。親雲上(ペイチン)(うやくもい)などゝ同じく、役人に対して言ふ敬意を含んでゐるのであらう。王朝時代は、役地が与へられてゐて、下級女官の実を存してゐたのである。一間切に一人以上ののろがあつて、数多の神人(カミンチユ)(女)を統率してゐる。女は皆神人となる資格を持つのが原則だつたので、久高島の婚礼謡の様な考へ方が出て来る。上は聞得大君(チフイヂン)から、下は村々の神人に到る迄、一つの糸で貫いてあるのが、琉球の巫女教である。のろの仕へるのは、地物・庶物の神なる御嶽・御拝所(ヲガン)の神である。又、自分ののろ殿内(ドノチ)の宅(ヤカ)つ神なる火の神に事(ツカ)へる。其外にも、村全体としての神事には、中心となつて祭りをする。間切、村の根所(ネドコロ)の祭りにも与る。
根所(ネドコロ)と言ふのは、各地にかたまつたり、散在したりしてゐる一族の本家の事である。根所(ネドコロ)は元々其地方の豪族であつたものであらう。根所々々には、先祖を祀つた殿或はあしゃげがあつて、其中には、仏壇風の棚に位牌を置くのが普通である。此神が根神(ネガミ)である。標準語で言へば、氏神と言ふ事になる。一つ根所(ネドコロ)の神を仰いでゐる族人が根人(ネビト)(ねいんちゆ=にんちゆ=につちゆ)である。処が、根所(ネドコロ)の当主に限り特に根人(ネビト)と言ふ事も多い。此は男であつて、而も、神事に大切な関係を持つてゐるもので、勢頭神(シヅカミ)又は、大勢頭(ウフシヅ)など言ふ者が、巫女中心の神道に於ける男覡である。根人腹(ネンチユバラ)(原と宛て字するのと一つであらう)と言ふ事は、氏子・氏人の意が明らかにある。
根神(ネガミ)に仕へる女を亦、根神(ネガミ)と言ふ。根神おくで(又、うくでい)と言ふが正しい。併し、ある神と、ある神専属の巫女との間に、区別を立てる事をせぬ琉球神道では、巫女を直に、神名でよぶ。根神おくでの略語と言ふ事は出来ないのである。御(オ)くでは、くでとかこでとか言ふ語が語根で、託女と訳してゐる。古くはやはり、聞得大君(チフイヂン)同様、根所(ネドコロ)たる豪族の娘から採つたものであらうが、近代は、根人腹(ネンチユバラ)の中から女子二人を択んで、氏神の陽神に仕へる方を男(オメ)(神(ケイ))託女(オクデ)、陰神に仕へるのを、女(オメ)(神(ナイ))託女(オクデ)と言ふ、と伊波氏は書いてゐられる(琉球女性史)。地方にあつては、厳重に此通りも守つては居ない様である。此根神おくでの根神(ネガミ)が、一族中に勢力を持つてゐるので、一村が同族である村などでは、根神(ネガミ)はのろを凌ぐ程の権力がある。根神(ネガミ)はのろの支配下にあるのであるが、のろと仲違ひしてゐるものゝ多いのは、此為である。而も村の神事には、平生の行きがゝりを忘れて、一致する様である。根所々々にも、のろの為には、一つの御拝所(ヲガン)であり、根神も、一方に村の神人(カミンチユ)である点から、根所以外の祭事にも与つて、のろの次席に坐る。
祖先崇拝が琉球神道の古い大筋だとの観察点に立つ人々は、のろが政策上に生まれたものと見勝ちである。けれども、祖先崇拝の形の整ふ原因は、暗面から見れば、死霊恐怖であり、明るい側から見れば、巫女教に伴ふ自然の形で、巫女を孕ました神並びに、巫女に神性を考へる所に始るのである。地方下級女官としてのろの保護は、政策から出たかも知れぬが、のろを根神より新しく、琉球の宗教思想に大勢力のある祖先崇拝も、琉球神道の根源とは見られないのである。
内地の神道にも、産土神・氏神の区別は、単に語原上の合理的な説明しか出来て居ないが、第二期以後の神道には、所謂産土神を祀る神人と、氏神に事へる神人とが対立して居た事が思はれる。厳格に言へば、出雲国造の如きも、氏神を祀つてゐたのではない。のろは謂はゞ、産土神の神主と言うてよいかも知れぬ。
のろ・根神の問題から導かれるのは、ゆた(ゆんた・よた)の源流である。伊波氏は、ゆんたはしやべるの用語例を持つてゐるから、神託を告げる者と言ふのと、八重山で、ゆんたと言ふのは、歌といふ事だから、託宣の律語を宣(の)るものとの、二通りの想像を持つてゐられる様に見える。佐喜真興英氏は、のろよりもゆたが古いものだらうと演説せられてゐる(南島談話会)。私は、女官御双紙(ニヨクワンオサウシ)に見えた、国王下庫裡(シタゴリ)への出御や、他へ行幸のをり、いつも先導を勤める女官よたのあむしられと関係がないかと想像してゐる。場合は違ふが、天子神事の出御に必先導するのは、我が国では、大巫(オホミカムコ)の為事になつて居た。王の行幸に、凶兆のある時は、君真者(キンマムン)現れて此を止める国柄ゆゑ、行幸・出御に与る此女官に、さうした予知力ある者を択んで日時(トキ)の吉凶を占はしたので、ときゆたなどいふ語も出来たのか、よた(枝)の義の分化に、尚多く疑ひはあるが、此方面から見る必要があり相である。よたのあむしられの今は伝らぬ職分の、地方に行はれたのが、ゆたの呪術ではあるまいか。正当なのろ・根神などの為事から逸れた岐路といふので、ゆた神人(カミンチユ)と言うたのが語原ではあるまいか。此点から見れば、よたのあむしられも、神事から分岐した為事に与る女官の意かも知れぬ。
久高島久高のろの夫、西銘(ニシメ)松三氏の話では「根神はしゆんくりの様な事をする」との事であつた。しゆんくりは同行の川平(カビラ)朝令氏にもわからなかつたが、東恩納寛惇氏は総括りと言ふ様な語の音転ではないかと言はれた。久高島の語は、沖縄本島の人にすらわからぬのが多い。西銘(ニシメ)氏の前後の口ぶりでは、本島のゆたのする様な為事を、根神(ネガミ)がする様な話だつたので、私は尚疑問にしてゐる。柳田先生が、大島で採集して来られたしよんがみい(海南小記)と同根でありさうに思ふ。此は、ゆたの為事をする男の事である。根神(ネガミ)は一村の人と親しい事、のろよりも濃かるべきはず故、冠婚葬祭の世話を焼くは勿論、運命・吉凶・鎮魂術(マブイコメ)まで見てやつた処から、ゆた神人たる職業が分化して来たのではあるまいか。沖縄県では、のろは保護せぬまでも虐待しては居ないが、ゆたは見逃して居ないにも拘らず、ゆたの勢力は、女子の間には非常に盛んで、先祖の霊が託言したのだと称して風水見(フウシイミ)(墓相・家相・村落様式等を相する人、主に久米村から出る)の様な事を言うて、沢山の金を費させる。先祖の墓を云々したり魂(マブイ)を預つて居る様な所は、根神(ネガミ)の為事のある部分が游離して来たものらしい気がする。全体、琉球神道には、こんなゆたの際限なく現れるはずの理由がある。其は、神人に聯絡した問題である。
広い意味では、のろ・根神までも込めて神人(カミンチユ)といふが、普通は、村の女の中、択ばれてのろの下で、神事に与る者を言ふ様である。殆どすべてが女で、男では根人(ネビト)、並びに世話役とも言ふべき勢頭(シヅ)を二三人、加へるだけである。神人になるのは、世襲の処と、ある試験を経てなる地方との二つあるのである。発生から言ふと、後の方が却つて、古い風らしい。大体母から娘へと言ふ風に、神人を襲(つ)ぐ様である。だから、神秘の行事は、不文のまゝ、村の神人から神人に伝はる。夫や子ですらも、自分の妻なり母が神人として、どう言ふ為事をして居るのか決して知らない。神人には役わりがめい/\割りふられてゐて、重いものは何某の神に扮し、軽い者で歌舞(アソビ)を司る様である。さうして一々にそれ/″\神名がついて居る。山の神・磯の神或はさいふあ(斎場御嶽の事か)神・にれえ神など言ふ風な名である。其外に、神人の神事に与つて居る時は、あそび神・たむつ神など言ふ風に言ふ。さうして其中、其扮する神の陰陽によつて、誰はうゐきい神(男神)彼はをない神(女神)と区別してゐる。人としての名と神としての名が、何処ののろに聞いても混雑して来る。
事実、あちこちののろどんちに残つた書き物を見ても、神人の常の名か、祭りの時の仮名(ケミヤウ)か、判然せぬ書き方がしてある。殊にまぎらはしいのは、七人・八人とかためて書く様な場合に、七人・八人、又は七人神・八人神と書いたりする事である。実名も神名も書かないで、何村神と書いて、一年の米の得分を註記してある類もある。何村何某妻何村何某妻うし何村何某母親などあるかと思ふと、何村伊知根神何村さいは神何村殿内神など言つた書き方も見える。神人自身、神と人の区別がわからないので、祭りの際には、尠くとも神自身と感じてゐるらしい。其気持ちが平生にも続く事さへあるのである。神人を選択するのはのろ、根神(ネガミ)は、一人子の場合は問題はないが、姉妹が多かつたり、沢山の女姪の中から択ばなければならなかつたりする時は、ゆたに占うて貰ふと言ふ変態の為方もあるが、大抵は病気などに不意にかゝつて、次の代ののろとして、神から択ばれたといふ自覚を起すのである。
処が、唯の神人(カミンチユ)は、さうした偶然に委せることの出来ない程、人数が多い。それで選定試験が行はれる。大体に於て、久高島に今も行はれるいざいほふといふ儀式が、古風を止めてゐるに近いものであらう。いざいほふをうける女は、若いのは廿六七、四十三四までが、とまりである。午年毎に、第三期まで勤めあげた神人と交迭するのである。十三年に一度、其年の八月の一日から三日間、殿庭(トンニヤア)とも、あさぎ庭(ナア)ともいふ、神あしやげ前の空(アキ)地に、桁(ケタ)七つに板七枚渡した低い橋を順々に渡つて、あしやげの中に入るのである。此を七つ橋といふ。此行事を遂げたものが皆、神人(カミンチユ)になるのであるが、若し姦通した女が交つてゐる時は、其低い芝生の上に渡した橋から落ちて死ぬものと信ぜられてゐる。そして、新しく神人になつた者の神名は、いざい神で、其を或期間勤め上げると、たむつ神の時期に入る。此が又、二期に分れてゐる様で、たむつ神を勤め上げて、神人関係を離れるのはどうしても六十を越してからである。西銘(ニシメ)氏は、七十で満期だというてゐる。此いざいほふは、内地の託摩(ツクマ)の鍋祭りと同じ意味のもので、久高人(クダカビト)が今日考へてゐる様に、貞操の試験ではなく、琉球神道に於ける神人資格の第一条件である所の二夫に見えてゐない女といふ事が、根本になつてゐる様である。他の地方では今日それ程、厳重な儀式を経なくなつてゐる。
現在の久高(クダカ)のろは大正十年の春、前代の久高(クダカ)のろの子の西銘(ニシメ)氏の妻であつたのが、嫁から姑の後をついだのであつた。それまでは、矢張りたむつ神として神人の一人であつた。此嫁のろの制度は、久高島では初めてゞあるが、本島では早くから行うてゐた処もある。それは、のろ役地を、娘のろであると、其儘持つて嫁入りするといふ虞(おそ)れがあるからである。

     九 祖先の扱ひ方の問題

七世生神は、人が死後七代経てば、其死人は神となると言ふことである。其が、父神(ゐきい神)母神(おめない神)の位に分れる。つまり、一番新しい家で言へば、其家には神がない。此を新宗家(シンムウト)と言ふ。それより古い家を、中むうとと言ひ、其中、宗家の宗家を、大宗家(ウフムウト)と言ふ。即、八重山では、新建物に火の神を祀る。時によれば父・母二神の上に、根神の存する事がある。処が、おめない神・ゐきい神は、両方とも根神である。其で、ゐきいおくで・おめないおくでを統括するねがみおくでがある。即、ねがみおくでは、総本家の女房である。此女房が先達となつて、もとはか詣でに出かける。此は、今では一種の遊山旅行であるが如くになつて来た。(ほんとうの神体として、沖縄本島では、銅製の鏡を立てるが、八重山では、此を嫌つて居る。)
毎年時候のよい時に、総本家の女房に率ゐられて、数多くの拝所(ヲガン)を、拝みながら巡回する。琉球の島にあつて、神に関係ある場所は、此等の人々に大抵関係があるので、一つ/\巡つて歩く。少しでも関係ある墓等も、遺りなく拝み巡る。それ故、遠近の差で、其拝む度数が定まつて来る。又、血縁の遠近によつても、拝する度数が定まつて来る。其他、ゆたの言によつて、諸処を拝んで歩く。琉球の女は迷信深いから、到る処を拝してまはる。それで、西参り・東参りの話が出来た。此は西巡礼・東巡礼の如きものである。婚姻後には、更に巡礼する場所が増加して来る。参拝は、彼等にとつて、最大なる事業である。此巡礼をせなければ、神の祟りをうけると信じて居る。巡礼の原因は、死人の霊の祟りを怖れて、其霊魂に仕へる為であるが、此意味が次第に薄らいで来て遂に、神様になつたのである。古い時代には、途に骸骨等があると、自分の家と反対の方向へ向けて戻つた。其は、此骸骨から、魂が自分の家の方へ来てはならぬ様にするからである。塚なども、厳重に守られた。昔は、洞窟の中へ死体を入れて、其口を漆喰等で厳重に固めたのである。それで、現今古墳の漆喰の隙間をのぞくと白骨が非常に沢山見える。沖縄本島では、墓を祀つたものは大切にしないが、宮古・八重山では、墓をおほんとしたものが多い。即、墓の前に拝殿を築いた様なものも多くある。本島の方にも、此があるらしく想はれる。此墓から、うやあがん・ふあがんが出来て来るのである。

     一〇 神と人との間

日本内地に於ける神道でも、古くは神と人間との間が、はつきりとしない事が多い。近世では、譬喩的に神人を認めるが、古代に於ては、真実に神と認めて居たのである。生き神とか現つ神とか言ふ語は、琉球の巫女の上でこそ、始めて言ふ事が出来る様に見える。即、神人は祭時に於て、神と同格である。
薩摩の大島郡喜界个島では、てんしゃばら(天者の系統)と言ふ家筋がある。昔、此附近へ女神が降りて来た時、村人は尾類(ズリ)(遊女)が降つたと言うて嘲笑した。天女は再び天へ上り、異つた地へ天降つた。此村のある百姓が発見して大切に連れ戻り、天女と結婚して子孫を挙げた。後に此女は高山へ登つたが、其櫛・かもじ等が、洞窟の中に残存して居る。此女の子孫が、天者腹(テンシヤバラ)であると言ふ。此は人間界の話を、神格化した物語である。此様な話は、内地から琉球へかけて非常に沢山ある。研究して行くと、此女は神人であつて、神人が結婚し得ざる時代、神人に男が関係する事の出来ない時代の話に他ならない。
神と人との境の明らかでないことが、前に述べた程甚しいのであるから、神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。のろ殿内に祀るのは、表面は、火の神(カン)であるが、此は単に、宅(ヤカ)つ神としてに過ぎない事は既に述べた。のろ自身は、由来記などに記した程、火の神を大切にはしてゐない。のろの祀る神は、別にあるのである。
正月には、村中のものがのろ殿内を拝みに行く。最古風な久高(クダカ)島を例にとると、其は確に久高(クダカ)・外間(ホカマ)両のろの火の神を拝むのではない。拝まれる神は、のろ自身であつて、天井に張つた赤い凉傘(リヤンサン)といふ天蓋の下に坐つて、村人の拝をうける。凉傘は神あふりの折に、御嶽(オタケ)に神と共に降ると考へてゐるのであるから、とりも直さずのろ自身が神であつて、神の代理或は、神の象徴などゝは考へられない。併し、神に扮してゐるのは事実であつて、其が火の神ではなく、太陽神(チダガナシ)若しくは、にれえ神と考へられてゐる様である。外間(ホカマ)のろの殿内には、火の神さへ見当らなかつた位である。外間のろ或は、津堅(ツケン)島の大祝女(ウフヌル)の如きは、其拝をうける座で、床をとり、蚊帳を釣つて寝てゐる。津堅(ツケン)の方は、そこで夫と共寝をする位である。のろ自身が同時に、神であると云ふ考へがなければ、かうした事はない筈である。本島に於て、神を意味するちかさ(司)は、先島ではのろと言ふ語の代りに用ゐられてゐる。ねがみおくでの「おくで」は、久高島では、神の意味らしく使ふ。
生前さへも其通りだから、死後に巫女を神と斎くは勿論である。本島から遠い離島(ハナレ)に数ある女神の伝説は、殆どすべて、島々に巫女として実在した人の話にすぎない。即、沖縄神道では、君(キミ)・祝(ノロ)に限つては、七世にして神を生ずといふ信仰以上に出て、生前既に、半ば神格を持つてゐるのである。羽衣・浦島伝説系統の女神・天女に関する限りなき神婚譚は、皆巫女の上にありもし、あり得べくもあつて(柳田氏)民習の説話化したものに疑ひない。其上余り古くない時代に、久高の女が現にある様に、一村の女性挙つて神人生活を経た者と見えて、今尚主として姉を特殊の場合に、尊敬してうない神といふ。姉妹神の義である。姉のない時は、妹なり誰なり、家族中の女をうない神と称へて、旅行の平安を祈る風習が、首里・那覇辺にさへ行はれてゐる。うない拝(ヲガ)みをして、其頂の髪の毛を乞うて、守り袋に入れて旅立つ。此は全く、巫女の鬘に神秘力を認める考へから出たものである。尤、一村の男をすべて、男神(ヰキイガミ)(おめけい神)と見る例は、語だけならば、久高島の婚礼期にもあつた。国頭郡安田(アダ)では一年おきに、替り番にうない神を拝み、ゐきい神を拝むと称して、一村の女性又は男性を、互に拝しあふ儀式がある。併しゐきい神を男子を以て代表させることは、女であつて陽神専属・陰神専属の神人があつたことの変化したものではあるまいか。でなくては、厳格にゐきい神といはれるのは、根人だけでなければならぬ。事実、男の神人は極めて少数で、男逸女労といはれる国土でありながら、宗教上では、女が絶対の権利を持つてゐたのである。
神人の墓と凡人の墓とを一緒にすると、祟りがあると言ふ。紀に見えた神功皇后の話も此と一つである。
久高・津堅二島は、今尚神の島と自称してゐる土地である。学校あり、区長がゐても、事実上島の方針は、のろたちの意嚮によつてゐる形がある。
神託をきく女君の、酋長であつたのが、進んで妹なる女君の託言によつて、兄なる酋長が、政を行うて行つた時代を、其儘に伝へた説話が、日・琉共に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が、此である。同時に、斎女王を持つ東海の大国にあつた、神と神の妻(メ)なる巫女と、其子なる人間との物語は、琉球の説話にも見る事が出来るのである。
此短い論文は、柳田国男先生の観察点を、発足地としてゐるものである事を、申し添へて置きます。




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